柊志乃「前夜祭」

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8 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:05:15.37 ID:qZxm5qP90
 それから彼女は給湯室でティーパックの紅茶を淹れて、ついでにクッキーの缶も一緒に持ってきた。

 ガラステーブルを前に、隣り合う形でソファに腰かける。

 温かい紅茶は、身体を内側から温めてくれるようだった。

「すごく美味しいですね、これ」

「ふふ、ありがとう。でもインスタントの紅茶なのよ?」

 嬉しそうに微笑みながら、彼女も自分のカップに口をつけた。

 二人しかいない事務所は、お互いの心音が聞こえてしまうくらい静かだった。

 どちらからともなく自然に、空いている手を重ね合わせる。
9 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:06:13.66 ID:qZxm5qP90
「これからあなたは、どうなるの?」

 薄く砂糖のまぶされたクッキーを齧りながら彼女が尋ねてきた。

「まあ当面は事務作業になると思いますよ」

 すると彼女は安心したように、表情を和らげた。

「そう、よかった」
10 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:07:00.00 ID:qZxm5qP90
「どうしてですか?」

 不思議に思い、尋ねる。

 なにかを考える素振りを見せながら、彼女はその艶やかなくちびるの端についた砂糖を、白く細い指を使って撫でる。

 そうして指につけた欠片をこっそりと、それでいてごく自然に舐め取った。

 何気ない日常のなかの所作でさえ、彼女の手にかかればいとも容易くコケティッシュになってしまう。


「だって、最近のPさんったら、すごく忙しそうだったもの」

 少しはゆっくりできるだろうと思ってと言って、彼女が愛らしくウインクをする。

 どこまでも優しく、諭すような声だった。

 あなたも十分ハードだったじゃないですか、という言葉は口には出さなかった。
11 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:07:33.51 ID:qZxm5qP90
「そうですね、おかげで志乃さんと飲みにもいけてない」

「本当よ。ずっと我慢してたんだから」

「あはは、すいません。また近いうちに飲みにいきましょう」

「きっとよ? 約束したからね?」

「ええ、もちろん」

 そうしていつもの調子で、他愛もない約束を交わす。

 一拍遅れて、そんな自分たちのことをなんとも暢気だと思った。
12 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:08:16.28 ID:qZxm5qP90
 どうしようか、と内心困っている自分がいる。

 近いうちにいこうなんて言っておきながら、既に今日、飲みにいきたくなっている。

 誘ってみようか、彼女の都合さえ良ければ。そう考えて、口を開いたその瞬間だった。


「ねえ」

 先に彼女が口火を切っていた。

 折り重ねた手の指を絡めて、悪戯を思いついた子供のような表情をしている。

 どうやら考えることは同じらしい。
13 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:08:49.30 ID:qZxm5qP90
「早速、今日なんてどうかしら」

 もう何年も彼女の担当をしてきたからか、お互いに考えることが似通っていると感じる瞬間がある。

 ライブの前日に酒盛りをするアイドルがどこにいるだろうか。それに付き合うプロデューサーも。

 一度くらいそんなことをしても罰は下らないだろうと、あくまで楽観的に考えた。

「実はおれも、お誘いしようと思っていたんです」

 そう言うと、彼女はくすぐったそうに笑った。

 一杯だけという取り決めをして、いつも通っているバーに向かうことにした。


 二人で飲みにいくのは、本当に久しぶりのことだった。
14 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:09:15.64 ID:qZxm5qP90
 柊志乃。

 アルコールをこよなく愛し、観る者の心をも呑んでしまうようなアイドル。

 おれの担当であるアイドルの血は、本人曰くワインでできているらしい。
15 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:10:19.33 ID:qZxm5qP90
 彼女は、明日のライブをもってアイドルを引退することを表明している。
16 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:10:58.04 ID:qZxm5qP90
 おれは、そんな彼女、柊志乃と籍を入れる。
17 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:11:35.12 ID:qZxm5qP90
 彼女は魅力的なアイドルだった。

