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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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519 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:34:12.44 ID:OBzab0O/O

中野「よし……ん?」


 中野は力を込めて扉をあげようとしたが、入口はビクともしなかった。


中野「あ! 中からじゃ開かねーのか!」


 だが、そのときコンテナの扉がギイイィと軋みながら開けられた。夕焼けを背景に何者かがコンテナのすぐ側に立っていた。


永井「どいつもこいつも馬鹿ばっかだ!」


 コンテナを登ってきた中野を見て、永井は忌々しそうに叫んだ。


永井「無謀だが、他にどうしようもなくなってきた」


 永井はいらだちを抑えるように頭を振って、茫然と自分を見上げる中野にむかって言葉を吐きつけた。


永井「手伝え! クソッ……」


 ひと呼吸置いてから、永井は中野に要求を伝えた。このとき、はじめて永井と中野は近くで視線をあわせた。血の色が、永井の額を、夕焼けよりも赤く染めているのを中野はしかと見てとった。


永井「佐藤をどうにかしたい!」


ーー
ーー
ーー
520 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:37:02.93 ID:OBzab0O/O

 はっきりしないながらもアナスタシアが意識を取り戻したとき、アナスタシアはロープで吊り上げられた状態で、ダクトテープで固定された両手足がぶらぶらと止まりかけた振り子のように揺れていた。

 ぼおっとしていると、アナスタシアの身体がぐいっと上に引っ張りあげられる。身体を縛るロープが肋骨に食い込んで痛い。引っ張られるたびにロープはぎしぎしと肋骨に食い込み、うめき声をあげそうになったが、口に巻かれたダクトテープのせいで喉の外に声が洩れることはなかった。そのかわり、ポロポロと涙が出てきてしかたがなかった。

 さらに災難なことに、アナスタシアは垂直方向に真っ直ぐ、つまり真上に引っ張りあげられているわけではなく、井戸の外にいる何者かがアナスタシアに巻かれたロープを綱引きの要領で無理矢理引っ引っ張っていたため、アナスタシアは井戸の内壁に身体のあちこちをぶつけられ、ゴツゴツした石に肌を擦り付けられるはめになった。

 口を塞がれているため、やめてと訴えることもできず、アナスタシアは、肋骨にロープを食い込ませるがまま、石にぶつけられるがままの状態で吊り上げられていった。

 ようやくアナスタシアの身体が井戸の外に引っ張り出された。最後はロープでなく誰かの腕によって引き上げられたが、襟の後ろを乱暴に掴まれての動作だったので、首がすこし絞まって苦しい思いをした。

 目の前には意識を失う直前に目にした暗闇が引き続き広がっていたが、井戸の底の奥深い息もできないくらい濃密な闇と違って、土の湿り気を感じながら見るこの闇にはじんわりと濃淡があり、斜め上に伸びる線があった。それらの線は森をかたちづくる樹木の輪郭だった。月明かりは葉の繁りに遮られていたが、光は空気の中に混じり、動くものがいるかどうかくらいは見分けられる程度の明るさはあった。
521 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:38:12.29 ID:OBzab0O/O

 アナスタシアは身体中の痛みに気をとられて、まわりの状況を判断できる状態ではなかったが、すぐ側にいる人影に気づくととっさに身の危険を感じ、本能的にIBMを発現した。

 救いを求めるような必死さを込めて、その人影を遠ざけるようIBMに願うと、星十字のIBMは人影の胸の真ん中に爪を突き立て腕まで貫通させ、腕を真っ直ぐに伸ばしたままいちばん近い杉の木まで突進していった。攻撃を受けた人物と木が衝突し、幹は大きく穿たれ、ガサカザッと葉を鳴らしながら、木が大きく揺れた。



中野「痛っ、てぇ……」


 恐怖のため固く瞼を閉じていたアナスタシアが、聞き覚えのある呻き声に素早くばっと頭をあげると、自らの分身ともいえるIBMが中野を杉の木の幹に磔にしている姿を目撃した。葉のあいだから射し込んだ月明かりが茶色に染めた髪を照らし、アナスタシアは磔にされた男が自分を助けようとしてくれた人だったことに気がついた。

 その瞬間、アナスタシアの気持ちは闇色の絶望に染まった。たとえ故意でなくても、善人を殺めたという事実が一生を通じて呪いのようにつきまとい、あらゆる幸福、感情発生を正当的に禁止し、だがそれが罰というわけでもなく、だから償うこともできず、事実に命じられるがまま、殺人者として生を全うしなければならない。そのような絶望がアナスタシアを襲った。

 なぜそうしなければならいのか? それは、アナスタシア自身がそうしなければならないと考えているからだった。

 アナスタシアは死を恐れはじめていた。自分の死ではなく、どこかの誰かの死。それは、研究所に忍び込んだあの日、夜の雨のなか、真っ黒な無を宿した死人の眼を見てから生まれた感情だった。アナスタシアはその眼を見て、死が“ある”ということをはじめて知った。そして、死は、“もたらすことができる”ものだということも、同時に知った。
522 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/12/22(金) 23:40:23.48 ID:OBzab0O/O

 夜の帳がおりた森の只中は穏やかで、とても人が死んでいる風景には見えなかった。おぼろげな月明かりと夜風に包まれると気持ちが良くて、蒸し暑さを忘れるほどだったが、中野の胸の穴からは血が帯のようになって流れていた。

 脅威を退けるよう懇願されたIBMは、次の命令がないため中野に腕を打ち込んだまま沈黙していた。永井がIBMを発現し、この凶暴な黒い幽霊が星十字型の頭部を砕いた。IBMの身体がくずおれ、木に張りつけられていた中野が地面に落ちる。


中野「なんで……」


 中野は復活すると、頭を振って意識の回復をはかった。永井のIBMが再度中野を貫き、さっきとおなじ木に磔にした。


中野「おれ……」


 二度に渡ってIBMから攻撃を受けた杉の木の幹に亀裂が走り出し、木っ端が散って、ついには幹がずり落ち、アナスタシアめがめて倒れてきた。

 アナスタシアは咄嗟の反応で縛られた両腕で頭をかばい、恐怖で瞼を固く閉じたが、倒れかかる木は枝が別の木の枝と絡みつき、玄のように弾かれる音を響かせながら、骨や内蔵を押し潰そうとアナスタシアに容赦なく降りかかってくる。

 突然、アナスタシアの身体が引っ張られる。草の葉がふくらはぎをくすぐる感触をおぼえた直後、ドスンという大きな物音が振動として伝わった。アナスタシアが眼を開けると、さっきまでいたところに木が横たわっていた。

 アナスタシアを倒木から救ったのは永井だった。永井は折り畳みナイフでとりだし、アナスタシアの手首を縛っている灰色のダクトテープを切断すると、ナイフをアナスタシアに握らせた。


永井「あとは自分でやれ」


 永井はそう言い残し、中野が木の下敷きになってないか確かめにいった
523 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:41:57.52 ID:OBzab0O/O

 永井のIBMはもう消失したのか姿は見えず、中野は幹の半分が抉られた倒木からすこし離れたところに倒れていた。中野はもうそこにはない胸の穴を押さえながら起き上がった。

 触ってみてはじめて気づいたが、中野の服の破れ目はまるい穴ではなく、肋のうえに横線が引かれているようにぱっくり開いていた。中野は破れ目が背中のほうまでつながっているのか確かめようと首を回した。そのとき、井戸の周辺の、かつて均され、いまはところとごろに草が生えた自然状態の開けた地面と森との境界に、一本の腕が転がっているのを見つけた。


中野「永井、腕とれてる」

永井「生えてるだろ、新しいのが」

中野「どうすんの、あれ?」

永井「井戸に捨てとけ」


 自分の腕とはいえ、切断された身体の一部を手にとることに中野は忌避感をおぼえた。おそるおそる触れてみると、指で押さえたところの皮膚が沈みこみ、ぶよっとしていた。中野の躊躇にしびれを切らした永井は、中野の腕をぶんどり、井戸にむかって放り投げた。腕はくるくる回転しながら、アナスタシアのすぐ上を通りすぎ、井戸の底に落ちていった。
524 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:44:36.86 ID:OBzab0O/O

アナスタシアは足首にきつく巻き付いたテープを切るのに苦戦していた。ナイフの刃が粘着部に貼りつき、何層にも重ね巻きされたテープに食い込んでいかない。

 おもむろに永井はアナスタシアに近づいた。アナスタシアはあせった。永井がすぐ横まで近づくと、固く眼を閉じ、頭を永井の反対側に傾け、ナイフを持つ手をかばうかのように突きだした。

 永井は受け渡されでもしたかのようにナイフをひったくると、縛られた足首をぐいっと持ち上げテープを両断し、次いで身体のロープ、そして口元のテープを手際よく切断していった。すべらかなナイフの動きは清流を泳ぐ魚のようで、月の光を反射したナイフの刃が鱗のようにきらめいた。

 アナスタシアは永井の思いもよらない行動に呆気にとられていた。永井はたしか、アナスタシアが亜人であることを露見させたあと、しかるべきときに解放してやると言っていた。だが、永井の様子はどう見ても思惑が滞りなく進んでいるようには見えなかった。しかも、敵対していたはずの中野まで一緒にいる。

 永井はそんなアナスタシアにむかって口を開いた。
 

永井「佐藤がテロを決行し、七百人余りが死んだ」


 永井の説明はあっけなく、たんなる事実の報告としてアナスタシアの耳に届いた。そのあっけなさのせいでアナスタシアの頭はしゃっきりせず、言ってることをちゃんと理解できないまま永井の言葉を聞いていた。
525 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/12/22(金) 23:46:30.86 ID:OBzab0O/O

永井「グラント製薬の本社ビルに旅客機で突っ込んだんだ。その後の対応にあたったSAT五十名も、佐藤に殺された。亜人はいまやテロリストと同義語だ。助かりたかったら……」

中野「あっ!」


 中野が突然あげた大声が永井の話を中断させた。永井は忌々しげに中野に振り返った。


永井「なんだよ?」

中野「この子、おまえが逃がしたって言ってたじゃん!」

永井「嘘に決まってるだろ」


 いまさらの指摘に永井は頭を抱えたくなった。


中野「はあ!?」

永井「いいからもう黙ってろよ」


 当然そんな言葉に納得するはずもなく、中野はさらに食ってかかった。はじめは無視しようとしていた永井も中野があまりにもしつこいので、やがて中野に負けないくらい声を張り上げ、ついには言い争いに発展した。アナスタシアといえば、訳もわからぬまま、罵声を飛ばし合うふたりの顔を交互に見るくらいしかできなかった。

 複数の銃声が突然響き渡った。三人は銃声のした方を向いて固まり、押し黙った。


中野「鉄砲?」

永井「行くぞ」

中野「おまえ、何したんだよ」


 中野が声を潜めて尋ねた。


永井「何もしてない。亜人だから撃たれただけだ」
526 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:48:28.57 ID:OBzab0O/O

 アナスタシアはその言葉にハッとして、永井の方を見た。血がこびりついたシャツに、大きな穴が開いている。血に染まったシャツには見覚えがあった。つい最近、アナスタシアはおびただしい数のそれを見たのだった。記憶はまだ生々しく、永井が亜人だとわかっていても、その赤い円形が胸元にあることに痛ましさを感じた。

 血の跡はバッグのストラップに隠れて見えなくなった。ストラップを肩にかけたとき、永井の視線がアナスタシアとかち合った。永井の視線は相変わらず温度が感じられず、感情の見えない眼でアナスタシアを見下ろしていた。


永井「狩られたくなかったらついてこい」


 それだけ言うと、永井は森のなかに姿を消した。


中野「立てるか?」


 中野がアナスタシアに駆け寄ってきて言った。IBMで攻撃されたにも関わらず、中野は驚くほど無警戒だった。


アナスタシア「あ、あの、わたし……!」

中野「いいから。はやく行かねえと。あいつしか逃げ道知らねーんだ」


 中野にうながされ、アナスタシアは足に力を入れようとしたが、うまく立ち上がることができなかった。立ち上がりかけ、途中で膝ががくんと落ち、ひっくり返りそうになったところで中野が腕をつかみ、その身体を引き上げ、森の方へと押しやった。

 二人が永井の背中が暗闇のなかに浮かんでいるのをみとめたとき、背後で銃声がふたたび轟いた。

 猟銃の音。アナスタシアが何度か耳にし、肌を震わせたこともあるその銃声は、いままでのそれとはまるで違っていた。

 獲物として聞くはじめての銃声は、とてつもなく恐ろしい音となり、アナスタシアの心臓を震撼させた。


ーー
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527 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:51:07.46 ID:OBzab0O/O

堀口「何だったんだ、今のは……」


 堀口は杖をつき、よろめきながら立ち上がった。自分の身体を見下ろし、怪我がないことを確かめると、次は周囲を見渡した。捜索隊の面々は先ほどまでの堀口と同様に腰を抜かし、そのほとんどが自失状態から脱け出せてない。

 かれらは一見、茫漠としているようだったが、実際は恐怖で動けなくなっていた。根本からぼっきりと折れた枝がかれらの周囲に観覧していた。地面にはっきりと残る足跡は、人のものに見えたが、その足跡の主を目撃したものは誰一人いなかった。辺りの木は鋭い爪のようなもので切り裂かれ、幹が抉られているものもあった。

 嵐が去ったあとのような静寂と散乱が暗闇に拡がっていた。だが、それはわずかなあいだのことだった。うずくまっていた者たちが、苦痛にうめきをあげ始めたのだった。


吉田「班長、大変だ!」

堀口「どうした!?」

山田「田村さんのとこのせがれが!」


 老人たちが言っているのは、猟銃を持ち出してきたうちの一人だった。洗濯され色褪せたキャップをかぶったその男は、腕に大きな裂傷を負っていて、内部の筋肉はおろか白い骨まで見える有り様だった。持っていた猟銃は、銃身がひん曲がり、木製の銃床は砕け散っている。


石原「医者に見せなきゃやべぇよ」


 タオルを傷口に当てている老人が言った。タオルは血を吸って、赤く、重くなっていた。上腕部をベルトできつく絞めたおかげで出血の勢いは弱まっていたが、男の顔面は蒼白していて、意識も朦朧としている。
528 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:52:16.38 ID:OBzab0O/O

 事態の重さに堀口は屈みこむ途中のような姿勢で動揺していた。パキッという小枝を踏む音に堀口は顔をあげた。

 いきり立つように荒く呼吸を繰り返している北が猟銃の引き金に指をかけたまま、あたりを警戒していた。わずかな物音があれば、北はあまりある勢いで音がした方向を向いたので、まるで猟銃を振り回しているかのようだった。

 恐慌をきたしている北に近づくのは勇気が要った。「北さん」と声をかけた瞬間、銃口が堀口に向けられた。北はすぐに堀口に気づき、猟銃を上に向けた。生きた心地はしなかったが、つまりそれは生きているということで、大きく息を吐くと言うべきことが口に上った。


堀口「北さん、もうやめよう」

北「なんだと!?」

堀口「林道と橋には人を置いとくが、森の捜索はまた明日にしよう」


 北は煮えくり返るような怒りに満ちているだろうと堀口は思ったが、北はがなりたてて反対することはなく、唇を歪めるにとどめていた。


山田「班長、はやく!」


 仲間に呼ばれて堀口は北に背を向けた。負傷者を抱えた一団はすでに見えなくなっていて、襲撃があった場所に残っているのは北と堀口以外にはだれもいなかった。

 堀口は歩きながら後ろに注意を払った。北が後をついてくる気配は感じない。堀口はそのことに一抹の不安を覚えていた。


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529 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:54:21.84 ID:OBzab0O/O

中野「こんな堂々と動いて見つからねーか?」


 小高い傾斜を登る永井の背中を見ながら中野が尋ねた。地面から露出した木の根を跨ぎ、幹に手をついてバランスをとりながら坂を上っていく。


永井「あの人達は森の怖さをよく知ってる。たぶんここらの捜索は打ち切ってるはずだ」

永井 (それに、おそらく黒い幽霊に襲われてる。死傷者が出たなら追跡はまず無い)

中野「今晩中に山を越えればいいわけか」

永井「何日もかかるだろ。脱出は一度やった手でやる」


 会話を聞きながら、アナスタシアは二人についていった。中野がそうしたように、幹で身体を支えて傾斜をのぼろうとすると、地面の落ちた葉っぱを踏んで足を滑らせてしまった。剥き出しの固い根に打ち付けた膝は皮膚が擦りむけて血が滲んでいた。転んだアナスタシアを中野がまた引っ張りあげた。服の土を払い、自分のTシャツを破くと擦りむけた膝に巻いてやった。

 永井はすでに傾斜を登りきっていた。振り向きもせず先に進もうとする永井に中野が声を飛ばした。


アナスタシア「イズヴィニーチェ……すみません……」

中野「永井、ライトは?」

永井「月明かりで十分見えるだろ」

中野「いや、危ないって」

永井「注意不足。ダンスやってるんだ。そいつ、僕より身体能力あるだろ」


 ひとりよがりな永井の言動に中野は憤懣とした。一方、アナスタシアは申し訳なさで心が苦しくなっていた。もともと怒りを覚えるような性格ではなかったが、まるで役立たずだと言わんばかりの永井の態度にアナスタシアはすっかり萎縮し、自分をかばってくれる中野に対しても余計な心配をかけさせている気がして、申し訳なさを覚えていた。永井はというと、着々と迷いなく夜の森のなかを歩き続けている。記憶が目印の代わりだった。

 振動音が突然して、ストラップの中が光った。
530 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:55:41.89 ID:OBzab0O/O

中野「は!? ケータイ!?」

永井「おばあちゃんに買ってもらった」


 驚く中野に永井はしれっと答える。スマートフォンの画面はおばあちゃんからの着信を知らせていた。


永井「はあ?」


 奇妙に思いながら、永井はスマートフォンを耳にあてた。相手がほんとうにおばあちゃんかどうか確認がとれるまで、声は出さず息を潜めた。

 電話口の向こうががなりたっていた。北の声だ。口汚い怒声がスピーカーから響いたが、それは永井に向けて放たれたものではなく、北と同じ空間にいる者に向けられていた。

 永井はスマートフォンを耳から離し、しかめっ面をとある方角へむけた。側にいたアナスタシアが怯えたような不安げな表情で永井を見ていた。アナスタシアも電話越しの怒声を聞いていて、不穏な雰囲気を察知したのだが、永井はそのことにまったく気づいてなかった。


中野「永井、急がねーと」


 中野が振り向いて永井に言った。中野は遠くから聞こえるかすかな波の音に導かれ、先頭を永井と入れ替わっていた。永井は身体の向きを視線の方角に合わせると、ワンショルダーバッグを外し、おもむろに肩を落としながら引き返しはじめた。


永井「はあ……先行ってて……」


 面倒ごとにおもむく前によくやるため息を交えながら永井は言った。


中野「どうした!?」

永井「忘れ物!」


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531 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:57:13.82 ID:OBzab0O/O

 使われなくなって何年も経つその小屋は、物置きと化していて、同じように使われなくなった廃材やポリタンクや段ボール、諸々の粗大ごみが壁際に無造作に置かれていた。

 そこは居場所がなくなり、放置され、忘れ去られた物が棄てられた、忘れ去られた場所だった。

 大型のクーラーボックスの上に山中が座らされている。ガムテープで両手を縛られ、額からは出血している。銃床で殴り付けられてできた傷だった。


山中「ちょっとアンタ、異常だよ? なんでそんなにあの子にこだわるんだ?」


 山中のおばあちゃんが北に訊いた。


北「グラント製薬……あの会社がどれだけの人達を救ってきたか……」


 なかば茫然自失とした様子で北は話しはじめた。


北「株価は安定、本当の優良企業だ……それがあの事件で一変……連日のストップ安……どうにもならん」


 話しているうちに絶望を自覚したのか、北の声に悲痛さが増していった。北はほとんど叫ぶようにして、自らの絶望的な苦境をだれに訴えればいいのかわからないまま口にしていた。
532 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:59:35.42 ID:OBzab0O/O

北「おれは年金も蓄えもあの会社の株に突っ込んでたんだぞ! おれの人生は!? 老後の計画は!? どうしてくれるんだ!?」
 
山中「小さい男だね! ただの逆恨みじゃないか!」

北「だまれクソババア!」


 必死の訴えを一蹴した山中の眼前に北は猟銃の銃口を突きつけた。


北「あんなバケモンかくまうんだ、てめえも亜人なんだろ! 正体暴いてやるよ」

山中「どうせあと何年も生きやあしないんだ。わたしはかまわないよ」


 山中は銃口など存在しないように鋭い視線でパニックになりかけている北を睨みあげた。引き金にかけた北の指は強張っていた。力が入りすぎ、万力のようにゆっくりと引き金に力かかかる。

 そのとき、小屋の外でガタンと物音がした


北「なんだ!? 奴か!?」


 北は慌てて振り向いた。


北「おい! そこにいるのか!」


 返事はなく、夜がしんと静まり返っているだけだった。ドアのない小屋の入り口は黒い闇を見せるだけ。北は猟銃を肩に当てずんずんと小屋の外へ進んでいった。


北「どこだ!?」


 北の姿が見えなくなった瞬間、いきなり銃声が轟いた。山中のおばあちゃんの身体が反射的に跳ねた。白い煙がモワーッと闇の中に浮かび、溶けるように消えていく。誰かの足音がした。その足音はすぐに聞こえなくなって、あたりに夜の静寂が帰ってきた。ささやかな虫の声音以外はなにも聞こえなくなっていた。北の怒りも絶望もこの世から消えた。


山中「……ふん!」


 すこしして、事態を察した山中のおばあちゃんが鼻を短く鳴らした。


山中「そうでなきゃあね……男ってのは」


ーー
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533 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:03:18.51 ID:FyC54XJBO

中野「おせえよ。何してたんだ?」


 ようやく森から出てきた永井に中野が言った。


永井「ん? 着替え」


 言葉の通り、永井は弾痕の残るTシャツから半袖のラグランTシャツに着替えていた。


中野「あそう……おれのは?」


 永井は手に持っていた筒状に丸めたTシャツを中野に投げてよこした。中野が着替えているあいだ、永井は発泡スチロールとロープを用意し、発泡スチロールに腕が通るようにナイフでくり貫きはじめた。

 崖下では黒い海面が拡がっていた。波打つ海面の運動にしたがって月の照り返しがきらきらと跳ねている。空に雲はなく、すこし欠けた月と満点の星が一面に輝いていた。月明かりはともかく、小さな星の光は黒い海には届かなかったが、月の光を浴びながら崖砕ける波の欠片は星のように白かった。

 見上げるには絶好の空模様だった。だが、アナスタシアは視線をさまよわせ、やがて自分の膝に視線を固定した。

 永井が戻ってくるまでのあいだ、アナスタシアは中野と会話を交わした。中野はアナスタシアと同じクローネのメンバーである大槻唯のような性格で、ただでさえ喋るのが得意でないのにいつの間にか一緒に逃亡する事態に陥って途方にくれていたアナスタシアでも、話しかけられているうちに自然と口から言葉を出すようになってしまうのだった。中野はアナスタシアがアイドルであることや永井を助けようとしたことに、てらいもなく素直に感心していた(実際、「すげえなあ」と感心をあらわす言葉を何度か口にした)。
534 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:06:34.52 ID:FyC54XJBO

中野「アーニャちゃん、アイドルだって。知ってた?」


 作業を続ける永井に中野が訊いた。つい最近知った凄い知識を友達に披露するときのような口振りだった、永井はナイフを止めることなく答えた。


永井「なんとなく」


 永井のそっけない返答を聞いた中野が眼を見張る。


中野「おまえの姉ちゃんとユニット組んでるだろ?」

永井「だからなんとなく知ってるんだよ」


 中野は「えーっ」と不満げに口から洩らした。アナスタシアは悲しくなり、重みにも似た痛みを心に覚えた。

 穴を開け終わると、永井は発泡スチロールとロープを中野とアナスタシアに投げ渡した。ロープの端を自分の身体に結びつけるよう二人に指示すると、永井もバッグを肩にかけてから同じように二本のロープの端を自分にくくりつけた。それから発泡スチロールを持ち上げると、崖まで歩いていった。中野も当然のように崖まで歩いていった。アナスタシアはすこし迷って、ロープがピンと張られる前にやっと小走りで永井のところまでやって来た。

 はるか下方から波の砕ける音が聞こえる。水平線は黒く塗り潰され、海と空は一体になっていた。アナスタシアはそのときはじめて星空を見上げた。思わずため息をつくほどの星空だった。


中野「でもよ、こんなもんが浮きになんのかよ」


 中野の言葉にはっとしたアナスタシアは持っている発泡スチロールに視線を移した。下を向くと、波の音がはっきりと意識され、いまから自分が何をするのかがわかり、胃がきゅうっと締め付けられるような感じがした。
535 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:09:01.56 ID:FyC54XJBO

永井「水難の講習とか学校でやらなかったか?」

中野「中卒だからなぁ」

永井「そっちは?」


 突然話を向けられたアナスタシアはばっと顔をあげ、永井を見つめた。一瞬なにを言われたのかわからず、アナスタシアはボーッとした表情をしていた。


アナスタシア「えっ?……あっ、ラボータ……お仕事、でした……」


 聞いても無駄かと思った永井が顔を背けようとしたとき、アナスタシアはつっかえながら、何とか答えた。永井は鼻からため息を漏らしてから、二人にむかって忠告をした。


永井「それ、なくすなよ。生体実験されて痛みには慣れたけど、それでも溺死は死ぬほど苦しかった」

中野「怖いこと言うなよ」


 空気が重くなった。そのとき、中野は思いついたことをつい口に出した。


中野「実験って、田中と同じことされたのか?」

永井「銃で撃たれたりとかはなかったかな。生きたまま解剖されたとか、それくらい」


 ますます空気が重くなった。中野は訊かなきゃよかったと後悔し、アナスタシアに至っては絶句するあまり、喉が石のように固まっていた。永井はそのような場の雰囲気を察しようともせず、脱出方法について説明するのだった。
536 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:10:59.37 ID:FyC54XJBO

永井「この辺りのことはいろいろ調べてある。ここから入水すれば潮の流れで押し戻されずに外へ出られるし、そう遠くへも行かない……たぶん」

中野「外国に行っちゃったりしてな」

永井「インドじゃあ亜人は崇拝されてるらしいよ」

中野「すうはい?」


 永井は、中野がバカをさらす発言をしても、いちいち呆れないようにしようと心に決めた。


永井「準備はいいか?」

中野「おれは大丈夫だ」

永井「あそう」


 電話したときの海斗と同じことを言う中野に、永井は不愉快そうに眼を細めた。次にアナスタシアの方に顔を向けると、身体に巻いたロープの結びつけがゆるいことに永井は気づいた。


永井「ああもう」


 永井は結び目をちょっと乱暴に解くと、ロープが緩まないように引っ張っり、それから固く締め上げた。永井が自分に手を伸ばしてきたとき、アナスタシアはビクッとし、おもむろに腕をあげて頭をかばった。やっぱりまだ永井のことは怖かったからだか、その動きが身体を開けることになり、永井の作業をスムーズにさせた。巻き直されたロープはアナスタシアの肋骨に食い込み、じりじりとした痛みを与えていた。

 だが、呻くひまはなかった。アナスタシアの身体が突然「く」の字に折れ曲がり、崖に向かって引っ張られた。

 永井はロープを結び直したあと、すぐに崖から飛び降りた。永井が岸壁から虚空へ足を置いた瞬間、中野は慌てて永井のあとを追った。ロープに苦しめられていたアナスタシアはそのことに気づかなかったのだ。
537 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:13:10.23 ID:FyC54XJBO

 男二人の落下にアナスタシアの足は浮き、転ぶようにして崖から身を踊らせることになった。海面に落下するまでに身体は前に一回転し、アナスタシア星空を見上げながら落ちていった。星の光は痙攣したかのように動きまくっていた。アナスタシアは海へと落ちた。

 海面で打ち付けた後頭部と背中が痛い。冷たさと痛みでとても眼を開けていられない。パニックになり、鼻から海水を吸い込んでしまったアナスタシアを激痛が内側から襲った。発泡スチロールの浮きのおかげでアナスタシアは海面に浮上できた。鼻から海水を吐き出そうとするが、押し寄せる波が顔にぶつかり邪魔をした。波にいいようにされたアナスタシアは、浮きを手離してしまった。

 溺れそうになったアナスタシアを永井が懸命に引っ張りあげた。手足をばたばたさせるアナスタシアを海面から上にあげたままにするには、永井の体力ではあまりに心もとない。


永井「中野、まだか!」


 永井は息も絶え絶えになりながら、必死に叫んだ。

 中野がアナスタシアが手離した発泡スチロールを持って泳いでくる。それを見た永井はアナスタシアを押し出し、大きく呼吸しながら仰向けになって海に浮かんだ。永井は二人から離れるように流されていったが、ロープが張りつめ身体が回転したところで深呼吸し、泳ぎやすい体勢に直した。

 発泡スチロールの浮きをビート板の代わりにして、アナスタシアはなんとか落ち着きを取り戻した。こちらに戻ってくる永井を見たアナスタシアは、さっきのことでお礼を言おうかとすこし悩んだ。

 言うか言わないかの判断をする前に、永井はアナスタシアを通りすぎた。そしてその瞬間、海流が三人を捉え、その身体をどんどん押し進めていった。

 想像以上のスピードで流されながらアナスタシアは、夜の海の宇宙のようなその黒い色そのものに、うまく言語化できない怖さを感じ始めていた。
538 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:24:16.36 ID:FyC54XJBO
今日はここまで。

今回。あんまりアーニャを喋らせられなかったので次の更新ではセリフを増やしたいですね。これからしばらくはアーニャがでずっぱりで、美波の出番は減っていく感じなので、なんとかあの独特のセリフ回しをものにしたいです。

さて、もう年末。このスレを立ててからだいたい一年くらい経ちましたがまだまだ完結するまでに時間がかかりそうです。いまのペースだと来年末にも終わってるかどうか。それを考えるとちょっと恐ろしいです。

とりあえず、今スレ内に9巻のところまでいけるように頑張ります。

それでは少し早いですが、このような有り様にお愛想が尽きねば、来年もまたよろしくお願いいたします。
539 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/12/23(土) 07:36:38.12 ID:2dQhr0Eh0
おつ

アーニャもフォージ作戦に参加するのかな?
でも目立つ外見してるから社員のフリは出来なさそう
540 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:49:06.86 ID:oL93h30zO
7.糞ガキ三人になにができるよ?


Come Together ーーザ・ビートルズ


 古ぼけた電光看板が赤や緑の光で道路を照らしている。寿司屋、中華料理屋、スナックや居酒屋が立ち並ぶ通りに人影はなく、永井たち三人は海水でぐしょぐしょに濡れた靴でアスファルトに足跡を残しながら路面を歩いていた。永井と中野が横に並び、そのすこし後ろをアナスタシアがとぼとぼと歩いている。中野が永井と話しているので、アナスタシアはそうするしかなかった。水に濡れた黒い足跡は、さまざな種類の電光にあてられ、場所ごとに違う色に染められていた。店の前を通るたびに酔っぱらいの笑い声やカラオケの歌がドア越しに聞こえてきた。


永井「中野、足を探さないと」

中野「自転車? バイク?」

永井「車だな。免許持ってるか?」

中野「ないけど、フォークリフトも動かせるぜ。現場じゃ問答無用だからな」

永井「じゃあ、どう盗むかだな。強奪しかないか」


 永井は後半の部分を一人言のように口にした。


永井「でも発覚までに時間がかかるのがいい。なんとか間に合えばいいんだが……」

541 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:51:34.28 ID:oL93h30zO

 今後の計画について、ぶつぶつと唱える永井の考えをアナスタシアはしっかり聞いていた。永井が倫理や道徳を気にかけないことなどとっくにわかっていたが、それでも目の前でこう淡々と盗みを働こうとするのを見ると、戸惑いと緊迫を隠せない。特にアナスタシアをどぎまぎさせたのは、強奪という言葉だった。他者への強制力と攻撃性を内包したこの言葉に、アナスタシアは車の持ち主の後頭部を殴りつける永井の姿を想像した。

 ーーでも、ケイは強奪を目撃されるようなヘマはしないはず。用心深いはずだから……でも、不可抗の事態はいつだって起こりうる。もし、目撃者があらわれたら? 口封じしようとしたら……? コウならとめてくれる……とめられなかったら……? わたしがとめる……? とめられるの……?ーー

 アナスタシアがわるい方向への考えに深くはまりこんでいると、中野が突然二人から離れた。


中野「ちょっと待ってろ」

永井「は!? おい!」


 永井もアナスタシアもこれには面を食らった。引戸がガラガラと音をたて、中野は常連客の態度でのれんをくぐり抜けると慣れたようすで居酒屋に入っていった。

 永井は悪態をつくかわりに頭をふるとすぐさま居酒屋から離れた。隣にある雑居ビルの駐車場を通り過ぎ、ビル裏の錆び付いた非常階段を見上げどの階にも明かりが灯ってないことを確認すると、ぼやけた電灯に照らされた踊り場に腰かけた。
542 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:53:12.09 ID:oL93h30zO

 アナスタシアはまるで十歳幼くなったような足取りで永井の後を追った。階段の一番下の段にちょこんと座り、すこし迷って通りを見やった。

 病んだ老犬みたいに劣化して弱った電灯が立った路地だった。風情など欠片もない古いというより経年という言葉がぴったりくる建物の並び。赤提灯に白く発光する電光看板。どうやら目の前の店はおでん屋さんらしい。そしてあたりに漂うのは酒の匂い。こういった都会の一隅は通りすぎるだけで、立ち寄ったことはなかった。

 アナスタシアは意を決して振り向き、永井を見上げた。永井はバッグを手すりの支柱にくっつけて枕の代わりにして頭を預け、眼を閉じていた。呼びかけの一言を口にするまでには随分時間が必要だった。


アナスタシア「あ、あの……」

永井「なに?」


 永井の返事は明瞭で、眠っていたふりをしていたのかと思うほどだった。永井は閉じていた瞼を上げ、黒い石のような眼でアナスタシアを見下ろしている。アナスタシアはどぎまぎしつつ口を開こうとした。声を出そうとしたが、声は喉に引っ掛かってうまくしゃべれない。喉が干からびてしまったかのようだ。そもそもなにを話そうとしたのだろうか。

 永井の眼が夜の中に浮いている。形だけは月と同じ円形をしていたが、その眼はどこまでも黒く、むしろ特別黒いことで周囲の闇から際立って存在していた。

 アナスタシアはごくりと喉をならした。とにかく舌と唇を働かせることにした。
543 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:55:01.19 ID:oL93h30zO

アナスタシア「ミナミ、心配、しています……」

永井「それはまえに聞いた」


 永井の意識が会話から離れかける。アナスタシアはあわててディテールを、つまり何を心配しているか、美波が弟の安否の次に心配していることを説明する。


アナスタシア「プレス・コンフェレン……(アナスタシアはロシア語の発話をここで中断した)……アー……きしゃ……記者会見、ミナミは、あなたがミナミの会見のせいでつかまったかもって思って……」

永井「それ見てない」


 永井はあっさりと言ってのける。他人事のように。というより、アナスタシアにとって美波の心痛は他人事だろうとでもいうような言い方だった。


永井「僕が捕まったのは、佐藤にハメられたからだ。おおかた、人間への憎しみを植えつけて仲間にするために実験体として差し出したんだろう。田中のときの経験かな」


 永井は自身の体験を小動物を解剖するかのように分析した。アナスタシアにとって、この冷徹さは何度見ても信じがたいものだった。それは、いままで生きてきた世界に、永井のような人間はひとりも存在していなかったからだ。切り刻まれたことも、切り刻むことも、同じようなことだと言わんばかりの態度。

 この瞳を揺らすのに必要な言葉を探すため、アナスタシアは必死に頭を回転させた。美波の弟に人間的な面があると信じられる理由がどうしても欲しかったのだ。
544 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:56:38.05 ID:oL93h30zO

 それを探してまずはじめに思い浮かんだのは、森の中で見た永井のしかめ面だった。スマートフォンから漏れ聞こえてくる怒声に困っていた顔。いま思えば、あの怒声は永井に向けられたものではなかった。永井なら怒鳴られたところで眉ひとつ動かすでもなし、そもそもなぜ電話に出たのだろう?

 その疑問が頭に浮かんだ瞬間、パズルのピースが音をたててはまった。電話越しの罵倒の言葉が小楢の木の下で永井が口にした「おばあちゃん」という語とイコールで結ばれ、ひとりで森を引き返した永井がなにをしに行ったのか検討がついた。そして見当がつくと、研究所の屋上で、永井はやっぱり研究員を助けていたのだと確信できた。

 意識を思考から頭上にもどすと、永井はふたたび瞼を閉じようとしていた。アナスタシアはあわてて口を開いた。


アナスタシア「研究員のひと……助かりました、生きてます」

永井「ああ、あのひと。よかった」

アナスタシア「ダー……! そうです、よかったです」


 アナスタシアの眼がぱっと輝いた。電灯が光を落としているところに身を乗り出したので、顔が照らされて表情がよく見えた。永井はそれを見て、やっぱりかと期待はずれの予感は正しかったと感じた。
545 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:58:52.13 ID:oL93h30zO

アナスタシア「おばあちゃん、森での電話も……」

永井「あの研究員には利用価値があった」


 アナスタシアがしゃべっている途中で永井が出し抜けに、理解を正すために口をはさんだ。


永井「彼は亜人の理解者だった。それでいて政府に属しているのはポイントが高い。一、二回死んでも助ける価値はあるよ」

アナスタシア「りよう、価値……?」

永井「そう。利用価値の有無」


 アナスタシアの口からこぼれたその言葉は、まるでその口から初めて発せられたように響いた。期待していた答えとの落差に、瞳からさっきの煌めきがなくなった。永井の冷徹さが大気を通して伝わり、そのせいでアナスタシアの青い眼を氷のように固めたかのようだ。

 すこし離れたところから、チリンチリンとベルの鳴る音がした。スナックのドアが開けられ、何人かの客が談笑しながら店に入っていった。ドアの隙間からカラオケを熱唱する声が流れてきて、アナスタシアの耳まで届いた。ジョニー・サンダースの〈サッド・ヴァケイション〉。調子はずれの歌声は、歌っている本人にはサンダースの声のように聞こえているのだろう。

 永井は何の反応も見せないまま、困惑するアナスタシアを見下ろしていった。


永井「まさか、善意から助けたとでも思ったか?」

546 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:18:44.07 ID:oL93h30zO

 そう言ってから、アナスタシアの表情を見る。返事は聞くまでもなかった。永井は悩ましげに瞼をぎゅっと閉じ、指で押さえた。いったいどうして、こいつはこんな状況なのに情緒的にしか頭を働かせられないんだ。情緒を理由に行動したり、モラルを優先したりするのは、市民権のある人間ーーそう、まさしく人間ーーにしかできない贅沢だってのに。権利のない人間にとって、道徳の優先順位は食うことより下。ブレヒトを読んでなくたって、それくらい理解できそうなものなのに……。


永井「ああ、そういうことか」


 永井はアナスタシアが自分に何を求めているのか悟った。けだるい態度でふたたび下方のアナスタシアを見る。こんどはゆっくりと、貫くように。思考そのものを読みとろうとするかのように、アナスタシアの凍りついた表情を見る。

 理由はあの小楢の木の下ですでに聞いていたのだと永井は思い出した。新田美波の弟だから。それが理由だ。
547 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:21:08.18 ID:oL93h30zO

 容姿や言葉づかいから鑑みるに、アナスタシアは他者と積極的にコミュニケーションをはかる性格ではない。生まれついての性格やロシアと日本でハーフとして過ごした生い立ちが、現在のアナスタシアの人格をかたちづくったのだろう。容姿は秀でているがそれだけに近寄りがたく、たどたどしい口調を理由にコミュニケーションを断念される。そのような人物が、亜人をめぐる国家的な事態にたいしては積極的に関与してみせた。アナスタシアにとって姉との関係性はそれほど重要だということだ。

 永井は美波が姉で良かったと思い、そのやさしさや他者への気づかう性格に心の底から感謝した。こうして駒として使用できる亜人がひとり、手の内にあるのだから当然だ。結果さえ伴っていれば、アナスタシアの善意にも山中のおばあちゃんと同程度には感謝したかもしれない。だが、アナスタシアの介入は特段かんばしい成果はあげず、だからこそスケープゴートにするのがもっとも有益な活用法だったのだが、この思惑もうまくいかなかった。となれば、アナスタシアも中野と同様に佐藤を止めるために仲間にするのがいまのところましな選択肢なのだが、永井はどうにも気がのらない。
548 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:23:35.95 ID:oL93h30zO

 佐藤との戦闘にあたり、アナスタシアが戦力になるか、永井は評価を保留している。本体の戦闘力はともかく、コントロール可能な黒い幽霊は有益だし、仲間はひとりでも多い方がいい。しかし、問題点もある。そっちの方が多いくらいだ。アナスタシアはただでさえ目立つ容姿をしている、しかもアイドル、それも知名度があるアイドルなのだ。スケープゴートにできたなら、これらの点は有効に作用しただろう。容姿と知名度がアナスタシアを追い詰め、永井は注目されることがなくなる。そういう望ましい状況が生まれるはずだった。いまでは、それらはむしろネックになっている。秘密裏に行動しなければならないこの状況では。

 それに、アナスタシアは死ぬのを怖がっている。自分でリセットできない亜人などどう考えても足手まとい。死に際がわからず、銃撃に怯んで動けなくなってしまったり、逆に空気を裂きながら襲い掛かってくる銃弾の群れに無闇に飛び込んでいくかもしれない。

 永井は階下のアナスタシアを無感心な眼で見やった。

 アナスタシアは永井の良心的な部分を見出だすのをまだあきらめてないのか、涙を堪えために細めた眼でなんとか永井を見上げたままでいる。そんなアナスタシアの様子をみた永井の心のなかにだんだんと疎ましさが増しはじめた。同時に、どうやら姉の状態はかなり良くないようだということも感じ取った。記者会見のことやその他の亜人に関することを気にして、おそらくは鬱状態にまでなっているのだろう。

 すっかり動揺していたアナスタシアは、懇願するときのように声を絞り出して、自分が最も尋ねたかったことを口にしてしまった。
549 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:26:12.88 ID:oL93h30zO

アナスタシア「ミナミを、元気にしたくないの?」

永井「それは僕が気にしなきゃいけないことか?」


 冷徹な響きがアナスタシアを打ちのめした。それは非情さが現れた言葉だとアナスタシアは思ったが、つぎに続く言葉でそれは間違いであることに気づいた。


永井「僕がいまどんな状況にさらされてるのか、おまえ、わかって言ってんのか? 佐藤を拘束し事態を収束させなきゃ未来はないんだぞ」


 冷徹ではあったが、責めるような響きはなかった。それでも、アナスタシアの心を苛めるには十分な冷たさを備えていた。永井の不満はアナスタシアの要求そのものにあるのではなく、要求の仕方にあった。アナスタシアの要求は、交渉や駆け引きの要素が微塵もなく、無防備といっていいほど直截的に、美波に救いを与えるように永井に頼もうというものだった。救いは永井のほうが欲しいものなのに。永井からしてみれば、これは無能力の証左以外の何物でもなかった。バカでも独力で佐藤からも亜人管理委員会からも逃げおおせた中野のほうがまだ役に立つ、と永井は心中でひとりごちた。

 結局ただのガキか。永井はアナスタシアへの興味を失っていた。スケープゴート以外の価値を見出だすのは面倒ではじめから乗り気ではなかったが、そのつもりもすっかり消え失せてしまった。

 アナスタシアもそのことは感じ取っていた。そのことに怒るでもなく、アナスタシアは自分を責めた。正しく怒ることをせず、自責に流されるのは楽だった。というのも、アナスタシアは自分が永井だけでなく、美波に対しても、何ら善い影響を与えられないと分かり始めたからだった。
550 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:27:26.77 ID:oL93h30zO

 永井は階下から視線をはずして、スマートフォンを操作した。新着メールが届いてないことを確認すると、ため息をついた。アナスタシアは最後の希望を込めて、永井に訴えかけようとしたが、永井が先に口を開いた。眼はスマートフォンに落としたままだった。


永井「自分にそれができないからって、僕に勝手な期待をかけるな」


 ちょっとした忠告の響き、聞く人によってはアドバイスのように響く声だった。だがアナスタシアにとって、これは宣告に等しかった。いま現時点において、おまえは無意味だという宣告。過去はどうあれ、いま現時点において、おまえはだれに対しても救いをもたらせられない。おまえは存在する、息をする、鼻と口だけ使って、舌は使わず、だれかがおまえに眼をむける、しかし、気にもとめない、すぐに視線はよそへ行く。おまえは存在し、それだけだ。息をする、それだけだ。

 アナスタシアはふらつきながら立ち上がった。両足に力は入ってなく、身体はふらつき、頭が揺れた。倒れないのが不思議だった。やがて、夢みるような心持ちで、無意識に歩き出した。その夢遊病者のような、儚く離れ行く背中に永井が「おい」と声をかけたが、アナスタシアはうつむいて反応を見せないまま歩き、おぼろげな薄明かりを越え、夜闇のなかにいなくなった。

 永井はまた眼をつむった。頭を悩ませてる奴が勝手に姿を消してくれた。不確定要素が去ったいま、永井はひと休みすることにした。


ーー
ーー
ーー
551 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:28:55.16 ID:oL93h30zO

 数時間が経ち、中野がようやく居酒屋から出てきた。サラリーマン風の三十〜四十代の男性数名と連れ添っている。かれらのうちでいちばん太っちょで年かさの男性が両脇を、おそらくは部下であろう二人に抱えられて足を浮かせていた。店前に停まったタクシーまで引きずられながら、おれは運転できるぞー、と喚いている。両脇のふたりはなんとかタクシーに男性を押し込ると、眼鏡をかけたひとりが振り返り中野に快活に別れーーじゃあな、少年!ーーを告げた。


中野「ごちそーさんです」


 中野はタクシーが見えなくなるまで手を振っていた。

 永井はうしろのほうで中野が見送る姿を黙って見守っていた。


中野「サプラーイズ」


 タクシーを見送った右手をぶらぶらさせながら永井の正面まで来た中野は、その手を顔の横に掲げてみせると、そこには自動車のキーがあった。キーワードの輪っかに中指を通している。
552 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:29:57.94 ID:oL93h30zO

永井「スったのか」

中野「そんなことするか。くれたんだよ」


 と言いつつ、中野はだいぶ酔ってたけど、とちいさくつけ足した。


中野「明日休みだって言ってたしな。まあ、あの分だと昼までは起きれんばい」


 居酒屋の駐車場に停めてあった車の運転席に乗り込んだときだった。中野がアナスタシアの不在に気づいて、助手席の永井に尋ねた。


中野「あれ、アーニャちゃんは?」

永井「どこかいった」


 永井はシートベルトを引っ張りながら言った。


中野「はあ!? ひとりで? 女の子だぞ」

永井「平気だろ、亜人なんだから」
553 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:31:23.63 ID:oL93h30zO

 中野は咄嗟にエンジンをかけると不意打つように車を急発進させた。シートベルトを着ける寸前だった永井はダッシュボードに頭をぶつけそうになった。


永井「なんだよ、急に!」

中野「探すんだよ、歩きならまだこの近くだろ」

永井「はあ!? 放っとけよ」


 中野は言うことをきかず、ハンドルを右にきった。赤い車体が幅の狭さにもかかわらず、スピードを出して道路を突き進んでいく。永井は抗議したが、中野は無視した。


永井「わかった、見つけるからいったん車停めろ」


 駅近くまで車が走り、ぽつぽつと人の姿が見えだしたところで、永井が観念して声をあげた。
554 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:33:06.87 ID:oL93h30zO

中野「探してるだろ」

永井「やみくもに走らせても意味ないだろ」

中野「じゃあ、どうすんだ?」

永井「車停めてカーナビつけろ」

 中野は言われた通りにした。起動したカーナビの画面に地図が表示され、現在地の周辺情報が検索可能となる。

 井戸から出したとき、永井は亜人は追われる存在になったとアナスタシアに言った。その説明にうそはなかったが、わざと言わなかったこともある。追われる亜人とは永井のことで、アナスタシアはそうではないということだ。追手の銃声の効果も手伝ってか、アナスタシアはなにも聞かずに黙ってついてきた。疑いを持ったとしても、アナスタシアのスマートフォンはいまも永井が預かったままなので、動画が拡散させれいるか確かめる術がない。自分の正体が世間に露見したと思い込んでいるはずだ。ならば、人気のない場所をしらみつぶしに探せばいい。

 永井は頭は良かったが、この考えは直感的なものだった。トラックに引かれた日、永井もおなじ気持ちを味わっていたから。

 蒸し暑さにうるさく鳴く虫。うんざりするような暑さが今日も夜を包んでいる。訴えるような犬の遠吠えがかすかに聞こえた。

 アナスタシアが歩き去った方角と移動速度を考慮して捜索すべき範囲を決めると、永井はめぼしい箇所をいくつかピックアップする。公園や神社といった夜間に人の気配がない場所を。

 捜索場所を選び終えると、焦れていたのか中野がまた車を急発進させた。

 永井はとっさにダッシュボードに手を置いたので、身体が前に倒れることはなかったが、それでも悪態をつきそうになった。

 こんなことになるなら井戸の底に置いてくればよかった。そう思いながら、永井はようやくシートベルトをつけることができた。


ーー
ーー
ーー
555 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:34:33.45 ID:oL93h30zO

 ドーム型遊具のなかにいると、暗闇のおかげですこしだけ安心して休まった気持ちになる。コンクリートでできた半球形の屋根がすべてを遮断してくれ守ってくれるように思える。例外もあるが。ここにいれば、街灯の緑っぽい光やすれちがう他人の視線から避難することはできる。ただ熱気からは逃れられない。形と材質のせいで、熱気のほうが逃れられないといったほうがいいかもしれない。蒸し風呂とまではいかないが、そうとうな温度なのは確かだ。

 今夜は風がなく、涼むことは望めそうにない。ドームのなかにいるアナスタシアにはなおさら。

 アナスタシアは暑さが苦手のはずだったが、ドームの下で微動だにせず、膝をぎゅっときつく抱き締めて顔を埋めている。額には汗が浮かび、首や背中もしっとりしている。夜の湿気を吸いとりきれず、余剰な水分が全身の皮膚から浮かび上がっているかのようだ。

 アナスタシアは膝を抱えた姿勢のまま、三十分は動かずにいた。眉間を伝って流れた汗の滴が鼻の頭をくすぐったとき、アナスタシアは顔をあげ鼻をすすった。目尻をこすると、汗と涙で手の甲が濡れた。この自分の手を見ても、アナスタシアがこれ以上悲しむことはなかった。悲しむ理由は搾り取られたようになくなっていた。胸のなかに虚無感が拡がっていた。
556 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:35:59.37 ID:oL93h30zO

 とはいえ、人間の心理はひとつの感情が一定のまま長続きするものではない。暑かったり寒かったり、周囲の環境が肉体的負担をかけている場合はとくにそうだ。

 アナスタシアはふと我にかえり、ひどい空腹と喉の渇きを覚えた。

 ドームの丸い穴から外の様子をうかがってみる。ほとんど無意識で、足の向くままにこの公園にやってきたので、周囲がどんな場所なのかはっきり見ておらず記憶になかった。

 穴窓から見えるのは公園の入り口と敷地をぐるっと囲うフェンス、入り口のすぐそばにあるコンクリート製の箱のような建物はトイレだ。トイレの入口横に備え付けられている電灯の蛍光灯は古くなっていて弱々しい白い光をフェンスの向こうにある防災倉庫に投げかけている。地面に草はなく、乾いたむき出しの土が平らに広がっている。お決まりの滑り台やブランコといった遊具。ちいさな公園だった。

 そして、やはり公園の周囲にあるのは住宅地だった。
557 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:37:38.02 ID:oL93h30zO

 子どもたちの遊び場なのだから、人の住む場所の近くにあるのが当然だ。アナスタシアは不安になる。いまはまだ夜で、人のすがたはなく、たまに自転車のホイールの回転する音や自動車の走行が聞こえるくらいだけど、朝になれば子どもたちが公園に遊びにくる、母親あるいは父親もいっしょについてくる、人であふれるほど立派な公園ではないけれど、午前十時くらいにはやっぱりだれかがやってきて、遊具にかけより、すべったりゆれたりする、そのうちドームにやってきて、ゆるやかな曲面をのぼり天辺に立って公園を征服した気分になる子どももいるだろうが穴を通ってドームの内側に入ってくる子どももいて、そしてそこでアーニャを見つけてびっくりする。

 見つけたのは亜人だから。

 もうだれもアーニャをアイドルとして見てくれない。

 ささやかな夜の中にアナスタシアはひとりぼっちでいた。

 どこにも行き場がなく、しかしここにとどまることもできない事実をアナスタシアはあらためて思い知る。絶望感がアナスタシアを襲う。
558 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:38:59.83 ID:oL93h30zO

 自転車の走行音がまた聞こえる。スピードはそれほど出てなく、タイヤがアスファルトを擦る音がやたら大きく響いた。角を曲がったときに鳴るあの特有の音だ。おそらく、公園ちかくに停車したのだろう。ドアが開き、閉められる音がたてつづけにして、だれかが公園へ入ってきた。

 アナスタシアは緊張で心臓をバクバクさせながら、トイレによっただけ、と思い込もうとした。身体を縮こまらせ、呼吸をとめて、気配を消そうと力んだ。

 足音は迷いないリズムを刻みながらアナスタシアのいるドームまで近づいてきた。ざっざっという土を踏む音がまっすぐアナスタシアの耳まで届く。

 アナスタシアは耳を塞ぎ、足音など聞こえないふりをしようとした。足音がいよいよドームのすぐそばまでやって来たとき、アナスタシアはやっとドームの穴から逃げ出きゃと顔をあげた。
559 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:40:49.79 ID:oL93h30zO

 顔にむかって光が投げかけられた。瞳に光線がまともにぶつかり、アナスタシアは反射的にまぶたをとじた。光が眼に滲みる。ぎゅっと搾るようにまぶたを閉じたので、まぶたの裏側の血流を感じた。

 ドームを覗きこんだ人物は光源をさげ、トイレを捜索しているもうひとりの男に向かって叫んだ。


永井「中野、いた」


 その声にアナスタシアが眼を開いた。

 動く気配を察したのか、永井はふたたび光源をアナスタシアに向けた。

 永井はドーム内のむわっとした空気を肌で感じ取って、いった。


永井「よくそんなところにいられるな」


 永井はスマートフォンのライトを消し、ドームから離れた。入れ替わるように中野がドームの入口から顔をのぞかせアナスタシアの姿を認めると、おおきく息を吐きながらいった。


中野「あー、よかったー。冬だったら凍死してるぜ」


 ドーム内の熱気を感じた中野は手に持ったうちわをバタバタと扇いだ。扇部が外に手招きするのように揺れている。風がアナスタシアのところまで流れてきたが、もともとの空気が暑いので涼風とはいかなかった。
560 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:41:56.51 ID:oL93h30zO

 アナスタシアは頭を下げながらゆっくりと外へ出てきた。中野はいっそう強くうちわをあおいだので、銀色の前髪が持ちあがり、額やまぶたをくすぐった。ふらつきながら立ち上がると、喉と胃の訴えがふたたび強くなってきた。
 

中野「永井、飲み物三つな!」


 アナスタシアをあおぎ続けながら、公園の入り口横にある自販機のまえにいる永井にむかって中野がさけんだ。

 アナスタシアのところからでも永井がびくっと身を震わせるのがわかった。永井があわてた様子でふたりのところまでもどってくる。


永井「大声出すなよ。見つかったらどうすんだ」


 声を潜めた永井の文句は、電車のなかでさわぐ子どもを叱るつけるときの口調だった。


中野「夜中だし、平気だろ」


 中野は顔を永井に、うちわをアナスタシアにむけながら言った。
561 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:43:46.73 ID:oL93h30zO

 永井はあきらめたようにうなだれた。永井の右手には五〇〇ミリリットルのコーラのペットボトルが一本あるだけだった。


中野「おれらの分は?」

永井「おまえが急に叫ぶからだろ」


 永井はなじりたくなるのをなんとか我慢した。

 中野が永井に文句を返すなか、アナスタシアは不安がぶり返し、のど元までせりあがってくるのを感じていた。

 永井と中野に再会したことで、アナスタシアはとある思いを抱きはじめていた。覚悟を決めなければならないという思い。亜人として生きていく覚悟、佐藤と戦わなければならない覚悟を。

 あたりまえのことだが、このような覚悟を決めるということはアナスタシアにとって、とてつもない困難だった。亜人のテロリストと戦うしかないという現実を、どうのみ込めばいいのか。アナスタシア十五才の少女でしかないのに。途方にくれ、もうひとつの現実に対する覚悟、自分はもう亜人として世間に認識されているということに考えを向けると、アナスタシアはもうどうしようもなくて、恐怖する。おののく。その容姿のせいで、ものめずらしい目で見られることは頻繁にあったが、これからは決して見られてはならない。すべてを剥ぎ取られた姿を見られてはならない。剥奪されてしまった。保障もない、権利もない、人間ではない、命だけはあって命しかない、亜人。

 美波の弟とおなじになってしまったが、彼は決してアナスタシアを助けてくれない。それどころか気にもとめない。犠牲にされるのがせいぜいだろう!
562 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:44:49.33 ID:oL93h30zO

中野「で、これからどうする? まずはアーニャちゃんを家に帰さなきゃなんないよな」


 出し抜けに中野の声が耳に届き、アナスタシアは顔をあげた。「えっ」という困惑の声が送りつけられた涼風に跳ね返される。風が鼻腔を通っていく。中野はうちわを左手に持ちかえていた。アナスタシアが考えに耽っているあいだも、うちわをあおぎつづけてくれたので、アナスタシアの額の汗はすっかり引っ込んでいた。

 中野がアナスタシアを見やった。さっき洩らした声が聞こえたようで、どうして驚いたのかとすこし訝しげに眉をよせた。が、すぐに得心がいったように中野が声をあげた。


中野「アイドルが男に送られるのはまずいか」

永井「どこかの駅にでも置いてくればいいだろ」


 永井が知ったことかという態度をあからさまに表情に示して言った。


アナスタシア「あ、あの!」


 またもや言い争いになりそうな空気を察し、アナスタシアは声をおおきめに出した。


アナスタシア「アーニャはもう、亜人だってバレてて……」

中野「そうなの?」

永井「気づいてなかったのか?」


 永井が信じがたいものを見る眼で中野を見た。
563 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:46:08.58 ID:oL93h30zO

中野「いや、アーニャちゃんが亜人だってのはわかってるよ。でも、居酒屋で亜人の話になったときもそんな話は全然なかったぜ」

永井「ていうか、こいつの正体ばらしてないし」

アナスタシア「えっ!」


 こんどはアナスタシアが驚いて眼を見張った。顔をぐいっと永井のほうにつきだし、話の続きを聞こうとする。


永井「セーフゾーンにいられなくなったのに動画を公開しても意味ないだろ」

中野「動画ってなに?」


 永井は無視した。アナスタシアにしても中野の疑問にこたえる余裕はなかった。

 心のなかでふつふつと気持ちが湧き起こる。アナスタシアはようやく、あまりにも自分勝手な永井に怒りはじめていた。飲み物を自分の分しか買ってこなかったのもむかむかする。しかし、同時に安堵の気持ちもあった。ふたつの気持ちが拮抗し、アナスタシアの表情が凝り固まった。

 どっちの態度を面にあわらわすか決められずにいたアナスタシアが、永井があるものをズボンのポケットにしまおうとするのを見たとき、思わず叫んだ。
564 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:47:23.02 ID:oL93h30zO

アナスタシア「アーニャのおサイフ!」


 永井はとくに驚いた様子をみせなかったが、大声には顔をしかめた。財布がアナスタシアに投げ返される。中を確かめると、わずかに硬貨が残されているだけで紙幣が一枚もなかった。


アナスタシア「お金がないです」

永井「こっちには資金が必要なの」

中野「おまえ、金返せよ」


 永井は中野にも財布を投げた。案の定、財布の中身は空だった。


永井「おまえ、ぜんぜん金持ってないな」


 永井はペットボトルの蓋をひねりながら平然とした調子でいった。

 ついにアナスタシアの堪忍袋の緒が切れた。永井の手からペットボトルをひったくる。開けかけの蓋がすっ飛んだ。アナスタシアは空にしてやるつもりでコーラを一気にあおった。しゅわしゅわとコーラの甘さが口に広がり、舌を満足させる。が、流し込まれた炭酸水が定められたように喉で弾けると、アナスタシアはむせてごほごほと咳き込んだ。
565 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:48:37.36 ID:oL93h30zO

 永井と中野はふたりして呆然としていた。アナスタシアが鼻と口を手でおおって上を向いたとき、永井は文句をぶつけようとアナスタシアに一歩詰め寄った。

 公園に盛大な腹の音がたっぷり五秒間響いた。

 音源はアナスタシアの腹だった。空腹がみずからの存在を思い出させようとしているかのような大音量。むかっ腹とすきっ腹が混じりあった状態にアナスタシアはどうしたらいいかわからず、羞恥に頬を赤く染めた。


永井「でかいし、長い」


 永井は勘弁してくれと思いながら言った言葉は、アナスタシアに追い討ちをかけた。


中野「ダジャレ?」

永井「うるさい」

アナスタシア「うぅぅ〜……」


 とうとうアナスタシアが大声で泣きはじめた。声量を押さえる術を知らない子どものような全力の泣きかた。
566 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:50:07.93 ID:oL93h30zO

永井「中野、車まで連れてってやって……」


 永井はなにもかも諦めたかのように両手で顔をおおった。

 中野は言われて通りにアナスタシアを車まで連れていった。中野は歩きながら食べ物の話をしてなぐさめる。アナスタシア泣きじゃくりながらもすこしは落ち着いた。


中野「車に食べ物あるから、それ食べよう。居酒屋の裏メニューを持ちかえりにしてもらったから」

アナスタシア「ケイはひどいです……おなかが減ってるの、アーニャにもわかってます……」

中野「うんうん、クズだよな、あいつ」

アナスタシア「そこまでは……言ってないです……」


 怒ったとはいえ、侮蔑を口にすることにアナスタシアは賛同できなかった。

 公園に残った永井はアナスタシアが持っていったペットボトルの蓋を探していた。地面をスマートフォンのライトで照らすと、真っ赤な蓋がすぐに見つかった。蓋を拾おうとしゃがむと、どっと疲れが出てきた。

 永井はしゃがんだまま、おおきくため息をついた。こんなことになるとは予想だにしてなかった。バカだろうがガキだろうが貴重な戦力になるだろうから連れてきたのに。中野も、アナスタシアといっしょに井戸に突き落としていたほうが良かったかもしれない……。

 クラクションの音が夜の公園に鳴り響いた。
567 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:52:06.22 ID:oL93h30zO

永井「あー、もう!」


 さすがの永井もついに大声をあげた。いそいで車まで走っていく。助手席に乗り込むと、ドアを乱暴に閉める。

 車内にはカレーの匂いが漂っていた。持ちかえり用の白い容器から中野がカレーをすくって口に運んでいた。


永井「居酒屋で食っただろ」

中野「これすげえうまいだって」


 中野は永井に容器を渡した。手に持つと、容器はまだ温かった。カレーの匂いと温かさは永井の空腹を充分に刺激した。カレーはごろごろした人参やじゃがいもが入った家庭でつくられるいたって普通の代物だった。だが、ひとさじ口にいれると、驚いた。白いごはんと思っていたのは、卵チャーハンで、味つけはされていないが、ぱらぱらに炒められていて、カレーと混ぜると、とてもうまい。山中のおばあちゃんのカレーよりおいしいかもしれない。永井はあっという間に平らげた。

 ふたつあるドリンクホルダーにはペットボトルのお茶がいれてあった。永井は未開封のペットボトルを持ち上げ、一口飲んだ。そのとき、ミラー越しに後部座席のアナスタシアの様子が見えた。
568 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:55:45.71 ID:oL93h30zO

 アナスタシアがじっくり味わいながらカレーを食べていた。もう涙は流してなかったが、眼はまだ赤く、ときおり鼻をすすった。アナスタシアは食事に割り箸を使っていた。なぜカレーを箸で食べるのかと疑問に思ったが、すぐに解消した。アナスタシアのカレーにだけアジフライが入っていた。作られてからそんなに時間が経ってないのだろう。アナスタシアがアジフライを齧ると、サクッという衣を噛む音がした。

