渋谷凛「愛は夢の中に」

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362 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:41:22.53 ID:AHbf10HPo
第一課、Pデスク近傍にあるソファは、会社始まって以来史上最大の暗いオーラが漂っていた。重いBGMに引っ張られたわけではない。

「もう、最悪」

凛は組んだ両手へ額を載せるように俯き、深い溜息を吐き出した。

ガラステーブルの上に、週刊誌のゲラ刷りが置かれている。
363 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:42:35.92 ID:AHbf10HPo
――『トップアイドル同士の熱愛発覚か! 深夜の邂逅とお泊り会』

下品なまでに太いゴシック体で書かれた題字と、その下には深夜の海岸通りの歩道を二人並んでマンションへ消えてゆくさまを記録した、隠し撮りであろう白黒写真が見開きで載っている。

その解像度は非常に高く、バードウォッチングのように超望遠でスッパ抜いたものではなさそうだった。

どうやって撮ったのかと訝しめば、南隣が新聞社の敷地だったことを思い出す。

スポーツ紙はたとえスクープであっても芸能事務所に照会後でなければ載せない紳士的な取り扱いをするものだ。

しかし、だからと云って大衆週刊誌を刊行する同業他社とのパイプがないわけでは当然あるまい。
364 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:43:35.90 ID:AHbf10HPo
迂闊であった。あのとき栗栖に一刻も早く逢いたいがため完全に失念していた。

初めてを捧げたことで、心に隙が出来ていたのかもしれない。

不幸中の幸いを挙げれば、腕を組まなかったことだ。

凛の嘆息に「ああそれは正解だったな。腕を組んでたら完全に言い訳できない」とPは答えた。

この惨事に比して不気味なほど冷静だ。

「プロデューサー、随分落ち着いてるじゃない。こんなこと――いや、私の所為だけどさ、こんなことが起きてるのに」

「まあ……な」
365 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:44:33.01 ID:AHbf10HPo
既にこのような事態を見越して、田嶋ひいてはジョニーズとも話し合いを済ませてあったのだ。

むしろ、確度の高い情報は、ツーリングデートをした日、凛がCGプロへ到着せぬうちに先方から齎―もたら―されていた。田嶋の地獄耳は凛のくしゃみを捉えていた。

詳しい内容は情報を下ろしてもらえないが、交際が露見した場合の口裏は、とっくのとうに合わせてあるようだった。

「……なんで、何も云わないの」

根回しを済ませていたことへのありがたさと、その反面、自分の知らないところで工作が済まされていたことに対する不快感を綯い交ぜにして凛は問うた。

今回のスキャンダルはCGプロ始まって以来の大損失を計上するほどのものになるはずだ。

だのに、後処理を淡々と進めるだけで譴責すらされないことが不思議で仕方なかった。
366 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:45:41.76 ID:AHbf10HPo
Pは返答の言葉を濁す。

ジョニーズとの交渉内容を赤裸々には答えられないと云う守秘義務の事情もありつつ、凛にあまり心配をかけたくない気持ちが強かったからだ。

なにより、凛のこれまでの犠牲に成り立つ功労を考えれば、やりたいことをやりたいようにさせたのはPひいては会社の判断だった。

その決裁の末に起きたことに対しては、会社が結果責任を負うのは当然であり、凛個人に帰すべきものではないのだ。

ただ、これを云えば凛が必要以上に自責の念に駆られるのは間違いない。

結果、Pは上手く伝えることができずに言葉を濁すしか手立てがないわけだ。
367 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:46:14.07 ID:AHbf10HPo
「……やっぱいいよ、忘れて」

Pが答えに詰まっているのを見かねて云った。

凛は凛とて、エスパーではない者にP側の事情を汲み取るのは難しい。

自分の利用価値が落ちているから事務的な処理で済まされているのだろうと、穿った見方をしてしまうのだ。

利用価値の衰退――つまり、凛が損失を発生させても屋台骨が揺るがないほどに、他アイドルによる強固な収益構造が築き上げられていると云うこと。

単純な費用対効果を計算しただけの、血の通わない処理で済ませて問題ないと判断されるほどにまで、自らの地位が相対的に低下しているのだと、そう感じてしまう。
368 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:47:02.47 ID:AHbf10HPo
渋谷凛、第3代シンデレラガール。だが、それがどうした。

凛が戴冠して以来、もう既に幾人もの新たなシンデレラガールが誕生しているのだ。

特に、6代目としてその頂へと登り詰めた高垣楓はとてつもないバックボーンを持っている。

更には、200人ほど所属しているアイドル一人々々に強固なファンがついており、積み重なれば売上は相当な規模になる。

凛への依存度は、黎明期よりは確実に多少なりとも下がっていた。
369 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:48:08.98 ID:AHbf10HPo
お荷物は、淡々とする他ないんだね。

凛は、今後の方針が書かれた書類を、色のない顔で見ながら嘆息した。

――もうやめにしたいのに 終わりが怖くて
――またくりかえすの

相変わらずスピーカーはゴシックメタルをかき鳴らしていた。
370 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/02(日) 21:48:48.74 ID:AHbf10HPo

今日はここまで
371 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:32:17.74 ID:m1PjjjcXo



・・・・・・・・・・・・


麻布十番を走る環状3号は、文京区の一部区間には環三通りの名が残るものの、著名な環七や環八と違ってあまり語られることはない。

歴史に翻弄され大正時代の青写真からはだいぶ乖離したが、外苑東通りのバイパスとして平成期に整備された道だ。

その経緯ゆえ幅員は広めだし、歩道もしっかり確保されていることもあって日常そこまで交通は集中しない。

しかしその日は赤羽橋を超えて芝公園まで延々と続く渋滞の起点になっていた。

第1車線を様々な車両が占拠し、交通容量が圧倒的に不足したからだ。

その違法駐車の大半はマスコミの車で、狙いはもちろん、芸能プロダクションのビルだった。
372 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:33:01.18 ID:m1PjjjcXo
件―くだん―の標的、CGプロ11階の大会議室には臨時会見場が設置され、壁際にはずらりと並んだテレビカメラ、発表席にはチンアナゴの群生にも引けを取らない本数のマイク、会場の様子を全国へ伝えむとする記者は廊下にまで溢れている。

社でレッスンの予定だったアイドルは課内待機、事務方はおろかトレーナー陣まで場内整理に駆り出されており、全社が上を下への大騒ぎだ。

特に第二課に多い気弱なアイドルは、未知の状況に恐怖感を抱く子もいた。

「友人として仲良くさせて頂いています」

中央側に座る凛の口から、はっきりとした口調で発言が続いている。

彼女は何の味付けもしない言葉を紡ぐが、その実、内心では釈明の言葉がとても悔しい。

無論そんな感情は赦されない。徹底的に抑えつけて、あえて淡々と発表をこなしてゆく。
373 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:33:42.48 ID:m1PjjjcXo
「お騒がせしておりますこと、お詫び申し上げます」

おびただしい量のフラッシュが焚かれる。網膜が焼かれ失明してしまうのではと感じるほどだった。

耐え切れず瞼を閉じ目を伏せると、その瞬間を狙って更に倍量の光線が照射された。

ああ、こうやって意思とは無関係の絵面が作られていくのか。

凛は眩しさの向こう側にあるバッシングの世界を垣間見た気がした。

きっと今撮られた映像はワイドショーで延々と繰り返し放映され、紙面媒体の写真には彼女が交際を認めたようなミスリードを誘うキャプションが付されるに違いない。
374 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:34:56.71 ID:m1PjjjcXo
一通りの定型文を述べ終えると、ここからが本番だ。

取材記者たちが、まず最初に社名を名乗ってから、鋭い質問を次々に投げてくる。

――写真を拝見した印象を率直に述べれば、実際にお付き合いをされているのではないですか?

