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渋谷凛「愛は夢の中に」
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162 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/26(日) 22:34:50.38 ID:bNfTWuHio
>>161
まあ一度ついたユニット名はおいそれと変えられないから…
ニュージェネも今や「ニュー」ではないですしね
163 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:35:59.56 ID:bNfTWuHio
・・・・・・
レッスンが解散し、CGプロ事務所に凛が帰着したのは21時を回った頃だった。
本来は4人全員が直帰のスケジュールだったが、ライラたちとは途中で別れ、マーチングに関する情報収集のために単独で麻布十番へと戻ってきたのだ。
「ふう、ただいま」
第一課の扉を開けて帰還の挨拶をするものの、どこからも反応が返ってこない。
明かりは煌々と点いているのだから、誰も彼も退社済みというわけではないはずだが。
164 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:37:03.72 ID:bNfTWuHio
レッスンスタジオに籠りっきりなのだろうかとPの執務エリアを覗き込むと、果たしてそこには机に突っ伏して寝ている姿があった。
「あぁ、なるほど」
合点のいった凛は、しかし直帰せずわざわざ事務所に寄った理由の対象が機能していない事実に対面し、どうしたものかと思案した。
ここへ来るまで結構大きな物音を立てていたはずなのに全く起きる様子がない。これはだいぶ深い意識不明の重体になっていそうだ。
「猛烈な勢いで爆睡してるプロデューサーを叩き起こすなんて、そんな鬼畜な所業はできないよね」
身体を冷やさないよう何か羽織るものでもかけようかと思って近寄ったものの、いざ近辺には適当な布がない。
165 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:38:08.01 ID:bNfTWuHio
周りを見回すうち、Pの机にはツクヨミ関係の書類やら参考資料やらが山積されているのが目に入った。
「ああ……今にも崩れそう」
少しだけでも片付けようかと更に近づくと、Pの黒い頭にぽつぽつと白髪が混じっているのが見えた。
分布は偏在的で、とりわけ右後頭部に多く生えているようだった。
白髪が出てくるには些か早過ぎる年齢のはずだが、これだけ激務を続けていればメラニン細胞の劣化が加速度的に進むのは避けられないのだろう。
いづれにせよ、かつてベンタブラックを自称していたPの頭髪に、年波が忍び寄っているのは確実だった。
改めて、凛たち最前線に臨む“兵士”だけでなく、それを支える事務方も相当な奮戦をしていることが窺える。
立つ場所が違うだけで、全員が戦友なのだ。
166 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:39:26.45 ID:bNfTWuHio
机から溢れそうな紙の束を、落ちない位置まで幾らか整理すると、陰から見たことのない写真が顔を出した。
初めてステージに立った日の、ゴシック調を基としたシックな黒いドレスを身に纏っている凛と、新しめのスーツを着たPが控室で並んで写っているものだ。
正確に云えば、凛にとっては何度となく見慣れた写真なのだが、それは自室に飾ってあるからという理由であって、Pが持っているところは見たことがなかった。
「あれ、プロデューサーもこれ持ってたんだ……」
写真の中のFランクアイドルは、表情こそ勝気に微笑んでいるとはいえ、デビューしたて特有のどこか自信を持ち足りない匂いが漂う。緊張で身を固くしていることも隠せていない。
被写体としては散々な状態ではあるけれど、デビューの際に撮影したものだからこそ、記念と云う意味でも戒めと云う意味でも、凛は常に目の届くところに飾っているのだ。
167 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:40:25.86 ID:bNfTWuHio
書類の海に沈まないよう分けておこうと何の気なしにサルベージすると、『このアイドルのために俺がいる 目指せシンデレラガール』と隅っこに書かれていた。
印画紙のややヨレた手触りから察するに、額へ入れて飾っているというわけではないらしい。
むしろこのくたびれ加減は手帳などに挟んでことあるごとに取り出しているような印象がある。
「なんだ、キザったらしいこと書いてるね。ふふっ……」
4年前に第3代シンデレラガールと云う頂点を獲ったことで、書かれている決意は実現できてしまっている。それでもこの写真をずっと持ち続けていてくれたことに凛は胸が暖かくなった。
――やっぱり今日はそっとしておこう。
凛は相好を崩して頷いた。
机に積まれた本の山へ写真を立てかけ、また傍にはちひろの席から持ってきた差し入れのスタミナドリンクを置いてから、ゆっくりと踵を返した。
168 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:42:06.64 ID:bNfTWuHio
「あ、いるいる」
上階のレッスンスタジオへ顔を出すと、この時間でもつかさが鏡と正対して踊っていた。
練習用のジャージを着用こそすれ、白いTシャツの裾を結んだり、ズボンもチャックをふくらはぎ辺りまで上げたりと、ファッショナブルな着こなしをしていて自社ブランドを持つ社長としての意地が垣間見える。
凛が「あの着方いいな、参考にしよう」と本筋から逸れたところで感心すると、つかさが来訪者に気づいて動きを止めた。
首にかけたタオルで汗を拭ってから歩み寄る。
「練習着でもない凛がここへ来るなんて珍しいね、こんな時間に一人か?」
「うん、今日は別の場所でレッスンしてた。プロデューサーに用事があったんだけど、寝ちゃってて」
「あーアイツ、昼間っからだいぶ疲れてそうだったからな」
凛の説明に、つかさは然もありなむ、と目を瞑って何度か首を縦に振る。
169 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:43:07.61 ID:bNfTWuHio
「数時間前までそこでアタシのレッスンを見てたよ。……凛がアイツに執り持ってくれたんだって? 悪かったね」
「いいっていいって。アドバイス、もらえた?」
「おかげさまで。詰まってた小石が取れたから、これで次のライブの演出がコミットできる」
「それは何より。――ところでちょっと訊きたいんだけどさ」
凛はつかさにマーチングに関することを尋ねようと思っていた。
ベキリのほか、第二課の佐久間まゆと共に『ガールズネットワーク』と云うユニットも結成している彼女は、自身のコネクションの広さに加え、まゆの情念深さをひしひしと感じる特定の深い知見も入手できる位置にいる。
第一課の諜報アイドル八神マキノと並び、CGプロ随一の情報網を持っているのだ。
170 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:43:56.06 ID:bNfTWuHio
「……マーチング? そりゃまた随分と異分野だなー」
つかさがきょとんとした表情でスポーツドリンクのストローに口をつけた。
「ツクヨミ関係でさ。楽器を操りながらステップも踏まないといけないから、マーチングが参考になるかなって。
本当はL.M.B.Gの資料を貰いにきたんだけど、プロデューサーと話せなかったから、先に情報通のつかさに訊こうかなと思ったんだ」
「あーそう云うこと。でもL.M.B.Gは子供用に大分リダクション―簡単に―してあるから単純なリファレンスにはならないんじゃねぇ?」
ボトルを壁面鏡の近くに置いてから、つかさは腕を組んで考え込んだ。
171 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:44:52.00 ID:bNfTWuHio
「……必ずしも社内にこだわる必要ないんだったら、京都アリス高校吹奏楽部って知ってる? オレンジのユニフォームが特徴のマーチングバンドなんだけど」
「え、高校の部活?」
凛の声音にやや軽んじる匂いを感じたつかさは、チチッと人差し指を横に揺らした。
「いや、高校生と侮っちゃなんねぇよ? 由緒ある米国ローズパレードから複数回のオファーを受けてるプロ顔負けの強豪校だからな。
“橙の悪魔”って呼ばれるくらいだし、心肺機能と体幹スキルはそんじょそこらのアイドル程度じゃ到底勝負にもならねー。L.M.B.Gにも協力してもらってるはずだ」
自らのタブレット端末を取り出して、動画共有サイトを開く。
172 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:45:45.13 ID:bNfTWuHio
何回かタップしてから「ほら、これ見てみ」と凛へ寄越すと、そこには我が目を見張る光景が広がっていた。
カリフォルニア・アナハイムのディズニーランドで催されたパレードを撮影した映像の中で、金管や木管、果ては打鍵楽器まで背負って縦横無尽に飛び回っているのだ。
しかも驚異的なことに、破格の運動量を誇りつつマーチングの本分である演奏も疎かにしていない。
大人数ゆえ先頭から最後尾までかなりの距離があるにも拘わらず、音のタイミングがぴたりと一致している。
それでいて特に重いチューバなどを担ぎながら軽やかに豪快なステップを踏む様は、およそ高校生とは思えない技量であった。
「なにこれ……」
凛は二の句が継げなかった。
173 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:46:42.88 ID:bNfTWuHio
プロ集団というわけでもない、同好会というわけでもない、一年ごとに強制的な新陳代謝が発生する高校生なのに、スキルフルかつ高度な統制を実現しているとは。
