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晴れ空に傘
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100 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/21(火) 22:44:35.08 ID:HNdztvego
そんな風にして始まった「七瀬川学習塾」での日々。
俺は順調に仕事を覚えながら、塾での授業をこなしていった。
次第に、少しずつではあるものの親御さんとの面談を担当したり、
生徒ごとの計画なども立てられるようになっていった。
教え方も、最初に比べればどんどん板についてきて、
生徒たちとのコミュニケーションも上手くできるようになった。
陽子先生には、「覚えが早くて、助かるじゃんね」とすごく褒められたし、
凪は凪で「数学の小テストで初めて満点が取れた! 男さんのおかげ!」と大喜びしていた。
幸せな時間だったし、こんな順風満帆な日々が続いていくと思っていた矢先。
俺がこの塾で働き始めて一ヶ月が経とうかという頃……。
”ほころび”は突然に訪れた。
101 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/21(火) 22:48:08.70 ID:HNdztvego
その日も俺は授業準備のため、夕方には「七瀬川学習塾」に向かった。
すると、塾舎の隣の凪や先生たちが住む家の2階が、やけに騒がしかった。
まだ凪は帰ってこない時間だし、陽子先生も塾舎で準備をしているはずの時間帯だった。
俺は不審に思って、家の2階のベランダを凝視する。
そこでは剛先生と思われる男性が「やばいやばい! 早くしないと!」と言いながら、
大急ぎで干してあった洗濯物を取り込んでいた。
ここに来て初めて剛先生の姿を見たので、俺は感激して「先生!」と声をかけてみたが、
剛先生は俺に気づくことはなく、洗濯物をしまい終わるとそのまま家の中に戻ってしまった。
102 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/21(火) 23:55:30.43 ID:HNdztvego
不思議に思った俺は、すぐにこの事を塾舎にいた陽子先生に話した。
男「今、剛先生はおうちにいらっしゃるんですね」
俺がこう言うと、陽子先生は「え」と驚いた様子だった。
陽子「なんで?」
男「えーと……さっきおうちの2階で洗濯物を取り込んでましたよ」
すると、陽子先生は「はあ」とため息をついてから「またか」とだけ言った。
その様子がどうにもおかしく、変だなと思いながらも俺は会話を続けた。
男「今日は晴れてるのに、大急ぎで取り込んでましたけど、何かあったんですかね?」
陽子「さあね。どうしたんだろう」
陽子先生はそう言うと、きまり悪そうに笑顔を作って「ごめん」と机から立ち上がった。
103 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/21(火) 23:56:36.92 ID:HNdztvego
陽子「ちょっと家の方見てくるからさ。男くん、もしも誰か来たら対応お願いしていいかな」
男「あ、はい。分かりました……」
陽子先生は「お願いね」とだけ言い残し、そそくさと裏口から出て行ってしまった。
塾舎にひとりポツンと残された俺は、今日の授業科目のテキストを取り出し、
一通り授業準備を進めることにした。
10分、20分が経過した頃だろうか――
「ちょっと凪! アンタなんて格好してんのよ!!」
外から、陽子先生のとんでもない叫び声が聞こえてきた。
……凪が帰ってきたのだろうか。
104 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/21(火) 23:59:00.74 ID:HNdztvego
俺は慌てて塾を飛び出し、外へ出た。
するとそこには……”全身泥だらけ”になった凪が立ち尽くしていた。
『更衣移行期間なんだよ』と張り切って下ろしたばかりの、
爽やかな夏服のセーラーは、無残にも泥まみれになっていた。
背中には制服と反して、まったく汚れていないミズノのエナメルバッグを背負っていた。
いつものビニール傘は持っているが……さしてはいない。
陽子「ちょっと凪、これどういうこと? 何があったの?」
凪「……なにもないよ。転んだ」
陽子「転んだってアンタ……」
その尋常じゃない汚れ方を『転んだ』で済ますのは流石に無理があった。
105 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:04:50.04 ID:eYnaSDNQo
俺も、固唾を飲んで状況を見守る。
陽子「凪、いい? お母さんに何があったか言いなし。大丈夫だから」
凪「……なんもないよ」
陽子「……凪」
凪「お母さん、本当に大丈夫だから、心配しないで」
もはや”何か”があったことは、俺の目にも陽子先生の目にも明らかであったが、
それでもなお、凪は気丈に振る舞うのだった。
……しかし。
106 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:07:42.79 ID:eYnaSDNQo
陽子「……そう。分かった。じゃあお話はまた今度きかせて」
陽子「とりあえず、おうち入って、お風呂入っちゃいなさい」
陽子「汚れた制服は、おばあちゃんに渡して洗濯。いいね?」
凪「……うん」
そう言って、凪がとぼとぼ家に入ろうとした時だった。
陽子「ところで凪、今日は部活は平気だったの?」
陽子「そんな格好じゃ、部活どころじゃなかったかもだけどさ」
陽子先生は、そんな些細な質問から会話の糸口を掴もうとしたのかもしれない。
しかし、それが凪の心を抉ってしまった。
107 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:10:09.93 ID:eYnaSDNQo
凪「部活はもう辞める」
陽子「え、辞めるってアンタ……もう夏の大会もすぐなのに、どうして」
凪「もう、野球なんかやりたくない」
陽子「どうしてそんな急に……」
凪「なんで? いいでしょ? 部活するのも辞めるのも私の自由じゃん!」
陽子「でも凪、今までお父さんとの約束だって言ってずっと頑張ってきたじゃない」
凪「だから!」
凪「野球続けてればお父さんは戻ってくるわけ!?」
凪の叫び声が、萌葱色に染まった桃畑の町に響き渡る。
108 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:14:31.53 ID:eYnaSDNQo
凪「私がいくら野球を頑張っても……三振を取っても、ヒットを打っても」
凪「何も変わらないじゃん! 何も戻ってこないじゃん!」
凪「そうでしょ? ねえ、そうだよねぇ?」
陽子「それは……」
凪「本当はお母さんだって全部わかってるくせに。意地悪だよぉ」
そう言うと、凪はぼろぼろと泣き崩れてしまった。
陽子「凪、違うよ。お母さんはなにもそんなことを言ってるわけじゃ……」
凪「私だって思ってた。野球をしてればお父さんは喜んでくれるかもって」
凪「でも、違った。もうなにも変わらないし、なにも届かない」
凪「野球なんて、やってたってつらいだけなんだよ」
凪の嗚咽混じりの言葉は、ずしずしと胸にのしかかってくる重みがあった。
凪「もう、全部やめたいんだよ!」
背負っていたカバンや傘を投げ捨て、凪は汚れた制服のまま走り出した。
109 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:24:46.10 ID:eYnaSDNQo
陽子「ちょっと凪! どこに行くの!」
その呼びかけに答えることもなく、凪はそのままどこかへ走って行ってしまった。
陽子先生は脱力し、その場に座り込んでしまった。
男「先生、大丈夫ですか……」
陽子「ははは、恥ずかしいとこ見られちゃったね」
男「いや、そんな……」
陽子「あの子はあの子で、色々と追い詰められてたんだね」
陽子「今の今まで、それに気づけなかった私が悪いよ……」
陽子「あんなに泥だらけにされて、つらかっただろうに」
陽子先生は平然を装って喋っていたが、その双眸には涙が滲んでいた。
110 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:27:48.60 ID:eYnaSDNQo
俺は陽子先生にも色々と訊ねたいことがあったが、ぐっとこらえた。
それよりも、今は最優先でやるべきことがあるだろう。
