Helleborus Observation Diary 

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202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:47:17.46 ID:282sBTyh0

 通学鞄を下ろして、隣の席に目を向ける。すぐに気付いてくれたみたいで、

「おはよ」

 と右手を軽く胸の前に出して、ふゆがいつものように頬をわずかにあげて挨拶をしてくる。
 少し高めの、きれいで透きとおっているような声だ。

 ただ挨拶されただけなのに、言葉ではうまく言い表せないなにかが、胸の内に広がったように思える。
 こういうことが、よくある。ていうかほぼ毎回こう思う。じわぁーっとなる。なにかが。

 声がいいからかな。がやがやと耳に届くいくつもの他の人の話し声を聴いても、こうはなりそうにない。

 ふゆの机の上には参考書と本が出されていた。参考書には見覚えがあって、一緒にモールに行ったとき買ったものだ。
 同じものを買ったのに、わたしはまだ一度も開いていない。本屋の袋に入ったまま机に平積みされている。

 ふゆはわたしのことをまじめと評するけど、わたしからしたらふゆの方が全然まじめだと思う。

 もう一冊は、『完全版 星空の辞典』というタイトルの本だった。

203 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:48:11.47 ID:282sBTyh0

 間が空いたかなと思って、ちょっと咳払いをしてから挨拶を返そうとすると、声が後ろにぐっと伸びてしまった。
 きっと、自分以外には気付かれないくらいの違い。気になるけど、気にしてもいられない。

「桃、外寒くなかった?」

「うん寒かった。息が……あ、ここでも出る」

 はぁーと息を吐くと、白い息が上にのぼっていく。

「まだ先生来てないから、ストーブついてないんだよね。勝手につけたら怒られるかな?」

「んー……ダメだとは思うけど、つけても藤花先生は怒らなそう」

「まぁそうだね、待っていようか」

 ふゆがそう言うとすぐに、担任の先生がやってきた。ストーブがつくと、待ってましたという感じに教室の前に人が集まって、わたしたちの周りは依然として寒いままだった。

「そこのお二人は寒くないの?」とふゆが後ろを向く。

 わたしもつられて振り向くと、オセロ盤は既に片付けられていてた。結局どっちが勝ったんだろう。

「体育館の方が寒いから慣れた」と栞奈ちゃんが言って、
「わたしは贅肉あるから無敵」とつーちゃんが言う。

204 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:49:56.74 ID:282sBTyh0

「栞奈はさすがだとして、つかさは痩せてるでしょ」

「おお。えへへ、お褒めいただき光栄です」

 両手を前に出して歯を見せて笑うつーちゃんに、ふゆは少し考えるような様子になったあと、困った顔をする。

「え、もしかして言わされた?」

「痩せてるなんて言われたことないし、うれしーなー」

 つーちゃんのポニーテールが左右にぴょこぴょこと揺れる。見ていると、なんだか和んだ。

「ふゆゆも痩せてるよー、むしろ痩せすぎだよー」

「それ、褒めてるようでディスってきてない?」

「ディスってはないけどー。てか、なんかこういう女子っぽいやりとり、めっちゃむずるな」

「むずる。……むずむずする?」

「そう。しない?」

「まあ、うん。ちょっとわかる」

 そこでなぜか、つーちゃんの目がわたしの方を向いた。
 同意を求められた気がして、首を縦に振る。むずむずするかは、言われる人によると思うけど。

205 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:50:33.38 ID:282sBTyh0

 つーちゃんでも、栞奈ちゃんでも、しないと思う。

 ふゆとするのは……どうかな。審議が必要。

「栞奈はむずらないでしょ?」

「まあね。部活とか、そんなのばっかりだし」

「ならちょっとやってみてよ」

 そう言われた栞奈ちゃんは、半ば面倒そうに一呼吸して、満面の笑みでふゆとわたしを目で捉える。

「桃ちゃんと霞ちゃん、ふたりともすっごくかわいーよ! スタイル良くてー、制服もかわいく着こなせてー、私なんかー、近くにいることも申し訳ないくらい比べものにならなくてー、とにかくすっごく憧れる!」

 言い終わった後すぐに、つーちゃんが机をバンバン叩きながら吹き出すみたいに笑い始める。
 ふゆとわたしは、そっくりそのまま同じような苦笑混じりの表情をして、「笑うところだよ?」と栞奈ちゃんに指摘される。

206 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:51:54.92 ID:282sBTyh0

 そう言われては笑うしかないと「あは、は」と笑う。その様子を見てか見ずか、ふゆが口元を抑えて笑い始める。

「栞奈さっすがー。わたしにも言ってくれていいんだぞ」

「つーは褒めるところそんなにないでしょ」

「いや急にひどくない?」

「褒めてほしいところを言ったら褒めてあげてもいいよ」

「なにそれー、栞奈性格わるー」

「そういうの言えるところはいいんじゃない」

 一日に何回も見る、二人のじゃれあいが始まった。
 見てて飽きないけど、疲れないのかなと思う。お互い楽しんでやっているから、疲れないのだろうけど。

 なかなか着地しなさそうな会話の応酬を見ていたところで、そろそろ予鈴が鳴りそうな時間。

 ホームルームで、先生が「明日からのテスト期間には二者面談をするので……」と真面目なトーンで言っていて、はっとするような思いになる。
 そうだ、明日からテスト期間だった。完全に忘れていた。

207 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:52:30.11 ID:282sBTyh0




 とはいえ、わたしは帰宅部なのでテスト期間になっても普段と変化があるわけではない。

 うちの学校のテスト期間は、試験日の一週間前から部活などが制限されるもので、ごく一般的な感じだと思う。
 普段から放課後すぐに家に帰るわたしにとっては、せいぜい勉強時間が増えるだけで、嬉しさとは無縁だ。

 部活をしていた中学生のときは、この期間をとても楽しみにしていた覚えがある。
 学校が終わってすぐ家に帰られて、夕方から寝ることができて、夕食は家族全員で食べられて……テスト期間にしては、あまり勉強をしていたようなエピソードはなかった。

 栞奈ちゃんは土日は休みだけど、今週は部活があるらしい。テスト期間ってなんなんだろう? と言っていた。
 ふゆもつーちゃんもアルバイトをしていて、変わらずいつも通りの頻度で入るらしい。だからなにもないのはわたしだけ。ちょっと疎外感を覚える。

 高校入学時のわたしは、部活に入る気がなかった。

 慣れない環境に四苦八苦しているうちに、一年生の春はあっという間に過ぎていて、どこかに入部するタイミングはなくなってしまっていた。
 高校でできた友達からいろいろと誘われはしたし、先生からも入ったらどうかと言われることはあったけれど、どの部もあまり関心が持てなかった。

208 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:53:19.80 ID:282sBTyh0

 でも今となっては、その選択は正解だったのだろう。
 その種目や活動が本当に好きなら、学校の部活動以外でもできる。事実わたしは、中学のときの部活について思い出すことはほとんどなかった。
 たいして好きではなかったのだ。

 今日は半分自習みたいな授業ばかりで時間の流れがハイテンポに感じられ、一人でぼやぼやーと空想をしていると昼休み、放課後と時間が移り変わっていた。

「桃。今日バイト早いから、先帰るね」

 と掃除終わりに言われて、てっきり一緒に帰るものと思っていたから、面食らう。
 また明日と言う前に、ふゆは手を振って教室の外に行ってしまった。残念な気持ちが、後から押し寄せてくる。

 けど、こういう日もあるよね。毎日一緒に帰ろうと約束しているわけではないから。

 言ってくれただけ、嬉しい。
 そう自分を納得させていたときだった。

 ふゆが早足で教室に戻ってきて、わたしの前に右手を出してきた。

209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:54:09.85 ID:282sBTyh0

「マフラー、巻くの忘れてたから」

「え、マフラー? あ、うん」

 わずかな驚きを抑えて、鞄の中からマフラーを取り出す。渡すと、いつもみたいに手際良くてきぱきと巻いてくれた。

「ありがとう」

「どうも。じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日。……えと、自転車、気を付けてね」

 今度は言えた。でも、その嬉しさよりも驚きが勝る。

 たしかに毎回マフラーを巻いてもらってはいたけど。
 けど、一度は帰っていたし。あまり振り返るイメージのないふゆがわざわざ教室まで。

 まさか、それだけのために戻ってきてくれるなんて。
 姿が見えなくなるまで、ひらひらと振っていた手に熱が帯びる感覚を抱く。それに合わせて、勝手に口角があがる。

210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:55:13.57 ID:282sBTyh0

 いつのまにか隣に立っていたつーちゃんに声をかけられて、帰路につく。

 校舎を出てからちらりと自転車置き場の方を見たけど、当然ながらふゆの姿はなかった。

「なんだか、二人で帰るの久しぶりな気がしない?」

 つーちゃんに訊かれて、頷く。マフラーをしている首元がとても暖かい。

「いつぶりか、ももちゃん覚えてる?」

「夏休み前くらいじゃないかな?」

「あぁ、そうだったっけね?」

「忘れちゃった?」

「いんや、忘れてない忘れてない」

 首を横に振った数秒後、ほんとは全然覚えてない、とつーちゃんは笑う。
 わたしはあの暑い夏の日をしっかり覚えていたから、もしかしたらわたしは記憶がいいのかもしれない。

「今日はバイト休みなんだね」

「なんだよね」

211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:56:13.65 ID:282sBTyh0

 バイトが休みで落ち込むなんて、さすが勤労学生。

「明日からテスト勉強しないとだ」

「やだ。したくない。それに明日はバイト」

「わたしもしたくないなぁ。勉強したくない」

「二人で勉強したくない同盟つくろ。そんで栞奈とふゆゆに対抗しよう」

「対抗しても、あの二人は自分でちゃんと勉強するから、わたしたちが取り残されるだけだと思う」

「わたしゃ中学受験で燃え尽きたんだよう。勉強なんてなんにも意味ないんだよう」

 駄々をこねる園児のような言い方をして、つーちゃんは何度か溜め息を吐く。息はこの時間でも変わらず白い。

 わたしはそれを横目に、中学受験というワードにけっこうな懐かしさを抱いていた。もう五年前とかになるのかなとか、つーちゃんの方が楽に突破していたなとか。
 どうにも、そんなに経ったようには思えない。でもまた違う高校を受験して、つーちゃんとわたしはいまここにいる。思えば遠くへ、ってやつだろうか。

 今回まずいとさすがに危ないんじゃないかなという趣旨のあれそれは、迷ったけど言わなかった。
 そういうことは、先生がもう言っていそう。栞奈ちゃんにも言われていそう。食傷気味な人のところにすすんでパンを与える人がいたら、その人は極悪人だ。

212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:56:47.69 ID:282sBTyh0

「進路調査票も書けないし、出せないし」

 つーちゃんは気だるげに、地面の小石を蹴る。

「たしかつーちゃんは進学だったよね」

「そうそう、ふんわりと。東京いければなんでもいい」

「東京かぁ、遠いね」

「新幹線使えばすぐだけど、ほら遠距離ってイヤだから」

「あー、なるほどね」

「ももちゃんは?」

「わたしも進学。でも、こっちの大学だと思う」

「あぁ、やっぱりそうなんだ」

「そうなんですよ」

「そんで話変わるけどさ、これから暇だったらちょっと寄り道してかない?」

「うん、いいよ。どこ行く?」

「まー、いろいろと。明日から勉強せねばだし、今日くらい遊ばねばというね」

 空中にペンでなにかを書くような仕草をしながら、つーちゃんは歩調を早める。

213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:58:08.11 ID:282sBTyh0

 地下鉄に乗り、わたしたちの最寄り駅よりも前の駅で降りる。最初に足を止めた場所は市街地の外れの工事現場だった。
 そこには、休工中、と書かれた目立つ色の大きな看板が立っている。つーちゃんが言うには、ここは数年前からずっと休工中らしい。

「あ、いたいた。違法労働ウサギちゃん」

 これまたどでかい三角コーンの横に、なんとも言えないような表情をした黄色いウサギの……これはなんて言うんだろう、立ち入り禁止のバリケード? を見つけたつーちゃんが、声のトーンをひとつ上げる。

