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死んだはずの妻と出会った話
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1 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:52:41.47 ID:EDLtVNMv0
僕の妻は、2年前の春、死んだはずでした
突然のことでした
会社で勤務中だった僕に、上司が突然言ったのです
「お前宛に、警察からだ」
僕は、極めて平凡な人生を送ってきました
幼い頃から学習塾に通わされ
普通の高校へ進学し
平凡な大学に合格し
名も知られていないような、普通の企業に就職しました
そんな平凡な人生を送ってきた僕は、警察のお世話になるような事は、何一つとして記憶にありません
僕は昔から臆病者でしたから、警察、というワードだけで、情けないことに、心底震え上がりました
上司から乱暴に手渡された受話器を受け取り、恐る恐る耳に当てました
「もしもし?」
「フジミヤマコトさんで、お間違いないでしょうか?」
「ええ、フジミヤは私です」
「フジミヤカスミさんは、あなたの奥さんで、間違いないですか?」
「……そうですが」
僕の妻が、今、仕事にどう関係があるというのでしょうか
「大変申し上げにくいのですが……あなたの奥さんが、今日の昼頃に、交通事故に遭われましてね」
「……はあ」
「先ほど……お亡くなりになりました」
「……はあ」
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1497091961
2 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:53:23.23 ID:EDLtVNMv0
僕はまだ仕事が残っていましたので、通話が早く終わることを願い、相手が話し終えるのを待ちました
すると、何があったのか、しばしの間相手は沈黙しました
「失礼ですが……あなたは、フジミヤマコトさんで、間違いないですよね?」
この人は、一体何を聞いているのでしょう
僕の名前の確認は、さっきしたばかりだというのに
「おかしいなあ……分かりました。それでは、至急こちらの病院へ来ていただけますか? ご本人確認が必要ですから。場所は――」
僕の頭の中は、ずっと冷静でした
薄情な男と映るでしょうか
現実が認識できていないと映るでしょうか
――そうか……死んでしまったのか、仕方ないな
僕の頭の中にあったのは、仕方ない、ということ
ただ、それだけでした
一連のやり取りを上司に告げると、僕は退社を命じられました
3 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:54:02.91 ID:EDLtVNMv0
僕が、真っ先に考えたこと
――今日は、こんなに早く上がることができて、嬉しい
感情が欠落しているでしょうか
情が無いと思われるでしょうか
非常識でしょうか
思えば、以前祖父が死んだときもそうでした
祖父は、誰に対しても、滅法厳しい人でした
作法が違っていれば、怒ります
礼儀がなっていなければ、怒ります
失礼があれば、怒ります
とにかく、怒るのが好きな人でした
仕事に支障が出る、面倒だ、そう思いながら
彼の葬式に参列した時、僕が思ったこと
――ようやく、怒鳴られずに済む
こんな自分だから、妻が死んだ時、僕が冷静だったことについては、何一つ疑問を感じませんでした
そう、僕自身に
4 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:54:42.35 ID:EDLtVNMv0
病院に到着すると、すぐに霊安室へと案内されました
電話を受けてから、僕がここへ到着するまで約三時間程の時間が経っています
身支度を整えるために、一度家に帰ったからです
身を纏うスーツに、病院の匂いをつけたくなかったのです
「遺体の確認をお願いします」
白衣の男が、僕にそう告げました
妻らしき物体の、恐らくは顔の部位に掛けられた白い布を、指でそっと剥がしました
それはまぎれも無い、妻の顔でした
頬骨が浮き出ていて、目の下が黒く、全体的に血の気が薄い
なるほど確かに、彼女は息を引き取っているのです
涙は、一滴も出ませんでした
かといって、現実を受け入れられていないわけではありません
動揺していたわけでもありません
僕は、恐ろしいほどに冷静でした
5 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:55:25.10 ID:EDLtVNMv0
「はい……彼女は、僕の妻で間違いありません」
その時、傍で立ち尽くし、腕を後ろで組んでいた男は、明らかに僕の出方を伺っていました
だから、きっと驚いたのです
彼の目は大きく見開かれ、口はあんぐりとしていました
ドラマか何かで得た情報によると、こういう状況では、肉親は泣き崩れるべきなのです
これまで共に過ごしてきた相手と、二度と会話を交わせない
二度と触れ合う事が出来ない
憎まれ口すら叩けない
愛を囁いても、届くことは無い
主観的には、相手との関係は、永遠に閉ざされてしまったのですから
そう、悲しむべきなのです、普通なら
であるならば、僕達夫婦は、普通ではなかったのでしょうか?