男「俺、凪のこと追いかけてきます」
陽子「え……」
男「大丈夫です。ちゃんと話を聞いて、必ず一緒に戻ってきます」
男「安心してください。授業の時間には間に合わせます」
そして俺も、そのまま走り出した。
凪の持っていた、透明なビニール傘を握りしめて。
『今度は俺の番だ』
『今度は俺が凪を助ける番なんだ』
――そんな想いとともに。
111 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/22(水) 00:29:54.61 ID:pNiFQ05KO
俺の凪が…(´・ω・`)
112 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:35:22.89 ID:eYnaSDNQo
凪が向かった方角に走ってみたが、なかなか痕跡を見つけられない。
路地裏の細道、踏切脇のけもの道、高架下……。
そのどこにも凪の姿はなかった。
10分ほど走り回ってから、俺は「もしかしたら」と思ってすぐに”あの場所”へ向かった。
遠く、地平の際に燃える太陽が、街全体に長い影を作っている。
そんな、何もかもが朱色に染まった夕焼けの中……
凪は、根図橋中央付近の欄干に寄りかかり、景色を眺めていた。
男「凪……」
凪「あっ……」
凪はこちらに気づくと、「ぐず」と鼻をすすった。
113 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:37:41.35 ID:eYnaSDNQo
凪「ごめんね」
涙声でそう言うと、凪はぐいと右手で目元をぬぐう。
男「いいよ。それより……大丈夫?」
凪「うん。もう、だいぶ落ち着いた」
男「そっか。それならよかったよ」
凪「なんかさ。これじゃ、この前と逆だね」
男「……え?」
凪「私たちが初めて会った日。あの時は、私が男さんに声をかけたのに」
凪「死のうとしてた男さんにさ……」
男「……まさか、凪も死のうとしてたのか?」
凪「――どうだろうね」
114 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:39:56.83 ID:eYnaSDNQo
橋の上を通り抜けた夕風が、凪の短い髪を揺らして、反射した夕暉がきらきらと瞬いた。
綺麗だな、と思う。
普段は絶対こんなことを言わないが、凪は本当に綺麗な子であった。
可愛いとか愛嬌があるとかそんなんじゃなく、綺麗だった。
たとえ泥だらけの制服を着ていたとしても、そんなものでは打ち消せないほどに。
凪「死のうとしてたのかも。いや、死にたいくらい、何もかも嫌だった」
男「………」
凪「でもさぁ」
でもさぁ――と言って遠くを眺めた凪の瞳には、夕日が燃えていた。
115 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:41:51.36 ID:eYnaSDNQo
凪「こっからの笛吹川の眺め、死ぬほどキレーなんだもん」
凪「こんなの見ちゃったらさ、死ねないよね。なんか胸がいっぱいになっちゃう」
凪「見てよ。遠くの街並みとか、キラキラ光っちゃってさ」
やっぱり、そうだよなと思った。
ここからの眺めは美しすぎる。
世界に絶望して訪れた人間には残酷すぎるほど、美しい世界を”まざまざ”と見せつけられる。
男「ここは死ぬ場所じゃないよ。こんな綺麗な場所で……死ぬべきじゃない」
凪は一瞬俺に目配せし、すぐにまた遠くへと視線を戻す。
男「だからこそ――ここに来て正解だったな」
凪「……かな」
116 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:48:20.21 ID:eYnaSDNQo
男「なあ、凪」
凪「……なあに」
声をかけたはいいものの、なかなか言葉が出てこない。
後ろの県道をバイクが通り抜け、排ガスを撒いていった。
遠くから、家路につくカラスたちの鳴く声が聞こえた。
男「もしよかったら、何があったか教えてくれないか」
凪「………」
途端に凪の横顔が曇り、瞳に影が落ちた。
でも。……それでも。
男「こんな俺なんかでよければ……全部聞くよ」
117 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 00:50:23.68 ID:eYnaSDNQo
凪「私のお父さんね、若年性アルツハイマーなんだ」
男「若年性アルツハイマー……?」
凪「そう。アルツハイマーは聞いたことあるよね? 認知症のひとつ」
男「……うん」
凪「お父さんは、それになっちゃったの」
目の前の線路を青色の鈍行列車が通過する。
ガタンガタンと喧しい音を立てたかと思うと、数秒後にはまた元の静寂が訪れた。
男「剛先生が……。そうか、だから授業も……」
凪「できなくなっちゃったの。授業どころか、今は普段の生活だって大変だけどね」
118 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 04:40:36.68 ID:eYnaSDNQo
凪「一番最初に気づいたのは私だった」
凪「授業で、前に教えた範囲をもう一度教えようとするの。しかも、何度も何度も」
凪「最初はただの物忘れかなと思ってたんだけど……」
凪「ある日、急に『雨が降ってる』って言い始めたんだよ」
男「あ、雨……?」
凪「そう。すごくよく晴れた日だったから、私もお母さんも驚いた」
凪「”見当識障害”っていうんだけどね。物事を正しく認識できなくなっちゃうんだって」
凪「それで私もお母さんも、初めてお父さんが危険な状態にあるって気が付いた」
119 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 04:41:38.58 ID:eYnaSDNQo
凪「それからお父さんはどんどんひどくなっちゃって……」
凪「近所の人に『雨が降ってます、洗濯物大丈夫ですか』とか言って回ったりして」
凪「ひどい時は所構わずインターホンを鳴らして、知らない人の家に怒鳴り込んだりしたこともあった」
男「あぁ……それは大変だ……」
ふと、先ほどの剛先生を思い出す。
晴れているのに、あんなに急いで洗濯物を取り込んでいたのも、そういう理由だったのか。
凪「もちろん、笑って許してくれる人もいた」
凪「けどね。世の中、みんながみんな認知症に理解があるような人ばかりじゃない」
凪はぽろぽろと涙をこぼす。
凪「近所の人に、お前のとこの親父は頭が狂ったとか、雨男の娘とか……そんなことも言われたよ」
男「…………」
120 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 04:42:48.36 ID:eYnaSDNQo
凪「それだけならまだよかった。それだけなら……でも」
男「でも……?」
凪「近所に住んでる子に……お父さんのその姿を見られちゃったんだよね」
凪「見られた上に……動画まで撮られてた」
凪「その動画は、学校内であっという間に広まっちゃって」
凪「”野球部の七瀬川の父親は頭がおかしい”って――」
男「ひどい……」
凪「晴れた空の下で『雨ですよ!』って騒いでる私のお父さんは……さぞ”面白かった”んだろうね」
凪「いっとき、学年はその話題で持ち切りになったよ。つらかったなぁ……」
凪「男子には馬鹿にされたし、仲の良かった女の子たちも、次第に私に近寄らなくなって」
凪「私は自然と……ひとりぼっちになってた」
121 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 04:44:41.61 ID:eYnaSDNQo
男「そんな……」
こちらをちらりと見た凪の瞳には、涙と一緒に言いようのない寂しさが滲んでいた。
凪「でもね。お父さんはおかしくなんかないんだよ」
凪「たとえ上手に授業ができなくてなっても、たとえ私のことを忘れちゃっても……」
凪「お父さんはたったひとりの私のお父さんなの」
凪の凛とした横顔に、涙の跡がきらりと光る。
凪「だから私は決めたんだ。どんな日でも、どんな時でもビニール傘をさそうって」
凪「それが、雲ひとつない快晴の日だとしても。誰かに後ろ指をさされて馬鹿にされたとしても」
凪「お父さんが雨が降ってるって言うなら、私くらいはそれを信じてあげたい」
凪「世界中の全員が、お父さんのことを信じなかったとしても」
凪「この世界で、私だけは……」
凪「お父さんを信じるって、そう決めたの」
122 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 04:46:04.14 ID:eYnaSDNQo
男「それでずっと、傘をさしてたんだね……」