一体どうやればこんなことができるようになるのか。
「アタシらの面目が潰れちゃうよなー」
つかさの苦笑に、何も言葉を返せなかった。ただただゆっくり頷くのみ。
「ま、彼女たちは私立校だし志望者も多いし? 確かに選び抜かれた子たちなワケだけどさ、アタシらだって天下のCGプロでアイドル張ってんだ、できないはずねぇっしょ」
謙虚にレクチャーを請うのも、プロとしての矜持じゃねぇ? とつかさは大きく口を開けて笑った。
174 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:48:45.06 ID:bNfTWuHio
凛は映像を最後までしっかり目に焼き付けてからタブレットを返す。
「よく知ってたね、つかさ。……それとも、私が疎すぎるのかな」
「あーいや、実は種明かしすると、L.M.B.Gのメンバーを増やすときに千枝のプロデューサーから相談受けたことがあるんだよ。京都アリス高校は、アタシの地元福井の政財界とコネがあるから」
「なるほど。どうりでこんなに詳しいわけだね」
「お粗末様。会社のファイルサーバに橙の悪魔直伝のレクチャー映像があったはずだから、見てみるか」
つかさはそう云って、タブレットをテレビに接続した。
フレッシュな高校生が、だいぶ緊張した面持ちでビデオカメラに向かって喋るさまが映し出される。
175 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:49:20.70 ID:bNfTWuHio
講義の内容自体は、年少組たるL.M.B.G向けに平易な言葉が並んでいる。なのに、たどたどしい話し方のためか頭に中々入ってこない。
微笑ましいほどの初心さだが、高校生の時分で現役アイドルへの教鞭を執ると云う経験などそうそうあるまいし、不慣れで当然でもある。
凛が映像を見ながら、着ている上着を脱いだ。
「おいおい今やんのか?」
つかさが少し呆れた面持ちで腰に手を当てた。
「善は急げって云うでしょ?」
「確かに違いねーな。どれ、アタシもやってみっか」
176 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:50:15.04 ID:bNfTWuHio
好奇心が勝ったつかさが、ラフな姿になった凛の隣に並んで、レクチャー映像に倣って動き出す。
すぐにつかさの表情が困惑に変わった。
「……お、相当しんどいぞ、これ」
画面の中では、高校生が平然とした顔で、何ら造作もないように動いているのだが、ついていこうとすると途端に牙を剥くのだ。
「うん。瞬発力も持久力もフル動員するね」
凛が視線をテレビに向けたまま鋭くして頷いた。
相反する動作要素をそれぞれ高いレベルで要求されるマーチングの鍛錬は、一筋縄ではいかなそうだ。
177 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:50:49.30 ID:bNfTWuHio
人間の筋肉には、瞬発力を生み出す速筋と持久力を生み出す遅筋の二種類がある。
アイドルである以上、細身のプロポーションを維持するためには無闇矢鱈に筋肉を増やせばよいわけでもない。
過度な増強を避けつつ最大の効果を得るには、速遅筋の最適な比率を考える必要があるだろう。
「これ意外と難題かも……」
2時間ほどかけて、ツクヨミでこなすべき練習メニューをリストアップしたところで、画一的なトレーニング法を組めない難しさを凛は実感した。
筋肉の得手不得手は、人によって千差万別であるためだ。
それでも、手掛かりを掴むことはできた。この収穫は大きい。
五里霧中を進むのよりも、コンパスひとつでもあれば取れる選択肢は増える。
178 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:51:20.75 ID:bNfTWuHio
「つかさ、ごめんね。付き合わせちゃって」
ノートを閉じた凛は、髪を掻き上げて、隣のつかさを見た。
「いいって。気分転換になったし、自分の中にナレッジを積むのも楽しいもんだ」
つかさは水分を摂りながらニヤリと笑った。この知識欲が、情報通である遠因でもあるのだろう。
「ならよかった」と大きく一息を吐いて、凛は隅に脱ぎ捨てた上着を拾う。
ちょうどよいタイミングだから自らも切り上げるとつかさが云うので、二人で一緒に第一女子寮のある笹塚へ帰ることにした。
179 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:52:49.03 ID:bNfTWuHio
つかさの準備を待って、帰りしなに第一課フロアへ顔を出すと、Pが妙に元気な状態で仕事を再開していた。
眼窩は窪み頬は痩けているのに何故か爽快な笑みを浮かべ、「俺は全知全能の神になった」などと云い溌溂としながら猛烈に書類と格闘している。
「やっぱりコカインとか出所不明の薬物でも入ってるんじゃないの、あの飲み物……」
凛がぼそりと独り言を洩らした。Pが人影に気づいて振り返る。
「おお二人か、おつかれ」
「おつかれさま。起きたんだ?」
「ああ。あのスタドリ、凛がくれたんだな? ありがとう、おかげで調子が上がってきたよ」
「嘘。ゾンビみたいな顔してるよ。まあ、差し入れした自分が云うのもなんだけどさ」
左腕で力こぶを作るPに、凛は渋い表情をした。
180 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:54:41.70 ID:bNfTWuHio
「そうか? まあ今は休んでもいられない追い込み時だしな。でもスタドリのおかげで元気になる! 疲労がポンですわ!」
絶対に非合法薬物が入っているとみて間違いない。今度ちひろに中身は一体どうなっているのか訊かなければ、と凛は決意を新たにした。
「それパンドラの箱を開けそうじゃね? アタシはパス」
つかさが凛に耳打ちするのを、Pは不思議そうに見る。
「ん? どうかしたか?」
「ううん、なんでもない。私たちはもう上がろうと思って。スタジオフロアには誰もいないから施錠しといたよ」
「おーそりゃサンキュ。二人ともこんな遅くまで練習してたのか」
Pが時計に顔を向けて、まもなく日付が変わろうかと云う現在時刻をようやく認識した。
181 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:55:41.06 ID:bNfTWuHio
「寮まで送ろう。車を回してくるから、地下で待っといて」
「ううん、いいよ。電車で帰るから大丈夫。プロデューサーはとにかく早く仕事を終わらせなきゃ。何が一番重要なのか、プロデューサーならわかるでしょ」
凛が手を左右に振った。
「そう。お前の隠れた努力、アタシはちゃんとわかってるし。お前の“担当アイドル”たちなんだから、やるべきことの邪魔はしねーよ」
二人微笑んで労い、Pの申し出を固辞して鉄道で退勤すべく社屋を出た。
麻布十番から笹塚まで車で移動するとなるとだいぶ長丁場となる。
それに時間を割くくらいだったら、その分早く書類をやっつけて休んでほしいと思うのは、凛とつかさ二人共通の認識だった。
182 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/26(日) 22:57:48.67 ID:bNfTWuHio
『プロデューサー、相当キツそうだね、あの様子じゃ』
『だな。今度まゆにでも訊いて、アイツの好きなコーヒーの銘柄とかアロマとかリサーチしてくるわ』
終電を間近に控えたこの時間帯の都営地下鉄は人が多い。
お喋りをして周りに存在がバレないよう、目の前にいる者同士でビジネスチャット―Slack―を使ったコミュニケーションが繰り広げられる。
かつてギャル社長と呼ばれたつかさの文字入力はとてつもなく速かった。
183 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/07/26(日) 23:02:16.28 ID:bNfTWuHio
今日はここまで
184 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/07/26(日) 23:02:43.26 ID:bNfTWuHio
佐久間まゆ
https://i.imgur.com/OpG5al3.jpg
八神マキノ
https://i.imgur.com/EVx7eCM.jpg
185 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:22:32.71 ID:HtKC5RO4o
・・・・・・
満員のドームに、黄色い歓声と野太いそれが混ざり合ってこだましている。
驚異的な早さでライブツアーの告知がなされたのは、ツクヨミの発表から2ヶ月あまり。
それから更に1ヶ月かけて怒濤のアルバムリリースで機運を盛り上げた結果、レコード売り上げの上位には軒並みツクヨミが顔を出していた。
R.G.Pが唯一の例外として立ちはだかっているものの、ランキングから外患をほぼ駆逐すると云う、防波堤の役割をしっかり演じられている。
破竹の勢いと活動密度は、この間に迎えた凛の23歳の誕生日を覆い、霞ませるほど。
186 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:23:41.94 ID:HtKC5RO4o
そして今、東名阪ツアーが、ここ大阪ドームを皮切りに開催されむとしていた。
小規模な会場からのステップアップではなく、初っ端から三大ドームツアー。業界が一丸となった肝煎りゆえに可能なことだ。
更には最大手広告代理店である伝通やゲームカルチャーの雄である磐梯南無粉、マスメディアからはフジツボテレビなどとのタッグもあり、三大ドームの全日程全席を瞬殺する売り上げを見せた。
一部には、ここまでお膳立てが整っているプロジェクトへ冷ややかな声もあったが、料亭での高級懐石やレストランでのフルコースディナーを嫌いな人間はそうそういないものだ。