 自由人に見えてその実、誰よりも真正面から自分自身というものに向き合えている人だった。

 その上で、今の自分にできる最善のパフォーマンスを形にするのが恐ろしく上手かった。

 一度でも彼女と関わった人の心に住み着いてしまうような、そんな魅力があった。


 気の向くままにふらふらと歩いていったり、明るいうちからワインを開けたりもしたけど、おれの話はきちんと聞いてくれた。

 そんなだらしのないところまで含めて、おれにとってのシンデレラは、彼女を差し置いて誰もいない。

 短くはない時間を彼女のそばで過ごしてきて、その存在はおれの心の大部分を占めつつあった。

 彼女と酌み交わすうちに、舌だってすっかりワイン党になってしまっている。
18 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:12:06.59 ID:qZxm5qP90
 彼女のプロデュースにおいて、なにも後悔が残っていないといえば、嘘になる。

 というのも、ついに彼女は明確な形としての結果を得られないまま、アイドルを辞めることになったからだった。
19 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:12:52.54 ID:qZxm5qP90
 彼女はアイドルとして、たしかな実力は持っていた。

 ライブに出れば観客の視線をあっさりと一人占めすることも珍しくなかった。

 深夜番組ながらメインの担当を務めることもあったし、ワイナリーと提携して販売したオリジナルワインは、すぐに売り切れるほどだった。

 そうして根強い人気を持つ彼女ではあったが、どうにも結果は伴わなかった。


 コンテストでグランプリを獲得したことがない。

 リリースしたCDが大きなヒットを達成したこともない。

 意外なことに、今までシンデレラガール総選挙で五十位以内にランクインしたことすらなかった。

20 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:13:28.84 ID:qZxm5qP90
 申し訳程度の変装をした彼女と連れ立って歩く。

 事務所から歩いて十分ほどの距離に、寂れたバーがある。

 店内には小さなテーブルがいくつかとカウンターとがあり、壁には花の油絵が飾られている。

 古風なシャンデリアを照明として使用していて、少し薄暗くはあるものの悪い雰囲気ではなかった。

 そも売れることを期待したわけではなく、店主の趣味を煮詰めたような空間だった。


 彼女と初めて出会ったのも、その店だった。
21 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:14:18.64 ID:qZxm5qP90
 数年前、仕事の帰りに訪れたそこは、寂れたバーだった。
22 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:14:50.79 ID:qZxm5qP90
 なんとなく以前から気になっていた店だった。

 おれはカウンターに腰かけ、ウイスキーを頼んだ。

 年の暮れで、夜も遅く、客はまばらだった。

 店の内装が気にかかって、あたりを見回した時のことだった。


 そこで初めて、目を見張るような美女が一人、カウンターの奥でワインを飲んでいる姿が目に留まった。
23 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:15:21.18 ID:qZxm5qP90
 あまりにも彼女が綺麗で、思わず見惚れてしまった。

 当の彼女はつまらなさそうに目線を伏せたまま、ただ怠惰にグラスを傾け続けていた。

 延々とグラスを干し、ボトルから注ぎ足し、を繰り返していた。

 そうして物憂げに佇む彼女に、並々ならない魅力を感じた。


 視線を外せないままでいると、やがて彼女と目が合った。その目が、微かに細められる。

 気が付けば、おれは自分の名刺を取り出していた。
24 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:16:10.04 ID:qZxm5qP90
 彼女は珍しいものでも見るように名刺を一瞥して、薄べったく笑った。

 よりにもよって自分なんかをアイドルに誘わなくてもと、低く澄んだ声が返ってきた。

「せめてお話だけでも、聞いてもらえませんか」

 なおも食い下がると、彼女はおれの目をじっと見つめた。


「聞くだけなら、聞いてあげられるわ」

 彼女はそう言って、おれの分のグラスを用意してもらって、そこにワインを注いだ。

 促されるまま隣りの席に腰かけて、おれは話した。
25 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:17:06.49 ID:qZxm5qP90
「なんだか奥の深いお仕事なのね」

 彼女は最後まで興味深げに話に付き合ってくれた。

 だけどそこでもう一度スカウトすると、にべもなく断られた。

「それでも、ごめんなさい。きっと私よりも向いている人がいると思うから」

「そう、ですか」


「あなた、面白い人ね」

 肩を落としていると、彼女が笑いかけてくれた。

「もしも暇があれば、その時はここに来て、またお話を聞かせて」

 そこで初めて、彼女の表情がこころなしか明るくなっていることに気付いた。
26 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:17:48.12 ID:qZxm5qP90
 それからおれは、そのバーに通い続けた。

