梨子「人魚姫の噂」

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170 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:01:38.46 ID:vQ6qZL/R0

私は果南ちゃんに顔を見られないように、千歌ちゃんたちのあとを追いかけ始める。

私の脳裏に浮かんでいたのは、さっきダイヤさんの台詞──『わたくしは、いつだって……貴女と同じ景色を見ていたい』──

私も……私も同じ景色を知りたい。……今隣に居てくれる、果南ちゃんと同じ景色を……見ていたいな、と……。

私ももしかしたら、皆の雰囲気に当てられてしまっているだけなのかもしれないけど……今、私の心の中には、そういう感情が確かに浮かんできているのだった。

──打倒『FUJIYAMA』……!





    *    *    *





──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「あの、千歌さん……」

千歌「ん?」


──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「……ど、どこまで……昇るのでしょうか……」

千歌「えっと……地上79mだったかな」


──キュラキュラキュラ。


ダイヤ「な、ななじゅう……きゅう……めーとる……?? そんなところから落ちたら……死んでしまいますわ」

鞠莉「落ちるのは70mだからー安心してー♪」

曜「……何も安心できないような……」


──キュラキュラキュラ。

長い。とにかく上昇の時間が長い。それが恐怖をより一層助長させる。


梨子「……こ、この高さから……落ちるの……?」

果南「えっと……大丈夫……?」

梨子「……あ、あはは……」


やっぱり、下で待っていればよかったかも……。


ダイヤ「……は、はは……こ、こわくなんか、あ、ありませんわ……」

千歌「大丈夫だよ、ダイヤさん! 私たち1万mから落ちたことあるんだから!」


千歌ちゃんがまたよくわかんないこと言ってるけど……。


果南「……スカイダイビングでもしてたのかな……?」


確かにそれなら、さっき言っていた空を飛んでたっていうのも説明できる……かも……?

──キュラキュラキュラ。


梨子「も、もう……無理……」


もう上昇はいいから、下って欲しい。

上昇の恐怖だけで心が折れそうな中──ポンポンと肩を叩かれる。
171 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:02:53.91 ID:vQ6qZL/R0

梨子「な、なに……?」


もちろん相手は隣に座っている果南ちゃん。果南ちゃんの方に目を向けると、


果南「……見て」


果南ちゃんは左側の虚空を指差した。指差す方向に目を向けると──


梨子「……ぁ」


大きな大きな、フジヤマが見える。『FUJIYAMA』ではない。富士山が……真っ白に冠雪した富士山が、快晴の空の下で、存在感を放って鎮座していた。


果南「こんな高いところから、富士山を見たのって初めてかも」

梨子「……うん」


その雄々しい山の存在感に言葉を失う。それと同時に──果南ちゃんと景色を共有できたという実感が湧いてくる。

気付けば、上昇が終わったのか──


鞠莉「こちら地上79mデース!!」

曜「いぇーい!!」


テンションの高いアナウンスが3個ほど前の席から響いてくる。レール右手には79mと書かれた看板が現れる。


千歌「ダイヤさん、富士山だよ」

ダイヤ「え……? あ……」


鞠莉ちゃんたちのすぐ後ろに座っている千歌ちゃんたちもどうやら富士山に気付いたようだ。

そして、富士山の感動も束の間──コースターは一気に下降を始めた、


梨子「……っ……!!」


重力に従い一気に加速していくコースター。

加速して、加速して、加速して、

加速して、


ダイヤ「長いぃぃ!!! 落下が長いですわああああ!!!!」


ダイヤさんの絶叫が響く。


曜「ひゃっほぉぉぉーーーー!!!」

鞠莉「このスピード感、最高デーーーース!!!!」


──あ、死んだ。

恐怖が一周し、軽く死を悟った瞬間、コースターは下降をやめ、上昇を──


梨子「もう、あがらなくていいからぁーーー!!?」


落下で得たエネルギーをそのまま使って、猛スピードで上昇したあと、頂点でカーブし──再び前方に下り坂が見えてくる。


梨子「いやぁぁぁぁーーーーーーー!!?」

ダイヤ「おろして!!! おろしてくださいいいぃぃぃ!!!!」

千歌「ダイヤさん、暴れないでーーー!?」
172 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:07:29.44 ID:vQ6qZL/R0

私とダイヤさんの絶叫は虚しく、コースターは猛スピードで下り始める。


梨子「きゃああああああああああーーーーーーーーー!!!!!」

ダイヤ「ピギャアアアアアアアアアアアアーーーーーー!!!!!!!」


落下し、そして次に上昇、また落下、また上昇。

目まぐるしく変わるGに内臓が引っ張られるような感覚がして気持ち悪い。

追いつかない思考のまま、今度は捻りながら高速で下り降りていく。

文字通り目を回しながら、恐怖に耐える。

もう、終わりだよね……!? 終わりだよね!?

上昇して、落下、上昇、落下、上昇──


梨子「いつになったら終わるのーーーーー!!!?」

 ダイヤ「いつになったら終わるんですのーーーーー!!!!!?」

果南「長いのが有名なジェットコースターだからーー『FUJIYAMA』ーーー」

 千歌「長いのが有名なジェットコースターなんだよーー『FUJIYAMA』ってーーーー」

梨子「聞いてないいいーーーーーー!!!!!」

 ダイヤ「聞いていませんわーーーーー!!!!」


いつまで経っても終わらないアップダウン。

──あ、これ無理だ。

頭の中に浮かんできたそんな言葉を最後に……その後の記憶は曖昧で……──


 『おかえりなさーい!!』


──パチパチパチと拍手と共に、帰りを迎えられて、やっと終わったことに気付く。


果南「……さすが長いって評判なだけあったね……」

梨子「……」

果南「……梨子ちゃん?」

梨子「…………ぅぇ……?」

果南「大丈夫……?」

梨子「……………………?」

果南「もう終わったよ」

梨子「………………生きてる」


生きた心地がしなかった。ふらつきながら、立ち上がろうとすると、果南ちゃんが支えてくれる。


果南「頑張ったね」

梨子「……あはは」


もはや、自分の中でいろんなものが一周してしまったのか、乾いた笑いが出てくる。

一方、


ダイヤ「…………………………ああ、御婆様が……川の向こうで手招きを……」

千歌「ダイヤさーん!! しっかりしてーー!! その川渡っちゃダメだからーーー!!」
173 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:08:39.50 ID:vQ6qZL/R0

ダイヤさんも負けず劣らずグロッキーだったのは言うまでもない。





    *    *    *





過酷な富士登山後。


鞠莉「ダイヤ、ダメそう?」

ダイヤ「…………ぅぅ……」

千歌「あはは、だいぶ参っちゃってるね……」

曜「今度は落ち着いたアトラクションを選んだほういいかな?」

鞠莉「なら……『メリーゴーラウンド』乗りたい……」


鞠莉ちゃんはそう言いながら、近くでくるくると回っている『メリーゴーラウンド』を目で示す。


千歌「いいね。それならダイヤさんも……」

ダイヤ「い、いやですわ……! あの馬も高速で動くのでしょう!?」

千歌「動かないよー」

ダイヤ「も、もうわたくしは自分の足以外で動くものは信じませんわっ!!」

千歌「それじゃ、帰れないじゃん……」

鞠莉「『メリーゴーラウンド』……やめとく……?」

千歌「んー……これじゃ、ちょっとダメそうかも」

鞠莉「……そっか」


鞠莉ちゃんが露骨にシュンとする。


曜「鞠莉ちゃん、もしかして乗りたかった?」

鞠莉「えっ!?/// ま、まさか〜マリーはこんな子供っぽいアトラクション……」


そう言いながらも、鞠莉ちゃんは回っているお馬さんたちをずっと目で追いかけている。


果南「鞠莉、昔から『メリーゴーラウンド』好きだったからなぁ」

梨子「そうなの?」

果南「馬が好きだからね。子供の頃から遊園地に行くと、その日の間に何度も何度も乗るくらいには好きだったと思うよ」

梨子「へー……」


鞠莉ちゃんの趣味にしては確かにちょっとメルヘンすぎるかなとは思うけど……馬が好きというのも確かにイメージ通りではある。


曜「じゃ、鞠莉ちゃん一緒に乗ろうか」

鞠莉「え、い、いや、別に乗りたいわけじゃ……///」

曜「私はアトラクション全制覇したいからさ! それなら『メリーゴーラウンド』も乗らないと!」

鞠莉「……そ、そういうことなら、付き合ってあげマース……///」

曜「えへへ、よろしくね! それじゃ、行ってくるであります!」


曜ちゃんはそう言いながら、千歌ちゃんたちに向かって敬礼する。
174 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:09:41.75 ID:vQ6qZL/R0

千歌「ごめんね、曜ちゃん」

曜「んー?」

千歌「なんか、チカたち……休憩ばっかになっちゃって」

曜「いいっていいって。……その、さ」

千歌「ん……?」

曜「……千歌ちゃんにとって、一番大事な人はダイヤさんなんだから」

千歌「……。…………うん」


梨子「……?」

果南「……ん」


なんか今、不自然な間があったような……?


千歌「…………」

曜「…………」


いや、たぶん気のせいじゃない。これは、何かの意味がある間だ。


曜「千歌ちゃん」

千歌「……なぁに?」

曜「私、鞠莉ちゃんのこと好きなんだ」

千歌「……うん」

曜「今は鞠莉ちゃんが、一番大切なんだ」

千歌「……うん」

曜「もう、平気だよ」

千歌「……うん」


突然、曜ちゃんが鞠莉ちゃんへの告白のようなことを口にしだしたけど、


鞠莉「…………」

ダイヤ「…………」


鞠莉ちゃんもダイヤさんも、そんな会話をしている千歌ちゃんと曜ちゃんを黙って見守っていた。

そして、二人のやり取りには……何故だか、いろんな言外の意味が込められている、そんな会話であることが自然とわかる空気を纏っていた。

その後、ひと呼吸おいてから曜ちゃんは、


曜「それじゃ、行ってくるであります!」

千歌「うん、行ってらっしゃい!」


敬礼をしながら、鞠莉ちゃんの手を引いて、『メリーゴーラウンド』の方へと、走り去って行った──。
175 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:10:54.77 ID:vQ6qZL/R0

千歌「…………」

ダイヤ「千歌さん」

千歌「ん」

ダイヤ「気は済みましたか?」

千歌「…………あはは、私ずるいね」

ダイヤ「……ずるい?」

千歌「曜ちゃんのこと、傷つけちゃったのは私なのに……きっと、ずっと……曜ちゃんがああいう風に言ってくれるの……待ってた気がする」

ダイヤ「千歌さん……」

千歌「ホントに許してくれてたのか……友達に戻れるか、ずっとわかんないままで……怖くて……っ……」

ダイヤ「……曜さんは、貴女が最初にこのダブルデートを企画した時点で、なんとなくわかっていたのではないでしょうか」

千歌「……」

ダイヤ「貴女の真意に。それと同時に、曜さんも千歌さんと同じように、昔の関係に戻りたいと思っていた。だから、ああして言葉にして伝えてくれたのではないでしょうか」

千歌「……うん」

ダイヤ「そして、千歌さんも。曜さんならきっと、貴女の真意を見抜いて、ちゃんと伝えてくれると信じていたのでしょう? お互いのことをよくわかっている、良い友達ではないですか」

千歌「……うん……っ」

ダイヤ「……ほら、泣かないの。戻ってきて貴女が泣いていたら、また曜さんが不安になってしまうでしょう?」

千歌「うん……っ……な、泣か……ない……っ……」

ダイヤ「よしよし、偉いですわね」


ダイヤさんは千歌ちゃんの頭を撫でながら抱きしめる。千歌ちゃんはダイヤさんの胸に顔を埋めて、肩を震わせていた。

──私たちは、


梨子「……果南ちゃん」

果南「……ん」

梨子「……尾行、終わりにしよっか」

果南「……そうだね」


もはや心を読む必要もないくらいに、きっとこれは私たちが知るべきことじゃなかったんだ……そんな気持ちを二人で共有して、今日のダブルデートの尾行を終わりにするのでした。





    *    *    *





──ゆったりと、音楽に合わせてくるくると回る視界。


果南「……なんかさ」

梨子「うん」

果南「……皆知ってるようで、知らないことばっかりなんだなって」

梨子「……そうだね」


『コーヒーカップ』に腰掛けながら、ぼんやりと言葉を交わす。
176 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:12:53.65 ID:vQ6qZL/R0

果南「……千歌と曜ちゃんの間に、何があったのかはわかんないけどさ……でも、千歌も、曜ちゃんも必死にいろんなこと考えてたんだって……」

梨子「…………」

果南「……勝手に置いてけぼりにされたなんて感じて……尾行なんてして……ちょっと自分が恥ずかしい」

梨子「……私も共犯だよ」


最初から、このダブルデートには目的があった。

千歌ちゃんは、曜ちゃんの気持ちを確かめようとしていた。

断片的な情報のせいで、具体的にそれがどういう内容だったのかまではわからないけど……。

ただ、そんな断片的な情報の中でも、なんでこのダブルデートの計画を、他の人に伝えなかったのかはわかる気がした。

恐らく、千歌ちゃんと、曜ちゃんと、ダイヤさんと、鞠莉ちゃんの4人じゃなくちゃいけなかったんだ。


果南「考えてみれば……どうやって、千歌がダイヤと付き合うことになったのかも、鞠莉が曜ちゃんと付き合うことになったのかも……私、知らないや」

梨子「私も……」


二人して、天を見上げると、天井がぐるぐると回転している。まるで、勝手に迷走していた私たちの心でも表しているかのようだ。


果南「……幼馴染だからって、勝手に知った気になってた……いや、知ってることが当然だと思ってた……知っていいんだと思ってた……」

梨子「果南ちゃん……」

果南「……そりゃ、幼馴染相手でも……知られたくないことも……知らせたくないことも……あるよね」

梨子「…………」


私たちは、そんな当然のことも見落としてしまっていたのかもしれない。


果南「……でも、まあ、やっちゃったことは……もう言っても仕方ないね」

梨子「……それは……。……そうだね」

果南「……なかったことにはならないし」

梨子「……うん」


好奇心は猫をも殺すじゃないけど……知らせないようにしてくれたことに、自分たちから首を突っ込んでしまった以上、私たちが落ち込むのは筋違いだと思う。

もちろん、このことを第三者や本人たちに言うのも。

知らされないはずのことだったんだ。もうこんなことはしないと心に誓って、罪悪感と一緒に胸にしまって終わりにしよう。


果南「……ただ、まあ……それとは別に……来てよかったなって思うことはあるよ」

梨子「え……?」

果南「梨子ちゃんと一緒だったし」

梨子「き、急にどうしたの……?///」

果南「梨子ちゃんが一緒に居てくれて、やっぱ楽しかったなって。……私、あの4人のことばっかに目が行ってたけどさ。最近は気付けばいつも梨子ちゃんが隣に居てくれてて……今日も気付けば梨子ちゃんが隣に居てさ」

梨子「……///」


くるくると回っている。景色が回り続ける中、果南ちゃんは気持ちを吐露し続ける。


果南「今日は……いろんな梨子ちゃんの表情が見れて、なんかうまく言葉に出来ないけど……嬉しかったんだよね」

梨子「…………///」


何故だか、無性に恥ずかしくなって言葉に窮していると、くるくると回っていた視界がゆっくり減速し──止まった。
177 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:14:52.01 ID:vQ6qZL/R0

 『お疲れ様でした。お帰りの際は、忘れ物をしないように──』

果南「なんちゃって。ちょっと気取り過ぎちゃったかな? 今日はもう、帰ろうか」

梨子「うん……///」


先に降りて、『コーヒーカップ』から出ていく果南ちゃんの背中を追いながら、私は──


梨子「私も……嬉しかったよ……///」

果南「ん……? 何か言った……?」

梨子「うぅん、なんでもない……///」


同じ気持ちを共有している事実にまた少しだけ、ドキドキとしていた。





    *    *    *





──まだ日の高い時間、こんな早い時間に遊園地から撤退する人なんてそんなに居ないのか、空席の目立つバスに揺られながら私たちは来た道を戻っていく。

私が窓の外をぼんやりと眺めていると、


果南「ねぇ、梨子ちゃん」


声を掛けられる。


梨子「なぁに?」

果南「……私さ、思ったんだけど」

梨子「?」

果南「梨子ちゃんがこうしてそばに居てくれてるのに……私、梨子ちゃんのこと、あんまりよく知らないなって」

梨子「……どうしたの、急に……?」

果南「……今日もさ、梨子ちゃんが絶叫マシンが苦手だって知らなくって……許可も取らずに『高飛車』に乗せちゃって……悪いことしたなって」

梨子「そんな……ちゃんと言わなかった私も悪いし……」


それに、当初の目的が尾行だった以上、どっちにしろ選択肢はなかったと思うし……。


果南「うぅん……今日の尾行自体も、私が千歌たちのこと、ちゃんと考えてなかったことが原因だと思うし……もう、自分がちゃんとわかってなくてする失敗は繰り返したくなくてさ」

梨子「果南ちゃん……」

果南「……バスに乗ってる時間も結構あるしさ、もし嫌じゃなかったら、梨子ちゃんのこと……教えてくれないかな?」

梨子「え、えっと……」


果南ちゃんの言いたいことはわかった。だけど、突然自分のことと言われても……何を話せばいいんだろう。


梨子「自分のこと……例えばどういうの?」

果南「ちっちゃい頃の話とか……?」

梨子「ちっちゃい頃?」

果南「ほら私、Aqoursメンバーの中に幼馴染が多いからさ。皆のちっちゃい頃はよく知ってるけど……梨子ちゃんの子供の頃は全く知らないし」

梨子「……なるほど」
178 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:21:57.26 ID:vQ6qZL/R0

確かに、果南ちゃんどころか、私の小さい頃のことをAqoursメンバーはほとんど知らないかもしれない。

別に言いたくないなんてことはないけど……特に言う機会もなかったから、こっちに来てからあまり話したことがなかった。

──いい機会かもしれない。そう思い、私は果南ちゃんに自分の生い立ちを話し始める。


梨子「ちっちゃい頃って言っても、そんなに特別なことはないけど……普通に東京で生まれて東京で育って──」

果南「まず東京生まれ東京育ちっていうのが、特殊だよ……」

梨子「親がたまたま東京に住んでたってだけだよ」


確かに内浦の人からしてみれば、そう言いたくもなるのかもしれないけど。


果南「子供の頃はどんなことしてたの?」

梨子「ピアノを弾いたり、お絵かきをしてたことが多かったかな。特にピアノは本当に小さい頃からやってたから……」

果南「やっぱり昔からピアノをやってたんだね」

梨子「うん。あと、ビオラも弾けるよ」

果南「……ビオラ?」

梨子「一回り大きいヴァイオリンみたいな楽器かな」

果南「へー」

梨子「って口で言われても、ピンと来ないと思うから、今度見せてあげるね」


そうは言うものの、ビオラだけ見せられても知らない人には、ヴァイオリンとの区別は付かないかもしれないけど……。


梨子「小さい頃からずっと続けていたピアノは、中学に上がる頃にはそれなりに上達して、全国大会に行けるくらいになって……。そんな成績があったからかな、両親も先生も期待してくれて……だから、高校は音楽に強い学校に入った」


音楽に強い高校──音ノ木坂学院だ。


梨子「でも、高校に入ってからは、中学のときみたいに弾けなくなっちゃって……」

果南「……周りの期待がプレッシャーだった?」

梨子「……そういうのもあったのかもしれない。義務感みたいなものが自分の中に出来ちゃってたのかな。皆の期待に応えなくちゃって……そんな風に思ってたら、あんなに好きだったピアノも、だんだん楽しくもなくなってきちゃって……」


──そして、私はついにコンクールで大失敗をした。コンクールの本番で……弾くことが、出来なかった。


梨子「でも、弾けなくなっても、私にはピアノしかない。結局そう思って、必死にピアノと向き合おうとしたけど……全然ダメで……。そんな私を見たお母さんに、こう提案されたの。──『環境を変えてみない?』って」

果南「それで内浦に?」

梨子「うん。ずっと海の曲を作ってたから……海が近くにある町に引っ越せば、何かが変わるんじゃないかって……。あとは果南ちゃんの知ってるとおりだよ」


──千歌ちゃんと出会って、曜ちゃんを含めて三人で海の音を聴いて。千歌ちゃんが伸ばしてくれた手を、握って、スクールアイドルになった。


梨子「……今はあのときのスランプからは考えられないくらい、伸び伸びとピアノと向き合えてる。音楽とも……スクールアイドルとも」


何をしてもうまく行かない気がして、つまらなかった毎日が、スクールアイドルを始めてからは輝いている気がする。

あのとき、手を伸ばして、飛び込んでよかった。──内浦に……来てよかった。


梨子「私の生い立ちは、こんな感じかな……これで大丈夫だった?」

果南「……一つ気になることが残ってるんだけど」

梨子「? 気になることって……?」

果南「どうして、内浦だったの?」

梨子「……え?」

果南「海のある場所って、たくさんあるでしょ? でも、その中から、なんで内浦に来たの?」
179 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:24:40.63 ID:vQ6qZL/R0

言われてみればそうだ。島国である日本には、海の町はきっとたくさんある。そんな中でも、あえて内浦を選んだ理由──


果南「親の仕事の都合が付く場所とか……梨子ちゃんには決められない理由だったのかもしれないけど……」

梨子「あはは……確かに、私が内浦が良いって言って、引っ越してきたわけじゃないかな」

果南「……まあ、それもそっか。偶然内浦に──」

梨子「でもね」


納得しかけた果南ちゃんの言葉を遮る。


果南「……? でも?」

梨子「内浦を選んだのは……偶然だけじゃないと思う」

果南「どういうこと?」


紫色の二つの瞳が、興味深そうに私に視線を注いでいる。

──ああ、そういえばこの話……千歌ちゃんや曜ちゃんにも、したことがなかったかもしれない。

果南ちゃんに話すのが、初めてだ……。


梨子「──私、実はね。小さい頃に内浦に来たことがあったの」

果南「え」


果南ちゃんはそんな私の言葉に目を丸くする。


果南「ホントに……?」

梨子「うん。小さい頃──小学生低学年くらいのときに、家族と内浦に旅行に来たことがあったの」


実のところ、内浦に旅行に来て、具体的に何をしていたのかまでは思い出せない、だけど──すごくすごく、鮮明に記憶に残っていることが一つだけあった。


梨子「……私、そのとき……内浦の海でね」

果南「うん」

梨子「……人魚姫を見たの」

果南「人魚……姫……?」

梨子「……うん」


果南ちゃんの顔を見ると、ポカンとした顔をしていた。

まあ、そりゃそうだよね。こんな子供の妄想みたいな話……。


梨子「今考えてみれば、子供の勘違いでしかないんだけどね……。でも、当時の私は人魚姫を見たって話を、何度も何度もお母さんやお父さんにしてたから……。きっと、二人にとっても、それがすごく印象深かったんだと思う」


子供の勘違いとはいえ、その勘違いが巡り巡って、今に繋がっているんだとしたら、あのとき見た人魚姫には感謝しなくちゃいけないけどね。

そう思いながら、話を締め括ろうとしたところで、


果南「ねぇ、梨子ちゃん……! その人魚姫って、どんな感じだった!?」

梨子「え?」


果南ちゃんは予想外にも、そんな子供の妄想の話に食いついてきた。


梨子「どんな……えっと……」


何分昔のことだ。詳しい容姿までは覚えていないというか──いや、この間夢に見たのは……。
180 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:26:13.53 ID:vQ6qZL/R0

梨子「……深い海みたいな色の髪をした……綺麗な人魚姫……」


──尤も、果南ちゃんを意識しすぎて、記憶の中で容姿を重ねてしまっている可能性が十分あるんだけど。


果南「……! もう一個聞いていい?」

梨子「う、うん」

果南「どうして人魚じゃなくて、人魚姫だと思ったの?」

梨子「え、えっと……」


そう問われて口籠る。これは果南ちゃんに言うには少し恥ずかしい理由だからだ。


果南「? 梨子ちゃん……?」

梨子「その……わ、笑わない?」

果南「笑う……? なんで?」

梨子「なんというか……その……」

果南「……?」


果南ちゃんは歯切れの悪い私を見て、不思議そうな顔をしていたけど、


果南「……わかった。笑わない。約束するよ」


このままでは、話が進まないと思ったのか、そう約束してくれる。


梨子「……う、うん。それじゃ、えっと……。その……ね」

果南「うん」

梨子「ちっちゃい頃ね……実は……」

果南「うん」

梨子「私、人魚は……──全部、人魚姫だと思ってたの……///」

果南「……え?」


果南ちゃんは再びポカンとした顔をする。


梨子「……あ、あのね! これには理由があって……! 『人魚姫』ってあるでしょ、アンデルセンの童話の」

果南「う、うん。あるね」

梨子「それのイメージがあまりに強すぎて……だから、その……ちっちゃい頃の私は……人魚は全部人魚姫なんだって、勘違いしちゃってて……///」

果南「あー……なるほど」


だから、当時内浦で見たと勘違いした人魚も、人魚姫なんだと思い込んでしまったわけで……。

──今考えてみると、私の話を聞いてお母さんが笑っていたのは、人魚が居たというのが荒唐無稽だったからではなく、もしかしたら人魚=人魚姫だと勘違いしている私が可笑しかったのかもしれない。

そんな、恥ずかしエピソードを披露してしまったわけだけど……。


果南「でも、梨子ちゃん。それ、あながち勘違いじゃないかもしれないよ」

梨子「……え?」


果南ちゃんの反応は、予想外のモノで、
181 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:29:54.17 ID:vQ6qZL/R0

果南「内浦にはね……あったんだよ」

梨子「……? 何が……?」

果南「──人魚姫の噂が」

梨子「人魚姫の……噂……?」


今度は逆に私がポカンとする番だった。


果南「内浦には人魚姫が居るって噂があったんだよ」

梨子「本当に……?」

果南「うん。それも、梨子ちゃんの言うとおり、深い海のような髪色をした人魚姫の噂が……!」

梨子「うそ……」

果南「ホントだよ」

梨子「でもそんな話、誰にも聞いたことなかったよ……?」


内浦は海の町だ。人魚姫の噂自体はあったとしても、そこまでおかしいというほどではない気もする。でも、そんな海の町で──しかも噂話とかが好きそうな千歌ちゃんからも、そんな話は一度だって聞いたことがなかった。


果南「うん。私も今の今まで、人魚姫の噂……あんまり考えないようにしてたんだよね」

梨子「……? どういうこと……?」


噂を考えないようにしていた……?


