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傘を忘れた金曜日には.
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2 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/07(水) 23:40:37.22 ID:MvBC7eGdo
「……後輩くん、あのね。何を言ってるのかわからないけど」
「……はい」
「きみとはぐれたあと、わたしがきみを探さなかったと思う?」
「……え?」
「わたしは、ふたりを無事に家に送ってから、もう一度あの森に向かった。
そこできみを探したんだよ。見つけるまで、時間はかかったけど」
「……」
「二週間かかった。でもちゃんと見つけ出したよ。
きみに帰るときの記憶がないのは、当たり前。きみは、眠っていたからね」
「……」
「後輩くん、わたしはね、眠るきみを背負って、森を出たんだよ」
「……」
「だから、あんまり、変なことを考えないほうがいいよ。
きみは少し、疲れてるんだと思う」
でも、そんな単純な問題じゃないんです、と、俺は言えなかった。
3 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/07(水) 23:41:09.01 ID:MvBC7eGdo
◇
電話を切って、俺はまた夜の散歩に出かけた。
行き先は、公園。木立の奥の、噴水。
今日もまだ、水が溜まったままになっている。
月が、静かに水面に浮かんでいる。
考えてみれば、嘘と偽物とまがいものにまみれていた。
俺が書いた作文は、俺が書いたわけじゃない。偽物だ。
俺と真中は、付き合ってなんかいない。嘘だ。
俺の書いた小説は、瀬尾の書いた小説のまがいものだ。
俺が、三枝隼ではなく、三枝隼の偽物だったとしたら?
だとしたら、説明がつく。
……もちろん、違う可能性もあるのかもしれない。
事実は逆で、森の中で夜を眺めているあちらこそが、スワンプマンなのかもしれない。
だから、説明がつく、というのとは、違うかもしれない。
納得がいくのだ。
俺のものではない。
俺のための場所ではない。
俺のための景色ではない。
そう思うと、心がすっと楽になるのだ。
4 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/07(水) 23:42:08.16 ID:MvBC7eGdo
誰のことも求められない自分自身。
なにひとつ目指せない、自分自身。
何も得ようと思えない、俺自身のことが、すとんと胸に落ちるように、納得がいく。
偽物だから。
この場にいるはずのない存在だから。
俺は三枝隼ではなく、
両親や純佳の優しさも、ちどりや怜の親愛も、真中の好意も、
大野や市川との関係も、ちせの信頼も、瀬尾の視線も、
クラスメイトと交わすバカな会話も、けだるい朝に部屋にさしこむ日差しも、
あの、雨に濡れた金曜日の記憶も、ちどりを好きだったことでさえ、
全部、俺のものではない。俺のためのものではない。
ましろ先輩は間違えて連れて帰って来てしまったのだ。
本物の三枝隼と、偽物の三枝隼を、取り違えてしまったのだ。
俺は本来、この場にいるべき人間じゃない。
5 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/07(水) 23:42:35.94 ID:MvBC7eGdo
誰のことも好きになるべきじゃない。
誰のことも愛せない。
誰からも何も受け取るべきじゃない。
俺は不当な簒奪者だ。
だからこんなに、こんなにも……忘れるなと言うみたいに、葉擦れの音が耳元で騒ぐ。
でも、じゃあ俺はどうすればいい?
空席の王座を掠め取った俺は、どうすればいい?
……不意に、
簡単なことですよ、とカレハが言った。
明け渡せばいいんです。
彼女は笑う。
景色に彼女が映っている。
雑音のなか、いま、俺は涸れた噴水の水面を眺めている。
その景色が、徐々に薄らいでいく。
暗い森の景色のほうが、本当になっていく。
覗き込んでください、と、カレハは笑う。
6 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/07(水) 23:43:31.94 ID:MvBC7eGdo
俺は、涸れた噴水の水面を眺めている。
そこには、俺が、俺自身が映っている。
『鏡を覗くものは、まず自分自身と出会う』
明け渡せ、と声が聞こえた。
水面に映る、俺の口が動いている。
明け渡せ、と、動いている。
水面に映る俺の姿が、誰か別の人間のように感じられる。
「おまえが過ごすのを、ずっと見ていた」
と、彼は言う。
「俺が求めて得られないものを、おまえが拒んでいるさまを、俺はまざまざと見せつけられていた」
その声は地底深くから轟くように俺の足元から響いてくる。
存在の足場が崩れる。
「おまえは不当な簒奪者だ。奪い取ったものを、不要なもののように粗雑に扱っている」
俺は不当な簒奪者だ。
「おまえは俺の偽物だ」と声は言った。
カレハが嗤っている。いよいよですね、と彼女は言う。
頭を、顔がよぎる。
純佳の、ちどりの、瀬尾の、市川の、さくらの、ましろ先輩の、ちせの、怜の、大野の、
たくさんの、顔。
顔。顔。顔。顔。顔。顔がよぎる。
7 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/07(水) 23:44:01.88 ID:MvBC7eGdo
「──さあ、"返せ"」
光が。
光が。
引きずりこんでいく。
俺の意識は森の中に飲まれていき、
二重の風景が逆さになる。
森のなかが俺にとっての現実になり、
水鏡を覗く景色は"俺"のものではなくなる。
いま、二重の視界に、涸れ噴水の水面には、俺が映っている。
それはもう、ほかの誰かではない。俺という、意識が、水面のなかに映っている。
怯えきった、俺の顔が映っている。
そして、それまで俺だった身体は俺のものではなくなった。
"俺"は、噴水を見つめるのをやめ、静かにひとつ伸びをして、身体の感覚をたしかめるように、自分自身の腕を撫でた。
その光景を俺は、"二重の風景"として、眺めている。
「ああ……」と、"俺"は声をあげる。
「帰ってきた」と"俺"は言う。
「俺だ」と、"彼"は言う。
「俺が、三枝隼だ」
その声を聞いた瞬間、既に俺は葉擦れの森にいる。
眼の前に、カレハがいる。
彼女が嗤っている。
楽しげに嗤っている。
その様子を、俺は、もうなにひとつ考えられなくなったまま、眺めている。
8 :
◆1t9LRTPWKRYF
[saga]:2018/11/07(水) 23:44:55.38 ID:MvBC7eGdo
つづく
9 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/08(木) 00:07:47.84 ID:fw5IbzFaO
乙です、恐ろしい話だ
瀬尾と隼は本当にコピーなんだろうか
瀬尾とちどりが似てるだけと言えなくもないんだけど
10 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/08(木) 00:14:17.75 ID:lWyWcT36O
乙です。
青葉がコピーってのは想像ついたけど、隼はさすがにびっくり
11 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/08(木) 07:40:35.05 ID:/aaH07Af0
おつです
12 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/08(木) 21:51:52.36 ID:t14O2ALF0
おつです
13 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/08(木) 23:58:40.78 ID:vcSV0TpRo
◆
身体の感覚が、まだ馴染んでいない。
六年間に渡る森のなかでの、あの身動きのとれないミイラとしての生活は、俺の意識と身体をさいなんでいた。
ひさしぶりに現実というものを取り戻したけれど、どうにも感覚が取り戻せず、立つことも歩くことも眠ることさえ覚束ない。
それでも、ひさしぶりの我が身だ。
朝日のあたたかさが俺自身のものとして考えられる。それは爽快な感覚だ。
ひどく気分がいい。……明るく、温かい。昼の光は、こんなにも眩しかったか。
今まで俺はこの感覚を、他人のものとしてしかとらえられなかった。
そんな生活の終わりが、涙が出そうなくらいに嬉しい。
朝、身体を起こし、少し伸びをする。カーテンを開け、朝日を浴びる。
たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
14 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/08(木) 23:59:09.33 ID:vcSV0TpRo
閉めた部屋の扉の向こうから、足音が聞こえる。
その音に、俺はわくわくする。
俺は立ち上がって、こっそりとドアの脇へと身を隠す。
扉が開かれる。
「兄、朝……」
「純佳!」
ドアノブを握ったまま、扉を押し開けた純佳のからだを、俺は抱きすくめた。
一瞬だけ強く抱きしめて、俺はすぐに純佳を解放する。
彼女の顔を確かめる。純佳だ。純佳が眼の前にいる。
「おはよう」と俺は言った。
「……おはようございます」と純佳はきょとんとしている。
ずっと見ていた。六年間、あの偽物と過ごす純佳を見ていた。
その純佳が眼の前に居る。
俺が声をかけると、返事をしてくれる。
そのことが嬉しくてたまらない。
「おはよう、純佳」ともう一度言い、俺は純佳のからだをもう一度抱き寄せた。
「あの。どうしたんですか、兄」
「どうもしてないよ」
15 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/08(木) 23:59:36.18 ID:vcSV0TpRo
「昨日、元気なかったのに、急に」
「生まれ変わったんだ」と俺は言った。
「……はあ、そうですか」
純佳はピンとこない言い方で、戸惑ったみたいにされるがままになっている。
「えと、元気になったなら、よかったですね?」
「うん」
「あの。……朝ごはん、できてるので」
「うん。今日は何?」
「ハムエッグです」
「ハムエッグ!」と俺は喝采をあげる。
純佳はびっくりしたみたいな顔になる。
「ハムエッグがどうかしたんですか?」
「大好物だ」
「……そうでしたっけ?」
「そうだったんだ」
「あの、じゃあ……えっと、そろそろ放してください」
「ん。ああ」
純佳はそそくさと俺から離れていく。
16 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/09(金) 00:00:05.22 ID:u2fkhLqMo
