晴れ空に傘

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56 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:02:54.30 ID:f7viqcKro
陽子「それで、今はどこでお仕事してるの?」

やっぱり来た。
大人からすれば、この”至極当然”の質問。
でも俺にとっては、何よりも恐ろしい拷問のような質問。

目の前で拳銃を突きつけられ、為す術なく両手を挙げている――。
そんな愚かしい罪人のような気持ちになる。
握り込んだ右手がぷるぷると震え出した、その時だった。

近くにいた凪が、そっと俺の背中に触れ、耳元で囁いた。
俺にだけ聞こえるほどの、小さな声で――。

凪(大丈夫です。大丈夫ですよ……)
57 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:06:05.42 ID:f7viqcKro
その時に思った。
俺はどうしてか、やっぱりこの子に救われてしまうんだって――。

凪の「声」を聞いて不思議と気持ちが軽くなった俺は、気負わずに答えていた。

男「今は色々あって働いてなくて、仕事を探しているところなんです」

すると陽子先生は、「あら、大変なんだね……」と、俺が思っていたよりもずっと親身な反応を見せた。
よく考えれば、相手は陽子先生だ。
そもそもこの程度のことで、人の価値を計るような人ではない。

俺はそんな当たり前のことすら忘れるほど、
自分の現状を勝手に嘆き、悲観し、追い込まれていたのだ。
58 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:08:25.93 ID:f7viqcKro
そして間髪入れずに、凪が会話に続く。
凪「ねえお母さん、うちって今人手不足なんだよね?」
陽子「そうね。私一人なのに生徒の数は変わらないから、万年忙しいけど……」

男「え、ちょっと待ってください。一人って、剛先生は……?」

俺が訊ねると、陽子先生は「あー……」と言って宙を仰いだ。
なんだかその仕草が、凪とそっくりな気がした。

陽子「剛さんは、ちょっと今別のことをやってて、塾では働いてないの」
俺「そうなんですか……」
59 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:10:08.82 ID:f7viqcKro
意外だった。
俺が生徒だった頃は、剛先生もバリバリに教鞭をとっていたし、
なんなら塾長的な役割も担っていた。

いつも快活に笑っている楽しい人で、この仕事が好きなんだと思っていたが……。
何か事情があって、別の仕事でも始めたのか。
ともあれ、すでに剛先生がこの塾では教えていないという事実が、少しショックだった。

陽子「そういうワケもあって、今は私一人でねぇ」
男「確かに、それは大変そうですね」

凪「だからさ! 男さん、うちで働いてみたらどうですか?」
60 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:11:35.43 ID:f7viqcKro
男「え……?」
唐突な提案に、思わず言葉を失った。

陽子「ちょっと凪、なに勝手なこと言ってるの」
陽子「男くんにも事情があるんだから、あんまりそういうこと言わないの」

俺が……?
俺が、かつて慣れ親しんだこの塾で働く……?

凪「なんで? 私、すごく向いてると思うよ」
陽子「そうは言ってもね……」

凪「じゃあお母さんは、男さんに働いてほしくないってこと?」
陽子「そんなことはないけど……」
61 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:12:27.45 ID:f7viqcKro
すると、陽子先生は俺の方を見て「ごめんね」と謝った。

陽子「この子が勝手に言ってるだけだから、気にしないでね」
男「あ、いえ……」

俺は想像していた。
この塾で働いている自分のことを――。

それは、今まで受けてきたどの会社の仕事よりも鮮明に想像ができたし、
なにより「やってみたい」と思えた。
62 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:14:21.05 ID:f7viqcKro
陽子「凪も冗談で言ってるだけだから、気を悪くしないでね」
男「いえ……全然そんな、気にしてないです」
凪は、「別に冗談じゃないし」と頬を膨らませていた。

陽子「ただ……」
そう言うと、陽子先生は手元の”帳面”を閉じ、机から立ち上がった。

陽子「私も、もし男くんがここで働いてくれたら本当に嬉しいよ」
男「……え?」
陽子「この塾の雰囲気をよく知っているし、小中学生の指導ならきっと男くんにもできる」

陽子先生は、机の上に置かれていたプリントやら参考書やらを片付けながら、話を続ける。
63 : ◆WiJOfOqXmc :2021/12/20(月) 05:15:23.77 ID:f7viqcKro
陽子「でもね。一番大事なのはそこじゃないんだよ」
男「というと……」
陽子「男くんはすごくいい子だったから、そんな子がここで先生をしてくれたら嬉しいなって」
陽子「そう思うんだよ」

男「ッ………」

陽子先生は向き直って俺の顔をじっと見つめたあと、朗らかに破顔した。

陽子「やっぱり、変わってないねぇ」

そしてしみじみと、噛みしめるようにそう言った。
64 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:17:29.75 ID:f7viqcKro
陽子「あのさ、覚えてる?」
男「……なんですか?」

陽子「男くん、一つ下の子が自転車で怪我しちゃった時……」
陽子「自分の授業そっちのけで絆創膏とか消毒液を持ち出して、手当てしてあげてたよね」

男「そんなこと、ありましたっけ……」

陽子「それだけじゃない。テキストを忘れた子には絶対に率先して見せてあげてたし」
陽子「問題が分からない子には、いつも親切に教えてあげてた」
男「覚えてないっすね……」

陽子「男くんが覚えてなくても、私は全部覚えてるよ」
陽子「君は本当に本当に、優しい子だった」

次第に俺の視界は、涙で滲んでいた。
ああ、今日は。
なんという日なんだろう。

俺はクソでゴミで……無価値な人間のはずだったのに。
65 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:19:00.73 ID:f7viqcKro
陽子「本当はこんな話、冗談で済んだらいいんだけど」
陽子「私も、男くんがここで働いてくれたら嬉しいんだよ」

男「は、はい……」

陽子「いきなりでごめんね。びっくりしたかな」
陽子「ただ、凪に言われて想像してみたらね……すごく嬉しくなっちゃって」
陽子「なるほど、ここで男くんが働いてくれたら、それは素敵だなぁって……」

陽子「もちろん、男くんの事情は何も分かってないし、すごく身勝手なこと言ってると思う」
陽子「もし都合が悪かったりしたら、今までの話は全部忘れてね」
66 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:20:10.22 ID:f7viqcKro
陽子先生は、穏やかな瞳で俺を見ていた。
そして、しばらくの間があって……。

男「お、俺も……ぜひここで働いてみたいです」
陽子「……本当に?」

男「ただ、俺は社会経験もロクにない、半人前の出来損ないです」
男「今も、いろんな所の就職試験に落ち続けているような奴です」

男「そんな奴でも……いいんですか?」

陽子「いいよ」

男「勉強の教え方も全然分かっていない未熟者でも、いいんですか?」

陽子「いいよ」
陽子「しっかり研修もするし、準備期間も作るから」

男「じゃあ、俺は……俺は……!」
男「ここで働いてもいいってことですか……?」

陽子「もちろんだよ」
67 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:21:43.98 ID:f7viqcKro
男「あ、ありがとうございます……」
ぽつりぽつりと、頬をつたって涙が落ちる。

横にいた凪が、こちらを見て嬉しそうに微笑んだ。

凪「――ほらね」

バーカ。
なにが『ほらね』だ。

こっちはもう、涙と鼻水でグシャグシャだよ。
本当にもう、どうしてくれんだ。

もしかしたらさ。
俺、今日から変われんのかな……?
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/12/20(月) 05:24:04.87 ID:cGZbAhsmO
アカン泣きそう
69 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:25:18.56 ID:f7viqcKro
その後、陽子先生と色々話をした。