果南「不思議なことにね、ある日を境に、誰もその人魚姫の噂の話をしなくなっちゃったんだよ」

梨子「……?」


余計に意味がわからず、首を傾げる。


果南「私もその噂は、人から聞いて知ったものだったはずなのに……ある日を境に誰に聞いても、皆『知らない』って言うようになったんだよ」

梨子「そんなことあるの……?」

果南「私も最初は信じられなかったけど……千歌ですら、気付いたら『知らない』って言いだして……」

梨子「…………果南ちゃん、ちょっといい?」


私は、不意に果南ちゃんの手を握ってみる。


果南「梨子ちゃん……?」
 果南『どうしたんだろ……?』

梨子「千歌ちゃんも、前は人魚姫の噂を知ってたの?」

果南「うん、知ってたよ。私も千歌と話したことがあったし」
 果南『むしろ、千歌が人魚姫を探すって言いだして、一緒に探したことがあったくらいだし』


どうやら、本当のことだというのは、間違いないようだ。それだけ確認出来ればいいと思って、私はゆっくりと手を離す。


果南「でもある日、千歌に聞いたら『人魚姫なんて知らない』って言いだしたんだ」

梨子「……それっていつごろだったの?」

果南「えーっと……私が中学に上がるくらいのときだったかな。そのときから、急に皆、人魚姫のことを『知らない』って言いだしたんだよね……。最初は何かの悪ふざけかと思ったんだけど……身近な人たちに聞いても、皆『知らない』って言うから、だんだん気味が悪くなってきてさ……」


確かにそれは軽くホラーかもしれない。


果南「ちょうど母さんたちが、沖縄に行っちゃったところで心細かったのもあったんだろうけど……それ以上、触れるのが怖くなっちゃって……以来、口にしないでいたんだ。でも──」


果南ちゃんの視線が私に注がれる。
182 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:32:07.02 ID:vQ6qZL/R0

梨子「皆が『知らない』はずの人魚姫の噂を……私は知っていた……」

果南「うん」


だから今、私から話を聞いて、極力触れずに考えないようにしていた、人魚姫の噂を思い出したということだ。


果南「私一人がおかしくなっちゃったんだって、ずっと思ってたから……なんか、数年越しに安心した気分だよ」


果南ちゃんはそう言って、安堵したあと──


果南「ねぇ、梨子ちゃん。このあと、私の家に来てくれないかな」


突然、私を家へと誘ってくる。


梨子「いいけど……どうして?」

果南「見せたい物があるんだ」

梨子「見せたい物……。……わかった」


それが何かはわからなかったけど、果南ちゃんが真剣な目で、私を見つめていたから……私は素直にお誘いを受け入れることにした。

そのとき、私に視線を注ぐ、紫色の瞳は──何故だか、少しだけ赤みを帯びている気がした。





    *    *    *





遊園地から帰宅し、ここは果南ちゃんの部屋。


果南「見せたかったものは、これなんだけど……」


そう言って、部屋の中央のテーブルに出されたのは──


梨子「『人魚姫』……」


いつぞやのときに見た、ボロボロの『人魚姫』の絵本だった。


果南「この絵本ね、小さい頃、母さんがくれたものなんだ」

梨子「果南ちゃんのお母さんが?」

果南「母さんも子供の頃から、おばあに読み聞かせて貰ってた絵本みたいでね。お陰でこんなにボロボロなんだけど……」

梨子「どうりで……随分年季が入ってるもんね」

果南「私も母さんに何度も何度も読み聞かせて貰った、思い出の絵本なんだ」

梨子「大切な絵本なんだね……。でも、どうしてそれを私に?」

果南「今日、梨子ちゃんから人魚姫の話が出たから……私ね、不安なときはいつもこの本を読んでたんだ。皆が人魚姫のことを『知らない』って言いだしたときも……それに──」


そこまで言いかけて、果南ちゃんはハッとしたように、口を噤む。


梨子「どうかしたの?」


訊ねながら、果南ちゃんの手に自分の手を軽く添える。
183 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:34:42.51 ID:vQ6qZL/R0

果南「うぅん、なんでもない」
 果南『危うく、鞠莉とのこと話すところだった……』

梨子「そう……?」


鞠莉とのことって……。……そっか、鞠莉ちゃんから拒絶されたときのことか。

確認だけして、手を離す。果南ちゃんは基本的に、スキンシップをあまり気にしないことがわかってきたので、こうして短時間のテレパスを発動するのにもだいぶ慣れてきた。


果南「えっと、話戻すね。……もし、これから先、梨子ちゃんまで人魚姫の噂を『知らない』って言いだしたりしたら嫌だなって……。でも、もし忘れちゃっても、この絵本を見たら思い出してくれるんじゃないかって思って」

梨子「果南ちゃん……」

果南「今確かに梨子ちゃんと一緒に見て、『人魚姫』の話を……人魚姫の噂の話をした。それに梨子ちゃんなら……もし忘れちゃっても、私の言ってること、信じてくれる気がするから……」

梨子「果南ちゃん……うん。もちろんだよ」


私は果南ちゃんの言葉に頷く。

こうして鮮明に話をしたということは、事実として刻まれるはず。

そして──私にはテレパスがある。もし、超常的な力で忘れてしまう何かなんだとしても、果南ちゃんの心を読めば、果南ちゃんとの間にあった事実を認識することが出来るはずだ。

だから、私にとってこの役割は適任としか言いようがない。また、この力のお陰で果南ちゃんの力になれるんだ……!


果南「そういえば、梨子ちゃんも『人魚姫』好きなのかな?」

梨子「え?」

果南「ほら、人魚は全部人魚姫だって勘違いしちゃうくらいには、『人魚姫』を読んでたんでしょ?」

梨子「……/// ま、まあ……/// ……でも、実は『人魚姫』のお話自体は実はそんなに好きではないんだね……」

果南「……そうなの? あんな勘違いするくらいなのに……?」

梨子「その……小さい頃から何度もお母さんに読み聞かせて貰った……らしいんだけど」

果南「覚えてない感じ?」

梨子「あんまり、記憶はないかな……ただ、本当に何度も何度も読み聞かせて貰ったみたいで、物心付いた頃には『人魚姫』の物語は知ってたんだよね」

果南「でも、好きじゃないの……?」

梨子「えっとね、『人魚姫』のストーリーって、人間の王子様に恋をした人魚姫が、自分の声と引き換えに、人間になって王子様に会いに行くけど……結局は恋は実らず、人魚姫は泡になって消えてしまう……ってお話でしょ?」

果南「うん」

梨子「小さい頃はね、その結末が悲しくてすごく嫌で……毎回泣いちゃってたらしいの。……そして、最後は泣き疲れて寝ちゃうの」

果南「ああ……なるほどね」


そこまで、言うと果南ちゃんはピンと来たようだ。


梨子「そう、寝かしつけるのに便利だったから、よく読んでくれてたみたいなの……」

果南「あはは……確かにそれじゃ、好きにはならないかもね」

梨子「ただ……今読めば少しは印象は変わるのかな……」


もう小さい頃の私と違って、いろんなものを見て、価値観も変わって──きっと、昔とは違った物語が見えてくるかもしれない。


果南「ならさ。今、一緒に読んでみる?」

梨子「今?」

果南「さすがに嫌で泣きだしちゃうって言うなら、私も困るから止めておくけど……」

梨子「さ、さすがに今は泣かないよ……!? ……ただ、うん。今読むとどういう風に感じるのかは興味あるかな」

果南「じゃあ、読んでみようか」

梨子「うん」


私は果南ちゃんと一緒に、机に置いた絵本の表紙に手を掛け……ゆっくりと、そのページを開いた──
184 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:36:44.51 ID:vQ6qZL/R0



    *    *    *





──数年振りに果南ちゃんと一緒に読む、『人魚姫』。

有名な話だから、今更かもしれないけど……思い出しながら、目を通す。


とある深い海の底にあるお城に、6人の人魚の姫の姉妹が暮らしていました。

そんな6人の人魚のお姫様の中の末っ子──6人姉妹の一番下の姫君が、物語『人魚姫』の主人公です。

6人の人魚のお姫様たちは好奇心旺盛で、海の外がどうなっているのかに大変興味がありました。その中でも末っ子の人魚姫は皇太后である祖母の話してくれる人間の世界の話に強く関心を持っていました。

姫たちが15歳を迎え、海の外の世界を見ることを許され、ついに年子の6姉妹の末っ子の人魚姫も海の外の世界を見ること許された日、姫は船上で誕生日の宴を行っている美しい王子様を目にします。

人魚姫が美しい王子様に目を奪われていると、気付けば穏やかだった海が次第にうねり始め、急な大シケに襲われました。

稲妻が轟く海の上で、うねる波によってバラバラになった船から投げ出されてしまった王子。人魚姫はこのままでは王子が溺れ死んでしまうと思い、王子を助け一晩中、彼を海面に持ち上げて待ち続けましたが、彼は意識を取り戻しません。

なので、温かい浜辺の方が良いと考え、王子を岸辺に置いて様子を見ていたところ、近くの修道院から出てきた女性が王子に気が付き、連れて行ったことを確認し、人魚姫は海の底へ戻っていきました。

このことをきっかけに、人間に更に強い興味を持った人魚姫は、祖母に人間について質問をします。

そして祖母の答えから、300年生きられる自分たちと違って人間は短命。だけど、死ねば泡となって消える自分たちと違って、人間は魂を持って天国に行けるらしい、ということを知ります。

どうすればその魂を手に入れることが出来るのかを尋ねると──「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だけど「人間たちが異形の人魚たちを愛することはない」と告げられます。

そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、自身の美しい声と引き換えに自分の尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰い、それと同時に「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう」という警告を受けることになります。

加えて、人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたけど、それでも人魚姫は王子に会いたい一心で薬を飲みました。

薬を飲んだ人魚姫は魔女の言うとおり、刺すような痛みに気を失ってしまったけど……人間の姿で気を失っていた人魚姫を見つけたのは、他の誰でもない、あの王子様でした。

その後、保護された人魚姫は王子と一緒に宮殿暮らすことになるんだけど……歩くたびに足に激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話すことも出来ず、王子も人魚姫が自分の命の恩人だと気付かない。

それでも王子は人魚姫を大層可愛がり、彼女のことを「溺れていたところを助けてくれた人」に似ているとも言うけど、それは自分を浜辺で見つけて保護してくれた修道院の女性のことだと思っている。

ただ、王子もその女性は修道院の人だから結婚は出来ないだろうと諦め気味で「僕を助けてくれた女性は修道院からは出てこないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つなお前と結婚するよ」と人魚姫に告げるのでした。

ある日、隣国の姫君との縁談が持ち上がります。乗り気ではないものの、王子がその姫君の許を訪ねると──なんと、彼女が王子を助けた修道院の女性でした。

予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて彼女をお妃に迎え入れてしまいます。

──悲嘆に暮れる人魚姫の前に、5人の姉たちが現れて、魔女から貰った短剣を人魚姫に差し出します。そして、王子の流した返り血を浴びることで人魚の姿に戻れるという魔女からの伝言を伝えます。

人魚姫は眠っている王子に短剣を構えましたが、隣で眠る姫君の名前を呟く王子の寝言を聞き──手を震わせた後、ナイフを遠くの波間へ投げ捨てました。

人魚姫は愛する王子を殺すことと、彼の幸福を壊すことが出来なくて……自ら死を選び、海に身を投げて、泡となって消えてしまったのでした……。





    *    *    *


185 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:37:49.03 ID:vQ6qZL/R0


──パタンと絵本を閉じる。

ボロボロでところどころ、ページをセロハンテープで貼りなおしていたり、完全に糊が取れてしまって分解しかけているページもたくさんあったけど……本として読む分には一応差し支えはなかった。


果南「……どうだった?」

梨子「……やっぱり、今読んでも……悲しいお話だね」

果南「……そうだね」

梨子「……最後まで王子様のことを想っていたのに……結局最後は泡になって、消えちゃうなんて……」

果南「……うん」


あまりに報われない最後に、目元が潤んでいる──……い、いけないいけない。泣かないって言ったのに。

目元を拭っていると──急に果南ちゃんが頭を撫でてくる。


 果南『ふふ、やっぱり泣いちゃってる』

梨子「……///」


悔しいけど、悲しいものは悲しいんだもん……。そう自分で開き直りながらも、涙一つ流さない果南ちゃんは逆にすごいと思う。


梨子「か、果南ちゃん……///」

果南「んー?」

梨子「も、もう……平気だから……///」

果南「ふふ、そっか」


果南ちゃんは軽く笑って、やっと撫でるのをやめてくれる。

いや、その……撫でられるのは嬉しいけど……これ以上は恥ずかしいから……。


果南「っと……気付いたら、もう随分遅くなっちゃったね」


言われて時計を見ると──時刻は気付けば午後6時。


果南「泊まっていく? ……って、言いたいところだけど、2週連続だと親御さんも心配するだろうから、船出すね」

梨子「いいの?」

果南「今回は私が急に呼んじゃっただけだし……それに、あの時間に淡島に来たら確実に帰りの便はなくなっちゃうってわかってたからね。最初から船で送るつもりだったからさ」

梨子「そういうことなら、お言葉に甘えて……」

果南「それじゃ、行こうか」

梨子「うん」


果南ちゃんのあとを追って、部屋を出て行こうとしたとき、何気なく振り返ると、


梨子「……?」


何故か先ほど果南ちゃんと読んだ絵本が──なんとも形容しがたい不思議な存在感を放っている気がした。


梨子「……何?」


思わず足を止めてしまったけど、


果南「梨子ちゃーん! 早くー! 遅くなっちゃうからー!」

梨子「あ……はーい!」
186 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:38:46.34 ID:vQ6qZL/R0

……片付いた部屋の中で、ボロボロな様相が目立っているだけかな?

そう自分の中で結論付けて、私は果南ちゃんの部屋を後にしたのだった。






    *    *    *





果南「──到着……っと!」


あのあと、果南ちゃんの操舵する小型船舶で本島に戻ってきた。


果南「梨子ちゃん、今日は一日ありがとね」

梨子「こちらこそ、ありがとう。……今日は濃密な一日だったね」

果南「……そうだね」


尾行から始まって、結局その尾行したことを後悔したりもしたけど……。


梨子「『人魚姫』……久しぶりにしっかり読んだ気がするよ。……また家に帰って読み返してみようかな……」


果南ちゃんの家の文字多めの絵本と違って、私の家にあるのは子供向けの絵が多めで短いやつだけど……。


果南「ふふ、泣いちゃったら電話してくれてもいいからね?」

梨子「も、もう、からかわないでよ……!///」

果南「あはは、ごめんごめん」


果南ちゃんはカラカラと笑う。


果南「……でも、さ」

梨子「?」

果南「どうすれば、あの物語は、あんな悲しい結末にならなかったんだろうって……今でも思うよ」

梨子「……」


どうすれば……か……。


果南「……もし、人魚姫の気持ちが……王子様に伝わっていたら……変わってたのかな」

梨子「人魚姫の……気持ち……」

果南「王子様が……人魚姫の考えてることがわかれば……結末は変わってたのかな……」

梨子「……そう……かもね」


相槌を打ちながら、顔をあげると──寒空の下、白い息の向こう側に、ゆっくりと波打つ黒い海が広がっていた。

人魚姫が泡となって消えてしまった、異国の海を思い浮かべながら……私たちはしばらくの間、少し感傷的な気分のまま、揺れる夜の水面を見つめていたのでした。





    *    *    *


187 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:40:03.08 ID:vQ6qZL/R0


──12月16日月曜日。

期末試験が終わり、二学期の登校日も残すところ7日ほど。

木曜からは授業も午前授業だけで終わるので、今学期でいつもどおり授業を行うのはあと3日。

教室の雰囲気もすっかり、二学期のロスタイムのような感じだ。


梨子「ふぁ……」


かくいう私も少し気が抜けている気がする。

欠伸を噛み殺しながら、バッグの中身を整理していると、


千歌「りーこちゃん♪ おはよ♪」


すぐ後ろの席から、千歌ちゃんの声。


梨子「おはよう、千歌ちゃん。ご機嫌だね」

千歌「うん! 週末は良いことがいっぱいあったから!」

梨子「そうなんだ?」

千歌「そうなんだよ〜! 昨日も一日中、ダイヤさんと一緒で……えへへ〜♪」

梨子「ふふ、よかったね」

千歌「うんっ!」


幸せオーラを全身から放ちながら、朗らかに笑う千歌ちゃんを見ていると、なんだか微笑ましくて笑ってしまう。

──きっと、千歌ちゃんの言う“良いこと”の中には、私たちが知るはずのなかった例のこともあるんだと思うと、少しだけ良心が痛むけど……それでも、千歌ちゃんが幸せそうに笑っているのは一人の友人として純粋に嬉しい。


千歌「梨子ちゃんにも、良いことのおすそ分け!」

梨子「?」


そう言いながら、千歌ちゃんが1枚の紙を差し出してくる。

受け取って、見てみると……。


梨子「あ……歌詞」


それは、歌詞の綴られたルーズリーフだった。千歌ちゃんのソロ曲の歌詞だ。


千歌「なんか、いいこといっぱいあったから筆が乗っちゃって……」


それは何よりだ。私も、幸せいっぱいの千歌ちゃんに、無理やり歌詞の催促はしづらいからね。

今しがた受け取ったばかりの歌詞に目を通すと、そこには未来へのたくさんの期待や希望がこれでもかと散りばめられた、いかにも千歌ちゃんらしい前向きでキラキラとした詩が綴られていた。


千歌「どうかな?」

梨子「うん、素敵な歌詞だと思うよ」

千歌「やった! 一発OK!」

梨子「曲調のイメージは希望とかある?」

千歌「うんとね、とびっきり楽しいやつ! ミュージカルみたいなのがいい!」

梨子「ミュージカルだね。わかった、考えてみる」

千歌「ありがとう、梨子ちゃん! 一応ダイヤさんにも、そうお願いしたんだけど……難易度が高いって言われちゃって」

梨子「あはは……確かに、お琴でミュージカルはちょっと難しいかもね……」
188 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:42:15.43 ID:vQ6qZL/R0

どうしても、楽器には得手不得手がある。

お琴をメインに作曲をするダイヤさんには、ミュージカル調の曲とは相性が悪いと思うので、それは出来なくても仕方ないかな。

どっちにしろ、作曲や編曲は私の仕事だから、それ自体はそこまで問題ではないし。


梨子「それじゃ、持ち帰って作曲するね」

千歌「うん! お願いね!」


──さて、これで歌詞を提出してくれたのは、ルビィちゃん、曜ちゃん、鞠莉ちゃん、善子ちゃん、ダイヤさん、千歌ちゃんの6人。

加えて、私も少しずつ進めていた自分の曲の作詞と作曲がほぼ完成している。

残りは花丸ちゃんと──果南ちゃんだ。


梨子「…………」


そういえば、果南ちゃん……作詞は平気かな……?

以前見てしまった歌詞ノートには苦戦しているのが見て取れたけど……。

今日もお昼休みに会うから、そのとき聞いてみようかな……?





    *    *    *





お昼休み、いつもどおり教室を弾丸のように飛び出していった千歌ちゃんに苦笑しながら、同じように恋人の所へと行く、曜ちゃんを見送ってから、私も部室へと向かおうと荷物をまとめて教室を出ると、


花丸「梨子ちゃん!」

梨子「花丸ちゃん?」


ちょうど、教室を出たところで花丸ちゃんに声を掛けられた。


梨子「どうかしたの?」

花丸「うん、歌詞が完成したから渡しに来たずら」


そう言いながら、花丸ちゃんは歌詞の書かれた紙を手渡してくる。


花丸「歌詞自体はもうちょっと前に完成してたんだけど……作曲の方がなかなか進まなくて、ちょっと遅くなっちゃったずら……ごめんなさい」

梨子「うぅん、大丈夫だよ。むしろ、作曲までしてくれて助かるよ」

花丸「ただ、あいしーれこーだー? の使い方がよくわかんなくて……曲のでーたみたいなものは手元にないんだけど……」

梨子「わかった。それじゃ、放課後に一緒に音楽室で確認しよっか」

花丸「お願いするずら。それじゃあ、また放課後に」


花丸ちゃんはそれだけ言うと、踵を返して帰って行く。用事は歌詞を渡しに来ただけだったようだ。

今しがた受け取った歌詞に軽く目を通す。

何気ない日常を少し俯瞰して見つめながら、そんな中に溢れる、ほんわかとした言葉選びと雰囲気が、絶妙に花丸ちゃんらしさを醸し出している歌詞だった。

──これで歌詞は8人分。


梨子「あとは果南ちゃんの歌詞だけか……」


一人呟きながら、私はその果南ちゃんと一緒にお昼を食べるために部室へ向かう──


189 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:43:22.25 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





果南「お、きたきた」


部室を訪れると、果南ちゃんは先に席に着いて待っているところだった。


梨子「遅くなって、ごめんね」

果南「大丈夫だよ、私も今きたところだから」


自然と果南ちゃんの隣の席に腰を下ろす。

この位置も自分の定位置になりつつある。もう随分慣れてきた。

いそいそとお弁当箱を取り出して、食べる準備を整える。


梨子・果南「「いただきます」」


二人で手を合わせて、いただきます。


梨子「今日のお出汁はなんですか?♪」

果南「今日は真イワシだよー」


そう言いながら果南ちゃんは出汁巻き卵を半分に切ってから、私の口元に差し出してくる。


梨子「……あむ」


我ながら、本当によく慣れたものだと褒めてあげたくなるくらい、自然と食べさせてもらう。

出汁巻き卵を口に含むと、コクのある出汁の味と香りが口いっぱいに広がる。


果南「おいしい?」

梨子「うん、おいしい……」


また初めて食べる出汁を味わいながら、私もお返しにと自分で作った、たまご焼きを果南ちゃんのお弁当箱を入れてあげる。


果南「いつもありがとう、それじゃ遠慮なく……」


果南ちゃんは渡したたまご焼きをすぐに口に放り込み、


果南「んー……! やっぱ、梨子ちゃんの作るたまご焼きの甘さ加減、絶妙だよ〜!」


嬉しそうに舌鼓を打つ。

もはや、こうしてたまご焼きを交換し合うのがお決まりになりつつあるお昼休み。

すっかり毎朝たまご焼きを作るのが習慣になってきてしまったけど……こうして果南ちゃんが喜んでくれるのが嬉しくて、朝の忙しい時間の中でもあまり大変と感じない。
190 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:45:31.68 ID:vQ6qZL/R0

果南「梨子ちゃんのたまご焼きが食べられて幸せだなぁ……」

梨子「えへへ……/// 私のでよかったら、これからも作ってくるから……///」

果南「お陰で毎日お昼休みが楽しみだよ。……あ、でも二学期のお昼休みって明後日で終わりなんだっけ」

梨子「そうだね。木曜からは午前授業で終わりだから……」

果南「残念だなぁ……今年はあと2回しか食べられないのかぁ」

梨子「ふふ……そんなに食べたいなら、冬休みの間、果南ちゃんのお家に作りに行っちゃおうかな?」

果南「ホントに!? 梨子ちゃんが来てくれたら、おじいも喜ぶよ!」

梨子「あ、でも……おじいちゃん、甘いたまご焼き食べられる?」

果南「平気平気、おじいあれで甘い物、結構好きだからさ」

梨子「そうなの? 意外かも……」

果南「でしょ? ただ、それ指摘されると機嫌悪くなるから、言わないようにしてるけどねー」

梨子「ふふ、おじいちゃんも意外と可愛いところあるんだね」


会話も最初の頃に比べると随分弾むようになってきて、お互い冗談も言い合える仲になった気がする。

──あ、でも果南ちゃんのお家に行こうかって言うのは、半分くらい本気だけどね?