「照れてるの?」
「戸惑っています」
見事に警戒されてしまったらしい。
歓びのあまり飛ばしすぎてしまったか。
「悪いな。ちょっと興奮が抑えられなかった」
「……あの、さっきから何をおっしゃってるんですか」
この言い方はよくなかった。
「いや、悪い。先に降りててくれ」
そうとだけ言うと、純佳はどこか心配そうな顔で俺をじっと見たあと、
「二度寝しないでくださいね」と、へんなものを見るような顔のままドアを閉めていった。
手が、足が、俺の意思で動かせる。
俺はもう一度窓辺に歩み寄り、陽の光を浴びてみる。
空は晴れている。梅雨なんて嘘みたいだ。
17 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/09(金) 00:00:31.54 ID:u2fkhLqMo
「……あまりおすすめしないですよ、そういう振る舞いは」
そして俺のそばには、"カレハ"がいる。
「やあ、居たな」
「まだ本調子じゃないでしょう。六年もむこうにいたんですから」
「じき慣れるさ。よくこっちに出て来られたな」
「言ったでしょう」とカレハは笑う。
「わたしはあなたのために生まれてきたんですよ」
うん、と俺は頷いた。
「ありがとう」
「いえ、どういたしまして。おかげでわたしも、こっちに出てこられましたから」
「不思議なもんだな」
「そうですか?」
「むこうだとあまり話せなかったからな。どうしてきみまで出てこられたんだ?」
「そのあたりのことは追々話しましょう。ここでぶつぶつ言っていても、妹さんに怪しまれますよ」
「そうだな」
「それから、あまりさっきみたいなことはしないほうがいいです」
「ん」
「あまり、昨日までの三枝隼と違う態度を取ると、よくないです」
18 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/09(金) 00:00:58.95 ID:u2fkhLqMo
「訂正しろ」と俺は言う。
「あいつは三枝隼じゃない」
「……失礼しました」
「いい。……まあ、言うことは分かる」
たしかに、周囲の人間を戸惑わせるのはよくない。
「……あまり愉快じゃないな。偽物のふりをしなきゃいけないのか」
「じき、すべてがよくなりますよ」
「ああ」
「さあ、身支度をして、朝食をとって、学校へ行って……」
カレハは、ふわりと笑った。
「それから、恋をしましょう。……もう一度、あなたのために生きましょう」
そんな言葉に、歓びが腹の底から湧き上がるのを感じる。
俺はもうミイラじゃない。
俺は、俺になった。俺を取り戻した。
19 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/09(金) 00:01:26.01 ID:u2fkhLqMo
◆
純佳と一緒に朝食をとり、なんでもない朝のテレビを見た。
天気予報のキャスターの声ですら心地よい。雨の予報すら祝福に思える。
小鳥の声すら俺の帰還を祝いでいる。
「兄、今日はバイトですか?」
「ん? ああ……どうだったかな」
「……大丈夫ですか、兄。なんか変ですよ」
「昨日までが変だったんだよ」と俺は何気なく言う。
「……そうですか?」
「ああ」
「それなら、いいですけど」
「純佳」
「はい?」
「今日の俺は、いつもと違う?」
「はい。あ、ええと……はい」
「どう違う?」
「えっと……なんて言ったらいいか、わからないですけど」
「そっか」
それならいい、と俺は思った。
20 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/09(金) 00:01:53.78 ID:u2fkhLqMo
純佳から弁当の巾着を受けとって、俺は彼女を残して通学路を行く。
「もっと戸惑うと思っていました」
「純佳が?」
「声を出さないほうがいいです」
「おっと」と俺はまた口に出してしまった。
「大丈夫。じき慣れます」
そうなればいいが、と俺は思った。
「妹さんではなくて、あなたのことです」
俺が? 何に?
「ひさびさのからだとか、生活とかです。今まではずっと夜だったでしょう」
あっちじゃ俺の景色が退屈だったし、こっちをずっと見てたからな。
「それでも、やっぱり難しいことです。無理はあまりしないほうがいい」
授業も聞いてたし……それに、あんまり愉快じゃないが、"あいつ"の影響もあるらしい。
からだに刻まれているんだろうか。通学路を歩くいまも、自然に、何も考えずに、"いつもどおり"を選べる。
所詮意識は身体の産物なのだろうという認識ではいたが、こんなことが成立するといろいろな面で疑わしくなる。
21 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/09(金) 00:02:21.17 ID:u2fkhLqMo
不安があるとしたら、バイトのことくらいか。
まあ、いずれ慣れるだろう。というか、慣れていくしかない。
三枝隼という周囲からの像を、一応保ちつつ、俺は俺自身の生活を取り戻さないといけない。
厄介な仕事だが、この先俺は俺として生きていくのだ。やらないわけにはいかない。
「学校か」
街路樹の通り、朝の日差しがつくる木漏れ日、それらを眺めながら、俺は歩いていく。
「ひさしぶりだな」
胸が踊るのを感じる。
こんな高揚、ひさしぶりに感じる。
今まで俺は、この景色を不当に奪われてきた。
いま、権利は行使され、あるべきものはあるべき場所に帰ってきた。
「あんまりはしゃぎすぎないでくださいね」とカレハは呆れたみたいに言う。
「任せろよ」と俺は言った。
22 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/09(金) 00:03:14.40 ID:u2fkhLqMo
つづく
23 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/09(金) 00:05:48.57 ID:CxYvCGSbO
乙です
なんだろう、不安しか感じない
24 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/09(金) 00:53:18.14 ID:QZsyKAEy0
おつです
25 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/09(金) 07:28:17.91 ID:7UaQn7rf0
おつです
26 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:44:30.59 ID:X0gaYw5bo
学校に着いて、校門をくぐったとき、そう、こんな感じだったと思い出した。
昇降口から下駄箱で靴を履き替え、廊下を歩く。
同じように階段を昇っていく生徒たちを眺めながら、そう、こんな感じだったと思う。
「ごきげんですね?」
そりゃあそうだろ、と頭の中だけで返事をする。
口笛吹いてスキップしたい気分ですらある。
心配しなくても気をつけるよ、と言いながら、俺は階段を上り、自分のクラスへと向かう。
扉を開いて一言、
「やあ、諸君、おはよう!」
と声をかけた。
ざわめいていた周囲が一瞬ほんの少しだけ戸惑った風に揺れる。
それも一瞬、しかも入り口近くのわずかなスペースのみ。
ところどころから、「おはよー」と返事が来る。
挨拶ができるのはよいことだ。返事があるとなお嬉しい。
27 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:45:20.36 ID:X0gaYw5bo
はあ、とカレハが溜め息をつくのが分かる。
どうした、溜め息なんてついて。
「だからですね、なるべく変な振る舞いはしないほうがいいんです」
変? 挨拶のどこが変なんだ?
「……しばらくは、まあ、目を瞑ってあげます」
カレハのことを無視して、俺は自分の席へと向かう。
少しの違和感はあるが、それもじきに慣れるだろう。
とりあえず、鞄の中身を確認する。
……そういえば、今朝は荷物の確認をしていない。
昨日までは、どうしていたっけか?
ちょっと、考えるのが面倒だな。
まだ夢の中にいるような気分だ。
28 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:46:05.28 ID:X0gaYw5bo
そうこうしているうちに、「おう」と声をかけられ、肩を叩かれて、その感覚にびくりとする。
「おはよう」
……こいつの名前は、大野辰巳とか言ったか。
感覚を共有しているとは言っても、いつもはっきりと見えたり聞こえたりしていたわけでもない。
なんとなくのイメージは分かるが、どういう会話をしていたか。
そもそもこいつは、コピーの友人であって、俺の友人ではない。
かといって、ないがしろにして俺の居心地が悪くなるのも嫌だ。
なんとも面倒な話だ。
「おはよう」
とうなずきを返す。それはべつとしても、人と話せるのは喜ばしいことだ。
「昨日の話だけど……牛乳プリンって、なんのことだ?」
「昨日?」
「送ってきただろ?」と大野は不思議そうな顔をする。
「牛乳プリンって」
「ああ……美味しいよな」
「いや、美味しいが」
「昔はよく食べたものだ」
「……そうか。が、それを何のために送ってきたんだ?」
「送ったっけか?」
29 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:46:32.39 ID:X0gaYw5bo
「……」
大野と俺はたっぷり三秒くらい目を合わせた。
「いや、わかった。なんでもない」
「ああ、そうか?」
納得したふうではなかったが、大野はそれで話を一旦やめにして、話を変えた。
「……悪いな」
「なにが?」
突然謝られても、うまく反応できない。
「べつに、おまえたちの言っていることを疑っているわけでもないんだ」
「ふむ」
気まずそうに鼻の頭を指先でかきながら、彼は続けた。
「ただ、自分の目で見ないことには、納得できそうもない話だからな」
何の話だと思う? とカレハに訊ねると、「むこうのことでしょう」とそっけなく返事がかえってくる。
「ああ、まあそうだろうな」と俺は適当に返事をした。
「まるっきり信じてないわけじゃない。ただ、どうしてこんなふうに、行けたり行けなくなったりするんだろうな」
30 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:47:00.02 ID:X0gaYw5bo
そこのところどうなんだ、と俺はカレハに訊ねてみる。
「簡単に行き来できるような場所なら、最初から誰もが知る場所になっていたことでしょう」
それもそうだ、と俺は頷いた。
「とはいえ、そんなに難しい条件でもないと思いますが」
というと?
