晴れ空に傘

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200 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 18:38:35.54 ID:ivjS9/IdO
男「でもだからってさぁ……そんなの、凪がかわいそうだよな……」
田向「分かります。きっと、みんなそう思ってるはずなんすよ」

男「……田向君も?」
田向「はい。……当たり前じゃないっすか」

彼はここに来てから一番真剣な顔で、俺の方を見た。
その表情から、どこかただならぬ”決意”のようなものを感じた。

田向「俺だって、後輩っすけど……七瀬川先輩には本当にお世話になりました」
田向「だからいつも苦しんでる先輩を見るのは……本当に……つらかったっすよ」
201 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 18:40:27.67 ID:ivjS9/IdO
瞬間、俺はこんな事を訊いていた。
当然、今するような質問ではないと分かりつつも、訊かずにいられなかった。

男「田向君は、凪のことが好きなのか?」
田向「はい?」

男「……すごく凪のことを知ってるみたいだからさ、なんとなく」
田向「ち、違います。俺には他に、好きな人がいるんで……」
男「そっか、それならごめん」

田向君は「そういうんじゃないっすから」と恥ずかしそうに目を伏せた。
見た目はゴツいけれど、こういうところに中学生らしさがあって可愛いなと思った。

田向「七瀬川先輩は……どちらかというと憧れですね。目標みたいな人です」
男「なるほどね。なんとなく、分かる気がするよ」

田向「それに――七瀬川先輩のことを好きだったのは、キャプテンですから」
男「え……?」
202 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 18:43:39.24 ID:ivjS9/IdO
男「ちょっと待ってよ。凪のことが好きなのに、泥をかけたのか? まったく意味が分からないんだけど」
田向「そうっすね……これで、話が戻せますね」

そう言うと、田向君は「こっからがめっちゃ大事なことなんです」と大きく深呼吸をした。
心の準備が必要なのか、目を瞑って何度も首を振る。

男「大丈夫、ゆっくりでいいよ。それに、きっとここなら誰にも聞かれない」

一応、細心の注意を払って辺りを見回す。
人影一つなく、周辺には寂しげな小道が一本と、桃畑が広がるばかりだった。

時折風が吹いて、青々と茂った桃畑をカサカサと鳴らした。
203 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 18:48:32.11 ID:ivjS9/IdO
田向「キャプテンは、七瀬川先輩をいじめていた広瀬と、ある”契約”をしたんです」

男「契約……?」

田向「キャプテンはずっと、広瀬になんとかしていじめをやめさせようとしてました」
田向「でも……相手が相手ですから。キャプテンが何を言おうとも、ただでやめるわけがないんす」

田向「それでキャプテンは……広瀬に持ちかけられたんですよ」

『七瀬川凪を野球部から追い出したら、いじめをやめてやる』

田向「って……」
男「なんだよ……それ……」
204 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 18:50:34.09 ID:ivjS9/IdO
田向君は、苦虫を噛み潰したような顔で、話を続ける。

田向「本当に、卑怯なやつらっすよ……」
田向「広瀬は、七瀬川先輩が野球部を”心の拠り所”にしているのを知ってたんすよ」

田向「実際、部活の時の七瀬川先輩は本当に楽しそうでしたし、僕らもそれを見ていて嬉しかったです」

田向「広瀬は、七瀬川先輩に野球部がある限り、決して先輩が折れないと分かってたんです」
田向「だからこそ、自分たちがいじめるよりも、”それ”を奪うことの方が――」

田向「七瀬川先輩にとって一番つらいって、気付いたんでしょうね」

田向君の話を聞いて、呆然とする。
その広瀬とかいう女、一体どれだけ狡猾なんだ……。
205 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 18:57:56.17 ID:ivjS9/IdO
田向「それに、キャプテンが七瀬川先輩のことを好きだってことも見透かされてたんですよね」

田向「”もういじめはしない”なんて交換条件を出されたら……」
田向「キャプテンが、それを拒否するはずなんてなかったんです」

男「なるほど……」

キャプテンは体よく利用されていた、ということか。
その選択を迫られた時の彼の気持ちは……一体どんなものだったろう。
……苦しかっただろうな。

田向「その話をキャプテンからされた時……俺もなんて言ったらいいか分からなかったっす」
田向「だってこれ……正解なんてあります? 俺には全然、分かんなかったっす」
206 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 18:59:21.93 ID:ivjS9/IdO
田向「キャプテンは、俺だけにこの話をして……『協力してほしい』とお願いしてきたんです」
田向「当日は、二人で校庭の土をバケツに入れて水を貯めて、泥を作って準備しました」

田向「キャプテンは……これで七瀬川先輩をいじめから救えるって信じていました」

田向「……俺は思いましたけどね」

田向「こんなことをしても、広瀬がいじめをやめる保証なんてないし」
田向「なにより七瀬川先輩の気持ちはどうなるのか……って」

田向君は「はぁーあ」と分かりやすいため息をつき、話を続けた。
207 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:00:25.69 ID:ivjS9/IdO
田向「決行場所は、体育館裏のテニスコートの横でした」
田向「広瀬はテニス部なんで、”その瞬間”がちゃんと奴にも見えるように場所を選んだんですよね」
田向「俺が見ていたのも、ちゃんと”証人”がいた方がいいって言うんで……」

田向「とにかくキャプテンは必死でした」
田向「その”一撃”で絶対に七瀬川先輩を救うんだっていう――決意がありました」

田向「そしてキャプテンは、バケツ一杯の泥を……七瀬川先輩に思い切りかけました」

『もう二度と野球部に顔を出すな!』

田向「っていう言葉と一緒に……」
208 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:02:34.41 ID:ivjS9/IdO
俺は気付いたら、両手で頭を抱えていた。
なんというかもう、自分の理解の許容量を越えていたのだ。

田向「七瀬川先輩は、涙目になって……」

『……嘘でしょ?』

田向「と言っていました。けど、キャプテンが何も答えなかったんで……」
田向「そのまま、走っていなくなっちゃいました」

田向君は、またしても「はあぁ……」と大きなため息をひとつ吐く。
209 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:03:35.89 ID:ivjS9/IdO
田向「その場面は広瀬にもバッチリ見られてて……」
田向「テニスコートの方から『やるじゃん!』とゲラゲラ笑い声を上げてましたね」

田向「……あんまり、思い出したくはないっす」

俺は田向君の背中を何度か叩いた。なだめるような意味合いもあったと思う。
きっと彼も、沢山の苦悩と向き合ってきたんだ。

田向「そのあと、キャプテンは何度も何度も訊ねてきました」

『あれで良かったよな? 俺、間違ってなかったよな?』
『七瀬川は……大丈夫だよな?』

田向「不安だったんでしょうね。どうしようもないくらいに」
田向「正直……気の毒でした」
210 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:04:40.04 ID:ivjS9/IdO
田向「これで七瀬川先輩へのいじめがなくなると思っていたら……」
田向「先輩は、次の日から学校に来なくなりました」

田向「今までどんなことがあっても、絶対に学校には来ていた先輩が、突然来なくなったんです」
田向「そりゃどんなバカな奴でも分かりますよね?」

田向「七瀬川先輩の心を折ったのは、他の誰でもなく”自分たち”だったんだって……」

遠くで、原付が走り抜ける音が虚しくこだました。
風は吹かない。じめっとして野暮ったい空気が、身体にまとわりつく。
211 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:05:27.52 ID:ivjS9/IdO
田向「こんな話あります? 先輩を救おうとしていたのに、ドン底に突き落としたんですよ?」

田向「七瀬川先輩がいなくなって、俺たちはやっと気づきました」
田向「取り返しのつかないことをしたんだって……」

そして田向君は、ちいさく「クソ」とこぼした。

田向「俺と二人きりになった部室で……キャプテンは大泣きしてました」
田向「ずっとずっと……男のくせに、みっともないくらい泣くんすよ」
田向「バカっすよね。そんなことしたって、七瀬川先輩は戻ってこないのに、本当に……」