 口の中のものを嚥下したアナスタシアがコーラを飲んだ。そしてふたたび食事を再開しようとしたとき、ミラー越しに永井と視線がかち合った。


アナスタシア「や、あげない」


 アナスタシアは永井からカレーを遠ざけながらいった。


永井「いらないよ」


 永井は呆れながら後部座席にペットボトルの蓋を投げた。蓋はアナスタシアのおでこに当たったらしく、ちいさく唸るような声が聞こえてきた。
569 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:58:28.21 ID:oL93h30zO

中野「永井、これ、おまえの姉ちゃんだろ」


 中野が見せてきたCDジャケットには水着姿の美波が印刷されていた。


永井「なんでこんなのがあるんだ?」

アナスタシア「こんなの……?」

中野「この車を貸してくれたおじさんの娘さんがファンなんだって。アーニャちゃんのCDもあるし、あとあれ、ラブライブのやつも」

アナスタシア「ラブライカです!」

中野「あ、ごめん」


 アナスタシアに謝ったあと、気を取り直して中野はいった。


中野「水着ってことは、夏の歌か。TUBEみたいな」

アナスタシア「コウ、ミナミはアイドルです……」

永井「それって違うの?」

570 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:59:48.98 ID:oL93h30zO

 永井の純粋な疑問にふたりは眼を見開いたまま絶句した。


アナスタシア「ケイは……ミナミの弟、ですよね……?」

永井「決まってるだろ」

中野「なのに聞いたことないのかよ?」

永井「ない」

中野「姉ちゃんなんだろ、おまえの」

永井「家族の職業なんて、職種は知っててもふつうは内容まで知らないだろ」

中野「アイドルはふつうじゃねえだろ」

永井「それより、はやく車だせよ」

アナスタシア「コウ、いますぐCDかけてください!」

中野「よしきた」


 中野はCDをオーディオに飲み込ませた。ローディングがおわり、スピーカーからイントロが流れ出す。


永井「だから、車……」

アナスタシア「ミナミの歌が終わるまではダメ!」
571 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 22:00:27.84 ID:oL93h30zO

 曲を聴いているうちに、永井は歌詞の内容が夏の季節感とはまったく関係ないことに気づいた。それは中野も同様だったらしく、曲がおわると「夏っぽくないな」とこぼした。


中野「でも、かっこよかったよな」

永井「あの曲調でなんでこんなジャケットになるんだ?」

中野「歌詞は?」

永井「いや、どうだろ……」

アナスタシア「ニェット……ちがいます、そうじゃないです……どうでもいいところを気にしないで、もっとまじめにミナミの歌を聴いてください……ケイ、〈ヴィーナスシンドローム〉というのはそもそも……」


 アナスタシアの講釈が鬱陶しくなってきたので、永井は別のCDをオーディオにかけた。美波とアナスタシアのユニット〈ラブライカ〉の曲。


 ーーひとりよがりの冷たい……ーー


 Aメロの最初の歌詞を耳にした中野が驚いた様子で永井のほうを向いた。


中野「これ、おまえのこと?」

永井「雨にかかってんだよ、それは」

アナスタシア「もぉー!」


 曲とは別のところばかり気にする永井と悪気がないために盛大に勘違いする中野のコンビに、アナスタシアはとうとう音をあげた。
572 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2018/02/18(日) 22:12:22.35 ID:oL93h30zO
今日はここまで。

話は進みませんだが、とりあえずトリオ結成ということで。アーニャには申し訳ないですが、このクズとバカとガキのトリオだと、人格がまともなアーニャがメインのツッコミ役になっちゃいますね。というわけで、次回も中野がボケて永井がスルーしアーニャちゃんがツッコミます。

卵チャーハンカレーの描写は、殊能将之『美濃牛』からそっくりいただきました。で、『黒い仏』をも読んだんですが、これは、その……マジっすか……。後期クイーン問題にラブクラフト……。凄すぎて絶句しました。
573 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/03/19(月) 13:36:59.33 ID:RhM68ior0
おつ

アーニャは離脱するのか?と読んでる途中に思ったけど
このまま3人で行動する感じみたいね

アーニャは男二人と違って正体が誰にもバレてない強みがあるけど
それが生きる場はあるかな
574 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:20:56.80 ID:7BzTB0Y9O

 今日、私は、第二ウェーブの開始を決意した。

 人間は省みることなく我々亜人への弾圧を加速させている。

 第二ウェーブのテーマは、“浄化”だ。

 田中君が拘束中見聞きした情報等から、陰謀に荷担した組織の主要な面々十一名をリストアップした。

 我々は、この十一名を暗殺する。


ーー
ーー
ーー
575 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:22:54.97 ID:7BzTB0Y9O

中野「ネ、ネ……ネブ……」


 中野は手に持ったアナスタシアのCDジャケットと格闘していた。小学校時代に習得したはずのローマ字読みの知識を動員し、〈Nebula sky 〉なるアルファベットの並びから、どうにか意味を汲み取ろうと必死になっている。


中野「ネブラ……スキ、カ?」


 しばらく眼を凝らしていると、中野の頭のなかでひらめきが起こった。そいつはどう考えてもぴったりくる答えだった、それ以外考えられない、だから歌詞の内容もすっぽり抜け出した、なんてったって英語なのが最大のヒント、いや答えそのものだ。


中野「あっ、そうか、アメリカか!」

アナスタシア「ニェット……アーニャ、ロシアと日本のハーフです……」


 アナスタシアがすかさず訂正する。その声には、わずかながらに無意識の失望の色が滲んでいた。


永井「スペルがちがうだろ。〈Nebula〉は星雲って意味だ」


 意外にも永井がアナスタシアに味方するように中野に注意した。中野は永井のほうを向いた。


中野「せいうんって……線香の?」


 ふたりの脳内で同時にコマーシャルソングのメロディーが再生された。「幸せの青い空」という歌詞もいっしょに。


永井「……それでいいよ、もう」

アナスタシア「よくないです!」


 アナスタシアの叫び声が車中に響いた。永井はうるさく思った。もう、すっかり夜だった。
576 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:24:47.66 ID:7BzTB0Y9O

 三人を乗せた車は高架下の駐車場に停めてあった。道路を行き来する車はなく、高架は屋根のように覆い被さっていた。高架の両側に並んだ平屋の民家も、近くにある踏み切りも、深夜なので真っ暗闇に呼応するように沈黙していた。音がしているのは永井たちがいる車の中だけだった。

 スピーカーの音量は絞ってあったが、中野とアナスタシアがぺちゃくちゃくっちゃべっていて、これが永井にはうるさかった。歌詞の解釈やレコーディング時の裏話などをアナスタシアは嬉々として語った。中野はふんふんと頷きながら感心したように話を聞いていた。アイドル本人が後部座席から歌っている曲の解説をしてくれるのがどれほど幸福なのか、中野はよくわかっていない。

 こいつら、いつまで話してるんだ。永井はいつまでも寝静まらないにふたりにげんなりしていた。

 中野もアナスタシアも親の言いつけを破ってはじめて夜更かしするときのように元気だった。肉体労働者らしい体つきの中野はともかく、細身の少女でしかないアナスタシアのどこからこんな元気が湧いていくるのか……。

 そこまで考えたとき、そういえばアナスタシアは姉さんとユニットを組んでいたっけ、と永井はいまさらながら思いあたった。
577 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:26:31.44 ID:7BzTB0Y9O

 幼いころは姉と遊んだ、トランプとかボードゲームとかで。こういったテーブルゲームの類いで姉と対戦したとき、永井の記憶では、いつも自分が勝っていた。それは、けっして負けがくやしくて忘れ去ったわけではなく、事実負けたのは最初の数回くらいで、あとは全部勝っていたからだった。

 美波は負けず嫌い。つまり熱しやすい性格だった。だから、敗色が濃くなってきたときにチャンスのようなものをそっと差し出してみると、すぐに飛びついてくるのだった。そこに罠を仕掛ける。あるいは、ほんとうにチャンスを差し出す。二回、三回と、逆転の可能性をちらつかせ、こちらもそれを必死にものにしようという懸命さをみせ、接戦を演じてみせる、確実に勝てる切り札を手札に隠しながら。そうすると、美波は地雷を踏んでしまったかのように負けてしまうのだ。

 たかがゲームだから、姉といえど、その感情を利用することにとくにためらいはなかった。永井からしてみれば、感情をよくあらわした美波の表情は手札のカードとおなじようなもので、見えるものを見えないふりするつもりなどまったくなかった。そうやって永井は姉とのゲームで勝ちを積もらせていったが、その結果、とんだしっぺ返しをくらうことになった。

 美波は負けを清算するため、フィジカルな勝負に切り替えた。家の前の道路での競争。いやがる弟を、姉が持つ強制力、先に生まれたというだけで持てる力をつかって外に引っ張りだし、せーので角のところまで駆け出す。当然、美波が勝つ。年上だし、運動するのが好きだからだ。かけっこは一回では終わらない。それまで負けた分を取り返すべく、何度もよーい、どん、で走り出す。
578 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:27:53.33 ID:7BzTB0Y9O

 九月初めの夕暮れ時。濃いオレンジ色の夕陽に照らされて、走るふたりの影がのびる。全力疾走は十回を越える。ついに永井が音をあげた。半分怒ってもいる。美波は水筒から麦茶をごくごく飲んでいた。勝利を味わうように。起き上がった永井はぷいと背かを向け家へと歩いていく。ドアを開けたところで、美波から声がかける──「ねえ待って、まだあと三十回は……」──永井はドアを閉めた、ばたんと大きな音がした。

 その後、姉弟のあいだでゲームが行われたことは一度もない。


永井「修学旅行じゃねえんだぞ。さっさと寝ろよ」


 永井は眠気をおさえながら言った。


アナスタシア「アーニャ、夜はちゃんと寝てました」

中野「おれ、行ったことないや」

アナスタシア「ダティチョー……! ほんとう、ですか?」

中野「金なくてさ。クリスマスや正月もなんもなかったな」

アナスタシア「コウのパパとママは、どうしてたんですか?」

中野「んー……」

永井「貧困エピソードとかいいから」


 永井があくびを噛み殺しながら、じれったそうに言った。眼をしばたたかせると、不機嫌そうな顔つきになった。
579 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:29:30.40 ID:7BzTB0Y9O


アナスタシア「ひどいことを言っちゃ、ダメです」


 アナスタシアは頭を突きだし、大声を出した。その顔は永井のすぐ横にあり、青い眼が永井の耳の穴と直線で結ばれた。アナスタシアはヘッドレストを両手で掴み、あごを親指の付け根のあたりに置いて支えていた。

 永井はいきなり座席を倒した。勢いよく倒れこんでくる背凭れにはね飛ばされ、アナスタシアは前後部の座席に挟まれるかたちとなった。

 アナスタシアはうーうー呻きながら、抗議の声をあげた。


アナスタシア「ウー、せまい! ケイ、せまくてくるしい、です」

中野「いじわるすんなよ」


 中野はガキのケンカをながめるときのような心持ちで言った。永井は眠りにつく寸前のような面持ちで、その言葉を無視した。座席の背もたれをアナスタシアがぐいぐい押してくる。永井が座席自体を後ろにスライドさせる。隙間はいっそう狭まり、アナスタシアの身動きは完全に封じ込まれてしまう。

 そこまでやったところで、永井は閉じていた瞼をふっと開いた。


永井「なんかめんどくさくなったきた」


 自分のやったことが急に馬鹿馬鹿しくなったのか、永井はそうつぶやいてから、座席の位置を戻した。背もたれは倒れたままだったが、息がつまるほどの狭さがすこしはましになった。
580 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:31:02.58 ID:7BzTB0Y9O


永井「おばあちゃんのトコにいたかったな」


 永井は充電中のスマートフォンをいじりだした。画面の放つ白い光が永井の顔を照らして、闇に浮かべた。


永井「日付変わってる……あ、あれの日だ。知ってる? 子供向け番組、人形が歌うの。けっこう面白いんだよ」


 永井がぶつくさつぶやく後ろではアナスタシアが座席のあいだから抜け出そうと、ずりずり身動ぎしている。アナスタシアが座席から抜けた右手をばたばたさせる。永井が座席をずり下がってアナスタシアの手のひらをかわした。


中野「やる気だせよ」

永井「やだ。もうおまえらふたりで全部決めていいよ」

中野「じゃあ、まずアーニャちゃんを帰して……」

永井「んー……」

中野「なんだよ? おまえ、アーニャちゃんも連れてくつもりか?」

永井「微妙」


 そうこたえた永井は、ずり下がりすぎて背もたれにほとんど肩だけ預けていた。ちょうどそのとき、アナスタシアの頭がすぽんと抜けた。ぜえぜえと疲れた様子をみせ、一息つこうと反対側の座席にある飲み物に手を伸ばすが届かない。アナスタシアの指がペットボトルを何度もかすり、二の腕がぴりぴりと痛くなってきた。永井が話を先に続けた。 
581 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:52:11.84 ID:7BzTB0Y9O

永井「暗殺リストが公開されたいま、佐藤と戦うなら待ち伏せがベストだけど、こいつの容姿は目立つ。不向きこの上ない」

中野「暗殺リストってなんだよ?」

永井「なんだよ、アイドルって。しかもけっこう有名だし……」


 うつらうつらしていた永井はすこし意識をはっきりさせ、中野に答えを返さず、そして、アナスタシアのみてくれを貶しはじめた。

 ロシアでも日本でも、その容姿をもの珍しく見られたり、実際に言われたりしてきたアナスタシアだが、待ち伏せに向かないからという理由で文句を言われたのははじめてだった。これには戸惑った。が、アイドルのことまで永井が文句をつけ始めると、さすがに抗議のひとつでもあげようという気持ちになった。放っておいたらまた何を言われるかわからない。アナスタシアは決心した。永井の頭をかるくはたいてやろう。痛くしないから、そんなに怒らないはず。言っただけではきかないのは目に見えてるし、それに、これまで永井にされたことを思えばはたくくらいはやってもいいと思う。

 アナスタシアはてこずりながら、警戒し威嚇する野良猫をそっとなでようとするときのように、永井の頭の上にゆっくり手を持ってきた。そして一瞬だけ手をとめ、それから意を決してふっと手を振り下ろす。ハンカチのように頭におろされるはずだったアナスタシアの右手は、永井によって思いっきり弾かれた。柏手の音が車内に響きわたった。アナスタシアの右手はぐんと半回転し、運転席の中野の額を打ちつけた。
582 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:54:28.10 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「いたい!」

中野「いてっ」


 手のひらと手の甲の両方に痛みが走った。中野のほうは硬い前頭骨に守られていたので、反射的に言葉が出ただけだった。中野は額を擦りながら頭を後ろにまわす。アナスタシアは下唇を噛みながら、赤くなってヒリヒリしている指を中野に見せてきた。

 
永井「どいつもこいつもバカばっか」


 永井はふたりにスマートフォンで動画を見せた。

 動画には佐藤が映っていた。亜人の人体実験に関与した十一名の顔写真と氏名、所属する組織とその役職名がプリントアウトされた用紙を佐藤は手に持ち、彼らを暗殺すると宣言していた。
 

佐藤『第二ウェーブは第三ウェーブへのカウントダウンでもある』


 佐藤の背後には奥行きのない空間があった。プロジェクター合成された晴れた日の公園の風景。この背景は、その明るさによって、人物の不在が際立っていた。

 佐藤が話を続ける。


佐藤『このウェーブ終了までに国が亜人弾圧の姿勢を改めていなかった場合、我々は第三ウェーブへコマを進める』

佐藤『第三……それが、最終ウェーブだ』


 佐藤はいちど言葉を切り、頭を下げる。頭を上げると、カメラに視線を戻し、こう宣言した。


佐藤『私がこの国を統治する』

佐藤『陳腐な夢に聞こえるか? 私はやる』


 佐藤の口角が笑みを作るようにあがり、動画は終了した。

 中野もアナスタシアも、しばらく言葉を失っていた。いまや二人とも、佐藤が暗殺を実行している様子──開始から達成までを鮮明に──思い浮かべることができた。
583 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:56:41.37 ID:7BzTB0Y9O
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584 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:59:23.16 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「アヂン、ナッツァッチ……じゅういち、人……」


 アナスタシアは数を数えてみた。十一人分の命、十一人分の命がゼロになったときのことを考える、そのときはもっと多くの、夥しいと言っていいほどの命が消える、そんな事態が起きる、ほとんど確信にちかい思い、ふと《戦争》という言葉が頭をよぎった、それは文章になった、それを読んだのは誰かの肩ごしから、──パパ? ママ? グランパかグランマ? それとも、まったく別の人? フミカもよく本を読んでるけど、覗きこんだことはないからちがうはず──こんなふたつの文章を。


《戦争はなくならないんだ。石のことをどう考えるかというのと同じだ。戦争はいつだってこの地上にあった。人間が登場する前から戦争は人間を待っていた。最高の職業が最高のやり手を待っていたんだ。》

《戦争がなくならないのは若者も年寄りもみんなそれが好きだからだ。》


 次いで、もうひとつ、戦争に関する文章が思い浮かんだ。いつどこで読んだのかはもちろん、肩越しに読んだか読み聞かされたのかさえ思い出せなかったが、それでも文章は思い浮かんだ。まったく、自分でその文章を考えついたかのような思い出しかただった。


《ともかく万事がこう、やけくその方向にいっちまったからには、いよいよ最後の、一か八かの手段を試みるしかない、そう覚悟を決めた、自分の力で、僕ひとりの力で、戦争を中止させるのだ! せめて自分のいるこの一隅だけでも。》
585 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:00:57.90 ID:7BzTB0Y9O

 亜人が三人も集まったのなら、尽きることのない命が三つも集まったのなら、《戦争》を、いや《戦争》が起きるのを止められるかもしれない。でも、そうだとしても、覚悟が決まらないし、勇気が足りない。美波がいたらと考え、すぐ思い直す。遠ざけねばならないのだ、争いや殺しといったおそろしいことから。アナスタシアはペシコフを亡くしたときの祖父の姿を思い出す。あきらかに心の均衡を崩していた、正気でいたくないという願望、他人事ではない死の恐怖。美波もそうなっている。佐藤のテロせいで、亜人の国内状況はひどくなるし、亜人の家族にとってもひどくなる。祖父のときよりもっとひどく、長く続く状況。

 アナスタシアとちがって、中野は決然とした態度で永井に身を乗り出して大声で言った。


中野「いますぐ佐藤のトコに乗り込もうぜ!」

永井「バカかよ!」


 永井は手で顔をおおい「あぁ……」という半分呻くような声を洩らした。それから、背もたれとともに身体を起こした。


永井「いいか? 現状僕らに勝機はない」


 ふたりの大声に驚いたアナスタシアは背もたれから解放されると、あわてて中野の後ろの席へぽんとお尻を移して逃げた。


永井「佐藤の居所がわかってそこに乗り込んだとして、糞ガキ三人になにができるよ? だいいち奴を止める方法は? 檻にでも入れるか? その檻はどうする?」

中野「できることはないってのか!?」

アナスタシア「クソガキ……」

永井「ないだろ、ほとんど」

アナスタシア「三人……?」

永井「僕らの持ってるカードは次の二枚ぽっちだ」

アナスタシア「さん……」
586 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:11:12.16 ID:7BzTB0Y9O

 永井は指を二本立てた。中野とアナスタシアはその指を見ながら永井の言葉を待った。永井がふたりの方を向いて、言った。


永井「ひとつ目は……僕がそこらの大人なんかよりよっぽど頭がいいってとこだ」


 永井の答えに、ふたりは同意とは微妙に異なる沈黙を返した。同意できなくないが、できればしたくないという沈黙だった。そのような空気に気づかないまま、永井は話を続けた。


永井「僕らは麻酔銃も亜人を閉じ込める部屋も持ってないが、そこは工夫しだいだ。まえ、生涯無力化する手段があるって話しただろ」

中野「したっけ?」

永井「したの!」


 永井はアナスタシアに顎をしゃくって、中野の視線をうながした。


永井「こいつがいた古井戸の跡には空気がなかった。酸素がないと人は瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ。こうやって周りを観察すれば、戦う手段は案外転がってるかも」

中野「いたっていうか」

アナスタシア「ケイに落とされました」


 アナスタシアははっきり言葉にして反論したが、永井は無視して話を続けた。


永井「二つ目は、戦うための最大のスキルをすでに持っているというとこ。例えば、こういうアンケートを取ったとする」
587 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:12:45.56 ID:7BzTB0Y9O

《戦場に次の三つのうち、ひとつだけ持っていけるとしたらどれを選びますか?》


@修練により鍛え上げられた屈強な肉体
A経験からあらゆる戦略を蓄積した頭脳
B不死身


中野「屈強な肉体だろ」

アナスタシア「コウ、二番だと思います」

永井「そう、すべての人が不死身を選ぶに違いない」

アナスタシア「エ!?」


 アナスタシアは永井がさも当然のように頭の良さを自慢していたたから──永井自身はそれが自慢だとは思っていない。ただの事実なのだ──てっきり答えは二番だと思っていた。そのことを永井に聞いてみたら、経験からって言っただろ、と返ってきた。

 永井はなかばムカつきながら、「聞くほうもヘタなのかよ」と言い捨てた。

 憤慨するアナスタシアを中野がなだめ、おさえる横で、永井がひとりごちるように言った。


永井「それらをふまえて僕らには、あの戦いに介入してできるなにかがあるはず……」


 思考が内へと向かっていくように、永井の声も最後のほうは小さくしぼんで、つぶやくようになった。

 しばらく、といってもそれは、ほんのすこしの秒数だったが、永井が言葉を切ったときの沈黙は、耳が痛いくらいだった。

 気を取り直した永井が、話を再開する。口調はどこか自嘲の色を帯びている。


永井「だが、佐藤にはそれを遥かに上回る人員・物資・経験があるんだぞ。僕らだけで戦う? ハッ、笑えるね」
588 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:14:19.93 ID:7BzTB0Y9O

 高架線の下は暗く、高架橋にのっているコンクリートできた道路は、ぎゅうぎゅうに押し固められたひとつの夜の塊のようだった。アナスタシアは永井の横顔をみた。動作中のオーディオのほのかな青色の光が、わずかにふくらんだ前髪、鼻梁から顎までにかけての輪郭をよわよわしく浮かび上がらせている。


永井「つまり、僕らが今やるべきは何か?」


 永井はふたりに向き直り、きっぱりと言った。


永井「仲間を探すことだ。それも強力なサポートが可能な大人に限る」


 永井の言葉を聞いた中野はニカッと笑い、「それならアテがある」と自慢げに言った。

 ほんとかよ、と半信半疑の永井のななめ後ろで、アナスタシアは頼りになる大人について考えていた。まっさきに挙げられるのは、家族を除けばプロデューサーしかいなかった。だが、彼のことを口には出さなかった。大きな身体をしているが、乱暴なこととは無縁の人で、だからアナスタシアは美波や仲間たちとおなじく、プロデューサーも、危険で物騒なことから遠ざけたかった(それに永井になんと言われるか。芸能関係者の名前を出したところで、またバカと言われるだけだ)。

 永井のスマートフォンがふるえて、充電が完了したのを知らせる。永井は充電器の線を引き抜くと、オーディオからCDを取り出した。それからふたたび座席の背もたれを倒し、眼を瞑って、本格的な眠りにつこうとする。それにつられて中野の伸びをし、背もたれに身体を預けた。
589 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:18:43.50 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「ケイ」


 アナスタシアは首をつきだして、顔を見下ろしながら永井に呼びかけた。


アナスタシア「アーニャは、どうすればいいですか?」

永井「さあね」


 永井は瞼を閉じたままぼやいた。いまにも眠りに落ちそうな声。中野の瞼はすでに閉じられている。


アナスタシア「わたしも、サトウと……バロッツァ……」

永井「どっちでもいいよ」

アナスタシア「どっちでも……?」

永井「おまえが戦闘に参加するとして、メリットとデメリットが同じくらい。だから、どっちでもいい。ぜんぶ自分で考えて決めたら?」


 永井の声に覇気はなく、しぼんでいくようだった。しばらくすると胸が規則正しく上下なせながら寝入ってしまった。アナスタシアが戦おうが戦うまいが、永井にとってはほんとうにどっちでもよかった。深く眠っている中野の寝息と永井の浅い寝息が重なりはじめているのが聞こえた。
590 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:20:45.06 ID:7BzTB0Y9O

 宙吊りの状態。アナスタシアは二つの極のあいだで惑っていた。ひとつは、たとえるなら上方に位置するほうで、そこでは無数の輝きが空間いっぱいに星の海のように広がっている。視界の下から上まで光に満たされ、光を見る自分自身も輝きのひとつになっている。対するもうひとつ、下方に存在するのは死者たちだ。雨に濡れた地面に横たわる死体の反応の無い眼、スプリンクラーが血を洗い流している研究所の通路、墜落させられた旅客機、崩れ落ちるビル、瓦礫の下の人びと、SAT隊員五十名。死者たちのリストは続く。あらたに十一名が加わる可能性。死者の長い列は続いてゆく。

 このようなリストの存在をいつから意識し始めたのか、アナスタシアは疑問に思った。佐藤による暗殺リストの公表が形を明確にしたわけだが、本質はすでにアナスタシアの内部にあった。観念から形象へ。その観念はいつ生まれたのか。死についての観念は。自分がはじめて死んだときかと思ったが、そのときの記憶ははるか過去のもので、痛みの実感とともに遠くにある。幼い頃のアルバムを開いた両親が親戚に向かって撮影当時のエピソードを語っているのを、すこし気恥ずかしい思いをしながら他人事のように聞いているときのようなもので、振り返ってみてもその当時がみずからの人格形成に作用したとはどうしても思えない。だから、アナスタシアにとって、死というものの存在を知った日、死の観念が生まれた日は、うちひしがれた祖父の姿を見たときだ。そして、そのときから漠然と抱いていた死のおそろしさにはじめて戦慄したのは、永井圭が死んだときだった。それは美波の動揺に反応した面もあったが、死そのものに対する言い様のないリアルな不気味さを実感したせいでもあった。以前にも似たような感触を味わったことがある。中学生のときだ。
591 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:22:37.68 ID:7BzTB0Y9O

 中学の一、二年のとき。夏休みがあけた九月一日の始業式。全校生徒が体育館に集められていた。アナスタシアは隣の列の友だちと他愛なくおしゃべりしながら始業式がはじまるのを待っていた。マイクで拡声された学年主任の声が響いて、校長先生が壇上へあがる。学年主任と入れ替わるかたちで演台の前に立った校長は、おはようございますと生徒たちに向かってあいさつをした。マイクを通しているにも関わらず、声は低く通りがよくない。そのせいか生徒たちの返事はまばらでためらいがちだったが、校長はやり直しを求めなかった。

 校長はこう言った。悲しいお知らせがあります。三年ーー組のーーさん(クラスも名前も覚えてなかったが、名前は女子生徒のものだということだけは確かだ)が夏期休暇中に亡くなられました。交通事故でした。

 教師たちの予想に反してざわめきは起きなかった。生徒たちは顔を見合わせたり、固まったりしたまま、息を止めたかのように静まっている。アナスタシアは三年生が列を作っている方へ首を向けた。生徒たちは密に伸びた木々のようで、事故で死んだ生徒のクラスの様子は伺えなかったが、友人らしき女子生徒数名がすすり泣いているのが聞こえた。
592 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:28:28.99 ID:7BzTB0Y9O

 それをきっかけにしてか、演台の校長が哀悼の言葉を言う。黙祷が一分つづき、それが終わると校長は演台から離れ、学年主任と交代した。学年主任も引き継いだように哀悼の言葉を一言いってから、連絡事項に移る。始業式が終わり、教室に戻ってからも担任教師が女子生徒のことでなにかを言った。おざなりではなかったが、演台の校長の言葉にくらべると、深刻さは薄かった。

 しかし、それも無理のないことだった。三度目ということもあるし、アナスタシアを含む教室の全員が上級生の死に対して、可哀想と思いつつも、悲しみにくれていなかったからだ。顔も名前も知らない人の死を心から悼むことはできないのは当然だ。

 だが、生徒たちのあいだにはひとつの共通する思いがあった。

 十五才で死ぬひとがいるなんて。死は老人か病人のもので、自分たちが死を意識しはじめるのは五十年は先のことだと思っていたのに。

 壇上の校長は、生徒たちに向かって、あなたたちも死に得ると告げたようなものだ。死なないように。あなたたちは死に得るのだから。

 アナスタシアたちは、そのことに特別おそろしくなったわけではない。ただ死ぬことを悟っただけだ。数学の応用問題の解き方をふと思いついたときのように、自分が死ぬことを生徒たちは悟ったのだった。
593 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:29:49.05 ID:7BzTB0Y9O

 アナスタシアは充電器をそっと手に取り、自分のスマートフォンに差し込んだ。画面が明るくなり、アナスタシアの顔を照らした。不在着信の数は百近い。そのひとつひとつを確認していきたかったが、眠気が限界に近い。

 アナスタシアはあきらめて座席に横たわると眼を閉じた。暗闇がいっぱいになる。永井と中野、ふたりの寝息が規則正しいリズムで重なっている。アナスタシアもふたりの寝息にあわせて息をする。心臓の音すらも、呼吸にあわせているかのようだ。やがて、ふたつに重なっていた呼吸の音は、暗い車中でみっつに重なっていた。


ーー
ーー
ーー

594 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:40:58.35 ID:7BzTB0Y9O
今日はここまで。

ほんとはもっと先まで書いてから投下するつもりでしたが、前回から二ヶ月経ちそうだったんできりがいいと思うところまで投下しました。

話が全然進んでないので、短めのをこまめにあげてくスタイルにしたほうがよいのかしらと考え??います。

話は変わって劇場での美波はとても可愛かったですね。そういうのはファンにやれって永井も言いそうだし。二曲目もとてもいい感じの曲でした。

今回の引用は上の二つがコーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』、最後のがルイ・フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』からです。
595 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/18(水) 21:11:15.80 ID:l9KsL7Sw0
おつ。「たくさん!」の出だしが亜人としか聞こえないの思い出した
596 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:54:35.68 ID:HRQM2WMiO

 手の中の振動がアナスタシアの目を覚ました。

 曙光が空に筋を描いて街を明るくするにはまだすこし時間があったが、あたりの暗闇は淡くなりはじめていた。もののかたちがぼんやりと見えてくる。輸送トラックが高架線を走る音が聞こえた。近くの踏切はまだ沈黙している。

 寝ぼけ眼で頭がはっきりしないまま、アナスタシアはつねにそうしているという習慣的な理由のみで電話に出た。


武内P『アナスタシアさん、ご無事なんですか!?』


 プロデューサーの声にアナスタシアは飛び起きた。勢い余って天井にごんと頭をぶつけてしまい、前部座席で眠っていた永井と中野は起き抜けに後頭部をおさえているアナスタシアを目撃することになった。

 寝ているあいだに指が通話ボタンに触れてしまったらしい。

 プロデューサーは動揺と焦燥に急き立てられていた気持ちに安堵が入り交じった複雑な感情でいて、通話口から漏れ聞こえてくる、がなりたてないように抑えられながらもアナスタシアの状態と居場所をはやく把握しようという必死な声が、永井らの耳にも届いた。
597 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:55:55.88 ID:HRQM2WMiO

 座席に正座するように膝をついていたアナスタシアは、これまでの経緯をどうやって説明すればいいのかさっぱりわからないでいた。

 高架線ではトラックが相変わらず行き来していたし、始発電車も動き出している。窓の外に眼をやれば、踏み切りの色、黄色と黒の縞模様が淡くなった薄闇のなかに浮かんでいるのが見える。ランプが赤く光ると、周囲の薄闇は青みがかっているように見えた。

 アナスタシアはこれらの音のせいで、プロデューサーに居場所がバレるのではないかと不安になった。下手にしゃべったら秘密にしておかなければならないことも口に出してしまいそうだった。アナスタシアは悩んだあげく通話口を手のひらで押さえると、顔を突きだし永井に助けをもとめた。


アナスタシア「どうしよう?」

永井「知るかよ」

中野「おまえのせいで困ってんだろ」

永井「じゃあ、遭難してたとか……」

アナスタシア「遭難してました!」

598 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:57:15.64 ID:HRQM2WMiO

 いくつかの案を提示する前にアナスタシアは最初のひとつに飛びついた。その性急さが永井には考え無しにみえ、勝手に困ってろといわんばかりにまた眼を閉じて二度寝した。電話口の向こうでは、当然プロデューサーが事態を把握しようと質問攻めをはじめるが、見切り発車の発言に首を絞められたアナスタシアは返答に窮している。 

 中野が首をのばしてアナスタシアをうかがっている。中野は永井の肩をこづいて起こそうとするが腕を払いのけられる。

 後部座席のアナスタシアはすっかり困りきって、弓の弦を引き絞るように下唇を噛んでいた。良い説明が思いついた瞬間、すぐにプロデューサーに話せる準備をしているかのようだが、まったく思いつかない。ウー、という涙を連想させるうめき声がもれた。

 中野が手のひらを差し出した。アナスタシアは意味がわからず、中野を見た。中野が差し出した手を振って、スマートフォンを渡すようにいっているのだ。

 すこし迷って、アナスタシアは中野にスマートフォンを手渡した。


中野「もしもし。おれ、中野です。あ、アーニャちゃんが森で倒れてるとこみつけたのおれなんすよ。マジビビりました、死んでんのかと思って。はい、遭難してて。気を失ってただけだったんすけど、最近まで意識なくて。持ち物もケータイしかなくて、これも壊れてたのか電源入んなかったんすよ。今日叩くかなんかしたら直ったけど。だからどこのだれだか分かんなかったんですよ。え? 警察? ああ、届けたんですけどすげー田舎で、ネットもないとこなんすよ。捜索届け出てるかわかんなくて。ダメっすね、田舎は。警官もやる気ないっすもん。あ、アーニャちゃんってアイドルなんすよね。それも意識が戻ってからはじめて聞いて」
599 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:58:27.69 ID:HRQM2WMiO

 得々とした中野の語りにアナスタシアは眼を見張っていた。それはプロデューサーも同じで、ここまで話を聞いたときにはもう中野のペースにはまっていた。

 打ち解けた感じのする通話が続いたと思ったら、中野がスマートフォンをアナスタシアに返してきた。


中野「てきとう言ったけど、アーニャ無事だし、まあなんとかなるばい」


 スマートフォンを耳に当てるとまだ通話中で、プロデューサーの声は落ち着いた雰囲気を取り戻していた。


武内P『中野さんから事情は伺いました。大変だったんですね』

アナスタシア「アー……はい……」


 これまでのいきさつを思い起こし、アナスタシアは苦り切った返事をした。


武内P『こちらに到着したら、すぐに寮までお送りします。今日はとにかく身体を休めることに専念してください』

アナスタシア「プロデューサー、ごめんなさい……わたし、みんなに迷惑かけてしまいました……」

武内P『多くの方がアナスタシアさんのことを心配していました。その方たちはアナスタシアさんが無事だとわかれば、心のそこからホッと安心しますよ。私もそうなのですから』


 アナスタシアは感極まりそうになる。そのことを悟られまいとスマートフォンを耳から離して胸元にあて、深呼吸して気持ちを落ち着ける。息を長く吐いて胸元をたいらにすると、アナスタシアはスマートフォンを耳にもどした。
600 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:59:41.72 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「プロデューサー……その、ミナミはどうしてますか?」


 いちばんの心配ごとを口にした。口にした途端、自分の言葉にうぬぼれが滲んでいないか不安になった。

 永井と出会ってから、アナスタシアの心中に、じつは美波のことをよく理解できていなかったのではないかという思いが去来していた。亜人だと発覚するまで、美波の弟の顔も名前もアナスタシアは知らなかった。妹のほうは名前も知っていてスマートフォンのカメラで撮影した美波とのツーショット写真や美波の歌を照れくさそうに唄う様子を撮影した動画(美波が吹き替えたのではないかと思うほど、妹の声は姉にそっくりだった)を見せてもらったことがあったが、重い病気でいまも入院生活を余儀なくされているとは知らなかった。

 アナスタシアが話してきたほどに、美波は家族のことを話さなかった。

 それは話さないという意志的な選択ではなく、話しがたさ、困難さのためだった。未解消の家庭事情から発生する困難さは、言語表象を不可能に近づけるし、話すことが可能だとして、そもそも人に話すような事柄ではない。

 一連の報道によって美波の家族の歴史を知ったアナスタシアもそのことを理解できた。しかし、それでもわたしには、という思いが拭いきれないのも事実だった。

 プロデューサーはアナスタシアの不安に気づいていないようだった。プロデューサーは別のことに気をとられ、ほのかな陰りに滲んだアナスタシアの声のニュアンスに気づくことはなかった。
601 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:01:22.24 ID:HRQM2WMiO

武内P『それは……あとで話したほうがいいでしょう』


 プロデューサーは苦しげに言葉を濁して通話をおえた。

 あたりはかなり明るくなりはじめていた。時刻は午前六時をすこし過ぎた頃。中野が言うには、プロデューサーと合流するのは二時間後の午前八時とのことだった。

 中野は助手席でうたた寝している永井を起こし、事情を説明した。

 怒りこそしなかったが、アナスタシアが思ったとおり永井は不機嫌そうに顔をしかめた。まだ眠っていたいのに邪魔されたのが不機嫌の理由のような態度だった。


永井「僕がそいつに見られたらどうすんだよ」

中野「トランクに隠れてればいいじゃん」


 中野はいたってまじめに答えた。

 ひとりでこっそりとトランクに隠れる永井を空想すると、アナスタシアはなかなか愉快な気持ちになった。とはいっても、永井がそんなことをするつもりがぜんぜんないことは、ふてくされた様子で背もたれに沈みこんでいる姿をを見なくてもわかりきっていた。
 

永井「お腹すいたな」


 眠気をにじませた声で永井がぼやいた。そのひとことでアナスタシアたちも思い出しかのように空腹を自覚した。
602 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:05:08.82 ID:HRQM2WMiO

中野「あそこに食堂があるぜ」


 言いながら中野は顎をしゃくって前方にふたりの視線をうながした。張り紙がしてある古びれたサッシの引き戸、ひさしのうえに掲げられた年月に晒されくたびれた白地の看板には色褪せた赤い字で食堂の名称が書かれている。ひと気のない観光地の路地にひっそりとたたずむ商品替えもしたことないようなみやげ物屋、そういう印象を与える食堂だった。

 引き戸の入口のすぐ側には鉢植えが並んでいて、世話をされず放置されたのをいいことに植物は生命力を野放図にひろげ、重く厚くなった葉を地面に垂らしていた。鉢植えのあいだに立て看板が縦につらぬくように立っていた。黒い細かな文字、おそらくメニューだ。

 三人は車から出て、立て看板へと歩いていった。今日はサービスデーらしく、朝の献立をたのむとたまごか納豆が無料でついてくると書いてあった。
603 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:07:03.17 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「アーニャは納豆にします」

中野「日本人だなあ」

永井「いいけど、変装しとけよ」


 アナスタシアは車から持ってきたレイバンのサングラスをかけてみた。サイズが大きく、顔の半分が隠れるほどだった。

 
アナスタシア「似合ってますか?」

永井「ダサい」

中野「デカすぎじゃね?」

永井「ていうか、髪の色をどうにかしろよ」



 男性陣からの不評に、アナスタシアはむっとしつつフードをかぶって銀髪を隠した。


アナスタシア「これでどうですか?」


 アナスタシアの声には憮然とした調子がこもっていた。


中野「なんかラッパーみたい」

永井「余計目立ってどうすんだよ」
 
中野「あれ? ロシアってラッパーいんの?」

永井「興味ない」

アナスタシア「ママがよく聴いてますね。アー……Dead Dynasty、とか」

中野「すげえなあ。おれ、t.A.T.u.くらいしか知らないや」

アナスタシア「アーニャもよく知らないです」
604 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:09:00.45 ID:HRQM2WMiO

 そこだけは何時になってもずっと暗い食堂と隣家のあいだの狭い路地というか隙間から猫が一匹飛び出てきた。猫は着地すると、その猫は白と黒のぶち猫で右眼のまわりの黒い模様が眼帯みたいに見えた。ぶち猫は育ちすぎて鉢植えから地面まで伸びた葉先が鋭尖頭の葉っぱの下を背中を掻くようにして歩き、ふと白い方の眼を永井にとめると腰を下ろし頭をあげ、ぱちくりと両眼をひらいた。

 猫の行動をみていたアナスタシアはしゃがんで、できるだけ猫とおなじ視線になろうとした。


アナスタシア「コーシュカ」

中野「猫のこと?」

アナスタシア「ダー。にゃんこのこと、です」

中野「にゃんこ」

アナスタシア「にゃんこ、です。にゃー」


 アナスタシアにつられて中野もしゃがみ猫の鳴き真似をして、ぶち猫の気を引こうとした。二人はミャウミャウ言ったり、指をならしたりしてみるが、猫は永井を見上げたまま動かなかった。永井はスマートフォンを見ていたが、ため息をついてポケットにしまうと道路の向こうを行き来する車や自転車をぼーっと見つめ出し、猫に視線をやることはなかった。

 猫が前足を永井のスニーカーの上に置くと、永井はようやく猫を見下ろした。猫はにゃーおとひと鳴きして甘えたがっているみたいだったが、永井はズボンのポケットに両手をつっこんだまま何もしないで無感情でいた。
605 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:10:11.57 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「遊びたがってます」

中野「かまってやれよ、永井」

永井「食べるまえにのら猫になんか触れるか」


 猫に対する態度をしない永井に、ふたりは文句をたれた。ふたたびミャウミャウと猫を呼びかけはじめたが、猫はかまいたがりに一瞥もくれず、前足を置いた姿勢のまま永井の反応を待っていた。

 永井が不意をつくように足をあげた。踵は地面についたままなので爪先がはね上がるかたちになった。猫はびっくりして一歩後ろに飛び退いた。

 永井が足首をやわらかくする体操みたいに足を振ると、左右に振れる爪先をを猫じゃらしだと思ったのかぶち猫が前足で叩こうとする。

 猫は夢中になっていた。足首を振るのに疲れた永井が爪先で地面をとんとんと叩くと、猫はスニーカーの爪先を引っ掻こうとした。
606 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:11:55.27 ID:HRQM2WMiO

 食堂の引き戸がガラガラと音をたてながら開かれ、なかから開店準備をしにきた六十代くらいの女性が出てきた。丈の長い襟元の弛んだTシャツを着ていた。猫は女性を見たとたん、一目散に逃げていった。中野が女性にすかさず話しかけ、店内に案内してもらう。

 朝食のメニューは白米にごぼうの味噌汁、ふっくらした焼鮭にきのこと卵の炒め物、そして三人が頼んだサービスの納豆はじゃこがまぶされたじゃこ納豆だった。飲み物の緑茶はぬるかった。

 箸が茶碗にあたる。鮭の身はほぐされ、納豆がかき混ぜられる。味噌汁をすする音と湯飲みを卓に置く音。みるみるうちに朝食が三人の胃に納められていく。

 アナスタシアは口をもぐもぐさせながら炒め物に箸をのばした。かき分けた卵のなかにきのこを見つけたとき、箸の動きがぴたりと止まった。半円のかさを持ったしめじとの睨めっこ、正確に言うならば一方的に睨まれているという感じだ。アナスタシアは箸で持ち上げ口をおおきく開けてきのこを食べようとした。だが喉が詰まったような飲み込めない感覚がして、結局すこし顎を引いて口を閉じた。何度が同じことをしてみたが、きのこは箸につままれたまま食卓の上に浮いていた。


永井「なにやってんだ」


 口を開けたり閉じたりしているアナスタシアを変に思った永井がそう言った瞬間、どうすれば思いついた。アナスタシアはすかさず永井に皿に箸をのばす。
607 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:13:42.17 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「あげます」

永井「口つけた箸でつまむんじゃねえよ」


 永井は不快感を露にきのこをつまんだ箸を押し返した。それから永井は中野がお茶をぐいっとあおっている隙にまるごと残ったアナスタシアの炒め物をすっかり空になった中野の皿にあけた。

 お茶を飲みおえた中野が元通りになった皿の様子に気づいた。


中野「あれ? 増えてる」

永井「やる」

中野「好き嫌いすんなよな」

アナスタシア「イズビニーチェ……ごめんなさい、です」

中野「なんでアーニャちゃん?」


 中野はかきこむようのして炒め物をたいらげた。

 永井は伝票を見て財布から千円札を二枚取り出して卓に置いた。


永井「払っといて」


 永井はふたりを残して食堂から出ていった。

 中野は伝票を手に取り、記入された金額と永井が置いていった金額を見比べる。考え込むような表情。眼はじっと二枚の紙幣に注がれている。


アナスタシア「コウ、どうしました?」


 アナスタシアが中野に声をかける。もしかしてお金が足りないのかと心配になる。

 中野は懐かしいものを見たときのような声で言った。


中野「これ、おれらの金なのかなあ」

アナスタシア「アー……」


 食堂の外では、ふたたび現れたぶち猫が永井に背中を撫でられて気持ち良さそうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。


ーー
ーー
ーー
608 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:15:12.37 ID:HRQM2WMiO

 中野が右にくんっとハンドルをきり、自動車はコンビニへと入っていった。アナスタシアは強い遠心力を感じながらスピードが速すぎるのではないかと思ったが、車はスムーズに駐車場に進入していった。

 時刻は七時五十分。プロダクション近くのこのコンビニのこの時間帯は客足のピークが過ぎ去ったころで、停まっている車は従業員のものをのぞけば一台しかなく、その車はプロデューサーが運転してきたものだった。プロデューサーは車から降り、コンビニの入口前に直立姿勢で待っていた。どことなく落ち着かない様子だ。

 車が曲がったとき、リアウインド越しにアナスタシアとプロデューサーの眼が合った。プロデューサーが車に引っ張られるように身体の向きを変え、アナスタシアを追いかけた。


アナスタシア「コウ、あの人がプロデューサーです」


 中野がバックのために振り向くとアナスタシアは頭を下げた。駐車スペースに停まり、アナスタシアは車から降りた。

 プロデューサーはアナスタシアがいま眼の前にいるのがまだ信じられないのか、半分呆けたような表情をしていた。言葉を失っているプロデューサーを前にすると、アナスタシアも何を話していいのかわからなくなっていた。
609 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:16:25.80 ID:HRQM2WMiO

プロデューサー「お怪我は、ないんですね?」


 やっとことでプロデューサーが口を開いた。


アナスタシア「ダー……大丈夫、です」

プロデューサー「そうですか」


 長く細い息をはいたあと、プロデューサーはようやく安堵の表情を浮かべた。


プロデューサー「よかった……ほんとうに……」


 胸が締め付けられるような気持ち。数時間前に電話で話したときのことを思いだし、アナスタシアはまた申し訳ないという思いでいっぱいになった。


アナスタシア「わたし、いっぱい心配かけたんですね?」

プロデューサー「あなたが無事ならそれでいいんですよ」


 背後で中野がゆっくりと車を発進させた。車はふたりの横に停まり、運転席側の窓から中野が顔を出してきた。
610 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:17:48.03 ID:HRQM2WMiO

中野「アーニャちゃん、おれらもう行くから」


 元気でとだけ言い残し、アナスタシアの返事も待たずに中野は窓を閉めようとした。プロデューサーはあわてて車に近より、中野に話しかけた。アナスタシアは思わずぎくりとする。


プロデューサー「中野さん、でしたね? この度はなんとお礼を申し上げたらいいか……」

中野「ぜんぜんたいしたことないっすよ」


 プロデューサーは永井に気づいた様子はないようだった。助手席の永井は帽子で顔に隠しシートに凭れて寝たふりをしていた。


中野「それじゃこれから仕事なんで」


 その言葉を最後に中野の運転する車は気ままな旅烏のように去っていった。空いた道路を走る車に劇的な印象はまったくなく、アナスタシアは永井と中野との別れがこんなにあっさりしてていいのだろうかと思った。


プロデューサー「なにか買っていきますか?」


 プロデューサーが尋ねた。朝食はもう食べたし、たとえ空腹でもアナスタシアは食べ物をねだったりしなかっただろう。プロデューサーはとりあえずミネラルウォーターを手渡した。
611 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:19:18.40 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「あの、これからどうしますか?」


 プロデューサーの車に乗り込んだアナスタシアが尋ねた。


プロデューサー「大事をとってまずは病院で検査を受けてもらいます。見たところお元気そうなのでわずらわしいかもしれませんが、ご両親もいらっしゃってますので」

アナスタシア「パパとママが?」


 アナスタシアはとても驚いた様子でプロデューサーに聞き返した。


プロデューサー「え、ええ」


 予想外の反応にプロデューサーの言葉が詰まった。アナスタシアの顔は青くなっていて、なにか怯える理由があるかのようだ。


アナスタシア「アーニャがあぶないことしたとき、ママはとても怒ります……」

プロデューサー「その、お父様もいっしょですし……」

アナスタシア「ママが怒ってるとき、パパはニナヂョーズニー……すこし頼りないです……」


 プロデューサーは言うべきことが見つからなかった。しばらくしてからとまどいがちに「車を出しますね」と言い、アナスタシアは消え入りそうな声で「ダー……」とだけ答えた。


ーー
ーー
ーー
612 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:20:33.61 ID:HRQM2WMiO
短いですが、今日はここまで。
613 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/21(月) 03:29:37.62 ID:MQxsUN2EO
追いついた

614 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:16:45.73 ID:Wqc3ZOPPO

 極度の混乱、極端ともいえる自罰的傾向、事実関係の誤認識、うつ症状の進行、精神療養の必要あり。新田美波─療養施設にて治療を受けている。面会謝絶され、隔離されている。世間から遠ざけられる─さらに。亜人に関する事柄からも─つまり、佐藤と永井圭。

 均衡が崩れた精神。それがどのような思考や感情を生み出すのか、アナスタシアにはわからない。今日は九月二日、アスタシアは高校の教室にいて、自分の席に浅く腰かけながらいま現在の状況について考えをめぐらせている。昨日の始業式の日には、心配しきったクラスメイトに囲まれ、静かに考えることができなかったから、今日は昨日の分までより多くのことを深く思索しなければならない。
615 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:18:29.01 ID:Wqc3ZOPPO

 学校に行くことに、母親は懸念を示した。母親はそれが過敏な態度だとは自覚していたが、亜人のことがひどく取りざたされている現状で、娘が突然消息を絶ち、その間に亜人が殺戮を引き起こし、その亜人は殺戮は一過性のものではなくこれからどんどん拡げていくと宣言したのだから、アナスタシアが亜人だと判明した直後の周囲への疑心暗鬼と不安がぶり返してしてたとしても仕方のないことだった。

 母親は(父親にも祖父母にもいえることだが)アナスタシアが亜人だと発覚してから、むしろ娘の安全にこれまで以上に気を遣いだした。車の行き来の激しいところでは痛いくらいに手を握りしめ、川の流れを覗き込もうと橋の欄干から身を乗り出そうとすればまるで連れ去ろうとでもするかのようにきつく抱き締めた。成長するにつれ、アナスタシアは家族のそうした態度にうんざりすることが多くなった。

 あるとき、母親のふとした注意に愚痴ったときの表情はいまでも忘れられない。
616 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:20:05.88 ID:Wqc3ZOPPO

 晴れ渡った冬の車内、ロシアはとてつもない寒波に見舞われていた。暖房の調子がわるく、途切れ途切れに吐き出される温風は調子を崩した犬の喘ぎに似ていた。窓ガラスが白くなっていたのは曇りのせいではなく凍ったせいだった。

 空気そのものが凍るほど寒い日に母娘ふたりで車に乗ったのは、明日は仕事なのにガソリンを入れることをすっかり忘れていたためだった(ついでに灯油を買う必要もあった)。母親は七歳になる娘に眼をやった。ふてくされていた。人形アニメが見たかったのだ。ひとりでも平気だから家にいると駄々をこねたが、もちろん母親は有無を言わさず防寒着をしっかり着込ませ車に乗せた。いまでは防寒着の前は開きマフラーはほどけていた。寒さよりこんな風に窮屈にされるのが我慢できないとでも言いたげな風だった。

 母親は寒いでしょと言いながら直しようとアナスタシアに手を伸ばす。アナスタシアは身体をはんぶん捻って母親に背を向けその手から逃げると、アーニャは亜人だからいいとぼやいた。

 母親が息を呑むのが気配でわかった。二、三回ゆっくり呼吸して、アナスタシアは慎重に瞳と首を動かした。母親は顔を前に向けていたから、横顔しか見えなかった。それでも母親の顔面に強張っているのがわかった。怒りと慄きと悲しみがいっしょになって直しようのない亀裂を刻み込んでしまっていた。
617 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:22:25.68 ID:Wqc3ZOPPO

 いまなら母親がそんな顔をした理由がわかる、亜人の情報提供を呼び掛けるチラシに載った永井圭の顔写真──佐藤と田中のあいだにあるその写真で永井は学生服の詰襟を上まで閉めている──を見ているとつよくそう思う。太い枝をみずからの首に突き立てて易々と頸動脈を破ってしまったあの光景は恐ろしかったが──あの躊躇いのなさは自分が亜人だと確信しているからというより、自分より偉大な存在にみずからのすべてを捧げようとしているかのようにアナスタシアには思えた──ある程度時間が経過してみると、行いそれ自体への恐れとはまた別の感情もあることがわかった。美波があの光景を見ていたらと考えると、背中を寒気が走り抜けたような感覚をおぼえた。それと同時に、アナスタシアは自分だけが感じる寒気におののいた。死を躊躇しないあの態度。それがある一点を越えたら自他の区別がなくなってしまうのではと、アナスタシアは漠然と感じている。一線を越えた先には帽子を被った男がいる。

 冷風がうなじにあたり、アナスタシぶるっとは身震いをした。髪を二つ結びにしていたから冷たさが首の後ろにまともにぶつかった。ひとりきりの静寂が守られていた教室にクーラーのゴォッーという作動音がおおきく響いた。
618 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:23:48.96 ID:Wqc3ZOPPO

 教室に入ってきたのは友達とはいえない距離間のクラスメイトだった。彼女はアナスタシアを見て、一瞬驚いたように口をすぼめてからおはようと言った。それから「すごく早いね」とそのクラスメイトは続けた。

 アナスタシアは「うん」とだけ応えた。理由を説明することはむずかしかったからだ。さいわい、相手は追及するつもりがなく自分の席にスクールバックを置いた。

 窓は大きく開けられ光と風をいっぱいに取り込んでいた。ふわりと風に浮かんだカーテンに視線をやってからクラスメイトはアナスタシアに「窓閉めてもらっていい?」と言った。

 他のクラスメイトが次々と登校してきて、教室に入ったとたん、彼女たちは室内の涼しさを喜び感嘆したように声をあげた。教室はにわかに騒がしくなっていった。宿題や部活、気になるアーティストの新曲やお菓子やおしゃれなど様々なことが話題にあがったが、今朝はやくNisei特機工業の石丸竹雄が出張先のホテルの一室で刺殺されているのが発見されたことを口にする者はいなかった。

 そんな教室の様子は、登校するまでの一見いつもと変わらないように見える風景のことを思い起こさせた。寝て起きて朝食を食べる女子寮であったり、学校やプロダクションにむかうときに通り過ぎる街中、行き交う人びとのことであったり、校門の隣で緑の葉を繁らせている桜の木であったり。風景には空気と光があり、肌の感覚が風や熱や音を記憶していた。それらはまるで亜人などはじめから存在していなかったかのような風景だった(例外はさらなるテロに対する厳戒警備にあたっている警官たちで、いまアナスタシアが眺めているチラシもその警官たちから渡されたものだった)。
619 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:25:38.35 ID:Wqc3ZOPPO

 朝のホームルームの一分ほど前に担任が教室に入ってきた。チャイムが鳴るとわいわいがやがやが鐘の音にかき消され、それから椅子が引かれる音がした。起立、着席、ふたたび椅子の足が床を擦る音が響いた。

 アナスタシアは席がひとつ空いていることに気づいた。右隣の列の前から三列目にある席で、そこにはいつも時間ギリギリにやってくる子の席だった。その子は歌が得意で、合唱コンクールの練習のときアナスタシアと同じパートだった。その子の友達は歌がうまいのだからとアナスタシアの隣に彼女をたたせたが、彼女は気後れして緊張したのか歌声をうまく出せなかった。アナスタシアはそんな彼女の手をとって、励ました。眼をみて、微笑んだ。彼女が実力を発揮すると、アナスタシアでも驚くほど透き通った声を響かせた。おかげでコンクールでは一位を取れた。アナスタシアとその子は友達になった。その子は昨日は休みで、どうやら今日も休みのようだ。

 チャイムが鳴り終わっても担任は何も言わず教壇に突っ立っていた。生徒たちが不審そうに顔を見合わせ、ちいさな泡のようにひそひそ話が起こり始めたとき、担任が重たそうに口を開いた。アナスタシアは教室全体を見渡した担任の視線がただひとつの空席にとめられたとき、その眼が苦しげに揺らめくのを見て取った。

 担任は遺体の確認がとれたと言った。
620 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:27:19.67 ID:Wqc3ZOPPO

 身元不明の遺体のひとつがいま空席になっている生徒だと昨日になってやっと判明した。遺体の数はあまりにも多く、身元確認の作業が終わるまでこれだけ時間がかかったそうだ。その子は佐藤のテロの犠牲者だった。

 空気が音を伝達するのを止めてしまったかのような沈黙がわずかにおり、動揺とどよめきが教室に広がった。泣き出し、えずく者も出てくるなか、担任は告別式は午後にとりおこなわれると告げた。

 アナスタシアのすぐ側にある窓に一匹の蝉が張り付いてきた。蝉はもぞもぞ動いて位置を調整すると、カエルとサソリの寓話で、生まれ持った性質に従うしかなかったサソリのように自らが蝉であるからという理由だけでやかましく鳴き始めた。

 アナスタシアは窓の外を見た。ガラスにぼんやりと自分の顔が写っていた。外の世界はいつもの風景と変わらないように見えた。だが、アナスタシアにはわかっていた。自分が見ているのは、人が殺されている世界だということを。


ーー
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ーー
621 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:32:31.53 ID:Wqc3ZOPPO

中野「ない……何も……」


 空っぽの部屋を中野は茫然と眺めていた。コンクリートが打ちっぱなしになっている部屋は、佐藤が亜人たちを召集したホテルにある地下室だった。中野が入ってくるまでそこは音の無い部屋だった。床にうっすら積もった埃が空気の振動や振幅がいままで存在していなかったことを証明していた。


中野「ドラム缶に入れて、地下に置いとくって言ってたのに」

永井「バカだな。同じところに置いとくわけないだろ」


 背後から永井がしゃべった。はじめから期待などしていなかったのか、無感動な眼で灰色の壁と床を視野に入れていた。呆れてすらいなかった。


中野「……バカって言うんじゃねえ」


 落胆のせいか、中野が力のない声で反論した。


永井「バカだろ! 長距離移動のあげく佐藤のいたところに来たんだぞ。危険だろ!」

中野「危険とか関係あんのかよ!」

622 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:34:27.00 ID:Wqc3ZOPPO

 怒鳴りあう声が壁にぶつかって跳ね返った。言い争いに発展しそうになったそのとき、永井のポケットのスマートフォンが着信を告げた。永井があわてて着信を確認する。


永井「よかった、待ってたぞ」


 メールの送信先を見た永井はほっとしたようにつぶやいた。


中野「電源入れてんのか? それこそ危険なんじゃねーの? 逆探知的なの」

永井「ああその通りだ。あの村の人たちはよそ者が押し寄せてくるのを嫌うから、僕のことを黙ってる可能性はあるが、警察に伝わってたらこのケータイはヤバい」


 中野の指摘に永井はうなずいた。


永井 (いちおう、北さんは自殺に見せかけたけど……)

永井「それに僕らの車は盗んだやつだろ。いつまでも乗ってられるもんじゃない。おまえは気づいてないようだけど、あの村を出た時点で追ってに見つかるのは時間の問題なんだよ!」


 メールに添付されたPDFのダウンロードをもどかしげに待っている永井がいらだった口調で言った。冷静に状況を振り返れば振り返るほど、不利な方向へ進んでいるのがわかった。永井は中野を見た。具体的なことは理解できてないが、危うい状況のなかにいることは察しているようだった。


永井「危険はさけられない、重要なのは有意義な危険を冒せるかだ!」

623 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:41:34.02 ID:Wqc3ZOPPO

 ダウンロードが完了した。PDFファイルをスクロールしていると、ふと永井の親指が宙にとめられた。ファイルを読む。永井はほくそ笑みながら口を開いた。


永井「こいつにしよう」

中野「だれのメールだよ」

永井「あの日、海に飛び込むまえ、亜人管理委員会役員数名の身辺調査を依頼した……興信所にだ」

中野「そんな金よくあるな」

永井「おばあちゃんのキャッシュカードを持ってきたからな」


 中野が「えっ」と驚きを顔にあらわした。永井は中野の表情に気づかず、画面を中野に向けて言った。


永井「そのなかで仲良くなれそうな奴がひとり」


 永井が中野に画面を見せる。見覚えのある顔。戸崎の顔が映った。


中野「そいつ!」

永井「こいつはおもしろいぞ」


 永井はふたたびスマートフォンに視線を戻し、調査内容が記載されたファイルを読み上げていった。
624 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:42:54.09 ID:Wqc3ZOPPO

永井「婚約者が意識不明の重体、その医療費を自分で負担してる……保険に入ってないのか。はははっ、これはちょっとやそっとじゃ払い続けられる額じゃないぞ!」


 すこし興奮気味の早口での説明を聴きながら、中野は戸崎のことを思い出していた。自宅マンションのまえでの無慈悲な眼がはっきりと記憶され、その印象が中心となってその他の輪郭や風景を形作っていた。記憶の世界ができあがると、無慈悲な眼の奥を覗きこめるような気になった。それは感情的な背景であり、戸崎の苦悩と、そして自分の同情が存在していた。

 永井は相変わらず現実の基盤にあるファイルを見ていた。声は落ち着き、頭の中では今後の方針を固め始めている。


永井「こいつにはなんとしてでも佐藤を止め、自分のポストを守らなければならない理由がある、そしてなにより、恋人というつけ入る弱味がある」


 視線をあげ、永井は中野を見た。見下したような眼。中野に向けられたものではなく、戸崎に対する優位に満足しているようだった。永井は静かだが、覆ることの無い決定事項を告げる声で言った。


永井「こいつと組むぞ」

中野「何が楽しいんだよ」


 中野がすかさず返してきた言葉に、永井に不意をつかれたような表情をして黙った。理由を考えて見ると、居酒屋の窓から覗き見たある光景が浮かんだ。そこは灯りに照らされていた、食事と笑い声、そのふたつが結び付くことが永井には意外だった。

 結局、永井はなにも口にすることなく、中野とともに車まで戻った。すっかり夜の帷が下りていた。空には透明な星が瞬いていた。周囲の山々は真っ黒に染まっていて、地面から稜線のところまで暗闇が膨らんできたかのようだった。

 エンジンが始動し、ライトが地面を照らした。黄色い光を見た永井は、その光の色が窓から覗き見た居酒屋の明かりの色とよく似ていることをぼんやりと思い浮かべていた。


ーー
ーー
ーー
625 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:45:53.45 ID:Wqc3ZOPPO


コウマ陸佐「上の連中は敵を見くびってる」


 苦々しい声が会議室に広がった。厚労省の会議室には亜人管理委員会の数名が出席していた。メンバーの数は少なかった。委員会メンバーのひとりは殺され、リストから二番目の人物も今朝死体が発見された。みな額や背中にいやな汗を滲ませていた。