果南「そういえば、今日は来るのがゆっくりだったけど、二年生って四時間目移動教室だったの?」

梨子「あ、うぅん。部室に行く前に、花丸ちゃんと話してて……」

果南「マルと?」

梨子「うん、歌詞を渡されて……」

果南「……歌詞」


果南ちゃんのお箸が止まる。


梨子「……やっぱり、歌詞苦戦してる……?」

果南「え? あーいや、もうちょっとでできそうだよ、大丈夫! せめて、千歌よりは早く完成させないとかなーあはは」

梨子「あ、えっと……千歌ちゃんの歌詞も今朝完成したものを受け取ったよ」

果南「え、そうなんだ……。となると、もしかして私が最後……?」

梨子「うん、一応そうなるのかな……」


もちろん、これから譜割りとかで、調整とかもするだろうから、千歌ちゃんと花丸ちゃんの歌詞も正確には完成ではないけど……。


果南「あちゃー……ごめんね。すぐに完成させて持ってくるから」

梨子「うん。でも、焦らなくても大丈夫だからね?」

果南「ありがとう。ちゃっちゃと終わらせちゃうよ」


いつものように雑談をしながらお弁当を食べる果南ちゃんだけど──話に受け答えをしながらも、僅かに目が泳いでいたのを私は見逃さなかった。


梨子「果南ちゃん、本当に大丈夫?」


言いながら、果南ちゃんの手にさりげなく自分の手を添える。


果南「平気だよ、心配しないで」
 果南『……ホントはまだ全然出来てないけど……どうにかしなくちゃ』


案の定、果南ちゃんの歌詞進捗は煮詰まっているようでした……。


191 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:48:57.43 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





──放課後。


ダイヤ「さて、皆さん。今年の登校日も残すところ数日です。年末年始は何かと忙しいメンバーも多いと思うので、冬休みまでのあと数日、しっかり活動をしましょう」

千歌「なんか最近、部長としてのお株を奪われてる気がする……」

ダイヤ「なら、何か言いますか? 部長さん?」

千歌「え? ……んー……皆とにかく楽しく元気に頑張ろう!」

ダイヤ「だそうです」

善子「……今のいる?」

曜「あはは……」


千歌ちゃんの気の抜ける挨拶もそこそこに、私は遠慮気味に手をあげる。


梨子「あのー……果南ちゃんは……?」


ダイヤさんが部活の前の一言を言った時点で、部室に居たのは8人。

果南ちゃんの姿が見えない。


鞠莉「果南は今日は先に帰ったわ。やることがあるって言ってた」

梨子「……そうなんだ」


やること──恐らく歌詞作りだと思う。

歌詞の作業のために、部活を休むというのは、だいぶ逼迫してきているのかもしれない。

果南ちゃん……心配だな。

とはいえ、私にもやることはある。


ダイヤ「それでは本日もソロ曲の作業を進めましょう」

曜「ルビィちゃんと私は衣装作りだね」

ルビィ「うん!」

曜「今日は、善子ちゃんの衣装案まとめちゃおう」

善子「くっくっく……苦しゅうないぞ、リトルデーモンたち」

ダイヤ「では、わたくしと鞠莉さんは、皆さんから貰った案を見ながら、どれが可能なステージ演出なのかを考えましょうか」

鞠莉「そうデースね」


それぞれが、それぞれの仕事に散っていく。


梨子「それじゃ、千歌ちゃんと花丸ちゃんは私と音楽室に行こっか」

千歌「わかったー!」

花丸「よろしくお願いするずら」


果南ちゃんは心配だけど……今は私も私の仕事をしよう。


192 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:50:33.50 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





花丸「ららら〜〜♪」

梨子「……そこでストップ」

花丸「ずら」


花丸ちゃんのフレーズごとにリズムを口ずさんでもらって、それをピアノで弾きなおす。

そして、五線譜に簡易的なおたまじゃくしと作曲用のメモを書く。


梨子「次のフレーズお願いしていい?」

花丸「了解ずら〜。……らーららら〜〜♪」


そんな作業の繰り返しで曲を起こしていく。

その過程で違和感のある部分を花丸ちゃんと擦り合わせながら修正していく作業なんだけど──


花丸「らららららら〜♪ ……これで終わりずら。どうかな……?」

梨子「すごくいいと思うよ……! 私が手を加える部分なんて、ほとんどないと思う」

花丸「本当に? よかったずら〜……」


鞠莉ちゃんもダイヤさんも花丸ちゃんも作曲組は文句のつけようがない作曲をしてきてくれていて、本当に助かる。


梨子「あとはこっちで預かって、編曲が出来たらまた聴いてもらうね」

花丸「了解ずら!」

千歌「花丸ちゃん、お疲れ様!」


音楽室の椅子に座って、楽譜起こしを見ていた千歌ちゃんが駆け寄ってくる。


千歌「すっごいいい曲だったよー! 完成が楽しみだね!」

花丸「ありがとう千歌ちゃん。そう言って貰えると肩の荷が下りた気がするずら……」

千歌「梨子ちゃんもすごいね! 一回花丸ちゃんが口ずさんでるの聴いただけで、ピアノで弾けちゃうんだもん!」

梨子「これでも、Aqoursの作曲担当だからね」

千歌「頼もしい! やっぱ梨子ちゃんさまさまだよ〜」


もちろん、編曲するに伴って、今弾きながら書いていた簡易的な楽譜も、あとで軽く浄書しなくちゃいけないから、まだ完成ではないけどね。


梨子「どういたしまして。それじゃ、次は千歌ちゃんの作曲だね」

千歌「はーい! お願いしますっ!」

花丸「マルもここで聴いていてもいい?」

梨子「もちろん。……えーと、千歌ちゃんの楽曲イメージはミュージカル調だったよね」

千歌「うん! とびっきり楽しいやつ!」

梨子「わかった。とりあえず、何パターンか知ってる曲を弾いてみるから、近いイメージのやつを選んでくれる? そこからイメージを固めてこう」

千歌「了解!」


──作曲の作業はかなりスムーズに進行していた。

花丸ちゃんの曲は、そもそも完成度が高い状態で聴かせて貰えたし、千歌ちゃんも思ったより、自分の中でイメージが固まっていたらしく、
193 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:52:18.64 ID:vQ6qZL/R0

千歌「……もうちょっと、テンポが速いのがいいかな」

梨子「じゃあ、2番目の曲?」

千歌「うぅん、4番目の曲のテンポが少し速い感じで──」


と言った具合に、必要以上に遠慮をせずにイメージの意見を出してくれるので、こちらも千歌ちゃんがどういう曲調を求めているのかがわかりやすくて、早い段階で曲の大まかな骨組みが決まっていく。

何曲も作詞作曲を二人でやってきて、野球で言うバッテリーのような信頼関係を築いてきた証拠なのかもしれない。

一応今日の予定では大まかなイメージ決めだけのつもりだったけど……気付けば、あれよあれよと言う間に主旋律の作曲に差し掛かっていた。


花丸「あっという間に曲が完成していくずら……」

梨子「千歌ちゃんのイメージが明確だからね」


そうは言っても、私自身の中でも十分早い作曲ペースだと思うけど。

何より、千歌ちゃんがガンガン口ずさむなり、こういう風にしたいという具体的な案を言ってくれるからこそだ。


梨子「……じゃあ、ここの旋律を繰り返して……」

千歌「ねぇねぇ、梨子ちゃん」

梨子「ん?」

千歌「今思い付いたんだけど、もっと聴いてる人が『あっ!』と驚くような感じに出来ないかな!!」

梨子「驚くような……か」

千歌「急に曲調が変わるような感じとか!」


千歌ちゃんの話を聞きながら、軽くメモをしていく。

そうなると、変調……いや、千歌ちゃんの言ってるニュアンスだと変拍子した方がいいかな……。


千歌「楽しい気持ちの中にね、驚きとか発見があったらいいなって!」

梨子「……なるほど。でも、それだと譜割りが大変になるかもよ?」


今見た歌詞の譜割りを頭の中で考えながら作曲をしていたから、その旋律リピートを考慮していそうなこの歌詞の並びだと、少し言葉を調整しないといけない気がする。


千歌「なら、書き直す! ちょっと歌詞借りるね!」

梨子「え、今!?」


私が見ながら弾いていた歌詞の書いてある紙を、ひったくるようにして回収した千歌ちゃんは、取り出したペンで歌詞をどんどん修正していく。


花丸「千歌ちゃん、今から修正するずら!?」

千歌「…………」

花丸「あ、あれ? 千歌ちゃーん?」

梨子「たぶん、聞こえてないっぽいね」

花丸「す、すごい集中力ずら……」


千歌ちゃんは作詞をしているとたまにこうなる。

こうなると周りの声が全く聞こえないくらいに集中して、そこまでの詰まり具合が嘘のように、歌詞を書き始める。

ただ、経験上これはすごくいい傾向だ。


梨子「こうなったら、千歌ちゃんはすごいから。きっといい曲になると思うよ」

花丸「千歌ちゃんのこと、信頼してるんだね」

梨子「ふふ……これでも、一緒にたくさん曲を作ってるからね」

千歌「…………ここ、こう」
194 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:53:30.52 ID:vQ6qZL/R0

千歌ちゃんの曲は予想以上に早く完成しそうだ。曲が出来るまであと一歩かな──





    *    *    *





──翌日。お昼休みに部室へ行くと、


果南「…………」


果南ちゃんがノートと睨めっこをしているところに出くわす。


梨子「果南ちゃん?」

果南「え、あ、梨子ちゃん」


声を掛けると、果南ちゃんはパタンとノートを閉じる。


梨子「歌詞、考えてたの?」

果南「う、うん、まあ、ちょっとね、あはは」

梨子「順調?」

果南「う、うん、そこそこかな」

梨子「本当に?」


また、さりげなく果南ちゃんの手に自分の手を添えながら訊ねてみる。


果南「ぅ……も、もちろん」
 果南『昨日から一文字も進んでないなんて……言えない』

梨子「そっか……」


私は添えていた手を離しながら、果南ちゃんの隣に腰を下ろす。


梨子「お昼ごはん、食べようか」

果南「そ、そうだね」


私がお弁当を取り出していると──


果南「あ」

梨子「? どうかしたの?」

果南「お弁当……忘れちゃった……」


果南ちゃんはそう言って、項垂れる。

こんなこと今までなかったし……相当切羽詰まっているようだ。


果南「ちょっと、近くのコンビニになんか買ってくる……」

梨子「近くのコンビニって……学校から往復で5qくらいあるよ……?」

果南「走れば20分くらいで帰って来られるよ」


速っ! ……じゃなくて……。
195 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:54:25.86 ID:vQ6qZL/R0

果南「ちょっと行ってくるね」

梨子「あ、か、果南ちゃん……!」


有無を言わさず猛スピードで果南ちゃんは飛び出して行ってしまった。


梨子「…………」


一瞬追いかけて引き留めようかと、迷いはしたものの……どうせ私の足じゃ、走っても追いつけっこないし……。

少しの間、果南ちゃんを待つことにする。

ふと──件の歌詞ノートが置かれたままなことに気付く。


梨子「…………」


一応、果南ちゃんが戻ってきていないかを確認してから、開いてみると──

そこには大きな文字で『私のイメージ』と書かれている。

それ以外は前回見たときから増えている情報もほとんどないので、どうやらそこから先に進めていないようだった。


梨子「……イメージ、か」


どうやら、果南ちゃんは自分が周りの人からどういう風に見られているのかを必死に考えているようだ。


梨子「…………」


果南ちゃんなりにソロ曲を作るのはどういうことかを考えた結果なんだろうけど……私は果南ちゃんのソロ曲作りの考え方に少し困ってしまう。

大事なのは周りのイメージじゃないと思うけど……ただ、どうやってそれを伝えればいいんだろう……。

私はノートを前に、悩みながら果南ちゃんの帰りを待っていたけど……結局、果南ちゃんが戻ってくるまで、うまく伝える言葉が出てこないまま頭を抱えていることしか出来なかった。

──ちなみに果南ちゃんが本当に20分程で部室に戻ってきたというのは、余談かな……。





    *    *    *





放課後になり、部活の時間。

だけど、今日も部室内に果南ちゃんの姿はなかった。


曜「千歌ちゃん、花丸ちゃん、衣装案って出来てる?」

千歌「あ、うん!」

花丸「マルも出来てるずら」

ルビィ「それなら、今日は二人の衣装案を確認するね」

千歌「はーい!」

花丸「お願いね、ルビィちゃん」

ダイヤ「……善子さん」

善子「善子じゃなくて、ヨハネよ。何かしら?」

ダイヤ「このいかつい感じの……なんですか、これは……? 墓石ですか?」

善子「椅子よ! 椅子! 見ればわかるでしょ!?」

ダイヤ「こんなデザインの椅子、あると思っていますの……? せめてもう少し現実的なデザインにしてくれないと……」
196 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:55:44.01 ID:vQ6qZL/R0

各々は作業に入っている。私にも編曲作業はいくつかあるけど……。


梨子「…………」


果南ちゃんが気になる。

完全に煮詰まってしまっている果南ちゃんをこのまま放っておいていいんだろうか……。

でも、自分の仕事を放り出して、抜けるわけにも……。一人で悶々としていると、


鞠莉「梨子、ちょっといいかしら」


鞠莉ちゃんに声を掛けられる。


梨子「ん、何かな……?」

鞠莉「ちょっと、曲について聞きたいことがあって」

梨子「曲について……?」


なんだろう……? 鞠莉ちゃんの曲はもう完成してるし、他に鞠莉ちゃんが気にしそうな曜ちゃんの曲も、すでに完成済みだ。


鞠莉「音楽室で確認したいから、付いてきてくれる? あ、荷物は持ってきてね」

梨子「……わかった」


内容はよくわからないけど、曲関連のことで私が話を聞かないわけにもいかない。


梨子「鞠莉ちゃんと音楽室に行ってくるね」

千歌「いってらっしゃーい」


──鞠莉ちゃんと一緒に部室を出ると、鞠莉ちゃんはすたすたと先を歩いていく。

私はその後ろを付いていく。……行くんだけど……。


梨子「……? 鞠莉ちゃん、音楽室の方向そっちじゃないよ……?」


鞠莉ちゃんは何故か昇降口の方を目指していた。


鞠莉「行きたいんでしょ?」

梨子「……え?」

鞠莉「果南のところ」

梨子「え!? い、いや……えっと……」

鞠莉「顔に書いてあるよ」


どうやら、果南ちゃんの進捗を心配しているのが、バレてしまっていたらしい。


梨子「でも……私だけ部活を抜けて行くのは……」

鞠莉「梨子が行かなくて誰が行くの?」

梨子「そ、そりゃ、鞠莉ちゃんとか……ダイヤさんとか……果南ちゃんが一番素直に悩みを話せる人が行った方が」

鞠莉「違うよ、梨子」

梨子「?」


何が違うんだろう……? 私が首を傾げていると、鞠莉ちゃんはニコっと笑って、


鞠莉「果南が今、一番素直に悩みを打ち明けられるのは──梨子だヨ」
197 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:56:55.14 ID:vQ6qZL/R0

そんな風に言う。


梨子「え……な、なんで、そう思うの……?」


まさか……テレパスもバレた……? どうやって……?

急に別のベクトルの不安が胸中を渦巻いたけど……さすがにそれは杞憂だった。


鞠莉「だって……休日にペアルックで、尾行デートしちゃうくらいの仲なんでしょ?♪」

梨子「!?」


ただ、これまた別のベクトルでバレたくないことがバレていた。


梨子「え、あ、いや……えっと……」

鞠莉「確かに変装は上手だったけどネ。ずっと同じカップルがわたしたちの後ろに付いて回ってるんだもん。さすがに気付くでしょ」

梨子「…………」


言われてみれば無理があったかもしれない……。


梨子「……あの……ごめんなさい……」

鞠莉「そうね。あんまり、おイタしちゃダメよ?」

梨子「はい……。……あの、このこと曜ちゃんたちは……?」

鞠莉「曜と千歌は気付いてないわ。いろいろ考え事してたと思うから。あと、ダイヤも余裕がなかったから、気付いてないっぽいネ。だから、気付いていたのはわたしだけだヨ」

梨子「そっか……。……その、本当にごめんなさい……」

鞠莉「……ま、わたしはそんなに気にしてないし、果南や梨子の立場だったら尾行しちゃいたくなる気持ちもわからなくもないからネ。ただ……」

梨子「ただ……?」

鞠莉「曜と千歌のことは見なかったことにしてくれると嬉しいかな……。千歌の方はわかんないけど……少なくとも曜は、梨子を巻き込まないように意識してたから」


曜ちゃん……そんな風に思ってたんだ……。それを聞いて、きっと千歌ちゃんも同じような気遣いをしてくれていたんじゃないかなと思う。


梨子「うん……わかった」

鞠莉「代わりに……ってわけじゃないけど」

梨子「……?」

鞠莉「果南のこと、お願いしていい?」

梨子「……。……私で、いいのかな」

鞠莉「さっきも言ったけど、今果南が一番素直に本音を打ち明けられるのは梨子だと思うヨ」

梨子「…………」


──いや、ここまで来て、何怖気付いてるんだ私。

私は、果南ちゃんを支えるんだって、決めたじゃないか。

私にしか出来ないから、この“ご縁”は回ってきたんだ。


梨子「わかった」

鞠莉「Thank you. 梨子。お願いね」

梨子「うん……!」


私は力強く頷いて、学校をあとにするのでした。


198 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:57:52.86 ID:vQ6qZL/R0


    🐬    🐬    🐬





今日も部活を休んで、帰宅し机に向かう。


果南「………………」


ペンを握ったまま、ノートと睨めっこを始めて、もう1時間が経過しようとしていた。

なのに──


果南「全く思い浮かばない……」


さっきから開いているページは依然でかでかと書かれた『私のイメージ』という文字以降これっぽっちも進んでいない。


果南「鞠莉とダイヤと、三人でやってたときはこんなことなかったのに……」


もちろん、全く歌詞に悩んだことがないわけじゃないけど……逆に言うなら全く何も思い浮かばないということもなかった。

なんとなく、こういう歌詞にしたいなーという着想が最初からあって、そのアイディアを二人に話しているうちに、完成に近付いていく……いつもそんな感じだった。

──でも、今回はダメだ。まず最初のとっかかりすら湧いてこない。


果南「…………私の曲……」


自分のAqoursでの立ち位置をもう一度考えてみる。

たぶんだけど……可愛いタイプの千歌やルビィちゃんとは違う。

どっちかといえばクール寄りだとは思う……だけど、ダイヤや善子ちゃんとも違う。

鞠莉なんかは真逆だし……物事に対して、一歩引いてるマルは少し近い……のかな……?

でも、マルと私を隣に並べて考えると……なんか、雰囲気が全然違うな……。

スポーティな曜ちゃんなら近い……?

でも、曜ちゃんの場合は、私よりもアグレッシブな感じがする……。

私はどっちかというと黙々と一人でこなすタイプで……。

じゃあ──


果南「梨子ちゃん……」


最後に残った一人を思い浮かべて、


果南「いや……それこそ、真逆だよ……」


かぶりを振る。

梨子ちゃんは私とは全然違う。すごく女の子らしくて、可愛らしい子。

私とは真逆の女の子だからこそなのかな……そばに居てくれるだけで何故か安心出来て──


果南「……って何考えてんだ。真面目に作詞……作詞……」


再び、ノートに視線を落とす。

だけど、ペンは一向に動きそうもない。


果南「……うぅーん……」
199 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 16:58:55.71 ID:vQ6qZL/R0

いくら頭を抱えても、何も浮かんでこない。


果南「……はぁ、ダメだ……。ちょっと気分転換に散歩してこようかな……」


私は上着を羽織って、休憩がてら、散歩に行くことにする。





    🐬    🐬    🐬





果南「はぁー……」


吐いた溜め息は、白く立ち昇り冬の淡島の空に消えていく。

先週末はたまたま暖かかったけど、今週に入ってから、思い出したかのように冬本来の寒さを取り戻してきた。

もしかしたら、あの暖かい日和は、試験を頑張った千歌たちへのご褒美だったのかもしれない。

そんなことを考えながら見上げる空は、高く澄んでいる。

淡島をぐるっと回りながら、空を見上げ、ときおり海に視線を落とす。


果南「今日も綺麗だなぁ……」


景色を見ながらぼんやりと呟く。

私はこの景色が好きだ。

だから、もやもやしたときはこの景色をゆっくり見ながら散歩をする。

そうすれば大体の場合は気分がすっきりしていい考えが浮かぶんだけど……。


果南「なんにも……浮かんでこない……」


悲しいことに、考えども考えども、いい歌詞は一向に浮かんでこない。


果南「はぁ……」


再び白い溜め息を吐く。気付けば淡島もそろそろ一周してしまう。

伏し目がちのまま、歩いていると──


 「──果南ちゃん」


急に声を掛けられた。


果南「え……?」


思わず顔をあげた私は、その声の主を見て、ポカンとしてしまった。


梨子「こんにちは、お昼休みぶりだね」

果南「梨子ちゃん……?」


そこに居たのは──梨子ちゃんだった。


梨子「歌詞……順調?」

果南「…………」
200 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:00:07.10 ID:vQ6qZL/R0

ああ、そうか……。歌詞が出来ていないと、一番困るのは、この後に作曲作業が控えている梨子ちゃんだ。


果南「ご、ごめん……! あとちょっとでできるから……!」


梨子ちゃんに迷惑は掛けたくない。そんな一心で口走る。

無理でもなんでも、今すぐにでも歌詞を完成させないと……!


果南「すぐに完成させて持ってくるから……!」


そう思って、焦って家に戻ろうとする私。


梨子「待って、果南ちゃん」


そんな私の手を、梨子ちゃんが引き留めるように両手で包み込む。

そのまま、私の目を覗き込むようにして、


梨子「本当に……順調?」


梨子ちゃんは、そう問いかけてきた。


果南「…………順調だよ」


嘘だ。

こんな見栄を張っても、歌詞は出来上がらない。

ふと、なんでこんな嘘吐くんだろう……? と思ったけど──目の前にある、この二つの円らな瞳が……理由だと思う。


梨子「……」


私は梨子ちゃんの前では、かっこつけていたいんだ。


梨子「…………」


梨子ちゃんは私の手を握りしめたまま、少しの間、考え込むように目を瞑っていた。

そのまま、数呼吸ほど置いたのち──


梨子「……ねぇ、果南ちゃん」


ゆっくりと目を開けて、私の名前を呼ぶ。


果南「何かな……?」

梨子「果南ちゃんは、どんなソロ曲にしたい?」

果南「どんな……」

梨子「うぅん、どんなソロ曲を今作ってる?」

果南「……わ、私らしい……曲を……」

梨子「果南ちゃんらしい……どういう曲?」

果南「…………」


それがわからない。

私らしい曲が、どんなものかが、わからない……。私がAqoursの一メンバーとして、作れる曲ってどんなものだろう……。

また頭の中がぐるぐるしてきた。私は何が……どんな歌詞を書きたいんだろう……。

だんだん頭が痛くなってきた。──それに呼応でもするかのように、最近発作的に痛む足が、痛みを訴え始める。
201 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:03:06.17 ID:vQ6qZL/R0

梨子「……! 果南ちゃん、ちょっと座ろうか」

果南「え、いや……」

梨子「いいから」


梨子ちゃんに手を引かれて、近くのベンチに二人で腰掛ける。

そのお陰か、足の痛みは少しマシになる。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」


梨子ちゃんは手を繋いだまま、再び私の瞳を覗き込むようにして、語りかけてくる。


梨子「そんなに難しく考えなくていいんだよ」

果南「え……?」

梨子「Aqoursの一メンバーとか、自分のイメージとか、そういうことに拘らなくてもいいんじゃないかな」

果南「…………」


梨子ちゃんはまた見透かしたようなことを口にする。

でも……そんなこと言われても……。


果南「……じゃあ、どうすれば……」


手掛かりもなく、闇雲に曲なんて作れない。

これは最低限のテーマのつもりだ。なのに、それに拘るなと言われても……。

再び言葉に詰まる私を見て、梨子ちゃんは、


梨子「……ちょっと待ってね」


ごそごそと自分のバッグを漁り──


梨子「これ……」


私の手にあるものを握らせる。


果南「……? 音楽プレイヤー……?」


それは、イヤホンの付いた小型の音楽プレイヤー。


梨子「この中に、皆の曲が入ってるから」


皆の──つまり、もう完成した他のメンバーのソロ楽曲が入っているということだ。

……聴け、ということだろうか……?