否、そうではないでしょう
僕達夫婦は、極々普通の一般家庭でした
6 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:56:26.41 ID:EDLtVNMv0
僕は、普通のサラリーマンです
いえ、わざわざ言わなくとも、この国で仕事に明け暮れる人種など、サラリーマンが大半を占めているのでしょうけれど
朝早く会社に出勤するために、妻がわざわざ早起きして作ってくれた朝食を、僕は一口も口にすることなく、玄関の扉をあわただしく開け放ちます
その時、僕が妻に、行ってきます、の一言を告げていたかどうかもわかりません
上司の飲み会について行くことが多かったので、僕が妻の待つ家に帰るのは、大抵の場合0時を過ぎた頃でした
妻は決まって夕食を作っていて、リビングのテーブルに突っ伏して意識を失っていました
妻は、朝にはめっぽう強く、逆に夜には死ぬほど弱いのです
今考えると、妻は、僕が帰ってくるのをずっと待っていたのでしょう
僕は、1週間に2度の頻度で19時には家に帰る事ができていたので
そして、そういう日は、不定期でした
だからこそ僕の妻は毎日、早く帰ってくるかもしれない僕のために夕食を作り、テーブルでその帰りを待っていたのでしょう
当時の僕は、彼女になんの感謝も抱きませんでした
むしろ、嫌悪感すら感じていました
僕は、メールで伝えたはずでした
「今日は食べて帰るから、作らなくていいよ」
ですが、何があろうと妻は夕食を作り、僕の帰りを待っていました
なんてことはないのです
一度、僕が夕食はいらないと言いつつも、結局上司と早くに別れて、ほとんど食べ物を口にせずに帰宅した日があっただけの事でした
7 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:57:02.53 ID:EDLtVNMv0
「要らないと言っただろう、食べられないよ」
「どうして作ったんだ。勿体ないじゃないか」
「頼むからメールの内容くらい理解してくれ」
僕は、妻に不誠実でした
対して妻は、僕の事をひたすら信じ続けていました
そんな生活でしたから、僕との生活の中で、彼女があまりいい思いをしていなかったであろうことは、容易に想像ができました
でも僕は、彼女に何も与えることが出来ず、恐らくは人並みの夫婦生活すら過ごさせてあげる事もままならなかったのです
ですが、そんなもの、現代社会ではありふれた話でしょう
普通の枠組みから、外れたものではありませんでした
特に財産に恵まれていたわけでもなく
かといって、貧しかったわけでもなく
普通の家庭と違う点があるとすれば、子供がいないことでしょうか
それに関しても、僕と彼女が性交渉を交わさないほどに愛が冷めきっていたわけでなく、まだそういう時期ではなかったからでした
僕は、忙しかったから
そういう事をする時は、いつも避妊をしていました
勿論、仕事がある程度落ち着いたら、子供を作る予定でした
それが、世の中の普通ですから
単純に、子供ができる前の夫婦だった、というだけの話です
僕達夫婦は、どうしようもなく普通でした
8 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:57:50.84 ID:EDLtVNMv0
瞬く間に、彼女との別れの儀式は進みました
僕が先導を切るまでもなく、業者の方々が段取り良く進行してくれたおかげで、僕は特に支障をきたすことなく会社に戻ることができました