たとえ大きなバックアップがあろうとて、観客の期待以上のパフォーマンスをしっかり魅せればよいだけの話であって、今日、それができれば、プロジェクトの第一段階は完了する。
187 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:24:35.28 ID:HtKC5RO4o
アイドルたちは、スモークの焚かれたステージの下で、客以上に今か今かと出番を待ちきれない様子だ。
「壮大な計画の第一歩目、やっぱり掴みは大事だよね。みんなの度肝を抜いてあげよう。私たちならできるよ」
円状に集合したメンバーが右手を伸ばし、共同リーダーの一、凛が勝気な笑みを浮かべて云った。
いつしか凛は、錚々たるメンバーにも物怖じしない振る舞いができるようになっていた。
「あぁ。アイドルと云う言葉は今日、新たな次元へと昇華することになる」
もう片方の共同リーダー、北斗がキザな言い種をしつつ、スタッフからの開演指示を受けて喝を入れる。
「よし、いくぞ!」
「応!」
188 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:26:12.39 ID:HtKC5RO4o
全員が、伸ばした右手を同時に上へ振り上げた。隣同士でハイタッチをして、衣装の左胸にあしらわれた印へ拳を添える。
横長の長方形を対角線で分割し、上から時計回りに黄、青、赤、黒で塗られた意匠はZ旗と呼ばれるものだ。
Z――つまり“後がない”と云うところから日露戦争の際に「皇國ノ興廃此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味が付与された旗。
期待を一身に背負って今まさに“出陣”する彼女らを鼓舞するに最も相応しい。
開場後から鳴っていたBGMの音量と照明の光量が絞られてゆき、それと反比例してオーディエンスの歓声は大きくなる。
189 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:28:31.02 ID:HtKC5RO4o
静かなイントロがBGMとクロスフェードして、ついにステージの開始だ。
ベルのようなシンセサイザーや、落ち着いたクリーンギターの澄んだ音色に噛まされたフィルターが開いてゆく。
連動してアイドルたちが奈落からステージへと迫り上がり、暗闇に慣れた眼がメンバーを捉えた瞬間、まるで怒号のような喝采が響き渡る。観客の叫び声も、曲を構成する要素となる。
じっくりとイントロで慣らしてから、一転、煌々と灯り鋭く激しい攻撃的な音が場を支配した。ブロステップと呼ばれるジャンルの曲だ。
見目麗しいアイドルから発せられるドリルの如き鋭利な音波が、ドーム内にいる全員の鼓膜そして脳味噌を侵す。
耳から摂取するハードドラッグとも形容できるそれは、耐性のない大勢の観客をキメさせ、或る者は脳汁を垂れ流し、また或る者は立ちながらにしてオルガスムスを迎えていた。
――アイドルに殺される。
ステージに釘付けの皆が、開演してからわずかな時間しか経っていないながらも本能で察知した。
190 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:29:31.40 ID:HtKC5RO4o
ブロステップからアイドルソングで胸をときめかせ、アシッドジャズやフュージョンでクールなオトナの時間を味わい、ハードロックで再びブチ上げる。
幅広いラインナップを取り揃えたプレイリストに、アリーナもスタンドも全てが酔いしれる。
激しい動きと、それでもぶれない演奏技術。
四肢の指先まで魂の宿った艶美なダンス。
華やかな衣装に包まれて、誰もが夢見るアイドルの輝きを全身から放つ。
更には、ジャパニーズアイドルシーンの威信をかけたツクヨミなればこそ、各社から異例のバックアップを受け、曲ごとに各事務所の所属アイドルがサポートメンバーとして入れ替わり立ち替わりバックダンスを華やかに彩った。
191 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:31:44.54 ID:HtKC5RO4o
視界の端には、関係者席に招待した京都アリスの生徒たちが映る。
結局、ツクヨミのメンバー全員で京都まで特訓合宿に赴いた。その成果が、本日のこのステージだ。
教えを請うた人々に、プロフェッショナルの意地と髄を見せつける。
「恩返しができたかな、“先生”たち」
凛が不敵に笑んで、独り言つ。
その表情をカメラが射抜き、スクリーンへと大きく映し出されることで、会場の全員が改めてトップアイドルと恋に落ちてゆく。
これはまさに洗脳だ。
最前線の彼女は、大阪ドームを埋め尽くすペンライトの向こうに、未来を視た気がした。
192 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:33:26.51 ID:HtKC5RO4o
・・・・・・
「おつかれさまでーす!」
夜の心斎橋に、歓喜の乾杯音が響く。
喧騒の賑わう道頓堀は戎橋、そこからほど近いにも拘わらず、この地にはひっそりと佇むお洒落なレストランが数多い。
大阪公演の成功を祝して、貸し切りでの打ち上げが催されていた。
193 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:35:37.11 ID:HtKC5RO4o
ドームライブの盛況ぶりはインターネットメディアの速報ですでに全国へ伝えられており、このあと日付が変わる頃には地上波での芸能ニュースにも流れることだろう。
防衛戦略の初手が無事に成功したことは、ツクヨミへ出資しているレーベルや国内マスメディアに安心感を与えた。
テレビ局や放送各社、ツニーミュージックや日本最古のレコード会社ジヤパン哥倫―コロム―、果ては個々のアイドルと協賛契約をしている各企業などのトップが直々にメンバーへ慰労の電話を寄越してきたのがその証左だ。
「今夜はそっちに送ってあるものと同じワインで、取締役の面々と祝杯を挙げるよ」
とは凛のスポンサー四菱財閥会長の言である。
中央のテーブルには、わざわざ赤い菱形が刻印された大仰なケースに1990年のロマネコンティが1ダース鎮座していて、合計価格は優に5000万を凌ぐはずだった。
194 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:37:16.33 ID:HtKC5RO4o
これにはさすがの凛も当惑を禁じ得なかった。
印税だの契約金だので億と云う額も身近になっていた彼女でさえ、一夜の宴会のために4桁もの人数の福澤諭吉をポンと出す金銭感覚ではない。
日本最大のコングロマリットの威力をまざまざと見せつけられつつ、それでも飲まねば損とばかりに関係者全員が群がっている。
凛もグラスになみなみと注がれた深紅のそれを受け取って一口、二口と呷った。
高級赤ワインのイメージにありがちなフルボディの濃厚かつ重い味を想定していたのに、意外にもすっきりと喉を通ってゆき、特徴的な残り香が鼻腔をくすぐる。
美味しいけど生搾りのサワーの方がいいな……
と折角の贈り物に対して多少失礼な感想を思い浮かべていると、隣に「おつかれです」と栗栖が腰を下ろした。
195 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:38:11.90 ID:HtKC5RO4o
「渋谷さん、ロマネコンティ進んでないね」
「うん、まあ……」
視線を赤い水面に落として言葉を濁す。
「――なんか気負いの方が先に来ちゃって」
「だよねえ、ビールとかチューハイの方がいいよね」
味わうことなくソッコーで飲み干して終わりにしてしまった、と栗栖が云うので二人肩を揺らす。
「ほんと。ま、こう云うのは年寄り組やプロデューサーたちに任せちゃおうかな」
そう云って凛はPを手招き、半分ほどのワインと極微かに口紅の跡が残ったグラスを押し付けてから、カクテルの入ったシャンパングラスを手に取った。
196 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:39:31.06 ID:HtKC5RO4o
ミモザと呼ばれる、シャンパーニュとオレンジジュースをステアしたそのカクテルはとても飲みやすく、これはこれでペースを誤ると大変なことになりそうだ。
「ふう、おいしい。成人してそんなに経ってない私なんかにはこれくらいが丁度いいよ。普段からそんなに飲まないし」
お酒は嫌いじゃないんだけどね、と凛は苦笑した。
「あーわかる。日々の詰まったスケジュールを考えるとおいそれと飲めないから」
栗栖が腕を組んでうんうんと頷く。
その向こうからは、凛の“残飯処理”含め大量のアルコールが入り気分の大きくなったPが、熱くアイドルの将来展望について語っている声が聞こえてくる。だいぶ酔っている様子だ。
疲労の溜まっている身体にいきなりワインを浴びるほど注ぎ込んでは然もありなむ。
人前に出ることが仕事の凛たちには、あのような飲み方はできなかった。
197 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:42:25.95 ID:HtKC5RO4o
「渋谷さんさえよければ今度予定が合ったら飲みましょ。美味しいサイドカーを出してくれる行きつけがあるんで。俺の古い友人の店なんだけど」
「……うわ、サイテー」
凛は誘いの言葉を穿った見方で受け取って、しばし考えてから答えた。
サイドカーと云うブランデーベースのカクテルは、度数が高いわりにとても飲みやすく、レディキラー――つまり女を酔い潰して持ち帰る――の異名を持つ。
無論、普遍的な美味さのカクテルゆえの風評被害でもあるのだが。
「バレたか。って違う違うそういう意味じゃないですって」
栗栖は律儀にノッてから大きく手を振って否定した。もしかしたら彼は関西出身なのか、あるいは親族に関西の人間がいるのかもしれない。
サイドカーは非常にシンプルなレシピのため、バーテンダーの腕や特色がよく顕れる。