そう言って俯いた彼に、俺はかける言葉が見当たらなかった。
ただ黙って、静かに耳を傾けることしかできなかった。
212 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:07:05.77 ID:ivjS9/IdO
田向「それからキャプテンは嘘みたいに覇気がなくなっちゃって……」
田向「本当にひどいもんですよ。もう野球どころじゃないっす」
田向「声は出ないわ、足は動かないわ、極めつきにはコミュニケーションもまともに取れないんすよ」

田向「もう、罪悪感でいっぱいなんでしょうね」

田向「七瀬川先輩もいなくなって、キャプテンもおかしくなって、野球部はめちゃくちゃで……」
田向「もう大会とか、そういうレベルじゃないんですよ」

田向「だから俺、いても立ってもいられなくなって……」
田向「ここに来ちゃったんです」
213 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:09:19.69 ID:ivjS9/IdO
男「……なるほどね。そういうことだったのか……」
田向「はい。なんだか、色々複雑ですいません」
田向「俺もなんて説明したらいいか分からなくて……長くなっちゃいました」

男「いやいや。丁寧に教えてくれて、ありがとう」

俺は思っていた。
”想定していたよりも、事態は深刻じゃない。”

特に、そのキャプテン。
彼に「悪意はなかった」という事実は、光明であった。

むしろ、キャプテンは味方だ。凪にとって、とても大切な学校での味方。
あるいは、そのキャプテンこそが、凪を今の状態から助け出す”キーマン”になるだろう。

そして、この田向君。
彼も間違いなく、本当にいい後輩だ。

これなら、凪は。
すべてが上手くいけば、凪はまた――。
214 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:10:43.37 ID:ivjS9/IdO
田向「ただ、結局……こんな風に俺が来た所で、七瀬川先輩に伝わらないと意味がないっすよね……」
田向「どうしたらいいのか、分からないっす」

男「一番いいのは……そのキャプテンが、直接謝りに来ることだと思うよ」
田向「やっぱり、そうですかね」
男「間違いない。やった本人が事情を直接説明するのが、一番いい」

田向「でも……」
男「キャプテンはとてもそんな精神状態じゃないんだろ?」
田向「……っすね。無理だと思います」

俺は「うーん……」と考え込んだあと、とある”アイデア”を思いついた。
アイデアといっても、非常にシンプルなものだったけど。
215 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:14:03.76 ID:ivjS9/IdO
男「なあ、田向君。俺に考えがあるんだけど、いいかな?」
田向「はい。……なんすか」

男「明日の部活の時間、キャプテンを強引に連れ出そうぜ。俺たち二人でさ」
田向「連れ出す……っすか?」

男「きっと、田向君一人だと難しいだろ? そこを、俺が勢いで加勢する」
男「多少強引にでもキャプテンを引っ張り出してきて、凪に会わせるんだ」

田向「できますかね……? そんなこと……」
男「できるできないじゃないんだよ。……やるんだ」

田向君は、目を見開いて俺の方を見た。
216 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:15:01.85 ID:ivjS9/IdO
田向「でも、そうは言っても……」
男「大丈夫、任せな。実は俺、南中野球部のOBなんだ」
田向「そうだったんすか!?」

男「だから部活への潜入には多少強引でも”理由付け”ができる」
男「万が一先生にバレて難癖つけられたら……」

田向「つけられたら?」
男「めっちゃ逃げる」

田向「……了解っす」
217 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:16:58.67 ID:ivjS9/IdO
男「よーし! そうと決まれば明日の15時30分、南中の正門前に集合だ」
田向「分かりました」

男「いいか? このことは暮れ暮れも内密にな」
男「ちょっとでも誰かに怪しまれたら、全部パーだ」
田向「うっす」

男「大丈夫、俺も入念に”準備”をしていくよ。田向くんは、いつも通りで頼む」
田向「分かりました。キャプテン……絶対に連れ出しましょう」
男「おう、その意気だぜ」

凪、きっと大丈夫だ。
君のまわりには、こんなにも君を想ってくれている奴らがいる。

もうすぐだから。待っててくれよ。
218 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:20:26.33 ID:ivjS9/IdO
そして次の日。
”南中潜入作戦”決行の当日、俺は中学の正門から20mほど離れた場所に自転車を止め、様子を見ていた。

正門に田向君が来ていないか、遠目から確かめていたのだ。
彼がいなければ、到底中に入ることなどできないし、ただの不審者だ。

なので、その位置から熱心に正門付近を監視していたが、
遠巻きに校内を覗く俺の姿は、すでに不審者そのものだっただろう……。

空は今にも泣き出しそうなほどの曇天模様だった。
分厚いグレーの粘土で何重にも固めたような、どんよりとした重たい空だった。

しばらくして、正門にきょろきょろしながら田向君が現れた。
俺はそれを確認し、すぐに駆け寄った。
219 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:22:46.46 ID:ivjS9/IdO
男「やあ、大丈夫そ?」
田向「どうすかね。まあ分かんないすけど、堂々と入ってく方がいいんじゃないすか」

男「そうだね。変にビクビクするより、自信満々に歩いていった方がいいだろうね」
田向「んじゃ、行きますか」

学校に潜入するということ。
それは、いかにその世界に違和感なくなじむか、ということだ。

そのために俺はアンダーアーマーを着込み、上下を夏用のジャージで揃え、それらしいボードを小脇に抱えた。
いかにも”野球部のOBが指導に来た”感を演出することに徹したのだ。

もとより、俺は潜入して何かをやらかすわけでもなく、
実際に卒業生で野球部のOBなのだから、バレたところでさして問題にはならないだろう。

ただ、万が一変な騒ぎでも起きようものなら、全てが灰燼に帰してしまう。

今日、俺と田向君は――凪を救う第一歩となる、大事な”作戦”を決行しているんだ。
220 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:24:47.54 ID:ivjS9/IdO
前庭の、職員室の目の前を”まともに”通り抜け、二人して校庭へと向かう。
さすがに職員室の真横を通るのはどうかと思ったが、この大胆さが逆に周りからの不審感を緩和させる気もした。

前庭の花壇は記憶のままの光景で、百日草の花が咲き乱れ、風に揺れていた。
保健室前の水道も当時のままで、「ああ、ここでよく傷口を洗ったな」なんて記憶が思い起こされ、
胸がむず痒くなるような、懐かしい気持ちでいっぱいになった。

目に映るすべてのものにノスタルジーのフイルターがかかり、
本当にただ”久々に母校を訪れたOB”となってしまった。

校庭には、すでに野球部・サッカー部・ハンドボール部が展開しており、
バックネット周りでは練習着を来た野球部員がアップを始めていた。

途中、すれ違ったハンド部の男子に「ちわっす!」と挨拶をされ、思わずにやけてしまった。
田向「完全にOBか指導者だと思われてますね」
男「だなぁ……」

講じた策がしっかりとハマり、田向君と二人でくすくすと笑ってしまった。
221 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/26(日) 19:26:39.81 ID:ivjS9/IdO
バックネット付近まで来ると、田向君はキョロキョロと辺りを見回す。
十数人ほどの野球少年がストレッチしたり腿上げをしたり、それぞれの準備に励んでいる。
中にはもう気ままにキャッチボールをしている子たちもいる。

一見普通の部活の様子にも見えるが、確かにどこか締まっていない、覇気のない空気が漂っている気がした。

男「キャプテン、いないの?」
田向「あれぇ……いないすね。いつも割と早めに出てくるんですが……」

そんな会話をしていると、一人の三年生と思しき部員が近づいてきた。

三年「おい田向ぃ、なんでまだ着替えてないんだよ?」
田向「あ、すいません。ちょっと色々あったもんで」

その三年生は、ヘラヘラと笑って「んだよぉ」と田向君に絡んでいる。
ただ、ふざけているという様子でもなく、きっとこれがこの子のニュートラルなのだろう。
222 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 03:50:30.05 ID:DNcSflKQo
三年「で、その人は誰?」
田向「え? ああ、ええと……」