実際に働き始める前に、何度か研修を行うこと。
その際、大学の卒業証明書と簡単な履歴書を持ってくること。

この塾は集団授業ではなく、それぞれの生徒に沿った個人授業なので、
最終的には小中学生の全教科の内容を把握してほしいこと。

そこまで余裕がある訳ではないので、どうしてもバイトとしての待遇になってしまうこと。
ここでバイトをしながら新しい仕事を見つけたら、いつやめても大丈夫だよ、とも言ってくれた。
70 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:26:56.26 ID:f7viqcKro
たとえバイトだとしても、今までずっと失敗続きだった俺にとっては、
大きな大きな一歩だ。
不安もたくさんあったが、俺は働き始めるその日が楽しみで仕方なかった。

「もしかしたら、こんな俺にもできることがあるかもしれない」

そう思えるだけで、世界に『お前も生きていていいんだぞ』って言われたような気がして……。
今まで伏し目がちだった視線も、自然と前を向けそうな気がした。

前を見て歩いていくっていうのが、どんなことなのか、
少しだけど思い出せそうな気がした。
71 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:28:59.17 ID:f7viqcKro
陽子先生と相談して最初の研修日を決めると、この日は別れた。

塾舎から出てすぐ、
俺は柄にもなく、近所の書店で買った安っぽいぺらぺらのスケジュール帳に、二重丸をつけた。

真っ赤なサインペンで、「ここから!」と書き込む。

「ふふっ」
それがなんだか自分っぽくなくて、思わず吹き出してしまう。

そんな様子を見ていたのか、後ろから凪に声をかけられた。

凪「なんだか嬉しそう」
男「あ……どうも」
素の自分を見られたのが恥ずかしくて、思わずぎこちない返事になってしまった。
72 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/20(月) 05:32:17.91 ID:f7viqcKro
凪「よかったですね。本当に」
男「うん。……そうだね」

辺りはすっかり真っ暗になっていた。
陽子先生も仕事が片付き、塾舎の灯りを消して隣の住居に戻ってしまったから、
まばらに散らばる街灯の光だけが頼りだった。

男「その……今日は色々ありすぎて、本当になんて言ったらいいか……」

凪「ねえ、男さん」
男「なに……?」
凪「ちょっと一緒に歩きましょうか」
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/12/20(月) 07:36:47.16 ID:cGZbAhsmO
うまいしめちゃ面白いわ
凪ちゃんはなんでビニール傘をさしてんだろ?
シンプルに続きが気になるうう
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/12/20(月) 18:10:43.10 ID:3sYQEDRmO
なんか気まぐれで覗いたけどめちゃいいね
挿し絵?があるのとかもすごく凝ってて
描写が想像しやすいし具体的な地名が出てるのも面白いな
75 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:22:44.91 ID:HNdztvego
凪は透明な傘をさして、俺の帰り道に付き合ってくれた。

男「大丈夫? 先生たち心配しない?」
凪「大丈夫ですよ。すぐそこまでですから。お母さんにもちょっと見送ってくるって言ってあります」
男「それならいいけど……」

凪は、俺の少しだけ後ろを傘をくるくると回しながら歩いた。

男「やっぱり傘、さすんだね」
凪「はい、もちろんです」
76 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:23:35.07 ID:HNdztvego
夜道を進んでいくと、数メートルごとに街灯が通り過ぎて、
その度に、その光が生み出す自分の影に追い越された。

三人目くらいの自分の影に追い越された頃――凪が口を開いた。

凪「男さんって、昔なんの部活やってたんですか?」
男「部活? 急にそんなこと訊いてきて、どうしたの?」
77 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:28:41.11 ID:HNdztvego
凪「あ、いや、特に深い意味はないんですけど」
凪「男さんって、きっと私と同じ南中ですよね? だったら、なんの部活だったのかなって」
凪「ちょっと気になったというか……」

男「ああ、なるほどね。中学の時は野球をやってたよ。……高校でやめちゃったけどさ」

そう言うと凪は「えっ、本当ですか?」とこちらを向いた。

凪「私もじつは、野球部なんですよ」
男「ええ、野球? ソフトボールじゃなくて……?」
凪「はい、野球です」

そう言うと、凪は手を突き出し、目の前でボールを握るような仕草をした。
78 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:29:52.65 ID:HNdztvego
男「すごいなぁ。野球、好きなんだね」
凪「はい、大好きです。お父さんの影響で、小学生の頃からずっと野球やってるんです」

そう言えば、剛先生は元高校球児で地元の草野球チームにも所属するくらい野球が好きな人だった。
俺ともよく当時のプロ野球トークなんかをしては、一緒に笑っていた。
……という記憶が、脳内の淵から蘇ってきた。

『いつか娘とも一緒に野球がしたい』なんて言っていたけど、
それならきっと、夢が叶ったんだな、剛先生。

娘さん、ちゃんと野球をやってるじゃないか。
79 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:30:36.98 ID:HNdztvego
凪「今は夏の大会に向けてめっちゃ頑張ってるんですよ」
男「あーそうかぁ。夏には最後の総体があるもんね。懐かしいなぁ」

男「ポジションはどこなの?」
凪「こう見えて、ピッチャーなんですよ」
男「エースってこと……?」
凪「まあ、そうですね」
男「えぇ、すごいな!」

俺のリアクションがあまりに良かったので、凪は嬉しそうに照れ笑いした。

凪「全然すごくないですよ。責任も大きいので、その分頑張らないとですから」
男「なるほどねぇ……」
80 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:31:47.23 ID:HNdztvego
男「でもさ」
凪「はい」

男「野球部なんてやっぱり男子ばっかりだから、女の子は浮くんじゃない?」
凪「それは確かに――そうかもしれないです」

男「大丈夫なの?」

凪はきょとんとして、俺の方を見ている。
その雫みたいな瞳をしばたたかせて、「え?」と首を傾げた。

男「あ、いや。なんというか、余計なお世話かもだけどさ……」
男「そういう環境だと、色々大変じゃない。だからちょっと、心配でさ」
81 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:38:35.46 ID:HNdztvego
凪は「あはは」と笑って「だいじょうぶです!」と言った。

凪「確かに女子は私ひとりですから、”アウェー”な時もけっこうあります」
凪「でもそういうのは仕方ないし、野球が好きなんで負けてられないです」
凪「それに何より、部活は楽しいですから」

男「……そっか。それなら良かった」
男「でも、もし何か嫌なことがあったら、すぐに監督や友達に相談するんだよ」

凪「はい、わかりました」

男「うん。部活は楽しいのが一番だからね」

すると、凪はじっと俺のことを見つめた。
82 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:39:22.06 ID:HNdztvego
凪「やっぱり男さんは、本当に優しかったんですね」

その不意打ちに心臓がばくんと音を立て、俺はすぐに凪から視線を外した。
凪は楽しそうに「あは」と笑った。

男「どういうこと?」

凪「お母さんも言ってました。男さんは昔から本当に優しい子だったって」
凪「なんだかそれを聞いて、私も嬉しくなっちゃったんです。やっぱり、思った通りだったって」

凪「今日あの橋で、勇気を出して男さんに声をかけて、本当に良かった……」
83 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:46:40.54 ID:HNdztvego
男「あのさ」
凪「はい、なんですか?」

ちょうど街灯の真下にいた凪は、まるでスポットライトを浴びているようだった。
ビニール傘が寂れた白光を反射し、闇の中できらりと光る。

男「ありがとう」
男「いろいろ、上手く言えないけど」
男「あの時俺を止めてくれて、俺をここに連れてきてくれて、本当にありがとう――」

凪はすこしきょとんとした後、「気にしないでください」と力なく言った。
84 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:55:34.84 ID:HNdztvego
凪「声をかけたのは私の勝手な行動でしたし、それで偶然男さんがいい人だっただけです」
凪「ただそれだけのことで、私なんて本当になにも……」

