渋谷凛「愛は夢の中に」

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262 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:23:45.41 ID:/6nApN/no
『Hey You』も間もなく曲が終わろうとしていた。

フェードアウトしてゆくアウトロは、スマトラ産のコーヒーの余韻を思わせる、ほろ苦さと清涼な喉越しだった。
それはまるで砂漠に降る小雨のようでもあった。

――Make about face, make a turn around, make a U-Turn now.

――ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……
――ヒア・イティズ…… ヒア・イッティズ…… ヘイ ヘイユー……
263 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:24:26.14 ID:/6nApN/no
この後の凛はボイストレーニングだ。

凛はベースをケースに仕舞って、ちらりと目に入るブレスレットを撫でた。

「じゃ、私も行ってくる」

そう声を掛けると、Pは相変わらず手足を脱力させながら「おう、行っといで」とコクリと顎を引いた。

短いリサイタル休憩では回復しきれなかったのか、僅かに寂寥たる表情で「俺も稟議書やっつけるかぁ」と独り言つ。

この日のレッスンでは、最も歳が近いトレーナーの青木慶からも、新しいブレスレットを褒められた。
264 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:27:05.25 ID:/6nApN/no

Pは手帖に挟んだ写真を眺めていた。

100平方センチあまりのカンバスの中で、人が二人、微笑んでいる。

手に持つそれは丁寧に扱われており、経年の割には綺麗な状態を維持してはいるものの、全体がくたびれたり縁に皺が生じてしまうのは避けられない。

それでもなお、額に飾るのではなく、いつでも胸ポケットに入れておきたかった。

見るからに着慣れていないと判るスーツ姿の自分の横に立っているのは、長身痩躯で、碧い眼と腰上まで伸びる黒い髪、感情は読みにくいが整った面立ちを持つ、今より僅かに幼さを感じる少女。

初めて出会い、初めて担当し、初めてデビューさせ、初めてCDを出した、Pにとっても会社にとっても初めてづくしのアイドルだった。
265 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:27:54.23 ID:/6nApN/no
その少女が、これまたCGプロのアイドルとして初めて、心の底に眠っていた“オンナ”を認識し始めている。

あのブレスレットは凛が自分で買ったものではないと、Pは察していた。

凛はああ見えてだいぶ趣味が保守的だから、自分から進んで買うタイプのアクセサリには見えなかった。

何より、手首へちらちらと視線を送る所作や、撫でた際の無意識下の表情が、満更でもない相手からの贈り物であることを雄弁に物語っている。

さて、どうしたものか。

無論、アイドルとして色恋沙汰は回避して欲しいものだが――

しかし人として当然持ち得るその感情を没収してよいのだろうか。
266 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:28:46.13 ID:/6nApN/no
ただでさえ一生に一度しかない10代の多感な年頃をアイドル活動で埋め尽くし、人並みの青春を謳歌する機会を奪い取ったと云うのに。

彼女は、芸能界の仕事は好きだと云っていたし、その生き様に誇りを持っているとも云っていた。

それでも、だからといって世の中を充分に知らぬ年端の少女の人生を代償とし、アイドルの輝きへと引き換えた負い目は消えないのだ。

プロデューサーと云う人間に刻まれた業。死んだらきっと地獄へ墜ちるのだろうと思う。

凛の希望は叶えてやりたい。

それこそが、渋谷凛担当プロデューサーとしてのけじめのつけ方だとPは考えていた。
267 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/31(金) 00:29:29.49 ID:/6nApN/no

今日はここまで
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/31(金) 06:01:50.10 ID:Ix2DjEmDO
たんおつ



パパラッチの出番はそろそろかな?

つか、何故J型ハークを?よく見るの?(こちらは岐阜基地と小牧基地が近いです)
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/31(金) 22:06:57.94 ID:/6nApN/no
>>268
首都圏で、米軍基地があって、C-130Jがいるところ→ つまり横田近辺がこのシーンの舞台ってわけです。
270 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:08:39.07 ID:/6nApN/no

・・・・・・

例年になく多い台風は、災害の中心地に選ばれると云う不運に見舞われさえしなければ、空をモップ掛けして去ってゆく掃除機なのだろう。

台風一過の東京は雲一つない快晴で、嵐の運んできた南風で気温は高いものの、湿度は低く過ごしやすい。

東日本に襲来した24号は各地の気象記録を塗り替えて、俊足で駆け抜けていった。

東京への到達は深夜で生活時間帯からは外れたが、昨夜は早いうちから公共交通の計画運休が実施され、泊りがけのロケが中止に追い込まれてしまった。

ゆえに丸一日たっぷりと棚から牡丹餅の休日である。

それでいて天気が良いのだから、ご機嫌麗しきこと甚だしいのは当然。

電車のドアが開けば、金属に遮られていた視界の拡がりと共に世界が輝いて見えるのだ。
271 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:10:35.84 ID:/6nApN/no


「――え? 日帰りでツーリング?」

『そう、今日明日の収録がバラシになっちゃってさ、もし凛の時間があるならどうかなと思って。この分なら今夜中に天気回復しそうだし』

栗栖の声は、電波状態がやや悪いのか、少しくぐもって聞こえた。会話の向こう側から、風に揺らされた電線の鳴く音がしばしば聞こえてくる。

曰く、栗栖の方は東海方面での地方ロケがあったそうで、移動日程などを考慮すると根幹のリスケとなったらしい。

テレビをちらり見遣ると今まさに台風は愛知と岐阜にかけて我が物顔で闊歩している最中のようで、名古屋発の中継では大規模停電の情報などが洪水の如く流れてくる。
272 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:11:16.74 ID:/6nApN/no
リスケは賢明の――と云うよりは当然の判断だ。

幸いか、夜が明けるまでには東北太平洋側へ抜け去る予測で、中継から天気予報へと画面が切り替わると、明日の天気は晴れマークがずらりと並んでいる。

「ちょうど私も泊りのロケがなくなったんだ。明日は久しぶりに何も予定の入らない日だよ」

凛の返答に『俺とほとんど同じ状況だな』と栗栖の声音が弾んだ。

「でも私、バイクなんて乗ったことないよ、もちろん免許だって。さっぱりわからないことだらけなんだけど……」
273 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:11:56.04 ID:/6nApN/no
『そこは心配ないさ、タンデムだから凛は自転車と同じ感覚で大丈夫。丈夫な生地のロングパンツと、ヒールじゃなくてスニーカー系の靴を履いておいてくれればそれだけでいい』

何より、と軽く咳払いをする。

『ライダーの格好をしていれば二人で出歩いてもよもやアイドルと思われないし、走ってる最中なんて凝視されることもない。お忍びには最適なのさ』

「あぁ、なるほど。そうだね、ヘルメットも被るしね」

凛は自らがバイクに乗っているところを空想して頷いた。

二人で遊園地だとか温泉地などでは万一気付かれたときに到底言い訳できないだろう? と栗栖が茶化して云うので、凛は「たしかに」と相槌の苦笑をした。

どうやら、二人そろってのオフにできそうだ。

「うん、うん……わかった、じゃあ10時に――」
274 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:13:22.32 ID:/6nApN/no


昨夜の会話を反芻すると、何故だか顔が綻んでしまう。

誤魔化しがてら、やや高くなった空を見上げて、集合場所に指定した駅舎前へ出る。

しんと停まっていた都営バスが、セルモーターの始動するソプラノに続いて重いエンジン音を歌いだした。

横目に歩く凛の背中にわずかな衝撃があり、何事かと振り向こうとすれば「失礼」と会釈を寄越しつつ閉まりかけた折り戸へサラリーマンが駆け込み、箱の中に消えていった。
275 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:14:10.08 ID:/6nApN/no
エンジンの中で大きなビー玉でも転げ回っているのかと思えるほどゴロゴロ唸らせて走り去るそれを見遣り、ぶつかった相手がまさかアイドルだなんて想像だにしていないんだろうな、と柱に軽く寄り掛かる。