コウマ陸佐「佐藤は素人じゃない、あきらかに高度な戦闘訓練を積んだ者だ」

研究者1「警察が無能なだけだろ!」

コウマ陸佐「そんなことはない!」


 思わず声を荒げたコウマ陸佐は、静かに息を落ち着かせてから話を続けた。


コウマ陸佐「グラント製薬、今回の二件でも警察は敵を何度も殺してはいる。だが、亜人だ。警護が百人いようと敵は無限大」

研究者2「ふん、じゃあこっちも作るか、亜人のお友だちを」

コウマ陸佐「そういえば岸先生はどうした?」

研究者1「奥さんを連れて身を隠したよ。暗殺リストに載ってるからな」

626 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:47:08.82 ID:Wqc3ZOPPO


 突然、研究者が戸崎をきっと睨み付け、責めるような声をあげた。


研究者1「戸崎! おまえもだろ! よく涼しい顔して出てこられるな。私たちまで巻き添えを食ったらどうする気だ!?」

戸崎「私はリストの下から二番目、まだ時間があります」


 戸崎は研究者に視線を返さず、冷たいな声で言った。


戸崎「それより次の策を練りましょう」


 戸崎が会議を再開しようとするとき、ドアが開けられた。曽我部だった。戸崎を見たとたん、ドアを開けた姿勢のまま動きを止めた。


曽我部「戸崎先輩……! ちょっと……」

戸崎「後にしろ、曽我部」
627 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:48:10.19 ID:Wqc3ZOPPO

 曽我部を制したのは報告の内容が予想できたからだった。おおかた暗殺リストの三人目が消化されたのだろう。今朝遺体が発見された桜井に引き続いてとなると、たしかにそのペースにはすこし眼を見張るものの、別段驚くほどのことでも……


曽我部「岸先生が、暗殺されました」


 曽我部が言った。岸の名前はリストの最後に載せられていた。


戸崎「……順番じゃないのか」


 首筋を引っ掻かれたような気がした。── IBM……? ── 戸崎が停止したまま、数秒が過ぎた。

 なにも起きなかった。首筋の感触は戸崎の気のせいだった。いまこの瞬間においては気のせいだった。


ーー
ーー
ーー
628 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:50:46.90 ID:Wqc3ZOPPO

すぐ眼の前に喫煙室があった。ガラス張りされた透明な隔離所にはクールビズ姿の男性職員がふたり、煙草を吹かして紫煙を吐き出していた。壁掛けテレビが他愛もない午後のニュースを報じていた。
 戸崎は喫煙の欲求をなんとか押さえ込み、自販機横にある合成皮革の長椅子に腰を下ろした。


戸崎「別種ども……」


 戸崎は背中をまるめながら、組んだ手で口元を隠していた。眼付きはいらだちによって鋭く、鼻先も内面が現れたかのように尖っているようにみえる。

 リスクの上昇。暗殺リストの存在感はこれまで以上にひりついて感じられた。許容できると思っていた命のリスクは、戸崎の想像の範囲を容易く越えてきた。

 二〇パーセント……命のリスクがそれまでならなんとか許容できる。仕方がない、金払いはいいんだ、こういう仕事は……非合法な仕事、物騒な仕事、調査し確定し拘束する仕事、口止めする仕事、脅すか賄賂をつかませる仕事、目撃者に気をつけなければならない仕事、ときに命を奪う仕事、足場が不安定な仕事、へまをすれば消される仕事、彼女との約束を違えた仕事……
629 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:51:56.15 ID:Wqc3ZOPPO

 携帯の着信音が聴こえた。現実に引き戻された戸崎は、数コールしてからスーツの左側の内ポケットから携帯を取り出した。画面が暗い。着信音は右側から聴こえる。右ポケットを探る。非通知設定の電話着信。


戸崎「私用の携帯に……」


 戸崎は電話に出た。


『テレビをつけろ!』


 無遠慮な大声。聞き覚えがある。


戸崎「誰だ!」


 命令に負けじと強い口調で返事をしながら、戸崎は喫煙室のテレビに視線をやった。タバコ休憩の職員たちはまだそこにいて、頭をあげてニュースに見いっていた。戸崎は喫煙室に近づいた。ガラス越しに音声が聞こえた。ヘリからの生中継、暴走している赤い車が猛スピードで他の車を追い越している、追跡するパトカー、アナウンサーが永井圭の名前を叫ぶ。
630 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:52:48.82 ID:Wqc3ZOPPO

戸崎「永井圭だと!? なにをしているんだ」

『ああ! いまその車内から掛けてる! 僕らがどこに向かってるか……』


 電話が切れた。


戸崎「あの、道は……」


 戸崎は電話をかけ直さなかった。そうしようとしたが、携帯は耳から離れたまま、携帯を持った手を胸の前に浮かせながらテレビを注視していた。映像によって記憶が刺激され、俯瞰が主観になった。道路をなぞる俯瞰から道路を運転する主観へと。


戸崎「あの野郎……!」


 永井がなにを言わんとしていたか戸崎にはわかった。


ーー
ーー
ーー

631 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:55:11.87 ID:Wqc3ZOPPO

 アナスタシアにとって九月三日の朝は、新たな殺人の報告から始まった。午後にはまた新たな死者。わずか二日で三人が殺された。

 彼らの死をどう受け止めればいいのだろうか。

 はっきりとわかったことがある。亜人虐待の映像、田中が何度も何度も殺されていくさまを記録した映像は本物だということだ。確信が持てたのは永井の破れた頸の再生の仕方を見たからだ。その様子は映像の田中と同じだった。

 十年間。田中が捕獲されてから現在までの年月。アナスタシアは田中に同情している自分に気づいた。亜人にとってこの国は異常さを感じる国になっていた。政府はいまだに亜人虐待の事実を認めず、映像は偽物だと主張し続けている。テロの原因はすべて、亜人という生物の凶暴性に由来しているというのが政府の見解だった。

 大半の国民もその見解に同意していた。佐藤グループとその他の亜人を同一視するのは、危険であり差別であるという冷静で真っ当な意見を言う者は敵視され、亜人びいきと揶揄されるまでになっていた。

 差別的言説が国内に広がっていた。
632 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:57:55.29 ID:Wqc3ZOPPO

 そういった言動は昨日の告別式でも聴かれた。疲弊しきって口を閉ざす両親と泣きじゃくるクラスメイトたちのあいだからそういった声が聴こえてきた。誰彼ともなく。不安を口しているようで偏見を表明していた。穏やかで控えめなレイシズム。穏やかに話せば差別ではないと思っている。

 だれかが亜人を呪う言葉を吐いた。女の子の声、自分と同じくらいの年の子、友だちのだれか……? いや、気のせい、そのはず、言ったとしても亜人というのは佐藤のことで、わたしのことじゃ……アナスタシアはクラスメイトのことすら信用しきれてない自分にショックを受けた。同時に被差別者になってしまったことにも。家の柱についた小さな傷が目につくように、アナスタシアは心の中に猜疑心を見つけた。いったんそれを見つけると、その小ささにかかわらず、存在自体が想像を延ばす原因となった。それを隠そうとしても、柱の傷を指で押さえても指の腹に欠けた箇所を感じてしまうように、猜疑心を消すことはできなかった。

 アナスタシアはなにかを誤魔化すか、言い訳をするかのようにあたりを見渡した。
633 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:59:54.95 ID:Wqc3ZOPPO

 クラスメイトたちはみんな顔を伏せていた。そのなかに顔をまっすぐあげている子がいた。悲しみの群れのなかにひとりだけ強張って黙っている顔があった。その子は昨日アナスタシアに最初におはようと言った子だった。涙を流していなかった。噛み千切らんばかりに下唇を噛み締め、手のひらに爪が深く食い込むほど強く手を握りしめたが、それでも泣かなかった。泣くよりほかにするべきことがあるとでもいいいたげな表情。

 彼女は遺影をまっすぐ見据えていた。棺の小窓は閉じられていたから、死んだ友達の顔を見るには遺影を見るしかなかった。瞳は潤んでいたが、眼には怒りの色があった。怒りの対象はもちろん佐藤に向けられていたが、その射程はもっと別の、遠くにあるなにかまで届いていた。

 そのなにかを具体的な言葉で指示することは難しい。それは死ではあるのだが、ある特定条件下における死であり、つまり暴力が作用した死、理不尽で倫理に悖る死ではあるのだが、というより怒りの対象はやはり死ではなく死をもたらす要因、原因、根源的ななにかではあるのだが、具体的な言葉で指示することは難しい。

 怒りの眼差しは一点に、亜人というカテゴリーや佐藤という個人に収斂してはいないように見えた。行為を起こした者への責任は認めているが、その背景にあるものを決して無視していない。
634 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:01:04.64 ID:Wqc3ZOPPO

 その子を見たとき、アナスタシアは自分のやるべきことがわかった。

 そしていま九月三日の午後、アナスタシアは自分の部屋で三人目の犠牲者が確認されたことを知る。スマートフォンを手に取り、発信する。ワンコールもしないうちに相手は電話に出た。
 

アナスタシア「ケイ?」

『なんだ!?』


 永井は食い気味に応えた。叫ぶような大声に焦燥の色が混じっていて、アナスタシアは驚き、一瞬怯んだが、すぐに気を取り直し、はっきりした口調で決意を告げた。


アナスタシア「わたしも……サトウと戦いま」

『わかった! 切るぞ!』


 言い終わらないうちに一方的に電話が切られた。
635 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:02:08.71 ID:Wqc3ZOPPO


アナスタシア「え、あの、もしもし?」


 何度かけ直しても向こうは通話中で、その日は二度と永井につながることはなかった。アナスタシアは拍子抜けしたような、あきらめたような気持ちで、階下へ向かった。ともかく、言いたいことは伝えた。何をどうするか具体的なことはぜんぜんわからないが、それは永井に任せるしかない。覚悟を決めたのに、戦う覚悟を決めたのに、なんとも情けないありさまだと思うが、しかし、テロリストの潜伏先なんてぜんぜん見当がつかないのだから……それしても、最後の語尾くらい言わせてくれても……

 そこまで考えたとき、アナスタシアは永井がなぜ焦燥していたのか理解した。

 ラウンジのテレビがついていた。コの字型に配置されたソファにはだれも座っておらず、スクールバックだけが置かれていたので、学校帰りのだれかが飲み物でも取りに行っているのだろう。つけっぱなしのテレビから画面のくすみと揺れを含んだ生中継の映像が流されている。ヘリコプターからの空撮は国道を映し、猛スピードで道路を駆け抜けている赤い自動車を画面の中央に納めている。
636 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:05:51.72 ID:Wqc3ZOPPO

 その赤い自動車を見た瞬間、アナスタシアの記憶が刺激される。視覚の記憶は内側に、それだけでなく、耳で聴き、口で話し、舌で味わったことも思い出す。

 いやまさか、と記憶を疑う。だってあの永井圭がこんな目立った失敗をするはずが……

 テレビではアナウンサーが報道中の映像に説明を加えていた。


 ──運転しているのは失踪中の亜人、永井圭との情報もあり──


アナスタシア「ハァ!?」

みく「に゛ゃ!?」

アナスタシア「Ой (オイ!)」


 アナスタシアの仰天に前川みくが仰天し、アナスタシアがさらに仰天しスッ転んだ。みくは麦茶のはいったグラスを落とした。プラスチック製だから割れはしなかったが、カランと響きのいい音をあげ、中身が床に広がった。みくの紺色のソックスの先に麦茶が染み込み、そこだけ黒っぽくなった。


みく「あ、あーにゃん……? だいじょうぶ?」

アナスタシア「アァー……ミク、アーニャ、出かけます!」

みく「えっ、どうしたの?」

アナスタシア「忘れもの!」


 ラウンジから駆け出したアナスタシアはそのまま玄関のスニーカーをひっ掴み、靴も履かずに外に飛び出した。


ーー
ーー
ーー
637 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:11:11.84 ID:Wqc3ZOPPO

 永井と中野は入口に突っ込んだ自動車を乗り捨て、病院のなかを突っ走っていた。


永井「中野! 戸崎とは一対一で交渉する、おまえは隠れててくれ!」


 廊下を駆けながら、永井は後からついてくる中野に叫んだ。


永井「敵が強硬確保に走ったときの切り札だ、おまえの幽霊でやつの取り巻きを鎮圧してくれ!」

中野「幽霊……あの黒いバケモンか」


 中野はわずかに戸惑ったあと、意を決して言った。


中野「おれ、アレ出せねーぞ」

永井「は!? 笑えないんだけど」

中野「マジだよ! 厚労省前ではじめて見てすげえビビったんだから!」


 眼前に階段が迫っていた。永井は罵りたい気持ちをぐッとこらえ、手すりをつかんで身体を引き上げた。


永井「……どっちにしろ隠れてろ、おまえがいたら話がこじれそうだ」


 言いながら永井は踏段をいくつか踏み飛ばして階段を駆け上がる。目的の階までなんとか間に合うように。
 

ーー
ーー
ーー
638 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:12:23.20 ID:Wqc3ZOPPO

 病室は静かだった。

 亜人のテロを警戒し病院側は患者を避難させ、いまでは職員の避難も完了している。建物の中には僅かな人間しかいない。

 周囲を包囲している警官たちは命令によって待機したまま、病院内に突入してくる気配はいまのところなく、カーテンが閉めきられ明かりが落とされた病室には人工呼吸器の作動音ぐらいしか聞こえない。

 何度も訪れた病室。呼吸器も、身体に繋がった様々な種類のチューブも、寝たきりの彼女も何度も見てきた。何度もマスクに覆われた彼女の顔を見てきた。それが外れてベッドから起き上がる彼女を見ることが望みだった。

 いま戸崎が見ているのは、彼女ではなかった。正確に言えば、彼女を視界の中心には収めてなかった。この病室に入って初めてのことだった。

 ヘッドボードに両手を起き、睨めあげるように戸崎に視線を向ける者がいた。
639 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:13:56.02 ID:Wqc3ZOPPO

永井「戸崎さん、あなたの顔なんて二度とみたくありませんでしたよ」


 永井圭が緊張を抑えながら言った。


戸崎「残念だが、われわれは毎日顔を合わせることになる。ガラス越しでな」


 戸崎は冷静さを印象づけるように声を低めた。顔に一筋の汗が流れ落ちた。


永井「話があります。物騒なことはやめましょうよ」

戸崎「なら外でしないか? 今日はいい天気だ」


 永井に近い壁には窓があり、平沢と真鍋がカーテンに隠れながら麻酔銃を永井に向けている。ほかの黒服ふたりも戸崎に従う下村の背後、入口ちかくのカーテンに身を隠している。


永井「捕まえる気なら、眠る前に幽霊を放ちます」


 永井は努めて戸崎を見据えたまま言った。
640 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:15:30.27 ID:Wqc3ZOPPO

永井「僕の幽霊は命令なしに暴走する。僕の意識が落ちてもひと暴れしてくれるはずだ。とくに、いちばん近いこの女性は……」


 永井が肩に力を込めた。肩の位置が低くなった。視線は戸崎を睨んだまま、脅迫の意図を強める。戸崎の眼が殺意に細くなる。


戸崎「おまえ、殺してやる」

永井「ただじゃあ済まないだろうね」


 永井の右手の甲から黒い粒子が滲み出た。下村だけがそれに気づいた。息をのみ、対応のため黒い幽霊を発現しようとする。発現の兆候を永井も察知する。

 突然、天井板が外れ、中野が落ちてきた。戸崎たちはもちろん、永井も驚愕し、「ハァッ!?」と、声をあげた。

 黒服たちがカーテンから飛び出す。戸崎も懐から麻酔銃を引き抜く。


永井「待て! 撃つなぁっ!」

641 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:16:46.91 ID:Wqc3ZOPPO

 永井は反射的に人質から飛び退いた。両手を開いたまま突きだし、降参する寸前のようなポーズをとる。この行動は正解だった。逃避的に距離をとるための動作が、攻撃してきたのみ反撃しろと厳命された黒服たちの行動を一瞬遅らせた。


中野「永井! こんなことしなくていいだろ!」

永井「邪魔するな中野!」

真鍋「どうする、撃つか!?」


 矢継ぎ早に叫びが飛んだ。彼女のいる病室が混乱しそうになる。


戸崎「私を殺しに来たわけじゃなさそうだな、なにが目的だ!」


 戸崎がとっさに叫び、問いかける。


永井「……夏だ」


 ずっとそのことを考えてきたとでも言いたげに、永井は静かに話し出した。
642 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:18:25.40 ID:Wqc3ZOPPO

永井「日差しが差し込む教室、ホワイトボード、汗ばんだ手が、ノートに張り付く。静かで退屈だが、洗練されてた……こんなはずじゃなかっただろ、アンタも!」

戸崎「ああ! おまえらのせいでな!」

永井「違う!」


 静かに高まっていく声により大きな声。永井はより強く戸崎を否定する。


永井「ここまで話をこじらせたのは、僕でも、アンタでもない!」

永井「 僕らは同類だ! ここへはビジネスをしに来た!」

戸崎「亜人など信用できるかァッ!」
643 : ◆8zklXZsAwY [sage]:2018/07/08(日) 21:20:10.34 ID:Wqc3ZOPPO

 挑発的にも聴こえる永井の訴えを、戸崎はなかば感情的に退けようとした。そのとき、中野がぐっと膝から立ち上がり、「なあ!」と叫んだ。銃口が中野に向いた。中野は怯まず、戸崎に話しかけた。


中野「おれは難しいことはよくわからない。けど、これだけは言える。おれたちは、何がなんでも佐藤を倒してみせる」


 中野が息をはく。そして、落ちつかせた声で、言うべきだと思ったことを言う。


中野「この女の人のためにも」


 戸崎の感情が揺らぐ。間髪入れず永井が戸崎に宣言する。


永井「アンタの駒になってやるよ、不死身の兵士として」


 揺らぎがさらに大きくなる。病室に静まりが戻ってきた。人工呼吸器の音が、戸崎の耳に痛いほどはっきり聞こえた。


ーー
ーー
ーー

644 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:20:57.85 ID:Wqc3ZOPPO

「あ、出てきたぞ」


 病院前を包囲していた警官が、入口から出てきた黒服に気づいてパトカーの陰から身体を出した。

 平沢を先頭に、黒服たちは悠々とした態度で歩いていった。警官たちは上官の(黒服は偽のIDを用意し、現場到着時に彼らに見せていた)そうした態度にすこし安堵した。すれ違いざま、平沢は警官に向かって言った。


平沢「容疑者は確保した。あとはこっちでやる」


 その一言に警官たちの緊張は溶けるようになくなっていった。亜人テロの対応。どう考えても、命がいくつあっても足りない。


「ところで、ほんとうに永井圭でしたか?」


 警官のひとりが額に汗を滲ませながら尋ねた。平沢は警官のほうをちらと振り返った。


平沢「いや別人だ。似てるだけのな」


 そう言われた警官は制帽を脱ぎ、額の汗を腕で拭った。



ーー
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645 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:22:20.86 ID:Wqc3ZOPPO

 タクシーからおりるときになってようやく、アナスタシアはスニーカーをはいた。料金を支払い、女子寮から飛び出したときと同じように駆けていく。眩いなかを走って行くと、すぐに汗が吹き出す。かまわず走り続け、薬局を通りすぎ、病院の裏口へと向かう。

 駐車場にはぽつぽつと数台の車が残されているばかりで、そのおかげか、裏口のすぐ側にスペースを無視して横付けされた車があるのを一目で見てとれた。

 警察車両ではない。一般車両だとしたら、あんなところにあるのは不自然。あの車は亜人管理委員会の誰かが乗ってきた車だとアナスタシアは考えた。おそらく、戸崎という人が病院に来てるはず。そうなると、あの亜人の女の人もここにいる。黒い幽霊で戦うことになるかもしれない。

 アナスタシアは深呼吸をした。ながく息をはき、まっすぐ裏口を見据える。覚悟をあらたに一直線に駆け出そうと一歩目を踏み出す。
646 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:23:52.48 ID:Wqc3ZOPPO

 自動ドアが開き、裏口から永井が歩いて出てきた。顔に陽光があたったのか、足をとめて眩しそうに手をかざそうとしたが、光線はおもったより強くなく、永井はすぐにまた歩き出した。

 永井がアナスタシアを見つけたのは、アナスタシアが二歩目を蹴り出したそのときで、光り輝く銀髪がぱっと持ち上がり、風に流されようとするその瞬間、アナスタシアは永井と眼があった。アナスタシアは驚きのあまり足を止め、立ちぼうけてしまった。

 表情が伺えない遠くからでも、永井がしかめっ面をしていることがアナスタシアにはわかった。かりに舌打ちでもしたら、そのこともわかったし、「チッ」という音が実際に耳にしたときのように再現されただろう。

 永井はアナスタシアを無視してふたたび歩き出し、横付けされている車のほうへ向かっていった。
647 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:25:11.99 ID:Wqc3ZOPPO

 引っ張られでもするかのように、永井を追いかけようとアナスタシアの身体が傾いた。

 永井のあとに続いて、中野、その後ろに戸崎と下村が病院から出てきた。下村の輪郭が陽光の下に出てくるまえに、アナスタシアはあわてて近くに停めてあった車の陰に隠れた。

 ドキドキしながら身を隠していると、エンジンが始動する音が聴こえ、続いてタイヤがアスファルトを擦る音がした。

 アナスタシアは慎重に車から頭を出し、駐車場をゆっくり横切る車を見つめた。永井は後部座席にいた。つまらなそうに窓に頭を預けてる。

 永井とは眼があうこともないまま、車は道路へと出ていった
648 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:26:11.43 ID:Wqc3ZOPPO

 アナスタシアは何があったのかさっぱりだったが、しばらくして永井が仲間を求めていたことを思い出した。まるで信じられなかった。よりにもよって、自分を追いかけ、捕獲し、切り刻んできた相手を仲間にしようだなんて。

 アナスタシアはあきれたように大きく息をはいて、それ以上考えるのをやめた。とにかく、永井は無事だった。いまはそのことに安心しよう。

 立ち上がり、帰ろうとするアナスタシアはふといやな予感をおぼえ、慌てて財布を取り出した。予感はあたっていた。タクシー代を支払ったため、お金はほとんどのこっていなかった。

 財布を手に持ったまま、アナスタシアはその場にへたりこんだ。残暑がまだまだ厳しいなか、歩いて帰らなければならなくなったからだった。


ーー
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649 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:29:12.00 ID:Wqc3ZOPPO

 戸崎との交渉で得た戦力、アナスタシアを加えると亜人は計四人。佐藤グループと比べると一人少ないが、地の利を得、駒を的確に運用すれば問題はないだろう。

 永井はひとまずこの事実に安心感をおぼえ、具体的なプラン立案は後回しにすることにした。気持ちを涼しさを堪能するほうへ回し、永井はなんとなしに外を見やった。

 歩道を歩く学生の姿が眼にとまる。セーラー服を着た女子学生が二人ならんでおしゃべりしていた。永井は病院の駐車場で見たアナスタシアの服装を思い浮かべた。長く見たわけではなかったが、半袖のブラウスとチェック柄の学生スカートと見受けられる格好だった。

 永井はもたれたまま頭だけ動かし、視線を窓から前に向けた。カーナビ画面がカレンダーを表示していた。日付は九月三日とあった。
 

永井「あ」

中野「あ?」


 中野が永井のほうに顔をむけた。中野の声が聞こえてないのか、永井はふわふわと宙に浮くものを眺めるように視線をただ前のほうに向けていた。

 すこしだけが間があいたあと、永井はひとりごちた。


永井「終わってたんだ、夏休み」
650 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:38:42.43 ID:Wqc3ZOPPO
今日はここまで。

アーニャのパニクりようは、映画『ソーシャル・ネットワーク』でハーバード・コネクション依頼していたのに勝手にフェイフブックとして立ち上げられたことに気づいたマックス・ミンゲラのパニクり演技を思い浮かべながら書きました。

キャラクターを逸脱してでもアーニャに「ハァ?!」って言わせたいなと思ってたんですが、想像以上にスラップスティックになりました。

まあ、そう言ってもしかたない状況は作れたと思います。
651 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:03:44.81 ID:z5kRHM0CO
8.楽しかったよ、息子たちを見てるようで


「機械に体をはさまれたのです」と訪問者はやっとのことで、低い声で言った。
「機械に体をはさまれた」とホワイト氏は鸚鵡返しに言った。「そうですか」
         ──W・W・ジェイコブズ「猿の手」


 暗闇を亡霊の群れで満たしてしまう夜が恐かった。亡霊たちと顔をつきあわせるのが恐ろしかった。
         ──フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』


あの緊急な際に、僕がやりえたことといえば、ブレイクの《落ちる、落ちる、無限空間を、叫び声をあげ、怒り、絶望しながら》という一句を思い出していただけだから
         ──大江健三郎「落ちる、落ちる、叫びながら……」



 暗殺リストの九番目に記載されたNAKATOMI 医科工業の高木義信の都内にある一戸建ての自宅は最近改築をしたばかりで、警察の厳重な警備に守られていたが、自宅周辺に立っている警察官はひとりもいなかった。四台あるパトカーの回転灯は点けられていなかったので、このあたりに見える赤い色は、玄関の明かりと街灯に照らされて鈍く光を跳ね返している血溜まりだけしかなかった。つい先週までは湿気に寝苦しい蒸し暑さだったのに、いまでは夜になると一気に冷え込み肌寒さを感じるほどに気温が下がったのは、黒い陥没を連想させる血の跡が地下の奥深くまでつづいているように見えるのと、反射部分がどこまでも白く光っているせいだった、その不気味な照り返しはそう思わせた。極端な明暗の対立は、無化を呼び込む。ガレージに転がっていたり道路にはみ出ている死体からの出血は胸部と頭部から。胸には銃弾が二発、頭には一発、正面から撃ち込まれている。胸部の着弾箇所は位置がとても近く、犯人がとても精確な射撃技術を持っていることを物語っている。
652 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:05:31.77 ID:z5kRHM0CO

 血溜まりは家のなかにもある。カーペットや壁紙、ドアや家具などに血が飛び散っているのは、屋外の銃撃戦を聞きつけた護衛の警官が応戦のため動いているところを撃ったからだ。至近距離での銃撃戦によって、部屋のなかはものが散乱していた。家具はもとあった位置からおおきくずれ、ランプや椅子は倒れている。観葉植物の葉っぱはところどころ赤い。

 部屋の中央に帽子を被った男──佐藤が立っていた。撃ち殺したばかりの標的を見下ろしたのは一瞬だけ、首を左に動かすと、月の光が射し込んでいるキッチンのほうへ視線を向けた。りりりりり、という虫の音が聴こえた。

 佐藤はなにかを待っているかのように静かに立っていた。が、しばらくすると、もうなにも起きないことがわかった。佐藤は拳銃をホルスターにおさめると、何事もなかったように殺害現場をあとにした。

 リストに残っている名前は、残り七人となった。


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653 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:06:47.60 ID:z5kRHM0CO

 佐藤と戦うにあたってまずしなければならないこと。最低限の戦闘行動がとれるようになるための身体づくり。

 何年かまえに廃業した宿泊施設はトレーニングにもってこいの場所だった。ここは亜人管理委員会が所有している施設で、主に黒服たちが仕事や訓練をするときに使う場所だ(つい最近ここで行われた仕事はオグラを拷問したことだった)。屋内は作戦行動時を想定した訓練が可能だし、芝生におおわれた裏庭は開けていて、あらゆる基礎トレーニングにうってつけだ。それに加え、訪れる者がだれもいないような山奥の施設なので、秘密裏に人間を収容しておくのにもうってつけだった。

 永井にとって想定外だったのは、自分も基礎トレーニングに参加させられたことだった。


永井「なんで、僕が……こんなこと……」


 手を肩幅より広げた腕立て伏せは、腕が細く薄い胸板をしている永井にはつらい運動だった。プルプル震える腕で身体を持ち上げようとするが、肘の角度が九十度をちょっと越えたところで限界をむかえ、永井は両腕を前に投げ出しながら地面に倒れた。むわっとする草のにおいが鼻をついた。
654 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:07:46.21 ID:z5kRHM0CO

中野「二十回もやってねーぞ」


 隣の中野は順調に腕立て伏せを続けていた。始めてすぐにフォームを修正されたので、いまでは腕に相当の負荷がかかっているはずだが、ペースはいまだ落ちない。


永井「僕はホワイトカラーなの」

平沢「適材適所は認める」


 監督役の平沢が言った。


平沢「だが四十日前のデータより体重が四キロも増えてる。それだけは落とせ」


 永井の愚痴めいた言い訳に平沢の指摘がはいった。指導者然とした態度。トレーニングトップからのぞく上腕二頭筋は太く鋼のように固そうだった。胸元に「群」という字がちいさくあった。


永井「ブラック企業ってこんな感じかな」


 永井は伏せたまま、組んだ両腕にあごをのせながら不満をこぼしただけで、腕立て伏せを再開しようとしなかった。その様子を屋上から監視していた戸崎が注意した。


戸崎「永井圭! しっかりやれ」


 声に刺があるのは、永井が従順な態度を見せなかったからだ(そのかわり中野は素直だった)。とはいえ、永井がそういった態度をみせたとして、戸崎は企みがあるのだろうと警戒したにちがいなかった。
655 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:09:39.07 ID:z5kRHM0CO

永井「あーあ! 殺しときゃよかったなー!」

戸崎「ホルマリン漬けにするぞ」


 永井が大声で嫌みをいうと、戸崎も皮肉を返した。


永井「ひどいやつ……」


 時刻は午前十一時。九月の初旬、まだ夏日。日差しが強く、風のない日だった。気温が高く、蒸し蒸しする。すでに汗だくで、顔から出た汗が鼻の先や顎をつたって草の上に落ちていった。はるか上空では旅客機が白い尾を引いて、空に浮かぶ雲が引っ張られるかのように飛行機雲のところへ移動していた。

 永井は腕立て伏せを再開した。すぐに腕が震えだしたが、戸崎からの文句にうんざりしていたので、なんとかして肘を伸ばしきった。

 ノルマを終えた中野が無邪気に平沢と真鍋と談笑していた。打ち解けた雰囲気で、真鍋にいたっては笑いながら中野に受け答えしている。

 永井は腕立てをつづけながら、その様子を横眼で眺めていた。

 トレーニングを終え、昼食をとったあと、自販機の前で中野とたむろっていると下村に声をかけられた。

 永井は機械的に「なんですか?」と返事をした。横にいる中野は真剣な面持ちで下村をじっと見つめている。
656 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:10:59.69 ID:z5kRHM0CO

下村「会わせたい人がいるの。ついてきて」

永井「はい」

中野「ハイ……」


 普通に返事をする永井にたいして、中野の声は消え入るような静かな声だった。真面目くさった表情で下村の背中を見つめつづけている中野は、緊張がやどった足取りであとをついていく。


永井「なんだ、どうした?」


 永井が怪訝そうに訊いた。


中野「あのひと……」


 中野はそこで言葉をきり、息をのんで永井のほうに顔を向けた。


中野「すげぇきれい」


 うすうす予感していたことだが、やはり中野はしょうもないことしか考えていなかった。


中野「戸崎さんとデキてんのかな」

永井「それはないと思うぞ」


 永井は即座に否定の言葉を口にした。
657 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:13:25.06 ID:z5kRHM0CO

永井「だってあのひと、亜人だろ。病院であの人だけ耳栓してなかったからな」

中野「彼氏いんのかなあ」

永井「……ていうか、おまえ、あのアナスタシアってやつにはそんな反応しなかっただろ」


 さすがの永井もアナスタシアや下村の容姿が秀でていることは認めていた。永井にとって、彼女らの容姿は客観的事実にとどまり、感情に作用することはなかったので、中野がなぜ下村にだけ魅力を感じているのかわからなかった。


中野「だって、アーニャちゃんはまだ子どもだし。それにアイドルって恋愛禁止だろ?」

永井「バカのくせにものわかりはいいんだな」

下村「なにしてるの? はやく来て」


 案内されたのは壁紙もまともに貼られていない空っぽの部屋で、四隅から柱が直角に突き出していた。ここまで殺風景だと、不快なちいさな生き物の姿を見る心配はなさそうだ。中央にソファとサイドテーブルがひとつ、その前にプラスチック製の丸椅子が二脚あり、その安っぽい丸椅子は永井と中野のためのものだった。サイドテーブルにはタバコとライターと灰皿と資料が置いてあった。それらはソファに腰かける男のものだった。男はサイドテーブルに手をのばした。資料を取った手は包帯に巻かれていた。薬指と小指のあたりがきつく何重にも巻かれていて、その二本の指が失われていることは一目でわかった。


オグラ「永井圭……公式では国内三例目の亜人」


 オグラは資料をめくりながら言った。
658 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:14:37.68 ID:z5kRHM0CO

永井「オグライクヤ……」

中野「おれは中野です」

オグラ「亜人はおもしろい。無意味な人の一生にも価値はあるのだとほのめかしてくれる」

中野「あの、中野……」

オグラ「吸っていいかな?」


 そう尋ねたときすでにオグラはタバコを口に咥えライターを手に取っていた。


永井「すみません、苦手なんで」


 オグラはタバコに火を点けた。


オグラ「永井くん、人はなぜ死ななければならないと思う?」


 戸惑いと不快な眼差しで喫煙を見つめる永井をまったく無視して、オグラは質問を口にした。そして、永井が答えるまえにすぐに自分で答えを口にした。


オグラ「宇宙がそう決めたからだ」


 永井は顔をひきつらせた。宇宙とか言い出しやがった、という困惑の表情を隠そうともしなかった。亜人になって以来、おそらくもっとも困り果て、途方にくれていた。
659 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:17:29.50 ID:z5kRHM0CO

『オグラさん、御託はいい』


 対面するオグラと永井を真横に捉える位置に三脚にすえられたHDカメラが置かれていて、戸崎の声はそこから聞こえた。


オグラ「カメラの向こうの田崎くんがいうには、きみのIBMはすこし変らしいな」

『トザ……トサキです』

オグラ「出してみろ」


 オグラの指示に永井も中野も驚いた。


永井「死ぬかもしれませんよ?」

オグラ「煙草のパッケージか、おまえは」

下村「いいんですか?」


 様子を監視している下村が戸崎に尋ねた。戸崎は無言で事態を静観することに決めているようだ。


中野「ダメだって!」

オグラ「黙れ! 患者を診ずにカルテが書けるか」

永井「どうせ見えないでしょ?」

オグラ「殺す気でこい」
660 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:18:41.57 ID:z5kRHM0CO

一瞬の間もおかず永井はIBMを発現した。


オグラ「形状はプレーン。くっきり見えるな」


 殺意が実体となって目の前に現れても、オグラは平然とタバコを吸っていた。タバコの先が赤くなった。永井のIBMは頭をオグラのほうへ突きだし、赤い点を注視しながらぶつぶつと要領の得ないことを呟いている。


オグラ「命令してみろ!」

永井「なにを?」

オグラ「動物飼ったこともないのか?」

永井「おすわり?」


 IBMがぐるんと腰をひねった。腕が伸び、中野の胸元に黒い手が槍のように突き刺さった。


中野「なんでおれ……」


 貫通した指が壁にも突き刺さり、中野は磔にされ、足が浮いた状態になっていた。


オグラ「自走……しかも命令を完全無視か」


 オグラはタバコの灰を落としながらいった。永井も同じところを見ながら、自身のIBMの性格というものがだんだんわかってきたと感じていた。
661 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:20:16.24 ID:z5kRHM0CO

オグラ「アイオワの農家の亜人が似たような事例だった」


 オグラが話し出し、永井はそちらに向き直った。中野は磔にされたままだったが、二人ともそちらを気にもせず、会話に意識をむけていた。


オグラ「最初のうちはIBMに草むしりなどの単純作業をやらせていた。だが数年後のある朝、自発的にコーンの刈り入れをしていたそうだ。トラクターを操縦してな。きみの場合、長いことほっときすぎたことが原因だな」

永井「一ヶ月くらいまえですよ? はじめて出したのは」

オグラ「いや、きみはもっと昔からだ。多分、幼少期」


 オグラの指摘は永井の無防備だったところを衝いた。幼少期という言葉が、その頃に体験した死についての記憶を呼び起こした。

 飼い始めてすぐに死んだ子犬。父と姉と別れて暮らし始めたときに飼い始めてすぐに死んだ子犬。 

 その亡骸を段ボール箱のなかにそっと入れ、妹といっしょに川辺まで歩いていってそこに埋葬したのだ。妹は泣いていた。永井も悲しくはあったが、死という現象、その存在について疑問に思う気持ちのほうが強かった。


 別、に……死な……なく、ても……。


 永井は考えていたことを声に出したのかと思ったが、そうだとしてもたどたどしい発声になるはずなく、だとしたらこの声はなんだと思い、背後の土手のほうを振り返った。

 そこに黒い幽霊がいたことを永井ははっきり思い出した。

 永井はふと、自分は、産まれたときにはすでに死んでいたのだろうかと思った。
662 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:22:46.95 ID:z5kRHM0CO

中野「あっ、やばい!」


 見ると、IBMがオグラに襲いかかろうとしていた。振りかぶる腕を部屋に飛び込んできた下村のIBMがとめた。三角頭のIBMは左腕をバットのスイングのように振って永井のIBMの頭を砕き散らした。


下村「ふぅ」


 下村が安堵の息をもらした。オグラが永井にIBMの発現を命令したとき、下村はすぐに部屋の前までやってきて、待機していたのだ。


オグラ「ほっとけ! 五分十分で消える」


 間一髪で命を助けてもらったにもかかわらず、オグラの表情はうまくもなく不味くもないタバコを吸っているときとまったく変わらなかった。オグラは吸いおわったタバコを灰皿にひねり消し、あたらしい一本を取り出した。

 その平然とした態度に、下村は戸惑いとわずかに得体のしれなさを覚えざるをえなかった。たとえ亜人でも、命にたいしてここまで無意味に振る舞える者はそういないだろう。

 オグラは醒めきったニヒリストだった。命に対する虚無的な視線は生まれ備わったものであるかのようで、人間も白蟻も生きているという点では同じ命で、その生命のメカニズムに差異があるだけ。

 しかも複雑単純といったと差別化は願望であって本質をまったくついていない、オグラは態度で示しているようにみえた。

 理解しがたいのは、その無意味さの範疇に自分の命も含めていることだった。

 永井はそんなことも露知らず──というより関心を示さず──オグラの発言に驚きを示した。


永井「え?」

オグラ「あぁ?」

永井「いや……森のなかでいろいろ調べたときは、三十分もったこともありましたよ」


 オグラが眼をみはった。この男にも感情があることがはじめてわかった。その証拠は動作にも現れていた。火を点けようと持ち上げたライターを持つ手を途中でとめ、タバコを口に咥えたまま、オグラは永井に質問した。
663 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:26:44.42 ID:z5kRHM0CO

オグラ「連続で何体出せた?」

永井「五体。調子がよくて九体だったかな」

オグラ「ハハッ。異常だ」


 あっさり言ってのける永井に対して、オグラの表情にさっきよりもおおきな驚愕がはっきり浮んだ。好奇心に輝いている。


オグラ「異常なくらい、IBMが濃い」


 オグラは内心で高揚しながら言った。


永井「幽霊が、濃い?」

オグラ「“Invisible Black Matter”。もとは亜人の放出する黒い粒子を指す」

永井「佐藤さんもそんなこと言ってたな」


 永井は研究所で初めてIBMの発現を視認したときのことを思い出していった。そのとき佐藤は永井が放出していた黒い粒子の量にあきらかに戸惑っていた。黒い粒子は天井のほとんどを覆いつくさんばかりだった。

 眼の前で繰り広げれる会話に中野はついていけなかった。永井がひとりごち、会話が中断したところで、中野は自分の胸元を見やった。Tシャツが大きく破れて血だらけになっている。


中野「おい永井! 汚れたぞ!」

永井「ブルーカラーは慣れっこだろ」

中野「赤だろ!」


 真面目な抗議と不真面目な回答は漫才みたいだった。二人の受け答えを無気力に眺めながら、オグラはようやく二本目のタバコに火を点けた。


オグラ (五年十年でその濃度はあり得ない。いや、期間だけが問題じゃない。人間の自我・心の発育段階によっても変わってくる)


オグラ「きみはいつから亜人なんだ?」


 オグラは紫煙とともにぽつりとひとりごちだ。
664 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:27:58.81 ID:z5kRHM0CO

 オグラとの面会を終え、すこしのあいだスケジュールに暇ができた。とくにやることもなく、永井は用意された自室で身体を休めていた。

 永井は寝つきがいいほうだった。頭を枕にあずけ、意識を後頭部に向け、それから枕、ベッド、床へ、意識は地面を突き抜けて地下を掘って、やがて水脈へと辿り着く、そういう垂直に沈みこんでいくイメージを眼を閉じて想像すると、すやすやと寝入る。

 三十分の仮眠から眼覚め、永井は更衣室へとむかった。歩きながら、オグラから言われたことを思い返す。


永井「僕は佐藤さんたちより多くのIBMを出せるのか。作戦に組み込めるかな」


 永井はアナスタシアのことに考えを移した。

 アナスタシアは日に二回、IBMを発現できた。そのときは比較対象が自分しかなかったから、アナスタシアの発現回数が平均的なのか少ないほうなのかわからなかった。いまでは、通常IBMは日に一〜二回しか発現できないとわかっている。

 永井はアナスタシアは戦力として充分機能すると考えた。とはいえ、いつ実行されるともわからない作戦へどうやって参加させるか……。

 永井は更衣室のドアを開けた。
665 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:28:52.54 ID:z5kRHM0CO

 正面に真鍋がいた。手に麻酔銃を持っている。いままさにまっすぐまえに構えようとしている。


永井『止まれ!』


 とっさに亜人の声をつかった。

 更衣室にいた黒服たちはまるで雷に打たれでもしたかのように動きを止めてしまった。黒服たちの表情は驚愕に固まっていて、唯一動ける中野の顔にも同じ驚愕が浮かんでいる。


永井「ん?」


 永井は訝った。もしかたしら、自分は早とちりをしたのかもしれない……


中野「おい永井!」


 中野は憤慨しながら永井を男子トイレまで引っ張っていくと、肩を掴んでいた右手をぶんと振り回し、永井を壁に投げつけ叫んだ。


中野「ちょっとおかしいんじゃねーのか!? 撃ち方教わってただけだろ!」


 タイルが貼られた壁に勢いよくぶつけた肩はかなり痛むはずだが、永井はかばうそぶりもみせず、鋭い射るような視線で中野を睨み付け、怒鳴り声を返した。


永井「おかしいのはおまえだ! 黒服と友達ごっこしてんじゃねえ!」

中野「はぁ!?」

永井「戦いになったとき邪魔だけはするなよ」
666 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:31:37.19 ID:z5kRHM0CO

 永井は声を低めたが、刺すような視線は相変わらずだった。永井はどうせ理解しがたいだろうがと思いながら、黒服と組むことのメリットについて説明をはじめた。


永井「あいつらのスキルのひとつは『ちゃんと死ねる』ってとこだ。これは僕らにあって佐藤にない。捨て駒として作戦に組み込めるかもしれないんだ」

中野「ふざけんな!」


 捨て駒という言葉を聞いた途端、中野は激昂した。瞬間的な怒りはすぐに悔しさにも似た感情に変わり、中野はすがるような声を絞りだし永井に問いかけていた。


中野「おまえ、人を大切に思ったりはしねーのかよ……」

永井「ない」


 永井は冷酷に言い捨てた。

 中野は顔をあげ、きっと睨み付けると、さっきよりはるかに強い口調で問い詰めた。


中野「じゃあニュースでいってたあの人は!? おまえの逃走を手伝ってくれた友達はどうなんだよ!」


 永井は言葉につまった。海斗のことを訊かれるとは思っていなかった。友達のことは胸の奥にしまいこんでいたから、だれにも、とりわけ中野にそのことを衝かれるとは考えてなかったのだ。

 永井は一瞬眼を伏せ、そして視線をもとに戻し、いった。


永井「いらないよ、もう」


 その声は感情の混じりがないフラットな響きだった。
667 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:32:52.66 ID:z5kRHM0CO

永井「平時なら別。だがこんな状況になっちゃあ、何の役にもたたない。何かするメリットもない」


 永井は自分の声がだんだん冷え込んであくのを感じた。話を聞く中野も永井の声と同様に感情が冷え込み、無表情になっていた。


永井「どんどんクッキリしてく。余分な感情は状況を悪化させる。情にすがったって窮地は好転しない。ほんとうは、昔からわかってたさ」


 永井はこれまでずっと必要であればそうしてきたように、感情を切り分けて、言った。


永井「心に流されれば身を滅ぼす」


 中野はもう無表情ではなかった。眉を寄せ、永井を怒りを込めて睨んでいた。はっきりと嫌悪の表情を浮かべていた。そしてそれは永井も同様だった。


中野「クズが」

永井「バカが」


 永井も中野も互いにを軽蔑し、罵りあった。

 トイレの中は灯りがついていて明るかった。縦に長い四角いドアのない入口から薄暗い廊下に黄色い光がはみ出している。光のすぐ側に平沢が立っていた。ジャケットの前を開け、片手をズボンのポケットに突っ込んだ姿勢で、平沢は二人の対立を耳にしていた。

 平沢は止めにはいるでもなく、なにかを考えているかのように佇みながら、光に淡く照らされていた。


ーー
ーー
ーー
668 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:40:34.67 ID:z5kRHM0CO

 一夜が明け、今日もオグラはマイルドセブンFKを吸っていた。

 昨夜は大雨が降り、あたり一面をすっかり湿らせ、屋外の喫煙スペースの庇に覆われていないコンクリートの部分は日差しに照らされているいまも黒いままだった。

 雲が多く風が強い、太陽の光も弱い。太平洋側の高気圧が南に去り、北から寒気が南下してくるので、天気予報では明日もまた雨になると言っていた。台風の季節だ。

 オグラは雨に匂いがする大気にタバコの煙を吐き出した。白い煙が漂い、溶けていくようになくなった。


永井「オグラさん、ちょっといいですか?」


 永井がベンチに座って火を点けたばかりのFKを吸っているオグラに呼びかけた。オグラは永井に振り向きもせず、言った。


オグラ「タバコはやらんぞ」

永井「いりませんよ」

オグラ「こいつはおれのテロメアだ」

永井「ああそうですか」


 灰皿をあいだに挟むかたちで永井はもうひとつのベンチに腰かけた。
669 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:42:01.66 ID:z5kRHM0CO

永井「昨日いってた僕のIBMの話」


 まだ警戒を解いていないのか、そっぽを向いてタバコを吸い続けているオグラに永井は話を切り出した。


永井「あれは自走する理由であって、むやみに暴力を振るう理由の説明にはなってません。暴れるのをどうにかしないと、たくさん出せても役に立たない。なにが原因ですか?」

オグラ「男の子が向かいのおばさんにデブと言った」


 またも突拍子ない返答。永井は呆れ顔になった。が、次の言葉を聞き、真面目な顔つきを示した。


オグラ「だが悪い子じゃない。母親のよく言う陰口を真似してたんだ。農家の亜人の例でわかる通り、自律したIBMの挙動は飼い主の性質に起因する。たとえばきみが人間嫌いだったとしよう。そういったことがIBMを暴力行動に走らせる」


 オグラがタバコの灰を落とすあいだ、話が中断した。指で挟んだタバコを灰皿の縁でとんとん叩くと、オグラは口許にタバコを持っていき、結論を言った。


オグラ「IBMを変えたければ、きみ自身を変えることだ」
670 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:43:25.01 ID:z5kRHM0CO

 タバコの煙が白く上昇する様子が喫煙所の影になっているところでははっきり見えたが、白く漂う流れは光のなかに広がるとまったく見えなくなってしまった。

 永井は明るい場所から眼をそらし、自分がやってきたほうへ首を向け、オグラからそっぽを向くようなかたちで言った。


永井「人は変わらない」

オグラ「まあな」


 喫煙所に真鍋とひとりの黒服が連れだってやって来た。真鍋は永井と眼が合うと、立ち止まり、呼びかけた。


真鍋「永井、戸崎さんが呼んでる」

永井「あ、はい」


 真鍋はそこにとどまり、永井から眼を逸らさなかった。すれ違うとき、真鍋が耳栓をしていることを永井は見てとった。おそらくもうひとりのほうも同様だろう。


永井「ハッ」


 永井はかすかに自嘲の滲んだ声を洩らした。真鍋たちはすぐに動かず、距離を保ちながら永井の後を追った。
671 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:44:52.41 ID:z5kRHM0CO


 作戦会議に使われる休憩室のドアを開けると、そこには永井たち四人を除く全員がすでに集合していた。

 部屋はそれほど広くなく、四角いテーブルが二列になって等間隔に三台並べられていて、テーブルにつき椅子がおおよそ四脚あったが、入口から見て右側の壁、戸崎が立っているほうの壁に近いテーブルには二脚と一脚しかなかった。

 戸崎の右手にある二脚のテーブルには中野と下村がいて、雑談している。

 真鍋たちが部屋に入ってきた。二人は先にいた平沢たちのほうへ歩いていく。

 平沢と最も年が若いであろう黒服の男は、戸崎と向かい合うかたちで壁に背をつけ立ったままでいて、合流した真鍋たちも同様の姿勢をとり、黒服たちは部屋全体を見渡せる位置についた。

 永井は何も言わず、前列の椅子が一脚しかないテーブルについた。中野を伺ってみる。あきらかに弛んでいる。何も分かっていない様子だったが、永井は苛立たなかった。ただ、気楽でいいなと思っただけだった。

 全員が位置についたことを認めると、戸崎が資料を配った。
672 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:46:39.89 ID:z5kRHM0CO

戸崎「暗殺リストの残りは七名、敵はこのどこかに必ず現れる」


 全員が資料をぱらぱらとめくっているのを確認すると、戸崎は一同を見渡して、言った。


戸崎「つまり待ち伏せが得策だ。誰のところでするかだが……」

中野「戸崎さんでいいじゃん」

永井「そうだな。死んでくれればすっきりするし」

戸崎「だまれ永井」


 戸崎は壁に張り付けていた資料から永井に視線を移し、これ以上たわ言を言わないようにぴしゃりと言った。永井は気にもとめず、ペンからキャップを外した。


戸崎「残念だが、私はベストじゃない」


 気を取り直し、戸崎は話を続けた。


戸崎「違法な作戦を展開するんだ。警察やマスコミの目の届かないフィールドが必要になる。適したフィールドをでっち上げ、私を囮にしてもいいが、不自然だ。敵に動きを悟られたくない」

永井「なるほどね」


 この理屈に永井は納得した。ほかの者も戸崎に同意している空気を出した。
673 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/10/15(月) 20:47:34.14 ID:z5kRHM0CO

戸崎「条件にあうターゲットは選んである」


 戸崎は壁にピン止めしてある写真に眼を移して言った。二枚の写真は証明写真に使われるような肩から上を写した顔写真で、男性と女性のものだった。

 男性の方は三十代なかば、濃くて艶のある黒髪を後ろに撫で付けている、自信に溢れた微笑み、自分を生まれながらの上等な人間だと思っている、上向く唇の弧が目についた。

 女性のほうはいくらか年が若いように見え、おそらく二十代後半、シュッとした柳眉、美人だが規律を順守する厳めしい印象を与える顔つき、天然の薄い色の茶髪をシニョンでまとめている。


戸崎「フォージ安全社長甲斐敬一、社長秘書李奈緒美。この二名だ」



 配られた資料はフォージ安全のホームページをプリントアウトしたもので、社の概要や屋内の経路の様子がわかった。

 戸崎が部屋にいる全員が資料に眼を落とすのを眺めながら言った。


戸崎「フォージ安全ビル、頑丈な壁、五階より上は全窓ミラーガラス。悪さするにはうってつけだ。またこの会社は一般的には保護具メーカーとして知られるが、セキュリティサービス業者としての側面も持ち人員の増加も期待できる」 

中野「また飛行機落とされたら?」

戸崎「全国的な警備強化であんな派手なことはもうできない」

永井「ああそれに佐藤は“戦いたがり”だからな」


 永井はペンを動かしながら言った。中野はいまいち永井の発言の要領をつかめないようだったが、他の者たちはどういう意味か理解していた。
674 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:48:46.10 ID:z5kRHM0CO

 あのテロでの佐藤の真の目的はグラント製薬の壊滅ではなく、SATとの戦闘だったということ。旅客機の墜落はメッセージであり、二度繰り返す必要はないということ。

 戸崎の胸中に疑惑が生まれた。SATの配備は極秘だった。だが、佐藤はそのことを知っていた。どこからか情報が漏れたのだ。警察からか、それとも亜人管理委員会からか。


戸崎「時間はない。フォージ安全とは早急かつ個人的にアポをとっておく」


 戸崎はひとまず疑惑を封印することにした。


戸崎「フィールドは決まった。あとはどう戦うかだ」

永井「亜人は三人、数では敵に劣るけど地の利はこっちにあるわけか」


 永井は見取り図に眼を落としながらぼそっと言った。


中野「三人? 泉さんなんか使えねーだろ」


 永井のつぶやきを聞きつけた中野が強い口調で異議を唱えた。下村がむっとした表情をつくった。言われた永井は不思議そうに問題はなんなのか聞いてみた。
675 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 20:50:12.62 ID:z5kRHM0CO

永井「どんな不備が?」

中野「こんな危ないこと女性にさせられるかよ!」

永井「運動会やってんじゃねーんだぞ! 子供だろうが老人だろうが、使えるものは使う!」

下村「中野くん、うれしいけど迷惑だよ。わたしは仕事をサボる気なんてない」

中野「……んー」

永井「当然だろ」


 永井は見取り図に眼を戻し、ペンの動きを再開した。戸崎は頭を抱え、ため息をついた。中野はすこしふてくされていたが、反省した態度を見せた。下村は中野に微笑みかけ、ふたたび穏やかな雰囲気の会話をした。

 平沢は永井がふたりに一瞬視線を向けたのに気がついた。


戸崎「とりあえず十分休憩だ。私は返さなければならない仕事のメールがある」


 そう告げたとき、戸崎はペンが机に置かれる耳にした。音がしたほうに視線を向けると、そこに眼が引き付けられた。

 永井は人差し指でペンを転がしながら、考え深そうに見取り図を見つめていた。

 数多くの書き込み、部屋や通路を表す直線の上にも文字が書き付けられ、敵の侵入脱出経路の予想、各階の設備がどのように利用可能か、こちらの要員をどのように配置すれば優位になるか、検討と思考の重ねたペンの運動の跡がそこにあった。

 戸崎は数秒間そこに眼をとめ、それからドアを抜け部屋から出ていった。


ーー
ーー
ーー
676 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:01:55.63 ID:z5kRHM0CO

オグラ「これが、両手に花ってやつだ」


 まだ夏を引きずっている白く輝く太陽から降り注ぐ陽光を浴びながらオグラは言った。背後では下村のIBMが影のように左右に立ち、あやとりの紐を指に通している。


オグラ「だが、二股はしんどい。どちらかとのセックスは淡白になる」

永井「つまり?」


 永井はうんざりしながら訊いた。下村も同様にうんざりし、中野はそりゃそうだとひとり納得している。


オグラ「IBMは同時に出せる。だが司令塔はひとつしかない」


 下村のIBMが二体同時にあやとりをはじめた。永井から見て右のIBMは器用に二段はしごを作ったが、左のほうはぜんぜん上手くなく、不器用に紐を絡ませている。


オグラ「一体ずつ使ったほうが有意義ってことだ」
677 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:02:52.83 ID:z5kRHM0CO

 言ってから、オグラは永井に視線を向けた。


オグラ「しかし、きみの場合は事情が異なる」

永井「自走するから?」

オグラ「そうだ。しかも発現限度数は最大で九体。フラッド現象にも匹敵する」


 “氾濫”を意味するその現象に聞き覚えはなかった。


オグラ「異常な感情の高まりと復活が重なったとき、“ごくごく稀”に起こる現象だ。このふたつが重なり相乗効果を生み、特別な精神状態に到達することがある。そのとき、文字通り“氾濫”するんだ」

永井「氾濫って、IBMがですか?」


 オグラは永井に応えず、タバコを咥えるとゆっくり味わってから煙を吐き出した。光と煙がいっしょになるまでオグラは何も言わなかったから、永井には時間がひどく緩慢に過ぎているように思えた。


オグラ「あるオランダ人金メダリストの話をしよう」
678 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:03:42.29 ID:z5kRHM0CO

 やっとのことでオグラが口を開いたが、切断された話は全然関係ないところに繋げられた、中野は何の話だというような顔で永井を見たし、下村も困っている、永井は諦めを感じつつも口を挟まずにはいられない。


永井「要点だけ言ってくれません?」

オグラ「彼はスピードスケートの選手で、そして亜人だ」


 思わぬ軌道を描いて話は本筋に戻ったようだが、オグラの話し方は永井の要望が聞き届けられたようには全然聞こえなかった。


オグラ「ゴール直後、彼は転倒し死亡した。周りは気づかなかったがね。そのときだ、勝利の喜びと復活が重なり、フラッドが発現した」

オグラ「リンク上に十〜十五体のIBMが出現し、消失するまでの約五分間、歓喜し続けた。焦った当人がIBMたちに退場するよう命じたにもかかわらずだ」

オグラ「これが何を意味するか。フラッドで作り出されたIBMは、発現の発端となったシンプルな感情に従い行動し続ける。まさに氾濫状態、コントロール不能」

中野「いまとそんな変わんねえじゃん」

永井「だまれ中野」
679 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:04:48.32 ID:z5kRHM0CO

 中野が口を挟んだおかげで閑話休題となり、今度はIBMを使った実戦形式の訓練となった。

 IBMを発現できる永井と下村が撃ち合いをするみたいに距離をとって向き合い、同時にIBMを発現する。

 永井のIBMは生まれ持った敵意と凶暴性を全身にみなぎらせ下村へ突進していった。待ち構えていた下村のIBMが鋭い手刀を瓜を叩き割る鉈の一撃のように頭部に叩き込んだ。

 頭を失ったIBMは膝をストンと地面に落としたが、それでもまだ最期のあがきを残しているような気がしてその身体が完全に消失するまで下村は気が抜けなかった。

 永井のほうは、まったくもって衝動的な自分の分身に嫌気がさしていた。分身であるだけに、中野の頭の悪さとはまた違った憎々しさを感じている。

 もっと狡猾であればいいのに、と永井は思った。ジャック・ロンドンの小説に出てくる狼と犬との私生児、悪魔のような合いの子みたいに。


オグラ「IBMを消失させる手段はふたつある。収束を待つか、頭部へのIBMによる打撃だ」


 草の上にタバコの灰を落としながらオグラが言った。
680 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:05:28.67 ID:z5kRHM0CO

オグラ「人間が三十七兆個の細胞の寄せ集めなようにこいつらも粒子の集合体にすぎない。隣り合うIBM粒子同士が特殊な化学結合で結びつき、肉体を形作っている。
 これは分断程度の別離では断ち切れない。お互いを引っ張りあい再結合する。だが、IBM同士が強く衝突した場合、異なる情報を持つ粒子が混ざりあってしまう。
 混線状態だ。再結合するべき粒子と連絡がとれなくなり、結果、お互い散り散りに。よって相殺する」


 下村のIBMが消失し発現できる限度を迎えたので、オグラの講座は終了となった。オグラは新しいタバコに火を点けながら、“なりかけ”のことを言い忘れていた、まあいい、また今度だ、などとぶつくさ言いながら去っていった。

 永井と中野にはまた別の訓練が待っていた。

 今度の講師は黒服のふたりで、永井はこのふたりの名前を知らなかったし、黒服のほうも名乗らなかった。

 九月とはいえまだ暑さも残っているのに、ふたりともスーツ姿だった。年の若いほう(おそらく三十代、戸崎と同年代)は黒いジャケットの下にワイシャツを着ていて一番上のボタンを外していた。ネクタイはしておらず、そのおかげかわりと涼しげで汗ひとつかいていない。

 もうひとり、艶のある黒髪をオールバックにした四十代とみられる男は同じジャケットの下に深い赤茶色のTシャツをのぞかせていて、襟のところをを黒く湿らせていた。
681 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:06:17.52 ID:z5kRHM0CO

 草の上にボックス型のガンケースがふたつ置かれていて、波形の表面が鈍い銀色の光を反射させている。

 彼らはケースから拳銃を取り出し、弾倉を装填してからスライドを引いた。ホテルの裏口からタイルを敷いた散歩用の小道が延びていて、小道の向こうに的になる看板があった。

 若い黒服が拳銃を構え、引き金を引いた。パン、パン、パン、と小気味良いリズムで看板に穴が空いていく。


黒服1「敵は武装している。これくらいの銃器の使い方は覚えておいて損はないだろう」


 若い黒服が弾痕がある箇所を確認しながら言った。弾は撃ち尽くしていて、すべて急所があるところを貫通していた。


黒服1「まず持ってみろ。次に……」


 黒服がレクチャーするまえに永井はヘッドホン型のイヤーマフをつけ、さっき黒服が行った動作をそっくり模倣した。パン、パン、パン、と引き金を引く速さも同じだった。

 ただ手に伝わる反動と慣れないために片眼を瞑ってしまったことによって、──北さんを撃ったときは暗闇だったし、顎の下に銃口を当てていたので眼を瞑っていても問題はなかった──発砲音より弾痕の数は少なくなってしまった。
682 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:07:04.76 ID:z5kRHM0CO

永井「一発はずした」


 永井は左手の人差し指をフレームの上に置くと、銃口をすこし下げ地面に向けた。すでに手慣れた手つきでマガジンをリリースする。その様子を驚きながら見ていた黒服がみじかく笑った。


中野「え!? 連射ボタンねえの?」


 森から聴こえるツクツクボウシの鳴き声を割るように中野が声をあげた。中野を指導している黒服は半分呆れ、もう半分は笑いながら


黒服2「うるせえ! いいからまず見てろ」


 と言った。

 永井は黒服が替えのマガジンを持って声をかけるまでそのやりとりを眼を向けて見ていた。

 引き金を引く前に、黒服からフォームについて指導された。右腕をまっすぐ伸ばし、左腕をすこしだけ曲げる。足の開きかたや重心の置き方なども指摘され、永井は黙ってそれに従った。

 冷静に引き金を引き続ける永井の横で、おそるおそる拳銃を持ち、おっかなびっくり引き金を引く中野に黒服が仕方のないやつだとでもいうような視線を注いでいる。

 トレーニングは二時間ほどつづき、きわめてシステマティックな指導を受け的確に反応する永井とは対照的に、中野は黒服と掛け合い、逐一指摘されながら面倒を見られていた。

 日が傾いてきたころにトレーニングが終わった。手が痺れてあかくなっているところを親指で押さえながら黒服たちに訴える中野をよそに、手をぐっぐっと明け閉めしながら永井はひとりホテルへと戻っていった。


ーー
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ーー
683 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:08:10.50 ID:z5kRHM0CO

 夜食を摂り、食後の作戦会議も終わった。戸崎はフォージ安全での作戦展開の許可をとったことを告げ、より詳しい施設の情報を開示した。それによって実行可能なプランが絞られ、それぞれのプランの具体的な検討に入っていった。

 永井はそれらを聞きながら、ビルの十階にある、とある設備にひとり注目していた。

 会議が終わり、就寝するまで各々が必要なルーティンをこなす時間ができた。戸崎と下村は厚労省の仕事をしていた。オグラは煙草を吸い、中野はテレビを見て笑っていた。

 装備の点検を終えたあと、若い黒服はフェルナンド・ペソアを読み、年嵩の黒服はシャワーを浴びたあと、国外の治安情勢をネットニュースで調べていた。平沢と真鍋は缶ビールを開け、てきとうにおしゃべりしていた。

 数缶開け、就寝のためそれぞれの部屋に戻る前に、真鍋はトイレに立ち寄った。消灯された廊下はすっかり暗い。


永井「あの」


 トイレから出てきた瞬間、背後から声をかけられた。真鍋は素早く身を翻すと、腰のホルスターた差してあった麻酔銃を手に取った。

 永井が驚いた表情のまま固まっていた。
684 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:09:21.87 ID:z5kRHM0CO

真鍋「……永井、なんか用か?」


 永井は応えず、真鍋が背中に隠している右手があるところに視線を向けた。ふたりとも黙ったまま何秒か過ぎた。


永井「別に、あとでいいです」


 そう言うと、永井は背中を向け去っていった。一歩進むごとに身体の線は暗闇にのまれ、見えにくくなっていった。
 
 真鍋は永井が廊下の角を曲がり、その姿が完全に見えなくなるまでその場に立ち、麻酔銃を握ったまま、その後ろ姿を見送った。


ーー
ーー
ーー
685 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:10:49.24 ID:z5kRHM0CO

 気温は二十度をすこし上回るくらいで、昼時に比べるとずいぶん涼しくなっていた。おまけに夜風がおだやかに森を吹き抜けていたので、木々の心地よいざわめきが起こり、秋虫の鳴き声と重なって調べをつくっていた。

 永井は低い石垣に腰掛け、ひとり考えにふけっている。

 月の光は葉の上側だけを照らしていたから、永井のいるところには細い光線が幾条か射し込んでいるだけだったが、樹木から吊るしたLEDランタンが蜂蜜のように黄色く透明な灯りで明るい場所をつくり、座った目線にちょうどいい位置にピンで木に留められた資料の細かい文字まで読めるよう照らしだしていた。

 皮膚や眼や鼓膜にやわらかく触れる、包み込むかのようなこの環境を永井も感じていたが思考に追われ、風と光に身を任せるほど意識にのぼってきてはいなかった。
686 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:12:11.09 ID:z5kRHM0CO

 佐藤要撃のためのプランは詰めの段階まできていた。戸崎がより詳細な現地設備の情報を持ってきたことから、亜人に対して有効な要撃プランを作ることができた。あとは実際の現場を見て、細かい点を修正していけばいい。永井はそう考えていた。

 要撃のメインとなるのは黒服たち、やつらをどのようにして動かせばいいか、戦闘経験を積んでいるから簡単には僕の指示に従わないだろう、いや、プランの有効性を示せば動くか?
 
