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サターニャ「サタニキア百科事典」
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55 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:40:35.84 ID:6an8YmUi0
「サターニャさんは、良き友人になりたいんですか? それとも、恩人になりたいんですか?」
「はぁ? どういう意味よ」
「サターニャさんは大悪魔になりたいとおっしゃってますし、
誰かの上に立つ練習がしたいというのであれば、止めようとは思いませんが、
よくある勘違いをしてはいけませんよ。
友人間は親子のように献身による関係ではなく、また、献身は対価を要求するものではありません。
もしそれを差し出させようとするのならば、それは契約です。
痛手にならない程度に抑えるというのも、お互いのためですよ」
「そんなことくらい、わかってるわよ」
56 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:41:31.78 ID:6an8YmUi0
「ところで、サターニャさんはさっき、私のコロッケを食べましたね?」
「なかなかいい味付けだったわよ。褒めてあげるわ」
「代わりに、私にもそのメロンパンを一口ください」
「えぇ、今の話の流れでその要求する?」
「天使が愛するべきは秩序ですから」
「まあいいわ。あんたもメロンパンが好きだったのね。今度おすすめとか教えなさいな」
私はメロンパンの齧った部分の反対を手でちぎり、ラフィエルに差し出した。
「はい、どうぞ」
「わかってません、わかってませんよ、サターニャさん……」
ラフィエルは、処置なしといった具合に手をひらひらと振ってみせた。
「何がよ。いらないなら私が食べるけど」
「いえ、いただきます」
メロンパンを受け取ったラフィエルは、言葉とは裏腹にゆっくりと時間をかけてその一切れを食べたのだった。
57 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:42:22.14 ID:6an8YmUi0
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やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
下界にいた昔の人の言葉だが、これは金言だと思う。
言葉なり身振りでの情報伝達効率はあまりよいとは言えない。
脳みそを直接つなぐことでもできたなら飛躍的に向上するのだろうが……その場合、自我はどうなるのかしら?
なんにせよ、世の中うまい話というのはそうないものだ。
暖炉の熱効率なんかも10%ほどで、ほとんどのエネルギーは煙突から吐き出しているのだという。
教え方にもいろいろあるが、内容自体についても、人に一教えるためには、自分が十知っていなくてはならない。
58 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:42:48.44 ID:6an8YmUi0
例えば、デッサンをするときにリンゴの内部だけを描くことはできず、
いわばリンゴと空気の境界をあぶりだしているといえる。
その境界が紙に収まるようにするには、キャンバスを大きくするか、リンゴを小さく描けばよい。
できるだけ詳細なリンゴを描くためには、それなりに広いキャンバスが必要だ。
ということで、最近の私は、学校から帰ってから暇さえあれば編み物をしていた。
棒針は一応の編み方を知っていたくらいでマフラーを完成させたことなど無かった。
そこで、全体の流れを把握し、念のためと手袋や帽子の作り方についても、本を買ってきて調べていた。
59 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:43:16.17 ID:6an8YmUi0
ガヴリールに教えている、かぎ針での編みぐるみは、マフラーと違って作品に曲面が多く、
また組み立ての微妙なバランスでも表情を変えるため、作品ごとに何度か作ってみてコツを掴む必要があった。
それに、初めから複雑なものが作れるわけではなく、段階というものもある。
多少の不格好さは味であり、手作りの温かみを生むが、それでもお手本になるものを見せてあげたかった。
ジョギングや山登りでハイになるように、リズミカルな単純作業は精神を高揚させるらしく、
毛糸が無くなりそうになっていることに気付くころには日をまたいでいた、なんてこともしばしばだった。
60 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:43:43.80 ID:6an8YmUi0
ガヴリールやヴィネットとは、携帯でやり取りをして教える日取りを決めることが多かった。
二人は教室の席が近いこともあって、秘密の会話がしにくいからだ。
魔界にいたころのこういうときの手段は、手紙か、せいぜいが電話だったが、
人間たちは随分と高速で確実な通信手段を考えたものだと思う。
だが、それ故に……なにか大きな、得体のしれないものに飲み込まれているのではないかと、不安にもなる。
61 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:44:39.32 ID:6an8YmUi0
「文明」の字が示す通り、人類の進歩に言葉と照明の歴史は欠かせない。
本の燃える様が他の物が燃えるよりもおぞましく感じるのは、それがまるで自らの右手を食いちぎるような、
あるいはこめかみに銃口を押し付けて引き金を引くような、自滅の虚しさを感じるからだろう。
原始、人間は落雷によって生じた火を絶やさないように守り、道具として使い始めたという。
中でも狼煙の発見は狩りを容易にし、また、人間同士の戦でも永く使われた。
狼煙は天候に左右され、単純な信号しか送れないものの、その伝達距離は百キロにも及ぶ。
やがて望遠鏡の発達により手旗信号やモールス信号が開発され、さらには無線電信が普及。
今や一人に一台、携帯電話が割り当てられている。
いまどき、狼煙なんて上げるのは文章の中くらいだが、煙の伝達手段としての利用はそれなりに残されている。
街に黒煙が上がれば携帯電話を構えた人々が群がり、
淹れたコーヒーから湯気が消えれば、それは自身の余裕が失われている証拠である。
62 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:45:21.16 ID:6an8YmUi0
閑話休題。
特にアナログからデジタルへの切り替えにより、より正確に、大容量の情報が伝えられるようになった。
しかし……この、デジタルというのは、情報の輪郭だけを抽出して無理に分類するようなもので、厄介なもののように思う。
例えば――あまり正確なたとえではないが――時計を思い浮かべてみよう。
デジタル時計といえば、数字がそれぞれお七本の直線の有無で表示される文字盤、
アナログ時計といえば数字が輪になった文字盤を思い浮かべるだろう。
デジタルだと一目で時刻を読み上げることができて実用的だ。
しかし、今が一日の内のどのくらいの位置であるとか、一日はぐるっと一周して繰り返されることとか、
そういう部分が見えにくくなってしまったように思う。
63 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:45:52.17 ID:6an8YmUi0
電子メールなりチャットでのやりとりは、聞き間違いも無いし、見返せるし、実に便利だ。
そのデジタルな明快さは、人間関係さえもくっきりと規定してしまうように思える。
下界に来るまでは、人間関係とはスープの中の野菜同士の関係のようなものと思っていたが、それは違ったらしい。
それは複雑に編まれた網で、結び目が個人。
電話帳として他人をリストアップすることで、自己と他者の、
あるいは、ある他者と別の他者との区別を明瞭にしてネットワークを構築する。
それはまるで、相手に応じて別の国語辞書を使い分けろと言われているみたいだ。
64 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:46:21.93 ID:6an8YmUi0
例えば、私とヴィネットがいるときのガヴリールは、私だけがいるときと、ヴィネットだけがいるときの
加重平均にでもなっているのだろうか?
それとも、また別のガヴリールなのだろうか……。
また、その過剰なまでの明晰さは、何か想像もつかないものの一部であるようにも思える。
蜘蛛の巣によく似たその様子は、生物の時間に習った脳の構造と似ているかもしれない。
それは、炎上という言葉にも表れているようだ。
人と人を繋ぐ糸は、導火線でもあったらしい。
大規模なニューロンの発火は高揚しているときにみられる現象だ。
人はだれでも15分だけなら有名になれるという……。
65 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:46:50.07 ID:6an8YmUi0
私の尊大な態度は、その実は虚勢なのではないか、という勘違いも、
自らと違う構造を持つ生き物たちに埋没して過ごしているうちに、
わずかに真実味を持ち始めたようにも思えてしまう。
夏休みの宿題を慌てて間に合わせたのも、赤点の回避に努めたのも、
弱みを見せまいとする、最低限の抵抗だったのかもしれない。
彼らの執念的といえるほどの現実性の前に、私は大悪魔だという言葉は、
GPSを搭載した飛行機の航路に浮かぶ雲くらいの効力しか持たないようにも思えてくる。
66 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:47:19.04 ID:6an8YmUi0
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day 3:
のろし【狼煙】
(1) 昔、戦争の合図や事件が起こった知らせとして、火をたいて上げた煙。
(2) 親しい二人の秘密のやり取り。
(3) 現代人が暇つぶしに上げるもの。140文字で飛ばすのが当世風。
「口は災いの元。――を上げるときには、一度自分の中で咀嚼するのよ」
「喉が煤だらけになりそうですね」
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67 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:47:58.47 ID:6an8YmUi0
ある日の土曜日、私はガヴリールの家に来ていた。
一人で家にいるとパソコンを触ってしまい、制作が進まないというので、私はある作戦を実行することにした。
その日の少し前に、ラフィエルにやる気の出し方について相談していた。
「大切なのは、飴とムチと、飴がもらえるという希望です」
「希望?」
「溺れる者は藁をも掴む。どうしても藁を掴ませたいのならば、部屋を水で満たせばいいのです」
「わかるように言いなさいよ」
「心理学的には、オペラント条件付けと呼ばれる方法ですが……」
このときに、ヴィネットに提案した音楽と、もう一つ別の方法を教えてもらっていて、今回はそれを試してみることにした。
68 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:48:26.07 ID:6an8YmUi0
「はぁ……火を見てると落ち着くな」
もう一つの方法とは、アロマキャンドル。
編み物をする前に香りを嗅ぐ習慣を付け、
逆に、香りを嗅いだときに編み始めないと落ち着かなくさせる、という作戦だ。
香りによって色々な効果があるそうだが、リラックスしすぎて眠くなってもいけないので、
ミントガムを噛んだ時のように頭がすっきりする、さわやかな香りを選んだ。
そのまま置いていてもいい匂いだが、やはり火をつけると部屋全体に香りが広がる。
69 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:48:54.71 ID:6an8YmUi0
「ちょ、なんか危ない眼をしてるわよ、あんた」
ガヴリールは両手であごを支えるようにしてテーブルに両肘をつき、
うっとりとした眼差しで蝋燭を見つめている。
これは逆効果だった……?