芸能人をやっていると認識が薄くなるきらいがあるが、世間の人は、自分が思っているほど他人など気に掛けていないのだ。

たとえそれが有名人であろうとも、変装をしていればただの有象無象と同じ。

その事実に、若干悔しい負けん気の思いもありつつ、どこか少しほっと安堵する気持ちもあって、凛は少しずれた白いハンチング帽の位置を手慰みにいじった。
276 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:14:58.95 ID:/6nApN/no
ふと、駅前ロータリーに赤く鮮やかな二輪車が滑り込んでくるのが見えた。

サーキットで見かけるような、先端から中心部にかけて外殻で覆った造りの、シャープなシルエット。

凛の方を向いて片手を挙げるので、間違いなく待ち合わせの相手だ。

小走りで近寄ると、サイドスタンドを出して停め、ゆっくりと降りてくる。

体重から解放された車体が揺れ、VFRと書かれた銀色のエンブレムが太陽を反射して綺麗に光った。
277 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:15:57.20 ID:/6nApN/no
栗栖がフルフェイスヘルメットの目元のシールドを上へ開ける。

「おはよう。ごめん、待ったか?」

「ううん、私も今ちょうど来たところだから」

使い古された定型句のやり取り。爆発すればいい。

凛は栗栖の足先から頭までまじまじと眺めた。

ライディングブーツやグローブ、ジャケット、そして何よりヘルメットという全身装備のせいで、栗栖だとは一見して判別できない。
278 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:17:15.65 ID:/6nApN/no
「なんか、バイク乗る人ってみんな似た特殊な恰好だよね」

「車と違って生身を外に曝すわけだからね。
丈夫な長袖長ズボンは基本だし、身を守る装備をきちんと着ける真面目なライダーはどうしても見た目が似通ってくるもんさ」

「私……昨夜云われたパンツと靴以外は全然その辺を考えない服で来てるんだけど」

「それは問題ない。凛用の装備は俺が持ってきた。糠に漬けても抜かりないのが知多栗栖ってことよ」

ベキリの相棒の名口癖だよな――と云いながらバッグをごそごそ漁り、「はいこれ」とジャケットやグローブ、ヘルメットなどを寄越してくる。

肘当てに膝当て、髪の毛を纏めるヘアゴムまで用意がある。
279 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:18:03.81 ID:/6nApN/no
伊達眼鏡や帽子を外し、代わりに頭部をすっぽり覆うヘルメットをかぶれば、中にはインカムがあって無線でスムーズに会話できる状態になっていた。

「準備良すぎなんだけど……これ、絶対に色々な女をバイクの後ろに乗せ慣れてるでしょ」

「云い掛かりだ! 凛を乗せたいなと思って準備したに決まってるだろう」

栗栖の必死の弁解に凛はジト目で応える。どう説明したものかあたふたするのをしばらく見て、「ふふっ、冗談だよ」と肩を揺らした。

説明の真偽のほどは果たして本人のみぞ知るところだが、仮にたとえ方便であったとしても、自らのために準備したと伝えられれば嬉しくなるのが女心と云うものだ。

ああ、この人は自分の時間を私のために使ってくれたんだ、と。
280 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:19:01.05 ID:/6nApN/no
バイクのバックミラーを覗き込むと、そこにはすっかりライダー装備となった凛が映り込む。

栗栖と並べば、中身はまるで誰だかわからない、ただのペアツアラーだった。

「ホントこれ、お忍びには持ってこいだね。私が渋谷凛だなんて誰も思わないよ」

腕を組んで満足そうに頷く。

「ところで、今日はどこへ行くの? なんかとても速そうなバイクだけど」

赤い車体を撫でながら凛が問うた。
281 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:19:57.40 ID:/6nApN/no
「今日は山も海も堪能できるところへ行こうかと思ってる。
コイツは見た目レーシーだけど実は二人で乗りやすいツアラーなんだ。サーキットだけじゃなくて色々なところへ行ける」

白バイにもよく使われてるから街中で見かける機会も多いと思う、と栗栖は付け加えた。

「ふぅん、山も海もなんて贅沢な欲張りコースだね。詳しい内容は聞かないでおくよ、楽しみにしてる」

任せとけ、と云って栗栖がVFRに跨った。

続いて凛が片側のタンデムステップに足を掛け、栗栖にレクチャーを受けつつするりと後席へ滑り乗る。

後ろに座る心得のいろはを教わってから、「よし、じゃあ行こうか」と云う栗栖に頷く。

頭の重心が高くなっているせいで、凛のヘルメットが勢い余って栗栖の背中を殴りつけた。

エンジンイグニッションの咆哮と二人の大きな笑いが混じり合い、それらを取り残すようなスムーズさでロータリーをするする抜け出てゆく。
282 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:21:26.17 ID:/6nApN/no
そこには新しい世界が拡がっていた。

眼、耳、鼻、肌――凛の感覚器すべてにダイレクトな信号が送られてくる。

路の真ん中を一人で自在に飛んでいるような視点は、まるで自分が世界の支配者になったかの如き自由さを覚え――

身体を擦るほどの圧力を持つ風には、普段意識しない空気の威力と、排気ガスと云う人類の匂いを実感する。

車速に応じて変化するエンジンの音と振動は、じきに風切り音へとオーバーラップしてゆく。

太古より馬に乗って移動してきた我々人類の遺伝子に刻まれた歓喜の脳内麻薬が、ドバドバと凛の全身を沸騰させている。
283 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:22:01.37 ID:/6nApN/no
しばらく交通量の多い街道を走ると、VFRは「第三京浜」と書かれたインターチェンジへの進入路へ機体を振った。

一気に幅員の拡大した道路と、それまでの比ではない速さで瞬く間に後方へ過ぎ去ってゆく景色は、これまでの人生で全く未知の経験だった。

緑色の標識に書かれた地名が、順々に馴染みのないものへと変化してゆく。

これまで自動車から何度となく見ているはずのそれらが、箱の中から外に出ただけでこれほどまでに別物へと変わるのか。

「栗栖……すごいね、これ」

凛はため息を吐きながら、惚れ惚れとした声音で呟いた。
284 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:23:39.56 ID:/6nApN/no
「バイクは単なる移動手段なだけじゃなくて、乗ることそのものが楽しみだし、目的なんだよな」

インカムのややノイジーな無線越しの会話も車では味わえない。

凛を包むすべての環境が楽しみを演出していた。

やがてインターチェンジを降りると山中を抜ける坂の多い道となる。

田舎の懐かしい空気を感じる風景を軽快に流す頃には、凛はすっかり後席での体重移動を身に着けていた。

「やっぱアイドルやってるとバランス感覚が磨かれてるんだな」

栗栖が妙に感心して云う。

二人とも身体が資本ゆえ、万一のことを考えると無茶な走り方はできないが、それでも軽快なスロットルワークは操る者も同乗する者も楽しさを最大限に示す。
285 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:29:11.16 ID:/6nApN/no
じきに目先の道路が上りから下り勾配へ切り替わるクレストに差し掛かった。

進むに従い、路面のアスファルトの向こうから、波面が顔を出す。

「あ、海!」

凛が風切り音に負けない強さで叫んだ。

つい先ほどまでトンネルとか斜面とか、緑に包まれた山の中を走っている光景だったのに、目の前に遙かなる大洋が見えるのだ。

「山も海も、って云ってたのはこれだったんだね」

「ご名答。ここからは海沿いを流すよ」

後席の反応に栗栖は満足気だ。スロットルを吹かして、改めてエンジンが艶めかしく啼く。
286 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:30:21.86 ID:/6nApN/no
「Hey Siri, LMFAOのパーティロックアンセムをかけて」