「いえ、あくまでTITANさんとは友人です。
お互いそれぞれのアイドル活動がある中でツクヨミも進めなければなりませんので、様々な事情によりどうしても夜通しの合宿のようなことがしばしば発生いたします」
375 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:35:31.96 ID:m1PjjjcXo
――種々のご事情があるとのことですが、さすがに深夜の邂逅でその釈明は苦しいのでは。
或いは業務の一環だとすれば、かつてのタコ部屋・奴隷労働より酷い人道に外れた生活を強制されているようにも受け取れますが。

「すでに交通網の営業が終了する時間だったとは云え、自宅での打ち合わせをするのは軽率だったと反省しております。
またこれは自主的な勉強会であり、事務所等から指示や強要を受けたものではありません」

――肩を寄せ合い非常に仲睦まじく歩いているように見受けられますが。

「写真には入っていませんが、この手前側に橋脚がいくつも並んでいて、それを避けるのにTITANさんの方へ寄った瞬間を切り取られたのだと思います。
繰り返しますが、友人として、音楽仲間として仲良くさせて頂いています」
376 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:35:59.96 ID:m1PjjjcXo
演じることは慣れている。

感情にないことを云うのは慣れている。

それでも今この時だけは、意思を自由に表現してはいけない身を呪った。

ジョニーズは云うまでもなく超大手。このようなスキャンダルは簡単に赦されるものではない。

どんなに黒に近いグレーであろうとも、ただの友人関係だと、これは白なのだと強弁しなければならない。
377 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:36:27.52 ID:m1PjjjcXo
充分知っている。

知っているけれど。

悔しいよ、悔しい。

何よりも、凛は自分の力ではどうにもならないことが悔しかった。

四六時中浴びせかけられるフラッシュの白さを、忘れるものかと目と心に焼き付けることだけが、今の凛にできる精一杯の反骨だった。
378 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:38:09.22 ID:m1PjjjcXo

凛のマンションが、許可車以外に進入が許されない構造の地下駐車場であることは救いだった。

多くの一般人が住んでいる場所なのだ、開閉式のバーで区切られたところにまで入ってくる不届き者は流石にいない。

仮にいたとしても、臨時に雇った警備員が即座に摘み出してくれる事実は、家にいるときだけ少しの安寧を与えてくれることを意味していた。

会見以降、日頃の通常のアイドル活動でも、インタビュー等で、本来消費者へ伝えるべきことからかけ離れたスキャンダルについての話ばかり掘られ、無念さが募った。

結局、新曲に込められた想いだとか、ツクヨミの展開の狙いだとか、そう云ったアイドルの本質よりも逢瀬の追及が大事か。
379 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:38:58.31 ID:m1PjjjcXo
悔しさの度に、凛はスマートフォンを叩く。

「今すぐ来て、お願い」

そして栗栖と身体を重ねた。

無論、この一連の負担は凛だけでなく彼にも押し寄せているはずだ。発覚以後、二人の行為はただの処理にも思えるような側面を度々見せた。

それでも、繋がるだけでよかった。

今の凛にとって、セックスとはマリファナやヘロインに等しい存在。

もはやドラッグなしでは生きてゆけない。
380 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:40:07.61 ID:m1PjjjcXo

どんどん爛れてゆく二人の生活は、予想に反してそれほど大きな騒ぎにはならなかった。

最初のスキャンダルの教訓を得て、徹底的な対策を施したからだ。

観測できないことは、存在しないに等しい。

どんなにお互いの身体を貪り合ったとしても、尻尾を掴まれなければ、世間的には問題は存在しないことになるのだ。

ジョニーズとCGプロ、男性アイドルそして女性アイドルの巨頭同士が本気で組めば――更にはツクヨミを協賛している961や315など各社の力も使えば――メディア対策はそこまで難くない。

週刊誌を連鎖的に賑わすかと思えたスクープは、燃料供給が断たれてじきに下火になっていった。

紅白の話題が出る頃には、もはや紙面の空白埋めに使われるための、ただの噂レベルの小記事が散発する程度になった。
381 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:41:48.45 ID:m1PjjjcXo
けれども、それで目出度し目出度し――とは問屋が卸さないのが現実だ。

一般大衆の感情に拠る行動原理は、燃料如何に左右されるものではない。

間違いなく嫌がらせは増えた。

「あの醜聞でよく今年も紅白出られるもんだよな、楓さんに譲ればいいのにさあ」

「きっとNHKのお偉いどものハートをガッチリと股で掴んで離さないんだろ」

「ツクヨミだってまだ共同リーダーとかいうポストに留まってんでしょ? 厚顔にも程があるよねー」

街中での会話に耳を傾ければ、尊厳など存在しないとでも云うかの如し下卑た笑いが響く。

芸能人に限らず、得てして公人の人権は大衆から顧みられないものとはいえ――

「こりゃ到底本人の耳には入れられねーな」と街をたまたま歩いていたつかさはコートを締めなおして雑踏へ溶け込んでゆく。
382 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:42:43.52 ID:m1PjjjcXo
ネット上では酷さがより深刻だった。

凛のファン、栗栖のファン、CGプロ派とジョニーズ派との代理戦争の様相を呈しているのだ。

やれ凛が栗栖を誘った売女なのだの、やれストイックな凛を栗栖が誑かしてつまみ食いをしたのだの、事実無根かつ荒唐無稽なつばぜり合いが繰り広げられる。

無論それぞれの派閥も一枚岩ではないので、友軍攻撃もしょっちゅうのこと。

24時間ひっきりなしに誰かが誰かを罵っている。
383 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:44:39.01 ID:m1PjjjcXo
幕引きを図り鎮静化させるには、凛と栗栖を引責辞任のような形で消すのが手っ取り早いのだろうが、そうすると今度はアイドル業界全体の問題になるのが頭痛の種だ。

表向きは二人の間には何もないことになっている。どのような理屈をつけて引責させると云うのか。

特にジョニーズにとって栗栖を消すことは即ちSATURNの崩壊につながる。

ただでさえ八馬口の件があったのだ、泣きっ面に蜂の選択は絶対にしないはずだ。

では凛だけに被せて引導を渡す? それもCGプロは到底承服しまい。

凛のソロ活動のみならず、ベキリだってそれなりの利益を生んでいるし、何よりもシンデレラガール経験者にそのような処分を下しては看板に致命的な傷がつく。
384 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:46:23.48 ID:m1PjjjcXo
結局のところ、ここで退いたら、ツクヨミ含め日本芸能界のこれまでの奮闘全てが瓦解してしまう。

どんなに罵られようと誹られようと、退くことだけは許されなかった。

だと云うのに、業界内の人間ですら、目先のことしか見えていない無知蒙昧な輩は早期幕引きを図って浅はかな主張をするもので、一体誰が誰の味方なのか全くわからない状態だった。

目や耳に堰を立てるわけにもゆかず、誹謗中傷の嵐は、凛の心を、そして栗栖をも容赦なく踏み荒らす。

その度に、凛は栗栖を求めた。
385 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:46:53.93 ID:m1PjjjcXo
栗栖から愛の言葉を囁かれるのは稀になったが、快楽を流し込んでくれさえすれば、精神の形態はどうでもよかった。