「状況を思い返してみれば簡単なことです」
簡単、と言われたところで、実のところ俺はそんなに興味もないし覚えてもいない。
なるほどね、と一応頭の中だけでうなずきを返す。
「まあ、いろいろ試してみるしかないんだろうな」
俺が何も答えずにいると、大野はそう言って去っていった。
最初から前途多難だという気がするが、仕方ない。
所詮あいつは俺の友達ではない。
31 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:47:27.18 ID:X0gaYw5bo
◇
授業を受けるのも新鮮な感じだった。
何よりもなつかしいのが眠気だ。
あちらにいるときは、意識があるのかないのか判然としないような生活を送っていた。
おかげでひさしぶりに「眠気」というものを我が物として体験できている。
昨日だって、戻ってきてすぐに何もせずに眠りにつけたのはそのおかげだ。
実際、昨日まで偽物が身体を使っていたときは、よく眠れていなかったのだろう、身体が無性に重かった。
人の身体をあんなふうに酷使するなんて、ひどい奴もいたものだ。
とはいえ、それもたぶん終わりだ。実に気分がいい。
そんな気分のよさのせいか、はたまた窓の外からの明るい日差しのせいか、コントラストとしての教室の薄暗さのせいか、
異様に瞼が重くなって、とうとう授業中に居眠りまでしてしまった。
と、頭を教科書でぽんと叩かれる。
数学教諭は呆れた顔で俺を見ていた。
「ずいぶん眠そうだな、三枝」
「ええ、まあ、どうも眠くて」
「珍しいな、居眠りは」
「ええ、まあ、俺のせいじゃないんです」
「何のせいだ?」
「ありとあらゆるしがらみですかね……」
「軽口を叩く元気があるなら起きてろ。次からは起こさないからな」
「そうしてくれると助かります」
宣言通り、数学教諭は二度目の居眠りは無視してくれた。おかげで俺はたっぷり眠れた。
32 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:49:20.49 ID:X0gaYw5bo
◇
そして昼休み、待ちに待った弁当だ。
部室に近寄るのもなんだという気がしたし、屋上というのも昨日までの偽物に影響されているようでいただけない。
教室で食べようかとも思ったが、周囲をグループで固められては居心地も悪い。
そんなわけで、二階の渡り廊下のベンチを使うことにした。
通路だけあって居心地が良いとは言えないが、ベンチがある以上はどう使おうが人の勝手というものだ。
弁当の巾着を開くと、空腹にそそる景色が広がっていた。
「おお……」
「感動してますね」とカレハが隣から不思議そうに弁当を覗き込んでくる。
「うむ。夢にまで見ていた」
「はあ。お弁当をですか」
「見ろ、この卵焼きのきつね色の焼き目を」
「きつね色ですね」
「見ろ、この……これはなんだ?」
「磯辺揚げですね。冷凍食品でしょうか」
「とにかく見ろ。ここに愛が詰まっている」
「愛ですか」
「愛だ」
「いただきます」
「どうぞ召し上がってください」
「おまえに言ったんじゃない。純佳に言ったんだ」
「はあ。それは失礼しました」
33 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:49:50.62 ID:X0gaYw5bo
実のところ、森に居た六年の間、俺には味覚や嗅覚と言ったものが存在しなかった。
見えるし聞こえる。けれど、偽物が食べているものの味や、感じている匂いまでは伝わってこなかった。
むこうでは身体を動かせなかったし、ものも食べられなかった。水さえ飲めなかった。
それで六年間もどうして生き延びられたのかは不思議ではあるが、結論としてはどうでもいい。
そんなのいま俺が生きていることが結論だ。変な解説はワイドショーかなにかの仕事だろう。
箸でつまみ上げ、卵焼きを口に含む。
絶妙な卵の風味と砂糖の甘みが伝わってくる。
俺は舌先でその味を堪能する。
今朝のハムエッグも涙が出そうな絶品だったが、さすが純佳、手強い。
「生きていてよかった……」
「あなたはすごいですね」
「なにがだ?」
「美味しいものを食べて、たっぷり眠って、それで幸せそうですから」
「当たり前だ。これ以上の幸せがどこにある。俺は贅沢な人間じゃないぞ」
「ええ、あなたみたいな人は、嫌いではないですよ」
好きでもない、とでも言いたげなカレハの言い方が妙に気にかかったが、今は目の前の食事に集中する。
34 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:50:23.25 ID:X0gaYw5bo
「美味しいですか?」
「絶品だ」
と答えたところで、誰かが近付いてくる気配がする。
とはいえ、通路だ。気にしたところで仕方ない。
「精神年齢が小学生で止まってますね」
皮肉げなカレハの声に、うなずきを返す。そのとおりだ。否定はできまい。
次はこの磯辺揚げをいただこう、と箸で標的をとらえた途端、
「せんぱい?」
と聞き慣れた声がする。
見上げると、見慣れた顔がある。といっても、俺の認識では初対面もいいところだが。
「なんだ真中か」
「なんだ」と真中は繰り返した。背後にもまた見覚えのある顔ぶれだ。
ちせと、ついこないだ見た、コマツナとかいう奴だったか。
「なんだってなに?」
真中は顔をカッと赤くした。怒っているように見える。
というか、怒っているらしい。
35 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:50:50.57 ID:X0gaYw5bo
「いや、なんだは語弊があった。謝る」
「語弊……?」
「食事に集中してたんだ」
俺は箸から落としかけた磯辺揚げを口に含んだ。
「なんでこんなところでおべんと食べてるの?」
まだちょっと眉を釣り上がらせたまま、真中が訊ねてくる。
うしろのちせとコマツナは、いかにも気まずそうだった。
「他に場所が思いつかなくてな」
「屋上は?」
「屋上?」と首をかしげたのはコマツナとちせだった。
俺は少し考えてから、制服のポケットから鍵を取り出して真中に渡す。
「……なに?」
「使う?」
「なんで?」
「や、使いたいのかと思って」
真中は口を開けてこっちを見ている。なんでかわからないけど、びっくりして開いた口が塞がらないという感じだ。
36 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:51:47.47 ID:X0gaYw5bo
やがて頭痛をこらえるように、彼女は額を指で抑える。
「ええと、いつにもまして何を言ってるかわかんないんだけど」
真中が言いかけたところで、俺は後ろに立つちせが手に持っているものに気付いた。
「ちせ! それ!」
「は、はい?」
「それ! 購買の! 一日十食の!」
「あ、これですか……?」
一日十食限定のホイップクリームパン。粉砂糖がまぶされた白く柔らかそうなパン生地。
眺めるだけの一年ちょっとの高校生活の中で、誰かが話しているのを聞き、食べているのを見た。
しかし偽物はまったく興味を抱かなかったらしく、一度も食べているところは見たことがない。
というか、偽物が食べたところで俺に味覚は伝わらないのだが。
俺は"音"と"景色"が繋がっているだけなので、当然、偽物が注意を払っていない他人同士の会話を意識的に聞くこともできた。
そうすることが、退屈な偽物の視界のなかでは格好の暇つぶしだったということもある。
「いいなあ……ホイップクリームパン……」
「せんぱいが卑しい……」
37 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:52:20.27 ID:X0gaYw5bo
「えと。隼さん、食べますか?」
「いや、いや悪いよさすがに……それは罪だよ。ちせが食べろよ」
「そうですか? でも……」
「大丈夫、機会はまだある。今はそれが無限にすら思える」
「……せんぱい、今日変だよ?」
真中がいかにも不服げにベンチに座る俺を見下ろした。
「変? どこが?」
「えっと……受け答え」
むっとした顔のまま、真中は俺をじっと見ている。
「……なに拗ねてるんだ?」
「すね、拗ねてない! せんぱい、やっぱ今日変だ!」
地団駄をふむみたいに、真中は手をばたばたさせた。
「変じゃないよ」と俺は笑った。「昨日までが変だったんだ」
「……変だ。どうしたの、いったい」
そんな会話をしているうちに、「よお」と声をかけられる。
誰だかわからなかったが、たぶんそんなに仲のよくないクラスメイトだろう。
通りがかっただけみたいだ。
「どうした、女子に囲まれて」
「修羅場なんだ」
「おお、そうか。羨ましいことだ」
彼はそのまま楽しげに東校舎の方へと歩いていく。たぶん文化部の生徒なんだろう。
38 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:57:51.52 ID:X0gaYw5bo
「せ、せんぱい……」
唖然とした様子で、真中が俺を見ている。
「ちせ、せんぱい、変だよ?」
「えっと……うん」
「やかましい。俺は弁当を味わってるところだから、ひとまず放っておいてくれ」
真中はいかにも納得のいっていない様子で口をもごもごさせていた。
「昨日、様子が変だったから、心配してたのに」
「昨日?」
あ、そうだ。好きとか言われてたんだった。
「さすがに無神経だと思いますよ」とカレハが言ったが、俺はすっかり忘れていた。
「いや、うん。なんだ。俺は大丈夫だ」
「えと、隼さん。さしでがましいようですけど、あんまりそうは見えませんよ」
ちせにまで言われてしまう。そんなに違うだろうか。
「違うと思いますよ」
そりゃまあ、偽物よりも俺のほうが知的でクールには見えるだろうが……。