凛は微かな潮の香りを鼻腔に感じながら、寄せては返す波を横目に見ながら、スマートフォンの音声コントロールを起動させた。

操縦する栗栖の代わりに、高揚するツーリングに相応しいBGMを見繕う臨時DJだ。

「おいおいおい俺をスピード違反させる気だな?」

パーティロックアンセムはEDMの代表的ナンバーと云える、鋭いビートの効いた縦ノリで楽しく昂れるトラックだ。

凛の選曲に栗栖が突っ込むので、「捕まっちゃダメだからね」と笑って云った。

ドリルの如く刺激的な電子音の激流が二人を包み込む。
287 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:30:56.87 ID:/6nApN/no




Party Rock Anthem
https://www.youtube.com/watch?v=KQ6zr6kCPj8



288 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:34:35.84 ID:/6nApN/no

――今夜パーティやっちゃうぜ Party rock is in the house tonight
――みんなでトベるぜ Everybody just have a good time
――お前らをキメさせてやるからよ And we gon' make you lose your mind
――みんなでイケるぜ Everybody just have a good time
――待ってるからよ、さあいくぜ! We just wanna see ya... Shake that!
289 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:35:09.78 ID:/6nApN/no
リズムに沿ってバイクが左右にスラロームする。

「ちょっと、振りすぎでしょ、落ちたらどうするの」

そう抗議しつつ、凛の声もはしゃいでいた。

「そうだな、じゃあノるのは横じゃなくて縦にしよう」と首を縦にシェイクする。

一定周期でバイクのフロントフォークが伸び縮みして、凛も追従すると変化量が増大した。

もし機械が話せるなら、凛の代わりにサスペンションから不服申立の声が挙がるだろう。

もちろん性能の良さには折り紙つきだから、乗っている本人たちにしてみれば揺れまくっていることはあまりわからないはずだ。
290 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:37:20.56 ID:/6nApN/no
VFRは、急峻な地形が海に没していく僅かな隙間を縫って敷設された道を進む。

三浦半島は海底が隆起して出来上がった陸地ゆえ、平坦な場所はあまりない。

海岸を走っていても、少し内陸へ入れば山中の様相を呈する。目まぐるしく景色が変わるツーリングルートだ。

しばらく続いた浜辺の景色はいつの間にか鳴りを潜め、斜面が険しさを増すのと比例して市街の空気からのどかな田舎へと変わりつつある。

そうこうしているうちに、エレクトロファンクとハウスを融合させた、重厚なリズムを纏った曲に切り替わった。
291 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:38:06.03 ID:/6nApN/no




Lay Me Down
https://www.youtube.com/watch?v=ISiGtxsN5d0



292 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:39:14.45 ID:/6nApN/no
「お次のナンバーは早世してしまったご存知アヴィーチーのレイ・ミー・ダウン。
これは彼が躍進するきっかけとなったウェイク・ミー・アップと対になるフレーズでありながら、両曲ともに苦悩を描き歌ったものとして――」

凛がラジオで鍛えたMCテクでDJを気取る。

どこか懐かしくも新しく、どこか硬質でありながら柔らかさも兼ね備え、どこか物悲しくもテンションを上げずにはいられない、EDMの真骨頂が海沿いの景色と実にマッチする。

――暗闇に寝そべって Lay me down in darkness 君の見ているものを教えてくれよ Tell me what you see
――愛は心の拠り所なんだ Love is where the heart is
――あなたしか要らないって囁いてくれ Show me I'm the one, tell me I'm the one that you need

耳を撫でる曲を聴きながら大きな橋を渡れば、渡り鳥が羽休めをする場所はもうすぐだ。
293 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:44:45.01 ID:/6nApN/no

===

目の前を、打ち寄せる波が白く解けて飛散し、鼻先を撫でる。

三浦半島の最先端、海が地層を浸食して出来上がった巨大な横穴の前に二人はいた。

近傍の駐車場から15分ほど歩く道のりは、潮風の影響で高く伸びられない植生の木々をくぐったり、或いは急に視界が開けて大海原が辺り一面を占めたりと、退屈しないハイキングだった。

穴の側には「馬の背洞門」と書かれた立て札が掲げられている。台風直後の平日だからか、周囲に他の人影はない。

「不思議だね、削ると云うより……くり抜くように開いてる」

内壁をぐるりと見回して凛が云った。「まったくだ」と栗栖も頷く。
294 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:45:38.28 ID:/6nApN/no
「大正の頃までは、ここを船で通れたらしいな。関東大震災で地面が持ち上がったんだってさ」

これ絶対に当時は大人気のクルーズコースだったよなあ、と今では実現できないことへの若干の羨望を込めて笑う。

「栗栖はよくこんな場所知ってたね」

地方ロケなどでそれなりに全国行脚してきた凛は、それでも尚まだまだ知らない場所がたくさんあるのだと改めて実感する。

「まあツーリングスポットとしてバイク乗りの間では結構メジャーだからね、俺も受け売りばかりだよ」

自らの手柄とせず、素直に認める姿勢に凛は好感を持った。
295 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:46:22.90 ID:/6nApN/no
「私は、そう云ったメジャースポットすらよく知らない状態だからね。これからも色々と教えてくれる? 連れてってくれれば尚良しだね」

「もちろんさ。これからも二人で色んなところに行きたいと思ってる」

凛はリアクションをせず、高く砕ける遠くの波を静かに見遣った。

栗栖も同じ方向を眺め、しばしゆったりと無言の時間が過ぎる。

強弱と緩急をつける潮騒、海鳥の鳴き声、南風が梢を揺らす音。

そう云えば最近意識することが少なかったかもしれない。世界はこんなにも音に満ち溢れていたことを。
296 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:47:43.28 ID:/6nApN/no
「――もし凛がOKなら、の話だけど」

無言の時間を終わらせてしまうのが少し勿体ないと思うような声音で、栗栖が遠慮がちに口を開く。

「波が長い時間をかけてこの自然を作り出したように、俺も凛の心を少しずつでも開けようとしていいかな」

「ふふっ、その許可を乞う必要はないんじゃない?」

2回肩を揺らしてから、凛は風に揺れる髪を右手で掻き上げて栗栖の方を向いた。

「栗栖はもう、私にたくさんの新しい世界を教えてくれてる。私も、もっと知りたいと思うようになってしまってる」
297 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:48:17.28 ID:/6nApN/no
視線を交わらせながら、慎重に一語一語を選んで続ける。

「正直ね、私はこの感情の正体を薄々解ってはいるんだ。
でも認めちゃダメだって、一度認めたらきっと歯止めが利かなくなるって、そう思って敢えて有耶無耶にしてる」

思春期に芸能界へ飛び込んでから、P以外に初めて身近な、そして馬の合う異性が現れた。

恋愛らしい恋愛をしてこなかった彼女にとって、この心地よい暖かさは、あたかもヘロインの如き誘惑に等しいはずだ。

トップアイドルとしてのプロ意識が辛うじて制止しているだけだから、一度そのタガを外してしまったら、決壊するのは自明。

「どうしよう、栗栖。私、どうしたらいい?」

「凛……」
298 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:48:56.89 ID:/6nApN/no
感情の処し方がわからず困惑した表情を浮かべる凛の頬に、栗栖は手を添えた。

顔と顔がゆっくり距離を縮める。

たっぷり10秒ほど時間をかけて、もう、いいかな……と云う脳の白旗に抗えず、凛は瞼を閉じた。

互いの息遣いがはっきりわかるほどに近づく。

凛は、背徳のあまり地球の重力がぐちゃぐちゃになったような、空きっ腹にブランデーを流し込んだような酩酊感を覚え、受け容れる準備を整えた。
299 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:50:41.75 ID:/6nApN/no
その瞬間、栗栖の胸ポケットから大きな着信音が響く。