男「たとえそうだとしても」
男「俺は君がいなかったら間違いなく死んでた。それに、万が一死んでいなくても――」
男「きっといまだに、八方塞がりの闇の中で苦しんでたと思うんだ」

男「だからさ、言わせてよ。お願いだから……」
男「ありがとう、七瀬川さん」
85 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:56:54.79 ID:HNdztvego
君は、俺の人生に立ち込めた暗雲を消し去ってくれた光だよ。
……そんなことは言えないが。

今、彼女に伝えられるありったけの気持ちであった。
俺は、凪に感謝してもしきれない。

あの夕焼けの根図橋で――凪に出会えた。

俺はきっとそれで救われたし、ドン底から這い上がってこれた。

これからあの塾で働いていく中で、大切だったものを色々思い出せるかもしれない。
昔のような自分に、もう一度出会えるかもしれない。

凪のお陰で、そう思える未来が……目の前に見え始めた。
86 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:57:31.97 ID:HNdztvego
凪「そう言ってもらえるのは、嬉しいです」
凪「でも、それだけじゃないんです。私もきっと同じように助けられました」
男「七瀬川さんが……?」
凪「そうです」

言っていることがよく分からなかった。
俺は彼女を助けた覚えはないし、助けられたのは絶対に俺の方だというのに。
釈然としない様子の俺を見て、凪は言う。

凪「まあ、それはいいんです、気にしないでください」
凪「ほら、行きましょう」
そう言うと、凪は街灯のまばらな夜道を歩き出した。
87 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 05:58:14.68 ID:HNdztvego
凪「ていうか、なんですか七瀬川さんて」
凪「凪でいいですよ、凪で」

男「わ、分かったよ。じゃあ……凪さん」
凪「本当は呼び捨てがいいんですけど……今日のところはそれでもいいです」
男「さすがにいきなり呼び捨ては恥ずかしいって」

凪「男さんって、そういうの苦手そうですもんね」
たじろぐ俺を見て、凪は楽しそうに笑った。
88 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 06:00:33.44 ID:HNdztvego
凪「ねえ。凪って、どんな意味か知ってます?」
男「ええと……」

凪「波が穏やかで、静かな海のこと――なんですよ」
凪「だから私も、いつかそんな風になれたらなって思ってるんです」

凪「のどかで、平穏で、すべてを許せるような……そんな人に」

もう、なれてないだろうか。
そんな考えが頭をよぎったけれど、上手く口には出せなかった。

凪「私、この名前すごく気に入ってるんです」
男「……素敵な名前だと思うよ」
俺がそう言うと、凪は「ですよね」とはにかんだ。
89 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 06:01:35.37 ID:HNdztvego
凪「男さん、数日間は研修で、来週には授業に参加するんですよね?」
男「うん。そのつもりだよ」
凪「すごくたのしみです。私ね、はやく男さんに教わってみたい」
男「本当に?」

凪「本当ですよ! 私、数学が苦手だから……頑張らないといけないんです」
男「ああ、分かるよ。俺も中学の時、数学が大嫌いだったから、すごく分かる」
凪「え、そうだったんですか?」
男「うん。だから気持ちがわかる分、丁寧に教えてあげられるかもしれないね」

凪「やったー! 私のこと、いっぱい助けてくださいね」

無邪気に喜ぶ凪を見て、思った。
90 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 06:02:56.42 ID:HNdztvego
男「っていうか、凪さんもあの塾で授業を受けてるの?」
凪「はい、小学生の時からずっとお父さんとお母さんに教わって育ちました」

凪は「えへへ」と笑って、「家族に教わるっていうのも照れくさいんですけどね」と言った。

俺は、(そっか。そりゃそうなるよな)と思いつつ、再びあの疑問が生じた。

男「そういえば、お父さん……いや、剛先生はどうしちゃったの?」
男「ずっと陽子先生と一緒に教えてたよね……?」

すると、凪は目を伏せて「それは……」と言い淀んだ。
91 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 06:04:06.07 ID:HNdztvego
男「今回は剛先生の不在もあって、俺が働けることになったわけじゃない?」
男「純粋に、どうして陽子先生一人になっちゃったのか不思議でさ……」

凪は傘をくるりと一回しし、「んー……」と何かを考えているようだった。

男「いや、ごめん。答えにくいことならいいんだ。そこは家の事情もあるだろうし……」
男「ずけずけと、無神経にごめん」

凪「あ、いや、全然大丈夫です。気にしないでください」
凪「なんというか、お父さんとお母さんは仲良しですし、何かあったって訳じゃないんです」
凪「ただ、もう塾で授業はしなくなったというか……」

やっぱり、凪の様子はどこかおかしくて、必死に何かを隠しているようにも見えた。
まあ、たとえそうだったとしても、当然俺が詮索すべきことではないが。
92 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 06:04:59.06 ID:HNdztvego
男「ごめん、もういいんだ。とにかく、剛先生はもう先生をやってないんだね」
凪「そうですね。そんな感じです……」
男「ありがとう」
凪「いえいえ……」

そしてそんな会話が終わる頃、目の前にあの根図橋が見えてきた。

凪「じゃあ、私はこの辺で」
男「うん。わざわざありがとうね」

凪「じゃあ、次は授業で会いましょう」
男「そうだね」

凪「待ってますから」

凪は優しく手を降った――透明に揺れる傘のなかで。
93 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 06:06:31.17 ID:HNdztvego
期待と希望、ほんの少しの不安を抱えた帰り道。

根図橋を歩いていくと、先ほど自分が足をかけていた欄干と出会ったので、
俺は”そいつ”に思い切り蹴りを入れて、
「もうしばらくお前の世話にはならねえからな!」と言ってやった。

その叫びは虚しくこだまし、向かいの歩道を散歩していた小型犬が「キャン!」と吠えた。

それが情けないけれど、無性に滑稽で可笑しくて、「ははは!」と声を出して笑った。

根図橋の横にかけられた線路の上を、特急列車のかいじが轟音を立てて走っていく。
俺もその特急列車に負けじと走り出して、「やってやる!」と心の中で何度も何度も叫んだ。

春の夜に、未来へと続く一陣の風が吹いた。
そんな気がした――。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/12/21(火) 16:44:46.21 ID:pvb8xuz/O
おもしろ
続けて
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/21(火) 18:05:06.68 ID:rmhlk/NMO
地名から大体どこか分かっちゃった
幼少期に一度だけフルーツ公園ってとこに連れてってもらったことがあるけどいいとこだった
その時に見たっきりだけど桃畑って本当に鮮やかなんだよな、すげえよ
なんか読んでたらそんなことまで思い出しちゃってすげぇ切なくなっちまったな
96 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 20:20:12.59 ID:HNdztvego
それから一週間あまりあって、研修を終えた俺は塾での初授業を迎えた。

火曜・水曜・土曜は中学生、月曜・金曜は小学生の授業日なのだけど、
俺の初回は中学生の授業であった。

中学生の授業は19時開始なので、夕方に塾へ行き色々と準備をした。

社会不適合の俺は、初めての授業に緊張するあまり動悸が止まらず終始挙動不審になっていた。
見かねた陽子先生が「外の空気吸ってきなよ」と言うので、
時折塾舎の外へ出ては、簡単な体操なんかをして緊張をほぐした。
97 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 20:25:17.15 ID:HNdztvego
七瀬川塾のまわりは――桃畑に囲まれていた。