凪「うん、そうだよ」
男「でも、そんな目立つことをしたら、ますます色々言われちゃうんじゃ……」
凪「そうだねぇ……」
力なく笑ったあと、きゅっと唇を噛む凪。
凪「きっと、分かりやすい”標的”になっちゃったんだね。私は……」
その言葉を聞いて、胸がざわつく。
123 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 04:56:05.12 ID:eYnaSDNQo
凪「些細なことだった、と思う……」
凪「ビニール傘をさして帰るとこを、下駄箱で同級生の女の子たちに見られて」
男「……うん」
『こんなに晴れてるのに、頭おかしいの? 大丈夫?』
凪「って、嫌味たっぷりに言ってきたから、私も言い返したんだよ」
凪「傘をさすのは自由だよ。そんなことが気になるんだね……って」
男「うんうん、その通りだもんね」
凪「でも、そしたら……」
『やっぱり、あの頭のおかしい父親だから、こいつも頭おかしんだよ』
『カエルの子はカエルってやつ? 気落ち悪い親子』
『親子そろって頭おかしいんだねぇ』
凪「私さ……気づいたら、持ってた傘で、それを言った子に殴りかかってた」
凪「一発だけだったけど……人生で初めて、人に手を上げちゃったんだ」
124 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/22(水) 05:00:33.31 ID:eYnaSDNQo
凪「その子、大泣きして叫んでさぁ……」
凪「私だけが職員室に呼び出されて、散々怒られて、その日はそれで終わった」
凪「正直、怒られちゃったけど、どこかでスッキリしてる私もいた」
凪「反省はしたけど、後悔はしていない、っていうのかな……」
男「それはよかったじゃん。時には思い切ってやり返すのは大事だよ」
凪「……そうだね。私もそう思ってたよ。けどね――」
凪「私が手を上げた子は、ものすごく目立つ子で、学校の中心みたいな子だったんだよ」
凪「その日を境に――世界が変わっちゃった」
背筋がぞわっとするような、嫌な予感がした。
125 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/12/22(水) 06:14:55.72 ID:8Rx36POHO
だから傘をさしてたのか…
それは予想できんかった
126 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 01:25:13.67 ID:hGQxuJiNo
凪「きっとその子、私のことが気に入らなかったんだよね……」
凪「私、いつの間にかいじめられるようになっちゃってさ」
凪は「あは」と笑ったあと、ダムが決壊したかのように、ぼろぼろと大粒の涙を流した。
男「ちょっと、大丈夫!?」
凪「あれぇ……なんでだろう」
男「無理して話さなくてもいいよ、嫌なこと思い出す必要はないんだから」
凪「んーん。これは、私が話したいと思ってることだから」
持っていたポケットティッシュを差し出すと、凪は「ありあと」と声にならない声を発した。
127 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 01:36:05.66 ID:hGQxuJiNo
凪「ほんとにほんとに、ひどいんだよぉ……」
凪「わたし、学校でトイレにも行けなかっだ。行けながったんだよぉ」
凪「わだしがトイレに行ごうとすると、見張ってる子がいで、個室に入れてもらえないの」
凪「先生用のトイレに行こうどしても、その子たちづいてくるんだよ」
凪「だからしがたないじゃん? 授業中にトイレに行っだら……」
凪はもう、制御がきかないくらい大泣きしている。
俺はそのあまりの光景に、ただ口を閉ざして耳を傾けることしかできない。
凪「教室に戻るど、男子たちがさ……」
『七瀬川さんは今日生理みたいでーす』
『授業中も我慢できないみたいで、大変ですねー』
凪「……って、騒ぎ立でるんだよ……」
128 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 01:40:38.57 ID:hGQxuJiNo
大粒の涙が、またしても落ちる。一粒、二粒。
この涙の数だけ――いや、もっともっと。
凪は誰にも頼れず、ずっと孤独に、つらい想いをしてきたのか。
凪「だがらわたし、怖くなっで授業中もトイレに行けなぐなっちゃってさ……」
凪「そしだらさ、どうなるが分かるよね? わたし、学校で……」
凪「いやぁ……もうこれ以上はいいか……ごめん」
殺意が湧いた。
人生で初めて、明確に感じた殺意。
凪に悪意を向けたゴミクズ以下の連中、見て見ぬ振りをした同級生、そして何も気づけない教師。
129 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 01:51:03.83 ID:hGQxuJiNo
こんなことが、こんなことがまかり通っていいのか?
絶対に許せない。……絶対にだ。
俺は、凪が落ち着くまでしばらく背中をさすり、様子を見る。
「落ち着いて、大丈夫だからね」と声をかけ、凪の呼吸を整えていく。
男「だれにも……相談はできなかったの?」
凪「先生には、何度か言ってみた。でもダメだったよね」
凪「いじめてる子たちも、表ではウソみたいに”良い子”たちだったから」
凪「私ひとりが何を言ったところで……なんの意味もなかったよ」
男「陽子先生には言わなかったの……?」
凪「お母さんは……塾と、お父さんのことで本当に手一杯だったから」
凪「余計な心配をかけたくなかったんだよ」
130 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 01:56:30.57 ID:hGQxuJiNo
男「そ、そんな……」
そんなことって。そんなことってあるのか。
じゃあ本当に、今の今までこの子は、この優しい子は、たった一人で悩み続けてきたのか。
この小さな身体で、この世界のクソみたいな”ことわり”と必死に戦ってきたのか。
凪「本当につらかったけど……」
凪「ビニール傘をさしてると、少しだけ気持ちが軽くなったんだよ」
男「傘をさしてると……?」
凪「そう。たった一人になった私を、色んなものから守ってくれるような、そんな気がしたの」
凪「その、透明なビニール傘がね」
そう言って、凪は俺の握っていた傘を指差す。
131 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 02:00:04.78 ID:hGQxuJiNo
凪「学校でどんなに嫌なことがあっても――」
凪「帰り道でその傘をさして帰る時、私は私らしくいられた」
凪「どんなにつらくて苦しくても、私は私の信じたことをしようって、そう思えたの」
男「そうだったんだね……」
凪「それに、部活もあったからね」
凪「やっぱり野球は大好きで、楽しかったし」
凪「部活で、みんなと一緒に野球をやってる時は、いろいろ忘れられたから」
凪「私は私らしく、できることを頑張ろうって思ってた」
凪「思ってた……けど……」
凪は身体を小刻みに震わせ、「うぅ」とまた泣き崩れた。
132 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 02:07:01.02 ID:hGQxuJiNo
凪「それでも……私へのいじめはなぐなるこどはなぐて」
凪「誰も味方なんでいないし……いづも一人で」
凪「この先もずっどこうなのかなって思っだら……」
凪「もう、何もがも……分からなぐなっちゃっだ」
凪「うぅ……」
凪の呼吸は荒くなり、嗚咽とともにぽたぽたと涙がこぼれていく。
133 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 02:19:57.57 ID:hGQxuJiNo
男「凪……もういい。もういいよ。無理しないで……」
凪「本当はね」
男「ん……?」
凪「あの日」
凪「男さんと初めて会ったあの日に、私――」
凪「死のうとしてたんだ」
134 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/23(木) 14:51:25.95 ID:sIljp9ELO
凪ちゃん……実際こんな感じでいじめられてたから気持ちがわかるんだよなあ…
135 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/23(木) 17:35:06.59 ID:sofvvRhNO
読んでてめちゃくちゃつらいけど凪ちゃんがいい子だから応援したくなる
なあこれハッピーエンドだよな?
