千川ちひろ「竹芝物語」

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202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:30:17.60 ID:64qMODCb0
 ふと、彼がやってきてからの日々を思い出します。

 私の隣で、書類の作成に四苦八苦しつつ、アイドルの子達に柔らかな笑顔で対話をする情景。

 美嘉ちゃんに冷たい態度を取りながらも、資料室で隠しきれない敬愛を示したあの日。

 サマーフェスで見せた、担当アイドルへの愛おしそうな笑顔。

 菜々さん達の言葉を前に、不本意を抱いて苦しむ姿。


「私達の中心には、あの人がいて……振り回されながらも、気づけばずっと前に進んでいました。
 言うなれば、不思議な魔法にかけられたみたいに……ひょっとしたら、彼自身もかかっていたのかも知れません」
「魔法、ですか」

 そう。何かをせずにはいられなくなる魔法。

 私も、一概にそれのせいにする訳ではないですが――十分に、出過ぎた真似をしてしまいました。

 12月が終われば、魔法は解けて、私達は元の日々に戻ります。
 それはきっと、ある種の凪と呼べるような、平和で穏やかなものとなるのでしょう。

「自分が満足できていない事を知ることと、それを知らずにいることは……どちらが幸せなのでしょうか?」
「…………」

「彼女達がプロデューサーさんと走り続けていった先に、果たしてゴールはあるのか、それはどんなものなのか……。
 それがちょっとだけ、不安です」
203 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:32:23.26 ID:64qMODCb0
「……それを知りたいのかも」

「えっ?」


 美嘉ちゃんは、ムクリとベッドから起き上がりました。

「なんてね」

「美嘉ちゃん、起きていたんですか」
「今起きたトコ。
 ごめんね、心配かけちゃったみたいで、って……うわ、もう夜じゃん」

 すっかり暗くなった窓の外を見て、美嘉ちゃんが顔をしかめました。
 時間帯だけ見ればまだ夕方のはずなのですが、冬が深まってきた今日では、陽が落ちるのもあっという間です。


「城ヶ崎さん」

 CPさんが、岩のような姿勢をさらに正して彼女に向き直ります。

「医療スタッフは、3日ほどの静養をあなたに求めています。
 今後も同様の事態があれば、プロジェクトの正式な転属も視野に入れると、常務も仰っていました」
「……うん」

「諸星さん達も、皆、あなたのことを心配しています。
 どうか、これ以上のご無理はなさらないでください」


 しばらく黙ったのち、美嘉ちゃんは素直に頷きました。

「今回はアタシ、何も言えないね……本当、ごめん」
204 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:35:28.56 ID:64qMODCb0
「分かっていただけたなら、何よりです。
 極力、お身体を大事にされた方が良いでしょう。
 後ほど、タクシーを手配します」

 そうCPさんが提案すると、美嘉ちゃんは慌てて手を振りました。

「えっ!? い、いいよ大丈夫だって!
 アタシんち埼玉だよ? そんな大袈裟な……」

「美嘉ちゃん。自分の体調は、ちゃんと自覚しなきゃダメですよ?」

 見かねて私が釘を刺すと、美嘉ちゃんは「うっ……」と閉口しました。

 つい先ほど、レッスン中に気を失って倒れていた女の子の「大丈夫」なんて、当てにできません。
 第一、346プロが誇るカリスマギャルが、タクシー程度でビビってどうしますか。


 有無を言わさぬ圧で美嘉ちゃんの反論を封じ、黙って従ったのを確認すると、私はCPさんにデスクへ戻るよう提案しました。

「シンデレラのフェスに向けたご自分のお仕事が、まだ残っているでしょう?
 タクシーは私が手配しますから、CPさんは事務室へお戻りください」
「しかし、千川さんの方こそお忙しいのでは……?」
「この時期は、そうでもありません」

 CPさんは逡巡した後、その場を立ち上がり、頭を下げました。

「……では、お言葉に甘えます」
「CPさんも、どうかお身体にはお気をつけて。
 エナドリ、いります?」

「おかげさまで、間に合っております。それでは」
205 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:37:32.22 ID:64qMODCb0
 CPさんが出て行くと、二人きりの医務室は途端にお部屋が広くなりました。
 タクシーを呼びに席を立とうとすると、美嘉ちゃんに止められたので、まだ私は椅子に座ったままです。

「ちひろさんはさ、どう思ってる?」
「何をですか?」

「プロデューサーが、まだアタシ達と一緒に走り続けたいって、内心思っているかどうか」


「……走り続けたいんだと思いますよ」

 私の回答は、明確な確信ではなく、ある種の願望を少なからず含んだものでした。
 それでも、美嘉ちゃんに対しては、そのように答えるべきだとも。

「ただ……卑怯な言い方になりますけど、どうしようもない事情というものは、あります。
 大人だからと言って、魔法が使えるわけじゃなくて……出来ることと、出来ないことがあるんです」
「それは、分かってる」

 美嘉ちゃんは、とても冷静でした。
 小さく頷いて、お布団の上で握った手に視線を落とします。


「アタシもね……大人になんなきゃ、って。
 ウチ、莉嘉もいたし、そういうの普段からずっと思って、自分なりに気をつけてたつもり。
 だから……もう、分かってる」

「……美嘉ちゃん?」
206 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:39:28.39 ID:64qMODCb0
「アイドルって、遊びじゃないんだから……ワガママなんて、言ってられないんだってこと」

 鼻で小さく笑い、美嘉ちゃんは顔を上げました。


「アタシ、プロデューサーとはもう…」

「美嘉っ!!」


 ガチャッ!と突然扉が開き、中に入ってきたのはプロデューサーさんでした。

「はぁ……はぁ……!」
「プロデューサーさん……今日は、こっちへ戻らない予定だったんじゃ?」

「残務があったことに気づいて、引き返してきたんです。
 そしたらさっき、廊下でCPさんと会って……事情は聞きました」

 走ってきたのか、息が整うのも待たず、プロデューサーさんは美嘉ちゃんの元へと歩み寄ります。

「……プロデューサー」
「美嘉、一体どうして無茶をしたんだ。
 怪我はないか? 身体の具合とか、頭がボーッとしたりとかそういう…」
「ウザい」

「えっ?」
207 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:41:15.79 ID:64qMODCb0
 美嘉ちゃんの表情は、ひどく冷たい怒りに満ちているようでした。
 先ほどまで、私とお話をしていた時とは、まるで別人です。


「こっちの面倒見る気が無いとか言っときながら、何その言い草。
 実はお前のこと心配してたんだー、なんて恩着せがましいイイ人アピールとかマジキモいし腹立つ。
 何しに来てんの今さら?」

「美嘉……」

「大体さ、プロデューサー名乗っときながら担当アイドルの健康状態とかキチンと把握する気も無いわけ?
 それともアタシの自己責任? 散々アタシを追い込んでおきながら、いざって時は手の平返し。ハッ」

 大袈裟に鼻を鳴らし、これ見よがしに肩をすくめて、美嘉ちゃんは彼をなじり続けます。

「よくそんなんで今までやってこれたね。
 765プロのアイドルって、アンタみたいな人にもついてくるようなお人好しだったんだ? 皆?
 マジウケんだけど、おんなじノリをこっちでやられてもフツーに困るし、その結果がご覧の有様ってヤツ。あり得なくない?」
208 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:42:38.55 ID:64qMODCb0
「…………」
「み、美嘉ちゃん! そういう言い方は…!」

「いい加減にしてよ」

 美嘉ちゃんのプロデューサーさんに対する厳しい非難の目が、より一層強くなりました。


「散々アタシ達を引っかき回して混乱させて、好き放題して帰るんでしょ?
 アンタなんか災害だよ。災害。
 さっさと帰ればいいじゃん、アタシ達のことなんかほっといてさ。気遣ってますよアピールとかいらないしウザすぎ。
 もうこれ以上アタシ達に付きまとわないで。アンタなんか……!」

「…………」


「……アンタなんか、来なきゃ良かったのに!!」



「…………」

 プロデューサーさんは、終始無言でした。
 何も言い返すことなく、弁明も――同意も、謝罪もすることもありません。

 黙して、今にも涙がこぼれ落ちそうな彼女の瞳を見つめ、踵を返して部屋を出て行ってしまいました。

「ぷ、プロデューサーさん!」
209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:46:39.39 ID:64qMODCb0
 慌ててプロデューサーさんを追いかけます。
 逃げるように去って行ったものの、それほど急ぐ様子はなかったため、難なく彼の横に追いつくことができました。

 そう――早歩きでも大股歩きでもなく、極めて普通に歩いていました。
 まるでそのようにしようと、努めているかのように。

「プロデューサーさん!」

 あれは、美嘉ちゃんの本意なんかでは決してありません。
 あんなに誰かを責め立てる美嘉ちゃんは――。

「美嘉ちゃんは、本心であんな事を言ったわけでは……!」
「分かっています」


 プロデューサーさんは、前を向いたまま、その歩みを止めることはありませんでした。

「曲がりなりにも……彼女の担当プロデューサーでしたから」
210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:48:05.54 ID:64qMODCb0
「プロデューサーさん……」


「俺が望んだとおりの別れを、美嘉は受け入れました。
 これ以上深い付き合いにならないよう、袂を分かつことを。
 俺には、あの場で美嘉の真意を質す筋合いも、ましてそれを否定する道理もありません」


 気づくと、プロデューサーさんの背がどんどん遠くなっていました。
 私の足は、まるで根っこでも生えたかのようにピタリと床に吸い付き、前に踏み出すことができません。

 すぐに彼に追いついて、前に立ちはだかって、それを否定しなきゃいけないはずなのに――!


「気分が晴れました。
 これで何の未練もなく、765プロに戻ることができます。
 やはり……深入りなんて、するもんじゃない」
211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:49:36.53 ID:64qMODCb0
「プロデューサーさん……!」

 俺が望んだ通りの別れって、何ですか?
 絆を深め合ったはずのアイドルと、あんな喧嘩別れみたいな終わり方って、ありますか?

 悲しい思い出を作るために、わざわざあなたは346プロへ来たんですか――?


 聞きたいことが、次から次へ溢れ出てきます。
 しかし、それらはもう、彼には届かなくなっていく。

 あの人は、この物語を終わらせようとしています。
 自分が最後まで憎まれ役となったまま、それ以上のものを求めまいとしています。
 美嘉ちゃんは、そんな彼の意志を汲んだのです。


「…………美嘉ちゃん……!」

 妙な胸騒ぎがして、私は走り出しました。
 振り返り、元来た道を、医務室の方へ。

 当たってほしくない予感は当たりました。
 ベッドの上から、美嘉ちゃんがいなくなっていたのです。
212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:50:59.36 ID:64qMODCb0
 急いで辺りを探し回ります。
 こんな事なら、さっさとタクシーを呼んで彼女を押し込んでおけば良かった!

 ですが、外に出ると、幸いにして美嘉ちゃんの姿はすぐに見つかりました。

「美嘉ちゃんっ!」


 正門へ向かうメイン通路。
 既に葉っぱが落ちきった大きな桜の木の下を歩く、美嘉ちゃんの後ろ姿がピタリと歩みを止めました。

 急いで駆け寄ります。

 美嘉ちゃんは――普段の堂々とした姿がまるで嘘と思えるくらい、小動物のように背を丸めて俯いています。
213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:52:40.16 ID:64qMODCb0
「ちひろさん……」

 外灯に照らし出された美嘉ちゃんの笑顔は、まるで線香花火のような――。
 最後の空元気を振り絞るかのように見えました。

「これで、良かったんだよね……? アタシ……」


 美嘉ちゃんなりに、精一杯考え抜いて出した結論のはずです。
 プロデューサーさんや――おそらく、346プロの皆のことも考えて、彼女はあの別れを選択しました。

 だけど――。

「美嘉ちゃんは……それで良かったと、思えるんですか?」

 私にとって、今の美嘉ちゃんの姿は、とても見ていられたものではありませんでした。

「美嘉ちゃんには、もっと胸を張って、伸び伸びと自分の心に正直でいてほしいんです。
 大人の事情に配慮するのは、大人の仕事。
 美嘉ちゃんまで、そんな事に気を遣って……自分の心を、痛めてほしくないんです」


 莉嘉ちゃんのお姉ちゃんとして。事務所のアイドル達の先輩として。
 彼女はいつも、周りの人達に気を配ってきたことでしょう。

 必要以上の優しさが、彼女を苦しめるというのなら――私は、もっと美嘉ちゃんには、子供になってほしい。


「そんなの、ズルいよ……」
214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:54:38.13 ID:64qMODCb0
 美嘉ちゃんの口から、掠れたような声がポツリと漏れました。

「どうしようもない事情はある、出来ることと出来ないことがあるって……言ったじゃん」
「美嘉ちゃん…」
「どう足掻いても、ダメなんだって……だから、せめてあの人の望む通りに、しようって……!」

 美嘉ちゃんの瞳が、見る見るうちに潤んでいきます。
 それに比例するように、震い迷える声は明確な力を帯びていきます。

 それは、無念と怒りと、自分自身を取り巻く状況への怨嗟を無遠慮に吐き出すかのようでした。

「自分の思う通りに、したかったよ……当たり前じゃん、そんなの、でも……!
 お、大人に、ならなきゃって……諦めなきゃ、って、アタシ……!!」

「誰かのために、自分を犠牲にすることが……必ずしも、大人なわけじゃないんです、美嘉ちゃん。
 仮にそうだとしても、大人のために、美嘉ちゃんのような子が譲らなきゃいけない事の方が、間違っているんです」