鼓膜を突き刺すそれに、たまらず二人とも目を見開いて仰け反った。

お互いを見てから、こほん、と栗栖が咳払いをして電話を取り、「はいはいはい、なんか用すか、田嶋さんじゃなかったら電波切るとこでしたよ」と律儀に苦情を申し立てた。

凛は自らの胸に手を当てて、大きく一息を吐く。

「危なかった……」

鼓動の早さのせいですぐ酸素が足りなくなるので、深い呼吸が続く。

田嶋の発話ボタンを押すのがあと2秒遅かったら、きっと口づけを交わしていた。

キスなんてしてはならないと判っているのに、内心どこかでそれを望んでいる――一体どうしたのだ、私の心は。

着信音さまさまだ、とほっと安堵して胸を撫で下ろす。
300 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:51:55.67 ID:/6nApN/no
ところどころ漏れ聞こえてくる会話から、急遽仕事の呼び出しが掛かったようだ。

自分の心の状態も鑑みれば、今日のところはお開きにするのがよいだろう。

全身から力が抜けてしまった上に、冷や汗を強い潮風が拭うので堪らず「くしゅん!」とくしゃみをした。

会話している栗栖の様子を窺うと、だいぶ急いで戻る必要がありそうな印象を受ける。すぐ動けるように、凛は先行して身支度を整えた。

「……ごめん、田嶋さんからの連絡で、急にアポが入っちまったみたいだ。心惜しいけど、今日はもう帰ろうか」

「うん、様子を見てるとそんな感じがしてた。
もしなんだったら、私は三崎口の駅から電車で帰るよ。その方が栗栖も早く戻れるでしょ。私のことは気にしなくていいから」

凛の提案に栗栖は「すまない、恩に着る」と手を合わせ、また埋め合わせをする約束をして、二人は海に別れを告げた。
301 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:52:50.65 ID:/6nApN/no

・・・・・・

三崎口を出た快特列車が、モーターとインバーターの唸りを伴って爆走している。路地裏の超特急と云う異名に違わぬ飛ばし方だ。

先ほど駅で化粧直しをしてからホームに停まっている車輛へ乗り込んでみたら、路線の末端地帯にも拘わらずほぼ席が埋まっている混雑度だった。

ここから都内まで比較的長く乗ることを考えて、銀座や日本橋辺りに用事がありそうな、淑やかな老婦人の隣へと静かに腰を下ろしてある。

横を窺うと、その人は走行の振動に誘われ、眠りの国へと旅立っていた。
302 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:53:55.88 ID:/6nApN/no
ちらりと外を眺めても、車窓は住宅街の中をぐねぐねと抜ける一般的な都市近郊のもので、バイクからの景色とはまるで違う。

しかも快特と云う割には末端地帯は各駅に停車するので、その度に多くの乗客が乗り込んでくる。

凛はそれまでの夢心地から一気に現実世界へと引き戻されたように思えた。

寝てしまおうかとも思ったが、電車が思い切りスピードを出し急加減速をするせいでとてつもない爆音と揺れに見舞われ続けていて、到底眠れる状態ではない。

隣のご婦人は物凄い胆力をしているものだと凛は舌を巻いた。
303 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:54:47.23 ID:/6nApN/no
ものの15分もすれば立ち客がだいぶ溢れ、すぐそばにはサラリーマンやママ友であろう人たちが立ってスマホをいじったりおしゃべりに興じたりしている。

気づかれないようにと帽子を目深に被り、隣人と同様に身体を小さくして目を瞑った。

視界の情報がシャットアウトされ、途端に先ほど触れられた頬の感触が甦る。

バイクで走っている間はずっと風が当たっていたはずなのに、栗栖の手は熱かった。男の人はみな体温が高いのだろうか。

手足の先の冷えと日々格闘している自分には羨ましい限りだと、心の中で嘆息する。
304 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:55:41.00 ID:/6nApN/no
あの暖かさが頬から流し込まれた時、身体が動かなくなった。

離されないよう包帯でぐるぐる巻きにしていたいほど心地よくて、何も考えられなくなった。

今にしてみれば、あの温もりは悪魔的だったとさえ思える。

電話での中断がなければ、もう戻ってこられないところまで拉致されていたに違いない。

けれど……悪魔でもいい。蕩けさせてほしい。あの電話が怨めしい。

いやいや、自分はアイドルで、向こうもアイドルだ。色恋沙汰なんて赦される身ではない。もう一人の凛が脳内で諫める。

そんなことは判っているのだ。だからこそ未遂で終わってほっとしたのだ。

見くびらないで、と凛は頭の中で自分に吐き捨てた。
305 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:56:12.83 ID:/6nApN/no
ただ――もし次回同じことが起きれば、アイドルの矜持だけで我慢できるかどうかは……正直に云って自信がない。

「ううん、違う……」

自信がないどころの話ではない。まず以て抗えないだろう。

甘い毒が全身に染み渡っていくのを、快感と共に享受することしか、きっと。

どうすればよいのだろう。

乃木公園で同様の自問をした際とは明らかに悩みの度合いが深くなっている。

いつしか電車は地下鉄に直通し、目を瞑らなくても周りは黒の世界と化していた。
306 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:58:08.22 ID:/6nApN/no

大門駅で乗り換えて、麻布十番に戻ってきたのは15時を過ぎた頃だった。

三浦半島にいた時よりも明らかに汚れて重い空気を掻き分け、凛は喘ぐようにCGプロのエントランスを抜ける。

「あれっ? 凛。どうしたん、今日はオフじゃねえの」

やや遠くで聞き慣れた声がしたので振り返ると、つかさが凛を認めて寄ってきた。

「アタシは旭から帰ってきたところでさ」と笑うが、どうにも様子の芳しくない相棒の様子に気づく。

「……ひとまず第一課戻るか!」

ニヤリとした笑みを維持しつつ凛の肩を寄せて歩き出す。

しかし手の力は表情とはちぐはぐにとても柔らかかった。
307 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:59:22.57 ID:/6nApN/no
「――で? 何か悩みか?」

エレベーターの扉が閉まるまで待ってから、操作盤の方を向いたままつかさが問うた。

笑みを剥がしたシリアスな顔が、鏡面のように磨かれたパネルへと映る。

「うん、まぁ……そこまで大層なものじゃないけどね」

「嘘が下手。もうちょっと捻れよ、見るからに重大インシデントの顔してる」

「えー……本当に?」

「マジもマジ、大マジよ」

凛はそれ以上答えられず、エレベーターを降りると廊下には二人の足音だけが響く。

ユニットの相棒には伝えた方がよいのか、ユニットの相棒だからこそ不確実な相談事はしない方が好ましいのか。
308 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:00:40.76 ID:/6nApN/no
延々と答えを出せずに進んでいると、先を歩くつかさが「これからアイツとミーティングの予定だったけど」と前置きをして、第一課のドアの前で振り向いた。

「この時間、譲るよ。アイツにはドキュメントをSlackで送るようにだけ言伝を頼むわ」

「え?」

「相談、しに来たんだろ?」

Pのデスクの方向を指差してウインクを投げてくる。

「もし気分転換になるなら、アタシはこれからダンスの自主トレすっから、終わったら来ていいよ?」

「うん、ありがと。そうだね、もしかしたら後で顔を出すかも」

互いに軽く手を挙げて別れる。凛は、意を決してドアを開けた。
309 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:01:51.83 ID:/6nApN/no
タイミングよく人が出払っている静けさの中で、OAフロアの上を歩く微かな足音が、凛自身の耳には奇妙なほど大きく聞こえる気がした。

「あれっ? 凛。どうした、今日は久しぶりの完全オフだったのに」

Pが凛に気づいて、つかさと同じように疑問を寄越してきた。

担当プロデューサーとアイドル同士、長く一緒にいると似てくるのかもしれない。

「うん。ちょっと相談したいことがあって」

「天下の凛がそんなこと云ってくるなんて珍しいな」

相好を崩すPにつかさから託された伝言をこなしつつ、周りを見て、改めて誰もいないことを確認する。

何気ない行動でも、人払いが必要な内容であることをPは察知した。

おそらく、CGプロ始まって以来の、極めて難しい舵取りが必要になる未来を凛は予告するのだろう、と。
310 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:02:37.35 ID:/6nApN/no
凛は隣のデスクから事務椅子をごろごろと転がしてPの前に据え、「どんな風に云えばいいのか難しいんだけどさ」と腰を下ろした。