 二十匹以上は居そうなウサギの群れは、全員が鉄パイプで繋がっていて、頭とお腹にぽっかりと穴があいている。
 これは……と思う。ウサギの微妙な表情も納得だった。焼き鳥の串に繋がっている具みたいだ。そういう表現自体が、あれだけど。

 パシャリパシャリと、つーちゃんは制服のポケットから取り出したスマホを構えてシャッターを切る。
 一匹を撮ったり、並んでいるのを撮ったりと、楽しそうにしている姿をわたしも写真におさめる。撮られ慣れているのか、決め顔でピースをしてくれた。つーちゃんとウサギの親和性。

214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:58:49.19 ID:282sBTyh0

「工事現場によく居るのは、ピンクのウサギなんだけどね。けっこう珍しめの黄色がここにいるって情報をキャッチしたんだ。なんか、実際見るとミス・バニー感あっていいじゃん」

「えー、そうなんだ。今まで見たことはあったけど、気にしたことはなかったかも。つーちゃん、こういうの好きなんだ?」

「いや好きっていうか、コレクター的なね。ウサギだけじゃなくてさ、いろんなのが居るんだよ」

 肩をわたしに寄せて、スマホの写真フォルダを見せてくれる。カエル、イルカ、キリンなどの写真が並ぶフォルダには『労基違反あにまるず』と名前が付けられていた。

「んじゃ、ウサギは捕獲したし次行こうか」

 足取り軽く紫のリュックを揺らしてまた歩き始めるつーちゃんは、スマホを見ながらぐいーっと背中を後ろに逸らして空を見上げる。

「飛行機が飛んでるな」

「そうなの?」

「この前に入れたアプリでさ、いま飛行機がどこを飛んでるかーみたいなのがあるんだよ」

「飛行機、乗ったことある?」

215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 17:59:30.57 ID:282sBTyh0

「旅行で何回か。内臓がぐわんとなって嫌い」

「嫌いなのに見てるんだ」

「見るのは好きだからね」

 背の高い木々が並ぶ街道を抜けると、東西に長く伸びる飛行機雲が見えた。

 掴めないかなと思って空の白に向けて手を伸ばしたら、つーちゃんがわたしを見てにこっと笑った。そして、真似するみたいに「四人で乗ってどっか行こうよ」と細い腕を空にかかげた。

 アプリのモンスターをつかまえるために時々立ち止まるつーちゃんの様子を見たりしながら、しばらく歩く。信号待ちをしているときに外国っぽい人に道を聞かれる。
 ささっとつーちゃんが俯きがちにわたしの後ろに隠れたので、適当で下手な英語で駅までの道のりを教える。

 お礼がしたいと言われて、いやいやーはばないすとりっぷ、と断ると笑顔でサムズアップして外国っぽい人は駅の方向に歩いていった。

 信号を渡った先のコンビニに寄ると、つーちゃんはカップラーメンとホットスナックとその他もろもろを買っていた。曰く、おなかめちゃすいたらしい。
 わたしもせっかくだから飲み物とお菓子をかっておいた。ひなみにあげたら喜んでくれるはず。

 コンビニからちょうど三分くらいの、小学校の頃によく遊んだ公園のベンチに腰掛ける。
 麺をずるるると啜るのを見ていると、わたしも少しお腹が空いてくる。でも家に夕飯があるから、我慢する。

216 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:01:05.85 ID:282sBTyh0

「あのコンビニ、二日に一回くらい行ってたけど、さっき店員さんに『いつもありがとうございます』って言われたから、もう行きたくなくなっちゃった」

「あー、わかるかも。知り合いみたいになっちゃうと、身構えちゃうよね」

「そうそー。うちのバイト先だと、そういうの禁止なんだよね。リピーターが減る可能性があるって。いま身をもってわかった」

 つーちゃんは「さよなら」とコンビニに向けて呟く。
 薄い関係の切れ方は鋭くてあっけない、とかそういう言葉が頭に浮かんだ。

 空を見上げると月と星が見える。辺りの街灯が煌びやかすぎて、ここまで暗くなっていることに気付かなかった。

 座っているベンチはできたばかりのものみたいで、塗料がピカピカではがれていない。
 手を置く場所のような突起が三つ付いていて、わたしたちの間にも一つある。

 この公園ってこんな感じだったかな。もっと、みんなの憩いの場みたいなイメージだったけど。
 よく見てみたら、看板の注意書きが十五個もあって、ブランコとジャングルジムが使用禁止になっていた。

217 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:01:50.38 ID:282sBTyh0

 公園内に一人たりとも子どもがいないのは、寒さのせいじゃなかった。

「これ、なんたらアートって言うらしいよ。ちょっと趣味が悪い感じの、なんだったかな」

「つーちゃんって物知りだよね」

「ネットサーフィンの賜物よ。なお、学校の成績は……って自分で言ってて悲しくなるな」

 明日からテスト期間であると、また忘れていた。
 三次関数のグラフが頭を過ぎる。あの形みたいなベンチだった。

 なんたらアートのせいかはわからないけど、仕切り一つ分以上の距離を感じて、つーちゃんの方に体を寄せる。

 すると、つーちゃんは不思議そうに目をぱちぱち瞬かせ、それからなにかに気付いたように手をポンと打った。

「思ってたこと言っていい?」

「うん」

「ももちゃん、身長また伸びた?」

 と空いている手をわたしの頭の近くに持ってくる。
 立ってみて、と促されて立ち上がると、つーちゃんはわたしの周りをぐるぐるとまわる。

218 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:02:18.73 ID:282sBTyh0

「伸びてるかな」

「若干ね、伸びてる気がする」

「よく寝てるから、止まらないのかも」

 夜更かししがちだけど、その分、日中寝ている。

「小学校のときは同じくらいだったのにね。ももちゃんどんどんおっきくなってくから……」

 そこまで言って、つーちゃんは、「あ」と続きを止める。

「こういう話イヤだったらごめん。忘れてた。ももちゃんあんまり好きじゃないよね?」

 べつにそんなことないよ。とも言い切れないから、曖昧に首を動かす。
 いやほんとごめん、とつーちゃんは言葉を重ねる。なんだかわたしの方まで、ごめんという気持ちになる。

 つーちゃんがベンチに座り直す。ぐにぐにと頬を引っ張って伸ばしてを繰り返して、わたしに向き直った。

「で、ここからが本題なんだけどさ」

「あ、うん。なんでしょう」

219 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:03:06.92 ID:282sBTyh0

 つーちゃんはすぐには言ってこなかった。

 待っている間、脈がはやくなる。けっこう神妙そうな表情をしているものだから。
 二分くらい経って、つーちゃんはレジ袋のなかから、さっきコンビニで買っていたガトーショコラをわたしに向けてきた。

「ももちゃん、おめでとう。ふゆゆと付き合うことになったんでしょ」

「えっ」

 人が驚いたときの反応は、固まるか大きな声を出すかのどちらかだと思う。今のわたしは自分でもびっくりするくらい大きな声を出していた。

 ガトーショコラを受け取る。受け取ったら認めることになるけど、そこまで考えられなかった。

 隠すつもりはなかった。というかそもそもふゆと交際をオープンにするかそうでないか話してすらいなかった。
 デートの日から、ふゆとわたしの関係の名前は変わった。でも、そこから一週間以上が経っても、特にそれらしいことはしていなかった。

 次の日の朝にふゆに「よろしく」と言われたくらい。
 その言葉に喜んでいるまま、時間が経っていた。

220 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:03:38.98 ID:282sBTyh0

「……ふゆに聞いたの?」

「や、ふゆゆにきけるわけねーじゃん?」

 ならなぜ知っているんだろう。
 ふゆが言っていないとなると、わたしの口が勝手に動いたりしていた?

 無意識に唇をぱくぱくさせて困惑していると、

「まあ、見てればわかるよ。栞奈も気付いてるだろうな」

「今までと、そんなに変わってた?」

 自覚はない。まったくない。

「さっきの、ドラマのワンシーンかなんかだと思ったよ」

「さっきのって、ああ……見てたんだ」

 右手でマフラーを弄ると、つーちゃんは頷く。

「ももちゃんとふゆゆは目立つからね。ちなみにクラスの人たちめっちゃ見てたよ」

 ふゆが目立つのはわかるけど。わたしは、やっぱり身長だろうか。
 あのときは周りなんて見れていなかった。不意打ちのようなものだったから。本当に目立っていたのだとしたら、ちょっとじゃなく恥ずかしい。

221 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:04:04.96 ID:282sBTyh0

「まあ、よかったよかった。おめでとうおめでとう」

 ぱちぱちぱちと、つーちゃんは手を打ち鳴らす。

「ふゆゆめちゃかわいーしな。お似合いだよ」

 お似合い。……お似合い。
 ふゆに見合うような人に、わたしはなれるだろうか。

「でもあまりものどうし、とか言ってたときは、さすがのわたしでもどうなることかと思ったよ」

「それは、なんていうか、言葉の綾なの」

「だろうけど。ふゆゆに伝わってると思う?」

 伝わってると思う? なにが?
 と思いながら、曖昧に頷く。ふゆは察しがいいから、なにかしらは思ってくれているはずだろう。

「てかこのことは黙ってた方が、まあ、いいよね」

「そう、だね。誰かに訊かれたら、ちゃんと隠さずに言うべきなのかな?」

「うーん、どうかな。公言してる人もいるっちゃいるけど、やめといた方がいいと思うよ。そういうの、ふゆゆ困りそうだし」

222 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:04:37.11 ID:282sBTyh0

「困りそう……うん、たしかに」

「そこらへんは相談して決めた方がいいとは思うけどね。
 二人が楽しいのが一番。その他は二の次くらいの認識で、いいと思う」

「ねえ、つーちゃんのお相手さんは、どんな人なの?」

 不意に質問したからか、つーちゃんはぎょっとした顔になる。けれどすぐに気を取り直して、教えてくれる。

「体力がはんぱない。頭がめちゃいい。好きな食べ物は味噌ラーメンと天ぷらうどん。一人っ子。足が速い。ディズニーランドが好き。歌が上手い。スマブラ強い」

「へー……えっと、ほかには?」

「アコギで弾き語りできる。インスタに毎日空の写真をあげてる。野草に詳しくて、たまに食べてる。あとは、クレーンゲームがめっちゃ上手い……人?」

 なぜ人が疑問形なのだろう。という疑問は置いといて、つーちゃんの横顔がきらめいていた。

「すごく好きなんだね」

「そりゃあすごく好きじゃなきゃ付き合わないっしょ。……フツウそうでしょ?」

 首を傾げて、問われる。

 好きかどうか。付き合うか。

223 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:05:10.78 ID:282sBTyh0

「あ、今のナシナシ。これフツウハラスメントじゃん」

 わたしの頭がまわるよりはやく、つーちゃんが両手をぶんぶん振って訂正する。
 フツウについては、深く考えないことにした。不意に別のことが頭に浮かんだ。

「つーちゃんがそういうふうに楽しそうにしていると、わたしもうれしいよ」

「え、ありがとう。でもなに急に?」

「元気なのはいいことだよーって話」

 わたしたちの髪の長さが今とちょうど反対くらいだったときから比べると、つーちゃんは明るい方向に変わった。

「それは、ももちゃんだってそうだよ」

「……そうかな?」

224 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:05:46.96 ID:282sBTyh0

「高校入ってから、ずっと楽しそうだよ。自分ではあんま気付いてないかもしれないけど、わたしにはそう見える」

「それはきっと、まわりのみんながいい人たちばかりだからだよ」

 思ったことをそのまま言うと、つーちゃんはわたしの目をじっと見つめて、少し不思議そうに頬に手をやっていたが、やがてなにかに納得したように首を何度か縦に振った。

「ま、これからも仲良くしてね」

 と胸の前に拳が出てくる。意味がつかめずに首を傾げると、「グータッチ。ゴリとミッチーが二年かけたという、あの、伝説の」と大真面目な顔で言ってくる。
 拳を合わせる。つーちゃんの手は小さい。

 家に帰ると、制服姿のひなみがコタツに入って勉強していた。テスト勉強だという。わたしもそれに倣って勉強をしたけれど、襲ってくる眠気には勝てそうになかった。
 お風呂に入っているときに、朝にひなみが言っていたことを、ふゆに伝え忘れていたことに気付いた。