田向君、思ったより機転が利かないタイプらしい。
すかさず俺は自ら名乗りを上げる。

男「俺はOBの者です。ちょっと今日は軽く様子を見に来ただけなんで。すぐ帰るから気にしないで」

するとその三年の子は「あーそうなんすね……」と気まずそうに答えた。

三年「なあ田向、キャプテンも七瀬もいねえからさ、全然まとまんねえよ」
三年「なんか俺もサボっちゃおうかな」
そう言うと彼は、「ひひひ」と肩を震わせて笑った。

田向「あれ、キャプテンはまだ来てないんですか……?」
三年「来てんだけどさぁ。なんか部室で考え込んでたんだよな」

この時、多分俺だけじゃなく田向君も「チャンスだ」と思っただろう。
もしも部室に一人で残っているなら、今が絶好のチャンスだ。
223 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 03:51:18.52 ID:DNcSflKQo
田向「先輩、すいません。今日俺とキャプテンは部活休むんで」
田向「先生が来たら、そう伝えておいてください」

三年「え、ちょ、どういうこと!?」

彼はとても動揺していたが、田向君は構わず「部室です!」と言って小走りで駆け出した。

後ろから「え、なになに? なにかあんの〜?」と呼び止める声が聞こえたが、
田向君は「あの人ならほっといて大丈夫です」と無視を決め込んだ。

二人で、校庭の隅にある部室小屋へと走る。
224 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 03:53:27.41 ID:DNcSflKQo
部室小屋の一番左。「野球部」と書かれた薄汚れた緑色の扉は、当時と何も変わっていない。
田向君が勢いよくその戸を開けると、中にはパイプ椅子に座ってうなだれている一人の男子がいた。
埃っぽくて薄暗い室内だったので、一層悲壮感が際立っていた。

田向「キャプテン……」

その声に反応し、”キャプテン”と呼ばれた彼はゆっくりと顔を上げこちらを見る。
表情は虚ろではあったが、すっきりとした顔立ちのイケメンだった。

キャプテン「ん……なんだ。タムか」
田向「なんだ、じゃないっすよ。もう部活も始まってるのに、着替えもしないで何してんすか」
キャプテン「んあ……まあ、何もしてないけど。ってか、お前も来るの遅かったじゃん」
田向「それは……俺も色々あるんすよ」
キャプテン「まあ、いいけどさ……」
225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/27(月) 03:54:37.46 ID:yRBFXDGmO
すごい。見入ってる。
226 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 03:55:48.05 ID:DNcSflKQo
キャプテンはぼんやりとしたその瞳で、俺のことも見た。

キャプテン「え……。んん?」

そう呟くと、目を細めてまじまじと俺を眺めた。
キャプテンの髪の毛はボサボサで、目の周りは少し腫れているようにも見えた。

男「あ、俺は……野球部のOBです。よろしく」
キャプテン「ああ……OBの方? はじめまして」

そしてキャプテンは「ん?」と幾ばくか考えたあと、再び俺を見た。

キャプテン「すんません。OBの方がなんの用で?」
男「今日はちょっと見学に来ただけで……いや」

言いかけて、やめた。
もう、さっさと”本題”を伝えてしまおうと思った。
227 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 03:56:55.29 ID:DNcSflKQo
男「君が、この野球部のキャプテンなんだろ?」
キャプテン「え? ああ、はい。そうですけど……」

男「凪に泥をかけたのは君だな?」

その言葉を受けて――キャプテンは勢いよく立ち上がった。
座っていたパイプ椅子が「ガシャン」と音を立てて倒れた。

キャプテン「な、なんすか? なんでそんなこと知ってるんですか?」

そして彼は田向君の方を見て……「タムか?」と言った。
田向君は黙ってゆっくりと頷く。

男「事情は大体田向君から聞いてる。凪のことも、君がやったことも」
キャプテン「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。凪って……そもそも貴方は誰なんですか?」
228 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 03:58:42.24 ID:DNcSflKQo
男「自己紹介が遅くなってごめん。俺は、凪の家の塾で働いてる、塾講師の男です」
周章狼狽するキャプテンに向かって、俺は丁寧に説明をする。

男「凪は俺の教え子で……学校のことやいじめのことも、全部教えてくれた」
男「凪が君に泥をかけられたってことも……本人から聞いたよ」

すると、キャプテンは「えええ……」と苦い顔をし、膝に手をついた。
無理もない。
突然現れた見ず知らずの男にこんな事を言われたら、どうしたらいいか分からないだろう。

キャプテン「じゃあ、なんすか? その報復? 俺を懲らしめに来た……とかですか?」
男「いや、違う」

キャプテン「じゃあ何の用で……?」
229 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:00:15.48 ID:DNcSflKQo
男「一緒に凪を助けに行こう」

そう言った時――少しだけ時が止まった気がした。

目の前にいたキャプテンは目を見開いて呆然とし、外からは吹奏楽部の気の抜けたチューバの音が聞こえた。
そして、「カキィン」という気持ちのいい金属音が響いた時――。
辛気臭い空気の部室内に、小窓からふわりとそよ風が舞い込んだ。

キャプテン「は? どういうことですか?」

俺は、隣にいた田向君の肩を叩く。

男「聞いたんだよ、田向君にね。君があの日やったことは――”本意”じゃなかったって」
キャプテン「え……。タム、その人にどこまで話した……?」

田向君は「全部です」とはっきりとした口調で、淡々と答えた。

キャプテンはため息まじりに「あー……」と漏らす。
230 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:03:34.10 ID:DNcSflKQo
男「君は、凪が学校に来なくなったことに罪悪感を覚えてるんだろ?」
男「他でもない、自分のせいなんじゃないかって、思ってるんだろ?」
男「……違うか?」

するとキャプテンは唇を噛み、眉間にシワを刻んで俺を睨みつけた。

キャプテン「だったらなんすか?」
キャプテン「俺はあの子を傷つけたんです。もう何も戻ってこない」

男「そんなことはない。まだ間に合うし、必ず凪は戻ってくる」

キャプテン「……何が言いたいんですか?」

男「だから、そのためには君の力が必要なんだよ」
男「君が少し勇気を出して謝れば、変えられるんだよ。――分かるだろ?」
231 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:04:41.04 ID:DNcSflKQo
キャプテン「分からねえよ!!」

今までローテンションで話していたキャプテンが、突然大声を上げた。
その豹変ぶりはなかなかのもので、
歯を食いしばり、敵意剥き出しで俺を睨んでいた。

キャプテン「もう何も戻ってきやしないし、何も変わらねえんすよ!」
キャプテン「大体、アンタなんなんだ? 突然現れて偉そうなこと言って……」
キャプテン「アンタ、何がしたいんだ?」

俺は深く息を吸い……彼の質問に答える。
その言葉には、一寸の迷いも、陰りもない。

男「凪を、助けたいんだよ」
232 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:09:14.46 ID:DNcSflKQo
キャプテン「は……?」

男「だから、凪を助けたいんだよ。そのためなら、俺はなんだってするつもりなんだ」
男「大恥かいても、誰かに罵倒されても、痛くても苦しくても……」
男「死んでもいい」

男「俺はな、そのくらい凪を助けたいんだよ。それだけだ」

俺の言葉を聞いて、キャプテンは「はっはは」と渇いた笑いをこぼす。

キャプテン「アンタ……ただの七瀬川の塾講師だろ? 何言ってんだ?」
キャプテン「それにアンタいくつだよ。女子中学生相手に、本気か?」

男「確かに俺は25で……凪は15だ。でも、そんなことはまったく関係ない」

男「俺は、凪に命を救われたんだから」
233 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:11:23.46 ID:DNcSflKQo
キャプテンは、首を傾げて俺に鋭い視線を向ける。
田向くんも、驚いた様子で俺を見ていた。

キャプテン「命を救われたァ……?」

男「そうだよ。俺は……自殺しようとしてたんだ」
男「根図橋で飛び降りようとしていた時……凪に止められて、助かった」
男「もし凪がいなければ、俺は今頃……死んでたろうな」