一旦眼を瞑って、息を吐く。

「ちょっと自分の手に余ることがあって」

瞼を上げると、Pの視線が強くしっかりと凛の虹彩を射抜いていた。

静かに次の言葉を待っている。変に二の句を促したり、或いは不要な相槌を打ったりしないところが、凛は好きだった。
311 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:04:14.84 ID:/6nApN/no
「……知多栗栖さんのこと」

ようやく一言を絞り出して、再度逡巡する。

「本気で……好きになり始めちゃってる。自惚れでなければ――多分、向こうも」

一句ずつ、ゆっくりと、打ち明けた。

双方無言の刻が過ぎてゆくがPの視線は変わらない。

きっと怒られるのだろう。

そう思って凛は眼を少し伏せた。
312 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:05:20.43 ID:/6nApN/no
「……知ってるよ」

何か云わなければ、と凛が紡ごうとしたところで、先に口を開いたのはPだった。

「え?」

「知ってるよ」

まさかの返答だった。驚きに目を見開いて視線を上げると、寂しそうな笑顔でもう一度「知ってる」と静かに云う。

色々と事情を聴取するでもないただの一言。

凛は、Pが全てを知っていたのだと、最初から最後までお見通しだったのだと悟った。
313 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:06:16.78 ID:/6nApN/no
――プロデューサーは全部知っていて、その上で私を放っておいたんだ。

ただ箱庭の中で生かされているだけだった。

以前、私が目の前のこの異性に淡い思いを抱いた時分には、アイドルが大事だ、全国民の彼女でいろって激怒しながら阻止したくせに。

なるほど、つまり当事者でさえなければ、プロデューサーから見た私はその程度の存在なのか。
314 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:06:53.42 ID:/6nApN/no
凛は、自らの心にピシッと小さく、しかし鋭い音で割れ目が入った音を自覚した。

無性に哀しくなって、そして腹が立ってきた。

「……やっぱり何でもない。御免、忘れて」

凛は目を閉じてやおら強く云い放ち、会話を打ち切って席を立った。
315 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:07:40.44 ID:/6nApN/no
会社を出て、身を炙る憤りに任せながらスマートフォンの画面を叩くように文字を打ち込む。

――終わったら連絡して。

相手は、自らを必要としてくれる彼。

いつもと様子の違うメッセージに、栗栖は何かを感じ取ったのだろう。休憩の合間にすぐ折り返しを掛けてきた。

『もしもし、凛? どうした?』

やや心配そうに訊ねてくる声に、凛はすっと息を大きく吸う。

「栗栖。全部、私の全部をあげる。だから私を満たして」
316 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/31(金) 23:08:56.92 ID:/6nApN/no

今日はここまで
317 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:37:22.88 ID:BuAwdmqeo

・・・・・・

眼下で白や赤の光の列が連なって、それぞれが一本の糸のようになっている。

遠くへ向かう方の車線は、テールランプの流れがまるで血液みたいだと思った。

地上21階のこの部屋は、窓側の壁一面が足元から天井までガラス張りで、カーテン以外に遮るものがなにもない。

さりとてこれほどの高さともなれば怖さは逆に感じなかった。

人間が最も恐怖する高さは10〜20メートルあたりなのだそうで、地上80メートルのここなら、感想は「高いなあ」で済む。

夜の暗い時間帯なら猶のことだ。
318 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:38:12.16 ID:BuAwdmqeo
外からの人工光で、窓際にシルエットが浮かぶ。

女性的な曲線のプロポーションがはっきりとした魅力を纏っている。

凝視しなくとも、放たれる艶めかしさは圧倒的で、シルクのように滑らかなこそばゆさを与えるのだった。

ぼうっと夜景を眺める凛の肩に、そっと手が添えられた。

左横に立つ人物を見遣ると、一緒に眼下へ視線を送っている。
319 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:39:28.81 ID:BuAwdmqeo
「不思議だね」

凛がつと呟くと、「ん?」と云う目線で続きを問うてきた。もう一度外を眺める。

「直接は見えないけど、今こうやって私の視界に入るエリアだけでも100万を下らない数の人間がいるんだよ」

地上を照らしている明かりの許には、それぞれの人の営みが広がっているはずだ。

もっと視点の標高を上げて日本なら1億2000万、更には世界全体では75億。

「そんなおびただしい数の人類から見れば、私一人程度なんて、どれほど矮小な存在だろう」
320 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:40:18.30 ID:BuAwdmqeo
隣の肩に頭を預け、がっしりした腰に腕を回しながら、凛は自嘲のような息を大きく吐いた。

上目遣いで顔を覗き込む。向こうも凛の顔を見下ろす。

「こんなちっぽけな私を求めてくれるのは、栗栖だけだよ」

凛はカーテンを右手で閉じて、その流れで栗栖と正対し、両腕を肩に回す。

「広い世界を見るのは終わり。今は貴方と私、二人だけの場所。田嶋さんの電話で途切れた続き、して」

「いいんだな?」

栗栖が凛の目を覗き込んで、最後の確認とばかりに尋ねた。

「うん……いいよ」

頷くと、栗栖がそっと、凛の後頭部に手を添えた。それを合図に、凛は目を閉じる。
321 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:42:42.12 ID:BuAwdmqeo
ここは方舟。海辺の時のような環境音は何も聞こえない。

聞こえるのはそれぞれの息遣いだけ。

ゆっくりと、柔らかい唇が触れ合う。ついばむように、軽く、優しく。

数度感触を確かめたのち、強く押し付け合った。

一糸纏わぬ凛の背中を栗栖の掌が撫でる。

肩甲骨に沿って指を這わせると、くすぐったい快感がじわり滲み出て、凛は微かに身をよじった。口づけをしたまま、悩ましい息声が漏れ出る。

その緩んだ瞬間を栗栖は逃さなかった。

舌が唇を掻き分け侵入し、不意のことに凛は身体を固くする。

意思を持った別の生物のように口内を蹂躙されるうち、凛もやられっ放しで済ませるものかと、舌を動かして反撃に出た。
322 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:43:12.58 ID:BuAwdmqeo
柔らかいような、硬いような。弾力で押し返してくるような、抱擁で吸収するような。

絡みつく舌同士の相反する感触が連続的に変化し、そのどれもが脳へダイレクトに快感物質を注ぎ込み続ける。

酸素を求める息継ぎと、艶めかしく湿った水音だけが漆黒の世界に響く。

やがて空気の薄さに耐えられなくなって唇を離す。凛の瞳は潤んでいる。

「キスって、こんなに気持ちいいんだね……」

少し放心した風の蕩けた表情で、初めての口づけの、大人の味を反芻して凛は云った。
323 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:43:44.87 ID:BuAwdmqeo
立ったまま、どちらからともなく抱擁を重ねる。幻ではない、実体がここにあるのだと確かめるために、強く。

「凛。君が欲しい」

「うん、私も。抱いて――栗栖」

お互いの耳元で囁き合い、凛はのりの利いたシーツにゆっくりと坐らせられる。

白い布とそれに生じる皺が、赤みの強い彼女の柔肌と婀娜たるコントラストを描いた。
324 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:44:41.53 ID:BuAwdmqeo
栗栖が全身を愛おしそうにじっくり視るので、凛は胸部を隠して顔を逸らした。