225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/11(土) 18:07:33.09 ID:282sBTyh0
本日の投下は以上です。
>>189 いくつか書いてましたけど、過去のを今載せるのもあれなので終わったら載せます。終わらなかったらごめんなさい。
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/13(月) 12:23:30.66 ID:x0MCeg910
おつです
227 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/13(月) 13:08:10.80 ID:HptRLMEo0
唐突のスラダンネタワロタ
228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/14(火) 03:17:28.23 ID:8dLsjxYW0
マルチアングルなんやね
229 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:34:34.53 ID:QkS64LeQ0




 翌日、六時二十五分に目を覚ますと、ベッドのすぐ近くに置かれている椅子にひなみが座っていた。

「今日はフルグラと飲むヨーグルトだよ」

「そうなんだ」

「そうなんです……って、このやり取り昨日もやったじゃん」

 ひなみは渋い顔で立ち上がり、部屋から出ていく。
 レースのカーテン越しに覗く外の天気は曇っていて、日が差し込んできてはいない。

 枕元に転がっているスマートフォンは、画面の明かりがついたままだった。
 どうやら昨日は見ながら寝てしまったらしい。寝ぼけ眼を擦りながら、機能停止まであとわずかのそれを充電ケーブルに繋ぐ。

 液晶が少し明るくなる。すると、暗がりでも画面がはっきりと見える。ふゆとわたしの、メッセージアプリのトーク画面。

 最新のものはこの間の日曜日のもので、

『今日は楽しかったよ。夜は寒いみたいだから、風邪ひかないようにね』

『うん、ありがとう。ふゆもあったかくして寝てね』

230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:35:27.26 ID:QkS64LeQ0

 わたしが最後に送った文には既読がついている。
 それから返信はなし。この文に対しては、あまり返信しようがないから、当然といえば当然なのだが。

 ふゆとわたしは、そんなに連絡を取ったりしない。
 というか、そもそもふゆが誰かとメッセージをしている様子をあまり見たことがない。

 いつもの四人のグループトークでもあまり発言していない。
 わたしも同じくしなくて、グループトークではつーちゃんが一人でひたすらスタンプを送ってきたりしている。

 そういえば、来週は四人で遊びに行くらしい。場所は滝で、温泉にも行くらしい。
 この前に栞奈ちゃんがそのことをグループで伝えてきていた。それに続いて三つのスタンプが並ぶ。

 アニメの女の子のキャラクタースタンプがつーちゃん。
 無料ダウンロードした猫のスタンプがわたし。
 最初から入っているウサギのスタンプがふゆだった。

 昨日ふゆに伝え忘れたことに気付いたわたしは、ひなみにそのことを言ってみると、
「姉さんはほんと忘れっぽいよね。また忘れないうちにメッセージでも送ったら?」と呆れ気味の溜め息が返ってきた。

231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:36:09.46 ID:QkS64LeQ0

 よく考えたらひなみの頼みだって会話の流れから出てきたなんでもないことな気がしたけど、反応を見るにわりと楽しみにしている感じだった。

 なので、その助言通りに送ってみることにした。

 でもトーク画面を開くと、そこで手が止まった。
 文を打つ前に画面をスワイプしてこれまでを確認してみると、ふゆとラインを交換してからの一年半でたったの十往復しかしていなかったのだ。

 しかも、

『今日は休み?』『起きたら熱っぽくて』『お大事に。あとでノート送る』『うん』『ていうか連絡してごめんね。寝てたほうがいいよ』『ありがとう。寝ます』

 という、一年生のときにわたしが風邪を引いたときのものが、そのうちの三往復だった。

 というわけで(というわけで?)、迷った。普通迷ったりしないんだろうけど、なぜか迷った。時刻が二十三時を過ぎていたことも影響して、画面を開いたまま時間が過ぎていた。

 そしてそのまま寝てしまって、今に至る。
 まあ、今日学校で言えればいいよね、とベッドを出る。
 慣れないうつ伏せで寝ていたからか、体の節々が痛かった。

232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:37:28.50 ID:QkS64LeQ0




 昨日と同じ時間に登校すると、教室ではクラスの子たちの多くが机に向かっていた。

 ふゆとつーちゃんは学校の問題集を解いていて、栞奈ちゃんは頬杖をついて、ぼうっと窓の外を眺めている。
 全員に挨拶をして、席に座る。教室にはもう暖房が入っていた。

「昨日家に帰ってからわたしはとてつもないことに気付いたんだ」とつーちゃんがわたしに向けて口を開く。

「英語と数学って赤点だったら冬休みに補習じゃんね」

「うん。補習あるね」

「サマスク皆勤のわたしは、ウィンスクには通いたくないんだよ」

 サマスクっていうのはサマースクールの略語で、この学校の先生と生徒が言っている補習の名前。ウィンスクについても同じく、ウインタースクール。

「しかも主の聖誕祭の日もあるらしいんよね」

「せいたん……あ、クリスマスのこと?」

「そうそー。ということで、頑張ることにした」

 決意の感じられるような表情で言って、つーちゃんが問題集に目を戻す。

233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:39:07.49 ID:QkS64LeQ0

「みんな暇なら集まって勉強会しない?」

 数秒後、次に口を開いたのは栞奈ちゃんだった。
 その提案を聞きながら、鞄から一時間目の教科書とペンケースを出す。不意に出かけたあくびを我慢する。

「おー、いいねー」

「つーは特に頑張らないとね」

「まーわたしが一度本気出したら余裕よ」

「それはどうだか。私が教えてあげてもいいよ?」

「いや、なに、わたし一人でできるよ」

「でもこの前の小テストの点数、にじゅ──」

「わー! わーやめろ! 言うな言うな!」

 つーちゃんが大声を出して、栞奈ちゃんの席に前のめりに体を寄せる。

 小テストが返ってきたときは、わたしたち三人にどや顔で見せつけてきていたのに。
 自虐はいいけど、友達にいじられるのは恥ずかしいということかな?

 栞奈ちゃんの配慮はしっかりしていて、声は点数を言いかけた部分だけとても小さく、クラスの他の人に聞かれるということはなかったと思う。

234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:40:19.02 ID:QkS64LeQ0

 しばらくなされる二人の言い合いが止むと、そのまま視線はこちらに向く。

「桃と霞は? 来るよね?」

 ふゆが視線でお先にどうぞと促してきたので、「うん。混ぜてもらえるなら」と答える。「私も」とふゆが続く。

「よし決まりだ。場所はどうする? 私の家はいろいろと無理」

「学校でいいんでねーの。ちなみにわたしの家も狭いので無理」

 もう一度ふゆと視線がぶつかる。言葉にしない譲り合いが起きて、「うちでいいなら」とわたしが先に言った。

「なんか悪いね。それで、いつにしようか? 休みの日はさすがに家の人に迷惑になるよね?」

「あんまり騒いだりしなければ、まぁ大丈夫だよ」

「だそうです。つー、お口チャックできる?」

「いや、わたしももちゃんち何度も行ったことあるし、もはや顔パスだかんな。なめんな」

235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:41:57.63 ID:QkS64LeQ0

「ていうことなので、平日にしよっか」

「ていうことってなんだよ!」

 吼えるつーちゃんをちらと見て「あのさ」とふゆが胸元に小さく手をあげる。

「もし平日なら、火曜日がお店の定休日だから、その日にしてくれると私としてはありがたいかなって」

「お、いいじゃん。火曜日ならわたしもバイトないしな」

「私もいいよ。桃は?」

「大丈夫だよ」

「じゃあ火曜日ね」

「そーいやわたしら仲良いのに、勉強会ってのはしたことなかったな」

 手元の問題集を閉じて、つーちゃんが首を傾げる。

「だって一人の方が集中できるし。勉強って本来一人でするものでしょう?」

「うげ、元も子もないこと言うなー。てかじゃあなんで今回はみんなで一緒にやろうなんて言ったんだ」

236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:42:55.30 ID:QkS64LeQ0

「そんなの決まってるでしょ。その方が楽しそうだから。
 ほら、三人寄れば文殊の知恵ってよく言うでしょ」

 そう言って栞奈ちゃんは、
 いち、でわたし、
 にー、でふゆ、
 さん、で自分自身を指差す。

 つーちゃんの顔がぷるぷる震えだすのを見て、栞奈ちゃんはくすくすと笑い始める。

「ナチュラルにわたしを外すな! ムカつく!」

「はいはい。勉強会楽しみだなー」

「勝手にまとめるな! くそー!」

「女の子が使う言葉ではないね。はしたないはしたない」

 二人は今日も通常営業です。

 そしてこれで、ふゆとひなみを引き合わせることになる。今日の目標を図らずも達成する。
 ひなみは学校が終わったらたいていまっすぐ家に帰ってくるから、おそらく会えると思う。五月にふゆが学校帰りに家に来たときは、なぜかいなかったけど。

 つーちゃんは昔からの知り合いだし、家に来る人数が多い方が、ひなみも喜んでくれるはずだ。
 みんなでの勉強会。わたしも楽しみだな。

237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:44:30.24 ID:QkS64LeQ0




 午前最後の授業は体育で、着替えは休み時間に教室で行う。
 この着替えっていうのが、わたしはどうにも苦手……得意じゃない。

 自分が下着姿である状態そのものが落ち着かない。
 中学校のときは、みんな肌を見せないように器用に着替えていたはずだったけど、
 いま視界に入る人たちはそのままの姿で廊下に出たり、友達同士でくっついたり触り合ったりしている。

 そういうものなのだと、一年生の初めに理解した。理解はしたけど、わたしはどうにも慣れない。見られていると思うと落ち着かない。

 これって、自意識過剰なのかな。
 きっとそうだ。
 でも一人だけわざわざ教室から遠い更衣室を使うわけにもいかないし、誰かからなにかを言われたとしても、それは社交辞令とかお世辞の類で、過剰に反応するのもおかしい。

 それに今の季節は、制服の下に何枚も着ているものがあるから、まだ大丈夫だ。
 脱いで、着る。それだけのこと。
 終わったと息を吐くと、後ろから視線のようなものを感じる。

 慌てて振り向く。けれど、誰もこちらを見てはいない。

 後ろに目が付いてるわけではないから、当然だ。
 換気のためと開けられている窓から、カーテン越しにお昼時にしては冷えた風が吹きつけてくる。そうだ、今日は曇りだった。

238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:45:28.03 ID:QkS64LeQ0

「どうかした?」

 着替え中のふゆが、向き直ったわたしに訊ねてくる。
 体育の時間の、ひとつ結びにしているふゆもかわいい。……じゃなくて、問いかけに反応する。

「わたしって、自意識過剰だよね?」

「なに、なにそれ」

「ふゆはそう思わない?」

「……いや、私は、そう思ったことはないけど」

 ふゆが怪訝そうに眉を寄せる。

 なんだか言わせてしまったみたいになる。実際言わせているようなものだけど。

「なら、いいの。ちょっと気になっただけ」

「そう? そっかー。まあ、そういうときもあるよね」

 ふゆはこういうとき、いつも踏み込んでこない。わたしだったら理由とか、どうしてそう思ったのかを聞いてしまいそうなのに、ふゆはそうしない。

 そういう距離感の取り方が、もどかしくもあって、嬉しくもある。

239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:47:13.99 ID:QkS64LeQ0

「ふゆはやさしいね」

「……やさしさ感じる要素あった?」

「うん。いつもやさしい」

 見つめると、居心地悪そうに目を伏せられる。
 そういう反応もまたかわいいと思う。だからなのか、ついつい困らせたくなってしまう。ふゆには悪いけど。

 近くの二人は机にもたれるようにして、話をしていた。

「今日も仲良しこよしね」と栞奈ちゃんがこくこく頷いて、駆けるように歩いていく。
 それに続いたつーちゃんは、わたしたちを交互に見たまま後ろ歩きで教室から出ていく。

「なぜ先に行く。……遅れるし、私たちも行こう」

 上の体操着を羽織ったふゆが、一歩進んでわたしの隣に並んでくる。
 そこから走って二人に追いついて、四人で体育館に向かった。

 体育はここのところいつも自由時間で、今回もそうだった。が、クラス委員の子の提案で、全員でドッジボールをすることになった。
 チーム分けは出席番号の奇数偶数で、三人とは別々のチームになる。