少しだけ高地なのもあってか、遅咲きの桃の花が辺り一面を埋め尽くしていた。

この町にいれば、桃畑は決して珍しいものではない。
その辺を自転車で走っていればどこにでもある、ありふれたものだ。

それでも、視界が鮮やかなピンク色でいっぱいになった時、思わず息を呑んでしまう。
ああ、なんて綺麗なんだろう……と。

自分が中学生だった頃も、毎年この光景を眺めていた。
当時はあまりに身近なもので、桃の花なんて気にも留めなかったけれど、
いざ地元を離れて東京で過ごしたりするうちに……。

『こんなにも美しいものは、そうそうないんだ』という事実に気がついた。

目の前に広がる桃畑が、たまらなく愛おしく感じる。
胸がじわりと熱くなってきて、かつての――中学生だった頃の自分が、
遠くで俺を呼んでいるような気がした。
98 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 20:41:40.56 ID:HNdztvego
とっぷり日も暮れて定刻が近づくと、塾には凪も含めた十数人の生徒がやってきた。
初回という事もあって、俺は凪ともう一人の、二人の生徒だけを担当した。

凪はやっぱり数学、もう一人の女の子は英語だったので、頭が混乱したけれど、
入念な準備の甲斐もあってか、授業はそれなりに上手にできた。

凪はしきりに、「男さんの数学めちゃくちゃわかりやすいよ! お母さんよりわかりやすい!」
と、興奮した様子でまくし立てていた。
陽子先生は苦笑いして「よかったじゃないの」と言っていたけど、俺は内心複雑な気持ちだった。

凪に喜んでもらえるのはとても嬉しかったが、陽子先生に対する気まずさも少しだけあった。
99 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 20:43:10.68 ID:HNdztvego
生徒のカリキュラムや科目は、本人と親御さんのご意向を汲みつつ、すべて陽子先生が設定している。
なので、生徒によって別々の科目を教えることは通例で、俺が通っていた当時から変わっていなかった。

少人数の個人塾だからできることで、それを理由に大手のチェーン塾に通わせず、
ここ「七瀬川学習塾」に子どもを通わせる地元の家庭は多い。

それに、陽子先生と剛先生は地元じゃ評判の講師だったので、
兄弟で通わせたり、口コミで通い始める家も多かった。

ゆくゆくは俺も、親御さんとの面談や、
生徒ごとのカリキュラム設定もできるようになってほしいと言われた。
傍目から見ても、陽子先生の負担は尋常ではなかったので、
早くたくさんの仕事を覚えて、この「七瀬川学習塾」を支えていきたいと思った。
100 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 22:44:35.08 ID:HNdztvego
そんな風にして始まった「七瀬川学習塾」での日々。
俺は順調に仕事を覚えながら、塾での授業をこなしていった。

次第に、少しずつではあるものの親御さんとの面談を担当したり、
生徒ごとの計画なども立てられるようになっていった。
教え方も、最初に比べればどんどん板についてきて、
生徒たちとのコミュニケーションも上手くできるようになった。

陽子先生には、「覚えが早くて、助かるじゃんね」とすごく褒められたし、
凪は凪で「数学の小テストで初めて満点が取れた! 男さんのおかげ!」と大喜びしていた。

幸せな時間だったし、こんな順風満帆な日々が続いていくと思っていた矢先。

俺がこの塾で働き始めて一ヶ月が経とうかという頃……。
”ほころび”は突然に訪れた。
101 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 22:48:08.70 ID:HNdztvego
その日も俺は授業準備のため、夕方には「七瀬川学習塾」に向かった。
すると、塾舎の隣の凪や先生たちが住む家の2階が、やけに騒がしかった。

まだ凪は帰ってこない時間だし、陽子先生も塾舎で準備をしているはずの時間帯だった。
俺は不審に思って、家の2階のベランダを凝視する。

そこでは剛先生と思われる男性が「やばいやばい! 早くしないと!」と言いながら、
大急ぎで干してあった洗濯物を取り込んでいた。

ここに来て初めて剛先生の姿を見たので、俺は感激して「先生!」と声をかけてみたが、
剛先生は俺に気づくことはなく、洗濯物をしまい終わるとそのまま家の中に戻ってしまった。
102 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 23:55:30.43 ID:HNdztvego
不思議に思った俺は、すぐにこの事を塾舎にいた陽子先生に話した。

男「今、剛先生はおうちにいらっしゃるんですね」

俺がこう言うと、陽子先生は「え」と驚いた様子だった。

陽子「なんで?」
男「えーと……さっきおうちの2階で洗濯物を取り込んでましたよ」

すると、陽子先生は「はあ」とため息をついてから「またか」とだけ言った。
その様子がどうにもおかしく、変だなと思いながらも俺は会話を続けた。

男「今日は晴れてるのに、大急ぎで取り込んでましたけど、何かあったんですかね?」
陽子「さあね。どうしたんだろう」

陽子先生はそう言うと、きまり悪そうに笑顔を作って「ごめん」と机から立ち上がった。
103 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 23:56:36.92 ID:HNdztvego
陽子「ちょっと家の方見てくるからさ。男くん、もしも誰か来たら対応お願いしていいかな」
男「あ、はい。分かりました……」

陽子先生は「お願いね」とだけ言い残し、そそくさと裏口から出て行ってしまった。

塾舎にひとりポツンと残された俺は、今日の授業科目のテキストを取り出し、
一通り授業準備を進めることにした。

10分、20分が経過した頃だろうか――

「ちょっと凪! アンタなんて格好してんのよ!!」

外から、陽子先生のとんでもない叫び声が聞こえてきた。
……凪が帰ってきたのだろうか。
104 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/21(火) 23:59:00.74 ID:HNdztvego
俺は慌てて塾を飛び出し、外へ出た。
するとそこには……”全身泥だらけ”になった凪が立ち尽くしていた。

『更衣移行期間なんだよ』と張り切って下ろしたばかりの、
爽やかな夏服のセーラーは、無残にも泥まみれになっていた。
背中には制服と反して、まったく汚れていないミズノのエナメルバッグを背負っていた。

いつものビニール傘は持っているが……さしてはいない。

陽子「ちょっと凪、これどういうこと? 何があったの?」
凪「……なにもないよ。転んだ」
陽子「転んだってアンタ……」

その尋常じゃない汚れ方を『転んだ』で済ますのは流石に無理があった。
105 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:04:50.04 ID:eYnaSDNQo
俺も、固唾を飲んで状況を見守る。

陽子「凪、いい? お母さんに何があったか言いなし。大丈夫だから」
凪「……なんもないよ」

陽子「……凪」
凪「お母さん、本当に大丈夫だから、心配しないで」

もはや”何か”があったことは、俺の目にも陽子先生の目にも明らかであったが、
それでもなお、凪は気丈に振る舞うのだった。

……しかし。
106 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:07:42.79 ID:eYnaSDNQo
陽子「……そう。分かった。じゃあお話はまた今度きかせて」
陽子「とりあえず、おうち入って、お風呂入っちゃいなさい」
陽子「汚れた制服は、おばあちゃんに渡して洗濯。いいね?」

凪「……うん」

そう言って、凪がとぼとぼ家に入ろうとした時だった。

陽子「ところで凪、今日は部活は平気だったの?」
陽子「そんな格好じゃ、部活どころじゃなかったかもだけどさ」

陽子先生は、そんな些細な質問から会話の糸口を掴もうとしたのかもしれない。
しかし、それが凪の心を抉ってしまった。
107 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:10:09.93 ID:eYnaSDNQo
凪「部活はもう辞める」
陽子「え、辞めるってアンタ……もう夏の大会もすぐなのに、どうして」
凪「もう、野球なんかやりたくない」
陽子「どうしてそんな急に……」