「でも、そんなのワガママでしょっ!!
 あの場でアタシがいくら喚いたって、何も変わらない……何も、でき……う、あ……!!」
215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 15:57:36.75 ID:64qMODCb0
 美嘉ちゃんの瞳から溢れた涙が、地面にいくつも落ちました。
 堰を切ったそれは、滝のようにボロボロと流れ、止まる術を知りません。

「頑張って……もう、何をどう、頑張ったらいいか、分かんなくて……!
 それでも、いつか、頑張り続けたら、何かが、変わる、かなって!!
 でも、何も変わら……う、ぐ……!!」

「美嘉ちゃん……」

「いくらがんば、て……! 結局、自分を納得、させるだけで……う、ぅ……!!
 ただの、自己満足で……アタシ、なにも、できな、かっ、あ、あぁ……!!」


 美嘉ちゃんを抱きしめると、彼女の身体はあっけなく私の腕の中に収まりました。

 こんなに小さな肩に、この子は色んな想いを背負っていたのだと、気づかされます。


「あの人、ずっと、つらかった……!! アタシ、あんなヒドい事……!!
 人を傷つけるの、あんな、つらい事だっ、たんだ、て……しらな、ひっ、ぐ……う、うぅぅ!!」

「プロデューサーさんは……全部、分かっています。
 美嘉ちゃんの気持ちも、皆……美嘉ちゃんだけが、負い目を感じる必要なんて、無いんです」


「う、あ、あああああぁぁぁぁ……!!」
216 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:00:43.41 ID:64qMODCb0
 美嘉ちゃんは、私の服をギュッと掴んで、泣きました。
 今までずっと我慢してきたものを、全て吐き出すかのように、たくさん――。

 こんなに溜め込んでいたのは、彼女自身が優しくて、気ぃ遣いすぎるというのもあるでしょう。
 でも、だからといって、美嘉ちゃんがこんなにも悲しまなくてはならない理由にはなり得ません。

 彼女を苦しめたのは、プロデューサーさん、そして――私。

「ごめんなさい、美嘉ちゃん……」
「ひぃ、ぃ……ああぁぁぁ……!!」

 彼女が大人の選択を迫られる状況へと追い詰められてしまった原因は、私にあります。

「本当に……ごめんなさい」


 やりきれない想いの逃げ場を求めて、私は空を見上げました。

 分厚い雲に覆われているのか、すっかり夜になっているはずなのに、空には星明かり一つ見えません。

 電球が切れかかった頼りない外灯の下、私達の周りにはほとんど一寸先の行き場も見えない闇が広がるようでした。
217 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:01:42.41 ID:64qMODCb0
 ですが――美嘉ちゃんの泣く姿を見て、ようやく気がつきました。

 このままで終わっていいはずがありません。

 私達とプロデューサーさんの物語が、こんなにも辛く悲しい結末であってはなりません。


「美嘉ちゃん……何とかします」
「えっ……?」


 そして私の頭に、これを打開するための、一つの考えが思い浮かびました。

 あるいはそれは、魔が差したと言っても良いのかも知れません。


「絶対に、私が何とかします。待っていてください」
218 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:04:53.51 ID:64qMODCb0
   * * *

 その日、私は有給休暇を取得しました。

 どうせ毎年、掃いて捨てるほど余ってしまうものです。
 たまの一日くらい、こうして突発的に消化したところで、翌日以降に仕事が溜まってしまう以外、どうって事はありません。

 ただ、今日私が休暇を取ったのは、余暇のためではありませんでした。


 最寄り駅を降り、地図を確認しながら目的のビルへと徒歩で向かいます。

 昼間でも、吐く息がすっかり白くなるほどに、季節は移ろいました。
 手袋してくれば良かったなぁと悔やんでも、今は悴む手を代わりばんこに暖めるしかありません。


 やがて、目的地に近づくと、何やら騒がしい工事の音が聞こえます。

 どうやら、建物を新しく建設中のようです。
 外に立てかけられた看板を見て、合点がいきました。

 これが“劇場(シアター)”――。
 CPさんから聞いたお話よりも、かなり大掛かりなプロジェクトのようです。

 そして――。
219 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:07:58.78 ID:64qMODCb0
 建設作業現場の隣に立つ雑居ビルを見上げます。

 1階には「たるき亭」と書かれた看板。
 その上には――窓ガラスにガムテープで「765」の文字。

 エレベーターが見当たりません。
 脇にある狭い入口から、屋外階段を上ります。


 こんな所に、あの765プロが――。

 いえ、芸能分野に手広く事業を展開している346プロの方が、おそらくは異質なのでしょう。
 アイドル事業一筋の芸能事務所に出向くというのは、ふと思い返すと、私には記憶がありませんでした。


 3階まで上がると、唐突に扉が目の前に現れました。
 芸能プロダクション、765プロダクション――ここね。

「ひいぃぃっ!! ご、ゴキブリぃぃ!!」
「!?」
220 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:09:59.53 ID:64qMODCb0
 突如扉が開き、中から女の子が飛び出してきました。
 勢いよく階段を駆け下りるその子に向けて、お部屋の中から別の声が聞こえてきます。

「ゆ、雪歩ー!? 誤解さー、ゴキブリじゃないぞー!
 こらっ、ハム蔵! 雪歩をビックリさせちゃダメでしょ!」

 その声に、階段を駆け下りた少女は、踊り場からヒョコッと臆病そうに顔を覗かせます。

「ほ、ほんとに……? あれ?」
「もうっ、雪歩も雪歩だぞ。そそっかしいったら……お?」


「あ、あの……346プロの、千川と申します」

 先ほど飛び出してきた子は、萩原雪歩さん。
 そして、その子を追って出てきたのは、我那覇響さん。

 完全に出鼻を挫かれた形で、いささか据わりが良くないですが、気を取り直して。
「音無さんと、お約束をさせていただいていたのですが……」

「お、お客さんですか!?
 す、すみません、私……まともな応対もできないこんなダメダメな私なんて!!」
「わーっ!! 雪歩、こんな所で穴掘っちゃダメさー! 掘るならせめて隣の工事現場ぁー!」


「あらあら〜。小鳥さんのお客さんがいらしたんですね〜」
221 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:11:46.34 ID:64qMODCb0
 踊り場で大騒ぎする二人を尻目に、別の女の人がのんびりとした様子で中から現れました。

 この人は、音無さんではなく、アイドルの――。

「三浦あずささん、ですね」
「あ、あら〜。ご存知なんですか〜?」
「もちろん、存じ上げています。
 お忙しいところへお邪魔してしまい、すみません」

 頭を下げる私に、三浦あずささんは優しく穏やかに応えます。

「いーえー。
 ただ、ごめんなさい、小鳥さん、ちょっと今出ていまして〜。
 もう少ししたら戻ると思うんですけど、う〜ん」
「そうでしたか。こちらこそ、早めに来てしまいましたので」

「よろしかったら、どうぞ中でごゆっくりお待ちになってください」
222 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:13:48.28 ID:64qMODCb0
 中に入ると、右奥に事務員さん用と思われるデスク群。
 左奥にパーテーションで仕切られ、ソファーの置かれたスペースがあり、そこに通されました。
 どうやら、ここが応接スペースのようです。


「あの、すみません、これを……つまらないものですが」

 手土産を三浦あずささんに差し出すと、彼女は途端に目を輝かせました。

「あら〜! これ、知ってます。お高かったでしょう?」
「いえ、そんな、それほどのことでは…」

「このゴージャスセレブプリン、伊織ちゃんがたまに買ってきてくれて、その度に皆大喜びなんですよ〜。
 全然つまらないものなんかじゃありません。ありがとうございます〜、嬉しいわ〜」

 私も、こういうのは自分では買いません。
 ただ、いつぞやの新人プロデューサーさんではないですが――やはり、他社さん相手には、見栄を張りたくなるものです。

「あ、すみません、伊織ちゃんというのは…」
「いえ、存じています。竜宮小町のリーダーさん、ですよね?」
「そうなんですよ〜、本当にしっかり屋さんで、とっても頼りになるんです〜」
223 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:15:42.87 ID:64qMODCb0
 素直に、とてもアットホームな事務所だなと思いました。
 応接スペースのすぐそば、向こうのテレビ台の前で、さっそく私の手土産でお茶会が開かれているのが見えます。

「ねーねー、あずさお姉ちゃんもこっち来て一緒に食べようYO→!」
「あーっ! 真美、そっちはお客さん来てるんだから邪魔しちゃダメかなーって」

「あらあら、ありがとう真美ちゃん、やよいちゃん。
 よろしかったら、千川さんもご一緒にいかがですか?」
「えっ? い、いやいや、私がお持ちしたものですから…!」
「いいんですよぉ、こういうのは皆で食べた方が美味しいですし、私達だけだと食べすぎちゃいますもの、ねっ?」

 萩原雪歩ちゃんが淹れてくれたというお茶も一緒に、なし崩し的に私にも一つ手渡されました。
 恐縮しながら、一口――。

「……! うわ、おいしっ」
「ほら〜、言ったでしょう? とっても美味しいんですよ〜」

 そう言いながら、三浦あずささんは既に半分以上進んでいるようでした。
 平時はおっとりとしていながらこのスピード――どうやら本当にお好きなもののようです。
224 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:17:57.93 ID:64qMODCb0
 ふと、パーテーションの奥に見えるホワイトボードに目をやります。
 当月分のメンバーの予定を示すそれは、ビッシリと真っ黒に埋まっていました。


「今日はプロデューサーさん、こちらには来られないみたいですね〜」

 不意に向けられた三浦あずささんの言葉に、私はドキリとしました。
 いつの間にか、そのホワイトボードを凝視しすぎていたのもありますが――。
 まるで、私の考えを見通したかのようです。

「す、すみません。ちょっと」
「お元気にしていますでしょうか、プロデューサーさん」

「は、はい」

 プリンをテーブルの上に置き、姿勢を正します。


「あの人の判断は、いつも的確です。
 それに、誰に対しても穏やかに柔らかく接してくれるので、アイドルの子達も皆、彼のことを信頼しています」

 シンデレラプロジェクトのサブでいた時の、プロデューサーさんの事を思い出しながら、話します。
225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:20:13.64 ID:64qMODCb0
 あの頃は、とても平和でした。
 皆が笑っていて、誰も苦しんだり、悲しんだりしなくて――。

 それこそ、彼が求めていたもの。
 深い付き合いをせず、ただ和やかな雰囲気を醸成する事にのみ心血を注いで、空気のように彼は去るはずだった。

 歯車が狂ったきっかけは、もう分かりきっているんです。


「彼のおかげで……皆、アイドルとして大きな成長を遂げました。
 とても大人で、頼りがいがあって……すごく、冷静な視野で物事を見定めて、私も助けられています」


「あら〜、そうだったんですか〜」

「えっ?」

 あまりネガティブな事は言わないよう、なるべく言葉を選んだつもりです。
 でも、目の前の765プロアイドルさんから返ってきたのは、意外な反応でした。

「346プロさんでのプロデューサーさんは、大人で冷静だったんですね〜」

「えっ、その……それは、どういう?」
「あ、あらあら、ごめんなさい。
 えぇと、プロデューサーさんが、大人で冷静じゃないっていうんじゃないんです」
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:25:27.45 ID:64qMODCb0
 三浦あずささんは、手をパタパタと顔の前で振った後、空になったプリンをテーブルに置いて、フフッと笑いました。

「プロデューサーさん、良い人なのですけれど、ちょっとだけ、おっちょこちょいな所があるんです。
 根拠のない精神論を言って、律子さんから注意されたり、たまに変な事をして、伊織ちゃん達から怒られたり」
「た、たまに変な事、というのは?」
「うーん、伊織ちゃんがお着替え中に、更衣室のドアを開けちゃったり、美希ちゃんと温泉に入りそうになったり、ですね〜」
「は、はぁ……」


 彼女の口から聞かされたのは、プロデューサーさんの意外な一面でした。
 私の中では、実務面でとても優秀で、必要に応じ冷徹になれる人という印象でしたが、ここでは人情味に溢れる人だったようです。

 つまり、346プロにいる間は、良くない言い方をすれば、お行儀良くしていた――自分を隠していた事がうかがえます。
 派遣先で失礼が無いよう、気を張っていたのかも知れません。

「でも、ふふ……そういう、とても一生懸命な所に、皆が惹かれるんだなぁって思うんです」

 遠い目をしてそう言うと、三浦あずささんはお茶を取りました。
 その穏やかな微笑みには、彼に対する強い信頼が根底にあるのだと分かりました。


「プロデューサーさんが戻ること……765プロの皆さんは、心待ちにされていますか?」

 言った後で、これは聞くべきではないと後悔しました。
 下手な気を遣わせてしまう。何より、聞いたところで詮無いことです。
227 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:27:14.80 ID:64qMODCb0
「う〜ん、そうねぇ……」

 頬に手を当て、三浦あずささんは少し物思いに耽るような表情になりました。
 その表情は、目の前の私のために言葉を選んでいるのとは、少し違う気がします。

「もちろん、楽しみですし、皆……特に、美希ちゃんなんかは、とっても待ち遠しかったと思います。
 でも……ちょっとだけ、心配です」
「心配?」

「プロデューサーさんに、思い残しが無いかどうか、です」

 その言葉に、私の胸の奥がズキリと高鳴りました。

「プロデューサーさん、346プロさんに行かれる前は、アメリカに行っていたんです」
「え、えぇ、存じています。ちなみに、どんなご事情で?」
「研修、って仰っていたかしら……でも」