何もかも、普通のはずでした
妻が死んでから、僕の普通は、普通ではなくなったのです
9 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:58:30.22 ID:EDLtVNMv0
ある日の事です
その日はたまたま、僕は早く家に帰ることができました
本来なら、ゆっくり体を休める事の出来る、夢のひと時……そんな日のことでした
妻が、突然、僕の前に現れたのです
いや、その表現は不適切かもしれません
妻は、いつものようにくたびれて帰宅した僕を、玄関で出迎えてくれました
「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま」
自然と僕の口から挨拶の言葉が漏れた後、その不自然さに今更ながら気が付きました
僕はなぜ、ただいまと言ったのでしょうか
僕は、一体誰に挨拶をしたのでしょうか
ふと、顔を上げました
それは紛れもなく、僕の妻でした
まず脳裏に浮かんだのは、彼女は僕の脳内で作り出された幻なのだということです
だが、僕は真っ先にその考えを打ち消しました
僕が、妻の幻影を見る理由がないのです
妻を失って、確かに感じるものはありましたが
寂寥感だとか、悲哀だとか、そういう言葉で説明できる程度でしかありません
ならば、言葉で説明できない現象が、僕の身に起こるはずもないのです
次に考えたのは、彼女は別人であるということです
誰かが妻に変装して、この場に立っているのです
色々と考えた結果、それもあり得ないと思いました
彼女は、余りにも妻に似すぎていたのです
ならば、今僕の目の前に立っているこの女は、一体誰なのでしょうか
10 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 19:59:48.92 ID:EDLtVNMv0
「あなた、ボーっとして、どうしたの? 早く上がったら?」
「あ……ああ」
――この女は、誰だ?
その時は不思議と、そんな疑念はすぐに晴れて、いつもの日常として僕の脳内で処理されました
今思えば、一時的な現実逃避だったのかもしれません
あるいは、目の前で起きている出来事に、脳の処理がついていかなかったのかもしれません
「あなた、ご飯はできてるけど」
「うん、食べようかな」
ジャケットをハンガーにかけ、Yシャツのまま席に着きました
妻もまた、俺の反対側の席に腰かけます
一緒に、いただきます、と食前の挨拶をします
何もかも、いつも通りでした
ですが、その日常は、妻を失う前の、僕の日常でした
その日の夕食は、白米に豆腐の味噌汁、肉じゃがにお浸しと、ありふれた献立でした
ですが、肉じゃがは妻の得意料理です
得意というだけあって、妻の作る肉じゃがは格別でした
おいそれと、他人にマネできるわけがないのです
果たして、肉じゃがの味付けは、妻のものと寸分違わないものでした
「……君はやっぱり、君なんだね」
「何言ってるの? そんなの、当たり前じゃない」
「うん、そうだ。当たり前だね」
何も、不自然な点はみられませんでした
不自然な点がない事が、一番の不自然なのだと気が付いたのは、次の日の朝の事でした
11 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 20:00:19.98 ID:EDLtVNMv0
「あなた、ボーっとして、どうしたの? 早く上がったら?」
「あ……ああ」
――この女は、誰だ?