凪「なんで? いいでしょ? 部活するのも辞めるのも私の自由じゃん!」
陽子「でも凪、今までお父さんとの約束だって言ってずっと頑張ってきたじゃない」

凪「だから!」
凪「野球続けてればお父さんは戻ってくるわけ!?」

凪の叫び声が、萌葱色に染まった桃畑の町に響き渡る。
108 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:14:31.53 ID:eYnaSDNQo
凪「私がいくら野球を頑張っても……三振を取っても、ヒットを打っても」
凪「何も変わらないじゃん! 何も戻ってこないじゃん!」
凪「そうでしょ? ねえ、そうだよねぇ?」

陽子「それは……」

凪「本当はお母さんだって全部わかってるくせに。意地悪だよぉ」

そう言うと、凪はぼろぼろと泣き崩れてしまった。

陽子「凪、違うよ。お母さんはなにもそんなことを言ってるわけじゃ……」
凪「私だって思ってた。野球をしてればお父さんは喜んでくれるかもって」
凪「でも、違った。もうなにも変わらないし、なにも届かない」
凪「野球なんて、やってたってつらいだけなんだよ」

凪の嗚咽混じりの言葉は、ずしずしと胸にのしかかってくる重みがあった。

凪「もう、全部やめたいんだよ!」

背負っていたカバンや傘を投げ捨て、凪は汚れた制服のまま走り出した。
109 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:24:46.10 ID:eYnaSDNQo
陽子「ちょっと凪! どこに行くの!」
その呼びかけに答えることもなく、凪はそのままどこかへ走って行ってしまった。

陽子先生は脱力し、その場に座り込んでしまった。

男「先生、大丈夫ですか……」
陽子「ははは、恥ずかしいとこ見られちゃったね」
男「いや、そんな……」

陽子「あの子はあの子で、色々と追い詰められてたんだね」
陽子「今の今まで、それに気づけなかった私が悪いよ……」
陽子「あんなに泥だらけにされて、つらかっただろうに」

陽子先生は平然を装って喋っていたが、その双眸には涙が滲んでいた。
110 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:27:48.60 ID:eYnaSDNQo
俺は陽子先生にも色々と訊ねたいことがあったが、ぐっとこらえた。
それよりも、今は最優先でやるべきことがあるだろう。

男「俺、凪のこと追いかけてきます」
陽子「え……」
男「大丈夫です。ちゃんと話を聞いて、必ず一緒に戻ってきます」
男「安心してください。授業の時間には間に合わせます」

そして俺も、そのまま走り出した。
凪の持っていた、透明なビニール傘を握りしめて。

『今度は俺の番だ』
『今度は俺が凪を助ける番なんだ』

――そんな想いとともに。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/22(水) 00:29:54.61 ID:pNiFQ05KO
俺の凪が…(´・ω・`)
112 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:35:22.89 ID:eYnaSDNQo
凪が向かった方角に走ってみたが、なかなか痕跡を見つけられない。
路地裏の細道、踏切脇のけもの道、高架下……。
そのどこにも凪の姿はなかった。

10分ほど走り回ってから、俺は「もしかしたら」と思ってすぐに”あの場所”へ向かった。

遠く、地平の際に燃える太陽が、街全体に長い影を作っている。
そんな、何もかもが朱色に染まった夕焼けの中……
凪は、根図橋中央付近の欄干に寄りかかり、景色を眺めていた。

男「凪……」
凪「あっ……」

凪はこちらに気づくと、「ぐず」と鼻をすすった。
113 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:37:41.35 ID:eYnaSDNQo
凪「ごめんね」
涙声でそう言うと、凪はぐいと右手で目元をぬぐう。

男「いいよ。それより……大丈夫?」
凪「うん。もう、だいぶ落ち着いた」
男「そっか。それならよかったよ」

凪「なんかさ。これじゃ、この前と逆だね」
男「……え?」
凪「私たちが初めて会った日。あの時は、私が男さんに声をかけたのに」

凪「死のうとしてた男さんにさ……」

男「……まさか、凪も死のうとしてたのか?」

凪「――どうだろうね」
114 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:39:56.83 ID:eYnaSDNQo
橋の上を通り抜けた夕風が、凪の短い髪を揺らして、反射した夕暉がきらきらと瞬いた。
綺麗だな、と思う。

普段は絶対こんなことを言わないが、凪は本当に綺麗な子であった。
可愛いとか愛嬌があるとかそんなんじゃなく、綺麗だった。
たとえ泥だらけの制服を着ていたとしても、そんなものでは打ち消せないほどに。

凪「死のうとしてたのかも。いや、死にたいくらい、何もかも嫌だった」
男「………」
凪「でもさぁ」

でもさぁ――と言って遠くを眺めた凪の瞳には、夕日が燃えていた。
115 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:41:51.36 ID:eYnaSDNQo
凪「こっからの笛吹川の眺め、死ぬほどキレーなんだもん」
凪「こんなの見ちゃったらさ、死ねないよね。なんか胸がいっぱいになっちゃう」
凪「見てよ。遠くの街並みとか、キラキラ光っちゃってさ」

やっぱり、そうだよなと思った。
ここからの眺めは美しすぎる。
世界に絶望して訪れた人間には残酷すぎるほど、美しい世界を”まざまざ”と見せつけられる。

男「ここは死ぬ場所じゃないよ。こんな綺麗な場所で……死ぬべきじゃない」
凪は一瞬俺に目配せし、すぐにまた遠くへと視線を戻す。

男「だからこそ――ここに来て正解だったな」
凪「……かな」
116 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:48:20.21 ID:eYnaSDNQo
男「なあ、凪」
凪「……なあに」

声をかけたはいいものの、なかなか言葉が出てこない。
後ろの県道をバイクが通り抜け、排ガスを撒いていった。
遠くから、家路につくカラスたちの鳴く声が聞こえた。

男「もしよかったら、何があったか教えてくれないか」
凪「………」

途端に凪の横顔が曇り、瞳に影が落ちた。
でも。……それでも。

男「こんな俺なんかでよければ……全部聞くよ」
117 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 00:50:23.68 ID:eYnaSDNQo
凪「私のお父さんね、若年性アルツハイマーなんだ」

男「若年性アルツハイマー……?」

凪「そう。アルツハイマーは聞いたことあるよね? 認知症のひとつ」
男「……うん」
凪「お父さんは、それになっちゃったの」

目の前の線路を青色の鈍行列車が通過する。
ガタンガタンと喧しい音を立てたかと思うと、数秒後にはまた元の静寂が訪れた。

男「剛先生が……。そうか、だから授業も……」
凪「できなくなっちゃったの。授業どころか、今は普段の生活だって大変だけどね」
118 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 04:40:36.68 ID:eYnaSDNQo
凪「一番最初に気づいたのは私だった」
凪「授業で、前に教えた範囲をもう一度教えようとするの。しかも、何度も何度も」
凪「最初はただの物忘れかなと思ってたんだけど……」

凪「ある日、急に『雨が降ってる』って言い始めたんだよ」
男「あ、雨……?」
凪「そう。すごくよく晴れた日だったから、私もお母さんも驚いた」

凪「”見当識障害”っていうんだけどね。物事を正しく認識できなくなっちゃうんだって」
凪「それで私もお母さんも、初めてお父さんが危険な状態にあるって気が付いた」
119 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 04:41:38.58 ID:eYnaSDNQo
凪「それからお父さんはどんどんひどくなっちゃって……」
凪「近所の人に『雨が降ってます、洗濯物大丈夫ですか』とか言って回ったりして」
凪「ひどい時は所構わずインターホンを鳴らして、知らない人の家に怒鳴り込んだりしたこともあった」