240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:48:33.41 ID:QkS64LeQ0

 同じチームの子に話しかけられて、コートの中央に向かって数歩前に出る。
 ドッジボールってジャンプボールから始まるんだった。

 タイミングを合わせて跳ぶと、対面している子より早くボールに指先が触れた。

 ボールがコートの中を縦横無尽に動く。それによって、みんなの足も動く。
 キュッキュッという運動靴のスキール音がアーチ型の体育館の高い屋根で反響する。

 つーちゃんと栞奈ちゃんはボールを持つと二人で意味ありげな視線を交わしつつわたしばかり当てようと狙ってきて、何回目かで当てられてしまった。
 ふゆはボールが回ってくると、外野に向けて大きくフライを投げていた。わたしには投げてくれなかった。そしてわたしが外野からふゆめがけて投げるとかわされた。

 わたしの方のチームが勝つと、同じチームの友達が何人か内野から駆け寄ってくる。そのうちの一人の子がわたしの腰に手を回してきて、ぎゅうっときつくハグされる。

 首の近くに顔をうずめられて、身動きが取れなくなる。
 こちらの匂いを嗅ぐような息遣いと、その子の体操着から漂う柔軟剤の甘ったるいような香りに、口の中が渇いていく。
 わたしは誰にも当てていなかったのに、どこか喜ぶところがあったのかな。

241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:50:13.82 ID:QkS64LeQ0

 体を離されたとき、その子の口がなにかのかたちに動いていた気がしたけれど、わたしも同じように動かせたか自信がなかった。

 次はうまく反応できるといいけど、と数秒目を瞑る。
 そのうちに、ボールの投げ合いがまた始まった。

 一回目は拮抗していた勝負が、今度は短時間で決した。

 三人たちの方のチームが勝ち、わたしの方のチームは負けた。目の前の喜び合いを眺める。
 その途中、目がある一点で止まる。
 ふゆとの距離を詰めて、笑顔で手を握る子がいた。

「あっ」と弾かれたように声が出る。どうしてそういう反応になったか、それは単純に珍しいと感じたからだと思う。

 ふゆはクラスの人たちとあまり関わりを持とうとしていないから、こういうふうに誰かと仲良さげにしているのはめったに見ない。
 つーちゃんと栞奈ちゃんもそういう傾向があって、他のグループの人たちと、授業とかで必要なこと以外の会話をしている印象はない。

 ……ああ、けど栞奈ちゃんは、他のクラスの同じ部活の人とは仲良さそうにしているかな。
 今のクラスにはいないけれど、廊下や学食でバスケ部の人と会ったりすると楽しく会話している。

242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:53:16.97 ID:QkS64LeQ0

 突然手を握られて、ちょっと驚いたり、困ったりしないのかなと思ったけど、ふゆはなんでもないような様子で、その子と目を合わせて話をしている。

 もしかして、けっこう仲良いのかな……。まったく知らなかった。

 でも、まあ、ふゆと仲良くしたい子がいるというのは、なにも不思議なことじゃない。
 わたしだって最初はそうだったのだから、気持ちはわかる。

 だから、よかった、と素直に思う。
 それはきっと、いろいろな意味でだった。

 無意識に頭を振ると、「ね」と斜め前から声がかかる。

「あれは瑞樹ちゃん。吹奏楽部所属で、生徒会の会計。
 一年生のときのクラスは私とつーと同じで……って、そんなの同じクラスだし普通に知ってるか。そもそも桃は友達だよね?」

 線一本隔てたところにいた栞奈ちゃんが、授業で教科書の文章を読み上げるときのようにわたしに言って、それからふゆの方を向く。

243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:54:02.83 ID:QkS64LeQ0

「うん、知ってる。友達だよ。……でもどうして?」

「見てたから、その見てる桃を私は視界で捉えた」

 なんだか、英語の翻訳みたいな言い方だと思った。

「……そういうふうに見えてた?」

「いや、ただ見てたからって、それだけだよ。桃がどう思ってるかとかは、知らないしわからない」

 と、わたしに体の向きが戻る。
 そして、つーちゃんに冗談を言うときみたいに笑いかけられる。

「あ、もう始まるみたい。次もちゃんとずばーんと当ててあげるから、覚悟しといてよ」

 次の試合、栞奈ちゃんになにかを耳打ちされたふゆが、若干面倒そうに、小さく「おりゃー」と声を出しながら、わたしの方めがけてボールをゆるく放ってきた。

244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:55:00.18 ID:QkS64LeQ0




 放課後になって、ふゆと二人で園芸部の部室に向かう。

「文集を書くから残ってく」とふゆがファイルを片手に告げてきて、ならわたしも一緒に勉強していようと思った。

 ばいばいまた明日と廊下ですれ違う友達に挨拶をする。
 その中には体育の時間にハグをしてきた子もいて、でも、手を振りつつ目を向けたら逸らされた。

 わたしたちの教室と園芸部の部室の間には職員室があって、そこでふゆはなにかを思い出したように足を止めた。

 そして、テスト期間につき生徒入室禁止(ノックの後に元気な声で用件をお伝えください)、と張り紙がなされている扉をノックして、
「二年の冬見です。辻井先生いらっしゃいますか」と声をかける。

「はいはーい。冬見さん、と、本橋さん。どうしたの?」

 担任の藤花先生が出てきて、訊ねられる。先生のことはみんな藤花先生と呼んでいるから、辻井先生って一瞬誰のことだろうと思った。
 腕にはこれから二者面談で使うと思われる、ぶ厚い本を抱えている。そういえば、ふゆは進路調査票になんて書いたのだろう。

「文集用の写真を撮りたくて……カメラをお借りできるって、前に先生が言っていたので、借りられたらなと」

「あー……でも冬見さん。いまテスト期間中だけど、大丈夫?」

245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:55:43.82 ID:QkS64LeQ0

「すぐ終わります。なんていうか、テストよりもそっちの方が気になってしまって」

「なるほどねー、テスト前にふと気になって部屋の掃除とかしちゃう感じ?」

「そうですね。そんな感じです」

「んー、わたしもあったなぁ、そういうこと。うんうん、ちょっと待っててね?」

 バタンと扉が閉まる。そうだ、先生は園芸部の顧問をしているんだった。
 ……いや、そうだっていうか、初めて知った。

 すぐに戻ってきた先生は、「わたしの私物なので、気をつけて。まあ、冬見さんなら大丈夫か」とふゆにカメラケースを手渡した。

 ふゆが一通りカメラの使い方や撮り方などを教えてもらっている間、手持ち無沙汰を覚えて、側にある四角く小さい窓の外を眺める。
 人のいない放課後の校庭を見るのは珍しい。耳を澄ますと、体育館の方からはボールの弾む音が響いてきていた。

「本橋さんは、付き添い?」という先生からの問いかけに、
「のような感じです」とわたしが答える前にふゆが答える。

246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:56:33.17 ID:QkS64LeQ0

「そう。もしよかったら部活、入らない? あ、こんなときだけ顧問ぶりたいとか、そういうんじゃないからね? 冬見さん」

「あっはい。思ってないですよ?」

 薄く反応したふゆと藤花先生の目がわたしに向く。

「え……っと、でも、いいんですか?」

 自然とそう訊き返していた。
 いままで考えたことがなかった。ふゆと同じ部活。

「いいんですかっていうか、ねえ、冬見さん?」

「あぁその、活動はほぼしていないから、入っても入らなくても変わらないと思うよ」

「そう、悲しいことに。名簿に名前が載るくらいで。部員数でどーこうはないから、特に勧誘もしてこなかったんだよねー」

「部員が多くても、それはそれでなので、私としてはやりやすいですけど」

「そうよねぇ。冬見さんが入ってくれて、部長してくれて助かってるよ」

 またしてもわたしを見て、ふゆと先生は控えめに笑う。
 誘われているのかそうでないのか、つまるところどっちなのだろう。

247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:58:07.92 ID:QkS64LeQ0

「あぁもうこんな時間。二人ともテスト勉強も頑張ってね。特に数学、今回はわたしじゃないから難しいよー。あと、カメラは明日返してくださいね」

 と先生は朗らかな調子で言って、コツコツと靴を鳴らして歩いていく。

 廊下の一本の道のりだけで、いろいろな学年の生徒に話しかけられて、その度に止まって話を聞いている。
 やっぱりみんなに好かれているんだ。わたしも先生が担任でよかったと思っていたから、納得かもしれない。

 ていうか数学、難しいんだ。理系科目は苦手だから、頑張らないといけない。中学での貯金はとうに尽きていた。

「先生って、ちょっと変わってるよね」

 という隣からの呟きに、うんと軽く頷いた。

 今日は曇天ではあるけれど、これ以上暗くなってもいけないし、ということで、部室に荷物を置き、先に屋上へと写真を撮りにいくことにした。
 
 鉄扉の鍵を開けたふゆに続いて、外に出る。
 屋上に来るのは、これで三回目だった。

248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 20:59:04.65 ID:QkS64LeQ0

 カメラの設定をしているふゆを横目に、前に進んで手すりをつかみ、東側の校庭の様子を眺める。
 やっぱり人はいない。中庭にも人はいない。少し遠くでは、新幹線が線路を通過していっている。

 不意にパシャリと音が聞こえて振り返ると、わたしにカメラが向いていた。

「なんだか、似合うね」

「似合うって?」

「花と、空と、桃がかな。でもこれは消さなきゃね」

 ふゆがカメラを操作する。言葉通りにわたしが映った写真を消しているみたいだった。
 ファインダー越しのわたしは、お花と曇り空が似合うらしい。前にふゆが「晴れより曇り空の方が好き」と言っていたことを思い出す。

 好きな空模様に似合うと言われて喜ぶのは、さすがに論理が飛躍しているだろうか。

「さてと、ちゃっちゃと撮っていこう」

 場所を移動しながら、お花を写真に収めていくふゆの背を追いかける。
 ここにあるお花はすべてふゆが育てたもので、お気に入りのお花たちなのだと思う。

249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:00:00.73 ID:QkS64LeQ0

 ひとつひとつを撮りながら名前を言って、わたしに教えてくれる。
 その声音が、表情が、撮っている姿がとても楽しそうで、思わず「ふふ」と声が漏れる。

「もっと詳しく聞いてみたいって言ったら、ふゆ、教えてくれる?」

 前にここに来たときに、ひとつのお花のことは聞いた。
 でも、そのほかのお花についてはまだだった。

「まあ、うん。でも、そんなに気になる?」

「気になる」

「どうして?」

 どうしてって。

「わたしもお花が好きだから。それに、ふゆが育てたものなら、なおさら気になる」

 そう言うと、ふゆははっとしたような表情になって、カメラを持っていない方の手で眉間に触れる。

「この間の自然公園も楽しかったよ。紅葉が綺麗で、咲いているお花たちも色鮮やかで……」

「そっか。桃は、そうだったね」

「うん……うん?」

 桃はの"は"という部分が気になって視線で問いかけると、ふゆはカメラを下ろして苦笑する。
 まとっていたやさしげな雰囲気に、少しだけ影が落ちた。

250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:00:53.23 ID:QkS64LeQ0

「たいしたことじゃないんだけどね」

 記憶の中から言葉を見つけるように、一拍置いて、

「けっこう前……もう何年も前に友達にね、『花なんて、見ても貰ってもなにも嬉しくないでしょ』って言われたことがあって。
 そのとき、ああ、たしかにそうだよねって、思った。
 贈り物をされるなら形に残るものの方がいいって人もいるし、形に残らないものなら、まだ食べ物とかの方がもらって嬉しいかもしれない。
 枯らしたら相手になんとなく申し訳ないし、枯らさなくともすぐに捨てることになる」

「うん」

「だから、あんまり話すことに慣れていないっていうか。
 もし花のこと嫌いな人だったらどうしようとか考えて、自分からは話してこなかったから」

 理由を訊かれても困るし、とふゆは笑う。

 なにについての理由だろう、と考えているうちに、ふゆは次の言葉を並べていく。

「でも、話さないだけでさ、どう思っているかなんて、ほんとはどうでもいいの。嫌いなら嫌いで、興味ないなら興味ないで。食べ物の好みとかと同じでさ、良いとか悪いとかってないでしょ? 
 けど、なんていうかね。つまりさ」