その時は不思議と、そんな疑念はすぐに晴れて、いつもの日常として僕の脳内で処理されました
今思えば、一時的な現実逃避だったのかもしれません
あるいは、目の前で起きている出来事に、脳の処理がついていかなかったのかもしれません
「あなた、ご飯はできてるけど」
「うん、食べようかな」
ジャケットをハンガーにかけ、Yシャツのまま席に着きました
妻もまた、俺の反対側の席に腰かけます
一緒に、いただきます、と食前の挨拶をします
何もかも、いつも通りでした
ですが、その日常は、妻を失う前の、僕の日常でした
その日の夕食は、白米に豆腐の味噌汁、肉じゃがにお浸しと、ありふれた献立でした
ですが、肉じゃがは妻の得意料理です
得意というだけあって、妻の作る肉じゃがは格別でした
おいそれと、他人にマネできるわけがないのです
果たして、肉じゃがの味付けは、妻のものと寸分違わないものでした
「……君はやっぱり、君なんだね」
「何言ってるの? そんなの、当たり前じゃない」
「うん、そうだ。当たり前だね」
何も、不自然な点はみられませんでした
不自然な点がない事が、一番の不自然なのだと気が付いたのは、次の日の朝の事でした
12 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/10(土) 20:01:15.91 ID:EDLtVNMv0
「なあ」
「どうしたの? そんな、真剣な顔して」
「君は、一体誰なんだ?」
「誰って、そんなの決まっているじゃない。貴方の妻よ」
「そんなことは分かっている。だから聞いているんだ」
繰り返し、僕は彼女に問いかけます
「君は本当に、僕の妻なのか?」
「どうして、そんなことを聞くの?」
「だって君は……死んだはずじゃないか」
すると彼女は、僅かにも表情を変えないまま、呟きました
「……そうね。確かに、死んだわ」
彼女は苦笑すると、再び僕の目を見据えて言いました
「なら私は、幽霊ってことかしらね」
「馬鹿にしているのか?」
「気にする事なんてないわ。私は今、ここにいるんだから」
「そんな話、あるわけが……」
「それより、大丈夫? そろそろ会社に行く時間だと思うけれど」
腕時計をみると、いつも家を出る時間を、5分も過ぎていました
「……行ってきます」
僕は、何もわからないまま、日常に戻りました
13 :
◆2mwK9kDO1Y
[sage saga]:2017/06/10(土) 20:02:56.28 ID:EDLtVNMv0
今日はここまでとします
この続きは、また明日
14 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/10(土) 20:06:03.88 ID:BPjO57Iq0
乙
15 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/11(日) 04:31:49.87 ID:A1fXoLfgo
どのような結末になるのか非常に興味深い
16 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/11(日) 13:46:28.60 ID:NfgDhD5jo
乙
17 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/11(日) 23:21:40.01 ID:DhgGe4TX0
はよはよ
18 :
◆2mwK9kDO1Y
[sage saga]:2017/06/12(月) 00:23:27.12 ID:G8eGESGkO
前回、
>>10
>>11
と同じものを投稿してしまい申し訳ありませんでした
では投稿します
19 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:23:55.57 ID:G8eGESGkO
カチャカチャと、金属の触れ合う音に、僕は目を覚ましました
カーテンの隙間から漏れ出る光を感じ、眩しい、と感じます
また、朝がやってきたのです
この2DKのアパートで、金属を鳴らす音が響くとすれば、キッチン以外にありません
僕は鉛のように重い身体を奮い立たせ、布団をどかしながら上半身を起こします
扉の向こう側から、聞き慣れた鼻歌が聞こえてきます
妻が好きだった、有名な男性歌手のJ-POPです
僕は音楽はさっぱりなので、歌手の名前も曲名もしりません
ですが、その軽快な曲調やリズムには、少しだけ好感を持ちました
静かに扉を開けると、妻は僕が起きた事にはまだ気づいていない様子です
「……カスミ」
妻の名前を呼んであげると、彼女は肩を一瞬上下させ、こちらを振り向きます
