傘を忘れた金曜日には.

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175 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/20(火) 08:12:12.76 ID:yJYc96neO
おつです
176 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 00:57:29.78 ID:xi8CJFvoo



「せんぱいは……でも、昨日だけじゃなかった。その前から、ちょっと様子がおかしかった、と、思う」

 柚子は、しばらくの沈黙のあと、少し冷静になろうとするような、無理のある声で、そう言いました。

「少なくとも、わたしが入部したばかりの頃より、せんぱいは苦しそうにしていた気がする」

「……それって、いつ頃かな」

 柚子は、少し考えるような顔をしました。

「青葉先輩がいなくなった頃……」

 そう言いかけて、柚子は少し考え込むような表情になって、

「……違う」と言いました。

「……違うって?」

「もっと後かもしれない」

 柚子は何かを思い出そうとする様子でしたが、はっきりしないようで、もどかしそうな顔をしました。

「ねえ」と、姉さんが言いました。

177 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 00:57:55.93 ID:xi8CJFvoo

「柚子ちゃんが知ってる隼くんって、どんな人?」

 その言葉に、柚子の表情は感情が抜け落ちたようにぽかんとしました。

「どんな?」

「うん。そもそも、柚子ちゃんと隼くんって、どんなふうに出会ったの?」

 それについては、実はわたしもよく知りませんでした。
 
 なんとなくの、おおまかの事情のようなものは、柚子から話してもらいました。
 隼さんと柚子は、「付き合っているふり」をしていて、それをやめたのだと。

 そして柚子は隼さんが好きで、隼さんはそれを知りながら、柚子にはっきりした答えを返していないのだと。
 いえ、違うかもしれません。そのあたりの情報は、少し曖昧です。

「せんぱいとわたしは……」

 柚子にとってそれを説明することは、むずかしいことなのかもしれません。
 かさぶたを剥がすような顔で、彼女は口を開きました。

178 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 00:58:52.88 ID:xi8CJFvoo

「その前に聞かせて」

 と、わたしが口を挟みました。
 このままでは、柚子が、何か、言いたくないことまで口に出してしまいそうな、そんな気がしたのです。

「なに? ちせ」

「姉さんは、どうして隼さんの様子を知りたがるの?」

 そう、わたしは未だに、それがわからないのです。

「さっきも言ったとおり、それはちょっとむずかしい話なんだよ」

「いいから言って。怒るよ」

「怒るとどうなるの?」

「……」

 ふむ、とわたしは考えました。

「えっと……」

 あんまり思いつきません。岐阜城をどうこうするのもかわいそうです。

「あの、口きいてあげない。しばらく」

「……」

179 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 00:59:46.44 ID:xi8CJFvoo

 少し沈黙があって、緊張が緩んだみたいにみんながくすくす笑いました。

「……あの、今のナシで」

「口きいてもらえないのは、困るなあ」

「ナシだってば!」

 姉さんは楽しそうに笑っています。わたしはまた、とっさに子供っぽいことを言ってしまいました。
 気をつけてはいるつもりなのです。

 わたしも本当は、姉さんみたいに人をからかう側にまわりたいのですが。

「うん。……話そう」

 姉さんは、緩んだ口元を隠そうともしませんでしたが、けれど不思議と、その表情のどこかに怯えが含まれているようにも見えました。

「みんなはさ、"スワンプマン"って言葉を知ってる?」

「"スワンプマン"……?」

 わたしは、他の三人の顔を順番に見ました。
 心あたりがあるのは、どうやら、市川先輩だけのようです。

 姉さんは、わたしたちのために、その思考実験について簡単な説明をしてくれました。

180 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:00:14.25 ID:xi8CJFvoo

「隼くんがね、昨日、電話してるときに、そんなことを言ったんだよ」

「……どうして突然、そんなことを?」

「言っちゃおうかな」という顔を、姉さんはしました。
「うん、言っちゃえ」というふうに動いていきます。

「隼くんが言うんだよ。自分は、"三枝隼のスワンプマンなんじゃないか"って」

「……」

 さすがに、言葉が出ませんでした。驚くというより、どうしてそう思うのか、という気持ちが強いです。

「これだけじゃわからないと思うから、みんなには話すね。
 実は、わたしと隼くんは、高校で初めて会ったわけじゃないんだ」

「……ましろさんは、"神さまの庭"を知ってましたね」

 市川先輩の言葉に、姉さんは頷きます。

「隼くんもそうでした。"六年前、神さまの庭に迷い込んだ"。だとしたらふたりは……」

「うん。そうだね。隼くんは気付いてなかったけど、わたしは知ってた。
 わたしは六年前に、隼くんと"神さまの庭"のことで出会った。その一回かぎりだけどね」

「……」

「隼くんは言ってたよ。『六年前からずっと誰かの居場所を掠め取っているような気がする』って。
 それはたぶん、何かの強迫観念なんだろうと思ってた。
 たしかにあの『森』には変な力が働いているけど、スワンプマンなんて突拍子もないしね」

 なんだかわたしは、話の流れに不穏なものを感じました。

181 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:01:07.68 ID:xi8CJFvoo


「だからわたしは、考えすぎだよって言った。でも、隼くんは聞かないの。
『神さまの庭』に踏み込んでから、本当の自分はむこうにいる気がするって。うん、神さまの庭って言葉を聞いたのも、そのときだったな。
 自分の大部分はあそこに取り残されていて、今ここにいる自分はその存在の"残り滓"なんだって言ってた」

「残り滓……?」

「"誰とも繋がれないし、何も求めることができない"」

「……」

「そう言ってた」

 それは、本当なんでしょうか。
 
「ねえ、待って」とわたしは言いました。

「それ、昨日の夜の話だよね?」

「うん。昨日の夜の電話」

「……」

「そう、隼くんのその言葉が正しいのかどうかはともかく、おかしいんだ」

 姉さんは、そう言いました。

「そんなふうに言っていた隼くんが、どうして今日はみんなの前でそんなに元気だったのかな?」

 わたしたちは、言葉を失いました。

182 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:02:09.32 ID:xi8CJFvoo

「……待ってください。話が飲み込めない」

 そう言って額をおさえたのは大野先輩です。
 無理もないでしょう。わたしだってそうです。

「だからね、わたしもわかんないから、みんなの話を聞いて判断したかったんだよ」

「……先輩は、何が言いたいんですか」

「わたしは、昨日の電話のとき、様子がおかしかった隼くんを心配して、話を聞きたかっただけ。
 でも、みんなの話を聞くとさ、明らかにおかしいんだよ。……前日の隼くんの言っていることがね」

「……」

 わたしの頭によぎったのは、突飛な想像でした。

 今日わたしたちが見た隼さんは、昨日までわたしたちと会っていた隼さんではないのではないか。
 そんな、突飛な想像でした。

「……さすがに、ありえないでしょう」
 
 大野先輩は、そんなふうに繰り返します。でも、

「ありえなくは、ないんだよね」

 姉さんもそう言うばかりでした。
 姉さんは"神さまの庭"に何度も行ったと言っていました。不思議なものも、その数だけ体験したんでしょうか。

 わたしにはわかりません。

183 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:02:47.77 ID:xi8CJFvoo

「……今度は違う話だけど、隼くん、それとは別に、変なこと言ってた」

「変なこと?」と問い返したのは柚子でした。

「ん。六年前にわたしと隼くんが会ったとき、他にふたり、一緒に隼くんの友達がいたんだけどね、
 そのうちの片方が、青葉ちゃんだったって言ったの」

「……青葉さんが?」

「でも、おかしいよね。青葉ちゃんと隼くんは、高校に入ってから初対面だったみたいだし。
 なんだかそのあたりのことも、勝手に納得されちゃったんだけど」

 六年前……?

「──ましろさん」

 不思議に鋭い声で、柚子が姉さんを呼びました。
 空気にぴしりと亀裂が入ったように、わたしは感じます。

「六年前……六年前って、何月ですか」

「え? ……五月って話だったと思うけど」

「五月……」

 柚子は、少しの間、呼吸をしているかどうかもわからないような真剣な顔で、身じろぎひとつしませんでした。
 やがて、

「"スワンプマン"……」

 と小さく呟きました。

184 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:03:14.20 ID:xi8CJFvoo

「どうした、真中」

 大野先輩の問いかけにも応じず、柚子はわたしの方へと向き直ります。

「ね、ちせ。青葉先輩の家に行ったときのこと、覚えてる?」

「え……うん」

「あのとき、青葉先輩のお母さん、いつだって言ってたっけ?」

「……いつ、って?」

「ほら……」

 言葉はわかっているのにそれが思い出せないようなもどかしげな表情で、彼女はわたしを見ました。
 思い出せないのではなく、この場では言いにくいのだと気づけたのは、ほとんど偶然でした。

「……"六年前の五月"だ」

 ──六年前の五月。街の公園で、汚れた服を来て、地べたに倒れている子供を、わたしの旦那が見つけた。

「そうだ。言ってた」と柚子は言いました。

 ──厳密にいうと、とてもよく似ている子がひとりいたんだけど……その子はね、いなくなっていなかった。

「だからだ。だから、せんぱい、様子がおかしかったんだ」


185 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:03:43.90 ID:xi8CJFvoo


「……ね、柚子、どういうことなの?」

「気付かないの? ……そうか。ちせは会ってないんだ」

「……?」

 わたしが首をかしげていると、柚子は、大野先輩の方を見ました。

「大野先輩、なんて言いましたっけ、せんぱいのお見舞いにいったときに、会った人」

「……会った人?」

「ほら、せんぱいの幼馴染だっていう……」

「……鴻ノ巣、ちどり、さん、だったっけ? あの子がどうした?」

 鴻ノ巣……。

“鴻ノ巣”?