「あ、はい。そうですね」
カレハの受け答えは雑だ。
39 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:58:23.40 ID:X0gaYw5bo
「……もういいや。せんぱい、今日の放課後はどうするの?」
「放課後? なにかあったっけ?」
「部室、行くの? それともバイト?」
「あ、どうだったかな」
「……」
真中はいよいよ怪訝そうな顔つきになる。
「あとで考える」
「……わかった。ちせ、行こう」
そう言って、真中はスタスタと歩き出した。
「あ、うん。それじゃあ、隼さん。おじゃましました」
「うん。じゃあな」
「それにしても」とカレハは言う。
「いくら精神年齢が小学生だったとはいえ、昔のあなたって、そういうキャラだったんですか?」
キャラとか言われると、なんとも言いがたいが……。
まあ、六年も誰とも会話もない幽閉生活では、もとの性格なんて思い出せなくもなるだろう。
今はふうけいのすべてが祝福に満ちているのだ。
40 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 20:59:41.46 ID:X0gaYw5bo
「先輩」
と呼ばれて、コマツナがまだそこにいることに気付く。
「行かないのか、コマツナは」
「コマツナってゆうな。……なんか、ほんとに昨日とは別の人みたいですね」
「そう、別人なんだ」
「ふうん?」
事実だったが、コマツナは比喩とでも受け取ったのかもしれない。なんでもなさそうな顔をしていた。
「先輩。昨日はありがとうございました」
「昨日? なにかしたっけ?」
「……あ、ううん。えっと、先輩は何もしてないかも」
「じゃあ、お礼を言うのは変だろ」
「それでも、なんか言わなきゃって思ったんです。それじゃ、わたしも行きますね」
「ああ。ハバナイスデイ」
「ハバナイスデイ」とコマツナはおかしそうに笑った。
「……六年間幽閉されていたとは思えないくらい、会話慣れしてますね」
「人に飢えてたからな」
誰もいなくなった渡り廊下でそう呟いたあと、俺は昼食を堪能した。
よい昼だ。太陽があるだけで素晴らしい。
41 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/11(日) 21:00:21.17 ID:X0gaYw5bo
つづく
42 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/11(日) 23:15:51.49 ID:ug+pv5zu0
おつです
43 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2018/11/12(月) 02:25:00.38 ID:zDqlUpD7O
きっついなあ…
44 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/12(月) 09:31:58.88 ID:M5usooooO
おつです
45 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2018/11/12(月) 13:14:50.65 ID:o9NmwMWcO
実は抑圧された隼の人格だったりして
46 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2018/11/12(月) 13:15:20.61 ID:o9NmwMWcO
おつです
47 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:29:15.21 ID:FOk/K1QUo
◆
三人が去ったあと、俺は渡り廊下の窓から日差しを浴びながら食事を終えた。
それから少し、ようやく、今後のことを考えるゆとりが出てくる。
「さて、こうして生き返ったわけだが」
「死んでいたわけではないでしょう」とカレハは言う。死んでいたようなものだ。
「今後の方針のようなものがいるな」
「そうですか?」と彼女は首をかしげる。
「そう思わないか?」
何かを考えるような素振りのまま、カレハもまた窓の外を見た。
「むしろ、なんとなく過ごせば、すべて、いつのまにか取り戻せると思います」
「……ふむ、それはまあ、なんというか、消極的だが悪くない案だな」
「でしょう」
「いいのかな、そんなんで」
「いいんじゃないですか?」
「いいのかもなあ」
そう言われて考えてみると、たしかに焦って何かを決めなければいけないわけでもないような気がしてくる。
48 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:30:11.49 ID:FOk/K1QUo
「いや、でも、おかげで助かったよ。……で、いいんだよな?」
そう問いかけると、彼女はきょとんと首を傾げた。
「何の話ですか?」
「このからだの話」
そう、改めてそのことを整理したかった。
六年間の間の、暗い森の中での生活。
暗いうろから光の庭を眺めるような生活のなかで、唯一と言ってもいいい変化が、彼女の出現だった。
「きみのおかげなんだろ?」
「……まあ、そういうことになります」
"むこう"にいるとき、俺はからだを動かせず、声もあげられなかった。
彼女は俺の思考を読んでいたようだけれど、そのときの俺に「思考」なんてものがあったかどうかは、けっこう怪しい。
どういうやりかただったかは知らない。
それでも彼女はおそらく、この"入れ替わり"を可能にしたのだろう。
その詳しいやり方に関しては、俺はそんなに興味がない。
理屈はどうでもいい。とにかくその企ては成功し、今俺はここにいるんだから。
49 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:30:56.76 ID:FOk/K1QUo
「結果として、わたしもここに来られました」
「それも不思議だな。こうなるとは思っていなかった」
「相乗りみたいなものです」
「ふむ?」
「詳しい理屈は……説明する必要はないでしょう」
カレハはそう言って、ふんわり笑った。
「あなたは謳歌してください」
そう言って立ち上がると、彼女は俺に背を向けた。
「どこかにいくのか?」
「ええ。少し、自由行動です。心細いですか?」
「少しな。きみがいると、いろいろ相談できるし」
「あなたは素直でいいですね」
ちょっと含みがあるように聞こえたけれど、何も言わずにおく。
「それと、バイトの日程、確認しておいたほうがいいです。評判を落としたくはないでしょう」
「……まあ、そうだな。ありがとう」
「本当に素直ですね」とカレハは言った。
なんだか毒気を抜かれたような顔だった。
50 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:31:23.69 ID:FOk/K1QUo
◆
そんなわけで午後の授業も眠かった。
なにせ腹いっぱいうまいものを食べたあとだ。
純佳の弁当はうまい。偽物はこんなものを毎日何気なく食べていたのかと思うと、憎らしくなる。
とはいえ、偽物に占領されていたというのも悪いことばかりではないのかもしれない。
この身体に入って、偽物の記憶を「俺のもの」として認識することができるようになりはじめていた。
もちろん虫食いのように欠けた部分や曖昧な部分も多いが、それも徐々に馴染んでいく予感がある。
もっともそれは感情を伴わない記録としての記憶だ。
今、俺は偽物が口座に貯めていた金や、奴が作れる料理の手順なんかも思い出せる。
授業も、耳を傾けて聞いてみれば理解できる。
便利なものだ。多少の不安はあるが、バイトだって難なくこなせそうな気がする。
偽物はバイトのシフトを、写真を撮って画像データとして保管していた。
データフォルダを見てみると、たくさんの写真が入っている。
花、空、雲、雨、道、木。人を映したものは少ないし、あまり上手な写真とも思えない。
本のページを映したものなんかもある。あまりにも脈絡がない。
撮った記憶は、記憶としてはあるが、どうして撮ったかという感情の部分がわからない。
理解する必要もないのだろう。
51 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:32:07.74 ID:FOk/K1QUo
とりあえずシフトを確認すると、今日はバイトは休みになっている。
とはいえ、なんだろう、記憶違いかもしれないが、シフトが少ない気がする。
「記憶違い」というのも変な塩梅だな、と思いつつ、先月のシフトを確認する。
どうやら今月から新しく人が増えたせいでシフトが減っているらしい。
もともと偽物はあまり金を使うタイプじゃなかった。実家ぐらしで物入りというわけでもない。
給料が多少減ったところで、たいした影響はなかったのだろう。
納得して携帯をしまったとき、教科書で頭をぽんと叩かれた。
「三枝、授業中に携帯をいじるな」
世界史教師はいかにも不服そうな顔で俺を睨んだ。
「失礼しました」
と俺は謝る。教師は気にした様子も見せずに教壇へと戻った。本日二回目である。
52 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:32:42.62 ID:FOk/K1QUo
◆
そんな調子だったものだから、授業が終わって休み時間になってすぐ、大野に声をかけられた。
「どうも様子がおかしいな、今日は」
「うむ」と俺は頷いてみた。すると大野もどう返事をしたらいいかわからなくなってしまったらしい。
そりゃそうだ。様子がおかしいやつに様子がおかしいと言って頷かれたら、それ以上は何も言えまい。
「なにかあったか?」