でも、確かに火は見入らせる力がある。
「これは引き込まれるな……。お前も、家で蝋燭立てて儀式とかしないの?」
「悪魔は儀式を催される側よ!
なんで私が人間どもに菓子折り持って出向くみたいな真似をしなくちゃいけないのよ!」
ガヴリールは席を立ち、カーテンを閉めた。
彼女の家のカーテンは遮光性の高い上等なカーテンで、昼間でもカーテンを閉めると時間がわからなくなる。
朝日が差し込まないから朝起きられないのだろうか。
これも文明の弊害かもしれない。
70 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:49:21.17 ID:6an8YmUi0
「でも、召喚と同時に周りを火の海にするのって、かっこよくない?」
ガヴリールはドアの方へ向かい、部屋の電気を消した。
「あ、いいわねそれ。でも自分の部屋を火の海にする趣味はないわ。というか、なんで暗くしたのよ」
「いや、でもこれ、なんか悪魔的じゃないか? ほら、照明を消すとさ。
今度サターニャの家で蝋燭祭りしよう」
「火は聖なるものって感じがするけど……。これじゃ、編めないじゃない」
確か、火を崇拝する教えもあったはずだ。
71 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:49:51.41 ID:6an8YmUi0
炎は闇の住人である悪魔の天敵。
かつて下界の罪人は、悪魔や魔女と呼ばれ業火で焼かれたと聞く。
その風習は根深く、焼かれるときに翼を広げている悪魔に見えることから、
鶏の悪魔風などと呼ばれる料理の名前にさえ残っている。
悪魔を鶏で例えるなんて、失礼な話だ。
それなら、鶏の罪人風とでもした方が、知恵が得られそうでいいじゃないか。
羽を表したいなら、鶏の鶏風とでもすればいい。
それはさておき、夏休みに悪魔祓いの本をラフィエルに見せられた時に感じたのも、ひりつくような熱気だった。
72 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:50:19.96 ID:6an8YmUi0
「それに、使い魔がいるから、火気厳禁よ。やるならここで」
「やだよ。火事になったらどうするのさ」
「私の家は燃えてもいいっていうの!? なんで私の周りの天使共はこう発想が悪魔的なのかしらね……」
「脱線はいいからさ、そろそろ本筋に戻った方がいいんじゃないの」
「わざわざ電気消して暗くしたのは誰よ、全く 」
それから再び電気をつけて、前回の途中から始めた。
ガヴリールはいつもよりリラックスしているみたいで、
彼女には時々編み目がきつくなりすぎる癖があったが、
それが抑えられているらしく、前回よりも面のでこぼこが減っていた。
73 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:51:04.25 ID:6an8YmUi0
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お昼はガヴリールが買い置きしていたカップ麺を頂いた。
私は醤油ラーメンで、ガヴリールはきつねうどん。
毛糸玉が汚れないようにベッドの上に道具をよけて、テレビを流しながら二人で食事をする。
「ああー、なんか目が変になってる気がする」
「私の手つきが鮮やかすぎたか?」
「いや、つい蝋燭の炎を見ちゃってて」
「あー、わかる」
ガヴリールが作業中に私の足の間を陣取るので、私はその間、特に何もできない。
彼女の手の中で秩序が構築されていくのを見守るのも退屈しないし、なんとなく落ち着くので好きだったが、
今日はぼんやりと揺れる火を見ていることも多かった。
74 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:51:34.97 ID:6an8YmUi0
「禅の修行でもろうそくの火を見つめるって言うしね。一点集中で目を鍛えるのは、集中力の向上にいいんだと」
「へぇ、そうなの。ふふん、私がどんどん最強になっていくのを、指をくわえて見ていることね」
「まあ、集中力だけあっても、赤ん坊にラップトップ持たせるようなものだけどね。将棋なら定石も知らないと」
「体は資本よ。あんたもインスタント食品ばっかり食べてないで、体力付けなさい」
「母親かよ」
「……」
二人してずるずると麺をすすり、会話が途切れる。
75 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:52:02.52 ID:6an8YmUi0
「蝋燭の炎って、周りの音を吸収するみたいだよね。
一面の雪景色みたいに、その周囲の暗闇から、光だけでなく音も奪い去る」
「そうね。たき火とかでも、パチパチって音はするけど、印象としてはとても静かだわ」
暗闇の中に灯る蝋燭の小さな光が安息をもたらすのは、
その明るさが闇と対比されて一層暖かく感じるから、のみではない。
炎はその明るさに眼を慣れさせることで、周囲に立ち込める不安を闇で塗りつぶすのだ。
もたらされた無意味さによる平穏は、母の鼓動と同じリズムで揺れるその姿によって、
目の奥深く、心の底まで滲んでくる。
76 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:52:31.31 ID:6an8YmUi0
「火って生き物と似ている気がするのよ」
「そうか? どの辺が?」
「火は、蝋とか、薪とか、燃えるものを吸い上げて、灰とか酸素にして吐き出すわけでしょう?」
「燃焼は劇的な酸化だから。酸素は消費されるぞ」
「あれ、二酸化炭素だっけ……まあいいわ。
これって、日々ご飯を食べる私たちと類似しているように思うのよ。
生涯を蝋燭に例えるなんて、結構本質的な気がするのよね」
「ふぅん。蝋燭なら、つけたり消したりできるのにね」
「できるんじゃないかしら。たまに着くか確認する程度にちびちび使う人もいれば、ずっとつけっぱなしの人もいる」
「どうだか。ま、いつか燃え尽きるのは確かだよ」
77 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:53:06.26 ID:6an8YmUi0
「ごちそうさま」
「はいよ、お粗末さん」
先に食べ終えた私は、残ったスープを台所に捨てに行った。
ガヴリールは猫舌なのかふぅふぅと息を吹きかけながら食べていた。
一度に麺を数本ずつしかとらず一口が小さいので、小動物の食事風景を見ているようだった。
「さっき食べたラーメンどうだった? おいしかったらまた買おうと思うんだけど」
「うーん、私はちょっと苦手かも」
「えっ、マジか……」
ガヴリールは持っていた箸を落としたのか、カップの中のスープがポチャンとはねたような音がした。
78 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:53:33.21 ID:6an8YmUi0
「な、なによ。驚きすぎでしょ」
三角コーナーに向けて容器を傾けながらガヴリールを見ると、
目の前で犬が急に二足歩行を始めた時みたいな顔をしていた。
「お前、今日は体調が悪かったんだな。無理させてしまってすまない」
「なんで商品の味じゃなくて私を疑うのよ! 誰だって好みはあるでしょ」
「だってお前、なんでもうまいって言って食べるじゃん。
石油とかでも喉を鳴らして飲み干せるんじゃないの? 腰に手を当ててさ」
「失礼すぎる! あまりに塩っ辛いのは苦手なのよ」
「そういえば、海水飲んでしょっぱいって言ってたっけか」
79 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:54:01.21 ID:6an8YmUi0
容器を軽く水ですすいで不燃物のごみ箱に捨てる。
ガヴリールはテレビを眺めていた。
画面の中の料理教室は、三十分加熱された食材が一瞬で登場する場面だった。
「悪魔の舌のアキレス腱は塩だったか」
「え、こんにゃく? 塩で揉むと水が抜けて、味がしみ込みやすくなるらしいわね。ヴィネットが言ってたわ」
「うん? ああ、そうだね」
ガヴリールはのっそりとリモコンを手に取り、つまらなさそうにチャンネルを変えた。
80 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:55:33.95 ID:6an8YmUi0
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午後からも少し編み進めた後、彼女もさすがに疲れてきたらしく、休憩することにした。
ガヴリールはノートパソコンをいじっていて、私はテレビゲームをやらせてもらっていた。
『悪魔の街に火を放て!』
その文句から始まるのは、世界を侵食する悪魔の街の増殖を、放火によって食い止めるゲームだ。
”武器はなんでもいい
ライター、火炎瓶、ダイナマイト、それにタバコ
ただし、君も悪魔の街の住人だ
全てを燃やし尽くしてはいけない
なぜなら、自分の居場所を失ってしまうから”
悪魔の私が操作するのも、なんというかきまりの悪い感じだが……。
単なる遊びということで、私は黒き炎の神の僕たる悪魔として、街に火をつけて回ることにした。
81 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:56:01.24 ID:6an8YmUi0
妨害してくる敵に攻撃が当たれば気持ちのいい効果音とともに敵が炎に包まれて消滅し、
戦局の勝利はファンファーレで大げさに祝福してくれる。
お手軽な全能感……こういうゲームは初めてするが、
ガヴリールが夢中になるのも無理はないかもしれない。
「下界の娯楽もなかなかやるわね。もっと早く教えなさいよ」
「お前がそんなにハマるとはね」
「これって一人でしかできないの? ガヴリールも加勢しなさい」
「コントローラーがない」
「そうなの。残念ね」
画面の中で左右に増えていくコンビニを焼き払うと、主人公のレベルが上がったらしく、
彼の頭上にポップアップが表示されてメロディが流れた。
82 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:56:29.27 ID:6an8YmUi0
「成長が目に見えるなんて、わかりやすくていいわね」
「成長ねぇ」
ガヴリールが、猫のつもりで描いた絵を「かわいいパンダですね」などとほめられた時のような、
何か言いたげな嫌そうな声を出す。
「なによ」
「人間的成長だのなんだの、よく言うけどさ。結局、成長なんてしないんじゃないの?」
83 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:57:07.97 ID:6an8YmUi0
「はあ? 勉強すれば頭がよくなるし、たくさん走ったら足が速くなるじゃない」
「果たしてそれは本質的なの?