 ──名前は、思い出せないけど、苗字は珍しかったから、覚えてる。

 ──たしか……鴻ノ巣って言ったかな。

186 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:04:45.52 ID:xi8CJFvoo

「ましろさん、せんぱいは、"六年前の五月に、神さまの庭のことでましろさんと初めて会ったとき、その場に瀬尾さんも居た"って言ったんですよね」

「……うん、曖昧な言い方だったけど、そういう話だった」

「でも、青葉さんは、高校のときに先輩に初めて会った。そうですよね?」

「うん。少なくとも、知り合い同士だったって感じではなかったと思う」

「六年前に、せんぱいとましろ先輩が会ったときに一緒に居たふたりは、せんぱいの友達だった」

「うん。それは、最初に聞いたから、間違いないと思う」

「せんぱいは、わたしやちせと一緒に青葉先輩の家に行った。だからせんぱいだけが気付いたんだ」

「……柚子、ちゃんと説明して」

「せんぱいは、青葉先輩と鴻ノ巣ちどりさんのどちらかがスワンプマンだって思ったんだよ」

 唐突に激しくなった柚子の口調に、みんなが戸惑いを隠しきれませんでした。

 わたしは、その、鴻ノ巣ちどりという人の話も初耳でした。
 というより、初耳のことばかりです。

 逆に、大野先輩も市川先輩も、姉さんも、青葉さんの事情のことを知らないから、ピンと来ないのかもしれません。
 そのことをちゃんと説明すれば、ふたりなら分かるのでしょうか。

 いずれにしても、その突飛な言葉に、今は戸惑いを覚えるばかりです。


187 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:05:37.33 ID:xi8CJFvoo

「たしかに、鴻ノ巣さんは瀬尾にそっくりだったけど、だからって、スワンプマンっていうのは唐突じゃないか?」

 大野先輩の反駁にも、柚子は怯みませんでした。

「事実は関係ないんです。でも、さっき、ましろさんも言いました。"ありえなくはない"って」

「いや、ありえないだろう?」

「違うんです。わたしが言いたいのは、"むこう"に行ったことのある人は、"ありえなくはない"と考えているということです」

「……どういう意味だ?」

「本当にそうなのかはともかく、せんぱいは、"スワンプマン"という現象は起こりうると考えたかもしれない。
 だからましろさんに、"六年前、ましろさんと青葉先輩が会ったことがある"と言った。
 そう言った以上は、事実がどうかはともかく、せんぱいは、鴻ノ巣さんと青葉先輩のどちらかがスワンプマンだと確信してたんです」

 だから思ったんだ、と柚子は言います。その納得に、わたしはほとんどついていけていませんでした。

「せんぱいは気付いたんだ。"スワンプマン"はあり得るかもしれない、って。
 だとしたら、自分もそうかもしれないってせんぱいは考えた。どうしてかはわからないけど、考えた」

 だからずっとせんぱいは……、と、そこまで言いかけて、柚子の表情がこわばったまま動かなくなりました。

188 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:06:04.90 ID:xi8CJFvoo

「……柚子ちゃん?」

 姉さんが問いかけると、柚子は、驚くほど無感情な表情で、溜め息をつきました。

「……ごめんなさい、今日はちょっと、帰ります」

「大丈夫?」
 
 市川先輩が、そう訊ねました。
 わたしはなんだか、いまの柚子を見ていることがこわくて、何も言えませんでした。

「ちょっと、なんだか、先走ったこと、考えちゃったみたいだから。少し、混乱してるのかもしれない。
 頭も痛くなってきたので……今日は、申し訳ないんですけど」

「うん、帰れる?」
 
 姉さんの問いかけに、大丈夫です、と柚子は答えました。

 柚子は、何を言いかけたのでしょうか。

 それはわかりません。

189 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:06:43.54 ID:xi8CJFvoo


 柚子が席を立って店を出ていったあと、ましろ姉さんが口を開きました。

「……さっきの話だけど。鴻ノ巣さん、だっけ?」

 大野先輩が頷きました。わたしはいま、話の内容がほとんど頭に入りそうにもありません。

「その子、青葉ちゃんにそっくりで、隼くんの友達なんだね?」

「はい。それで、前に見間違えて……瀬尾がいなくなったあとに見かけたから、俺は、三枝が瀬尾をかくまってるんだと思ったくらいです」

「……そっか。ね、ちょっと、ちせ」

「なに」

「ジュースを取りに行こう」

 わたしは唐突な提案を怪訝に思いました。きっと、他のふたりもそうだったと思います。
 でも、言われるままにコップを持ってドリンクバーの方へと歩いていきました。

「ちせ、さっき柚子ちゃんが言ってた言葉の意味、わかった?」

「……たぶん、だけど」

「どういうこと?」

「言っていいのかわからない」

「……お願い」

 まっすぐに見つめられて、わたしは答えるしかありませんでした。
 後ろめたさは、背筋を冷たく撫でるようです。
 自分がひややかな物質になったようにさえ思えるくらいでした。

190 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 01:08:13.34 ID:xi8CJFvoo


「青葉さんの家に、前、わたしと、柚子と、隼さんで、話を聞きに行ったの。
 青葉さんがいなくなってから、手がかりを得るために。
 でも、空振りで、そのかわりに、青葉さんの事情を聞かされた」

「事情……」

「青葉さんは、六年前の五月に、今の家の人に拾われたんだって。
 そのとき、青葉さんは、自分の名前すら覚えていない状態だったんだって」

「……六年前の五月」

「そのとき、近隣の小学校なんかをあたっても、いなくなった子供は見つからなかった。
 青葉さんにそっくりな子はいたんだけど、その子はいなくなってなかったんだって。
 その子の名前が……鴻ノ巣だった、って」

「……」

 わたしは、自分がひどく人間だという気がしてきました。
 自分でここまで口に出してみて、ようやく柚子の言いたかったことがわかった気がします。

「ねえ、お姉ちゃん……わたし、なんだか、怖いよ」

「……ん。ちせ、ひとつ頼まれてくれない?」

「……なに?」

 姉さんは、人差し指を立てて、いたずらっぽく笑いました。

191 :sag [saga]:2018/11/21(水) 01:08:52.90 ID:xi8CJFvoo




 そのあとわたしは、「やっぱり柚子が心配になった」と言って、三人と別れました。
 そのまま柚子を追いかけることはせず、一度家へと帰り、大きめの鞄を用意しました。
 
 まだ外は明るいですし、時間的に、運動部の練習も続いているでしょう。

 これは出入りするようになってから知ったことですが、最近、文芸部の部室には鍵がかけられていないようです。

 わたしは学校へと引き返し、そのまま部室へと行くと、額に入った絵を、慎重に鞄に入れました。

「まさか、ここで"むこう"に行ってしまったりしないだろうな」と不安になりましたが、大丈夫でした。

 そのままわたしは、家へと絵を持ち帰りました。

 何のためにそんなことをするのか、わかりませんでした。
 姉さんは、「隼くんのためだよ」と言いましたが、わたしには何のことかわかりません。

 それでも従ってしまうのは、そんなふうに行動していないと、わたしの思考がどこか危険な領域に踏み込んでしまうかもしれないと感じたからでしょうか。
 それとも既に、わたしの思考が、たどり着いてしまっていたからでしょうか。

 ──そんなふうに言っていた隼くんが、どうして今日はみんなの前でそんなに元気だったのかな?