 つまり、と今までの言葉とうまく繋げるようにもう一度言って、話の終着点を探すような間が空く。
 ふゆがこうやって、長く話をしてくれるのは珍しいことかもしれない。

 やがて、なにかいい言葉がひらめいたみたいに、ふゆはひとつ頷いて顔を上げた。

「桃が花を好きなの、勝手だけど私はうれしいなって」

251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:05:03.70 ID:QkS64LeQ0

 予想外の言葉にわたしが黙ると、この場所にしんと沈黙が流れた。目を合わせようとしたら、ふゆの顔がふいっと横に逃げる。

 風は吹いていなかったけれど、その動きでふゆの髪が揺れる。耳元のベージュカラーの髪が、曇り空からのわずかな明かりで、つやつや光っていた。

 意味を考えながら、足を動かして横顔を追いかける。照れたみたいに目の下を赤くしたふゆを見て、どきりと心臓が一度大きく跳ねた。
 話しすぎた、とその表情が告げてきていた。

「わたしでよければ、いつでも話してくれていいよ」

「……そ。まぁ、そもそも桃以外には……」

「……わたし以外には?」

「話せる友達がいないから、桃が聞いてくれるなら、それも、うん」

 うれしいよ、とふゆは足元に咲くお花を見てはにかむ。

 途切れ途切れだった言い始めにしてはさらりと言った、その最後の言葉が、頭の中で鳴り響く。

 ふうん、そうなんだ。
 わたし以外の友達には、話さないんだ。

252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:06:40.06 ID:QkS64LeQ0

「やっぱり、すごく素敵だと思う」

 思ったことを考えないまま言うと、ふゆは「ん?」と普段通りの表情で、首を傾げた。

 ふゆが、と言いかける。でも、
 お花を育てることが、と喉から出かかる前に言い直す。

 その方が、ふゆを困らせないかなと思ったから。
 いまはなんとなく、困らせたくなかった。

「そっか。なら、そうだ。桃も育ててみる?」

 ふゆは歩き出して、塔屋のすぐそばにあるプランターの前にしゃがみ込む。
 そのお花の名前──クリスマスローズは、この前教えてもらったから、ちゃんと覚えていた。

「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「まぁ大丈夫。そんときは、なに育てたの?」

「ひまわりとあさがお」

253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:10:26.15 ID:QkS64LeQ0

「学校でみんなに配られるやつ?」

「そうそう」

「そっか。ちゃんと育てられた?」

「うん。たしか、種まで」

 わたしもふゆの隣にしゃがむ。距離は十五センチ。
 肩が触れそうなくらいまで近いのに、もっと近付いてみたくなる。

「なんか前まで来ちゃったけど、種類はこれでいい?」

「ふゆの一番のお気に入りでしょ?」

「まあ、そうだね」

 このお花にひときわ強く向ける、やさしい表情。
 わたしも育てたら、ふゆはもっと喜んでくれるかな。

「だったら、これがいい」

 視線を合わせてから、まっすぐ前に手を伸ばし、プランターの縁にかけていたふゆの手にそっと重ねる。

 ふゆの好きなお花をわけてもらって、育てる。
 それは、なんだかとても素敵なことのように思えた。

254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:11:56.89 ID:QkS64LeQ0
本日の投下は以上です。
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/20(月) 21:20:03.56 ID:QkS64LeQ0
訂正
252
「お花を育てたの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」

「お花を育てるの、小学生以来だよ。大丈夫かな?」
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/22(水) 14:22:11.08 ID:N5AwWJYZ0
おつ
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/23(木) 21:14:57.02 ID:qABIjVxm0
おつです
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/23(木) 21:26:11.08 ID:ZJvwiSTX0
乙。女子校だったのか。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/25(土) 17:22:54.17 ID:1DxniCdi0




 それから園芸部の部室に戻り、下校時間ギリギリまで勉強して家に帰ると、お母さんがリビングのコタツで溶けていた。
 お父さんはまだ帰ってきていなくて、お母さんに訊いてみたら、今日は泊まり込みだという。

 ひなみはお母さんの隣でノートを広げていて、集中するためなのかイヤホンを耳にかけている。

 近寄って手を振ると、「姉さんおかえりー」とすごく小声で言われた。音楽を聴いていると、声の音量調節が難しいらしい。

 真面目に勉強しているひなみを見ていると、自分の不真面目さというか、意識の低さを突きつけられるような思いになる。
 中学生の頃は、学校自体がそういう校風だったというのもあるけど、勉強しないと周りに置いていかれると思って、もっと計画的に勉強をしていた気がする。

 今は焦りが足りていないのかな、やる気が眠気に負ける。前だってテスト期間でも寝ていたわけだけど。

 部屋に行き制服から着替え、ベッドに倒れ込む。
 そして今日あったことを思い出す。すぐに眠気がやってきて、それをスマホを開くことで阻止する。そしてスマホを操作しているうちに時間が過ぎる。悪循環。

 しばらく寝転がってからリビングに戻ると、お出汁のいい香りが鼻をくすぐった。

260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:23:29.09 ID:1DxniCdi0

「今日はおでんだよ」とお母さんがキッチンから声をかけてきた。

「わー、美味しそうだね」

「……あれれ? 流行ってるんじゃなかったの?」

 お母さんは不思議そうな顔でちらっとひなみを見る。
 その見られたひなみは、「わーい」とキッチンに向かって、漬物の乗った小皿をテーブルへと運んでくる。

「この季節はやっぱりおでんだよねー。はい、姉さんの」

「ありがと。わたしも運ぶよ」

「あーいいよ。姉さんは座ってて座ってて」

 ひなみに言われるままに、椅子に座る。
 座ってから、いいのかなぁと思う。いろいろと。

 テレビのバラエティ番組からする音に耳を傾ける。
 するとまた眠くなってくる。ゆらゆらーと首が揺れる。

「どうしたの、ぼーっとして」

 席についたお母さんが、箸を片手に首を傾げる。
 その視線の先はわたし。……あ、わたしのことか。

「ぼーっとしてたかな?」

「してたよ。白目剥いてたよ」

261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:24:22.87 ID:1DxniCdi0

「えー?」

「いや白目は嘘よ。で、どしたの?」

 ちょっと信じてしまった。
 どうしたもこうしたも。眠気に理由はあるのかな。

「ママ、ちがうよ。姉さんがぼーっとしてるのはいつものことだよ」

「あらそうだった。桃はパパと同じぼんやり族だった」

 対面の二人がうふふと楽しそうに笑い合う。
 たしかに、うちの家族を二つに分けるとしたら、わたしとお父さん、ひなみとお母さんになると思う。

「そうねー。なにか外で買い食いしてきた?」

「んーん、食べてきてないよ」

「そう……いつでも腹ぺこの桃ちゃんはどこに行ってしまったの」

「……どこに行ったのかな?」

 わたしがいつでも腹ぺこだったときって何年前の話なのかな。
 今よりも活発に動いていたとき、とすると、三年前くらい。そんなに昔の話ではなかった。

 食べる量が減ってもなかなか終わらない成長期。
 遺伝にしては、もうお母さんの身長を軽く越してしまっている。

262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:25:23.62 ID:1DxniCdi0

「うーん、寝不足?」

「ではないと思う」

「じゃあ、テストが嫌で現実逃避?」

 お母さんがテレビを見ながら、質問を重ねてくる。
 なんだか取り調べを受けているみたいだ。

 テストが嫌……そう言われるとそういうふうに思えてしまうけど、口を軽く引き締めて首を横に振る。

「ちゃんと勉強してるの?」

「まぁ、ぼちぼち」

「そう。ま、したくないならしないでも、お母さんはいいと思うけど」

「勉強は、そこまで嫌いじゃないから大丈夫」

「そう? なら、うぅーん……それならもうなにも思いつかないなぁ」

 会話が途切れたタイミングで、ずっとテレビの方を見ていたひなみの顔がこちらを向く。

「…………」

 その表情で、いろいろと察する。
 どうやらわたしはいま心配されているらしい。

263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:26:33.27 ID:1DxniCdi0

「そんな、心配しなくてもいいよ。たしかにぼーっとしてたけど、理由は本当になにもないから」

 浮かぶことはそれなりにあったものの、特にこれと決められるような心当たりはなかった。

「なら、いいの。昔から嫌なことがあっても、内側に溜め込んでなかなか言わないじゃない? だから、たまに訊いておかないといけないわねー、っていうのが今」

「ありがとう。でも、ほんと、なにもないよ」

 そもそも、わたしはなにか溜め込んでいるのだろうか。

 その心当たりもない。なんとなくのもやもや、じわぁーっとなる気持ちならあるけど。
 それは、ここ最近になって頻度が多くなってきたように思える。けれど、それにしても、特に溜め込んでいるという自覚はない。

 でも、お母さんが言うなら一理あるのかもしれない。
 必ずしも自分のことを自分が一番よく知っているわけではないと思う。

 人に言われて気付くことだってある。わたしは、そういう言葉に振り回されたり、影響されやすいから、鵜呑みにしすぎるのはいけないことだと思うけど。

「ママ、ひとつ忘れてるよ」

「なあに?」

264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:27:35.25 ID:1DxniCdi0

「姉さんがぼーっとしてる理由。それは、好きな人ができた、とか!」

 ひなみが箸で大根をつかみながら、難問の答えを導き出したときみたいにキラッと目を光らせる。お母さんは目を細めてくすくすと笑う。

「あらあら、それはそれは。……で、ひなみは? 最近どうなの?」

「え、どうしてこっちに飛ぶの? なんもないです」

「なんもないってことはないでしょう? ほら、なんでもいいから話してみんしゃい」

「なんもないです。とりあえずお勉強頑張ってますー」
 
「そりゃいい子いい子。で、ひなちゃんは学校でなんかあった?」

 ごまかしのような言葉をするっと聞き流すお母さんに、ひなみはむうと唇をとがらせる。
 そんな様子をすぐ隣で見たお母さんは、にやーっと頬を緩めて、ひなみの髪を撫で回した。

 わたしと二人でいると少し背伸びしている感じがするけど、お母さんお父さんの前では等身大の中学二年生なんだなぁ、と感心なのかよくわからない感想を抱く。

265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:29:08.08 ID:1DxniCdi0

「ひなちゃんかわいい」

「姉さんはひなちゃんやめて」

 今の流れではバレないと思ったのに、顔が一瞬でツンっとしたものに戻った。
 わたしはだめなのか。いったいなぜ……。

 ひなみの学校トークを聞いたあと、お母さんはコタツに入ってすぐにすやすやと寝息を立てて眠り始めた。

「お母さんとてもお疲れみたいだ」

「だね。心配」

「心配するなっていつも言われるけど、心配だよね」

「うんうん。それだし、姉さんのことも心配してるからね」

「そっか」

「成績とか」

「あ……うん。これからちゃんと勉強しますとも」

 そんなに成績悪いってわけでもないけどなぁ。

266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:29:51.05 ID:1DxniCdi0

 それから二人で洗い物をして、わたしは自室に戻った。
 すぐにベッドに倒れ込みたい気持ちはあったけれど、我慢して学習机に向き合う。

 提出課題用のノートを開いて、数問解き進めているうちに段々と集中してきた。

 暗記科目はギリギリに詰めていけばいいから、まずは数学二つを重点的にかな。

 一時間くらい経って、ふとつーちゃんの言っていたことを思い出す。頭に浮かんでくる空想の波によって、一瞬思考が数式とは別のものへと移り変わる。

「クリスマスは、ふゆとデートできたらいいなー……」

 となんとなく声に出したけれど、一ヶ月も先のことで、ちょっと気が早い……早すぎるかもしれない。
 空想が広がっていくうちに、目の前の視界がぼやけてきて、また眠くなってくる。授業中はそうでもないのに、どうしてだろう。