例えば、この部屋の中にリンゴが一つあったとする。
テーブルの上かもしれないし、ベッドの上かもしれない。
そこに貴賤はあると思う?」
「うーん、あんまり変わらないわね。」
「私が勉強をするかしないかっていうのも、もっと高い視点から見れば、
リンゴがどこに置いてあるかくらいの違いでしょ」
「リンゴが洗濯機の中にあったら困るわよ。間違えて洗っちゃうかもしれないじゃない」
「ゲームのパラメータだって、外に持ち出しはできない。
攻撃力が100でも999でも、単なるデータであり等価なんだよ」
「そうかしら? レベルが上がったら倒せなかったボスが倒せたりするわ」
84 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:57:34.68 ID:6an8YmUi0
「別の例で言ってみるとすれば……
人が和室の中でポーズをとるのを行灯で照らして、障子に映った影が、そいつの外面。
見違えるというのは、違うポーズをとったにすぎない」
「でも、取るのが難しい姿勢だってあるわ
例えば、ずっと逆立ちし続けるのには修行が必要よ」
「そうだね、その場合は、若いうちはよくても、歳を取れば倒れる
年寄りの這いつくばる姿は、足のおぼつかない幼子とよく似ているよ」
「もし仮にそうだとしても、身の振り方、使い方を知ることは大事よ。
包丁の刃を上に持って野菜を切ろうとする人がどこにいるのかしら? 人差し指が真っ二つよ。
なんにしても、編み物を始めたのは成長でしょう?」
85 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:58:02.55 ID:6an8YmUi0
「ああ、そうかもな……」
なんでガヴリールがここまで成長しないことにこだわるのかわからない。
前に彼女は、駄天の前も後も私は私だ、みたいなことを言っていたが、そのことを考えているのだろうか。
変化を受け入れるということは、その前を否定することと表裏一体なのかもしれないが……。
「……なんかお前、今日テンション低い?」
「そうかしら……。味方を欺くには、まず敵からよ」
「味方を欺いてどうするんだよ。クーデターか」
「味方の味方は敵、みたいな意味よ!」
「何それ、恋敵か何かか?」
86 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:58:40.59 ID:6an8YmUi0
「まあ、編み物にハマる気持ちはわからなくもないかな」
「そう。あんたにしてはなかなかわかってるじゃない」
「感情っていうものは、ためこんでばかりいると、溢れちゃうものなんだよ。
特に、感情を揺り動かされることがあるとね」
「あんたはいっつも溜め込んでそうだしね。もっと表情筋を使いなさい」
「例えば、戦争は割といい例なんじゃないかな。
ある画家は戦時下の苦しい生活の後に全く新しい画風を切り開き、
ある哲学者は徴兵の後に自らの思想を結実させた。
現状に満足しきっていたら、作詞家はきっと一行だって詩を書こうとは思わない。
一時の承認のために、はやる気持ちでこしらえたものは虚ろ。
漫画家は描こうと思って書くんじゃなくて、描かずにはいられないんだよ。
幸福というよりは、不満であることが駆り立てるんだろうね。
だから、愛する夫が仕事に出かけて会えないときに、妻は編み物で気持ちを吐き出す。
そして、何事も手札は多い方がいいよね」
87 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:59:26.28 ID:6an8YmUi0
コルク栓を抜くときのように回りくどく、周到な言い方だが、
編み方を教えたことに感謝しているということだろうか。
自分の考えは世間一般と同じだから正しくて、
そう思ってしまう以外にないといった具合……もっと素直になってもいいのに。
そうしたら、私も自然な流れで、二人で一緒に遊ぶのも悪くないと言えるのに。
「それはもう、玉ねぎを切って涙が出るくらいに自然なこと。
あるいは、うまそうに焼けた肉を目にしたときのよだれ……
そう考えると、幸せの予行演習とも言えるかもしれないけど。
多分、本当に自由なことなんて、そうは無いんだよ」
「うへぇ、胸焼けがするわ。あんたたち、もう同棲でも何でもすれば?」
「友人同士で同棲なんてするわけないでしょ。
ルームシェアは確かに出費が抑えられるかもしれないけど、生活リズムが合わない」
「同じ高校生でしょう? 社会人か! というか、てっきりラヴ的なアレなのかと」
「普通に世話になってるからそのお礼だよ。っていうか、なんだよラヴって」
88 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 00:59:52.75 ID:6an8YmUi0
「哲学的な問いね……天使の方が詳しそうだけど」
「ラヴ的なアレの例を出してみろよ」
「そ、それはその……ちゅーとか」
「ぷっ、キスくらいで恥ずかしがるなよ。小学生か」
「何よ。あんただってしたことないくせに」
「じゃあ、練習してみる?」
「えっ?」
「……」
会話が途切れる。
妙なイメージが頭の中に浮かび、慌てて取り消す。
テレビの画面の中で主人公が袋叩きに遭っているのに気づき、慌てて形勢を立て直す。
89 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:00:34.91 ID:6an8YmUi0
「……悪い、今のナシ」
ガヴリールは自分と私のバッグを取り違えたときみたいに、ごく自然に詫びた。
「何のことやら。私は何も聞こえなかったわよ」
「ん、そうか」
一体何だったんだ……。
少しどきどきしてしまったのは、不意打ちに変なことを言われたせいで、仕方のないことなのだ。
それだけのことだ。
90 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:01:19.97 ID:6an8YmUi0
──────────────────────
──────────────
──────
「それにしても、自分の操作するキャラの後姿が見えるって言うのは不思議ねぇ」
私は拡大するショッピングモールの駐車場をダイナマイトで爆破していると、
勢い余って街を火の海にしてしまい、ゲームオーバーになった。
「あっ、やられちゃった。もう、あんたもこのサタニキア様の使い魔なら、しゃんとしなさい!」
「そういうのはやってるとすぐ慣れるよ。視界が拡張されただけだ。目が飛び出して宙を漂ってる感じ」
「不気味すぎるわ……悪魔でもそんなやついないわよ。
でも、こういうのを昔からやっていると、他人の気持ちに敏感になりそうね」
「どうだろうね。キャラは操作できちゃうし、自分として認識するのが自然になると思うよ」
「でも、キャラが痛そうな目に遭ってたら、かわいそうって思うじゃない」
ガヴリールが、同じ議題で再度会議を開く前にコーヒーを飲むときのように、はぁ、とため息をついた。
「相手の気持ちになる、ねぇ。一体何なんだろうね」
「それこそ、天使のあんたが詳しくなくてどうするのよ」
91 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:01:45.86 ID:6an8YmUi0
「いやぁ……どうにもね。例えば、あいての幸せを考えるっていうのが納得いかないというか。
結局それって、私の考える相手が喜ぶことなわけでしょ?