 ひょっとしたら柚子も、その疑問にたどり着いたからこそ、あんなふうに取り乱したのではないでしょうか。

192 : ◆1t9LRTPWKRYF :2018/11/21(水) 01:09:42.00 ID:xi8CJFvoo
117-5 瀬尾先輩 → 青葉先輩

つづく
193 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/21(水) 01:14:28.92 ID:xi8CJFvoo
190-12 ひどく → ひどい
194 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/21(水) 02:39:57.09 ID:VQjNZ+bu0
おつです
195 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/21(水) 06:48:04.97 ID:SNVegl000
おつです
196 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:22:41.27 ID:xi8CJFvoo




「ただいまー」と姉さんが家に帰ってきたのは、夜の七時を過ぎたころでした。
 
「遅いよ、もう」とわたしは不服を申し立てました。

「ごめんごめん。何怒ってるの?」

「なに怒ってるのじゃないでしょ。人に泥棒みたいな真似させておいて」

「ごめんって。でも、泥棒みたいな真似っていうか」

 泥棒そのものだけどね、という姉さんの言葉に、わたしは返す言葉もなく口を閉ざしました。

 泥棒そのものです。しかも実行犯でした。

「大丈夫大丈夫、明日の朝に返せば誰にも見つからないって」

「それは、そういう問題じゃ……」

 姉さんは、わたしの言葉に聞く耳ももたずに、「はいこれ」と手に持っていたビニール袋を差し出しました。

「なあに、これ」

「手土産」

 それを言うならお土産だろう、とわたしは思いました。
 袋の中を見てみると、牛乳プリンがふたつ入っています。

 ん、とわたしは考えました。

「手土産ってまさか」

「そ」

 姉さんはいたずらっぽく笑いました。

197 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:24:09.26 ID:xi8CJFvoo

 そのつもりで、姉さんは絵をとってこいと言ったんでしょうか。

 それが隼さんのためだという言葉の意味はわかりません。

 それでもわたしは、姉さんがやろうとしていることがわかりました。

「でも、大野先輩たちは、駄目だったって」

「ん。そりゃそうだろうね」

「隼さんじゃないと、駄目なんでしょう?」

「ん。そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない」

 またこれです。曖昧な言葉で煙に巻こうとするのは、姉さんの悪い癖です。

「どういうことなの?」

「ちせが行くんだよ」と姉さんは言いました。

「え?」

「ちせが行くの」

 と、繰り返します。だからわたしも、

「……え?」と繰り返しました。

198 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:25:26.13 ID:xi8CJFvoo




 そんなの絶対無理だよ、とわたしは言いました。

 無理かどうかなんてわからないじゃない、と姉さんは言いました。

 そしていま、わたしは、真昼の森に立っています。

「……うぅ」

 ひどい姉がいたものです。あれだけさんざん『何が起きても不思議じゃない場所だ』と言っておいて、妹をひとりで放り出すでしょうか。

 姉さんの理屈では、こういうことでした。

「青葉ちゃんの手紙は、あくまでも、『次来るときは、牛乳プリンを持ってきてね』ってことだったでしょう?」

 ということは、条件はふたつかもしれないと姉さんは言いました。

「一度、むこうに行っていること。そして、牛乳プリンをもっていくこと」

 そんなまさか、とわたしは思いました。
 厳密には手紙には、『昨日はありがとう』という文言もあったはずなのです。
 隼さん宛のものだと解釈するのが妥当なはずです。でも、姉さんは、

「こういうのは、試したもん勝ちだよ」と譲りませんでした。

 真昼の森には、一度来た時と同じく、木々の隙間を縫うような小径が続いていました。

 入ってすぐ、イワカガミの花がそこにあることに、ひとまずほっとします。
 これでもし帰れなかったら、姉さんのことを一生恨むだけでは足りません。

 帰ったら岐阜城をひっくりかえしてやろう。妹にこんなことをするなんて人畜の所業です。

199 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:26:14.58 ID:xi8CJFvoo

 第一、わたしは乗り気ではありませんでした。

 そもそも、皆さんの手前言いたくありませんでしたし、わたし自身、青葉さんを心配する気持ちはあったので黙っていましたが、
 わたしは正直、ここに来るのがいやだったのです。

 ビニール袋の持ち手をぎゅっと握って、わたしは溜め息をつきました。

 でも、まあ、状況は最悪ではありません。

 姉さんが無理にでもこちらに来ようとしなかったのは、ひどいとは思いますが、わたしとしては助かった部分があります。

 もしわたしがまた“あんなふう”になってしまったら、と考えると。
 姉さんの前であんな事態になってしまうのは、何がなんでも避けたいところです。

 こうなってみて初めて気付くのですが、もし大野先輩が、牛乳プリンのことを隼さんに伝えていたら……。
 そして、隼さんがもしそれを試すとしたら、そのときわたしもその場にいたとしたら……。

 わたしは下手をすると、隼さんとふたりでこっちに来ていたかもしれないのです。

 そうなってしまっていたらと想像すると、正直、おそろしい気持ちになります。
 もし隼さんとふたりきりでこっちに来てしまったら、わたしは自分がなにをしでかすか、自分でもわかりません。

 想像できないという意味ではなく、想像できるからこそおそろしいのでした。

200 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:27:13.03 ID:xi8CJFvoo

 などと考えている今この瞬間ですら、わたしの身体に異常が起こり始めます。

「……どうしろっていうの」

 声に出したってしかたないとわかっているのですが、こうなっては、恨みがましく姉さんのことを考えてしまいます。
 いつもこうです。損をするのは妹のわたしなのです。

 それが我慢ならないというわけではないですし、姉さんのことは好きですし、憧れすら覚えています。 
 それでもこういうことになってしまうと、なんだかふてくされたような気持ちが湧いてくるのです。

 得体の知れない熱のかたまりのようなものが、じんわりとわたしの内側に広がっていきました。
 それは縁側でひなたぼっこをしているような、太陽の光に包まれているような、不思議なあたたかさです。

 でも、この心地よさに負けてしまったとき、どういうことになるのか、わたしはもう知っています。

「……どうしよう」

 姉さんは言いました。「青葉ちゃんの様子を見てきてよ」と。

「それで、話を聞いてみて」と。でも、そんなことを言ったって、青葉さんがどこにいるのかなんて、わたしは知らないのです。

 できることなら今すぐ引き返したいところですが、わたしはひとまず歩きはじめました。

 隼さんと来たときは、どんどんと林冠が狭まっていき、光が削られていった記憶があります。

 この木漏れ日の森はとても心地よくて、それが異様な空間だなんて信じられないくらいです。
 人が幸福な日々というものを想像したとき、こういう景色が浮かぶこともあるのではないでしょうか。

 そのくらいに澄んだ空気、あたたかな陽気、涼やかな木漏れ日。

 でも……わたしはさっきまで、夜の、自分の家にいたわけですから、きしむような不自然さが頭を覆ってもいます。

201 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:27:50.18 ID:xi8CJFvoo

 その不自然さに酩酊するように、頭がぽわぽわとしてきます。
 指先で触れてみると、自分の頬がかすかに熱をもっているのがわかります。

 いけません。

 何をするにしても、急がないと。

 ただ歩いているだけだというのに、自分の呼吸が浅くなりつつあることに気付きました。

 いけません、と、わたしは自分に言い聞かせました。

 意識的に、呼吸を深く、ゆっくりと吐き出し、吸い込むようにしました。

 早くなりつつある鼓動を抑え込むように、自分の胸に手をあてて、心臓の音を確認します。
 
 駄目でした。ばくん、ばくん、と、心臓は騒いでいます。

 触れた場所もいけませんでした。

 わたしは、慎重に、呼吸を繰り返します。

 どうかしています。

「……どうかしてる」と口に出すと、自分の声が妙な湿り気を帯びていることに気付いてびくりとしました。

 どうしてこうなってしまうのでしょう?

「たぶん、考えても無駄だよ」と姉さんが言った気がしました。

「そこは理外の森だからね」

 だからって、隼さんは平気そうでしたし、青葉さんに同様のことが起きたとも考えにくいです。
 姉さんも、そんなことは一度も言っていませんでした。

 いえ、もしそんなことがあるとしても、誰も口には出さないでしょうけど……。

 いずれにせよ、どうしてわたしだけ、こんなふうになってしまうのか。

202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:28:32.67 ID:xi8CJFvoo

「……」

 考えてもしかたないとわかってはいるのですが、考えることをやめると、考えられない状態になってしまいそうでおそろしい。
 
「……だめだ」
 
 涙まで滲んできました。

 どうしてか、自分の肌に着ているものがこすれるだけで、思考が邪魔されます。
“肌の感覚が、異様に鋭敏になっている”のです。

 耐えきれなくなって、わたしは手近にあった木の幹に背を預け、瞼をぎゅっと瞑りました。
 
 それから、深く深く呼吸を繰り返します。大きな波に自分がさらわれそうになっているような気分でした。

 わたしは自分にしがみついて、必死にその波が過ぎるのを待ちます。

 けれど……その波は、本当に、過ぎていくのでしょうか?