彼女のポニーテールが背中で揺り動くさまは、なんだか見ていて楽しいです
「なんだ、起きてたんだね」
「……ううん、たった今起きたんだ」
カマをかけたつもりでした
妻の名前を呼んで、即座に反応しなければ、彼女は僕の妻ではありません
ですが、彼女の咄嗟の反応は、間違いなく、彼女は僕の妻であると証明していました
20 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:24:31.38 ID:G8eGESGkO
……と、その時の僕は考えていました
後で考え直してみたのですが、突然後ろから声をかけられれば、誰だって振り向くに違いありません
僕の行動は、全くもって、彼女が妻であるという証明にはなっていませんでした
ですが、その時の僕は、彼女は僕の妻なのだと完璧に信じ込んでいました
「今、ご飯作ってるところだから……それよりもマコトさん、珍しいね。こんなに早く起きるなんて」
「最近は、早く帰れる日が続いているからね。今朝は、すこぶる体調が良いんだ」
「そうなんだ。どうして最近は帰りが早いの?」
「上司がね、暫くは定時で帰っていいって言ってくれているんだよ」
「ふーん……なんで?」
「それはね……」
――君が、死んだからだよ
「……どうしたの? ボーッとして」
「いや……何でもないよ。たまたま、僕がそういう日に当たったんだ」
僕は妻に、初めて嘘をつきました
21 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:25:06.40 ID:G8eGESGkO
その日も、僕は定時で帰ることができました
与えられた仕事が、いつもと比べて圧倒的に少ないのです
上司に告げると、もう帰って構わないと言われます
流石に定時前に職場を離れる事は出来ないので、自分のデスクで待機することにします
ふと、思いました
最後に妻と旅行に行ったのは、いつだっただろう
デスクトップを開いたままのパソコンで、インターネットを開きます
本当は、職場のパソコンでこんな事をするのはマナー違反なのですが
他にすることもありませんし、誰もがやっていることです
一通り調べて、目についたのは、少しだけ高めの旅館でした
ネット上で購入することができるので、そのまま購入ボタンへカーソルを動かします
クリックする前に、とある疑問が頭をよぎりました
――彼女は、本当に存在しているのだろうか
暫く逡巡していると、定時を知らせるアナウンスが流れました
僕はパソコンの電源を落とし、帰ることにしました
旅館の予約は、しませんでした
22 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:25:46.88 ID:G8eGESGkO
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
玄関の扉を開くと、いつも通りの彼女がそこにいました
彼女がそこに存在しているのかどうか、手っ取り早く確認する方法を、一つ思いつきました
「……え、マコトさん?」
僕は、妻の身体を抱きしめました
細い腰へ手を回し、強く、強く抱きしめました
やがて、彼女は僕の突然の抱擁を受け入れたらしく、僕の背中に両腕を回しました
彼女は、確かにここに存在しているのです
「……カスミ」
「うん、なに?」
「二人で、旅行に行こうか」
「どうしたの、突然」
「今週末、予約を取ろうと思う。今なら旅行シーズンから大分ズレているし、二人分ならきっと空いているよ」
「私は、別にいいけど……」
すると妻は抱擁を解き、僕の顔をまっすぐに見つめました
「……あなたは、それでいいの?」
僕はこの時、その意味がさっぱりわかりませんでした
「いいに決まってるじゃないか」
「……わかった。なら、マコトさんの分も準備しておくね」
「ああ、ありがとう」
その後すぐに、僕はスマートフォンで温泉旅館の予約を取りました
23 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:26:45.28 ID:G8eGESGkO
僕と妻が旅行に行ったのは、北海道への新婚旅行が最初で、最後でした
月日が流れ……ようやく今日、妻と2度目の旅行へ行きます
「マコトさん、楽しみだね」
「うん……楽しみだ」
僕と妻は今、新幹線で隣同士です
肩と肩が、触れ合うような距離です
わけもなく、胸の鼓動が高鳴りました
まるで、初めて彼女に恋をした時のように
「旅行なんて……久しぶりだもんね」
「うん、久しぶりだ」
「しかも温泉なんて、初めてだもんね!」
「うん、初めてだ」
「……マコトさん」
「ん? なんだい?」
声のトーンが、少しだけ下がったので、僕は妻の方を向きました