最後には幸せになってくれよ頼むから…
136 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 21:27:58.71 ID:hGQxuJiNo
男「は……」
凪「いじめられて、友達もみんないなくなって、たった一人になって」
凪「大好きだった昔のお父さんも……いなくなっちゃって……」
凪「こんなつらい世界、やめちゃおうかなって……そんなことを思って、この根図橋に来た」
すると凪は、唐突に「ふふ」と笑った。
それが本当に突然のことだったので、驚いて凪の顔を見ると、凪は確かに笑っていた。
凪「そしたらさ、先客がいるんだもん。笑っちゃうよね」
凪「同じ日に、自分以外にも死のうとしてる人がいるなんて、思いもしなかった」
凪「こんな橋の上でさ……」
137 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 21:37:20.68 ID:hGQxuJiNo
男「……なんていうか、悲しい奇跡だね」
凪「ほんとだよ。ほんとうに……信じられない」
凪はしみじみとそう言ったあと、目の前の欄干をぽんぽんと優しく叩いた。
凪「だからさ、男さんがいなくなったあと、私は死のうと思ってた」
凪「でも、男さんが去り際にあんなこと言うもんだから……」
『そのビニール傘、素敵だね』
凪「私、夢中で追いかけてた」
凪「今まで、誰ひとりとしてそんな風に言ってくれた人、いなかったから」
凪「こんな私に手を差し伸べてくれた人を、絶対に死なせたくないって――」
138 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 21:46:21.66 ID:hGQxuJiNo
男「そうだったんだね……」
遠くで燃えていた夕日は、山の稜線へと消えかけていた。
足元から伸びていた影は、段々と境目が曖昧になり、そのうち分からなくなった。
男「でも、そうだとしたらさ。俺は間違いなく助けられたよ」
男「凪に、助けられたんだ」
そう言うと、凪は「よかったなぁ」と笑った。
凪「だってね。違うんだよ」
男「違う……?」
凪「私は、男さんに助けられたんだから」
凪「笑っちゃうよね。男さんを助けたふりして、私も助けられてた」
凪「きっとあの一言がなかったら、今頃私も……」
139 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 21:47:42.90 ID:hGQxuJiNo
男「じゃあさ」
凪はこちらを向いて、俺の顔を見つめた。
同時に、周囲の街灯にちらちらと光がついていく。
男「俺たちは、出会えてよかったね」
凪「うん」
男「凪も俺もさ、もうだめだと思って、この”クソみたいな世界”に絶望して」
男「何もかもを投げ打とうとしてた」
男「でも、こんな出会い一つで救われたし、世界は変わり始めた」
男「……そうだよね?」
凪「……うん」
140 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 21:49:07.55 ID:hGQxuJiNo
男「無責任なことは言わない――ってのが俺の信条なんだけどさ」
男「すこしだけ言わせてもらってもいいかな」
凪「――なあに?」
凪の涙まじりの瞳がきらりと光る。
その瞳を見ていると――無性に切なさが込み上げる。
男「くじけずに信じていれば、きっと良くなる日が来ると思う。……必ず」
男「友達もまた戻ってくるし、剛先生も良くなる日が来るかもしれない」
男「それで、凪も心から楽しく学校に行ける日が……きっと来る」
141 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 21:52:17.26 ID:hGQxuJiNo
凪「……来るのかな」
男「必ず来るよ。ずっとずっと最悪な日々が続くわけがない」
男「……俺が保証する。凪はまた必ず楽しくて仕方ない日々を送れる」
凪「すごい自信。……どうして?」
俺はその問いかけに対して――自然と口にしていた。
男「凪だから、かな」
凪「わたしだから……?」
凪だから。これは俺の嘘偽りのない気持ちだった。
凪みたいに優しくて、芯があって、一生懸命な子は、絶対に楽しい日々を謳歌できる。
じゃなければ、この世界は本当に、救いようのないくらい間違っている。
なあ神様。
一度死にかけた俺たち二人を、悲しい奇跡で救ってくれたならさ。
もう少しだけ、”この世界”に夢見たっていいよな?
142 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 21:53:51.02 ID:hGQxuJiNo
凪「あはは。なにそれぇ。……私だから?」
男「だってほかに言いようがないんだ。凪だからなんだよ、他の誰でもなく」
男「俺が思うんだ。その……凪みたいないい子は、絶対に幸せになれるってさ」
凪「あは。そっかぁ――」
凪「……男さん、ありがとね。ほんとうに……ありがとう」
男「いや、そんな……」
凪は遠くを見つめる。
日が落ち、黒くなった空には、気の早い星たちがいくつか顔を覗かせていた。
143 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:00:53.08 ID:hGQxuJiNo
凪「多分、私はね。男さんと出会えただけで幸せだった」
凪「死なずに済んだうえに、大嫌いだったこの世界のことが、ちょっとだけ好きになれたんだもん」
凪「でも、だからかな――やっぱり、もっと欲しくなっちゃうんだよね」
凪「いじめられる前の、何もかもがあった世界に戻れたらなぁって……最近は思ってた」
凪「お父さんが元気で、部活も楽しくて、友達もたくさんいて、毎日学校に行くのが楽しかったあの頃に」
凪「戻りたいなぁって……思ってた」
144 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:05:41.80 ID:hGQxuJiNo
凪「でも、今日ね――」
凪「”やられちゃった”んだ。わたし」
男「やられた……?」
凪「これ、気になってたでしょ。このひどい有り様……」
凪は、自分の泥だらけになったセーラー服を指差してみせる。
凪「この泥、野球部のキャプテンに……かけられたんだよね」
男「えぇ、野球部?」
俺はてっきり、さっきの”いじめの主犯”である女子にやられたと思っていた。
そうなると、話が変わってくる。
男「だって部活は楽しくやってるって言ってたよね……?」
凪「うん。部活は楽しかったよ」
凪「男子の中に、女子は私一人だけでしょ?」
凪「だから、それが逆にいい距離感になって、部活は今まで通り淡々と続けられた」
145 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:07:22.70 ID:hGQxuJiNo
凪「だから私、安心してたんだ」
凪「ここなら、誰も私を攻撃してこない」
凪「ただただ、大好きな野球だけに打ち込める――って」
凪は俺に向かって腕を振り下ろした。
その投球フォームは、なかなか様になっている。
凪「だって、みんな目標はひとつ。夏の大会で勝つこと」
凪「だから野球部には、私をいじめるような男子はいなかった」
凪「それにチームメイトのみんなは、これまでずっと一緒に頑張ってきた仲間だからね……」
146 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:11:24.93 ID:hGQxuJiNo
凪「なのにさ……!」
凪「今日、いきなりキャプテンに呼び出されたと思ったら、バケツいっぱいの泥をかけられて……」
凪「もう部活には来ないで欲しいって言われた――」
凪「私、部活まで取り上げられちゃったみたい」
凪「野球が、部活が、私の最後の拠り所だったのに……」
凪「ねえ、どうして? 私はただ、今まで通りに――普通に過ごせればそれでいいんだよ?」
凪「それってわがままなの? なんでぜんぶぜんぶ、なくなっちゃうの……?」
言葉に力が込もり、小刻みに震える凪。
ぽろぽろと、またしても涙が落ちてゆく。
世界に傷つき、ボロボロになる凪を見るのが、つらくてつらくて仕方なかった。
147 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:14:51.42 ID:hGQxuJiNo
男「それで、もう部活は辞めるって言ってたのか……」
凪「うん。私だって本当は辞めたくない。辞めたくないよ」
凪「お父さんともね、約束したから」
男「約束……?」
俺が訊ねると、凪はぱちぱちと瞬きしたあと、「そう、約束」と噛みしめるように言った。
凪「お父さんが、まだ元気だった頃ね――」
凪「私、言ったんだ。最後の夏、絶対に地区大会で優勝するって」
凪「そしたらお父さん笑ってね。『それはすごく楽しみだなぁ。応援してるぞ』って言ってくれて」
凪「私ね、思ったよ」
凪「絶対に絶対に、最後まで野球をやり抜いて、お父さんを県大会に連れていきたいって――」