初めてのバーへ行ったらまずサイドカーを頼めと云う格言も存在する。このカクテルが美味い店は他のメニューもレベルが高い。
198 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:43:06.17 ID:HtKC5RO4o
「お酒、好きなんだね」
「いやー俺もまだ酒が飲めるようになってから長いわけじゃないし、まだまだ暗中模索してる感じで」
と、ウーロン茶の入ったグラスへ腕を伸ばす。
「でも俺はこの後また少し練習するから控えておかないと」
「えっ、これから?」
凛は驚きに目を大きくした。
199 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/27(月) 23:44:01.20 ID:HtKC5RO4o
「うん。渋谷さんだから判ってると思うけど、俺一回ミスタッチしちゃったんで。
自分とのセッションのとき、渋谷さんは譜面から外してこっちに合わせてくれましたよね」
「あ、わかっちゃった?」
「そりゃあね。面目次第もない」
栗栖は肩を少しだけ竦めて、こめかみを掻いた。
「でも渋谷さんがこっちに添ってくれてすぐ復帰できた。感謝してます。ぶっちゃけ純より演りやすいよ、渋谷さんの方が」
TOCIOのサポートで忙しい純に代わってSATURNへ加入してくれと冗談を飛ばす。
地獄耳に聞きつけたPが血相を変えて止めに入るのを見て、凛はお腹を抱えて笑った。
女所帯のCGプロだけでは味わうことができなかったであろう雰囲気の宴も酣―たけなわ―、お偉いさんたちの相手はPや酒好きのメンバーにでも任せて、練習に付き合うべく一足早く切り上げることにした。
美味しいアルコールの入った器よりも、コンコードを触っている方が彼女の性には合っていた。
200 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/07/27(月) 23:46:42.45 ID:HtKC5RO4o
今日はここまで
201 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/28(火) 04:42:30.72 ID:6iosLEDDO
あの……Z旗揚げた軍艦は
すべて爆沈の経験があるんですが……
202 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/28(火) 23:15:57.75 ID:4h7q9LhCo
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/ i f ,.r='"-‐'つ____
>>201
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/ ,i ,二ニ⊃( ●). (●)\
/ ノ il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| |
/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ /
203 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:22:22.56 ID:4h7q9LhCo
3
・・・・・・・・・・・・
渋谷駅西口ターミナルは、相も変わらぬ人混みと、乗合バスやタクシー、更に周囲から浮いた警戒色の建設機械が入り交じっている。
大幅な再開発が進行する当駅周辺は、1日たりとて同じ表情を維持することはなく、常に雑然と慌ただしい。
日本語ではない声量の大きな会話。おそらく大陸からの観光客だろう。
必要性が疑問に思えるほど過剰な構内案内アナウンス。狭い空間に反響して聞きにくく、むしろ逆効果だ。
屋外広告が誰へ宛てるでもなく垂れ流す宣伝。シャカシャカと軽薄な音質で、行き交う人々に存在を認識されていない。
メルセデスの吹かすマフラー音とグリップに耐え切れず鳴くタイヤ。しかし超過密都市の中、速く走ることはきっと叶わない。
それら環境ノイズの洪水に加えて、何よりも土木現場の生み出す極めて騒々しい雑音が鼓膜をこれでもかと叩く。
204 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:23:31.20 ID:4h7q9LhCo
京王マークシティから歩み出た瞬間に、凛はその端整な相貌を少しだけ歪めた。
ヒートアイランド現象のみならず、人海の体温と大型重機の吐き出す排気ガスなどが混ざり合って、都市の臭いを包含した熱風が淀み、タールの如く身体に纏わりついてくるのだ。
振り返れば、頭上には銀座線の黄色い車輛が高架をゆったり通り抜けている。
決して勾配を上ってきたわけではない“地下鉄”であるはずのそれが空中を回遊し、或いはどこを見ても急坂だらけの地理条件が、
ここが渋谷と云う字面通りの谷底にあることを――焼かれた空気の逃げ道がないことを意識させる。
暦の上では秋だと云っても世間はまだ「夏休み」だし、そんな言葉遊び以前に、ガスバーナーで炙られるように突き刺さる日射は真夏のそれでしかなかった。
ロータリーに面した銀行の入口から冷気が一瞬だけ漂ってきて、暑さで麻痺した肌に生を実感させる。
たぶん焦がしプリンはこんな気分なのかも知れない、と思った。
205 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:24:55.15 ID:4h7q9LhCo
国道246号玉川通りを歩道橋で越え、山手線の長いガードをくぐると、右手に竣工間近のビルが空へ高く伸びている。
5年前に地下化された東横線渋谷駅の跡地を利用したものだと云うが、往時の姿がどんなものだったのか、早くも記憶の砂時計の下へ埋もれてしまった。
ツクヨミの快進撃に伴い、やらなければならないことが格段に増えたので、些末な記憶に脳の容積を一々割いておく余裕が、もはやないのだ。
つい先日迎えた自身の23度目の誕生日でさえ、忙しさのあまり大して祝うこともなく過ぎ去った。
ただ23歳ともなれば、未成年の頃とは違って、誕生日は目出度さよりも年齢の数字が増える恐怖感の方が勝ってくる。
目の回るほどの多忙さが、凛本人としては却って好ましい状況ではあった。
206 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:25:50.69 ID:4h7q9LhCo
閑散とした、しかしそれでいて工事車両がひっきりなしに行き交う裏道を線路沿いにしばらく進むと、いきなり人の密度が上がる。
埼京線の新南口が置かれているここは、明治18年開業初代の渋谷駅があった場所だと云う。
自らの苗字と同じ地ゆえ、街の由緒を色々と調べたことがある。
歴史の足跡の面白さと云うものが、歳を重ねてわかるようになってきた。
最近では、NHKの、タモリが何気ない土地をブラブラと歩いて過去に思い馳せる番組を観るのが密かな愉しみだった。
さながらアンドロイド製造工場の如く出口から吐き出され続ける人波を縫って突破すれば、目的地は間もなく姿を現すはずだ。
207 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:26:57.27 ID:4h7q9LhCo
「おっ、おはよう」
群衆の中から、明らかに自分へ宛てたとみられる声がした。
ラッシュの流れの中で、栗栖が手を軽く挙げている。
「おつかれさま。電車通勤なんだ?」
てっきり車での送迎だと思ってた、と凛が足早に寄ると、栗栖は首を振って「俺ら若手なんていつも電車だよ」と笑った。
208 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:28:16.77 ID:4h7q9LhCo
そう、トップアイドルとて、よっぽど直行手段がない場合を除き、専ら鉄道が移動方法なのだ。
年功序列の側面もあるし、定時性が高いのも理由の一つ。
その二言三言のやりとりだけで、もうビルの玄関が視程内に入る。
見上げてから「ふう、遠かった」とため息を漏らす。
「朝から随分疲れてないか?」
栗栖は首を傾げるが、
「京王から来たからね」
「あぁ……」
凛の端的な説明にぎらつく空を見上げて、そりゃ大移動だ、と同情の声を上げる。
209 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:32:24.68 ID:4h7q9LhCo
京王渋谷駅マークシティは、凛がいま仰いでいるジョニーズビルから、街道や線路を挟んでほぼ点対称の位置にあって、およそ15分かけての徒歩移動を要した。
笹塚からならば、こんな面倒くさいアクセスなどせず、新宿を経由して埼京線に乗ってくれば済むのだが――
痴漢が頻発する不名誉な路線は、混む時間帯には利用しないようPから懇願されている。
「新宿なら通り道だし、朝イチでジョニーズに来るときは俺がエスコートしようか?」
「それは魅力的な提案だね。……でも流石に朝二人で満員電車に揺られているとあらぬ噂を立てられそう、かな。ラッシュ時は人の目が多いから」
「あーそれもそうか……ボツだな。ま、俺に協力できることがあったら何でも云ってよ」
妙案が浮かばないことを誤魔化すように栗栖がこめかみを掻いた。
無論それは彼のせいではなく、トップアイドルと云う立場同士の哀しさゆえであることが判っている凛は「うん、ありがと」と軽く頷いて、二人一緒にビルのスタジオへと入っていった。
今日はメンバーの都合から、栗栖、麗、凛だけのレッスンだった。
210 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:33:53.45 ID:4h7q9LhCo
「――って云うやり取りがあってさ」
早朝のセッション練習からラジオ収録、雑誌撮影などの仕事をこなして、太陽がすっかり店仕舞いした時分に、第一課のソファへ凛が身を預ける。
革が摩擦で鳴って、腿や臀部をひんやり包み込む感覚が気持ちよい。ミドルヒールのレースアップパンプスを脱いで足を揺らした。