「うむ」
と試しにもう一度頷いてみると、大野はまた困った顔をした。
肯定。そののち沈黙。なるほど、これが効果的らしい。
「そうか……」とだけ言って、大野は頭を抱えて去っていった。
当たり前のことだが、どれだけ様子がおかしかったとしても、"俺"の中身が昨日までとは違うだなんて誰も思わない。
ありえないことが起きたとしても、人はそれを認識できない。
だからこそ、俺は六年も"むこう"にいたまま、誰にも気付かれなかったわけだが……。
そう考えると、少し苛立ちに近い感情を覚えもする。
俺は偽物とは違う。
ちょっとは気付け。
53 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:33:20.11 ID:FOk/K1QUo
◆
放課後、多少気が重くはあったが、俺は部室へと向かうことにした。
姿を見せないカレハと合流しないまま帰るのもいただけないと思ったし、彼女の言うとおり、あまり怪しまれる変化は慎むべきだろう。
それでも少しなんとも言えない気持ちがないこともなかった。
瀬尾青葉のことだ。
俺は"むこう"の森のなかにいたから、あくまで偽物の視界越しに見ただけだが、あの子はちどりにそっくりだ。
たしか偽物は、"スワンプマン"と呼んでいたか。生者のデッドコピー。
瀬尾青葉は、"むこう"に行った偽物のことを、"隼ちゃん"と呼んだ。
このことから導き出せる結論は単純だろう。
俺の場合、"スワンプマン"のみが六年前にこっちに来た。
そして本当の俺は、六年の間むこうに取り残されていた。
そしてカレハのなんらかの力によって、"偽物"と入れ替わった。
おそらく、身体ではなく意識の部分だけだ。
そしてちどりの場合は、"スワンプマン"も"本物"も、両方こちら側に出てきたのだ。
おそらく、片方は記憶を失って。
そう考えると、ものごとはシンプルになる。瀬尾青葉は鴻ノ巣ちどりの不完全な"スワンプマン"だ。
54 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:33:46.24 ID:FOk/K1QUo
そこまではまあ、わからないでもない。
問題は、ほかにいくつかある。
俺がこっちに来てから、"さくら"が姿を見せていない。
あるいは俺と偽物が入れ替わったように、カレハとさくらも立場が入れ替わったのだろうか。
……まあ、いい。入れ替わったところで、何ができるというわけでもないだろう。
あれこれと考えながら渡り廊下を通り過ぎる途中で、今度はベンチで休む市川鈴音を見かけた。
「やあ」と声をかけると、市川は頷いた。
「こんにちは」
「なにやってるの?」
「少し休んでるの。今日は天気がいいから」
「ふうん。いい趣味だな」
「そうでしょ」と市川はなにげなく言う。
55 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:34:14.65 ID:FOk/K1QUo
しかし、不思議な雰囲気だ。
偽物は、なんだかんだとありつつも、こいつとあまり関わってはいなかった。
大野とのことがあったからでもあるのだろうが、それは俺には少し不思議に思える。
あちらから眺めていただけの印象だが、こいつは他の人間とは少し違うように見える。
それがなんなのかは、わからないが……。
「部室、行こう」と声をかけられて、頷く。
やっぱりこいつは変だ、と俺は思う。
俺の言動を普段と違うと言い出さないのも、こいつだけだ。
それとも、気付いていても口に出さないだけなのか?
「今日こそ行けるといいね」と彼女は言う。
「どこに?」
「むこう」
「……」
俺は答えあぐねた。
できるものなら、二度と行きたくないものだ。
56 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/12(月) 22:34:40.41 ID:FOk/K1QUo
つづく
32-17,18 「愛だ」「いただきます」 → 「愛だ。いただきます」
57 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/12(月) 23:58:32.24 ID:KiJkrZui0
おつです
58 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/13(火) 07:19:49.01 ID:lV1ks0rTO
おつです
59 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2018/11/13(火) 08:27:43.04 ID:gEfDEBToO
乙です
60 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:15:01.99 ID:smYBxX78o
部室につくと、既に俺と市川を除く全員が居た。
ドアを開けて中に入ると同時に、大野と真中、それからちせが、揃って俺たちを見る。
というより、俺を見る。
「なんだ、どうした」と訊ねると、三人はおんなじ動作で首を横に振った。
「……なんだよ」
「べつになんでもない」と大野は言う。間を置かずに真中が、
「せんぱいの様子が変だって話をしてたの」
と言った。統率のとれない奴らだ。
「そんなにへんかな」と俺はとぼけた。「うん。変」と真中は間髪おかずに頷く。
なるほど、と俺も頷く。変らしい。
「まあ、それはいいだろう」と話題を変えた。
「それでどうだ今日は」
真中も大野も、「こういうところがまさしくだ」というふうに顔を見合わせる。
そのくらいの感情の動きくらいは俺にだって分かる。
61 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:15:47.91 ID:smYBxX78o
「どうだって?」
「行けそうか?」
とりあえず、この場にいる人間の目的が"むこう"に行くことだということは、俺にも分かる。
正直、何を好き好んであんな場所に行きたいのかはわからない。
瀬尾青葉のことなんて、放っておけばいいじゃないか。
「わからないよ」と大野は戸惑ったみたいに言う。
俺は黙って、昨日の偽物がそうしていたみたいに、例の絵に触れてみる。
見れば見るほど、奇妙な絵だ。
主が去ったあとの空席、あるいは、
新たな主を待つ空席。
上には空が、下には水面がある。
ピアノだけが、何かを待つように、何かを惜しむように、そこにある。
そこに旋律はない。
主の不在が静寂を浮き立たせる。
62 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:16:17.56 ID:smYBxX78o
「……無理みたいだな」
お手上げのポーズをした。久々にしたにしてはなかなかさまになっていたと思う。
「今日のところはよしておこう」
「でも……」とちせが口を挟んだ。
「でも?」
「……いえ、でも」
続く言葉はないみたいだ。俺は溜め息をついて言葉を続ける。
「ここで頭を突き合わせて相談してどうなるんだ?」
それは素朴な質問だ。
「なにか条件があるんだろう。それがわからない以上、ここに集まってたってどうしようもない」
大野が、不服そうな顔で俺を睨んだ。かまわない。
「違うか?」と俺は訊ねてみる。
「……打つ手がないのは確かだが」
「だろ。じゃあ無駄な消耗だ」
「……」
全員、顔を見合わせた。……いや、違う。
市川だけが、俺を見ている。こいつはいったい、なんなんだ?
63 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:17:37.76 ID:smYBxX78o
「でも、せんぱい。青葉先輩……」
俺は記憶を手繰って、どうにか自分に都合のよさそうな言葉を探す。
「瀬尾はべつに迎えに来てほしいなんて言ってないだろ。
大野や真中は実際に信じられないと言うが、よく考えたらべつに証明する必要や義務なんて俺にはない」
そう、その調子だ。
「だって瀬尾はおまえらがなんて言おうとあっちに居るんだから」
そう言うと、大野があっけにとられたような顔をした。
「……そりゃ、おまえからしたら、そうなるだろうし、瀬尾も、俺達に来てほしいとは、考えてないかもしれないが」
「そうだろ。だったら頭を抱えてる必要もない」
ええと、そうだな。
「瀬尾の現状が心配なら『伝奇集』が使える。それでいいんじゃないか?」
俺がそこまで言ってあたりを見回すと、みんながぽかんとした顔でこちらを見ている。
64 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:18:14.20 ID:smYBxX78o
「なにいってるの、せんぱい」
「俺、そんなにおかしなこと言ってるか?」
「青葉先輩のこと、心配じゃないの?」
べつに、と答えそうになって、さすがにこらえる。
嫌いなわけじゃない。
でもあいつも偽物だ。だったらどうでもいい。帰っただけじゃないか。
「俺の立場からすると、心配は必要ないからな」
真中は、なにか反論したいのだが言葉にならないというふうに口を動かして、あげく、
「そんなの、せんぱいらしくない」と言った。
「……俺らしくないってなんだ?」
計算を忘れて、口から言葉が出ていた。
「俺らしくないってなんだよ? 俺らしいってなんだ? おまえの気に入らない振る舞いをする俺は俺らしくないのか?」
「そうじゃないけど、でも」
「なあ真中。そうじゃなくないんだよ。俺は俺だよ。俺が俺なんだ。その俺の行動や態度が俺らしくないわけがない。違うか?」
真中は怯えたみたいな顔をした。それはちゃんと分かる。
「俺の取る態度が俺らしくないと思うなら、そんなのおまえが思う『俺らしさ』が間違ってるだけじゃないか?