148 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:16:06.90 ID:hGQxuJiNo
凪「だから私は、お父さんが今の状態になってからも、ずっとずっと信じてやってきた」
凪「たとえお父さんがすべてを忘れてしまっても……」
凪「最後の大会で勝ったら、お父さんはきっと、喜んでくれるにちがいないって……」
凪「でもさ」
凪の小さな背中が震える。そしてまた、嗚咽。
ひっぐ、えっぐ、と声にならない声で、ただただやり場のない涙を流し続ける。
凪「ずっとそれだけを信じて頑張ってきたのに」
凪「それ以外のすべてに押しつぶされそうになっても、この約束だけは守りたいって踏ん張ってきたのに」
凪「私、キャプテンにこんなことされちゃってさぁ」
凪「野球すら、なくなっちゃったんだ」
149 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:24:28.06 ID:hGQxuJiNo
凪「私ね」
男「うん……」
凪「一度男さんに助けてもらったのに……」
凪「今日また、”死んじゃいたい”って思っちゃったの」
凪「だめだよね? こんな私――どうしようもない子だよね」
凪はそう言うと、「うええぇ……」と大泣きしてしまった。
言葉が出てこない。
気の利いたことなんて何一つ言えない俺は、黙って凪の頭を撫でる。
凪の嗚咽が収まるまでずっと、優しく、何度も何度も……。
150 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:31:26.34 ID:hGQxuJiNo
次第に、凪の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、声をかける。
男「いいんだよ。人生なんて、いつだって死にたい波の連続だ」
男「きっと、みんなそうだよ――」
凪「……ほんとうに?」
俺はその問いに、大きく頷く。
男「そうだよ。大なり小なり、みんなその波にさらされながら生きてる」
男「みんな平気なフリしてるけど、それは段々と波乗りが上手になっただけ」
男「いつ大きな波が来るかわからないし、油断してると不意に波に飲まれちゃうこともあるんだ」
俺も、ついこないだその「波」に飲まれそうになってしまった。
151 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/23(木) 22:35:41.59 ID:pQm94RwxO
凪………
152 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:37:01.69 ID:hGQxuJiNo
男「凪、いいかい?」
凪「……うん」
男「ちょうど今、凪はその大きな波に立ち向かってるところなんだ」
男「これまでに感じたことのないくらい、きっと人生で一番大きな波だから、当然怖いし苦しい」
男「正直、今までよく一人で負けないでいられたね。……すごいよ」
凪は黙って、じっと俺の方を見ている。
夕立のあとの引き締まった空のような、澄んだ瞳だった。
男「でも、もう大丈夫だよ」
男「これからは俺も力になるから」
男「もう、凪は一人じゃないんだよ」
男「二人でさ……その大きな波を越えようよ」
153 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:39:47.16 ID:hGQxuJiNo
凪は――「うう」と声を漏らしたあと、再び泣き崩れた。
俺はまた優しく頭を撫でる。
俺なんかがこの子に触れていいのか、そんなこと分からなかったけれど、きっとそうするのが正しいと思った。
とにかく今は……凪の顔からその悲しげな涙が消えてほしかった。
男「今度……俺も一緒に部活に行くよ」
凪「え……?」
男「だって、今日こんなことがあって……次部活に行くの、怖いでしょ?」
凪「うん……それは、すごくこわい……」
男「わかるよ。次行ったら何されるか分からない、何を言われるかも分からない」
男「学校だけじゃなく、部活でもいじめられるかもしれないって……」
男「そんなの怖いに決まってる――」
154 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:42:30.88 ID:hGQxuJiNo
男「でも」
はっきりと、ちゃんと伝わるように言葉に力を込める。
男「だからって、凪が部活を辞めちゃうのはちがうと思うんだ」
男「絶対にちがう」
男「俺は、凪に大好きな野球を続けてほしい」
凪「男さん……」
男「だから、俺も一緒に部活に行くんだ」
男「何かあったら凪を助けられるように、凪を守れるように」
凪「でもでも、そんなことしたら男さんにも迷惑かけちゃうよ……」
男「だから言ったろ?」
男「二人で越えようって」
155 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:50:22.22 ID:hGQxuJiNo
男「こんな俺だけどさ……一緒だったら、一人よりも、ちょっとだけ心強いだろ?」
凪は「ありがとう」と言って、またぐずぐずと洟をすすった。
男「なあに、俺も一応南中野球部のOBだからね。部活に顔を出すこと自体は問題ないはずだ」
男「だから凪も気負わず」
男「もう一度だけ、俺と一緒に部活へ行ってみよう――」
凪は「うん」と元気に頷いた。
その顔が本当に嬉しそうで……俺はこんなシンプルなことでも提案して良かったなと思った。
大丈夫。
きっと変えていける。凪はまた、楽しかった日々に戻れる。
クズで無能だった俺でも、できるんだってことを……凪を救えるんだってことを……。
証明してやる。
156 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:55:00.34 ID:hGQxuJiNo
その後、俺と凪は二人で塾に向かって歩き出した。
凪は未だに涙目だったけど、少しだけ希望が見えたのか――。
時折、笑ってくれた。
俺はきっと、それが何よりも嬉しかった。
凪には涙なんかより笑顔の方が似合う。絶対にだ。
俺の持っていたビニール傘を渡すと、凪は「ありがとう」と優しく受け取った。
男「今日はささないの? ……傘」
凪は「うーん」と悩んだあと、「ささない」と首を振った。
男「どうして?」
凪「今日は……濡れて帰りたい気分」
157 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/23(木) 22:58:21.33 ID:hGQxuJiNo
凪はそう言ったけれど、もちろん雨は降っていなかった。
頭上には満天の星――とまではいかずとも、都会で見るそれよりは遥かに多くの星々が瞬いている。
凪「私ね。もしもお父さんが元気になったら、一つだけ訊いてみたいんだ」
男「お、いいね。何を訊くの?」
凪「お父さんは、雨が好きなの? ……って」
男「へえ……」
凪「お父さんの世界ではいつも雨が降ってるから……」
凪「もしかしたら、何か雨に意味があるのかなって」
凪「それが、知りたいんだよね」
凪は「どう思う?」とでも言いたげに、上目遣いで俺の方を見た。
158 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 00:55:28.03 ID:XG0CueYvo
男「何か理由があるのかもね。……分からないけれど」
凪「そうだね。だから訊いてみたいなって、ずっと思ってるんだ」
凪「まあ、お父さんは……もう私の名前すら覚えてないんだけどさ」
そう言うと、凪は頭上を見上げて「星、綺麗だね」と呟いた。
凪「昔、社会のクラタ先生が言ってたんだけどさ」
男「――なに?」
凪「私たちが住んでるこの町は、海抜300メートルの高さにあるんだって」
凪「信じられる? こんなどう見たって0メートルの地面が、東京タワーくらいの高さにあるんだよ?」
男「へえ……それは知らなかったなぁ」
159 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 01:17:47.99 ID:n47gzjn4O
雨が降ってないのに濡れて帰りたい気分…
いいね、すごく素敵
160 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 02:04:25.37 ID:XG0CueYvo
凪「――そしたらさ」
凪「目に見えてるものなんて、実はなんにも信じられないのかもって思った」
凪「今だって、星の綺麗なよく晴れた夜だよ」
凪「でも……お父さんには、私たちには見えない虹色の雨とか、オーロラの雨が見えてるのかなって」
凪「きっとそうだったらいいのにな……って思ってる」
凪は透き通るほど雲ひとつない夜空を見上げて、言う。
男「ああ、それはいいねぇ。今日だったら、星の雨かもしれないね」
凪「ふふ、そうかも」
凪はそう言うと小走りで駆け出し、俺の数メートル前でくるりと振り向いた。
凪「星が降る夜なんて、なんだか素敵だね」