 追試にかかりたくはないし、補習にかかってしまうとさらに面倒らしいし、やれることはやっておこう、と気を取り直して再びペンを握った。

267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:30:32.74 ID:1DxniCdi0




 コンコン、とわたしの部屋のドアをノックする音によって、すうっと意識が浮上する。

 スマホの画面に映っている時刻は午前九時。遅刻だ。
 え、どうしよう、と目の動きだけであわあわする。
 いやでもアラームが鳴っていないから、今日は平日ではないはず……あ、やっぱり、土曜日って表示されてる。

 ひとりで一喜一憂していると、ドアの向こうからお母さんの声がする。

「起きなさーい。下につかさちゃん来てるから」

 その言葉で眠気が一気に飛ぶ。
 ついでに体もベッドから飛び出した。

「つーちゃん? ちょっと待って待って」

「待たない。早くしなさい」

「あ、うん。十分だけ、いや十五分待ってって」

「はーい、伝えとく。十分ね」

「えっ、十五分って……」

 ドアの向こうからの返答はなく、代わりに廊下を歩く足音が聞こえる。ええ……。

268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:31:38.63 ID:1DxniCdi0

 急いで着替えて顔を洗って歯を磨いて髪を整えて下の階に降りる。
 洗面所に置いていたはずのヘアピンが見つからなくて、その場にあった洗濯バサミで代用しようとしたけど、さすがにと思って部屋に戻ったから時間を少しロスした。

「ももちゃんやほー」

 なにか用事でもあったかなとリビングを眺めると、つーちゃんはひなみとコタツに入ってスマブラをしていた。
 コタツの上に目を移すと、学校の英単語帳が置かれている。わたしのではないから、多分つーちゃんのだ。

「おはよ。お待たせしました」

「うん。まぁ、ももちゃんママにどうせだからあがってって、って言われたから、待っていたわけだけども」

「あ、うん。そうなんだ?」

 リビングにお母さんの姿はなく、寝室にでも行ったのかなと思ったところで、廊下から歩いてくるのが見える。
 ちゃんとお化粧していてスーツ姿だった。今日はお昼から出勤のようだ。

「そうそー。柚子がいっぱい届いて……えいっ、うちのお母さんがももちゃんちに持ってけって、えいやっ」

 コントローラーを操作しながら、片手で器用に指差した場所には、ダンボール箱が一つあった。
 近寄って中を開けてみると、本当に柚子がびっしり入っていた。美味しそう。

269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:32:20.83 ID:1DxniCdi0

「つかささん、なかなかやりますねー。ソフト持ってるんですか?」

「最近スイッチ買ってねー」

「そうなんですねー。ジュース賭けましょう」

「いいよー。次ももちゃんも混ざる?」

 誘われて、なぜか「たまにはやってみよう」とお母さんが入ってきて、四人で三回対戦した。
 順位については割愛する。ひなみが強かったとだけ。

 つーちゃんは午後からアルバイトがあるみたいで、成り行きに午前中はうちで勉強していくらしい。
 ひなみは近所の友達の家に出かける、と足早に家を出ていった。
 わたしも部屋に一度戻って、勉強道具を持ってくる。ここ数日はほんとに特定の教科しかやっていなかったので、気晴らしに別の教科に目を向けてみることにした。

 立ったついでにお母さんに頼まれて三人分の飲み物を準備する。
 キッチンでケトルのお湯が沸くのを待っている間に、ひそひそとした会話が耳に届いてきた。

「つかさちゃん。あの子、授業ちゃんと受けてる? ぐーぐー寝てたりしない?」

「いや、寝てるとこなんて見たことないですよー?」

270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:33:36.08 ID:1DxniCdi0

「あ、やっぱり。わりと内弁慶な性格してるから、そうじゃないかとは思ってたのよねぇ。だから家ではおねむなのかしら」

「そうなんですかね? でもあの、安心してください。ももちゃんは体育以外だいたい寝てるわたしよりは全然真面目なので」

「あら、それはつかさちゃんママに報告しないと」

「やーめてー、くーださーい」

 わたしが近付くと、ぱっと会話が止んだ。
 ばっちり聞こえていた。……でも、悪口ではないし、聞こえていないふりをしておいた。

 時計の長針短針がてっぺんで重なるくらいまで、時折話したりしながら、まぁまぁ集中した時間を過ごした。
 普段のわたしならこの時間くらいまで寝ていただろうから、ちょっと得したような気分になる。

 コタツにだらんと身を完全にあずけていたお母さんは、たまに「わかんなかったら教えてあげる」と言ってきたけれど、
 ためしに聞いてみると「そうね。これは……自分で考えなさい」と梯子を外してきた。……ええ、まぁ。その通りだ。

271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:34:40.87 ID:1DxniCdi0

 つーちゃんはというと、うぐぐぐと眉間を寄せて唸りながら、栞奈ちゃんが作ってくれたというテスト対策の問題を解いていた。
 なにそれわたしもほしい、と思いつつ、つーちゃんは今も昔も頑張り屋さんなんだなぁと、うれしくなった。

 ペンを置いて柚子をいただいていると、立ち上がったお母さんが、

「じゃ、アフタヌーン出勤しまーす」

 と言って、財布からお札をぴらっと出して渡してきた。

「これで二人でランチでも行ってきなさい」

「え! いいんですか?」

「いいのよー、息抜きと、柚子のお礼だと思ってー」

「まじですかー。ありがとうございます。うちのお母さんにも言っときます」

「うん。では、いい午後をー」

 手をぶんぶんと速く振って、良い笑顔で部屋から出ていく。仕事のこと、そんなに好きなのかな。
 ワーカーホリックという言葉が頭に浮かんだ。

272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:35:32.19 ID:1DxniCdi0




 コートを着て、家を出る。わたしたちの家周辺は高台に一軒家が並ぶ住宅街になっていて、お店はほとんどない。
 なので歩いてバスに乗って、つーちゃんがアルバイトをしているお店の近くの駅まで向かう。

 そういえばわたしたちはそこそこ家が近いのに、わたしは地下鉄通学で、つーちゃんはバス通学だった。
 定期だとどっちが安いんだろう、とか、栞奈ちゃんもバス通学だったかな、とかそういうことを考えながらバスに揺られる。

 天気は二日連続の晴れ。風は弱め。
 バスの中は暖房でだいぶ暑くなっていた。

「なに食べようね」

 駅に着いて、つーちゃんに訊いてみる。
 土曜日のお昼時だけあって、ぐるっとその場でまわって目に入るお店には並びの列が出来ている。

「ビッグマック食べたい」

 もらったお金から考えると、もう少しお高めなところにも行けるように思えたけれど、つーちゃんはアルバイトの前にがっつり食べたい気分なのかな。

 同意の意味で頷いて、お店に入る。セットを二つとナゲットの注文を済ませると、結構いいお値段だった。残ったお金は、あとでお母さんに返そう。

273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:36:19.94 ID:1DxniCdi0

 二階の四人席に向かい合って腰掛ける。高校生っぽい男女の団体が近くの席で大きな声で話している。それを見て、つーちゃんがちょっと嫌な顔をしていたので、窓際のカウンター席に移動した。

「アルバイト、何時までなの?」

 とトレーの上のポテトをつまむ。塩が偏っていて舌がびりびりとしびれる。

「今日は七時まで。明日もある」

「わー大変」

「まぁ楽しいから。お金も稼げるしー」

「そっか。んー、わたしもバイトしてみようかなー」

「えー……えー、反対。ももちゃんぜったい変な客に絡まれるよ」

「つーちゃん絡まれるの?」

「連絡先渡されたことなら何度か。受け取れませんよーって言ってもしつこく渡してくる人いるよ。怖いよ」

 怖いよ怖いよー、とつーちゃんは脅かすような低い声で五本の指を動かす。
 連絡先、と考えを巡らせる。うーん……。

274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:36:59.71 ID:1DxniCdi0

「ふゆももらったことあるのかな?」

「そりゃあ、わたしはカフェだから多いのかもだけど、ふゆゆだってお花屋さんでしょ? 接客業なら当然あるんじゃない?」

「……うん、たしかに。そうだよねー」

「……あぁ、そっか。彼女としては心配?」

 つーちゃんが首を傾げて、問いかけてくる。
 漠然ともやっとする気持ちがあって、溜め息が出てしまいそうになるのを、口を結んで堪える。

 それから遅れて、彼女というワードに、たしかにどっちも彼女になるのかなと、そういうことが一瞬だけ頭の中を掠めた。

「心配というか、えっと、渡されたときのふゆはどんな感じなんだろうなって」

「いや、まー愛想笑いしかないっしょ。マジであの手の輩はメンタル鬼強いから、会計終わっても勝手に自分の話ずっとしてくるよ。ほんとに怖いよ、ももちゃん」

「……わ、わかったわかった。わたし、バイトはしないから。そもそもする気ないけど、しないから」

 ずいっと前のめりになった、つーちゃんの大きな目に気圧された。

275 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:38:04.39 ID:1DxniCdi0

「それがいいと思う。ていうか、まず、ももちゃんはバイトする必要ないじゃん」

「うーん……でも、それを言ったらつーちゃんだって」

「いやぁー、わたしは趣味多いから出費多いし、お小遣いあんまり多くないから。旅行とかも行きたいしー」

 ゲーム、漫画、おしゃれ、ディズニー、アイドルのライブ──と、つーちゃんは指を一本また一本と倒していく。

 その姿を眺めて、わたしって無趣味なんだなと思った。

 服や靴といった身の回りのものは買ってもらえるから、お小遣いの使い道は食べものくらいしかない。
 だけど、それについても今はそこまで食べなくなったし、前もって外で食べてくると伝えておけば、今日みたいにお母さんとお父さんはお金を握らせてくれる。

 休みの日にはお父さんに釣りとかキャンプに連れていってくれて、それも楽しいけど、趣味かというと……あれは同行してるだけなように思える。

 あ、でも……と、自然に思い至る。
 ふゆからもらうお花を育てているうちに、ガーデニングが趣味になるかもしれない。

「なに急にニコニコして」

276 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:38:45.38 ID:1DxniCdi0

「え? ニコニコしてる?」

「してるしてる」

 自分の顔を摘むと、ほんとに頬が上がっていた。
 下に引っ張るとすぐに戻った。が、隣から笑われる。

「ま、それはいーとして……ちょっと待ってて」

 つーちゃんはコーラをずずっとストローで飲み干し、席を立つ。ポーチを持っているから、お手洗いかな。

 待っている間にガーデニングについて調べてみようと、コートのポケットからスマホを取り……家に忘れてきた。
 ポテトのかけらを口に放り込んで、窓の外を眺める。カメみたいな雲がカメのように空を流れていく。
 反射している背面から、二つの影が近付いてくるのが見える。

 振り返ると、さっきの高校生集団のうちの男女二人組だった。
 なんか明らかにわたしを見ている。わたしはこのお店の店員さんではないし、連絡先渡されたりしないよね。

「桃ちゃん? 久しぶりー」

 女の子の方がにっこり微笑みながら話しかけてくる。男の人の方はスマホをいじりながら、ちらちらとわたしの顔を見たり見なかったりしている。
 名前を知られている。どうやら人違いではないらしい。

 ていうか、店員さんでなくても連絡先は渡される。

277 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:39:27.00 ID:1DxniCdi0

「えっと、久しぶり」

 言いながら、目の前の二人が誰であったかを考える。

 悩むまではいかず、すぐに思い出す。中学校が同じだった人たちだ。
 女の子の方は、たしか三年間ちがうクラスだったけど、一回か二回くらいは話したことがあったと思う。

「元気してた?」

「うん。この通り元気ですよ」

 苗字も下の名前も思い出せなくて、なぜか感じた申し訳なさからか敬語になってしまう。

「さっきのって、つかさちゃんだよね?」

「そうです……だけど……、どうして?」

「ん、一緒の学校なの? っていうか、そうだったね」

「うん、よくご存知で。いま同じ学校だよ」

 知っているのにわざわざ訊いてきたってことは、なにか意味があるのかな。
 という深読み。ただの世間話かもしれないけど、普通、他のクラスの人の進路状況まで知っているのかな。