「さすがに今の時期、京王から新南口まで歩くのは酷だと思わない? 肌もダメージ受けちゃうよ、いくら日焼け止め塗ったって」
凛の柔らかな抗議にPは腕を組んで「うーん、云わんとすることはわかるんだがなあ」と考え込んだ。
椅子を回し、パソコンから凛の方へ向き直って息を吐く。
「やっぱ凛くらい美人になるとさ、万が一にでも痴漢被害を受けやしないかと気を揉んで仕方ないんだよ」
211 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:36:03.75 ID:4h7q9LhCo
曰く、奴等が重視するのは身体偏差値、つまり姿形のバランスなのだそうだ。
頭頂から頭髪を経て上半身そして下半身へと至る色香、顔は見えないけど振り向いたらきっと美人に違いない、そう思わせる造形美こそが神聖な触れるべき対象に選定されるのだと云う。
確かに凛は、いつどこで誰にどのような手段で見られても恥ずかしくないようにプロポーションを維持してきた――いや、思春期の頃から理想のカラダを目指して鍛え上げてきた自負があった。
その上さらに帽子や伊達眼鏡でも隠し切れない顔面偏差値の高さを一瞬でもちらりと視界に入れれば、狩猟対象としてロックオンだ。
Pが人差し指で凛を3回指して「インカミン・ミッソー」とぼやく。
212 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:37:17.48 ID:4h7q9LhCo
たまにづけづけと「可愛い」だの「美人」だの正面切って云ってくるのは本当に人誑しだと、凛は思った。
そうでもなければプロデューサーは果たして務まらないのだろう。
「だがまあ毎日そのルートを使うわけじゃないし、例えば湘南新宿のグリーン車を使うとかなら或いは……」
視線を上下左右に動かして、グリーンだと人が少ないから凛が乗ってるって気付かれやすいか、などと自己問答している。
「うーむ、もしかしたら乃木坂の新社屋の方へレッスン場も移転する可能性があるし、そうじゃなくてもCGプロ―ウチ―を基幹スタジオにできないか今度訊いてみる」
「わかった。ありがと」
最善ではないが現状で出せる最適解をPから聞いて、凛は靴を再度履いた。これから日付が変わる頃までつかさとのレッスンだ。
213 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:38:03.86 ID:4h7q9LhCo
ツクヨミに割く時間が多いとは云え、普段のアイドル活動も並行してきちんとある。ベキリが次回リリースする新曲の習得を進めなければならない。
立ち上がり「行ってくるね」と鞄を手に取る。
第一課スペースを出ていこうとする凛の背中にPが労う。
「おう。今日は午前もレッスンがあったのに大変だと思うが頑張ってくれ。あと――」
振り返った瞳を見て、一瞬置いた。
「……ベーシストとギタリスト、ツクヨミの中では絡む機会が一番多いだろうけど、相手はジョニーズだから。くれぐれもスキャンダルには気をつけろよ」
「わかってる。だからこそエスコートの申し出を辞退したわけだし、向こうだって充分認識してると思うよ」
眼を閉じ、口許に笑みを浮かべてから、艶やかな靴音を遺していった。
214 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:40:14.70 ID:4h7q9LhCo
・・・・・・
乃木坂の袂―たもと―には、鉛白の如く明るい輝きを放つ鳥居が鎮座していて、それをくぐると右手に乃木神社境内への石畳が続き、左手にはこぢんまりとした公園がある。
坂や陸橋に囲まれ3次元方向へ広がる周辺地理の影響で、2階建てのような構造となっているこの乃木公園。
中心には見事な桜の大木が植わっていて、蓋の役割を果たすことで、特に下層側の広場は全方向から包まれた印象を受ける。
夜にもなれば、ここが外苑東通り沿いだとは思えない静かさ。天然のゆりかごと形容するに不足ないこの場所を、凛は気に入っていた。
215 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:40:57.27 ID:4h7q9LhCo
ツクヨミのメインレッスン場が乃木坂へと移されたのはあれからすぐのことだ。
直行直帰もCGプロへのアクセスも楽になったし、ビル地下にあるツニーミュージックスタジオと連携がとりやすくなると云う副効果もあった。
日付を越えてもなお人でごった返す渋谷と違って、陽が沈めばここ一帯は落ち着くので、遅くまで乃木坂スタジオに用事がある日など、凛はよく乃木公園で息抜きをするようになった。
気温はまだまだ高止まりなものの、秋の陽はつるべ落としとよく云う通りに、7時前には没する。
「今度、散歩に連れてきたいな」
実家の愛犬に思い馳せ、ベンチから薄暮の空を見上げて呟いた。
216 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:41:38.23 ID:4h7q9LhCo
ここしばらく多忙を極め、休日はおろか正月さえもなく、生花店を営む実家へは顔を出せていない。
人間の年齢に換算すればそろそろ還暦の頃合だから、アイドル稼業の慌ただしさにかまけて後悔することのないようにしたいものだ。
目を瞑れば、この誰にも邪魔されないオアシスで戯れる様子がはっきりと浮かぶ。
その辺の草花をくんくんと嗅いだり、上層側との連絡階段をぴょんぴょんと跳ねたり。
「あー……ハナコと遊びたい……」
ホームシックならぬドッグシックに陥り、長い嘆息の混じった願望を吐き出す。
217 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:43:22.21 ID:4h7q9LhCo
「――誰それ?」
つと、自らの独言へ反応する言葉が投げ掛けられた。
凛は不意のことに無防備で、驚きのあまり瞠目し木製の椅子の上で身体が跳ねた。
挙動不審者よろしく辺りを見渡すと、公園入口から3メートルほどのところに栗栖がいて、驚かせちゃったみたいで御免、と右手を軽く挙げている。
218 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:44:06.08 ID:4h7q9LhCo
「……はしたないところを見せちゃった」
凛は俯いて、いそいそと居住まいを正す。
顔の内側から湧き出る熱がはっきりと実感でき、自ら火傷をしてしまいそうな錯覚を持った。
「よく私がここにいるって判ったね」
「や、実は渋谷さんを追ってきたって云う訳ではなくてね。ここは俺のお気に入りなんだ。居心地がいいからたまに来る」
栗栖は音もなく寄り、「隣、いいかい?」と訊く。
凛の首肯を得てから、羽根が舞い落ちるかのようにふわりと腰掛けた。洗練された所作だった。
219 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:45:29.97 ID:4h7q9LhCo
「まるで忍者みたい」
意地の悪い登場をしたことへの当て付けに、凛は自らの隙を棚に上げてツンと顔を背けた。
「剣道やってたからね、ドタバタ歩かないのさ」
栗栖がくつくつ肩を揺らすので、「初耳だね」と云いながら肘で小突く。
「だからって、びっくりさせてくれなくてもいいのに」
「ごめんごめん。ガキの頃から音を出さないのが身に染み付いているんだよ。親父は弓道でお袋は茶道だし、静かに動くのが普通だった」
220 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:46:43.49 ID:4h7q9LhCo
アイドルをやっている割に――と云うと明らかな偏見になるが、意外と栗栖はいいとこの出らしい。
凛は、彼に抱いていた微かな違和感の出処が判った気がした。同年代なのに、妙に落ち着いた物腰だと感じていたのだ。
それこそ、昨年「三十路に突入してしまった」と鬱になっていたPと口調も雰囲気も似ていて、随分と話しやすい。その理由のひとつがこれなのだろう。
良くも悪くも放任な凛の両親と違って厳格そうな家なのに、よく芸能界なんて魔窟入りすることを赦してくれたものだと思う。
「――で、ハナコがどうしたって?」
栗栖の屈託なく笑う表情を見て牙を抜かれた凛はそれ以上抗議できず、口惜しさを紛らわすように話題を無理矢理戻して問うた。
221 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:47:22.07 ID:4h7q9LhCo
「あ、そうそう、それ。花子って誰? 妹さんとか?」
栗栖は気づいたように手を打って、やや見当違いな質問を寄越した。
しかし決して莫迦にした物云いではなく、クールなトップアイドルが「遊びたい」と洩らした相手のことが純粋に気になっている様子だ。
凛は、世間から――業界内でさえ――一種の孤高さを以て見られる傾向があったし、それを売りにするのも悪くはないと思っている。
なので、自らの人となりについて訊かれる機会はそう多くない。
栗栖のピュアな好奇心は、新鮮に感じられた。
222 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:49:02.78 ID:4h7q9LhCo
「ううん、妹じゃなくって、犬だよ。実家で飼ってるの」
さすがに花子は人名としては古風すぎるでしょ、と笑うと、栗栖も「違いない」と苦笑する。
「ミニチュアダックスフントとヨークシャーテリアのミックスでさ、花屋だからハナコってね」
「……え、マジで。その組み合わせもう絶対可愛いのが決まりきってるじゃないか」
「うん、世界で一番可愛いよ。お利口さんだしね」
栗栖が目を輝かせて食いついたので凛はやや意外に思った。どちらかと云えばレトリバーなどの大型犬の方が好きそうな印象があったからだ。
自らの腕の中で尻尾を振るさまを思い出し、目を軽く閉じて微笑む。
223 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:49:59.55 ID:4h7q9LhCo