つまり、私が手にパペットをはめて『わーい』って喜んでるようなものじゃん」
「そんなの、当り前じゃない。相手ならどう思うか想像すること、それが思いやることであって、言い当てることではないわ」
「思うだけならいいと思うよ。でも実際の行動が伴うとさ、自己満足に相手を巻き込むわけでしょ?」
「深読みしすぎなのよ。ヴィーネが作り笑いをしたりすると思う? 気持ちのこもった行動は何よりも嬉しいものよ」
「それは、そうだけどさぁ……。
まあでも、最低限のことはしようとしてるんだ。料理作ってくれたらおいしいって言うようにしてる」
「殊勝な心掛けね」
92 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:02:36.91 ID:6an8YmUi0
夕方なったので、私はそろそろ帰ることにした。
私は去り際に、引っかかっていたことを言っておくことにする。
「今日食べたラーメンなんだけど」
「塩分過多のアレか。どうした」
パソコンの前のガヴリールはこちらに目もくれず、声だけで返事をする。
「おいしくないラーメンを食べるのも悪くないわ」
「そこは正直なんだ」
「悪魔は嘘をつかないのよ。なんというか……そういうのも、面白いわ」
「へぇ、そうか」
そう答えるガヴリールの横顔は、心なしか満足そうだったように思う。
93 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:03:09.31 ID:6an8YmUi0
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く⌒\
ハ
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人 / : : : : : \八 V〉 rヘ爪 | / /|
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day 4:
しお 【塩】
(1) 精製したものは、一見砂糖に似る白い結晶。人間の生活に欠くことの出来ない調味料だが、
一度にたくさんなめると舌を刺すような刺激が有る。海水を蒸発させて作ったり岩塩から
精製したりする。工業用としても重要。
(2) 味音痴でも、さすがに海水はNG。でも、塩飴はおいしい。
「なあ、サターニャ。悪魔ってやっぱり――を振りかけられたら消滅すんの?」
「ナメクジか! 一緒に海行ったでしょ!」
──────────────────────────────────────
94 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:04:11.12 ID:6an8YmUi0
ある日の放課後、私はヴィネットの家に遊びに来ていた。
ヴィネットが誰かと話しながらの方が編み物が進むというので、たまにこうして家にお邪魔している。
人は二つのことを同時にできないのだという。
一つのことに集中して、もう一つのことを適当にこなすと、それで脳はいっぱいいっぱいになり、
余計なことを考えないようになる。
学生がよくラジオを聞きながら勉強するのはこのためだ。
だから、彼女の言うことは少しわかる。
彼女が作業をしている間、私も編み物をすることもあれば、宿題をすることもあった。
それに、誰かと一緒に食べる夕飯はおいしいのだ。
95 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:05:03.56 ID:6an8YmUi0
ヴィネットはいつも通りにベッドの上で壁にもたれかかるようにして座り、編みかけのマフラーを手に取った。
私はローテーブルを借りている。
「ごめんね、付き合ってもらっちゃって」
「いいのよ。私もこういうの、嫌いじゃないわ……ふわぁ」
腰を落ち着けると安心したせいか、あくびが出てしまった。
「やっぱり今日は帰る?」
「いやいや、大丈夫。宿題もはかどるし」
私はそう言って物理学の教科書を手に取って見せる。
「そう? そう言ってもらえると、こっちも助かるわ」
96 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:05:29.47 ID:6an8YmUi0
「そういえば、なんか最近、ガヴの家が、やけにいい匂いなのよね。なんでかしら」
「あ、それは……」
「何か知っているの?」
「さ、さぁ……ガヴリールも女の子だしね」
うっかり話してしまうところだった。気を付けないと。
97 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:05:57.81 ID:6an8YmUi0
「さて、宿題でもしましょうかね」
私は誤魔化すように腕まくりをして、やっぱり袖が邪魔になって元に戻す。
「サターニャ、ミサンガしてるんだ」
「ああ、これ? この前のよ。意外と効果あるみたいなの」
私は編み物をする姿勢が悪いらしく、すぐにひどい肩こりに悩まされるようになった。
これを付けていると少しだけましになる……ような気がする。
「ミサンガって、切れたときに願い事が叶うらしいわよ」
「悪魔は願掛けなんてしないわ。自らの手で勝ち取るのよ」
「はいはい、サターニャらしいわね」
98 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:06:26.79 ID:6an8YmUi0
巨人の肩の上に立つという言葉もあるが、その高みに立つのも一苦労で、勉強とはトランプタワーのようなものだ。
わからない箇所があればその説明を見て、その解説中に不明な部分があればそれを調べる、その繰り返し。
3段目が置かれていないのに4段目を置くことはできない。
授業開始から5分の箇所がうまく積めなければ、残り45分で積むはずだったカードは宙を舞うのみである。
そのことに気付いた私は、教科書を軽く読む程度の予習をするようになった。
三学期は期間が短いにもかかわらずほかの学期と同じ数の試験があるため、その対策で忙しい。
赤点を取って補修を受けることになれば、ガヴリールやヴィネットが困るかと思い、
最近は前より真面目に勉強するようになった。
99 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:06:53.57 ID:6an8YmUi0
全体の構造を把握することは重要だ。
下界の学校に通うことになったときも、まずは形態の把握から始めた。
しかし、何事もたまに確認しないと忘れてしまって、下の段から崩れてしまうこともある。
やっと一組積んだ先に、端からぼろぼろと崩れれば、腕は重くもなってしまう。
私は組んだ腕をノートの上に置き、だらしなく頭を載せてぼんやりとしていた。
「物理は難解ね。マクスウェル方程式とか、よくわからないわ。
というか、マクスウェルとかいう人間、仕事しすぎ」
「同一人物じゃないと思うけど……」
「私とラフィエルが発見をしたら、マクドウェル・ラフィの定理とかになるのかしらね」
「何の定理だ。マクスウェル・ベティの定理みたいに言うな」
100 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:07:26.61 ID:6an8YmUi0
「そもそも、式変形みたいなのがあんまり好きじゃないのよね
それって、同じものを、前とか後ろから、違う角度から眺めているだけじゃない。
あんまり意味が無い」
自分で言った言葉から、ガヴリールの話を思い出したので、聞いてみることにする。
「例えば、昨日の私と今日の私は、イコールでつなげるのかしら?
赤ん坊の私から、おばあちゃんの私まで等号でつなげるとしたら、
子供のころにはすでにおばあちゃんの思考ができるってことじゃないかしら」
101 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:07:57.10 ID:6an8YmUi0
「そうね、その場合はどっちかっていうと、数学のイコールというよりは、
プログラミングの等号記号、というか代入に近いのかもね
例えば、”a = a + 2”っていう書き方があるのよ。”aに2を足したものをaとする”っていう」
「プログラミング? 何よそれ」
「うーん、そうねぇ……。機械って、私たちの日常言語をそのまま理解できないのよ。
だから、翻訳して教えてあげるんだけど、そのときに使う言葉、かな」
「ふーん、なるほどね。魔界も色々と新しい機械が導入されてるらしいし、知っておくのはいいことじゃない」
「千咲ちゃんの受け売りなんだけどね。あの子、CとかJavaとかやってるみたいで。一体何を作るのやら」
102 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:08:56.36 ID:6an8YmUi0
「まあでも、等号でつながっているっていうのは、あながち間違ってないのかもね。
サターニャは、下界の生き物のセントラルドグマって知ってる?」
「ランドセルとドグマチールなら」
「なんでその単語を知っているのよ……。まあ、いいわ。生き物の体が出来上がる仕組みの一部のことよ。
体の設計図の原本であるDNAを転写して、RNAっていうメモ書きを作って、
それをリボソームっていう工場で翻訳してタンパク質、
つまり体の材料を組み立てるの。この流れが生命のセントラルドグマ、中心教義ね」
「翻訳っていうと、なんだか言葉みたいね」
「鋭いわね。DNAもRNAもタンパク質も、文章と同じで、記号が一列に並んだようなものなのよ。おおまかにはね。
人を一冊の小説に例えるのは、まさしくそうだと思うわ。
あるいは、音符に翻訳したらどんな音色を奏でるのかしら」
「でも、同じ設計図からだったら、いつでも同じものができちゃうんじゃないの?」
「ああ、DNAの全部を転写したり、翻訳したりしないのよ。時期によって転写する箇所も、翻訳する箇所も違う。
ジュースの缶だって、見る方向が違えば丸に見えたり長方形に見えたりするものよ」
103 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:09:51.39 ID:6an8YmUi0
「だから、複雑に折れ曲がった、同じDNAの周りをぐるっと一周しながら眺めるのが一生とも言えるかもしれないわね。
まあ人間の話だから、悪魔はわからないけど」
「ふーん、それじゃあ、生まれたときから資質は決まってるってわけなの? 報われない話ね」
「ああ、環境で転写や翻訳も変わるし、DNA自体も加工されることがあるらしいの。
本に付箋を貼るような加工、シトシンの5位のメチル化とかね。
だから、全く変化がないってわけでもないらしいのよ」
「そうなの。やっぱり成長はするのね」
「サターニャの運動が得意なのも、ご先祖様ががんばって体を鍛えた成果かもしれないわね」
「やけに詳しいじゃない。魔界で研究所でも持てるんじゃない?」
「そうかな。それもいいかも」
「何か作りたいものでもあるの?」
「ips細胞っていうのがあってね……というのは、冗談だけど。好きなものは詳しく知りたくなるものよ」
「好きなものかぁ」
私は何だろうか……メロンパン?