 湯呑みを手の中で揉むように回しながら、彼女は少しだけ首を捻ります。

「私も、詳しくお聞きしていないのですが……アメリカから帰ってきたプロデューサーさんは、どこか悲しそうでした。
 もしかしたら、あっちで辛い経験があったのかも知れないって、皆勘づいていました。
 誰も追求しませんでしたけれど、アメリカでの出来事を、あの人はあまり自分から話さなくて……その表情を見て、そう直感したんです」
228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:30:09.68 ID:64qMODCb0
「そう、だったんですか……」

 美城常務の推察は、どうやら正しかったようです。
 あの人は、アメリカで受けた心の傷を癒やすため――かどうかは分かりませんが――何かしらの理由で346プロへ来た。
 でも、それは一体――。

 と、その時、事務所の入口の扉が開く音が聞こえました。


「ふぅ〜〜寒い寒い。
 ほんと工事現場の人って鉄人ねぇ、尊敬しちゃう……あっ」


 背を丸め、手を揉みながら、カチューシャを着けた女性と目が合いました。
 口元にほくろがあって、コートの下に緑色の制服を着た――たぶんこの人が、この765プロの事務員さん。

「あら〜、お帰りなさい小鳥さん」
「あっ、み、346プロさんっ!?」

 途端、小鳥さんと呼ばれた女性は、ガバッ!と勢いよく私に向けて頭を下げました。

「す、すみませんっ!!
 ちょっと隣のシアターの建設現場でのお打ち合わせが長引いてしまって、お待たせを……!」
「いえ、そんな、お気になさらないで…」
229 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:32:52.92 ID:64qMODCb0
 平身低頭して謝り倒す彼女の隣で、サイドテールを下げた愛らしい女の子が、パーテーションの上からヒョコッと顔を覗かせました。

「ヘイヘーイ、ピヨちゃん、工事現場のおっちゃん達は今日もムキムキだった?」
「えぇそりゃあもう、あんな逞しい腕、滲み出る汗。
 そうして日がな繰り広げられる男と男の共同作業、肌と肌とのぶつかり合い、妄想が捗……ぴよっ!?」

 ちょっかいを出してきた双海真美ちゃんは、にししっと意地悪そうに笑っています。

「んっふっふ〜、ピヨちゃんは今日もへーじょー運転ですな→」
「ま、真美ちゃん〜〜っ!!」

 タタタッと走り去る彼女を見つめ、ため息を一つつくと、音無小鳥さんは私達に向き直りました。

「ごめんなさい、お客様を前にお見苦しい所を……あずささん、ありがとうございます」
「いーえー。私は、外した方がよろしいでしょうか?」
「うーん、そうですね……すみませんけど、たぶん」
「分かりました」

 三浦あずささんは、素直に応じると席を立ち、私にニコリと笑いかけました。

「ちょっと落ち着きが無いかも知れませんけれど、皆良い子達なんです。
 どうか、自分の家だと思って、おくつろぎになってくださいね」
「は、はい。ありがとうございます」


 応接スペースを離れた三浦あずささんは、そのまま他の子達のお茶会に合流していきました。
 彼女の周りを、高槻やよいちゃん等、年少組の子達が楽しそうに囲んでいるのが見えます。

 とても包容力があって、でも、時折芯に迫る事を踏み込む――不思議な魅力を持った人。
230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:36:02.20 ID:64qMODCb0
「改めまして」

 オホン、っと咳払いをして、目の前に座る音無さんが姿勢を正しました。

「ようこそ765プロへお越しくださいました。
 当事務所の事務員をしております、音無小鳥と言います」
「346プロの、千川ちひろと申します。
 今日は、お時間をいただいてありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」

 音無さんは私の方へ向けて、一つの書類をテーブルの上に置きました。

「今日は、契約書を今一度ご確認されたいと」
「えぇ。すみません、本来であれば私共の方で確認すべきことなのですが……」
「いえいえ、お安いご用です。
 346プロさんくらい大きな会社ともなると、色々難しいこともあるんだろうなぁって思いますし」
「恐縮です」

 改めて一礼し、私は書類に手を伸ばしました。


 それは、プロデューサーさんの派遣交流について、765プロと346プロとの間で交わされた契約書でした。
 お給金は――あぁ、やはり765プロさんから支出する約束になっていたんですね。
 なるほど、どうりで――そして。

 確かに、これは346プロの社判――私自身、毎日毎日何度も取り扱っているものでした。
 間違いなく、我が社の印鑑登録証明のそれと同じ印影です。

 今さら疑っていた訳ではありませんが――本当に、そうだったんだ。
231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:37:53.06 ID:64qMODCb0
「この契約書のとおり、当初は4月1日から9月末までの、6ヶ月間の予定でした。
 ただ、私達の社長がプロデューサーに打診をして、346プロさんにも直接掛け合い、3ヶ月間の延長をしたんです」

 説明をしながら、音無さんは別の一枚紙を私に提示しました。
 変更契約書と題されたそれは、当初契約における派遣期間の条項を変更する旨が示されています。
 状況的に考えれば、後付けで作成されたものなのでしょう。


「単刀直入にお聞きします」

 書類を置き、私は今一度、音無さんを真っ直ぐに見つめました。

「この契約書が交わされた背景というのは、一体どのようなものだったのでしょうか?」

「つまり、弊社のプロデューサーが、346プロさんに派遣されることになった経緯、ということですね」
「そうです」
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:41:14.94 ID:64qMODCb0
 今日、私が765プロに来た目的の一つは、プロデューサーさんが346プロにやってきた事の裏付けを知ることでした。

 そのために、まずは両社の間で交わされた文書を確認すること。
 これは、先述の通り346プロの中で確認すべきことでしたが、これの管理をしているであろう美城常務が取り合ってくれませんでした。
 他社とのデリケートな密約を、不用意に末端まで共有すべきでないという意図があったのかも知れません。

 そのため、不本意ながら、やむなく765プロ側に協力を求めることになった次第です。
 予め、駄目元でお願いしたものですが、アッサリと聞き入れてもらえた辺り、融通の利くありがたいお相手だと思います。


 そして、その密約がどのような経緯で交わされたのかを知ること。

 なぜ、プロデューサーさんが346プロに来なければならなかったのか。
 346プロのアイドル達と深い関係になることを避けたいのなら、最初からそんな選択肢などあり得なかったはずです。


「お問い合わせいただいてから、私も社長の高木から、大まかな事情を聞いてきたところです」

 大まかな?
 私が知りたいのは詳細です。曖昧なお話は、もうコリゴリなんです。

 図々しく乗り込んでおきながら、なおも手前勝手でいる私の意図を斟酌してくださったのか、音無さんは少し恐縮そうに続けます。

「直接の経緯としては、高木の方からの提案だったようです」
「高木社長から、プロデューサーさんに?」
「はい」
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:45:04.07 ID:64qMODCb0
 いつも思わせぶりな事しか言わないんです、と、頬を掻きながら音無さんは「アハハ」と誘い笑いをしました。
 その調和を取り持つような、彼女の朗らかな雰囲気が、シンデレラプロジェクトの皆と話していた時の彼に重なります。

 なるほど――あの人はやはり、この事務所のプロデューサーなのだなと、改めて思い知らされます。

「プロデューサーさん、346プロに来られる前は、アメリカに行ってらしたと。
 それで、おそらくは……何か、心に傷を負うような出来事があったのではと、推察しています」
「……そこまで、ご存知なんですね」

 途端、柔らかな笑顔がフッと消え、彼女は寂しそうな表情になりました。

「私も、直接は聞いていません。
 社長室で、ちょっとだけ聞こえてきたお話から察するに……。
 お仕事、失敗して、現地で一緒にお仕事をしていた子を、傷つけちゃったみたいです」

「現地で一緒に? ……その子も、アイドルを?」
「それは、分かりません。
 ただ……お互い、積極的に交流をしていて、プライベートでも仲良しだったみたいですね」

 日本人と欧米人の積極性の違いは、今日でもよく知られた通りです。
 強い否定を苦手とするあの人だと、現地仕込みのアクティブな子には流されてしまうのでしょう。

 美嘉ちゃんとの初対面の時、グイッと手を引く彼女にタジタジになっていたのを、ふと思い出しました。

「その子に深入りをすることが、結局は……プロデューサー曰くですが、良くなかったと。
 結果を出すことができず、なまじ深い付き合いとなった分、別れの時に必要以上に傷つける事になったと、ずっと悔やんでいたみたいです」
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:48:49.12 ID:64qMODCb0
「……深入りが、悪だと?」
「はい……それで、社長が」

 ううん、と咳払いをして、音無さんは顔を上げました。


「高木がプロデューサーを、叱責する声が聞こえました。
 キミの考えが真実かどうか、確かめさせてあげよう、って……。
 プロデューサーとして、それを見出せないのは、キミの罪だと」


「罪……」

 常務が言っていた事でもありました。

 あの人はアメリカでの一件で、プロデューサーとしてのアイドルへの向き合い方に疑問を持った。
 それを、765プロの高木社長は、正そうとした――?


「最初は、961プロに派遣しようとしたみたいです」

 音無さんの表情に、ほんの少し柔らかさが戻りました。

 961プロと言えば、社長の黒井祟男氏がかなりの強硬派で知られる、業界内でも有名な芸能プロダクションです。
 昔ほど悪い噂は聞かなくなりましたが、他社への挑発的かつ攻撃的な社風は変わらず、我が事務所も警戒している事務所でした。

 そんな事務所の話をする時に、なぜ音無さんは、ちょっと嬉しそうに――?

「案の定、断られちゃいました。
 黒井社長が直々に怒鳴り込んできて、お前達のような弱小事務所の願いなど誰が聞き入れてやるものかー、って。ふふっ♪」
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:51:25.91 ID:64qMODCb0
「しゃ、社長自ら、ですか!?」
「黒井社長、ウチの社長と仲良しなんです。
 だから、黒井にしか頼めない事なんだよぉって、高木も頭を下げていたんですけどね」

 噂に聞いた以上に、アグレッシブな社長のようです。
 ですが、音無さんはなおも楽しそうでした。

「散々この応接スペースで怒った後、黒井社長がこう仰ったんです。
 そんなに言うなら、貴様のお荷物プロデューサーなど、我が最大の驚異となりうる事務所へ押しつけてやる、って」

「……その事務所って」
「はい、346プロダクションさんです。
 つまり、両社の契約に当たっては、黒井社長も一枚噛んだみたいです。
 美城会長とはお互いに旧知の仲だそうですし、高木も、黒井のおかげでスムーズに事が進んだ、って喜んでいました」


 な、なるほど――。

 言い方は良くないですが、他社のプロデューサーという混乱の種を、誰がなぜ弊社に寄こしたのか、理解しました。

 黒井社長は、傷心したあの人をこの346プロに押しつけることで、何かしらネガティブな事象が起きる事を期待したのでしょう。
 その隙を突いて、961プロが出し抜く事をも考えていたとするなら、合点がいきます。

 一方で、黒井社長が善意で橋渡しをしてくれたと思い込んでいる辺り、高木社長はだいぶお人好しな方のようです。

「ただ」
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:54:26.19 ID:64qMODCb0
 何かを思い出したように、音無さんは急に押し黙り、視線を落としました。

「お、音無さん……?」


「最近、こちらにも時々顔を出してくれますが……。
 プロデューサーさんは、あの時よりも辛そうに見えます……」


「…………」

 順調にやっている、と――。
 聞かれたら、当たり障りの無い事を答えるつもりでしたが、どうやら見透かされていました。

 当たり前です。
 765プロの人達の方が、ずっと彼との付き合いが長いのですから。


「高木はプロデューサーの、アイドルに対する向き合い方を改めてほしくて、346プロさんへ派遣しました。
 ウチとは違い、人材が潤沢で会社としての歴史も長く、体制も組織的に構築された大きな事務所での、プロデュースの仕方を学ぶ事で、自分を見つめ直すことを。
 でも……プロデューサーさんは、見つめ直すどころか、ますます自身の考えを深めてしまったように思えるんです。
 やはり、アイドルに深入りなんてするものではないと……先日も、ふと漏らしていたのを、聞いてしまいました」

「……えぇ」


  ――やはり……深入りなんて、するもんじゃない。
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:56:07.73 ID:64qMODCb0
「……千川さん」

 音無さんは、悲痛な面持ちで私を見つめました。
 まるで私に助けを求めるかのように。

「私達の考えは、間違っていたのでしょうか?
 彼の姿を見るに、きっと346プロさんのアイドルさん達も、辛い思いをされたのではと……。
 私達が交流を結ぶことは、私達にとって、悪いことにしかならないって、そう結論づけるしかないのでしょうか?」


「……その件で、私からもお願いしたいことがあるんです」
「えっ?」


 私が今日、765プロに来た目的は、もう一つあります。

 それは、先ほどまでのお話を踏まえ、ここからが本題と言っても良いものでした。

「ひょっとして、さらに派遣期間を延長してほしい……とか?」
「まさか。弊社も、この期に及んでそんな事を言うつもりはありません」
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 16:59:23.32 ID:64qMODCb0
 今日の私の行いは、事務員としての業務の範疇を完全に越境しています。
 出張の用務としてバカ正直に申告しては、いくらウチの課長だって通してもらえるとは思えません。