男「あぁ……それは大変だ……」
ふと、先ほどの剛先生を思い出す。
晴れているのに、あんなに急いで洗濯物を取り込んでいたのも、そういう理由だったのか。

凪「もちろん、笑って許してくれる人もいた」
凪「けどね。世の中、みんながみんな認知症に理解があるような人ばかりじゃない」

凪はぽろぽろと涙をこぼす。

凪「近所の人に、お前のとこの親父は頭が狂ったとか、雨男の娘とか……そんなことも言われたよ」
男「…………」
120 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 04:42:48.36 ID:eYnaSDNQo
凪「それだけならまだよかった。それだけなら……でも」
男「でも……?」

凪「近所に住んでる子に……お父さんのその姿を見られちゃったんだよね」
凪「見られた上に……動画まで撮られてた」

凪「その動画は、学校内であっという間に広まっちゃって」
凪「”野球部の七瀬川の父親は頭がおかしい”って――」

男「ひどい……」
凪「晴れた空の下で『雨ですよ!』って騒いでる私のお父さんは……さぞ”面白かった”んだろうね」
凪「いっとき、学年はその話題で持ち切りになったよ。つらかったなぁ……」

凪「男子には馬鹿にされたし、仲の良かった女の子たちも、次第に私に近寄らなくなって」
凪「私は自然と……ひとりぼっちになってた」
121 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 04:44:41.61 ID:eYnaSDNQo
男「そんな……」

こちらをちらりと見た凪の瞳には、涙と一緒に言いようのない寂しさが滲んでいた。

凪「でもね。お父さんはおかしくなんかないんだよ」
凪「たとえ上手に授業ができなくてなっても、たとえ私のことを忘れちゃっても……」
凪「お父さんはたったひとりの私のお父さんなの」

凪の凛とした横顔に、涙の跡がきらりと光る。

凪「だから私は決めたんだ。どんな日でも、どんな時でもビニール傘をさそうって」
凪「それが、雲ひとつない快晴の日だとしても。誰かに後ろ指をさされて馬鹿にされたとしても」

凪「お父さんが雨が降ってるって言うなら、私くらいはそれを信じてあげたい」
凪「世界中の全員が、お父さんのことを信じなかったとしても」
凪「この世界で、私だけは……」

凪「お父さんを信じるって、そう決めたの」
122 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 04:46:04.14 ID:eYnaSDNQo
男「それでずっと、傘をさしてたんだね……」
凪「うん、そうだよ」

男「でも、そんな目立つことをしたら、ますます色々言われちゃうんじゃ……」
凪「そうだねぇ……」

力なく笑ったあと、きゅっと唇を噛む凪。

凪「きっと、分かりやすい”標的”になっちゃったんだね。私は……」

その言葉を聞いて、胸がざわつく。
123 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 04:56:05.12 ID:eYnaSDNQo
凪「些細なことだった、と思う……」
凪「ビニール傘をさして帰るとこを、下駄箱で同級生の女の子たちに見られて」
男「……うん」

『こんなに晴れてるのに、頭おかしいの? 大丈夫?』

凪「って、嫌味たっぷりに言ってきたから、私も言い返したんだよ」

凪「傘をさすのは自由だよ。そんなことが気になるんだね……って」
男「うんうん、その通りだもんね」

凪「でも、そしたら……」

『やっぱり、あの頭のおかしい父親だから、こいつも頭おかしんだよ』
『カエルの子はカエルってやつ? 気落ち悪い親子』
『親子そろって頭おかしいんだねぇ』

凪「私さ……気づいたら、持ってた傘で、それを言った子に殴りかかってた」
凪「一発だけだったけど……人生で初めて、人に手を上げちゃったんだ」
124 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/22(水) 05:00:33.31 ID:eYnaSDNQo
凪「その子、大泣きして叫んでさぁ……」
凪「私だけが職員室に呼び出されて、散々怒られて、その日はそれで終わった」

凪「正直、怒られちゃったけど、どこかでスッキリしてる私もいた」
凪「反省はしたけど、後悔はしていない、っていうのかな……」

男「それはよかったじゃん。時には思い切ってやり返すのは大事だよ」
凪「……そうだね。私もそう思ってたよ。けどね――」

凪「私が手を上げた子は、ものすごく目立つ子で、学校の中心みたいな子だったんだよ」
凪「その日を境に――世界が変わっちゃった」

背筋がぞわっとするような、嫌な予感がした。
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/12/22(水) 06:14:55.72 ID:8Rx36POHO
だから傘をさしてたのか…
それは予想できんかった
126 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 01:25:13.67 ID:hGQxuJiNo
凪「きっとその子、私のことが気に入らなかったんだよね……」
凪「私、いつの間にかいじめられるようになっちゃってさ」

凪は「あは」と笑ったあと、ダムが決壊したかのように、ぼろぼろと大粒の涙を流した。

男「ちょっと、大丈夫!?」
凪「あれぇ……なんでだろう」
男「無理して話さなくてもいいよ、嫌なこと思い出す必要はないんだから」

凪「んーん。これは、私が話したいと思ってることだから」

持っていたポケットティッシュを差し出すと、凪は「ありあと」と声にならない声を発した。
127 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 01:36:05.66 ID:hGQxuJiNo
凪「ほんとにほんとに、ひどいんだよぉ……」
凪「わたし、学校でトイレにも行けなかっだ。行けながったんだよぉ」

凪「わだしがトイレに行ごうとすると、見張ってる子がいで、個室に入れてもらえないの」
凪「先生用のトイレに行こうどしても、その子たちづいてくるんだよ」

凪「だからしがたないじゃん? 授業中にトイレに行っだら……」

凪はもう、制御がきかないくらい大泣きしている。
俺はそのあまりの光景に、ただ口を閉ざして耳を傾けることしかできない。

凪「教室に戻るど、男子たちがさ……」

『七瀬川さんは今日生理みたいでーす』
『授業中も我慢できないみたいで、大変ですねー』

凪「……って、騒ぎ立でるんだよ……」
128 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 01:40:38.57 ID:hGQxuJiNo
大粒の涙が、またしても落ちる。一粒、二粒。
この涙の数だけ――いや、もっともっと。
凪は誰にも頼れず、ずっと孤独に、つらい想いをしてきたのか。

凪「だがらわたし、怖くなっで授業中もトイレに行けなぐなっちゃってさ……」
凪「そしだらさ、どうなるが分かるよね? わたし、学校で……」

凪「いやぁ……もうこれ以上はいいか……ごめん」

殺意が湧いた。
人生で初めて、明確に感じた殺意。
凪に悪意を向けたゴミクズ以下の連中、見て見ぬ振りをした同級生、そして何も気づけない教師。
129 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 01:51:03.83 ID:hGQxuJiNo
こんなことが、こんなことがまかり通っていいのか?
絶対に許せない。……絶対にだ。

俺は、凪が落ち着くまでしばらく背中をさすり、様子を見る。
「落ち着いて、大丈夫だからね」と声をかけ、凪の呼吸を整えていく。

男「だれにも……相談はできなかったの?」
凪「先生には、何度か言ってみた。でもダメだったよね」
凪「いじめてる子たちも、表ではウソみたいに”良い子”たちだったから」

凪「私ひとりが何を言ったところで……なんの意味もなかったよ」

男「陽子先生には言わなかったの……?」
凪「お母さんは……塾と、お父さんのことで本当に手一杯だったから」
凪「余計な心配をかけたくなかったんだよ」
130 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 01:56:30.57 ID:hGQxuJiNo
男「そ、そんな……」