「……本当に」と、思わずわたしは笑ってしまいました。

「隼さんといっしょのときじゃなくて、よかった……」

 それが、せいいっぱいの負け惜しみです。

203 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/21(水) 23:34:11.40 ID:xi8CJFvoo
つづく
204 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/22(木) 00:09:33.75 ID:wgzAzkzS0
おつです
205 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/22(木) 00:18:43.95 ID:TBSIFXbg0
おつです
206 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/22(木) 00:21:01.58 ID:TBSIFXbg0
ちせエロすぎないか
207 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/22(木) 07:41:23.96 ID:7OX/AGiD0
おつです
208 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2018/11/22(木) 08:12:40.15 ID:NZDSISwxO
乙です
ここに来て幼ロリエロのちせの株が急上昇
209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:35:21.40 ID:4JDTtKRko



 ようやく落ち着きを取り戻したわたしは、手に持ったままのビニール袋を覗き込みました。

 そうです、わたしはこの牛乳プリンを、青葉さんのもとに届けなくてはいけないのです。

 そうして、彼女に話を聞かないといけない。

 それが目的であって、変な波に飲まれている場合ではないのです。

 真昼の森では時間の感覚がひどく曖昧です。
 太陽の位置はずっと変わらない。おかげでどのくらいの時間が過ぎたのかさえ判然としません。

 それでもわたしは歩きはじめました。

「太陽を背に、道に沿って」

 と、口に出してみます。

210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:36:18.41 ID:4JDTtKRko

 そうして歩き出してからも、断続的に例の波は襲ってきました。
 これがいったいなんなのかと、誰かに文句のひとつでも言ってやりたいところです。

 責任者はどこですか。

 などと言っていても仕方がない。

 いけません、いけません、と、わたしは自分に言い聞かせながら、森の小径を進んでいきます。
 
 十数分ほど進んだでしょうか。以前のように林冠の狭まった暗い道を通り、これ以上は危ないかもしれないな、などと考えたときです。

 不意に、緑以外の景色が見えました。

 それが水だと気付いたのは、まだ少し進んだあとです。

 やがて、道は開けた場所へとたどり着きました。

 それは、湖畔沿いの遊歩道のように見えました。

 どうやらこっちで正解だったらしいな、とわたしはほっとしました。

 青葉さんは、いるのでしょうか。……波を、抑え込まなければいけません。

211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:36:45.28 ID:4JDTtKRko

 湖畔沿いに歩いていく途中に、古い木製のベンチを見つけました。
 こんなものがあるのも変な話です。

 やがて、それまで木々の枝に隠れていた道の先に、一軒の小屋のようなものを見つけました。

「……あそこかな」

 あそこだといいな、とわたしは思いました。

 数分歩き続けると、その小屋の前にたどり着きます。

 木で出来た扉の前には、ベルがくくりつけられています。紐が伸びていますから、引けば鳴る仕組みなのでしょう。

 わたしはそれを鳴らしました。

 一度目は反応がなく、二度目で扉が開きました。

 青葉さんは、きょとんとした顔で立っていました。

「ちせちゃん?」

「青葉さん……」

 わたしは、とっさに、
 どうしてでしょう、
 青葉さんの胸にからだを投げ込んでしまいました。

「青葉さん!」
212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:37:13.44 ID:4JDTtKRko


「ど、どうしたの、ちせちゃん」

 わたしのからだを受け止めて、そっと腕を肩に回すと、赤ん坊をあやすみたいに、青葉さんは背中をとんとんと叩いてくれました。
 わたしは、どんな気持ちになればいいのかわかりませんでした。

 まさかこんなに簡単に会えるなんて、という意外さもあって、感動の再会という空気も生まれません。

 それでも彼女が立っているその姿を見た瞬間、わたしは本当に、彼女の存在のすべてを言祝ぎたい気持ちにさえなりました。

「あまえんぼだな、ちせちゃんは相変わらず」

「その言葉には異議を申し立てたいです」

 などと言いながら、わたしはぐりぐりと自分の額を青葉さんに押し付けました。

「よしよし」と青葉さんは受け入れてくれます。
 そうして彼女がわたしの背中を撫でた瞬間、
 背筋の感覚がしびれるようなものに変わりました。

 いけません、いけません。

 そういうときではないのです。

 わたしは、気づかれないように何気なく、身体を離し、青葉さんの顔を見ました。

 青葉さんは、困った子を見るような顔で笑っています。

「お久しぶりです」

「ん。探しに来てくれたの?」

「はい。とても、心配しました。皆さん、心配していましたよ」


213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:38:17.67 ID:4JDTtKRko

「そっか。みんなには、悪いことしちゃったよね」

 今日はひとり? と、青葉さんが言います。

「はい。今日はひとりです」

「そうなんだ。……とりあえず、中に入りなよ。コーヒーくらい淹れるよ」

「いただきます」

 そしてわたしは、その小屋の中に足を踏み入れました。

 小屋の中は、外観から抱いていたイメージとあまり違いのない、自然的な印象でした。

 ログハウスのような内装でした。そうは言っても、素人が造ったような野暮ったさはありましたが、立派なものです。

 ベッドもあり、テーブルや椅子もあり、ランプもあり、本棚もありました。

 テーブルの上には湯気の立つマグカップと、『伝奇集』が置かれていました。

「プリンを持ってきたんです」

「プリン?」

「牛乳プリンです」

「お、いい子だ。ずっと食べたかったんだ」

 青葉さんはそう言いながら、部屋の隅にあったコンロに火をつけました。
 ……どういう仕組で動いているんでしょう。ガスが来ているのでしょうか。

 考えても無駄そうです。

214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:38:45.97 ID:4JDTtKRko

「青葉さん、あの……お話があるんです」

「……ん?」

 いつものように柔らかな笑みをたたえて、彼女はわたしを見ました。

 その笑みが、以前のものよりも少し、大人びたものに見えました。

 どうしてでしょう。
 彼女に何があったんでしょう。わたしはそれを、全然知らないのです。

「話って?」

「あの、ええと……」

 ──。

 そういえば、ましろ姉さんは、何を聞いてこいと言ったんでしょう。

 隼くんのためだよ、と、姉さんは言っていました。

「……隼さんのことです」

「ちせちゃん、副部長と会ったことあったんだっけ?」

「青葉さんがいなくなっちゃってから、わたし、青葉さんのことが心配で、それで……」
 
 話を聞こうと思って、青葉さんの知り合いで、名前を知っていた隼さんに会いにいったのです。
 そこから話が始まったのでした。

「そっか」と、青葉さんは頷いて、戸棚からマグカップを取り出して、わたしにコーヒーを入れてくれます。

「砂糖は使う?」

「あ、はい……」

215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:39:13.95 ID:4JDTtKRko


 青葉さんがあまりにも落ち着いた様子なので、わたしはひどく戸惑いました。
 
 そもそもの話。青葉さんが戻ってきてくれさえすれば、問題はすべて解決するはずなのでした。

 今、こうして話している以上、それは達成されうるという気がします。

「副部長のことって?」

 椅子に座って向かい合うと、青葉さんはゆっくりとした口調でそう訊ねてきました。

 どう説明したものか、わたしは考え込むはめになります。

「様子がおかしいって、皆さんが、そう言っているんです。わたしも、そう思います」

「副部長の様子がおかしいのは、いつものことだよ」

「そういうのとは、また違うんです。今日は、特に」

「……ふむ」と彼女は考え込むような顔になりました。

 わたしは、彼女の視線がテーブルの上に置いたビニール袋に向いていることに気付きました。

「あ、食べますか?」

「うん。もらってもいいのかな」

「そのために持ってきたんです」

 厳密には用意したのはましろ姉さんですが、それを今あえて口にだすこともないでしょう。

216 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:39:40.27 ID:4JDTtKRko

 どう話していいものか、と、わたしは迷いました。

「姉さんが……」

「うん」

「姉さんが、昨日の夜、隼さんと話したんです。隼さんはそのとき……」

 言って、いいのでしょうか。無責任ではないでしょうか。
 それでも、口に出すほかないような気がしました。

 少なくとも青葉さんなら、何かの答えのようなものを、言ってくれるのではないのでしょうか。

「自分が、スワンプマンなんじゃないかって、言ったらしいんです」

「……スワンプマン」

 案の定、と言っていいのでしょうか。
 彼女は、沈痛な表情で、顔を俯かせました。

「……って、なに?」

 ……どうやら、単に聞き覚えのない単語だっただけらしいです。
 無理もないことでしょう。

217 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:40:18.89 ID:4JDTtKRko

 わたしは、スワンプマンの話をしました。今日聞いたばかりの話ですが、印象深い分、説明は簡単でした。

 すべてを聞き終えてから、今度こそ、青葉さんは沈痛な面持ちで俯きます。
 わたしは、沈黙に耐えられなくなり、コーヒーに口をつけました。

 それと同時に、自分のからだがまた場違いな熱を覚え始めていることに気付きました。

 いけません、とまた自分に言い聞かせます。

 膝の上に乗せた手が、無意識に動きそうになりました。
 虫刺されのかゆみが気になるときのように、勝手に、指が自分の服の裾のあたりに触れています。
 わたしはスカートの裾をつかみ、それをどうにか押さえ込みました。

「……ちせちゃん?」

「……あ、いえ」

「プリン、ちせちゃんも食べようよ」

「……はい。いただきます」

 頭がまたぽわぽわとしてきました。
 
 いけません、とわたしは繰り返します。
 呼吸が、浅くなっていきます。

 いけないのです。

218 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:40:52.87 ID:4JDTtKRko


 深く、溜め息のように息をつき、一度瞼を閉じて、深呼吸しました。

 落ち着け、落ち着け。

 そのとき、

「ちせちゃん、駄目だよ」
 
 と、少しだけ鋭い声で、青葉さんが言いました。

 わたしは思わず、どきりとしました。
 ……なにかに、気付かれてしまったんでしょうか。

「ちせちゃん、駄目だよ。“この森のなかで、自分を抑え込んじゃいけない”んだ」

「……なんの、話ですか?」

「スワンプマンの話だよ」

「……」

 その表情に、思わずわたしは、緊張しました。

「……青葉さんは、スワンプマンの話を信じるんですか」

「……ん。まあね」

 わたしは、肩の力が抜けたような気がしました。
 安心したのではありません。それは虚脱感でした。

 やはり、青葉さんも、その可能性を肯定するのです。

219 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:41:34.72 ID:4JDTtKRko

「でも、おかしいです、そんなの。隼さんは……だって」

「ん」

「もし本当にスワンプマンが存在して、隼さんがスワンプマンと入れ替わったなら……。
 それなら、“別人みたい”になるのは、おかしいじゃないですか」

「……そっか。そういう話になるのか。わたしには、そこまでは、わからないけど」

 スワンプマンという話を聞いたときに考えつくのは、入れ替わりという状況です。
 そして、隼さんは今日、言っていました。

 ──俺は俺だよ。俺が俺なんだ。

 俺は俺だよ。そこまではわかります。

 でも、「俺が俺だよ」と言われると、少し違和感を覚えてしまいます。

 わたしはわたしだ、ということはできます。
 でも、“わたしがわたしだ”という言い方は、普通、しないような気がします。

 その“が”には、“自分こそが”という意味が含まれているように思えました。

「俺が俺だよ」という言葉が、「俺こそが俺だ」という意味だとしたら、その言葉は、
“俺”ではない“俺”の存在を措定しているように聞こえるのです。

220 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:42:52.32 ID:4JDTtKRko

 スワンプマンなんてものがもし存在して、昨日までの隼さんと今日の隼さんが別人なのだとしたら。
 そして、今日の隼さんが“自分こそが三枝隼だ”という意味で、“俺が俺だ”と言ったなら。