 すくなくともやつらはプロだから感情で判断しない、だが内部の感情をすべて殺しきることはできない、問題はその度合いだ、心理の問題、問題はいつだってそれだ。


平沢「永井」


 呼び掛けれ、永井は顔をあげた。平沢が永井を見下ろしていた。いつものようにスーツの前を開けて、立っていた。照らされているところと夜のところのあわいのところだった。


永井「えーと……平沢さん、でしたっけ?」

平沢「真鍋から聞いたが、なにか用でもあったのか」


 永井はすぐに応えず、視線を平沢から正面に戻し、自分ひとりで考え事をしているといいたげな態度で言った。


永井「いや別に。体重や身長のデータとかもあったほうがいいかもと思っただけです。でもなくても全然大丈夫なんで」


 平沢は眼を合わさない永井の横顔を見つめながら、訊いた。
687 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:13:13.22 ID:z5kRHM0CO

平沢「おまえ、寂しいのか?」

永井「はあ!?」


 思ってもみなかったことをいきなり聞かれ、永井は素っ頓狂を声をあげた。平沢はとくに反応を示さず、永井から人ひとり分ほど距離をとって石垣に腰を下ろした。平沢は上半身を永井のほうに傾けると、話を続けた。


平沢「他人の心を一切汲まない自分の言動を本当に正しいのかと迷ってる、かわるべきなんじゃ、と」

永井「それはないね」


 永井はまたも正面を向いた姿勢のまま即答した。


永井「僕はめちゃくちゃなことなんかひとつも言ってない。合理的に判断を下すだけだ。変わる必要性がどこにあるんだよ」


 喋っているうちに口調が強くなっていき、最後にはほとんど叩きつけるようになっていた。

 食ってかかる響きのこもった永井の言葉を聞いても平沢は態度を変えなかった。平沢はともすれば興味がないと思えるほどあっさりと永井に応えを返した。


平沢「ああ、その通りだ」


 永井の眼と口が開いた。
688 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:14:14.31 ID:z5kRHM0CO

平沢「中野ってやつは、他人の信頼を得るのがうまい。同じ教室にいたらあいつはヒーローで、おまえはただの嫌なやつだろう」

平沢「だが、ここは学校じゃない。ここじゃあ、倫理や感情を断ち切る圧倒的な決断が必ず必要になる。本当だ。おまえはそれができる」

平沢「信頼関係を築くことももちろん役に立つが、それはおまえの仕事じゃない」

平沢「おまえはそれでいい」

永井「……だから、わかってるって」


 永井は、自分でもなぜかわからないがそっぽを向いてしまった。


平沢「そうか。なら、おれの勘違いだ」


 平沢が腰をあげ、立ち去ろうとした。拡大された影が回り込むように揺らめいた。鈴虫のいる草を踏む足音、蛾がランタンにぶつかる音、蛾は光源の発光ダイオードを求めて何度もぶつかった、コッコッ、リリリ、カサカサ。


永井「父は優秀な外科医だった。どんな患者にも親身なれて、退院した人から毎年手紙が届くくらいだ」

永井「それこそが、最大の欠点」


 永井は不意に語り始めた。平沢は立ち止まった。永井の語り口は燠火の前で語られる独白のようだ、

 平沢は振り向かず話を聴いた。助かる術のない患者、ドナーはいない、臓器売買に手を出し、結果すべてをうしなう。感情を優先させた結果。他人の死を受け入れなかった結果。
689 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:15:34.54 ID:z5kRHM0CO

永井「同じ失敗はしない。僕はバカじゃないから」


 力のこもった、決然とした口調だった。


平沢「頭の出来は年功序列じゃない。好き勝手ふるまえ。おれはプラン通り動くだけだ」


 それだけ言い残し平沢は去っていった。永井は視線だけで平沢の背中を見送ると、正面の茫洋とした黒い闇に眼をもどした。

 見るかぎり、そこに永井の内面をざわつかせるものはなにもなかった。

 永井は背中をまるめふたたび思案をめぐらした。

 今度ははっきりと佐藤の顔を思い浮かべながら。

ーー
ーー
ーー
690 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:16:28.33 ID:z5kRHM0CO

戸崎「これが意見をまとめ作成した対佐藤の作戦要項だ。全員がしっかり頭に入れておくこと」


 戸崎がクリップで留められた資料を人数分配って言った。資料を捲る面々の様子を視線で見回ると、中野が中学生が背伸びして晦渋な文章を読むときのようにページを睨んでいる。


戸崎「中野、きみは特にだ」

中野「ここなんて読むの?」

下村「ん? 進攻」


 自分の力で読み進めることをあっさり諦めた中野は、隣に座る下村に単語の読み方を聞いた。

 戸崎は自分の名前に使われている漢字が読めない中野に絶句していた。

 永井は作戦要項の内容にどれだけ自分の意見が採用されたか確認しようと資料をするどく注視していたが、黒服たちがページをめくり、紙が擦れる音がかすかに耳に届いた。

 真鍋が眼を留め、固定されたかのように頭の位置が動かなくなった。


真鍋「三ページ目……こんなことおれらにやれってのか」


 真鍋はぼそりと、部屋全体に行き渡る声で言った。


真鍋「ここおまえの案だろ、永井」

永井「だから?」


 永井は無感情な声で問い返した。

 真鍋はふっと気の抜けたようにちいさく笑った。


真鍋「おもしれえじゃねえか」


 永井は眼でそれに応じた。眼にはかすかに自信をのぞいていた。


ーー
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691 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:17:39.02 ID:z5kRHM0CO

 メールを送信しスマートフォンをポケットにしまうと、永井は掌を上に向けた。掌に意識を向けると黒い粒子が立ち昇ってきた。粒子は一条の狼煙となって夜の空の星たちのあいだを通過して、宇宙の一部になっていくように見えた。

 黒い粒子は一定の間隔で上昇していた。粒子は夜の暗さから独立していて、永井の視力が許すかぎりその上昇はどこまでも確認することができた。


中野「おい!」


 突然、中野が呼び掛けてきた。


永井「なんだよ」


 永井は忌々しそうな視線を中野に投げかけて、いった。


中野「おまえさあ……」


 中野はそこでまばたきして、真剣そうに細めていた眼をもとに戻した。


中野「いい感じの死に方知らない?」


 永井は眼をみはった。だが、すぐに中野が言いたかったことに気づいた。


永井「ああ、オグラさんが言ってたやつか」
692 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:18:36.62 ID:z5kRHM0CO

 永井がオグラにIBMを披露した際、中野は自身の問題について──IBMの発現ができない──オグラに質問していた。


オグラ「IBMを出せるようになる方法? ないな、おれの知るかぎり」

中野「そこをなんとか」

オグラ「値引きの交渉じゃねえんだぞ」


 オグラはタバコのパッケージを指でトントン叩いた。


オグラ「IBM発現は、いわば運だ。亜人のIBM粒子は復活時最も濃度が高くなる。そのとき、なにか特別な作用が起こることがある。トンネル効果と言ってもいい。そうすると、IBMが出せるようになる」


 タバコを咥え、ライターを探しながらオグラはとりあえずの結論を口にした。


オグラ「方法があるとすれば、とにかく死にまくることだな」

中野「えー? 結構死んでるけどな」

オグラ「何十回何百回引かなきゃあ、ハワイ旅行は当たらんよ」


 オグラの仮説を踏まえ、永井は中野が“死にまくる”道具を用意した。
693 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:19:38.30 ID:z5kRHM0CO

 ロープの端を結んで輪を作り、首に掛けられる大きさまで広げると、輪になった方とは反対の端を太い幹から伸びた腕三本分はある頭上の枝に掛けた。永井はぎゅっと引きロープを固定した。

 これで、縛り首の準備が整った。


永井「これなら低コストでかつオートマチックに何度も死ねる。寝てても大丈夫だ」


 ロープを見上げながら永井が平然とした調子で言った。中野はざらつきがある輪っかがランプに照らされ夜のなかに浮かんでいる様子を不吉そうに眺めている。

 永井は中野を横目でちらっと見ると、怯えて躊躇していると感じられた。永井はさっきと同じ調子で、こんどは中野を見ながら気づかうように言った。


永井「なにより苦痛がない。バランスよく二本の動脈が絞められすぐに意識を失う」


 永井の言葉を聞いた中野は、唇を噛んで深く息を吸うとふぅーっと息を吐き、前に進んだ。


中野「やるか……!」

永井「怖がることないだろ」


 椅子に足をのせ輪に両手をかけたまま、中野はまだ躊躇していた。永井はその様子を見上げながら、ふと思ったことを口にした。


永井「そういやおまえって、最初なにで死んだの?」

中野「んー……孤独死?」

永井「それは死因じゃねーよ」


 永井は心のなかでツッコんだ。
694 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:20:32.07 ID:z5kRHM0CO

中野「なあ、永井」


 中野はちらっと永井のほうを向いて言った。


中野「おまえ、よくあんな躊躇なく何度も死ねるよな」

永井「おまえもやってるだろ」

中野「おれはいつだって怖い。だって、もしかしたらだぜ? 次は生き返んねーかもしんねーじゃん」


 中野が自嘲ぎみにそう言うと、永井は記憶の片隅にあったとある情報を伝えた。


永井「うわさ程度のソースだけど、中国の亜人で二千回死んだって記録があるらしいぞ、いまも更新中だとか」

中野「よくやるなあ」

永井「なんだってやるさ」


 中野が数字の大きさに呆れぎみになっていると、永井は即座にこう応えた。


永井「じゃなきゃ先には進めないんだ。怖がる必要性がない」

中野「おまえ凄えな」


 永井は何だかばつが悪くなったような顔をして言葉につまった。中野がまた深呼吸し、輪を握る両手に力を込めた。


永井「いいから、早く死ねよ」


 永井はなにかを誤魔化すようにそう言い捨てた。中野は小さな声で「よし」と呟き、椅子を蹴った。


ーー
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695 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:21:25.93 ID:z5kRHM0CO

 ロシア語のメールを見たとき、アナスタシアは奇妙に思った。考えてみたらロシアにいたときは携帯電話やパソコンは持ってなかったので、こうしてキリル文字の文面を読むのはずいぶん久しぶりだった。

 文章は簡潔だったが、そのぶん明瞭で文法上の謝りはなかった。

 アナスタシアははじめは流し読みした。それから、なかば信じられない気持ちでメールを声に出しながら熟読した。

 メールは永井から送られたものだった。

 佐藤要撃について。役割は正体を気づかれることなく要撃地点に進入し、待機要員として不測の事態に備えること。IBMの使用が前提となる。と、メールには書かれていた。

 ロシア語の文章の下にリンクが貼ってあり、タッチするとページが表示された。このページもロシア語だ。

 リンク先のページではモールス信号の解説がわかりやすく書かれていた。アナスタシアは念入りに頭から終わりまで三回通して読み、これなら大丈夫だという確信を得てから返信した。
696 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:22:14.45 ID:z5kRHM0CO

 永井からの返信はすぐだった。返信メールには画像が添付されていた。

 スマートフォンのカメラで撮影したとおぼしきその画像には、一枚のルーズリーフが写っていた。モールス符号を視覚的に表したキリル文字の一覧表がルーズリーフに記入してある。ふたたびメールの着信。ロシア語で、北西の方角を見ろという指示があった。

 窓を開け顔を出して指示された方角に眼を向ける。まず見えたのは女子寮を囲う塀、塀の向こうにはオレンジ色の街灯と街路樹がある。車の黄色いヘッドライトの移動が見え、夜の暗闇に染められたビルの壁面を一瞬照らす。

 空には紫色をした雲がひとつあり、鉛筆で描いたように月の下部に横たわっている。星の瞬きは数えられる程度。空の大部分は宇宙に飲み込まれつつあるかのように真っ黒だった。

 そのような背景にも関わらず、黒い粒子が上昇する様子をアナスタシアはしっかり見てとることができた。

 符号表と顔を付き合わせながら、空を見上げ、また符号表に顔を戻す。粒子は辛抱強く一定の間隔で昇り続けている。一時間近く経って、アナスタシアはようやくメッセージの内容を把握した。

 佐藤要撃における囮役となるターゲット二名の名前、要撃の舞台となるフォージ安全の簡単な概要とビルの構造、実行の時期は未定、作戦の詳細は追って報告する、と粒子は告げていた。
697 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:23:34.23 ID:z5kRHM0CO

 アナスタシアはメールを送ろうとしたが考え直し、了解の旨を黒い粒子で伝えることにした。窓から手を伸ばし、粒子を放出する。

 アナスタシアは舞い落ちる雪片を眺めるように、空に上がる粒子を見上げていた。 

 視線を戻すと、北西の粒子が昇るの止めていた。アナスタシアは手を引っ込めようとしたが、思いとどまり、手を真っ直ぐ伸ばすと、ふたたび黒い粒子の放出を始めた。

 おやすみ、とアナスタシアは永井に告げた。永井からの返事はなかった。

 アナスタシアはふてくされながらベッドに戻ると、夏用の掛け布団から腕を出して眼を閉じた。すぐには眠れなかった。心臓が早っていた。

 これは恐怖なんかじゃない、アナスタシアは自分にそう言い聞かせ、ぎゅっと閉じた瞼に力を入れた。


アナスタシア「ニ プーハ ニ ペラー」


 アナスタシアは願掛けの言葉をちいさく発した。「獣も鳥も獲れませんように」という意味の言葉。

 ロシアでは成功を祈る言葉を口にすると、すぐそばに潜む悪霊が成功の邪魔をすると言われている。だからあえて失敗を口にして、悪霊を欺くのだ。

 古い迷信で、アナスタシアもこの願掛けを実際に口にしたことは祖母に教えられたとき以来だった。

 いま、猟の失敗を祈願するこの言葉を唱えたアナスタシアは、心のなかでこう思った。

 どうか、悪霊がわたしが思っているより賢いことがありませんように。わたしの心のなかまで見透かすことがありませんように。わたしの恐怖を見透かすことがありませんように。
 


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698 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:24:42.80 ID:z5kRHM0CO

 田中がアジトの通路を進んでいると、棒立ちしている佐藤のIBMに出くわした。ちょうど報告のために佐藤を探していた田中はIBMに呼びかた。が、すぐにこの前言っていたことを思い出し、あげかけた手を引っ込めた。


田中「あれか、放任中か」


 田中はIBMをそこに残し、佐藤を探しにさらに通路を進んだ。

 休憩室代わりに使っている一室に佐藤はいた。明かりを点けず、暗い部屋を照らしているのはテレビモニターの眼に刺すようなチカチカした光だけだった。

 佐藤はキャスター付きの椅子に腰かけながら、コントローラーを手に持ち、FPSシューティングゲームを惰性でプレイしていた。


田中「佐藤さん、五人目片付きましたよ」


 田中は佐藤の後ろを通りすぎると、スチール製のオフィスキャビネットに四隅をセロテープで貼られた暗殺リストから、理鳥 守琴の名前を消した。


田中「次は誰にします?」
699 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:25:36.30 ID:z5kRHM0CO

 ペンにキャップをし、田中は頬についた血を拭いもせず、佐藤に訊いた。佐藤はゲームをポーズ状態にして、ボタンから指を離した。そして、節々から力を抜きながら、佐藤はいった。


佐藤「三人くらいにしとけばよかったなあ」

田中「は?」


 田中は驚き、佐藤に首を向けた。


佐藤「SAT以降、これといった工夫もしてこないし……十一人は多すぎたよ」


 佐藤は何百回もプレイし、攻略し尽くしたゲームのポーズ画面を見ながら、はっきりと不満を口にした。


佐藤「飽きちゃった」

田中「でも……実験に荷担した奴らなんすよ!?」

佐藤「あと六人かあ」


 田中の訴えを聞き流すかのように佐藤が呟く。コントローラーを持ち直し、ポーズを解除すると、戦闘音が鳴り響いた。


佐藤「田中君でやっといてよ」


 カチャカチャというコントローラーの操作音、惰性的なプレイで敵を撃ち殺しながら、佐藤は田中を見ずに話しかけた。


佐藤「もうできるでしょ? 私は次のウェーブから参加するから」

 
 田中は何も言うことができなかった。しばらく佐藤の背中を見つめていたが、やがてなかば呆然としたまま部屋を出ていった。


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700 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:26:32.66 ID:z5kRHM0CO

 アジトの裏に積まれた廃品の山から鉄臭い臭いが漂ってきた。

 何年も前に廃業した工場の裏手には、鉄材や木材、砕けたガラス、絡み付いた鉄線、キャビネット、スチールデスク、パソコン、カーペットや自転車や自動車のドア、扇風機にエアコン、はてはフォークリフトまで投棄されていた。

 どれも錆び付いて、赤茶けている。豪雨でも洗い落とせない錆び付き。いまや廃品全体を覆いつくし、ひとつの物体になろうとしている。

 田中は三十分もまえからそこに佇み、雲の移ろいに従って地面に写ったり隠れたりする自身の影を意識するわけめもなく眺めている。

 田中はさきほどの佐藤のことを考える。

 佐藤さんが暗殺からおりた……いや、暗殺だけだ。闘争はやめてない。
701 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:27:42.75 ID:z5kRHM0CO

 たしかに、暗殺リストの十一人はおれの復讐だ。もっとほかにも殺したい奴はいる。──おれを切り刻んだやつ、精神鑑定をしたやつ、企業におれを紹介したやつ、悪態つきながら排泄物を処理したやつ──

 だが、あの十一人だけにした。それは復讐以上に重要な意味があったからだ。

 無関係なやつなどいないと知らしめたかった。おれの身体で実験した医薬品のCM、おれを乗せて壁に激突した車のCM、どこの薬局にもあり、どこのディーラーにもある。

 それを飲み下して健康を維持し、それを通勤し、休みの日は家族とどこかにでかける。

 おれから生まれたもので、この国の人間は日々を快適に暮らしている。


 おれの苦痛から生まれたもので。


 おれはおれの苦痛から生まれたものをすべて叩き壊し、燃やし、灰にして、滅ぼしたい。だが、それは不可能だ。あまりにも数が多いし、おれはおれから生まれたものすべてを知らない。知りようがない。十年もされるがままだったから。おれは世界すべてに復讐することができない。
702 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:28:32.99 ID:z5kRHM0CO

 だが、知らしめることはできる。

 おまえたちが使っているものはおれの苦痛からできたものだ、あるいはそうかもしれない、違うかもしれない、確実にそうだと言えるものは限られているが、それは大量にあるし、可能性を含むものは定義的にすべてのものだ。

 その可能性を常に考えろ、苦痛から経済を動かす力学が生まれたこと、利益と人権を秤にかければかならず利益に傾くこと、そういった人間がこの国を動かしていること、そしておれたちは何度命を奪ってもそのことに反対するということ。

 あの十一人はそのために選んだ。メッセージとなりうる十一人。猶予となりうる十一人。

 権利が得られなければ、おれたちはもっと殺す。おれたち自身が権利を付与できるように。

 最終ウェーブは個人的な感情では闘いきれない、使命と思わなければ。

 あの十一人は個人的な感情を処理するためのものでもある。だから、佐藤さんには必要のない過程なのかもしれない……


奥山「田中さん田中さん」


 考えに耽る田中に奥山が話しかけた。しばらくまえに奥山が使用している部屋の灯りが消えたことに田中は気づかなかった。
703 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:29:27.06 ID:z5kRHM0CO

奥山「フォージ安全の青写真ダウンロードしたよ。これ、PDFにしといたから」

田中「……奥山」


 田中は奥山にほうを見ずに、口の中につぶやきを籠らせるように言った。


田中「おれは佐藤さんが……何考えててんのかわかんなくなってきた気がするよ」


 奥山はちょっと間をあけて、持っていた杖を肩に置くと、口を開いた。


奥山「『マリオ』やるときさあ」

田中「はあ?」

奥山「ピーチ姫を助けるぞ!ってテンションでやる?」


 ほどよく気の抜けた声で奥山は話を続けた。


奥山「ストーリーは必要だけど、亀を踏み潰すのが楽しいからやるんだろ? 佐藤さんはそういう単純な人だね」

田中「わかりやすく言えよ」

奥山「やるの? やらないの?」


 奥山はUSBを差し出しながら、訊いた。

 田中は奥山を見た。奥山の眼は田中がどうするか真剣に問うていた。

 田中はもぎとるようにUSBを手にとった。


ーー
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704 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:30:04.30 ID:z5kRHM0CO

 田中が気づかなかったことがもうひとつあった。

 佐藤のIBMに声をかけようとしてやめ、田中が通路を奥へと進んだときのことだった。

 棒立ちしていたIBMの左手がゆっくりあがった。六本指が小刻みに震えながら閉じてゆき、人差し指だけが伸ばされた。

 IBMは方向を指し示していた。


IBM(佐藤)『あっ……ちの……部屋……』


 IBMは佐藤と同じ声を響かせた。その声を発したのは、佐藤ではなかった。

 平たい頭をした六本指のIBMは自らの意思ではじめて言葉を話した。


ーー
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705 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/10/15(月) 21:43:12.67 ID:z5kRHM0CO
今日はここまで。

一万字程度ですが、来週には続きを更新できると思います。あと、ハロウィン関係のネタでなにか書こうかと。クローネの誰かを出したい。
706 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/10/20(土) 00:40:13.58 ID:AAkaDZ9k0
追い付いた
もうこれ半分本編補完のノベライズみたいになっとる(誉め言葉)
亜人好きだから嬉しいよ
707 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 20:59:17.26 ID:jiMS7eDVO

 フォージ安全ビルの地下駐車場に国産のセダンと黒のSUVが縦列に連なってすべるように進入してきた。先頭のSUVが柱近くのスペースに停車すると、黒服たちは一斉に下車し、各々の装備を詰め込んだバッグやケースを担ぎ上げた。

 SUVの反対側にセダンが停まった。下村の運転するセダンはカーリングの石のようにゆるやかでスムーズな停車を見せ、なかに乗っている人間にすこしの振動も伝えなかった。


中野「よっしゃ、行こうぜ」


 シートベルトを外し中野がドアの把手に手をかけた。ふと横をむくと永井はシートの背もたれに沈みこんだままの姿勢でいた。前方の席にいる下村と戸崎もほぼ同じタイミングでドアを開けたので、ガコッというロックの外れるときの解錠音がふたつ連なった。
 


中野「永井? なんだよ、また弱音か?」

永井「……」


 永井はよびかけにまっまく無反応だった。完全に気の抜けた表情をしていて、なにも考えてないのか、それとも逆に深く思索している最中なのかわからない。

 昨夜、移動する車内で永井はため息をついた。永井は窓の外に流れゆく風景を、正確には闇に顔を向けていた。いかにも憂鬱そうに。いよいよ佐藤と戦うというときにそんな態度だったから、中野はどうにも不満だった。

 急に永井が思いついたことでもあったかのように身体を起こすと、ドアを開けてそそくさと車から出ていった。中野はすこし奇妙に思いつつ、あとを追った。

 フォージ安全社長甲斐敬一が車からおりた一同を待ち受けていた。
708 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:00:57.27 ID:jiMS7eDVO

甲斐「ようこそ」


 歓迎の言葉もそこそこに、甲斐は一同に視線をむけた。永井圭の姿を認めると甲斐は視線を戸崎に戻した。


甲斐「おもしろいことになってるな、戸崎」

戸崎「昨日の今日で悪いな、甲斐」

甲斐「早いほうがいいだろ。それに私としてもありがたい申し出だ。設備は信頼できるが問題はいつだって人災だ。こんな状況では社員もいつ裏切るかわからんからな」


 甲斐は戸崎も当然同意するだろうといいたげな薄い微笑みを口の端に浮かべながら言った。同時に、その微笑にはどこか揶揄めいた色もあった。

 甲斐は後ろの方に身体を半転させ奥にある金属製の扉に手を掲げた。
 

甲斐「そのエレベーターを使ってくれ。五分だけどこにも止まらず十五階まで昇れるようにしてある。カメラもオフだ。社員にお前らの存在は悟られない」

戸崎「よくあることか?」

甲斐「女を呼ぶ頻度によるな」


 甲斐がほくそ笑んだ。笑みがほのかに嫌らしくなる。それを見て、戸崎はやはり勘づいているのだろうかと訝った。
709 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:02:12.99 ID:jiMS7eDVO

中野「なあ、なんで社員に知られちゃだめなの?」


 エレベーターに乗り込むとき、中野は永井に訊ねた。永井はそれを無視して壁に背中を預け、やはりまだ気の抜けた無表情のままでいた。


平沢「前に言っただろ。われわれの介入を敵に知られないためだ」


 平沢が永井の代わりに答えた。


戸崎「内通者が発生している可能性がある以上、社員すべてに対し秘密裏に動く必要がある」

中野「秘密り……り?」


 聞き慣れない単語のせいで中野の理解はいまいち進まなかったが、戸崎は気にせず、亜人管理委員会内に発生していた内通者に思いを馳せた。

 二日前に都内の高級料亭で亜人管理委員会メンバーの会合があり、戸崎は当初の意志を翻し出席予定だった。そこをIBM二体が襲撃──一体は田中のものだ──したものの、戸崎は不在だった(出席は内通者をあぶりたすための方便だった)。田中のIBMにあせって言い繕った長髪の研究者がもう一体のIBM──なだらかに盛り上がった丘のような頭部を持ったIBMで、首にあたる部分はなく、巨大な手をしていた──に殴り殺された。研究者の顔面は打ち下ろされた拳の威力で表裏がひっくり返りなくなってしまった。そのとき、振り抜ける拳の軌道上に大臣の鼻先があった。鼻先はこそぎとられ、じくじくと痛みだし、指先で拭った血を見つめる大臣の内側にじわじわと恐怖心が湧いてきた。

 この襲撃事件によって、厚生労働大臣および亜人管理委員会は方針を転換、佐藤との対話・和解を進め、現行の作戦の一切に中止が命じられた。つまり、戸崎たちはまったくのバックアップなしに佐藤を拘束しなければならくなったのだ。
710 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:03:18.36 ID:jiMS7eDVO

甲斐「そうだ戸崎、愛ちゃんは元気か?」


 エレベーターの扉が閉まる直前、甲斐が出し抜けに訊いた。戸崎が何も言わず無感情に見つめ返した。


甲斐「ああ、すまない……事故に遭ったんだったな」


 甲斐は失言を本心から詫びた。


戸崎「元気だよ」


 扉が閉まりきるまえ、かろうじて甲斐が視界に入っているとき、戸崎は一言だけ告げた。

 エレベーターが上昇する。甲斐が言った通り、どこの階にもとまらず、金属の箱はなめらかといってもいい運動性を感じさせた。


中野「え? ふたり知り合い?」


 三階を通過したとき、さっきの会話の意味をようやく理解した中野が訊いた。戸崎は前を向いたままこたえた。


戸崎「大学の同期だ。私がこのポストに就いたとき奴に亜人の話を持ちかけた。そういった経緯があるから今回個人的にアポが取れたんだ」

平沢「信用できるのか?」

戸崎「できない」


 戸崎が即答した。


戸崎「だが、命がかかっているからといって平伏すような奴じゃない。攻撃してくる相手は、徹底的にねじ伏せる。それがフォージ安全社長甲斐敬一という人間だ」
711 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:05:07.91 ID:jiMS7eDVO

 十五階に到着すると、もう一人のターゲットであるフォージ安全社長秘書、李奈緒美が戸崎たちを出迎えた。李は一同を応接室に案内すると、施設の説明のために同階会議室に何名か来るように依頼した。戸崎と下村が説明受けることになった。


李「フォージ安全ビル。全高百十五メートル、地上二十六階」


 天井のプロジェクターから真っ直ぐにのびた光線がスクリーンに投影され、施設の外観が映る。


李「昇降方法はエレベーター四機と荷物用が一機、階段が二箇所、小さな郵便物用のリフトも一機あります」


 李が手元のタブレット端末とスクリーンに視線を行き来させながら説明する。


李「ビル外面の全窓は弊社開発の強化ガラスで戦車の砲弾も防ぐ世界最高強度を誇ります。一〇uでないと強度を実現できないことやコストの問題等から商品化には到りませんでしたが、プロモーションも兼ね自社ビルの窓に採用しています」


 画面が強化ガラスのアップから別の画面に移り変わる。一階の様子。戸崎たちはここを直接眼にしていない。


李「一階ロビーには検問ゲートがあります。どんな訪問者もここでIDチェック、金属探知、身体検査を受けます。社員も例外ではありません。不審者がいれば、防犯シャッターが下がり侵入を防ぎます。郵便物も同様。X線検査、生物・化学剤検知等をパスしなければ通過できません」


 李の説明に従うように映像は検問、シャッター閉鎖、X線検査のイメージを映した。


李「二階から十三階までは十階を除き同じ間取りのオフィスが続きます。十階は機械室、空調・水道・ガス・電力等を管理しています」


 オフィス内の仕事風景が映されていたのは短い間で、すぐにパイプや機械類に埋め尽くされた十階フロアの風景に切り替わる。


李「空調はビル内で化学兵器が使われる自体を想定して作られており、一部屋につき六秒で完全に新鮮な空気に換気することもできます。これらの配管はビル全体に広がってますが、人が入って移動できるような物ではありません。ここまでが一階から十三階の説明です。次に十四階」


 映像がまた切り替わる。
712 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:06:50.73 ID:jiMS7eDVO

李「十四階はセキュリティ・サーバー室。ビル全体の情報・防犯設備はすべてここで管理しています。ここのコンピューターは外部のネットワークと断絶されており、ネットを介してハッキングすることは絶対に不可能です。この部屋にスプリンクラーはありません」


 セキュリティ・サーバー室の天井にカメラが向けられ、備え付けられた消化設備がアップになる。


李「精密機械に水は天敵です。火災が発生した場合はCO?を放出し鎮火します」


 ガスが噴射された場合、サーバー室には速やかに警報が鳴り響き、職員を避難させるようになっている。


李「そして次に十五階。いま、わたしたちのいるフロアです」


 スクリーンに社長室が映る。甲斐とおぼしき人物がデスクに座っている。カメラが引いた位置に置かれているため、顔が判別しづらい。背後は全面窓になっていて、オフィス街の様子が見渡せる。


李「十五階は社長専用のフロアと言っていいでしょう。社長室がある他、社長専用の応接室、会議室、宿泊室など。甲斐社長は年間三百日以上このフロアで過ごします。ほとんど自宅へ帰ることはありません」


 また映像が切り替わる。開発部門の紹介。ピストル型の麻酔銃を研究開発の様子。


李「最後に十六階から二十六階、開発部門です。製品の開発・試作・実験施設が続きます」


 李の説明はそれで終了した。
713 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:08:12.45 ID:jiMS7eDVO

戸崎「聞いている通りですね」


 部屋の照明がつけられた。戸崎は椅子の背もたれに少しだけ背中を預けると、李の説明が甲斐から聞かされていたものと合致していることについて考え、李のほうを向いて訊いた。


戸崎「たとえば図面にないような隠し部屋等、そういったものは本当にないんですね?」

李「ありません」

戸崎「警察のビル内警備は?」

李「許していません。ビル周辺の巡回は増えましたが、社長は警察批判で有名ですから。『真に安全を守れるのは民間企業だ』と」

戸崎「わかりました」


 甲斐の持論はともかく、警察の介入がないのは──少なくとも、作戦開始時において──戸崎たちにとってもメリットがあるとはいえた。

 リストの五人目が殺害された際、現場から一人の生存者が発見された。それは周辺警護にあたっていた警官で、警護計画の内容を知ることができる立場にいた。

 すでに社内に発生しているかもしれない内通者をこれ以上増やす必要もなかった。


戸崎「李さん、あなたはなぜリストに?」


 戸崎はふと、リストに記載された人物を調査しているときに覚えた違和感を本人にぶつけてみた。


戸崎「ただの社長秘書。狙われるポジションの人間とは思えないのですが」

李「いえ、当然です」


 李は感情はおろか意思決定さえも抑え込んだ無表情を作り、応えた。


李「わたしは、狙われて当然……」



ーー
ーー
ーー
714 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:09:55.20 ID:jiMS7eDVO

黒服2「うろこ雲か……」


 年嵩の黒服が暮れなずむ空に散らばる黒い雲の欠片をながめながらつぶやいた。

 十五階のゲスト用の宿泊室の北側に面した壁面はガラス張りになっていて、周囲のビル群を見下ろし睥睨することができた。

 日がな一日天候は不安定で、鈍色の空からポツポツと雨滴が降り落ちてはやみ、またポツポツ降り始めるという具合だった。それだけならたいしたことはないが、なにしろ風が強かったので、傘が手の中で独楽のように暴れまわるのがやっかいだった。

 茜色の空の天頂のあたりが青みがかった薄闇に染まりはじめていたが、全体としてはまだ赤い部分が支配的で風のうねる音はビル群にのしかかる竜の唸る声のようだった。


真鍋「台風が近いってな。予報で言ってたぞ」


 真鍋が麻酔銃の照準をたしかめながら言った。平沢は隣で拳銃を分解して整備している。若い方の黒服はベッドで本を読んでいる。真鍋たちを挟んだベッドの反対側にデスクがあり、戸崎が椅子に座り並べてノートパソコンでニュースを見ていた。下村はいつものように戸崎の側にひかえている。


中野「なあ!」


 弛緩してはいないが張りつめてもいない待機時間に耐えかねて、中野が叫んだ。


中野「いつ来るんだよ、やつらは!」


 中野は準備万端で、ショルダーホルスターを付け予備のマガジンを両脇から下げている。
715 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:11:07.33 ID:jiMS7eDVO

戸崎「それはわからないな。二分後か二週間後か。張り切るのはいいが、気張りすぎるのもよくない」


 デスクのところから戸崎が返事をした。中野はあまり納得していない様子で窓とは反対側にあるソファを指差して言った。


中野「じゃあ、あれは?」

戸崎「あれは……」


 戸崎は首を巡らしソファに視線をやった。


戸崎「張らなさすぎだな」


 視線の先にあるソファはシックな色調のソファで、そこに永井がだらしなく寝ころがっていた。永井は戸崎たちに背を向け、右足をソファからはみ出させ親指の先を床に垂らしていた。永井の履いていたスニーカーは寝ころがってから脱ぎ捨てられたので、左右の靴がそれぞれ意思を持ったように別々の方向に先を向けてソファのまえに転がっていた。


中野「永井、そんなんでいいのかよ」


 中野がつめよってきても、永井はなにも言わずボーッとしてるままだった。


平沢「中野、ほっとけ」


 平沢が手元の拳銃に視線を落としたまま言った。


平沢「というより、ほっといてやれ」
716 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:13:05.58 ID:jiMS7eDVO

 それから一日が経過した。佐藤の襲撃はまだなく、永井も無気力に寝ころがったまま。いまは通路のベンチに横たわり、背中をガラス張りの窓に向け太陽の光を浴びて暖まっている。


中野「おい」

永井「あ?」


 うとうとしているところに中野がやってきた。ベンチの端を軽く蹴り、永井の意識をしゃっきりさせようとした。


中野「永井、ビビってんのか?」


 つっかかるような言い方ではなかった。中野は永井の不安がどこにあるのかわからないながらも、どこかはげますような声でつぶやくように言った。


中野「いいじゃねえかよ、負けたって。次がんばれば」

永井「中野……次なんかないんだよ」


 身体を起こしながら永井が応えた。


中野「死なねえんだから次くらいあんだろ」

永井「佐藤にドラム缶詰めされて余生を送るだけだ」 

中野「そうなったら警察か自衛隊がなんとかしてくれんだろ」

永井「対応が遅い」
717 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2018/11/04(日) 21:15:03.08 ID:jiMS7eDVO

 そう言ってから永井は左手を前に持ってくると右肘だけで支えていた上半身をさらに起こし、中野の顔をじっと見据えた。


永井「なあ……おまえにはわからないだろうけど、こんな好条件は二度と揃わない。これが失敗したら、確実に終わりなんだよ」


 そして、永井は中野の言葉を肯定した。


永井「ああ、そのとおりだ。僕はビビってる」


 そのとき、ベル・ヘリコプター社とボーイング・バートル(現ボーイング・ローラークラフト・システムズ)が共同開発した垂直離着陸機?V-22 オスプレイが音もなく突如として窓の外に現れた。

 コックピットに佐藤の姿がみえた。


佐藤「やあ」


 プロップローターは回転しているのに、なぜかその音が窓を震わせることはなかった。にもかかわらず、佐藤の挨拶を永井ははっきりと耳にした。

 M134 7.62mmミニガン・ターレットが駆動する、その様子が、永井の眼に、ストップモーションのように、分割された、時間として、写った。


ーー
ーー
ーー
718 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:16:09.33 ID:jiMS7eDVO

「ギロチンで首を斬られても、数十秒は意識があるらしいね」


 と、佐藤が言う。


「私の昔の知り合いはワイヤーを使ってベトコンの、まだ子どもだったんたけど、その十三歳くらいのベトコンの首を切ったとき、その子の意識はちゃんとあって、じっと彼の眼を見つめていたそうだよ」


 そう言う佐藤の手は血で濡れていた。


「そのことを思い出してね、それで私もやってみたんだ」


 佐藤は手に斧を持っていた。斧の刃は血塗れで、ねっとりと輝ている。


「二回やって一回成功した」


 よく見れば、斧の刃に髪の毛が張りついていた。


「失敗した方はきみにあげるよ」
719 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:17:38.18 ID:jiMS7eDVO

 そう言って、佐藤は頭ひとつ投げてよこした。ごろごろ転がってきた。完全な球じゃないから、ときどきぽんと跳ねたりした。眼の前にやってきたそれは長い亜麻色の髪をなびかせ、ぴたりと止まると、その顔を見せた。


 美波の顔をしていた。


 自分がいまいる建物が崩壊しつつある、足場がぐらつき、コンクリートが崩れる轟音と窓ガラスが割れる音、そして吹きすさぶ狂暴な風の音が耳を襲った。

 それらの音が自分の喉から絞り出された絶叫だと気づいたとき、佐藤は首のない死体を引き摺ってビルの屋上から飛び降りようとしていた。

 死体は夏用の学生服を身にまとっていて、首の断面から黒い粒子が湧き出していた。


 新しく出来た永井圭の顔が、首だけになった美波を見た。
720 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:19:28.54 ID:jiMS7eDVO

 アナスタシアは眼を覚ました、汗びっしょり、三十秒してようやく眼が自分の部屋の天井を認める、あまりの悪夢に泣きたくなる、息を吐く、ベッドから這い出ようとする、パジャマがべっとりしている、冷たい感触に嫌な予感をおぼえる、掛け布団をめくる、人型の染み、地図にはなってない、安堵ともに気が抜ける、落ちるようにベッドから出る、しゃがみこみベッドの縁に頭を預ける、が二度と眠れそうな気がしない。

 頭を沈み込ませていると、頸椎に押され皮膚が伸びてゆく感じがした。アナスタシアは額にマットレスの反発を感じつつ、頭のことを考えた。額から後頭部にかけての丸み、そこから首の付け根までを頭のかたちとして意識する。首の後ろの皮膚を張り出している首の骨、ここを絶たれると亜人も死ぬ。正確には断頭され、その頭部を回収範囲外に置かれたまま復活すると新たに頭部が作られる。そのとき、断頭された方の頭部、生まれたときから存続してきた意識は死をむかえる。

 断頭のことを聞かされたとき、アナスタシアは「断頭=死」という永井が認識している等式をイメージとして感じ取ることができなかった。運転席で話を聞いてる中野も同様で、「全然わからない」と全然わかってなさそうな表情で言った。
721 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:20:45.91 ID:jiMS7eDVO

 永井は宗教的な意味での魂とかスワンプマンの思考実験などといった方向から説明するのを一瞬であきらめ、中野とアナスタシアのスマートフォンを頭に見立てて説明することにした。


永井「これをもともとのおまえらの頭部だと思え」


 永井は右手に中野のスマートフォンを掲げながら話はじめた。おまえらと言いつつ、永井は中野にもアナスタシアにも視線をあわせず正面を向いたままだった。


永井「断頭時、この頭部が回収範囲の外に出たとする。新しい頭部がつくられ、まったく同じ記憶・心もつくられるが、離れた頭部から意識が抜け出して新しい頭部に移るわけじゃない。新しい人格は生きているが、離れた頭部の人格は永眠している。つまりこっちがこうなると」


 そこまでしゃべったところで、永井は車の窓から中野のスマホを投げ捨てた。


中野「え? 投げた?」

永井「これが新しくできる」


 今度は空いた手でアナスタシアのスマホを掲げる。
722 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:22:04.22 ID:jiMS7eDVO

中野「おれのケータイ投げたの?」

永井「そうだけど」


 「なんで投げたんだよ」と叫びつつ中野は運転席から外に飛び出した。アナスタシアが前部座席で繰り広げられている滑稽なやり取りに呆気にとられていると、スマートフォンがひゅるひゅると縦に回転しながら眼の前にやってきた。


永井「機能的には同じだが、存在的にはまったく別。そのスマートフォンと同じだ。機種変更する前のものと同じデータを保存し、同じ機能を果たすけど、構成している物質はまったく別。スワンプマンが定義的に歴史性を持たないのと同じ」


 アナスタシアは投げ返された自分のスマートフォンを見つめた。蚊を叩くようにパチンと手を合わせて受け止めたそれは、一月ほどまえに買い換えたばかりの新しいスマートフォンで、永井の説明を反芻しながら眺めてみると、どこか見慣れない、いつも使っているものにかたちは似ているけど違和感を放つ物体のように思えてきた。

 もし切り離されたら、切り離されたことに気づいているのは自分だけになる。亜人にとって断頭は、物理的な切断にとどまらず、時間的な切断でもあり──誕生したときから記憶を保存し、細胞を入れ換えながらおおきくなって感情を育んできた器官が経験した年月の切断──、わたしは死んでいるのに、周囲の人間はそのことに気づかない。友だちも家族も気づかない。わたしの死を知っているのは、わたしだけ。それは、あまりにも絶対的な孤独だと、アナスタシアには思えた。
723 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:23:33.66 ID:jiMS7eDVO

中野「おい、ケータイ見つかんねえぞ」


 中野が助手席の側に寄ってきて、永井に話しかけてきた。


永井「あるだろ、そこらへんに」

中野「おまえも探せよ」

永井「めんどくさい……」


 永井は自分のしたことなどすっかり忘れたかのように気だるげにぼやいたが、シートの背もたれに背中を深く預けた姿勢でポケットからスマートフォンを取り出すと、アスファルトの上だかどこかに転がっているはずの中野のスマホに電話を掛けてみた。

 着信音が鳴り響いたが、位置まではわからない。画面が光っているはずなのたが、射すようなブルーライトの眩しさも眼に写らなかった。結局、三人は車から降り(アナスタシアがなんとか永井を降ろさせた。そのときの永井は渋々としていた)着信音に耳をすませるとその音はこもって聴こえ、音がするところに近づくと側溝を覆うぶ厚いコンクリートふたの隙間から光が洩れ出していることにきづいた。

 中野はさっそくふたを持ち上げにかかった。ふたの重量はかなりのものだったが、持ち上げられないこともない。だが、ふたの持ち手、つまり隙間は片手の指が四本入るか入らないかくらいしかあいておらず、渾身の力を込めてもふたを側溝からどかせられるほどはあがらなかった。
724 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:26:02.27 ID:jiMS7eDVO

中野「手伝ってくれ、永井」

永井「指が擦りむける」

アナスタシア「アーニャがやります」


 アナスタシアは憮然としながら前に進んだ。言い訳するにしてももっとましな説得力のある言い方をしてほしいものだというふうに態度で示しているかのようだった。

 その白くて細い指を隙間に入れるまえに、中野が「ちょっと待って」とアナスタシアを制した。ふっ、と気を抜くように息を吐き、わずかに力を抜いてから右腕に──指、手首、上腕にかけて──一気に力を込める。ふたがふたたび、さっきよりも少し持ち上がり、中野がアナスタシアに「いま!」と指示を飛ばす。

 アナスタシアが指を突っ込み、身体ごと持ち上げる。ふたがくっと上がり、止まる。少しだけしか上がらなかったが、中野が左手の指を入れ込むだけの隙間はできた。

 指からふっと重さが消える。ふたは一瞬、垂直になって静止したかと思うと、銃で撃たれた者のように後ろに倒れた。コンクリートのふたがアスファルトにぶつかったときの衝撃はすさまじく、それこそ銃声のような音を響かせた。事実、アナスタシアはその音のあまりの大きさにたじろいでしまった。
725 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:27:22.78 ID:jiMS7eDVO

 中野は膝まづいて側溝にぽっかり空いた暗闇に眼を凝らした。眼が形を判別すると、手を伸ばし闇のなかを探る。指がスマートフォンに触れる。

 側溝から取り出し、おそるおそる起動させる。パッと画面が明るくなる。傷ひとつない。中野とアナスタシアは安心と感嘆が入り交じった声をあげる。


「おおー」


 その様子を見ていた永井がこぼす。


永井「幽霊使えばよかったのに」


 ふたりして「あ」と、感心と間抜けさが混じった声を出したところでアナスタシアは顔をあげた。時計を見ると、ベッドから這い出したときより二十分ほど時間が経っていた。

 どこからが思い起こした記憶でどこまでが夢なのか、アナスタシアには判然としなかった(“断頭”のことを聞いたのはたしか、スマートフォンを窓の外から投げたかどうかはわからない、永井だったらやりかねないだけに余計にわからない)。
726 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:28:56.61 ID:jiMS7eDVO

 九月になり、すこしずつ日の出の時刻は遅れ始め、カーテンを開けてみてもまだどこか薄暗い。アナスタシアはぼおっと窓の外を眺めていると、だんだんと風景に光の量が増えていく様子が眼に映った。

 外を見ながら、アナスタシアは友だちはもうすぐ学校に行くのだろうと考えた。でも、わたしは別の場所に行く。

 友だちが死んだと告げられた日、担任にカウンセリングを勧められたアナスタシアはそれを受け、結果としてすこしのあいだ休学を許された。仕事についても同様。また精神衛生上、日中の外出が推奨され、そのためアナスタシアは言い訳やごまかしなしで毎日フォージ安全まで足を運んでいる。

 両親や仲間や友だち、プロデューサーにカウンセラーや担任が考えているのとはことなり、アナスタシアの気持ちは消沈していない。そのことでどこかしらズルをしているような後ろめたい思いはあるが、それもわずかなもの、心の大半を闘志が占めていた。

 アナスタシアは外出の準備を整える。人混みに紛れ、電車に揺られる。目的地付近の駅で降り、十分ほど歩く。到着。

 フォージ安全ビル。

 日付は九月八日、時刻は午前八時十二分。

 アナスタシアは待つ。佐藤が来るまで。


ーー
ーー
ーー
727 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:31:40.47 ID:jiMS7eDVO

「来いよ。佐藤」


 永井は佐藤に宣戦した。ミニガン・ターレットが獰猛に吼え、ヘリポートが剥がれ散り、ビルの上部が喰い千切られる。永井の身体もばらばらに吹き飛ばされる。だがその直前に走馬灯、またも時間の分割、痙攣、細かな震動の刹那の合間に存在する停止、そこに佐藤の“表情”が見えた。

 その“表情”は見たことがないものだったが、聞いたことはあった。……ベトナム、一九七六年の“プレイボール”……

 ソファに横になったまま、永井はなかば寝ぼけたまま、しかしまばたきせずにあたりを眼だけで慎重に見回した。カフカは『審判』の草稿から抹消した箇所でこう言っている。(作者は不要な箇所を抹消するわけではない)。
728 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:33:09.73 ID:jiMS7eDVO


 だれか私にこう言った者がありますよ──それがだれだったかはもうおもいだせまんけれどね──、朝目がさめて、少なくとも大体のところで、すべてのものが動かされずに、ゆうべ置いてあったとおりの同じ場所に置いてあるのを見つけるのは、なんといってもすばらしいことだ、とね。なぜといって、睡眠中と夢のなかでは、人は少なくとも見かけたところ、起きているときとはまったく違う状態にいたわけですからね。まったくその男が言ったとおりなんですが、目をあけると同時にその目ですべてのものを、いわばゆうべ置きはなしにしておいたのとおなじ場所にとらえるというためには、無限の沈着さがいることですし、沈着さというよりは、むしろ機敏さのいることなんです。ですから目のさめる瞬間というのも、一日のうちでいちばん危険な瞬間なのだ、自分のいた場所からどこかへ連れ去られて行ったりはしないで、その危険な瞬間が克服されてしまえば、人は一日じゅう自信を持っていられる、というわけなんです。


 すべてのものは永井が夢を見るまえに置いてあってところからほんのすこしも動かずそのままの位置にあった。よく見ると、平沢と真鍋のまえにあるテーブルの上にふたりが点検中の拳銃その他の装備品のほかに、拳銃を差し込んだままのショルダーホルスターが置いてありそれは中野が付けていたものだったが、いまでは肩掛けの部分が混乱して自暴自棄になった蛇のようにこんがらがって放置してある。中野は年嵩の黒服と並んでガラス窓のところに立ち、景色を見下ろしながらくっちゃべっている。

 永井はそのような変化ともいえない部屋の様子の変化を見てとると、ごろんと背中を向け、半分だけ眼を閉じた。のこりの半分は眠気に落ちてくるにまかせた。

 九月八日はこのように過ぎ去った。

 それから、五日が過ぎた。


ーー
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729 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:34:30.51 ID:jiMS7eDVO

 ──九月十三日


 デスクの上にある社用のノートパソコンが警報を報せた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室で火災警報……」


 火災の検知と同時にガス噴射装置が作動し、二酸化炭素ガスがサーバー室の消化を開始した。火災の規模は小さく、火はすぐに消しとめられた。

 戸崎はパソコンを見ながら、思案した。待機を始めてから初めての異変。


平沢「被害が出るほどの規模じゃないな。誤作動ということもあるらしいしな」


 デスクに近づいてきた平沢がパソコン画面を覗きこみながら言った。

 微妙な異変だった。異変の規模こそ小さいが場所が場所だけに違和感がある。確かめないわけにはいかない。しかし大きく介入すれば、秘密裏にしていた自分達の存在が露見しかねない。どの程度の措置をこうずるか。一同は戸崎の判断を待った。


永井「みなさん、配置についてください」


 突然の指示に全員がソファに視線を向けた。永井が肘で上体を起こした格好をしている。顎が肘掛けの上にのせている。永井はのっそりと身を捩らせ、顔をあげると、静かに確信を込めた一言を口にした。


永井「来るぞ」


ーー
ーー
ーー
730 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:35:48.83 ID:jiMS7eDVO

 火災警報装置の作動から一時間ほどが経過した。

 フォージ安全ビル正面の道路に一台のバンがあった。二時間前にエンジンが切られ、停車したきりで誰も乗り込まず降りてこずの状態だったバンのドアが突然開いた。

 男が三人、バンから降りる。三人組は縦に並び、ずんずんとビルに向かって突き進んでいく。

 ビルの正面で警備にあたっていた警官がその様子に眼をとめる。あきらかにほかの歩行者とは異なる。歩調、速さ、視線の強さ、どれをとっても不審を抱く。

 三人組は手に何かを持っていた。先頭の男は右手に棒状のものを握っている。列から二番目の男の顔が判別できるまでの距離になった。警官は男たちが手に持っている物体が何なのかわかる。同時に先頭の男の正体に気づく。
731 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:37:50.81 ID:jiMS7eDVO

警官「あ!」
 

 警官は肩の無線に手を伸ばした。

 田中は警官の手が動くと同時にショットガンの銃床を肩にあて、狙いをつけ、引き金を絞った。

 警官の口と右手が吹っ飛んだ。

 銃声に怯え逃げ惑う人びと。悲鳴が沸き起こり、しだいに遠ざかっていく。

 田中たちはフォージ安全ビルへと突き進む。

 ビルの前ががらんとした空白地帯になる。人の賑わうオフィス街にぽっかりと無人の空間ができる。警官の欠けた喉からひゅーひゅーと濁った呼吸音が漏れ出す。警官の眼は青い空と白い雲、天を衝く高層ビルを捉えている。やがて見えている景色がだんだんと暗くなり、耳に聴こえるざわめきは遠くなった。警官自身がたてる音もちいさくなってゆく。


 奇妙なほどしんとした静けさが漂うその空間には、口のない死体だけが残されていた。

ーー
ーー
ーー
732 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:52:46.71 ID:jiMS7eDVO
今日はここまで。

前回の更新の時に来週には更新しますといっていたのに、遅くなってしまい申し訳ないです。

>>706
ありがとうございます。

ノベライズみたいだな…とは書いてる本人も思っています。追加した亜人がアーニャ一人なので、フォージ安全の後半まで展開を変えられなかったのは悩んでいたので、コメントはとてもうれしかったです。

細部のつけたしはこれも楽しいんですが、読んでてどうかと……とくに永井と中野とアーニャが無意味な感じの時間を過ごすのは十代だし、こんな感じに適当に過ごしてほしいと思って書いたんですが、本編にまったく関係ないですしね。

ハロウィンネタのおまけ短編はこんどこそ今週中に更新できるかと思います。
733 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/04(日) 23:05:44.74 ID:epLBYzTr0
おつー
前の永井Pなコメディ短編も面白かったからハロウィン期待してる
734 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:07:28.41 ID:vr0r0Ve5O
予告したいたハロウィンネタのおまけを投下します。

本編との時系列や整合性はかなり適当
735 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:08:19.11 ID:vr0r0Ve5O

「トリック・オア・トリート」


 部屋に入ってきた四人が声を揃えて言った。

 休憩中の永井がドアの方に眼を向ける。アナスタシア、ありす、奏、文香の四人がハロウィンの仮装をしてやってきていた。


永井「ああ、そうだった」

アナスタシア「お菓子をくれなきゃ、イタズラしますよ?」

ありす「え、ほんとにするんですか?」

文香「わたしは、その、あまり勇気が……」

奏「……白状すると、わたしも」

永井「ちゃんとあるから」


 永井は立ち上がり、用意していたお菓子を四人に手渡した。

 そのお菓子をまじまじと見つめながらアナスタシアが言った。
736 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:09:59.37 ID:vr0r0Ve5O

アナスタシア「これ、お菓子、ですか?」

永井「お菓子だろ」

ありす「おせんべいに、おかきとあられ」

文香「たしかにお菓子ですが……」

奏「米菓ね」

永井「安かったから」

アナスタシア「あまいのがいいです」


 ハロウィンなのに雰囲気をまったく考慮しない永井にアナスタシアは不満たらたら。永井はめんどうそうに顔をしかめて、デスクに戻ると床に置いてあった段ボールを持って戻ってきた。

 段ボールを床に置き、中から橙色をしたまるいものを取り出すと、永井はふたつずつ配った。

737 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:11:58.63 ID:vr0r0Ve5O

永井「山中のおばあちゃんが送ってくれた柿。熟しててあまいよ」

アナスタシア「ハロウィン……」

永井「色は似てるだろ」

文香「おおきいですね、この柿」

ありす「入れ物にはいらないです」

永井「ならここで食べてく? 皮むくよ」

奏「あら、いいの?」

永井「手間じゃないから」


 四人がソファに腰を下ろして待っていると、食べやすいおおきさにカットされた柿の鮮やかな橙色が白い皿に載せられてやってきた。柿にはプラスチックのつまようじが刺さっていて、まろやかな感じのライトグリーンが柿の実とは対比的で眼に映えた。


永井「お茶も淹れてくる」


 そこで永井はふと気づいたことを口にする。


永井「姉さんはいっしょじゃないの?」


 四人とも美波と親しい関係なのに、姉は不在だった。


アナスタシア「ミナミは……アー」

奏「肌を出して弟にお菓子を貰いいくのとか無理だし、イタズラとかもっと無理って」

永井「肌を出さなきゃいいんじゃ?」
738 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:13:41.10 ID:vr0r0Ve5O

 永井がお茶を持って戻ってくる。


ありす「ありがとうございます……あの、永井さんもごいっしょにどうですか?」

奏「そうね、ひさびさに映画と本の話をしたいしね。ねえ、文香」

文香「ええ、永井さんはどちらにもお詳しいので……ちなみに、これがなんの仮装かお分かりですか?」

永井「黒猫ですね。どこの国の小説ですか?」

文香「ロシア文学を意識してます」

永井「ロシアで黒猫だと、ベゲモートですか? 『巨匠とマルガリータ』の」

文香「流石です……!」


 文香は眼を輝かせた。密かなコンセプトに気づいたのは永井が最初だった。


奏「今年はみんなロシアを意識した仮装をしてるのよ」

アナスタシア「ナヤーブリ……十月は、ロシアで大切な月、ですから」

永井「なら、去年やれよ」


 ムッとするアナスタシア。ピリピリするまえにありすが話題を変える。
739 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:14:30.12 ID:vr0r0Ve5O

ありす「あの、永井さん、わたしの仮装はどうですか?」

永井「それはハリネズミ?」

ありす「はい、そうです」

永井「じゃあ、『霧の中のハリネズミ』だね。ヨージックだったっけ?」

ありす「正解です。えへへ」

永井「映画は速水さんが勧めたの?」

ありす「はい。いっしょに観ました」

奏「ちょっとまえにBlu-rayが出たから、それでね」

永井「なるほど」


 永井はアナスタシアに視線をやった。白いドレス、頭に花冠。柿を食べる手を止め、得意気な表情。マイナーな選択で勝ちを狙ってる。


アナスタシア「アーニャのは、むずかしいですよ?」

永井「『妖婆 死棺の呪い』」


 あっさり答える。永井はふてくされるアナスタシアから文香に視線を変える。
740 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:16:27.46 ID:vr0r0Ve5O

永井「原作はゴーゴリでしたっけ?」

文香「はい。永井さんはゴーゴリはお読みに?」

永井「主要な作品は。最近、後藤明生の小説を読んだので、読み直したいと思ってるんです」

文香「『挟み撃ち』は『外套』が下敷きになってますからね。芥川龍之介や宇野浩二もゴーゴリの影響下にいますし。というより、明治の作家はほとんど影響下にあると思います」

永井「坪内逍遙が『小説神髄』で〈小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。〉と書いて近代小説には写実的リアリズムが重要だと主張してますが、これもゴーゴリの作風の一部分と到底する主張ですよね」

奏「ねえ、ふたりとも、わたしたちを置いてけぼりにして楽しい?」


 会話が深まりそうなところを奏が軌道修正する。文香は熱中ぎみになったのをはずかしがりつつ、ありすに詫び、ありすはふたりの対話の深まりに感心するばかり、アナスタシアはさっきから柿を食べていて、また食べ始めた。


永井「スーツ……なんだろ、レーニン?」


 こんどは奏の仮装を当てる番。永井はあてずっぽうに答えた。ロシア映画でレーニンといえば、それはもうやっぱりほとんどヒーロー扱いされていたから(セルゲイ・エイゼンシュテイン『十月』の象徴としてのレーニン、ミハイル・ロンム『十月のレーニン』『1918年のレーニン』の普遍性をもった小市民としてのレーニン)、二割くらいの確率で当たるかなと思っていた。
741 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:17:18.33 ID:vr0r0Ve5O

奏「残念」

永井「だよね。髪の毛そのままだし」

奏「おでこ見ないで」


 奏は前髪の分け目からのぞく額を手で隠した。


永井「映画の登場人物?」


 永井が訊いた。


奏「まあ、そうね」

永井「で、ロシア?」

奏「……言うほどロシアは関係ないかも」


 奏の歯切れがだんだんと悪くなってきた。


永井「さすがにわからないな。答えは?」

奏「……ジョン・ウィック」
742 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:21:06.77 ID:vr0r0Ve5O

永井「アメリカ映画だけど」

奏「ほら、劇中ではバーバ・ヤーガって呼ばれてるじゃない」

文香「スラヴ民話に登場する妖婆ですね」

ありす「でも、アメリカ映画なんですよね?」

永井「敵対するのがロシア系の組織だから」

ありす「はあ」


 あまり納得してない様子のありす。アナスタシアはお茶をふーふーしている。まだけっこう熱い。


奏「やっぱりレーニンのほうがよかったかしら?」

永井「『十月』だしね。かつらとかなかったの?」

奏「自分から話を向けてなんだけど、本気で勧めようとするのはやめて」
743 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:23:15.46 ID:vr0r0Ve5O

 話題はまた映画について。

 『MEG ザ・モンスター』の撮影監督がトム・スターンで驚いたという話題から、ハリウッド大作映画の撮影監督ははんぱない一流カメラマンがクレジットされることがあるから油断できないという話題に。

 『アントマン&ワスプ』のダンテ・スピノッティ、『マイティ・ソー バトルロイヤル』のハビエル・アギーレサロベといった名前は否応なしに人を興奮させる(かれらの名前は、クリント・イーストウッド、マイケル・マン、ヴィクトル・エリセといった名前を連想させる)。

 『ジョン・ウイック:チャプター2』はサイレント時代のコメディ映画のオマージュがあるという話。冒頭、ビルの壁面に映写された『キートンの探偵学入門』と銃口に囲まれたポスターイメージはハロルド・ロイド主演の『都会育ちの西部者』の話。チャーリー・チャップリン+バスター・キートン+ハロルド・ロイド=ジャッキー・チェン。最近のトム・クルーズもこの流れ。


永井「懸賞金がかけられたところで、僕のときは一億円って言われたなって思った。ラストとか僕がトラックに轢かれたあとの感じそのままだった」

奏「永井君、たまにリアクションしづらいこと言うわよね」

ありす「リアクションしづらいとか、そういうレベルじゃないと思いますが」

永井「実際に体験してるとやっばりね。『ザ・プレデター』(なにげにハロウィン映画)で麻酔銃がいっぱい出てくるんだけど、麻酔ダートを人の眼に撃つ描写には驚いたな。あんな死に方は僕もしたことない」

文香「あの、怖くはならないのですか?」

永井「映画は映画ですし」

奏「前にも言ってたわね、それ」
744 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:24:34.69 ID:vr0r0Ve5O

 小梅がホラー映画に出演することが決まったときの話。永井が通りかかり、ちょくちょく映画の話をしていた奏が呼び止める。どんな映画と永井が訊くと、小梅はスマートフォンでティーザー予告を見せた。手術台に拘束された男が電動ノコギリで腕を切断される。永井がひとこと。


永井「これ、されたなあ」


 言葉を失うふたり。スマートフォンを返しつつ、永井がさらにひとこと。
 

永井「公開されたら観に行くよ」

奏・小梅「「観に行くの!?」」


 奏が小梅のあんなにおおきな声を聞いたのははじめてだった。

 そんなこんなで話題は永井との印象深いエピソードへと移行した。

 奏がもうひとつエピソードを披露する。永井の好きな映画のタイトルがあからさまに狙いすぎという話。永井が挙げた三つの映画のタイトル──クレール・ドゥニ『死んだってへっちゃらさ』、ヴィターリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』、ジム・ジャームッシュ『デッドマン』──。

 文香の場合はもちろん本が介在した。
745 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:26:01.42 ID:vr0r0Ve5O

 文香の忘れものを永井が届けにきたときの話。忘れものはもちろん本で、いまでは絶版、文香は内心あわてふためていた。

 そんなとき、永井が本を携えてやってきた。


永井「これって鷺沢さんのですか?」


 そう言って見せたのは、ウィリアム・ギャディスの『カーペンターズ・ゴシック』だった。

 ウィリアム・ギャディスはアメリカ合衆国・ニューヨーク出身の小説家。寡作ながら非常に評価が高く、“JR”と“A Frolic of His Own”によって全米図書賞を二度受賞した。作風はポストモダンと称されることが多いが、モダニズム的な色合いも強く、デビュー当時はジェイムズ・ジョイスに似ていると評されることも。トマス・ピンチョンやドン・デリーロなどと並んで、作品はいずれも大部。特に『JR』以後の作品では、ト書きのない脚本のような書き方が顕著で、「誰がしゃべっているのか」、「この人物はどういう人物か」、「今しゃべっている人たちはしゃべりながら何をしているのか」などといった情報は、読者が発話内容から推測しながら読み進めなければならない。また、登場人物の発話も、言いかけて途中でやめたり、言い直したり、他人の話の最中にさえぎったりなどして、非文法的な不完全文が多いが、それによってリアルなせりふとなると同時に、そこにプロット上の仕掛けが施されていたりする。 ──Wikipediaより引用

 「自由にテーマを展開するピンチョンをジャズに、緻密に語りを組み立てるギャディスをクラシック音楽にたとえる比喩がわかりやすいだろう。」とはアメリカ文学者であり、ギャディスの長編『カーペンターズ・ゴシック』と短編『シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五−八七号』の訳者である木原善彦のギャディス評。
746 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:28:35.13 ID:vr0r0Ve5O


 文香は本を見るなり、喜び、そして喜びのあまり永井に本の紹介しそうになるが、思いとどまる。

 ウィリアム・ギャディスは訳書が『カーペンターズ・ゴシック』のみ。日本ではまったくもってマイナーな存在で、文香の通う大学の図書館にも置いてなかったほど。

 そのような作家について熱っぽく語るほど相手を引かせることはない。文香にもそれくらいのことはわかる。まして、このときは永井と話したことは数える程度。しかも仕事で。

 というふうに文香が気持ちを落ち着かせて、そうだお礼を言わなければと思い出したとき、永井がふとした調子で質問した。


永井「ウィリアム・ギャディスの小説って鷺沢さんのところにまだありますか? 洋書でもいいんですけど」

文香「ギャ、ギャギャ、ギャディスをご存じで!?」


 驚き、いきなり距離を詰める。永井はひょいと横に避ける。文香がよろめく。壁に手をついて転ぶのを防ぐ。無人空間への壁ドン。


永井「大丈夫ですか?」


 永井が後ろから声をかける。ちいさく「はい……」と応えた文香の顔が真っ赤になったことは言うまでもない。
747 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:29:41.05 ID:vr0r0Ve5O

奏「受け止めてあげたらよかったのに」


 話を聞いた奏がひとこと。さすがにあきれ口調。


永井「いきなりだったから」

文香「あのときは、ほんとうに……」


 お礼か謝罪か、どちらを口にすればいいのか、文香が言いよどむ。声をかけられ、永井は温度のない眼で文香をみやった。


ありす「わたしのときは良いアドバイスをもらえましたよ」


 微妙な空気が漂う前にありすがエピソードを披露する。

 ラジオのコーナーで、趣味や得意分野のジャンルが異なるふたりが相手のジャンルについて想像であるあるネタを披露し、当たった数が多い方が勝利するというのがあり、ありすは文香に本にまつわるあるあるネタを投げ掛けなければならかった。

 十個の投げ掛け。七つまではなんとか考えついたが、のこりの三つが難しかった。

 収録前日、うんうん悩んでもやっばり思い付かない。と、そこに永井がやってくる。

 永井は姉である美波はもちろん、尊敬する文香や奏やアナスタシアとよく話している。とくに文香とは読書に関する話題だけでなく、ネット上に公開されている論文をダウンロードする方法や、文献管理ソフトの使い方についても話していて、それがのちに文香がありすにタブレット端末の使用について質問するきっかけにもなった。

 そういった経緯もあり、ありすは永井といちどちゃんと話してみたいと思っていた。

 チャンスはいまだと思い、ありすは永井に話しかけた。
748 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:31:25.62 ID:vr0r0Ve5O

永井「読書に限らなくてもいいんじゃないかな」


 ありすから相談された永井が答えた。


ありす「どういうことですか?」

永井「行為そのものの体験量は鷺沢さんが圧倒してるから、それ以外、たとえば本屋でどう過ごすかとか、目当ての本以外に手にとってしまったこととか」


 そう言うと永井は思いつくままに紙にあるあるネタを書き付けた。


本屋の会計で一万円を越えなかったらあんまりお金を使わなかったとほっとする。

いっぱい買ったときは買ったときで手提げの紙袋が用意されるから、ちょっとうれしい。

親族か友人から本でなく本棚を買えと言われた。

というか、大学生なんだからパソコンくらい買えとも言われた(レポートや論文書くときどうするの?)