そんなことって。そんなことってあるのか。
じゃあ本当に、今の今までこの子は、この優しい子は、たった一人で悩み続けてきたのか。

この小さな身体で、この世界のクソみたいな”ことわり”と必死に戦ってきたのか。

凪「本当につらかったけど……」
凪「ビニール傘をさしてると、少しだけ気持ちが軽くなったんだよ」

男「傘をさしてると……?」

凪「そう。たった一人になった私を、色んなものから守ってくれるような、そんな気がしたの」
凪「その、透明なビニール傘がね」

そう言って、凪は俺の握っていた傘を指差す。
131 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 02:00:04.78 ID:hGQxuJiNo
凪「学校でどんなに嫌なことがあっても――」
凪「帰り道でその傘をさして帰る時、私は私らしくいられた」
凪「どんなにつらくて苦しくても、私は私の信じたことをしようって、そう思えたの」

男「そうだったんだね……」

凪「それに、部活もあったからね」
凪「やっぱり野球は大好きで、楽しかったし」
凪「部活で、みんなと一緒に野球をやってる時は、いろいろ忘れられたから」

凪「私は私らしく、できることを頑張ろうって思ってた」
凪「思ってた……けど……」

凪は身体を小刻みに震わせ、「うぅ」とまた泣き崩れた。
132 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 02:07:01.02 ID:hGQxuJiNo
凪「それでも……私へのいじめはなぐなるこどはなぐて」
凪「誰も味方なんでいないし……いづも一人で」
凪「この先もずっどこうなのかなって思っだら……」

凪「もう、何もがも……分からなぐなっちゃっだ」
凪「うぅ……」
凪の呼吸は荒くなり、嗚咽とともにぽたぽたと涙がこぼれていく。
133 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 02:19:57.57 ID:hGQxuJiNo
男「凪……もういい。もういいよ。無理しないで……」

凪「本当はね」
男「ん……?」

凪「あの日」
凪「男さんと初めて会ったあの日に、私――」

凪「死のうとしてたんだ」
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/23(木) 14:51:25.95 ID:sIljp9ELO
凪ちゃん……実際こんな感じでいじめられてたから気持ちがわかるんだよなあ…
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/23(木) 17:35:06.59 ID:sofvvRhNO
読んでてめちゃくちゃつらいけど凪ちゃんがいい子だから応援したくなる
なあこれハッピーエンドだよな?
最後には幸せになってくれよ頼むから…
136 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 21:27:58.71 ID:hGQxuJiNo
男「は……」

凪「いじめられて、友達もみんないなくなって、たった一人になって」
凪「大好きだった昔のお父さんも……いなくなっちゃって……」
凪「こんなつらい世界、やめちゃおうかなって……そんなことを思って、この根図橋に来た」

すると凪は、唐突に「ふふ」と笑った。
それが本当に突然のことだったので、驚いて凪の顔を見ると、凪は確かに笑っていた。

凪「そしたらさ、先客がいるんだもん。笑っちゃうよね」
凪「同じ日に、自分以外にも死のうとしてる人がいるなんて、思いもしなかった」
凪「こんな橋の上でさ……」
137 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 21:37:20.68 ID:hGQxuJiNo
男「……なんていうか、悲しい奇跡だね」
凪「ほんとだよ。ほんとうに……信じられない」
凪はしみじみとそう言ったあと、目の前の欄干をぽんぽんと優しく叩いた。

凪「だからさ、男さんがいなくなったあと、私は死のうと思ってた」
凪「でも、男さんが去り際にあんなこと言うもんだから……」

『そのビニール傘、素敵だね』

凪「私、夢中で追いかけてた」
凪「今まで、誰ひとりとしてそんな風に言ってくれた人、いなかったから」
凪「こんな私に手を差し伸べてくれた人を、絶対に死なせたくないって――」
138 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 21:46:21.66 ID:hGQxuJiNo
男「そうだったんだね……」

遠くで燃えていた夕日は、山の稜線へと消えかけていた。
足元から伸びていた影は、段々と境目が曖昧になり、そのうち分からなくなった。

男「でも、そうだとしたらさ。俺は間違いなく助けられたよ」
男「凪に、助けられたんだ」

そう言うと、凪は「よかったなぁ」と笑った。

凪「だってね。違うんだよ」
男「違う……?」
凪「私は、男さんに助けられたんだから」

凪「笑っちゃうよね。男さんを助けたふりして、私も助けられてた」
凪「きっとあの一言がなかったら、今頃私も……」
139 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 21:47:42.90 ID:hGQxuJiNo
男「じゃあさ」

凪はこちらを向いて、俺の顔を見つめた。
同時に、周囲の街灯にちらちらと光がついていく。

男「俺たちは、出会えてよかったね」
凪「うん」

男「凪も俺もさ、もうだめだと思って、この”クソみたいな世界”に絶望して」
男「何もかもを投げ打とうとしてた」

男「でも、こんな出会い一つで救われたし、世界は変わり始めた」
男「……そうだよね?」
凪「……うん」
140 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 21:49:07.55 ID:hGQxuJiNo
男「無責任なことは言わない――ってのが俺の信条なんだけどさ」
男「すこしだけ言わせてもらってもいいかな」

凪「――なあに?」

凪の涙まじりの瞳がきらりと光る。
その瞳を見ていると――無性に切なさが込み上げる。

男「くじけずに信じていれば、きっと良くなる日が来ると思う。……必ず」
男「友達もまた戻ってくるし、剛先生も良くなる日が来るかもしれない」
男「それで、凪も心から楽しく学校に行ける日が……きっと来る」
141 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 21:52:17.26 ID:hGQxuJiNo
凪「……来るのかな」
男「必ず来るよ。ずっとずっと最悪な日々が続くわけがない」
男「……俺が保証する。凪はまた必ず楽しくて仕方ない日々を送れる」

凪「すごい自信。……どうして?」
俺はその問いかけに対して――自然と口にしていた。

男「凪だから、かな」

凪「わたしだから……?」

凪だから。これは俺の嘘偽りのない気持ちだった。
凪みたいに優しくて、芯があって、一生懸命な子は、絶対に楽しい日々を謳歌できる。
じゃなければ、この世界は本当に、救いようのないくらい間違っている。

なあ神様。
一度死にかけた俺たち二人を、悲しい奇跡で救ってくれたならさ。
もう少しだけ、”この世界”に夢見たっていいよな?
142 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 21:53:51.02 ID:hGQxuJiNo
凪「あはは。なにそれぇ。……私だから?」

男「だってほかに言いようがないんだ。凪だからなんだよ、他の誰でもなく」
男「俺が思うんだ。その……凪みたいないい子は、絶対に幸せになれるってさ」

凪「あは。そっかぁ――」
凪「……男さん、ありがとね。ほんとうに……ありがとう」
男「いや、そんな……」

凪は遠くを見つめる。
日が落ち、黒くなった空には、気の早い星たちがいくつか顔を覗かせていた。
143 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:00:53.08 ID:hGQxuJiNo
凪「多分、私はね。男さんと出会えただけで幸せだった」

凪「死なずに済んだうえに、大嫌いだったこの世界のことが、ちょっとだけ好きになれたんだもん」

凪「でも、だからかな――やっぱり、もっと欲しくなっちゃうんだよね」

凪「いじめられる前の、何もかもがあった世界に戻れたらなぁって……最近は思ってた」
凪「お父さんが元気で、部活も楽しくて、友達もたくさんいて、毎日学校に行くのが楽しかったあの頃に」

凪「戻りたいなぁって……思ってた」
144 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:05:41.80 ID:hGQxuJiNo
凪「でも、今日ね――」