それにしても――と一息置いて、
「そんなにアグレッシブな反応があるとは思わなかった。犬、好きなの?」
「そうだなあ。小さいころから飼いたかったんだけど許可が出なくてね。犬のいる生活にだいぶ憧れがある」
肩を竦めて、今は多忙で命を預かれる状態ではないし、と短い息を吐く。
ちらりと、家の事情が垣間見えた。猶のことアイドルになった経緯が気に掛かるが、無論センシティブな詮索は憚られるのでやめた。
224 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:51:35.30 ID:4h7q9LhCo
いづれにせよ、犬好きに悪い人間はいない。
「今度機会があれば散歩連れてってみる? ハナコ、誰にでもすぐ懐くからさ」
「うわー最高。マジでいいの? 田嶋さんに頼んでスケ絶対調整するわ」
場所柄あまり大きな声は出せない代わり、喜びの大きさを表わすように、胸の前で両腕に力を入れて、すっくと立ち上がる。
「こりゃ俺も何か気合入れたお礼しないと釣り合わないな……」
栗栖がこめかみを掻きながら真剣な思案顔をするので、凛は「別にそんなのいいよ」と笑った。
「もし気が済まないんだったら、お母さんに色紙の1枚くらい書いてくれれば嬉しいかな。
昔からジョニーズ好きだし、ここ最近はSATURNにお熱だからさ」
年甲斐もなく――と形容するのは不適切だ。今やジョニーズのメイン購買層はマダム世代が担っている。
225 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:53:01.50 ID:4h7q9LhCo
「お廉―やす―い御用だ、何だったら色々なパターンで書くよ。チェキも撮ろうか?」
「いや……流石にそこまではしなくてもいいかな……」
栗栖の豪勢な提案には凛も苦笑を禁じ得ない。
腕時計を一瞥すると、束の間の息抜きもそろそろ魔法の切れる時間だった。
荷物を持って、栗栖の所作に引けを取らぬよう品良く立ち上がる。
「そろそろ行かなきゃ。私も最近実家に帰れてなかったし、この機会にちょっと時間作るよ」
淡青の伊達眼鏡と白いキャスケット帽を深く被り直してから、また連絡すると云って公園を後にした。
226 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/28(火) 23:53:47.15 ID:4h7q9LhCo
頭の中に入っているカレンダーをめくりつつPとも連絡を取り合って、半休の算段を練る。
ハナコに会いたい旨を伝えた瞬間に「よっしゃ任せとけ!」と勢いよく電話が切れた。
結局ちひろの助力もあって、調整が終わるまでに四半刻も要さなかった。
これで久しぶりにハナコの散歩へ行ける、そう思うと顔が綻ぶのを抑えられない。
「ふふっ、楽しみだな」
その夜、母親にチェキの件をインスタントメッセンジャーで訊いてみたところ、「撮りたい!」と怒濤の返信がきた。
227 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/07/28(火) 23:54:25.88 ID:4h7q9LhCo
今日はここまで
228 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:45:23.94 ID:ZxKlcvjDo
・・・・・・
視界の端で、青みがかった灰色のC-130J―スーパーハーキュリーズ―が腹に響くプロペラの音を四方へ撒きつつ上昇してゆく。
さながら荷物を背負った行商人みたく、ゆっくりとした足取りでやがて空へ溶け込んだ。
鈍重な輸送機とは対照的に、目の前ではハナコが歩道をちょこちょこと軽快な歩きで動き回るのだが、その国道沿いに並んでいるのは、異色の雰囲気を醸し出す商店ばかりだった。
色使いも建築様式も、果ては書かれている文字まで日本のものではない。
迷彩服やバックパックのほか大きな極彩色カトラリーが売られている横には星条旗がはためく。
229 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:47:09.22 ID:ZxKlcvjDo
他方では古いハリウッド映画を思い起こさせるネオン燈が存在感を主張したアイスクリームショップ、終戦後の息遣いを今に伝える日本初のアメリカンピザハウス。
そのどれもがドルでの支払いに対応し、道端には『REDUCE SPEED AHEAD―減速せよ―』と英語だけの標識が多数見える。
――極東指折りの米軍基地が置かれているこの街は、日本にいながらにして国外の空気を味わえる不思議なエリアである。
「ハナコ、そっちじゃないよ、こっち」
散歩に夢中でも決してはしゃぎ過ぎることはなく、凛が行き先を指し示すとしっかりその方向へ復帰できるほどハナコにとっては慣れた道だ。
でも、いつもと明確に違う点がひとつ。リードを持っているのが凛ではなかった。
「うお……ちっこい割に意外とパワフルだな」
しっかり保持してないと持ってかれる、と笑いながら翻弄されるのは誰あろう栗栖だ。
230 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:47:55.10 ID:ZxKlcvjDo
乃木公園でハナコが話題に上ってから10日ほど経った。
この日の昼前から夕方までが凛の予定をやりくりして空けられるタイミングで、栗栖も無理矢理半休をねじ込んだそうだ。
凛は栗栖のスケジュールに混乱を生じさせてはいないかと心配したが、曰く、レッスンの日取りを変えるだけで済んだから仕事に影響はないとのことで胸を撫で下ろした。
「お母さんのはしゃぎっぷりったらなかったね」
ハナコを目で追いながら、凛は小一時間ほど前の母親の様子を思い出して息を吐いた。
231 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:48:44.71 ID:ZxKlcvjDo
普段、娘のアイドル活動に対しては特段の反応を寄越さないのに、栗栖が顔を出すや否や、店を臨時休業にする勢いで舞い上がっていたのだ。
女としては気持ちが判らなくもないものの、同じアイドルとしては悔しさがある。
「一応こっちだってトップアイドルで、久しぶりの帰省なんだけどな」と云う小さな抗議にも「はいはいそうね、流石私の娘よね〜〜」とほぼ耳を貸さない。
これには狂喜乱舞の対象たる栗栖自身も苦笑いを禁じ得なかった。
「まあ、あれだけ喜んでくれたなら冥利に尽きるってもんさ」
ハナコに並び歩きつつ、先刻と同じ苦笑を伴って栗栖は云った。
「自分の母親ながら参ったよ」
頭を軽く押さえて呻く。
232 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:49:20.05 ID:ZxKlcvjDo
あろうことかチェキを額へ入れ家宝にすると云うので、飾るなら誰の目にも触れない場所へ、と釘を刺しておいた。
だが、それはきっと杞憂だろう。
凛は、大切なものは箪笥の奥へしっかり仕舞っておく性質だ。
4年前、アイドルの頂上―シンデレラガール―を掴み取った際にPから貰ったガラスの靴は、厳重に保管してある。
棚などに設えれば映えるのだろうが、「いいんだ」と静かに笑って首を横に振るのだ。
遺伝子の引継ぎ元である母親だってそのパターンで行動するに違いない。
233 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:50:12.69 ID:ZxKlcvjDo
「へえ。俺は何でも飾り立てちゃうから逆だな」
だから自室はモノが溢れ返ってるんだけど、と栗栖は肩を揺らした。
「私みたいに仕舞い込むんじゃなくて、大切なものが常に目に入るようにしとくのもいいとは思うよ。結構悩ましいんだよね」
「そうだなあ。ずっと飾ってたお気に入りのポスターが、飾っていたからこそ日に焼けちゃったりしてて。
曝さずに保管しておけばよかったと思うこともあるし、かといって箱から出さないと手に入れた意味がないし」
ギターならビンテージとか使い込むほどに熟成されていくんだけど――そう云って笑い、「ほら、あれみたいに」と路に面したガラスウィンドウを指差す。
そこは中古の楽器屋だった。
エレキギターの意匠に『ファイブシスターズ』と書かれた看板が掛かっていて、その隣の窓からはたくさんのギターやベースが所狭しと並んでいるのが見える。
そして、栗栖の視線が店から動かない。
234 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:50:48.57 ID:ZxKlcvjDo
「……気になる?」
しばらく様子を見ていた凛が笑いながら訊いた。
凝視は無意識だったのだろう、栗栖はハッと気付いて抜け出ていた魂を手繰り寄せた。
「正直、すんげぇ気になる」
「ふふっ、根っからのギタリストだね。いいよ、時間あるし寄っていこう」
そう云って凛はハナコを抱き上げ、ガラス戸を押して「おばちゃーん、こんにちは、お久しぶりです」と入ってゆく。
235 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:51:46.57 ID:ZxKlcvjDo
中ではやや老齢な女性の店主がゆったりと腰かけていた。
「あら凛ちゃん、ご無沙汰ね。元気してますか」
「お陰様で大分忙しく駆け回ってます。ちょっと今日は時間を作れたから知り合いを連れてきたんだ。ギタリストなの」
凛が後ろからついてきた人間を指で示すので、栗栖は「ど、どうも」と頭を下げた。
「――なに、顔馴染みなの?」
声のトーンを落として質問を寄越すので、凛は当然だと云うかのように頷いた。
「そりゃね、この辺は私の庭だし。ベースを弾くようになってからもう7年お世話になってるよ」
「なるほど、それもそうか」
腑に落ちたように手を叩いてから、雑多に陳列された一面のギターを見て「うわぁ……」と少年の顔をして息を吐く。
236 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:52:59.79 ID:ZxKlcvjDo