私は、イヤホンを耳にはめて、プレイヤーの画面を点ける。

すると、曲のリストが表示される。


梨子「まだ、歌まで入ってるのが、全員分あるわけじゃないけど……」

果南「『Ruby's song:RED GEM WINK』……」


一番上にあったのはタイトルからして、ルビィちゃんのソロ曲。

私は、再生ボタンを押して──ルビィちゃんの曲の試聴を開始する。

──爽やかな調子のイントロから始まる楽曲。
202 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:07:50.44 ID:vQ6qZL/R0

果南「え……?」


その歌詞を聴いて、私は目を丸くした。

これって……。歌詞に集中しながら曲を聴くこと数分。

楽曲が終わって、イヤホンを外す。


梨子「どうだった?」

果南「……これ、ホントにルビィちゃんが……?」

梨子「ふふ、驚くよね。私も最初、歌詞と曲のイメージを貰ったときは驚いたよ」

果南「うん……ルビィちゃんが……恋の歌……恋の歌詞を……」


──そう、ルビィちゃんのソロ曲は恋の歌だった。

恋に憧れる、女の子の気持ちを歌った、そんな曲。


梨子「ルビィちゃんね、誰よりも早く歌詞を完成させて持ってきたんだよ」


歌詞の提出がとにかく早かったことは、なんとなく聞いていたけど……。


梨子「ルビィちゃん、恋に憧れてるんだって」

果南「恋に……?」

梨子「うん。身近な人が恋をして、変わったから……恋ってどういうものなんだろうって」

果南「それって……」

梨子「うん──ダイヤさんが恋をして、千歌ちゃんと過ごしている姿を間近で見て、思ったんだって──『ルビィもいつか……お姉ちゃんたちみたいな素敵な恋が、出来るのかなぁって。……してみたいなって……』──その気持ちを詩にして、持ってきてくれたんだよ」

果南「……あのルビィちゃんが……恋の歌……」

梨子「果南ちゃん、この曲は果南ちゃんのイメージどおりのルビィちゃんだった?」

果南「…………それは」


──イメージどおりではない。ルビィちゃんがまさか自分のソロ曲で、恋の詩を書いてくるなんて思っていなかった。


梨子「訊き方、変えるね。この曲を聴いて、どう思った?」

果南「……ルビィちゃん、こんなこと考えてたんだって……思った」


誰よりも早く歌詞を書き上げたというルビィちゃん。きっと、あの小さな胸の中に、たくさんの恋を憧れをいつも抱いていて、それが溢れてきたような、そんな歌だった。


果南「でも……」

梨子「でも?」

果南「すごく、ルビィちゃんらしい曲だとも……思った」

梨子「……そっか」


自分でも矛盾していると思う。でも、なんでかわからないけど、紛れもなくルビィちゃんの言葉や気持ちが伝わってくる、そんな一曲だと思えるものだった。


梨子「確かに自分に求められてるイメージみたいなものってあるのかもしれないけど……そこに執着する必要はないんじゃないかな。心から思った言葉なら、伝えたい気持ちなら、それはどんな形になっても、果南ちゃんの言葉として、歌として、皆に伝わると思うから……」

果南「梨子ちゃん……」


──ああ、そうか。梨子ちゃんは、私にそれを伝えるためにここまで来てくれたんだ。

だけど……ここまで、してくれたのに──私の中に……歌詞が浮かんでこない。


果南「…………」
203 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:08:52.18 ID:vQ6qZL/R0

私が伝えたい気持ちってなんだろう。今度はそんなことが頭の中をぐるぐるとし始める。

これ以上、迷惑掛けられないのに──そう思った時だった。梨子ちゃんが握ったままの手をより強く握りしめるようにして、私の手を包み込む。


果南「梨子ちゃん……?」

梨子「……ねぇ、果南ちゃん」

果南「なにかな……?」

梨子「……一つ、お願いがあるの」


梨子ちゃんは再び私の瞳を覗き込むようにしながら、そう口にする。


果南「お願い……?」

梨子「うん、あのね──」





    🐬    🐬    🐬





──翌日の放課後。


果南「──これでよし……! 苦しくない?」

梨子「……ちょっと圧迫される感じがして、苦しい……」

果南「ならOKだね」

梨子「OKなの……?」

果南「水が入ってこないようにするためのドライスーツだからね。水に入っちゃえば水圧との関係でスーツ内部の空気が圧縮されるから、苦しくなくなると思うよ」

梨子「わかった……ちょっと我慢する」


ドライスーツを身に纏った梨子ちゃんがペタンと船上の椅子に腰を下ろす。


果南「それにしても意外だったよ──梨子ちゃんがダイビングしたいなんて言うとは」


──梨子ちゃんのお願いは、一緒にダイビングがしたいという内容だった。


梨子「うん。……きっと、今の果南ちゃんに必要なことだから」

果南「……昨日もそう言ってたけど、どういうこと?」

梨子「潜ってみれば、きっとわかると思う」

果南「……わかった。そこまで言うなら梨子ちゃんを信じるよ。何か気を付けることとかある?」

梨子「えっと……出来るだけ自然に、いつもどおりダイビングをして欲しい……かな」

果南「いつもどおり……わかった」


私は頷いてから、ダイビンググローブを着けて、船の縁に立つ。


果南「それじゃ、行こうか」

梨子「うん」
204 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:09:36.34 ID:vQ6qZL/R0

レギュレーターを装着し、梨子ちゃんの手を取って、海へと飛び込む。

──海へと入ったら、頭だけ出した状態で梨子ちゃんの方を確認する。

すると、梨子ちゃんはすぐに指でOKサインを作る。準備OK。

私は手を繋いだまま、潜航を開始した。





    🐬    🐬    🐬





──海中に潜ると、すぐに視界が青に包まれる。

梨子ちゃんも無事ついて来られていることを確認して、私はフィンを使って泳ぎ出す。

冬の海は澄んでいて、見通しがいい。

私は梨子ちゃんに見えるように、真っ直ぐ指で前を示す。


梨子「──!」


近くに見える岩礁に、魚たちの群れが早速見えてきた。

それと同時に繋がれた手に少し力が入ったのがわかる。

──わかるよ。こんな景色、普段じゃ絶対見られないもんね。

そのまま手を引いて、海中をゆっくりと進んでいく。

岩礁へ近づくと、その周辺を泳いでいた魚たちが、私たちのすぐ近くを泳いですり抜けていく。


梨子「──! ──!!」


色とりどりの魚たちが近くを通り過ぎるたびに、梨子ちゃんの手がぎゅっぎゅっと私の手を握りしめる。

言葉が出せなくても、感激していることが伝わってくるようだ。

そのまま、岩礁に沿いながら、更に奥へとゆっくり泳いでいく。しばらく海底を進みながら、梨子ちゃんと一緒に魚たちの遊泳を観察する。

──この辺りかな。

私はあるポイントについたところで、ストップし──人差し指で天を指し示す。

梨子ちゃんが釣られるように、見上げると──


梨子「────!!」


数えきれないほどの魚たちが、海面から差し込んでくる光の中を踊っている。

ぎゅーーーっと強い力で梨子ちゃんが私の手を握りしめてくる。

──嬉しいな。この景色を見て、喜んでくれているんだ。

私が大好きなこの景色を、今、梨子ちゃんと共有しているんだ。

──ああ、やっぱり好きだな。この景色。

何度見ても、この海の底から見るこの景色が、何よりも美しいと感じる。

頭を空っぽにして、ほとんど音の聞こえない海の中で、泳いでいると──自分まで魚になったような気分になれて。

難しいことなんて何もない、この世界にいつまでも浸っていたくて──


梨子「──!?」

果南「──?」
205 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:10:18.91 ID:vQ6qZL/R0

急にくいっと手を引っ張られた。

梨子ちゃんの方に顔を向けると、少し遠くを指さしていて──


果南「────!」


梨子ちゃんの指さす先には──魚とは違う、丸いシルエットの生き物がゆったりと泳いでいた。

──ウミガメだ。

ゆったりと泳ぐウミガメは、何故だか私たちの方へと近づいてくる。


梨子「──! ──!」


梨子ちゃんが興奮しているのがわかる。

──正直、私も興奮していた。

ウミガメ自体なかなかお目に掛かれるものじゃないし、何よりこの季節にウミガメを見たのは私も初めてだった。

なんて運がいいんだろうか……。

──近付いてきたウミガメは、近くで止まって私たちのことを、じーっと確認している。

人懐っこい子だ……。私は梨子ちゃんの手を引いて、ゆっくりと泳ぎ出す。すると──


梨子「──!」


ウミガメは私たちと並泳するように、付いてくる。


梨子「────! ──!」


──うん、わかるよ。私も感動してる。

こんな感動が、出会いが、喜びがあるのが──私の大好きな海なんだよ。

私は梨子ちゃんと感動を噛みしめながら、ただ深い青の中を泳ぎ続ける──





    🐬    🐬    🐬





──顔を出したのは、あれから30分ほど、ウミガメとの遊泳を楽しんだ後のことだった。

レギュレーターを外すと──


梨子「果南ちゃんっ!!」


梨子ちゃんが抱き着いてきた。


果南「おとと……」

梨子「すごかった! すごかったよ!!」

果南「うん、そうだね」

梨子「あの……ごめんなさい……感動しすぎて、それ以外の言葉がうまく出てこなくて……」

果南「ふふ、わかるよ。私も初めて潜ったときはそうだったもん」

梨子「うん……! もっと、潜っていたかったなぁ……」


感慨に浸る梨子ちゃん。
206 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:11:37.18 ID:vQ6qZL/R0

果南「こんなに喜んでくれて嬉しいよ。エアの問題もあるから、今日はここまでだけど……梨子ちゃんがよかったら、また一緒に潜ろう?」

梨子「本当に? 約束だよ?」


そう言って、梨子ちゃんは私に満面の笑みを向けてくれる。

本当に、本当に、あの景色を見て、感動してくれたんだ……。


果南「ありがとう、梨子ちゃん」

梨子「お礼を言うのはこっちの方だよ……!」

果南「うぅん、そうじゃなくて」

梨子「?」

果南「私と同じ景色を見て、同じように感動してくれたことが嬉しくて……」

梨子「ふふ……そっか」

果南「こんな風に、自分の好きなモノを誰かと一緒に分かち合えるのって……幸せだなって……──あ」


──そっか……そういうことだったんだ。


果南「……私、こんな単純なこと、見落としてたんだ……」


もし、今私が誰かに伝えたいことがあるとしたら──


果南「この景色を……気持ちを……歌にして伝えればいいんだ。大好きなこの海の歌を……」

梨子「ふふ……いい歌詞、書けそう?」

果南「……うん、きっと。……いや、絶対……!」


私は力強く頷いた。気付けば、昨日までの葛藤が嘘のように、吹き飛んでいた。

今ならいいものが書けそう、そんな自信がふつふつと自分の中に漲っていくのを感じているのだった。





    *    *    *





──それからの果南ちゃんの集中力はすごかった。

家に戻るなり、机にかじりつく勢いでノートに歌詞を綴り始めた。


梨子「果南ちゃん、お茶淹れてきたけど……」

果南「…………」


声を掛けるも、集中して聞こえていないのか、ノートに歌詞を書き続けている。

私は大きな音を立てないように、テーブルの上にお茶を置いて、果南ちゃんを見守ることにした。


果南「………………」


一心不乱に筆を走らせる姿を見て、やっと吹っ切れたんだと言うことを悟る。

夢中で歌詞を書き綴る、その姿は──千歌ちゃんそっくりで、


梨子「……ふふ」


私は少し笑ってしまった。
207 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:12:28.94 ID:vQ6qZL/R0

梨子「……やっぱり、幼馴染だね」


そんな果南ちゃんを、幼馴染ではない私が、一番そばで見守っているという事実が、なんだか嬉しかった。

私は私で──目を瞑って、曲をイメージする。

一緒に見て感じた海の音を想起しながら。


果南「……ああ、このまま……青い、水に……溶けてしまおう……──」





    *    *    *





果南「……出来た」


そんな呟き声が聞こえてきたのは、もうすっかり日も暮れてから久しい頃合だった。

途中おじいちゃんがご飯に呼びに来たけど──


────
──


おじい「果南、飯だぞ」

果南「…………」

梨子「おじいちゃん、しー……」

おじい「…………後で二人で食え」


──
────


という短いやりとりがあっただけだった。


梨子「果南ちゃん、お疲れ様」


私が果南ちゃんに声を掛けると、


果南「梨子ちゃん……!」


果南ちゃんは、椅子から勢いよく立ち上がり、そのまま──


果南「ハグーーーッ!!!」

梨子「!!?///」


私をハグしてきた。


果南「梨子ちゃん! ありがとう!! 出来たよ! 完成したよ!!」
 果南『ああ、ホントに……梨子ちゃんが居てくれたから……書けたよ……』

梨子「……/// うぅん、果南ちゃんの中から出てきた言葉だから……/// 私はちょっときっかけを作っただけで……///」

果南「そんなことないよ……! 全部梨子ちゃんのお陰だよ……!」
 果南『梨子ちゃんのお陰で、大切なことを思い出せた……私の好きなもの、伝えたい気持ちも……全部……!』

梨子「……ふふ/// もし、お手伝いが出来たなら……嬉しいよ///」

果南「うん! ……そんな出来たて歌詞、見てくれるかな……?」

梨子「もちろん」
208 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:13:30.33 ID:vQ6qZL/R0

喜びのハグから解放されて、嬉しいような寂しいような気持ちになりながら、私は果南ちゃんから手渡された歌詞に目を通す。

──そこに綴られていた詩は、果南ちゃんの海への愛をこれでもかと詰め込んだ、優しい雰囲気の歌詞に仕上がっていた。


果南「どうかな……?」

梨子「……うん、すごくいいと思う」

果南「よかった……」


大好きな海に、浮かびながら、泳ぎながら……最後はそんな海に溶けていく。

その歌詞一つ一つが、果南ちゃんらしさを持っている、素敵な歌詞……。


梨子「歌詞、確かに受け取りました。あとは任せて」


ここからは作曲、私の仕事だ。


果南「私に何か出来ることってある……?」

梨子「出来ること……うーん、そうだなぁ……」


私は少し悩んでから──あることを思い付く。


梨子「手、出してもらっていい?」

果南「? うん」


果南ちゃんが出した手を──両の手で包むように握り込む。


梨子「……頭の中で、この曲のイメージっていうのかな……音楽を考えてみて?」

果南「……? いいけど……これで、何かわかるの?」

梨子「……出来るかわからないけど……こうやって手を繋いでると……果南ちゃんの音を私も感じられる気がするから」


嘘は吐いていない。心の中で響いている音楽が聴けるのかは、わからない。でも、テレパスは頭の中に響くように聞こえる。もしかしたら、心の中に流れている音楽も同様に聞き取れるかもしれない。ならやってみる価値はある。


果南「……わかった。梨子ちゃんがそう言うならそうなんだね」
 果南『梨子ちゃんを信じよう』


果南ちゃんは目を瞑る。

嬉しいな。果南ちゃんは、心の底から私を信じてくれているんだ。

私も目を瞑る。

意識を集中させていると──僅かに……僅かだけど、小さな音のようなものが──音の欠片が聴こえた気がした。

落ち着く音。どこかで聴いた、音楽、旋律、イメージ……。

ジャズのような、優しくて落ち着く音色の中に、魚たちが踊る舞踏会のような、優雅さを覚えて──

私は目を開ける。


梨子「……ありがとう、果南ちゃん」

果南「ん……もう、平気?」

梨子「うん。きっと……うぅん、絶対素敵な曲を作ってくるよ」

果南「じゃあ……期待して待ってるね!」
 果南『梨子ちゃんなら、絶対素敵な曲を作って来てくれる』


心からの信頼に応えなくては、私はそう胸に誓いながら、手を放す。その直後、
209 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:14:26.27 ID:vQ6qZL/R0

果南「……いつ……っ!!」

梨子「!? 果南ちゃん!?」


果南ちゃんは足を庇うようにして膝を折る。


梨子「大丈夫!? また、足……」

果南「ん……大丈夫、ちょっとだけだから……」

梨子「……」


まただ……長引く足の痛み……。

今のところ、Aqoursの練習とかに不都合は出ていないものの……最初に痛みを訴え出してから随分経つ気がする。


果南「平気だから、そんな不安そうな顔しないで」

梨子「う、うん……」

果南「それより、晩御飯食べよう? 気付いたら、もう随分遅くなっちゃったし……」

梨子「……そうだね」


おじいちゃんにも、後で二人で食べるように言われてるし……。

私は歌詞の完成した喜びと同時に、得も言われぬ不安を感じながらも、果南ちゃんと一緒に食卓へと向かうのでした。





    *    *    *





──さて、私が本島に戻ってきた頃には時刻は夜9時を回っていました。


梨子「送ってもらって、ありがとうございます」

おじい「構わん」


頭を下げると、おじいちゃんはぶっきらぼうに言葉を返す。

ちなみに最初は果南ちゃんが本島まで送ると言ってくれていたんだけど──


 おじい『ガキが夜に外をうろつくな』


と一蹴されて、おじいちゃんに船で送ってもらったわけです。

……そうだ、おじいちゃんと二人きりのうちに聞いてみようかな。


梨子「あの、おじいちゃん」

おじい「なんだ」

梨子「果南ちゃんの足のことなんですけど……」

おじい「足?」

梨子「え?」


あれ……? 果南ちゃん、おじいちゃんには言ってないのかな……?

あれだけ痛そうにしているのに……。
210 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:15:46.40 ID:vQ6qZL/R0

梨子「果南ちゃん、ときどき足が痛むらしくて……痛みが強いときは立ってるのも辛いみたいで……普段そういうこと、ありませんか……?」

おじい「……見た覚えはないな」

梨子「そ、そうですか……」


わざわざおじいちゃんが嘘を吐くとは思えないし……。

たまたま、おじいちゃんの居る場所では、痛みが出たことないってことなのかな……?

もしかして、おじいちゃんに心配掛けないように内緒にしていたとか……? だとしたら、余計なことしちゃったかな……。


おじい「……無理するなとは言っておく」

梨子「お、お願いします……」


とはいえ、家族が注意深く見てくれている方が安心は出来るだろうし……。

そう自分に言い聞かせ、私は再度おじいちゃんに頭を下げてから、帰路に就いたのでした。





    *    *    *





──12月19日木曜日。

冬が本気を出し始めたのか、一気に気温が下がってきた今日この頃。

本日からは、授業も午前中だけで終わり、いよいよもって二学期もラストスパート。

だと言うのに──


先生「それでは、今日の授業はここまでにします」

千歌「──ありがとうございました!」

梨子「あ……」


いつものように、颯爽と教室を飛び出していく千歌ちゃん。


梨子「今日、お昼休みないけど……」

曜「千歌ちゃん、絶対忘れてるね……」

梨子「あはは……」


曜ちゃんと二人で苦笑いしながら、荷物をまとめて部室に向かう。

──部室に辿り着くと、すでに一年生組の姿。


曜「皆、お疲れ様〜」

花丸「あ、曜ちゃんに梨子ちゃん。お疲れ様ずら〜」

梨子「まだ一年生だけ?」

善子「ええ、まだ私たちだけよ」

ルビィ「ルビィたちが一番教室が近いから……」


世間話もそこそこに、


鞠莉「チャオ〜♪みんな、お待たせ〜♪」

果南「今日は三年生が最後みたいだね」

ダイヤ「皆さん、お疲れ様です」
211 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:16:40.89 ID:vQ6qZL/R0

三年生も集まってくる。


ダイヤ「それでは、部活を……?」


ダイヤさんが教室内を見回して、怪訝な顔をする。


ダイヤ「あの……千歌さんは?」

梨子「たぶん、今がお昼休みだと勘違いしてて……」

ダイヤ「はぁ……全くあの子は……ちょっと、生徒会室に行ってきますわ……」


呆れ気味に肩を竦めながら、ダイヤさんは部室を出て行く。


曜「あはは……」

鞠莉「チカッチとダイヤが不在だけど、わたしたちは部活を始めましょう? お昼は作業中に各自でとるように」

曜「それじゃ、ルビィちゃん」

ルビィ「うん! 衣装の続き!」

善子「クックック……ヨハネは罪深き地獄の椅子でも作ろうかしら……」

鞠莉「花丸はわたしと編曲作業ね」

花丸「お願いするずら〜」


それぞれが散っていく中、私は鞠莉ちゃんに耳打ちをする。


梨子「鞠莉ちゃん、ごめんね……アレンジお願いしちゃって」

鞠莉「問題Nothingデース。最後のチェックはどうしても梨子任せになっちゃうけど……」

梨子「うぅん、それでも十分助かってるよ」

鞠莉「完成したら持っていくから、ここはマリーに任せて!」

梨子「うん、わかった。ありがとう、鞠莉ちゃん」

鞠莉「……そ・れ・よ・り・も♪ 愛しのKnghit様とは順調?♪」

梨子「へ!?/// い、愛しのナイトってそんな、ちが……!!///」

果南「梨子ちゃん? 音楽室行かないの?」

鞠莉「あら〜、やっぱり順調だったみたいね、さ・く・し♪」

梨子「…………」


そこでやっと鞠莉ちゃんにからかわれていたことに気付く。ややこしい、言い回ししないでよ……。


果南「そうだね。梨子ちゃんが手伝ってくれたお陰でいい歌詞が書けたよ」

鞠莉「そっか♪ それじゃ、二人ともその調子で頑張ってね〜♪」

果南「ありがと、鞠莉。それじゃ、梨子ちゃん、行こっか」

梨子「うん……」


果南ちゃんと一緒に部室を出ていく際、


鞠莉「♪」


鞠莉ちゃんが私に向かってウインクを飛ばしてきたのが見えた。

うまくやれとでも言いたいのかな……。

からかわれるのは少し困ってしまうけど、こっちにも負い目がある分、言い返しづらいし……しばらくはからかわれ続けるかも……。
212 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:17:38.33 ID:vQ6qZL/R0

果南「どうしたの? 梨子ちゃん?」

梨子「うぅん……なんでもない」


いつまでも、項垂れていても仕方ない。これから作曲なんだ、切り替えていかなくちゃ……!





    *    *    *





──音楽室。

私はピアノの椅子に腰を下ろす。


果南「梨子ちゃん、私は何をすればいい?」


果南ちゃんが、訊ねてくる。

だから私は、こう返す。


梨子「歌詞を思い浮かべながら、聴いていてくれる?」

果南「え、うん。わかった」


ゆっくりと……深呼吸。

私は鍵盤の上に、指を滑らせ始めた──


果南「……え」


歌詞は何度も読み返して、頭に入っている。

その言の葉を……果南ちゃんの言葉を旋律に載せて、伝える──

ジャズサウンド特有のスウィング奏法を意識しながら、指を躍らせる。

昨日心の中に響かせてもらった音楽のイメージをなぞるように──


梨子「……ふぅ」


一曲弾き終えて一息、


果南「…………」

梨子「どうだったかな?」

果南「……す」

梨子「す……?」

果南「すごいよ! 梨子ちゃん!!」


果南ちゃんが感激の言葉と共に、抱き着いてくる。


梨子「きゃっ!?/// だ、だから急に……///」

果南「すごい、すごいよ!! 私のイメージ通り……うぅん、イメージ以上かも!!」
 果南『なんで!? どうして!? もしかして、ホントに梨子ちゃん、私の中の音楽が聴こえたのかな……!?』

梨子「ふふっ、ありがとう。そう言って貰えて嬉しいよ」
213 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:18:41.16 ID:vQ6qZL/R0

まさか、本当に果南ちゃんの心の中の音楽を聴いたとは思えないだろうけどね……。

もちろん、果南ちゃんの中にあった音楽というのも、まだ完成形ではないあやふやなものだったけど……抽象的なイメージを実際の音楽の技術に当て嵌めて作曲した……というのが一番適切な表現になるのかな?

……まあ、それはいいんだけど……。


梨子「あ、あのー……///」

果南「ん?」
 果南『なんだろ?』

梨子「そろそろ、離してもらえると……///」

果南「あ、ごめんね」


果南ちゃんのハグから解放される。

嬉しい気持ちももちろんあるんだけど、あんまりハグされてばっかいると……心臓がもたない。

私を解放して離れた果南ちゃんは、


果南「……っ」


また一瞬だけ表情を引き攣らせる。


梨子「……また、足?」

果南「……梨子ちゃん、エスパー……?」


今現在はエスパーまがいのことが何故か出来ることは否定できないけど……これに関しては、慣れかもしれない。


果南「でも、今のはホントにチクっとしたくらいだから、大丈夫だよ」

梨子「本当に?」

果南「ホントだよ」

梨子「……わかった」


実際、酷い時と違ってふらついていたりもしないし、そこまで酷い痛みではないというのは嘘ではないんだと思う。


果南「それよりも、曲!」

梨子「あ、うん。果南ちゃんがこれで大丈夫なら、これで行こうかなって思ってるんだけど……」

果南「もちろん! いや、もうこれしかありえないよ!」

梨子「ふふ……そっか」


最初は出来るか不安だったけど、うまく行ってよかった……。そして、何より──テレパスを果南ちゃんの役に立てることが出来たのが、嬉しかった。

なんだかんだで心を読んでいることには、大なり小なりの負い目があったけど……これは本当にテレパスがあったからこそ出来たことだ。

テレパスの“ご縁”で果南ちゃんを支えることが出来たと胸を張って言えるだろう。


梨子「それじゃ、この曲で譜割りしてこっか!」

果南「了解!」


果南ちゃんが満面の笑顔で応えてくれる。

ああ、よかった……。私、この力を……与えられた力を、正しく使えているんだ……。





    *    *    *


214 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:19:49.56 ID:vQ6qZL/R0


梨子「……出来たね」

果南「……うん、出来た」


二人で顔を見合わせる。

目の前には、乱雑に書かれた簡易楽譜と、譜割りをしたメモ。


果南「完成したんだ……! 私の曲……!」

梨子「うん……!」


正確には、この後編曲で調節こそするものの……全体の枠組みは完成したと言って差し支えない。


果南「正直、一人だったら歌詞でつまずいちゃって……絶対完成しなかった。全部、梨子ちゃんのお陰だよ……ありがとう……!」

梨子「うぅん、この曲は最初から果南ちゃんの中にあったものだから……」

果南「いや、梨子ちゃんが居たから生まれたんだよ」

梨子「……じゃあ、二人で作った曲ってことにしよっか」

果南「あはは、違いないね♪ 作詞:松浦果南、作曲:桜内梨子なわけだし!」

梨子「ふふ、そうだね♪」


改めて目の前に、頭の中で音を思い浮かべながら、歌詞を見つめる。

“さかな”になれるかなと歌いながら、海に潜っていき、最後は本当におさかなになって、海へと還っていく、まるで童話のような曲。


梨子「この曲さ……」

果南「ん?」

梨子「まるで、人魚姫みたいだね……」

果南「……確かに、そうかもね」

梨子「特に最後……海に還っていっちゃうところとか……ちょっと、寂しい終わり方だね」


明るくて、優しい曲調の割に、最後は少し切ない印象を受ける。


果南「大丈夫だよ、私は泡になって消えたりしないからさ」

梨子「それはわかってるけど……」

果南「それに人魚姫とは逆だからさ」

梨子「……確かにそうかも」


人魚姫は海から陸に上がったけど、果南ちゃんの曲は陸から海に潜って溶けていく曲だ。


梨子「じゃあ……人魚から人になろうとした人魚姫とは逆に、果南ちゃんは人から人魚になっちゃうのかな……?」

果南「なるほどね、それも悪くないかも……」

梨子「え……」

果南「なーんちゃって♪ 冗談だよ♪」

梨子「もう……」


本当に海に溶けて消えたいなんて言い出したらどうしようかと思った……。


果南「さてと……このあとどうしようっか?」

梨子「このあと……」
215 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:20:52.31 ID:vQ6qZL/R0

時計を見ると、時刻はまだ午後の三時を回ったところくらい。

普段の部活が始まるくらいの時間だ。

さすが午前授業で終わっただけあって、時間に余裕がある。

一応私にはまだ編曲作業が残っているけど……それは家に帰ってから集中してやりたいし……。


梨子「衣装組の手伝いしにいく?」

果南「じゃあ、そうしよっか」


二人で席を立ったそのときだった──ぐぅぅぅ……と気の抜ける音が2つ、音楽室に響く。


梨子「……/// そういえば、お昼まだだったね……///」

果南「すっかり忘れてた……少し遅めだけど、お昼を食べてから行こうか」

梨子「うん……///」





    *    *    *





私たちが衣装班と合流したのは、あれから30分ほど後のこと……。


善子「クックック……来たのね、リトルデーモンたちよ……」

曜「梨子ちゃん、果南ちゃん、どうしたの?」

梨子「こっちの作業が終わったから、手伝いに来たよ」


家庭科室に入ると、ちょうど曜ちゃんがルビィちゃんの前で巻き尺を持っているところに遭遇する。


果南「お、もしかして採寸中? 代わろうか?」

曜「いいの?」

果南「採寸なら得意だから、任せてよ! 普段からフィッティングしてるからね!」

曜「果南ちゃんがやってくれると助かるよ……速いし、正確だから」

ルビィ「よ、よろしくお願いします!」


どうやら、果南ちゃんは早速仕事を貰った模様。

一方で私は……部屋の隅にいる自称堕天使に目を配る。


梨子「……善子ちゃんは、いったい何をやってるの……?」

善子「善子じゃなくて、ヨハネよ!! 見てわからないのかしら?」


言われて見てみると、善子ちゃんは木の板のようなものを組み合わせて何かをしている。


梨子「…………大きな積み木?」

善子「なんで、積み木なんかしなくちゃいけないのよ!? 椅子!! 椅子作ってんの!!」


ああ……なんか、罪深きなんちゃらを作るとか言っていたような……。


梨子「というか、なんでそんなもの家庭科室で作ってるの……?」

善子「それはー……ほら、あそこにいるリトルデーモン2号と4号を見守らないといけないと思って」
216 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:21:53.16 ID:vQ6qZL/R0

……えーっと……確か2号が曜ちゃんで、4号がルビィちゃんだっけ……?