 大抵、彼女は決まった席に座っていた。

 相変わらずスカウトには聞く耳を持ってくれなかったけど、話し相手としては認めてもらえたようで、よく一緒に飲むようになった。


 不思議と、彼女はおれの仕事の話を聞きたがった。

 どんな仕事をしてきたか、仕事先ではどんな人がいたのか、なにを思いながら仕事をしているのか。

 話せる範囲で構わないからと頼まれ、おれは話した。

 彼女はグラスを傾けながら相槌をうち、静かに耳を傾けた。
27 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:18:43.10 ID:qZxm5qP90
 いつも彼女には、落ち着いたというよりは、生気の薄い雰囲気があった。

 それでも酒を飲んでいる間だけは、彼女の表情は少しだけ晴れやかだった。


 時には話し手を交代することもあった。

 彼女の話にはユーモアがあり、含蓄に富んでいた。

 また、彼女は恐ろしいほどのうわばみで、興が乗ると何本もボトルを開けて平然としていた。
28 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:19:22.61 ID:qZxm5qP90
 次第に話題なんて、なんでも構わなくなった。

 お互いに話すことがなければ無理に話そうともせず、ただ静かに飲むことも珍しくなかった。

 彼女の隣りは居心地がよかった。

 自惚れでなければ、彼女もまた同じことを感じてくれていたと思う。


 最初はただ彼女が美人だからという理由でスカウトを持ちかけたに過ぎなかった。

 だけど、こうして彼女の人となりを知ってからは、もっと多くの人に彼女の魅力のとりこになってほしいと思うようになった。
29 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:20:26.94 ID:qZxm5qP90
 ある日のことだった。

「志乃さん」

 いつものようにワインを飲んでいる彼女に声をかけた。

「うん?」

 機嫌よく彼女がこちらを向く。

「何度も同じ話をするようで、すみません」

 その言葉だけで彼女は察したらしかった。

「また、スカウトの話?」

 呆れたような、それでいてどこか優しさの影のある表情を浮かべて、困ったように彼女が笑った。


「どうしても、アイドルをしたいとは思えませんか」

 そう尋ねると彼女は少しだけ眉根を寄せて、一度グラスを深く煽った。
30 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:21:23.91 ID:qZxm5qP90
「最初は、本当に興味がなかったわ」

「それでも、あなたのお話を聞いているとね、アイドルってすごくいいなあって、そう思ったの」

「誰かに夢を見せるのも、他ならない自分自身が夢を見続けるのも、どちらも」

 干したグラスを見つめながら、彼女は小さく呟き始めた。

「色んな所でお仕事ができるのなら、各地のワインも楽しめるし。アイドルも悪くないのかなって」

 思ってもみない彼女の言葉に、呆気に取られてしまった。

「それは、スカウトの話を受けてくれるってことですか?」


 すると、彼女は静かに首を横に振った。

「もう少し私が若ければ、受けていたかもしれないわね」
31 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:22:06.18 ID:qZxm5qP90
「ねえ、どうして、私みたいな女にこだわることがあるの?」

「だって私は、アイドルをするような年齢でもなければ、特別な経歴があるわけでもないのよ」

 いつもの優しい微笑みも、柔らかい雰囲気もそのままに、理解しきれないといった疑念が渦巻いていた。
32 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:22:55.91 ID:qZxm5qP90
「別に年齢がいくつでも、なんの経歴も持っていなくても、関係ないんです」

 彼女であることに意味があった。

「私は、あなたが想像するほど魅力的な人間じゃないわ」

「あなたの魅力を引き出すのは、おれの役割ですから」


 少しの間黙り込んで、彼女がいじけるように呟いた。

「……飲んだくれで、投げやりな私でも、アイドルをできるかしら」

「いいじゃないですか。一人くらい飲んだくれで、投げやりなアイドルがいたって」
33 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:23:25.35 ID:qZxm5qP90
 大真面目に返すおれを見て、彼女が笑みをこぼした。

 そうして一頻り笑い終えた後、観念したように彼女が両手を上げた。

「わかった。じゃあ、あなたに運命を預けるわ」

34 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:23:52.01 ID:qZxm5qP90
 雪でもちらつきそうな寒空の下を歩いて、漸く辿り着く。