たとえ処理のための道具のように扱われても、彼に貪られている間だけは、何も考えずに済む。

ただ絶頂に身を委ねるだけでよい。

そのために、凛は何でもした。
386 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:47:27.62 ID:m1PjjjcXo
栗栖の好みの女になろうと、私服の趣味やアクセサリのコーディネイトなど、身の設えを変えていった。

今まで以上に、身体の引き締めや美肌の維持、女としての魅力を磨くことに注力した。

副次的に、アイドルとしてのアピール力が増したのは強烈な皮肉だと云わざるを得ない。何もかも栗栖のためを思って採った行動に過ぎないのだ。

そして求められれば、どんなに変態的な行為にも応えた。

春を迎える頃には、いつしか、栗栖との融合は、倒錯的なものばかりになっていった。
387 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:48:32.67 ID:m1PjjjcXo
この関係は、恋と呼んでよいのだろうか。

きっと、恋ではないのだろう。凛にとっても、そして栗栖にとっても。

栗栖にとっての凛は、今となっては性的欲求を満たすための、見た目のよい玩具に過ぎないのかもしれない。

翻って、凛にとっての栗栖とは?

凛は行為が終わった後の痙攣の余韻に浸りながら、脳のどこかは不思議と冷静で、二人の痴態を天井から第三者のように見下ろしていた。

栗栖と云う存在は、悔しさを交合で紛らわせるための道具だろうか。

決して間違いではないだろうが、正解でもない気がする。
388 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:48:59.73 ID:m1PjjjcXo
確かに、まぐわうことで得られる快楽が色々と忘れさせてくれるのは事実だ。

だが、その行為と栗栖の存在はイコールではない。

では、寂しさを埋めてもらうためのパテだろうか。それも違う。

おそらく――必要とされるだけでよいのだ。

「私は……」

隣で後処理をすることもなく寝息を立てている栗栖を横目に見遣る。

――彼が私を必要としてくれるならば、何でもいい。

「……もっと、この人の望んだ通りの女にならないと」

そして凛も意識を手放した。
389 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:49:46.13 ID:m1PjjjcXo

・・・・・・

「なあ、凛。そろそろヤバいんじゃねえの?」

間もなく初夏になろうかという時分。

相変わらず栗栖との慰み合いを続けていたが、いよいよ身体への無理が顕在化しているようだった。

ベキリでの仕事を終えた凛に、楽屋で心配そうに訊ねてきたつかさの言である。
390 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:50:36.53 ID:m1PjjjcXo
この日はベキリの新曲のプロモーションを兼ねた、バラエティへの出演だった。

新曲披露のステージはそれなりの出来で完了できたが、さほど激しくないフェミニンなダンスの曲であるにも拘わらず、パフォーマンス直後でもけろりとしたつかさに対し、凛は肩で大きく呼吸をしていた。

更には、司会者からの醜聞に関わる多少意地悪な話題の振りをされた瞬間、対応をとちってしまった。

頭が真っ白になって、正直どんな受け答えをしたのか凛本人は詳しく覚えていない。

つかさは社長業のみならずトークバトルと云うショープログラムで鍛えた喋りのテクニックがあるから、大事になっていないと云うことは、幸いにも彼女の働きで事なきを得たのだろう。
391 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:51:38.98 ID:m1PjjjcXo
「うーん、ごめん。なるべく色々と気にしないようには……してるつもりなんだけどね」

やっちゃった、と凛は首を竦めて苦笑した。

「ありがとう、つかさのおかげで助かったよ」

「ま、いいってことよ。あんま無理すんなよ?」

長居をせずに上がろう、となったところで、病気を疑うほど痩せた番組ADが「お疲れ様でした」と顔を出す。

やや含みのある表情をしているのが、つかさは気に食わなかった。
392 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:53:20.11 ID:m1PjjjcXo
どうしても一言云いたくて口をつく。

「なあアシさんよ、センシティブなことはアドリブじゃなくて台本―ホン―に載せてからにしてくんねーかな。さすがにあのフリは社から抗議モノじゃねえ?」

その実、意地悪な質問は司会者のアドリブに見せかけて、スタッフは全員知っていたような印象があった。

つかさの言葉は柳に風で、ADは「いやあやっぱり視聴者を楽しませないといけませんし、ライブ感は重要ですからねえ」と嘯―うそぶ―く。

「あのな、アタシらは芸人じゃねえっつうの!」
393 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:54:01.62 ID:m1PjjjcXo
ADの、まるで神経を逆撫でするような仕種につかさは沸き上がり、その剣幕にガリが怯むのを見かねた凛が「つかさ、いいよ。いいから」と制止した。

「でもよ!」

「いいんだよ。今はアイドルもバラエティスキルが要求される時代ってこと。今度未央にレクチャーして貰うからさ」

本田未央は凛と同期の第三課で、パッションの代表頭と云える。

その芸人も舌を巻くバラエティスキルは、今やお茶の間になくてはならない人材と云って過言ではない。
394 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:54:36.61 ID:m1PjjjcXo
ぽんぽんとつかさの肩を叩いて、目を閉じながらADに軽く会釈する。

「体調が思わしくなく、お見苦しいところを失礼しました。次はトークを頑張りますので」

「え、ええ……こちらこそ……またよろしくお願いします」

凛のアンニュイな対応に、ADは鳩が豆鉄砲を食ったようで、牙を抜かれて去っていった。

静寂が楽屋を支配する。

「……つかさ、私のためにありがとうね。厭な思いさせちゃって、ごめん」

「おいおい何を水くさいこと云ってんだよ、パートナーだろ? とにかく、きちんと休養を欠かさないようにしねーとな、頼むぜ?」

「うん……ごめんね」

凛は、全く関係のないはずのつかさにまで影響が及んでいることに気づいて、どうすればよいのか、考えあぐねていた。
395 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:55:49.85 ID:m1PjjjcXo

===

気づけば凛は、世界が異星人に侵略されシェイクされているのではないかと云う感覚を受けた。

エイリアンの攻撃で燃え上がる炎が肺を焼き、満足に呼吸することができない。

かと思えば今度は海の中に放り込まれて頭を押さえつけられる。まるでヤクザの水責めのよう。

昭和時代の映画か何かの中に入り込んだのだろうか。
396 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:56:37.00 ID:m1PjjjcXo
いや、これは紛れもなく現実だ。

その証拠に、この世は全てスムージー。

シェイクが止まれば、ドロリとろけて喉に絡むようなジュースの出来上がりだ。

なのに不思議にも、謹製のスムージーは冷たくないのだ。むしろ熱ささえも感じる。

どんなテクノロジーで作っているのだろうかと不思議に思う。
397 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:57:58.49 ID:m1PjjjcXo
「――ッ!?」

凛は意識が突然覚醒した。

景色は見慣れた自室で安堵する。

しかし苦しい、身体が動かない。

何故なのかと必死に目を動かせば、頭が両手でがっしりとホールドされている。

口に意識を向ければ、中の方まで栗栖が刺さっている。
398 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:58:46.43 ID:m1PjjjcXo
ああ、息ができないのはこの所為か。

凛はまるで他人事のように納得した。

脳味噌をぐわんぐわんと前後に揺すられ、そのうち喉の最奥で栗栖が果てる。

激しい脈動と共に大量の残滓が流し込まれ、その勢いに、飲み込めない分は鼻腔へ逆流した。

凛自身も目の奥が白か或いは桃色にスパークし、全身を不随意に痙攣させた。すでに嘔吐中枢は麻痺している。
399 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:59:16.27 ID:m1PjjjcXo
頭の拘束が解かれ、ぷはっと口から抜いて後ろへ倒れ込んだ。