161 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 04:37:58.48 ID:XG0CueYvo
そんな風に笑う凪を見て、本当に星が降ればいいのになと思った。
凪と剛先生の二人のもとに、数え切れないほどの綺麗な星が降り注げばいいのに。
そしてその輝きの中で、いつまでも笑っていてほしい。
夢物語でも絵空事でもない。
そんなことすら有り得てほしいと思うくらい――俺は凪の幸せを願っていた。
この優しい子が心から笑える日が来ることを――
願っていた。
162 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 04:46:49.60 ID:bcfIaPLQO
めちゃくちゃロマンチックな文章だなぁ
163 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 06:12:58.78 ID:ZQ7/J/s4O
中学の頃、たまに他校の野球部に女の子がいたんだけど妙に可愛く見えたな
そういう子に限って肩は強いしバッティングも上手かったりするんだよな
164 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 16:33:41.11 ID:/oUONPCVO
俺も死のうとしたらこんな素敵な子が見つけてくれないかな
とか思って読み耽ってしまったクリスマスイブであった…orz
いや、実に引き込まれる話だよ 完走まで頑張ってよね
165 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 21:57:17.50 ID:XG0CueYvo
二人でゆっくりと歩いて……20分くらいしたら、塾へと帰ってきた。
授業開始が15分後に迫っていたので、俺はそのまま塾舎へ向かおうと思った。
凪は一度家に戻るというので、家の前で別れを告げようとしたその時――
凪が出し抜けに「あ、やばい」と言った。
家の玄関先に剛先生がいて、こちらを睨んでいた。
剛「なあ君、私の財布がないんだ。知らないか?」
凪「いや? 知らないよ。それより外は危ないから、家の中に戻ろうね」
剛「そうかい……まあ、天気も良くないし戻ろうか……」
166 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:29:04.55 ID:XG0CueYvo
衝撃的だった。
見た目はかつての剛先生だったが、声色も喋り方も、何もかもが違う。
昔はもっと――なんというか優しげな雰囲気だったし、こんな刺々しい感じではなかった。
それに、剛先生の口ぶりから察するに、彼は本当に凪のことも認識できていないようだ。
その事実に呆然として、しばらく動けずに二人のやり取りを眺めていると――。
剛「おい、お前! なんだ? なんの用だ! なにしてんだここで!」
まずい、と思った
目が合ってしまった剛先生が、俺に向かって話しかけてきたのだ。
この状態の剛先生に何を言っても無駄であろうことは俺も分かっていたし、
なにより授業直前のこのタイミングで、騒ぎを起こしてはいけない。
167 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:32:37.36 ID:XG0CueYvo
男「いや、なにもしてないです。僕は塾で講師をしている者で……」
剛「バカを言うなぁ!!」
剛先生の怒号が一帯に響き渡る。
目の前で大の大人の怒声を浴びた俺は、身体が石になったように固まり、動けない。
剛「あそこで教えてるのは陽子だろ! ふざけるんじゃない! お前誰なんだ!?」
何か喋って弁解しようとしても、ぱくぱくと口が動くだけで何も言えない。
それほどまでに剛先生の剣幕は凄まじく、
また”かつてとのギャップのひどさ”も相まって……俺はもう頭が真っ白になった。
凪も同じなのか、剛先生の隣で口を開けたまま固まっている。
168 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:37:04.74 ID:XG0CueYvo
剛「おい、お前なんだろ?」
剛「お前が私の財布を盗ったんだな?」
男「え? いや、違います! そんなことは……」
剛「バカにしやがって……おかしいと思ったんだ」
剛「おいお前、返せ。今すぐ返せよ!!」
激昂する剛先生の腕をつかみ、凪が必死になだめようとする。
凪「お父さん、違うよ。その人は全然関係ないんだよ」
剛「うるさいんだよ!」
そう叫んで、凪を思い切り振り払うと、凪はそのまま植木にぶつかった。
169 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:51:24.92 ID:XG0CueYvo
男「ちょっと、危ないですよ!」
剛「黙れ! おい、お前舐めてるのか?」
剛先生が、ものすごい剣幕で俺の方に迫ってくる。
剛「早く返せ! この野郎! 分かってんだぞ!」
剛先生は、俺の胸ぐらを掴んで凄む。
俺の顔を凝視するその濁った双眸には……もはやかの日の面影など、微塵もなかった。
病気のことを知らなければ、鬼にでも取り憑かれたのかと思うほど……
そこにいた剛先生は、かつてとは別人だった。
怖いんだか、悲しいんだか、もはや何の感情かも分からないものが俺の心を支配し……。
両足がガクガクと小刻みに震えた。
170 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:55:55.08 ID:XG0CueYvo
男「知りません……僕は、盗ってないんです」
そう答えた瞬間であった。
”ガゴッ”という鈍い音が脳の奥に響き、視界がぐるりと回って……。
気づくと俺は、空を見上げて地面に倒れ込んでいた。
凪が大声を出して、塾舎の方へと駆けてゆく――。
剛先生はいまだにギャアギャアとなにかを叫んでいる――。
左頬がじんじんと熱くなり、痛み出した――。
口の中が切れて、血の味が広がる――。
そうか、俺は……”殴られた”んだ。
剛先生に。
かつて”恩師”だった人に……。
171 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 22:59:15.80 ID:XG0CueYvo
その後は、大騒ぎであった。
すぐさま陽子先生が飛んできて剛先生をなだめたものの、
彼の興奮は収まらないようでしばらく暴れていた。
すでに塾には何人かの生徒が来ていたため、もちろん一部始終を見られたし、
心配した近所の人たちが何人も集まってきた。
一時、警察を呼びそうな流れにもなったが、俺が懸命に無事をアピールしたため、
なんとかそこまで大事にはならずに済み、事態は一旦収束した。
剛先生は、これまで母親(凪のお婆ちゃん)と陽子先生で面倒を見ていたが、
もはや家での管理は不可能なところまで来ており、
陽子先生とお医者さんで相談して、『医療保護入院』することになった。
治療の方針を変えたり、投薬の種類を変えたりして、
もっと平穏に暮らせるようにしていくためだという。
もしも警察沙汰になっていた場合、
強制力のある『措置入院』になっていた可能性もあったらしい。
172 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:04:10.35 ID:XG0CueYvo
陽子先生は今回の件で、激しく憔悴していた。
俺は「不幸中の幸いというか、全然知らない人じゃなくて殴られたのが僕で良かったです」
などと言ってみたものの、そんなことは焼け石に水だった。
今までも騒ぎを起こすことはあったものの、誰にも危害を加えずに暮らしていた。
それなのに、まさか男くんに手を上げるなんて……と泣き崩れていた。
そして、凪は……。
あの日以来、三日以上”部屋から出てこなかった”。
目の前で父親が人を殴る瞬間を目撃し、なおかつ俺が殴られたということが……。
本当に本当にショックだったようで、
学校はおろか、塾にも参加せず、部屋から一歩も出てこなくなった。
173 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:10:49.83 ID:XG0CueYvo
これには、俺も本当に悲しい気持ちになった。
いや、俺だけじゃなく……陽子先生はもっと辛かったろう。
旦那である剛先生の症状が悪化したうえ、一人娘の凪が心を閉ざしてしまった。
その心労は、想像を絶するものだ。
しかしそれでも、陽子先生は気丈に授業に立ち続けた。
ただその表情は疲れて切っており、俺だけでなく、生徒からも心配されるほどだった。
正直、陽子先生もいつ倒れてもおかしくないような状態であった。
これまでの幸せな時間が……これからの未来が……音を立てて崩れ始めていた。
俺の大好きな家族――七瀬川一家のみんなが――崩壊する寸前にあった。
「凪は……いつになったら部屋から出てきてくれるんだろうね」
陽子先生のその悲痛な言葉を聞いて……心から思ったよ。
なんとかしたい。なんとかしてあげたい。
俺に、なにかできることはないのか……?