104 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:10:18.95 ID:6an8YmUi0
「そのマフラー、結構長くなってきたわね」
ヴィネットが編んでいるのは、2個のマフラーもどきのあとの3個目だ。
首の周りを一周するぐらいの長さにはなっている。
太めの糸でふんわりと編んでいて、もこもことして暖かそうだ。
「もうそろそろ本番にしないと間に合わないしね。慣れてきたし、ちょうどいいかなって」
105 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:10:46.58 ID:6an8YmUi0
「マフラーをつい長く編みすぎちゃうっていう話はよく聞くけど、そんな馬鹿なって思ってたのよね」
「ああ、よく聞く話ね」
「でも、実際やってみるとわかる気がするわ。
網目の数だけ、愛情が蓄積されていくような気がするもの」
「あ、愛情……」
「ああ、いや、言葉の綾よ。そんな重たいものでもなくって……」
106 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:11:13.51 ID:6an8YmUi0
「それでも、過ぎたるは猶及ばざるが如しっていう言葉の通り、ほどほどで終わらせないといけない。
そのときに感じるのは、諦めだと思うのよ」
「達成感じゃないの?」
「もちろん、それもあるとは思うけど……。
誰も、ここで終わりなんて言ってくれない。ゴールテープを持っていてくれない。
だから、小春日和のお日様のような、朗らかでちょっと冷たい諦めの中で、自らハサミを入れるのよ。きっとね」
「へぇ……」
107 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:12:18.82 ID:6an8YmUi0
ヴィネットを見ると、彼女は編んでいるときにいつもするように、微笑する直前の、
血の通った無表情とでもいうような顔をしていた。
ヴィネットは大口を開けて笑うことはしないが、話しているときは結構表情が豊かだ。
特に、ガヴリールと一緒にいるときは、眉を吊り上げて怒ったり、
花が咲くようにぱっと笑ってみせたり、ころころと変わる。
だから、作業に没頭する彼女を見ていると、例えるなら図書館の閉架の暗がりに潜む妙な色気というか、
あるいは平日の正午に通学路を通ったときの奇妙な非現実感に対する高揚というか、
そういうのに近いものを感じて、なんとなくどきどきしてしまうのだ。
それは、背徳感だけではなく、彼女自身の魅力だとも思える。
108 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:12:44.94 ID:6an8YmUi0
ヴィネットは、完成には諦めが必要だと言った。
諦め、それは大悪魔の対極に位置する。
偉大な悪魔はいつだって野心を自らの内に育てる。
不屈の精神と充足感、それらを美徳とするべきである。
しかし、このとき私は、それとは別のことを思い浮かべていた。
109 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:14:02.00 ID:6an8YmUi0
私のおばあ様は活動的な女性ではあったけれど、若い頃から胸の病気を患っていた。
まだ弟の生まれていないころ、共働きの両親は、学校から帰った私の世話をおばあ様にしてもらうことが多かった。
おばあ様は色々な遊びを知っていた。
おかげで私は誰よりもお手玉を長く続けることができたし、あやとりでたくさんの技を披露できた。
何かできるようになると決まって、「サターニャはきっと将来は大悪魔になるわね」と褒めてくれた。
私が折り紙で花を作れば、それがまるでルビーで出来ているみたいに、いつまでも大事に取っておいてくれた。
一つ教わるごとに、次に何を教えてもらうかを、二人で話し合った。
110 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:14:29.10 ID:6an8YmUi0
その日は、写実的な絵の描き方を教えてもらう予定だった。
私は学校から帰ると、珍しくお店が閉まっていることに気付いた。
両親が病気になったのかもしれないと思った私は、慌てて両親の部屋へと向かった。
ドアを開けるとお母様が机に突っ伏しているのが見えた。
何事かと私は駆け寄ると、私に気付いたお母様はきつく抱きしめてくれた。
おばあ様が亡くなった、そのことを実感したのは、おばあ様の葬儀の次の日に、
下校した後に出迎えてくれる人がいないことに気付いた時だった。
その日のために買っていたスケッチブックは、まだ白紙のままでとってある。
111 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:15:03.27 ID:6an8YmUi0
――あなたにとって、火って何?
えっ、火について……?
そうね……火は全てを奪っていくわ。
例えば、ある人が死んで、火葬されたとしましょう。
骨だけになった彼の重さがどのくらいか、想像できるかしら?
割合にして約5%。60キログラムの成人男性であれば、骨の無機成分の重さは僅か3キログラム程度。
彼の眉間に刻まれた皺も、右手の中指にできた立派なペンだこも、全て大気に拡散してしまうの。
骨から生前を推測することの難しさは、よく知っているはずよ。
そうでなければ、ティラノサウルスが立ち方を二転三転することもないはず、そうでしょ?
112 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:16:05.42 ID:6an8YmUi0
残された骨は、もはやただの石灰質でしかないの。
生き物は浅はかで、ありもしない希望を信じてしまう。
肉と皮が残されていれば、何かの拍子に目を覚ますのではないかと錯覚する。
人を劇場に例えるならば、役者の去った舞台でなお、幕が上がることを期待してしまう。
世界中にゾンビの伝承が残っているのはそのためよ。
だから、その演目が終わったならば、観客は劇場を焼き払わねばならないの。
人気のない廃屋は、災厄を招き入れてしまうから。
文章だってそうでしょう?
ピリオドは自然に打たれるものではなく、誰かが打たねばならないのよ……。
……あれ、私は誰に話しかけている?
113 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:16:35.04 ID:6an8YmUi0
「ああ、赤い毛糸が無くなっちゃったわ。どうしよう」
そういう時はぎりぎりまで進めたらだめよ。かえって面倒なことになるから。
私はそう言おうと思ったが、気づいたら机に突っ伏していて、金縛りにあったように体が動かなかった。
「そうだ、サターニャの髪と色が似てるし、ちょっと使ってもいいかしら?」
いいわけないでしょう? ヴィネットは一体何を言っているのかしら。
「じゃあ、ちょっと使わせてもらうわね」
髪を引っ張られる感覚。
ヴィネットがぐいぐいと引っ張るごとに、私はするするとほどけていった。
全身をヘビがはい回るような感覚の後に、体がどんどん軽くなっていく。
114 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:17:05.24 ID:6an8YmUi0
「あらあら、ほとんど骨だけになっちゃった。明日になったら、毛糸を買ってきて編んであげるからね」
冗談じゃない! 今すぐ私を返しなさいよ!
私は反論するために起き上がろうとしたが、それはできなかったし、声も出なかった。
なにせ、筋肉がほどけてしまったのだから。
糸を奪われた操り人形は、指一本たりとも動くことは無いのだ。
「あら、ちょっと糸を引っ張りすぎたみたいね。余っちゃったわ。
そうだ、火をつけてみたらどうかしら。糸に沿って走る閃光はねずみ花火みたいにきっときれいよ」
とんでもない! そんなことをしたら、骨に引火して、私が浄化されてしまう!
115 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:17:32.90 ID:6an8YmUi0
「サターニャ、そろそろ起きて」
うるさいわね。それができたら苦労しないわよ!
どうせもう動けないのだ。せめて静かに休ませてほしい。
「もう夜よ、サターニャ」
夜なら寝かせなさいよ。なんで起きる必要が……。
「サターニャってば!」
肩に手を載せられる感覚。
やめてくれ、そんなことをされては、崩れてしまう!
116 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:17:58.54 ID:6an8YmUi0
私は体をビクッと震わせて、ばねが仕込まれていたみたいに頭を跳ね上げた。
「サ、サターニャ……大丈夫? ひどい汗よ」
「ヴィネット……」
私は目の前にあった自分の手を確認する。
前髪が額に貼り付いて気持ちが悪い。
汗ばんだ手は蛍光灯の光を反射して、ぬらぬらとてかっていた。
どくどくと音を立てる心臓を、深めの呼吸で落ち着ける。
宿題をしているうちに寝てしまったらしい。
ヴィネットが心配そうに私を見つめていた。
「ちょっと、変な夢を見ちゃって。無理な体勢で寝るもんじゃないわね」
「シャワーでも浴びていく?」
「結構よ。もう遅いし、そろそろ帰るわ」
「そう……。今日は早く寝るのよ」
「ええ、そうする。気遣い感謝するわ」
117 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:18:29.60 ID:6an8YmUi0
──────────────────────
──────────────
──────
私は家に帰るとすぐにシャワーを浴びることにした。
水は色々なものを飲み込んで落ち着かせる。
タバコの匂いを消すには、頭から水をかぶり着替えるのが一番いいのだという。
髪をよく泡立てて、少し強めの水圧で洗い流す。
118 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:19:04.58 ID:6an8YmUi0
ヴィネットにはああ言ったが、私が何も失っていないというのは本当だろうか?