全身が引き攣って脳味噌の指示を聞こうとしない。酸素を求める胸の動きに気道が震え、ヒュウヒュウと喘息患者のような音を発している。

散々な身体の状態に反して、意識は明瞭だった。

効果覿面だね、これ。

凛は部屋の隅で燻っている煙を見つめた。
400 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 00:00:39.23 ID:uYG6pbKDo

「栗栖、逢いたい」

収録から帰ってきた凛が3回リダイヤルして、ようやく出た栗栖に開口一番云った。

「ごめん、今夜は別件が――」

「私を優先してくれないの? 私は栗栖から呼び出されれば、全部投げ打って逢いに行くよ? 栗栖は違うの? 私は栗栖に何でもしてあげる。何度でもイかせてあげるから、絶対来て」

凛はそう云って、返事を待たずに電話を切った。否、正確に云えば、それ以上はまともに会話できないであろうと思って切ったのだ。
401 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 00:01:17.33 ID:uYG6pbKDo
電話が一方的に切れた栗栖は、じっとスマホの画面を見た。昨今、凛の精神が自己防衛を試みているのか、束縛が強くなった気はしていた。

だが今回のような有無を云わさぬ要求をするのは、様子が違った。

仕方なく、栗栖は隣にいる人物に詫びてから、凛のマンションへと車を走らせる。

ベルを鳴らすも、反応がない。ふぅ、と一息吐いて、合鍵でエントランスと部屋の扉を開ける。

「凛、来たよ」

反応がなかった。

いつもなら飼い主を待ちわびていた犬のように玄関へ飛び出してくるのに。
402 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 00:02:44.69 ID:uYG6pbKDo
栗栖は訝しんで、鍵を閉めてからリビングのドアを開ける。

瞬間。

「凛! おまっ、これは!」

目の前で、虚ろな視線の凛が何も身につけずに倒れ込んで、自らを慰めては痙攣に震えていた。

部屋の中には強烈なお香の匂いが立ち込めており、ここに立っていたら燻製にされそうなくらいの煙まで漂っている。
403 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 00:06:39.97 ID:uYG6pbKDo
すわ火事かと思えば、火災報知器はご丁寧にもカバーで覆われていて、故意にやっているのだと理解する。

だがそれを把握した刻にはもう遅かった。身体に力が入らず、膝から崩れる。

倒れた視線の先には、『ハーブ』と、スタミナドリンクの空き瓶が転がる。

凛はついに心が耐えられなくなり、とうとうハーブに手を出したのだ。

スタドリを煮詰めて蒸発させた残留物をハーブと共に燻らせて、異常な効能を味合わむとしたのだ。
404 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 00:07:27.30 ID:uYG6pbKDo
「あ〜、栗栖ぅ」

凛が、焦点の定まらない双眸で自身の近くに伏臥する栗栖を捉えた。

凛の腕が、脚が、指が、舌が、栗栖に巻きついてゆく。

それからのことは、二人とも記憶にない。

ようやく凛が異星人のスムージーをきっかけにこの世へ戻ってくるまで、どんな交わりをし、何度絶頂へ登り詰めたのか、知る由はなかった。
405 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/04(火) 00:08:01.03 ID:uYG6pbKDo

今日はここまで
406 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/04(火) 04:33:48.66 ID:ngIJdE2DO
わー、クスリに手を出したのかー(棒読み)

音楽に男に薬と、いよいよ壊れ方が異常になってきましたね。先に待つは廃人か……それとも
407 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/04(火) 14:25:18.82 ID:HqX6HMdTO
平然と麻薬を燻すのに使われるスタドリ
408 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/04(火) 22:46:54.07 ID:TJeoIGflo
>>406
「ハーブは植物だろ? なぜハーブを禁じる!? たくさん使うほどラスタに近づく。」

>>407
モバマスのスタドリはヒロポンが世を忍ぶ姿ですからね
409 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:48:41.02 ID:TJeoIGflo

凛の魂がひとまず戻ってきてから、脳が正常化し動けるようになるまで40分ほど掛かった。

それまで意識はありながらもどこか自分ではないような無重力下にあったものが、或る瞬間、いきなり全て、精神も肉体も重さを感じるようになり、自分の制御できるところへ戻ってきたのだ。

身体にこびりついた精の匂いが脳を揺さぶる。

無意識でのまぐわいで相当な負担が身体に掛かったとみられ、凛は感覚が戻るや否や手洗いに駆け込んで嘔吐した。

途方もなく長いと思えるほど胃を締め上げる身体の防衛反応の結果、吐瀉物はかなりの量で、白く、粘性が高かった。

ふらふらになりながらも、一体どれだけ飲み込んだのか、翻れば栗栖は一体どれだけ出したのか、末恐ろしくなった。
410 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:49:46.82 ID:TJeoIGflo
「シャ、シャワー……浴びなきゃ……」

常識的思考が戻り、鞭を打って足を動かす。

行く手を遮るガラス戸がこんなにも重いものだと感じたことはかつてない。

寄り掛かるように全体重を乗せて何とかドアが開くと、勢いが余ってバスルームの中へ倒れ込んだ。

蛇口を求めて手を伸ばすが、まるで届かないので、這いつくばって進む。わずか1メートル未満の距離が1光年もの長さに思えた。

ターミネーター2でのT-800はこんな気分だったのかと少しだけ理解できた気がする。

劇中、T-800はT-1000の手で鉄製の棒を串刺しにされたが、凛に突き刺さるのは恵みの熱い雨だ。
411 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:51:09.43 ID:TJeoIGflo
よろよろ立ち上がって浴びている間に、栗栖も凛と同じ経過を辿ったようで、手洗いの方でドタバタ音がした。

じっくり念入りに全身を濯いでからリビングに戻った凛は、壮絶な現場跡を見て頭を抱えた。

「うわー……」

足の踏み場がないとはまさにこのこと。

どんなに気をつけて移動しようとしても二人の体液が足の裏に張り付き、まるで真冬の外に放置していたサンダルを履いた時のような冷感を一歩ごとに与える。

後片付けのことに思考が至るや、途方もなく気が遠くなった。

ただ、掃除をしている間は余計なことを考えなくて済むだろう、と云う点だけはありがたいと思った。
412 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:52:08.97 ID:TJeoIGflo
ふと、ムーンストーンのブレスレットが床に散らばっているのが目に入った。

激しい行為の最中に引っ掛けでもしたのだろうか、チェーンがぶっつり切れて固く絡まり、体液もべとべとに塗れて最早アクセサリとしての体を成していない。

「ああなんてこと……」

手に取ろうと身を屈めれば、やや離れたところに放られた栗栖のスマホが、着信に震え続けていた。

拾い上げると、そこには新進気鋭のアイドルプロダクションに所属するエースの名前が表示されており、アイコンは栗栖と二人仲睦まじいショット。
413 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:53:06.41 ID:TJeoIGflo
ああ、そうか。

そうだったのか。

「栗栖にとって、私は代えの利く玩具だったわけだね……」

半ば、こうなるかも、と予測していたことではあった。

しかし、それでも。

どうして。なんで。

バイブレーションの止まないスマホを眺めながら、思考はぐるぐる塒―とぐろ―を巻く。
414 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:54:01.80 ID:TJeoIGflo
だいぶ長く着信を試みて、ようやく力尽きたように止まった。