キャプテン「はぁ……?」
キャプテンは、口を開けたまま固まっている。
突然目の前で自殺未遂の告白なんかされたら、誰だってそうなるだろう。

男「言ってしまえば俺なんか、この世界で死を選ぶことしかできなかったクズだ」
男「だから、君らには何一つ偉そうなことは言えない。言うつもりもない」

男「でも、絶対に、凪だけは助けるんだ」
男「なんなら――今はそのために生きてると言ってもいい」
234 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:16:21.17 ID:DNcSflKQo
カキィン。
また一つ、校庭から大きな金属音。

キャプテン「……本気、なんすね」
男「……ああ、本気だよ。それに、キャプテン。君なら分かるはずだろ?」

男「凪を助けたい気持ちがさ」

キャプテン「そ、それは……」

男「君も、凪を助けたいその一心で、泥をかけたんだろ?」
男「たとえ自分が悪者になって、凪にずっと嫌われることになっても……」
男「すべてを捨てる覚悟のうえで――凪に泥をかけた」

男「……ちがうかい?」
235 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:17:49.18 ID:DNcSflKQo
キャプテンは下を向いて押し黙った。
彼の右手は、ぎゅっと真っ白な夏服ワイシャツを掴んでいる。

男「はっきり言って、とても苦しい選択だったと思う」
男「でも、君は勇気を出して凪を助けようとしたんだ」
男「だからこそ、その勇気を無駄にしちゃダメだ。今からでも、謝りに行けば間に合うかもしれない」

そう言った時だった――。
小窓から湿った風がふわりと入り込んだかと思うと、
サアアと音を立てて雨が降り始めた。

田向「うわあ、最悪っすね」

田向くんは戸口から外を見て呟く。

男「なにが?」
236 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:22:07.89 ID:DNcSflKQo
田向「この感じ、通り雨じゃないっすよ」
田向「そうなると、外練は終わりで……じきにこの部室にみんなも、先生も来ます」

男「は? マジ?」

部員のみんなが部活に集中している時ならいざ知らず、
一旦部室に全員戻ってくるとなると、流石にそれはまずい。
さらに、いずれ顧問の先生も来るとなると……いよいよごまかしは利かない。

もうここには長居できない。
なんとかしてキャプテンを連れ出さなくては。
237 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:22:50.28 ID:DNcSflKQo
男「なあキャプテン、聞いてたか?」
男「今すぐ、凪のところへ一緒に行こう」
男「そこで、今までの事を包み隠さず話して、謝るんだ」

キャプテン「…………」

男「それができるのは、君しかいないんだよ! 分かるだろ?」
男「俺にも、田向君にもできないんだ。なあ、頼むよ……」
男「君じゃなきゃ……ダメなんだ」
238 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:23:57.86 ID:DNcSflKQo
キャプテン「俺には……無理ですよ」
男「はあ? まだそんなこと言って……」

キャプテン「今更、七瀬川に合わせる顔がありません」
男「じゃあ、ずっと凪が塞ぎ込んだままでいいって言うのか?」
キャプテン「そういうワケじゃないですけど……」

部室の外が、段々と賑やかになってくる。
雨で外練の中断を余儀なくされた連中が、徐々に部室まわりに集まってきてるんだ。

キャプテン「俺が行って謝ったところで、七瀬川が戻ってくるなんて保証もないですし」
キャプテン「だから俺なんか、何もしない方が――」
男「あのなあ!!」
239 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:27:55.86 ID:DNcSflKQo
俺は思い切り怒鳴っていた。
もう残された時間がわずかで焦っていたのもあるし、
キャプテンの煮え切らない態度が気に食わなかったのもある。

そして何より――キャプテンの”独り善がり”な考えが許せなかった。

男「じゃあ、凪は誰のせいでこうなったと思ってる?」
男「どんな理由であれ、最後にお前が泥をかけたからだろ!」
男「それをなんだ? なんでお前がそんなにぐじぐじしてるんだ?」

男「ふざけんなよ。凪はな、もっともっと苦しんでんだよ!」

キャプテン「う……」
240 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:30:17.35 ID:DNcSflKQo
田向「まずいっすよ。もうすぐみんな戻ってきます」

後ろで外を見張っていた田向君が声をかけてきた。
タイムリミットか。

男「キャプテン。お前、凪が好きなんだろ?」
キャプテン「え、は? な、なんで……」

男「別に今はそんな事どうだっていい。なあ、好きなんだろ?」
キャプテン「そ、それは……」

男「好きなら。凪が好きなら! 今、ここはやるべき時なんだよ!」
男「……信じてるからな」

田向「男さん、行きましょう! もうまずいっす!」
241 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:33:41.87 ID:DNcSflKQo
田向君に促され、部室から出る。
去り際――最後に一つだけ付け足した。

男「このあと、万力公園の芝生広場で待ってるからな! 必ず来い!」

そしてそのまま、一目散に駆け出した。

部室の外にはすでにサッカー部や野球部の少年たちが大勢溜まっていた。
先生らしき人影も見えた。
その人だかりの間隙を縫うように、夢中で走り抜けていく。

田向「危なかったっすね。野球部の顧問も普通にいましたよ」
男「マジ? 本当に間一髪だったか」
田向「ですね。まあ今はとにかく走りましょう」

俺たちは雨の中――正門を目指してひた走った。
242 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:36:06.11 ID:DNcSflKQo
雨は止むどころか、次第に勢いを増していき――あっという間に土砂降りになっていた。
俺と田向君は、そんな強雨の中で思い切り自転車を漕いでいた。

田向「このあと、どうするんですか!?」

雨音にかき消されないよう、隣をゆく田向君が大声で訊いてくる。

男「凪の家に行く!」
田向「家? 行ってどうするんですか?」

すっかり水浸しになった小道を、バランスを崩さないように走っていく。
桃畑に挟まれた未舗装の農道は、油断すればたちまち車輪を持っていかれる。
決して転ぶことのないように、しっかりとハンドルを握りペダルを踏む。
243 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:40:42.65 ID:DNcSflKQo
男「凪を家から連れ出す!」
田向「連れ出す? そんなことできるんですか?」

男「キャッチボールだ!」
田向「え?」

男「田向君、グラブは持ってきてるか?」
田向「持ってますけど!」
男「上等だ。俺を信じて付いてきてくれ!」

田向君は一瞬訝しげな顔をしたが――すぐに頷き、「はい」とだけ言った。

あとは、キャプテンを信じるだけだ……。
彼ならきっと、来てくれる。
244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/27(月) 04:40:56.21 ID:mUqUIp1RO
ほんとに情景が映像になって浮かんでくる。
映画一本見てるみたいな気分、、
245 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:42:46.69 ID:DNcSflKQo
駅前の踏切を突っ切り、そのままあの根図橋を走り抜ける。
雨足は依然として激しいままだ。

すでに俺も田向君も全身びしょ濡れだった。

しかしそんなことは一切意に介さず、俺たちは自転車を漕ぎ続けた。
はやく、はやく。今すぐに、あの家へ――。

何がそこまで俺たちを駆り立てていたのだろう。
キャプテンの煮え切らない態度?
凪を助けたい一心?
自分にも何かできるかもしれないという……期待?