 おれと彼女の他に、店には客がいなかった。

 カウンターの端に腰かけ、二人分のグリューワインを注文した。
35 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:24:26.75 ID:qZxm5qP90
 小さく乾杯をして、少しだけ口に含む。

 ワインの風味にシナモンが乗って、温かなそれが喉元を通り過ぎていくのが心地よかった。


「色々あったわね」

 最初に彼女が口を開いた。

「色々ありました」

「どれも、とても楽しかったわ」

「はい」
36 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:24:55.65 ID:qZxm5qP90
 二人で歩いた道のりをなぞる。

「夜桜を背景にライブをしたこともあったわね」

「覚えてます。あの時は本当に盛り上がりましたね」

「あの時はって、今はそうじゃないの?」

「言うまでもなく、今も十分綺麗ですよ」

「ふふ、ありがとう」

「海賊の恰好をしたロケもありましたね」

「ええ。とても美味しいラム酒だった」


「……たしかに美味しいお酒でしたが、それしか覚えてないんですか」

 彼女はにっこりと微笑んで、それを否定した。

「いいえ、あなたと飲んだお酒だから、覚えてるのよ」
37 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:25:50.44 ID:qZxm5qP90
「いつだったか、撮影で花を活けたこともありましたよね」

「覚えてるわ。懐かしい」

「その後に撮った志乃さんの女将姿も、綺麗でした」

「ふふ、褒めてもなにも出ないわよ?」


「どんな場面のあなたも、おれにとっては最高のアイドルですから」
38 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:26:27.41 ID:qZxm5qP90
「あら、スクール水着を着させられた時も?」

 彼女が横目でちらりとこちらを窺う。

 いつかの夏に、珍しく彼女が照れながら撮影したことを思い出した。

「もちろんです。よくお似合いでした」


 それから顔を見合わせて、二人して笑った。

 たった一杯のワインを、惜しむように飲んだ。

 明日になれば、彼女のアイドルとしての人生は終わりを迎えてしまうから。
39 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:27:46.21 ID:qZxm5qP90
「……それでもやっぱり少しだけ、心残りがあります」

「結局、おれは志乃さんをトップアイドルにしてあげられなかった」
40 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:28:33.63 ID:qZxm5qP90
 なにかのコンテストでグランプリを獲得したことがない。

 リリースしたCDが大きなヒットを達成したこともない。

 彼女の努力は、そばで見ていたおれが一番知ってる。

 知っているだけに、それを結果に繋げられなかったのが、悔しかった。
41 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:29:04.03 ID:qZxm5qP90
 こんなにも、素敵なアイドルだったのに。

 彼女は、シンデレラガール総選挙で五十位以内にランクインしたことすらなかった。
42 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:30:23.56 ID:qZxm5qP90
「一人くらいは、飲んだくれのアイドルがいたって構わないでしょう?」
43 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:31:19.84 ID:qZxm5qP90
 頭を撫でられる感覚があった。

 顔を上げると、世界で一番綺麗なアイドルが微笑んでくれていた。


「あなたは、あなたにできることを頑張ってくれたじゃない」
44 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:31:57.62 ID:qZxm5qP90
「アイドルのお仕事は、これまでにないってくらい一生懸命になれたし、楽しかったわ」

「だからその結果が振るわなかったとしても、私は十分それでいいの」

 優しく言い含めるようにして、彼女は話した。


「あなたがこの道を示してくれなかったら、多分私はずっと一人で飲み続けていたかもしれなかったと思う」

 そう言って彼女が、おれの手を握る。

「あなたに運命を預けて、正解だったわ」
45 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:32:36.09 ID:qZxm5qP90
「それに、どんな結果でも、あなたが労ってくれたから」

「私が頑張ったことを、あなたがわかってくれていたから」

 それこそが嬉しかったのだと、彼女ははにかんだ。
46 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:33:19.50 ID:qZxm5qP90
 彼女は明日をもって、アイドルを引退する。

 おれと彼女の関係は、そこで一つの区切りを迎える。

 彼女と、何度も話し合った。この選択に、後悔はないかと。

 その度に彼女は頷いてくれた。

 あなただからいいのだと、微笑んでくれた。


 おれは生涯、彼女を幸せにすることを誓う。
47 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:34:03.94 ID:qZxm5qP90
 夜が明ける。