きょろきょろと見回すうちに、凛の肩越しに気になるものがあったようで「おっ」と独り言つ声が漏れる。
おばちゃんが聞き逃さなかった。
「あなた、これ気になりますか。よくわかりましたね、一本目にこれを見定めるなんて」
柔和に笑って、「どれでも好きに弾いていいですよ」と云うので、近くにいた凛が代わりに取った。
「あ、Eシリアルだこれ」
「マジかよ!?」
ネックの製造番号を見て呟くと、即座に栗栖が叫んだ。
237 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:54:02.80 ID:ZxKlcvjDo
「そう、フェンダージャパン、86年のフジゲン製です」
音の鳴りや本体の品質が高く、またコストパフォーマンスが優れていることから、中古市場で常に人気の高いシリーズだ。
試奏すると艶やかで伸びのある気持ちの良い音がした。それでいて破格に安い。
「あちらにはマツモクのもありますよ。そのEシリアルよりは少し高価ですけど、出音もいいです。
とはいえこの年代の日本製は本当によく出来ているので、どちらを選んでも幸せになれるわね」
フジゲンもマツモクも共に松本近郊のギター製造メーカーだ。正確に云えば、マツモクは今はもうない。
238 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:55:10.82 ID:ZxKlcvjDo
栗栖が2本目にマツモク製を試し弾きしながら頷く。「やべえわ、イイ音鳴るし何より弾きやすい」と感嘆の息を吐く。
「そうでしょう。その時代のものはネックが特に素晴らしくて。中でもマツモクのは最高級と云われていたものよ。いい木が使われています」
栗栖から「鳴らしてみる?」と渡されたので、凛は専門外ながらも絃を弾いてみた。
調律方法はギターもベースも同じだから、全く音を出せないわけではない。
「うわ。なんかすごく馴染む気がする。新しい楽器を持った時の違和感が全然ない」
凛は驚いた。自らのコンコードを演奏した時とほぼ変わらないフィーリングで指を運ぶことが可能だったのだ。
239 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:55:49.94 ID:ZxKlcvjDo
「それはきっと凛ちゃんの使っているアトランシアと源流が同じだからでしょうね。
あそこはマツモクの職人が独立して作った工房ですから。あのベースは本当にいいものですよ」
歴戦の猛者でさえも絶賛する楽器を、当時の何もわからない小娘だった自分に譲ったPの行動が、改めて型破りであることを凛は感じた。
これで凛がコンコードを活用する生活になっていなかったらどうしたのだろうか。
それともそんな可能性を微塵も考えず、ベーシストとして大成すると確信していたのだろうか。
「あなたは幸せ者ね、限界まで末永く使い倒しなさいな」とおばちゃんが優しい目をして商売っ気なく笑った。
240 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:56:49.53 ID:ZxKlcvjDo
「――勢いって怖いなぁ」
30分ほどのち、凛と栗栖は近くの公園のブランコにそれぞれ座っていた。
住宅街の裏道にひっそり佇む、典型的な地元の遊び場。
すぐ隣には線路が走っているが、間に木々が茂っているので列車の通過はあまり気にならない。
栗栖の右肩には、例のマツモクのギターが背負われ、「やあ」と語り掛けてくるかのようだった。
結局、試奏結果に惚れ込んだ栗栖が、その場で購入を決断し現金一括で自らのものとしたのだ。
241 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:57:44.68 ID:ZxKlcvjDo
「いいんじゃない? 清水の舞台から飛び降りるのって大事だと思うよ」
「だよな。これ、次のレコーディングから早速使おう」
とんでもない掘り出し物をゲットできた、と栗栖は顔を綻ばせた。まるで少年のようだった。
「ギターってさ、演奏家にとっての相棒じゃん? 共に歩む存在と云うかさ。
奏者である俺が上手く弾けなければいい音は出ないし、ギター自身の調子が悪くてもそう。
人馬一体にならなければ最高の結果をファンに届けられない」
値段の多寡ではなく、造りの真贋とそれによる相性の最大化こそが、特に動き回りながら演奏するアイドルバンドには欠かせないと云う。
「コイツをさっき弾いた刻、電気が走った。ギターを始めてから初めての感覚だったよ」
俺もまだまだだな、と栗栖は天を仰いだ。
242 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:58:26.53 ID:ZxKlcvjDo
凛には理解がやや難しかった。既に現在のコンコードが身体の一部みたいになっており、そう云う経験がないからだ。
返す返すも恵まれていたと凛は思った。
デビューシングルのジャケットデザインが楽器をフィーチャーするものでなかったなら、Pからベースを貰わなかったなら、そのベースが身体に合わなかったなら、今の自分はここにいない。
「ギターを始めたきっかけって何かあるの? こないだ、剣道をやってた、って云ってたでしょ。運動部の人ってあまりバンド活動する時間がなさそうなイメージがあるけど」
凛が問うと、栗栖はしばらく何も答えず、足のつま先だけでブランコを前後させた。錆びた鉄鎖が、動き始めに毎度キィキィと鳴る。
243 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/30(木) 23:59:35.98 ID:ZxKlcvjDo
凛は先日の犬の話題の時のやり取りを思い出して、訊き方をしくじったと思った。
「御免、云いにくいならいいんだ」
「いや、どう説明したもんかと考えてただけさ」
謝罪の言葉に栗栖はすぐ反応して、フォローの言葉を入れる。
もうしばらくその状態が続いて、やおら大きく漕ぎ始めた。ブランコ全体が軋んだ。
「きっかけだけで云えば、最初は単なる反抗に過ぎなかったんだと思う。稽古サボってね」
244 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:01:20.88 ID:/6nApN/no
何でもかんでも反権力が格好良いと錯覚する餓鬼な年頃さ――天を仰ぎながら、重力に任せ揺られ続けて云った。
「でも、いざ触ってみるとこれが面白いんだよな。それまで見てきた世界とは何もかもが違ったんだ」
和武道、和芸道が身近だったからこそ、西洋楽器のもたらす衝撃が大きかった。
「親父やお袋から口煩く云われていたのが厭になって、閉塞的な将来像しか描けない武道芸道じゃなくて、ギターに未来を視たわけだ。
ギターに出会うまでは、俺はただの空っぽの人形だったのさ」
「空っぽの人形……」
凛は、まるで自分のことのようだと思った。
245 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:02:57.49 ID:/6nApN/no
好きなこともやりたいこともない、空虚だった中学時代。
高校に入って何かが変わるかと期待したのに、結局いつまでも似たような延長線上に時間が流れ続ける人生。
粋がってピアスを空けたところで、圧倒的なパワーで時間は何事もなく押し流してゆく。凛はあまりにも無力だった。
栗栖が言いなりの人形、凛が無味乾燥な人形と云う僅かな差異があるにせよ、どちらも心が空っぽなのは同じだ。
そんな諦めを抱いていた折、凛はスカウトされて、アイドルと云う熱い世界を知ってしまった。
栗栖はギターのおかげで仲間ができ、アイドルバンドとして民衆に夢を与える存在になれた。
246 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:03:40.22 ID:/6nApN/no
漕いでいたブランコを足でザッと止めて、栗栖が凛へ顔を向ける。その双眸は輝いていた。
「ギターが、俺に新しいフロンティアを見せてくれたんだ」
トップアイドルと云う頂点で邂逅した二人は、ともにシンデレラだった。
「……私たち、境遇は違っても、根っこは同じだね」
凛は、膝の上に座るハナコを撫でながら、自らのスカウトの経緯を掻い摘んだ。
世の中を諦め、空っぽの人形だった15歳の凛が、アイドルの世界を知って、駆け上がってここにいることを。
247 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:04:42.46 ID:/6nApN/no
栗栖は、凛は選ばれしアイドルだと思っていたらしく驚きを以て迎えた。
「そんなに苦労人だったのか……てっきりトップアイドルになるべくしてなったんだとばかり」
「とんでもない。そう云うのは蘭子とかのことを指すんだよ。私は、ただの灰被りが魔法使いに助けてもらってきただけ」
凛は妙に可笑しくなって、肩を揺らした。
凛の微かな笑い声に混じって、傍の生活道路から、下校途中であろう小学校低学年のはしゃぎ声が流れてきた。
間もなく時間切れ、公園を本来の主の手に戻す時が来たようだ。
栗栖が一息吐いてから、すっと腰を上げた。
ブランコから発せられた金属の擦れる音が、このジプシーとの別れを寂しがっているように聞こえた。
「名残惜しいけど、そろそろ行こうか。また渋谷さんの苦労話を聞かせて欲しいな」
248 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:05:14.99 ID:/6nApN/no
「――凛」
「え?」
「周りの目を考えなくていい刻は、凛って呼んで。苗字にさん付けで呼ばれるの、落ち着かないから」
ハナコを膝から地面に降ろして、リードを手に立ち上がり、澄ました笑みで云った。
栗栖が2度頷くのを見てから、「さ、ハナコ、行こう」と促して帰路に就く。
あと1時間もすれば、元の慌ただしいスケジュールに戻る。
この魔法が解けなければいいのに、と凛は郷愁を覚えた。