分からないけれど、きっと……その全部だったんだろう。
246 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:46:43.90 ID:DNcSflKQo
凪の家の前に辿り着くやいなや、俺はすぐにインターホンを鳴らしていた。
少しでも間ができると、余計なことを色々と考えてしまいそうな気がしたからだ。

田向君は神妙な面持ちで、すぐ後ろで見守っている。

婆ちゃん「はい」

インターホンに出たのは、凪のお婆ちゃんだった。
恐らくだが、陽子先生は塾で事務仕事をしているんだろう。

男「あの、男です。凪を呼んでもらいたいんですが」
婆ちゃん「あら、男くん。凪ねぇ……でも、あの子は……」

そうお婆ちゃんが言いかけた時、俺は咄嗟に口にしていた。
247 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:48:15.61 ID:DNcSflKQo
男「キャッチボールです」
婆ちゃん「え? ……なに?」
男「俺がキャッチボールしようって言ってるって。そう伝えてください」
婆ちゃん「……分かったよ。ちっと待っててね」

振り向くと、後ろで田向くんがぽかんとした表情で俺を見ていた。

田向「この土砂降りの中でキャッチボールなんて……そんなんで出てきてくれます?」
男「それは分からない。出てこなきゃ快晴の日でも出てこないだろうし、雨は大して関係ないさ」
田向「そうっすかねぇ……」

男「とにかく今は、バカみたいに信じるしかねえんだ」
248 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:51:17.91 ID:DNcSflKQo
すると、インターホンからあの声が聞こえた。

凪「……どうしたの」

まぎれもなく、凪であった。
窓際の風鈴のようにか細くて、それでいて澄んだ声。
もう、随分久しぶりに聞いたような、そんな気さえした。

男「凪! 久しぶり。すごく心配だったよ……」
凪「……ごめんね。今までずっと閉じこもってて……」
凪「男さんは何も悪くないのに、心配かけちゃったよね」

男「いいんだよそんなことは。こうやって話せて嬉しいよ、俺は」

今まで、こうして話すことすらできなかったので、
インターホン越しとはいえ、凪の声が聞けたことが本当に嬉しかった。
249 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:53:33.22 ID:DNcSflKQo
凪「でも、こんな雨の日にキャッチボールなんて……どういうこと?」
男「いきなりでびっくりするかもだけど、とても大事なことなんだ」
凪「だいじなこと……?」
男「ああ、そうなんだ」

目の前の真っ黒なインターホンに向かって、凪の顔を想像する。
今、どんな表情をしているだろうか。
やっぱり落ち込んで、俯いているんだろうか。
部屋でひとり、泣くこともあったんだろうか。
いつ戻れるかも分からない学校のことを思い、苦しんでいたんだろうか。

なら俺は、そのすべてを変えたい。
凪に笑ってほしいし、もう一度学校へ行って野球をしてほしい。

そう、だから――俺はここに来た。田向くんとキャプテンをけしかけて。
250 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 04:55:47.47 ID:DNcSflKQo
男「俺と一緒に、これから万力公園に行ってキャッチボールをしよう。……お願いだから」
凪「で、でも……」
「でも」と言う凪の声色は、決して明るいものではない。

凪「キャッチボールなら、また天気の良い日にしない?」

確かに。
こんな悪天のなかでわざわざキャッチボールなんてする必要は全くない。
普通ならば日を改めるべきだし、凪の言っていることはもっともだった。
でも、それじゃだめなんだよ。

男「でも……」
そう言いかけた時だった、後ろから田向くんがぐいっと俺の肩を引っ張った。
251 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 05:03:28.20 ID:DNcSflKQo
田向「七瀬川先輩、行きましょう!」

その声を聞き、インターホン越しの凪は「え!」と驚いたようだった。

田向「待っている人がいるんです。だから一緒に行きましょう」
凪「ちょ、ちょっと待って……誰? もしかして、田向……?」
田向「はい、そうです。田向です」
凪「うそでしょ……」

凪「なんでなんで? どうして男さんと田向が一緒にいるの?」
田向「それは……」
男「正直、話すと長くなるんだ。だからとにかく、今は一緒に来てほしい」

凪「でも……」
男「俺のこと……信じてほしいんだ」
252 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 05:39:52.17 ID:DNcSflKQo
しばらく凪からの返事はなかった。
雨がアスファルトを打ちつける音だけが、虚しく響く。
こんな突然の作戦、やっぱりダメだったか?

そう、諦めかけたときだった。

凪「わかったよ。男さんの言うことなら、信じる」
男「ほんとうに……?」

凪「本当だよ。だって、男さんを信じられなかったらさ」
凪「もうこの世界で、何も信じられなくなっちゃう気がするから」

男「凪……」

凪「それに、そこに田向もいるんでしょ。ただごとじゃないって、私にも分かるよ」
田向「先輩……」
253 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 05:56:01.10 ID:DNcSflKQo
また、凪に会える。
ずっと閉じこもっていた家の中から、出てきてくれる。
そう思うと、祭り囃子の太鼓みたいに、心臓が激しく波打った。

なんで?
その感情が一体どんなものなのか、自分でもよく分からなかった。

凪「それにしてもさぁ」
男「……ん?」
凪「こんな土砂降りの日にキャッチボールなんて、ほんとどうかしてる」
男「それは……ごめん」

凪「まあ、いいよ。濡れてもいい服に着替えたら行くからさ。待っててね」

そう言ったあと、ほんの少しだけ――「ふふ」と笑った声が聞こえた。
254 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 06:04:30.43 ID:DNcSflKQo
田向「先輩、本当に出てきてくれますかね……?」
雨に打たれ続け、額にいくつもの水滴を垂らしながら、田向くんが訊いてきた。
その表情には、いまだに不安が色濃く残っていた。

男「ああ言ってくれたんだし、必ず出てくるよ」
田向「でもこんな誘い、よく考えたらめちゃくちゃですよ」

俺は田向くんの肩をぽんと叩いた。

男「凪が言ったことを守る子だってこと、田向くんだって分かってるはずだろ?」
田向「それは……ハイ。間違いないっす」

男「なら待とう。あの子は出てくる」
255 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 06:17:15.46 ID:DNcSflKQo
しばらく雨に打たれながら待っていると、5分もしないうちに凪が出てきた。

凪「……ひさしぶり」

学校の体育着にパーカーを羽織った凪が、玄関先に立ち、はにかむ。

凪「ふたりとも、もうビショビショじゃん。なにやってんだか……」

なぜだか胸がいっぱいになり「お、おお」みたいな反応しかできない俺を尻目に、
田向くんが後ろから元気な声を出す。

田向「先輩! 久しぶりですッ!」

凪はわずかに微笑むと「久しぶりだね」と噛みしめるように言った。

凪「田向。ごめんね……心配かけたよね」
田向「いや、そんなこと全然ないっすよ……」

凪に向かって語りかける田向くんの瞳は、きらきらと光っているように見えた。
それは先輩への憧憬の念なのか、あるいは……。
256 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 06:19:35.54 ID:DNcSflKQo
男「凪、グラブは持った?」
凪「持った」
男「万力公園に行くよ。自転車はあるよね?」
凪「うん。裏から取ってくる」

凪はもはや、「どうして?」と訊くことはなかった。
俺と田向くんを信用して、これから「何か」があると分かりつつ――
付いてきてくれることを、決めたんだ。

少しだけ小雨になった空を見上げると、
相変わらず履き潰した上履きみたいな、淀んだ灰色をしていた。

凪は家の裏から自転車を引いて歩きながら「もうめっちゃ濡れちゃったよ」と笑っていた。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/27(月) 06:50:40.02 ID:mUqUIp1RO
これ、割とレベチのSSだよね
毎日更新してくれて本当にありがたい
青春っていいなぁ…
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/27(月) 07:10:18.38 ID:G0JHhHMEO
キャプテン、来るのか…?
259 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 21:35:35.94 ID:DNcSflKQo
俺が先陣を切って走り出し、雨水の溜まった農道を自転車で勢いよく滑っていく。

時折、桃の木の枝が視界を掠めていった。
通り過ぎる3ナンバーの乗用車は、凄まじい勢いで水しぶきを上げていく。

後ろに続く凪がどんな顔をしているかは分からなかった。
何度か振り返ろうかと思ったけれど、なぜだかそれが……できなかった。

気づくと視界の端に、「万力林」と呼ばれる雑木林が見えてきた。

凪の家から万力公園は決して遠くないが、
夢中で走っているうちにあっという間に着いた気がした。
260 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 21:38:03.63 ID:DNcSflKQo
万力公園は、かつて武田信玄が防水林として植えた赤松が発祥となっている――
という、由緒正しい公園である。

市が管理する大きな都市公園であり、いつもは学生や家族連れで賑わっているのだが、
今日はこんな天気ということもあってか、
入り口の売店にも、駐車場にも、まったく人はいなかった。