ってさ。
174 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:21:05.51 ID:XG0CueYvo
ただ、現実は甘くない。
俺なんかがそう願ったところで、何も変わりはしなかった。
凪を元気づけるために家の外から声をかけようとも、手紙を書こうとも、
彼女が部屋から出てくることは一向になかった。
なにか、勘違いしていたんだろうね。
俺が頑張って行動を起こせば、凪はこたえてくれるとか、現実は変えられるとか、
そんな、都合の良い勘違いをしていた。
でも結果として分かったのは――。
俺は無力だということ。
ただそれだけで、俺が毎日塾で授業を続けようが、凪に戻ってきてほしいと願おうが、
まったく変わらない現実が目の前に横たわっているだけだった。
175 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:29:49.76 ID:XG0CueYvo
あの日、あの根図橋の上で……。
俺は凪と、「一緒に部活へ行こうね」と約束をした。
それは、一縷の望みともいえる”最後の光”だった。
もう二度と凪を泣かせない、ずっと笑顔にしてあげるんだ、と誓った。
あの子が笑顔になるためなら、あの子の日常を取り戻すためなら、なんでもするとまで思った。
俺と一緒に、凪のすべてを取り戻すための日々が……始まるはずだった。
なのに。
それなのに……。
今目の前にある現実は、ただただ空虚で、一切の慈悲はなかった。
176 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:32:28.05 ID:XG0CueYvo
ああ、そうか――。
思えば……これが”世界”ってやつだった。
そこには、ドラマティックな救済も、ヒロインへの祝福も、存在しないんだ。
これが……クソな世界。
俺の手は……凪に届かないのか。
177 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:37:32.42 ID:XG0CueYvo
そんな絶望の状態にあっても、日々というのは気を抜けばあっという間に消化されてゆく。
なんの変化も、解決の兆しも見えないまま、一週間以上が経過した。
凪は相変わらず家から出てくることもなく、陽子先生とも一言も喋っていないらしい。
陽子「もう、あの子がどこか遠くへ行っちゃったような気さえするの」
陽子先生は力なく笑ってそう言っていたが、その表情の奥には深い悲しみの色が見えた。
どうにかして凪に元気を出してもらいたい。戻ってきてもらいたい。
願わくば、もう一度部活にも行って、元通りの楽しい学校生活を送ってほしい。
あの子には――そんな”当たり前”の毎日を謳歌してほしかった。
そんなことを願うのは、行き過ぎたことだったんだろうか?
178 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/24(金) 23:38:03.85 ID:rlHjklpJO
ここから凪がハッピーになる展開かと思ったらさらに落ちるんかーい
胸がきゅっとなるわ…
179 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:42:19.14 ID:XG0CueYvo
きっと凪は限界だったんだ。
大好きだったお父さんが、突然変わってしまったこと。
それをきっかけに、学校で理不尽ないじめを受けていたこと。
先の見えない辛い日々を送る中で、
遂には心の支えであった野球部まで奪われてしまった。
そして……あの日の一件で凪は限界を迎えた。
考えたら考えただけ、15歳の女の子がひとりで背負いきれるようなものではなかった。
どうして凪だけが、普通の中学生と同じような生活を送ることが許されないのか?
毎日毎日、凪が閉じこもったままの隣の家を見て、
悲しみとも怒りともとれない、やり場のない感情が渦を巻いた。
180 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:47:10.40 ID:XG0CueYvo
それからまた数日あって――。
その日もいつも通り、19時から中学生の授業を行っていた。
本来であれば凪も苦手な数学のテキストを抱え、にこにこと笑いながらやってくるのだが……。
当然、彼女の姿はなかった。
誰も座ることのない凪の席を見て、寂しい気持ちになる。
あの日から、凪の時間は止まったまま動いていない。
陽子先生と俺で、いつも通り授業を進めていると……。
突然入り口のドアが開き、「こんちはー!」と威勢の良い声が響いた。
181 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:51:02.18 ID:XG0CueYvo
そこには坊主頭で小麦色に焼けた、小太りの男子中学生が立っていた。
制服のワイシャツを見るに、凪と同じ南中の生徒だろう。
そんな彼は、鋭い目つきで室内を見回していた。
中学生「すいません、ここって七瀬川先輩の家っすよね?」
陽子「ええ、まあ、そうだけど……?」
きっと、表の「七瀬川学習塾」の看板を見たんだろう。
中学生「七瀬川先輩っていますか?」
陽子「七瀬川先輩って、凪のことよね……?」
中学生「あ、そうすね。凪さんっす。います?」
俺は立ち上がり、陽子先生に目配せした。
「ここは俺に任せてください」の合図だ。
陽子先生の方が受け持つ生徒数も多いし、授業の流れを止めるわけにはいかない。
話しぶりから察するに塾に用事があるわけではなさそうだし、ここは俺が片付けようと思った。
182 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:53:34.08 ID:XG0CueYvo
俺は担当していた中一の男女二人に、「この題問を解いておいて」と言い残し、
入り口にいた彼のもとへと近づく。
男「凪なら、隣の家にいるとは思うけど……ごめん。君はだれ?」
訝しげにそう訊ねると、中学生は「あー、そうっすよね」と小声で呟いたあと、話を続けた。
中学生「俺、野球部の二年の田向って言います。七瀬川先輩の後輩っす」
男「野球部の後輩……?」
田向「はい、そうっす。今日はちょっと、七瀬川先輩に話したいことがあって、来たんです」
田向君は見た感じガタイもよく、ちょっと”やんちゃそう”な少年であったが、
その語り口には嫌味がなく、純朴な印象を受けた。
単純な第一印象であったが、”悪いヤツ”ではなさそうな気がした。
183 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:56:45.08 ID:XG0CueYvo
男「ごめん。話ってなんなの?」
とは言え、凪が置かれている状況も熟知していた俺は、警戒してそう訊ねる。
この野球部の少年が、どういった了見で凪に会いに来たのかは、
しっかりと把握する必要があると思った。
田向「そうすね。もう先輩、一週間以上も学校に来てないって聞いて。ちょっとそれで、心配になったというか」
田向「大丈夫なのかなって……」
男「それなら、凪にも色々事情があるから、心配しないで」
男「また元気になったら学校に行けると思うから、それまでそっとしておいてあげてほしいな」
俺が少し強めにそう言うと、田向君は若干きまり悪そうに頭を掻いた。
田向「いやぁ……それなんすけど、俺、七瀬川先輩にどうしても伝えたいことがあるんですよ」
男「どうしても……。それは、大事なこと?」
田向「……はい」
184 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/24(金) 23:58:25.36 ID:XG0CueYvo
そう返事をして頷いた田向君の瞳が――あまりに”真っ直ぐ”だったので――。
直感的に、この子は”なにか大事なことを知っている”という気がした。
それはきっと、今の凪に変化をもたらすほどの、大事なこと……。
俺は振り向いて、陽子先生に手を振る。
そして、外を指差し「ちょっと、話してきます」とだけ伝える。
陽子先生は無言で何度か頷き、口元だけで笑みを作ってみせた。
恐らく、「OK」ということだろう。
陽子先生も心のどこかで、この少年――田向君が、凪と浅からぬ関係があると分かっているんだ。
185 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/25(土) 00:04:33.39 ID:FeuWjrkUo
男「よし、田向くん。ちょっと外行こうか? ここだと、あれだしな」
田向「あ、はい……外っすか?」
男「ああ、そうだよ。”大事なこと”なら、ここじゃまずいだろ?」
もったいぶってそう言うと、田向君は「そうっすね」と言って素直に従ってくれた。
外に出ると、じめっとした野暮ったい空気が俺たち二人を包んだ。
辺りは真っ暗で、例によって街灯の灯りだけ頼りだった。
男「この時間だっていうのに、ずいぶんと暑くなったもんだね」
田向「もう、六月も半ばっすから。これからますますって感じじゃないすか?」
男「――だねえ」
186 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/25(土) 02:32:41.08 ID:jk3yXzmSO
最初から読んできて追いついたわ
描写が好き。あと人間が本当にいそう。
逆に生々しくてきつい部分もあるけど、それもリアルでいい
187 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/12/25(土) 04:29:29.87 ID:Ncef1LXsO
状況が鮮明に浮かぶな