249 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:06:41.98 ID:/6nApN/no
・・・・・・
夜の乃木公園でのおしゃべりは、乃木坂スタジオでの合同レッスンの開催有無に関わらずされるようになった。
CGプロから2キロ弱、テレビ旭やブーブーエスからなら1キロほどしか距離がなく、収録後など何かの用事のついでにすぐ立ち寄れるのだ。
無論、栗栖もトップアイドルとして多忙だから、双方のタイミングが合うことは中々ないのだが、だからこそ逆に、タイミングが合えば積極的に集い合った。
とは云え長居もおいそれとできないし、話すことと云ったら世間話くらいなもので、やれギターが早速馴染んできただの、美味しいお店を発掘しただの、それこそ高校生の下校時の語らいのような内容だった。
250 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:07:42.09 ID:/6nApN/no
それでも凛にとってはとても新鮮な感覚だった。
思春期に差し掛かって以降、お喋りの相手は事務所の同性ばかり。
このように歳の近い異性との談笑は、夜でありながらカシオペアの『ASAYAKE』がBGMに合致するような初めての経験だった。
強いて挙げればPは比較的歳の近い異性でこそあれ、感覚的には戦友だから甘酸っぱくはない。
凛は、アイドルの渋谷凛としてではなく、初めて、ただの女として異性に接したと云えよう。
凛には、一般的な青春の記憶が存在しない。
彼女自身、アイドルをしてきたことに誇りを持っているし、一般人を羨むと云うわけではないが、喪われた青春を追体験しているのだと思った。
251 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:08:54.76 ID:/6nApN/no
「そうだ、これ、凛に」
ハナコとの散歩から2週間ほどが経った夜、栗栖がギターのソフトケースのポケットから小さな茶色の紙袋を寄越した。
「こないだハナコの散歩を体験させてくれたお礼」
「え、そんないいのに。お礼されるほどじゃないよ」
「いいから。それだけの経験をさせて貰ったんだ。受け取ってくれ。じゃないと俺の気が済まなくてさ」
家の環境から犬を飼うことへの憧れを叶えられなかった栗栖にとって、ハナコとのひと時は値千金だったのだと、恐縮する凛の手を取り袋を握らせた。
「……ありがと。開けても?」
「もちろん」と栗栖は両手で促す。
252 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:10:08.36 ID:/6nApN/no
乾いた紙の音を引き連れて、月長石―ムーンストーン―をあしらったアクセサリが掌へ姿を現した。
ゴールドの細いチェーンが巻かれていて、長さ的にブレスレットのようだった。
人差し指にぶら下げると、石の内部から青白色の仄かな光沢が放出されているような印象を受けた。
「うわ、綺麗。これは……ムーンストーンかな」
凛は左手首に早速据えて掲げる。大きさはぴったりだった。
「ご名答。ツクヨミと掛けてみたんだ」
「ふふっ、洒落っ気あるね、栗栖は」
表や裏からぐるりと360度眺めて、美しさに嘆息する。
普段自分では買わないようなデザインのアクセサリだったので、表現の幅が拡がったのも嬉しい効果だった。
凛はそのまま、しばらくじっと石の柔らかな光を眺め続ける。
253 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:11:22.73 ID:/6nApN/no
会話なく、どれほどの時間が経っただろうか。「ねえ」と石から目を離さずに栗栖へ問い掛ける。
そしてゆっくり振り向いて、静かに息を吸った。
「――これを選んだの、ツクヨミと掛けたことだけが理由なの?」
「……それを面と向かって訊くかなあ」
栗栖の、頬を掻きながらの返答は、凛の持つ思考が肯定されたことを意味していた。
254 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:12:14.72 ID:/6nApN/no
月長石の石言葉、その代弁内容は『恋の予感』或いは『純粋な恋』。
別名を恋の石と呼称されるこの宝石を贈ると云う行為の真意はそこに在る。
凛は、胸の奥が暖かいような擽―くすぐ―ったいような甘さを覚えた。
ああ、たった一人に求めて貰うことってこんなに気持ちいいんだ。
この快美な感覚は、生まれて初めて知る味だった。
255 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:13:00.60 ID:/6nApN/no
いっそ誘―いざな―いに身を任せて揺蕩―たゆた―いたい衝動に駆られたが、すんでの所で押し止め、安堵の一息を吐いた。
「……だけど、栗栖も私もアイドルだからね、どうしようか」
恋愛など御法度である。云うまでもない。
それでも、この胸の高鳴りは無理矢理圧し潰して閉じ込めておくのは到底難しいのも事実だった。
「もちろん、答えは今すぐ出す必要はないと思う。俺は、今夜のところはこの意思表示ができただけで充分さ」
晴れ晴れとした栗栖の言葉に、凛は何も云わずに微笑んで、ゆっくりと頷いた。
===
256 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:13:31.08 ID:/6nApN/no
Hey You
https://www.youtube.com/watch?v=2MOvuBFF4_Q
257 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:14:00.81 ID:/6nApN/no
――懐かしのスキャットマン特集、続いては95年12月リリースのナンバー、『Hey You』これは特に国外に於いて人気の高い曲で、スキャットマン・ジョンが過去の彼自身に向けて歌ったものとされ……
珍しく第一課の執務フロアにFMラジオが流れている。
パソコン内ジュークボックスに気分と合うアルバムが見当たらない時の、Pの代替手段だった。
凛はスピーカーが歌う楽曲に合わせて即興でベースを沿わせた。
楽譜を見るだけでは血肉にできないアドリブ力を鍛えるのに効果的なトレーニング法だ。
自らの音楽プレーヤーに入っている曲では、脳味噌が憶えてしまっているので効果がさほど期待できない。
どんなトラックがオンエアされるかわからないFM番組は、この練習手法にうってつけだった。
258 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:15:37.84 ID:/6nApN/no
「やるじゃん。巧いもんだね」
つかさがニヤリと口角を上げて凛の演奏を見つめた。隣ではジュニがダンサブルなビートに合わせて身体が小さく揺れている。
Pチームのアイドルが第一課スペースに寄り集まっていた。
とは云え全員に招集が掛けられたわけではなく、たまたまレッスン前の谷間の時間が重なったのである。
意外にもテクノやダンスミュージックはスラップベースと相性が良い。
左手と右手が各々有機的に舞い、その複合が紡ぎ出す太い音のリズムが、つかさとジュニの――そして何より凛自身の聴覚神経を興奮させていた。
259 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:17:17.07 ID:/6nApN/no
――メイク・アバウト・フェイス メイク・ア・ターナラウンド メイク・ア・ユータンナウ
――パララ ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……
サビを越えて、特徴的なスキャットがオーバーラップする。意味のない言葉の羅列なのに、すっと耳に入ってくるのはまるで魔法のようだった。
「つかさの云う通りだな、凛は随分と上達したもんだ――」
曲の前半が一段落したタイミングで、Pが自らの机から移動して、よっこいせと凛の向かいに腰を下ろす。
「プロのベーシストからも一目置かれる存在にまでなったもんな、そのコンコードも喜んでるよ」
凛は手許の指板を見ながら弾いていた視線をPに向けて、「プロデューサー、作業に詰まってサボり?」と笑った。
「小休憩だよ小休憩。稟議書地獄は精神が疲れて仕方ない」
凛の即興リサイタルで回復をするのだとPはソファに手足を放り投げた。
260 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:22:06.13 ID:/6nApN/no
今『Hey You』は最も盛り上がる長い間奏の特別スキャットシーンに差し掛かっている。
凛はノリを上げて、ハイポジションで速弾きを繰り出した。
わざとキメ顔もするものだから、つかさが手を叩いて笑う。
「おーおーこりゃブラーバっしょ」
イタリア語の発音で称賛を投げ掛けると、ふと高速で左へ右へと反復する左手首に、青白色の石をあしらった見慣れないブレスレットが巻かれていることに気付いた。
「お、いいね。それ、ムーンストーンか」
261 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/07/31(金) 00:22:46.75 ID:/6nApN/no
「うん、綺麗で可愛いでしょ? お守りを兼ねてね」
「普段の凛からはちょっと違ったイメージの意匠だな。新開拓、グッドだね。一流は常にフロンティアスピリッツを持たねーとな」
つかさが腕を組んで「うんうん」と頷く。そのまま腕時計を見て、ゆっくり席を立った。
「よし、そろそろアタシらは行くわ。ダンスレッスンだし、早めに準備しとかないとな。行こう、ジュニ」
「わかった。凛、またね」
今日の課題は何だったっけ? ジャイブだよ、足技多いから楽しみ。うわーマジか、あれ絶対ヒールで靴擦れ起こすんだよな……。
ドアの向こうへ二人の会話が消えてゆく。
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