 最後のは違うかな、とつぶやくと永井は四つ目の文章に横線を引いて、ありすにメモを見せた。

 三つ目の文章のちょっとしたユーモアにありすはふふっと声を洩らした。

 永井のスマートフォンに着信がはいった。永井は全部そのまま使ってもいいよ、口元を手で隠しているありすに言い残しその場を離れた。
749 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:34:53.15 ID:vr0r0Ve5O

 その夜、ありすはうーんと悩んだ。自分でいくつかあるあるネタを考えてみたが、永井の三つよりピンとくるものがない。永井は使っていいよと言っていたが、七つのあるあるネタと並べてみると自分で考えたわけではないから違和感があるし、なんだかズルい気もする。

 もうすぐ就寝時間、ありすは美波を経由してSNSで永井に相談したみた。

  自分が考えたあるあるネタとその評価、正直に自分が感じている逡巡を吐露した。

 メッセージを送って二十分、永井からの返信。



 メッセージ確認しました。

 橘さんはどちらの文章を使っても自分らしさを出せないことに悩んでいるんですね。

 僕の文章で自分らしさを出せないのは当然ですが、橘さんがあとから考えた文章も前に考えた文章と比べると、自分で決めた水準に達していないからこれも自分らしさを出せていない。そのように感じているのがメッセージから伝わりました。

 結論からいえば、どちらを使ってもコーナーは成立すると思います。

 このコーナーの主旨は互いに知識が乏しいと思われる領域に対して、アイドルとしての個性を出しながら接していくかという点にあると思います。ゆえに必ずしも投げ掛けるあるあるネタの精度が高くなくても相手のリアクションやそれに対するこちらの受け答えによっては、僕が考えた文章を使うよりも良い反応を呼び起こすことが可能でしょう。

 ただ失礼だけどこの方法は、橘さんにはちょっと不向きかなと思います。橘さんのアイドルという仕事に対する姿勢には真摯さを感じます。力量を見定めながら事前にプランを設定し、それを実行していく。プロフェッショナルな態度です。

 その分、アドリブに弱いところもあります。自分で納得のいかない文章を使うとなればハプニングが起きたときの動揺はより大きくなるでしょう。

 もちろん、それでコーナーがおもしろくなるのであれば、と橘さんが考えるのであればその選択もオーケーでしょう。ただ、やはり僕としては橘さんが納得できる方法をとってもらいたいと思います。
750 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:36:12.26 ID:vr0r0Ve5O

 さて、僕の文章を使った場合に生まれる齟齬についてですか、これを解決する方法はふたつあると考えています。

 ひとつは僕の文章をもとに橘さんが自分の納得のいく文章を作り上げること。これは齟齬をなくすという方向性なのでわかりやすいと思います。

 もうひとつはあえて齟齬を前に押し出してみること。この前に押し出すという行為に橘さんの個性を出してみてはどうでしょうか。

 これは裏を返せば自分で考えた文章ではないと認めることになります。そのことで苦言を呈されるかもしれません。

 何度も言いますが、僕の書いた文章をそのまま使ってもらってもまったく問題ありません(同じく僕の名前を出す必要もありません)。

 僕たちの仕事はアイドルの方々にまっとうに全力をもって仕事に取り組んでもらい、輝ける手伝いをすることです。

 橘さんを悩ませている自身の納得とコーナーの成立というのは、理想と現実の擦り合わせそのものです。その擦り合わせに納得できる結果がうまれること願っています。 

 それでは、おやすみなさい。

 僕ももう寝ます。お返事は明日にでも。

 
P.S.
 明日の本番は午後三時からでしたね?

 本番の一時間前までにメッセージを送ってもらえば返信可能です。また相談したいことがあればぜひ。
751 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:40:56.96 ID:vr0r0Ve5O

 永井からの返信を読み、ありすはどうするべきか決めた。

 ありすはその日の朝に永井にお礼のメッセージを送り、本番ですることを告げた。

 永井から返ってきた了解と応援のメッセージは短かったが、ありすはうれしかった。

 番組は滞りなく進み、いよいよあるあるネタのコーナー。七回目の投げ掛けを終える。ありすの番が回ってくる。ありすは紙を取り出し、言う。


ありす「すいません、あるあるネタを言う前にすこしだけ」


 スタッフには事前に相談してあったが、進行によっては時間がないことも考えられた。タイムキーパーが使用可能な時間をディレクターに告げる。ちょっと急がないと。


ありす「じつは十問すべて考えることができず、ここからは他の人が考えた質問を言うことになります。自分で納得できるものができなかったことは残念ですが、わたしの力不足だとその点は納得できました。それで、勝手かもしれませんが、いまから言う三問に関しては勝敗には考慮しないでほしいんです」

文香「わたしはありすちゃんの言ったことを尊重したいと思います。リスナーの方々はどうですか?」


 SNSにリアルタイムの反応。ありすの態度を誉めるものばかり。

 ありすが紙に書かれた永井の文章を読み上げる。

 文香は一つめでハッとして顔をあげ、二つめで「なぜそれを」と眼を見開き、三つめで椅子から転げ落ちた。

 まさかのリアクションにコーナーが始まって以来もっとも反響のある回になった。
752 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:42:48.70 ID:vr0r0Ve5O

永井「そんな『新婚さんいらっしゃい!』の
桂三枝みたいなリアクションをしたんですか?」


 永井が文香に訊いた。


文香「できれば、そのことには触れないでくだい……」


 文香は両手で顔を覆い隠しながら、答えたので最後の方はほんとにちいさな声になった。


奏「そのたとえ、よく思いついわね」

永井「山中のおばあちゃんの家にいたときいっしょに見てたから」

ありす「永井さん、放送はどうでしたか?」


 ありすの問いかけに、永井が応える。


永井「ごめん、仕事で聞けなかった」

ありす「そうですか、残念です」


 口で言うより残念そうなありす。肩がしょぼんとしている。


永井「タイムフリーで聴くよ。それからちゃんと感想を送るから」

アナスタシア「ケイのそーゆーところ、ダメ、ですね」


 辛辣なこと言うアナスタシア。手前に置いてあるお皿はからっぽ、せんべいとあられもぜんぶ食べてた。
753 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:43:49.28 ID:vr0r0Ve5O

永井「あげたやつ、ぜんぶ食べたのかよ?」

アナスタシア「みんなのお話、アーニャ、ぜんぜんわからなかったです」

永井「どおりで食べてばっかだと思った」


 永井の一言がふてくされていたアナスタシアをムッとさせる。


アナスタシア「ケイ、あまいお菓子が食べたいです」

永井「チッ」

奏 (舌打ちした)

文香 (舌打ちしましたね……)

ありす「いまの永井さん……?」

永井「貰ってくればいいんだろ」


 永井はめんどうそうに立ち上がった。部屋の片隅には職員用のハロウィン仮装コーナーが設置されていた。

 永井はそこに近づくと、ジャケットを脱いでネクタイを外すと、シャツの袖をまくった。それからサスペンダーを付け、ハンチングを被った。

 見覚えのある格好。いやな予感をおぼえつつ、アナスタシアが尋ねる。
754 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:46:02.95 ID:vr0r0Ve5O

アナスタシア「アー……ケイ、それはだれの、仮装ですか?」

永井「佐藤、亜人の」


 佐藤と聞いたとたん、その場にいる全員が動揺しだした。


ありす「それは大丈夫なんですか?」

奏「セ、センシティブ過ぎない?」

文香「あ、亜人は怪物ではないですし」

永井「佐藤は頭のイカれた殺人鬼だから」

アナスタシア「みんな、ボイテスィ……!……アー、怖がる……怖がりすぎます!」

永井「遺族あわなきゃ大丈夫」

ありす「遺族って!」

奏「ほんとにその格好でいくつもり!?」

アナスタシア「もー!」
755 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:48:56.16 ID:vr0r0Ve5O

 アナスタシアは勢いよく立ち上がり、永井を追っかけていった。

 見ると、さっそく永井は川島瑞希と宵乙女のメンバーらに囲まれ、話をしていた。


瑞希「永井君、それってなんの仮装?」

永井「サト……」

アナスタシア「ウタケル!」


 アナスタシアが割ってはいった。おかげで空気は微妙な感じにならずにすんだ。瑞希たちはアナスタシアにもお菓子をあげた。

 瑞希らを見送ったあと、袋の中のお菓子をみながら永井が言った。


永井「たくさん貰った」

アナスタシア「たべる気、しないです……」
756 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:51:54.03 ID:vr0r0Ve5O
以上でおまけはおわり。

もともと別のおまけとして考えてたエピソードをぶちこんだのでかなり長くなりました。後半はここ数日で仕上げたので、荒いところがあるかも。

キャラ崩壊してたらすみません。
757 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/08(木) 19:35:00.27 ID:VKhOhfJ2O
おまけ面白かった!
更新楽しみに待ってます
758 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/09(金) 21:53:20.17 ID:2WNvoBqb0
13巻もこっちも早く続き読みたいわ
759 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/11(日) 22:49:44.91 ID:pig7ZHXY0
乙です
ジョン・ウィックのポスターの話は初めて知った
映画は映画って割り切る永井にヴェスナ・ヴロヴィッチみを感じる…
760 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/06(日) 13:19:59.53 ID:/l2+ircxO
まさかのウィリアム・ギャディス『JR』の刊行におののきながら、発売日までそのおののきを持続させつつ、940ページの書物に8640円(税込)を支払い、1.2kgのその異様な重量感に興奮を覚えつつページをめくっていたら、年末年始が終わってました。


というわけでガチで更新忘れたので生存報告だけ……いやでもマジで衝撃的な時間だったんですよ。デレマスで例えるなら文香が人目もはばからずガッツポーズするくらい衝撃的。

続きはなんとか今月中に。少なくともアーニャ参戦のところまでは書きたい。


>>755
川島さんの名前が誤字っていたので訂正。ついでにオチを足しました。


アナスタシアは勢いよく立ち上がり、永井を追っかけていった。

 見ると、さっそく永井は川島瑞樹と宵乙女のメンバーらに囲まれ、話をしていた。


瑞樹「永井君、それってなんの仮装?」

永井「サト……」

アナスタシア「ウタケル!」


 アナスタシアが割ってはいった。おかげで空気は微妙な感じにならずにすんだ。瑞希たちはアナスタシアにもお菓子をあげた。

 瑞樹らを見送ったあと、袋の中のお菓子をみながら永井が言った。


永井「たくさん貰った」

アナスタシア「たべる気、しないです……」


事の顛末を聞いた奏がハンチング帽をかぶってお菓子を配る永井を見て、ぼそっとつぶやいた。


奏「どちらかというと、綾野剛よね」

761 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:46:00.22 ID:ymR8HEsBO

火災警報によって永井が眼を覚ます四時間前、杖をついた男がゆっくりと歩きながら検問ゲートまでやってきた。

 暦の数字はすでに秋の季節に入り込んでいたが、気候はそのことをまったく気にせず引き続き夏の暑さをそのままにしていた。

 出社する社員たちは空調が放つ冷気が頬を撫でる感触にひと心地つきながら、杖の男を抜き去っていった。男は小太りでその体型の原因はもっぱら運動不足のせいなのだが、筋肉の少ない右脚をみるにそれを理由に責めることはできない。男はネクタイをし、ワイシャツの上から作業用のジャケットを着ていたが汗ひとつかいていなかった。抜き去り際に障害のある脚をちらと見やる社員の視線を気にもとめず、透徹すぎて何も見ていないと思える眼で検問ゲートの先を見つめていた。

 検問に到達すると男は杖とリュックを警備員に預け、社員証を提示した。IDが照合され、男は金属探知機へとむかう。探知機が反応し、警備員がハンディ型の探知機を手に持って検査の続きを行った。胸ポケットに反応があり、ポケットの中身を取り出してみると、オイルライターとタバコが出てきた。


「所定のスペースで吸えよ」


 検査物を返却された男は杖でこつこつと床を鳴らしながらエントランスをまっすぐ進んでいたときと同じゆっくりとした速度でエレベーターへと向かった。エレベーターに乗り込み、セキュリティ・サーバー室のある十四階のボタンを押す。

 階数標示の数字が増していくのを見つめながら、奥山真澄は肩を壁に預けて、エレベーターの上昇に身を任せた。


ーー
ーー
ーー
762 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:47:42.66 ID:ymR8HEsBO


奥山「この配線じゃノイズで速度が二十パーセント落ちるよ」


 蓋が開けられたサーバーの内側を見ながら奥山が言った。

 不備を一目で見抜いた奥山の知識に現場の上司と同僚がかるく感嘆する。奥山は仕事に就いて早々、動作に違和感をおぼえ、サーバーの配線を確認すると言い出した。奥山は仕事を行うにあたって、システムをベストなコンディションにしておきたかったのだ。


フォージ安全社員1「青島さんもたまにはいい人材引っぱってくるじゃん」

フォージ安全社員2「それ言っちゃかわいそう」


 背後から不意につぶやかれた内通者の名前を聞き流しながら、奥山は腕時計を見た。デジタル式の文字盤が午前十一時十五分と標示していた。


奥山「ちょっとどいて」


 奥山は杖を片手に立ち上がり、あたりを見回した。シュレッダーを見つけると奥山は床に座りこみ、シュレッダーのゴミ箱の蓋を開けた。中には裁断された紙の束が山になってつまっついた。奥山は胸ポケットからライターを取り出すと下カバーを外し、それから底にあるオイルの栓をゆるめた。


フォージ安全社員1「なにしてんだ奥山?」


 床に座る奥山に上司が不思議そうに話しかけた。


フォージ安全社員1「一服なら一緒に行こうぜ」

奥山「いや、吸う人じゃないから」
763 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:49:11.09 ID:ymR8HEsBO

 奥山はライターを点けた。ゴミ箱の紙束にはオイルが振りかけられていて、油が染み込んだところの黒っぽく変色していた。インクが滲み、文字が溶けてゆく。奥山がライターを手放す。落ちていく際、ライターはくるりと下を向き、回転にあわせて火が揺らめいた。そのせいで火が消えてしまうのではないかと錯覚するほど赤っぽいオレンジ色の光熱がか細く揺らめいたが、ライターが紙束に落ちたとたん火は炎となって燃え上がり、あらかじめ仰け反ってゴミ箱から離れていた奥山の顔に熱気をぶつけた。


フォージ安全社員1「な、何してる!?」


 黒い煙が吹き上がり、プラスチックの溶ける臭いがサーバー室に充満する。火災警報が響き渡り、CO2ガスの放出までの三十秒のカウントダウンを開始する。部屋の中の社員たちは恐怖に急き立てられて出口のガラス扉へと殺到した。

 いちばん先頭の社員がガラス扉を押し開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。急かす声と罵る声とガラスを叩く音が雑多に混じって響く。扉は壁のようにびくともしない。片手で押す、両手で押す、肩でぶつかる、二人がかりで扉をこじ開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。大声が悲鳴に変わる。


IBM(奥山)『コ……ラ、コレ?……PEF……』


 奥山のIBMがガラス扉に背中を押し当てて四肢を踏ん張っていた。ガラス一枚隔てた背後から悲鳴が飛び交い、乱れるのとは対照的に、意味のない舌足らずな言葉を奥山のIBMはつぶやいた。IBMは背中でガラス扉の振動と命乞いの叫びを受け止めながら、日向ぼっこをしているかのように動かなかった。セキュリティ・サーバー室はいまやガス室のような様相を呈している。
764 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:50:16.84 ID:ymR8HEsBO

『3』

『2』

『1』


 あまりのも機械的なカウントダウンの音声。



「おぉーい!!」

「待て待て待て!!」

「早く開けろよ!!」


 ガス室の内側にいる人間の複数の声。恐慌にかられた人々の叫び。奥山はコツコツと杖で床を叩きながらガラス扉の反対側にある大型モニターの前にある椅子に歩いていった。椅子に腰かけ背凭れに身体を預けると瞼を閉じた。視界が暗くなると奥山の意識から大勢の悲鳴が遠ざかり、機械音声の冷酷な響きだけが選別されたように奥山の耳に届いた。


『CO2ガスを放出します』

765 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:51:35.58 ID:ymR8HEsBO

 天井のガス式スプリンクラーから消火用のガスが部屋中に放出される。ガスが身体に振りかかるのを感じた奥山は静かに深呼吸をした。ガラス扉前の社員たちの一部はとっさに息を止めた。無呼吸でいるのは長く続かず、激しく咳き込む音がいくつもした。室内の二酸化炭素濃度が致死量に達すると、そういった音もなくなり、どさどさという成人男性の体重が床にぶつかる音がガスの放出音にまぎれてかすかに鳴ったが、その音を耳にする者はひとりもいなかった。

 ガスの放出がおわり、室内の二酸化炭素濃度を通常に戻すため空調が働き始める。

 奥山の眼が覚めたとき、ゴォッーという空調の作動音はまだおおきく響いていた。


奥山「さて」


 奥山は理性的な眼で出口の前に積み重なっている死体を見やってから、椅子をくるりと回転させ大型モニターを見上げた。


奥山「んー……フォージ安全のハッキングかぁー……」


 システムを再起動するとモニターが点り、警備システムにログインできるように操作する。


奥山「テンション高いなあ」


 キーボードを叩きながら、奥山はいつもと変わらない平静な調子でつぶやいた。


ーー
ーー
ーー
766 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:55:38.55 ID:ymR8HEsBO

 ビル前に停められたバンのなかで田中は奥山からの報告を待っていた。荷台に座り込んだ田中はスマートフォンを左手に持ち、連絡がくるのを待ちわび焦れたように画面を凝視していた。連絡がまだきてないとわかりポケットにしまってからもスマートフォンを握りしめたままだった。右手は荷台に置かれたショットガンのグリップに置かれ、すこしだけ力をいれて押さえつけている。荷台に張られた車内カーペットの上にショットガンを置いたとき、固さと重さを持った音がかすかに、合成繊維では吸収できなかった分だけ田中の耳に届き、その音のため田中の右手は銃を押さえつけていた。

 田中がふたたびスマートフォンをポケットから取り出し、画面を見つめていると高橋が眼前で小瓶を振った。


高橋「ホレホレ、おまえもやっとけって」


 小瓶のなかの白い粉がさらさらと左右に揺れた。考えるまでもなくヤクだ。


田中「集中しろ」

高橋「こそだろ」


 高橋は小瓶を引っ込め、頭を壁に預けながら田中を見やると、気負っているくせに何もわかっていないとでも言いたげに唇の右端を持ち上げた。


高橋「どちらかというとアッパー系ドラッグだ。すべてが鮮明になる。銃の狙いもハンパなくなるぜ」


 そこまで言うと高橋の微笑が大きくなり、明確に田中を小馬鹿にしたものに変わった。


高橋「おまえ、ド下手なんだからよお」

田中「だまれ」


 田中がぴしゃりと言い返した。

767 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:56:55.98 ID:ymR8HEsBO


田中「あれから射撃はさんざん練習したんだ」


 指に力がはいり、置かれていただけだった右手が銃を握りしめた。それから十数分後、スマートフォンに通知がはいった。ハッキング成功の報せ。


田中「始めるぞ! 甲斐敬一と李奈緒美を暗殺する!」


 田中の号令に高橋とゲンはいよいよかと高揚感をあらわに笑い声をたてた。ふたりは鼻からドラッグを吸い、高揚感を増幅させる。

 バンのバックドアから外へ出た三人は縦に連なってオフィス街を突っ切ってゆく。


高橋「やべえ、やべえ」

田中「佐藤さん抜きなんだ。ナメてっと死ぬぞ」


 通行者たちは険しい表情をした田中にひるみ、道を開けた。すこしはなれたところで脱いだジャケットを手に持ったサラリーマンがスマートフォンを取り出し、田中たちを撮影し出した。

 銃器を手に持った三人の様子 ──田中─ショットガン(ウィンチェスター M1897)、高橋─自動小銃(USSR AKM)、ゲン─自動拳銃(US M1911A1)── から剣呑な雰囲気を感じとっていたが、その雰囲気の範疇に自分は含まれていないとでもいうようなふうだった。

 ビル前で警備にあたっている制服警官と田中の眼が合う。警官は驚き眼を見開いて慌てて無線機に手を伸ばすが、田中が即座に射殺する。
 

768 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:58:30.91 ID:ymR8HEsBO


田中「行くぞ!」


 銃声を合図に田中たちがフォージ安全ビルへと突撃する。根拠のない安全圏はたちまち消え去り、通行者たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出していった。


高橋「くらえ!」


 エントランスに足を踏み入れたとたん、高橋が壁際にいる社員たちにむかって引き金を引いた。白い壁面に血が飛び黒い弾痕が穿たれる。


田中「無駄弾つかうな!」


 走りながら無関係な人間をたのしく撃ちまくる高橋を田中は検問ゲート周辺の警備員を銃撃しながら叱責した。それを受けて高橋は射線を壁から検問ゲートへ移し、警備員を牽制した。最後尾のゲンもゲート左側をむかって拳銃を連射し、警備員たちをその場に押さえ込んだ。


「防犯シャッターおろせ!」


 銃声に負けじと喉奥から放たれた叫び声に突き動かされひとりの警備員が金属探知機の先にあるロビーから業務フロアへと続く通路の壁の赤いボタンに飛びついた。握った拳の底をつかって殴りつけるというふうに警備員はボタンを叩いた。
769 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:00:06.82 ID:ymR8HEsBO

シャッターは下りなかった。警備システムはすでに奥山が掌握していて、すべてを操ることができた。

 ボタンを押した警備員の頭蓋骨が散弾で吹っ飛ばされた。衝撃によって警備員は顔面から壁にぶつかり鼻骨が折れたが、彼はもう痛みを感じることはなかった。糸の切れた操人形のように警備員の膝がくにゃりと折れ、床に倒れた。

 田中たちは検問ゲートを突き抜け、通路へ進入する。そのさい高橋とゲンがそれぞれ左右の側面を銃撃しながら警備員をさらに牽制した。金属探知機を越えると、ゲンはわれがちに逃げ出そうと出口に殺到している社員たちのほうを振り返った。そのようすは増えすぎた個体数を調整するためみずから入水するレミングの迷信を思わせる有り様だった。騒ぎを聞きつけ駆けつけてきた警察官はパニック状態の群衆に行く手を遮られて一向にビルのなかにに入れないでいる。ゲンは視界の中心に警官をおさめつつも狙いはつけず、何発か群衆にむかって発砲した。銃弾は警官にはあたらず、周囲の人間の背中や首に命中した。


田中「奥山!」


 ゲンが銃撃しながら通路まで後退してきたとき、田中がインカム越しにタイミングを告げた。直後、田中の声に反応したかのようにシャッターが下がり、エントランスと通路を遮断した。


田中「ロビーを突破。十五階、社長室に向かうぞ」
770 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:01:26.41 ID:ymR8HEsBO

『エレベーターは使わないでよ。物理的に塞がれたら詰むから』


 インカムから奥山が注意をした。

 奥山は警備システムにアクセスしビルの見取り図を引っ張り出し、事前に入手した青写真と記憶の中で整合した。そして所見を述べる。


『見る限り設備やらなんやらは前情報通りだね。変わってるところはない。作戦通り行けるよ。北階段を使って』


 指示を出したところで奥山は監視カメラの映像から警備員二名がセキュリティ・サーバー室に近づいていることに気づいた。


『警備員がこっちに来る。しばらくオフるよ』


 田中たちが北階段の五階と六階のあいだの踊り場まで上ったとき、奥山から復帰の報告が入った。


『戻ったよ』

田中「おう」


 田中は腰だめにショットガンを構えていて、そのすぐ眼の前の階段には警備員の死体がうつ伏せの状態で転がっていた。
771 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:02:33.88 ID:ymR8HEsBO

高橋「ここまできてさすまたかよ」


 高橋が死体の横に落ちているさすまたを見て言った。


『日本の警備員はスタンガンはおろか催涙スプレーすら使用が認められないからね』

ゲン「引くわー」

高橋「ブッ飛んでな」


 高橋とゲンは死体となった警備員に皮肉な憐憫混じりの視線を投げかけると同時に嘲笑っていた。自分たちが殺した人間に対するふとした同情が可笑しくて仕方ないといった笑みがふたりの唇に浮かんでいた。


『だけどそろそろ気をつけたほうがいいよ』


 奥山の忠告が割ってはいった。


『この会社、ブラックだから』


 奥山はセキュリティ・サーバー室の確認にやって来た警備員(彼らは感電死させられた)の無線から流れる指示を直接インターカムから伝えた。麻酔銃使用の指示が田中らがいる五階より上に配置されている全警備員に通達されていた。
772 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:03:33.84 ID:ymR8HEsBO

高橋「法律違反だろ」

ゲン「だれかクビになったして」

高橋「逮捕だな。いや、どうせおれらが殺すからそれはなしか」


 二人はまたも嘲笑の声をあげた。


田中「マジメにやれ」


 つぎに銃撃戦が起こったのは十階と十一階のあいだの踊り場で、田中は腰を落とし階段に座るような体勢で階上から降りてきた警備員にショットガンを放った。それとほぼ同じタイミングで階段の正面に立つ高橋が十一階フロアからドアを開けて入ってきた警備員二名を射殺する。

 田中がショットガンの排莢を行う。上階から大勢の人間の足音。田中は銃口をあげる。そのとき、視界の横切る黒い影が田中の眼に映る。


田中「は!? バカ!!」


 高橋のIBMが警備員の集団に突っ込んでゆく。巨腕を振り上げ、先頭の警備員の顎にアッパーカットを喰らわせる。警備員の頸がゴムのように伸びる。後頭部が背後の壁にぶつかり、スカッシュのボールみたいに跳ね返ってくる。黒い幽霊は集団の中心で腰を落とすと肘を曲げ、つぎの瞬間、勢いづけて跳ねあがり、両腕をぶんと振り回した。頬骨と頸骨が破壊され、攻撃を食らった箇所がやわらかくゆがんだ。


「え!?」


 最後尾に位置し、ひとりだけ離れたところにいた警備員のすぐ眼前に黒い手が迫っていたが、警備員にとって黒い幽霊の手は透明で、彼は何事が起こったのかを理解する暇もなく─同僚の死すら理解できず─その手に押し潰されて死んだ。
773 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:04:52.65 ID:ymR8HEsBO

高橋「イアー」


 高橋が階段を駆けあがり、黒い幽霊と拳を突き合わせた。黒い幽霊の口角も心持ち上向いている。


田中「高橋!」


 田中が高橋を怒鳴りつけた。


高橋「あ?」

田中「黒い幽霊はシューティングゲームの“BOMB”だ。回数制限がある。本当にヤバいときまでとっとけ」

高橋「いいじゃねえか。あと一回も出せる」

 
 田中はいったん落ち着き、真面目くさった口調で諭そうとしたが、高橋からしたらそれが滑稽な落差を生んでいた。田中の言っていることは佐藤の受け売りであることは明白だった。だが佐藤とちがって田中はいわばゲームの攻略法をしごく真面目に口にしてしまっていた。高橋はヘラヘラとした態度で黒い幽霊と肩を組んで笑っていた。幽霊のほうも高橋と同調しているのかケタケタと歯を剥いていた。


田中「おま……」

『田中さん』


 田中がさらにどやそうとしたとき、冷静な響きをもった奥山の声がインカムから聞こえた。

774 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:07:02.30 ID:ymR8HEsBO

『上の階、固められてる。シールドと麻酔銃で』


 しごく冷静な声を保ったまま、奥山が状況を説明する。


『あと、その階の廊下側からもう一団そっちに向かってる。挟み撃ちにする気だね』

高橋「いよいよ本番か」

田中「どちらかとは戦うことになるな。どっちがいい?」

『下から上に攻めるのは不利だよ』


 奥山が冷静に意見を続けた。


『いまいる北階段を出て廊下側の一団を倒す。そしたら今度はまだ手薄な南階段で上を目指して』


 弾倉交換を手早く済ませたあと、三人は銃口を床に下げ、ドアの前で立ち止まった。田中がちらと高橋に振り返ると、高橋はワンショルダーバッグから粘着力の強いグレーのダクトテープを取り出し田中に手渡した。銃を持つ右手をテープでぐるぐる巻きにすると、田中は高橋にテープを返した。同様のことを高橋とゲンが済ませたことを確認すると、田中はドアノブを握り、力を込めた。


田中「いいか? 隊列を崩すなよ」


 田中は閉じられたドアを見つめたまま、その向こう側の光景を予想しながら言った。


田中「佐藤さんはこれをひとりでやったらしいが、おれらにそんなテクはねえ。練習通りやるぞ!」

775 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:08:00.60 ID:ymR8HEsBO

 言い終わった田中が慎重に、ゆっくりとドアノブを捻る。このとき、廊下で陣取っている警備員のうちの一人がドアノブが動いたと感じたが、田中は二秒間握ったままの姿勢でいたため、その警備員は気のせいかと思い始めた。突然、叩きつけるようにドアが開け放たれた。田中はオフィスに飛び込むと同時にショットガンを持ち上げ、すぐさま引き金を引いた。散弾がシールドを割り、割れた強化プラスチックと散弾が警備員の肩をえぐった。オフィスの隅の方に固まっていた社員たちが悲鳴をあげた。

 田中は腰をおとしデスクの陰に隠れられるように重心を左に傾けた。田中に続いて突入してきた高橋がAKMを乱射する。銃弾が麻酔銃を撃とうとシールドから身体を出していた何人かに貫通した。弾が当たらなかった警備員は高橋が田中の後を追ってデスクに身を隠す前に麻酔銃を撃った。麻酔ダートが左肩の下あたりに突き刺さり、高橋の身体から意識が消え、すぐ後ろのゲンを巻き込んで仰向けに倒れた。


田中「ゲン!」


 ゲンはすぐさま拳銃の先を高橋に押し付け引き金を引いた。銃弾は右耳のあたりから斜めに発射され、左眼球を巻き込んでこめかみから射出された。血と脳漿が飛び散って床を汚した。高橋は仰向けの姿勢のまますぐに上体を起こしふたたびフルオートで撃ち始めた。高橋に麻酔ダートが刺さってからほんの数秒しか経過していなかったので、麻酔銃を持った警備員たちはシールドに隠れる暇もなくまた何人かが射殺された。


「もう一度だ!」


 すぐ隣の仲間が撃たれて死んでいくなか、この一団を指揮しているとおぼしき警備員が麻酔ダートを装填し直し、ふたたび高橋に狙いをつけた。照準をあわせ、引き金を引こうとする。
776 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:09:47.22 ID:ymR8HEsBO

 田中は引き金を引きその男の顔面を吹き飛ばした。


田中「はやくこっちに来い!」


 デスクの陰に移動しようとしている数名を撃ちまくりながら田中が叫んだ。ゲンが高橋のバッグを引っ張り、尻を床につけたまま乱射している高橋を引きずっていった。今度は田中に麻酔ダートが刺さった。ゲンは指示されるまえに田中のこめかみを撃った。倒れる際にオフィスチェアに田中の後頭部がぶつけた。からからと車輪が転がりオフィスチェアはコピー機にぶつかって止まった。同時に田中の復活が完了し、高橋の射線と交差するかたちで廊下側の集団に引き金を引いた。

 銃撃戦がしばらく続けられたが、気づけば、オフィスの床が死体で埋まっていた。

 少人数とはいえ武装した亜人の部隊に対抗する武器が一発ずつしか装填できない麻酔銃では警備員が全滅するのも当然だった。

 息を喘がせながら田中はオフィスの様子を見渡した。興奮の波が退いていく感じ。呼吸を整えるためにその場に立ち尽くしていると、銃声が一発だけ響いた。ゲンがびくびくと痙攣している瀕死の警備員の後頭部に銃弾を叩き込んでいた。ゲンはこれまでの戦闘でやってきたように背後から引き金を引き、動くものをなくしていった。


高橋「田中」


 田中が無感動な表情でゲンの行いを見つめていると、高橋がほくそ笑みを浮かべながら話しかけてきた。


高橋「おれら、いま、無敵だぜ」


 田中もつられてほくそ笑んだ。


田中「いくぞ!」


 銃を握り直し、三人はオフィスから廊下へと出てそのまま南階段へと進んでいった。
777 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:11:31.15 ID:ymR8HEsBO

 田中たちが去った直後のオフィスは霞が漂っている森の中のように静まりかえっていたが、──実際に白煙が漂っていたが、それは銃の硝煙で不快な煙たさを持っていた──やがて、徐々に動き出すものがあった。デスクの下や壁際に身を縮こまらせていた社員たちがおそるおそる顔をだし、周囲の状況を確認しはじめた。かれらは積み重なる死体に怯え、ひとりが北階段のほうへ一目散に走り出すと、ほかの者たちも悪霊にとり憑かれた豚の群れが湖に飛び込んでいくかのようにあとに続いて逃げ出した。

 オフィスにはなにも言わない死体たけが残された。しかしそのように見えたのはほんの五秒ほどのことで、床に仰向けに倒れていた警備員の死体のひとつがふっと右腕をあげ、被っている帽子のつばに触れた。

 帽子の持ち上がり、顔が見えた。

 永井圭がひっそりと生き返っていた。

 永井は顔をあげ、南階段、田中たちが去っていった方を見やった。


永井「痛って。撃たれちゃったよ」


 上体を起こし、血痕がべっとり付いている右手を見て永井は言った。自動小銃で撃たれたせいで右手は手首からずたずたになり、失血死するまでのあいだひどく痛んだのだった。

 永井がとっくに消えてしまった痛覚を気にしたのは理由があった。そっとを気にすることでできれば起こってほしくないことが目の前で展開されてしまったことを意識したくなかったからだった。


永井「というか……ウソだろぉ……」


 実際に言葉を発することで踏ん切りをつけると永井は立ち上がり、オフィスから北階段へと出ていった。
778 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:13:07.19 ID:ymR8HEsBO

 十階へと降りる途中で中野と出くわした。中野は手摺に右手を軽く置いた姿勢で背中を向けていた。背後から聞こえてきた足音に慌てている気配を感じられず、ついさっきオフィスから逃げたしてきた社員たちの避難誘導をしたばかりの中野はその足音が永井のものだろうと振り返るまえから察していた。


中野「なにしてたんだよ、永井?」

永井「この眼で確かめたいことがあった」


 永井はすれ違いざま、中野に顔を向けて言った。


永井「やっぱり、佐藤さんがいない」

中野「戦いたがりじゃなかったのかよ」

永井「ああ。あの人が後方支援なんてありえない。(永井はドアを開けて十階廊下へと進んだ)つまり、本当にこの戦いに参加してないんだ」

中野「あの手下たちを捕まえるだけでもダメージなんじゃねーの?」

永井「次なんかないんだ。ここで全滅させないと」


 十階にはまだまばらに人がいた。家族へ電話する者や互いに無事を確認しあう者、避難か待機か言い争っている者の横を通り過ぎながら、永井はなぜ佐藤が今回の暗殺に参加しなかったのか考えた。


中野「なあ、おれまで着替える必要あったか?」


 中野がふとした調子で尋ねた。


永井「ガキがうろついてたら目立つだろ。バレちゃだめなんだ、とくに奴には」

779 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:14:58.28 ID:ymR8HEsBO

 そう言うと、永井は中野に振り返り、天井に備え付けてある監視カメラを指差した。指差した手は胸のまえに掲げて、監視カメラからの視点では背中に隠れてみえないようにしていた。

 永井は身体の向きをもとに戻し、歩きながら根拠を説明した。


永井「敵はまず絶対にセキュリティ・サーバー室を取りにくる。ここを陥とさず進攻するのは不可能だからだ。すこしでも異変が起こればサーバー室は陥ちたと考えて動くべきだ」

中野「じゃあこんなところで油売ってていいのか?」

永井「中野、要撃はとっくに始まってるぞ」


 真剣な言葉を発した直後、永井の表情はあっという間にゆるんであきれ顔に変わった。


永井「ていうか、作戦要項にかいてあったろ。そんなんでよく従ってられるな」

中野「おれはバカだからなあ」

永井「あ?」


 そんなことはとっくに知ってる、だからなんなんだ。そういったいらだちを浮かべながら永井はちらと顔だけ中野に振り返った。


中野「ただ、これが佐藤を倒すベストなんだろ? 」


 中野は永井の態度を気にせず(気づいていなかったのかもしれないが)、単純な確信をとくべつ感情も交えず口にした。


中野「おまえが言うんだから」


 永井はなにも言わず前に向き直った。機械室のすぐ前まで来ていた。
780 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:15:48.46 ID:ymR8HEsBO

永井「ここからは仕事柄おまえのほうがくわしい」


 ドアノブに手をかけ、ドアを半開きにしながら永井は振り返り、中野の顔に眼をあわせ、言った。


永井「頼んだぞ」


 機械室のなかに入る。つけっぱなしの空調設備の作動音が耳を聾さんばかりにがなりたっている。壁から天井にかけて無数のダクトが繁生した蔦のように張り巡らされていたが、床はきれいなもので定期的に清掃が行われていることがうかがえた。通路がわかりやすいように黄色いラインの内側がグリーンに塗られていた。

 中野は機械室を見渡して言った。


中野「だれもいねえな」

永井「銃声とかで仕事どころじゃなかったんだ」


 空調制御盤を見つけると、中野は蓋を開けて器機の操作スイッチがどのようになっているか眼で確認していった。中野の作業を待つあいだに永井は戸崎に無線で連絡を入れた。


永井「聞こえますか、戸崎さん。最大の標的が来てないようです」

『そうか。なにか案はあるのか?』

永井「はい。佐藤を引きずり出す。現行の作戦は続行。このまま田中たちは捕獲します。が……」

781 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:17:18.64 ID:ymR8HEsBO

 戸崎はイヤホンを指で押さえながら永井の作戦を聞いた。歩く速度はゆるめずセキュリティ・サーバー室への通路を下村とともに歩いている。こっこっこっこっ、と足音が壁に反響する。合わせ鏡で無数に増幅された像のように、迷宮的に反響が連鎖していく。

 無線連絡を終えた永井は中野に振り向くと、まだ制御盤の操作を続けていた。永井がスマートフォン取り出しメールを打とうとしたとき、中野が声をかけてきた。


中野「永井、始められるぜ」

永井「わかった」


 永井は喫煙スペースから持ってきた脚部がパイプ製のスツール運びながらもう片方の手でスマートフォンを操作した。大型送風機のまえにスツールを置き、腰を下ろすとテキストを確認しメールを送信した。


中野「誰にメール?」


 背後に立った中野が訊いた。


永井「アナスタシア」

中野「え、アーニャちゃん、ここにいんの?」

永井「本人が言ったんだよ、佐藤と戦うって」


 永井は中野がぐだぐた反対するまえに先回りして言った。それでも中野は納得しきらず、戦闘という行為においてはただの女の子でしかないアナスタシアがこの要撃作戦に参加するのは、本人の意思がどうだという問題とはまた別だと思った。


永井「詳しく聞いてないけど、佐藤のテロで知り合いが死んだそうだ」
 

 中野の懸念を察した永井はだめ押しするように言った。中野の性格を考えれば、こう言っておけば、一〇〇パーセントの納得は得られずとも承知はするだろうと知っていたからだった。事実、中野は押し黙った。アナスタシアのそれは、中野が佐藤と戦う動機と重なるところがあったから。

 永井は中野の無言の承諾を感じながら、ふと、中野とアナスタシアの動機についてわずかな時間、十数秒ほど、思考の何パーセントかを傾けた。
782 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:18:33.79 ID:ymR8HEsBO

 中野は大量殺戮への反対というごく常識的で倫理的な動機をみずから口した。アナスタシアのそれについては完全に推察したものだったが、三人で行動していた際に車内で尋ねてきたときの不安そうな声の調子と ──アーニャはどうすればいいですか?──、九月に電話をかけてきたときの決然とした宣言 ──アーニャも佐藤とたたかう── との比較、それに加えそのあいだに佐藤の旅客機テロがあったことを考えると、友人の死あたりが変遷の理由だということは簡単に推察できた。

 永井は、中野みたいな直線的なバカでもないのにそんな理由で十分に戦えるのだろうかと疑問に思ったが、戦闘といってもIBMの使用にするに限るのだから、と考え直した。

 送風機のファンが回り始めた。中野は羽の回転を眼で追いながら、永井にふと尋ねた。


中野「そういや結局、UWFは使わないのか」

永井「IBMだろ」


 中野のとぼけた発言を永井はすぐさま訂正した。


永井「使うもなにも、おまえ、出せるようになんなかっただろ」

中野「だよなあ……おまえも操れないままだしな」


 中野の指摘が正鵠を得ていてばつが悪くなったのか、永井は何も応えず、無言で通した。


永井「まぁ、すこしは使うけどね」


 ファンの回転がいよいよ速くなりはじめる。

 中野は制御盤のところまで戻ると、回転速度を上限めいいっぱいになるまで操作する。

 永井は高速回転するファンを見据え、スツールに座ったまま、要撃開始の狼煙をあげた。


ーー
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783 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:20:22.80 ID:ymR8HEsBO

李奈緒美は一人掛け用のソファに緊張と恐怖に身体を強張らせながらそれでも辛抱強く、慎ましい態度で浅く腰を下ろしていた。フォージ安全社長甲斐敬一は李の背後の壁際に何食わぬ顔をして立っている。黒服たちは囲うのようにして二人を警護していた。応接用のソファとその間にテーブルがあり、四人はそれぞれソファ背後の端から少し離れたところで待機している。

社長室の入口はガラスで仕切られた向こう側にあり、立体的に張り巡らされた一枚ガラスが社長室を二分している。先程まで西側に面した窓から日が差し込んできて、この仕切りガラスに反射していたので黒服たちは警護のポジションを変更していた。

銃声が聞こえてきた。はじめに単発の破裂音が微かに響き渡り、直後に連続的な銃撃の音が続いた。


甲斐「近づいてきたな」


音のする方向に顔を向けながら甲斐が言った。甲斐はふっと背中を向けると南側の壁に近づいていった。


真鍋「あまり動かないでくれ」


甲斐の動きに気づいた真鍋が言った。その言葉に耳を傾ける者は甲斐も含めてだれもいなかった。銃声は徐々に近づいてきていて、黒服たちは応戦の準備をしようとしていたところだった。

甲斐は壁から張り出した柱に右の掌をぴったりとくっつけた。
784 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:21:54.78 ID:ymR8HEsBO

手の触れたところがガコンとへこみ、甲斐の眼の前の壁が自動ドアのようにちょうどドアの横幅の分だけ開いた。

平沢が眼を見開いた。同時に真鍋が叫ぶ。


真鍋「セーフルーム!?」


ほかの二人の黒服、李も突如として現れた空間に驚愕し、動きを止めてしまった。その間隙の時間を利用し、甲斐はセーフルームに難なく滑り込んだ。甲斐の動きにわずかに遅れて真鍋が飛びつく勢いで走り出したが、すでに扉は閉まり出していた。


甲斐「あとは頼んだよ」


扉が閉まり切る直前、見捨てられたことを理解した悲痛な面持ちの李に向かって、甲斐はたったそれだけ言い残し、扉の向こうに消えた。

真鍋が李に向かって詰問した。


真鍋「あんた知ってたのか!?」

李「いえ!」


李は正気に返ってあわてて否定した。


真鍋「クソ野朗……ターゲットがいねえとダメだろーが」

李「大丈夫です」


正面のガラスに強いるように見ながら李は震えた声で言った。閉じられた透明の扉の開閉部は一枚ガラスから独立していて、その切れ目の線がいやに眼についた。李はさらに言葉を続けたが、それは恨めしげに壁を睨みつける真鍋やほかの黒服たちにというより、自分に向かって言い聞かせているふうだった。


李「わたしは……逃げませんから」


ーー
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ーー
785 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:23:37.41 ID:ymR8HEsBO

十五階の業務フロアへと続くドアの前で田中たちは上階と下階からの挟み撃ちに警戒しつつ、奥山がドアのロックの解除するのを待っていた。


田中「奥山、まだ開かないのか?」


田中は銃床を肩にあて床に膝をついた姿勢で下階を見張っていたが、いい加減にしびれを感じ始めていた。


『十五階のセキュリティシステムは特別厳重で、熱源に体重感知、社長本人の認証がなきゃ猫すら入れない』


奥山がインカム越しに説明した。


高橋「もう五万分は待ってるぜ」

ゲン「ハハ、サバ言うな」

『あのねえ……きみらがたのしくドンパチしてた間も、僕はこのセキュリティと格闘してたの』


奥山の口ぶりは自分の仕事のほうが撃ち合いよりもはるかに複雑で神経の使う仕事だと言いたげなものだった。


『優秀なエンジニアでもあと五時間はかかるよ』

田中「おい、そんなに待てないぞ!」
786 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:25:13.41 ID:ymR8HEsBO

田中が文句を言った直後、背後からガコンという音がした。三人が階段へ向けていた視線をドアへ戻すと、固く閉ざされていたドアが半開きになっていた。


『ほら、とっと入って』


田中がハッと軽く笑う。高橋とゲンを見やって言った。


田中「ゲン、高橋」


呼びかけられた二人はニヤつていた。クライマックスを楽しみにしているとでもいうような表情。


田中「終わらせるぞ」


三人が社長室への通路を進んでいく様子を監視カメラで眺めらながら奥山は十五階のセキュリティをすべて掌握するためハッキングを続けていた。

奥山の視界には三台のデスクトップモニターが収まっていて、右のモニターが田中たちの様子を、中央のモニターがコードを、左のモニターが自分のいるセキュリティ・サーバー室への通路をそれぞれ映していた。

奥山が熱源感知システムのコードを書き換えていると、左モニターの映像に影が横切るのが見た気がした。


奥山「ん?」

『どうした?』

奥山「いま、なにか……」


声を洩らしていたため、田中が尋ねてきた。


奥山「気のせいか」

『あと二十メートル』
787 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:26:26.51 ID:ymR8HEsBO

奥山「こっちもあと少しで十五階全体のセキュリティを掌握できるよ」


気を取り直した奥山がハッキングの進捗状況を田中に伝える。

田中は奥山からの通信を聞きつつクリアリングしながら通路を進行していく。観葉植物の裏を素早く確認し、視線を前に戻す。奥山からの通信に意識を向ける。


『そしたら熱源で敵の配置を……し……』

田中「奥山?」


突如、無線にノイズが走り、すぐに通信が不可能になった。


奥山「田中さん?」


奥山の無線も同様で、田中との通信を再開しようとしてもノイズばかりがインカムから聞こえてくるだけだった。

田中は足を止めて奥山からの通信が再開するのを待っていた。


高橋「どうするよ」


田中は視線を上げた。社長室のドアが見える。距離は十メートルもない。


田中「……もう眼の前だ。続行するぞ」
788 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:27:12.37 ID:ymR8HEsBO

奥山「何か、変だぞ」


一方の奥山は違和感に手を止め、思考をフル回転させていた。偶然とは思えないタイミングで無線が通じなくなった。しかし、妨害だとしたらいったいだれが? フォージ安全側の人間である可能性はきわめて低い。セキュリティ・サーバー室は掌握してあるし、妨害が可能なら被害が大きくなる前に行っているはず。第三者の介入? だが、外部にセキュリティ業務が委託された痕跡はなかったはず……

いきなり、警報が鳴り響いた。


奥山「火災警報……十階……」


奥山は囮のエサに誘い込まれた鼠のように警報を表示しているモニターに見入った。十階の通路にある監視カメラが火元の映像を映し出した。

永井圭が火のついた紙束を松明のように掲げて、帽子を脱いで監視カメラを見上げていた。


奥山「永井……圭……? 何してる、こんなところで……」


奥山がカメラ越しに永井と視線を合わせていたのは一瞬だった。奥山は左手を素早くあげ、耳のイヤホンを指で押さえて叫ぶ。


奥山「田中さん、中止して!」


インカムから返ってきたのはノイズだけだった。


奥山「ったく!」


床を足で蹴って固定電話へと飛びつく。勢いづいたオフィスチェアをデスクを抑えてとめ、受話器を持ち上げ番号を押す。

789 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:28:42.14 ID:ymR8HEsBO

奥山「佐藤さん!」


留守番電話センターにつながったが、無視して叫ぶ。


奥山「なぜか永井圭がいる! こっちの見えないところでなにか……」


奥山は違和感の正体に気づいた。耳に受話器を当てたまま、左のモニターを見る。セキュリティ・サーバー室への通路には何も映っていない。奥山はキーボードのキーを押し、映像を巻き戻した。受話器を持ったまま、映像を巻き戻しを続けていると、廊下を横切っていくものが見えた。奥山は映像を一時停止して顔をモニターに寄せると、瞬きも忘れモニターを睨んだ。

床から一メートルほどの高さにピストルのような形をしたものが浮かんでいた。


奥山「麻酔銃が、飛んでる……?」


その瞬間、奥山はすべてを悟った。


奥山「ああ、全部ワナだ」


下村のIBMが奥山のすぐ背後で麻酔銃を構えていた。引金が引かれ、麻酔ダートが発射される。麻酔ダートは奥山の首の後ろに刺さり、一瞬で奥山の意識を奪った。

IBMによって室内の安全が確認されると、下村と戸崎がセキュリティ・サーバー室に足を踏み入れた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室を奪還した」


戸崎はキーボードをタッチし、換気システムを作動させた。

平沢が戸崎からの無線連絡を耳にする、そのときドアが開いた。
790 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:29:53.72 ID:ymR8HEsBO

李は震えあがっていた。田中が社長室に侵入してきたのを見たとき、李はとっさに立ち上がったが、それ以上は動かなかった。喉は閉塞し、呼吸するのもつらい。眼はずっと見開かれている。田中が強化ガラスのドアの前で立ち止まる。田中と李の眼があった。


田中「久しぶりだな」


怯えきっている李を睨みつけながら田中が吐き捨てるように言った。

高橋がガラス越しにターゲットを撃った。巨大な一枚ガラスにヒビが入る。


田中「防弾ガラスだよ! ドアの鍵を壊せ!」


田中はドア下部のデッドボルトを狙ってショットガンを撃った。頑丈な作りのため、散弾を一発撃ち込んだだけではビクともしない。


平沢「今だ」


平沢が無線でタイミングを告げた。黒服たちは李から離れ、それぞれソファや壁から張り出した柱に身を隠していた。彼らの任務は対象の護衛ではなく、あくまで佐藤ら亜人テログループの捕獲だった。黒服たちは麻酔銃を構え、銃声にまったく反応を見せないまま、田中らが侵入してくるのをじっと待っている。

三発目でデッドボルトが吹き飛んだ。強化ガラスのドアが開き、銃口を上げることも忘れ、まっさきに田中が中に飛び込む。

ショットガンを持ち上げ、左手で銃身を支える。銃口が真っ直ぐ、李に向けられる。

791 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:36:07.96 ID:ymR8HEsBO

李「あのときは……ごめんなさい」


顔の横に挙げた両手と唇を震わせながら李が言った。瞳から涙が溢れ落ちた。

田中の動きが止まった。心は激しく動揺していた。

李はゆっくりと手を下げ、瞼を閉じた。唇は噛み締められ、手は胸のところでぎゅっと握られている。

田中は大きく動揺したまま、李を見た。撃ち殺される恐怖に打ちひしがれながら、額に脂汗を滲ませ涙を哀れに幾筋も流しながら、逃げることだけはきっぱりと拒否して、李奈緒美はそこに立っていた。

田中の動揺がさらに大きくなった。眼の前の女は復讐されるに当然の人間のはずだった。なのにその顔はなんだ。なんでそんな顔をする。なんでおれみたいに助けを求める顔をして、それなのに逃げ出しもせず命乞いもしないんだ? そこで田中は気づいた。暗殺のとき、相手の顔を正面から見たのはこれが初めてだということに。田中はみずからの殺意が砂の城のようにたよりなく、たやすく波にさらわれ消え去っていくのを感じた。

背後から黒い波が押し寄せてきた。


田中「なんで……亜人の粒子が?」


驚く高橋とゲンにつられ、振り返った田中は換気口から流れ出てくる黒い粒子をいまだ動揺から立ち直られない態度のまま見やった。


田中「いや、それに……あんなすぐ消えちまうもん、こんな大量に……」


粒子の波はいまや濁流と化していた。換気口からの送風にのせられて黒い粒子が部屋を飲み込み始める。すぐ眼の前まで黒い濁流が迫ってきた。そのとき、田中の頭の中で佐藤からの伝聞の情報が線を結び、答えとなって閃いた。

792 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:37:14.94 ID:ymR8HEsBO

田中「永井か」


亜人にしか見えないIBM粒子が田中たちを飲み込んだ。並外れた量のIBM粒子を放出した永井は、何食わぬ顔で巨大送風機の前に座ったままだった。永井は無意識に視線をあげ、ふと閉じていた口を開け、つぶやいた。


永井「あとは任せましたよ、平沢さん」


黒い粒子に埋め尽くされた社長室は亜人にとっても奇妙な空間と化していた。ブラックアウトする視界、だが音もなく匂いもない、暑さや冷たさもなく、ただごうごうと音を立てる送風によって粒子が眼の前で流動していく。


高橋「なんも見えねえぞ!」


パニックになった高橋が銃を乱射する。銃弾は防弾ガラスをひび割っただけだった。悲鳴をあげる李を取り残して、平沢たちは平常通りの滑らかな動きで接近していく。

高橋のAKMが弾切れを起こす。舌打ちしつつマガジンをリリースしたあと、バックに手を伸ばし換えのマガジンを探す。


ゲン「ウッ!」


ゲンの呻き声のあと、床に倒れる音がした。


高橋「ゲン! どうした! ゲン」

田中「落ち着け、高橋!」
793 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:38:09.31 ID:ymR8HEsBO


平沢が麻酔銃に換えのダートを装填しているあいだ、背後の若い黒服が高橋に狙いをつけた。


高橋「ゲン、どこだ!」


言葉を切った瞬間に麻酔ダートが撃ち込まれた。ごうごうと響く送風音で田中は高橋が倒れたことに気づかない。


田中「こんなことになってるのはこの部屋だけだ! なんとか出口へ……」


田中のすぐ眼の前に麻酔銃の銃口があった。

平沢が引金を引く。

麻酔ダートが首に突き刺さる。

田中は意識を失い、床に倒れる。

黒服たちは麻酔銃を構えながら、意識を失った田中以下三名の亜人を見下ろす。

そして、平沢が無線で告げる。


『クリア』


イヤホンを指で押さえながら、永井はその声をしっかりと聞き取った。


ーー
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ーー
794 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:39:05.48 ID:ymR8HEsBO

「クリア」という声がコイル型イヤホンから聞こえたとき、アナスタシアにはその言葉が何を意味するのかすぐにはわからなかった。少ししてビルに侵入してきた田中たちがやっつけられたのだと思い当たった。

アナスタシアが正解に思い当たったのと同時にスマートフォンがブルブルと振動した。洋式トイレの蓋の上に置いていたのでびっくりするような大きな音が婦人用トイレに鳴り響いた。アナスタシアはビクッと肩を震わせ、そのときの動作によって人感センサーが働き、トイレの照明がパッと光った。

メールは永井から送られてきたものだった。本日四通目のメールの文面には、田中以下三名の無力化を確認、佐藤はいまだ確認できず、引き続き待機、との指示が書かれていた。

アナスタシアは洋式トイレの蓋の上にスマートフォンを置き、無線機の横に並べた。トイレットペーパーを敷いた場所に尻を置き直し、ふたたび仕切り壁に背中を預ける。両膝を合わせて抱え込むようにして手を組むと、そこに左頬を置いて無線機とスマートフォンを眺めた。

ウィッグの前髪が垂れ落ちてきた。視界に入り込んできた黒髪を直そうとしたとき、照明が自動で消え、暗闇が戻ってきた。アナスタシアはくすぐったさにむず痒い思いをしたが、身を隠していることを考えるとまた明かりを点けることはためらわれた。結局、ウィッグの毛はそのままにしておいた。
795 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:40:09.19 ID:ymR8HEsBO

アナスタシアはいま黒のウィッグと茶色のカラーコンタクトを付け、ウィッグの色と同じ黒のパンツスーツに身を包んでいる。その姿は百六十五センチという高身長も相まって、キャリアウーマンのように見えるが、足元はレディースの革靴ではなく多少の使用感がある白いスニーカーだった。

火災警報によってセキュリティ・サーバー室の占拠を悟った永井は一通目のメールを送信し、アナスタシアにビル内に入るよう指示した。そのときのアナスタシアは自転車便のメッセンジャーに扮した格好をしていた。変装の精度がどのようなものか判然とせず、アナスタシアはこれまでの人生のなかで最も速く心臓をドキドキさせながらビルへと向かった。十五歳の子どもが隠し事をしたまま、たくさんの大人がいる場所に忍び込むというのだから、当たり前ともいえる反応だった。

アナスタシアの激しい緊張と不安をよそに、検問は難なく通過できた。

アナスタシアの存在はその身元こそ明かされていなかったものの、フォージ安全ビルでの要撃作戦に参加するにあたって、永井は戸崎に協力者がいることを言及していた。 ──同時にそれは戸崎への牽制として機能した。永井は佐藤拘束の報酬として偽の身分と捕獲対象からの除外を要求し、万が一果たされなかった場合、戸崎の婚約者は協力者のIBMによって殺害されることになると脅迫していた。もちろん、アナスタシアはこのことを知らない。── 戸崎は永井の脅迫を受け止めつつ、作戦の成功率を少しでも上げるため、協力者がビル内に入り込めるよう手筈を整えた。

アナスタシアはメールに従って八階まで上がると、その階にいた女性社員から配達物を受け取った。それから九階に上がり、照明が消えていることを確認すると、すばやくトイレの中に入り一番奥の個室へ向かった。鏡の前を通り過ぎる際、アナスタシアは自分の姿を一瞬だけ認めた。その一瞬で、黒髪に茶色の眼をした、若いというより少女にしか見えないメッセンジャーは明らかに場違いだと思い知らされた。
796 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:41:08.68 ID:ymR8HEsBO

個室の戸を閉め、肩にかけた大きめのメッセンジャーバックから小さく折り畳んだジャケットとスラックスを取り出して、着替える。パンツスーツとメッセンジャーの格好を比べ、とりあえずいまの姿の方が多少はましだと結論づける。アナスタシアは配達物の封を開け、中身を確認する。無線機と使用法と周波数が書かれたメモがあった。アナスタシアはメモに従って無線機の電源をオンにした。

コイル型イヤホンを左耳に入れた途端、野太い焦燥が色濃く混じった叫びが耳を貫いた。一階の検問ゲートを武装した亜人三人が突破し、ビルに侵入したと言うのだ。

無線を聞いたアナスタシアの全身が緊張で強張る。

そのとき、身体の麻痺を解くための如くジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが振動した。永井から見計らったように二通目のメールが届いた。指示があるまで待機との厳命。三通目のメールは、アナスタシアの聴覚が微かではあるが遠くで鳴る銃声を、アナスタシアのいる階で轟いたものだとわかるくらいの音量で捉えたときだった。内容は二通目と同様で、命令があるまで絶対に動くなと強い口調が聞こえてくるような書き方がされてあった。
797 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:42:31.52 ID:ymR8HEsBO