ヒロインの解像度が高く脳内にイメージされた
すごいな
188 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/25(土) 18:03:30.23 ID:fnzK3aSCO
めちゃくちゃ好き
「星が降ればいい」とか「海抜300メートル」とか「桃畑の町」とか
189 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:03:16.98 ID:ivjS9/IdO
少しだけ歩いて、近くの桃畑の脇に腰掛けた。
俺は手招きして「座ったら」と田向君に促した。
しかし田向君は座ろうとせず、直立したまま訊ねてくる。
田向「あの……すいません。ってか、誰っすか?」
田向「七瀬川先輩のお兄さん……ではないっすよね?」
男「あ……そういやそうか」
ここはなんと説明すべきか……と悩みつつも、今思っていることを素直に言う。
男「俺は、男。ここの塾で働いてる講師だよ。だから、凪は俺の……教え子なんだ」
田向「へえ……」
そう説明してみても、田向君の表情からある種の”壁”がまだ消えていないと感じ、
俺はもっともっと正直にさらけ出してしまおうと決めた。
190 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:06:56.83 ID:ivjS9/IdO
男「それだけじゃない」
田向「……はい?」
男「凪には深い恩があるし、俺が今あの塾で働けているのは、凪のおかげなんだ」
田向「恩……?」
男「ああ、とんでもない大恩さ。……詳しくは言えないけどね」
田向君は神妙な面持ちで何度か頷くと「へえ……」と呟いた。
男「もちろん、凪のことも色々聞いてる。学校で何があったか、部活で何があったか」
男「きっと、全部。凪本人の口から……聞いてる」
男「つらいことが沢山あったっていうのも……全部ね」
田向「……そうなんですね」
男「ああ。あの子が今までどれだけ”懸命に”頑張ってきたか……俺は知ってるよ」
191 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:10:44.65 ID:ivjS9/IdO
田向「じゃあ、七瀬川先輩が泥をかけられた日のことも……」
男「知ってるよ。キャプテンにかけられたんだろ?」
そこまで言うと、田向君は「ああ……それも知ってるんすね」とため息をこぼした。
そしておもむろに俺の方へ寄ってくると、「よっこいせ」と隣に座った。
男「……話す気にはなった?」
田向「まあ……はい」
男「もちろん、君からしたら俺はただの知らない男だろうし……どこまで信じるかは任せるけどね」
田向「いや……むしろ、話が分かる人がいてくれて、助かりました」
そう口にすると、田向君は「ふぅ」と大きく息をついた。
192 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:13:10.18 ID:ivjS9/IdO
田向「正直、俺がここに一人で来たところで、なんの意味もないって分かってたんです」
田向「家を訪ねたところで、きっと七瀬川先輩は出てきてくれないだろうし」
田向「さっき塾にいたのは、たぶん先輩のお母さんですよね?」
男「うん、そうだね」
田向「まさか、親御さんに直接するような話でもないので……」
男「……そうなの?」
田向「……はい」
田向「だから、来たところで、何にもならないって分かってたんすけど」
男「でも……なぜか来ちゃった、ってわけか?」
そう尋ねると、田向君は「そうなんすよね」と笑った。
笑うと厳つい雰囲気が少し和らぎ、年相応の無邪気さが垣間見えた。
田向「七瀬川先輩の家が塾だってのは知ってたので、来たら何か起こるかなって思って」
田向「そしたら、偶然男さんがいたんす」
193 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:22:50.80 ID:ivjS9/IdO
男「……なるほど。それなら、ちょうどよかったってことか」
田向「そうすね。……本当、よかったっす。来た意味ありました」
男「で……大事なことって、なんなの?」
改めてそう訊ねると、田向君は下を向いて悩んでいる。
男「言いにくいことなの?」
田向「いや……」
俺はこの時、半分くらい「田向君は凪が好きなんだろうな」とか決めつけていたので、
次に出てきた言葉が意外なもので驚いてしまった。
194 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:24:11.97 ID:ivjS9/IdO
田向「その……泥をかけた件は、キャプテンじゃないんですよ」
男「……は?」
田向「あの日、七瀬川先輩に泥をかけたのは、キャプテンじゃないんです」
男「いや、ちょっと待って。凪は『キャプテンにかけられた』って言ってすごく落ち込んでたぞ?」
田向「まあ確かに、”実際にかけた”のはキャプテンでしたが……それは本人の意思じゃなかったんす」
……おいおい。ちょっと待ってくれよ。
一体全体、どういうことなんだ。
まったくワケが分からないぞ。
195 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:25:16.47 ID:ivjS9/IdO
田向「一週間前のあの日、キャプテンが七瀬川先輩に泥をかけてから、先輩は学校に来なくなりました」
田向「俺、なんだかそれがすっごく嫌で……」
男「ちょっと待って。よく分からない。そもそもなんで君も凪が泥をかけられたことを知ってるの?」
田向「そうっすね……俺、”その瞬間”を見てましたから」
男「見てた?」
田向「はい。キャプテンが泥をかけるのを、見てました」
瞬間、怒りのボルテージが一気に上がる。
男「どういうことだぁ? じゃあなんで止めなかったんだよ!」
男「お前もあれか? 凪へのいじめに加担したのか!?」
196 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:29:41.39 ID:ivjS9/IdO
田向「だから違うんです! 聞いてください!」
男「言っとくけどな、俺は凪をいじめた奴を絶対に許さねえぞ?」
男「場合によっちゃ、お前も今ここでぶん殴ってやってもいいんだぞ!」
田向「落ち着いてください! お願いします! 本当に違うんですって!」
頭に血が上ってしまい、俺が田向君の腕を掴んだので、彼は必死に弁解をする。
田向「だからそもそも、泥をかけたっていうのも、全部キャプテンの意思じゃないんすよ」
男「はぁ……?」
田向「本当なんす。本当に……キャプテンにも事情が……」
197 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:31:04.32 ID:ivjS9/IdO
そこまで聞いて、俺も冷静さを取り戻した。
つい、目の前の少年が凪のいじめに加担した一人かもしれないと思ったら、
後先を考えずに頭に血が上ってしまった。
俺は「ごめん」と伝え、彼に話を続けさせた。
田向「先輩がいじめられてるのは……知ってるんですよね?」
俺「ああ、聞いてるよ」
田向「なら、話が早いですね」
田向君はそう呟くと、ごくりと一つ唾を飲み、話しを続けた。
田向「七瀬川先輩が、同級生の女子から理不尽ないじめを受けてることは……」
田向「なんというか、野球部の中でも周知の事実だったんすよ」
男「そっか……やっぱりある程度、知れ渡ってることだったんだ」
田向「そうっすね。七瀬川先輩なんて校内でも目立つ人だったんで」
田向「そんな人がいじめに遭ってるんですから、みんな分かってて知らないフリをしてたと思います」
198 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:35:19.20 ID:ivjS9/IdO
男「そんな状態なのに、どうしても誰も助けてやらないんだよ」
不満たっぷりにそう言うと、田向君は「いやぁ……」と首を傾げた。
田向「自分の身を挺してまで助けようなんて人、そうそういないっすよ」
田向「リアルに考えてください。そんないじめに関わって、何か得があると思います?」
田向「あるとしたら、自分の今後の学校生活が今より悪くなることだと思うんすけど」
男「お前……」
俺は「ふざけんなよ」と言おうとして、やめた――。
仮に、俺が今中学生だったとして、目の前にいじめられている凪がいて……。
俺は自分のすべてを犠牲にしてまで凪を救えただろうか?
その”刃”が明日には自分に向かうかもしれない中、
すべてを捨てて凪を守っただろうか?
199 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:36:49.18 ID:ivjS9/IdO
多分、無理だ。いや、絶対に無理だ。
そんなこと、怖くてできるワケがない。
無責任なことは――言うべきじゃない。
男「まあ……そりゃそうか……」
田向「それに、七瀬川先輩のいじめの中心にいるのは”広瀬”っていう三年の女子なんすけど」
田向「これが本当に厄介で、学校の中心みたいなヤツなんすよね。敵に回したらヤバいっていうか……」
田向「親も地元の建設会社の社長で、先生らも手を焼いてるような生徒なんすよ」
男「はぁぁ……なるほどね。そういう事情もあったのか」
そりゃ、他の生徒からしたら極力関わりたくないのは当然だろう。
中学生はまだ子どもとはいえ、”ある程度の分別”くらいはつくようになっている。
どちらの味方についてどう動けばいいのか……みんな分かっているんだろうな。
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