梨子「一人で作業するのが寂しかったってことか……」

善子「そ、そんなこと言ってないでしょ!? この堕天使ヨハネが寂しいだなんて脆弱な人間のような感情抱くわけ……!!」

梨子「はいはいわかりました、ヨハネサマー」

善子「うー……なによ、生意気ね!! リトルデーモンリリー!! アナタこそ暇なら、堕天使ヨハネを手伝いなさいよ!! 一人で支えながら足くっつけるの大変なんだから!!」

梨子「だから、リリー禁止って……」


どうやら、椅子の脚を接着剤でくっつけているところらしい──そんな作り大丈夫なのかな……。


梨子「……堕天使の椅子、原始的だね」

善子「しょうがないじゃない! ダイヤに椅子買ってもらうようにお願いしたら、高すぎるって即却下されちゃったんだから! もう、自分で作るしかないの!」


涙ぐましい堕天使……。


梨子「わかったよ……ここ押さえてればいい?」

善子「わかればいいのよ」

梨子「手伝うのやめるよ?」

善子「ごめんなさい、お願いします」


全く……。

呆れながらも、椅子の脚の部分を手に持った、そのときだった。


梨子「いた……!」


手に鋭い痛みを感じて、思わず手を放す。


善子「え、大丈夫……?」

梨子「う、うん……」


どうやら、椅子の脚の木材の表面が少し毛羽立っていたらしい。

指を見ると、人差し指の第一関節と第二関節の間辺りに、切り傷が出来ていて、傷口から血が滲んでいた。


善子「ちょ……血出てるじゃない……!」

果南「え、血……!?」


善子ちゃんの発した言葉を聞きつけたのか、果南ちゃんが反応して、こっちに駆け寄ってくる。


果南「梨子ちゃん、指怪我したの!?」

梨子「あ、うん……ちょっと切っちゃって……」


果南ちゃんに、指を見せると──


果南「大変……! 保健室行こう!」


そう言って、私の手首を袖の上から掴むようにして引っ張り、保健室に連れて行こうとする。


梨子「え!? そ、そんなちょっと切っただけだから……」


大袈裟だと言おうとしたけど──
217 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:23:41.26 ID:vQ6qZL/R0

果南「ダメ!」


一蹴されてしまう。


果南「たかが切り傷だって、甘く見ちゃダメだよ。ばい菌が入ったりしたら、化膿しちゃうことだってあるんだから!」

梨子「え、あ……はい……」


そのまま、勢いに押し負ける。


果南「ちょっと、梨子ちゃん保健室に連れて行くから」

曜「あ、うん! わかったー!」

善子「ご、ごめんなさい……リリー」

梨子「う、うぅん……ちょっと、行ってくるね」





    *    *    *





──あのあと、保健室の水道で傷口を洗ってから、アルコール消毒をしてもらって……。


果南「絆創膏を貼って……これでよし」

梨子「……ありがとう」


小さな傷ではあったものの、果南ちゃんの手際はさすがだった。

きっと緊急時のレスキュー訓練とかもしているだろうし、これくらいの応急処置は朝飯前なんだと思う。

でも、それにしても……。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん?」

梨子「本当にあんなにちっちゃい切り傷に……なんで、あそこまで……」

果南「さっきも言ったけど……化膿したりすると」

梨子「それはわかったけど……その……」


私は少し悩んだけど、


梨子「……どうして、あそこまで必死になってくれたのか、わからなくて……」


そんな言葉選びをする。

切り傷や擦り傷なんて、普段練習をしていても、そこまで珍しいことじゃない。

もちろん、そういうときでも果南ちゃんは率先して皆の手当てをしてくれるし、そんな面倒見のいいお姉さんだというのは周知の事実だけど……。

切り傷一つであんな風に治療を強行する姿は見たことがなかった。


果南「えっと……ごめん……私、怖かった……?」
 果南『やっぱ、強引すぎたかな……』

梨子「あ、うぅん! そうじゃないの……! ただ、単純に不思議で……」


なんか余計な事聞いちゃったかな……。

果南ちゃんは善意で治療を買って出てくれただけなのに、わざわざそこに理由を求めることでもないような……そんな風に思って俯いていると──そっと、果南ちゃんが私の怪我をした手を両手で包み込むように握ってくる。
218 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:26:14.21 ID:vQ6qZL/R0

果南「……この手は……この指は……世界一大切なものだから……」
 果南『……この手は……この指は……世界一大切なものだから……』

梨子「え……?」

果南「……私たちの……Aqoursの曲を作ってくれる……大切な指だから……」
 果南『……私たちの……Aqoursの曲を作ってくれる……大切な指だから……』


言葉と、心の声がシンクロする。

つまり、これは、心からの言葉。


果南「……この指は……私の曲を作ってくれた……宝物だから……」
 果南『……この指は……私の曲を作ってくれた……宝物だから……』


心の底から、私の指を──ピアニストの指を宝物だと言ってくれている。


梨子「果南……ちゃん……」


──そのとき、頭の中で、音がした。

聴いたことのない音だった。

──跳ねるような、弾むような、響くような、拡がるような、とにかく聴いたことのない、不思議な音──


果南「だから……梨子ちゃんも、その宝物を……大切にして欲しい……」
 果南『代わりの利かないものだから……大切に、して欲しいんだ……』


果南ちゃんが、私の目を真っ直ぐ見つめたまま、そう伝えてくる。

──不思議な音は、大きなったり、小さくなったり、響いたり、沈んだり、跳ねたり、踊ったりしている──


果南「梨子ちゃん……?」

梨子「え……?」

果南「ぼーっとしてたけど……?」

梨子「あ、えっと……ありがとう……そんな風に考えてくれてたなんて思ってなくて……」


私は果南ちゃんの手から逃げるように、手を引っ込める。


果南「あ、ごめん……! もしかして、痛かった……?」

梨子「ち、違うよ……ただ、その……そういう風に言われたの初めてで……びっくりした、というか……」

果南「そうなの?」

梨子「うん……」

果南「でも……本心でそう思ってるよ。その指は、宝物なんだ」

梨子「うん……」


知ってる。心からそう言っていたもの。


梨子「大切に……する……」


私は自分自身の指を抱きしめるように、自らの胸に引き寄せる。


果南「そうしてくれると、嬉しいな」


果南ちゃんはそう言いながら微笑む。

その間ずっと──私の頭の中は、聴いたことのない音で満たされていた。


219 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:27:28.01 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





──その夜。

ピアノの前に座って作業をしようと思ったのに、気付けばぼーっとしていて……その度に、あの言葉を思い出す。


──『……この指は……私の曲を作ってくれた……宝物だから……』──


何も手に付かない。気付けば果南ちゃんのことばかり考えている。

少し頭を冷やした方がいいのかもしれないと思い、ベランダに出る。


梨子「……寒い」


──12月の冷たい夜の空気に晒されて、少しだけ頭がクリアになった気がする。

そして、クリアになった頭で、ふと気付いた。


梨子「──あの音……」


初めて聴いた、あの音は──


 「──おーい、梨子ちゃーん?」

梨子「……?」


声がした気がして顔をあげると、


千歌「あ、やっと気付いた……大丈夫?」


千歌ちゃんの姿。


梨子「千歌ちゃん……」

千歌「ん?」

梨子「私……私ね……」

千歌「うん」

梨子「果南ちゃんのことが……──好きみたい」


あの音は────恋に落ちる音だ。

私──桜内梨子は……松浦果南ちゃんに、恋をしてしまったようです──。





    🐬    🐬    🐬





──12月20日金曜日。

学校に登校すると、なにやら鞠莉がダイヤに話しかけているところに遭遇する。


鞠莉「ねぇねぇ、ダイヤ」

ダイヤ「なんですか?」

鞠莉「クリスマス、チカッチとはどう過ごす予定なの〜? 教えてよ〜♪」
220 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:30:01.77 ID:vQ6qZL/R0

──クリスマス……。言われてみれば来週か。


ダイヤ「どうして、鞠莉さんに恋人との予定を話さないといけないのですか……」

鞠莉「だって、当日にデート先が被って、ばったり会っちゃったら嫌じゃない?」

ダイヤ「それは、まあ……」

鞠莉「一年に一回しかない記念日だヨ! 念には念を入れたい気持ち、わかるでしょ?」

ダイヤ「……わたくしたちは西伊豆の方に行くつもりですわ」

鞠莉「西伊豆? ……あ、もしかして……恋人岬?」

ダイヤ「ご想像にお任せします。して、鞠莉さんたちはどちらへ?」

鞠莉「学校が終わったら、南の島までひとっとびする予定デース♪」

ダイヤ「そんなデート先が被るわけないでしょう!? 貴方、自慢するためだけにこの話題を振ってきましたわね!?」

鞠莉「ダイヤ、どこにいくかじゃなくて……誰と行くかだヨ?」

ダイヤ「どの口が言うのですか!!」

鞠莉「いひゃい! いひゃい! ぼーりょくはんたいぃぃー!!」


また、鞠莉がダイヤのこと怒らせてるし……。


果南「鞠莉もダイヤも、おはよう」

ダイヤ「あら、おはようございます、果南さん」

鞠莉「いたた……Good moning.果南」

果南「二人ともクリスマスの話?」

ダイヤ「ええ、まあ……この会話自体に全く意味はありませんでしたが……」

鞠莉「えー! 恋バナしようよー!」

ダイヤ「貴方と恋愛の話をするくらいなら、曜さんと話した方がいくらか盛り上がれますわ」

鞠莉「なによもー! じゃあ、わたしはチカッチと恋バナするもん!」

ダイヤ「それはダメです」

鞠莉「あらあら……Toasted rice cakeだネ〜♪」

果南「なにそれ……? ライスケーキは餅だっけ……。……焼き餅……?」

鞠莉「Yes♪」


普通にジェラシーとかでいいじゃん……。まあ、確かにダイヤが嫌がるのもわかる気がする。

このテンションの鞠莉を真っ向から相手するのはめんどくさいかも……。


果南「ほどほどにしておきなよ……」

鞠莉「そういう果南はどうなんデースか〜?♪」

果南「どうって……何が?」

鞠莉「もちろん、ク・リ・ス・マ・ス♪ 一緒に過ごす相手とか居ないの?」

果南「そんな相手、居ないって……」

鞠莉「えーホントにー? 気になる相手くらい居そうだけどな〜♪」


めんどくさい会話の矛先がこっちに向いてきた。適当に流そうかな……というか、ダイヤなんかとっくにそっぽ向いてるし……。

私が相手にしないことを決め込んで、バッグから荷物を出し始めた矢先に、


鞠莉「例えば〜……梨子とか♪」


梨子ちゃんの名前が出てきて、思わず手が止まった。
221 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:31:49.23 ID:vQ6qZL/R0

果南「……なんで、梨子ちゃんの名前が出てくるのさ」

鞠莉「んー? 最近仲良さそうだなって思ってたから♪」

果南「……そんなんじゃないよ……」


なんだか、真面目に会話に付き合っていると、変な墓穴を掘ってしまう気がしたので、鞠莉から目を逸らす。

だけど、目を逸らした私に対して鞠莉は──


鞠莉「──そんなんじゃ、逃げられちゃうヨ♪」


と、耳打ちを仕掛けてきた。


果南「な……」

鞠莉「わたしは果南がどう思ってるかは知らないけど、梨子はきっと誘われたがるタイプだヨ?♪」

果南「そ、そうなの……?」

鞠莉「梨子はMaiden──乙女だからネ〜。きっと、自分から誘うよりも、相手から誘われるのを待ってる娘だと思うヨ♪」

果南「……そ、そっか……」


そんなこと今の今まで考えていなかったけど、言われてみればそうかもしれない。


鞠莉「ま、どうするかは果南の勝手だけど♪ 年に一度の恋人たちの夜、後悔しないようにネ?♪」


それだけ言うと、鞠莉は満足したのか、自分の席へと戻っていった。


果南「──……誘われるのを待ってる……か……」


──キーンコーンカーンコーン。

そんな私の呟きは、ちょうどよく鳴り響いた予鈴の音に掻き消されていくのだった。





    *    *    *





──今、果南ちゃんどうしてるかな。

今日も午前中で授業は終わりだけど……この後、部活で会える。


 「──…………ちゃん……」


でも、二人っきりにはなれないよね……。

これから冬休みが始まったら……二人っきりになれる時間、もっと減っちゃう……。


 「──……こちゃーん……」


もっと、二学期……続けばいいのに……。
222 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:32:35.97 ID:vQ6qZL/R0

千歌「──梨子ちゃん!」

梨子「……え……?」

千歌「もう……やっと気付いた……」

梨子「あ……ごめん……。えっと、なにかな……?」

千歌「なにかな、じゃなくて……もう授業終わったよ?」

梨子「え……?」

千歌「というか、授業どころかホームルームも終わって、もう放課後だよ?」


言われて、時計を確認すると──


梨子「本当だ……」


千歌ちゃんの言うとおり、とっくの昔に放課後の時間になっていた。


梨子「ごめん、ぼーっとしてた……曜ちゃんは?」

千歌「もう部室に行ったよ」

梨子「そっか……」

千歌「あはは、梨子ちゃん重症だね。まさに恋の病って感じ」

梨子「!?/// ち、千歌ちゃん、あんまりそのこと学校で言わないで……!?///」

千歌「んー? ダメ? もう教室に誰も残ってないけど……」

梨子「だ、ダメだよ!/// こんなこと、もし──聞かれちゃったら……///」


もし、果南ちゃんに聞かれちゃったら……。


千歌「でも、好きなのは事実なんでしょ?」

梨子「だ、だから……!///」

千歌「梨子ちゃん!」

梨子「な、なに……?」

千歌「そんな消極的じゃ、それこそダメだよ! もっと自分からアタックしてかないと!」

梨子「あ、アタックって……/// む、無理だよぉ……///」

千歌「いやつい最近まで、仲良く過ごしてたじゃん……なんで急に弱気になってるの」

梨子「あ、あのときと今とじゃ……心の持ちようが、違う……というか……///」

千歌「果南ちゃんモテるんだよ?」

梨子「だ、だから、学校で名前出さないでって……!///」

千歌「ぼーっとしてたら、誰かに取られちゃうかもよ?」

梨子「え……」

千歌「いいの?」

梨子「いや……あの……それは……嫌、かも……」


かもというか……そんなことになったら、私、ショックで死んじゃうかもしれない……。


千歌「ならやっぱり、自分からアタックするしかない! 恋愛は当たって砕けろ!」

梨子「く、砕けるのは嫌……」

千歌「とーにーかーくー! 昨日も言ったけど、今はチャンスなんだよ! 絶対に今日誘うんだよ!」

梨子「ぅ……が、頑張ります……///」
223 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:33:58.42 ID:vQ6qZL/R0

千歌ちゃんが言うチャンスというのは……昨日の夜、恋に落ちてしまったことを千歌ちゃんに伝えたときのことだ──



──────
────
──


千歌「梨子ちゃん、やっと自覚したんだね……」

梨子「やっと……って……」

千歌「最近の梨子ちゃん、ずっと果南ちゃんと一緒に居たし……むしろ、今の今まで恋してる自覚がなかったことが逆に驚き桃の木みかんの木だよ!」


それを言うなら、山椒の木だと思うけど……。


梨子「でも……あの……」

千歌「?」

梨子「ど、どうすれば……いいんだろう……」

千歌「……? どうすればって……?」

梨子「いや、その……果南ちゃんのことが、その……好き、なのはそうとしても……このあと、どうすれば……」

千歌「……告白すればいいんじゃない……?」

梨子「こ、告白!?/// む、無理!!/// 無理だよぉ!!///」


告白ということはつまり──果南ちゃんに直接『好きです』と伝えるということだ。

考えただけで……というか、自分が果南ちゃんに面と向かってそう言えるビジョンが全く想像できない。


千歌「えー……」

梨子「ねぇ、千歌ちゃん……! 千歌ちゃんはどうやって、ダイヤさんに告白したの……?」

千歌「え? あーうーん……チカの場合は告白したというか、告白されたというか……勘違いを訂正されたというか……」

梨子「……? ……なんかよくわからないんだけど……」

千歌「どっちにしろ、思ってることは言葉にして言うしかないと思うなぁ、私は……」

梨子「ぅぅ……/// そんなこと言われても……/// せめて、きっかけとかがあれば……」

千歌「きっかけ……。……この時期なら、とびきりいいのがあるけど」

梨子「え……! 本当に……!?」

千歌「うん。いや、もう今からだと、ギリギリになっちゃうけど……」

梨子「ギリギリ……?」

千歌「梨子ちゃん、来週の火曜日。何日ですか」


来週の火曜日……?


梨子「えっと……今日が木曜日で19日だから……。……火曜日は24日……あ」


つまり、12月24日。


梨子「クリスマスイブ……」


聖夜。恋人たちの日。
224 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:35:35.32 ID:vQ6qZL/R0

千歌「もう、これしかないね! クリスマスデートに誘って告白しちゃおう!」

梨子「え!?/// む、無理だよぉ!/// もっと段階を踏んで……///」

千歌「梨子ちゃんそんな調子なのに、クリスマス逃したら、いつ気持ちを伝えられるのさ!」

梨子「ぅ……それは……」

千歌「とにかく明日! 果南ちゃんをクリスマスデートに誘いなさい!」

梨子「明日!?/// 無理無理無理無理っ!!///」

千歌「でも、明日逃したら次会うの月曜日だよ? 前日にデートに誘うの?」

梨子「いや……それは……そうだけど……」

千歌「好きなんでしょ?」

梨子「ぅ……///」

千歌「果南ちゃんの恋人になりたくないの?」

梨子「………………なり、たい……///」

千歌「じゃあ、頑張ろう。ね?」

梨子「……うん……///」


──
────
──────



というやり取りの下、私は本日中に果南ちゃんをクリスマスデートに誘わなくてはいけなくなってしまった。


梨子「うぅ……///」

千歌「梨子ちゃん、いつまでそうしてるの……? 部室入るよ?」


もうすでに部室内では、私たち以外は揃っている。

もちろん──果南ちゃんもだ。


梨子「ま、待って……こ、心の準備が……///」

千歌「──皆〜お疲れ様〜♪」

梨子「千歌ちゃぁ〜んっ!!///」


私の言葉を無視して、部室に入っていく千歌ちゃんの後ろに隠れるように部室に入ると──


ダイヤ「やっと来ましたわね……」


私たちの姿を認めて、ダイヤさんが代表するように肩を竦めながら言う。


果南「あ、梨子ちゃん……! やっと来た……!」

梨子「ひ、ひゃい!///」


果南ちゃんに急に話しかけられて声が裏返る。


果南「こっちおいで、待ってたんだよ」


果南ちゃんが自分の隣の席をぽんぽんと叩いて示す。


梨子「えー、あー、や……その……///」
225 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:37:13.64 ID:vQ6qZL/R0

もう慣れたと思っていたのに、今更になって恥ずかしさが爆発している。

無理、やっぱり無理……! 恥ずかしくて果南ちゃんを真っ直ぐ見れないよぉ……。

私が立ち往生していると、


千歌「……てい」

梨子「きゃ……!?」


千歌ちゃんに背中を押されて、果南ちゃんの目の前に躍り出てしまう。


梨子「あ、あの……///」

果南「はい、どうぞ」


私が目の前に立つと、果南ちゃんは椅子を引いてくれる。


梨子「あ、ありがとう……///」


自分自身に落ち着くように言い聞かせて、腰を下ろす。


ダイヤ「さて、全員揃いましたね。それでは──」


全員が着席したのを確認したダイヤさんが、例のごとく部活開始の号令を出そうとした瞬間、


千歌「はいはーい! ダイヤさんダイヤさん!」


千歌ちゃんが挙手する。


ダイヤ「今日はなんですか……」

千歌「まずお昼ご飯にしない?」

ダイヤ「お昼……? まあ、構いませんが……」

千歌「じゃあ、生徒会室行こ!」

ダイヤ「いや、別にここで食べれば……」

千歌「あと、ルビィちゃんも一緒に食べよう!」

ルビィ「え、ルビィも……?」


急に名指しされたルビィちゃんが、不思議そうな声をあげる。


千歌「たまにはチカお姉ちゃん、ルビィちゃんとお話しながらご飯が食べたいんだよ〜……」

ルビィ「! わ、わかった! それじゃ、ルビィも生徒会室行くね!」


そう言って誘われたルビィちゃんは満更でもない様子で、嬉しそうに了承する。


ダイヤ「まあ、ルビィが問題ないのでしたら、それで構いませんけれど……。ということですので、部活は各自昼食をとった後にしましょう」

千歌「それじゃ、またあとでね〜」


千歌ちゃんがダイヤさんとルビィちゃんを引き連れて、部室から出ていく。その際──私に向かってウインクを飛ばしてくる。
226 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:39:05.67 ID:vQ6qZL/R0

鞠莉「ねぇ、花丸」

花丸「ずら?」

鞠莉「実はわたし今日ね、限定のっぽパンってやつ手に入れちゃったの!」

花丸「え、限定のっぽパン!?」

鞠莉「たくさん貰っちゃったから、花丸も一緒にどうかなって思うんだけど〜」

花丸「行く!! 今すぐ行くずら!!」

鞠莉「ヨハネも一緒に行きましょ?」

善子「ヨハネじゃなくて、よし……あ、あれ? あってる? ……クックック、殊勝な心掛け気に入ったぞ……リトルデーモンマリー!」

鞠莉「ははー! ありがたき幸せー! それじゃ、曜も理事長室に行きましょ」


今度は鞠莉ちゃんが、花丸ちゃんと……ついでに雑な誘い方で善子ちゃんを連れて──あれで付いていっちゃうのはいろんな意味心配だけど──部室から退場していく。

またしても、例のごとく、ウインクを飛ばしながら──

その際、一緒に部室を出ていく曜ちゃんが、


曜「あー……そういうことか」


と、小さく呟くのが、かろうじて聞き取れた。

──気付けば、あっという間に部室内に残っているのは、私と果南ちゃんだけになっていました。


果南「なんか、取り残されちゃったね」

梨子「う、うん……///」


もちろん、言うまでもなく、千歌ちゃんが気を利かせてくれたということだ。

恐らくだけど、鞠莉ちゃんも千歌ちゃんの行動を見て、何かを察したんだと思う──ついでに鞠莉ちゃんを見て、曜ちゃんも察していた気がする。


果南「私たちもお昼食べよっか」

梨子「そ、そうだね……///」


促されたとおり、お弁当を取り出しながら、私は胸の内で覚悟を決める。

ここまでお膳立てしてもらったんだもん……! 千歌ちゃん……! 鞠莉ちゃん……! 私、頑張るよ……!





    *    *    *





果南「──今日も、たまご焼きありがとね、梨子ちゃん♪」

梨子「ど、どういたしまして……///」

果南「やっぱり、梨子ちゃんの作る甘いたまご焼き、好きだなぁ……」

梨子「えへへ……///」


果南ちゃんに褒めてもらえるだけで、もう幸せな気持ちでいっぱいで……他になんにもいらないよ……。

……じゃなくて……。
227 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:39:53.32 ID:vQ6qZL/R0

梨子「あ、あの……果南ちゃん……///」

果南「ん?」

梨子「そ、その……///」

果南「うん」

梨子「えっと……///」

果南「……?」


ほら、訊かなきゃ……! 24日空いてるか……!

訊いて、一緒に過ごしてくださいって……。

……あ、あれ? もし、果南ちゃんがすでに24日に予定が入っていたらどうすればいいんだろう……?

ふと、そんなことが頭の中を過ぎる。……でも、そんなこと考えていても仕方ないし……。と、とにかく、訊いてみなきゃ……。


梨子「…………」

果南「梨子ちゃん……?」

梨子「あ、いや……その……さ、最近急に寒くなってきたよね!」

果南「あはは、そうだね〜。冬が本気出してきたって感じだよね」


気温の話じゃなくて……。思わず誤魔化してしまった自分に内心で突っ込みを入れる。


梨子「あ、あのね! 果南ちゃん!」

果南「うん?」

梨子「そ、その……もう12月……だね」

果南「そうだねー……もう今年も終わりだよね」

梨子「う、うん……で、でもさ、まだ今年は終わってないというか……」

果南「?」

梨子「あ、あのね……」


クリスマスの話を振るんだ。


梨子「あの……」


口を開いて、改めて果南ちゃんの方を見ると、


果南「……」


果南ちゃんの二つの瞳が私の顔をまっすぐ捉えて言葉を待っていた。


梨子「あ、の……///」


まっすぐ注がれる視線に耐えられなくなって、すぐに私は目線を逸らす。

い、言うんだ、今……! そう何度も自分に言い聞かせているのに、


梨子「そ、の……///」


口にしようとするだけで、顔が熱くなり、上手に言葉が出てこない。

──『クリスマス空いてますか』──たったの11文字を言葉にするだけなのに……。


梨子「……こ、今年もお互い最後まで頑張ろうね……あ、あはは……///」
228 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:40:38.38 ID:vQ6qZL/R0

──言葉にして伝えられない。


果南「そうだね……今年も残り10日ちょっとだしね……」

梨子「う、うん……寒いから、お互い体調にも気を付けて……」


──違う……。今本当に言いたい言葉は、そうじゃない……。


梨子「練習も冬休みの間は、ちょっとお休みなんだよね……。部活やらないとちょっとだらけちゃうかも」


──伝えたいのに、言葉が上手く出てこない。

届けたい言葉はわかるのに、ただここでその言葉を口にすればいいだけなのに、


梨子「でも皆、年末はお家の手伝いがあるもんね。私も今年はお母さんのお手伝いをたくさんしてみようかな……なんて」


私の口は、心に反して違うことを喋ってしまう。

ごめん千歌ちゃん……やっぱり私、意気地なしだ……。今言わなきゃと思うほど、喉元まで出かかっているはずの言葉が呑み込まれて消えて行ってしまう。


梨子「……一緒にお昼食べるのも、今年はこれで最後かも……ね」

果南「…………そうだね」


違うのに、言いたいことは、こんなことじゃないのに……。

なんだか、自分の情けなさに、だんだんと目元が熱くなってくる。

どんなに自分を鼓舞しても、言いたいこと一つ言えないなんて、私は──


果南「梨子ちゃん」

梨子「……っ」


名前を呼ばれて、少しびくっとしてしまう。


果南「こうして私が梨子ちゃんと一緒にお昼ご飯を食べるようになって……まだ2週間ちょっとしか経ってないんだけどさ」

梨子「う、うん……」

果南「この2週間すごく濃密で……私はすごく楽しかったんだ」


果南ちゃんが私の目を覗き込むようにしながら、そう口にする。


果南「今日で、こうして一緒に過ごすお昼も終わっちゃうんだって思うと……ちょっと寂しい。終わらせたくない。もっと一緒に……過ごしたい」

梨子「……っ!」


──勇気を出すんだ、私……!