278 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:39:56.35 ID:1DxniCdi0

 男の人の方が初めて口を開く。

「元気なの?」

「そりゃ元気でしょ」と女の子が答える。

「だってほら、噂がさぁ……」

「あーね。でも逆に元気になりそうじゃん?」

「あーあー、なるほど。まぁたしかに?」

「あんたさっきからキョドっててキモいよ」

「うるせーよ。そら緊張するだろうがよ」

 目の前で二人が暗号のような会話を始めて、置いてけぼりにされる。
 いや、最初から意図がわからないのは変わっていない。宇宙に来てしまったような感覚。午前中に見たthatが五個並んでいる英文を想起する。

「噂って、なんのこと? わたしは聞いたことないけど」

 聞き流し続けてもよかったけれど、話しながらちらちらとわたしを窺う二人の様子に、わたしの中のセンサーが反応して、勝手に口が動いていた。

「いや、も……本橋さん。知らないってことは」

「ないでしょ」

 と連携プレーを見せてくれた二人の目が、わたしを探るように向く。

279 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:40:51.71 ID:1DxniCdi0

 なんか、なんていうか……なにをしているんだろう。

「んー、でも、わたしは知らないよ」

 言いたいことがあるなら、はっきり言うべきだと思う。
 迂遠な会話は嫌ではないけど、それが今の状況に適しているかというと、適してはいないから。

 なおも怪訝げな顔がこちらを向いている。……それで終わり、ではいけないのかな。

「ほんとに知らないよ」

 念を押すように言って、つーちゃんの荷物と、二人分のトレーを持って立ち上がる。
 ばいばい、と手首を上向ける。つーちゃんのリュックがとても重くて、なにが入っているのか気になった。

 ちょうど良いタイミングで、つーちゃんがお手洗いから出てくるのを見つけて走り寄る。

「あ、ももちゃん片付けてくれたんだ。あざまー」

「うん。どいたまー?」

 そうしてお店の外に出る。
 カメのかたちの雲は東の方角にまだ見えた。

280 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/09/25(土) 17:41:21.82 ID:1DxniCdi0
本日の投下は以上です。
281 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/09/27(月) 09:08:11.01 ID:nSrMUWU+0
おつ
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:21:15.58 ID:u+6cRxYp0




「ももちゃんこれからどうすんの? 帰る?」

 お店から出てすぐに、つーちゃんはリュックの肩紐をつかみながら、わたしの顔を覗き込んできた。
 さっきの二人について訊いてみようかと思ったけれど、わたしとしても忘れた方がいいと思ってやめた。そもそも、つーちゃんは感知していないのだ。

 駅前の大きな時計台の示す時刻は午後一時半。帰って勉強だと思うと、もう少しだけ外にいたいかもしれない。

「どうしよ。なにも考えてなかった」

「勉強道具は? って、訊かんくても手ぶらじゃん」

「そう。なにも持ってない」

「カラオケでも行きたい気分だけど、あいにくわたしもう時間あんまないんだよね」

 二時からなんだよねー、と指をくるくる回す。
 家での出勤前のお母さんと同じように、楽しげな表情になっている。
 つーちゃんも労働が好きなんだろうか。

 なんとなく疑問に思ったけど、アルバイトって何分前くらいにお店にいかなければならないんだろう。
 なにかしらの準備や着替えとかもあるはずだし、十五分前くらいかな?

283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:21:56.77 ID:u+6cRxYp0

 だとすると、つーちゃんのお店の場所は知らないけど、ここで油を売る時間もそこまでないんじゃないかと思う。

「特に見たいお店もないし、帰ろうかな」

「そっかー。ならまた、月曜に学校で」

「うん」

「ももちゃんママにお礼言っといてね」

「わかった。わたしの方も、言っておいて」

「おっけー」

 つーちゃんが腕を空にぴんと伸ばして、駅とは反対方向に歩いていく。

 さて、家に帰ってなにをしよう。古典かな。
 とぼんやり考えながら、わたしも歩き出す。

 不意に背中に大きな声がかかって、それがつーちゃんの声だと思って振り返る。

「会いにいったら?」

「え?」

「わたしのバイト先から近いし、ここからも近いよ」

 ちょっとなに言ってるかわからないと思ったけれど、すぐにふゆのことだと考えが及ぶ。

284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:22:34.48 ID:u+6cRxYp0

「でもふゆ、今日バイトなのかな?」

「知らないの?」

「知らない」

 はっきり答えると、つーちゃんは口をぽかんと開けた。
 そしてそのままなにかを言おうという感じに、細くした目を横に流した。

「でも、前に土日はたいていバイトって言ってたよ。会えるよ、多分」

「でもいいのかな? ……あ、いいって言ってた」

「のか。ていうかそもそも行ったことない感じ?」

「うん。迷惑かなって、思ってて」

 いつでもいいよ、とたしか言われたけど。

「や、ふゆゆって迷惑とか言わないでしょ」

「まぁ、うん」

 そうなんだけどね、と心の中でつぶやく。

 そうなんだけど、なんとなく、ふゆが相手だと思考の中に抵抗……ハードルのようなものが付いてまわってくる。
 それは、出会ったころからのことで、ふゆの性格をちょっとずつ知るようになってからも、変わっていない。
 今までの友達が相手ならこんなことはないのに。なかったのに。

285 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:23:25.15 ID:u+6cRxYp0

 行動を起こすためには、頭を叩かれたときのような衝撃か、緩い水の流れのようなものが必要だけど、今の状況ではそれがない。

 つーちゃんはわたしの表情をじっと眺めてきていた。
 それにようやく気付いて、取り繕うように笑う。

「行ってみようよ。ていうか、行こう!」

 すると、つーちゃんは明るい調子でそう言って、わたしの後ろにまわり、背中を両手でドンと押してきた。
 その衝撃で、足が一歩前に出る。

「せっかくだから、ね?」

「えっと……」

「もー。行かないならわたし一人で行くよ。ふゆゆと両手でハート作ってツーショット撮っちゃうよ。めっちゃ顔面盛ってインスタのストーリーにあげちゃうよ?」

「わたし、インスタやってないよ」

「いや知ってるけど。そういうことじゃなくてだね……」

「……ほんとにするの?」

「いや、しないよ。でも、もしかしたら、天文学的な確率でするかもしれない」

 つまりしないってことでは。
 それに、べつにつーちゃんなら……。

 ……なら?

286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:24:04.54 ID:u+6cRxYp0

「わかった、うん。行こう」

「じゃあほら、早く行こ」

 つーちゃんはわざとらしく肩をすくめてきて、わたしはなんだか申し訳ない気持ちになった。

 駆け足で先を行くつーちゃんに追いついて、多くの人が行き交う駅近くの道を、並んで進む。

 カメのような雲はこの数分で見えなくなっていた。
 あの雲はもうゴールしてしまったのかもしれない。
 どこに? それはわからないけれど、多分上の方に。

 信号を渡って、短いトンネルを抜け、駅の西側に出る。
 そしてまた信号を渡って大きい通りに出ると、灰色のコンクリートの上にある、お花の絵が描かれた黒い看板が目に入ってくる。

「じゃ、わたしもう時間だから」

 といつの間にかわたしの数歩後ろにいたつーちゃんが、ニコっと……いや、にやにやっと笑いながら敬礼のポーズで走り去る。

「えっ一緒に行くんじゃないの……」

 とぼやいたけれど、多分つーちゃんには届かなかった。

 綺麗に皺無くラッピングされた二本の黄色いバラを持った女の子が、立ち止まっているわたしを追い抜かしていく。
 場所はここで間違いないらしい。聞いてはいたけど、駅からほんとに近かった。

287 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:24:40.30 ID:u+6cRxYp0

 少し迷って、でもまぁここまで来たからには、と覚悟を決める。
 いったん自分の中で納得してしまえば、続けることにある程度は抵抗が薄れてくる。
 ただの思いつきだけど、わたしはそういう性格だった。

 軽く髪を梳いて身だしなみを整える。
 ふゆに会うならもっとちゃんとした装いをして来ればよかった。でもそれは後の祭り。

 お店の方に向き直ると、黒いエプロンを着けている女の人が店先で屈んだ姿勢でいた。
 ぱっぱっとエプロンをはらう仕草をして、立ち上がったその女の人と目が合う。

 長い黒髪を、白色の大きなシュシュでサイドに結んだ、小柄な店員さんだった。

 わたしを見上げたその店員さんに、一瞬だけぎょっとしたような顔をされて、わたしもびっくりする。
 けれど瞬きの間に、その表情は少女的で柔らかなものに切り替わっていた。

「あら、こんにちは。あいていますよ」

 と会釈される。さっきのはなにか、見間違いだったのかな。
 わたしも倣ってお辞儀をする。

「どうぞ、お店の中に。ここ、少し段差になっていますので、お気をつけて」

 と流れるようにお店の中に導かれる。

288 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:25:35.67 ID:u+6cRxYp0

 一呼吸おいて、開け放されているドアの内側に足を踏み入れる。
 多種多様なお花に気を取られながら、挙動不審にならないようにゆっくりと百八十度見回したけれど、お店の中にふゆの姿は見当たらない。

「ごゆっくりご覧になってください。お探しのお花などがございましたら、どうぞお呼びください」

「あ、はい。その……」

「はい、どうされましたか」

 わたしが答えるよりも先に、「あっ」となにかに気が付いたように口元に手をやって、くすっと微笑まれる。

「待っていてくださいね。いま呼んできますから」

 え、察してくれたのかな……?
 頷くと、わたしの横を屈みがちに通ってカウンターの奥へと歩いていく。

 その拍子に胸のあたりのネームプレートに、店長と書かれているのが見えた。

 店長さんだったんだ。
 ふゆが楽しそうにラインしていた人だ。

 お店の中にわたし以外のお客さんはいなかった。
 改めて見てみると、すごく雰囲気のあるお店だ。

289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:26:39.44 ID:u+6cRxYp0

 ちょっと待っていると、カウンターの奥の扉の向こうからエプロン姿のふゆがやってくる。

「えっと、いらっしゃい、ま、せ?」

 ちらちらと隣の店長さんを窺いながら、ふゆが挨拶をしてくる。わたしの顔を見て、肩が僅かに跳ねる。
 様子からして驚いているみたいだけど、それもそうだよね。驚くよね。うん。

「近くまで来たから、寄ってみたんだ」

「あ、うん。でも、来るなら連絡してくれればよかったのに」

「スマホ家に置いてきてたから……」

「スマホを? なら、仕方ないか」

 いつものように、ふゆが小さく笑う。
 よかった。来てよかったんだ。

 そう安心すると、意識せずとも、目が下に移っていく。

「やっぱりかわいいね」

「ありがとう。このエプロン、かわいいよね」

290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:28:17.37 ID:u+6cRxYp0

「そうだけど、着ているふゆもかわいい」

「そっか、ありがとう。……って、ちょっと、瑠奏さん、なんで笑ってるんですか」

 急に恥ずかしそうに身をよじるふゆの視線を追う。
 その先の店長さんは、わたしたちを見て、目尻と頬を緩めていた。

「いえ、お仲がとてもよろしいようで」

「はぁ、そうですか」

「お二人を見て、わたしも自分の若かりしき頃を思い出しました。十代のオーラにあてられて、消えてなくなりそうですね……」

 店長さんは、よよとわざとらしく泣き真似をする。

「瑠奏さんだって全然若いじゃないですか」

「でも、高校卒業したのもう十年前ですよ?」

「ピチピチの二十代じゃないですか」

「いいえ、もうこんなにヨボヨボです。それに、ぜんぜん! ぜんぜん……ぜんぜんって! 霞さんヒドいです!」

「……いや、思ってないですよね」

「あ、はい。思ってないです。思ってないですよ?」

「ですよねー」

「と、ここでの霞さんはこういう感じなんです」と店長さんはわたしを見てにこっと微笑む。

291 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:29:04.98 ID:u+6cRxYp0

 それを聞いて、はっと気付いたようにふゆが目を伏せる。
 ふゆと店長さんは仲が良さそうだった。というか、仲が良いのだと思う。とても。
 つーちゃんと栞奈ちゃんみたいな。わたしでは、ちょっと難しいことかな。