48 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:34:33.39 ID:qZxm5qP90
 演出の一環としてワインボトルを持ち込んでライブに出演したいと彼女が言ったのは、ライブの始まる十五分前だった。

 封の切っていないハーフサイズのボトルを、なんでもないように自分のバッグから取り出して。
49 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:35:02.88 ID:qZxm5qP90
「きっと盛り上がると思うの」

「いや、盛り上がるとかじゃなくてですね」

 アイドルがライブのステージにアルコールを持ち込むなんて、前代未聞の話だった。

 それも、引退前最後の大一番で。

 だけど必死に止めながら、裏腹にそんな彼女の姿を見てみたいとも思った。

 意図せず想像するそのステージの上で、ワインボトルを携える彼女は絶対に様になる。奇妙な確信さえあった。

「絶対ファンは喜ぶと思うわ」

「大騒ぎになりますって」

 するとその言葉を待っていたように彼女が、不敵で可愛らしい笑みを浮かべて、物騒な言葉を返した。


「大騒ぎにしたいのよ」
50 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:35:56.97 ID:qZxm5qP90
「ねえ、だめかしら?」

 艶やかなくちびるを震わせて、彼女がおれの肩を揺する。

「……せめて空瓶を持ち込むことにしませんか」

 精一杯譲歩してみたけど、彼女は楽しそうに微笑みながら首を横に振る。

「それこそだめ。ねえ、栓はぜったい開けないから、おねがい」

 揺れるおれの心情に勘付いたのか、甘えた声でねだられる。

 ついには折れてしまい、現場のスタッフに頭を下げて、特別に小道具として持ち込む許可をもらった。
51 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:36:30.42 ID:qZxm5qP90
「ありがとうね」

 口元を綻ばせ、しっかりとボトルを握って彼女はステージに上がる準備を整える。

 ざっくりと裂けているようにも見える、切込みの深いドレスが、彼女の陶器のようにすべらかな背中をあらわにしている。

 その後ろ姿を眺めながら、いつにもまして確信があった。


 今晩のライブは、絶対に成功する。
52 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:37:14.40 ID:qZxm5qP90
「Pさん」

 背中を向けたままの彼女が、小さくおれの名前を呼ぶ。

「最高の舞台を見せてあげる」

 それだけを言い放ち、ステージへと向かった。
53 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:38:07.64 ID:qZxm5qP90
 羽毛のように軽い足取りで、彼女はステージの中央にあるマイクスタンドまで辿り着いた。

 ほんのりと染まった頬は、酒精によるものではなく、舞台に立つ高揚によるものだろう。

 観客席から、一斉に歓声が届く。


 ボトルを片手にステージに立つ彼女をモニターの先に見る。

 しなやかなドレスがこれでもかというほど、映えていた。

 観客のなかから、困惑したような声が上がり始めている。オーロラビジョンに、彼女の手元が映っている。

 全員の視線が彼女と、彼女の指が絡められたボトルに注がれていた。

 そこには、本物の赤ワインがたっぷりと詰まっている。
54 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:38:48.93 ID:qZxm5qP90
 そうして悠然と構える彼女に葵色のスポットがあてられ、寒気さえ覚える色香がステージ全体を覆った。

 淡いひかりを浴びた彼女は、ただそこに立ってるだけで心臓を撫でられるような色気を放っている。

 誰も彼もが声を失ってしまい、少しの間、凪いだ海原のようになった。


 一切の言葉の振り払われたそのなかで、彼女がおもむろにボトルを掲げる。

 彼女がそのラベルに口づけをするのと同時に、イントロが流れ始める。

 それを契機に凪いでいた空気が突然張り詰め、音もなく弾けた。

 一斉に鳥肌が立ち始める腕を組みながら、おれはモニターから目を離せない。
55 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:39:37.09 ID:qZxm5qP90
 彼女の最後の舞台が、まさに産声を上げる瞬間だった。

56 : ◆K5gei8GTyk [saga]:2017/12/25(月) 00:41:19.64 ID:qZxm5qP90
以上になります。ありがとうございました。
志乃さんは本当に愛らしい人だと思います。
誕生日おめでとう。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/12/25(月) 13:59:24.36 ID:90KkzPLa0

志乃さんいいよね
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