梨子「わ、私も……っ!! 私も同じだよ……!!」

果南「ホントに? 梨子ちゃんもそう思ってくれてるんだったら……嬉しいな」

梨子「私も……果南ちゃんともっと一緒に過ごしたい……よ……///」

果南「そっか……」


果南ちゃんは私の言葉を聞いて、目の前で一度だけゆっくりと深呼吸をしたのち──


果南「梨子ちゃん」


再び私の瞳を覗き込むようにして……言いました──
229 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:41:33.40 ID:vQ6qZL/R0

果南「クリスマス。私と一緒に過ごしてくれないかな」


──真っ直ぐ、はっきりと、そう言葉にしたのでした。





    *    *    *





──夜。


梨子「…………」


私はベランダでぼんやりと空を眺めていた。

二軒の家に挟まれた狭い空の先には月が煌々と輝き、そこを白い吐息がゆっくりと昇って、最後には霧散していく。


千歌「──梨子ちゃん」

梨子「千歌ちゃん……」


気付けば、いつの間にか同じように外に出てきた千歌ちゃんに声を掛けられる。

千歌ちゃんは優しい顔のまま、


千歌「誘えた?」


そう問いかけてくる。


梨子「誘えなかった……私は誘えなかった……けど……」

千歌「けど?」

梨子「果南ちゃんから……誘ってもらった……クリスマス、一緒に過ごそうって……」

千歌「なんて答えたの?」

梨子「えっと……」


私は、つい数時間前のことを思い返す。


────
──


梨子「え……」

果南「ダメ……かな……?」

梨子「ぇ……ぁ……?///」


まさか、果南ちゃんから誘ってくるなんて思ってもいなかったから、私の頭は一瞬でショート寸前になっていた。

心臓が破裂しそうな程にドックンドックンと激しく鼓動し、視線を果南ちゃんから離せない。でも、頭が熱暴走を起こしたようにくらくらとし、何かを口にしようとしても、震えて言葉が出てこない。


果南「……やっぱり、いや……?」

梨子「…………///」


出てこない言葉の代わりに、私はふるふると首を振る。

230 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:42:20.59 ID:vQ6qZL/R0

果南「……それじゃ……一緒に過ごして、くれるかな……?」

梨子「……///」


今度はコクコクと頷く。


果南「……よかった……。断られたらどうしようかと思ったよ。詳しい場所と時間はあとで連絡するね」

梨子「ぅん……///」


辛うじて出てきた言葉は、とても小さな了承の相槌のみだった。


──
────


千歌「そっかぁ……よかったね、梨子ちゃん」

梨子「うん……///」

千歌「年が明けて次に会う頃にはカップルになってる梨子ちゃんと果南ちゃんに会うことになるんだね〜」

梨子「ち、千歌ちゃん……!/// 気が早いよ……///」

千歌「そうかなぁ? でも、もう両想いみたいなもんだし」

梨子「両……想い……///」


口にしてみて改めて、嬉しくて、恥ずかしくて、でもどうしようもなく幸せな気持ちが溢れてきて、赤面しながらもニヤけてしまう。


千歌「お互いにクリスマスを一緒に過ごしたいって思ってたんだもんね。ならもう間違いないよ!」

梨子「うん……/// そうだと……いいな……///」

千歌「クリスマス、楽しんで来てね」

梨子「えへへ……うん……///」

千歌「それじゃ、チカに出来ることはここまで! 果南ちゃんのこと、よろしくね!」


そう言って、部屋に戻ろうとする千歌ちゃんの背中に、


梨子「千歌ちゃん……!」


声を掛ける。


千歌「ん?」

梨子「千歌ちゃん、ありがとう……! 私、頑張るね……!」

千歌「うん! 梨子ちゃん、ファイト!」


親友からの激励を受けて、私はクリスマスデートに臨みます。

今、胸の中にある、大切な気持ちを、大好きな人に届けるために──





    *    *    *


231 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:46:34.43 ID:vQ6qZL/R0


──日が沈み、辺りが薄暗くなってきた頃。

私は沼津駅に到着する。

時間を確認すると──時刻は午後5時過ぎ。


梨子「……ちょっと早すぎたかな……」


自嘲気味に一人呟くと、その拍子に白い息がほわほわと漂って霧散していく。

待ち合わせは午後5時半だったから、しばらく待つことになるかな。

私はバッグから手鏡を取り出して、身だしなみを確認する。

今日着てきた服は、ワインレッドのセーターの上から、レース切り替えでミニ丈のジャンパースカート。色は赤み掛かったライラック色を基調としたチェック柄になっている。

ジャンパースカートには、ポケットや背中にセーターと同じ色のリボンがあしらわれている。

脚は同じようなワインレッドのニットオーバーニーソックスを履き、頭にもセーターと同じ色のベレー帽。

ちなみにこのベレー帽はジャンパースカートと同じような色柄のリボンがあしらわれている。

全体的にガーリーな印象になるように意識して、コーディネートしてきたつもりだ。

──前髪よし……。メイクもちゃんとしてきたし、バレッタも可愛らしいハートの形をしたものを選んできた。


梨子「……ふぅ──」


深呼吸。きっと大丈夫。

今日はめいっぱいオシャレをして、この場に来たんだ。

ピアノの発表会のときよりも──うぅん、それどころか、生まれて初めてというくらい、気合いを入れて選んできた。


梨子「……果南ちゃん……可愛いって言ってくれるかな……」


どうしても、不安な自分が顔を出してしまうけど……。

今からこんな弱気じゃダメだよね……。これからデートだって言うのに……。

幸か不幸か、待ち合わせより30分ほど早く到着してしまったため、心の準備をする時間はたっぷりある。

果南ちゃんが来る前に、心を落ち着かせて──


 「梨子ちゃん!」

梨子「ひゃぁぁぁっ!?///」


急に名前を呼ばれて飛び上がる。


果南「あ、ごめん……急に声掛けたからびっくりさせちゃったかな……?」


声がする方を振り返ると、果南ちゃんが申し訳なさそうな顔で私を見つめていた。


梨子「え、あ、いや……/// 私の方こそごめんなさい……/// か、果南ちゃん、早いね……///」

果南「梨子ちゃんの方こそ……かなり余裕をもって来たつもりだったのに、到着したら梨子ちゃんが待っててびっくりしたよ。ごめんね、待たせちゃって……」

梨子「う、うぅん! 大丈夫、本当に今来たところだから……!」


私がわたわたと顔の前で手を振ると、


果南「そっか……なら、よかった。ただ、ホントは私が先について梨子ちゃんを待ってたかったんだけどなぁ……」


果南ちゃんは肩を竦めながら、苦笑いする。それから、ゆっくりと私の姿を見つめたあと、


果南「今日の梨子ちゃんの服すごく可愛いね。よく似合ってるよ」
232 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:47:22.13 ID:vQ6qZL/R0

ニッコリと笑いながら、私の服装を褒めてくれる。


梨子「あ、ありがとう……///」


恥ずかしくて、顔が熱い。だけど、すごく嬉しい。

果南ちゃんが目の前にいなかったら──果南ちゃんに褒められたんだから、果南ちゃんが目の前にいないのはありえないんだけど──思わず跳ねて喜んでしまいそうな気分だ。

そんな果南ちゃんの姿を改めて確認してみる。

海を連想させるような色をした、ターコイズのフリルブラウスに、マリンブルーのキュロットパンツ。

キュロットには地の中で目立ちすぎない程度の色合いの、雪の結晶の模様が散りばめられていて、すごく冬らしい。

そして、その上から薄いスカイブルーのロングカーディガンを羽織っている。

果南ちゃんのトレードマークであるポニーテールは、いつものようなゴムで縛っている形ではなく、こちらも薄いスカイブルーの大きなリボンで結んでいる。

全体的に寒色でまとめてある、統一感のあるファッション。


果南「今日の服……変じゃないかな?」


私の視線に気付いたのか、果南ちゃんがそう訊ねてくる。


梨子「変じゃないよ……! すっごく、似合ってる……!」

果南「ホントに? よかった……梨子ちゃん普段からオシャレだから、隣歩いて浮いちゃったらどうしよって思ってたんだ。そう言ってもらえると安心するよ」

梨子「そ、そんな……私オシャレってほどじゃ……///」

果南「謙遜しなくていいんだよ? 私、梨子ちゃんの女の子らしい私服姿が好きでさ……実は今日もどんな可愛い姿の梨子ちゃんが見れるのか楽しみにしてたんだから」

梨子「ぅ、ぅぅ……/// 大袈裟だよ……///」


まだデートは始まってすらいないのに、すでに褒め殺しにあって顔がすごく熱い。


果南「そんな梨子ちゃんと、デートが出来て……嬉しいよ」


そう言いながら果南ちゃんは恭しく、仰々しく、私の前で片膝を折って──まるで、王子様のように私の手を取る。


果南「今日はしっかり、エスコートさせて頂きます。よろしくね、梨子ちゃん♪」
 果南『梨子ちゃんに心の底から楽しんでもらえるように、頑張らなきゃ』

梨子「は、はぃぃ……!///」


すごくキザな振舞いなのに、果南ちゃんがやると何故か画になるのはどうしてだろう……。

思わずドキドキとしていると──


果南「それじゃ、いこっか!」


果南ちゃんはニコッと笑って歩き出す。

──果南ちゃんとのクリスマスデートの始まりです。





    *    *    *


233 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:48:01.63 ID:vQ6qZL/R0


果南「梨子ちゃん、先週末は何して過ごしてた?」

梨子「えっと……いつもどおりかな……。ピアノを弾いたり、買い物に行ったり……」

果南「あはは、私もおんなじ感じ。やっぱ内浦は田舎だからね。どうしても部活がない日は似たり寄ったりな生活になっちゃうよね」


果南ちゃんはそう言いながら笑うけど……実はいつもどおりというほど、いつもどおりではなかった。

何故なら今日はクリスマスデート。もちろん、手ぶらで行くわけにはいかないから……いろいろ準備をしていた。

もちろん、今日着ているお洋服も例外ではなく、週末に買ってきたばかりのおろしたての服だ。

そんなおろしたての服を着て、歩いているここは駅のすぐ近くの商業施設の建物の中。


梨子「そういえば……どこに行くか決まってるの?」

果南「もちろん、今日は私がエスコートするって言ったからね! って、言いたいところなんだけど……ちょっと、早く着いちゃったから、まだちょっと時間があるんだよね……」


どうやら、始まる時間か何かが決まっている場所に行くようで、少し時間に余裕が出来てしまったらしい。


梨子「ご、ごめんなさい……私が早く来すぎちゃったから……」

果南「あはは、謝るようなことじゃないって。そうだな……梨子ちゃん、甘い物食べたくない?」

梨子「甘い物……?」


果南ちゃんの言葉をオウム返ししながら、彼女の視線を追うと──

そこにあったのはクレープ屋さん。


梨子「うん、クレープ食べたいな」

果南「オッケー♪ じゃあ、並ぼっか」

梨子「はーい」


店の前にはすでに複数のカップルたちが並んでいる。その列の後ろについて、メニューを見上げる。


果南「ここのクレープ、種類がいろいろあるよねぇ……プリンアラモードとかあるんだね、ダイヤが好きそう」

梨子「ふふ、確かにそうかも♪」

果南「千歌はあれだな……焼きりんごミルフィーユかベリーミルフィーユ」

梨子「ふふ、千歌ちゃん中身がいろいろ入ってるの選びそうだもんね」


さすが幼馴染、千歌ちゃんやダイヤさんが頼んでいるのが、目に浮かぶようで思わず笑ってしまう。


果南「善子ちゃんは……あー、あれかな? イチゴチョコ。確か好きだったよね、チョコとイチゴ」

梨子「うーん、確かに善子ちゃんはどっちも好きだけど……それだったら、イチゴブラウニーを選びそうかな」

果南「あ、そっちか……」

梨子「横文字がいっぱいある方が好きそうだもんね♪」

果南「ふふ、確かにね♪」


自然とAqoursのメンバーが選びそうなクレープ当てゲームが始まる。
234 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:48:33.71 ID:vQ6qZL/R0

梨子「ルビィちゃんはどれかな?」

果南「うーん……ルビィちゃんは目移りしちゃってなかなか選べなくて……最終的にダイヤと同じのにしそう」

梨子「あ、わかるかも」

果南「マルはシンプルにカスタードバナナとかかな……?」

梨子「花丸ちゃんはおかずクレープの方に惹かれそうかも……」

果南「あ、確かに……チーズタッカルビとか?」

梨子「ふふ、頼みそうかも♪ ソーセージピザチーズとかね」

果南「こうしてみると、おかずクレープもいろいろあるね」

梨子「おかずクレープをたくさん頼んで、善子ちゃんにまた驚かれちゃうかもね」

果南「あはは♪ ありそうありそう♪」


おかずクレープを踏破する花丸ちゃんを想像して、二人でくすくすと笑ってしまう。


果南「鞠莉は……ブルーベリーレアチーズケーキとかかな」

梨子「イチゴティラミスも好きそう」

果南「確かに……こんなのもあるのねって言いながら、興味津々に頼むのが目に浮かぶようだよ」

梨子「それこそ鞠莉ちゃんだと、端から全部頼んでみたりしちゃったりして……」

果南「それで一緒にいる人が全部食べるのかー……曜ちゃんは大変だね」

梨子「ふふ、今度曜ちゃんに聞いてみようかな♪ そんな曜ちゃんはどれを頼むかな?」

果南「んー……曜ちゃんは、あれかな……アイスマンゴーパイ」

梨子「え、アイス? 今冬だよ?」

果南「ところがね、曜ちゃん真冬に冷たいシェイクとか平気で頼むんだよね……冬でもアイス食べたいって思うみたい」

梨子「そうなんだ……」


言われてみれば、曜ちゃんって体育の時間とか、冬でも元気に走り回ってるしなぁ……。冬でも元気なのは、千歌ちゃんもだけど。


果南「って、話してたら私たちの番だ」


気付けば、次で注文出来るところまで、列が進んでいた。


果南「梨子ちゃん、どれがいい?」

梨子「あ、えーっと……そうだなぁ……」


私は見上げながら、


梨子「あれがいいかな……」


食べたいメニューを指さした──





    *    *    *





果南「はい、梨子ちゃんの分」

梨子「うん、ありがとう」


果南ちゃんからクレープを受け取ると、出来立てでほんのりと温かいクレープから甘い香りがする。
235 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:49:41.64 ID:vQ6qZL/R0

果南「梨子ちゃんのは焼きりんごパイだっけ? ホントにいろんな種類があるね」

梨子「うん。今日は寒いし……温かいのがいいかなって思って」


言いながら、クレープに口を付けると、焼きりんご特有の甘酸っぱさとカスタードクリームの優しい甘味が絶妙にマッチした味が口の中に拡がっていく。


果南「おいしい?」

梨子「うん、おいしいよ♪ 果南ちゃんは何頼んだの?」

果南「私はね、シュリンプエッグだよ」

梨子「シュリンプ……ってことはエビ?」

果南「うん。あむ……んー! やっぱクレープ生地ってなんにでもあうよね。エビとたまごがうまくマッチしてるよ」

梨子「果南ちゃんはおかずクレープにしたんだ」

果南「ほら、梨子ちゃんは甘いの頼んでたからさ」

梨子「……うん?」


私が甘いものを頼んでいても、果南ちゃんが甘いものを食べちゃいけない理由にならないと思うんだけど……。と、思っていたら、


果南「はい、梨子ちゃんも食べて?」


果南ちゃんが私の方に、自分の手に持ったクレープを差し出してくる。


梨子「え……///」

果南「クレープって結構量があるから、甘いの一辺倒だと飽きちゃったりするかと思って。私はおかずクレープを頼んだんだよ♪ はい、どうぞ♪」

梨子「え、っと……///」


差し出されたクレープを目の前に少し躊躇する。

どうやら果南ちゃんは最初からシェアするつもりで選んでいたらしい。

私は少し迷いはしたものの──


梨子「……い、いただきます……///」


ここで遠慮するのも悪いと思い、クレープを一口貰うことにした。


梨子「あむ……///」


口に含むと、エビとたまごの味とアクセントに使われているマヨネーズの味が、焼きりんごパイで甘ったるくなっていた口の中を中和していく。


果南「おいしい?」

梨子「うん……///」

果南「ふふ、よかった♪ 梨子ちゃんの焼きりんごパイも一口貰っていい?」

梨子「う、うん!///」


私はどういう風に渡そうか悩んだけど──


梨子「か、果南ちゃん……/// あ、あーん……///」


果南ちゃんが先ほどしてくれたようにクレープを果南ちゃんの口元に差し出す。


果南「! えへへ、あーん♪」

梨子「……///」
236 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:50:47.96 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃんが嬉しそうにクレープを口にする。

あーんしてあげるなんて、今までの私じゃ、恥ずかしくて絶対出来なかったけど……今日はデートだもん…。少しくらい、大胆になっても……いいよね?


梨子「お、おいしい……?///」

果南「うん♪ 梨子ちゃんが食べさせてくれたからかな……ホントにおいしいよ♪」

梨子「も、もう……大袈裟だよ……///」


どうしよう……私、もうこれだけで幸せかも。

まだデートは始まったばっかりなのに、心がむずがゆくて、ほわほわして……そして、温かくて、優しくて、嬉しい。


梨子「あむ……///」


照れを隠すように、再び口を付けた自分のクレープの味は、やっぱり焼きりんご特有の甘酸っぱい味がして──まるで今の私の気持ちのようでした。





    *    *    *





──クレープを食べ終えて。


果南「ちょうどいい時間になったね」


果南ちゃんが腕時計を確認しながら言う。


果南「移動しようか」

梨子「うん」


次の目的地はどこかなと思いながら、果南ちゃんと一緒に歩き出す。

クレープ屋さんを出て、そのまま同じ施設内の上の階へと上っていく。

この上って確か……。

2階3階を素通りしてたどり着いたのは──


梨子「映画館……」

果南「梨子ちゃんと一緒に見たくて……いいかな?」

梨子「うん!」


私が頷くと、果南ちゃんはニコッと笑って、私の手を引く。


 果南『梨子ちゃん、気に入ってくれるといいな』


果南ちゃんはそのまま入場ゲートまで行き、受付でチケットをもぎってもらって、中に入っていく。

──果南ちゃん、先にチケット買っておいてくれたんだ……。

もしかしたら、今日のデートのためにいろいろ下見もしてくれていたのかもしれない。

ああ、なんか……嬉しいな。

果南ちゃんがこんなにも私のことを考えてくれているという事実が、どうしようもなく嬉しくて、幸せで──


237 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:51:33.56 ID:vQ6qZL/R0


    *    *    *





──果南ちゃんが選んだ映画はラブロマンスでした。

どこにでもいそうな二人が出会って、次第に恋に落ちていく。

そんな、ありふれたラブロマンス。

それでも、私は終始ドキドキとしていた。

もともとラブロマンスが好きというのもあったけど……何よりも、今は果南ちゃんと一緒に観ているから。

映画の間、ふと果南ちゃんの方に顔を向けると──


梨子「……!」

果南「……ぁ」


目が逢った。

同じタイミングで、お互いの方を見てしまったらしい。

なんだか、照れ臭くて、目を泳がせていると、果南ちゃんはニコっと笑ってから、顔をスクリーンの方に戻してしまう。

──ぁ……。と小さな声が漏れそうになる。

そうだよね……今は映画を見ているんだもん。私よりも、映画を見るよね。

少しだけシュンとしていると──手の甲の上から、何かが覆いかぶさるように重ねられる。


梨子「……!」


──もちろん、果南ちゃんの手だ。


 果南『急に手繋いでも……嫌じゃ……ないかな……?』


嫌なわけない。

私は重ねられた手を甲側から手の平の方に返して──指を絡ませる。


果南「……!」
 果南『指……梨子ちゃん……』


ぎゅっと手を握られる。

握られたから、握り返す。

映画の真っ最中、暗い館内で声を発することは出来ないけど──今は同じ気持ちを共有している。

時間を経るごとに、指はどんどんと絡んで、離れないように……離さないようにと……強く強く繋がれる。

目の前のスクリーンでは、ヒロインが気持ちを伝えている真っ最中。でも、私はそんなクライマックスの中でも、映画の内容よりも果南ちゃんと繋がれた手に、絡ませた指に意識が行ってしまう。

こんなに幸せな気持ちで観る映画は、初めてだった──それと同時に、ここまで映画の内容が頭に入ってこなかったのも、初めてだったけど……。





    *    *    *





──映画が終わって、シアター内が明るくなる。

果南ちゃんの方を向くと──また、果南ちゃんと目が逢って、
238 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:52:19.89 ID:vQ6qZL/R0

梨子「……///」

果南「……///」
 果南『さ、さすがにこれは……照れ臭い……///』


お互い黙ったまま、目を泳がせる。

ただ、恥ずかしいけど──繋がれたままの手は指は、離れない。


 果南『もう少し……このままで、居たいな……』


──私も同じ気持ちだよ。

そう思いながら、映画の終わったシアター内でじっとしていると──


劇場スタッフ「ありがとうございましたー。退館の際は、忘れ物がないようにお気を付けくださーい」


劇場スタッフの人が次のお客さんを入れるために、退館を促している。


 果南『名残惜しいけど……』


絡ませた指がほつれ、果南ちゃんが立ち上がる。


果南「梨子ちゃん、行こっか」

梨子「……うん///」


デートは次の目的地へ──


果南「……っ」


と思った瞬間、果南ちゃんが一瞬表情を歪める。


梨子「果南ちゃん……もしかして、足……?」

果南「……あはは、ちょっと痛むかも。でも大丈夫」

梨子「本当に……?」

果南「ホントに大丈夫だよ。それにさ、今日はちゃんとエスコートするって、約束したから」

梨子「……うん、わかった」


無理はして欲しくないけど……今日の果南ちゃんは、全力で私をエスコートしてくれている。

きっと、情けない姿は見せたくないだろうし……私はそう思って、今は心配な気持ちを呑み込むことにしたのでした。





    *    *    *





次に訪れた場所は……。


梨子「ここって……」

果南「うん。予約したんだ」


オシャレな大理石の柱と、木目のシックな扉が目を引く──フランス料理店。

果南ちゃんが一歩前に出て、扉を開ける。
239 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:53:22.17 ID:vQ6qZL/R0

果南「梨子ちゃん、どうぞ」

梨子「うん、ありがとう……果南ちゃん」


扉を潜ると、


スタッフ「いらっしゃいませ、松浦様ですね。お待ちしておりました。お席にご案内いたします」


スタッフが恭しく頭を下げながら、席に案内してくれる。

私は二人掛けのテーブルの奥の方に通され、スタッフの人が椅子を引いてくれる。


梨子「あ、ありがとうございます……!」


こういう格式ばった食事は緊張する。えっと……確か、左側から椅子に座るんだよね……?

辛うじて記憶の中にあるテーブルマナーを思い出しながら、椅子に腰掛ける。


果南「ふふ、緊張してる?」


向かいでそう言いながら微笑みかけてくる果南ちゃん。


梨子「う、うん……少し……。果南ちゃんは緊張しないの……?」

果南「ふふ、これくらいなら」


なんて笑う。本当かな……?