 だから、私は今日、有給を取りました。
 上長に秘密裏に事を進めるために――。
 プロデューサーさんや美嘉ちゃん達への、救いを見出すために。

 私が招いた悲しみの結末を、変えるために。

 唾を飲み込み、咳払いを一つします。
 聞き入れてもらえるかどうかは出たとこ勝負。緊張で心臓が爆発しそうです。

 ですが、ここまで来て引き下がれません。



「765プロさんに、ぜひ、弊社のミニライブへのご協力をお願いしたいんです」

「ミニライブの協力、ですか……?」


「具体的には、楽曲の提供とダンス指導……あるいは、共演」

「は、はぁ……」
239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:02:09.86 ID:64qMODCb0
 怒られるかな、と内心恐る恐る申し上げたのですが、当の相手方はポカンとしています。

 そう言えば、相手は事務員さんなのです。
 おそらく、それを良しと判断できる立場ではないし、もっと詳しい方が別にいるのでしょう。

 例えば、彼とは違う、別の――。

「ただいまなのー!」


「こぉらー美希! 帰ったらまず手洗いとうがいをしなさいっていつも言ってるでしょ!」

 玄関から、またも賑やかな声が聞こえました。
 765プロの誰かが、帰ってきたようです。

「お帰り亜美ー! あっ、いおりんもしやその手に持っているのは……!」
「にひひっ♪ またあんた達に買ってきてあげたわよ、ゴージャスセレブプリン」
「うぎゃー! やっぱりだー、プリンが被っちゃったぞー!」
「え、えぇっ!?」
「うあうあー! 何で亜美達が帰るまえにゴージャスセレブプリンがあるのさー!?」


「ったく、いつもいつも落ち着きがないんだから……小鳥さん、お疲れ様で…?」

 コートを脱ぎながら、眼鏡をかけた黒スーツ姿の女性が応接スペースにやってきました。
 彼女は、プロデューサーさんとは別のプロデューサー。

「お世話になっております。346プロダクションの千川ちひろと申します。
 竜宮小町の担当プロデューサーの、秋月律子さんですね?」
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:05:51.14 ID:64qMODCb0
「えっ? あ、は、はいっ。
 そっか、今日お見えになるんでしたよね。すみません騒々しくって」

「346プロ!?」


 パーテーションがガタッと揺れ、一人の女の子が顔を出しました。

「ミカの事務所の人!?」

「ほ、星井美希ちゃん……!」
「うん、ミキだよっ。
 ねぇねぇ、346プロの人なの? ミカってどんな子? 普段もキラキラしてる?」
「こ、こら美希っ。大事な話の最中……!」

 眩いのは、彼女が金髪だからではありません。
 人を惹きつける、アイドルとしての天性をまざまざと見せつける、765プロきってのエース。

 まだ年若いはずですが、相対するとこんなにもオーラがあるものなのかと、驚かされます。


「美希。お客さん、困らせては悪いから、私達は向こうへ行っていましょう」

 星井美希ちゃんの後ろから、別の女の子が恐縮そうに声をかけます。
 青みがかった長髪と、いかにも生真面目な性格を思わせる凜とした表情が印象的な子。

 決して大きくは見えないあの口から、強く豊かに伸びる美しい歌声が発せられるんだ――。
 どこか神秘的ですらあります。


「如月千早さん。いいえ……ご迷惑、というものではありません」
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:08:29.00 ID:64qMODCb0
 私は、かぶりを振りました。
 そうです。この際、アイドルの子達にも同席してもらえた方がいいでしょう。

 しかし――。

「星井美希さん、あの…」
「ムー……ミキのことは、ミキでいいのっ。星井サン、なんていらないよ?」
「そ、そうですか……み、美希ちゃんは」
「うん」

「さっき、ミカがどうって……それって、弊社の城ヶ崎美嘉のことですか?」


「へーしゃ、っていうの、よく分かんないけど、ミカはそのミカなの。
 この間、玲音って人とすっごいライブバトルしたでしょ?」

 美希ちゃんは私の隣にストンと座り、私の目を間近で見つめてきました。
 かの眩しさのあまり、思わず身じろぎしてしまいますが、彼女は全く動じる様子はありません。

「あれテレビで見たの。すっごかったよ!
 玲音ももちろん凄かったけど、ミキ的には、ミカの方がずっとキラキラしてたって思うな」

「美嘉ちゃんの方が、ですか?」
「ウチの美希、あのライブ対決以来、すっかり城ヶ崎美嘉さんのファンなんです」

 秋月律子さんが呆れ気味にため息をつくのを尻目に、美希ちゃんは変わらず目をキラキラさせ続けています。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:11:22.90 ID:64qMODCb0
「だって、玲音って人、完璧すぎてつまんないもん。
 ミカの方が、玲音と比べると色々「あれ?」って思う所あるけど、でも、ずっと迫力あったよ。
 何が何でもやってやるー! って、すごい熱い気持ちを感じたの。
 ステージの上で、こんなに一生懸命になれるもんなんだって。心に響くもの、できるんだって」

「み、美希ちゃん……」
「だから、ミカやミカの事務所の人と、お話してみたいって思ったの。
 ハニ、じゃなかった。プロデューサー、キギョウ秘密だって、全然そういうの話してくれないんだもん」

 ぷくっと頬を膨らませ、ふんぞり返って見せた後、すぐに彼女は「アハッ」と笑いました。

「なんて。ミキ、知ってるよ?
 ミカのプロデュースしてたの、ミキ達のプロデューサーだったんでしょ?」

「え、えぇ……そうです。
 美嘉ちゃんとプロデューサーは、お互いを…」
「違うの」

「……えっ?」


 美希ちゃんは、かぶりを振りました。
 彼女の瞳は、まるでこちらの真意を質すかのような、何物をも恐れることのない、どこまでも真っ直ぐなものでした。

「ミキ、もう分かってるの。
 プロデューサー、ミカとケンカしちゃったんだ、って。
 言わないけど、あんまり良くない事になっちゃってるの、分かってるんだ」
243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:14:19.96 ID:64qMODCb0
「それは、私達も同感です」

 応接スペースの入口側に立ち、話を聞いていた如月千早ちゃんが、口を開きました。

「少しだけだけど、春香が……二人きりでプロデューサーと話をしたあの子も、心配していました。
 あんなに辛そうな顔をしたプロデューサーは初めて見る、って。
 私達も、何かできることは無いのかって、ずっと悩んでいたんです」

「ミキ達のプロデューサーが、ミカ達の事務所でオソマツするはずが無いの。
 もし困っているなら、ミキ達がちゃんとプロデューサーを支えてあげなくちゃって。
 そういうの、同じ事務所のヨシミだって思うな」


「おやおやぁ〜、兄ちゃんの話かぃミキミキ〜?」
「ほんっと、いつまで経っても世話を焼かすんだから、アイツ」
「わ、私も……お世話してもらった分の恩返し、まだできていないから、そのっ」
「今がまさにそのチャンスじゅゎ〜ん、ゆきぴょ〜ん?」
「ひょっとして私達、346プロに行けたりするんですかー!? うっうー!」
「困ったことがあったって、自分達に任せればなんくるないさー! なっ、ハム蔵?」

 応接スペースの話を聞きつけ、続々と765プロのアイドル達が集まってきました。
 三浦あずささんは、食べ途中だったのか、ゴージャスセレブプリンを両手に持っています。

「み、皆さん……」
244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:16:26.57 ID:64qMODCb0
「えぇっと、そうですね……ウォッホン」

 大袈裟な咳払いを一つして、皆の注目を一手に引き受けると、秋月律子さんは眼鏡をクイッと直しました。

「こういう具合に、弊社は何かにつけて首を突っ込みたがる物好きばかりなんです。
 だから、何かお困り事があるのなら、遠慮無く私達に言ってください。
 どうせウチの社長だって、二つ返事でGOサインを出すに決まってるんですから。ねっ?」

「秋月さん……!」


 胸の奥で重く凝り固まっていた燻りが、嘘のように晴れていきます。
 悲しい結末しか見えない絶望を、あっさりと吹き飛ばしていくそれは、今ではまだ不明瞭な自信と勇気。

 それでも、この人達となら――。

「765プロの皆さん……どうかお願いします」


 きっと何かができると、信じさせてくれる。

「どうか力を、貸してください」


 私の心にかかっていた分厚い雲の間に光が差し込み、爽やかな風が吹くのを感じました。
245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:28:20.99 ID:64qMODCb0
   * * *

「随分と、君は勝手な真似をしてくれたようだな」

 大きなデスクの上で手を組み、美城常務は私を睨み上げます。
 まぁ、いつもの事です。

「さて、何の事でしょう?」
「この期に及んで、とぼけるつもりか」

「事実として、先方の代表から正式に申し入れがあったと聞いています。
 今後も良好な関係を築いていく事を考えれば、無碍にする事は得策ではないかと」
「それは君が判断する事ではない」

 大きめのため息をつき、常務は椅子をクルリと回転させました。


「彼に伝えておけ。
 楽をしてホームへ帰れるとは思わない事だ、とな」

「……はいっ」

 私は勢いよく一礼し、常務室を後にしました。
246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:30:47.21 ID:64qMODCb0
 あの後、秋月律子さんは高木社長へ、私の依頼した件について報告をしたそうです。
 すると、なんとその日のうちに高木社長は美城代表へと直接電話し、話を取りつけたのだとか。

 二つ返事でOKをするという、秋月さんのお話を疑っていたわけではありませんが――およそ弊社では考えられない身軽さです。
 美城常務の外堀を埋めることも含め、765プロ総体として、この件に協力する姿勢を示してくださいました。


「プロデューサーさん」

 私の隣で、いそいそとファイルの整理をしている彼に、声をかけます。

「何でしょう?」

 もう、約束の期間まであと3週間ほどです。
 デスクの上はほとんと書類が残されておらず、いつでも帰れると言わんばかりの準備の良さです。

 が、そうは問屋が卸しません。

「ちょっと、ついてきてください」
「は、はぁ……」

 何の用だろうと訝しむプロデューサーさんを、黙って事務室から連れ出します。


 あなたは、プロデューサーさんなんです。
 忘れているのなら――ここでの出来事を忘れようとしているのなら、思い出させてあげなくちゃ。
247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:32:17.88 ID:64qMODCb0
「トレーニングルーム?」

「どうぞ、中へ」

 彼を促し、その扉を自分で開けさせます。
 中に入ると、彼の担当アイドル――。


「美嘉……きらりに杏、蘭子、菜々さんまで」

「待ってたにぃ、サブPちゃん☆」

 彼の姿を見留めたきらりちゃんが、嬉しそうに顔の前でピースしてみせます。
 それを皮切りに、他の子達も安堵したように頬が緩みました。

「一体何をしているんだ、皆してこんな所で」
「この事務所のアイドルを相手に、ナンセンスな質問だね」
「何?」

「その質問、たぶん今から来る子達の方が、もっと聞きたくなると思うよ」

 杏ちゃんがニヤリと不敵な笑みを浮かべます。
 何のことだか、サッパリ要領を得ていないプロデューサーさんが困惑していると――。



「こんにちはなのー!」

 突如として、用具室の扉がガチャッと開き、中から美希ちゃん達が飛び出しました。

248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:34:49.21 ID:64qMODCb0
「!? み、美希っ!?」
「ハニー、ひっさしぶり〜。あれ、やっぱりちょっと痩せたね?」
「わっ、ぶ!? な、何をする、こらっ!」

 登場を予想だにしていなかったであろう彼女から無遠慮に頬を突かれ、プロデューサーさんは大いに混乱しています。
 その様子を見て、杏ちゃん達5人はおかしそうに笑いました。

「もう、美希。他所の事務所にいるんだから、もう少しお行儀良くしなさい」
「まぁまぁ伊織、美希もせっかく久々にプロデューサーに会えたんだから」

 呆れながら続いて出てきたのは、水瀬伊織ちゃん。
 そして――菊地真ちゃん。

「な、なっ……!?」


 今回、765プロからの応援要員として、5人のアイドル達が選抜されました。

 美嘉ちゃんに並々ならぬ興味を示す、星井美希ちゃん。
 竜宮小町のリーダーとして、まとめ役にも慣れている水瀬伊織ちゃん。

 菊地真ちゃんは、そのダンスの適正の高さから選ばれました。
 我那覇響ちゃんも同等の実力の持ち主ではありますが、他のアイドルへの指導という点では、彼女の方が向いているようです。

「ボクもあまり人のこと言えないけど……。
 響だと教える時、「わー」とか「ぶわー」とか、どうしても抽象的な言葉が多くなりますからね」

 そう言って満更でも無さそうに頭を掻く菊地真ちゃんの後ろから、別の子が顔を覗かせ、頭を下げました。

「プロデューサー、お久しぶりです」
249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:37:22.14 ID:64qMODCb0
「千早、お前まで……!」

「私なんかに心配されるようになっては、プロデューサーも形無しですね」

 如月千早ちゃんは、もちろんボーカルトレーニングの担当です。
 かの武田蒼一氏の音楽番組『オールド・ホイッスル』に出演した唯一のアイドルというのは、如月千早ちゃんだったのです。

「は、はわわ……!」
「神崎さん。初めまして、如月千早です」

 神崎蘭子ちゃんにとっても、大いに刺激になるはずでしたが――案の定と言うべきか、緊張しちゃっているみたいです。
 そんな彼女に、千早ちゃんはニコリと優しく微笑みました。