「少し、恥ずかしい」

「隠さなくていい。綺麗だ」

女の象徴を秘匿せむと組まれた腕をゆっくり解きほぐし、汗ばみながらも摩擦なく滑る肌を掌が撫でると、甘美な刺激に凛は身体を反応させた。

「私……初めてだから、優しくして……」

いよいよ散らすのだと現実味が強く膨れ上がるにつれ、羞恥心から栗栖に背を向けた。

頭部だけ少し見返らせて、か細い声と横目の視線で乞う。
325 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:45:38.29 ID:BuAwdmqeo
15歳からアイドル一筋だった身にとり、女の一番大切なものを誰にも許すことなくこの歳まで維持してきたのは、一種の勲章だった。

しかし、それも今宵終わりを迎える。

栗栖に触られた部分が熱が帯びるのを、凛はマジックのようだと思った。

身体の中から熱くさせられ、蜜が自らの意思とは無関係に溢れ出てくるのは、神秘としか思えないのだ。

何らかの魔法を掛けられてこのようになっているのだと。

欲しい。この人が欲しい。

いつしか凛は、遺伝子に刻まれた未知の欲求を抱いていることに気づいた。

覆い被さる男を濡れた瞳で見つめると、呼びかけに応じた先端が、ゆっくり一つに溶け合ってゆく。
326 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:46:20.87 ID:BuAwdmqeo
凛は、悦びに打ち震えた。

その嬌声は高く、通りのよい張りと弾力に満ちていた。

声自身が、凛の柔肌と同じ肉感を持っていて、繋がり合った部分と共に快楽物質をお互いの脳へ注ぎ込む。

男の情動を燃え上がらせるその呪文が栗栖を衝き動かし、巡り巡って凛自身を狂わせる。

喘ぐのを抑えむと思えど、快感を求める本能が理性を拒絶するのだ。

唇を重ね、塞いでも、艶やかな声は漏れ出ることを止められない。

頂戴、もっと。欲しい、満たして欲しいの。

昂ぶりのスパイラル。お互いが上へ上へと昇り詰める。

二人は、二人だけの雲の上で何度も躍ねた。

たとえ一度達しようとも、果つる底なき熱が再び双方を焦がし合っては、へとへとに痙攣すらできなくなるまで休みなくずっと続いた。
327 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:47:39.24 ID:BuAwdmqeo

===

カーテンの隙間から差し込む赤い陽光で、凛は微睡から現世に引き戻された。

半目のままゆっくり瞬くことしばし、寝返りを打って手を伸ばす。身体が、泥の中で溺れているかのように重い。

呻きながら、隣に臥している体躯を撫でて、存在を確かめた。

昨夜の交いが露と消える幻ではなかったことを確かめたかった。
328 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:49:04.35 ID:BuAwdmqeo
陽光に照らされて、栗栖の栗色の髪が綺麗に染まっている。

幼少期に地毛のこの明るい色のせいでいじめられたから自らの髪があまり好きではないと、彼自身はかつて云ったことがあったが、傍で見る身からすれば美しくて好きだと思った。

「ん……起きなきゃ……」

今の状況が間違いなく現実であり夢ではないことを理解した凛は、うつ伏せの体勢から緩やかに身を起こした。

「痛ったた……」

最中はずっと脚を開け拡げたり四つん這いになったりしていたせいか、下肢の付け根や膝の皿が鈍痛を訴える。
329 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:49:51.86 ID:BuAwdmqeo
下腹にはまだ異物が中に入ったままのような錯覚があるし、全身の肌は汗と体液が中途半端に乾き始めてベタベタした。

髪に触れると酷く絡まっていて、念入りなメンテナンスを要しそうだった。

一晩乱れただけでこうも容易く傷むのかと、初めてづくしの経験に新鮮な感覚を抱いた。

足を軽く引き摺って窓際へ寄り、カーテンを少し引く。

太陽は地平線から顔を出したばかりで、直視しても眩しさは然程でもない。

おどろおどろしいまでに血の色で朝焼けた空は、まるで自分の心を見透かし、映しているようだと思った。
330 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:51:40.10 ID:BuAwdmqeo
意識の靄を取り去ろうと、バスルームへ入る。

鏡の中に佇む自分は、鎖骨や鳩尾、臀部に至るまで紅紫の痣が多数点在し、これらキスマークを見て改めてこの身が女になったことを実感した。

軽く目を瞑ると、つい数時間前までよがっていた自らの声が脳内に響き、腹の奥が疼いた。しばらくこの感覚は身体から抜けそうにない。

アルコールなど比較にならないほどに人を酔わせる劇薬。体内にLSDの工場が作られたようだ。

目を開けて床を見れば、今もまた、大腿から下が糸を引く洪水に塗れている。
331 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:52:18.22 ID:BuAwdmqeo
『もう戻れないね』

何処―いずこ―からか声が聞こえた気がした。

慌てて顔を上げると、鏡の中に自分とよく似た裸の少女がいた。

自分が映っているのではなかった。

否、これは自分だ。15歳の凛が、23歳の凛を眺めているのだ。

身長や体型はほぼ変わらない。顔立ちだけが、仄かに幼さを感じさせる。
332 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:52:55.07 ID:BuAwdmqeo
だが――その表情からは何を伝えたいのかは読み取れない。

褒めるでも誹るでもなかった。ただただ、淡々と一言だけ発したのだ。

「……そう、かもね。時間の針は戻せない。私は、もうそっちの私には戻れない」

独り言ち、かぶりを振って熱いシャワーの栓を捻った。

頭頂から手先足先へ向かって無垢な湯が流れてゆく。

蒸気が室内を満たし、鏡の中の少女は白闇へ埋もれ、やがて見えなくなった。

栗栖のマンションから第一女子寮へと戻る電車は、奇妙なほど空いていた。
333 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:55:11.33 ID:BuAwdmqeo

・・・・・・

身体を許したとて、凛も栗栖もお互いに売れっ子だ。オフが重なるタイミングはそう都合よく頻繁には巡ってこない。

それでも、何とか予定を合わせて逢瀬を重ねたし、それが叶わなければツクヨミのレッスンがあった帰りに乃木公園で打ち合わせと云う体の邂逅で心を慰めた。

次第に凛は、乃木公園でも「口づけをして欲しい」と唇を差し出すようになった。

その都度、栗栖は困ったように笑って、丸めた台本で凛の頭をポンと叩く。むう、と凛がむくれるまでが1セットだった。
334 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:55:38.64 ID:BuAwdmqeo
「ったく、ここでするわけにいかんでしょ」

「まあ、それは……判ってはいるけどさ。欲しいものは欲しいんだから仕方ないじゃない」

トップアイドルたる美しい女に「欲しい」とストレートで云われて嬉しくない男はいまいが、全てに於いて立場と云う人類の概念が恨めしい。

凛は自分自身で支離滅裂かつ重い面倒なことを云っているのは認識していた。

それでも、大脳新皮質とは別領域の、遺伝子に刻まれた“雌”が理性を押し退けるのだから困ったものだ。
335 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:56:42.07 ID:BuAwdmqeo
無論、新皮質が活性化して理性が優勢となれば、元々理知的な彼女ゆえ自己嫌悪に陥る。

ついにPへ談判し、ツクヨミとのスムーズな連携と云う名目で第一女子寮を離れ、天王洲は京浜運河を臨むタワーマンションに居を移した。

Pは「わかった」とだけ頷いて、意外にも話を切り出した半月後には全て完了してしまう早さで処理が済んだ。

総務部への稟議なども必要だったろうに、と凛は驚いたが、元々寮へずっと入っていたのは防犯上の理由が大勢を占めていたので、街中のアパートと云うわけでもなくセキュリティのしっかりしたビルなら、さほど問題にはならなかった。

選定にあたっては、隣駅で交通至便となる文科放送やフジツボテレビからの、千川ちひろを通じた黒い便宜があったとも噂されるものの、真偽のほどは定かではない。
336 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:58:56.21 ID:BuAwdmqeo
ともあれ、地下に駐車場が設けられていると云う住処は、栗栖の車で乃木坂スタジオを発ってそのまま誰とも顔を合わせずドアトゥドアを達せられる、媾曳―あいび―くにはおあつらえ向きの構造だった。