 昨日までの隼さんこそが、スワンプマンだったということでしょうか?
 昨日、ましろ姉さんとの電話のときに、隼さんが自分で言っていたように?

 そんなこと、ありえない、と、わたしはそう思ってしまいます。

「ちせちゃんはさ」、と、青葉さんは、含み聞かせるような口調で話し始めました。

「テセウスの船って知ってる?」

「……テセウスの船、ですか?」

「そう、古い神話に出てくる船。長く保管されているその船が朽ちていくたびに、ひとつひとつ、部品を取り替えていくんだ。
 そうすることで、その船は船であり続ける。でもやがて、すべての部品が、あたらしいものと取り替えられてしまう。
 すると、いちばん最初の状態の船と、最後の状態の船では、同じ部品がひとつもなくなってしまう」

「……それが、どうしたんですか」

「わからないかな。たとえば、ある段階でスワンプマンが発生する。
 そして、両方が存在し続けてしまう。すると、それぞれは別の環境で過ごすことになる。
 その結果、時が経てば経つほどに、そのふたつの存在は、かけ離れていく」

「……」

「人は、時間の経過によって変化していくよね。たとえば、六年前のわたしと、今のわたしでは、まったく別の身体、考え、環境にいる」

「……」

「だからたとえば、六年前のわたしがふたりいたとして、そのふたりが別々の環境で生き延びたとしたら、まったく別の人間みたいになってしまう」

「……青葉さんが言おうとしてること、わからないです」

「……ん。わかんないかもね」

 わたしはまた、自分の指先が太腿の内側に伸びようとしていたことに気付いて、片方の手でもう片方の手首を強く掴みました。

221 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:43:30.55 ID:4JDTtKRko


「この森がなんなのか、わたしはずっと考えてたんだ。
 それでようやく、ちょっと答えが出せそうな気がしてきた」

「答えって……?」

「ここに入ってくるには、鏡が必要なんだ」

「……はい」

 と返事をしてから、ん、と疑問を覚えました。

「絵は……?」

「絵? ああ、うん。ある意味では、そうだね。あとは、写真とか」

「……どういう意味ですか?」

「ちせちゃん、ここに来るときの入り口の絵には、何が描かれてた?」

「────」

 わたしは、思わず息をのみました。

 水平線まで広がる海は、鏡写しのように空に浮かぶ雲を写していました。

「……たしかめたわけじゃないけどね。たぶん、そうだと思う」

「待ってください」とわたしは反論しました。

「でも、青葉さんは、ここに来てから、元の世界に戻っていないですよね。どうしてそれがわかるんですか」

「なんとなくね」

 ……なんとなく、では、反論のしようもありません。

222 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/23(金) 01:44:45.63 ID:4JDTtKRko

「だからね、ここは鏡の国なんだって思う」

「……鏡の国?」

 ──鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。
 ──鏡は見るものの姿を忠実に映し出すものですよ。

 それは、自分が言った言葉でした。

「鏡は、自分自身を忠実に映すものだよ。ただし、“左右だけが本物と逆”だけどね」

「……どういう意味ですか」

「これは推論だけど……たぶん、スワンプマンは、完璧な再現じゃないんだよ」

「……」

「スワンプマンは、“本人から分離した、別の存在”であって、そのとおりのその人じゃないんだよ。
 というかそもそも、スワンプマンっていうのは、その説明だと話がわかりやすいっていうだけだからね。
 ドッペルゲンガーと言ってもいいし、影と呼んでもいいけど……」

「待ってください。だから、どうしてそれが、青葉さんに分かるんですか」

「思い出したから」

「……何を、ですか」

「わたしが、鴻ノ巣ちどりという名前の女の子だったことをだよ」

 青葉さんは、なんでもないことのように、そう言いました。

223 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/23(金) 01:47:34.46 ID:4JDTtKRko
つづく
224 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/23(金) 07:51:43.88 ID:TquJE6WgO
おつです
225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/23(金) 08:18:03.29 ID:3G+o5k7H0
おつです
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2018/11/23(金) 08:22:47.46 ID:hkOoPsTU0
乙です
ついに青葉が爆弾発言。ちせは相変わらずエロ路線
227 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/23(金) 10:17:39.14 ID:ua+ShhtY0
おつです
228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/23(金) 10:19:57.16 ID:ua+ShhtY0
鏡ってことは瀬尾とちどりのどっちかがスワンプマンで、瀬尾が本物でちどりがスワンプマンの可能性もある?
229 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/23(金) 11:40:44.17 ID:hkOoPsTU0
ちどりと青葉はもうすっかり別人格になった
サクラとカレハも完全に別人格
隼は片方が森に残ったから一つの身体を2つの人格が共有してる
さて、これからどうなる?
230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/23(金) 12:44:26.80 ID:BU4Df4nI0
おつです
231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:02:30.47 ID:h5BkXevyo