「武田さんに実力を見出されたという話、プロデューサーから聞きました。
 私なんかがどこまでお役に立てるか分からないけれど、歌については、できる限り力になるわ。
 これからお願いします」
「こ、こちらこそぉ!? え、うっ、魂の赴くがままにっ!」
「た、魂……!?」

 お互いに困惑し合っている二人を見て、皆がクスクスと楽しそうに笑っています。
 こういう空気、何だか久しぶりです。


 そして、最後の一人は――。

「……お前も来ていたのか、春香」

 観念したように声を漏らすプロデューサーさんの見つめる先に、皆の視線が集まります。
250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:39:12.61 ID:64qMODCb0
「諦めたくないっていう、346プロさんの気持ちは……私達も、同じでしたから。
 だから、346プロさんの力になりたいって、そう思ったんです」


 天海春香ちゃんは、胸の前に載せた手を握りしめました。

「プロデューサーさんも、一緒のはずです。
 このまま悲しいお別れを迎えたくない、って……。
 簡単に見限れるような子達と一緒にいたんじゃないって、そう信じたいはずです」

「春香……」


 プロデューサーは、かぶりを振りました。

「俺を……もう俺を買い被らないでくれ。
 俺には、皆の期待に答えられるような事なんてもう…」

「買い被りますっ!」

「えっ?」


 勢いよく口を挟んだのは、菜々さんでした。

「だってナナは、カフェでプロデューサーさんと交わした約束を、守ってもらえていません。
 いいえ、たとえ約束を抜きにしても、ナナはまだ、プロデューサーさんと一緒にお仕事したいんです。
 せっかく増えてきたナナのファン達と、ステージ上で「ウッサミーン!」ってコールする姿、見て欲しいんですっ!」
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:42:05.01 ID:64qMODCb0
「菜々さん……」
「……! す、すみません、うっ、く……歳を重ねると、涙腺が弱くなって……!」

 感極まり、瞳からポロポロと流れる涙を一生懸命拭きながら、菜々さんは続けます。

「お別れするのは、辛いです……。
 それを知りながら、一緒の時を過ごすのは辛いことだって事も、分かっています。
 でも、それでも……ナナは、プロデューサーさんに最後までプロデュースを続けてほしいって!
 そう願うのはワガママですか!?」


 菜々さんがプロデューサーさんを求めるのは、初めて出会った担当プロデューサーを逃したくない身勝手ではありませんでした。
 彼女もまた、別れを認めていて――それでも、彼との思い出を少しでも美しいものにしたいという願いからくる涙でした。


「いい加減、目を覚ましなよ」

 美嘉ちゃんが、プロデューサーさんの前に歩み寄ります。
 とっくに涙は出し尽くしたので、これからはもう泣かないと、彼女は言っていました。

「アタシも、覚めたからさ……美希ちゃん達のおかげで」
「美嘉……」
「深入りしたくないっていうアンタの気持ち、ちょっとだけ分かったよ。
 でもさ」

 かぶりを振り、人差し指をプロデューサーさんの胸にトンと置いて、美嘉ちゃんは彼を見上げました。

「深く関わり合おうともしないで、どうやって担当アイドルのこと理解しようっていうの?」
「……!」
252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:47:15.17 ID:64qMODCb0
「傷つかずにトップを目指そうなんて、都合の良いこと考えちゃいないよ。
 ていうか、お互いに苦しいから、支え合うんだって、そういうモンなんじゃないの? アタシ達はさ」

 クルッと、美嘉ちゃんはすっかり彼女の隣を占領している美希ちゃんの方を振り向きました。

「ねっ、美希ちゃん?」
「んー、ミキはミカじゃないから、よくわかんないけど、ミカが言うならそうなの!」
「アハッ★ 何それ」

 ぷっと吹き出し、美嘉ちゃんはプロデューサーさんにニカッと笑いかけました。
 久々に見る、カリスマギャル会心のキメ顔です。

「こんな魅力的なアイドル、目の前にいてまさかほっとくなんて言わないよね?」


 美嘉ちゃんはきっと、美希ちゃんに勇気をもらえたのだと思います。
 心にもない言葉だったとはいえ、一度は三行半を突きつけた彼に、こうも明るく語りかけることは、彼女自身も相当な覚悟があったに違いありませんでした。


「美嘉……皆」

 その覚悟を、プロデューサーさんは受け止めたのだと、顔を上げて皆を見渡す彼の表情を見て分かりました。

 しぃんと静まり返り、皆がプロデューサーさんの言葉を待っています。



「765プロは……」
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:52:36.44 ID:64qMODCb0
「765プロは……小さくて、人と人との距離感が近い事務所だ。
 俺が346プロに来たのは……上役の意向もあったが、俺の望みでもあったんだ。
 それは、単にデカい会社に勤めて自分のキャリアに箔を付けたいっていう、前向きな野心なんかじゃない」


 彼の声は、今まで聞いたどんな声よりも湿っぽくて、とても真に迫っていました。
 これが、プロデューサーさんの本当の声――。

 一切の飾り気も無い、ありのままの気持ちを聞き逃すまいと、皆が彼の言葉に静かに耳を傾けています。


「俺は海外での経験から、仕事上のパートナーとなる相手とは深い関係になるべきではないと心に誓った。
 特に、短期的な、将来の別れが約束されている場合は、なおさらだ。
 片や346プロは、きっとその辺りの統制や当事者間の意識も、よろしく出来ているんだろうと思った。
 これだけ人材が多い会社だ。良い意味で希薄で、個人の意志が介入する余地無く、システマティックに仕事を処理する体制があるのだろうと」


 そこまで言って、プロデューサーさんは言葉を切って俯き、拳を握りました。
 無念さを滲ませる、とても険しく、苦しそうな表情――。


「でも……違った。
 CPさんの、あんなに泥臭く仕事をして、アイドル一人一人と向き合う姿は、765プロにいた頃の俺と同じだった。
 それは、ある種の勇気をもらえたと同時に、俺の過去を……海外での経験を経てたどり着いた俺の考えを、否定されるに等しかった。
 その事実から目を背けようと、俺は……俺は、皆に辛く当たってしまった」
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:54:41.80 ID:64qMODCb0
 肩を震わせながら、彼はアイドルの子達に頭を下げました。


「許してくれとは言わない。
 だけど……もし、なおも俺のことを必要としてくれるなら。俺に償いをさせてもらえるのなら……。
 もう一度、俺を信じてもらえるだろうか。皆の夢を、裏切らなくて良かったと、信じさせてもらえるだろうか?」



「バッカじゃないの?」

 あまりに辛辣な言葉をぶつけたのは、水瀬伊織ちゃんでした。
 皆が驚いたように、彼女の方を振り向きます。もちろん、プロデューサーさんも。

「深い関係になるべきではない、って……。
 そんなの、あんたが私達と765プロで過ごした日々を、あんた自身が否定するようなものじゃない」
「うっ……!」


「そうそう。
 それにさ、信じさせてもらえるか、じゃなくて」

 美嘉ちゃんが同意のこもった呆れ気味のため息をつきながら、プロデューサーさんに握り拳を突き出します。

「一緒の夢、信じよう……でしょ?」
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 17:57:08.93 ID:64qMODCb0
「美嘉……」
「ほら、手。待ってんですけど」

 退屈そうにしている美嘉ちゃんに、プロデューサーさんはバツが悪そうにフッと笑いました。


「もう時間もあまり無いんだから、ちゃんとついてきなよ?」

「……あぁ、そっちこそな」


 二人が握り拳をお互いにトンッと突いたのを確認して、菊地真ちゃんは満足げに頷くと、一際大きな声で皆に呼びかけます。

「よぉーっし! 本番まで残りあと二週間!
 ボクも死力を尽くしてジャンジャンバリバリ付き合うから、これから皆で張り切って行くよー!!」
「真、そんなうるさい声出さなくたって聞こえるわよ、もう」
「な、う、うるさいって何だよ! 皆で気合いを出そうとしたんじゃないか!」


「あーあ、他所の人が来ちゃうんじゃ、これからしばらくはあまり怠けらんないかー」

 お腹をボリボリ掻きながら、つまんなそうにボヤく杏ちゃんに、伊織ちゃんが反応します。

「ふーん、あんたが双葉杏ね?」
「そうですけど」
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:00:04.66 ID:64qMODCb0
「律子から聞いてるわ。今回のメンバーで一番の曲者だって」
「杏ほど素直な人間はそういないと思うけどね。主に自分の欲望に」

「やれやれ……まっ、あんたみたいな問題児の扱いは、自慢じゃないけどこの伊織ちゃんも心得ているわ。
 あんたの面倒は主に私が担当するから、覚悟しなさい」

 鼻息を荒くして伊織ちゃんが指を差すと、杏ちゃんは「うへぇ」と面倒くさそうに口をへの字に曲げたのでした。


「ところで……俺達は一体、これから何をしようというんだ?
 本番まであと二週間、とか真が言っていたけど……」

 ふと、プロデューサーさんが思い出したように首を傾げたのを見て、すかさず私が彼の隣にズイッと歩み寄ります。

「うわっ、ち、ちひろさん?」
「ふふふ、それはですね」

 彼が知らないのも無理はありません。まだ知らせていないのですから。
 CPさんや秋月律子さん、竹芝のイベントホールさんとの間で相談して決めたことを、まだ。

 人差し指をピンッと立て、含み笑いを浮かべます。

「765プロさんとのコラボ企画による、クリスマスライブへの出演です」
「クリスマスライブ、ですか? え、あと二週間で!? 会場は!?」

「楽には765プロへ帰してもらえないそうですよ、プロデューサーさん?」

 そう言って、私はバッグをゴソゴソと漁り、プロデューサーさんへエナドリを一本差し出しました。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:02:59.40 ID:64qMODCb0
 そうなのです。

 765プロさんとの協同企画により、急遽決まったのが今回のクリスマスライブ。
 何せ、プロデューサーさんが765プロに帰るまでに開催しなくてはならないのですから、全てがもう大忙しです。
 CPさんの企画であるウィンターフェス『シンデレラの舞踏会』は、時期的に年明けになってしまうため、これにねじ込むことは出来ません。

 それに、今回ばかりは竹芝のイベントホールさんにも、さすがに難色を示されました。
 困った時の、という便利屋扱いも失礼千万ですが、いかんせんクリスマスシーズンや年末は繁忙期であり、予約が既に一杯なのです。

「いくら346プロさんのお願いといえど、物理的にちょっとですね……」
「うーん……それはまぁ、そうですよねぇ……」


「それでしたら、765プロが押さえた枠を使ってください。
 というより、765プロのライブに、346プロさんがサプライズゲストとして参加するのが良いのではないでしょうか?」


「えっ!?」

 打合せに同席してくれた律子さんの提案に、私達は一瞬耳を疑いました。
 曰く、765プロさんもちょうどその時期に竹芝のこのホールを押さえており、クリスマスライブを開催予定とのことなのです。
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:04:52.96 ID:64qMODCb0
 で、ですが――!

「いや、それはさすがに悪いです!
 346プロの問題に端を発するイベントなんですから、ウチで始末をつけないと私共の上司が知ったら何て言うか…!」
「あら? 水くさいですね。
 ウチのプロデューサーの問題なんですから、ウチにも一肌脱がせてもらえないと、こっちも立場が無いんですけど?」

 律子さんは、得意げにキラリと光る眼鏡を片指で上げました。
 そう言われてしまうと、私やCPさんには、返す言葉がありません。


 かくして、765プロのクリスマスライブに、美嘉ちゃん達が参加する事が決まったのです。
 これに向けたレッスンを、765プロの子達と一緒に行う。

 それは正しく、我が事務所のアイドル部門創立以来初めての、他社さんとの共同作業でした。

 こんなに話が大きくなるとは――いえ、元はと言えば全て私が仕組んだことなのですが。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:06:52.81 ID:64qMODCb0
「1、2、3、4、1、2、3、4、……!」

 菊地真ちゃんが皆を鼓舞しながら、最前列でダイナミックなダンスを披露してみせます。
 まるで全身にバネが付いているかのような、しなやかでキレのある動きです。

 ですが、ウチのアイドル達も負けてはいません。

「にょ、わっ……! むむ……!」
「きらり、そのパートは焦らなくて大丈夫! 落ち着いて次をしっかり!」
「う、うんっ!」


「アーアーアーアーア〜〜♪」
「とてもよく出来ているわ、神崎さん。
 もう少し、気持ち高めに音程を取った方が、会場の後ろの方の人達にも、通りよく聞こえると思う」
「おぉ、我が調べにさらなる魔力がっ!」


「うわぁぁ……千早ちゃんはやっぱり凄いですねぇ。あんなに若いのに……」
「歌は私も千早ちゃんに教えてもらったから、一緒に頑張ろう、菜々ちゃん。ねっ?」
「ひえぇ!? あ、アイドルアワードの春香ちゃんに励まされちゃったんじゃ、ほぁ、骨身を削らない訳にはっ!!」
「そ、そういうのは止めようってぇ!」
260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:09:29.40 ID:64qMODCb0
 たまにトレーニングルームを覗きに行くと、765プロのアイドルさん達がいつもいて、一緒にレッスンをしてくださっています。
 本番当日は、自分達の出番もあるはずなのに、このような献身的な行いは本当にありがたいです。

「ちょっと! せっかくこの伊織ちゃんが付き合ってあげるっていうのに、何なのよその態度!」
「杏はもう今日の分の運動量は消費したから大丈夫だよ。飴いる?」
「いらないわよ! あーもう、亜美達以上に厄介ね、この子!」
「皆が働きすぎなだけなんだけどねー……ん、これ。果汁100%オレンジ味」
「だからいらな……へぇ、悪くないじゃない」