彼女は、唇を尖らせて、頬を膨らませています
「……なんで怒ってるの?」
「マコトさん、キャッチボールって知ってる?」
「ああ、知ってるとも。ボールを投げ合うやつだろ?」
「それじゃないよ。いや、それなんだけど」
24 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:27:12.85 ID:G8eGESGkO
伏し目でこちらを見つめてくる彼女は、どうやら僕を睨んでいるつもりのようです
僕には彼女のそれが、小動物のように見えて仕方がありませんでした
ふと気が付くと、僕は、彼女の頭に手を添えて、優しく撫でていました
「マコトさん?」
若干上ずった妻の声を聞いて、僕は我に返り、手を引っ込めました
「……あ、ごめん。なんでもないよ」
それからは、一言も会話を交わしませんでした
普段なら、いきなり会話が途切れれば、すぐにでもその場から離れたくなって仕方がありません
でも、その時の僕は、彼女が隣にいるだけで心地よさを感じていました
暫くして、彼女の肩が僕に荷重をかけ始めました。
「……カスミ?」
妻が、僕に全体重をかけ始めました。
必然と、彼女の頭が僕の上腕部にもたれかかります。
「ちょ……どうしたの?」
妻の様子を窺うと、スースーと、穏やかな鼻息が聞こえてきます。
妻は、寝てしまったのでした。
妻が寝ている姿を観察するのは、初めての事でした。
きめ細やかな肌や、艶やかな黒髪、長いまつ毛……潤った桜色の唇
全てが、生き生きとしているのです
彼女から立ち上ってくる甘い匂いが、僕の心を締め付けます
皮肉なことに僕は、妻を失って初めて、妻の魅力に今更ながら気づいたのでした
25 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:27:41.70 ID:G8eGESGkO
あれから、電車に乗り換えました。
駅は予想外に綺麗な建物で、観光客が多いのだと実感しました
ですがその日は、乗客は僕達二人を含め、その車両には5人ほどしかいませんでした
20分弱ガタンゴトンと揺られ、辿り着いた駅の外では、送迎の車が待機していました
運転手に軽く挨拶を交わし、後部座席に腰かけます
5分ほどで、温泉旅館に辿り着きました
「すごーい! あったかい匂いがする!」
「……あったかい匂いってなんだよ」
妻の言うあったかい匂いが何かは分かりませんでしたが、硫黄臭とでもいうのでしょうか、ほんの僅かに刺激臭が漂っています
僕は、まるで子供の時に戻ったかのように、心が躍動するのを感じました
スタッフの方々に案内され、すぐに部屋まで案内されました
ツインルームを予約していましたが、和室ということで、まあそれなりの広さだろう……と、あまり期待していませんでした
ですが、予想はいい意味で裏切られました
「ねえねえ、マコトさん! これ見て! おっきな湖が見えるよ!」
「うわ……」
僕は、言葉を失いました
露天風呂から大自然を見渡せるとは聞いていましたが、まさか部屋からも一望できるとは思ってもいませんでした
僕と妻は暫く、障子の向こう側の世界に魅入っていました
「……マコトさん、温泉行かない?」
「あ、ああ。そうだね、行こうか」
この旅行の、本来の目的を忘れていました
荷物を置いて、浴衣を手にして、僕達は二人並んで温泉へと向かいました
26 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:29:17.80 ID:G8eGESGkO
温泉の感想は、省略します
身体の疲れが溶けるように落ちて、骨の髄まで染み渡るかのようだったとだけ、記しておきます
大浴場を出て、出入り口の傍で待っていると、やがて浴衣に身を包んだ彼女が姿を現しました
ポニーテールを解き、肩まで下ろした姿は、何だか新鮮です
髪の毛が水を含み、ライトの光に反射して、艶めかしさを感じます
「ごめんなさい、待った?」
「ううん、大丈夫だよ」
シャンプーの香りか、甘ったるい匂いは更に強まったように感じました
部屋に戻った僕達は、部屋の中心のテーブルに並べられた、数多くの料理に圧倒されました
「うわ……すっごいね」
「うん、こんなに豪華だとは思ってなかったよ」
刺身の舟盛りや、金目鯛、釜飯など、見たことも無いような品々に、僕は心底感服しました
「ねえ、マコトさん」
「ん?」
「今更だけど……お金、大丈夫?」
「あ……ああ、大丈夫だよ……多分」
いや、金額は確認したはずなので、足りないわけがないのです
ですが、プランを間違えたのではないかと思うほどに、僕達庶民には手が届かないようなものだったのです
「じゃ……じゃあ、食べようか」
「う、うん」