この戦いにおいて、自分への期待が高くない ─それどころか、ほとんどない! ── ことはわかっていた。というのも、永井はリスクも手順も最小限の作戦を打ち立てていて、アナスタシアの役目といえば、せいぜい不測の事態が起きた場合にIBMで支援を行うことくらいだったからだ。活躍どころか、働きすらないかもしれないのだ。参戦を通告してから作戦の詳細を知らされるまでのあいだ、アナスタシアには不安と緊張の感情が心の中心に宙吊りになって存在していた。他者の安全、自分の正体の露見、十分な働きができるかどうか……ネガティブな未来が浮かぶたびに、美波やプロダクションのの仲間や学校の友だち(死んでしまった友たちも含めて)のことをイメージとして思い浮かべて戦いの意志を強固にし直していった。だから、永井から役目はほとんどないだろうと知らされたとき、戸惑い、もっと言えば後ろめたさすらおぼえた。密閉された空間に敵を誘い込み、IBM粒子を利用して視界を奪う。永井の作戦が効果的であるのは納得できたし、被害が出る可能性も最小限まで抑えられている点は安堵したほどだった。 でも、とアナスタシアは疑義を浮かべた。亜人であるわたしが、隠れているだけでいいの? 銃を撃ったりはできないとしても、盾になることはできるかもしれないのに……(この時点ではアナスタシアは警備員のことまでは想定していなかった。永井が意図的にその事実を隠したのは、アナスタシアが佐藤と戦う理由はナイーブなものだと予想していたからだった。かすかな銃声が耳に届いたとき、アナスタシアの意識に警備員の存在がはじめて浮上し、その欠落にいままで気づいていなかった自分に愕然とした。すぐに腰を上げたが、銃声はすでにはるか遠くに遠ざかっていた……研究所で見た凍結されていない生々しい滑り気を持った虐殺のイメージが蘇ってきた……「クリア」という声がイヤホンから聞こえ、アナスタシアは現実に戻ってきた)。
798 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:43:22.94 ID:ymR8HEsBO

永井はこの考えを、少年漫画の読みすぎだ、と黒い粒子の狼煙による返答で一蹴したが、銃弾の前に生の肉体を晒してたたかうといういざというときの心構えが完全に退けられることはなかった。この心構えは警備員の死に気づいてから具体的な細部を持ったイメージへと変わったが、いまでは空想の域にまで入り込んでいた。肉体に穿たれた孔と流れ出す血は勇者の赤いバッヂとなり勇敢さをたたえる、こうした空想は輪郭があいまいで現実的な苦痛から遠く隔たっていることをアナスタシアは自覚せざるをえなかった。空想は退けられた。だが、後ろめたさは残していた。永井に言わせれば後ろめたさを抱くこと自体見当はずれの感傷に過ぎないのだが、アナスタシアはそうとは思わない。死なないからこそ、死を他人事にしてはいけないのだと、アナスタシアは考えていた。

そしていま、暗闇の中に浮かび上がった四通目のメールを見つめながら、アナスタシアは命令通りに待機の時間の只中にいた。センサーが反応しないように最小限動きだけでスマートフォンや無線機を操作しながら、ただひたすら、佐藤が現れるまで待つ。後ろめたさを錘にしながら。


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799 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:46:06.03 ID:ymR8HEsBO

コーヒーサーバーからカップにコーヒーを注ぐと黒い液体がにわかに泡立った。淹れたてで熱々のコーヒーから湯気があがり、カップの内側を水滴で濡らした。ほんのちいさな一ミリくらいの泡がはじけ、コーヒーの水面が完全に静まり黒い円形として停止すると、佐藤はソーサーにのせたカップを持ち上げ、キッチンから休憩室に戻っていった。

アジトの休憩室は雑然としていた。整理整頓はおざなりで、歩くスペースは確保してあったが、パンの袋やコピー用紙などが隅のほうに放置されたままになっていた。

休憩室を通り過ぎ、ゲーム機のある部屋に戻ろうとしていた佐藤は長机の上に置かれた携帯電話に留守番メッセージが新着していることに気がついた。佐藤はさして考えもせず携帯電話を手にとると、メッセージを再生した。


『佐藤さん!』


奥山の声。焦燥で大声になっている。


『なぜか永井圭がいる!』


メッセージはそのあともすこし残っていたが、佐藤はそれを聞かず携帯電話とカップを机に置いた。カップを置いたとき、中身が跳ね溢れそうになった。コーヒーの波間はやがて落ち着き、そして黒い液体が揺らされることはもう二度となかった。


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800 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:47:02.77 ID:ymR8HEsBO
今日はここまで。

なかなか思うように進まない…
801 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/27(日) 15:21:29.42 ID:lGUhnR6s0

アーニャ関連には期待している
802 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/03(日) 02:09:25.72 ID:Zvp9ZrOr0
漫画と変わらないところは飛ばしても良いんじゃないか?
803 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:13:43.74 ID:6D6vTS+OO
亜人捕獲の報せを受けフォージ安全ビルに赴いた刑事はビル前に集結し騒ぎ立てているマスコミの姿を見て、既視感とともにうんざりした気分を味わった。

永井圭が亜人だと発覚したときの美城プロダクションの前もこのような光景だった。報道陣がわらわらとつめかけ、現場整理にあたっていたこの刑事は身体を押しつけられてはフラッシュを焚かれ罵声を浴びせられ、こちらもマスコミを押し返し罵声を浴びせ返した。プロダクションに侵入しようとした記者をひとりとっ捕まえたがそのせいで左小指の爪が割れたし、あとからそいつに訴えられた(とうぜん、特別な説得をもって訴えはすぐに撤回してもらった)。

パトカーから降りてフォージ安全へと歩いてるいくうちに、この刑事は自分が抱えているうんざりした気持ちはマスコミのせいではなく、この会社自体にあるのだと認めざるを得なくなった。社長の甲斐はもともと警察批判で有名で、ここ最近は業績を上げるためか──実際上がっているらしい──舌鋒をさらに鋭くしている。しかも、亜人のテロには警察力より民間セキュリティのほうが有効だということを今日証明してしまったのだ。

彼はフォージ安全の社員にどんな対応されるのかと考えると気が重くなった。最近見たドラマの大企業の幹部のように下請け会社の社員にとる尊大で居丈高な態度でもとるのだろうか……。
804 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:15:05.89 ID:6D6vTS+OO
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805 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:16:15.33 ID:6D6vTS+OO

正面入口で刑事を待ち受けていたのは三十代前半の男性社員だった。警備員二人を従え、刑事にむかって慇懃に挨拶すると一階エントランスへと招き入れた。そんなことはないとは思っていたが、男性社員にこちらを見下すような態度は感じられなかった。刑事は独り合点かつフィクショナルな思い込みに心持ちをすこし悪くした。

入り口を通り、エントランスに足を踏み入れる。眼に飛び込んできたのは、さながら災害が起きた直後の病院のような光景だった。エントランスに負傷者が集められ、床に座るか仰向けに寝かされ、傷口を抑えながら痛みに耐え、あるいは呻き声を洩らしている。タオルやハンカチ、包帯、シャツ、ジャケット、ネクタイ、社員証などが赤く染まり、付き添いの者が傷口を抑えている場合もある。救急隊員が駆け寄って、慎重に傷口を覆う手を剥がしながら処置を行っていく。同じ動作を行なっている私服姿の者もいて、きびきびとした的確な動作や救急隊員に指示している姿から見てボランティアでかけつけてきた医師なのだろう。かれらの奮闘を示す張り上げた声と苦痛に歪んだ声がエントランスを満たしている。
806 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:17:02.02 ID:6D6vTS+OO

刑事という職業をしていても、生存者が多数いる現場に立ち会うことはほとんど経験したことがなかった。複数の死傷者が出た通り魔事件を担当したことはあったが、現場に到着したときには負傷者は既に病院に搬送されていて、死亡したスズキという若い女性も同様だった。だから、このような光景はテレビ画面越しに見るのが常だと記憶していた。そこではヨーロッパがテロが起きたときの夜の光景が警察車両の青い光が警官が羽織る蛍光色のジャンパーと埃まみれか血だらけの怪我人たちを記号的に記憶されている。国名は置き換え可能であり、ジャンパーの色も回転灯の色もべつの色彩に置き換え可能な記号にすぎない。黒尽くめの特殊部隊の様相など、匿名性がきわまって置き換えても置き換えても区別がつかない。眼球に映る現在と記憶のなかの映像とのちがいはひと言でいえばリアリティの有無であるが、それは視野が三次元的な立体感を獲得しているか否かが問題なのではなく、眼の前で生起している/しつつあるできごとの総体が認識の受容範囲の限界を越えようとしてるのが問題で、できごとのリアリティはたやすく人間を自失や失語の状態に持ち込む。置き換えることなどとうてい不可能なことなのだと思い知らされる。とはいえ、テロ自体はもう収束しているのだから、あまりおおきく動揺するのも……
807 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:18:15.23 ID:6D6vTS+OO

刑事を出迎えた社員はつかつかと淀みなく負傷者のあいだを歩いて行った。歩みがあまりにスムーズなので、あらかじめ彼が歩くところには誰も座らせたり寝かさないようにと指示がされているみたいだった。その様子を見た刑事は先ほどとは別種の居心地の悪さを感じた。

防犯シャッターのところまでやってきた。そこにシートを被せられた遺体が何体も並べられていた。何度も見てきた光景だが、これほどの数を一度に視野に収めるのは初めてだった。


「防犯シャッターはまだ開かないのか?」


刑事はシートのふくらみから眼をはずし、遺体が並べられているのとは反対側の床に視線をやりながら言った。


「ウイルス攻撃の影響とのことです。順次復旧するはずです」


刑事に応えた社員のしゃべり方は平坦そのものだった。感情めいたものをいっさい見せず刑事に正対しその顔を見つめている。
808 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:19:04.22 ID:6D6vTS+OO


「亜人はしっかり拘束できてるのか?」

「もちろんです」


さきほどと変わらない平坦な声でフォージ安全の社員は言い切った。


「現在ビル内の仮眠室にて麻酔医の資格を持った研究員のもと、厳重に隔離しています。シャッターが開き護送車が到着し次第受け渡しできます」

「けが人の搬送が優先だ。中の社員の帰宅にはどれくらいかかる?」

「かかりません」


淀みない返答をうけた刑事の表情が面食らったように固まった。音声として聴き取れた言葉の意味がある汲み取れなかったのだ。


「被害のあった区画以外は通常営業を続けます。それが社長の方針なので」


面食らったままの刑事にむかって、フォージ安全の社員はことなげもなくそう告げた。


ーー
ーー
ーー


809 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:00.99 ID:6D6vTS+OO

機械室に人が戻ってきて、かれらはのびをしてからめいめい作業を再開し始めた。さまざまな種類の機械ががなり立てる騒音は耳栓がほしくなるくらいうるさく、機械や張り巡らされているダクト類の表面を微振動させるほどだった。天井のすぐ近くのダクトにもかすかな振動は伝わっていて、そこに寝転がって身を隠している永井と中野の後頭部や背中に鬱陶しい感覚を送っている。


中野「平沢さんたち、みんな無事だってよ。よかったな」


中野が左に顔を向け、上を見上げたままの永井に言った。ダクトに積もり積もった埃はエアホースから噴射された空気できれいに吹き払われていたので中野は遠慮なくおおきく挙動した。


永井「いいから、そういうの」


永井は顔を向けずとも中野の無遠慮さを感じ取っていて、ちいさく顔をしかめながらうんざりした口調で応えた。


中野「いやほんとすげえって。みんなの安全も考えて」

永井「犠牲者は出ると思ってたよ」

中野「余裕だったじゃん」

永井「佐藤がいなかったからな」


気の緩んだ中野を引き締めるかのように永井は口を開き、きっぱりした口調で言う。


永井「本番はこれからだ」

810 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:49.88 ID:6D6vTS+OO

さきほど戸崎と会話したとき、永井は佐藤が今回の暗殺に不参加だった理由をたった一言で簡潔に述べた。うすうす予感していた嫌な可能性が実現してしまったときに出す、口ごもりと運命に対する呆れ果てた感情を交えた声音で永井は「あの人、飽きてる」と戸崎に言った。
佐藤はその本名をサミュエル・T・オーウェンといい、イングランド系の父親と中国系の母親とのあいだ生まれたアメリカ人であることがすでに戸崎たちには判明している。一九六九年、サンディエゴの新兵訓練場でサミュエル・T・オーウェンに出会った元海兵隊員カーター氏が語るところによると、ポーカーフェイスとの呼び名を持っていたサミュエルは徴兵された若者たちのなかでも際立って若く見えたとそうだ。

「アジア系の顔つきというのも理由だが、それ以前に彼は年齢を偽って入隊していた」とカーター氏は言った。つづけて彼は「身長一七三程度の小柄な男がココでやっていけるのか?」とサミュエルに対して最初に抱いた印象を戸崎に語った。

「犯罪者の片鱗などは?」という戸崎の問いかけにカーター氏は「なかった」と即答し、戸崎がさらに質問を続ける前に「というより、かれは二週間で群を去った」と思い出にも満たない当時の短いできごとを回想した。本格的な戦闘訓練が始まった頃、担当教官が一言、ポーカーフェイスは重病のため使い物にならなくなったと告げた。
811 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:21:44.64 ID:6D6vTS+OO

カーター氏の次の回想はベトナム戦争終結後、米軍の完全撤退が完了してから一年が過ぎた、一九七六年のことだ。シアトルの自宅にいた彼に軍から一本の電話がかかってきた。アメリカ兵パイロット一名がいまだベトナム国内に捕虜として囚われているとの情報を入手した米軍は、とある理由からカーター氏をサミュエルが所属していた特殊部隊「チーム」に同行させ、ベトナムの奥地まで送り込んだ。そこは、戦争終結後も戦いはまだ続くと信じていた、ベトコンのなかでもとくに狂信的な集団百人ほどが潜伏している地域だった。危険極まりない地域だったが、そこへ侵入してゆく「チーム」の隠密行動は芸術的だった。身体の輪郭を暗闇に溶け込ませるすべを持ち、葉っぱひとつ揺らさずにジャングルを潜り抜けるすべを持ち、月明かりに立つ歩哨を音も無く暗闇に引きずり込み永遠に寝かせるすべを持っていた。「チーム」の技能をまの当たりにし、また自らも同様の行動(みずから技能をはるかに越えた行動をとれたのは、「チーム」の、とりわけサミュエルのおかげといってよかった。)をとったカーター氏は、得も言われぬ興奮と感動が胸に満ちていた。厳重な警備を瞬く間に抜け、サミュエルら「チーム」三名とカーター氏は捕虜を救出。カーター氏は捕虜となっていた弟を抱きしめると、弟もまたか細くなってしまった腕で兄を抱きしめた。これには「チーム」のメンバー二人も微笑みを浮かべた。あとはピックアップポイントまで後退すればそれで任務はおわる。

カーター氏は尊敬のまなざしを向けながら、サミュエルに脱出をうながした。カーター氏はにわかに興奮していた。またあの素晴らしい「チーム」の技能を眼にできる、その動きに加わり、弟とともに故郷に帰れる。
812 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:22:42.43 ID:6D6vTS+OO

サミュエルが、拳銃を抜き取り、銃口を地面に向けた。カーター氏は突然の行動にぽかんとし、「チーム」の二人も意味不明な行動に戸惑っている。二人はサミュエルの指が引き金にかかっているのを気にしていた。「チーム」のふたりと違って、カーター氏はサミュエルの表情を見ていた、いつものポーカーフェイスが、別の表情に変わるのをはじめて目撃した。


「プレイボール」


サミュエルは笑顔を浮かべて、引き金を引いた。

一発の銃弾が、百人の敵を呼びよせた。おびただしい数の敵との戦闘。まるでジャングルを形成する植物と熱帯の気候と闇が敵意を剥き出しにしてきたかのよう。戦闘中、サミュエルは笑みを絶やすことはなかった。茂みから飛び出してきたベトコンに銃剣で腹部を刺されても、お礼のように笑いながら水平に寝かしたナイフを心臓に送り返す。手榴弾がジープの荷台に転がり、炸裂しサミュエルの右脚を吹き飛ばす、「チーム」のひとりの顔面が半分になり、もうひとりの方は腹から多量の出血。カーター氏は耳鳴りに苦しみ、現実が遠のいていく感覚に襲われる。

認識が戻り、現実感を取り戻したとき、カーター氏は自分が自軍のヘリに乗っていることに気づいた。しばらくは茫然としていた。浮遊感をおぼえてからだいぶ経って安堵を覚え、カーター氏は弟の無事を確認しようと顔をあげた。サミュエルがいた。

もうその顔に“表情”はなく、その無表情は右脚が失われたことを惜しむというより、右脚が失われた状況が失われたことを惜しんでいるように見えた。

帰国後、サミュエル・T・オーウェンは軍法会議にかけられ不名誉除隊となる。
813 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:24:08.79 ID:6D6vTS+OO

本来ならそこで悪夢は終わるはずだった。あるいは、カーター氏の個人的な悪夢としてときおり思い出される程度のものとなるはずだった。

「だが、神は彼に……第二の戦場を与えてしまったのだ」カーター氏は消え去るような声でつぶやいた。

「亜人」と、戸崎が語り継いだ。

「もうその戦いに終わりなどない」


そう言ってカーター氏は述懐を終了した。

カーター氏の述懐は永井が抱いていたある予感を再確認させる類の話だった。つまり佐藤はたのしいから殺しをしているという予感、つまりたのしくなければ殺しをしない、そしていま佐藤はたのしくなくなってきている。

佐藤のきわめてシンプルな個人的感情へ対応しなければならないなんて。永井はみずからの合理性を放棄したくなった。
814 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:25:13.04 ID:6D6vTS+OO

中野「佐藤にはどんな作戦でいくんだ?」


中野がまた首を横にむけ訊いた。


永井「さっきと同じ作戦でいく。だからまだこの部屋にいるんだよ」

中野「大丈夫なのか? おんなじで」

永井「注射器は百五十年かたちが変わらない。それがベストだからだ」


さも当たり前のように永井は言う。


永井「だいいち佐藤は僕らの介入は知ってても作戦の中身までは知らない。だが問題もひとつ。敵の戦力を削ってくれる警備員が田中との戦いで減ってしまったこと。だから一階のシャッターを開き、実況見分に来た大勢の人間を招き入れる」


永井の口調は淡々としていて、すくなくとも永井にとって問題はたいしたことはないと言いたげだった。


永井「こうやって警察官を警備員の代用品にするんだ」

中野「どういう意味だよ」

永井「言ってるだろ。他人の安全なんか気にしないって」


永井はこのとき、はじめて視線を中野にむけた。中野は身体を起こして永井の顔を見下ろすかたちをとりながら、疑問を口にした。


中野「注射器がどうのって……どういうこと?」
815 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:26:43.84 ID:6D6vTS+OO

一階ではシャッターが開けられ、永井の作戦通りに多くの警察官がビル内に入ってきた。

戸崎はセキュリティ・サーバー室から田中の侵攻ルートを説明して、警官を各階に配置していった。

救急隊員が怪我人を見、手当が済んだ者から一階へと運んでいく。警官のほうは聞き取りをおこない、田中たちの足取りを確認する作業に没頭していた。

無線からは業務的な報告が聞こえてくるだけで、佐藤が現れる気配はまだなかった。

中野は無線の雑音と警官の口ごもりや言い直しが混じる報告を耳で受け止めながら、また永井に質問した。


中野「永井、さっき敵はまずセキュリティ・サーバー室を狙うって言ってたよな。佐藤一人じゃ侵入すらできねえんじゃねーの?」

永井「こちらでシャッターを開けっぱなしにしておく。不審がられたっていい。罠だと知っててテーマパークに飛び込んでくるんだから」


ふと永井が言葉を切った。


永井「正直、佐藤がどんな作戦で来るのかまったくわからない」


声の調子が低くなり、それとともに永井の表情が懸念に眉をよせるのを中野は見た。


永井「だが物理的に入口はひとつ、絶対、田中達とおなじ順路を辿るほかないんだ。それだけわかってれば十分! やつは怪物でもなんでもない、死なないだけのただの人間だ!」


永井は腕組みしている手に力を入れていた。指にかかる握力のせいか、声も少し荒っぽい。言い終わったあと、力を抜き、拳になっている手をゆるめる。そして、自分自身に言い聞かせるようにちいさくつぶやいた。


永井「だれがビビるかよ」
816 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:27:34.74 ID:6D6vTS+OO

アナスタシアは無線越しに永井の声を聞いていた。永井の口から無意識のうちに溢れ出た不安の感情はアナスタシアをむしろ納得の気持ちにさせた。それは永井のつぶやきがアナスタシアの内面の心情と一致するからだったが、それ以上に責任感と重圧の間隙から感情が垣間見えるという心理的葛藤のあり方に姉と弟とのつながりを見出したからだった。

アナスタシアはいまになってようやく、ここにいる明確な動機を掴んだ気がした。


アナスタシア「だれが、ビビるかよ」


アナスタシアは永井と同じ言葉をゆっくり口にした。恐怖を否定するためでなく、恐怖と戦う覚悟をするために。


ーー
ーー
ーー

817 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:28:26.96 ID:6D6vTS+OO

黒服たちはめいめい装備を点検し、ソファやキャビネットを応接室の入り口付近に縦に配置し身を隠す壁代わりにした。

準備が終わり、静かな待機の時間がまた戻ってきた。

真鍋はふと思いつめた表情を浮かべ、隣の平沢に話しかけた。


真鍋「平沢さん、今のうち返しておくよ」


真鍋は拳銃を取り出し、平沢に渡したい。


真鍋「あんたから貰った銃だ」


ベレッタM92F。真鍋が言った通り、平沢が譲渡したもので、平沢がその手でこの拳銃を持ってからかなりの時間が過ぎていた。

平沢はベレッタの銃口を床に下げ、真鍋を見つめた。

真鍋が口を開いた。

818 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:29:16.34 ID:6D6vTS+OO

真鍋「今回の仕事が終わったら、この稼業から足を洗おうと思ってる」

黒服2「やめてどうする、真鍋」


年嵩の黒服が茶化すように話しに入ってきた。


真鍋「伊豆にいい物件があってな、そこでのんびりするよ」

黒服2「隠居ってやつか」

真鍋「こっちが死なねえように敵を殺す。それだけをやってきたってえのに、死なねえやつなんてのに出てこられちゃあよぁ……」


真鍋は口調には倦んだものが感じられた。十数年続けてきた仕事でときおり去来しては振り払ってきた考えに追いつかれて観念したかのように真鍋はつぶやいた。


真鍋「潮時だろ」

黒服2「おれは好きでやってんだ」


年嵩の黒服は真鍋の諦観を受けても即座に自分の意志を口にした。
819 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:30:08.46 ID:6D6vTS+OO

黒服2「平和なんてハリボテの上で暮らすなんざ、いまさら気乗りしねえからな。なあ?」

黒服1「金が貰えればなんでもいい」


若い黒服は文庫本からからいちども眼を逸らさず、我関せずの態度のまま返事をした。読んでいたのはウラジミール・ナボコフ『青白い炎』で、開いてあったページにはこんなことが書かれていた。


── 三段論法。他人は死ぬ。しかしぼくは
他人ではない。ゆえにぼくは死なない。

[註釈]これは少年を面白がらせるかもしれない。年を取ってからわれわれは自分たちがその「他人」であることを知るのである。


年嵩の黒服は年下の仲間の態度をかるく笑い飛ばしながら、また何事かを話しかけた。

真鍋は仲間の話し声を耳にしながら、感慨深げに口を開いた。


真鍋「湾岸でも……そのあとも……平沢さん、あんたにはいろいろお世話になったなあ」


平沢はただ黙って、真鍋の言葉に耳を傾けていた。


ーー
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820 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:31:01.22 ID:6D6vTS+OO

佐藤「ちゃんと整理してよー……田中君たち……」


食べ残しや食べかけが乱雑に詰め込まれた冷蔵庫は、肥満体を維持しようとする健啖家の胃の中身のようだった。佐藤は冷蔵庫のまえでしゃがみこみ、中を覗きこんだ。ソースや脂がこびりついた食品のパッケージデザインが幾重にも折り重なって浅薄な資本主義批判が主題の現代アートもどきの森とでもいうべき光景をかたちづくっている。実際の胃のように蠕動運動と攪拌運動がこの冷蔵庫の中の光景を蠢かしていたら、宇宙的な混沌の最中にいるように感じられただろうが、冷蔵庫は冷蔵庫でしかなく、どれだけ乱雑でも手を加えないかぎり食べ物が位置を変えることはなかったので、しばらくして佐藤はおあつらえ向きのものを見つけた。

佐藤は冷凍バイク便に電話で配達を依頼すると揚げ手羽先のレシピをプリントアウトし、あとひとつ手羽先をつくるのに必要な調理器具と調味料を用意した。食材の用意はいまからする。

佐藤は鍋に油を入れ、コンロに火をかけた。油の温度が揚げ物に適したことを確認すると、中華包丁を握り、まな板の上に置いた自分の左手首に勢いよく振り下ろした。
821 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:31:53.84 ID:6D6vTS+OO

右手で左手首を掴み、油の中にいれる。人間の手首を揚げているにもかかわらずジューっという音だけはおいしそうだった。片手での調理ははじめてだったが、揚げ上がりはうまくいった。タレを絡めるとほかの手羽先と見た目はあまり変わらない。

ビニールパックに手首と手羽先を詰め終わったちょうどそのとき、バイク便がやってきた。

佐藤は包帯を巻いた左手をポケットに入れて隠しながら配達物をバイク便のドライバーに手渡した。

バイク便が行った後、佐藤は近くの材木工場へ自転車で向かった。帰路を考えると、自動車を使うわけにはいかない。

ズボンのポケットに拳銃と左手を忍ばせながら自転車を漕いで行く。夕暮れから夜へと変わる頃。影が道路にのび、車輪がカラカラと音をたてながら回った。

豊郷林業の駐車場に停まっている車は二台しかなかった。佐藤は自転車を乗り捨てると、工場へ歩いていった。

工場の前で二人の人間がなにかを話している。現場の作業員とおぼしき帽子を被った男が木製のパレットを事務所の人間らしい若い社員に見せて、何事かを説明していた。

佐藤は帽子を被った作業員を撃った。

もう一人の社員が同僚が即死したことも理解しないうちに、佐藤はその社員に話しかけた。


佐藤「ある機械を貸してくれないかな?」


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822 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:32:52.34 ID:6D6vTS+OO

「あのー」


各階の様子を無線で聴きながら被害状況を整理してきた刑事にのんきな呼びかけがかかった。


「配達なんすけど」

「はあ? 何の」

「食べ物っす」


バイク便のドライバーは規制線のテープ越しに刑事に配達物を手渡した。


「サイン貰わないと帰れないんすよ」


刑事が手渡された紙袋を開けると、ビニールパックが入っていて、取り出して確認してみると冷凍された揚げ鳥がパック詰めされていた。


「こんなときに……ここの社員はどうかしてるな」


ビニールパックにはラベルが貼ってあり、「手料理おとどけねっと」という社名が行書体で印刷されていた。ラベルの右上には手書きのスマイルマーク、左下には小さな文字で「“余分な手”を一切加えず、まごころを込めて……」というメッセージが添えられている。


「ちょっと! うちの荷物ですよ」


刑事をエントランスに案内したフォージ安全の社員が駆け寄ってきた。社員ら刑事からの許可も貰わないうちに荷物を掴み取り、紙袋にビニールパックを戻すと連れ立ってきた警備員に手渡した。


「爆発するかもよ」

「警察署より厳重な検査を経て搬入します。ご安心を」


揶揄を嫌味で返された刑事は「けっ」と、ちいさく悪態をついた。
フォージ安全の社員が言ったとおり、配達物は即座にX線検査にかけられた。モニターには揚げ鳥の骨しか映らず、不審なものは何一つ見えなかった。


「異常なし」


警備員のその言葉とともに、紙袋は十階にある機械室へと運ばれていった。



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823 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:34:01.20 ID:6D6vTS+OO

中野「永井、なんか食べもの持ってねえ?」


永井は考え深げな様子で中野を無視した。

中野は永井が呼びかけに応じないのに慣れてしまったので、どうにかして空腹を誤魔化す方法を自分で考えることにした。胃の中には胃液があることを思い出し、それを意識することで空腹を感じずに済むのではないかと思いついた中野は胃液がたっぷり分泌されているところを想像して、空腹によるキュっーとする痛みににた感覚が胃液のせいではないかと思い始めた。

中野をよそに永井はじっと腕組みして動かないでいる。そのとき、戸崎が無線越しに呼びかけてきた。


『永井、一時間以上待ってるぞ。仕切りなおすべきじゃないか?』


応えはなかったが、戸崎は永井が考えを巡らせている気配を感じた。熟考になりそうな気配、戸崎は別の角度から疑問をぶつけることにした。


『さっきは聞く時間がなかったが……おまえの介入を佐藤が知って楽しいことが待ってるなんて思うのか? 佐藤にとっておまえは何でもない』


永井は、戸崎の疑問に対し、しずかな声で、思い出を語るときのように話し出した。


824 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:34:48.41 ID:6D6vTS+OO

永井「前、佐藤さんと記憶が交差したとき、一瞬だけど僕は、動悸が治り汗が引いた……たぶんあのとき、記憶だけじゃなく、精神状態も交差したんです。佐藤に僕の恐怖が伝わり、僕には佐藤の冷静さが……いや、冷静さだけじゃない、高揚感も」


感覚的に理解していたことを言葉にして語り直したとき、佐藤のパーソナリティがくっきりとした輪郭をともなって見えてきたように永井は感じていた。


永井「あのひとはこんなガキの一挙手一投足を気に入ってた……理解してくださいなんて、無茶なことは言いません」


そして、永井は確信を込めて言った。


永井「これは、僕と佐藤にしかわからない」


すこしのあいだ、沈黙が流れた。中野はまだ空腹に気を取られていて、唸るように息を吐いた。

戸崎は永井と佐藤のあいだに思った以上につながりがあること、そのつながりを永井が認め、告白した声の調子から永井の感情の機微が感じ取られ、自分でも予想しなかったことだが、そのことに感慨深い気持ちになっていた。

やがて、無線から戸崎の声が聞こえてきた。


『きみはいるべくしてここにいる気がしてきたよ』

永井「迷惑ですね」


すぐに返事をした永井の口調は、いつもと同じできっぱりしていた。


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825 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:36:21.01 ID:6D6vTS+OO

佐藤が案内された工場はメインとなる敷地中央の工場の南側にあり、トタン張りの壁に埃がこびりついた、老朽化した小さな作業場だった。

シャッターを閉め明かりをつけると、天井の照明が目的の機械を照らし出した。その機械は正面シャッターからいちばん奥まった場所に置いてあった。



「木材破砕機……丸太を五センチ四方のチップに砕きます」


機械を前にした佐藤に向かって震える声で社員が説明した。

真上にある照明のはたらきのせいもあって木材破砕機は舞台装置めいて見えた。スポットライトをあびて、クライマックスでの活躍をいまかいまかと期待しているようだ。


佐藤「そろそろかな。動かして」


壁時計を見た佐藤は、時刻がバイク便に電話したときに聞いた到着予定時刻を二十分ほど経過していることを確認すると、材木工場の社員に向かって指示を出した。震える指でなんとか起動スイッチを押し、カッタードラムの回転を最速に設定する。

佐藤は丸太をカッタードラムに送り込むためのベルトコンベアの両端に足を乗せた。


「なに……する気だ?」


佐藤の行動はたちまち結果を想像させ、材木工場の社員は堪えきれず、まさかという気持ちで訊いた。


佐藤「運が良ければめずらしいものが見れるよ、ミスター・スポック」


佐藤は社員の恐怖をよそに応えた。
826 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:37:03.65 ID:6D6vTS+OO

佐藤が破砕機と相対していたとき、フォージ安全の機械室に例の紙袋が届けられた。

紙袋を運んできた作業員が中身を見て、言った。


「なんか届いてるぞー。揚げ鳥だって」

「いいねえ、休憩にしよう。チンすりゃいいのか?」

「だれだ? 注文したの」


休憩室にした三人ともだれが注文したのかわからずじまいだったが、さほど気にもとめず、人数分の紙皿を用意して揚げ鳥を分けていった。
サスペンダー付きの工具ベルトを腰に巻いた作業員がひとりにつき三個ずつ、冷凍された揚げ鳥を皿にあけていく。最後に自分の分を皿にあけたとき、三つある揚げ鳥のうちのひとつが妙なかたちをしているのに気づいた。
827 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:39:42.79 ID:6D6vTS+OO

佐藤「亜人は最も大きな肉片を核に再生する」


ビニールパックからごろんと転がり出てきたひときわ大きな塊は、人間の左手首だった。


佐藤「転送だ」


佐藤が破砕機に飛び込んだ。

左手首が突然黒い粒子を噴出して舞い上がった。粒子は螺旋状に回転したかと思うと、たちまち血肉となって人体をかたちづくる。

距離を隔てた死と再生。A地点で死に、B地点で復活する。

転送を果たした佐藤は眼前の作業員の工具ベルトからドライバーを奪い取り、切っ先をこめかみに突き刺した。

佐藤が旅立ったあと、ひとり取り残されていた材木工場の社員は嘔吐し、床を汚した。がたがたと身体の震えが激しくなった。

カッタードラムの刃と受け刃が木材を挿入されたときと同じように人間を細かく砕いたのを見たのは一瞬だったが、破砕音は始めから終りまで聞いていた。

木材破砕機もまた振動を続けていた。排出口から吐き出された佐藤の血と肉片が床にぶちまけられている光景とあいまって、まるで悪いものをたべてしまったかのようだった。


ーー
ーー
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828 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:40:37.38 ID:6D6vTS+OO

機械音が鳴りわたっている空間に人間の声がかすかに混じったのを永井は聴き取った。


永井「聞こえたか!?」

中野「どうした永井」


永井の表情は眼を見開いたまま固まっていた。口もぽかんと開いたままになっている。ほんのわずかに聞き取られた人間の声は、永井の思考の方向をすべてそれについて向けさせた。それとは耳に届いた人間の声が悲鳴で、一階から上ってくるだろうと想定していた悲鳴が、同じ階から聞こえてきた原因と可能性についてだった。


永井「今、なにか……」

中野「何かの音はするだろ」

永井「だよな……いきなり侵入する方法なんか……な」


永井はひとつの可能性に思いあたった。


いや、そんなはずない……そんな方法……


永井は感情的な否定を心中でつぶやいていた。


だってそれは……普通の人間がやろうと思うような方法じゃない……


だが、思考のほうはこれまでの知識から論理を構築していて、それは十分な可能性を持っていた。
829 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:41:44.63 ID:6D6vTS+OO

永井「そんなはず……ない……」


永井は否定の言葉を口にしながら、天井パイプからぶら下がって、着地した。

着地したさいの膝を曲げたままの姿勢で顔を上げ、通路の先を見る。誰もいない。無人の空間のまま。通路の両端に配置された機械類がゴウンゴウンと作動音を響かせている。単純な文字通り機械的な音の繰り返し。だがその繰り返しは、しだいに人間の声が染み付いたかのような響きへと変貌していた。

それは永井の心象的な音的イメージに過ぎなかったが、機械類がたてる騒音とは別の種類の音を実際に永井は耳にした。

人間の足音。

通路の左側から人影が現れた。


佐藤「あっ、永井君」


永井と佐藤は同時に互いのことを認めた。佐藤は立ち止まって両手を広げ、言った。


佐藤「来ちゃった」


家に突然訪問してきた友人然とした身振り。右手に握ったドライバーから血が滴り落ちる。佐藤は作業用のつなぎとサスペンダー付きの工具ベルトを身につけていた。それらが奪いとったものであることは、染み込んだ血の跡を見れば一目瞭然だった。

830 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:42:27.79 ID:6D6vTS+OO

永井「佐藤さん、なんでそんな方法……できる……」


佐藤がほんとうに現実に存在しているのか、眼に見えている光景を信じきれない感情が渦巻くまま、永井は茫然と訊いた。


佐藤「社長室に直はさすがに無理そうだし、ここなら武器になりそうなものがありそうだし、それに……」

永井「死んだんだぞ!?」

佐藤「気にしないよ、私は」


佐藤はのんびりとした口調で応えた。

あまりの理解しがたさに永井の顔が歪んだ。

眼の前に立っているのはいくつもの矛盾が重なりあった幽霊ともいえる存在だった。肉体を持った幽霊。殺すために喜んで死んでいまも笑顔を浮かべている生きた幽霊。

永井はこれは何かの間違いではないかと思い始めていた。佐藤がここにいることではなく、自分がいてしまっていることが間違いだったのではと……


中野「佐藤オォ!」


根本的な理解の過ちを思い知って言葉を失っている永井の背後から中野の怒声がとんできた。


佐藤「きみは!」


佐藤はそこで言葉を切り、少し間をあけてから「だれだっけ?」ととぼけた返事をした。

831 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:43:37.40 ID:6D6vTS+OO

佐藤「でも意外だなあ。永井君が十階にいるなんて。どんな作戦なんだろう?」


中野への関心もそこそこに佐藤は興味深げに周囲を見回して、言った。

その発言を受け、わずかなりとも永井はショックから回復した。


永井 (こっちの思惑はバレてない!)


永井はすぐさま思考を働かせた。


(予想外の侵入だったが十階分とばしただけ、しかも非武装)(まだ作戦は生きてる)(あとはどうやって僕らをスルーさせ上に行かせるか)


現状認識と作戦の修正案の検討が同時的かつ無数におこなわれる。


佐藤「安心して」


佐藤は見守るようなおだやかな声で言った。周囲に彷徨わせていた視線を永井に戻し、宣言する。


佐藤「ルールは変えないよ。私はこのまま甲斐敬一と李奈緒美を暗殺しに行く」


永井の口の端が上向いた。好戦的ともいえる笑みを作り、同時にまだ焦燥の色もその表情に浮かんでいる。

佐藤の出現に戸崎たちも驚愕していた。モニターを見上げながら緊迫した眼で事態の推移を睨んでいると、突然警報が鳴り出した。

戸崎が無線機に飛びつき、叫んだ。


戸崎「永井! ガス漏れ警報が鳴ってるぞ!」


無線を聞いた永井の表情が固まる。視線は佐藤に固定され、佐藤の動き、佐藤の動きだけが空間から独立して唯一の運動体のように永井には見える。

佐藤の表情がかわる。にっこり笑って話し出す。

832 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:45:55.52 ID:6D6vTS+OO

佐藤「止めてみせてよ、永井君」

永井「戸崎さん! スプリンクラ……」


二箇所が切開されたガス管、そのすぐ近くにはタバコと包装フィルムとマッチで作られた手作りのおもちゃめいた発火装置な置いてあった。タバコの火が根元までじりじりと迫っている。火がマッチの薬頭に届く。火がぼっと膨らむ。空気を求め海から顔を出した哺乳動物のように、包装フィルムを破って外に出た。

次の瞬間、爆発が起きる。

伝播した火炎によって温度上昇が引き起こされ、室内の気体の体積が一気に膨張する。ガス管のある部屋は密閉されていて室内の圧力の急激な上昇が閉じられた空間を吹き飛ばした。閉鎖空間内から凄まじい勢いで高圧の気体が噴出する。熱と衝撃が波となって襲いかかり、永井と中野、そして佐藤も飲み込んでいった。

ビルが揺れる。

眼覚めた永井は腹部に熱を感じた。ネクタイに火が付き、半分ほど燃えてしまっている。中野に至ってはシャツ全体が燃えおちていて、ばたばたともんどりを打ちながら燃えるシャツを脱ぎ捨てた。

永井はネクタイの結び目を乱暴に引っ張った。


永井「戸崎さん! 被害は!?」

『その区画だけだ!』


周囲を見渡すと、あちこちに火が飛び散っている。床にはバラバラになった部品が無数にあり、機械類は激しく損傷し、パイプは歪曲している。

永井が嫌な予感に振り向く。そして叫ぶ。


永井「ファンが壊れた!」


急ぎ、戸崎に叫ぶ。


永井「佐藤はどこに!?」

『今探してる!』

永井「僕らがこの部屋で何をするかはわからない、だからすべて吹っ飛ばしたのか!?」

中野「黒い粒子を送れなくたって……平沢さんたちなら……」

永井「ダメだ、ゴリ押しじゃ!」


吸い溜めていた空気を一気に吐き出すような大声を永井は出した。

833 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:46:56.35 ID:6D6vTS+OO

永井「眼が見えなきゃいくら佐藤でも闘えないはず。だからリセットできない方法で資格を奪う……そこに勝機があった」

中野「じゃあなにをすればいい、永井」

永井「こっちは大勢、やつは一人でたいした武器もまだない。平沢さん! 無勢が多勢に挑むときのセオリーは!?」

『動向をつかまれないよう行動し、撹乱・奇襲を繰り返し徐々に戦力を削っていく。いわゆるゲリラ戦だ』

永井「だがいまセキュリティ・サーバー室はこっちの手中、佐藤の動きは掌握できる。警官・警備員を誘導、僕らも加勢し一気に強襲すれば……なんとか……」

中野「ゴリ押しじゃねえの!? それ」

永井「……戦略的ゴリ押しだ!」


永井は苦しげに押し通した。

さっきからスマートフォンが鳴っている。永井はいらだたしげに電話に出た。


『ケイ! ヴズルィーフ! ばくはつ!』

永井「まだ待機!」


乱暴に指示を出し、アナスタシアからの通話を一方的に切った。


下村「あ、いました!」

戸崎「永井! 佐藤がいたぞ! まだ同じ十階にいる」


セキュリティ・サーバー室のモニターに佐藤の姿が映った。戸崎は映像がどこから送信されているのかを確認し、無線に叫んだ。


『電力区画だ!』
834 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:49:04.49 ID:6D6vTS+OO


それを聞いた永井は一瞬で佐藤の目論見を悟った。


永井「ちがった……」


永井の思考が止まり、すべてが遅すぎたといいたげに暗くなった眼をある方向に向けた。


永井「ここを、爆破したのは……予備発電機を使用不能にするため……これで、主電源が落とされれば」


おそれを滲ませた声で永井がつぶやく。


永井「すべてがとまる」


突如、暗闇が降ってきた。あらゆる機械の作動がいきなり停止し、ビル全体が深い眠りについたかのように静まり返る。

空間を区分するあらゆる物の輪郭が暗闇に沈み、飛び散った小火も消えようとしている。


中野「永井」


中野が永井に呼びかける。その声は荒くなろうとする呼吸を抑えつけようとして非常にゆっくりと口から出た。


中野「つぎは?」


返事はなかった。


ーー
ーー
ーー

835 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:49:47.34 ID:6D6vTS+OO

九階にある人事部。ひとりの社員が後ろめたさと自己正当化に苛まれて自分のデスクから動けないでいる。名前は青島。この青島が今回の内通者だった。

田中たちが捕獲されたときから、青島の内心は異常な勢いで焦燥し出した。内通の露見、共犯扱い、有罪、懲役刑、出所後の人生など考えたくもない。

みずからの手引きによって大勢の犠牲者が出たことにもちろん後悔はした。だがそれもすぐに自己弁護に埋め立てられてしまった。
だって、脅されたんだ。協力しなきゃ絶対殺されていた。やつらは弱みを握っていたんだ。断れるわけがない。弱み、弱みさえなければ。こんなことはしなかったのに。働いた分だけ評価されてれば、弱みなんて持たなかったのに。ずっと働きづめで、疲弊ばかりして、未来なんかなくて、みじめになって……

窮地に立たされた青島は、いっそのこと自首してしまおうかと一瞬だけ考えたが、結局それはできもしないことを夢想してわずかな慰めを得るだけの無駄な行為に過ぎなかった。

爆発とそれに続く停電が彼の心をさらに引っ込ませ、すべてが終わるまで何もしないでいようと逃げの決心をした。

何もしないでいたら、何も起こらないかもしれない……青島は淡い逃避の希望を抱いた。

突然、口を塞がれた。強い力で?が締め付けられパニックになる。


IBM(佐藤)『きみだね? 例の内通者は』


背後から声がした。聞き覚えのある声……ぞわりと、背中に戦慄が走った。
836 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:50:34.67 ID:6D6vTS+OO

IBM(佐藤)『田中君たちが捕まってしまって、このままじゃいずれきみの関与がバレるよ。そこでコレだ』


背後の何者かがデスクの上に何か物を置いた。暗くてよくわからないが、黒い塊からアンテナのようなものが伸びている。


IBM(佐藤)『警察と警備員の無線機。これで嘘の、私の位置情報を流し続けて欲しい』


口を塞いでいた手が青島から離れた。手が闇の中に退いていく。その際、手は青島の?にメッセージを残していった。


IBM(佐藤)『じゃあ、お互いがんばろう』


声が聞こえなくなってしばらく、青島は?の切り傷から血を流したままにしていた。詰めで引っ掻かれたような薄い切り傷。デスクには二個の無線機が紛れもなく存在している。

青島の内心は拒否の気持ちでいっぱいだった。それをやってしまったら、もう言い訳できない。完全な共犯だ。そんなことになったら……
青島は気づいた。すでにもう、そうなのだ。後戻りできるタイミングはとっくに過ぎ去っていた。いや、そもそもそんなタイミングはなかった。内通を持ちかけれた時点で、選ぶべき道はひとつしかなかったのだから。

もはや、降りることは叶わない。

青島は無線機を手に取り、席を立った。

誰もいないところまで移動し、無線機にむかって嘘を言い始める。
佐藤に暗殺を成功させるため、青島は必死になって嘘をまくし立てる。


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837 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:51:25.99 ID:6D6vTS+OO


更衣室のロッカーに鍵はかかっていなかった。佐藤はそのうちのひとつを開け、ゆうゆうと着替えを始めた。作業用のつなぎを脱ぎ、スラックスとワイシャツに着替える。服の上に身につけたサスペンダー付きの工具ベルトにはさきほど殺害した警官と警備員から奪った二丁のリボルバーと麻酔銃があった。ほかに使えそうな工具も何本かある。

サスペンダーを肩にかけ、ロッカーを閉める。更衣室から出ようとしたとき、佐藤の視界にあるものが映る。

ハンチングだった。


佐藤「いいねえ」


佐藤は帽子を手に取り、頭に被った。いつものスタイルが出来上がった。


佐藤「ブチかまそう」


頭部に馴染みの感触を得ながら、佐藤は暗闇に笑った。


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838 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:52:15.63 ID:6D6vTS+OO

『佐藤らしき男の目撃情報が』

「そんなバカな!」


ビル内からの無線連絡にフォージ安全の社員ははじめて感情を表した。亜人によるテロを防いだとしてメディアの取材を受けていたこの男性社員は爆発と佐藤出現の報によってすっかり冷静さの仮面が剥がれていた。

刑事は報告を苦渋の表情で聴いてきた。数秒の逡巡のあと、刑事は振り返り取り乱した様子のフォージ安全社員に向かって言った。


「あんたら、麻酔銃使ったんだろ?」


その言葉を聞いた男性社員の顔が一瞬で元に戻る。彼は刑事と対面した時と同じ顔と声を作り、言った。


「害獣対策用の麻酔銃を開発しています。田中侵入時、警備の数名が無断で使用してしまったようです」


会社の不利益になる可能性のある言葉は徹底して排除されていた。

刑事はそのことに興味はなかった。麻酔銃が使用可能かどうか、それが聞きたかった。


「なかにいる警官用に用意してくれ」


刑事の言葉にそばにいた制服警官が驚き、詰問口調で「いいんですか!?」と声を上げる。


「そういう組織の体質がやつらを野放しにしつづけてるんだろうが!」


刑事は叱責を返した。無線機を口元に寄せて、勢いに任せありったけの声量で叫ぶ。


「全班麻酔銃を受け取り、使用しろ! 全責任はおれが取る!」


「了解」と無線機から声が返ってくる。それを聞いた刑事は頭を下げ、後悔が混じったため息を吐くかのようにつぶいやた。


「クビだちくしょー」


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839 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:54:40.19 ID:6D6vTS+OO


麻酔銃と麻酔ダートが入ったケースを警備員が床に置いた。周辺にいた警官がケースの近くまで集まったことを確認すると、警備員はケースを開け麻酔銃を取り出し、使用法とダートの装填の仕方を実演でレクチャーした。

質問もそこそこに麻酔銃を受け取る警官たち。警備員が実演してみせたように麻酔ダートを装填していると、こつこつと靴音が近づいてくるのが耳に届いた。

警官が振り向く。

キャンバスを担いだ佐藤がゆっくりとこちらに向かっていた。


「佐藤発見! 十一階、プラントルーム前です!」


麻酔銃の引き金を固定しているピンを引き抜き、正面に構える。佐藤は通路の左側面がプラントルームのガラス張りの入口であることを見てとると、いきなりダッシュし真正面から突っ込んできた。警官は麻酔銃を撃った。佐藤は速度を落とすことも避ける動作をする事もなく、キャンバスを盾のように構えた。通路を見栄えさせる油彩画が麻酔ダートを止めた。次々に麻酔ダートが突き刺さる油彩画の裏側で佐藤が拳銃を持ち上げた。キャンバス越しの当てずっぽうの射撃。五発全弾撃ち尽くし警官三人を負傷させたが、死に至らしめることはできなかった。


佐藤「うまくあたらないなあ」


リボルバーとキャンバスを投げ捨てながら佐藤は通路を左に折れ、プラントルームに進入する。キャンバスは前方に投げられ、正面の警備員から佐藤の姿を隠した。警備員は視界から消えた佐藤を追って、無理に身体を捻って右側にいる佐藤に麻酔銃を撃った。

麻酔ダートが、ガラスに弾かれた。


「あ!」


失態に気付いたとき、佐藤が眼の前で鏡写しのようにリボルバーを構えていた。その銃口が自分の視線と同じ高さにあることを警備員は視ていた。

佐藤が二連射し、警備員と警官を射殺する。


「あっちから銃声だ!」


警官の声が通路の奥から響いてきた。

その声を聞き取った佐藤は工具ベルトからナイフを抜き、ふたたび闇の中を走り出した。

右手にナイフ、左手に拳銃、顔には笑み。

まだまだ序盤。それでも佐藤は楽しくてしかたない。


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840 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:55:39.59 ID:6D6vTS+OO

『十一階で佐藤と交戦中!』『六階で佐藤らしき男が……』『いや二十階だ!』


無線機から流れてくる情報はどれもバラバラで、佐藤のいる位置を伝えるどころかむしろ混乱を大きくさせることが目的のようだった。


永井「情報が錯綜してる、佐藤の現在地を確認しないと」


無線機からの情報はあてにならないと判断した永井は無線機をポーチにしまい、中野に向かって「行くぞ!」と叫ぶやいなや、走り出す。
中野は社長室に向かおうと機械室のすぐ近くにある南階段へ走っていこうと身体を前に倒すが、永井が階段のある方とは反対に向かって走っていくのを見て思わず叫んだ。


中野「社長室に直行じゃねえ!?」

永井「そのまえに田中のところに行くと思う! やつらの使ってた武器を調達できるしな!」

中野「佐藤は田中の場所しらねえだろ!?」

永井「職業意識の低い公務員なんかいくらでもいるだろ! 脅せば吐く!」


機械室から飛び出した二人は一つ上の階の南側にある仮眠室にむかって、まず通路を突っ走った。

走りながら永井はスマートフォンを取り出し、アナスタシアに電話をかけた。

841 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:56:43.06 ID:6D6vTS+OO

『もしもし? ケイですか!?』

永井「いいか、おまえの存在を正体は隠したままこっちの仲間に明かす。平沢って人から佐藤と遭遇したと連絡が来たら、おまえはIBMを平沢さんたちのところまで送れ。やつにIBMを消費させ、できるだけ長く引き付けるんだ!」

『わかった!』


躊躇いのない返事。通話を終えたあと、永井は無線機で平沢に先ほどのアナスタシアとのやり取りのことを告げる。平沢から了承の返事。立て続けに喋り続けたせいで、呼吸がとてつもなく早くなっている。永井は肺が破裂したかのように大きく息を吐くと、足に力を込め階段を駆け上がった。

十一階に到着、永井は戸崎に連絡する。


永井「戸崎さん、電力区画の状況は!?」

戸崎「こちらセキュリティ・サーバー室、電力の復旧はできそうか?」


『こちら電力区画、主電源が物理的に破壊されています。修理が数分で済むか数時間かかるか……まだ、なんとも……』


戸崎「だそうだ」

永井「クソ!」


永井の口から悪態が飛び出た。


永井「佐藤にIBMを消費させるためスプリンクラーを切っといたのが裏目に出たか……予備電源の破壊は防げたかも……」


過去の判断を悔やむ発言を口ごもり気味に言い終わった永井は即座に感情を切り替え、戸崎に指示を出した。


永井「戸崎さん、あなたは電力が復旧したときのためにそこを動かないでください。これから講じるすべての策が失敗に終わった場合……わかってますね?」

戸崎「ああ」

中野「永井! そこが仮眠室だ!」


顔を上げると、仮眠室と書かれた室名札が眼に入った。通路を右に折れた先を示している。永井も先頭を走る中野もスピードを緩めず、仮眠室へ走っていく。

仮眠室のドアが開いた。中から負傷者を寝かせた担架を搬送する救急隊員二名と制服警官一名が出てきた。通路を曲がった永井たちと警官の視線が合った。


842 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:57:29.45 ID:6D6vTS+OO

永井「あっ!」


警官の格好をした田中がリボルバーを抜き、二連射する。中野が被弾。腹部を貫通し、銃弾が背後の壁に粉塵を飛ばしながら埋まった。


永井「もう佐藤が来た後だ!」


永井が床に倒れた中野を引きずりながら、無線機に叫ぶ。近くにいた女性社員が悲鳴をあげた。


平沢「佐藤はこっちに向かってるようだ」


悲鳴混じりの連絡を聞いた平沢が即座に動いた。


平沢「IBM粒子もスプリンクラーも無い以上、こんな狭い部屋でIBMを使われたら一瞬で全滅だ。廊下へ出るぞ」

真鍋「平沢さん、作戦は?」


平沢は何も言わずに真鍋を見つめ返した。真鍋もまた無言で平沢の答えを受け取る。


李「あの、わたしは……なにをすれば……」


立ち去ろうとする平沢の背中に李がいまにも消えそうな声で呼び止めた。ソファから腰を上げ、肘掛に手をついた姿勢のままで動きを止めていた。だが、その全身は恐怖によって震えている。


平沢「逃げるなり隠れるなり好きにしろ。その状態じゃ邪魔になる」


平沢はそれだけ言い残し、社長室から出て行った。

843 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:58:25.29 ID:6D6vTS+OO

田中は永井と中野が隠れた通路の角を睨みながら、背後の仲間にむかって叫んだ。


田中「おまえら先に逃げろ!」

高橋「は!? おまえは!?」

田中「少しやりたいことがある!」


麻酔銃を左手で引き抜き、ふたたび二連射。


中野「逃げちまうぞ!」

永井「ほっとけ!」


通路の角を銃弾が削り、内壁材の粉塵が飛んだ。


永井「田中だけは残って何かするみたいだな」

中野「銃使うか!?」

永井「麻酔銃だ!」


永井に言われて中野が麻酔銃をポーチから引き抜いたとき、腹部の銃創が熱くなった。


中野「いってーな、くそッ!」


激しい痛みを堪えながら、しっかりと両手で麻酔銃を握る。


永井「田中は無力化しとくぞ!」


二人は角から飛び出した。
844 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:59:39.54 ID:6D6vTS+OO
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845 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:01:22.61 ID:SzhTzFDuO

田中のIBMがすぐ眼前に迫っていた。右脚の踏み込みが大きく振り上げた右腕を鞭のようにしならせ、鋭い爪が横薙ぎのギロチンのような作用を見せながら中野の首にかかる。


永井「中野!」


永井はとっさに中野を突き飛ばす。反射的な行動は二人のバランスを崩し、中野だけでなく永井も床に倒れる。IBMの攻撃は頭上を通過し、反対側の通路にいた女性社員の二の腕をシャツの上から切り裂いた。振り抜いた腕とともに飛び散った血が宙に軌跡を描いた。


中野「てめえ!」

永井「よせ中野!」

うずくまり悲鳴をあげる女性を見た中野が床から飛び起きる。倒れたままの永井の制止を振り切って中野はIBMへ突進した。IBMが振り返って迫り来る中野に顔を向ける。同時に中野がIBMに飛び掛かり、黒い無貌めがけて頭突きをぶつける。次の瞬間、中野の腹部が弾けた。IBMの左腕が中野の右脇腹を肘のあたりまで貫き、まとわりついた羽虫を追い払おうとするかのように振り回し始めた。


「う」「お」「お」


まだ生存している状態にあった中野の口から洩れ出てくる叫び声がブレを含みつつ、左右に振り回される身体の残像と微妙にズレながら聴こえてきた。

その光景に見覚えのある永井は一瞬だけ対応に悩む。その一瞬のロスを後悔するかのように永井は身体を前に突き出し、IBMを発現した。
846 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:02:45.11 ID:SzhTzFDuO

永井「中野よけろ! こいつはおまえが嫌いだ!」


渦巻くように生成される黒い幽霊の肉体。永井のIBMは床を蹴って一直線に中野めがけて突進する。永井の言葉に頭だけ振り向いていた中野が敵意剥き出しのIBMを目撃する。中野が頭を仰け反らせる。その直後、さっきまで中野の頭部があった場所に永井のIBMが攻撃を打ち込まれる。田中のIBMがその攻撃をまともに喰らい、その頭部と突き出された腕が対消滅する。永井のIBMは突進の勢いそのまま前進を続け、崩壊する田中のIBMと中野を下敷きにして床に倒れた。

うずくまっていた女性社員は突然眼の前で展開された異常な出来事に慄いていた。声も出ないほどの恐怖、喉の強張り、中野が床に倒れたときやっとのことで、「ひっ」という短い悲鳴が口から洩れる。悲鳴に反応したIBMが黒い無貌を女性に向ける。腕を押さえている女性を見た瞬間、IBMは一切躊躇せずに残った左腕を振り上げた。


中野「あっ!」


咄嗟に田中のIBMの爪を掴み、頭上にあるIBMの顔にぶつける。死角からの攻撃がクリーンヒットし、永井のIBMは制御を失った操り人形よろしく背後に倒れた。

IBMの頭部の粉砕を確認した永井は、注意しつつ通路の角から顔を出し、仮眠室前に視線を向けた。 田中の姿はない。


永井「クソ」


永井は視線を中野に戻す。復活し、起き上がろうとしているところだった。


永井「中野、無茶すんじゃねえ! 断頭の話が理解できてないから、おまえは……」


永井はいらだたしげに中野を怒鳴りつけた。


中野「あの話はよくわかんねえけど、とにかく死ぬんだろ?」


めまいでも起きたのか、目元を手で押さえながら中野は静かに言った。一息ついてから起き上がり、永井と視線を合わせた。


中野「死ぬってことがどんなことかってくらいは、わかってるよ」


永井は何も言わず、中野を真っ直ぐ見つめ返した。

847 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:03:59.91 ID:SzhTzFDuO

電力の復旧の目処はまだ立たない。戸崎は永井が田中を見失った瞬間、復旧と同時に佐藤の居場所を見分けられるようにとモニターを見上げつづけている下村に向かって指示を出した。


戸崎「下村君、行け。十五階へ向かう佐藤を階段で待ち伏せし、一体でも多くのIBMを消費させるんだ」

下村「戸崎さん、ここに佐藤が来るかも……」


椅子から立ち上がりかけたところで、下村が戸崎にもしものときのことを訊いた。


戸崎「行け」


戸崎の命令に下村は真っ直ぐサーバー室から出て行く。イヤホンを耳に付け、永井に指示を仰ぐ。


下村「永井君、北・南、どっちの階段に行けばいい?」

永井「わからない!」


率直な答え。佐藤は田中たちと別行動を取っているのか、それとも田中と合流し暗殺にむかっているのか、情報の錯綜はいまだ解消せず、判断の根拠はほとんどない。


中野「ヤマはるしかねえぞ」

永井「二分の一だ」

下村「じゃあ、わたしは近い北階段へ行く」


下村は現在位置から判断を下した。


永井「中野! 僕らは南階段で行くぞ!」


二人は階段に向かって走り出した。廊下を駆け抜けている途中、中野が永井に訊いた。


中野「永井! いまはどんな作戦だ!?」


永井は走り続けた。返事をするまですこし間があった。永井は、狭まった喉からやっとのことで絞り出したような苦渋に滲んだ声で言った。


永井「こんなの、すでに、作戦じゃない」

848 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:04:51.44 ID:SzhTzFDuO

下村が階段に到達した。ドアを開け、十四階廊下から階段の踊り場に足を踏み入れる。


下村「北階段に着きました。佐藤は……」


階段に足をかけた警官と視線がぶつかる。見覚えのある顔。


田中「病院……以来だな」


階段を挟みながら、下村と田中が対峙した。
849 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:05:30.50 ID:SzhTzFDuO

永井と中野が十二階を通過する。


中野「永井! さっき戸崎さんと話してた全部失敗に終わった場合って……なにをするんだ!?」


手すりを掴んで崩れかけた体勢を立て直した永井にむかって中野が大声で訊く。


永井「最終手段だよ」


永井は振り向き、またすぐに正面を向いて階段を上った。


永井「電力が復旧し次第、屋上、一階の出入り口をロックしてビル自体を巨大な檻にする。佐藤が暗殺に成功しようがしまいがこのビルからは出られない」

中野「でもそれじゃ、ほかの人たちも出られないぜ!?」

永井「ああ! だが、佐藤がこのビルの全人間を殺そうが僕らは死なない! 何日何週間かかろうが、奇跡的に佐藤を拘束できるまで闘い続ける!」

中野「全人間って……本気かよ!」

永井「もちろんだ! 何人死のうが僕の知ったことか!」


中野の声に負けないように永井は大声で言い返した。

言葉を投げっぱなしにしたまま、永井は踊り場を曲がった。十三階へと続く階段を足で蹴る。


永井「だが、そんなことはさせない」


決意の言葉を永井はつぶやいた。


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850 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:07:29.90 ID:SzhTzFDuO

十五階、黒服たちが十字になった通路で左右に展開し伏撃の体制で佐藤を待ち構えている。

下村から南階段で田中と遭遇したとの連絡、黒服たちは北階段からつづく通路を伏撃の地点に選んでいた。


黒服2「平沢さん、あんたはなんでこの仕事を?」


平沢と並んでシグザウエルを正面に構えている年嵩の黒服が訊いた。


平沢「忘れたよ」

黒服2「家族はいるのか?」

平沢「長いこと会ってないな」


オープンサイト越しに通路の暗闇に視線を固定する。真鍋と若い黒服は横に貫く通路にそれぞれ銃口を向けている。

平沢の眼が暗闇の中での黒い影の微妙な動きを捉える。影は通路の陰に消え、同時に動きの気配も消える。数秒間そのままで、眼が間違いを起こしたのかと思い始める程度の時間が過ぎる。

突然、暗闇の中にパステルカラーの脚の生えた抽象画が出現する。

平沢は躊躇せず引き金を引いた。


佐藤「ぬ!?」


抽象画越しの銃撃が佐藤の膝を貫いた。床に倒れた佐藤の頭部はキャンバスで隠れ、平沢からは狙えない。キャンバスが傾く。年嵩の黒服が狙えるようになった佐藤の頭部に照準を合わせる。

佐藤が先に引き金を引いた。牽制のための連射。平沢と黒服が身を隠している隙に佐藤は這いずって通路の角まで後退した。


851 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:08:34.16 ID:SzhTzFDuO

佐藤「きみら、警備の人間じゃないな!」


佐藤は喜ばしさを口にしながらリボルバーを口に咥え、自殺した。笑い声が銃声で途切れた。


平沢「南階段前の通路で佐藤と遭遇」


平沢が協力者にむかって無線で告げる。

アナスタシアはIBMを放出し、十五階へ走らせる。


平沢「やつには麻酔ダート程度の弾速なら一、二発かわす反射神経がある。殺し続ける方法と麻酔銃での無力化、臨機応変に使い分け、やつを拘束するぞ」


暗闇を見張りながら、平沢が指示を出した。


佐藤「この国の、兵士に相当する職種の人間は……戦闘に身を置く覚悟がぬるい」


佐藤が復活した。黒い粒子を口から噴き出している口から言葉が洩れる。


佐藤「だが、きみらはちがう。ちゃんと殺し合いをしてきた風情を感じる」


佐藤はポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動させた。


佐藤「SAT相手よりよっぽどエキサイティングな時間になりそうだね」


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852 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:09:21.01 ID:SzhTzFDuO

田中「女だからって容赦はしねえ。てめえは特にだ」


踊り場に突っ立ったまま、独白するような調子で田中がつぶやいた。


田中「十年……十年だぞ?……佐藤さんが来るまで十年間……おれは実験施設にいた……」


俯きながら身体を震わせて独白を続ける田中を下村は表情一つ変えず見下ろしていた。スーツのジャケットのボタンを外し、前を開ける、脇を圧していたショルダーホルスターが解放される。時間が差し迫っている感覚。