俺の振る舞いが全部おまえの想定内に収まるくらいおまえは俺のことを知っているのか?」
真中は悔しそうにうつむいてから、「ごめんなさい」と言った。なんで俺は謝られてるんだろう。
「いい子だ。ちょっとかわいいからって調子に乗るのはよくないぞ」
「かわ」と鳴き声みたいに真中が何かを言いかけて口を閉ざす。そこに、
「……ねえ、隼くん」
口を挟んだのは、市川だった。
65 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:18:50.43 ID:smYBxX78o
思わず身構えた俺のその警戒よりも早く、
「何を焦ってるの?」と、市川はそう言った。
ちせも、真中も、大野も、みんな市川に注目していた。
「焦ってる? 俺が?」
見当違いだと思った。俺はなにひとつ焦ってなんかいない。
むしろ、満ち足りている。俺はもう何にも怯えなくてもいい、はずだ。
「焦ってるんじゃないなら、恐れてるのほうが近いかな」
「……当て推量で適当なことを言うなよ」
「ううん、当て推量じゃなくてね。うん、ちょっと、わたしの考えを聞いてもらおうかな」
そう言って市川は、俺の目の前に歩いてくる。いつのまにか囲まれるようにみんなに見られていた俺の目の前に。
自然、輪の中心に、俺と市川が向かい合うような形になる。
66 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:19:19.65 ID:smYBxX78o
「瀬尾さんがいなくなって、ついこのあいだ、隼くんとちせさんが一緒に“むこう”に行った。
その存在を、わたしたちはべつに疑ってない。戻ってくるところを見たから」
「……」
そう、そういう記憶がある。
「でも、だから“心配いらない”ということにはならない」
「どうしてだ? 俺が瀬尾に会ったのが嘘だと思ってるのか?」
市川は首を横に振った。
「隼くんが見せてくれたよね。瀬尾さんからの手紙」
「……」
内容はなんだったか。たしか、
“昨日はありがとうございました。次来る時は牛乳プリンを忘れずに”。
そんなところだったか。
「筆跡は今までの瀬尾さんの手紙と同じだった。ということは、瀬尾さんからの手紙。
仮にこれが隼くんの仕込みで、瀬尾さんとグルになってわたしたちをからかってるとしても、瀬尾さんはやっぱり無事」
「じゃあ何が引っかかるんだ」
市川は、少し戸惑うみたいな顔をした。
67 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:19:47.25 ID:smYBxX78o
「その可能性に隼くんが気付かないことのほうが、わたしには不自然なんだけど……」
まどろっこしい前置きのあと、諦めたみたいに溜め息をついて、市川は続ける。
「“むこう”にも、瀬尾さんの手紙にも、理外の力が働いている。
隼くんが、そんなようなことを言ってたね」
「言ったかもしれない。それが?」
「だとしたら、瀬尾さんの言葉だけでどうして安心できるの?」
市川はそう言った。
「隼くんと会って、瀬尾さんはたしかに戻ってくる気がないと言ったかもしれない。
でも、隼くんとちせさんはむこうに行けたよね。それなのに今は行けない」
みんなが市川に注目していた。俺は、なにかまずいことをしたような気分になっている。
「条件が必要なのかもしれないとみんなは言ってたけど、わたしは違うことを考えてた。
その理外の力が、いつまでも働いてくれるとは限らないんじゃない?
たとえば、この絵と“むこう”とのアクセスが途絶えてしまったとしたら?」
「……アクセス?」
俺の反復に、市川は頷く。
「こっちからあっちに行くことができなくなったみたいに、あっちからこっちに戻ってくることもできなくなっているとしたら?」
真中が、息を呑んだ。
「だとしたら、瀬尾さんは、戻ってきたくても戻ってこられなくなる。
わたしたちはむこうに行けないから、確かめようはない。でも仮に、アクセスが途絶えていたとしたら……
瀬尾さんは、“むこう”に、絵のなかの国に閉じ込められてしまったのかもしれない」
68 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:20:19.45 ID:smYBxX78o
みんながみんな、黙り込んでしまった。
俺は少なくとも、その可能性を想定していなかった。扉はいつでも開け放たれている。そう思い込んでいた。
「でも、そんなの想像だろ?」
「うん。でも、“繋がったままで、瀬尾さんが帰ってこられる状態にある”と考えるのも想像だよね」
俺は返す言葉をなくした。これ以上何も反論できない。
「わたしの知っている隼くんは、いろんな可能性を考えて、決して断言はしない人だった。
こうかもしれない、こうかもしれないと、そういうふうに話をする人だった。
だから、きみがいま、その可能性を考慮していないのが不思議でならないんだ」
「……買いかぶりだよ」
「うん。そうかもしれない。でも、わたしが今話したことで、きみはその可能性を理解したはずだよね。
それなのに、きみは“その可能性を排除しようとしている”。少なくとも、わたしにはそう見える。
第一、きみが言ったとおり『伝奇集』が使えるからって、あのやりとりにタイムラグがないってどうして言い切れるの?」
……偽物は、タイムラグがないことを一度確認していたはずだ。
だが、それがいつでもそうだとは、言い切れない。
「言いすぎだろ。瀬尾のことは普通に心配してるって」
「……そうだといいけど」
尚もなにか引っかかるみたいに、市川は俺を見た。
69 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:20:47.90 ID:smYBxX78o
……厄介だ。面倒ごとを避けようとして早めに引き上げようとしたのが裏目に出てしまった。
こうなってしまうと困る。
何が困るって、あからさまに疑念を抱かれてしまっているのが困る。
三枝隼がおかしいと、そう思われるだけならいい。いずれみんな慣れる。たしかにそのはずだ。
けれど、俺はいまさら、この状況の危険性に気付いてしまった。
こいつらは“むこう”のことを知ってしまっている。
こいつらが、“むこう”を探り、立ち入り、今後も調べようとしたら、いずれあの森が引き起こす怪奇にも出会うかもしれない。
いや、そうならないにしても、瀬尾青葉が仮になにかに勘付き、こちらに帰ってきたとしたら。
そして、スワンプマンの話をこいつらにしたとしたら。
そのとき、“昨日まで”と“今日から”でまったく違う三枝隼の存在が、こいつらには意味ありげに見えるだろう。
そうしたらどうなる?
こいつらは間違いなく、“昨日までの三枝隼”こそが本物であり、“この俺”が偽物だと言い出すだろう。
そうしたらあの暗い森に取り残された“偽物”を、もう一度陽の当たる場所に連れ出そうとするかもしれない。
……冗談じゃない。
こんなことなら、カレハの忠告をもっと聞いておくんだった。
本物は俺だ。俺が本物なんだ。
厄介なことになった。
なにか、対策を打たなければならない。
そうしないと俺は、もう一度“俺”であることを失ってしまうかもしれない。
70 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/14(水) 00:21:18.46 ID:smYBxX78o
「……悪い、体調が悪いみたいだ」
そう言って、俺は鞄を肩にかけ直す。
「今日は帰るよ」
真中もちせも、困ったみたいな顔で俺を見ている。
疑われている、のだろう、おそらく。少なくとも、怪訝に思われているのは間違いない。
「大丈夫か」と大野が言う。ああ、と俺は頷く。
俺の頭は、いろんな考え事で埋め尽くされはじめた。
理外の力が働くあの森。カレハの力でこちらに来られたとはいえ、なるほどたしかに、まだ安全ではないのかもしれない。
仮にこいつらが何かを働きかけ、カレハの力に近いなにかで、俺とあいつを入れ替えようとしたら……それもまたありえる。
俺はこの場所を守らなければならない。
あの森に帰るのだけは嫌だ。
厄介だ。本当に、厄介だ。
この俺を守るために、俺は俺じゃない人間のふりをしなくちゃいけない。
こうなってしまうと、取り戻したと思っていた俺の景色が、途端に他人のもののように思えてくる。
ここは俺のための場所なのに、かすめ取られていたせいで、俺のためのものなんてひとつもないのだという気がした。
「またね」と、市川だけが平気な顔をしていた。
どうにか、しなくちゃいけない。
俺は俺でいたい。俺こそが俺なんだ。
ドアを閉める直前、壁にかけられた絵が視界に入る。
……いよいよとなったら。考えておくのも、いいだろう。
それにしても、忌々しい絵だ。
71 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2018/11/14(水) 00:27:15.89 ID:smYBxX78o
つづく
72 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2018/11/14(水) 00:46:07.08 ID:OitM/X5O0
おつです
73 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/14(水) 01:02:44.76 ID:wZyFlRG90
おつです
74 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/14(水) 07:28:51.00 ID:Ih7WLb9H0
おつです
75 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:12:34.52 ID:w8k2cM92o
校門の近くで、カレハが待っていた。
葉桜の下で、彼女はどこか寂しそうな顔をしているように見える。
「……カレハ」と声をかけると、ようやくこちらに気付いたみたいだった。
「ああ、遅かったですね」
「行こう」
俺の表情がそんなにおかしかったのだろうか。カレハはちょっと変な顔をしていた。
「なにかありました?」
「まあ、少しな」
「声、出さないほうがいいです」
そうだった。
76 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:14:00.68 ID:w8k2cM92o
黙ったまま歩きはじめたところで、カレハは「なるほど」と声をあげた。
記憶まで読めるのか? だとしたら便利なものだ。
「どうしますか、今日は」
「ん」
「このまま帰りますか?」
「ああ、バイトがなかったから……そうだな」
帰って……どうする?