どれくらい立ち尽くしていたのだろうか、ドアが開く。

「栗栖。さっき彼女さんから着信きてたよ」

視線は向けずに云った。

「……そうか」

「どうして?」

凛はそれだけ云う。時計の秒針の音だけが、妙に大きく聞こえた。
415 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:54:58.74 ID:TJeoIGflo
「私は、栗栖の望む通り何でもするよ。たくさん、もっとたくさん、シてあげる。血も肉も臓腑も、全て貴方の好きにしていい」

ゆっくり、静かに、諭すように語る。

だが、落ち着いた良い子ぶるのは限界のようだ。

「どうして! どうして私じゃダメなの?!」

今更云っても仕様のないこと。それでも訴えを禁じ得ない哀れな凛に、栗栖は、余命宣告をするかのように淡々と告げる。

「凛への最初の想いは本物だったよ。俺から告白したようなものだったし。でも――」

栗栖の声音から、もはや自分が彼の心の中にいないことが、凛には判った。
416 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:55:45.28 ID:TJeoIGflo
「凛はもしかしたら気付いていないのかもしれないけど」

やめて。

凛は、目の前がどんどん暗くなる。

「もはや凛は依存症に陥ってる。俺にとって、もう凛は重すぎるんだ」

やめて。やめて。

「事務所同士の事情も、ツクヨミの状況もある」

やめて。やめて。やめて。

「これが、最後になる」

やめて! やめて! やめて! やめて!
417 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:56:23.82 ID:TJeoIGflo
「今日で終わりにしよう」

凛は崩れ落ちた。びちゃり、と濡れる下肢に意識は向かない。不思議と泪も出ない。

凛の中で、彼女自身の20余年が瓦解してゆく音がする。

栗栖が静かに去ってゆく。去り際、凛とのこれまでの思い出に、胸が張り裂けそうな表情をみせた。

それも束の間、目を瞑ってかぶりを振り、しっかりと、ゆっくりと歩を進める。

閉まる玄関扉がガチャンと鳴って、凛が、女にも、アイドルにも戻れなくなってしまったことを告げた。
418 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 22:59:55.63 ID:TJeoIGflo

・・・・・・

「はい、恒例のお荷物チェックですよ」

ちひろがPのサイドテーブルに、膨大な量の配達物が入った段ボールの一角を仮置きした。

パソコンでメールのやりとりをしていたPは、「おっとすみません」とキーボードを打つ手を一旦止めて、溜まった書類をどかす。

滑った紙が、ばさばさと床へ落散した。

ツクヨミの戦略に関する契約覚書の回覧フォーマットだったり、凛のドレスアイデアがスケッチされた厚手のクロッキー紙、新曲になるはずだった譜面のラフ。

他にも様々な用紙が雪崩を打って落ちてゆく。
419 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:01:10.50 ID:TJeoIGflo
「ああ、こりゃいかん」

慌ててPは拾い集める。ちひろが少し済まなそうな顔をして、「よいしょっと」と云ってサイドテーブルに箱を据えた。

「なんか申し訳なかったですね。
この荷物もかなり量が多いですから、書類が片付くまで一旦Pさんのクローゼットにでも仕舞っておきますか? この後少し時間あるのでチェック手伝うこともできますよ」

だいぶ重かったのだろう、両肩を交互に叩きながらちひろが問うた。

「ああいえ、後ですぐ確認しますから。ここへ運んできてくれただけで大助かりですよ。ありがとうございます」

Pはちひろに礼を述べ、駄賃代わりのスタミナドリンクを差し出した。

「ふふふ、いいんですよ。スタミナドリンクは私の専売アイテムですから、Pさんから頂かなくても大丈夫です」

いつもと変わらない笑顔を向けて、ファイト、とエールを送ってから第一課を出ていった。
420 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:02:19.49 ID:TJeoIGflo
机に向き直ると内線が鳴る。

営業部からの外線取り次ぎで、マスコミ対応を依頼された。

「はいお電話代わりました、制作部第一課のPです――その件は弊社渋谷とは関わりありませんので。事実無根の風説です。では失礼します」

スピーカーからまだ何か喋る声が聞こえてくるのを無視して、受話器を置く。はぁ、と短い嘆息を零した。

昨今のマスコミもレベルが墜ちたものだ。

丁寧な裏取りや検証などを地道に進めてゆくのが記者の役目だろうに、自ら考えることを放棄し直接正面から訊きにくるだけ。

更にはこちらの都合を考えない事前アポなしの電凸ときた。これなら業務の邪魔にならない分、噂話の未確認三文記事の方がまだマシだ。
421 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:03:41.11 ID:TJeoIGflo
ちらりと、別の机に置いてある大手新聞社から確認を要請されたゲラを見遣る。

凛やツクヨミにフィーチャーした記事内容で、大方の内容に問題はない。

しかし話題がどうしてもスキャンダルの方へ引き寄せられていってしまうのは性と云うものだろう。

若干抵触してしまった当該箇所に赤を入れて、手数を詫びつつ別の問答への差し替えを依頼してある。

炎上させれば中身は何でもよい週刊誌や大衆紙と違い、この新聞社ならば、きちんとこちらの意図を汲み、整えた記事を最終的に読者へと届けてくれるだろう。
422 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:04:31.76 ID:TJeoIGflo
雪崩た書類を一旦まとめて床へ置いておき、配達物の確認をしようと段ボールをごそごそ漁る。

中身はPが担当しているアイドルへ送られてくる手紙や小包だ。全部一緒くたに入っているものだから、まず第一段階は仕分けから始まる。

初期の頃なら9割9分を凛宛てが占めていたので楽なものだったが、最近はつかさ、ジュニ、それぞれへ宛てられたものも多い。

仕分けの手間は、担当アイドルが躍進していることへの嬉しい悲鳴と云えよう。

それでも、大方の選別を済ませると、明らかに凛宛ての手紙が多い。

割合と云うよりも、昨今は絶対数が多くなった。これは例のスキャンダル以降とみに顕著だった。
423 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:05:20.45 ID:TJeoIGflo
一通ずつ開封し、中身を確認する。

純粋なファンレター。アイドル本人のみならず担当プロデューサーとしても嬉しいものだ。

なぜか凛に宛てられた謎の売り込み営業。差出人の意図が全く理解できない。

送付先の認識を誤ったとみられる凛担当ラジオ番組へのリクエスト葉書。哀れに思うがPは何もしてやれない。

そして――攻撃的な中傷。

一通々々、しっかり確認する。

凛へ回してよいもの、よくないもの、きちんと選別する必要がある。一つたりとも漏れてはならない。
424 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:06:59.51 ID:TJeoIGflo
或る手紙の封を切っていると、指先に鋭い熱を感じた。

「……またか」

封入された剃刀が、Pの左手人差し指に一筋の赤い線を作り出した。

ティッシュを取って、珠のように浮いた血液ごと傷口を押さえる。

切れ味のある刃物で出来る傷は、深手さえ負わなければ逆に治し易いから楽だ。少し止血すればそれだけで済む。

これまでで最も衝撃的だったのは、五寸釘が打ち込まれた藁人形と、それに同梱されたセアカゴゲグモだ。

もし無検閲で凛に渡していたら、と思うと身の毛がよだつ。

明確な憎悪が込められた贈り物が届いたことは、CGプロの中でも一握りの人間しか知らない。
425 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:07:55.01 ID:TJeoIGflo
このように身の危険を感じるものは流石にさほど経験はないが、他にも、およそ日本語で考え得るありとあらゆる罵詈雑言を駆使した攻撃がしたためられた手紙は大量に届いている。