梨子「果南ちゃん……手、出して?」

果南「? いいけど……」


控えめに差し出された手に軽く触れる。


 果南『……内心かなり緊張してる、なんて言えないけど……。週末に鞠莉にお願いしてテーブルマナーは覚えてきたし、きっと大丈夫……』


なるほど……。余裕の源は特訓の成果のようだ。


梨子「ありがとう」

果南「ん……もう大丈夫?」

梨子「うん」


果南ちゃんは不思議そうにしていたけど、私が一人不安なわけじゃないとわかって少し安心した。

手が離れると、果南ちゃんは膝の上にナプキンを掛ける。

私も倣うようにナプキンを半分に折って、膝の上に掛けると──ドリンクが運ばれてきた。


スタッフ「こちら、葡萄ジュースで御座います。長野県産ナイアガラぶどうを100%使用した、ストレートジュースです」


スタッフの人が説明をしながら、グラスにジュースを注ぐ。


スタッフ「失礼します」


二つのドリンクが目の前に用意され、スタッフが下がると、


果南「未成年だから、ジュースだけど……」


果南ちゃんがグラスを持ち上げる。
240 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:54:09.46 ID:vQ6qZL/R0

梨子「ふふ……うん」


私も倣うようにグラスを持ち上げて、目の前に掲げる。

お互いアイコンタクトをしながら、見つめあって──


果南・梨子「「乾杯」」


ジュースに口を付ける。


梨子「……! おいしい……」


すごくすっきりとした味なのに、まろやかで上品な味もあわせ持っている。何よりぶどう特有の甘い香りが濃縮されていて、間違いなく今まで飲んだ、どんなぶどうジュースよりもおいしい。


果南「うん……ホントおいしい……」


果南ちゃんも驚いたように、ぶどうジュースを味わっている。そこに、お皿が運ばれてくる。


スタッフ「こちらアミューズ・グールで御座います」


目の前に出されたのは小さなのシュークリームのようなもの。

中にはサーモンとイクラが見える。


果南「アミューズは日本で言うお通しみたいなものだよ。一口で食べられるものが基本みたいだね」

梨子「そうなんだ……なんか、ちっちゃくて可愛いね」


──お皿の上のシューに手を伸ばし、そのまま口に運ぶ。

シューの間に挟まっている、イクラとサーモンの味が口を楽しませてくれる。

アミューズを終えると、今度は前菜が運ばれてくる。


スタッフ「オードブル、ずわい蟹とギアナ海老のフラン仕立てで御座います」


目の前に出されたのは、


梨子「プリン……?」


器に入った、見た目はプリンのようなもの。でも、ずわい蟹とギアナ海老って言ってたよね……。


果南「フランは洋風茶碗蒸しみたいな感じかな……」

梨子「茶碗蒸し……」


なんとなく味を想像しながら、スプーンで掬って口に運ぶ。

すると──口の中に蟹と海老の風味が広がっていく。

確かに洋風茶碗蒸しというのがしっくり来る料理だけど、濃厚な香りと味がする。


果南「これ……おいしい……」

梨子「うん……!」


初めて食べる料理だけど、一口で気に入ってしまう。

蟹や海老の見た目は残っていないのに、蟹や海老を食べているのが一口でわかるくらい濃厚に素材の味がする。

でも、これってまだ前菜なんだよね……。コース料理だと思うから、まだ始まったばっかりで……。
241 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:54:52.21 ID:vQ6qZL/R0

スタッフ「スープ、ポテトのポタージュで御座います」


前菜に続いて出てきたのは、ポタージュ。

これはまだ見たことがある部類かな……。


果南「スープを飲むときは手前から奥に掬うんだよ」

梨子「うん」


鞠莉ちゃん直伝のテーブルマナーを習いながら、スープを口に運ぶ。

温かい液体が喉から胃に滑り落ちていく。

先ほどのオードブルに比べると、食べ慣れたメニューだけど、ジャガイモの味の中に、ほのかに感じられる別の甘味を感じる。

……これは炒めた玉ねぎ……かな?

一重にポタージュと言っても、普段ファミレスで食べるようなものに比べると味のまろやかさが全然違う。

こうして、食べ慣れたもののはずでも、味の違いを如実に感じられると、本当に良い物を食べている気持ちになる。


梨子「こんなに良い物……食べちゃっていいのかな……」


少し罪悪感すら覚える。


果南「ふふ、今日はクリスマスだから。いいんじゃないかな?」

梨子「……じゃあ、そういうことにしようかな」


何より今日は特別なクリスマス──果南ちゃんと過ごすクリスマスだもん。ちょっとくらい……いいよね。

スープを終えると、また次の料理が出てきて──


スタッフ「ポワソン、白身魚のブレゼで御座います──」





    *    *    *





梨子「──はぁ……♪ おいしかった……」


食事を終えて、お店から出ると、店内の雰囲気から来る特有の緊張感から解放された安心感と同時に、味に満足した感想が漏れ出てくる。


果南「ホントに……! 白身魚のブレゼ……あれおいしかったなぁ……。ああいう調理ってしたことなかったから、今度作ってみようかな」

梨子「私はアントレ……って言ってたよね。伊豆牛の赤ワイン煮……すっごくおいしかった」

果南「わかるわかる! 食べた瞬間ほろほろって口の中で肉が崩れていってさ」

梨子「うんうん! 上にかかってたソースもすっごいコクのある味で……あと、デザートもおいしかったよね……」

果南「さくらんぼゼリーとフランボワーズのムースだっけ」

梨子「うん、さくらんぼとフランボワーズの甘酸っぱさが絶妙にマッチしてて……それに見た目が可愛かったよね」

果南「ふふ、そうだね」

梨子「なんか……こうして一つずつ思い出すと……」

果南「全部おいしかった?」

梨子「ふふ、うん♪」

果南「だよね♪」
242 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:55:33.57 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃんの言葉に頷いて笑う。


果南「まあ、でも……」

梨子「ふふ、何考えてるか当てていい?」

果南「お、言ってごらん?」

梨子「おいしかったけど……私たちにはオシャレすぎてちょっと疲れちゃった?」

果南「……あはは♪ よくわかったね♪」


果南ちゃんが私の回答を聞いて、軽く吹き出す。


梨子「果南ちゃんずっと緊張してたもん」

果南「それを言うなら梨子ちゃんだって」

梨子「ふふ、そうかも」


まだ、私たちには少し大人過ぎる雰囲気だったけど──


梨子「でも……果南ちゃん、今日のデートのためにお店を選んで予約してくれたんだよね」

果南「ん……まあね。エスコートするって言ったし」


果南ちゃんは照れ臭そうに頬を掻きながら、目を逸らす。


梨子「あんなオシャレなお店で、食事が出来るなんて……思ってなかったから、嬉しかった」


何よりも、私のことを考えて、素敵なお店を選んでくれたことが、嬉しくて、幸せで──


梨子「ありがとう……果南ちゃん」


その気持ちをいっぱい乗せて、お礼の言葉を伝える。


果南「どういたしまして。そこまで、喜んでもらえたなら……私も頑張って覚えた甲斐があるよ」

梨子「んー? 覚えたって何をかなー?」

果南「……え!? あ、い、いやーなにかなー?」

梨子「ふふ……」


きっとテーブルマナーだよね。週末に鞠莉ちゃんと猛特訓してたんだと思うと、少し微笑ましい気持ちになる。

ああ、なんか……こういうの、いいな。

果南ちゃんと一緒に過ごして、大切にしてもらって、嬉しくて、幸せで、笑いあって……。

でも、そんな幸せな時間にも終わりはあって──もういい時間になってきた。


果南「梨子ちゃん」

梨子「ん」

果南「最後に……付き合ってほしい場所があるんだけど……いいかな?」

梨子「……うん」





    *    *    *


243 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:56:50.96 ID:vQ6qZL/R0


梨子「うわぁ……! 綺麗……」


思わず声をあげてしまった私の目の前にあるのは、ライトアップされたクリスマスツリー。


果南「せっかくだから、一緒に来たかったんだ」


今訪れている場所は、沼津中央公園。


梨子「沼津にもこういう風にイルミネーションしてる場所があったなんて……知らなかったよ」

果南「うん。今年は大きなツリーがあるって聞いてたからさ。……梨子ちゃんからしたら、少し寂しいイルミネーションかもしれないけど」

梨子「え?」

果南「なんていうか……東京だと、もっともっとすごいイルミネーションがいっぱいあるでしょ?」

梨子「ん……」


確かに、東京だとイルミネーションの綺麗な場所はたくさんある。

私も東京に住んでいた頃は何度かクリスマスシーズンに訪れた覚えがあるけど……。


梨子「……確かに東京だと、もっといっぱい電飾の付いた立派なイルミネーション街とかはあるかな」

果南「あはは、そうだよね」

梨子「でもね」

果南「?」

梨子「東京に居たら、果南ちゃんと一緒には……見られなかったよ」

果南「……梨子ちゃん……」

梨子「ただ、綺麗にピカピカ光ってた東京の街のイルミネーションよりも……今果南ちゃんと一緒に観てる、このクリスマスツリーの方が……私は素敵なものに見えるよ。だって──」


──だって。


梨子「──隣に果南ちゃんが居るんだもん」


伝えて、不意に──


果南「梨子ちゃん──」


抱きしめられた。


梨子「果南……ちゃん……///」

 果南『……好きだ』

梨子「!」

 果南『梨子ちゃんが……好きだ』


頭の中に、声が響く。


 果南『私……梨子ちゃんが……大好きだ』

梨子「……っ」


心に響く、その声が嬉しくて──ぽろぽろと涙が溢れてきて、


果南「り、梨子ちゃん……!? あっ、ご、ごめん……嫌だった……!?」
 果南『い、いきなり抱きしめたから……!?』

梨子「違う……違うの……っ」
244 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:58:01.68 ID:vQ6qZL/R0

私は、涙を手で拭いながら──


梨子「果南ちゃんの気持ちが……嬉しいの……っ」

果南「梨子ちゃん……」

梨子「こうして、抱きしめてもらうと……果南ちゃんの気持ち、いっぱい伝わってきて……それが、嬉しくて……っ」


幸せで、幸せで、涙がぽろぽろと溢れてくる。


梨子「……私も、果南ちゃんと同じ気持ちだよ……っ」

果南「……そっか」
 果南『なんか……今、幸せかも』

梨子「私も……幸せだよ……っ」

果南「もう……梨子ちゃんったら、心でも読んでるのかなってくらい言い当ててくるね」

梨子「えへへ……私……果南ちゃんの心が読めちゃうんだよ……っ」

果南「……梨子ちゃんが言うなら、そうなのかもしれないね……」


果南ちゃんはさっきよりも強く、私を抱き寄せる。


 果南『こんな風に、私の気持ちをわかってくれる子を、好きになれて……好きになってもらえて……私は幸せ者だよ』
果南「梨子ちゃん」

梨子「はい……っ」

果南「私たち……一緒に居ようか」

梨子「うん……っ!」


温かい胸に抱き留められながら、私たちは想いを伝え合って、この聖なる夜に──晴れて恋人同士になったのでした。





    *    *    *


245 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 17:59:23.44 ID:vQ6qZL/R0


梨子「…………」

果南「…………」
 果南『梨子ちゃん……』


──どれくらい抱き合っていただろうか。

お互い何も喋らず、お互いの体温を感じて。

私の頭の中には時折、心の中で果南ちゃんが名前を呼んでくれていることだけがわかる。

そんな中──


果南「……っ゛」
 果南『……痛っ』

果南ちゃんが突然鈍い声を上げる。


梨子「! 果南ちゃん!?」


私は咄嗟に崩れそうになる果南ちゃんの体を支える。


果南「ととっ……ごめん、梨子ちゃん……」

梨子「果南ちゃん……また、足……」

果南「あはは……さっきまで大丈夫だったんだけど、また痛みだして……」
 果南『今回のは……かなり……きつい……かも……』

梨子「……とりあえず、座ろう?」


近くのベンチまで果南ちゃんの手を引いて移動する。


果南「……ふ、ぅ……」


果南ちゃんはゆっくりと息を吐きながら、ベンチに腰を下ろす。


梨子「平気……?」

果南「うん……座ったら、だいぶ楽になったよ」

梨子「本当に……?」


私も隣に座って、手を握る。


果南「ホントだよ」
 果南『座るといつも楽になるんだよね……まあ、足の痛みだし、そういうものかもしれないけど』


確かに嘘ではないらしい。

ただ、痛み方も最初に比べると、どんどん酷くなっている気がする。


梨子「果南ちゃん……やっぱりもう一度病院で診てもらおう……?」

果南「あはは、心配しすぎ……って言いたいけど……確かに、ちょっと長引いてるもんね……」

梨子「私も付き添うから……」

果南「それこそ大袈裟──」

梨子「付き添わせて」


果南ちゃんの言葉を遮るようにして言う。


梨子「……もう、私……ただの部活の後輩じゃないんだよ……?」
246 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 18:00:24.21 ID:vQ6qZL/R0

真っ直ぐ目を見つめて、そう伝える。


果南「……そういう言い方ずるいよ……。わかった、明日一緒に病院に付き添ってくれる?」

梨子「うん!」


多少急ではあるけど、果南ちゃんのためならなんてことはない。

どちらにしろ、そろそろ年末で病院も閉まってしまうだろうから、今行っておかないと次に行けるのは年明け以降になってしまう。


果南「はぁ……最後まで、かっこつかなかったな」

梨子「ふふ……かっこつけたがりだもんね、果南ちゃん」

果南「ええ……そんなことないと思うんだけどな……」

梨子「でも、ツリーの前でぎゅってしてくれたときは──かっこよくてキュンってしちゃったよ?♪」

果南「……解説されると恥ずかしいからやめてよ……///」


果南ちゃんは恥ずかしそうに、頬を掻く。


果南「まだ、最後にやることがあったんだけどな……」

梨子「やること……?」

果南「今日、クリスマスイブでしょ?」

梨子「ん、まあ……」


クリスマスだからデートしてるんだし……と思ったけど、


梨子「……あ」


私もそこでやっと思い出す。


梨子「クリスマスプレゼント……」


せっかく用意してきたのに、さっきの抱擁のインパクトですっかり忘れていた。


果南「結構気合い入れて探したやつだからさ……」

梨子「わ、私も……! 果南ちゃんのことを考えて選んだよ……!」


二人で小さく包装されたプレゼントを取り出して、


梨子「はい……果南ちゃん♪ メリークリスマス♪」

果南「あ……私が先に言おうと思ったのに……」

梨子「こういうのは早い者勝ちなんです♪」

果南「むー……ま、良いけどさ……。メリークリスマス、梨子ちゃん」


お互いのプレゼントを交換する。


梨子「……開けていい?」

果南「もちろん」

梨子「果南ちゃんも、開けてみて?」

果南「うん」


お互い同時に開けて──
247 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 18:01:41.65 ID:vQ6qZL/R0

梨子・果南「「……あ」」


声が揃った。

箱の中に入っていたのは──ネックレスだった。

チェーンネックレスで、ペンダント部分は、小さなガラスドームの中に入っているビーズがコロコロと動いて光る、小さなスノードームになっている──人魚姫をイメージしたアクセサリー。

……を、果南ちゃんも手に持っていた。


果南「まさか……」

梨子「プレゼント被った……?」

果南「…………ぷっ」

梨子「あはは……♪」


二人で顔を見合わせて吹き出してしまう。


果南「まさか、同じ物をプレゼントに選んでるなんて……くくっ」

梨子「私たち、もしかして似た者同士なのかな? ふふっ」

果南「かもね……あーもう、面白いなぁ」


見つけたときは、本当にこれしかない! って思ったんだけど……果南ちゃんも同じように思って手に取っていたと考えると、なんだか可笑しくて笑ってしまう。


果南「でもよく見たら、色は違うね……私のはアクアマリンモチーフかな?」

梨子「うん♪ その色が果南ちゃんにぴったりだと思ったから……私のは……」

果南「ライトローズだよ。ピンク色のカラーを選んだからさ」

梨子「私、お店で見たとき自分で買うならこの色がいいなって思ってたんだ……ありがとう、果南ちゃん」

果南「私も、自分用ならこの色だって思ってたよ」

梨子「ふふ♪」 果南「あはは♪」


また二人で顔を見合わせて笑ってしまう。


梨子「お揃いだね♪」

果南「期せずしてね♪」


自然と笑顔になって、自然と肩を寄せ合う。


果南「梨子ちゃん……これからよろしくね」

梨子「うん……こちらこそ、よろしくね。果南ちゃん」


自然と寄り添って。ああ……なんて、幸せな日だろう。


 果南『こんなに幸せで……いいのかな……』

梨子「ふふ……♪」


また、同じこと考えてる。


果南「……あ」

梨子「?」

果南「雪だ……」

梨子「え……?」
248 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 18:02:34.42 ID:vQ6qZL/R0

思わず顔をあげると──冬の夜空から、真っ白な贈り物がふわふわと降りてきていることに気付く。


 果南『沼津で雪が降るなんて……』

梨子「……聖夜の贈り物だね」

果南「うん……」


再び、身を寄せ合って。今度は自然と手を繋いで。


果南「梨子ちゃん……」

梨子「果南ちゃん……」


私たちは、ただ、ゆったりと降ってくる、聖夜な贈り物を──二人で寄り添ったまま、ぼんやりと見つめていたのでした。

249 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 18:03:01.99 ID:vQ6qZL/R0



    *    *    *





──本当はこのとき、全てを。


本当に全てを、伝え合わなくちゃいけなかったなんて、知らずに……。





    *    *    *


250 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 18:35:24.64 ID:vQ6qZL/R0


──12月25日。


医者「診察の結果ですが……」

果南「はい」

医者「やはり、異常は見られませんね……」

梨子「そんな……!」


私はお医者さんの言葉を聞いて、眉を顰める。


梨子「どこもおかしくないなんてこと……」

医者「発作的に激痛が走るんでしたよね?」

果南「はい……」

医者「ただ、この前検査したときと同様に、骨や筋肉に異常は見られませんし……。それ以外にも腱や皮膚も健康そのものですし……。血栓が出来ているようなこともなさそうなので……」

梨子「で、でも、本人はすごく痛がっていて……!」

果南「梨子ちゃん」


先生の診察に抗議するように声をあげる私を、果南ちゃんが制する。


果南「あの……他に足が痛む原因になるようなことってないんですか?」

医者「そうですね……自律神経失調症で手や足に痛みや痺れを覚える方はいますね……」

梨子「自律神経失調症……」

果南「えっと……つまり、どういう病気ですか……?」

医者「強いストレスを感じ続けて、体のいろいろな部分に不調が生じる症状です。……最近何か強くストレスを感じるようなことは……?」

果南「特には……。……むしろ──」


果南ちゃんは、私の方をちらりと見る。


果南「……んっん/// とにかく、ストレスみたいなものは特に……」

医者「そうですか……。ただ、本人が自覚出来ていないストレスがある可能性はありますから……少し経過を見て、症状が落ち着かないようでしたらまた診察しますので」

果南「わかりました。ありがとうございます」

梨子「あ、ありがとうございます……」





    *    *    *





梨子「……結局、よくわからなかったね」

果南「そうだねぇ……」


沼津の病院からの帰り道、バス停までの道のりを二人で歩く。


梨子「今は痛くない……? 大丈夫……?」

果南「うん、平気だよ」


隣を歩く果南ちゃんをじっくり観察してみる。

ただ、本人の言うとおり、足取りはしっかりしているし、テレパスを使うまでもなく、今は痛まないというのは嘘ではなさそう。
251 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 18:55:54.83 ID:vQ6qZL/R0

梨子「ストレスかもって言ってたけど……」

果南「それこそ、ストレスなんてこれっぽっちも……」

梨子「でも、お医者さんも言ってたみたいに、自覚してないストレスがあるのかもしれないし……!」

果南「あはは、自覚してないストレスって言われると、あっても私にはわからないからなぁ……。でも、もしそういうのがあったとしても……」


果南ちゃんは優しく微笑みながら、


果南「梨子ちゃんと一緒にいたら吹き飛んじゃうと思うんだよね」


そう言葉にする。


梨子「……ぅ///」

果南「ふふ、赤くなった」

梨子「か、果南ちゃんがそういうこと言うからだもん……///」

果南「だってホントにそう思うからさ。……梨子ちゃんはそうじゃないの?」

梨子「そ、そういう聞き方はずるい……/// ……私も果南ちゃんと一緒に居たら……嫌なこと全部吹き飛んじゃう……よ……///」


自分で口にしながら、どんどん顔が熱くなっていくのを実感する。


果南「よかった……。実は梨子ちゃんにとって、私と一緒に居るのはストレスだって思われてたらどうしようかと思ったよ」

梨子「そ、そんなわけないよ……! だって──」


言い掛けて、呑み込む。


果南「んー? だって、何かなー?」


果南ちゃんがちょっといじわるに笑いながら、「だって」の続きの言葉を促してくる。


梨子「……し、知らない……///」


私はぷくっとほっぺたを膨らませて、ぷいっとそっぽを向く。こんな往来で愛の告白まがいのことなんて言えないもん……。


果南「あはは、ごめんって。怒んないでよー」

梨子「い、いじわるな果南ちゃんのことなんて、もう知りません……///」


私は一人すたすたと前を歩きだ……そうとしたら、目の前には赤信号。

私が信号待ちで足を止めたところで、


果南「ごめんね。梨子ちゃんがあんまりに可愛いから、ちょっといじわるしたくなっちゃって」


と、言いながら果南ちゃんが私の手を握る。

──また不意打ちでそういうことするんだから……もう……。


 果南『もう、言葉にしなくても……梨子ちゃんの気持ちはわかるから、いいんだ』

梨子「……///」


心の中でまで恥ずかしいことを……。でも、嬉しい……。

火照る顔を見られないように、そっぽを向いたまま、果南ちゃんの手をきゅっと握る。

そうすると、果南ちゃんが握り返してくれて──ああ、幸せだな……こんなに幸せで、いいのかな……。
252 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 19:53:24.88 ID:vQ6qZL/R0

 果南『なんか……こうして、二人で手を繋いでるだけで……幸せだな……』


また、おんなじ。

自然と顔がにやけるのが止められない。

こんなところ、Aqoursの誰かに見られでもしたら──


 「あれ? 梨子ちゃんと果南ちゃん?」

梨子「っ!!?」


言ってるそばから!? 驚いて果南ちゃんと繋いでいる手をぱっと離してしまう。

声の主の方を見ると、


花丸「あ、えっと……どうかしたの?」


そこに居たのは花丸ちゃんだった。


梨子「え、あ、いやー……な、なんでもないの……///」

花丸「怪しいずら……」


確かに逆の立場だったら、私も怪しいって思うかも……。それくらい、今の私は挙動不審だったよね……。


果南「マルこそ、どうしたの? 沼津まで一人で来たの?」


そんな私を見てなのか、果南ちゃんが話題を逸らしてくれる。


花丸「あ、うん。年末年始のために今のうちに買い出ししなくちゃいけないから……」


言われてみて、花丸ちゃんがたくさんの買い物袋を持っていることに気付く。


梨子「それ全部おうちの買い出し……?」

花丸「お寺だからね……年末年始はやることがたくさんあって、今買い溜めておかないと、大変なことになるずら……っと、話し込んで遅くなったら、じいちゃんに叱られるずら……」


花丸ちゃんはそう言って、立ち去ろうとした折に、ふと──


花丸「あ、そうだ……」


思い出したかのように、私の方に寄ってきて、


花丸「梨子ちゃん、その後はどう?」


と、訊ねてくる。


梨子「え?」


なんのことだろう? 私は思わず首を傾げる。


花丸「前に御祓いの話してたでしょ? ひとまず大丈夫だって言ってたけど……その後、変なこととかないかなって思って」


どうやら、花丸ちゃんは以前話したことを気に掛けてくれていたらしい。ただ、そんな花丸ちゃんの“御祓い”というワードに反応して、


果南「お、御祓い……? 梨子ちゃん、何かあったの……?」


果南ちゃんが青い顔で訊ねてくる。
253 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:17:55.10 ID:vQ6qZL/R0

梨子「あ、うぅん! なんでもないの! えっと……ちょっと運が悪いなって思ってたことを、前に花丸ちゃんに相談してただけで……あはは」


私は果南ちゃんを怖がらせまいと矢継ぎ早に説明をする。


果南「そ、そうなの……?」

花丸「……その様子なら、本当に大丈夫そうだね。でも、もし何か困ったことがあったら言ってね」

梨子「う、うん! ありがとう、花丸ちゃん」

花丸「どういたしましてずら〜。それじゃ、二人ともまたね〜」


花丸ちゃんは大荷物を持ったまま、立ち去っていく。


果南「り、梨子ちゃん……ホントに何もない……んだよね?」

梨子「うん、大丈夫だよ」

果南「ホントに……?」

梨子「本当に、大丈夫だよ! なんにもない!」

果南「そ、そっか……なら、いいんだけど……」


私の言葉に果南ちゃんが安堵の息を吐く。

果南ちゃん、確か怖いモノが苦手だった気がする。

前に千歌ちゃんが口元を真っ赤っかにしてたときも、怖がってたし……。──あれはトマトを食べていただけだったけど……。


梨子「それより、行こう?」

果南「あ、うん……」


横断歩道を渡ろうと果南ちゃんの手を握ると、少しだけ震えていた。

本当に怖い話が苦手なんだね……果南ちゃん……。

でも、心の声は──


 果南『も、もし……梨子ちゃんに何かあったら……わ、私が……守らなきゃ……』

梨子「……///」


震えながらも、私を守ろうと思ってくれていた。その事実が嬉しくて、また頬が熱くなるのを感じながら……私たちは帰路に就く。





    *    *    *





二人で手を繋いだまま歩いていると──


果南「……っ」
 果南『……また……痛んできた……っ』


果南ちゃんがまた足の痛みを心の中で訴える。


梨子「……ちょっと休憩しようか」

果南「……ごめん、梨子ちゃん……」
 果南『また気を遣わせちゃってる……』

梨子「うぅん、気にしないで……」
254 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:21:20.48 ID:vQ6qZL/R0

近くのベンチまで、果南ちゃんを支えるようにして歩く。

果南ちゃんがベンチに腰掛けると──


果南「……ふ、ぅ……」
 果南『…………やっぱり、座ると、楽になる……』


果南ちゃんの痛みは引いていく。

結局、家に帰るまで、何度もこの繰り返しだった。

しばらく歩くと、果南ちゃんの足はまた痛み出し、座ると痛みが落ち着く。

移動の大半を占めるバスで座ることが出来たのは幸いだろうか……。





    *    *    *





──淡島行連絡船乗り場。


梨子「──果南ちゃん……やっぱり家まで送るよ……」

果南「もう、あとは船に乗るだけだから……大丈夫だよ」

梨子「でも……」

果南「船で往復するのも大変だしさ……」

梨子「…………」

果南「ね?」

梨子「……うん」


私が小さく頷いたのを確認すると、果南ちゃんは一度はにかんでから、踵を返して連絡船乗り場へと歩いていく。

──足を引き摺りながら……。

足を庇いながら、ゆっくり歩を進める果南ちゃんの後ろ姿を見ていたら──やっぱり、我慢できなかった。

私は果南ちゃんの後を追って──


梨子「果南ちゃん……」


果南ちゃんのシャツの裾を掴む。


果南「梨子ちゃん?」

梨子「……今日泊まる」

果南「え……?」

梨子「果南ちゃんの家に泊まる……」

果南「え、いや……」

梨子「ダメ……?」

果南「ダメ……じゃないけど……」

梨子「……離れたくない」

果南「梨子ちゃん……」


果南ちゃんは少し困った顔をしていたけど、私が一向に服の裾を離そうとしなかったからなのか──


果南「わかった。ただし、一度家に帰って準備しておいで? 待ってるから」
255 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:23:21.66 ID:vQ6qZL/R0

宿泊を了承してくれる。ただ、これはこれで果南ちゃんを困らせてしまったかもしれない。


梨子「……ご、ごめんね……。わがまま言って……」

果南「大丈夫だよ。梨子ちゃんが私のことを心配して、そう言ってることくらい、わかってるから」

梨子「うん……」

果南「それにさ」

梨子「?」

果南「離れたくないのは……私も同じだから」

梨子「! 果南ちゃん……///」

果南「今日はずーっと一緒にいよっか」

梨子「うん! すぐに準備して戻ってくるね……!」

果南「ふふ、ちゃんと待ってるから焦らないでいいよ」


私は家へと走り出す──





    *    *    *





──自宅に帰り、バッグに着替えを詰め込む。

果南ちゃんを待たせているので、最低限必要なものを選びながらの荷造りの最中──私は考える。

果南ちゃんの足はどうなってしまったのか……?