焦りに似た気持ちが生まれたのはたしかだが、だからといって、今すぐにするべきことがないのも事実だ。
とはいえ、ひとつ浮かぶ気持ちはある。
俺は声に出さず、カレハに答える。
『トレーン』に行く。
「『トレーン』……ですか」
そうだ。俺はまだ、ちどりを見ていない。
77 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:14:43.65 ID:w8k2cM92o
◇
「いらっしゃい、隼ちゃん」という言葉を聞いたとき、俺は自分がどこにいるのかわからなくなった。
ちどりが居た。
「ああ、うん」
何気ないふうを装って、俺はちどりの受け答えを聞いていた。
「ただいま」
「……? おかえりなさい」
思わず出てきた言葉なのに、ちどりはちょっと不思議そうにしただけで、当たり前みたいに返事をくれる。
そんなことが嬉しかった。
一瞬でいろんな力が抜けていくのがわかる。
その表情を見ただけで、俺はなんだかいろんなことがどうにかなるような気がした。
「……ちどり」
「はい」
何度、こんなことで感動しなきゃいけないんだろう。
返事があるというだけで、名前を呼べるというだけで。
78 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:15:39.01 ID:w8k2cM92o
「ちどりは……大きくなった」
「はい?」
「……なんでもない」
六年前のあの森で会って以来、久しぶりに自分の目で彼女を見ている。
あのときからずっと、俺の時間は止まったままだった。
「ブレンドでいいですよね?」
「ああ、うん」
それは偽物の注文だったけど、べつに異論はない。
今朝までの自分なら、妙な反発心で違うものを頼んでいたかもしれない。
でも、そんなことで俺の自由が制限されるのも馬鹿らしいように思えてきた。
カウンター席に腰掛けて、むこうがわでちどりが動くのを眺める。
制服に水色のエプロン、長い髪はサイドにまとめられている。
あのとき、森にいかなければ、俺は六年間もあんな場所に居ずに済んだのだろう。
でも、そのときちどりはどうなっていたんだろう。
そう思うと、俺の六年の虚空のような日々も、無駄でもないように思える。
こんな綺麗な姿を見せてもらえたんだから。
79 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:16:29.73 ID:w8k2cM92o
……大野、真中、市川、瀬尾、ちせ。
悪い奴らじゃない。それは分かる。
とくに瀬尾。彼女がちどりのスワンプマンだとしたら……。
たとえそれが偽物だったとしても、ないがしろにできない気持ちもある。
同時に、偽物のことなど知ったことではない、という気持ちも湧く。
やはり俺は混乱している。
「どうぞ」とちどりがカップを差し出してくる。俺は受け取って、コーヒーに口をつける。
「美味しそうには見えないものですが」とカレハは言う。
「ただの真っ黒い液体です」
きみはものを食べないのか?
「食べられませんから」
食べられないらしい。
何気なくちどりの顔を見ると、彼女もまた俺を見ている。
「仕事はいいのか?」
「今日は暇なので」
暇らしい。
「そっか」
「あの、隼ちゃん……」
80 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:17:35.53 ID:w8k2cM92o
「ん」
「このあいだのこと……あ、えっと、体調、よくなりましたか?」
「ああ、うん」
このあいだのこと?
記憶は、さくらに会った最後の記憶をちゃんと持っている。
偽物が風邪を引いて、さくらが見舞いにきた。
それからひと騒動あったのだっけ。
「……それなら、よかったです」
ほっとしたような、どこか残念そうな顔をちどりはする。
「なあ、ちどり。暇なんだよな」
「え? ……はい」
「ちょっと外に出られるか?」
「ええと、まあ」
「そっか」
俺はまだ熱いままのコーヒーを無理やり飲み下して立ち上がる。
店の外に出るからというので、一応財布から金を出しておく。
偽物のことも、ある意味ではそんなに憎む気がしない、やはり。
けれど……この場所をあいつにくれてやるわけにはいかない。
81 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:18:50.70 ID:w8k2cM92o
俺はちどりを誘って店の外に出た。
ちどりはエプロンを外しかけたけれど、すぐそばだしすぐに済むというとそのままついてきた。
どこにいくのかと訝しがっていた様子だったちどりは、俺が店の裏手の路地に踏み入ると戸惑った顔をした。
「来て」
「……はい」
なにか、おかしなものを感じたのだろうか。少しだけ、躊躇が見えた。
けれど、結局俺に従わない理由を見いだせなかったのだろう。とたとたと早足でついてくる。
通りから隠れるようにして、俺は建物の壁に背をもたれさせた。
「隼ちゃん、どうしたんですか?」
「お願いがあるんだ、ちどり」
「……はい」
どこがいいだろうな、と思いながら、俺は制服の袖から出たままの自分の腕をちどりに差し出した。
「……」
ちどりは不思議そうに首をかしげる。俺はなるべく平然とした表情を保つように意識した。
そして、言った。
「噛んでくれないか?」
「え……?」
82 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:19:33.69 ID:w8k2cM92o
ちどりの表情を、じっと見つめる。
驚きと、戸惑いが浮かんでいた。でも、それ以上に見て取れたのは、気まずさのような気配だった。
やましいことをした子供が、それを誰かに見つかったときのような。
「あの、こないだのは、違うんです。あれは……」
「怒ってない」
そう、俺は怒っていない。
「ただ、お願いしてるだけだ」
「でも、そんなの変ですよ」
「うん。変かもしれない」
ちどりは逃げようとするみたいにあたりに目を泳がせる。その様子を、俺はじっと見ている。
やがて目が合うと、気まずそうに俯いた。
「でも……」
「いや?」
「いやとかじゃ……あ、いやじゃないっていうのは、べつにしたいってわけじゃなくて……」
「違うよちどり」と俺は言う。
「俺が頼んでるんだ」
彼女は、あからさまに頬をそめて、この状況に戸惑っていた。
けれど俺は狼狽えない。狼狽えている場合じゃない。
83 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:20:38.35 ID:w8k2cM92o
ちどりは黙ったまま、俺の腕を取ろうとはしない。
かわりに、逃げようともしない。
強硬手段に出るしかない。
「……わたし、ちょっとあっちにいってますね」
と、いまさらカレハが気をきかせたように間の抜けた言葉を出した。
そうしてくれ、と俺は頭の中で返事をする。
そして、俺はゆっくりと、腕を動かす。徐々に近付いていくのが、ちどりにもはっきりと分かるように、ゆっくりと。
彼女は小さく後ずさるけれど、その動きは狭い路地のなかであまりに頼りなかった。
俺の指先が、彼女の唇へと近付いていく。
その様子を、ちどりの目が追っているのが分かる。
ちどりは逃げなかった。
俺の人差し指がちどりの唇に触れる。
彼女は逃げようともせず、何かを言おうともせず、ただ、俺の顔を見ている。
しばらくそのまま、俺は彼女の唇を指先でやさしく撫でる。
感触、感覚。息遣いや、体温。その柔らかさ、滑らかさを感じ取る。
その感覚が自分のものだと分かる。
84 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:21:05.92 ID:w8k2cM92o
しばらくちどりは、俺にされるがままになっていた。
ふと、いたずら心が湧くのが分かる。
思わず俺は口元を緩めてしまった。
ちどりが不思議そうに眉を寄せた。
「逃げないの?」と訊ねてみると、彼女は耳まで赤くなった。
それから決心したみたいに、反撃するみたいに、俺の親指にがぶりと噛み付く。
走る痛みに、思わず顔をしかめる。
その表情を見てか、彼女は一瞬噛む力を弱めたけれど、俺の笑みが崩れていないのを見ると、勢いづいたみたいに続けた。
両手で俺の手の甲を包むように握ると、かすかにそれを引き寄せて、親指を口の中へと引き入れて、付け根の部分に歯を当てた。
うかがうみたいに上目遣いでこちらを見たあと、ゆっくりと力を込めるように、噛む力が強くなっていく。
ぬめぬめとしたあたたかい粘膜の感触が俺の指をふやかすように包んでいる。
ぎゅ、と、強すぎない力でもう一度噛んだあと、ちどりは指を自分の口から引き抜くようにした。
親指があたたかさから解放されたとき、湿り気を帯びた水音が路地にやけに大きく響いた。
一瞬その音に、ちどりは恥じ入るみたいに目を伏せたけれど、
「……隼ちゃんが悪いんですからね」
と言って、今度は俺の腕に口をつけた。
85 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:22:55.91 ID:w8k2cM92o
今度は俺が壁際へと押し付けられる。
ちどりは俺の腕に歯痕をつけながら、俺の反応をうかがうように視線だけがこちらを向いている。
痛み、あたたかさ、肌の感触、は、
俺が六年間、求めても得られないものだった。
「……まいったか」
と、口を離した一瞬の隙に、照れ隠しみたいな声で言う。
「まいってない」と俺が言うと、不満そうな顔で今度は肩に噛み付いてきた。
ちどりの頭が俺の顎の下で動いている。髪の匂いを感じる。
ちどりの噛み方は、決して鋭い痛みを生まないけれど、噛まれた場所が熱を持ってじんじんと鼓動するようだった。
痛み。
刺激。
そう、刺激。
刺激が、感覚が、ないと、人は倦んでいく。
人間は何かをしていないと腐っていく生き物だ。
取り戻さないといけない。この痛みで、刺激で。
どんな衝動に突き動かされたんだろう。
俺は両手をあげ、ちどりの頭を引き剥がし、一瞬、彼女と目を合わせた。
戸惑ったような表情を見てから、そっと首筋に歯を当てる。
静かに、溜め息のように声を漏らすのが聞こえた。