 ――あの子達は、違う方向性で良いお友達になれているようです。


 そして、このレッスンにおいては、それまでと少し異なった光景が見られるようになりました。

「よっ! ……とっ、ふ……!」
「すごいすごい! やっぱりミカはカッコいいの!」
「へへッ、トーゼン★ ていうか美希ちゃんもすごいよ。何かスポーツやってたの?」
「んー……体育?」
「……あ、そう。そりゃすごいわ」


「皆、ちょっと給水を持って一旦こっちに集まってくれ」


 パンパンと手を叩き、プロデューサーさんがホワイトボードの前に皆を招集します。
261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:12:27.78 ID:64qMODCb0
「会場の見取り図なんだが……こっちの扉は当日閉鎖されて使えない。
 だから、この下手側から暗転中にスタンバイして、終わったら上手側の舞台袖へ速やかに捌けた後、反響板の裏を回り込んでほしいんだ。
 次の曲の事を考えると、ここの繋ぎはできる限りシームレスに行いたい」

 ボードに書かれた図を指し示しながらプロデューサーさんが説明をしていると、菜々さんがハイッと手を上げました。

「ナナ達の前後の765プロさん達は、どこに捌けたり待機するんですか?」
「皆の出番の前には、小鳥さんの紹介アナウンスがあるから、前の子達はそこまで急いで捌ける必要は無い。
 後に登場する子達については、皆がステージにいる間に同じ下手側の舞台袖へ移動できればいい」

 その後、手を上げたのは伊織ちゃんでした。

「終わったらさっさと次に行くんじゃなくて、終わった後に346プロの子達の挨拶でも挟んだらどう?」
「えっ?」

「せっかくのゲスト枠なんだし、出番が終わって「はいさようなら」じゃ、扱いがぞんざいすぎるわよ」

 伊織ちゃんの意見に、隣に座る真ちゃんがウンウンと頷きました。

「そ、そうか……そうだな」
「まぁ、あんたにとってはどっちも身内みたいなもんだし、あんまり気を回す事を考えられなかったのも分かるけど」


「プロデューサー」

 今度は、美嘉ちゃんが手を上げました。
262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:14:25.85 ID:64qMODCb0
「アタシは、皆と一緒に出たいな」

「皆って?」
「だから、ここにいる皆」

 隣にいる美希ちゃんと頷き合い、美嘉ちゃんはニコリと笑いました。

「せっかく、って伊織ちゃんも言ってくれたけど……せっかく許してもらえるんなら、トコトン欲張りたいんだ」


「私も、賛成ですっ」

 春香ちゃんが、勢いよくスクッと立ち上がりました。

「春香、発言の前に挙手」
「うっ! ご、ごめん伊織……でも、せっかく皆でやってきたんだよ。
 ここにいる皆……ううん」

 春香ちゃんは、首を振りました。

「ここに辿り着くまでに、皆が出会ったたくさんの人達との積み重ねがあって、今があるんだって思うの。
 だから、その巡り合わせで、こうして集まれた奇跡、クリスマスライブでも大事にしていきたいなぁって思うんです!」

「アハッ☆ 何とも春香らしいの!」

 美希ちゃんが合いの手を打つと、春香ちゃんは照れ臭そうに「えへへ」と頭を掻きました。
 ともすれば気恥ずかしささえ伴うはずのその一連の言動に、皆が疑いなく信頼の目を向けている辺り、765プロ不動のセンターというのは伊達では無いのだと気づかされます。
263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:17:06.91 ID:64qMODCb0
「皆の気持ちは分かった。もっともだと俺も思う」

 頷くプロデューサーさんに、再度皆の視線が集まります。

「でも、やはり俺は、このステージは美嘉達5人で行うべきだと思うんだ。
 曲の途中から、サプライズで他の皆が合流するのはアリだとしても……少なくとも開始時点では、5人であってほしい」
「どうして?」

「最初から765プロの皆と一緒に出演しては、ゲスト枠としての意義が掠れてしまうと思うんだ。
 346プロの5人を目立たせる、5人を会場に認識させることは、儀礼的であろうとも行われるべきだと俺は思う」
「た、確かに……」

 アッサリと引き下がってしまった春香ちゃんに優しく微笑みかけ、プロデューサーさんは続けます。


「それに、俺が見たい。
 さっきはぞんざいな扱いを考えていながら、今度は私物化だと怒られるかも知れないが……せっかくだから、というヤツだ。
 何よりも、この346プロで得たものの一つの集大成として、お前達のステージを、しっかりとこの目で」
264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:18:27.63 ID:64qMODCb0
「我が友……」

 蘭子ちゃんが感極まりそうな顔をしている横で、杏ちゃんが気だるそうに手を上げました。

「さっきからずーっと気になってんだけどさ」
「どうした、杏?」


「杏達、何かユニット名って無いの?」



「えっ!?」
「いや、「えっ」じゃないでしょ」

 アイドルの子達が一斉に言葉を失ったことに、杏ちゃんは呆れた様子でため息をつきました。

「それについて、実は俺も、考えていたものがある」


 再び、視線がプロデューサーさんに戻りました。

「だがこれは、俺も皆と一緒に考えたいんだ。
 そうして悩んだ経験も、いずれ大切な思い出になると思うから……皆の意見も、遠慮無くぶつけてほしい」


「ふーん?」

 伊織ちゃんが、意味ありげに鼻を鳴らしました。
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:22:34.92 ID:64qMODCb0
「な、何だよ伊織」
「さっきの「この目で見たい」発言といい、なーんか響きがいちいちイヤらしいのよね。変態」
「えっ!? な……!」
「それ、ナナもちょっと思ったかなーって」

「ナナ。プロデューサーがヘンタイさんなのは今に始まったことじゃないの」
「こ、こら美希! フォローになってないぞ!」
「そっ、そう言えば我が友、最初の頃は私にあぶない水着を着せようと……!」
「蘭子っ! 何でその話を今持ち出すんだ!?」

 途端に、アイドルの子達の間でどよめきと失笑が広がっていきます。

「えぇぇっ、プロデューサー、またそんな事があったんですか!?」
「またとはなんだ!?」
「真ちゃん、誤解だにぃ! サブPちゃんは蘭子ちゃんのためを思ってちょーっとだけ思い切ったえち…!」
「やめろー!! そういう話はもうやめろー!!」


「まっ、細かい話はこの際大目に見てあげるから」

 一通り騒がれたところで、美嘉ちゃんは話を切り、ニカッと悪戯っぽく笑ってみせます。

「もったいぶってないで、さっさと教えてよプロデューサー。
 そのイケてるユニット名をさ★」


「あぁ、聞いて驚けよ」

 プロデューサーさんも負けじと鼻を鳴らし、それに応えました。
266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:24:28.33 ID:64qMODCb0
 プロデューサーさんが、こうして能動的にアイドルの皆と関わり合いを持っている。
 それは、プロデューサーの本分を考えれば、至極当たり前の事なのだと思います。

 ですがそれは、今まで見られなかったこと――。
 残された時がわずかとなった今、ようやく見ることが出来たこと。

「千川さん?」


 ふと、声をかけられ、振り返ると、CPさんが立っていました。
「どうか、されましたか……?」

 廊下から、窓越しにトレーニングルームの様子を見つめていた私が、不可思議に見えたようです。

 無理もありません。
 気づかないうちに、数十分近くボーッと廊下に立って、中を眺めていたのですから。

「! ……す、すみません、つい」

 慌てて指で目尻を拭う私を見て、CPさんは色々と斟酌したようです。
 それ以上は触れず、彼も私に倣い、中の様子を見つめました。

 アイドル達に囲まれ、ワイワイと大騒ぎしながら語らい合うプロデューサーさんの姿を。


「良い、笑顔です」

「……はい」

 きっと、これがあの人の本来の姿――私がずっと、見たかったものでした。
267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:27:41.43 ID:64qMODCb0
「んもぅ!! サブチャン聞いて!
 李衣菜チャン、またみくの目玉焼きに勝手に醤油かけたー!」
「それはちゃんと謝ったし、これからは気をつけるって言ったでしょ!
 ていうか、ソースの方が邪道だよ! そんなの何だって全部ソース味になるじゃん!」
「醤油だって全部醤油味になるでしょ!
 人のものに了解も取らないで勝手に手を加えることの方がよーっぽど邪道にゃ!」
「何さっ!!」
「何にゃ!!」

「あ、あのぅ、二人ともケンカは…」
「「雪歩ちゃんは黙ってて!!」」
「ひぃっ!?」

「アハハハ」
「アハハじゃなくて!! サブチャンも笑うのやめるにゃ!!」


 ライブ本番までの間、765プロから応援に来てくれたのは、春香ちゃん達だけではありません。
 レッスンに直接参加しない子達も、こうしてプロデューサーさんのデスクに度々遊びに来てくれました。

「ふ、二人とも落ち着くさー!
 ほらっ、自分の作ったサーターアンダギーでも食べようよ。
 出来たてホヤホヤがすーっごく美味しいんだぞ!」
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:30:26.69 ID:64qMODCb0
「ひ、響ちゃん、それ、さっきかな子ちゃんが全部食べちゃって……」
「うえぇっ!? ぜ、全部!?」
「美味しいから大丈夫だよー」
「全然大丈夫じゃないぞ!
 うわーん、どうやったらそんなに一杯食べれるんだー!?」

 そうして、346プロの子達との交流も自然と生まれていきます。
 プロデューサーさんは、346プロへの遠慮もあってかやや困り気味でしたが、とても楽しそうでした。


「お前達、そろそろ765プロに戻れよ。346プロさんにも迷惑だろ」
「おやおやぁ〜?
 346プロ“さん”だなんて、兄ちゃんはもう765プロの人間でいる気かね?」
「な、何っ!?」
「けーやく期間はまだ終わってないし、終わっても兄ちゃんの机はもう無くなってるかもYO?」
「そ、そんなワケあるか!
 そもそも俺が言っているのは、あまり他所の事務所で騒ぐなっていうマナーをだな…!」

「そうですよ。
 他所の事務所では、騒いじゃダメですよね、亜美ちゃん、真美ちゃん」
「う、うぅ……!」
「ごめんなさい、美波お姉ちゃん……」

 しゅんとしてしまった亜美ちゃん達に対し、美波ちゃんが優しく笑いながら、隣のアーニャちゃんに目配せします。
 アーニャちゃんは、ニコリと微笑みました。

「ダー。ヨソじゃなければ、騒いでもいいですね?」
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:32:36.17 ID:64qMODCb0
「えっ?」

「アミも、マミも、同じライブ頑張る、プリヤーチェリ……仲間です。
 ヨソモノでは、ありませんね?」

「うわーい! やったー、ありがと→アーニャん!」
「イェ→イ! アーニャんタッチ!」
「ふふっ、タッチ♪」
「何言ってんだお前ら!!」


 クリスマスライブへの出演が決まってから本番までの、約二週間。
 最後に残されたそのわずかな時間、プロデューサーさんの周りには、まるで花が咲いたかのようでした。

 アイドル達も、プロデューサーさんも、別れの時を悲しいものにするのではなく――。
 明るく美しいものにしようと、皆――。

 ここに来た当初の、飾られた穏やかさとは違う、心の底から笑い合う彼の周りには、アイドル達の温かな笑顔がありました。
270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:34:39.67 ID:64qMODCb0
 そして、時は経ち――。

「はい、はい……いやぁ、ありがとうございます。
 それでこちらは支障ありません……えぇ……」

 受話器を肩に挟みながら、プロデューサーさんは慌ただしく手帳にペンを走らせています。
 本番を明日に控え、ライブの協力会社さん皆に、最終確認のための電話を取っていました。

「助かります。それであれば大丈夫そうですね……
 えぇ、こちらこそよろしくお願いします。はい、失礼致します」

 最後の協力先への受話器を置き、プロデューサーさんはフゥーッと天井を見上げて息をつきました。


 先日までは綺麗に片付いていたはずの彼のデスクは、いつの間にかクリスマスライブに向けた書類でいっぱいです。
 あと二、三日でこの会社を去る人のものとは、とても思えません。

「お疲れ様です、プロデューサーさん」

 時刻は夕方でした。
 窓の外から夕陽が差し込み、オレンジ色に染め上げられた事務室で、今は二人きりです。

「えぇ……どうやら、明日は何とかなりそうです」
「アイドルの子達も」
「そっちは元から心配いりません。俺の方がよっぽど、ね」
271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:37:01.40 ID:64qMODCb0
 エナドリを彼のデスクに置いて、私は肩をすくめました。

「確かに」
「ちょっと。フォローする所でしょう、そこは」
「ふふっ♪」

 お互いに声を上げて笑います。
 まるで、これまでもずっと、一緒に仕事をしてきたかのような――。

 これからずっと、この人が346プロからいなくなる事が、嘘のように思える時間が流れています。



「……終わるんですね」


 思わず、そう言ってしまったようです。


「……!? あ、いえ、あの……!」
「ちひろさん」

「えっ?」

 プロデューサーさんは、おもむろに立ち上がり、ニコリと穏やかに笑いました。


「行きたい所があるんです。
 ちょっと、付き合ってもらえませんか?」
272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:39:17.61 ID:64qMODCb0
 この人から突然のお願いをされるのは、今に始まった事ではありませんでした。
 自分の仕事を前に進めるために、ある時は各施設の案内を、ある時は資料の在処を私に求めたり――。

 でも今回は、それまでのものとは毛色が違います。
 それはきっと、お仕事の話ではないからだと、プロデューサーさんの目を見て、何となく分かりました。


「え、えぇと……ごめんなさい、どうしても今日中に片付けなきゃいけない書類があって……。
 それを処理してからでも、いいですか?」
「えぇ、もちろんです」


 プロデューサーさんは、デスクを一通り片付けたのち、出口に向けて歩き出しました。

「行き先は、後で教えます。現地でお会いしましょう」
「は、はぁ……」
273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:41:59.80 ID:64qMODCb0
 ――行っちゃった。


 一体、何だろう?
 随分と思わせぶりな――。


 ――ハッ!?