 こういうふうに誰かと軽口のようなものの交わし合いをしているふゆを見るのはあまり見なくて、だから新鮮に映った。

「つかぬことをお訊ねしますが、今日は霞さんが呼んだわけではないんですか?」

 そのままわたしに訊いてきているみたいだった。
 ふゆはなんとなく居心地悪そうにしている。若干迷いながら、口を開いて言葉を紡ぐ。

「そうです。わたしが勝手に……」

「あ、いえいえ、そういうわけではないんです。お友達を連れてきてくださいと、以前お願いしたんですよ。
 でも、そうですね……わたしは退散しますので、ごゆっくりどうぞ」

 店長さんはエプロンのポケットから手袋を取り出して、わたしたちに背を向けた。
 けれど、その一歩目で足がぴたっと止まって、きらきらとした表情でわたしに首を傾げた。

「大事なことを忘れていました。お名前を伺ってもいいですか?」

292 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:29:33.51 ID:u+6cRxYp0

「桃です。この子の名前は」とわたしの前に手のひらをかざして、間髪入れずにふゆが答える。

 言われてしまったから、わたしもはっきりと首肯する。
 紹介してくれたみたいな様相だと思った。

 そしてそれは、なんとなくうれしかった。

「桃さん、ですか。わかりました。では、ごゆっくり」

 深々と四十五度に頭を下げて、軽い足取りで、今度は本当にお店の外に向かっていった。
 姿が見えなくなると、ふゆはわずかに地面の方を向いていた顔を上げた。その表情には、申し訳なさそうな苦笑いが浮かんでいる。

「なんかごめんね。瑠奏さん、私の学校生活のことすごく心配してくれてるみたいで、たまに訊いてくるんだよね」

「わたし……友達のこと?」

「そうそう。あ、大丈夫。桃のことはそんなに話してないから」

「そっか。そっかー、そんなにって?」

「そんなに。たまに。だって、桃かつかさか栞奈のことしか、言うことないから」

「わたしも妹とか、お母さんに話してるから、同じだね」

293 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:30:08.61 ID:u+6cRxYp0

「変なこと言ってないよね?」

「いや、わたしたち、変なことしてないじゃん」

「うん、それもそうか」

 会話が一段落して、またふゆのことを眺める。

 厚手の黒のニットに、細い脚の形がくっきり出るジーンズ。
 お店だから仕方ないのかもしれないけど、もうちょっとかわいい服装の方がふゆには似合うと思う。
 でも、これはこれで、似合っている。ふゆはどんなタイプの服でも似合うのだ。

 普段と唯一違うところは髪型で、サイドの染められている部分と右耳の翡翠色のピアスをはっきり隠すように、旋毛からストレートに下ろしていた。

 いつもとそれほど変わらない。変わりなく、でも、会う場所で大きく変わることを知った。
 背中を押してくれたつーちゃんに、心の中で感謝する。

 実は一人でお花屋さんに来るのは初めてだった。
 それが視線などのあれこれで伝わったのか、単にお客さんとして扱われたのか、ふゆが店内を案内してくれる。

294 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:30:42.29 ID:u+6cRxYp0

「ふゆ、勉強してる?」

 鉢入りのお花を見ながら、手頃な話題を振る。
 コートを着ていても肌寒い店内で、ニットとはいえ上着を着ていないふゆは寒くないのだろうか。冷凍庫に入ったことはないけど、冷凍庫みたいだ。

「まあしてるよ。さっきまでも事務所でしてた」

「休憩時間だったの?」

「ん。さっきちょうど休憩終わりだったの。桃の方は? ちょっと眠そうだけど、もしかして徹夜してるな」

「え、してないしてない」

 素早く手を振って否定する。
 眠そうって。ここ数日で何回も言われている気がする。

「隠さなくてもいいのに。ここに来たのは息抜き?」

「本当だよ。今日はお昼くらいまでつーちゃんと勉強してたんだ。それで、ここの近くでお昼食べて、その流れで」

「へー。つかさと? 頑張ってるんだね」

「うん。つーちゃん、今回は気合入れてるから」

「だね。私もバイト終わったらやらないとなー」

 屋上にいるときみたいに、この前のデートのときみたいに、ふゆは明るい調子だった。
 この前に屋上で言われたことを思い出す。今日は二回もそのことについて考えていた。

295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:31:54.76 ID:u+6cRxYp0

 生花、観葉植物と場所が移り変わる。ふゆが左手を出したときに、小指と薬指の間にしている無地の絆創膏が、色白の肌とのコントラストで目立っていた。

 白くて触ったら冷たそうな陶器に、雪のように白い花が五輪挿されている。アネモネは赤やピンクのイメージが強かったけど、これはなんだか今の季節にマッチしていて、他のものよりも早く目を引いた。
 その隣には、化学講義室で見るような、目盛りの付いたフラスコにお花が生けられていた。「へえー」と声に出すと、ふゆが「結構売れるんだよ」と教えてくれた。

 おにぎり一個分ほどの大きさのサボテンが淡い色の木目の木箱の中に並んでいて、二百円の値札がテーブルに付いている。意外と安いんだ、と思った。

 観葉植物コーナーの右脇には、上階への階段があった。
 上にもなにかスペースがあるのかな? と前まで行く。

「二階は教室。瑠奏さんが、フラワーアレンジメントとか、ハーバリウムとか、生け花とかを教えるところになってる。今日はなにもないから、電気消えてるでしょ?」

「たしかに……そうなんだ。ふゆも教えてるの?」

「いや、私は一階の店番だけだよ。専門的なことは、少しずつ勉強はしてるけどあんまり分からないから」

「え、その勉強もしてるんだ。すごいね」

「実際は免許とかがいるから、出来ないんだけどね。暇つぶしに本とか読んでるだけ」

296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:33:20.43 ID:u+6cRxYp0

 それでもすごいよ、と言おうとしたところで、ふゆが先に言葉を継ぎ足した。

「でも、ありがとう。褒めてくれて」

 褒めようとしたわたしが褒められたみたいで、自然にちょっと笑うと、ふゆもつられたように笑った。

 階段の前から移動すると、今度はわたしたちの腰ほどの高さのテーブルに、いくつもの雑貨が置かれている。

「わ、きれい」

 大きな松ぼっくりや、流木という商品名の流木? 花柄のカップが並んでいるテーブルの一帯に、際立ってきれいなものを見つけた。

「それは、ハーバリウム。さっき上で体験教室やってるって言ったやつ」

「ふうん、ハーバリウム……え、かわいいね。かわいくて、きれい」

「あはは、語彙力小学生か。ま、ハーバリウムってきれいだよね」

 一番大きな角型の瓶に入ったものを見ていたけれど、隣にはボールペン型のものや、変わった形をしたものが何種類もあった。

「買おうかな。体験、って言ってたけど、これって自分で作れるものなの?」

「んーどうだろう。小学生くらいの小さな子でも作ってるから、出来ないことはないと思うけど、この売り物くらいのレベルにするのは難しいんじゃないかな」

297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:33:51.19 ID:u+6cRxYp0

「なら買うことにする。ふゆって好きな色は何色?」

「うーん、緑色かな。桃は橙だっけ?」

「え、話したことあった? よく覚えてたね」

「いや、普段桃が身につけてるものに、橙系多いから」

「そっか。そうだった」

 多くの選択肢の中から、話しているうちに、これだというものを見つける。

 底が入り口と比べて少し広がっている瓶の下半分に橙色のお花が、上半分に緑色のお花が線対称に詰められている。
 その二色が混じり合っているような中央では、一本の長い茎に、一枚ずつの橙と緑の花びらが、蝶の羽のようになっていて、手を触れて動かしたわけではないのに、ひらひら舞っているように錯覚した。

「ふゆの好きな緑色と、わたしの好きな橙色。いいと思わない?」

「そう。いいんじゃない?」

「てきとう?」

「ううん。桃がいいと思ったものなら、それを選べばいいと思うよってだけ。店員はお客さまの意見を尊重して見守る姿勢が大切だって、瑠奏さんが」

298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:34:41.15 ID:u+6cRxYp0

「そっか。うん、わたしが気に入ったから買います」

「じゃあこっちに。あとは他に買ってく?」

 首を横に振ると、正面のレジカウンターに案内される。
 そこでは店長さんが、気付かぬうちにいたお客さんに、お花を丁寧にラッピングしている。
 清涼感のある、少し前に教室で見たお花。隣のふゆに視線で問うと、「トルコキキョウだよ」と小声で教えてくれた。

 そのままの流れで、店長さんが会計をしてくれた。
 カウンターに商品を出すと、お店の前で見たような、少女的で自然な笑顔を向けられた。

「桃さん。お買い上げありがとうございます。ラッピングはお付けいたしますか?」

「いえ。自分用なので大丈夫です」

「かしこまりました。瓶はガラスとなっておりますので、お気を付けてお持ち帰りください」

 店長さんがふゆに目を飛ばすと、ふと思い至るようにわたしの隣から動き始める。
 その様子を目で追っていると、体の正面からの視線に気付く。いたずらっぽさの比率が増したような、それでも真剣さも感じる表情がわたしの顔をとらえている。

「霞さんのこと、よろしくお願いしますね」

 紙袋を取るために、レジカウンターの奥側にいるふゆには聞こえないような、小さくて、でも芯の通った声で、そう言われた。

299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:35:17.08 ID:u+6cRxYp0

 不意を突かれるような言葉に、思わず普段喋りよりも大きな声で「はい」と返事すると、あっけに取られたような顔になったふゆが前に出てくる。

「瑠奏さん。いまなんて言ったんですか?」

「また来てくださいねって、言いましたよ?」

 店長さんは「ね?」と言わんばかりに、わたしにウインクをしてくる。
 それを見て、ふゆは怪訝そうに眉を寄せる。

「桃は、なんて言われたの?」

「え、えー……っと」

 と、なんだか少し怖いふゆの目から逃げるように店長さんを見ると、ぱっとすぐに逸らされる。
 ちょっとでも渋ったのだから、本当のことを言うしかない。そもそも、隠す必要性は微塵にもないのだけど。

「えっと、霞さんをよろしくお願いしますって」

 ふゆがエプロンの裾を掴んで、呆れたような溜め息を吐く。
 けれどあっさりと流すように、居住まいを正して、

「まあ、また来てよ。テスト期間終わったあとにでも」

 ハーバリウムの入った茶色の紙袋を受け取る。
 おまけです、と店長さんからレモン味ののど飴もいただいた。

 ふゆに手を振って、店長さんにぺこっと頭を下げる。

300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:36:49.92 ID:u+6cRxYp0

「今度は学校での霞さんのことを教えてくださいねー!」

 と店長さんがお店の外のわたしに向けて元気な声を出すと、ふゆはさすがに「ちょっと!」と焦ったような声を上げていた。

 その様子を見て、勝手な心配事がひとつ減った。
 余計なお世話かもしれないけど。心の内に秘めておくなら、いいよね。

 でも、店長さんは、ふゆとどういう関係なんだろう。

 それが少しだけ気になったから、また来ようと思った。

 駅まで歩いて、地下鉄に乗って、そしてまた歩いて家の前まで着くと、玄関横のガレージで、お父さんが青色の大きなバイクを洗車していた。

 流され損ねた泡が平坦なコンクリートに留まっている。
 それを避けながら駆け寄って道端の自動販売機よりも身長の高いお父さんと並ぶと、自分がとても小さく感じた。

「おー、お帰り。出かけてたのか?」

「うん。友達に会ってた」

「そうか。その袋は?」

301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2021/10/02(土) 17:38:04.22 ID:u+6cRxYp0

「お花屋さんで、ハーバリウム買ったんだ……わかる?」

「へぇ、ハーバ? わからんな。お菓子ならもらおうと思ったが。これから水飛ばしに走りに行くけど、後ろ乗って夜飯でも食べに行くか?」

「んーん、遠慮しとく」

「そうか残念。まあいいや。いまテスト期間だって? ほどほどに頑張れよ」

 濡れるぞ、とホースを持ったお父さんに手でしっしっと傍に追いやられる。
 バイク気を付けてね、と言いながら家に入る。お母さんもひなみもまだ帰ってきていなくて、家には一人だった。

 リビングに入ってすぐに、紙袋をあける。
 そして箱の中から丁寧に、ハーバリウムを取り出して、こたつ机の上に置く。

 きらきらしている。スマートフォンのライトをつけて照らすと、さらにきらきらが増して輝いていた。

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