ここで忍び逢いをしないならば一体どこでするのかと云わむばかりに、凛は来訪をせがんだ。

運河の対岸が埠頭擁する純工業地帯であるのをよいことに、カーテンを開け放ち夜景を眺めながら窓際で立ったまま融け合うこともあった。

「トップアイドル渋谷凛の狂う姿を、下から誰かが双眼鏡で見ているかもな」

そう言葉で責められる度に、凛は身を捩りつつも眼球の奥で桃色の爆発を連続させ、白魚の如し細身の身体は躍ねながら仰け反った。

窓ガラスへ押し付け平面的に歪められた胸部が冷んやりと心地良く、却って接合部の熱さを際立たせることで昂ぶり燃え上がるのだ。

栗栖が多忙で中々来られない時には、逆に凛が栗栖宅へ顔を出すことも多く、余暇があれば食事を作ったりもした。

自分の料理を人に食べてもらうことがこんなにも幸福で喜ばしいのかと発見があった。
最近は、料理を得意とする第二課の五十嵐響子とつながりが出来て親しくなりつつある。
337 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:00:02.20 ID:AHbf10HPo
栗栖と逢う度に、凛の身体には彼の印が積み重なってゆく。

“それ”を隠すように、彼女の衣装は露出を減らしていった。

『年齢相応の落ち着きを演出することで更なるステージアップを――』

芸能メディアなどは、凛が少しずつ変化してゆくのを新境地開拓だと称賛する。

概して保守的な芸能界だが、アイドルについては異端とも云える。変化・挑戦や新しい試みには好意的だし、リベラルなセクションなのだ。

CGプロが方便を突き通すには好都合だった。
338 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:00:40.79 ID:AHbf10HPo
「皮肉なものだね」

テレビ出演を控える楽屋で凛の新曲リリースとファッションを特集した雑誌を読む本人が、複雑な笑みを添えて独り言つ。

ハイネックのノースリーブながら、七分袖にデザインされたメッシュのアウターを羽織り、腕先は肘丈の手袋で覆われている。
下半身もスラックスを使うことで、スタイリッシュながら肌は見えない。

今夜の生番組では、一般視聴者へ向けてテレビカメラを通した新しい魅力を引っ提げてのトップアイドルが普段通りに映るだろう。

その服の下に男の痕がいくつも刻み付けられているとも知らずに。

それでも、欺瞞でも虚構でもいいから『国民全員のための女―トップアイドル―』を演じ切るのが今の凛に与えられた役目であり責務。

ゆっくり、ゆっくり堕ちてゆく。
339 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:01:12.94 ID:AHbf10HPo
不思議と、変質してゆく自分へ寂寥とした感情は抱かなかった。

きっと鏡の中にいたあの自分が、代わりに滂沱の泪で私の分まで涸らせたのだろう。

そう思いを馳せるうち、ノックが3回鳴る。

「渋谷さんお待たせしました、まもなくOAです」

「はい、向かいます」

番組のアシスタントディレクターが控室へ顔を出す瞬間までには、凛の表情は、しっかりとアイドルになっていた。
340 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:02:09.13 ID:AHbf10HPo

ステージではUKでの最新トレンドを貪欲に取り入れたサウンドが放たれた。

ドラムステップと呼ばれる日本では聞き慣れないジャンルで、音作りも歌唱もダンスも手を抜かない、歌姫の貫録を電波に乗せる。

音の拡がりが豊潤なシンセパッド、引き締まった重低音、どこか遠くの世界を思わせるシーケンスフレーズ。

落ち着いた出で立ちとは正反対の激しい振り付けと玲瓏なステップが魅せるコントラスト。

ツクヨミやベキリでの活動とは別の、久しぶりに見せた凛のソロは待望されていて、リリースするや否やたちまちに席巻し紅白当確とまで云われるほどだった。

往年の古参ファンの一握りが、凛の瞳に翳が差しているような印象があると呟いても、SNSと云う電子の海の奔流に押し流され、誰も顧みなかった。
341 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/02(日) 00:02:43.81 ID:AHbf10HPo

今日はここまで
342 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/02(日) 05:51:27.19 ID:REBq6RqDO
いよいよヤバくなりましたね

あと、どれぐらいまで堕ちます?
343 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/02(日) 21:21:47.99 ID:AHbf10HPo
>>342
それは今後のお楽しみということでwwww
344 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:22:36.89 ID:AHbf10HPo

・・・・・・

秋の番組改編シーズンは特番等が目白押しで、春と正月の次に忙しい時期だ。

凛や栗栖とて例外ではなく、ツアーだったりフェスだったりの本業も重なって中々逢えない日が続いている。

お互いの状況は理解しているのに、凛は寂しさのあまり「仕事の付き合いを早く切り上げて逢いに来て」と連絡してしまうこともしばしばあった。

その度に返される栗栖からの謝罪の電話で、正気に戻って「ごめん」と詫びるが、下腹の空虚な旱魃―かんばつ―は恵みの白雨を渇望して請いの叫びを上げ続ける。

自らの中の女々しさを呪っても、それで止められたら苦労はしない。

この感情をパージするためなら悪魔と契約してもよいとさえ思えた。
345 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:23:29.67 ID:AHbf10HPo

その日は23時過ぎに凛は帰宅した。

手持無沙汰にテレビを点けると、大雪山の色づきが見事だとバラエティニュースが流れてくる。

ガラスの壁から眼下に広がる東京ベイエリアを眺めても、こちらは紅葉のコの字も見える気配はない。

「そう云えば少しは過ごしやすい気温になってはきたかな」

きっとそれも一瞬で、すぐに今度は寒い寒いと地球の気象に文句を垂れる日がくるのだろう。

こんな日和のうちにバルコニーで栗栖とゆっくり夜風に当たれればいいのに。
346 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:24:06.87 ID:AHbf10HPo
凛は半ば諦めを抱きながら発話ボタンを押した。

呼び出し音が響く。
3回、4回、5回……今は出られないのかと観念して切ろうと思ったところで、7回目の音が途中で終わった。

『もしもし』

抑揚と声量を抑えた調子で栗栖が出た。後ろからはゴーゴーと騒音が聞こえてくる。

問えば、岐阜でのロケを終え、最終の新幹線で帰京している途中だと云う。なるほど、デッキへ出るまでに少々時間を要したわけだ。
347 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:25:29.36 ID:AHbf10HPo
少しだけ会話に間が空く。相変わらずの騒音だけが耳を犯す。

『凛?』

「逢いたい」

ただその一言。凛はその4文字に全ての想いを乗せて送り込んだ。

また会話に間が空いた。今度は、栗栖が色々と思考を回している。

『……ああ。品川で俺だけ降りて向かう。タクシーじゃ運ちゃんにバレるかな。歩いて向かうから少し時間かかる。
そろそろ新横浜だから……日付が変わる頃に着けると思う』

「うん、ありがとう」

今日も逢えないかもしれない、そう不安に押し潰されそうだった凛の心は、一転、月光草の咲く丘のように静かに煌めいた。
348 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:26:01.72 ID:AHbf10HPo
「ねえ、好きだよ」

『俺もだ』

恒例となった締めの言葉で通話を終え、ダイニングの椅子に座る。

改めて伝えるまでもない台詞を紡いでも、栗栖は律儀に応える。

面倒な女心にきちんと付き合ってくれることが凛は嬉しかった。

急に視界の彩度が上がったような気がした。

否、正確に云えば電話をするまでの彩度が、精神に連動してセピアのように低かったのだろう。窓から見える遠くの高層ビルに赤色灯が点滅している。
349 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:27:06.93 ID:AHbf10HPo
新横浜に着いたかな。