「い、いやいやいやいやいや! まさかそんな……!」

 チラリと脳裏をよぎった可能性を瞬時に消し去ります。
 ちゅ、中学生じゃあるまいしっ!?
 私だってそんな、乙女チックな夢を見れるような歳じゃありません。


 でも、本当に心当たりが無い――。

 普段ならパパッと片付いてしまう類の書類も、雑念に囚われて些細なミスを繰り返し、無駄に手間取ってしまいます。



「毎日いつも、精が出るね」
274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:43:17.62 ID:64qMODCb0
 一人きりで仕事をしていた事務室に、とある人影がふらりと現れました。


「い、今西部長!?」

 立ち上がり、頭を下げると、今西部長は手を振りました。

「あぁいや、お構いなく。邪魔してすまない」
「いえ……」


 部長は、それまでプロデューサーさんが座っていた椅子にゆっくりと腰を下ろし、ふぅーっと息をつきました。

「明日はライブとのことだが、首尾は順調かね?」
「はいっ。プロデューサーさんもアイドルの子達も、765プロさんのご協力もあって、とても充実しています」
「それは良かった」
275 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:45:10.67 ID:64qMODCb0
 今西部長は、ずっとプロデューサーさんのことを影ながら気にかけておられました。
 彼の事情もよく知りながら、事務所内で難しい立場にあった彼が冷遇されることの無いよう、よきに計らっていた事も知っています。


「……部長」
「ん?」

 今さらこんな事を聞いても、仕方の無いことなのかも知れません。
 でも、上役と二人きりというシチュエーションは、私にある種の軽率さを抱かせたようでした。

「どうして部長は、あの人に便宜をはかったのでしょうか?」


「さて、何のことだろうか」

 そう言って、ニコニコとしながら自分の頬を擦っています。
「ただね、うん」
276 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:47:24.25 ID:64qMODCb0
「……ただ?」


「シンデレラプロジェクトの彼のことを?」

 CPさんの事を話しだす部長の目を見て、私は部長が何を意図しておられるのか、合点がいきました。

「……はい、存じています」


「かつての彼のように、プロデューサーとなる者が無口な車輪となっていくのは、見過ごしたくなかった。
 アイドルとの繋がりを持とうとしないのは、やはり、私には良いことだとは思えなくてね」


 シンデレラプロジェクトは、今西部長がその発足のために奔走したものであり、部長は言わば生みの親とも言える人です。
 自分にとっても思い入れが強い事業に携わるCPさんに、一際目を掛けていたのも今西部長でした。

 そんなCPさんのかつての姿を、プロデューサーさんに重ねたのだと――。
277 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:49:01.21 ID:64qMODCb0
「高木社長とも、先日話をさせていただいてね」

 部長は、満足げに頷き、席を立ちました。

「どうやら、老いぼれ達の心配は、杞憂に終わるとのことらしい。
 君からも同じ話を聞けて、何よりだった」

「わ、私達は!」

 お部屋を出ようとする部長を呼び止め、私は立ち上がりました。


「私達には、きっと色々な道があります。
 だからこそ迷うのかも知れませんが、でも……。
 アイドルの子達が笑顔であるかぎり、きっとその中に、私達の正しさが見出せるのだと、今はそう信じたいです」

「そうだね」

 今西部長は、優しく微笑みました。

「ありがとう。美城会長にも、常務にも、良い報告ができそうだ」


 私が礼をお返しするのも待たず、部長はお部屋を後にして行かれました。
278 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:50:22.25 ID:64qMODCb0
「……迷う、か」

 自分で言った言葉をなんとなしに反芻して、時計を見ます。
 う、うわっ!?

 いけません、いい加減に残務に時間をかけすぎました。


 急いで戸締まりをして、事務所を出発します。
 携帯を確認すると、プロデューサーさんからのメールが届いていました。

 そこに記された目的地は――。



「…………お寺?」
279 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:52:53.80 ID:64qMODCb0
 済海寺――。


「入口は大通りではなく、裏の通り沿いにあります……はぁ」

 電車に揺られながら、プロデューサーさんからのメールの内容を見直しつつ、地図を確認します。
 場所的に考えて――当たり前ですが――そういう乙女チックなものではない事に、まずは安堵したものの――。

 一体ここに、何が?



 最寄り駅である田町駅を降りる頃には、すっかり陽が暮れていました。
 駅前にはクリスマスを祝う色とりどりのイルミネーションが飾られ、人通りもあって辺りは賑やかです。

 あぁ、もうそんな季節かぁ――。
 ま、私達の業界では大事なかき入れ時ですけれど。

 と、誰にともなしに一人嘆息し、携帯の地図アプリを見ながら目的の地へと足を運ぼうとした時でした。
280 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 18:56:18.85 ID:64qMODCb0
「迷い人には……」


 ――え?



「真、便利な世になったことでしょう。
 ですが、この街の明るさ故に、星は自ら煌めく事を忘れ、見えにくくなったものもあるのかも知れません」



 その女性は、静かにそこに立っていました。
 日本人離れしたプロポーションと、銀色に輝くウェーブがかった長髪という、一目で人を惹きつける外見。

 それでいて、錯誤感を伴わない自然な気品――。
 あの日、竹芝であったあの子とは、似ても似つかぬようで、どこか通ずる雰囲気を感じる、765プロアイドル。


「御機嫌よう。
 貴女をお待ちしていました、千川ちひろ嬢」


「四条貴音さん……」

 仕事帰りの人々がせわしなく行き交う駅前の、イルミネーションの光に照らされ、その人はどこか妖しい笑みを浮かべていました。
281 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/12(土) 18:59:47.62 ID:64qMODCb0
21時頃まで席を外します。
残りはあと2割ほどで、1時頃までに完結できればと考えています。
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/12/12(土) 20:29:46.84 ID:pOwuZCIDO
たんおつ



ようやく部長に出番か
283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:12:22.47 ID:64qMODCb0
   * * *

 薄紫色のコートを自然と着こなし、優美に佇むその姿は、とてもサマになっていました。
 我が社のモデル部門の第一線で働くトップモデル達と比べても、全く遜色がありません。

 そんな彼女が、どうしてここに?
 私がここへ来るのを待っていたと言いましたが、何用で――。

「済海寺に行くことは叶いません」
「えっ?」

 四条貴音さんは、フッと意味ありげに小さく笑いました。

「プロデューサーと貴女が求めるものは、そこには無いのです、千川嬢」
「でも、私はあの人から、そのお寺に来て欲しいと言われて……」


「貴女は、自分が何を求めているのか、自分で理解できているでしょうか」

 そう言われて、思わず息を呑みます。
284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:17:03.97 ID:64qMODCb0
 初対面の私に向かって、この人はいきなり何を言うのだろう。
 知った風な口を聞いて、失礼な人だと言い捨てることは簡単です。

 ただ、彼から示されたそのお寺で、私が何を得ようとしているのかは、私自身何も――。

「分かりません」


 彼女は、黙して私を見つめています。
 驚くほど神秘的で、赤紫色に光るその瞳は、吸い込まれそうな魔性があります。

 黙っていると気圧されてしまいそうになるので、必死で捲し立てます。

「分からないから、彼の下へ……プロデューサーさんの下へ行くんです。
 私にとって得られるものがあるから行く、などという打算的な想いなんてありません。
 プロデューサーさんがそこにどんな期待を込めたのか、知りたいから行く……いいえ。
 彼に呼ばれたから行く。今の私が考えるのは、それだけです」


 ――勢い任せに、ちょっと余計な事を言ってしまっていないかしら。
 ふと冷静になると、ついて出た言葉に妙な気恥ずかしさを覚えてしまいます。

 だから、ここはいっそ感情的になってみましょう。
 理由はともかく、この人は私を、試そうとしている。
285 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:19:07.77 ID:64qMODCb0
 四条貴音さんは、静かにゆっくりと瞬きをしながら、空を見上げました。


「逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに
 人をも身をも 恨みざらまし」


「えっ?」

 ――歌?

 首を傾げる私に、彼女はそれを注釈してくれました。

「もし彼の人との出会いさえ無ければ、彼の人も、自分自身をも、恨みがましく思わないで済んだのに……。
 出会ってしまったがために、会えない時を思い煩う心を歌ったものです」


 百人一首にも載っている、有名な歌なのだそうです。
 まるで私に当てつけたかのような歌。

 いいえ――当てつけだと思わされている事に、腹が立っているだけなのかも知れません。

 そんな私の穏やかならぬ心情を見透かすかのように、彼女は再び鼻で小さく笑いました。

「たとえプロデューサーとの別れを良きものに出来たとしても、その後に待ち受ける寂寥を、貴女は耐える事ができるでしょうか」
286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:20:56.71 ID:64qMODCb0
「……四条さんは、寂しかったのですね」

 私の問いに、彼女の眉がピクリと動いたのが、微かに見えました。


「弊社があなた達のプロデューサーさんを、長い間お借りしてしまったことは、申し訳なく思います。
 だから、この寂しい気持ちを少しでも紛らわせようなどという、都合の良い事を考える気なんてありません。
 それどころか」

 そうです。
 寂しいに決まっています。
 そういう選択を、私達はしました。

 深い付き合いになればなるほど、別れが辛くなることを知った上で、私達は精一杯繋がり合うのだと決めたのです。

「もっともっと寂しくなるであろう時を、私達は望んで過ごしました。
 765プロの人達が抱いたそれに負けないくらい……でないと、あの人に346プロに来てもらえた甲斐がありません。
 それだけ強い想いを抱くことが、彼のプロデュースなのだと……彼自身、それを信じたいと、最後に願ってくれたんです」
287 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:23:22.19 ID:64qMODCb0
「信じたい……」

 ポツリと無意識に反芻する四条貴音さんの声は、それまでとは違い、熱量のこもったものでした。
 彼女の心にそれが響いたのだと、私は見留め、続けます。


「アイドルに深入りしないプロデュースを良しと悟った事が、高木社長の仰るあの人の罪であるなら、346プロはその償いのお手伝いをした事になります。
 ですが、彼が346プロで過ごした日々は、決して罰なんかではないんだって、思ってほしいだけなんです」



 依然、多くの人が行き交う喧噪の中、二人の間にどれだけの沈黙が流れたことでしょう。
 やがて四条貴音さんは、おもむろに私に頭を下げました。

「戯れが過ぎました。非礼をお詫びします、千川嬢」
「えっ?」

 顔を上げた彼女の表情は、それまでとは打って変わり、年相応のあどけなさを帯びた明るさがありました。

「私は、プロデューサーから言伝を預かって参りました。
 この先にある済海寺……実はもう、開業時間が過ぎているのです。
 なので、入ることができません」


「へっ!?」

 話によると、16時半になったら閉まっちゃうみたいです。
 プロデューサーさんは、その辺りを把握していなかったようで、ウッカリしていたとのことでした。
288 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:25:29.98 ID:64qMODCb0
「ウッカリ、って……!」
「ふふっ。なので、プロデューサーはひとまず、その寺の前で待ち合わせたいとのことです」
「は、はぁ……」

 肩すかしを食らった気分で、途端に拍子抜けしてしまいました。
 大一番の前日に、何で私達はこんな間抜けな事をしているのでしょう。

 そんな私の表情を、四条貴音さんは楽しそうに見つめています。
 さっきまでとは別の意味で腹立たしい――!