お医者さんに訊いても原因がはっきりしない。

痛み方にはムラがあって、痛まないときは本当にいつもと変わらない様子なのに、一度痛み出すと、立っているのも辛いほどの激痛になるらしい。

痛いということは、痛むときだけ何かが悪化してるってこと……?

そして、それがすぐに治って痛みが引くことの繰り返し……。

そんなことってあるのかな……?

もちろん、私は医者ではないし、そういう心得も全くない。実はそういう病気やケガがあるのかもしれないけど……私の感覚では、果南ちゃんが見舞われている足の痛みは、考えれば考えるほど不可解なものに思えてならない。

まるで私たちの想像を超えた何かが果南ちゃんの身に降りかかっていて──


梨子「……って、私何考えてるんだろう……善子ちゃんじゃあるまいし」


そんな人智を超えた不可思議なんて、そうあるはず──と、思い掛けて、


梨子「いや……あった……」


自らの口で否定する。


梨子「テレパス……」


最近あまりに日常的にテレパスを使い過ぎていたせいか、これが普通でないことを忘れかけていた。

考えてみれば、この力は……実のところ、いったいなんなんだろう……?


梨子「…………」


そのとき、ふと──嫌な考えが私の頭を過ぎった。
256 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:26:13.75 ID:vQ6qZL/R0

梨子「…………そんなはずない」


でも、私はすぐにその考えを振り払う。


梨子「…………この力は……私が果南ちゃんを支えるための力……」


自分に言い聞かせるよう、


梨子「…………私が果南ちゃんを一番そばで支えるための……“ご縁”なんだ……」


そう、口にする。


梨子「…………そんなはず、ない……」


自分の中の疑念を掻き消すように──私は呟き続ける……。





    *    *    *





あの後、お母さんに外泊の許可を貰い、船着き場へ戻って来た。


梨子「果南ちゃん……! お待たせ……!」

果南「おかえり」


約束通り、船着き場で待っていてくれた果南ちゃんと合流する。


梨子「足の調子はどう……?」

果南「座って待ってたらだいぶよくなったよ」


そう言いながら、果南ちゃんはその場で軽く足踏みをして見せてくれる。

確かにしっかりした足取りで、またいつものように、痛みが完全に引いているようだった。


梨子「よかった……」

果南「心配掛けてごめん……でも、今日はこれからずっと一緒だから」


果南ちゃんはニコッと笑いながら、優しいトーンで私にそう伝えてくれる。


梨子「……うん///」


──『これからずっと一緒』──そんな果南ちゃんの言葉を聞いているだけで、幸せな気持ちが溢れてきて、変になっちゃいそうかも……。


果南「そろそろ船が来るね……移動しようか」

梨子「うん」


二人で並んで、船乗り場まで歩き出す。

その際──コツンとお互いの手が一瞬触れ合う。

普段だったら、この何気ない触れ合いがくすぐったくて、ドキドキして、それがどうしようもなく幸せに感じる瞬間のはずなのに──私の脳裏を先ほど考えていたことが過ぎって、


梨子「……っ!」
257 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:28:02.08 ID:vQ6qZL/R0

反射的に──ビクッと身を竦ませてしまった。


果南「え、あ……ごめん……びっくりさせちゃった……?」

梨子「あっ、え、えっと……」


自分でも、こんな反応をするつもりがなかったからか、思わず言葉に詰まる。


梨子「そ、その……お泊りでちょっと緊張……してて……あはは」


どうにか言い訳を絞り出す。


果南「あはは、今更緊張しなくても。前にも泊まったことあるんだから」

梨子「……そ、そうだよね……」


一瞬だったから、テレパスもいつものような台詞が流れ込んでくるような形では発動しなかったけど……短く触れ合った時間の間で、なんとなく果南ちゃんの感情が流れてきた気がする。

──『手を繋ぎたい』──という気持ち。

大丈夫。この力は私と果南ちゃんの気持ちを通じ合わせるための力。

悪いものなわけないんだ。自分にそう言い聞かせる。


梨子「か、果南ちゃん……」


だから、言えばいいんだ。果南ちゃんのしたいようになるように、私が気持ちを汲んであげれば──


果南「ん、なに?」

梨子「果南ちゃんが……今、思った通りのこと……して、いいよ……///」

果南「……ん……///」


珍しく、照れたような素振りを見せたあと、果南ちゃんは──私の手をぎゅっと握ってくる。


果南「…………///」
 果南『やっぱり……梨子ちゃんと手繋ぐの……好きかも……』

梨子「えへへ……///」


──ほら、うまくいった。

これはいい力なんだ。私と果南ちゃんを繋いでくれる大切な力なんだ。

悪い力なわけ……ないんだ。





    *    *    *





果南「……っ゛……ぅ゛……」
 果南『これは……き、つい……』

梨子「果南ちゃん、もう少しだから……!」


船から降りると、果南ちゃんの足は再び痛み出した。

そんな果南ちゃんに肩を貸しながら、『Dolphin House』に入る。
258 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:29:39.83 ID:vQ6qZL/R0

梨子「部屋まで行ける……?」

果南「うん……お願いできる……?」
 果南『いつ痛むかわからないなら……部屋で休みたい……』

梨子「わかった……!」


肩を貸したまま、果南ちゃんの部屋までどうにかこうにか辿り着き──


梨子「果南ちゃん……! 着いたよ……!」

果南「う、ん……」
 果南『やっと……着いた……』


果南ちゃんは部屋に着いたのを確認すると、肩を借りていた私から離れて、すぐにベッドの端に腰を下ろして、


果南「……ふ、ぅ……」


深く息を吐く。


梨子「大丈夫……?」

果南「うん……お陰様で……。……いつもどおり、座ったら、落ち着いてきたよ……」

梨子「なら、よかった……」


私も安堵の息を漏らす。


果南「ありがとう……梨子ちゃん……」

梨子「うぅん……当たり前だよ……だって、その……私……/// か、果南ちゃんの……恋人……だもん……///」


改めて言葉にすると、まだ恥ずかしい。例の如く顔が火照っていくのを感じる。きっと赤面している気がする。でも……この恥ずかしささえも、今では、なんだかこそばゆくて心地いいかもしれない。

果南ちゃんの顔を見ると──


果南「うん……///」


果南ちゃんも私と同様に、顔を赤くしていた。


梨子「…………///」

果南「…………///」

梨子「……え、えっと……/// そ、そうだ……! 果南ちゃん、何かして欲しいこととかある……?」


恥ずかしさを誤魔化すように提案すると、


果南「あ、えっと……それじゃ、その……」


果南ちゃんは少しだけ、目を泳がせながら──


果南「隣……座って、くれる……?」


そう言いながら、腰掛けているベッドのすぐ横をぽんぽんと叩く。


梨子「う、うん……/// わかった……///」


私はそわそわしながら、果南ちゃんのすぐ横に腰を下ろす。


梨子「し、失礼します……///」
259 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:31:33.77 ID:vQ6qZL/R0

沈み込む柔らかいベッドの感触を感じながら、腰掛けると──すぐに、果南ちゃんの手が私の手に重ねられる。


 果南『どうしよう……私、今、めちゃくちゃドキドキしてる……』


もちろん、私も同じ。また、同じ気持ちを共有してる。

早鐘を打つ鼓動が心地良い。火照る顔が心地良い。そして何より……重ねられた手から伝わってくる、果南ちゃんの温もりを感じられることが、言葉で言い表せないくらい、幸せだ……。


梨子「果南ちゃん……」


──コテン、と自らの頭を預けるように、果南ちゃんの肩にもたれかかる。


 果南『……ど、どうしよう……こういうときって……抱きしめてあげた方が……いいのかな……?』


……ふふっ。動揺している果南ちゃんの心の声を聞いて、内心笑ってしまう。

いつものように見栄っ張りで、年上の余裕を見せたいって思っているところも、果南ちゃんらしくて……そんなところも、好き。


梨子「……果南ちゃん」

果南「……ん」

梨子「今……果南ちゃんが思ってるとおりにして……欲しいな……///」


だから、こう伝えるんだ。

こうすると、うまく行くから。


果南「梨子ちゃん……」


果南ちゃんが半身を捩りながら、腕を私の背中に回して──私はそのまま抱き寄せられる。

果南ちゃんのハグは何度も経験してきたけど──


 果南『……ああ、私……梨子ちゃんが、好きだ……』


いままでのような、ただ、ぎゅーっと抱きしめるだけのハグと違って、まるで壊れモノでも扱うような優しい優しい抱擁だった。


果南「……苦しくない?」

梨子「……うん///」


控えめに頷くと、私の背中側に回された手が私の髪を優しく撫でつける。


 果南『梨子ちゃんの髪……さらさらだ……』

梨子「果南ちゃん……///」

果南「ん……?」

梨子「名前……呼んで……?///」

果南「……梨子ちゃん……」

梨子「うん……///」


果南ちゃんの胸に抱かれて──ドクンドクンと、鼓動を感じる。果南ちゃんのかな? それとも私の? ──うぅん、お互いの、だよね。

果南ちゃんが息をするたび、胸が上下しているのもわかる。

果南ちゃんの吐息の音さえも、聴き取れる、至近距離。

──視界も、匂いも、音も、温もりも、私の全部が果南ちゃんで埋め尽くされている。

そして──
260 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:33:22.01 ID:vQ6qZL/R0

 果南『梨子ちゃん……好き……好きだよ……』


──心の中まで。

私は全身で──うぅん、全身全霊で果南ちゃんを感じている。

──幸せで溶けてしまいそうだった。

幸せでとろけた思考のまま、顔をあげると──


果南「……梨子ちゃん……」


果南ちゃんが私の瞳を覗き込むように、こっちを見ている。


 果南『梨子ちゃん……可愛い……好きだよ……』

梨子「…………果南ちゃん……///」


私は──目を瞑った。


 果南『あ……これって……』

梨子「果南ちゃん……いい、よ……///」

果南「……梨子ちゃん……」


──ゆっくりと果南ちゃんの顔が近付いてくるのが気配でわかる。

どんどん気配が近付いてきて、果南ちゃんの吐息を顔に感じる。

お互いの唇があと数ミリで触れ合──

──ガチャ。


おじい「──果南、飯……」

果南「…………」

梨子「…………」

おじい「……すまん」


──バタン。


果南「…………」

梨子「…………」


無言のまま、離れる。

数秒ほど、お互い無言の時間が流れたのち──


果南「……ちょっとおじいのところ行ってくる」


そう言って、果南ちゃんが立ち上がろうとして、


果南「……っ゛」


すぐに鈍いうめき声と共に、ベッドの上に逆戻り。


梨子「あっ、無理しないで……!」

果南「……あーもう……こんなときに限って痛むし……」
261 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:36:00.38 ID:vQ6qZL/R0

果南ちゃんは悔しそうに握りこぶしでぽんぽんと自分の膝を叩く。

この前もそうだったし、とりあえずおじいちゃんに説明したいんだよね……。


梨子「わかった」

果南「?」

梨子「私がおじいちゃんに話してくるね」

果南「え?」

梨子「ちゃんと説明してくるから!」

果南「えっ、ちょっと待って、梨子ちゃ──……っ゛……!」


ベッドからするりと抜け出して、部屋を出て行く私。

それを追おうとして、立ち上がるも、三たび痛みでベッドに腰を下ろす果南ちゃん。


梨子「果南ちゃんは、じっとしてて!」

果南「あっ、ちょ──」


──パタン。

扉を閉めて、


梨子「……よし」


私はおじいちゃんの所へと歩き出す。





    *    *    *





──おじいちゃんはリビングで夕食を食べているところだった。


梨子「あ、あの……おじいちゃん」

おじい「……なんだ」


声を聞いて、おじいちゃんが私の方に振り返る。


梨子「さっきのことなんだけど……」


ちゃんと、筋の通っている言い訳を、と思って口を開いたものの──……あれ? 何を言い訳すればいいんだろう……?

よくよく考えてみれば、前回のときは誤解だったけど……今回はお互い好き合った状態で、合意の上でのキス未遂。

……しまった、その辺りのことを、ちゃんと考えていなかった……。


梨子「あー……えっと……」

おじい「……」


と、とりあえず、何か言わなきゃ……!
262 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:37:21.43 ID:vQ6qZL/R0

梨子「き、今日のお魚はなんですか!?」

おじい「梨子」

梨子「は、はいっ!」

おじい「果南は好きか」

梨子「へぇっ!?///」


素っ頓狂な声が出た。ただ、おじいちゃんはそんな私の間抜けな声を意に介することもなく、


おじい「果南は好きか」


もう一度、そう訊ねてきた。

──きっと、これは……真剣に答えないといけない場面だ。


梨子「……はい……///」


だから私は、素直に頷く。

それだけ聞くと、おじいちゃんは、


おじい「わかった」


とだけ言って、おじいちゃんは元のとおり机に向き直って、食事を再開しようとする。


梨子「え、あの……」

おじい「なんだ」

梨子「その……それだけ……ですか……?」

おじい「ああ、いや……さっきはすまん」

梨子「そ、そうじゃなくて……!」


もちろん謝罪をして欲しかったわけじゃない。

ただ、さっきの確認は──きっと、そういうことだと思う。

その割にあまりに淡泊な反応に、逆に動揺してしまう。


梨子「あの……えっと」

おじい「…………」


おじいちゃんは軽く頭を掻いてから、もう一度私の方に体を向けて、


おじい「果南が幸せなら、俺が口出すようなことじゃない」


渋く、しゃがれた声で、でもしっかりと聞き取れるはっきりとした声で、そう言いました。


梨子「おじいちゃん……」

おじい「梨子」

梨子「は、はい……」

おじい「果南を頼む」
263 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:39:48.05 ID:vQ6qZL/R0

前聞いたときと同じ言葉。

世界で一番、果南ちゃんを大切に思っているであろう、家族からの、願い。

私は──


梨子「はい」


頷いた。


梨子「絶対に、果南ちゃんのそばに居ます」


おじいちゃんの言葉に、しっかり、はっきりと、そう答えました。


おじい「…………」


それを聞いたら満足したのか、おじいちゃんは今度こそ、私から顔を背け、箸を手に取る。

私はそんなおじいちゃんの背中に向かって──ペコリと頭を下げてから、果南ちゃんの待つ部屋へと戻るのでした。





    *    *    *





果南ちゃんの部屋のドアを開けると、


果南「おっと……」


ちょうど部屋から出ようとしていた果南ちゃんと鉢合わせる。


梨子「足、大丈夫?」

果南「うん、落ち着いてきた。……それより……」

梨子「ふふっ、ちゃんと説明してきたよ?」

果南「おじい、何か言ってた……?」

梨子「えっと……すまんって言ってたよ」

果南「……おじい、ホントに意味わかって謝ってるのかな……」


果南ちゃんは肩を竦めながら、溜め息を吐く。


梨子「それより……痛みが落ち着いてるなら、ご飯食べる……?」

果南「そうだね……まだおじいも食べてるだろうし……」

梨子「うん!」


せっかくなら食事は家族と取った方がいいもんね。

私が頷くと、


果南「行こっか」


果南ちゃんは、自然に私の手を取って歩き出す。
264 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:41:21.62 ID:vQ6qZL/R0

 果南『タイミング逃しちゃったな……』

梨子「?」

 果南『……今更言い訳してもしょうがないし、おじいに梨子ちゃんのこと、ちゃんと紹介しようと思ったのに』

梨子「……!///」


思わず足を止める。


果南「梨子ちゃん?」
 果南『どうかしたのかな?』

梨子「あっ、いや/// な、なんでもないの……なんでも……///」

果南「そう?」


また赤くなっているであろう顔を伏せながら──私は改めて、この繋がりを離さないようにと、果南ちゃんの手を強く握り返すのでした。





    *    *    *





梨子「ふぅ……さっぱりした……」


──食事のあと、順番に入浴をして、部屋に戻ってきた。


果南「おかえり」

梨子「ただいま」

果南「髪乾かしてあげるから、座って」

梨子「うん」


私がベッドに腰掛けると、果南ちゃんが後ろからドライヤーを掛け始める。


 果南『やっぱ梨子ちゃんの髪……綺麗だなぁ……』

梨子「……///」


嬉しい称賛と共に、一人恥ずかしくなりながらも、どうやら今は足の痛みも落ち着いているようで、少し安心する。

お風呂に入っているときに、足の発作が起こらなかったことは本当に幸いだ。

ふと、そこで思う。


梨子「ねぇ、果南ちゃん」

果南「ん?」


ドライヤーを掛け終わったタイミングで果南ちゃんに訊いてみることにした。


梨子「足のことって……おじいちゃんには言ってないの?」


前に聞いたとき、おじいちゃんは果南ちゃんの足については何も知らなかったし……。
265 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:45:12.18 ID:vQ6qZL/R0

果南「ああ、うん……まあね」

梨子「言わないの……?」

果南「おじいも歳だからね。変に心配掛けたくないし……ケガや病気も出来る限り、自分で対処したいというか……。それに、今までは家にいるときに足が痛むことってあんまりなかったからさ……」

梨子「そうなの?」

果南「うん。ただ、無理はするなとは言われたんだよね……。どっかのタイミングで気付かれたのかもしれないけど……」


たぶん、それは私がおじいちゃんに聞いたのが原因だろう。

だとしたら、やっぱり余計なこと言っちゃったのかも……。


果南「これ以上悪化するようなら仕事の手伝いのこともあるから、言った方がいいかもしれなけど……。どっちにしろ今年はもうお客さんもいないみたいで、お正月明けるまではのんびり進行だからさ」

梨子「そっか……」


もちろん無理はして欲しくないけど……果南ちゃんなりに考えているなら、私がこれ以上どうこうは言いづらい。

いくら恋人になったとはいえ、いきなり家族や家業の問題にまで口を出すのは、いろんなステップを飛び越え過ぎだと思うし……。


果南「まあ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ! たぶん、どうにかなるからさ!」


ある意味、この大雑把さは果南ちゃんらしいかもしれない。

どちらにしろ、お医者さんに訊いても原因がよくわからない以上、こちらから打つ手は──でもそんな中で私の頭を過ぎるのは、またしても別の……ケガや病気とは違うものである可能性。


梨子「…………」

果南「梨子ちゃん?」

梨子「あ、うぅん……なんでもない」


私は頭を振る。

それこそ、気にしすぎだよね……?

私が一人もやもやとした疑念を胸中に抱いていると、


果南「ホントにそんなに心配しないでも大丈夫だよ」


果南ちゃんはそう言いながら、私を後ろから抱きすくめる。


梨子「か、果南ちゃん……?///」

果南「私は、梨子ちゃんがそばにいてくれたら……痛いのも辛いのも飛んでっちゃうからさ……」
 果南『梨子ちゃんが居てくれれば……それだけで、きっとどうにかなる気がするんだから、不思議だよね』

梨子「……うん///」


私は果南ちゃんの言葉に頷く。

うん、そうだ。今私に出来ることは、少しでも果南ちゃんのサポートが出来るように、こうしてそばにいることだよね。

そう自分に言い聞かせる。


 果南『……梨子ちゃんを安心させるためのハグなのに……むしろ私が安心してるかも』


私がそばにいるだけで……果南ちゃんが安心してくれる。

だからこれでいいんだ……これで──





    *    *    *


266 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:46:57.54 ID:vQ6qZL/R0


時刻午後10時。

そろそろ就寝時間という頃合。

もちろん、今日は果南ちゃん用の敷布団は用意されておらず……。


果南「梨子ちゃん。……おいで?」

梨子「……うん///」


果南ちゃんが座ったまま両手を広げて待っているベッドへ、私もお邪魔する。


果南「ハグっ」

梨子「きゃ……///」

果南「ぎゅー……」

梨子「えへへ……果南ちゃん……///」


本日何度目かわからない、恋人からのハグ。

でも何度されても嬉しくて、幸せが込み上げてくる。

甘えるように、果南ちゃんの胸に顔を埋めると、


 果南『梨子ちゃん……可愛い……』


こちらも何度目かわからない心の声を聞かせてくれる。


梨子「果南ちゃん……///」

果南「んー?」

梨子「今日は……果南ちゃんにぎゅってされたまま……眠りたい……///」

果南「ふふ……いいよ」
 果南『あーもう……私の恋人、ホント可愛いなぁ……』


抱きしめられたまま、一緒に横になって、肩まで布団を掛けて、リモコンで電気を消す。

部屋が暗くなり、お互いの顔が見えなくなる。

でも、私は暗くなった中でも果南ちゃんから目を逸らせなくて──次第に目が慣れてくると、暗闇の中で、果南ちゃんの二つの瞳も私を見つめていることに気付く。


 果南『あ……梨子ちゃんも私のこと、見てる……』

梨子「ふふ……」


また、おんなじ。


梨子「果南ちゃん……」


名前を呼んで、さらに体を密着させる。

すると、果南ちゃんは、私の頭を優しく撫でてくれる。


果南「梨子ちゃん……おやすみ」

梨子「うん……おやすみ……」


果南ちゃんの胸の中で、目を瞑る。

果南ちゃんの匂いに包まれていて、すごく落ち着く……。

幸せな気持ちを抱いたまま、果南ちゃんの温もりを感じていると──意識は思ったより早く、眠りの世界へと沈み込んでいく。

その間、ずっと──
267 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:48:26.05 ID:vQ6qZL/R0

 果南『梨子ちゃん…………梨子ちゃん…………好きだよ……』


そんな果南ちゃんの心の声を聞きながら──私は夢の世界へと、落ちていきました。





    *    *    *





 『梨子ちゃん』


声がする。


 『好きだよ』


私の大好きな人の声。

私も好き。大好き。

寝ても覚めても、私の頭の中に木霊する愛の言葉。

──ああ、幸せだ。

こんなに幸せでいいのかな。

……いいよね。

こんなに幸せなんだもん。

間違ってるはずない。


 『梨子ちゃん、好きだよ』


私も大好き。

声に溺れるように。

力を抜いていく。

全部がどうでもよくなるくらい、幸せに浸りきろうとした、そのとき──


 「いいの?」


違う声が、聞こえた。

ある意味で、世界で一番聞きなれた、一番聞いてきた、声。

これは──私の声……?


 「本当に、これでいいの……?」


……何が? 何がいけないの……?


 「本当は気付いてるんじゃないの?」


……何に?


 「自分の、間違いに」


…………。


 「今なら、間に合うかもしれない、だから……!」
268 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:49:40.28 ID:vQ6qZL/R0

──うるさい。

私は耳を塞いだ。

私が、私の幸せの邪魔……しないでよ……。


 「お願い……! 耳を塞がないで……!」


やめて。私には関係ない。


 「このままじゃ、本当に……!!」


──うるさい。


 「ねぇ……!!」


──うるさいっ!!!

私は、私の言葉を掻き消すように、叫んだ。

すると、声は聞こえなくなった。

──これで、いいんだ。

間違ってるはずない。

私も、果南ちゃんも、幸せなんだから。

だって……だって、そうじゃないと……私は……ずっと果南ちゃんのことを──





    *    *    *





──チュンチュン。


梨子「……ん、ぅ……」


ぼんやりと目を開けると──


果南「…………すぅ……すぅ……」


私は果南ちゃんの胸の中に居て、すぐそばから果南ちゃんの寝息が聞こえてくる。


梨子「…………」


辺りを見回すと、カーテンの隙間から光が漏れている。

果南ちゃんも眠っているし、もう一度寝ようかなとも思ったけど……。

変な夢を見たせいか、いやに目が冴えていた。

内容を正確には思い出せないけど……気分が悪くなるような夢だった気がする。

──果南ちゃんを起こさないようにゆっくりと、彼女の胸の中から抜け出す。


果南「ん、ぅ……」


私が離れると、果南ちゃんは私を探しているのか、何かを手繰るような仕草をしたけど、


果南「…………すぅ…………すぅ……」
269 : ◆tdNJrUZxQg [saga]:2020/08/23(日) 20:51:28.59 ID:vQ6qZL/R0

すぐにまた寝息を立て始めた。


梨子「……顔洗ってこよう」


ぼんやりした頭を覚ますために、私は一人部屋を出て、洗面所に向かうことにした。





    *    *    *





梨子「──ふぅ……」


顔を洗って、すっきりしたところで──


梨子「あれ?」


リビングに人影を見つける。

もちろん、果南ちゃんが自室で眠っている以上、この人影が誰のものかは決まっていて──


おじい「……梨子か」

梨子「おはようございます……」


そもそもおじいちゃんは普段から早起きだから、仕事がない日に朝早く起きていてもおかしくはないんだけど……。

私が疑問に思ったのはそこではなく、おじいちゃんが何やらバッグに荷物を詰めているところだったからだ。


梨子「どこかいくんですか?」

おじい「ああ、数日家を空ける」

梨子「……へ?」

おじい「大晦日には戻る」


それだけ言っておじいちゃんは荷物を持って、出ていこうとする。


梨子「ち、ちょっと待って……! どこに行くんですか……?」

おじい「休暇だ」

梨子「休暇って……旅行ってことですか……?」


年末年始は仕事がないって果南ちゃんも言っていたし……この機会にってことなのかな……?


おじい「ああ。十千万旅館に世話になってくる」


思ったより近所……。旅行といえば旅行だけど……。


おじい「梨子」

梨子「は、はい……?」

おじい「何日か泊まっていけ」

梨子「……はい?」

おじい「果南を頼む」


最後にそれだけ残して、おじいちゃんは出て行ってしまった。
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