「……どういう意味ですか?」

 と訊ねて、それに答えを返してもらったところで、わたしは理解できたのでしょうか。

「帰ったほうがいいね、ちせちゃん」

「青葉さん」

「はぐらかしてるわけじゃないよ。ねえ、ちせちゃん、わかってないかもしれないけど、ちせちゃんは今とっても危ない状態なんだよ」

「……どういう意味ですか」

「何かを我慢してるよね?」

 どうして、そんなことを言うんですか。
 そう言いたかったです。

「我慢しちゃいけない。抑え込んじゃいけない。抑え込んだものは別の形を取るんだよ。
 鴻ノ巣ちどりもそうだった。たぶん、副部長もそうだったんだと思う」

「……」

「だから、なんだろうな、きっと」

「……ひとりで、分かったようなこと、言わないでください」

「……」

「なんで、隼さんも、青葉さんも、そうなんですか。ほのめかすみたいに、はぐらかすみたいに言って、本心を言ってくれないんですか」

 青葉さんは、困ったみたいに笑いました。

232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:02:58.96 ID:h5BkXevyo

「人が何かをはぐらかす理由なんて、そこに話したくないことがあるからに決まってるよ」

「……」

「ちせちゃん、ごめんね。まだ帰れない。探してるものがあるの」

「いったい、何を探しているんですか」

 ……波が、近付いているのがわかります。

「わたしが探してるのは……」

 青葉さんは、綺麗な顔で笑いました。

 それはどうしてでしょう、とても晴れやかな笑顔で、それなのに、とても寂しそうでした。

「わたしが探してるのは、きっと、どこにもないものだよ」

 そんなことを、今までに見たことがないくらい、澄んだ顔で言うので、
 わたしは思わず泣き出しそうになりました。

「なんなんですか、それは」

「うまく言葉にできないんだけど、たぶんそれは、正しい恋の仕方、みたいなものだと思う」

「……正しい恋の仕方?」

「うん。……もう、行ったほうがいいよ」

233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:03:26.69 ID:h5BkXevyo

 これ以上、青葉さんは何も話すつもりがない様子でした。
 彼女はテーブルの上の伝奇集を手にとって、ページをめくりはじめました。
 
 まるで、早く行けと、わざとそうしているようです。

「……帰ってきますよね」

「きっとね」

「本当ですよね」

「うん。でも、そのときには……」

「……なんですか」

「わたしは、わたしじゃなくなってるかもしれない」

「どういう意味ですか」

「わかんない」

 また、彼女は笑います。
 わたしは、立ち上がって、ドアへと歩き出しました。

「……戻ってこなかったら、また来ます」

「うん。あ、ねえ、ちせちゃん」

「はい」

「副部長のこと、よろしくね」

「……」

「誰かが見ててあげないと、だめな人なんだ」

「だったら、青葉さんが戻ってきてください」


234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:04:56.09 ID:h5BkXevyo

 青葉さんは、痛いところを突かれたという顔をしました。

「ねえ、ちせちゃん。恋をするってどういうことなんだろうね?」

「……そんなの、わたしにはわからないです」

「わたしは……人を好きになるって、とっても孤独なことなのかもしれないって思う」

 孤独。
 どうして、そうなんでしょう。

 納得もできないのに、反論もできませんでした。
 だって、わたしだって、人を好きになるということがどういうことなのか、わからなかったんですから。

「青葉さんは、誰かのことが好きなんですか」

「……たぶんね。でもそれは、偽物かもしれない」

「……偽物って、なんですか」

「偽物は偽物だよ。本物じゃない」

「……言葉遊びです」

「そうかも」

「……わたしは、青葉さんがいないと寂しいです」

 彼女はそこで、驚いたような顔になりました。

「そっか。寂しいか」

 気付かなかったというみたいに、彼女は照れくさそうに笑いました。

235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:06:08.60 ID:h5BkXevyo




 小屋の扉を出て、わたしはもと来た道を歩きました。

 息が、浅い。苦しい。もどかしい。
 寂しい。切ない。やるせない。身体が重い。熱い。

 熱に浮かされたみたいに、触れなくても頬が熱くなっているのがわかります。

 呼吸が乱れています。それがわかります。

 抑え込んではいけない、と青葉さんは言いました。

 自分の呼吸の音を聞くと、なんだか更に気分がひどくなりそうで、わたしは口を掌で抑えました。
 
 全身の感覚が鋭敏になっています。
 身体をどこかに擦り付けたいような、そんな気持ちすらして、そんな自分に戸惑いを覚えてしまいます。

 ここは鏡の国だと、青葉さんは言いました。

 鏡を望む人は、まず自分自身と出会うのです。

 この世界が、わたしという人間を、わたし自身に突きつけているとしたら。
 もし、その人の本心や本質を、余すところなく突きつけるような場所だとしたら。

 それって、つまり、この熱は、つまり、わたしは……。

 わたしが……他の人と比べて、ものすごく……。

 だめな人間、だということなんでしょうか……。


236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:06:58.81 ID:h5BkXevyo


 全身の感覚は、鋭敏になっています。

 今すぐにこの熱をどうにかしてしまいたい、とわたしは思っています。
 そう思っている自分に気付いて泣きたくなります。

 これでは、これではまるで……。

 違う、違うはずです。

 でも、身体は言うことをききません。
 
 全身の肌という肌が、まるで誰かに触れられたがっているみたいに、粟立つように、寒気のように、熱に浮かされています。

「……うぅ」

 さすがにわたしは自分にちょっとがっかりしています。
 
 この鏡の森で、まさか、わたし自身に突きつけられる"わたし自身"というのが、こんなものだなんて……。
 隼さんも、青葉さんも、なんでもなさそうにしていたということは……たぶん、ふたりは感じていないのです。

 ましろ姉さんもまた、そういうのではなかったのです。

 ということはつまり、少なくともわたしは、あの三人よりも、そういうのが強いということになるのでしょうか。
 そんなの、悲しい。

「……いやだ」

 自分の声が思ったよりか細くて、震えていて、それに驚いてしまいます。
 
 抑え込んではいけない、と、青葉さんは言いました。
 抑え込んではいけない。

 ……もしかして、
"ここで否認し続けていたら"、"わたしのこれが分離して"、"スワンプマンが生まれる"なんてことは……。
 そういう仕組だとしたら、わたしは……。

237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:07:44.93 ID:h5BkXevyo

「……待って、ください」

 誰にともなく、わたしはそう言っていました。

 もしそうだとしたら、わたしは、この欲望を受け入れることでしか、自分自身を保てないのではないでしょうか。
 そう想像した瞬間、そんなのあんまりだ、と思いました。

 けれど、思考が一瞬、ひとつのひらめきにたどり着きました。

 ──抑え込んだものは別の形を取るんだよ。
 
 もし、本当にそんなプロセスでスワンプマンが発生した場合、です。

 わたしが仮に、この突きつけられた自分自身を否認し続けた場合。
 そしてその否認されたわたし自身が、もし分離し、スワンプマンが生まれた場合。

 生まれるスワンプマンの性質は……おそらく、わたしが否認しているこの欲望に忠実なものになるのではないでしょうか。

「……生き地獄だ」とわたしは呟きました。

 どっちにしても地獄です。

 どっちにしても恥ずかしすぎます。

 こんな自分いやだ。
 恥ずかしすぎる……。

 いくら、抑え込んではいけないと言われても、こんなの……。

238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:09:16.79 ID:h5BkXevyo

 青葉さんのことを思い出して、それから、隼さんのことを思い出して、
 初めて会った夜に、自分が彼の手を借りたことを思い出しました。

 わたしはどうしてあのとき、あんなことをしたのでしょう。

 話でしか聞いたことのなかった、初めて会った、見ず知らずと言ってもいい人に。
 
 隼さんは……でも……。

 湖畔に沿って遊歩道を歩きながら、わたしは荒い息をどうにか整えようと必死に呼吸を繰り返します。
 手のひらが、熱を帯びていきます。

 まるで今、誰かに触れられているみたいに。触れられたがっているみたいに。

 あの大きな手。
 ……いえ、きっと、わたしの手が、小さいだけ、だったのでしょうけれど。

 昔から、お兄ちゃんという存在に憧れていました。

 不意に、視界が滲みました。
 ふっと、からだから、張り詰めていた力が緩むのを感じます。

「……少し、なら、大丈夫、だよね」

 わたしは、小屋のあった方を一度振り返り、それが木々の枝に阻まれて見えないことをたしかめました。
 
「……だれも、みてない、し」

239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:10:13.15 ID:h5BkXevyo

 わたしは、静かに、小径の脇から森に足を踏み入れ、自分自身を隠すように、木の幹に背を預けました。
 湖畔の景色はとても綺麗で、わたしはなんだか自分がひどく汚い存在のように思えてきます。

 あのときは、まだ、柚子に出会っていなかった。
 柚子に出会わなければ、わたしは……。

 人を好きになるのは、孤独なことなのかもしれない、と、青葉さんは言いました。

 もしかしたら、そうなのかもしれない、とわたしも今、そう思いました。
 そう思いたくなったのかもしれません。

 誰かを好きになることは、この深い森に、いまたったひとりでいる自分自身のように、孤独なことなのかもしれないのです。

 わたしは、柚子のことも、好きでした。
 それでも自分の気持ちが、そんなに勝手なものだとは思えなくて、
 だから、こっそりと、神さまに祈るみたいに、心の中だけで、柚子にごめんねを言いました。

 それから、湖の水面に飲み込まれるようにわたしが元いた世界の自分の部屋に戻るまで、ほんの少し時間が必要でした。

 姉さんは、「会えた?」とだけ聞いて、わたしは、「うん」とだけ答えて、部屋を出ていってもらいました。
 翌日の朝、わたしはこっそりと、あの絵を、文芸部の部室へと返しました。

 絵に映る景色は、あの森の果てで見た湖のように、綺麗で、少しだけ寂しそうに、そのときのわたしには見えました。

240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/24(土) 01:13:08.04 ID:h5BkXevyo
つづく
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/24(土) 08:05:34.28 ID:Wg7OrPMMO
おつです
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/24(土) 12:00:56.24 ID:CBmxT8Tl0
おつです
243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/24(土) 23:51:38.86 ID:IzN/uv+E0
おつです
244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:21:43.36 ID:u+wsZHJyo




 
 深い深い水の底から浮かび上がるように、意識が取り戻されていく。
 
 気がついたとき、すぐそばに、カレハの姿が見えた。

「……起きましたか」

 横たえた俺の顔を、彼女は覗き込んでいたようだ。

 身体を起こそうとすると、節々が痛むのを感じた。
 手のひらや、手首、肘や肩や、背中。全身が悲鳴をあげるようにぎしぎしと軋む。

「起きなくても大丈夫ですよ」と彼女は言う。

 その言葉に、俺はうなずきだけをかえして、起き上がるのをやめた。

「ここは……」

「あなたの部屋ですよ」

 そう言われて、俺は目を動かして周囲の様子を見る。

 家具や、本棚に並ぶ本、CD、雑誌。

 俺は、

「違う」

 と言った。
 
245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:22:09.33 ID:u+wsZHJyo

「ここは、俺の部屋じゃない」

 カレハは、憐れむような目で俺を見た。

「……ここは、俺の部屋じゃない」

 泉澤怜は、俺に言った。

「きみは三枝隼なのか」と。

 どうしてだ。

 俺が三枝隼なのに、たった一日で、誰もが俺を疑う。
 俺が、俺じゃないみたいに。

 ようやく帰ってこられたのに。
 
 うまくごまかして、帰ってきたつもりだった。
  
 それでも気分はずしりと重い。

 たとえ、あの森にいるであろう偽物を殺したところで……もう、同じことだ。

 誰も、俺が三枝隼だと思わない。

 俺のための居場所は、この世界にはもうどこにもない。
 失われてしまった。

246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:22:37.86 ID:u+wsZHJyo

「……それじゃ、どうするんですか?」

「どうする……?」

 どうしろっていうんだろう。

 寝転がったまま、天井に手を伸ばす。俺は自分の腕を眺めている。
 その長ささえ、大きささえ、もう俺自身とは思えない。

「わかんないな」

「それは……困りましたね」

「いま、何時?」

「……九時半ですね」

「純佳は……」

「一度様子を見に来て、眠っているのを見て出ていきました」

「そっか」

「大丈夫ですか?」

「わかんない」

 わからない。わからない。わからないな。
 
 何をすればいい?