「あの人が346プロで過ごした日々が、真のものであったか」

 唐突に開かれた彼女の言葉に、再び私の身体が硬直しました。

「それを知りたくて、でも……彼が変わっていた時のことを考えると、怖くて……。
 ずっと、会いに行くことができませんでした。
 貴女のプロデューサーに掛ける想いを通して、それを知りたかったのです。
 試すような真似をして、申し訳ございません」

 再び、四条貴音さんは深々と私に頭を下げました。


 思えば、彼女は一度も346プロに顔を出すことはありませんでした。
 765プロであの人と過ごした思い出が強すぎて、それが壊れてしまう事を恐れていたのでしょう。

 彼女もまた、プロデューサーさんを人一倍大事に想っている765プロアイドルの一人でした。
289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:27:21.45 ID:64qMODCb0
「いいえ」

 私はかぶりを振ります。

「春香ちゃんも言っていました。この出会いは奇跡だったんだ、って。
 たとえ別れてしまう運命だとしても、出会えた喜びを大事にできたことを、私達の誇りとしませんか?」


 顔を上げ、四条さんはフッと笑いました。


「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢わむとぞ思ふ」


 また、歌――でも、きっとこれは、ポジティブな印象を受けます。
 そしてそれは、当たったみたいです。

「岩にせき止められた急流が、ひとたび別れたとしても、いずれまた一つになる……。
 それと同じく、たとえ今は愛おしい人と別れたとしても、また必ず会おうという願いを込めた歌です。
 激動のアイドル業界……貴女に良き別れと、美しき出会いがありますことを」


「……ありがとうございます。四条さんにも」

 穏やかに小さく手を振る彼女に別れを告げ、私はお寺までの道のりを再び歩み出しました。
290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:29:04.13 ID:64qMODCb0
 デッキを渡り、大通りの裏手の繁華街を歩いて、信号を越えます。
 その先にある道は、ほんの少し坂道になっていて、地味に上るのが大変です。

「よい、しょ……ふぅ……ふぅ……」

 地図から想像していたよりも、結構歩きます。
 年がら年中デスクワークばかりで、体力も無いせいか、息も上がってきました。

 そして、ようやく坂を上りきり、少し歩くと、目的地であるお寺――済海寺の門が、唐突に左手に現れました。


「……? あれ、開いてる」

 なぜか門は開いています。
 四条貴音さんの話だと、既に中には入れない時間のはずです。

 プロデューサーさんの姿が見えません。
 妙だなと思いながら、おそるおそる門を渡り、その先まで進んでみます。


 プロデューサーさんは、門から伸びる石畳の中央に立っていました。
 暗くてよく見えませんが、横の方にある何かをジッと見つめているようです。

 そっと歩み寄り、そばまで近づいてみます。
291 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:34:04.32 ID:64qMODCb0
「……あ、ちひろさん」

 彼が見ていたのは、植栽の奥に立っているお堂でした。
 手前側には、何やら仏像らしきものを映した大きめの写真が立てかけられています。

「こんな時間に入って、大丈夫だったんですか?」

 黙って入って、怒られたりしないかしら。
 そんな心配は、どうやら後の祭りのようでした。

「いえ、本当はやっぱダメだったみたいです。
 俺が来た時、入口の門が閉まっていて、開かないかなーってその門をガチャガチャやってたら、警察が来ちゃって」

「え、えぇぇっ!?」
「ハッハッハ」
「いや笑い事じゃないですよ!
 そのまま御用になってたらどうするつもりですか! 明日は大事なライブなのに!」
「すみません」

 傍から見たら、完全に不審者だったのでしょう。
 この人も、大概無茶なことをします。


「でも、どうしても今日このお寺を見させていただきたいんです、って謝り倒したら、住職も許してくれて」
「そんな危ないことを……」

「本堂や、あそこのお堂なんかは、さすがにもう開けられないみたいですけどね」

 プロデューサーさんはお堂を眺めたまま、しれっと答えました。
 私が来る前からずっと見ていたのだとしたら、よっぽど気になっているみたいです。
292 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:37:33.38 ID:64qMODCb0
「クリスマスライブの成功に向けた最後のひと仕事が、仏様への願掛けですかぁ……。
 アイドル達のために、やれることは何でもやろうという気概は、大変立派だと思いますよ」
「いえ、この後事務所に戻ります」
「えっ?」

 プロデューサーさんは、事も無げにサラリと言って、笑いました。

「まだまだ仕事、残してますからね。
 デスクも全然片付けてないですし、今日は徹夜です」


 ――それなら、私も付き合ったのに。
 今日中に片付けたい仕事があるからなんて、私だけ仕事を済ませて彼を待たせてしまったことが、申し訳ないです。

「あぁいえ、ちひろさんは別に気にしなくていいんです。
 むしろこうして付き合ってくれてありがたいというか、元々急なお願いをしたのは俺ですし」

 そうして、私をそうやって気遣ってくれる――。

 こんなの、ますます私の立つ瀬が無いじゃないですか。
 謝る余地を残してもらえないのは、それなりにみじめな気持ちにもなるんです。

 ナチュラルに負い目を与えてくれるの、困るんだけどなぁ。
 なんて――。

 そういった、この人との語らいももう、終わってしまうんです。



「……本当に、終わってしまうんですか?」
293 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:40:54.72 ID:64qMODCb0
 事務室で思わず漏れてしまった言葉を、もう一度。
 今度は無意識ではなく、明確に噛みしめて、彼に投げかけます。

 どうしようもないことは、分かりきっているのに。


「……346プロと765プロ、両社の契約で決まったことです。
 お偉方の鶴の一声がまたあれば、話は別かも知れませんが、少なくともウチの高木はもう、俺に納得しています。
 346プロさんも、これ以上派遣期間を延長しようなどとは能動的に考えないでしょう」

 プロデューサーさんは、極めて淡泊に答えてくれました。
 私や自分自身に、諦めを促すように。

「だから、明日のクリスマスライブが、俺の最後の仕事です。
 それが終われば、俺は346プロを去り、765プロへと戻る。そういう約束です」


「そうですね」

 言いながら、私は美嘉ちゃん達の事を思い浮かべました。
 プロデューサーさんと、彼を慕うアイドル達との繋がりが、終わってしまう。

 私はいいんです。大人ですから、割り切ることはできます。
 できると思います。

 でも――。

「ちひろさんが、気を病む必要なんてないんです。
 俺が他所から来て、それが戻るだけのこと。
 すべての原因者は、俺です」
294 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:42:58.55 ID:64qMODCb0
「ううん、違うんです」

 私は、かぶりを振りました。
 そうやって、私のことを気遣うのはもう、やめてほしいんです。


 そうです。

「……ずっとプロデューサーさんに、謝らなきゃと思っていました」


 この人も、CPさんも、責任を感じる必要は無いと言ってくださいました。
 でも、やはりそれは違います。


 事情を知らなかったとはいえ、アイドルと深く関わり合いを持つまいと誓った彼を、私はその渦中へと巻き込みました。

 心の傷を庇おうと、彼はアイドル達に対して不本意な態度を取り、それが彼女達だけでなく、ますます彼自身をも傷つけたのです。

 それでも私は、彼の気持ちも知ろうともせず、彼のプロデュースを見たいという自分勝手な思いだけで、なおも放っておこうとしなかった。


「美嘉ちゃんをはじめ、アイドル達にも、プロデューサーさんにも辛い思いをさせてしまったのは……
 事務員としての本分を忘れた、私の身勝手によるものでした。
 本当に、ごめんなさい……許してほしいなんて、言いません。
 本当に……私、本当に酷いことを……!」



「ちひろさん」
295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:44:07.21 ID:64qMODCb0
 プロデューサーさんの声が聞こえ、顔を上げました。
 どこか、悪戯っぽいような、なぜか得意げな顔をしている彼が目の前にあります。



「ちひろさんは、竹芝物語ってご存知ですか?」
296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:46:30.95 ID:64qMODCb0
「……竹芝?」
「えぇ」

「かぐや姫の、ではなくて?」
「それは竹取物語でしょう」

「竹芝って、あの竹芝ですか?
 明日ライブをやる、あの」

 意味も意図も分からず、ただただ疑問符を浮かべるばかりの私に対し、彼はニコニコと笑ったままでした。

「その辺は、どうやら諸説あるみたいですね。
 俺もふと気になって、この間調べたのですが、由来は更級日記に出てくる地名のようです」
「更級日記、ですか……?」

 国語の教科書でしか聞いた覚えが無いものを聞かされ、しらず目が瞬いてしまいます。 
 事実、千年以上も昔に作られた物語とのことでした。


「異国の地から意図せず宮廷に派遣され、衛士としての任に就いた男と、その宮廷のお姫様のお話です。
 退屈な警護を行う中、男が故郷を想いながら独り言を呟くと、それを聞きつけたお姫様が、その男を呼び寄せてお願いしたそうです。
 面白そうだから、ぜひ私にもお前の故郷を見せてほしい、と」
297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:48:21.59 ID:64qMODCb0
「……宮仕えの兵士さんが、お姫様を宮廷から連れ出したと?」

「話によれば、コッソリ宮廷から連れ出したということのようですね。
 要するに、身分の違う者同士のランデブー、ってヤツです」

「へえぇ〜」

 禁じられた恋、というものでしょうか?
 今も昔も、そういう題材は人々の間でポピュラーに扱われているようです。


「それ、最後はどうなるんですか?
 その兵士さん、お姫様を攫ったことになるんだとしたら、お殿様に罰せられちゃったり……?」

「いいえ、そこは意外とご都合主義みたいで。
 結局、お姫様がその地で男と暮らすのだという強い意志を示すと、お殿様……というか、帝ですね。
 帝はもう、じゃあしょうがない、と言って男にその国を任せて、二人は幸せに暮らしました……というお話のようです」

「あ、そんな感じなんですか」

「で、その男と姫が末永く暮らした屋敷が、やがて姫が無くなった後、寺として作り替えられた。
 それが竹芝寺。で……」

 プロデューサーさんは、地面を指差しました。


「その竹芝寺の跡地が、この済海寺……というわけなんです」
298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:51:44.19 ID:64qMODCb0
 竹芝物語――。
 東京に伝わる中でも最古のお話らしいそれを、今日まで知る機会は全くありませんでした。

「ちひろさんと出会ってからというもの、今年はやけに竹芝に縁があるなぁと思ったもので……。
 でも、結局あっちの竹芝との関係性は判然としないみたいですね。距離的には結構近いけれど」


「プロデューサーさんから見て、お城から連れ出したいお姫様は、346プロにいましたか?」


 自分でも意地悪だなぁと思う質問を、彼にぶつけてみます。

 ひょっとしたら、彼がこのお寺に行きたかったのは、かの物語に登場する兵士さんの気持ちに触れたかったからではないでしょうか?


「……正直に言えば、いました。それもたくさんね」

 照れ臭そうに誘い笑いをしながら、プロデューサーさんは空を見上げました。

「でも、やはり彼女達は、この346プロのアイドル達です。
 俺の勝手で決めるのは良くないとか、そういう事じゃなく……彼女達は346プロで生きていくのだろうと、何となく感じました。
 だから、未練も悔いもありません」
299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:53:42.27 ID:64qMODCb0
「そう、ですか……」

 プロデューサーさんの語り口は、とても明瞭でした。
 諦めとか投げやりな気持ちなどではなく、本心で納得しているのだろうという清々しさを感じさせるものでした。

 それじゃあ、どうしてここへ――?


「どちらかと言うと、俺が気にしたのは彼女達よりも……アメリカで出会った子のことを、ね」

「……研修で行かれていた際に出会ったという?」

 プロデューサーさんは、空を見上げたまま「えぇ」と答えました。


「その子はシアトルの出身で、女優への道を目指して単身ハリウッドに出てきていたようです。
 俺も、研修先はハリウッドで、そこで何となく似たような境遇を感じてね」

「積極的で、押せ押せな子だったのかなって」
「ハハハ、まさか」

 白い息を空に溶かして、彼は賑やかに笑い飛ばしました。

「俺の方から交流を持ちに行ったんです。
 彼女、クールで孤高というか、孤独な感じがあって……765プロでいえば、千早のような子でした。
 一人で思い詰めていそうで、放ってはおけなかったんです」
300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 21:56:22.86 ID:64qMODCb0
 私が勝手に抱いていたイメージとは、正反対の子だったようです。
 お人好しだったプロデューサーさんは、異国の地においてその子を見つけ、彼女の助けになりたいと思ったようでした。

「俺が彼女に、英語やアメリカでの慣習とかを教わる代わりに、彼女に困り事があったら俺がその手伝いをする。
 持ちつ持たれつの関係でやっていこうと提案したら、彼女も応じてくれてね。
 それなりに仲良くさせてもらって、いつしか彼女のプロデューサーとしての仕事も順調にできていて……」


 ――そこまで言うと、プロデューサーさんの言葉が途切れました。


「……?」


「……こっちでいう、オーディションのようなものを受けたんです。
 会場には、同じく女優を目指す、彼女の姉も受けに来ていて……結果的に俺達は、勝ちました」


 その言葉の内容とは裏腹に、プロデューサーさんの表情は、とても悲しそうでした。

「オーディションが終わった後、彼女は途端に、空虚になりました。
 姉の存在は彼女にとって目標であり、それを越えたことの達成感で、軽度の燃え尽き症候群になったのかなって、最初は思いました。
 けど、それは間違いで……自分自身の意義というか、存在理由が分からなくなったみたいなんです」

「自分の存在理由が?」
301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/12/12(土) 22:02:17.61 ID:64qMODCb0
「俺は」

 彼は拳を握りしめました。

「俺は彼女の力になりたいと、あらゆる手を尽くしました。
 レッスンに顔を出して、トレーナーと綿密なディスカッションを交わしたり、有識者を探してアドバイスを募ったり。
 アンテナを走らせてトレンドの流れにも気を配ったし、当然に彼女自身の健康面でのケアとか、PRもたくさん行いました。
 彼女の、姉に対する想いの強さも知っていたから、なおさら……」
「それはプロデューサーとして、至極真っ当なことなのでは?」

「違ったんです」

 強い否定が辺りを切り裂き、しんと重たい空気が漂っていたお寺を走ります。

「自己実現……つまり、自分自身の力で目標を達成するという過程を、俺は彼女から奪ってしまった。
 助けになりたいと、過保護になりすぎたあまり、彼女は自分が分からなくなってしまったんです。
 自分は何のためにいるんだろう、って……誰かの助け無しには得られない夢を、自分のものだと言い張る事に、疑問を感じてしまったようです」

「一緒に頑張れる人がいるというのは、決して悪い事なんかじゃ…!」
「もちろんそうです。
 でも、それは日本人的な感覚かも知れなくて……事実、彼女はとても責任感の強い子でした」
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