単純に口汚い罵りだけなら、逆に何とも思わない。まるで生産性がないし、便乗する愉快犯も多い。

だが中には、長いこと追ってくれているらしいファンから、丁寧な筆致と穏やかな口調で、しかし内容は急所を突く悲痛な訴えがたまに届く。

これにはPは堪えた。

「貴重なご意見、まことにありがとうございます」

そう独り言ちて、封書に軽く頭を下げる。

専用のエンベロープケース――『地獄への戒め』と書かれた容器に仕舞った。
426 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:09:25.09 ID:TJeoIGflo
これらのような庶務――しかしそれでいて担当アイドルのために絶対必要なプロデュース業務――がとてつもなく増えた影響で、担当アイドルたちの日の目を見る機会がめっきり減っていた。

それどころか、新曲の監修や各種衣装へのアドバイス出し、レッスンの様子のチェック、アイドルのモチベーションのフォローアップ……諸々のやるべきことが全て滞っている。

先日もベキリとして珍しいバラエティへの出演があったはずだが、満足に見守ることもできないまま、凛とつかさの組み合わせなら大丈夫だと送り出したことがあった。

もちろん、つかさにも大なり小なり負担が掛かっていることは間違いないだろうから、近いうちにフォローをしなければと思いつつ実際は進められていない。

もどかしい思いが先行する。
427 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:10:27.34 ID:TJeoIGflo
「全ては業なんだよな……」

これは、自分の蒔いた種だ。

凛がムーンストーンのアクセサリを着け始めた段階で阻止しておくべきだったのかも知れない。

何年も前、自身に好意を寄せ始めているのを察知した刻は、アイドルとPの関係は許されないことだと叱った。

それ以来、凛は女の感情を仕舞い込んでしまった。

無論それはアイドルとしての活動には理想的なことだと云える。

――だがそれでは、アンドロイドと何が違うのだ?

今回は、アイドル同士。

本人たちさえ望むならと、久方ぶりに人間の感情を思い出した凛を押し留めるのが怖くて、もしかしたら抑制することで今度こそ壊れてしまうかもしれないと云う一種の恐怖から、何もできなかった。
428 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:11:16.51 ID:TJeoIGflo
凛が大事すぎるがゆえの、躊躇い。

しかしプロデューサーにとって傍観とは、罪だ。Pは間違いを犯してしまった。

せめて、今以上に状況が悪化しないよう奔走しなければ。

指を組んだ両腕に額を乗せる。

目を閉じて、深い呼吸を何往復か繰り返す。

また内線が鳴った。今度は来客の報せだ。

今日はこれから田嶋との今後についての打合せが入っているのだが、予定より30分も早い到着にPは驚いた。

待たせるわけにもいかないので、別の会議室をすぐに確保し直して、ロビーへと迎えに上がった。
429 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:12:06.48 ID:TJeoIGflo

・・・・・・

凛はスキャンダル以来、狂犬だともヤマアラシみたいだとも比喩されていた元々の雰囲気に加え、アンニュイな味を纏うようになった。

そして最近は、どこか解放された感じにも見える達観した尼のようだと囁かれている。

この日は、新しい衣装を作るための打ち合わせを社内デザイナーとしていた。

今回は、経験を積ませるために若手にリードデザインを任せ、ベテランが補佐につく形式で進めるらしい。

いつもならこれほどに制作体制を変更させる際にはPが同席するのだが、生憎アポが重なったらしく凛だけが参加していた。

「これまではあまりダブルブッキングなんてしなかったんですけどね、Pさん」とは重鎮の言だ。
430 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:12:53.34 ID:TJeoIGflo
新進気鋭のルーキー、岩見沢は鼻息が荒い。

「やっぱり渋谷さんは、以前みたいな、瑞々しい一種の健康的な肉感を少しは出した方がいいと思うんですよ」

熱弁が、小会議室に響く。

「確かに歌姫と云われていますけど、渋谷さんの源流は歌手じゃなくてアイドルじゃないですか。ファンを目でも愉しませてこそかなと。
最近のシック系だと、ダンスもしにくいでしょう?」

凛は、曖昧に「うーん……」と愛想笑いで相槌を打つことしかできない。

よもや男の痕を隠すためだとは到底云えまい。
431 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:14:10.35 ID:TJeoIGflo
「デビュー当時の、ニュージェネレーションのドレス。あれって本当に最初から完成されていると思います。
ローマの胸像のようにすっきりと魅せる肩や鎖骨のライン、シュッと無駄なく締まった大腿など、露出させるべきところはさせて、布で覆うべきところは覆っている。
コルセットで絞りつつすぐ下はパニエスカートで拡げるあのシルエットは最高です」

「なんかちょっとくすぐったいな、そこまで評価して貰えると……」

何でも、シンデレラガールを獲った時分の凛に憧れてアイドルの服飾を志したと云うので、気恥ずかしさに頬を掻いた。

ひとしきり熱く語った岩見沢が、急にしゅんと肩を落とした。

「以前、Pプロデューサーに思い切って疑問をぶつけてみたんです。でもそうしたら強い調子で『これがプロデュース方針だ』って。
……もったいないですよね。もちろん自分たちは指示には逆らえないですけど、プロデュース側とデザイン側とが一緒に練り上げてこそ渋谷さんをもっと輝かせられると思うんです……」
432 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:16:14.45 ID:TJeoIGflo
凛は初めて耳にする事実に驚き、狼狽した。

あわや表に出やしないかと必死で表情や仕種を取り繕う。

社内の反発を承知の上で、“方針”の名の許に有無を云わさず露出低減を推し進めていたなんて。

Pは社での立場を脅かしかねない綱をずっと渡っていたのか。

このままではPだけが悪者になってしまう。凛は必死に頭をフル回転させた。
433 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:17:26.35 ID:TJeoIGflo
「私にはどっちの意見もわかる……かな。ほら、どうしても時間には逆らえなくってさ。今更になって肌を晒すと色々云われそうで。
絶対色々なところで『【悲報】JKだったしぶりんが劣化www』とか貶されるでしょ」

自分に同調しない凛の答えを聞いて、岩見沢が残念そうな顔をする。

自らのことを思ってくれるが故の熱意が凛は少しだけ気の毒になって、「まあ、でも――」と予定にない言葉がつい口に出た。

「ちょっと鍛え直すから、そしたら是非その案を具現化して貰える?」

栗栖と終わってしまった今、どうせそのうちこの“刻印”は消えてゆく。

もはやアイドルには戻れないと云う諦めの気持ちはある。それでも、目の前の落胆する岩見沢や、悪者に仕立て上げられそうなPへのフォローを考えれば、方便は必要だった。
434 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:18:13.55 ID:TJeoIGflo
消沈していた表情がみるみる輝きに変わってゆく。

「はい! 悲報どころか朗報って云わせてやりますよ!」

この場では次回のシック度合いだけ決めて、詳細はまた改めてPを交えて詰めることとなった。

プロデューサーに謝らなきゃ――。

凛は話し合いの内容を記憶しておく余裕はなかった。
435 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:19:03.80 ID:TJeoIGflo