世の中では未だ無から何かが生まれるという現象は報告が無い。
化学や物理の授業でも繰り返し習うが、「なんとか保存則」は何者にも侵されざる聖域だ。
エネルギーにしろ質量にしろ、全体に変化はない。
やけに物々しい言い方だが、要するに、結果には原因があるという因果律の話だ。
元の毛糸玉と編みあがったマフラーは一見して等価ではないが、マフラーは自動で編みあがるものではない。
マフラーを編むヴィネット、彼女のエネルギーとなる食事、費やした時間、諸々込みで総和は一定だと思う。
つまり、系、すなわち想定する全体をどこで区切るか、
という話になるが――私という系で考えるからおかしなことを考えてしまうのであり――
四人を一つの系とみなせば、諸般のつり合いは取れている、ということになる。
119 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:19:31.43 ID:6an8YmUi0
だが、四人の関係を保とうというのは、結局のところ、
暗闇に灯る蝋燭を消すまいと必死になっているということなのだろうか。
その明るさに眼を慣らしてしまえば、周囲の言い知れぬ不安は暗闇に塗りつぶされる。
寄るべのない自己に他者を巻き込むことで正当化し、その挙句、停滞……。
120 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:20:02.70 ID:6an8YmUi0
しかし、それでも私は……。
小学生の頃の通知表には、性格についての項目があった。
創意工夫ができる、責任感がある、自然愛護の精神にあふれる、思いやりがある、などなど。
私はその欄を見るたびにうんざりした。
例えば、数学が数や論理を扱う技術の習熟度、体育が肉体を扱う能力の習熟度の評価だとすれば、
その項目は、他人を扱う腕前の優劣をつけるためなのか?
自分以外は、設定した系の外側は、全て道具に過ぎないとでもいうのだろうか。
危険物取扱免許のように、為政者は人間取り扱いの資格保持者だとでも言いたいのか……。
121 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:20:33.19 ID:6an8YmUi0
くそっ……。
何なのよ、損とか得とか、どうだっていいじゃないの、そんなの。
そもそも、私は数学が嫌いなのよ。
何でもかんでも数字で、明快な記号で表して、論理という、まばゆい炎で照らして、わかった気になって……。
見えているものは、いつだって何かを隠しているものよ。
立ったまま足の裏を見ることができる人間が、どこにいるっていうのよ……。
泡がすっかりなくなっているのに、湯をかぶり続けていたことに気付く。
うんざりした気持ちでシャワーを止め、リンスをしてから浴室を出る。
122 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:21:03.63 ID:6an8YmUi0
いけない、いけない。
冷静にならなければ。
最近、こういう時には、コーヒーを一杯飲むことにしている。
ガヴリールを冷やかしに喫茶店に通っているうちに、私はいつのまにかコーヒーの味が好きになっていた。
カフェインは一般に興奮作用があると言われるが、
ヘビの毒が薬としても使われるように、少量のカフェインは気分を落ち着かせる。
本来は植物が自己防衛のために毒として溜め込んだものらしいが、わざわざ好んで飲むなんて、
人間も変わった習性を身に着けたものだ。
カフェインには鎮痛作用もあり、頭痛薬にも含まれているのだという。
まあ、マスターの受け売りだけど。
砂糖は入れずにミルクだけを入れたコーヒーは、口当たりが優しく、後味がすっきりしているので好きだ。
本当はミルクも入れない方がコーヒー自体の味が味わえるのだろうけど、少し酸っぱくて、それはまだ少し大人の味。
123 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:21:30.52 ID:6an8YmUi0
ドライヤーで念入りに髪を乾かして、コーヒーを飲んでいると、気分も少しよくなってきた。
あんまり考えすぎるのもよくない。
私はまず手を動かすタイプなのである……あれ、手が出るタイプ、だったっけ?
まあ、どちらでもいい。
安楽椅子に座って真相をズバリと言い当てる天才型の探偵もいれば、現場百篇を掲げて足で追い詰める刑事もいる。
私は多分、後者なのだと思う。
とにかく、できることをしよう。
ヴィネットがマフラーの本番に入ったので、仕上げ方の練習をしておこう。
目の止め方もフリンジも、そんなに難しくはないので大丈夫だとは思うが、念のためだ。
124 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:21:58.52 ID:6an8YmUi0
編み物の道具を入れているカゴを棚から机に持ってくる。
そして、いつも使っている棒針が見当たらないことに気付いた。
昨日はちょうど手袋を編み終えたので、棒針は毛糸玉に刺しておいたと思うのだが……。
買い置きの毛糸にも刺さっていないかとチェックしたが、見つからなかった。
ヴィネットの家に持って行ってなかったはずだが、
一応スクールバッグの中も探してみるも、やはり入っていなかった。
持ち出すことはないから、必ず部屋の中にあるはずだ。
もう一組、予備の針もあったが、小さくて扱いづらいので、できればいつもの針の方がいい。
何かの拍子に、どこかの隙間に入り込んでしまったのだろうか。
まあ、見つからなければ、明日新しく買いに行けばいいし、それに、差し迫った用事でもない。
今日は編みぐるみの練習をするか、疲れたし寝てしまえばいい。
125 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:22:26.27 ID:6an8YmUi0
しかし、羽音がすれど姿の見えない虫ほど気になるものは無いわけで、どうにも他の事に手を付けかねる。
……そうだ、掃除をしよう。
最近は忙しくてちゃんとしていなかったし、掃除するとなれば、普段意識しない場所にも気が向くことだろう。
せっかくシャワーを浴びたことも忘れて、私は組み立て式のフローリングワイパーを取り出し始めたのだった。
126 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:22:58.16 ID:6an8YmUi0
──────────────────────
──────────────
──────
結果から言うと、その掃除は無駄だった。
いつしか見つけることができなければ眠ることさえできないと思い込み、
棚を動かしてみても、冷蔵庫の下を探ってみても、針は出てこなかった。
そんな心境で掃除をしたところで部屋がきれいになるわけもなく、むしろ雑然とした印象を増していた。
それでもなお私は探し続けた。
小学校のときに友人から借りたはずの本が見つからなかったときも、確かこんな気持ちだったと思う。
心臓は血を一生懸命頭に送り、頭は血の返却を拒否しているようで、
頭が破裂してしまうのではないかと思えるくらい、私は他のことを考えられなくなっていた。
127 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:23:26.55 ID:6an8YmUi0
何度目になるか、髪をかきむしるときに、ふと手首に付けたミサンガが目に入った。
思えば、これがきっかけだった。
あのとき、ガヴリールにクマを差し出さなければ、今こうしていることもなかったのか……。
ミサンガを反対の手でいじってみる。
汗をかいていたらしく、少し湿っていた。
クマを離そうとしなかったガヴリールを思い出す。
128 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:24:29.38 ID:6an8YmUi0
頭の奥がスッと冷えていくように感じた。
私が今騒いでも何にもならない。
明日、新しく買いなおすことにして、今日はもう寝よう。
自嘲気味に短くため息をつき、ふと気まぐれに棒針編みの本を開いてみることにする。
本棚から、その大きくて薄めの本を取り出すと、何か棒状のものが足元に転がった。
それは、一時間も探し続けていた針だった。
どうやら教本に挟まっていたらしい。
そういえば、借りていた本を無くしてしまったことを謝るために泣きながら電話して聞かされたのは、
その前日にすでに返していたことを私が忘れていたということだったっけ……。
こういうのを確か、灯台下暗しというのだったと思うが、なんとも情けない気分になるものだ。
しばらく呆然と床を見つめ、自分への失望と安堵の入り混じった気持ちで針を拾った。
それから、いつもの針で糸を編んでいると、少し落ち着いてこれからのことを考えることができた。
気が付けば、時計は二時を回っていた。
129 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:24:55.54 ID:6an8YmUi0
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day 5:
おもいで【思い出】
(1) 深く心に残っていて、何かにつけて(なつかしく)思い出される事柄。
(2) 財産。
(3) 枷。
「大事なものではあるけど……。――は、まあ、それでも、――にすぎないわ」
──────────────────────────────────────
130 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:25:25.54 ID:6an8YmUi0
バレンタインが約一週間後に近付いてきたある日の昼休み、私は机に突っ伏していた。
四時間目の授業の途中からどうにも睡魔に抗えなくなり、堂々と寝てしまった。
授業終了のチャイムで目を覚ましたが、腕が痺れてしまっていて、しばらくそのままじっとしていた。