まるで世界の終わりのような公園内を走り抜けて芝生広場にたどり着くと、
その中心に”だれか”がいた。
しとしとと雨が降りしきり、すっかり水浸しになった誰もいない芝生の真ん中に、
ポツンと一人――あの少年が佇んでいた。
261 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 21:42:17.05 ID:DNcSflKQo
田向「あ!」
その人影に気付いた田向くんが、自転車を転がすように置き去りにして駆け出した。

男「ちょっと――」
田向くんを追おうとしたものの、すぐにやめた。
後ろにいた凪が、唇を噛んで辛そうな顔をしていたからだ。

凪も、あの少年が誰なのか……気付いたんだろう。

俺は優しく「大丈夫だよ。いこう」と声をかけた。

俺と凪は自転車を降り、田向くんと”彼”のもとへ――ゆっくりと近づいた。
262 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 21:46:20.59 ID:DNcSflKQo
キャプテン「……七瀬川」

雨のなかずっと立ち尽くしていたのか、濡れ鼠のようになった彼はぼそりと言った。
気のせいかもしれないが、その瞳は少しだけ赤らんでいるようにも見えた。

凪「どうしてここにいるの……?」
キャプテン「呼ばれたんだよ」
凪「え……?」

凪は困ったように俺の方を見る。

男「キャプテンを呼び出したのは俺と田向くんだ」
男「……キャッチボールをするためにね」
キャプテン「は? キャッチボール?」
263 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 21:55:12.56 ID:DNcSflKQo
男「キャプテン、グラブは持ってる?」
キャプテン「持ってきてないですよ」
男「ま、そうだと思った」

俺は田向君に向かってグラブを渡すようにジェスチャーする。
田向君は背負っていたエナメルバッグの中から黒いザナックスのグラブを取り出し、
そのままキャプテンに投げ渡した。

男「凪、グラブを出して」

そう伝えると凪は小さく頷き、バッグから鮮やかな赤茶色のグラブを取り出した。
凪はミズノのグラブなんだな……とかそんなことを考えていると、
目の前にいるキャプテンが大声を出した。

キャプテン「七瀬川、投げてこいよ!」
264 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 21:57:15.75 ID:DNcSflKQo
きっと、なにか吹っ切れたのだろう。
さっきの学校での姿とは打って変わり、やる気に満ちた彼を見て、少しだけ嬉しくなってしまう。

さあ、ここからは……手出し無用だ。
凪とキャプテンの大好きな――その”白球”にすべてを託すとしよう。
キャッチボールをしていれば、自ずと心は通い合うはずだ。

凪「…………」

凪はその場で、握った白球を見つめたまま動かなかった。
キャプテンが何度か「投げてこい!」と声をかけても反応しない。

田向君が「先輩、いいんですよ! 思い切り投げて!」と言うと、
凪は顔を上げてキャプテンを数秒見つめた。

そして軽くステップを踏み、キャプテンに向かってボールを投げた。
雨を切り一直線に伸びた球は、勢いよくキャプテンのグラブに収まった。
265 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 22:06:52.37 ID:DNcSflKQo
さすがだ。良い球を投げる。
そんなことを思っていると、キャプテンも負けじとこれまた良い球を投げ返した。

そしてしばらく無言で、ボールの往復が始まった。

キャッチボールを見ればどのくらいの技量か分かる……なんて言うことがあるけど、
この二人が普段からどれだけ野球を愛し、真摯に向き合ってきたかが伝わってくるようだった。

俺はふと、横で見ていた田向君に訊ねてみた。
男「凪もキャプテンも上手いね。キャプテンはどこを守ってるの?」
田向「キャプテンは、ショートですね」
男「なるほど……」

きっと彼は、技術的にも精神的にも、チームの柱なんだろうな。
266 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 22:13:24.72 ID:DNcSflKQo
二人が何度ボールのやり取りをした頃だろうか――
数回だった気もするし、数十回だった気もする。
ふと、キャプテンが口を開いた。

「七瀬川。俺、ずっと言いたかったことがあるんだ」
白球が、凪の胸元のグラブに収まる。

「……なあに?」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。

「その、なんというか……」
白球が、すこし逸れて凪のグラブに収まる。

「大丈夫だよ。ちゃんと聞くから」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。

「……泥かけて、ごめんな」
白球が、ワンバウンドして凪の後方へ抜けていった。
267 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 22:15:14.57 ID:DNcSflKQo
田向「俺、取りに行きます!」

すぐさま、田向くんがボールに向かって走っていった。
凪とキャプテンは、見つめ合ったまま固まっている。

キャプテン「ずっと伝えたくて、でも言えなくてさ……」
キャプテン「今更こんなこと言っても遅いかもしれないけど……」
キャプテン「ごめんなさい」

キャプテンはそう言うと、深々と頭を下げた。

凪「……どうして」
キャプテン「え……?」
凪「謝るなら、どうして私にあんなことしたの?」
キャプテン「そ、それは……」
268 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/27(月) 22:55:45.05 ID:DNcSflKQo
凪「分からないよ」
凪「そんな風に言われたって、私、全然分かんない……」

ずっと降り続けていた雨はいつの間にかやんでいたが、
空は相変わらず、重々しい鈍色のままであった。

ボールを拾い、戻ってきていた田向君が口を開く。

田向「先輩、それには理由があるんです」」
凪「理由……?」
田向「そうです。キャプテンは自分の意思じゃなくて……」

キャプテン「タム、いいよ。俺が自分で説明する」

言いかけた田向君を制し、キャプテンは意を決したように「うし」と言ったあと、
凪の方を真っ直ぐに見つめた。
269 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 00:29:56.92 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「俺があの日泥をかけたのは……広瀬と約束してたからだ」
凪「広瀬さんと……?」

キャプテン「七瀬川を野球部から追い出したら、いじめをすぐにやめるって言うから……」
キャプテン「俺は……いじめをやめさせるために」

凪「ちょっと待って! 全然分かんないよ。どういうことなの……?」

田向「広瀬はキャプテンに、七瀬川先輩を野球部から追い出したらいじめをやめると……持ちかけたんです」
凪「なにそれ? それで、私を辞めさせるために泥をかけたってこと?」
田向「そのとおりです」

凪は目を見開き、震える声で「うそでしょ……」と漏らした。
270 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 00:45:29.59 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「俺は、いじめられてる七瀬川を見てるのが本当につらかったんだ」
キャプテン「毎日毎日苦しそうで、なのに一人で戦ってて……」
キャプテン「どうにかしてやりたいって思ってた。でも何もできない自分がいて……」
キャプテン「それが、本当に嫌だった」

凪は表情を崩すことなく、口を真一文字に結んでキャプテンの言葉に耳を傾けている。

キャプテン「広瀬の言う通りにすれば、七瀬川を救えるかもって思ったら……」
キャプテン「俺、後先考えずにあんなことしちまってた」
キャプテン「それが七瀬川のためになるんだって信じ込んでた」

キャプテン「でもさ。俺、間違ってたんだよな」

次第に、凪の肩が小刻みに震え出した。
近寄ろうとしたが、田向君が黙って近づいたので、俺はそのまま見守ることにした。
271 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 00:47:51.44 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「七瀬川からしたら、野球を奪われることの方がずっとずっとつらかったんだよ」
キャプテン「俺、ずっとお前を救った気でいてさ……」
キャプテン「一週間以上学校に来なくなってから、やっと気付いんだよ」

キャプテン「俺は、取り返しのつかないことをしたんだって……」

キャプテンがそこまで言い終えると、しばらく沈黙が広がった。
どれくらいの沈黙だっただろう。
一瞬の気もしたし、永遠のような気もした。

とにかく、ぴたりと世界の空気が止まったかと思うと、それが勢いよく破裂したんだ。

凪「当たり前だろ!?」

これまでに一度も聞いたことのないような、凪の渾身の叫びであった。
俺だけじゃない、田向君もキャプテンも唖然とし、その場を動けなかった。
272 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 00:56:51.31 ID:rYOC6gBvo
凪「当たり前じゃん。そんなこと……」
凪「今まで一緒に頑張ってきた仲間だろ……? チームメイトだろ……?」
凪「ずっと一緒に、楽しく野球やってきたじゃんかぁ……」