新横浜を出たかな。

多摩川を渡っている頃かな。

栗栖の位置を勝手に予測しては、折に触れスマートフォンのロック画面に表示される時計を見るのだが、ちっとも針は進んでいなかった。

心が焦れる。1分1秒がこれほどまでに長く感じたことはかつてない。
350 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:28:23.22 ID:AHbf10HPo
遂には、居ても立ってもいられず、終電車のぞみ64号の時刻を調べて、到着する頃合を見計らってマンション前の海岸通りまで出迎えに向かった。

東京モノレールの軌道と首都高速羽田線に挟まれながらも、幅員を広く確保された歩道のガードレールに腰掛けて待つと、信号を渡ってくる栗栖を視認する。

深夜ゆえの人影の少なさですぐに分かったが、例え人通りが多かったとしても凛は栗栖を見つけられただろう。

腕に飛びつきたい衝動に駆られつつも、はしたない女になるものかと、すんでのところで押し込んだ。

二人並んで、エントランスへと入ってゆく。
351 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:28:58.69 ID:AHbf10HPo
居住階のエレベーターホールを抜け、ようやく到着しましたるは今夜の二人の愛の巣。

「おかえりなさい」

ドアを閉じ鍵を掛けた栗栖へ、先に靴を脱いだ凛が微笑みを向けた。「いらっしゃい」ではなく「おかえり」。

「ああ、ただいま」

「逢いたかった」

栗栖の下足を揃えるもそこそこに、待ち切れなかったとすぐ抱擁した。

胸板に顔を埋め、上を向いては唇を強く押し付け重ね合う。

砂漠のオアシスに辿り着けた凛は、それまでの渇きを癒すべく、たっぷり5分はキスを貪り合った。
352 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:29:47.86 ID:AHbf10HPo
ようやく落ち着いて、リビングのソファへ腰を据える。

「忙しいのに来てくれてありがとう。本当に嬉しいんだ」

「問題ない、俺も逢いたかったから」

栗栖は優しく語り掛けた。

きっと長距離の移動で疲れているはずなのだが、それを表に出さないのは男のプライドだろうか。
353 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:30:35.73 ID:AHbf10HPo
「これ、ロケのお土産。当日のうちに渡せてよかった」

と云って、栗栖は凛に桐箱を差し出した。蓋を開けると、刀匠の銘が刻まれた刃体が上品な輝きを放つ。

「わ、すごく綺麗……」

「関の包丁。国内どころか世界でも最高級レベルのものらしいぞ」

岐阜の関は刀で有名だ。イギリスのシェフィールド、ドイツのゾーリンゲンと共に世界三大刃物産地と呼ばれる。

凛はその美しさに息を呑んだ。宝石や貴金属とはまた別種の、機能美や造形美。包丁自身が「えへん」と胸を張っているようだ。
354 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:31:12.47 ID:AHbf10HPo
ロケで忙しかったろうに、わざわざ時間を割いて凛のための土産を物色した事実がとてつもなく嬉しかった。

「ありがとう……これを使って、腕によりをかけて料理をもっと作るよ」

そう決意を新たにする瞳の輝きに栗栖は深く頷く。

「岐阜って普段全然ピンとこない地味っぷりだけど、いざ行ってみると案外面白いもんだな」

台所で包丁を収納した凛が、栗栖の感想を聞いてカウンター越しに「テレビやラジオでは到底OAできない暴言だね」と指摘するので、栗栖は両手を降参の如くそっと掲げて「これは失敬」と二人笑い合う。

この安寧、この平穏。久しぶりの感覚だった。
355 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:34:26.19 ID:AHbf10HPo
どちらからともなく再び唇を求め、1日の汗を流さむと二人一緒に入ったバスルームで1度交接してから、シャワー上がりのビールをバルコニーの夜風に当たりながら味わう。

「今日はこれをしたくて連絡したんだ」とドイツ製の独特な形状の瓶を掲げて凛は破顔した。

すっきりとした強い苦味のビールが合う時期はもうそろそろ終わる。

じきに、室内で甘い小麦ビールやホットワインを傾けるようになるのだろう。冬が来る前に、栗栖と二人だけの夜風に当たっておきたかった。

「……急な誘いに応えてくれてありがとう」

大事な宝物を慈しむかの声音に、栗栖は柔らかに相好を崩して顎を引いた。

凛の美しい横顔を海からの風が撫で、長い髪が揺れている。
356 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:35:31.31 ID:AHbf10HPo
「さ、お風呂上りにずっと外の風を当てるわけにもいかないよね。戻ろうか、栗栖」

満足気にゆっくり踵を返そうとすると、不意に後ろから包まれた。

「風で冷やされる以上の熱を発生させればいいだろ?」と耳元で囁かれながら、バスローブの衿先から右掌が侵入してくる。

「あ、ちょっと……あっ……」

柔らかな丘を揉みしだかれると、凛の身体はたちまち熱を帯びた。

頭部だけ振り向いて口づけを交わす。

唇とその向こうにある舌先、双丘の先端、そして絹のように滑らかなうなじ。この3箇所が凛のスイッチだ。

全てを同時に刺激されて、それだけで凛は軽く果てた。こうなったら、あとはもう止まらない。

間もなく、交合によって湿った皮膚を打つ規則的な音と艶やかな喘ぎが謌い出す。
357 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:36:17.90 ID:AHbf10HPo
「ねえ、好き?」

……好きだよ。

「私のこと愛してる?」

……愛してる。

凛は、まぐわいの最中に自らの問いが肯定されると、それらがどんなに短い間隔であってもその都度仰け反り、全身を震わせ悩ましい嬌声と共に達した。

脳内麻薬に犯され、肉体も精神も快楽に飛んだ。
358 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:36:47.93 ID:AHbf10HPo
湿った肌に貼り付いた自らの髪を乱暴に撥ね除けて、もっと、と求める。

「私の全てをあげる。だから、あなたの全てを頂戴!」

自らの何もかもを差し出したい。全てを捧げたい。

その感情の奥に、独占欲が潜んでいることを凛は知らなかった。

久方振りの情事は、逢えなかった分を取り返すかのように、場所を変え体位を変え攻守を変え、朝まで一睡もせず何度も営み続けられた。

家の至る所に、二人の体液で形成される染みが増えてゆく。

もはや栗栖以外の人間を招き入れることは難しい。

更に、更に堕ちてゆく。もう、凛には止められない。
359 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:37:42.93 ID:AHbf10HPo

・・・・・・

セキュリティ対策と云うものは、効果の見極めが非常に難しい分野だと指摘されている。

対策が正常に効果を発揮している間は、何もトラブルが起きないからだ。

存在しないものに対して観測することはできない。

人間は、ゼロの概念を思考することはできても、ゼロを見ることは不可能なのだ。

観測できる状態とは即ち、正常に効果を発揮しておらず、綻びが生じ問題が顕在そして手遅れとなったことを示す。

保険と云う言葉に置き換えれば誰もが重要性を認識するのだが、それは金を払えば単純に済む話だからであって、こと行動を要する対策を常に施し続けるのは、人間には難しいのだろう。

転ばぬ先の杖。あまねく諺は先人の苦労の残滓と云うわけだ。
360 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:39:42.53 ID:AHbf10HPo




硝子ドール
https://www.youtube.com/watch?v=zdZAZq3msFU



361 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:40:12.92 ID:AHbf10HPo

ラジオのスピーカーから重々しいゴシックメタルの楽曲が流れている。

――声を聞かせて 姿を見せて わたしを逃がして
――ねえ、鍵が壊れた 鳥籠の中ひとり ずっと

伴奏の暴力的な荒さとは裏腹に、透明感ある女の子のボーカルが硝子をモチーフとして歌い、異質のコントラストを彩る人気曲だ。

そのアイドルは年次としては凛の一年後輩で、他社ではあるが資本的には親戚とも云える養成校―スターライト学園―出身の“吸血鬼”だそうだ。

『設定』と云う野暮な言葉はさておき、表向きはそのように云われている。蘭子がシンパシーを感じているらしい。
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