 怜は勘付いたんだ。

 怜が勘付いた以上、他の誰が気付くかわかったものじゃない。
 瀬尾が戻ってきたときに、俺の正体が露見するのを恐れて、俺はあの絵をどうにかしようとした。
 でも、もうそれも手遅れだ。

 俺はもう疑われている。

247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:23:06.23 ID:u+wsZHJyo


「……あの、隼」

 カレハは、とつぜん、そんなふうに俺のことを呼んだ。

「あなたは……」

「もういいよ」と俺は言う。

 とっくに気付いていた。六年もの間、誰ひとり、俺がいなくなったことに気付かなかった。
 それなのに、俺が戻ってきた途端、俺という人間が何か余計物であるかのように、みんなが怪訝げな目を向けてくる。

 俺は必要のない余計ものだ。
 いなくてもいい人間だ。
 いないほうが誰もが喜ぶ。

 俺じゃなくて、あいつのほうが、みんな、良いんだろう。

 だったらもう仕方ない。
 どうしようもない。

 俺の居場所なんてどこにもない。

248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:23:51.73 ID:u+wsZHJyo


「隼、聞いてください。あなたはまだ、何も失っていません」

「どこがだよ」

「まだ、戻ってきたばかりじゃないですか」

「……」

「うまくいかなくても、それって、仕方ないです」

「怜は俺を疑ってるんだ。もう時間の問題だ」

「わたしは、そうは思いません」

「じゃあ、どうしろって言うんだ」

「とぼけていればいいんです。そうすれば、本当に区別することなんて、不可能ですから」

「……そう、そうなんだよな」

 本当に区別することなんて、不可能だ。

 偽物がいつか読んでいた、文芸部の部誌を思い出す。

 ──ぼくたちは、なにが偽物で、なにが本物なのか、ほんとうの意味では、これっぽっちもわかっていないのです。
 ──区別なんて、できていないのです。

249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:24:20.89 ID:u+wsZHJyo

 気付かれないほうが都合がよかった。
 でも、俺は気付いてほしかった。
 
 どうして誰も、俺があの森に囚われていたと気付いてくれなかったのか。

 いや……。

「もう、いいよ」

 そうなんだろう、きっと。

「なにがいいんですか」

「わかったんだ」

「だから、なにがですか」

「テセウスの船だ」

「……」

「俺がむこうにいた六年のうちに、偽物は、三枝隼として生きながら、変化していった。
 その変化の内容は、俺との間に激しい差異を生んだ」

「でも、それは偽物です」

「問題はそこじゃない。問題は、俺が居た場所もまた、それと同じように、俺の知らない場所になってしまっていることなんだ。
 俺の知っている人も、俺の知らない人になっている。だから、変なんだ」

 そうだ。
 最初から違和感はずっとあった。

250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:25:07.35 ID:u+wsZHJyo

「六年間、ずっとこっちに戻りたいと思ってた。どうして俺の身体があんなふうになったのか、
 どうして誰も俺がいなくなったことに気付かないのか、どうして、誰も迎えに来てくれないのかって……」

 喉が涸れるまで、あの森で叫んだ。
 身体が動かなくなるまで、あの森を歩いた。

 目が変になるくらいに、あの夜の森で過ごした。

 お願いだから誰か迎えに来てくれ。
 誰か助けてくれ。

 俺がいなくなったことに気付いてくれ。
 
 そうして最後には、自分でも気付かないうちに、身体が動かなくなっていた。

 どのくらいの時間をあそこで過ごしたかなんてわからなかった。

 指先をぴくりとも動かせなかった。声だってとっくに出し方を忘れた。

 どれだけ歩いたって無駄だった。どれだけ叫んだって無駄だった。
 だから、歩くのも、叫ぶのもやめてしまった。
 
 どうせ、どこにも行き着かない。誰も気付かない。

 そしてただ、夢でも眺めるように、あの偽物が過ごす景色を、俺は眺めていた。

251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:25:34.79 ID:u+wsZHJyo

 こんなのってあんまりじゃないか?

 俺はこんな仕打ちを受けなければいけないようなことをしただろうか?

 でも、本当はそんなことはどうでもよくて……ただ、誰かの視界に映りたかった。
 誰かを視界に収めたかった。

「あんまりじゃないか」と、そう笑い飛ばしてしまいたかった。

 こんなありさまは。

 あの暗い森で、ずっと、俺が居るべき場所にあいつがいるのだと思っていた。
 そして今、この身体を取り戻して、俺は気付く。

 俺の場所は、もう俺のための場所ではなくなっていた。

 そこには、俺のための世界は残されていない。

 すべてにあの偽物の手垢がついていて、
 なにもかもが、もう、俺が戻りたかったあの世界とは違っている。

「……もういいんだ」と俺は繰り返す。

 テセウスの船の比喩がパラドックスになりうるのは、“まったく異なるもので構築された同一の船”でありうるのは、
 その船が同じ時間軸上で、連続的に存在し続けたからだ。

 いま俺の目の前にある世界は、もう、俺がいなくなったあのときの世界ではない。

 じゃあ、俺が戻りたかった場所も、
 会いたかった人も、
 もう、どこにもいないんじゃないか?

 ちどりも、怜も、純佳も、俺じゃない俺と過ごした記憶を持ち、その記憶によって、俺を判断する。
 そうである以上、ちどりの中の俺も、怜の中の俺も、純佳の中の俺も、俺ではない。

 だから仮に、彼女たちからどのような信頼を、好意を寄せられたところでそれは……
 あの偽物に対するそれでしかない。

252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:26:30.24 ID:u+wsZHJyo

「隼」

「……うん」

 何かを、カレハが言いかけた。
 
 そのとき、純佳の声が聞こえる。

「兄、起きてますか?」

「……ああ」

「体調、大丈夫ですか?」

「ああ」

 この声すらも、
 やさしさや気遣いでさえも、
 宛先は俺ではない。

 この世界にはもう、俺宛のものは残されていない。

 だから、もう……。

 いいんじゃないか?
 
 こんな自分、どうなっても。
 こんな世界、どうなっても。

 べつに、要らないじゃないか。


253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:26:56.87 ID:u+wsZHJyo

 三枝隼としての存在なんて、あいつにくれてやればいい。
 
 そうしたほうがずっといい。

 誰も彼も悲しませるよりは、俺の存在が、ただ三枝隼の不調として片付けられたほうが、ずっといい。
 俺はもう、いいじゃないか。

「隼」とカレハは繰り返した。
 それを俺は、ただ、
 ああ、
 うるさいな、と。
 そう思った。

 誰かを求める気持ちも、誰かに会いたいと望むことも、
 誰かと繋がりたいという欲望もすべて無意味で、
 まるでこの世のすべてが空虚な舞台のようだった。

 何もかもがただ暗闇のうちにまどろんで区別がつかなくなっていく。
 偽物も、本物も。たとえば俺だって、きっと気付かない。
 誰かが誰かと入れ替わっていても、ある日突然偽物になっていても、気付かない。

「兄」

 扉が、不意に開けられて、純佳が部屋に入ってきた。


254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:28:20.47 ID:u+wsZHJyo


「……どうした」と俺はかろうじて返事をした。 
 ちょっと笑って見せすらした。寝転んだままだったけれど、見えたはずだ。うまくできたかは、わからない。

「兄、どうかしたんですか」

「少しね。体調がね」

「……頭痛ですか?」

 偽物の方も憐れなものだ。
 仕方ないとはいえ、純佳でさえ、あいつと俺が入れ替わったことに気付かない。
 みんな、俺達のどっちでもいいんだ。

「……兄、くすり、もってきますか?」

「うん……いや、なあ、純佳」

「はい?」

「あのさ、手を……」

 手、と、純佳は繰り返した。

「いや、やっぱりいい」

 そんなことをして、なんになる?