後でヴィネットにノートを見せてもらわないと……そんなことを考えながら、私はバッグからおにぎりを取り出す。
その時、誰かに背中を小突かれた感覚があり、振り返るとガヴリールとヴィネットがいた。。
「なんかお前、最近、静かだな。ぷっ、ほっぺに袖のあとがついてるぞ」
「うるさいわね、何か用?」
反射的に頬を撫でる。確かに少しあとになっているようだった。
131 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:25:56.72 ID:6an8YmUi0
最近は魔界通販を見ることが少なくなり、ガヴリールに勝負を挑むことも減った。
編み物のことや、最近増えてきたテストのこともあって、精神的にも時間的にもあまり余裕がない。
「魔界の胡散臭い番組でも見て、夜更かししてるんでしょ」
「そんなんじゃないわよ」
「寝ないと脳みそが干からびちゃうぞ」
「だから、そうじゃないって! 大体、私が眠いのは……!」
誰のせいだと思っているのよ――そう言おうとして、慌てて口をつぐむ。
ここでヴィネットに、あるいはガヴリールにばらしてしまったら、これまでの苦労が水の泡だ。
「……そうよ、魔王様のトークイベントがあったの」
おそらくガヴリールは心配してくれたのだろうが、私はいたたまれない気持ちになった。
132 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:26:24.28 ID:6an8YmUi0
「こら、ガヴ。サターニャは疲れてるんだから。ねぇサターニャ、一緒に食堂に行かない?」
薄氷の上に立つような状況に、私は疲れてしまっていた。
私は秘密を抱えることが苦手だ。
人の口には戸が立てられない。
がま口の財布と言うように、開閉するから口なのだ。
バレンタインなんて、早く過ぎ去ってほしい……。
「悪いけど、今日は一人で食べるわ」
私はそう言って、なるべく二人を見ないようにして席を立つ。
133 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:26:53.46 ID:6an8YmUi0
「おい、せっかく私が誘ってやったのに――」
「もう、放っておいて!」
ガヴリールが差し伸べてきた手を、私は空いている手で平手打ちしてしまった。
思ったよりも大きな、パチッという破裂するような音が響き、教室は一瞬だけ静まり返る。
「いたっ……」
「……ごめんなさい」
私は逃げるように教室を飛び出し、目的地も決めずに、廊下を適当に走った。
誰の視線にもさらされない場所へ行きたかった。
一人になれるなら、どこでもよかった。
そして、お手洗いから出てきた銀髪の女生徒――ラフィエルとぶつかった。
134 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:27:21.14 ID:6an8YmUi0
廊下で出くわした後、私の顔を見て何かを察したのか、
彼女は人気のない屋上へと続く階段で一緒に昼食をとってくれた。
私がおにぎりを食べ終える間、彼女は何も言わずに付き合ってくれた。
クラスに帰るときに、ラフィエルから放課後に遊びたいという申し出があった。
ガヴリールたちとは少し顔を合わせにくかったし、良い口実ができると思って私はそれを承諾した。
135 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:27:47.26 ID:6an8YmUi0
──────────────────────
──────────────
──────
「……とまぁ、こんなところね」
「私の知らないうちに、色々あったんですねぇ」
「そうね」
私とラフィエルは今、エンジェル珈琲という喫茶店に来ている。
ガヴリールのバイト先であり、私は冷やかしに通っているが、
今日は彼女のシフトが入っていないため、マスターが一人で接客をしている。
私はいつも通りに注文し、ラフィエルに、ガヴリールとヴィネットについて今日までの出来事を話していた。
136 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:28:15.06 ID:6an8YmUi0
「それにしても、サターニャさんと学校の外でこうして会うのも、久しぶりな気がしますね」
「言われてみるとそうね。あんたは気が付いたら近くにいるから、あんまり気に留めていなかったわ」
「ガヴちゃんもヴィーネさんもお忙しそうでしたしね。ちょっと寂しかったんですよ?」
「あんたにも心というものがあったのね……鬼の目にも涙ってやつかしら」
「天使学校次席を指してひどい言い草ですね」
「胸に手を当てて思い起こしてみなさいな」
137 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:28:54.19 ID:6an8YmUi0
「いいですよ。……ああ、サターニャさんのトナカイ姿、かわいかったですね」
「自省しなさいって意味だったんだけど。知らなかったとはいえ、私が使い魔の恰好をするなんて、屈辱だわ。忘れなさい」
「とんでもない。ばっちりと、デジタルで永久保管されてますよ。ほら、ここに」
ラフィエルはそう言って携帯を取り出した。
ロック画面は私が着ぐるみを着ている写真だ。
ラフィエルはこういうのはデフォルトのままだろうと思っていたが、
意外と子供っぽいところもあるんだな……。
でも、それを私の写真にするのは恥ずかしいからやめてほしい。
「こんなの、ガヴリールが見たらなんて言うのやら」
「ああ、ガヴちゃんにもこの写真あげましたよ。あと、ヴィーネさんにも」
「なんでよ!」
「さあ、なんででしょうね」
「お待たせしました。こちらブレンドになります」
マスターが湯気を立てるカップを二つ机に載せた。
私はクリームを入れて、ラフィエルはそのまま口をつける。
138 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:29:31.88 ID:6an8YmUi0
「それにしても、ガヴちゃんもひどいですね。サターニャさんが言い返せないのを知っていて、そんなことを言うなんて」
「いやいや、単に心配してくれただけだと思うわ。ガヴリールは口は悪いけど、意地は悪くない」
「そうですね。でも、秘密を抱えるというのは大変ですよね」
「昔の人もお腹が膨れるようだって言っていたしね……それは否定しないわ」
実際、ガヴリールやヴィネットと話すときには、
うっかり口を滑らせないように、最近はいつも緊張していたように思う。
こうしてラフィエルと気兼ねなく話をしていると、時間が一月ほど前に巻き戻ったみたいだった。
「サターニャさんは裏表がありませんから、隠し事をしていると自分が許せなくなるんですね」
「そんなことないわよ。悪魔は契約を守るものよ」
「誠実さも悪魔らしさなんですね。立派な心掛けです」
「ただ……」
139 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:30:14.15 ID:6an8YmUi0
「なんというか、あんたが言っていたことを思い出したというか……」
「私のことですか?」
「確かに、私もガヴリールにそんなことを言われたときにイラっとしたのよ。
でもそれは、いつものことだって流せる程度のこと。
そうじゃなくてね、何が癇に障ったのかを考えて、がっかりしたのよ」
「どういうことか、教えてもらえますか?」
140 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:30:46.89 ID:6an8YmUi0
「つまり、私がガヴリールに教えてあげているのに、
馬鹿にするようなことを言われたと思ってしまったということ。
飼い犬に手を噛まれたように感じてしまったのよ。
私はそんな立場にないのにね」
「なるほど、自らの傲慢さが嫌になったということですか」
「まあ、そんなところよ」
「そんなに気に病むことはありませんよ。
例えば料理を差し出すとして、満腹の相手に押し付けるのと、
三日も食べてない相手に渡すのでは、意味合いが違います。
確か、ガヴちゃんやヴィーネさんから頼まれたんですよね?」
「そうはいってもねぇ」
141 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:31:14.69 ID:6an8YmUi0
「そうですね……今から、サターニャさんの大悪魔にかける意志を測りたいと思います」
ラフィエルは先程までの励ますような調子から打って変わって、やけにマジメぶった態度でそう宣言した。
「はぁ? 何よそれ」
「いいですか? 私の質問に真剣に答えてくださいね」
答え方で生死が分かれるとでも言わんばかりだ。
ラフィエルがこういう言い方をするときは、決まってトラップが張られている。
気を付けていても毎回引っかかってしまうので、
いつか鼻を明かしてやりたいのだが、なかなかうまくいかない。
142 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:31:42.94 ID:6an8YmUi0
「まあ、いいわ。受けて立とうじゃない」
私がそう答えると、ラフィエルは、悪者を仕立て上げることを善しとするかとか、
自分の目的のために他者を犠牲にすることができるかとか、
そういうちょっと面倒な質問をいくつかしてきた。
「ガヴちゃんのことを考えると夜も眠れませんか」
「全く気にしてないわけじゃないけど……眠れないっていうほどでもないかな」
「体がだるく、疲れやすいですか?」
「うーん、ちょっとあるかも」
「今まで楽しめていた趣味や人付き合いが億劫になってきていますか?」
「そんなことないわ」
「これまで簡単にできていた判断や決断ができなくなっていますか?」
「別に変わりないし……ねえ、これって何か別のことを探ろうとしてない?」
143 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:32:10.63 ID:6an8YmUi0
「以上の診断結果を総合するとですね」