27 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:29:53.89 ID:G8eGESGkO
どれから手を付ければいいか迷いましたが、食べ始めると、箸が止まりませんでした
そして、テーブルの上には、少々値の張る日本酒が置いてありました
僕は、上司との飲み会で度々酒を嗜むものの、それほど強いわけではありません
それに対して妻は、お猪口の角度が瞬く間に深くなってしまい、僕は幾度となく注いであげました
ほとんどの皿が空になると、僕は畳の上に寝転がりました
い草の香りが、酔いの回った僕の頭に安らぎを与えます
「ふう……そろそろ布団も並べられるだろうから、もう一回温泉に……」
その時でした。
照明が遮られ、目の前が真っ暗になりました
妻が僕に乗りかかってきたのだと気が付いた時には、僕は肩を抑えられ、身動きを取れなくなっていました
「カス……ミ?」
「違う」
28 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:36:31.55 ID:G8eGESGkO
妻の顔が近づいて、唇に柔らかな感触を感じました
柔らかな髪の毛が、僕の頬に垂れ下がります
上唇と下唇の間から、強引に温かい何かが侵入し
柔らかなそれは歯茎を走り、僕の舌と絡み合い、唾液を送り合い
僕の脳内は、口の中と同じように、かき乱されていました
――ちがう?
一体、何が違うというのでしょう
「……カスミ、今はまだ、やめよう」
そう言うと、彼女はようやく僕から離れました
僕が身体を起こすと、彼女は傍にちょこんと座っています
「……温泉、行こうか」
29 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:38:04.70 ID:G8eGESGkO
大分崩れてしまった彼女の浴衣を直してあげながら、僕はふと思いました
――妻の胸に、ホクロなんてあっただろうか?
それは余りにも小さなもので、近くで注視しなければわかりません
ですが……何度も妻と身体を重ねた僕が、彼女のそれに気が付かないはずがないのです
「ねえ、連れてって」
「ダメだよ……目立つじゃないか」
「良いでしょ……お願い」
上目遣いで頼み込む彼女は、頬が赤らんでいて、小悪魔、とでもいうような愛らしさを感じました
以前の妻は、僕に甘えるようなことは、しませんでした
「……温泉から戻ったら、たっぷり甘えさせてあげるから、ね?」
「むうー……わかった」
妻が変わってしまったのか……それとも、彼女は妻ではないのか
答えは、分かりきっていました
30 :
◆2mwK9kDO1Y
[saga]:2017/06/12(月) 00:38:44.66 ID:G8eGESGkO
今日はここまでです
31 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/12(月) 00:59:10.39 ID:bhczSCv00
乙
いいトコできるねぇ
32 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/12(月) 01:08:30.11 ID:RJ1+1C1ao
双子か整形か
33 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/12(月) 01:11:42.82 ID:+ssqohnSo
サイレントヒル2を思い出した
>>32
あー、そういうことなのかな
もしかしてストーカーとか
34 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/06/14(水) 19:47:05.27 ID:VlI7xRabO
まだかの...
35 :
◆PChhdNeYjM
[saga]:2017/06/14(水) 23:18:03.07 ID:fF3hGUJcO
一定のリズムで流れる落ち着いたメロディーが、頭の中で響きます
僕の頭が、まるで雲が引いていくかのように、スーッと晴れていきます
瞼を開いた時には、すっかり目が覚めていました
気持ちのいい朝です
こんなにぐっすりと眠れたのは、いつ以来でしょうか
恐らく、妻を失ってからの僕は、快眠とは程遠い睡眠ばかりをとっていたのです
快眠というものの存在を忘れかけた頃……最近になって、僕はようやくまともに睡眠をとることができるようになりました
それは、彼女が僕の前に現れてからの事でした
僕は、自分でも気が付かぬうちに、妻に依存していたのです
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