86 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:23:58.05 ID:w8k2cM92o
その瞬間、
耳の奥に“ざわめき”が響いた。
その音に、思わず俺は顔をあげた。
周囲のどこにも木なんてない。
風なんて吹いていない。
それなのに、葉擦れの音が聞こえる。
そうか、と俺は思う。
まだ居たか。今、見ているのか。
不思議そうに俺の顔を見上げるちどりのその唇に、また俺は親指を押し付ける。
押し広げるように、親指をちどりの唇に滑り込ませる。
彼女は拒まない。いま、この空間になにかの魔法がかかったみたいに、いつもできないことが、いまは可能になっている。
葉擦れの音がうるさい。
ちどりが俺の親指を、もう一度噛んだ。
痛み、感覚。
俺のものだ。
ここは俺の場所だ。
ここをもう二度と、おまえに奪わせやしない。
そのためなら、俺は、なんだってしてやる。
誰のことだって、裏切ってやる。
87 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 00:28:01.31 ID:w8k2cM92o
つづく
88 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/15(木) 00:41:40.87 ID:qA+a8nkW0
おつです
89 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2018/11/15(木) 00:41:54.13 ID:UVm5G9kX0
おつです
90 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/15(木) 07:30:22.51 ID:0rYAkDKkO
おつです
91 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/15(木) 08:27:03.74 ID:8I4n2RthO
乙です
80のさくらは、ちどりじゃない?そうじゃないと話が通らない
92 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/15(木) 09:27:05.87 ID:rOfUbioSO
80-5,6 さくら → ちどり
ごめんなさい
93 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/11/15(木) 14:27:09.75 ID:2H06bmGXO
乙です。
ちどり推しの俺にはいい展開だか、このままだと青葉がなきものにされてしまう
94 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 22:58:15.48 ID:w8k2cM92o
『トレーン』を出て家に帰ると、純佳はひとりリビングのソファでドラマを見ていた。
「おかえりなさい」と彼女は言う。
「ああ、ただいま」と俺は答える。
それから彼女の背後に近づき、くしゃくしゃとその頭を撫でた。
「……なんですか?」
「いや。なんでもない」
そう言って、俺はそのまま自分の部屋に戻る。
鞄を置いて、そのままベッドに倒れ込む。
「どうかしましたか?」とカレハが訊いてくる。
俺はうまく答えることができない。
95 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 22:58:50.00 ID:w8k2cM92o
「音が……」
「音?」
「"止まない"」
葉擦れの音、と、偽物はずっとそう呼んでいた。
二重の風景、葉擦れの音。それがいま、俺のもとにやってきている。
偽物は、俺のかわりに、あの森にいる。それが分かる。
けれど同時に、その感覚におそろしく戸惑う。
いま、俺はたしかに三枝隼として、三枝隼の身体を支配している。
けれど、風景は二重になり、今俺は、あの月と、葉擦れの音を、同時に見聞きしている。
頭が混乱して仕方ない。
音がうるさい。
周囲の音が、状況が、つかめなくなる。自分が今いる場所に自信が持てなくなる。
96 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 22:59:24.09 ID:w8k2cM92o
こんな状況のまま、まともに生活するなんて、困難にもほどがある。
引きずり込まれそうだ。
冗談じゃない。
せっかく身体を、感覚を取り戻したのに、こんな有様なんてあんまりだ。
冗談だろ、と思った。
あいつは正気だったのか?
あいつはこんな生活をずっと続けていたのか?
また、景色がざわつく。
こんな音を聞きながら、こんな景色を見ながら、あいつはずっと平然と生活していたのか?
正気の沙汰じゃない。
いまはもう、身体を動かすことさえ億劫だ。
97 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 22:59:58.36 ID:w8k2cM92o
いま、頭の奥が、なにか、熱を持っている。
葉擦れの森が騒いでいるのが分かる。
どうにかしなきゃいけない。
まともな生活を、取り戻さなきゃいけない。
こんな状況じゃ、他に何もできない。
どうにかしなきゃいけない。
あいつと俺のあいだの繋がりを、どうにかして剥がし落とさなきゃいけない。
もう嫌だ。あの森に縛られるのは、もうたくさんだ。
どうする? どうすればいい?
今日、文芸部室で、市川や大野たちは、瀬尾を探すことに尚もこだわっていた。
どうする?
答えは、実はもう出ている。その場しのぎだとしても、その手段を取れば、少なくともとりあえず時間は稼げる。
けれど、本当にそうしていいのか?
簡単な話だ。
瀬尾が帰ってくることで、俺自身の状況が危うくなるのなら、瀬尾をこちらに帰れないようにしてしまえばいい。
あの絵を、破くなり、燃やすなりして、亡失させてしまえばいい。
そうすれば瀬尾はこちらに帰ってこられないし、部員たちもむこうにはいけない。
98 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 23:00:25.15 ID:w8k2cM92o
けれどそれは、"瀬尾青葉"をこの世界から追放し、むこうに閉じ込めることを意味する。
俺はそうすることができるか?
……そうするほかない。
どちらにしても、今までの偽物のふりを続けるなら、俺はあの部室に行かなきゃいけない。
そうなればあいつらは、瀬尾が帰ってくるまでずっと、あちらに行く方法を模索するだろう。
それに従い続けていたら、いつか、俺はまた"むこう"に行くハメになるかもしれない。
そのとき、俺の身体はちゃんと俺のもののままで居てくれるだろうか?
あそこでは、何が起きるかわからない。
ましてや、いま、俺が身体を保持できているのだって、カレハの協力あってのことなのだ。
何かの拍子でそれがだめになってしまう可能性だってある。
仮にそういったことが起きなかったとしても、瀬尾青葉が"スワンプマン"に気付いたら。
その結果、彼女は俺を糾弾しうる。
瀬尾が憎いわけじゃない。
それでも俺は、瀬尾青葉を追放しなきゃいけない。
そうすることで、俺は平穏を取り戻せる。
葉擦れの音が──音がうるさい。
99 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 23:00:57.16 ID:w8k2cM92o
「そうだな……」
そうだな、と俺は思う。
瀬尾青葉を、追放する。
あの絵をどうにかして、瀬尾青葉を追放する。
それは可能だ。
もともと彼女は“そこにいる”はずの存在だったのだ。
だったら、かまわない。
瀬尾とのアクセスを、まず、完全に断つ。
そのあとはどうする?
決まっている。
この音を止めなきゃいけない。
止め方は知っている。
この音が聞こえる以上、あいつはあの森のどこかにいる。
それは賭けに属する。
あの森に、俺はもう一度向かう。
涸れた噴水のむこうに。
100 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 23:01:26.37 ID:w8k2cM92o
俺がそのとき俺であることを保てるかどうかはわからない。
でも、どちらにしても、こんな音が聞こえていたら、いつまで経っても実感が湧かない。
本当にいいんですか、と音の合間でカレハが言う。
かまわない、と俺は思う。
あいつを殺そう。
あの偽物を亡き者にする。
そうすれば、この音は止む。二重の風景は消える。
眺めている目がなくなれば、映る景色は消えてなくなる。
存在しなくなる。
あいつを殺す。
俺の六年間を奪ったあの森で、俺は俺の偽物を殺す。
そうすることで、俺は俺自身の本当の生活を取り戻す。
それで本当にいいんですか、とカレハはもう一度言う。
「かまわない」と俺は繰り返した。
でも、彼女を追放し、彼を殺したら、あなたは“今のままではいられない”かもしれませんよ。
そうかもしれない、と俺は思う。
101 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2018/11/15(木) 23:01:51.90 ID:w8k2cM92o
リスクはあるだろうか?
瀬尾青葉を追放することには、リスクはあるかもしれない。
ましろ先輩、怜、真中、ちせ、市川、大野。「むこう」の存在を知っている人間は多い。
今、様子がおかしいと疑いを持たれているときに、そんなことをしたら、まっさきに俺の仕業だと言われるだろう。
だとしたらどうする?
そうだな。
瀬尾のことを判断するのは後にしよう。
ただ、かといって、あの絵が面倒を引き起こすのも困る。
ひとまず……「あいつ」を殺そう。
絵のことは、そのあとに判断すればいい。
それまでの間、絵は隠しておけばいい。
あいつのことを殺してしまえば、瀬尾青葉が何を言おうと、俺の存在は揺るがない。
あいつに奪われることはない。
そうだな。
あの絵を隠そう。
「……それでいいんですね」とカレハが言う。
「不服か?」と俺は訊ねる。
「……いえ」
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