凪「”やられちゃった”んだ。わたし」
男「やられた……?」

凪「これ、気になってたでしょ。このひどい有り様……」
凪は、自分の泥だらけになったセーラー服を指差してみせる。

凪「この泥、野球部のキャプテンに……かけられたんだよね」
男「えぇ、野球部?」

俺はてっきり、さっきの”いじめの主犯”である女子にやられたと思っていた。
そうなると、話が変わってくる。

男「だって部活は楽しくやってるって言ってたよね……?」
凪「うん。部活は楽しかったよ」
凪「男子の中に、女子は私一人だけでしょ?」
凪「だから、それが逆にいい距離感になって、部活は今まで通り淡々と続けられた」
145 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:07:22.70 ID:hGQxuJiNo
凪「だから私、安心してたんだ」
凪「ここなら、誰も私を攻撃してこない」
凪「ただただ、大好きな野球だけに打ち込める――って」

凪は俺に向かって腕を振り下ろした。
その投球フォームは、なかなか様になっている。

凪「だって、みんな目標はひとつ。夏の大会で勝つこと」
凪「だから野球部には、私をいじめるような男子はいなかった」

凪「それにチームメイトのみんなは、これまでずっと一緒に頑張ってきた仲間だからね……」
146 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:11:24.93 ID:hGQxuJiNo
凪「なのにさ……!」

凪「今日、いきなりキャプテンに呼び出されたと思ったら、バケツいっぱいの泥をかけられて……」
凪「もう部活には来ないで欲しいって言われた――」

凪「私、部活まで取り上げられちゃったみたい」
凪「野球が、部活が、私の最後の拠り所だったのに……」
凪「ねえ、どうして? 私はただ、今まで通りに――普通に過ごせればそれでいいんだよ?」
凪「それってわがままなの? なんでぜんぶぜんぶ、なくなっちゃうの……?」

言葉に力が込もり、小刻みに震える凪。
ぽろぽろと、またしても涙が落ちてゆく。
世界に傷つき、ボロボロになる凪を見るのが、つらくてつらくて仕方なかった。
147 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:14:51.42 ID:hGQxuJiNo
男「それで、もう部活は辞めるって言ってたのか……」

凪「うん。私だって本当は辞めたくない。辞めたくないよ」
凪「お父さんともね、約束したから」

男「約束……?」
俺が訊ねると、凪はぱちぱちと瞬きしたあと、「そう、約束」と噛みしめるように言った。

凪「お父さんが、まだ元気だった頃ね――」
凪「私、言ったんだ。最後の夏、絶対に地区大会で優勝するって」
凪「そしたらお父さん笑ってね。『それはすごく楽しみだなぁ。応援してるぞ』って言ってくれて」

凪「私ね、思ったよ」
凪「絶対に絶対に、最後まで野球をやり抜いて、お父さんを県大会に連れていきたいって――」
148 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:16:06.90 ID:hGQxuJiNo
凪「だから私は、お父さんが今の状態になってからも、ずっとずっと信じてやってきた」
凪「たとえお父さんがすべてを忘れてしまっても……」
凪「最後の大会で勝ったら、お父さんはきっと、喜んでくれるにちがいないって……」

凪「でもさ」

凪の小さな背中が震える。そしてまた、嗚咽。
ひっぐ、えっぐ、と声にならない声で、ただただやり場のない涙を流し続ける。

凪「ずっとそれだけを信じて頑張ってきたのに」
凪「それ以外のすべてに押しつぶされそうになっても、この約束だけは守りたいって踏ん張ってきたのに」

凪「私、キャプテンにこんなことされちゃってさぁ」
凪「野球すら、なくなっちゃったんだ」
149 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:24:28.06 ID:hGQxuJiNo
凪「私ね」
男「うん……」

凪「一度男さんに助けてもらったのに……」
凪「今日また、”死んじゃいたい”って思っちゃったの」

凪「だめだよね? こんな私――どうしようもない子だよね」

凪はそう言うと、「うええぇ……」と大泣きしてしまった。

言葉が出てこない。
気の利いたことなんて何一つ言えない俺は、黙って凪の頭を撫でる。
凪の嗚咽が収まるまでずっと、優しく、何度も何度も……。
150 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:31:26.34 ID:hGQxuJiNo
次第に、凪の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、声をかける。

男「いいんだよ。人生なんて、いつだって死にたい波の連続だ」
男「きっと、みんなそうだよ――」

凪「……ほんとうに?」

俺はその問いに、大きく頷く。

男「そうだよ。大なり小なり、みんなその波にさらされながら生きてる」
男「みんな平気なフリしてるけど、それは段々と波乗りが上手になっただけ」
男「いつ大きな波が来るかわからないし、油断してると不意に波に飲まれちゃうこともあるんだ」

俺も、ついこないだその「波」に飲まれそうになってしまった。
151 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/23(木) 22:35:41.59 ID:pQm94RwxO
凪………
152 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:37:01.69 ID:hGQxuJiNo
男「凪、いいかい?」
凪「……うん」

男「ちょうど今、凪はその大きな波に立ち向かってるところなんだ」
男「これまでに感じたことのないくらい、きっと人生で一番大きな波だから、当然怖いし苦しい」
男「正直、今までよく一人で負けないでいられたね。……すごいよ」

凪は黙って、じっと俺の方を見ている。
夕立のあとの引き締まった空のような、澄んだ瞳だった。

男「でも、もう大丈夫だよ」
男「これからは俺も力になるから」
男「もう、凪は一人じゃないんだよ」

男「二人でさ……その大きな波を越えようよ」
153 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:39:47.16 ID:hGQxuJiNo
凪は――「うう」と声を漏らしたあと、再び泣き崩れた。

俺はまた優しく頭を撫でる。
俺なんかがこの子に触れていいのか、そんなこと分からなかったけれど、きっとそうするのが正しいと思った。

とにかく今は……凪の顔からその悲しげな涙が消えてほしかった。

男「今度……俺も一緒に部活に行くよ」
凪「え……?」

男「だって、今日こんなことがあって……次部活に行くの、怖いでしょ?」
凪「うん……それは、すごくこわい……」

男「わかるよ。次行ったら何されるか分からない、何を言われるかも分からない」
男「学校だけじゃなく、部活でもいじめられるかもしれないって……」
男「そんなの怖いに決まってる――」
154 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:42:30.88 ID:hGQxuJiNo
男「でも」

はっきりと、ちゃんと伝わるように言葉に力を込める。

男「だからって、凪が部活を辞めちゃうのはちがうと思うんだ」
男「絶対にちがう」
男「俺は、凪に大好きな野球を続けてほしい」

凪「男さん……」

男「だから、俺も一緒に部活に行くんだ」
男「何かあったら凪を助けられるように、凪を守れるように」

凪「でもでも、そんなことしたら男さんにも迷惑かけちゃうよ……」

男「だから言ったろ?」
男「二人で越えようって」
155 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/23(木) 22:50:22.22 ID:hGQxuJiNo
男「こんな俺だけどさ……一緒だったら、一人よりも、ちょっとだけ心強いだろ?」

凪は「ありがとう」と言って、またぐずぐずと洟をすすった。

男「なあに、俺も一応南中野球部のOBだからね。部活に顔を出すこと自体は問題ないはずだ」
男「だから凪も気負わず」
男「もう一度だけ、俺と一緒に部活へ行ってみよう――」

凪は「うん」と元気に頷いた。
その顔が本当に嬉しそうで……俺はこんなシンプルなことでも提案して良かったなと思った。

大丈夫。
きっと変えていける。凪はまた、楽しかった日々に戻れる。

クズで無能だった俺でも、できるんだってことを……凪を救えるんだってことを……。
証明してやる。
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