田中「てめえとエレェ違いじゃねえか」


下村を睨めあげた田中が怨みがましい声を出した。


田中「連中に色目でも使ったかよ」

下村「好きに言って」


八つ当たり的な挑発の言動を下村は意に返さなかった。


田中「あんな仕打ち、間違ってると思わねえのか!?」

下村「わたしは与えられた仕事を最後までやりたいだけ」


いらだちを募らせる田中とは対照的に、下村は冷静な態度を取り続けた。下村の黒い瞳は田中の苛立ちが復讐心によるものだけではないことを見て取った。


下村「ていうか」


別の理由による動揺、下村はそれを指摘した。

853 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:10:06.05 ID:SzhTzFDuO

下村「あなただって正しいと思ってこんなことしてるわけじゃないでしょ?」

田中「あぁ!?」


田中のIBMが発現される。怒りに身を任せた突進。下村もIBMを発現、闇雲だが激しい攻撃をなんとか凌ぐ。田中のIBMが背後に回り込もうと壁に向かって跳んだ。下村のIBMがその動きを追いかけ、左脚を軸に身体を反転させる。


IBM(下村)『あ』


下村の視界から三角形の頭部が消える。IBMは足を踏み外し、転んでいた。下村と田中の視線がふたたびぶつかる。田中は麻酔銃を持ち上げようとしていた。

下村は即座に飛び退いた。麻酔ダートが壁に突き刺さる。両脚で着地し、顔を上げる。田中のIBMが逃げ道を塞ぐようにドアの前から下村を睨んでいる。壁を踏んでいた右脚を強く蹴り、IBMは下村に向かって飛び出した。


下村「……来いよ!」


下村は左肩を前に出した姿勢を取り、開いた左手を前に、握られた右手を胸の前に構える。IBMの爪が振り下ろされる。攻撃の呼吸に合わせ、下村は身体を後退させる。下村の左手を切り落とされ、指の付け根から落下していく。爪はそのまま下村の腕に進み、コピー紙が裂かれるみたいに前腕の半ばあたりまで入り込んだ。下村は激痛に眼を細めながら、手を切断した左側の爪が肘にひっかかり勢いが止まったのを見た。爪が引っかかったままの左腕を引き、右肩をIBMの前に入れる。IBMの伸びた左腕の肘を掴み、足が床から離れた瞬間に身体を捻った。


IBM(田中)『お!?』


IBMの上下が反転し、反対側の壁に投げ飛ばされる。下村は体重移動を行い、踊り場から階段の下に身体を出した。途中、麻酔銃をホルスターから抜き、下に向ける。ダートを装填していた田中と眼が合う。焦りを浮かべた表情。下村が麻酔銃を撃ち、ダートが田中の胸に突き刺さる。


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854 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:11:40.47 ID:SzhTzFDuO


平沢が通路に備え付けられている消火器を取り出し、床を滑らす。若い黒服が膝で受け止めたのを見ると、平沢は言った。


平沢「やつがIBMを発現させたらそれで煙幕を張り、消滅までやり過ごせ」


スマートフォンのカメラで床を滑る消化器を見た佐藤がつぶやく。


佐藤「消化器? 何に使うんだろう……幽霊対策かな?」


疑問を解消した直後、年嵩の黒服がスマートフォンを狙撃した。佐藤は気にかけず、顔を出さないように角に頭を寄せながら、暗闇に向かって呼びかけた。


佐藤「大丈夫! 幽霊をこんなタイミングじゃ使わないよ」


佐藤は身体をもとに位置に戻し、腰に巻いた工具ベルトを探った。ダクトテープを取り出す。


佐藤「面白みがないじゃない。せっかく不死身なんだから」


テープを剥がしながら、佐藤は黒服たちの戦略を推察する。

佐藤の動向を見張りながら、平沢がハンドサインで仲間に指示を出す。平沢と真鍋が通路を回り込み佐藤を背後から襲撃、挟撃を目論む。年嵩の黒服が了解のサインを返し、平沢と真鍋が移動を開始する。残った黒服二人が左右の角から佐藤を見張る。


佐藤「彼らの装備から見て、SATの時と同じ無力化の方法かな? だったら……」


壁から張り出した細い柱を掴み、テープで固定した佐藤は高橋のAKMを持ち上げ、銃口を右手首に押し付けた。


佐藤「これで壁から誘い出そう」


855 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:13:24.47 ID:SzhTzFDuO

通路の陰から銃火の閃きを見えた。黒服は意図の掴めない銃撃に疑問を持ちつつ、視線を固定していると、銃声が止んだ。

佐藤がリボルバーを乱射しながら飛び出してきた。佐藤から見て右側、年嵩の黒服がいる角に向かって集中的に発砲を続け、前進する。

若い黒服がイングラムM10で佐藤の頭部を狙撃した。


黒服2「目標射殺」


倒れた佐藤を確認した年嵩の黒服が平沢に告げる。


黒服2「殺し続け接近、拘束する。頭部を狙え」


殺し続ける方法を取りながら、黒服二人が佐藤に接近する。撃たれ続ける頭部からは血と黒い粒子がとめどなく飛び出していた。黒い粒子は右手首からも放出されていた。手首の切断面はズタズタで、自動小銃で千切ったためだった。手首の粒子は頭部のそれとは違い、柱に固定されている右手に吸い寄せられるように通路の陰に伸びていった。黒い粒子が連結し、手首と切断面がすこし持ち上がる。黒い粒子が磁力のように互いに引っ張り合った結果、突然、佐藤の身体が滑り出した。若い黒服が頭部を狙って引き金を引くが、通路の角に邪魔され佐藤の姿が視界から消える。

黒服たちは射撃を中断し、歩みを遅くしながら佐藤のいる位置を注視する。靴音を殺すようなゆっくりとした前進。十五階全体が静まり返っている。
856 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:14:34.28 ID:SzhTzFDuO

佐藤が若い黒服を二連射した。銃弾は右耳の下にあたり、イヤホンのランヤードを切断、そのまま首を貫通した。若い黒服が頭を下げたため、二発目は壁に埋まった。沈み込む黒服から銃口を移し、佐藤は通路の右に位置する年嵩の黒服に向かって二発撃った。身体を下げていたため、弾はあたらなかった。

最後の一発が年嵩の黒服の額に穴を開ける直前、佐藤の首に麻酔ダートが刺さった。平沢が回り込んできたことを確認した佐藤は、通路を横切るように跳躍し、リセット。ふたたび佐藤の姿が隠れる。

年嵩の黒服が銃口をあげる。


黒服2「こっちからは狙えない」


膝撃ちの姿勢で佐藤を狙撃しようとするが、帽子をかぶった頭部はインテリアに隠れて見えない。

若い黒服は射出口を押さえながら、噴き出してくる血の勢いを手のひらで感じていた。激しい脈動に従う血の勢いは、止むことはなさそうだった。若い黒服は傷口から左手を離し、MAC10のストラップを肩から外す。床に放り投げると、MAC10はがちゃんと音を立てた。年嵩の黒服と眼が合う。

若い黒服は右手をあげた。

857 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:16:56.57 ID:SzhTzFDuO

黒服1「お先」


年嵩の黒服は黙って頷いた。

平沢と真鍋が通路を進行、佐藤が倒れた地点を確認するが、姿はなかった。床の血痕は近くのドアまで続いていて、ドアはかすかに開いていた。

年嵩の黒服が合流した。肩からMAC10のストラップをかけている。

若い黒服は足音が遠ざかっていくのを聞いていた。視覚も暗くなっていく。通路の覆う物理的な暗闇以上に暗く黒い闇が、頭の先から下りてきて、手足の先端まで染み渡っていくのを感じる。感覚のすべてが遠くなっていき、力が抜ける。使えるものがなくなる。身体を動かす意識が小さくなる。


天国への扉を叩くような感覚……


傷口を押さえていた黒服の左手が床に落ちた。


黒服2「一名死亡」


かすかな気配の消失を感じ取ったかのように、年嵩の黒服が無線にむかって静かに言った。


ーー
ーー
ーー

858 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:18:04.95 ID:SzhTzFDuO

『一名死亡』


耳のイヤホンから黒服の報告が聞こえる。永井は十二階と十三階のあいだの踊り場いて、階段に転がっている警官の死体を眺めていた。階段を駆け上ってきたためか呼吸は荒く、頭の横にあげた両手が呼吸に従って上下している。

永井はゆっくりと視線をあげ、死体から眼を逸らした。名前はなんだった、と永井は一瞬考えた。眼の前で横たわっている警官の名前も、十五階で死んだ黒服の名前も永井は知らなかった。


「動くなぁぁっ!」


上の踊り場の警官が永井にむかって怒鳴った。その声をきっかけにその場にいる全員の視線が永井に集まった。


「永井……圭だな……」


警官が緊張感を抑えた声で言った。手に麻酔銃が握られ、永井に狙っていた。


永井「うるせえよ」



この上ない苛立ちを感じながら、永井はぼそりと言い捨てた。




ーー
ーー
ーー
859 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:19:52.06 ID:SzhTzFDuO

両腕をだらんと床におろし、田中がうなだれている。踊り場のIBMも田中と同様に床に尻をついて、突然いなくなった飼い主を探す忠犬のように虚空に顔を上げじっとしていた。

下村は麻酔銃を捨て、右脇のホルスターからH&K USPを引き抜いた。右手で拳銃を持つのは痛みのせいもあり、かなり苦労した。

騒ぎを聞きつけたフォージ安全の社員が動く様子のない田中に駆け寄って、声をかけようとする。


下村「どけ!」


拳銃を左右に振りながら、下村が怒鳴りつける。踊り場まで下り、銃口を田中に向けながら俯いてる顔を覗き見る。半開きになった口、眼は閉じられている。

下村は一息つき、拳銃を持った右手の親指でイヤホンを押さえ、報告した。


下村「田中を無力……」


突然、下村は何者かに後ろから突き飛ばされた。衝撃で拳銃が手から離れ、宙を舞った。右手が壁と顔に挟まれ、背中を圧迫する凄まじい力によって抜くことは不可能だった。下村は必死に首を伸ばし、何が起きたのか把握しようとする。田中がゆっくりと瞼をあげ、下村を眺めた。


下村「防弾……ベスト……厚み」


田中のIBMが抵抗を示す下村に顔を寄せ、威嚇するように短く吠えた。噛みつかれるのを怯んだ下村が反射的に頭を下げると、田中が麻酔ダートを装填し直す動作が眼にうつる。
860 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:20:55.69 ID:SzhTzFDuO

下村は即座に自身のIBMに命令した。

三角頭のIBMが踊り場に向かって降りかかってくる。頭部めがけて突き出された拳は、田中のIBMが頭を右に振ったことによって壁を強く打つだけにおわった。続けざまに左の拳が繰り出される。壁に張り付いて下村の動きを封じていた田中のIBMは、唯一可能な反撃に打って出る。思いっきり頭を仰け反らせる。田中のIBMの後頭部が三角形をした下村のIBMの頂点に触れたかと思うと、二つの頭部の境界線が混じり合い、黒い塊が溶け合った。


(おそ……いよ…)

(すげーじゃねーか)


精神が混線し、互いの記憶を体験する。田中の意識が混線から回復したのは、二体のIBMと下村の身体の床に倒れた音が続けざまに耳に届いたときだった。

下村は左手の傷口を床に押し付け、上体を起こした。右手ですぐに拳銃を掴むため、そうする必要があった。激痛に襲われながら、下村は拳銃に手を伸ばす。

田中は下村の指が拳銃のグリップに触れたのを見て、ようやく麻酔銃を撃った。

麻酔ダートが首の付け根に刺さり、下村から意識を奪う。田中は手錠で下村の無事な方の手首を手摺のポールにつないだ。その様子を社員たちが覗き込んでいる。手にスマートフォンを持っていたが田中は気に留めず、麻酔銃にダートを込めながら階段を上った。


「え!?」

「なんだ!?」

「嘘だろ!?」


振り返ると、下村が復活していた。

何かする前に田中は下村を撃った。

何事もなかったように階段を上ろうとする田中を、フォージ安全の社員が慌てて呼び止める。

861 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:22:00.13 ID:SzhTzFDuO

「お巡りさん、放置でいいのか!?」


田中はしばし考え、思いついた言い訳を口にした。


田中「……あとで担当の人がくるから……あんたらは早く避難しろ」


社員たちが田中の発言に戸惑っていると、階下から足音が響いてきた。「凄い音がしたぞ?」と言いながら、警備員たちが階段を駆け上がってきた。

田中は背後の物音を意識して遠ざけ、自分の足音に聴覚を集中させた。


「あ、警備員さん! この女、亜人ですよ!」

「何!?」

「佐藤の仲間か?」

「動画も撮ったんで見てください。グロかったすよ?」

「これーーー」

「ーーーうです」


いやでも耳に入ってくる音声の意味が捉えられなくなったところで、田中が足を止めた。数秒の逡巡のあいだにさまざまな考えが頭を過ぎった。十年にわたる自分の時間と正確な年月は不明だが数年に及ぶ下村の時間が重なり、最期の瞬間の記憶と感情が自らの体験のように再生された。


田中「クソがっ」


田中はリボルバーを握りながら、階段を引き返していった。


ーー
ーー
ーー

862 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:22:49.00 ID:SzhTzFDuO


黒い星十字が打ち上げられたロケットのようにフォージ安全ビルを昇っていく。アナスタシアのIBMは手摺を足がかりにして跳躍し、人ひとりぶんしかない手摺と手摺のあいだをすり抜けた。真上に跳躍すると伸ばした手を上の手摺にかけ、身体を持ち上げる。この動作を二回繰り返すと、一階分上ることができる。

はじめは階段を利用していた。だが、階段には想像以上に社員の数が多く、焦る気持ちもあわさってIBMを思うように移動させることができなかった。十一階に辿り着いたとき、IBMが降りてきた女性社員とぶつかりそうになった。IBMと人間が激突すれば、後者が重傷を負うことは目に見えている。アナスタシアは咄嗟にIBMをジャンプさせた。偶然にも手摺の上にのったIBMはそのまま真上に跳びが上がり、踏み込みひとつで上の踊り場まで到達できた。

手摺と手摺のあいだはとても狭く、跳躍のたびにIBMは身体のあちこちをぶつけた。踏んだり掴んだり頭や肩や膝がぶつかったところが凹んだり傷がついたりしたが、もはやそんなことを気にするアナスタシアではなかった。

十三階から上の踊り場まで跳躍する。手摺を掴み、星十字の頭部を隙間から出したとき、永井と眼があった。永井は警官に撃たれ、出血し床に倒れていた。周囲には麻酔銃によって意識を失った警官、壁際に永井と同様、腕と腹部が撃たれた中野がいた。



IBM(アナスタシア)『ケ……』

永井「十五階、プール室!」


その大声を聞いたとたん、星十字はふたたび直線的に上昇した。落ちるような速さでIBMが姿を消したのを見届けると、永井は拳銃を取り出し中野に向けた。中野は銃口をぼんやり睨んだ。


永井「先を急ぐぞ、中野」

中野「とっととやれよ」


永井は引き金を引いた。すぐに乾いた銃声が連続し、踊り場に響いて消えた。


ーー
ーー
ーー

863 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:24:08.55 ID:SzhTzFDuO


プール室のドアの前で平沢たちは一旦足を止めた。


平沢「佐藤の装備だが、警官から奪ったであろうリボルバーが五、六丁。麻酔銃も見えた」

黒服2「さっきの行動から見ても腕を一気に叩き切れるような刃物は無いようだ」


情報を共有を済ませ、真鍋がドアの右側に移動する。ドアノブに手をかけると、年嵩の黒服がMAC10を構えた。社長室のある十五階が主戦場になるだろうという想定から、黒服たちは同階の空間構造を把握している。プール室のドアを開けてすぐ正面に身を隠すのに最適なコンクリート柱がある。柱はドアから入って正面と右側、それぞれ縦に二本ずつ並んでいる。まず佐藤がどの柱の陰で待ち構えているか特定する必要があった。

真鍋がアイコンタクトを送った。二人はうなずき、ドアが開け放たれる。年嵩の黒服がMAC10の銃口を正面に向ける。ドア正面手前の柱の陰から佐藤がリボルバーを連射する。黒服はすぐに身を引き、五回の発砲を数えると手前の柱をフルオートで撃った。


黒服2「行け! 行け!」


銃撃が続けられるうちに平沢と真鍋が室内に突入する。右奥の柱まで走り、手に持った消火器を床に置くと、真鍋が麻酔銃を構えた。佐藤から見て平沢は十二時の方向、真鍋は九字の方向に位置している。

佐藤はコンクリート柱の左側から腕をまっすぐ伸ばし、年嵩の黒服を銃撃した。黒服がドアの陰に隠れたあとも佐藤は撃ち続けた。真鍋は無防備にさらけ出された佐藤の背中を麻酔銃で狙った。引き金を引く直前、帽子の庇がかすかに傾くのを真鍋は見た。麻酔ダートが発射される。佐藤はダートを左腕で止め、リボルバーの銃口をこめかみに押し付けた。


佐藤「あ」


かちんという撃鉄が空ぶった虚しい音がし、佐藤が仰向けに倒れる。
864 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:24:53.05 ID:SzhTzFDuO

真鍋「麻酔ダートが腕に命中……目標を眠らせた」


真鍋の報告は結果に対する疑問が滲んでいた。


平沢「奴を撃ったとき、不意打ちだったか?」


佐藤に視線と銃口を固定したまま、平沢が訊いた。


真鍋「いや、眼が合った。手で防がなくともかわせそうなもんだ」


『平沢さん、喉を見てください』


永井が無線越しに平沢に指示を出した。


『睡眠時、唾液の分泌は著しく低下します』


平沢の眼が佐藤の喉に焦点をあわせる。


『だから本当に寝ているのなら、そう簡単に』


平沢は佐藤の喉を見ている。


『唾を飲み込んだりは……』


佐藤の喉が動いた。平沢と佐藤が同時に撃つ。佐藤の左耳の上半分が吹き飛ぶ。


865 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:26:07.41 ID:SzhTzFDuO


佐藤「バレちゃった?」


佐藤はシャツの袖を捲り上げ、左上腕を縛る布をナイフで切断。そして拳銃で自殺。銃声の後、シノ棒代わりのドライバーが床に転がる音がかすかに鳴った。

年嵩の黒服は銃声と同時に部屋に飛び込んだ。柱の裏に佐藤の姿が見える。銃口を頭部に向け、引き金に指をかける。

佐藤がリボルバーを胸まで持ち上げ、二発撃った。二発とも胴にあたり、着弾の衝撃によって黒服の背中は壁に打ち付けられた。黒服は壁からずり落ちながら、リボルバーめがけてMAC10を撃った。佐藤の右手の指がリボルバーごと吹き飛ぶ。銃弾を受け、佐藤の身体が柱からはみ出る。平沢と真鍋が佐藤を狙撃、佐藤は柱に隠れて代わりのリボルバーを抜こうとする。佐藤の左手が吹き飛ばされる。年嵩の黒服が佐藤を撃った。黒服はなおも引き金を引くが、MAC10が弾切れを起こす。

佐藤の首の後ろに麻酔ダートが刺さった。平沢は佐藤が柱の陰に隠れた瞬間に接近を始めていた。

佐藤は両手を見た。指が六本欠けている。

佐藤はIBMを発現した。


佐藤「使っちゃったよ」


幽霊を使用したことに対して、佐藤は残念そうに、反面どこかはんぶんは嬉しそうに言った。わずか四人との戦闘で幽霊を放出せざるをえなくなった。エキサイティングな時間のピーク。

IBMが佐藤の脊椎めがけて腕を振り下ろそうとする。

そのとき、スプリンクラーが作動する。散水される水滴にIBMの挙動が停止した。


『電力の復旧した』


戸崎が無線で告げた。
佐藤が演技ではない倒れ方を見せる。


真鍋「IBM、沈黙」

平沢「麻酔ダートは首に命中。リセットもされてない。小細工のしようがない」


佐藤を見下ろしながら、平沢は言った。


平沢「確実に寝ている」

866 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:27:33.43 ID:SzhTzFDuO

永井「……考えろ。まだ何かあるんじゃ……」


平沢たちは眠っている佐藤が失血死しないよう止血処置を施している。


平沢「動けるか?」


平沢が年嵩の黒服にむかって問いかけた。


黒服2「ああ、肋骨が折れただけだ。防弾ベストにあたった」

平沢「田中を警戒しろ」

黒服2「了解」


年嵩の黒服は消化器を手に持ち、入口へ向かった。


永井「田中が何かするのか?」


永井はまだ佐藤が状況を打開する可能性を検討していた。


永井「奴はIBMを僕らに一回、下村さんにも一回使ったようだった……恐らくもう出せない……田中ひとりでどうにかできる状況じゃない……」


田中がIBMをまだ使用できると仮定しても、こちらにはアナスタシアがいる。

867 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:29:02.76 ID:SzhTzFDuO

永井「アナスタシア、おまえのIBMはいまどこだ?」

『十五階に着きました』

永井「プール室に向かわせろ。途中、田中を警戒しろ」

『ダー』


アナスタシアはIBMをプール室に向かって進ませた。真っ直ぐ進み左に曲がるとプール室にたどり着く。アナスタシアのIBMがまず右の通路を確認する。若い黒服が背中を丸めて動かなくなっている姿が見えた。一瞬、呼吸が止まり、心が千切れるほどの悲しみがアナスタシアを襲った。星十字のIBMも、打ちひしがれたように突っ立って動けなくなった。

永井はまだ十四階で、意識の全てを思考に捧げていた。


永井「他に何かあるか? 他に……」


可能性のひとつが消え、永井は別の可能性の検討に移った。そして、ひとつ思いつく。


永井「いや、それはない……」


永井は即座に否定した。


永井「それは僕にしかできない……」

868 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:30:32.79 ID:SzhTzFDuO

IBM(佐藤)『プ……プレイ……ボール』


佐藤のIBMが発することのないはずの声を発した。

IBMは素早く身体を回転させ、年嵩の黒服の背中に右手を埋め込んだ。


黒服2「佐藤の……」


黒服の足が床から離れ、身体は宙に浮いた状態で柱に押しつけられている。年嵩の黒服は苦痛にあえぐ声で報告を続けた。


『IBMが……』

永井「自走……!」


黒服からの報告に永井が戦慄する。すぐに階段を駆け上がり、戸崎に向かって無線機越しに叫ぶ。


永井「戸崎さん! 完全封鎖しろ!」

『封鎖実行』

永井「封鎖が完了したら、誰にも解除されないようにシステムを破壊してください!」


ビル内の至る所で防犯シャッターが下り、ロックがかかる。


永井「あいつはまだかよ!」


永井は階段を駆け上がりながらどこか悲痛な感じがする声で叫んだ。
黒服からの報告はアナスタシアの無線機にも届いた。自走を告げられた瞬間、アナスタシアのIBMは射出された銃弾のようにプール室のドアに飛びついた。ドア越しに笑い声 ──『は、は、は』──が聞こえた。

自走を始めた佐藤のIBMは存分にみずからの力を振るった。年嵩の黒服をコンクリート柱に押しつけたまま、入口に向かって走り出す。


黒服2「真鍋! 消化器で煙幕を張れ!」


黒服が激痛を無視して叫ぶ。凄まじい摩擦によって額の皮膚が破れている。真鍋が消化器に飛びつく、IBMは黒服を床に叩きつける。肩から落ち、両脚が真上を向いた。年嵩の黒服は振り上げられたIBMの黒い拳を見て、言った。

869 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:36:05.69 ID:SzhTzFDuO

黒服2「来いよ」


ドアが開いたのはその瞬間だった。アナスタシアはIBMを突進させようと奥歯を噛み締めながら命令する。星十字のIBMの動きが部屋に入ったとたんに停止した。スプリンクラーが機械的な非情さで散水を続けていた。佐藤のIBMが黒服の頭部に拳を打ち下ろす。

アナスタシアはIBMの操作に集中するために瞼を閉じ、星十字の頭部と視覚をリンクさせていた。だから、佐藤のIBMが黒服の頭部を砕く光景から、眼を閉じて流れることも、顔を背けることもできなかった。


平沢「真鍋、スプリンクラーを撃て!」


消化器から手を離し、真鍋は拳銃を天井に向けた。平沢も同時に発砲し、天井に備え付けられている四つのスプリンクラーヘッドが砕けた。

アナスタシアとIBMのリンクが回復する。


IBM(アナスタシア)『あ、あ、あ、あああ゛! あ゛ああ゛あ゛!』


怒りに染め上げれた叫びを発しながら、星十字のIBMが怒りに身を任せて突進する。

佐藤のIBMが顔をあげる。放射状に砕けた頭部から拳を引き抜くと、口角をあげ笑顔を浮かべた。IBMの笑顔は、サミュエルが「プレイボール」といったときと同じような“表情”だった。


IBM(佐藤)『は、は、は』


自身に迫る黒い星を正面から捉えながら、佐藤のIBMは喜びの声をあげた。



870 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:56:15.66 ID:SzhTzFDuO
今日はここまで。

黒服たちの最期を書いていると、ふとボブ・ディランの「天国への扉」のメロディが頭の中で鳴りました。

この曲はサム・ペキンパーの『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』のために提供された楽曲で、歌詞の内容は映画のストーリーに合わせるなら西部ももう終わろうとしている時代、進歩から取り残されたガンマンが死にゆく時の最期の心情を歌っていると解釈できるでしょう。

「天国への扉」はさまざなアーティストにカバーされ、多くの映画のサウンドトラックにも使われていますが、個人的に最高だったのがマイケル・マンの『ブラックハット 』でした。実は予告編にアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズのカバーが流れるのみで本編では使われてないのですが、とあるシーンを見て頭の中で自動的に「天国への扉」の歌詞が再生されました。

『ブラックハット 』の評価はじつは散々なんですが、一部のシネフィルには高く評価されていて、蓮實重彦やジャン・ドゥーシェなんか絶賛も絶賛で、個人的は21世紀の映画ベストだと思ってます(ちなみにディレクターズカット版の評価は高く、わたしも観たいんですがソフト化も配信もないんですよね……)。

というわけでこちらが『ビリー・ザ・キッド』と『ブラックハット 』の該当シーン。

https://youtu.be/yjR7_U2u3sM

https://youtu.be/SQCluffO3Wc

後者は激しくネタバレなので注意。

これらを見たあとで「天国への扉」を聴きながら、『亜人』8巻を読むとやべーです。やべーほど泣けます。

871 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 01:11:22.19 ID:SzhTzFDuO
>>869
訂正
流れる→逃れる
872 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/25(月) 15:10:13.04 ID:W4wphvD70
更新キテル
お先の人の補完具合がいい塩梅で好き
873 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/27(水) 21:12:47.72 ID:UfIKOYeM0
おつ

スワンプマンの話から久々に読んだ
最新刊の佐藤は腕切ってから自爆するまでの間に
永井を見つけたのを
腕から再生した佐藤も覚えてるんだよな
腕の方に記憶は残ってないはずなのに
874 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/04(木) 15:27:08.12 ID:I7DaQecR0
佐藤さんとの決着の付け方めっちゃ気になるから最後まで頑張ってほしい
875 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 21:58:06.94 ID:kdA8uLchO

脚が千切れてしまうかもしれないと思うほどの強い踏み込みをみせ、アナスタシアのIBMは佐藤のIBMへと猛進する。拳を振りかぶり、爬虫類のそれに似た偏平な頭部めがけて打ち下ろす。

流れ星のような直線的な軌道を描く星十字のIBMの攻撃は、コンクリート柱をはげしく揺さぶった。鈍い衝撃音が重く響く。コンクリートがひび割れた。

怒りに任せた発作的で衝動的な攻撃は、佐藤のIBMからみればただのテレフォン・パンチでしかなく、ヘッドスリップでたやすく躱し、流れるような動作で後ろへと回り込む。佐藤のIBMがうしろから蹴りを放つ。鞭のような鋭い一撃ではなく、足裏を押し出すようなかたちでアナスタシアのIBMの膝裏を突いた。膝が折りたたまれたかのようにガクンと落ち、頭の位置が下がる。アナスタシアはIBMの体勢を整えようと床に手をついて身体を押し上げようとするも、それが判断ミスだと瞬時に悟った。手をついた瞬間、星のかたちをした頭部が一点に留まった。その位置はただ腰を回してフックを打つだけで、佐藤のIBMの拳が地球に衝突する巨大隕石のように放たれる一点だった。

アナスタシアの頭が真っ白になる。背後で佐藤のIBMの動作、その右肩がピクリと動くのを感じた。
876 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 21:59:10.19 ID:kdA8uLchO

消化器から吹き出す白煙によって、IBM二体の黒い肉体が互いの視界から隠された。柱の側の消火器を真鍋が撃ち、銃弾で射抜かれてできた孔から噴出された消火剤が猛烈な勢いであたりを包んだ。真鍋にはアナスタシアのIBMが視認できていなかった。だが、佐藤のIBMの淀みない動作から味方の危機を察知し機転を利かせたのだった。

噴出の勢いで消火器が倒れ、赤い本体を煙幕で隠しながら床を転がっていく。アナスタシアは即座にIBMの手を床から離させた。肩を動かし腕を折りたたみながら勢いをつけてタックルをするみたいに床に倒れると、頭のすぐ上を空気が流動していくのを感じた。佐藤のIBMの六本目の指とアナスタシアのIBMの十字形の頭部の右端の先端がぶつかり、互いに打ち消しあう。

アナスタシアはIBMの右脚をあげ、横になった姿勢のままおおきく足払いをした。こちらの脚一本を犠牲に、あちらの機動力を完全に無効化させるつもりだった。白い煙が切り裂かれ、視界がひらけたところから黒い足首が見えた。さっき佐藤のIBMが立っていた位置から一歩後退したところにいる。

アナスタシアはそのままIBMの右脚をぐるりと一周させ、ブレイクダンスのウィンドミルの要領で身体の上下を反転させる。そのとき手で床を掴み上体が持ち上がらないようにし、首だけあげた。白い煙幕はまだあたりに充満している。アナスタシアのIBMの回転のせいで煙幕には流動が見られたが、伏せっている姿勢を保っていたので消火剤が滞留している位置に身を隠すことには成功していた。佐藤のIBMが動けば、煙幕によって視覚化された空気の流動によってその行動を予期できる。
877 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:00:45.93 ID:kdA8uLchO

アナスタシアは、周囲を包み漂う白い煙幕にじっと眼を凝らした。

煙の中を黒い影が横切った。物体の運動によって押し退けられた煙がもとの空間に戻ろうとする。アナスタシアは、左側にあるプールから大きな水音が起ち上がるのを聞いた。

平沢と真鍋もその水音を聞いていた。平沢は佐藤の止血に集中していた。何が起き、どんな音がしようと止血が終わるまで顔をあげようとしなかった。

真鍋は握っていた拳銃を、落ち着きつつある消火剤の煙幕から飛び出してきた物体に向けた。プールの水が拳銃と真鍋の顔にかかる。微動だにせずプールに視線を固定していると、水が赤く染まり出すのを目撃する。

投げ込まれたのは、年嵩の黒服の死体だった。


真鍋「罠だ!」


真鍋は叫び、銃口を反対側の壁に向ける。巨大な爬虫類の怪物のような黒い影が高速で壁を移動している様子が眼に写る。佐藤のIBMが這っていた壁から跳躍し、大口を開け真鍋に飛びかかった。
878 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:01:50.08 ID:kdA8uLchO

その牙が真鍋の顔に喰らいつこうかという瞬間、もうひとつの黒い影が白煙から飛び出してきた。星十字が爬虫類にぶつかり、平沢の頭上を通り越しながらその斜め背後の壁に激突した。

アナスタシアのIBMは佐藤のIBMの両腕をがっしりと抱きかかえたまま前進し、入口の反対側のいちばん奥まった壁まで押しやった。

IBM同士の眼のない顔が向き合う。佐藤のIBMは口を閉じていた。口角はもう上がっていなかった。笑ってはいなかったが、ほかのどんな感情も現れてはいなかった。

アナスタシアは自身のIBMをさらに前進をつづけ、佐藤のIBMを分身と壁に挟んで圧迫させ、動きを完全に封じ込めようとする。動き回らせてはいけない、とアナスタシアは強く思った。膂力は等しくても、技術や駆引きではまったく劣っていると先ほどの攻防で思い知らされた。さらに時間的なハンデ。IBMを先に発現したのはアナスタシアのほうであった。星十字の頭部のほうがおそらく先に崩壊をはじめるだろう……

アナスタシアはIBMの両脚に力を込めさせた。鋭く尖った足の爪で床に引っ掻き傷がついた。

一歩踏み出したしたところで、前進が止まった。佐藤のIBMは壁に左足をつき、アナスタシアのIBMの前進を押し返すかたちで阻んでいた。偏平頭のIBMはさらに右側面の壁を蹴ることで両者の体勢を崩し、互いの身体をよろめかせた。床に衝突するさい、佐藤のIBMは身体を縛り付けているアナスタシアのIBMのその右腕を、拘束されているにもかかわらず身体を捻ることで床に向かって突き出し、ぶつかった衝撃を利用して消失させた。佐藤のIBMの左腕の半分もそのとき消え、くっついていた両者の身体が離れた。
879 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:02:56.54 ID:kdA8uLchO

倒れたままの二体。アナスタシアが急いでIBMの体勢を立て直す。佐藤のIBMは尻もちをついた格好で黒い星十字を見上げている。

アナスタシアのIBMが上体を素早く起こし、残された左腕を偏平な頭部めがけて振り下ろそうと拳を握った。

あらゆる戦いは駆引きのゲームである。アナスタシアはそのことを学んだはずなのに、焦りのせいで駆引きの方針を放棄してしまった。

間違いに気づく……絶望感……凍てつくような感覚だった……

腕を振り上げたせいで大きく開いた脇に佐藤のIBMが蹴りを入れた。上体が押し出され、真下に打ち下ろすはずだった拳は偏平な爬虫類頭から大きく外れた。

佐藤のIBMは脚で脇を押したさいの反動を利用しアナスタシアのIBMの左側へするりと身体を移した。その途中、直下してゆく左腕の関節を右手で絡めとり床に押し付けると、半分になった前腕を大鉈のように拳めがけて叩きつけた。

手を構成していた粒子がはじけ飛び、空気の中へ消えていく。

手を喪失したIBMの両腕は、餌を取れずに身体が腐り動けなくなってしまった黒い芋虫のように役立たずになって垂れ下がっていた。

なす術がなくなった。だが、アナスタシアは哀れな反撃を試みる。手首の断面を突き出し、頭部を狙う。佐藤のIBMがスウェーする。腕の長さを完全に見切られ、ほんの僅か届かない。ゼノンのパラドックス──アキレスと亀のたとえのように、永遠に届かない距離。伸びきった手首の断面が下がる。佐藤のIBMのカウンター。肘のところまでしかない左腕が星十字めがけて真っ直ぐ走り──
880 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:04:19.68 ID:kdA8uLchO

消化器が赤い水平の弧を描きながら偏平な頭部を打った。真鍋が振り抜いた消化器に頭部を殴られたIBMがよろめく。しかしスリッピング・アウェーで頭部を消化器と同一方向に反らしていたので倒れるまでにはいかず、佐藤のIBMはすぐに体勢を立て直しはじめる。

平沢が上向いた偏平の頭部に全弾叩き込む。

佐藤のIBMの頭部が後方に倒れる。

アナスタシアがIBMを復帰させ、追撃をしかける。

星十字の動きを見た佐藤のIBMはそのまま床を転がり、壁際まで飛び退る。

アナスタシアはそれを追いかけ、IBMが飛び出そうとする。


平沢「待て、深追いするな!」


平沢の言葉にアナスタシアはIBMの動きを止める。

佐藤のIBMはこちらをうかがいながら、最後の攻撃をしかけるタイミングを図っている。じりじりと距離を詰めようとするが星十字のIBMを気にしてか、突発的な行動の前兆は見受けられない。
881 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:05:47.70 ID:kdA8uLchO

アナスタシアがIBM越しに敵を注視していると、肩を叩かれる感触が伝わってきた。

わずかに振り返ると、真鍋が拳銃を左に振っていた。拳銃を振った先には平沢がいて、真鍋と同じように拳銃を構えながら佐藤のIBMの前に立ちはだかっている。

平沢の背後、コンクリート柱の裏側に位置するところに佐藤が寝かせられ、帽子をかぶった頭部が入口の方へ向けられている。上腕部がきつく締め上げられた両腕を胸で交差させて深く寝入っている。まるで平沢が佐藤を護衛しているかのような光景だった。

アナスタシアはIBMを平沢の前まで移動させた。その背中に隠れながら真鍋があとをついていく。

黒い幽霊がこちらにやってくるのを平沢は視界の端で認める。

この星十字のIBMを平沢と真鍋が視認できるようになったのは、真鍋に襲いかかる佐藤のIBMに飛びついてその命を救ったときのことだった。IBMは、強い感情を向けられれば人間にも視認できるようになる。アナスタシアの二人に向けた「絶対に死なせない」という感情が、すべての光線を透過させるIBM粒子で構成された肉体を黒く浮かび上がらせたのだった。

偏平頭のIBMがアナスタシアから見て右に移動する。プールサイドの中ほどまで、プールを斜めに挟み、柱の裏側の佐藤の頭部が見える位置。

アナスタシアもIBMを移動させる。平沢も同時に横に移動し佐藤のIBMの視線を遮るような位置につく。佐藤の上半身がアナスタシアのIBMに、下半身が平沢の陰に隠れる。真鍋は佐藤とは反対側の柱の側面で敵に銃口を向けている。

佐藤のIBMの頭部が崩壊し始める。ほぼ同時に星十字型の頭頂も崩れはじめたのがわかった。

882 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:07:18.14 ID:kdA8uLchO


平沢「仕掛けてくるぞ」


平沢の発言に緊張感が高まる。

アナスタシアの視線はIBMの足元に向けられている。

佐藤のIBMが右に一歩動く。

三者はすぐに反応する。平沢と真鍋は銃口を動かし、アナスタシアはIBMの向きを敵の正面になるように動かす。

アナスタシアは敵のIBMの右手がかすかに動いたのを見てとる。


次の瞬間、真鍋が咳込む。


真鍋は喉を手で押さえて背中を丸めている。咳込みは一回だけで、いまは苦痛に喘ぎながらヒューという音を口から漏らしている。呼吸するたびに指の隙間から赤い血がこぼれ落ちていく。

アナスタシアのIBMが真鍋に手を伸ばす。手が届く前に前髪を逆立たせた頭部ががくんと仰け反り、後頭部がコンクリート柱に打ちつけられた。ズルズルと真鍋が床に沈み込む。

真鍋の額に穴が開いていた。

平沢が前進しシグを連射する。

佐藤のIBMは大きく開脚し上半身を床すれすれまで沈ませる。右手をアンダースローの要領で平沢めがけて振り出す。

親指で弾き飛ばされた銃弾が平沢の胸部に撃ち込まれる。平沢が仰向けに倒れ、右手がプールに投げ出され、持っていた拳銃がプールの底へと沈んでいく。

黒服二人が倒れ、佐藤の護衛がいなくなる。
883 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:08:49.59 ID:kdA8uLchO

佐藤のIBMは年嵩の黒服の死体を囮としてプールに投げ込む直前に、ショルダーホルスターのポーチから予備のマガジンをくすねていた。そして、飛び道具を持っていることに気づかれないようにマガジンを口腔に隠したまま戦闘を続け、不測の事態に備えていたのだった。

自走するIBMは残りの銃弾を使って佐藤を起こすことにした。親指で弾き出された銃弾が音もなく帽子をかぶった頭に飛んでいく。

星十字のIBMが佐藤に覆い被さる。背中に銃弾が埋まる感覚。

佐藤のIBMがすぐさま次の行動に移る。肘にマガジンを持った右手をのせ安定させながら前進をはじめ、銃弾を指で撃ち出しつづける。

銃弾が絶え間なく背中にあたる。

頭部の崩壊は三分の一ほどまで進行している。

突如、銃弾の飛来が途切れる。

振り向くと、佐藤のIBMの姿が消えている。壁を引っ掻く音が耳に届く。

アナスタシアはIBMをその場から動かさず、じっと待つ。壁を引っ掻く音がピタッと止む。

一発の銃声がプール室に轟いた。
884 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:10:00.77 ID:kdA8uLchO

佐藤のIBMは真鍋のシグザウエルP220を右手で握り、目覚めの引き金を引いていた。 銃弾が帽子に焦げ目をつくる。

十指の欠けた手を脇腹にそえた姿勢での佐藤の眠りはまだ守られていた。

アナスタシアのIBMが拳銃を握った敵の右手に左手首の断面をぶつけ、消失させていた。拳銃を握った右手が床に落ちる。がちゃんという金属音がいちど鳴り響く。

アナスタシアはIBMの頭部をそのまま前に突き出し、直進させる。星十字が偏平な佐藤のIBMの頭部に迫る。互いに頭部は半分ほどになっている。

黒い頭部に視界が占められるなか、アナスタシアは佐藤のIBMの?が窄まるのを目撃する。口腔内にあるものを吐き出すときのような、まさに吐き出すというときに見せる?の筋肉の運動。

星と爬虫類を形象する頭部が衝突し、IBM粒子が溶け合い、交流が為され、消失する。佐藤の記憶がアナスタシアに流れ込む。

平沢が復帰して、行動を起こせるようになる。防弾ベストを着ていても、銃弾があたったときの衝撃は身体につたわる。胸部に浸透した衝撃が軽度の肺挫傷を引き起こしていた。

自分の銃がなくなっていることに平沢へ気づいた。平沢は佐藤から押収し、離れたところに置いたリボルバーに手を伸ばす。

腕を伸ばす作業には苦痛が伴った。呼吸することにすら苦痛が入り込んでくる。

平沢の手がリボルバーに触れるまえに佐藤が目覚める。
885 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:11:38.36 ID:kdA8uLchO


佐藤「え、やっちゃったの?」


起き抜けの佐藤があたりを見渡してぼやく。

佐藤はIBMが落としていった真鍋の拳銃に素早く手を伸ばし、平沢に銃口を向けた。

引き金を引くのは、佐藤のほうが早かった。

銃弾が平沢に放たれる。

銃弾よりもはやく永井が平沢に飛びついた。


佐藤「永井君!?」


佐藤は驚きながらも即座に二連射する。そのうち一発が永井の左肩にあたる。永井が苦悶する。

壁から張り出したところに側頭部がぶつかり、平沢は気を失う。

永井はそれに気づく余裕もなく、ポーチから麻酔銃を引き抜くが、佐藤に頭部を二連射される。麻酔銃を握った右手が頭部の仰け反りにつられてくんと上がり、力なく床に落ちる。

遅れて部屋に飛び込んできた中野が佐藤めがけて麻酔銃を撃つ。

佐藤は余裕をもった動作で麻酔ダートをかわし、自分の持ち物だった麻酔銃を拾い上げると背中を丸めた姿勢のまま引き金を引いた。

中野の右脚に麻酔ダートが刺さる。

復活した永井が見たのは、水煮濡れた床、壁に投射された水面の波紋の揺らめき、光を反射する血に染まったプール、そして帽子から水滴を垂らしながら自分を見下ろす佐藤の顔だった。

永井は片膝をついて麻酔銃を佐藤に向ける。

そんな永井を佐藤はとくにおもしろくもなさそうに見つめ、言った。

886 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:12:42.50 ID:kdA8uLchO

佐藤「どのあたりが作戦だったんだ? 永井君」


永井が麻酔銃を撃つ。

佐藤は止血処置が施された左腕をあげ麻酔ダートを受けると、なめらかに滑るようなフットワークで永井の眼前まで接近する。

視界から一瞬で消え失せ、その位置を探そうと視線を変える一瞬の猶予もあたえず、佐藤は永井のふところに入り込んだ。

佐藤の右ストレートが永井の顎をとらえる。衝撃に脳が揺れる。

永井が床に倒れる。床はスプリンクラーによって濡れているので水が跳ねる音が倒れる音に混じる。

壊れたスプリンクラーから水滴が落ちた。ぽちゃんという音を立てて、プールの水面に波紋をつくった。

波紋が赤い水を揺らめかせる。

それもすぐに止む。



静寂。



プール室に立っている者は佐藤以外、誰もいなくなる。


ーー
ーー
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887 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:13:49.64 ID:kdA8uLchO


戸崎「永井、聞こえるか? 完全封鎖完了。システムも破壊した」


セキュリティ・サーバー室にひとり残った戸崎が無線に呼びかける。

サーバー室は徹底的に破壊されていて、最低限の空調や水道を保つほかにはあらゆるシステムが動作不可能な状態になっている。

戸崎はイヤホンに耳を澄ませるが、いくら待っても返答はなかった。


戸崎「ダメか……下村君と合流しよう」


戸崎は廊下を麻酔銃を構えながら進む。

動かない闇が眼の前にある。いつ闇の中に影が動くかわからない。緊張感に震えが起こる。

ジャケットのポケットが突然振動しだす。戸崎は過敏に反応するが、振動しているのは私用の携帯電話だとすぐに思い当たる。


戸崎「誰だ、こんなときに……」


戸崎は電源をオフにしようと携帯を取り出す。

画面に表示された通話先を見て、戸崎は電話に出る。


戸崎「戸崎です。いま取り込み中でして、後で……」


麻酔銃を構えた右手がゆっくりと下に下がる。

眼の前にひろがる闇はもう見えていなかった。想像上の敵も頭から消えていた。戸崎の知覚で働いてるのは聴覚だけだった。

戸崎は電話越しに声を聞いた。その声もやがて遠のいていく……


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888 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:14:49.35 ID:kdA8uLchO

佐藤が社長室に侵入する。すばやいクリアリング。安全を確認すると、佐藤は入口から来客用のスペースへと進む。


佐藤「この部屋……」


佐藤は部屋を一瞥しながら言った。


佐藤「青写真より、すこし狭いよ」


来客用のスペースに視線を向けたときから生まれた違和感を佐藤は口にした。青写真の情報から部屋の面積と立体的な空間イメージを頭の中に描いていたが、実際の社長室と比べると明らかに狭い。

佐藤はいくらか結論を出していた。こういう場合は……

佐藤は壁のモニターへと歩み寄った。


『やあ、佐藤君』


モニターが点灯し、甲斐の顔を映し出した。余裕を隠そうともしない表情。


佐藤「セーフルームだね」


佐藤は納得した表情をして、言った。


『ご足労悪いが、ここで終わりだ』

『破ることはできないよ。このセーフルームがビル内で終わりいちばん頑丈だからね』

『君がこのあと、逃げるか捕まるかは知らないが、私を殺すことはできない』


甲斐の得意げな呼びかけを聞き流しながら、佐藤は何事かを確かめるように壁を拳で叩いた。

佐藤は不意にモニターの正面に戻り、作業用ナイフと拳銃をそれぞれ手に持ちながら、掲げるようにして甲斐に見せた。


佐藤「これしか道具がないから少し時間がかかると思うけど、いいかな?」

『好きにしてくれ。コーヒーでも淹れようか?』


甲斐はブランデーの入ったグラスを持ち上げながら言った。


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889 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:15:37.73 ID:kdA8uLchO


平沢「起きろ、永井」


復活した永井が平沢の呼びかけによって意識をはっきりさせる。

起きながら状況を確認する。平沢以外の黒服は全滅していた。


永井「どれくらい寝てました!?」

平沢「おれも気を失っていたが、数分てところだろう」

永井「佐藤は?」

平沢「我々を無力化してすぐ社長室に向かったようだ」

永井「中野を起こして奴を追いましょう」


平沢が中野のこめかみを撃つ。

三人は拳銃を構えながら、社長室に向かう。


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890 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:17:27.24 ID:kdA8uLchO

アナスタシアは激しく嘔吐していた。

胃がひくつき、痙攣している。もう吐き出せるものもないのに吐気は治らず、喉に酸っぱい胃液がせり上がってくる。

アナスタシアがふたたび嘔吐する。胃液混じりの唾が唇から垂れる。泣きながら、呻きをあげる。

アナスタシアは佐藤の記憶を見た。IBM同士の頭部の衝突によって流入してきた佐藤の記憶は、フォージ安全に現れる直前のものだった。

木材破砕機で全身が五センチ四方の肉片に刻まれたときの鮮明な記憶。

流入してきた記憶は映像的なものだけではなく、視覚が捉えたカッタードラムの回転のほかに、機械の作動音、ベルトコンベアから伝わる振動といった聴覚と触覚が知覚した感覚も記憶には含まれていた。



痛みも。



足の先からはじまった痛みがどこで終わったのかは定かではないが(心臓のある胸のあたりか? それとも脳は完全に破壊されるまで知覚を保っていたのか?)、ともかく痛覚は数秒のあいだ持続していた。

それは痛みというより一個の肉体の滅亡だった。魂を容れておくための大事なからだが無意味な肉片に変容するまでの数秒間、破滅の体験。

おそろしくて、震えた。永井が“断頭”をおそれる理由をほんとうの意味で理解した。あんな死に方をしてなお、復活した自分が前の自分と同じ自分だと信じる事はとてもできないことだった。
891 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:18:46.96 ID:kdA8uLchO

だが、アナスタシアをほんとうに戦慄させたのは痛覚の追体験ではなかった。

そのときの、“転送”のときの佐藤の感情、それもいっしょに流れ込んできた、特別な感情ではなかった、アナスタシアも抱いたことがある、たとえばライブ前のステージ袖、となりにいる美波といっしょに星のような輝きの前に歩み出し、歌を歌うときの心のはたらきとまったく同じだった。



佐藤はワクワクしていた。



永井が待ち構えているのを楽しみにしていた、人を殺すのを楽しみにしていた、“転送”そのものを楽しみにしていた、“転送”のあいだ、機械が身体を砕いている最中も佐藤はずっとワクワクし続けていた。

恐怖だった。

佐藤が自分と同じ感情を持っていることが。まぎれもなく死んだのに、その感情が存続していることが。その感情の存続によって行われ、これから行われようとしていることが。

アナスタシアは、もはや佐藤を敵だと思うことができなかった。


892 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:20:05.31 ID:kdA8uLchO


アナスタシア (かいぶつ、サトウはかいぶつ、ころせないかいぶつ……)


不死身のコシチェイというスラヴ神話に登場する老いた悪人のことが頭を過る。コシチェイの命、魂は体と分かたれており、卵の中に隠された魂が宿る針(卵それ自体も幾重にも隠されている)を壊さないかぎりコシチェイは死なない。

佐藤もある意味ではコシチェイといえた。だが、佐藤は卵を別の場所に隠したりはしなかった。佐藤の頭は卵で、脳は針。卵と針といっしょに死んだ。なのに、魂も体もいっしょになってよみがえった。

亡霊のような存在が肉体を使って歩きまわっている。自分のことを亡霊だとも思わない亡霊が肉体を使って楽しみながら人間を殺しまわっている。

アナスタシアの心が完全に折れた。友達や黒服たちを殺されたことに対する怒りも、佐藤を止めるという使命感も心の中のどこにも見当たらなかった。

アナスタシアの泣き方が変わった。はじめは身体的な反応に従うように連続的にしゃくりあげる声を出していたが、今では唇から垂れる唾液のように長く尾を引く呻き声になっていた。敗北感に打ちのめされてしまっていた。

しばらくのあいだ、アナスタシアは泣き臥せっていた。挫折と絶望に頭を上から押さえつけられたかのようにジャケットの袖に顔をうずめていたので、涙滴や口から漏れる唾液が染み込んで袖はすっかりベタベタになってしまった。顔に冷たさを感じた。



そのとき、記憶が浮上した。



893 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:21:06.48 ID:kdA8uLchO

停電の暗闇のなかで白いものが混じった頭を見下ろしている光景、視線の高さや位置から主体は男の背後にぴったりくっついていて口を手で押さえている、無線機が二つデスクに置かれている、その無線機はさっきまで持っていたものだ、男に向かって無線機を使えと言う、『じゃあ、お互いがんばろう』と言いながら男の?を爪で引っ掻いく、鋭く黒い爪、指まで黒い、指が六本あることにアナスタシアが気づく……

佐藤の記憶──一体目のIBMを使用したときの。

アナスタシアが顔をあげる、顔はまだ涙で濡れている、すんすんすん、と鼻をすすって涙を止めようとする、効果はなくアナスタシアはジャケットの袖でごしごし擦る、濡れた袖で顔を擦るのは不快でしかない。

アナスタシアが考えていること、──サトウはもうIBMを出せない? そしてわたしはまだ……

しかし、その考えから行動までには発展しない。

佐藤のことがおそろしくてたまらない。精神に入り込まれ、身体が拒否反応を起こしている。

亜人には生と死の境界線はないものと思っていた。だが、あると思い知らされた。そして、佐藤は境界線など気にもとめない。

自分のも他人のも。

894 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:27:26.55 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「ムリ……アーニャには……ムリです、ケイ……」


「誰がビビるかよ」と永井は言った。アナスタシアもその言葉を繰り返した。いまはもうそんな言葉は口にできない。佐藤の中身を知ってしまったいまでは……



……ケイはどうしてあんなことを言えたんだろう、ケイだってサトウの記憶を見たのに、それだけじゃなくて精神状態も……そうだ、ケイもアーニャと同じ、同じだけどアーニャと違ってケイは戦ってる、こわくても戦ってる……
……ミナミがこわがっているなら、わたしはミナミの手を握る、でもケイはそんなことはやってほしいと思ってない、わたしもこわがってるから手を握ってもケイはいやがるだけ、ケイがやってほしいのはわたしがやると言ったことだけ、わたしはケイにサトウと戦うとたしかに言った……



アナスタシアは変装用のウィッグを頭から剥ぎ取り、カラーコンタクトも外した。コンタクトを外したとき、レンズにたまっていた涙が床に溢れた。

袖の濡れていない部分で顔を拭う。ゆっくりと呼吸する。恐怖はまだじっとりと胸の奥にある。

アナスタシアは震える足でよろめきながら立ち上がり、トイレから廊下へ出た。暗闇に包まれた廊下を見て、アナスタシアはトイレのセンサーが作動していなかったことに遅れて気づいた。

スマートフォンを取り出し、廊下を照らす。階段が見える。
895 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:28:23.04 ID:kdA8uLchO

アナスタシアは階段を上り始める。はじめは踏段を照らしながらだったが、歩幅と踏段の高さの感覚を把握したあとはスマートフォンのライトを下に向ける必要もなくなった。

一定の速さで階段を駆け上る。右の足と左の足を一定の高さまで上げ、一定の歩幅で前に出す、体勢を保つ、スピードを保つ、それだけを考える、佐藤のことは考えない、それをするのはケイに会ってから、アナスタシアは自分にそう言い聞かせる。

十一階を通過し、十二階へ。激しく息切れしている。呼吸のリズムを整える、もう一度足をあげる高さと前に出す距離を意識する。

永井にまだ戦えると伝えるためにアナスタシアは十五階へ駆け急ぐ。



後ほど、アナスタシアはこの決断を後悔することになる。



ーー
ーー
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896 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:29:28.05 ID:kdA8uLchO


『正直、感謝してるんだ、君が来てくれて』


いちど部屋から出て行った佐藤が戻ってきたのをモニターで確認した甲斐が言った。


『いま話題の亜人・佐藤がセキュリティ会社社長の暗殺に失敗……これ以上の宣伝文句があるか?』


佐藤はあいかわらず甲斐の言葉を聞き流している。モニターの前を通り過ぎると、そのすぐ横で立ち止まり、おもむろに左腕をあげた。


甲斐「ところでさっきから何をしているんだ?」


優越感と自尊心に満ちていた甲斐だったが、佐藤が一向に反応を返さないことに不満なのか、多少の機嫌を損ねながら訊いた。


甲斐「いい加減諦めてかえったらどうだ? 飽きてきたよ」


不意に乾いた音がした。甲斐が耳にしたのは外のマイクが拾った音声だった。

甲斐は椅子に坐ったままなんとなくゆっくり動き、背後を振り返った。
897 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:30:34.35 ID:kdA8uLchO

じっと眼を凝らすと、違和感が眼にはいった。セーフルームの入口、スライド式のドアがある場所、肩の高さくらいの位置、セーフルームの内部は別電源による照明によって薄暗く照らされているのだが、そこだけ暗闇の濃度が違った、まるで外との通り道ができてるいるみたいに……

何よりも頑丈なはずの壁に穴が開いていた。そこからリボルバーが現れ、そして腕が伸びる。


甲斐「ちょっと……」


佐藤は声のした方向を撃った。


佐藤「一人目」


佐藤は穴から腕を引き抜き、言った。


佐藤「女性のほうはどこかな?」


部屋から出ていくとき、佐藤はモニターを一瞥すらしなかった。

モニターには頭部を撃ち抜かれた甲斐が眼を見開き、恐怖が張り付いた表情で天井照明を見上げている姿が映し出されていた。


ーー
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898 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:31:43.03 ID:kdA8uLchO

復活した下村がはじめに眼にしたのは、自身を見下ろしている戸崎だった。

思わず、「あ……」という声が洩れる。田中との戦闘に敗れたことを嫌でも思い知る。戸崎の表情から感情がまったく読み取れないのは、失望しているからだろうか……、


戸崎「立てるか?」

下村「はい」


敗北感を飲み込みながら、下村は顔を上げた。踊り場にフォージ安全の社員や警備員たちの死体が転がっていることに下村は気づいた。彼らのものと思われるスマートフォンは念入りに破壊されていた。

下村は一瞬、戸崎の仕業かと思ったがすぐに考え直した。戸崎がここにいるということはすでにセキュリティ・サーバー室のシステムは破壊されている。その作業を済ませるまでのあいだ、警備員はともかく社員がここにとどまる理由はなかった。それに携帯電話。それをわざわざ破壊しなければならないと知っていたのは、下村が亜人だと知られたあのとき、あの場所にいた人間だけだ……


戸崎「永井達と合流するぞ」


戸崎の呼びかけに下村は思考を中断した。右手の手錠を外すため左手でつながれた方の腕を掴み、欄干に足裏をつけ思いっきり引っ張る。


899 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:32:26.55 ID:kdA8uLchO

下村「くそっ」


下村ひとりの力では手錠を外すことは叶わなかった。


下村「引き抜くの、手伝ってください」


戸崎は下村に応じて手錠につながれた手と肩を掴んだ。


下村「いきますよ」


下村がグッと力を込める。手錠が食い込み、皮膚が裂けたところから出血する。

戸崎は突然手を離した。


戸崎「鍵を探してくる」

下村「は!?」


戸崎の意味不明な行動に下村が面食らう。

戸崎は困惑する下村に背を向け、階段を下り始めた。


下村「ちょ……戸崎さん!?……戸崎さん!」


下村は追いかけるように腕を伸ばし、下階へむかう戸崎に呼びかけ続けるが、戸崎はまったく意に返さなかった。


ーー
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ーー
900 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:33:50.36 ID:kdA8uLchO

李奈緒美はあてもなく廊下を彷徨っていた。

田中の捕獲、佐藤の侵入、甲斐の逃亡、めまぐるしい事態の展開に惑わされ、そして銃撃戦が始まった。

逃げなければいけないとはわかっていたが、どこへ逃げればいいのだろうか、そもそも、逃げていいような人間なのだろうか、殺されてもしかたがない人間だと自分でも思っていたのに……

李の心中は罪悪感と恐怖がないまぜになっていて、歩む方向を定められずにいる。

李はゆっくりと重い足乗りで廊下を進む。

ふと、通路の先に人影を認める、両手を身体の前に掲げるような姿勢、その姿勢には見覚えがある。


田中「ここにいたのか」


警官の制服を着た田中が言った。やはり拳銃を持っている。

李は眼を閉じた。恐くないわけではなかったが、半分くらい彷徨い歩く時間の終わりにどこか安堵しているようだった。フッーとゆっくり息を吐いた。

足音がだんだん近づいてくる。心臓が早鐘を打っている。呼吸は意識して落ち着かせている。

李は動かず、三つに重なるの音にだけ意識を集中する。

田中が李の手首を掴み、言った。


田中「付いて来い、逃がしてやる!」

李「え!?」

田中「おれの後ろにいろ! 離れるなよ!」

901 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:35:16.79 ID:kdA8uLchO

暗闇を切り裂くように一発の銃弾が飛んできた。

田中の肩から血が飛び散り、つながれていた手が離された。


佐藤「あ! 田中君!?」


田中の顔を見た佐藤が驚く。


佐藤「ごめん、警官かと思ったよ」


佐藤は銃口を床に向けながら、田中に近づいてきた。李はおろおろしつつもしゃがみこみ、田中の肩の傷を心配そうにのぞきこんだ。佐藤の拳銃が李の動きをなぞるように動いた。

田中が銃口の動きを見て取る。

側による李の手を取って引っ張り自分の背中に隠すと、田中は中腰の姿勢になった。下村から奪った自動拳銃を手に持ち、銃口を正面に向ける。

銃口同士がまっすぐ見つめ合う。


佐藤「何をしているんだ? 田中君」


佐藤が田中に訊く。フロントサイトと効き目は直線上に結ばれている。


田中「佐藤さん……おれが暗殺リストを作ったことはわかってる……」

佐藤「どくんだ」

田中「だが、この人は違う……」


田中はいったん言葉を切った。肩の痛みは燃えるようだった。出血も激しく、銃を持つ手が安定しない。田中は右手の位置がすこし下がっていることに気づいた。しかし、元の位置に戻すことはしなかった。したくなかった。

田中は真っ直ぐ佐藤を見据えて、言った。


田中「この人を殺すのは、間違ってると思う」


佐藤は無言で田中を見据えている。銃口も視線も微動だにしない。李は怯えて震えている。田中の額を汗がつたい、息をのむ。

数秒間の沈黙……


902 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:35:57.38 ID:kdA8uLchO


佐藤「いいよ!」


佐藤はにっこり笑って田中に従った。


佐藤「じゃあ、作戦終了ってことで。ここで解散!」


佐藤は身を翻し、廊下を引き返していく。田中と李はまだ事態の推移をのみ込めず、佐藤の背中を見送るがままだった。

佐藤が思い出したように立ち止まり、振り返って田中に言った。


佐藤「私はもう少し、永井君にちょっかい出してくるから」


佐藤はそれだけ言い残して闇の奥へ消えて行った。

田中はしばらくのあいだ、佐藤が残した余韻の意図を掴みとろうとするかのようにじっと暗闇に眼を凝らしていた。


ーー
ーー
ーー

903 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:39:44.45 ID:kdA8uLchO

永井たちが社長室に進入する。三人がそれぞれ三方向をクリアリングし、佐藤の姿はないと確認する。

最初に気づいたのは、中野だった。


中野「うそだろ……」


声につられて、永井も中野と同じ方向へ視線を向けた。


中野「殺されてる」


セーフルームの内部を映すモニターには、撃ち抜かれた甲斐の頭部が映っていた。後頭部に射出口が開き、そこから溢れた血と脳漿が椅子の背もたれを汚していた。

永井が死体に視線を向けていたのは一秒にも満たなかった。

モニターのすぐ横の壁に穴があった。その穴を見た瞬間、永井は佐藤が何を行なったのかを悟った。


中野「永井、穴だ。ここから手を入れて撃ったのか?」


中野が壁に近づき、穴に眼を観察した。穴はきれいな円形を成しておらず、下方の弧が上方の孤より大きく膨らむようなかたちになっていて、右方が凹んでいる。

永井は別のところを見ている。床に倒されたキャビネット。黒服たちが銃撃戦に備えて身を隠すために用意したものだった。そのキャビネットの上向いた側面がべっとりと血塗れになっている。永井はそこで何が解体されたのか理解した。


中野「この素材に!?……なに使って開けたんだよ」


壁に手を触れた中野が驚く。素材の頑丈さと、それに佐藤が穴を開けた事実に。直後に中野は、穴の下部分が濡れていることに気づいた。それは血だった。

904 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:40:26.59 ID:kdA8uLchO


永井「だめだ、失敗だ」


中野が血の跡にぞっとする間もなく、永井が呟いた。


中野「まだ戦うんだろ? そのために完全封鎖したんじゃねーのか?」


永井の突然の諦念に戸惑いながら中野が訊いた。


永井「中野……完全封鎖はハナから、賭けなんだ。佐藤が亜人のある性質に気づいていないかもという望みにベットした、勝率の低い賭け……」


今までのように現在進行で推移している事態を中野は理解していなかったが、対応する永井の声音はそれまでと違い、静かで落ち着いていた。その落ち着きは冷静さによるものだったが、それは行き止まりに行き着いたときにみられる類のものだった。