ぼろぼろと大粒の涙を流し、凪は「ひっぐ」と嗚咽を漏らす。

凪「みんなで夏の大会に向けて、頑張っててさ」
凪「キャプテンはショート、田向はキャッチャー。誰ひとり欠けちゃいけない仲間でしょ?」

凪「私は……野球も、野球部のみんなも、大好きだったんだよ?」

凪「それがなくなったら――いじめより、もっとつらいよ……」

きっと答えなんて、最初からシンプルなものだったんだろう。
要は”それ”を見ようとするか否かというだけで、
キャプテンも田向くんも……最初から分かっていたのかもしれない。

それでも彼らを包んでいた暗雲はそれほどに分厚く――
一時の気の迷いであっても、”縋らずにはいられなかった”のだろう。
それこそ、それが”悪魔の囁き”であったとしても……。
273 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:00:37.74 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「七瀬川。俺は……お前と一緒に、また野球がやりたい」
キャプテン「野球部に……戻ってきてほしい」
凪「うう…………」

とめどなく溢れる涙を、少し大きなパーカーの裾で何度も拭う凪。
しかしそれでも追いつかず、一粒、二粒と、雫が落ちていく。

キャプテン「勝手なこと言ってるのは分かってる」
キャプテン「一方的に出てけって言っておいて、今更戻ってきてくれなんて、虫が良すぎる」
キャプテン「でもな、七瀬川。俺は……俺は………」

凪「なんだよぉ……?」

涙まみれの紅潮した顔で、凪はキャプテンをじっと見つめる。
274 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:03:44.10 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「お、俺は、お前を………」
キャプテン「お前を…………」

二の句は継がれない。
キャプテンは歯ぎしりし、苦しそうに呼吸を整えた。

その様子を見て、俺は――

『頑張れ』

自然と、そんなことを思っていた。
なぜだかは分からない。

この少年が、かつての自分と重なって見えたのか、あるいは――。
275 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:05:30.27 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「次に学校でいじめられたら、俺がお前を守ってやる」

凪「えぇ……?」

キャプテン「もう、何かに頼ったり、他人に任せたりしない」
キャプテン「もしまた七瀬川がいじめられたら、俺が絶対に……守ってやる」

キャプテンは、透き通るほど混じりけのない瞳で凪を見つめる。

そしてまた、しばらくの沈黙が訪れた。
広場を吹き抜ける湿った風が頬を撫で、むわっとした草の匂いが鼻腔をつく。

足元には、松葉色の芝生に混じって、シロツメクサの白い花が顔を出していた。
この中に四葉のクローバーは……あるんだろうか?
276 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:06:34.21 ID:rYOC6gBvo
凪「それ、ほんと……?」

凪はこぼれる涙を右手でぬぐいつつ、言った。
潤んだ瞳には、微かに光が宿っていた。

キャプテン「本当だよ。何があっても、どんな時でも……七瀬川の盾になる」
キャプテン「俺は……心に決めたんだ」

キャプテンがそう言った時だった。

凪「ぅううああ……」

凪はまた派手に泣き出し、座り込んでしまった。

これには俺も心配が勝ち、すぐに近づいて話しかけていた。
277 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:08:32.28 ID:rYOC6gBvo
男「凪、大丈夫……?」

そう問いかけると、凪は口元を押さえてこくりと頷いた。

凪「う、うれしいよぉ……」
凪「今までずっと心細かったから……すごくうれしいよぉ……」

キャプテン「七瀬川……」

凪「じゃあ私、戻ってもいいの? 学校に行っていいの?」
凪「もう一度みんなと……野球、していいの?」

すると、キャプテンは今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべて……。
「もちろんだ」と嬉しそうに言った。
278 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:14:14.85 ID:rYOC6gBvo
「わあああぁぁ………」
凪が、声を上げて大泣きする。
”喜びの慟哭”は辺り一面に響き渡り、湿っていた萌葱色の芝生を震わせた。

田向「先輩、俺も同じ気持ちです」
田向「俺も七瀬川先輩の味方ですし、戻ってきたらなんでも力になりますよ」
田向「また一緒に、みんなで野球……やりましょう」

凪「あ、ありがとう……」
凪「ありがとう―――!!」

そしてまた、「ああああ……」と泣きじゃくる凪。

濁っていた雨模様の空気が、一気にはじけて霧散していくような、
そんな晴れ晴れしい錯覚を覚えた。
279 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:22:59.59 ID:rYOC6gBvo
凪「私、また学校へ行く。……みんなと野球がしたい」
凪「だって私は……もう”ひとりじゃない”もんね?」

凪は顔を上げると、笑った。
塾の前に咲いていた、あの鮮やかな桃の花のように。
根図橋から見た、あの煌めく笛吹川の夕暮れのように。

この世界に落ちる影すべてを、一つ残さず消し去るほどの、眩しい笑顔だった。

俺は、そんな”馬鹿げた”想像をするほどに……。
凪のその笑顔が心と瞳に焼き付いて……離れなかったんだ。

たぶん、一生忘れることはないだろう。

凪……よかったね。
だから言ったろ?
君は必ず……また楽しく仕方ない”当たり前の日常”に戻れるってさ。
280 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:24:39.00 ID:rYOC6gBvo
ふと空を見上げると、分厚い雲の切れ目から一筋の光が差し込み、きらきらと光っていた。

「あ、晴れた」

俺がそうこぼすと、全員が同時に空を見上げた。
それがなんだかおかしくて、ついみんなで笑ってしまった。

凪の笑顔が太陽を連れてきた……。
そんなことを言ったら、笑われてしまうんだろうか?

いや、でも。
きっとそうだよね。
凪の未来は、あの雲の向こうに広がってる。

……そんな気がした。
281 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:28:11.31 ID:rYOC6gBvo
その日の夜、まだ授業開始までしばらく時間のある頃。
凪は久しぶりに塾へと顔を出した。

男「よく来たね」

少しだけ赤面し、恥ずかしそうに振る舞う凪を見て、胸が一杯になった。
凪の日常が、少しずつだけど戻り始めている。

陽子先生は入り口に立っていた凪を思い切り抱きしめると、
「えらい」とだけ言って、何度も凪の頭を撫でた。

凪「お母さん、ごめんね。私……ずっと……」
陽子「いいんだよ。私の方こそ、何もしてあげられなくてごめんね」

凪「んーん、ちがうの。本当は私も、もっともっとお母さんに色々言うべきだったの」
凪「ずっと一人で閉じこもって、心配かけて……」
凪「だから、ごめん……」
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 01:28:29.48 ID:cOVSjomCO
ぼろぼろ泣いてる
283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 01:35:08.43 ID:Z14JCHlcO
凪ちゃん…!
よかった…ほんとによかったよ…
284 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:36:59.56 ID:rYOC6gBvo
それだけ言うと、凪はまたぽろぽろと涙をこぼした。

本当に、君は泣き虫な子だよ。
俺と会ってから、一体何回泣いた?