廊下を早足で駆けて、第一課のドアを邪魔だとばかりに押し放つ。

「プロデューサー、いる?」

しかし凛の声に反応するのは、第一課の別アイドルの担当しかいなかった。

「Pさんはさっきから席を外してるよ。アポが長引いてるのかもね。ちょっと色々と業務が回ってないみたいだよ」

凛は出端をくじかれて肩を落とした。
436 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:20:24.42 ID:TJeoIGflo
今のうちに云いたいこと云うべきことをまとめられる時間ができたと考えよう、そうポジティブに思い直して、ソファへと腰掛ける。

少し座っている間だけでPの席の内線は3度鳴り、ガチャリとドアの開く音がしてはトレーナーの青木明や興行部の遠藤がPの所在を尋ね、いないことが判ると困ったような顔を浮かべて去っていった。

相当色々なことが込み入ってそうだ。何か助力できることはないだろうか。

ただ座して待つだけなのも忍びない凛はそう思って、早速鳴った4度目の内線に出る。

「はい3階、代理で渋谷凛です」

『あれっ? えーとPさん不在ですか』

アイドルが内線に出たせいか一瞬驚いたような声音で、しかしすぐに業務に追われ驚きを思考から放逐したように質問を寄越してくる。
437 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:21:32.94 ID:TJeoIGflo
「はい、プロデューサーは別のアポの対応中らしいです」

『あー……、読買新聞さんから外線で校正結果の照会が突かれてんだけど、どうなってるのかな。流石に渋谷さんじゃ判らないよね』

電話口の向こうから困惑と苛立ちの雰囲気が感じられた。

「うーん、ごめんなさい、ちょっと……はい、伝えておきます。では」

日々の業務については何の補佐にもなれない現実を突きつけられ、凛は無力さを感じた。
438 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:22:44.42 ID:TJeoIGflo
受話器を置いて、はぁ、と嘆息すると、ふと、床に散らばる紙の束が目に入る。楽譜と思わしきものもあった。

「あれ、そういえば……」

ベキリやツクヨミの新曲をPが書きおろす企画が挙がったと云う話を耳にしたことがあった。結構前のことだ。

だが、手に取った譜面用紙は到底完成されているようには見えない。

めくってゆけば、『間に合わん』とだけ走り書きされ、太い朱で大きなバッテンが刻まれていた。

昨今のタスク量で手が追い付かず破談となったことが窺えた。

これまで凛の楽曲をいくつか手掛けてきたPのことだ、ツクヨミ向けともなればきっと腕が鳴ったことだろうに。

Pに無理を強いてきた物証がこうやって続々と顕れてくると、その度に凛の胸には棘が突き立てられる。

今や心は裁縫のピンクッションのようで、空き場所が見当たらない針の山だ。
439 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:23:56.66 ID:TJeoIGflo
頭を抱えて立ち上がると、サイドテーブルに血のこびりついた剃刀の刃が置かれていることに気づいた。

「これは……?」

髭を剃ろうとして誤って切った……とするならば刃が単体で置かれているのは妙だし、よもやPが自殺を企てたわけではあるまい。

よく見れば、刃の置かれている紙には宛名に『渋谷凛様』と書かれている。

もしや――

「この剃刀、私宛……?」

それだけではない。

傍に鎮座する大きな段ボールに入れられた大量の手紙や小包は、普段凛がPから定期的に渡されるファンレターの量とは明らかに差があった。
440 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:25:06.87 ID:TJeoIGflo
凛は、弾け飛ぶ勢いで段ボールを漁った。

慎重に、それでいて時間を無駄にしないよう手早く。

開封する度に、油田の如く溢れ出す悪意の暴風雨。

ソーシャルネットワークで罵詈雑言はよく目にしたし、或る程度の耐性は身についていると思ってきたが、ただの思い上がりだったようだ。

こうやって物理的な存在として訴えかけてくるのは堪えた。
441 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:25:54.53 ID:TJeoIGflo
手紙だけならまだよい。

画鋲だったり、引き裂かれた写真だったり、文字以外の実体で伝えられる憎悪がとても怖かった。

なまじ、これまでPたち裏方がフィルタリングをして堰き止めていたことで、端末の画面で見るだけの文字とはレベルが違う、直接触れる機会が皆無だった醜悪なものへは耐性が醸成されていないのも不幸だった。

Pは、こんな毒気にずっと中―あ―てられ、耐え、庇っていたのか。

こんなクズみたいな自分のことを、色々やらねばならない多量のタスクを放り投げてまで、戦友は守り続けていてくれたのか。
442 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:26:52.09 ID:TJeoIGflo
「バカみたい……」

自分は、本当に、バカみたいだ。

「一番近くで私のことを一番に想ってくれるヒトがいたのに、傷つけて、ずっと傷つけて――」

足の力が抜けた。

がくりと項垂―うなだ―れ、膝を突くと、OAフロアの床に、一つ、二つと濡れた染みが出来上がる。
443 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:28:23.02 ID:TJeoIGflo
凛の嗚咽をよそに、田嶋と胃の痛くなる長い協議を終えたPが、溜息を吐きながら戻ってきた。

その顔には見るからに疲労の色が滲んでいるが、同僚からの作業状況を照会する質問が方々から飛んでくる。

自らのところでボールが止まっていることを詫びてから、急いで処理しようと執務机へ歩を進めると、うずくまっている人影を視認した。

すぐにそれが渦中の人物だと直感すると、田嶋の早い来訪に慌てるあまり送付物を仕舞い忘れた痛恨のミスに気付く。

「り、凛!?」

どうした大丈夫か、と駆け寄って支えようと手を伸ばしたところで、凛は弱々しく息を吐く。

「ごめん……」

云いながら顔を上げた。滂沱の泪を流していた。

「ごめんね……」

気丈だったはずの凛が哀しい顔で詫び続けるのを見て、Pは、宝物をついに守り切れなかったのだと認識した。
444 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:29:48.57 ID:TJeoIGflo
「私……プロデューサーのような才能あるヒトをダメにしちゃった……」

赦しを乞う言葉を、壊れたレコードのように何度も何度も繰り返す中、剣呑な空気を感じ取ったPの同僚たちが、何ぞ問題が起きたのかとざわつきつつあるのを凛は感じた。

これ以上騒ぎを起こしてPを陥れてはならない。

「本当にごめんなさい」ともう一度付け加えてから、がくがくと震える両脚に喝を入れて、第一課を飛び出す。

誰の目にも触れないよう、廊下の端に設けられたベランダへの鍵を開けて駆け込む。

ここは緊急時の避難梯子が据えられた場所で、普段はまず人の来ない部分だ。手近で一人になれるのはここにおいて他にない。
445 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:30:28.61 ID:TJeoIGflo
どのように詫びればよいのか、もはや凛には判らなかった。

そもそも詫びたところで取り返しのつかないことに変わりはないし、アイドル活動で挽回しようとしても市場が赦してくれるかは未知数だ。

むしろ赦してもらうためには、Pはさらなる奔走を要求されるだろう。

結局どうやってもPの負担になる未来しかないのだ。
446 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 23:31:01.26 ID:TJeoIGflo
PもPとて、何とか追わなければと思うのだが、凛のあれほどまでに自責する言葉や表情は、8年も一緒にいるのに初めてのことで、身体が動かなくなってしまった。

どのようにフォローするべきなのか、もはやPには判らなかった。

どんな言葉を投げても凛の負担にしかならないだろう。

かと云って語り掛けなければ、この不幸な現状維持が続くだけだ。

「一体、どうすれば……」

呆然と立ち尽くすPの後ろで、内線が鳴り止まない。
447 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/04(火) 23:33:35.23 ID:TJeoIGflo

今日はここまで
448 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/05(水) 04:56:16.02 ID:JCPLzoMDO
もしかしてラスト近い?