 
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:29:06.98 ID:u+wsZHJyo

 けれど純佳は、見透かしたように俺の手をとった。

「こうですか?」
  
 ベッドのそばに膝をつき、やわらかく笑った。

「ああ、うん」

「悲しいことでも、あったんですか?」

「そう、だなあ。うん、とても……」

「じゃあ、しばらくこうしていましょう」

 まるで介護でもされているみたいだ。

 ほんの少しだけ、こうやって体温に触れていよう。
 ちどりにも会って、純佳とこうして過ごして、
 怜とは、まともに話もできなかったけど……

 そしてしばらく休んだら、もうお別れにしてしまおう。
 長い夢を見ていたことにしよう。

 そうして気持ちひとつ残さずに、俺は消えてしまおう。

 ほんのすこしだけ、休んだあとに。

256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/25(日) 18:32:26.15 ID:u+wsZHJyo
つづく
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:08:32.79 ID:aLiDcI2Oo



 
 ──遠くから、誰かがすすり泣く声が聞こえる。

 いつからだろう。俺の意識は今までもずっとここにあった。
 
 その声もきっと、ずっと聞こえていた。
 それなのに今、たった今、俺はその声が聞こえていたことに気付いた。

 いつからだろう、どうしてだろう。

 誰かがどこかで泣いている。

 それに気付いて、俺は、瞼を開ける。

 そして瞼を開くと、俺は、明るい森の広場にいる。

 太陽は中天に浮かび、燦々と日差しを撒き散らしている。吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、影は川の流れのように姿を変える。
 その隙間にさしこむ木漏れ日は涸れた噴水に溜まった雨水をちらちらと照らす。


258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:09:05.99 ID:aLiDcI2Oo


 いつからだろう、どうしてだろう。
 
 記憶が、はっきりとしない。意識を失っていたことはたしかだと思う。
 でも、いつから意識を失って、そして、いつのまに意識を取り戻していたのか、どうしてもわからない。

 いったい、自分の身に何があったのか、それが思い出せない。

 噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。

 木々を背景に、迷路の入り口のように、滝の飛沫のように藤の花が揺れている。
 周囲には人の気配もなく、動くものといったら、風と日差しと影と雲くらいだ。

 なにもかもが不意に、からっぽになってしまったような、
 何かを忘れているような、
 でも、その方がいいような、そんな不思議な気分だった。

 俺はいま、とても澄んだ空気を吸っている。
 とても孤独で、とても気楽でいる。

 ここでは、きっと、何も言わなくていい、何も考えなくていい。
 それってとっても幸せなことじゃないだろうか。
 
 とても簡単で、とても満たされたことじゃないだろうか。


259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:09:33.36 ID:aLiDcI2Oo

 ここには誰もいないから、
 俺は誰のことも求めなくていい。
 何もしなくていい。

 責任も、重圧も、後ろめたさも、やましさも、今はない。

 この肩に乗っていた見えない重石が、いまはかき消えている。
 
 ずっと、頭を悩ませていた、何か。

 それがなんなのか、思い出せないけど、でも、いまはそれがなくなっていることが、分かる。

 視界も、聴覚も、すべて、俺自身のものになっている。

 光がただあたたかで、それがうれしくて、
 そんなふうに感じることを、俺はいま、誰にも咎められないし、責められない。

 気に入らないものを気に入らないと語ることも、
 好きなものを好きということも、ここではきっと難しくない。

 誰もいないから。

260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:10:05.96 ID:aLiDcI2Oo

 それが悲しいとは、あまり思わなかった。

 もう、誰にも何も言わなくていいし、誰からも何も言われなくていい。

 誰かを“好きになる”必要もない。
 どこかに行きたがる必要もない。

 なにもしたくないのになにかをしたいふりをしなくてもいいし、
 何の展望もないくせに、何の不安も抱いていないみたいな顔をしていなくてもいい。

 からっぽであることを、隠さなくてもいい。

 噴水のそばに腰掛けて、俺は空を見た。雲は、絵の具で壁に描かれたように、微動だにしない。

 あまりにもせわしなく生きてきたような気がする。
 太陽の光が、今この瞬間、ひどく尊いものに思える。

 自分の身体が陽の光に透けているような気さえする。
 
 ……また、すすり泣きが聞こえる。

 どうしてだろう。
 本当に小さな声なのだ。
 
 それなのに、周囲には誰ひとりいない。

 その声は俺に関係のないものなのだろうと思う。
 その声はもう、俺には関係のないものなのだ。

261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:10:52.92 ID:aLiDcI2Oo

 今、この場所はとても、静謐で、すきとおっている。
 あたたかな春の日差しのように、いま、俺のからだを包んでいる。

 もうなにも考えなくていい。
 何も演じなくていい。

 誰のことも好きにならなくていい。
 
 居場所なんて探さなくていい。

 ずっとこの場所で、まどろみのように休んでいればいい。
 
 そうすれば俺は、何一つ得られないかわりに、自分自身に落胆せずに済む。
 ずっとここで安らかに過ごすことができる。

 今はそんな気がする。


262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:11:31.90 ID:aLiDcI2Oo


 俺は静かに瞼を閉じる。

 悲しかったのだろうか。
 苦しかったのだろうか。

 それとも、ほんの少し寂しかっただけなんだろうか。

 何が欲しかったのだろう。

 もういいんだ、と俺は言った。
 
 もういいんだよ、と。

 全部、もういいんだ。

 俺は結局偽物で、だから、なにひとつ手に入れられなくても、誰のことも好きになれなくても、
 それでいいんだ。

 それは仕方ないことだったんだ。

 言ってしまえば、存在自体が事故のようなものだったのだ。

 それが悲しいなんて、錯覚に決まっている。

 それなのに、やはり、すすり泣きの声は止まない。
 俺は、目を開く。
 
 噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
 木々を背景に、迷路の入り口のように、滝の飛沫のように藤の花が揺れている。

 そのむこうには、誰かがいる。俺はそれを知っている。

263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:11:59.04 ID:aLiDcI2Oo

 ふと、俺は、その藤棚の前に、誰かがいるのを見つける。

 気付かなければいけなかったと、そう思ったのはどうしてだろう。

 俺は立ち上がり、藤棚の方へと近付いていく。

 そうしながら、俺は既に後悔している。
 でも、もう気付いてしまった。

 その誰かは、藤棚の前にしゃがみこんで、泣いているようだった。
 小さな子供のようだった。

 どうしたらいいんだろう。そう思った。

 どうしたらいいんだ?

 わからない。なにもわからないな。

 やがてその子供は、俺の存在に気付いたように、こちらを振り返った。
 彼は驚いた顔をしている。そこに人間がいるなんて思わなかったんだろう。
 
 俺もまた、彼の顔を見て、驚いた。


264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:13:07.33 ID:aLiDcI2Oo

「どうした?」と俺は声をかけた。

「……誰」と彼は言う。

「さあ」と俺は首をかしげた。

「それがわかるかもしれないと思って、今日まで生きてきたんだが……」

 どうも、無理みたいだな。

「友達が」と、彼は言う。

「友達が、迷子なんだ」

 どう言ったらいいんだろうな、と俺は思った。

「帰れなくなってるのかもしれない」

「……それでおまえは、どうして泣いているんだ?」

「泣いてなんかいない」

「そうか」

「そうだ」

 さて、と俺は思った。

「……迷子か。それは、困ったな」

 
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:13:35.75 ID:aLiDcI2Oo

 彼は頷いた。
 
 本当に困っているんだ、というふうに。

 でも、俺は知っている。
 こいつが本当は怖がってることを。
 本当は、こんな場所に来たくなかったことを。

「……仕方がないから、ついていってやるよ」
 
 そう言うと、彼は俺の方を見上げた。
 かわいげのない無表情。

 俺は夢を見ているのだろうか?
 それとも悪趣味な喜劇の続きなのだろうか?
 
 わからない。
 でも、どうやら、俺の役目はまだ終わっていないみたいだ。
 
 意識も記憶も、まだ判然としない。
 夢でも見ているような気がする。
 
 それでも俺は、彼の手を取った。

「本当は俺も、誰かを探しているような気がしてたんだ」

266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/26(月) 00:14:17.42 ID:aLiDcI2Oo
つづく
267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/26(月) 00:55:26.51 ID:MvYHq0m50
おつです
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/26(月) 08:06:34.99 ID:xJlgkaHyO
乙です。
ちせのボーナスステージは終了なのか。もうちょい読みたかった気もする
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2018/11/26(月) 08:07:21.25 ID:xJlgkaHyO
乙です。
ちせのボーナスステージは終了なのか。もうちょい読みたかった気もする
270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/26(月) 09:47:10.19 ID:rKyCOrbtO
おつです
271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/26(月) 09:53:24.07 ID:Ypqnem4io
おつです
モノローグあるとスワンプマン可哀想にも思えてくるな
272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/11/26(月) 20:04:37.31 ID:uGRrDgGi0
おつです
273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/27(火) 22:20:45.43 ID:aN3WtGnbo

「あんたは誰を探してるの」と子供は訊いてきた。
 
 俺たちはふたりで手をとって藤棚のむこうへと足を踏み入れていく。

「さあ」と俺は首をかしげる。

「それを考えていたところなんだ」

「変なやつ」

 そう、変なやつかもしれない。
 周囲には花の香りが充満している。

 それは分厚いカーテンのように周囲を覆っている。

 自分自身のからだが、いまどこにあるのかもわかっていないような気がする。
 このまま、こんなふうに、曖昧にまどろむような景色を歩くだけならば、悪くもない気がしていた。

 隣を歩く子供は、怯えているようだった。

「……変なとこだな、ここ」

 おかしな世界に、違和感があるのかもしれない。
 それはそうだろう。

「そう、変なところかもしれない」

274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/11/27(火) 22:21:14.02 ID:aN3WtGnbo

 立ち並ぶ背の高い生垣が、迷路のように幾重にも連なっている。

 太陽の位置は変わらない。

「……友達か」

 不意に、そう呟いた。

「そうなんだ」と彼は答えた。

「その友達を、見つけないといけないのか」

 彼は少し不思議そうな顔をした。

「ああ」

「どうして?」と訊ねると、その質問が不可解だというように、彼は首をかしげる。

「どうして?」と彼は繰り返した。

 理由なんてきっと考えてもいないんだろう。

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