「今、診断って言った! 私は病気じゃない!」
「ガヴリマノリカル・サタプトノークの一種ですね」
「え、ガヴ……サタ? なんて?」
「サターニャさんのは、心因性自己完結硬化症、子供が無理すると棘が生えて自分に刺さるっていう病気です」
「はぁ、棘? 角ならあるけど」
「それもまた一つのガヴサタ……大丈夫、いずれカサブタになりますよ」
「カサ……え、何?」
144 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:32:40.11 ID:6an8YmUi0
「サターニャさんはどうして大悪魔になりたいんですか?」
「それは、人類の天敵として――」
「あ、そういう大仰なのはいいです」
「なによ、ノリが悪いわね……」
「きっかけは何だったんですか?」
「そうねぇ。多分、私は大悪魔だって啖呵を切ったのは、弟がいじめられていた時だと思う」
「弟さんのため、ですか」
「遊ぶにも鬼ごっこより絵本を選ぶようなやつだったからね。
お父様もお母様も弟が生まれてからは弟ばかり気にかけていたから、ちょっと嫉妬してたわ」
「サターニャさんとは違うタイプなんですね」
「そうかもしれないわね」
145 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:33:15.36 ID:6an8YmUi0
「ある日弟を近くの公園に連れて行ったときに、弟と砂場で山を作ってたのよ。
私は途中で飽きちゃって、虫を探しに行ったりして、でも弟は黙々と山を大きくしていた。
気付いたら近所のやんちゃな子たちが弟のそばにいて、山を蹴ったりしてたのよ。
それで私はカッとなって、その子たちに持っていた虫を投げつけたりして、追い払ったわ」
「最初の悪魔的行為が虫を投げつける……ふふっ」
「自分から聞いておいて、笑うんじゃないわよ」
「いえ、笑ってませんよ。あまりに微笑ましかったもので」
「そのときに確か、うちの弟に手を出したいなら、大悪魔の私を倒してからにしなさいって言ったのよ。
そうしたら弟が、私がすごい悪魔だって信じちゃって、。
期待を裏切らない様に演じていたら、いつのまにかそれが自然になってたの」
146 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:33:55.86 ID:6an8YmUi0
「なるほど、サターニャさんは、社会的に大悪魔になりたいわけではなく、誰かにとっての大悪魔になりたいわけですね」
「勝手に分析するんじゃない」
「サターニャさんは、もうすでに私にとっての大悪魔様ですよ。お笑い部門で」
「そんな部門にランクインしたって、嬉しくともなんともない!」
147 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:34:45.54 ID:6an8YmUi0
「その考え方は、結構危ういと思いますよ」
「何が言いたいの?」
「サターニャさん自身にとっての大悪魔を目指す方が賢明かと」
「それくらい、わかってるわよ」
「本当に、そうですか?」
「はぁ?」
ラフィエルが真剣な表情で私の眼を見据えた。
知識に裏打ちされた揺るぎのない自信を湛えた彼女の金色の瞳は、森の賢者たるフクロウを彷彿とさせる。
夜の森においてフクロウに敵う動物は皆無で、コウモリさえもその鋭い爪で捕らえてしまうのだという。
私は彼女にひとたび見つめられると、捕食者に背を見せまいとする小動物のごとく、
見返すことで精いっぱいになってしまうのだ。
あるいは、その満月を思わせる美しさに、単に見とれているだけなのかもしれないが……。
148 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:35:14.38 ID:6an8YmUi0
「怪しげな通販を利用するのも、ごみの分別をわざと間違えるのも、手っ取り早く結果を示すためですよね?」
「別に、そうじゃないけど。悪魔的行為を悪魔がする、それだけよ」
「悪魔的行為という言い方にも表れていますね。
サターニャさんが重きを置くのは「悪魔的」ではなく「行為」なんじゃないでしょうか。
その横暴な振る舞いとは裏腹に、心の奥底では、いつも誰かに頭を撫でてほしがっている。
そういう焼畑農業的な方法では、いつか行き詰ってしまいますし、
何より結果の良し悪しで自らを測るのは万能ではありませんよ?」
「うるさいわね……そんなことくらい、わかってるわよ。
このサタニキア様に説教でもしているつもり?」
「ほら、またそうやって大仰な言葉を使うじゃないですか。
自意識過剰な言葉遣いは臆病さを隠すためですよね?
本当は不安でたまらないんじゃないですか?」
149 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:36:16.89 ID:6an8YmUi0
「……言いたいことはそれだけ?」
私が努めて平静にそう言ってラフィエルを見つめると、彼女はビクッと体を震わせ、一瞬だけ目を泳がせた。
何かを言い淀むそぶりを見せた後、彼女はふっと表情をやわらげ、軽く頭を下げた。
「すみません、言いすぎました」
「なによ、急にそんなにしおらしくなられたら、調子が狂うわ。
一応自覚はしてる。でも、なかなか思うようにはならないものなのよ」
「ですが、心配なんです。サターニャさんがいつか、ぽっきりと折れてしまうようなことが起こるんじゃないかって。
自らに火を放ってしまうんじゃないかって」
自分を燃やすなんて、そんな恐ろしいこと、きっと私にはできない。
臆病者はきっと、その臆病さゆえに被害者として自らを正当化するため、加害者を仕立て上げる。
自らを調理したがる鶏なんていない。
その甲高い鳴き声は飼い主を糾弾するためにあるのだ。
150 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:36:42.71 ID:6an8YmUi0
「はは……。天使に心配されるなんて、私も落ちたものね……いや、悪魔だからもともと堕ちてはいるか」
「カッとなっても、やけを起こさないでくださいね。
そういう時は、鼻をつまんで息を止めてみてください。
きっと冷静になれますから」
「余計な心配は無用よ。この私の辞書に失敗なんて言葉はないもの」
「あー、ほらまたそうやってフラグを立てるじゃないですか」
「フラグ……って、何よ」
「フラグメントグレネードの略ですよ。起爆剤という意味で……」
ラフィエルは先程とは一変して、慇懃といえるほどにこやかにフラグなるものの説明を始めていた。
こういうときの彼女の言うことはあてにならない。
結局、心配するそぶりをみせたのも、からかうためなのだろうか……。
151 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:37:18.00 ID:6an8YmUi0
「あー、もう!」
わざと大きな音が鳴るように、私は握りこぶしで机を叩いた。
カップがカタリと音を立て、水面にさざ波が立つ。
それは威嚇したかったのかもしれないし、拳を痛めることで自分を罰したかったのかもしれなかった。
「どうせ、私程度の悪魔なんて、すぐにでも祓ってしまえるって、見下してるんでしょう!」
言おうとも思っていなかったその言葉は、驚くほど自然に怒鳴り声として喉からあふれてきた。
それはまさに、噴出と呼べるような感覚だった。
152 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:37:45.05 ID:6an8YmUi0
いや……本当に、少しも言おうと思っていなかったと断言できるだろうか。
夏休みの宿題を終わらせにヴィネットの家に行った時から、つまり、ラフィエルに悪魔祓いの教科書を見せられた時から、
私は拭いようのない違和感を感じていたのではなかったか。
お前なんていつでも殺せる、という意思表示の意味……それを、ずっと図りかねていたように思う。
そのとき感じた生々しい熱を、冗談という言葉で冷ませずにいた。
153 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:38:13.29 ID:6an8YmUi0
「サターニャさん、それ、本気で言ってますか?」
ラフィエルと目を合わせることができず、机の木目をじっと見ていた私には、その時のラフィエルの表情はわからない。
そのときの彼女の声音は、怒りであらぶっているわけでも、悲しみに震えているわけでもなく、
比較的冷静で……色で例えるなら、無色透明というのが近かったように思う。
ただ、そのセリフは割れたガラスのように鋭く、私の耳にいつまでも刺さったまま抜けなかった。
――すぐに謝らなければ!
私はそうも思ったが、口をついたのは、それとは真逆の言葉だった。
「くどくどと、わかったようなことを上から言ってるんじゃないわよ
前に、私に恩人になりたいのかって言ったわよね。その言葉、そっくりそのまま返すわ」
「サターニャさんの気持ちは、よくわかりました」
154 :
◆n0ZM40SC3M
[sage saga]:2017/05/08(月) 01:38:42.46 ID:6an8YmUi0
二人の間に重たい沈黙の霧が立ち込める。
次に何を言うべきか……馬鹿な私には、全く見当がつかなかった。
濃霧の中で迷子になった私は、ただ座って霧が晴れるのを待つしかなかった。
「……そうです、それでいいんです。今日は、もうお開きにしましょうか」
ラフィエルが伝票をとり、隣に置いていたバッグを肩にかける。
「私はもう少し残るわ。コーヒーが残ってるの」
「そうですか。ではまた、学校で。さようなら」
「ええ、気を付けて帰りなさい」
ドアに付いたベルの音でラフィエルが去ったのを確認して、ようやく顔を上げる。
そこは二人掛けのシートが夕日で照らされるばかりで、まるで最初からだれもいなかったようだった。
一人で飲む冷めたコーヒーは、酸味ばかりが強くて、あまりおいしくなかった。
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