もちょっと続いて欲しいけど……ね
449 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/05(水) 22:47:30.36 ID:wbEqpjsSo
>>448
凛の誕生日に書き終わらせるつもりです
450 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:49:17.70 ID:wbEqpjsSo

・・・・・・

凛は、つかさからの電話で叩き起こされた。どんよりと雲が低く立ち込める朝だった。

「おはよう、ありがとうつかさ、助かった」

『え、なんのこと?』

開口一番の謎の感謝に、つかさは虚を突かれた。

「起こされたとき、厭な夢にうなされてたところだったから」

『……そうか』
451 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:50:06.25 ID:wbEqpjsSo
最近、夢見が滅法悪い。

ファンタジーな内容から現実味あるものまで幅は広いが、そのどれもが何らかの形で蝕まれる悪夢だった。

叫んで起きるか、寝汗をびっしょりかいて息を切らしながら起きるかのどちらかだ。

して、つかさは何の用事だろう。この日の凛の仕事は夜から。まだまだ時間があるはずだ。

『ああそうそう、そうだ、Pが今どこにいるか知らね? 会社に来てないんだよ』

いつも堂々と構えているつかさにしては珍しく、少し焦燥の声音が混じっていた。
452 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:51:25.96 ID:wbEqpjsSo
「プロデューサーが? まさか寝坊なんてする人じゃないでしょ、どこかへ直行直帰とかじゃなくて?」

『今日はアタシのトレーニング方針会議があるんだ。トレーナーさんと管理栄養士さんを交えてのヤツ。
電話は電波が届かない。今までこんなこと一度もなかったのに』

その実つかさは緊張しいではあるのだが、鋼のプロ根性でそれを表に出すことがほとんどない。

相棒への電話だからあまり取り繕わなくて済むと云うこともあろうが、彼女の気骨でも隠し切れないほど心を砕いていることが伝わってきた。

「……わかった。私は仕事までまだ時間あるから、調べてみる。つかさは、一旦プロデューサーなしで進められる?」

『あ、ああ。たぶんそこまで大きな舵取りの変更はないはずだから……』

了解、とお互いに頷き合って電話を切る。
453 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:52:28.74 ID:wbEqpjsSo
――プロデューサー……まさか、気に病んで自殺なんてしてないよね……。

凛は不穏な思考が浮かぶのを、「ううん、そんなわけない」と頭を激しく振って掻き消した。

「ちひろさんとか、会社関係で動ける人は全員動いているはず。私が思いつくことならもうみんな済ませてるよね……」

凛は、Pに関する独自のオンリーワンな情報網は持ち合わせていなかった。早速詰んだ。

「プロデューサーが行きそうな場所を虱潰しに調べるしか……」

凛は取るものも取り敢えず、自宅を飛び出す。

天候のせいで陰鬱な重さが支配する窓の外を見ながらマンションのエントランスを走り抜けると、前方から、大きなサングラスで目元を覆い、黒いスーツとオーラを纏って歩いてくる人物があった。
454 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:53:59.15 ID:wbEqpjsSo

===

Pはずっと潮騒を聞いていた。

聞いていた、と云う表現は語弊があるかもしれない。

P自身は耳に届く空気の振動を意識していないからだ。

人気のない、ごつごつした岩場から釣り糸を海へと垂らし、それでいてリールを巻く気が微塵もない体で、寄せては白い泡となって消えてゆく波をずっと網膜に映しているだけだった。

今、Pの頭の中を支配しているのはたった一つ。

凛の、泪に濡れた顔。
455 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:54:52.33 ID:wbEqpjsSo
どうやってもその顔を晴れさせる方策が思い浮かばず、前にも後ろにも進められず、気付いたらこんなところにいた。

今日はつかさ関係の業務があったはずだ。

また彼女に迷惑を掛けてしまった。合わせる顔がない。

こんなに不甲斐ない人間だったか。

こんなに情けない男だったか。

だがこの立場でどうしろと云うのだ。

Pの脳内をぐるぐるいつまでも遣る瀬無い思考が渦巻く。
456 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:56:03.15 ID:wbEqpjsSo
「――釣れるかい」

ふと、後ろから声を掛けられた。

こんな荒涼としたところに一体誰が――そう思いながら振り向くと、かつて見た人懐っこい顔は封印して、真面目な笑みを浮かべた沈が立っていた。

「……ふむ、どうやら釣る気はないようだ」

竿の状態を一瞥して云う。

「なら浮きも入れない方がいい。期待して集まる魚が気の毒だ」

そう忠告しながら、よいしょ、とPの傍の突き出た岩に腰掛けた。
457 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:57:02.53 ID:wbEqpjsSo
「沈社長、なぜあなたがここへ?」

「たまたま通り掛かっただけだよ。私は海が好きなんだ。そうしたら妙な雰囲気の人が一人ぽつんといるのでね。様子を見にきてみたらPプロデューサーだった。こんなこともあるもんだね」

私の放浪癖もあながち無駄ではないもんだ、と沈は相好を崩した。

「Pプロデューサー、やはりあなたは姜プロデューサーと似ているな」

「……え?」

「彼も失意の底にいるとき、こうやって釣る気もない竿を波打ち際で掲げていたよ」

「あの彼が?」

いつも見掛ける彼は泰然自若とし、強力なリーダーシップでR.G.Pを率い、悩みとは無縁そうな振る舞いをしているのに。
458 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:57:53.13 ID:wbEqpjsSo
Pの感想に沈は、825を超人集団だとでも思っているのかね、と声を出して笑った。

やや呼吸を落ち着けて、遠くの海原を眺める。

「渋谷さんの件ではだいぶ揺れているようだね。いや、激震と云えるか」

Pは何も答えなかった。

いや、答えられなかった。

今回の騒動に関して迂闊なことは何も喋れないからだ。

そう、社内でさえ口に出すのが憚られるくらいに。
459 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 22:58:47.69 ID:wbEqpjsSo
「大丈夫さ――」沈は海を見たまま優しく云った。

「日本芸能界の人間だと全員が利害関係者になってしまうだろう。一種、外様の私が最もニュートラルだ」

Pを向いて頷いた。

「……お恥ずかしい次第です」

Pは竿を仕舞おうと引き揚げながら、ようやく一言だけ返した。
460 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:00:36.32 ID:wbEqpjsSo
沈は大きく息を吸って空を見上げ、ふぅ、と吐く。

「姜プロデューサーを825へスカウトしたのもこんな天気の日だった」

そのまましばらく厚い雲の広がる白い天を仰ぎ続ける。

「……かつて姜プロデューサーは担当アイドルを死なせてしまったことがある」

沈の訥々とした語りに、Pは驚愕の目を見開いた。

あんな栄光を謳歌する姜にそのような過去があったと? 俄には信じられなかった。
461 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/05(水) 23:02:37.29 ID:wbEqpjsSo
「スジの双子の妹さんでね。彼はそのせいで一旦芸能界から身を引いたんだ」

でも、と沈は目を閉じる。これまでの825の軌跡を反芻しているようだった。

「当時一般人だったスジと偶然出会ったことで、そしてR.G.Pと云う導くべき船ができたことで、彼は立ち直れた。ま、大部分は私が嗾―けしか―けたせいでもあるがね」

彼は幸運だったんだ、と目を細めてPに笑い掛けた。
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