そんなことを思いながら――二人のやり取りを眺めていた俺も、
いつの間にか泣いてしまっていた。

嬉しかった。
本当に、心の底から、ただただ嬉しかった。

俺は、この親子が幸せそうにしている姿が――きっと何よりも好きだった。
どうか、こんな時間がいつまでも続きますように。

俺は溢れた涙を隠すように右手で拭って――”凪専用”の数学のテキストを開いた。
285 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:43:17.29 ID:rYOC6gBvo
久々の授業は概ね問題なく、凪もブランクがあったとはいえ熱心に授業を聞いてくれた。

「遅れた分は、ちゃんと取り返すよ」
「野球もそうだけど、ビハインドからの巻き返しが一番燃えるからね」

凪は楽しげにそう語った。
今の状況をそんな風に捉えられるくらい、凪は前向きになれてきている。

良かった……と思う一方で、
凪は元来こういう子だったんだろうな、とも思った。
芯があって、したたかで真っ直ぐな子なんだ。

だからこそ、色んなものをずっと一人で抱えてきてしまった。
運命というのは……ときに残酷だ。
286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 01:45:04.81 ID:Z14JCHlcO
俺もキャプテンみたいな男になりてえな…
287 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:49:04.13 ID:rYOC6gBvo
塾舎で事務作業をしている陽子先生を残し、一足先に帰ろうとすると、
家の玄関先にいた凪に呼び止められた。

凪「ねえ、ちょっと時間ない……?」
男「どうしたの?」
凪「ちょっと、お話があって」
男「お話?」

凪は透明な傘を広げると、「歩きながら話そ?」と水を向けた。
頷いて承諾すると、俺たちは小さな歩幅で歩き出した。

真っ黒な空には、綺麗な三日月がぽっかりと浮かんでいた。
夕方のあの荒天が、まるで嘘のように思えた。
288 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:50:40.73 ID:rYOC6gBvo
凪は俺の引いている自転車を見て、「ごめんね、歩かせて」と言った。

男「いや、いいよ。大して変わらないし」
凪「……それでも」
男「大丈夫だよ。気にしないで」

凪はきまり悪そうに傘をくるくると回すと、しばらく押し黙った。
言いたいことがあるのに言い出せない、そんな気配を悟ったので、
こちらから助け舟を出してあげることにした。

男「それで、お話って?」
凪はこちらを見たかと思うと、「うーん……」とすぐに俯いてしまった。
289 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 01:52:46.41 ID:rYOC6gBvo
男「どうしたの? らしくないね」
男「大丈夫だよ。なんでも言ってみなよ」

凪「あのね……」
凪「今日はありがとう」

男「なんだ、そんなこと? 全然いいって」

そう答えると、凪は大げさにかぶりを振って「そんなことなんかじゃないよ!」と言った。

凪「だって、田向とキャプテンが来てくれたのは、男さんのおかげだよ?」
凪「そりゃ、あの二人にもいっぱいありがとうって気持ちはある。でもね……」
凪「私は一人じゃなかったんだって、こんなに味方がいるんだって気づかせてくれたのは」

凪「男さんが……いたからだよ」
290 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 02:01:00.83 ID:rYOC6gBvo
男「……そっか」
男「そんな風に思ってくれてるなら、俺もうれしいよ」

そう言うと、凪は満足したのか、嬉しそうににこりと笑ってくれた。

凪「男さんには、本当に何度ありがとうって言っても足りないくらい」
凪「……けど」
凪「最後にひとつだけ、わがまま聞いてほしい」

男「わがまま?」

凪「あのね……明日、一緒に部活に来てくれない?」
男「部活に? 俺が……?」
291 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 02:03:11.69 ID:rYOC6gBvo
凪「私ね。最初は部活だけ行こうと思うの」
凪「それで大丈夫そうだったら、学校の授業にも行こうと思ってて……」

男「いいと思うよ。無理なく馴らしていくのが一番だもんね」

凪「うん。それでね……やっぱり最初は怖いから。一人は嫌なの……」
男「それで、俺が……?」

凪「うん、男さんと一緒がいい」

凪はじっと俺のことを見つめた。
その吸い込まれそうなほど円かな瞳には、俺はどんな風に映っているのだろう?

ちょっと前まで、本気で死のうとしていた社会の出来損ないの俺が、
今この子の目には、どう見えているのだろう。
292 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 02:06:17.50 ID:rYOC6gBvo
そういえば前に、凪と約束をしていた。
あの星が落ちそうな夜、根図橋の上で、”二人だけ”の約束をした。

『今度部活に行く時は、俺も一緒に行く』

なら今こそ、その約束を果たす時だ。

男「分かった。それで凪が少しでも楽になるなら……どこへだって付いて行くよ」
凪「ほんと?」
男「ああ、もちろん。明日は塾も休みだし、それに……前にそう”約束”したじゃない」

凪「ふふ。そうだったねぇ――」

凪は笑った。
凪が笑うと、俺の心の中はたちまち美しい”花いかだ”でいっぱいになる。

今まで何にも感動せず、ただ世の中に対する失望だけを重ね、
もはや波打つことすらなかった俺の”心の水面”は、
凪という子が笑うだけで、鮮やかな花びらでいっぱいになってしまう。
293 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 02:11:19.34 ID:rYOC6gBvo
確信する。
俺はやっぱり、この子が笑っているのが好きだ。

そのためだったら、なんだってしよう。なんにだってなろう。
できることなら、この子から笑顔を奪うすべてのモノを……消し去りたい。

凪「先生には、私から説明するし」
凪「キャプテンと田向も話を合わせてくれるから、大丈夫だと思う」
男「そっか……それなら全然大丈夫そうだね」

凪「それに今日、田向と一緒に行ったんだもんね?」
男「うん、大体の部員には顔を見られたと思うし、なんなら俺、ノックくらいするぜ」
凪「あは。それはいいかもね!」

凪は楽しそうに笑う。
その無邪気な笑顔が……きっとたくさんの人に好かれてるんだ。

間違いない。君は素敵だよ。
294 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 02:14:39.36 ID:rYOC6gBvo
とにかく、明日は凪と一緒に”部活”だ。
凪が元気になり、こんな日が訪れて……本当に良かったと思う。

俺がずっと願っていたこと。
凪が元気になり、また元通りの楽しい生活を送っていくこと。

凪「わあ、明日楽しみだなぁ」

こんな風に、楽しそうに笑ってくれる凪が目の前にいることが、小さな奇跡のように思えた。

文字通り、”塗炭の苦しみ”を味わっていた凪が……
折れずにここまで戻ってきて、笑ってくれている。

あの日。
俺、死ななくて良かった。
だって、俺がいなくちゃ……俺がいなくちゃ。
凪は戻ってこれなかったかもしれない。
295 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 02:19:53.71 ID:rYOC6gBvo
次の日。
雲一つない快晴のなか、俺は凪と二人で学校に向かった。

凪は徒歩通学なので、家から一緒に歩いて行こうと思っていた。
しかし、凪が気を遣って「それは申し訳ない」と言うので、
南中の近くにあるローソンに集合した。

久しぶりに制服を着ている凪を見て俺は、
「よかった、泥は綺麗に落ちたんだね」
と間抜けな感想を漏らしてしまった。

凪は「もうすっかり真っ白だよ」と目を細め、「どう?」とくるりと回ってみせた。
純白のセーラーと濃紺のスカートがふわりと風に舞って、
六月末の西日が、レンズ越しのゴーストのようにキラキラと散っていった。

「綺麗だね」

そう言ってみたけど、それは一体どんな意味だったんだろうか。
296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 06:34:39.63 ID:d4+cypjgO
万力公園、笛吹川…
調べてみるとどこなのか大体わかる
いいところなんだろうね、行ってみたい
297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 18:17:59.15 ID:fQL138QRO
映像になって浮かび上がる文章に圧倒される
岩井俊二の映画を彷彿とさせるような光の表現と、少女への執着
少し歪んでそうで怖いのだが、不思議と惹きつけられる魅力がある
偶然こんなSSに出会えて嬉しい
298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 21:56:45.03 ID:g59zBXv1O
いい話だねこれ……
凪が本当にかわいい
299 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 22:51:34.09 ID:rYOC6gBvo
学校に着くと、授業が終わった直後なのか、やけに賑やかだった。

校庭と校舎に挟まれた前庭には、これから部活に行くであろう、
部活カバンを背負った運動部と思しき生徒が無数に往来している。

こんな晴天でビニール傘をさしている凪はやはり目立つのか、
通り過ぎる生徒たちはじろじろと凪に視線を向けた。

中には、「あれって七瀬川先輩じゃない?」「戻ってきたんだね」
と興奮した様子で会話をする生徒もいた。

田向君が言っていたように、やはり凪は校内でもよく知られている存在なのだろう。
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