中野「どういうことだ?」

永井「結果だけ見てみろ。この頑丈なドアに、穴を開けたんだぞ?」


永井が視線で穴を見るよううながす。中野はふたたび、壁の頑丈さとそこに穴が開けられたという事実に息を飲み込む。


永井「佐藤を長時間このビルに閉じ込めておくことなんて、不可能ってことだよ」

905 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:41:16.77 ID:kdA8uLchO


『永井君』


佐藤の声が突然降りかかってきた。

その瞬間、永井はドアのほうへ視線をやった。入口から少し離れた位置に平沢が立っていて、ドアに銃口を向けながら敵の進入を警戒している。


『これが聴こえているとしたら、君はまだ十五階にいるってことだね』


佐藤の声はスピーカー越しに聞こえてきた。すこし籠っている。


『私の作戦は終了したわけだが、君の作戦は……これじゃあダメだよ』

『おさらいをしてみよう。おそらく君の作戦は、私がビルに侵入した時点で破綻していたんじゃないか?』

『“断頭”の話をした私自身があの手段で移動してくるとは考えなかった』


十階の放送室から永井に呼びかけていた佐藤は、そこで一旦言葉を切った。そして、偽りのない実感を込めてマイクに向かって声を出した。


佐藤「あさはかだよ」


あからさまな失望が永井の耳に届く。その声音によって、永井は今もなお佐藤から“感情”を向けられていることに気づいた。

永井個人に向けられた佐藤の放送が続けられる。


『きみはいいものを持っている。なのに、いまのままじゃあもったいない』

『だから、こうしよう』



906 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:41:52.85 ID:kdA8uLchO





『きみを一度、“断頭”させてくれ』





907 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:43:01.60 ID:kdA8uLchO


『一回経験すれば踏ん切りがつくんじゃあないかな?』

『“断頭”という枷を越え、もっと自由な発想で戦えるようになるはずだ』


佐藤の声から失望の感情は無くなっている。我ながら良いことを思いついたとでも言いたげな、明るく、期待を滲ませた声で佐藤はしゃべり続ける。



佐藤「きみならできる」



佐藤は握った拳をマイクの前に掲げながら、言った。まるで眼の前に永井がいて、活躍を期待して励ましているかのようだった。


『じゃあ、いまから行くよ』


佐藤の放送が終わった。


中野「永井……」


中野の呼びかけに永井はまったく無反応だった。

永井は茫然とその場に立ち尽くし、理解を拒むかのように顔を歪めていた。全身に嫌な汗をかいていいて、シャツがじっとりと濡れている。


中野「永井!」


中野の大声に永井はやっと反応を示した。忌々しげな表情を見せていたが、それは中野に対するものではなかった。状況、状態、現状、現在……それらの言葉が意味する範囲をまるごと呪ってしまいたいと心底思っている表情をしていた。

平沢が永井に視線を向ける。
908 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:44:01.47 ID:kdA8uLchO

そのとき、社長室に誰が飛び込んできた。

全員の緊張感が瞬時に高まり、平沢は銃口を床に倒れ込んでいる銀髪に向ける。銀髪の人物は激しく息切れし頭を下げているので、銃口に気づいていない。


中野「アーニャちゃん!?」


中野がアナスタシアに気づき、入口にかけて行く。


中野「平沢さん、この子は味方だから」

平沢「協力者か」


平沢が銃口を下げる。


中野「どうしたんだよ、走ってきたのか、アーニャちゃん」

アナスタシア「ケイ……ケイはどこ……?」


アナスタシアはあたりを見回し、立ち尽くしたままでいる永井を見つけた。突然現れたアナスタシアに当惑した視線を返している。アナスタシアは中野に支えられ、なんとか身体を起こし、永井に歩み寄っていった。


アナスタシア「ケイ……」

永井「おまえ……」

アナスタシア「サトウはもう、IBMを、使えない……」


呼吸を落ち着かせることも忘れ、アナスタシアは途切れ途切れに切羽詰まった様子で話した。

もたらされた情報に永井が眼をみはらせる。

909 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:44:58.82 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「パーミチ……記憶を見ました、サトウの、記憶……IBMの頭がぶつかって、それで……」

中野「マジかよ」

アナスタシア「わたしはまだ、あと一回、IBMを出せます」


アナスタシアは永井にすがった。鼻が擦れ合うほどの距離まで近寄って、顔を上げる。顔から噴き出した汗が雫となって伝い落ちていく。アナスタシアの顔を濡らしていたのはほとんど汗だったが、そこには涙も混じっていた。

アナスタシアは永井を見上げながら言った。


アナスタシア「ケイ、おしえてください……アーニャは、どうすれば、サトウとたたかえますか?」


永井はアナスタシアを見ていなかった。その表情には先程から引き続いている苦悩が浮かんでいる。現状を計測しているがゆえの苦悩、実現しうるリスクについての苦悩、具体的な苦悩に永井は唇を噛んだ。


アナスタシア「ケイ?」


アナスタシアの呼びかけに永井は応えない。


平沢「おまえが決めろ、永井」


永井が顔を上げ、平沢を見る。


平沢「おれたちはおまえの命令に従う」


平沢の言葉につられて、永井は視線をアナスタシアと中野に向ける。
ふたりとも、無言の同意を顔に浮かべている。

十秒ほど経過し、永井は決断を下す。


ーー
ーー
ーー


910 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:45:49.57 ID:kdA8uLchO

佐藤は十一階にあるプラントルームへ足を運んだ。

理想的な植生が維持されているプラントルームの植物たちには眼もくれず、佐藤は造園用具の収納スペースのドアを開けた。



うってつけの道具があった。



佐藤「ボーナスステージスタートだ、永井君」


ーー
ーー
ーー

911 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:48:03.61 ID:kdA8uLchO

永井は中野と並んで通路の中央に立っている。二人はシグザウエル P220を握り、階段のある南北にそれぞれ視線を向けながら佐藤を待ち構えている。装弾数はマガジンに九発、薬室に一発の計十発。換えのマガジンは互いに一つずつしか残っておらず、相談の結果、中野のほうは平沢に預けている。麻酔銃に装填する麻酔ダートは二人合わせてもそれより少ない。

伏撃の場所は永井の予想を元に平沢が指定した。さきほどの黒服たちを率いた戦闘と同じロケーションだったが方角は反対の南側で、階段へ続くドアからほど近い場所だった。エレベーターからも遠くなく、サーバー室のシステム破壊による電力ダウンのため、エレベーターの使用自体は不可能だが、亜人にとっては第二の逃走経路になりえた。

平沢とアナスタシアは十字に交わる通路の左右に分かれて、永井と中野の背中を見守っている。



作戦はひどく単純だった。



永井を囮にし、中野と平沢が戦闘をサポートしつつ、隙を見てアナスタシアがIBMを発現、佐藤を拘束し、麻酔銃を撃ち込む。

万が一、佐藤がまだIBMを発現できたときのため、戦闘当初は永井と中野が受け持つことになった。IBMが使用不可だと確認されたとき、永井あるいは平沢の指示に従ってアナスタシアはIBMを発現する。
912 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:49:46.83 ID:kdA8uLchO

即興で立案した作戦を説明する段階で、アナスタシアは佐藤が永井の“断頭”を目論んでいることを初めて知った。“断頭”そのものへの恐怖、仲間が死ぬかもしれないという恐怖にアナスタシアがふたたび見舞われる。


永井「おまえが唆したんだ」


永井が恐怖に揺れるアナスタシアに向かって言う。


永井「“断頭”のリスクなら半分くらいは受け入れてやるから、絶対に佐藤を拘束しろ。それ以外のことは考えるな」


苦渋を耐える表情で、永井はアナスタシアの眼を真っ直ぐ見据えた。その眼に浮かぶ色はアナスタシアのものと同じだった。違うのは意識しているのは、自分の首だという点。

アナスタシアの懸念はもうひとつある。平沢のことだ。プール室での戦闘で死者が出たことにアナスタシアはひどく気を病んでいる。あらゆる瞬間に後悔がある。プール室のドアを開け、年嵩の黒服の頭部が砕かれるのを目撃したその瞬間から……。

佐藤を待ち構えている現在、アナスタシアはたえず平沢を意識していた。平沢が自分をどう思っているのか、未熟者だと見なしているのか、それとも仲間をみすみす死なせた役立たずだと考えているのか。


平沢「集中しろ」


視線と銃口を通路に固定したまま、平沢がアナスタシアに注意した。

息の詰まる思い。
913 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:50:57.34 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「あ、あの……」

平沢「おれたちのことなら気にしなくていい」


平沢がアナスタシアの震える声をを遮った。


平沢「金で雇われてこういうことをしている。非合法に。人を殺したこともある。一般人からしたら、佐藤とそう立場は変わらない」


平沢が視線をちらりとアナスタシアに向ける。


平沢「ロシア人とは何度か組んだことがある。優秀なやつらだ」

アナスタシア「……アーニャは、日本とのハーフです」

平沢「いいとこどりだな」


そう言って平沢は右眼をフロントサイトに合わせ直した。

アナスタシアはしばらくしてから平沢が冗談を言ったことに気づいた。平沢が自分のことをほんとうにいいとこどりだと考えてるとは思えなかったが、少なくとも自虐に意識を乱すことはなくなっていた。

アナスタシアは視線を平沢と同じ方向に向けた。
914 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:52:42.57 ID:kdA8uLchO

最初に影を見たのは中野だった。中野が永井に呼びかける。二人は銃口を影に向ける。

暗闇が下りた廊下をまっすぐこちらに向かってくる。影が近づいてくるにつれ、暗闇に慣れた眼が影の覆いを透かす。


佐藤「永井君! まだ十五階に……」


永井が喜色をたたえる佐藤に向けて発砲する。銃火が互いの輪郭を一瞬だけはっきりと見せる。佐藤は俊敏な猫のように身を低くし、真っ直ぐ向かってくる。

永井の予想通り、佐藤は草刈機を身につけていた。腕を両断できるような大ぶりの刃物を所持していない以上、佐藤は“断頭”にうってつけの道具をビル内で調達する必要がある。くわえて社長室のある十五階からそれほど離れていないことも調達の条件に含まれる。よって佐藤は十一階南のプラントルームから“断頭道具”を拝借するだろうと永井は考えていた。

草刈機の回転鋸が耳をつんざく不快な音を立てて、接近してくる。

永井と中野は音の在りかめがけて発砲を続ける。

佐藤が倒れる──あきらかに罠──永井と中野はあえて接近する。発砲音、銃弾が永井の足首を砕く、中野が反射的に引き金を引く、佐藤の右耳の下半分が千切れるが草刈機で中野の右前腕部の内側を切りつける、佐藤は立ち上がり作業用ナイフを中野の腹部に突き刺す、永井は佐藤が拳銃だけでなく防弾ベストも黒服から奪ったことを見て取る……次の瞬間、永井の右肘と膝に銃弾が撃ち込まれる。

平沢が中野越しに佐藤を狙撃する。中野は後頭部を撃ち抜かれ即死、佐藤に凭れかかってゆく。佐藤は草刈機のシャフトを掴み自分の方へ引き寄せると、自分と中野の隙間に回転鋸を入れた。復活した中野の腹を草刈機が引き裂いた。

腹から溢れる内臓にかからないように中野を蹴り払うと、佐藤は永井に接近する。平沢からの銃撃に見舞われるが、防弾ベストと急所を庇う低い姿勢のためか佐藤の前進はとまらない。

平沢の銃が弾切れになる。

草刈機の回転鋸が永井の首の後ろに当てられる。
915 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:55:53.29 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「ケ、ケイが……!」

平沢「まだだ」


弾倉交換を行いながら、平沢がアナスタシアを諌める。

首の後ろの皮膚から血が飛び散った瞬間、永井の背中から飛び出してきた二発の銃弾が佐藤の首と左肩をとらえた。佐藤は壁に背中をぶつけ、そのままずり落ちていく。

永井は痛みを頼りに佐藤の位置を捕捉し、自分の方へ越しの銃撃とリセットを同時に成功させた。

復活した永井は上体を起こし、片膝を立て銃口を佐藤に向ける。シャフトを持った佐藤が草刈機を操り、拳銃を握る永井の手を回転鋸で襲う。シャフトを持つ佐藤の右手首を中野が撃った。中野はもういちど引き金を引こうとするが、そこで命が限界をむかえる。


永井「いまだ!」


永井はアナスタシアに向かって叫び、それから佐藤の両膝に銃弾を撃ち込んだ。拳銃が弾切れを起こす。IBMが接近する足音を耳にしながら永井はすばやく弾倉交換を行い、銃口をふたたび佐藤に向ける。



永井は佐藤の顔を見た。



蜘蛛の濡れた足のようなものがうなじを走り、一瞬、髪の毛が逆立った。



永井は佐藤の“表情”を見た。



初めて見る“表情”だったが、その“表情”のことは話に聞いていた──「彼の“表情を初めて見た」──顔も名前も知らない老人の声が頭の中で響き渡った。

佐藤は永井にむかってにっこり笑いかけた。とてもうれしそうだった。
916 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:56:56.52 ID:kdA8uLchO


佐藤「プレイボール」


佐藤は無事な左手で草刈機のシャフトを掴んだ。永井が佐藤の左手を連射する。左手の動きは銃撃を喰らっても止まらない。拳銃が弾切れになる。永井が銃火で眩んだ眼を凝らし、佐藤を見つめる。

回転鋸が佐藤の喉の半分まで差し込まれている。鋸は骨にあたり、かっかっかっという音を立てている。

永井は復活したばかりの中野に駆け寄り、腕を取って乱暴に身体を起こした。


永井「逃げるぞ!」

中野「はあ!? 待てよ、まだ佐藤を……」

永井「もたもたすんじゃねえ!」


永井は星十字のIBMの腕をまるでアナスタシア本人であるかのように掴むと、十字路のところにいる平沢とアナスタシアに向かって逃げるように叫ぼうと口を開いた。


『は、は、は』


笑い声がした。


『は、は、は』


別のところからまた笑い声がした。


『は、は、は』『は、は、は』
『は、は、は』


今度は三箇所から同時に笑い声。

917 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:59:19.99 ID:kdA8uLchO


『は、は、は』『は、は、は』『は、は、は』
『は、は、は』 『は、は、は』『は、は、は』『は、は、は』 『は、は、は』
『は、は、は』 『は、は、は』『は、は、は』
『は、は、は』
『は、は、は』 『は、は、は』『は、は、は』


笑い声は永井たちの周囲から発せられている。

笑い声はどれも同じ声だった。

佐藤と同じ声が囲むように永井たちに浴びせられている。

佐藤のIBMが通路のあちこちに立っている──フラッド現象。


佐藤「永井君」


背後から呼びかけられた。永井は振り返るだけで精一杯だった。胃が凍りつき、喉がひどく渇いている。

佐藤は通路の真ん中にいた。さっきと同じ“表情”をして、恐怖に固まっている永井に笑いかけている。


佐藤「さあ、もうワンラウンドだ」


佐藤は永井にむかって言った。


ーー
ーー
ーー



918 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 23:14:19.42 ID:kdA8uLchO
今日はここまで。

佐藤のフラッド発現はけっこう最初の段階から考えていて、佐藤がはじめて亜人になったときにフラッドが起きたという二次創作のほうも考えていたんですが、『タクシードライバー』『ローリング・サンダー』『ソルジャー・ボーイ』といったベトナム帰還兵ものを参考にプロットを考えていたら、原作の方で佐藤の過去が描かれちゃったんでやめちゃいました。

時間があれば改めて書くかもしれませんが、とりあえずこのSSでは最初にフラッドを起こしたってことで了承してもらえば幸いです。

あと余談ですが、『亜人』がハリウッドリメイクされたら妄想しているんですが、佐藤はトム・クルーズがいいですね。

トム・クルーズ、アクション面では言うことなしだし、実年齢も劇中の佐藤と同じくらいだし、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でLive Die Repeatする役を演じてるし(これはループものですが)、なにより笑顔がステキだしでマジでハマり役だと思います。
トム・クルーズの「君ならできる」が聴いてみてえ。

ラブライカの二人とも吐かせちゃってごめんなさい。マジでこれは想定外でした。
919 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/05/08(水) 01:16:24.30 ID:fqQjd7qK0
乙おつ
そういえば結構前からやってるんだなこれ
920 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/08(土) 15:00:06.93 ID:LhxyyD+T0
洋画リメイクなら佐藤役はあえての浅野忠信でもいけるんじゃないかと思う
佐藤にもアジア人の血入ってるし、調べて知ったけど本名が佐藤忠信だったし
921 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/08(土) 15:01:26.48 ID:LhxyyD+T0
13巻といい今回の14巻といい対亜人特選群かっこよすぎません?
922 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/07/04(木) 22:11:02.79 ID:ftj14UQ5O
ここのところ忙しく次の更新は今月末くらいになりそうとだけご報告。

本編の更新は次回分で一旦止め、余ったレスはおまけで埋めていこうかと考えています。

次スレは書き溜めがある程度できたら立てるつもりです。


P.S.
亜人最新話、佐藤さんが勝手に閉会式を始めてて笑いました。首相の開会の挨拶は邪魔してたのになあ。はた迷惑な人だわ。
923 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:56:31.30 ID:TPJ777ywO

誰よりも早く動いたのは平沢だった。それは動作を開始した時点という点でも、動作そのものの素早さという点でも、その両方の意味において、永井に微笑みを与えている佐藤や笑い声を廊下中に響き渡らせている平べったい頭の黒い幽霊たちよりも素早く迅速に行動を始め、気づいたときには終わっていた。

平沢は拳銃を麻酔銃に持ち替えると、永井だけしか見ていない佐藤めがけて麻酔ダートを撃った。

麻酔薬の詰まった矢が水平に真っ直ぐ飛ぶ。帽子の男から溢れ出た黒い幽霊たちは矢にまったく無関心で、視線を投げることも見送ることすらしなかった。


佐藤「あ、しまった」


胸に刺さったダートを見下ろしながら、佐藤が言った。


佐藤「油断しちゃった」


まるで全身を支えている骨がとつぜんすべて無くなってしまったかのように両足がくにゃりと曲がり佐藤は崩折れていった。平沢は佐藤が床に倒れるまでの間にナイフを握った左手が右の手首に伸びていく様子を目撃した。そのことに気づいていたのは平沢だけだった。

フラッドによって発生した幽霊たちは倒れる佐藤に眼もくれず、永井の首にじっと視線(もちろん眼球など有していないが、その先細る矢じりのような頭部の先端すべて)を送っていた。幽霊たちの視線はとある実現の可能性が濃厚な予感がを永井に与え、その予感によるひりつく恐怖が首輪のように喉を締め付け、永井をその場に拘束させたかのように動けなくしていた。

そのようなとてつもない恐怖をあたえているIBMたちだったがそれらにぜんぜん悪意はなく、ただたんに自らが発生した原因、存在理由の根本にいっさいの疑義を持つことのないままそれを遂行しようとする。

それら──十二体のIBMたちは永井を断頭するために発生した存在だった。
924 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:58:04.76 ID:TPJ777ywO

永井のすぐ右側にいるIBMが腕を振り上げた。その手と鋭く尖った爪はあまりに黒かったため、明かりのない通路の中でもその動きをはっきりと見てとれた。


中野「永井!」


中野が咄嗟に永井に飛びつく。

突き飛ばされ、永井は床に転がった。ふと首の後ろに痛みをおぼえ、血が背中へと流れていくのを感じる。シャツの襟から肩甲骨のあたりにかけて一筋の赤い染みができていた。

正気に戻った永井が起き上がって走り出そうとする。だが幽霊たちの挙動はあまりに素早く、あっという間に永井たちに追いついた。


平沢「IBMで援護しろ」


すかさず平沢がアナスタシアにむかって叫んだ。アナスタシアはびくりと震えたあと、ぎこちない動作で首を回し、平沢を見た。そこには平沢にとって見慣れた顔があった。戦場で何度も見てきた顔だった。あちこちを飛び交う銃弾、ひゅんひゅん飛んきてで空気を切り裂くそれらのうちの一発がこの世との最後の邂逅になるだろうと悟ったときの顔。アナスタシアの顔はもっと悪い。あちこちにいるのは黒い幽霊たちだったからだ。

平沢はアナスタシアの肩をひっ掴み、鋭い調子で叱咤した。


平沢「助けなければ死ぬぞ」


突き抜ける声の響きによって、アナスタシアが意志を取り戻す。
925 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:59:16.36 ID:TPJ777ywO

前を向くと、永井のIBMが集団の先頭に立つフラッドのIBMに向かっていきり立っている様子が眼に入った。永井のIBMが腕を振りかぶり、平らな頭部めかげて軽く開いた右手を打ち下ろそうとする。フラッドのIBMは瞬時に体勢を低くし、眼の前の相手の腰に肩からぶつかっていった。勢いそのまま、左腕で腿を抱えたフラッドのIBMは同時に右手を四十五度の角度で突き上げていた。掌底が頭部に衝突し、永井のIBMはあっけなく敗北した。

永井と中野が背後にかまわず走り続けている。背後から迫ってくる、墓掘人が迫ってくる、追いつかれたら墓を掘られる、墓掘人は手で墓を掘る、土のかわりに肉を掘る、横たわる肉体を墓のように掘る、背中の肉を掻き分ける、背骨を掴む、頭を丸ごと引っこ抜く、追いかけてくるのはそういうやつら、走ってくる、壁を這ってくる、天井をつたって追いかけてくる。やつらの関心はたったひとり。そしてそれは幸運なこと。

黒い星十字が一直線に駆け抜け、笑い声を渦巻かせている群体から飛び出してくる。

アナスタシアのIBMは先頭を走る断頭をしたいだけのIBMを追い抜き、追いつかれそうになっていた永井と中野の背中を掴んだ。一歩踏み込むと同時に腕を引いて二人を引き倒したかと思うと、次の瞬間にはアナスタシアのIBMは二人をぶん投げていた。

宙を舞い、禿頭と銀髪の頭上を永井と中野が飛び越えていく。星十字はそれを見守ることなく瞬時に踵を返すと、先頭を走るフラッドのIBMに意趣返しの右ストレートを突き放った。首のない幽霊と星十字が黒い氾濫に飲み込まれてった。

階段へと続くドアのところまで転がる二人をアナスタシアが追いかける。痛みを堪えうずくまる二人のシャツの襟や腕を掴んで引っ張りながら、アナスタシアは慌ただしく叫んだ。


アナスタシア「立って立って立って!」

永井「うるせぇ……」


身体を起こしながら、永井は小さな声で悪態をついた。

平沢が三人に合流する。手には通路に備え付けてあった消火器を持っている。

消火器を見た途端、永井は平沢の意図に気づいた。

926 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:00:32.28 ID:TPJ777ywO

平沢「IBMをありったけ発現しろ!」

永井「行け行け行け!」


中野とアナスタシアを追いやるように階段へと促し、永井は振り返って平沢の様子を見た。


永井「平沢さん!」


平沢は通路に置いた消火器を後退しながら撃ち抜いた。

白い噴煙が通路のあちこちにふりかかるのと同時に永井はあたう限りの黒い粒子を放出する。噴煙と粒子はそれぞれの層を作り、白黒を完全に色分けされた流動がもうひとつの氾濫となってフラッドのIBMたちに迫っていく。黒い粒子がかたちを作り始める。頭、胴体、手足が形成され、霧の中に潜んでいた怪物が獲物を求めるときのような叫びが消化剤の煙幕から鋭い反響をともなって轟わたる。複数のIBMが噴煙から飛び出し、永井の断頭を目論む集団と衝突する。


平沢「永井、もういい。退け!」


七体目のIBMを発現したところで、平沢が永井に向かって叫んだ。

縺れ合う絶叫と笑い声。黒い幽霊たちが身体を捻じ曲げながら白煙をかき混ぜ、狭い通路で殺し合いを演じている。マニエリスム的な通路の状況に背を向け、永井は階段へと遁走する。


アナスタシア「ケイ、急いで!」

中野「永井、早く!」

永井「先に行ってろ!」


手摺から身を乗り出す二人にいらだちながら永井が叫び返した。

踊り場まで駆け上がり平沢に追いついたとこで、先行していた二人は身体を反転させ階段を上った。
927 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:02:01.26 ID:TPJ777ywO
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928 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:02:49.35 ID:TPJ777ywO

十五階の踊り場のドアが吹っ飛んだ。ひとつに纏まった黒い塊も同時に飛び出してきた。強い圧力によって変形したドアは壁にぶち当たり、うるさく音を立てながら階段を転がり落ちていく。黒い塊の上半分がテープを剥がしたときのように起き上がり、その扁平なかたちの頭部を永井のいる踊り場に向けた。



『は、は、は』


永井を睨めあげながらIBMが笑う。

ずるりと起き上がり、一足飛びで永井のもとまで跳んでいこうとするフラッドのIBM。真横から現れたアナスタシアのIBMが飛びついてそれを食い止める。足が床から離れた瞬間に肩からぶつかり手摺まで追いやる。二体のIBMが手摺の隙間から落下していく。永井は十六階と十七階のあいだの踊り場で平沢たちに追いついた。中野が持っている消火器の暗い赤色が眼に入った。階段を駆け上がる途中、壁を引っ掻く音が下階から聴こえ、思わず顔を左に向けた。何かの残像が一瞬だけ視界を通過したかと思うと、引っ掻き音が右側から近づいてきていた。脳裏に大振りのナイフを振りかぶる佐藤のイメージが蘇り、永井は反射的に右腕を振り上げ、首を守った。次の瞬間、壁から跳躍したIBMが永井の腕と首の皮膚を噛み千切った。

腕を吐き捨てたIBMは筈にした左手を喉に食らわせ、永井を壁に押し付けた。IBMが手に力を込める。首の骨が折れ、脳の重みによって右に傾いた永井の頭にIBMが右腕をのばす。

階段から跳躍した中野がIBMの頭部に身体ごとぶつかった。永井の頭部を掴む寸前に黒い右腕に自分の腕を回し、中野はIBMの身体を支柱のようにして宙で右側へと回った。遠心力によってIBMがすこし右に傾いた。一拍遅れてアナスタシアが階段を駆け下り、腕を開いて肩から膝にタックルする。痛んだのはむしろアナスタシアの肩の方でIBMはビクともしなかったが、さすがに纏わりつく二人をわずらわしく思ったのかIBMは首の折れた永井を投げ捨て、対処することにした。消火器が階段を転がり落ちてきた。
929 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:03:55.69 ID:TPJ777ywO

IBMは左手をピースにし、自身の首と右腕をがっちり固めている中野の両眼を突いた。中野は熱によく似た痛みに叫び、眼を両手で覆った。指の隙間から血が涙のように流れ、溢れ出た。IBMは左膝を両腕で抱きしめ、押し倒そうと踏ん張っているアナスタシアのスラックスから露出した左のアキレス腱に右の拳を打ち下ろした。足関節が丸ごと潰され、血と骨のかけらが床に飛び散った。

復活した永井の耳に中野の絶叫とアナスタシアの悲痛な泣き声が届く。IBMと視線がかち合う。IBMがアナスタシアを跨ぎ越えて、階段のすぐ前にいる永井に近寄ってくる。永井は後ずさろうと身体を起こす。一番下の踏段で転がるのをやめた消火器が右肘がぶつかる。そのとき、右腕がまだ再生していないことにに気づく。永井は咄嗟に消火器を掴み、唯一の策を実行しようとするが操作に手間取って消火器のピンを抜けないでいた。


平沢「永井!」


声に反応した永井が消火器を平沢の方へ投げる。みっともない動作で叩きつけられるように投げられた消火器は弧を描くこともできずに床を転がっていった。

視線を床に戻したとき、黒い幽霊の足がすぐ眼の前にあった。その左足首に白く細い指がからみついていて、後方の闇には血が描いた赤い線が浮かび上がっていた。それはIBMの足首にすがりついていたアナスタシアが引き摺られるがままにされたことによって床に描かれた線だった。砕かれた足関節が床に擦れると、アナスタシアは激痛に苛まれ、みじめに泣き叫んだが手を離すことはしなかった。永井とアナスタシアの視線がかち合った。

IBMはアナスタシアのことなどまったく気にもとめず永井を見下ろしている。IBMは今度こそ断頭を成功させるため、永井の首に手を伸ばした。永井はその手から逃れるように身体を前に出し、IBMに迫った。親指の爪が右耳を裂いたが永井は再生途中の右腕を上げて、偏平な形をした頭部に向けて突き出した。黒い粒子は螺旋を描きながら腕を形成していく。分解作用をもった粒子の運動がIBMの頭部を襲う寸前、平沢が消火器のノズルをIBMへと向ける。消化剤がまっすぐに噴射され、IBMを眩ませる。永井が白い靄が隠しているその箇所めがけて腕を突っ込む。
930 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:05:12.11 ID:TPJ777ywO

永井の視界が突然暗くなる。左側頭部に衝撃が走り意識が一瞬途切れ、続いて圧迫感と痛みに襲われる。IBMの右手が永井の頭部を掴んでいた。IBMが力を込めると、するどく尖った爪が額を突き破り、頭蓋骨に食い込んだ。IBMが左手で永井の喉を掴む。


アナスタシア「ニェーニェー!」


アナスタシアがロシア語で悲鳴をあげる。

中野が悲鳴のした方向に顔を向ける。ちょうど突然視界を奪われたことと痛みによるショックから立ち直り、ポーチの拳銃を手探りで見つけたところだった。


中野「アーニャちゃん、どこ!?」


アナスタシアがはっとする。痛みに叫ぶ永井の声がすぐ上から聞こえてくる。


アナスタシア「まっすぐ、そのまま!」

平沢「体勢を低くしろ!」


平沢の声はどこかくぐもっている感じがした。

言われた通りの位置に向かって、言われた通りの姿勢を保ちながら中野が走った。

喉を掴むIBMの手が永井の頚動脈を突き破った。浮きあげられた永井を見上げるアナスタシアの青い眼に血が降りかかってきた。まさにその瞬間、中野がIBMにぶつかった。膝がくの字に折れ曲り、IBMは倒されるのをふせぐため右脚を前に出した。咄嗟の行動の勢いがあまってIBMの右手が永井の額を引きちぎった。平沢はその瞬間を見逃さなかった。永井の頭部を一発で撃ち抜くと、復活までの時間を稼ぐために消火器を投擲しつづけて撃った。
931 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:06:08.01 ID:TPJ777ywO

IBMと三人の姿が白さに隠される。平沢は深く息を吸い腹筋に力を込めると一気に立ち上がり、煙幕が漂う空間に歩を進めた。

煙の中から何者かの身体が倒れるように躍り出てきた。暗闇のせいでその姿ははっきりせずただの黒い塊に見える。そのシルエットから判断できる唯一のことは首から上がないことだった。平沢が拳銃を構えながら黒い身体ににじり寄る。そして黒さの理由が暗闇のせいではなく、身体そのものにあることに気づく。

平沢は銃口を煙幕の方へ向け、無造作に連射した。それから平沢は煙を手でかき、階段の前に漂う白さを晴らしていった。

三人は折り重なって床に倒れていた。三人とも見事に撃ち抜かれ、それぞれ負傷した箇所もすっかり修復されている。いちばん上にいるのが永井で、アナスタシアがいちばん下で下敷きになっている。


永井「つかれた」


永井がぼそっと、ベットに倒れ込んだときのように呟いた。


アナスタシア「重い……です!」

中野「のけよ、永井!」

永井「腕、まだ治ってないんだけど」


永井はそう言ったがそれはIBM同士の衝突が印象に残っているためだった。自身の右腕が再生していることに気がつくと永井は起き上がった。左手で中野の背を押してグッと身体を起こしたので、いちばん下にいるアナスタシアの背中がつぶされ、カエルみたいなうめき声を出した。
932 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:07:17.36 ID:TPJ777ywO

平沢「五分が過ぎた。おそらくフラッドは収束した」


立ち上がった永井の顔を見つめながら、平沢が言った。


永井「たぶん佐藤は復活してる。グズグズしてられません」


そう言うと永井は視線を中野とアナスタシアに向けた。ちょうど中野がアナスタシアの手を取って身体を起こすのを手伝っているところだった。


永井「もたもたすんな」


永井はさっとを背を向け階段を上っていった。


中野「マジかー……」


疲労感が残っているような声を中野が洩らした。アナスタシアも同調してささやかにうめき声を発した。


ーー
ーー
ーー

933 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:21:53.21 ID:TPJ777ywO

屋上までは問題なくたどり着いた。いつのまにか永井を追い抜いて先頭を走っていた中野がドアを手で押した。


中野「閉まってるぜ!」


中野はずっと握っていた拳銃をドアに向け、二回撃った。銃弾はドアにわずかな凹みをつけ、跳ね返って暗闇を飛んだ。跳弾した弾のうちの一発がアナスタシアにあたった。アナスタシアは踊り場まで転げ落ち、あらぬ方向に四肢を捻じ曲げてしばらくのあいだ死んでいた。永井も中野も理解の追いつかない眼で踊り場の死体を眺めていると、頭がばっと跳ね上がった。

復活したアナスタシアがさすがに憤懣やるかたないといったふうに叫ぶ。


アナスタシア「どうしてですか!?」

永井「おまえ、下で見張ってろ!」

中野「だな!」

永井「早く上がってこい!」


永井がアナスタシアにむかって叫んだ。ドアの前までやってくると、永井が電子ロックの上下十センチ程のところを指し示しながら言った。


永井「ココとココに穴を開ける。設計図で見た限りそれで開くはずだ」

アナスタシア「でも、どうやって?」

永井「僕の両腕を切り落とす」

934 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:22:38.27 ID:TPJ777ywO

アナスタシアは驚愕のあまりわずかなうめき声すら出せなかった。そのせいか背後で平沢がナイフを抜いた際、ナイロン製のケースと擦れる静かな音がいやに耳を衝いた。平沢はドアの前まで来ると永井が指し示した箇所をナイフで引っ掻き、バツを描いて目印を作った。


永井「佐藤がどうやってあの穴を開けたか……」


言いながら、永井は平沢と入れ替わるように階段の方へ戻っていった。数段下りると振り向いてしゃがみこみ、右腕を一番上の踏段に置いた。


永井「まず、奴は自分の腕を切り落とした。手持ちの道具ではそれなりに時間がかかっただろう。次にその腕を復活時、回収できる範囲外に捨てる。過去のデータから見て五〜十メートルで圏外だろう。そして社長室に戻り、自殺。新しい腕が作られる。が、そこで傷口をドアに押し当てた。こうすると腕を作り出さなければならない空間に障害物ができるわけだ。亜人はどんな状況だろうと肉体をフラットに戻す。再生の障害となる物体があれば、それを分解し始める。そうやって穴を開けた」

アナスタシア「物体を、分解……?」

永井「特別なことじゃない。おまえや中野の肉体でも何度も起きてることだ」


印をつけ終わった平沢がアナスタシアにナイフを手渡した。

永井はナイフを見つめるアナスタシアを見上げながら話を続けた。

935 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:23:25.15 ID:TPJ777ywO

永井「撃たれて復活したら体内の弾丸は無くなってるだろ? 同じ理屈だ。それに消すわけじゃない。たとえば肝臓が作り出すアルコール分解酵素。これはけっして体内に入ったアルコールを消すのではなく、アルコールと反応して人体に無害に物質に変化させるだけだ。おそらく似たようなことが起きてるんじゃないか? 亜人は再生の際、障害となる物体を分解するための未知の物質を……作り出してる」


永井の話が終わっても、アナスタシアはナイフを持ったまま棒立ちになっていた。ナイフを持たされた意図を理解しておらず、あきらかに戸惑っている。

しびれを切らした永井が「腕に当てるんだよ」とアナスタシアを叱り飛ばした。

アナスタシアはまだ多少の戸惑いを残したまま、おろおろと膝を折り、ためらいがちにナイフの刃を永井の腕に当てた。


永井「ちゃんと両手で握ってろ」


アナスタシアの様子を見た永井がきつい調子で言葉を発した。


平沢「いくぞ、いいか永井」

永井「よくはないですよ」


永井は忌々しさを表情に表しながら言った。

平沢が足を踏み下ろした。

アナスタシアの両手に衝撃と生々しい切断の感触が伝わった。


ーー
ーー
ーー
936 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:26:36.46 ID:TPJ777ywO

ビルの屋上は風が激しく吹いていた。風は冷たく、皮膚に震えを催させ、吹き上げられた髪が乱れ舞い、風音がうるさく、耳の奥が痛くなるほどだった。新鮮な空気が身体に染み渡るが、あまりに透き通っているからか、呼吸には適さない。鼻の奥がツンと痛くなった。

ごうごうと鼓膜を突き刺してくるかのように吹き荒れる風は、しかし、どこか虚しさと寂しさを感じさせた。風は身体全体にぶつかってきたが、どこか届かないところから鳴っている声みたいに思えてならない。

アナスタシアはふと行き止まりに辿り着いてしまったときのような、物哀しい、感傷的な気持ちに襲われた。家出した子どもが何日も飲み食いせず、腹を空かせたまま、ぼんやりとした記憶を頼りに自由になれる場所を目指し、歩き疲れても足を前に出してようやく辿り着いた場所が、果てしなく広がる海だったときのような……。目指すべきものは自由なのか。自由とは状態であり、地点ではない。求めるべきものは出口であって、出口は自由と異なり固定的な一点に過ぎない。

ビルの屋上は空中に固定されていて、足場を担保する四辺の向こうには無辺の空間が拡がっている。この真っ暗闇が出口なのか、ここから先、重力に従って、望ましい状態はやってくるのか。紫色の雲は空全体を埋め尽くしていて、明るい期待はいっさいなしだと視界の上端に雲を映しているアナスタシアに告げているようだった。

発達した低気圧の洗礼を浴びた中野がぶるっと身を震わせた。 中野は手のひらで腕をこすり、鳥肌のたった肌をすこしでも温めようとした。摩擦で生まれたぬくもりはすぐに冷えた。中野はあたためるのをあきらめ、容赦なく吹こんでくる風に眼をしばたたせながら振り返り平沢を見た。


中野「で、どうするんだ!?」


中野は平沢に訊く。


平沢「逃げるぞ」


まるで曲がり角にきたことを指示するように、平沢はあっさりと言ってのけた。

937 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:27:24.36 ID:TPJ777ywO

中野「え、でもよ……」


激しく吹き荒れるビル風にかき消されるまでもなく、中野の言葉はそこで途切れた。中野はなにかを探すように視線を彷徨わせた。見えたのは不愛想なコンクリートの屋上の床ばかりだった。風に揺れ動くものは何もなく、階段を駆け上がってきたせいで火照って汗をかいた身体ももうすっかり冷え込んでしまっていた。


平沢「中野、作戦は失敗した。戦うにしても一度態勢を立て直す必要がある」


落ち着いた諭すような口振りで平沢は中野を言い含めようとした。それは中野自身うすうす感じていたことだった。永井は屋上に来てから一言もしゃべらない。アナスタシアも不安そうに身を縮こまらせている。強い横風が屋上に吹き付けてきた。平沢も強風に煽られたが翻るのは服だけで、大木のようにどっしり構え風の冷たさにも平気そうに見えた。

息継ぎをするかのように風が一時やんだ。中野が俯いている。空気が沈黙しているあいだに平沢は中野にむかって静かな声で言い聞かせた。


平沢「やつに勝つためだ」

中野「くそ……」


アナスタシアも悔しさに俯いた。敗北したのはもはや確定事項だと理解せざるをえなかった。あれだけの犠牲を払って、なにひとつ状況を良くすることができなかった。眼がじわりと熱くなり、アナスタシアはとっさに顔を空に向けた。厚ぼったい紫色の雲が巨大な塊になって風に流れていっている。星々はまったく見えない。星々は雲の上、空の上、宇宙のなかで、地上の出来事とまったく関わりなく輝いている。そんな予感をおぼえたアナスタシアの心にぽっかりとした無情感が生まれた。美しいもの、平和なもの、輝けるもの、そのようなすべての喜ばしいものは物理的な条件に左右されることなく存在するが、観察は可能でも所有したり属したりすることはできない。虚無的な考えの去来にアナスタシアは打ちのめされた。

永井は風の流動を見えているかのような透明な視線で他の三人を視野に収めていた。中野が屋上の縁に近づき、アナスタシアの身体の重心が中野の移動につられて傾くのが永井には見えた。

938 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:28:34.00 ID:TPJ777ywO

中野「うお!」


下を覗き込んだ中野が叫んだ。後をついてきていたアナスタシアもおそるおそる顔を出す。それまで意識の外にあった地上や周囲のビルの窓から洩れる明かりが色とりどりに輝いているのが眼に入ってきた。地上に埋め込まれた光を見ていると、風のせいではない悪寒が背筋を走り抜けた。


平沢「はやく飛び降りろ」


地上を見下ろし呆然としている二人の背中に平沢が声をかけた。平沢は拳銃を握り、屋上への入口を見張っている。


アナスタシア「ヴイソーキー……」

中野「うん。慣れたと思ったけどこれは高すぎだな……」


アナスタシアのつぶやきに中野が共感を示した。中野は今までの経験から落下中の体感と落ちた後の血の広がりを想像してぞっとした。そしてふと平沢のことに思いあたり、振り返って訊いた。


中野「平沢さんはどうやって逃げるんだ?」


平沢は視線を中野に返してから応えた。


平沢「向こうに窓清掃用のリフトがある。それでだ」


永井はさっきと変わらぬ位置から三人の様子を透明な感情で見ていた。風が息を吹き返したかのように屋上を駆け抜けていった。前髪が一斉に風になびき、視界がいっそう開けた気がする。平沢のジャケットの前の裾が手を使って三角形に折り曲げたかのように持ち上がってその裏地が見えた。ジャケットの裾が元に戻った。永井はようやく気づきかけていたことに気づいた。

ふたたび風が、猛烈な殴りつけるような勢いで吹きつけてきた。中野の身体がぐらっと後方の闇に向かって揺れ、そのまま帰ってこなかった。
939 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:29:26.78 ID:TPJ777ywO

中野「あっ」

アナスタシア「アッ」


あまりにもあっけなく落下していったので、アナスタシアは宙を掻く手を掴むことも思わず悲痛な声で名前も呼ぶこともできず、中野と同じ小声で驚くことくらいしかできなかった。「ああぁ、ぁ」という悲鳴が真っ暗闇から耳に届いたが、すぐにか細くなって消えてしまった。


平沢「まったく、あいつは」


平沢が呆れ声を洩らす。怒っているような感じはまったくない。表情こそ微笑んでいなかったが、声の調子は微笑んでいる。そんな感じのつぶやきだった。


平沢「おまえら、早く行け」


残った二人に向かって平沢が言った。もう声に微笑むようなかすかなやわらかさはなく、命令めいた厳格さがあった。


永井「先に行け、アナスタシア」


永井に話しかけられ、アナスタシアは平沢のほうに向けていた顔を永井に移した。はじめて見る顔だった。何かの予感、不吉で受け入れがたい予感が確信に変わったのに、それを隠しているかのような透き通った何物も見つめていない眼を永井はアナスタシアに向けていた。アナスタシアは永井から見られている気がせず、むしろほんとうに永井のことを見ているのか不確かになる気持ちにさせられた。


永井「僕は平沢さんを、どこで拾うか話してから行く」


永井の声は平沢とはちがい、すこしも急かすような調子は感じられずフラットそのものだった。そのことがアナスタシアの背中を押した。自然とそうすべきだと思えた。永井が平沢と話す時間をつくるべきだといういたわりにも似た感情が起こり、作戦の失敗のために逃げるという事実も一瞬忘れてしまった。

とはいえ、恐怖は感じた。屋上の縁に立ち、前に倒れこむか、それとも足から落ちていくか逡巡したが、意を決して瞼を閉じ、失神することを願いながら川に飛び込むように足から落ちていった。


平沢「おれのことは待たなくていい」


アナスタシアを見送るように下を眺めている永井の背中に向けて、平沢が言った。


永井「平沢さん」


永井は顔を上げ、虚空にひろがる闇から平沢へと視線を戻し、鋭く言った。
940 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:30:23.95 ID:TPJ777ywO

永井「清掃用のリフトなんか無い」


永井は平沢の顔から上着へと視線を下げた。おもむろなゆっくりとした視線の移動は平沢にそのことを告げるためのようだった。永井は上着のある部分を見つめながら、こんどは静かな声で言った。


永井「あと、なんで上着のボタンを留めてるんです?」


二人はわずかなあいだ、共に押し黙った。向き合う二人のあいだを相変わらず風が流れていたが、いまはゆるやかだった。次に出てくる言葉をたがいに承知しているときの沈黙が風に移し込まれているようだった。


平沢「ああ。くらった」


そう言ったとき、ジャケットの裾を伝って血が一滴、滴り落ちた。


永井「あのときですね」


永井はプール室での銃撃を回想しながら言った。


平沢「防弾ベストの隙間からな」


まるで他人事をつぶやくかのように平沢が付け加える。


平沢「当たりどころも悪かった。大勢見てきたからよくわかる」


そう言うと平沢はふっーと静かに息を吐き、永井の顔を見つめた。悟ったような表情をしている。大勢見てきたもののほとんどをその場に残してきたことを平沢は吐息とともに思い起こしていた。


平沢「おれはもう死ぬ」


抜け出していくものを止めようがないことをふたりは知っていたが、実際に言葉となって伝わると心が重くなる感覚が沁み渡っていくのを永井は感じざるをえなかった。


永井「……ですね」


息が詰まりそうな声で永井は平沢に応じた。
941 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:31:52.24 ID:TPJ777ywO


平沢「持っていけ。おれにはもう必要ない」


平沢は沈黙の間を作らないように真鍋から返された拳銃を取り出し、永井に渡した。真鍋の拳銃は黒服や永井たちが統一して使用しているシグザウエル P220ではなくベレッタ M92Fで、銃器に詳しくない永井は見た目ではなく手に持った瞬間に感じた重さで支給された装備とは別の種類の拳銃だと気づいた。重さの違いに気づくと手に持った感触も別のものに感じられた。見た目の違いもあったし永井もそれには気づいたが、やはり重さと感触の違いのほうがはっきりしていてリアリティがあった。そのベレッタにはひとつの物語があった。拳銃には特定の人物の生きられた時間があり、この黒い物質とともにその時間まで移譲されたかのようだった。

永井が手渡されたその時間的な重さにかすかに戸惑っていると(というのも無意識の領域で感じ取っていた時間の重さは永井がこれまで背を向けてきた歴史性に他ならないからだった)、かん、かん、かんという等間隔の歩幅から繰り出される足音が屋上へ続く階段から響いてきた。
佐藤が姿を現した。


佐藤「もう逃げるのかい? 永井君」


佐藤は問いかけを投げたのにもかかわらず永井の返事を聞く事なく草刈機を作動させ、耳障りな高めの回転音を響かせ示威を見せつけるかのようにその場に立っていた。


平沢「逃げろ、永井」


佐藤を見据えながら、平沢が落ち着いた声で永井に語りかけた。


平沢「このビルからだけじゃない。この戦いすべてからだ」


佐藤が身体を前に傾け一気に駆け出した。それでも永井はその場から動かずにいた。その気配を察知した平沢は固定していた視線を永井に向け、あらためて諭すような声で言った。


平沢「おまえが戦わなきゃならない義理はない」


その言葉を受け、まず反応を示したのは眼だった。最初に見開かれて、まるい眼球を覆う粘膜が風に晒された。永井は眼を細めたがそれは風のせいではなく、内側からせり上がってくる痛みにもよく似た熱のせいだった。

永井は平沢と同じ方へ向き直り、決然として言った。
942 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:32:52.55 ID:TPJ777ywO

永井「やだね」


永井は弾薬ポーチから麻酔銃を引き抜いた。


永井「ぜったいに、いやだ」


接近する佐藤に麻酔銃を向けるが、これほどの強風が吹く中でまともに当てるのは難しいとすぐにわかった。麻酔銃そのものが風のせいで激しく振動した。永井は両手に力を入れ、ノズルの先についているフロントサイトに効き眼をあわせ、佐藤を待ち構える。胴体を狙う、もっと近付いてから、胴体を撃つ。早鐘を打つ心臓を落ち着かせる呪文を唱えるように、永井は心中でつぶやいた。


平沢「楽しかったよ」


平沢の声はやけにやさし気で、思い出を慈しむようで、声のする方向から考えても平沢が佐藤ではなく永井を見つめながら言ったのはあきらかで、だから永井は平沢へと視線を向けた。


平沢「息子たちを見てるようで」


永井を見つめるふたつの眼があった。ひとつは眼鏡越しに見える平沢の瞳、もうひとつは黒くてちいさな銃口。永井の眼はその黒い穴に注がれた……一瞬だったが、長い時間のように感じられた……ともかく、その瞬間はやってきた。


平沢が引き金を引いた。


943 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:33:47.05 ID:TPJ777ywO


佐藤「あ!」


ぱん、と乾いた音がした。永井の頭が思いっきり仰け反り、身体が暗闇に落下していった。永井が握っていた麻酔銃が風に吹かれ、はらはらと布切れのように遠くに流されていく。

佐藤はバスに乗り過ごしたみたいにそれらを見送った。


佐藤「どうしよう……飛び降りて追いかけようかな」


佐藤は動力を切った草刈機を所在なさげに肩からぶら下げていた。真剣味のかける声で佐藤が悩んでいる横で平沢が弾切れになった拳銃を捨て、留めていたジャケットのボタンに手をかけた。


佐藤「いや、やめとこう。これが壊れちゃうだろうし。それに……」


佐藤はストラップを肩から外し、草刈機を無造作に屋上に放った。がたっという鈍い音が響き、同時に平沢が脱ぎ捨てたジャケットが風に舞って飛んでいく。

平沢が拳闘の構えを見せる。白いTシャツは腹部が血に染まっていて、出血部である右脇腹には四つ折りにされたタオルが当てられ、ガムテープで固定されている。ショルダーホルスターには永井の腕を切り落とすのに使ったナイフがまだ残っている。


佐藤「いいよ、やろうか」


平沢に同調した佐藤が同様の構えを取る。
勝負の終わりがどうなるかは互いに承知していた。


ーー
ーー
ーー

944 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:36:59.20 ID:TPJ777ywO

永井「クソッ、クソッ……」


永井はビルの窓の出っ張りにたった三本の指を引っ掛けて奇跡的にしがみついていた。指に力を込めると爪が出っ張りの部分を引っ掻き、食い込で痛んだ。永井の筋力で片腕で自身の体重を持ち上げることはかなわず、爪が剥がされるときのような痛みの数歩手前の予感を指先から感じながら、一分もしないうちに落下するであろうこの状況を呪うことしかできないでいた。


永井「クソッ!!」


自棄になった永井がIBMを放出する。頭部と右腕がまず形成され、舞い上がる粒子が上半身と下肢を連結させているあいだ、永井のIBMははじめに作られた右腕で横の出っ張りを掴み、頭を少し突き出した格好で永井を見下ろしていた。

全身が出来上がってもIBMは同じ姿勢を取り続けて動こうとはしなかった。きわめて乱暴な自我を持ち凶暴な振る舞いしかしてこなかった永井のIBMがこのときばかりは、その場に永井しかいないためか命令を待ち受ける飼い犬のようにおとなしくしていた。

永井はIBMを見上げた。息切れが激しい。苛立ちが募り、誰かを憎んだときのようなうめき声が喉からこぼれた。


永井「役立たずが」

IBM(永井) 『?』


永井から敵意に等しい罵倒を浴びせられてもIBMは意味を理解できず、小首を傾げる仕草を見せるだけだった。突然、それまでより一層強い横風がビル街を吹き抜け、か細い指先で体重を支えていた永井のを吹き飛ばし、暗闇にさらっていった。

永井を見送ったあともIBMはその場にとどまり、首をめぐらしあたりを見回した。真上を向き、しばらくのあいだ空を見上げていた。IBMはふいにかつて永井が中野にため息混じりにこぼした言葉を意味ありげにつぶやいた。
945 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:39:06.68 ID:TPJ777ywO


BM(永井) 『……先……行ってて』


言い終わった途端、IBMは驚くべき軽やかさでビルの壁面を昇っていった。その軽やかさは猿の木登りよりも鳥の飛翔のほうに近い運動を示していた。軽業めいた動作で一分もしないうちに天辺まで上り詰めたIBMが最後に片腕の力だけで持ち上げた身体を屋上に着地させ顔を上げると、鼻血を出し瞼を切った佐藤が息を切らした様子で夜気を肺いっぱい吸い込んでいる姿とその足元に倒れ伏してピクリともしない平沢を見てとった。タオルを当て止血を施していた腹部の傷からあらたに出血し、佐藤の靴先を黒く濡らしていた。


佐藤「いやぁ……タフな人だったよ!」


IBMの姿を認めた佐藤がまだ抜けきらない興奮に染まった声で語りかけてきた。

IBMは突発的に『あ、あ、あ』、と音節を区切った絶叫を発しながら、佐藤に向かって飛び出していった。


佐藤「はは!」


同じタイミングで佐藤も真正面に駆け出した。ビルの東側から走ってくるIBMと直角をなすように、屋上の南側に向かって佐藤はスリルを味わいながら疾走していく。


佐藤「断頭はできなかったけど期待しているよ!」


佐藤が叫ぶ。IBMはコースを斜めに修正して佐藤に接近していく。

追い風が吹いて佐藤の背中を押した。目下に街の灯りが風景として拡がって見えた。
946 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:40:24.10 ID:TPJ777ywO


佐藤「最終ウェーブでまた会おう、永井君」


佐藤は屋上から跳びだし、その身を暗闇へと投げ出した。そのすぐ背後でIBMの腕がむなしく振り抜けいていった。は、は、は、と佐藤の笑い声が切れ切れに聞こえ、やがて消えていった。

ひとり取り残されたIBMは意味もなく佐藤が飛び降りたところを眺めていたが、ふとした拍子に振り向き平沢を見やった。もうしばらく前からそうだったしわかっていたことなのだが、平沢は死体になっていた。


死とは、おまえが世界にされるがままの存在になること。


フランツ・カフカ式の文章がはたして自我を持っているとはいえIBMの思考から生じたかどうかは不明だが、死体となった平沢の肉体は世界に起きるあらゆる現象や法則に無防備に支配される状態になっており、すくなくともそのことはIBMも理解していたようだった。

いつのまにか視点がクレーンを用いたカメラのごとく上昇し、ビルの屋上の周囲が開け、明かりの灯る街を一望できるほど高くなっていた。平沢の姿は小さな点になったかと思うと、すぐに見えなくなってしまった。

頭部の崩壊がはじまり、上昇する黒い粒子のひと粒ひと粒が視覚を獲得したかのような風景の拡がりは実際にIBMが知覚するところのものだったのか、リンクのない永井には不明だし、IBMはすでに消え去ってしまっていた。

風がごうと唸って乱れ行く。最後の粒子の漂いが空気の流動によってさらわれてゆく。

ビルの屋上で動くものはもう誰もいなかった。


ーー
ーー
ーー

947 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:42:36.03 ID:TPJ777ywO

潰れる音と砕ける音が混ぜ合わさった人間が本能的に忌避する不快な落下音が背後から響き、落下物の周囲にいる記者やカメラマンたちの背筋に蜘蛛が駆け抜けていくような寒気が走った。

落下音は周囲の人間の心象に赤い血が広がる様子を喚起させ、事実近くにいた人間の靴やズボンの裾には飛び散った血が付着しており、そこからカメラや視線を上げると大きな血だまりの中に落下の衝撃によって、砕けて折れて潰れて捻れた人体があった。

何人かは眼を背けたが、カメラマンのうちの半数はカメラを向けたままでいた。シャッター音が鳴り渡り、もっと近くで撮影するため前方の人を押しのけようと怒声があがった。

一眼レフを持った若い男が血だまりに気をつけながら死体に近寄り膝をついて構図の中心に収める。

そのとき、永井が息を吹き返す。

記者たちはまずはじめに眼の前で死んだ人間が生き返ったこと自体に驚きの声をあげ、復活したのが永井圭だとわかると緊張感を宿した警戒の声を発した。永井のことを佐藤の仲間だと思い込んでいる記者とカメラマンたちは永井から数歩退いたが、撮影や中継は続行されたままだった。

永井はすぐに現状を把握しようと顔を上げた。フォージ安全ビルが聳え立つ姿が眼に入った。距離感からしてかなり離れた位置にある。車の走行音が後方から聞こえ振り向くと、すぐ背後は車道だった。


「下がって!」「道をあけて!」


ビルの前で警備していた警官が騒ぎを聞きつけ、永井に迫っていた

永井は亜人の声を使おうと息を吸い込む。警官は耳栓を装備しているだろうが、道を塞ぐ記者たちの動きを止めれば足止めになるはず。

最も効果的なタイミングを見計らって、亜人の声を発しようとしたそのとき、一台の中継車が猛スピードで突っ込んできて永井のすぐ背後で急停車した。
948 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:43:38.54 ID:TPJ777ywO

中野「乗れ! 永井」


助手席側のドアを開けた中野が運転席から叫ぶ。

永井はすぐさま車に乗り込み、乱暴にドアを閉めた。

前部座席と中継用の設備が備えられたスイッチャーと仕切るカーテンが慌てた様子で開けられ、そこからアナスタシアが顔を出した。


アナスタシア「ケイ! 無事ですか!?」

永井「まだ引っ込んでろ!」


永井ら大声で心配するアナスタシアの額を手で押してスイッチャーへと押し戻す。短い悲鳴と機材にぶつかる音を無視しながら、永井は中野に向かって叫んだ。


永井「出せ!」


永井のどなり声に弾かれたように中継車はその場から猛スピードで発進した。車道を走る車の数は少なく、眼の前の交差点の信号が青だったため、中継車はあっという間にビルから離れていった。

呼吸が落ち着いていく。街灯やビルの明かりが尾を引きながら後方へ消えてゆくのを見えた。永井はぼやき声で文句を言った。


永井「なんでこんな目立つ車……」

中野「カギがついてたんだよ!」

永井「マスコミのおかげで警察がゴタついてる。今のうちに距離をとってどこかで乗り捨てるぞ」

中野「平沢さんはどうやって拾う!?」


百キロ以上ものスピードで運転している中野は事故を起こさないように神経を張り詰めさせながら、永井に大声で訊いた。そのときアナスタシアがふたたびカーテンを開けた。永井の後頭部が見えた。永井は窓ガラスに頭を預け、サイドミラーでパトカーが追跡していないかを確認していた。文句を言おうとアナスタシアが口を開いた。
949 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:44:41.06 ID:TPJ777ywO


永井「死んだよ」


アナスタシアが言葉を発するよりも先に永井が言った。


永井「平沢さんは、死んだ」


永井はフラットな調子で言った。感情を交えない言葉だっただけに中野もアナスタシアも意味を了解するのにしばらく時間を要した。

中野が突然大声で「クソッ!」と叫んだ。堪えきれなかった感情が爆発したかのようだった。眼に涙が浮かんでいた。中野は乱暴に眼元を擦って涙を拭うと、運転に集中するため真っ直ぐ前を見据えた。

一方、アナスタシアはへたり込み、茫然自失の状態に陥っていた。アナスタシアの性格を考えればそれほど見知ってもいない相手の死に悲しみを覚えるのも納得のいく話だが、しかしこれほどのショックを受けるとはアナスタシア自身にとっても意外だった。

平沢の死を告げられた瞬間の頭が真っ白になる感覚には既視感があり、それは夏休み明けの学校に登校したとき友達の死を告げられた瞬間にもたらされた感覚と同一のものだった。なぜそこまでの内心の衝撃をアナスタシアは受けたのだろうか? いくらつい先ほどまで行動を共にした人物とはいえ、知り合い、言葉もほんの二言三言ほどしか交わさなかったのに、友人の死にに匹敵するまでのショックを受けるものなのだろうか?

車が大きく右に振れ、アナスタシアの身体も右側へ傾いた。立ち並べられた中継用の機材に手をつき身体を支えたとき、アナスタシアは平沢の死はある種の決定打だということに気づいた。

アナスタシアが目撃した黒服たちの死。三人が死に、うち二人の死ぬ瞬間を目撃した。彼らの死を悲しむ時間もなく、戦いに身を投じ、そしていま為すすべもなく逃げ回っている。平沢の死を告げれたとき、アナスタシアがそれまで眼をそらし続けてきた感情が一気に噴出した。アナスタシアを激しく揺さぶった衝撃の正体、それは生き残ったことに対する罪悪感だった。
950 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:45:33.90 ID:TPJ777ywO


アナスタシア「いのちを、かけてた」


アナスタシアは自失の状態からなおも抜け出せないまま、ぼそりとつぶやいていた。


アナスタシア「いのちをかけて、たたかってた」


自分はそうではなかったとそう言いたげな口調でアナスタシアは言った。言い終わった瞬間、アナスタシアの瞳から涙が止めようもなく溢れ出た。


ーーなぜ、亜人であることを明かさなかったんだろうーー


アナスタシアの内心を占める罪悪感の主な要因はこの一言に集約できた。永井や中野のようにはじめから作戦に参加していれば、IBMをもっとはやく送り込むことができたかもしれない。そうなっていれば誰も死ななかったかもしれない……

咽び泣くアナスタシアの嗚咽の声を聞きながら、中野を唇を血が滲むほど強く噛んだ。ハンドルを握る手にも力が入り、指先が真っ赤になっていた。

永井はあいかわらず窓に額を預けていた。景色を眺めていると、飛び行く街灯の白い光が規則的に永井の顔を照らした。そのたびに暗く沈んだ瞳に光が写り込んだが、光ったのはあくまで反射した街灯の光だけだった。

永井は感情のない瞳を車が走行しているあいだ、ずっと外に向け続けていた。


ーー
ーー
ーー

951 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:46:29.74 ID:TPJ777ywO

夜が白みはじめた。

中継車はオフィス街を抜け住宅が立ち並ぶ一帯へと進み、河川敷のほうへ移動した。中野は中継車を橋の下に停車させた。橋は低く、中継車の車高から一メートルも離れていなかった。あたりには人影は見えなかったが、早朝のランニングを習慣にしている付近の住人がそろそろ現れてもおかしくなかった。

中野は助手席から下りてきた永井にむかって言った。


中野「永井、どうやって隠れ家へ帰る?」


永井は中野に応えず、スイッチャーの置いてある後部のドアを開けた。

泣き腫らしたアナスタシアが怯えたように瞳を揺らし永井に眼を向けた。永井の眼にはあいかわらず感情が見えず、アナスタシアを眺めるその表情はまるで壁でも見てるかのようになにもなかった。

永井は取り出したスマートフォンをアナスタシアの眼前に放り投げた。


永井「おまえが復活してる様子を撮影した動画が保存されてる。端末ごと処分しろ」


永井は平沢の死を告げたときと同じ声の調子でアナスタシアに語りかけた。

アナスタシアは思わず身を乗り出した。しかし口を開いてもちゃんとした言葉を作れないで、ただ口をパクパクと動かすことしかできなかった。


永井「これでもう戦う理由はないだろ」


最後通牒を告げた永井はそそくさとアナスタシアの視界から立ち去った。

952 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:52:35.64 ID:TPJ777ywO


アナスタシア「ニェット……! ちがいます、アーニャは……」


弱々しい言葉を呟きながらアナスタシアが永井を追いすがった。足取りは心もとなかった。曇天模様の空はいまにも雨が降り出しそうで強い風も吹いていた。ふらふら歩くアナスタシアに強い横風が吹き付けてきた。バランスを崩したアナスタシアが草の生い茂る河川敷に倒れこんだ。中野があわててアナスタシアのもとに駆け寄り、こけた拍子に手から零れ落ちたスマートフォンをアナスタシアへと返した。

中野は無力感に苛まれているアナスタシアを複雑な表情で見ていた。いまでも女の子であるアナスタシアが戦うことに内心反対だった。フォージ安全ビルでの要撃作戦においてのアナスタシアの役割はIBMを用いた後方支援だったから、中野も渋々納得したに過ぎなかった。一方で中野もアナスタシアに自分と同じように佐藤と戦う理由があることを理解していた。中野はそういった感情を無碍にできる人間ではなかった。しかし現状を冷静に鑑みると、このままアナスタシアが戦闘に参加し続けるのは賛成できかねた。黒服たちが死んでしまった以上、次の戦闘はアナスタシアも前線に立たざるを得ないだろうし、アナスタシア自身も立ちたがるだろう。

中野は顔を上げて永井を見やった。永井はアナスタシアとは完全に手を切り、もはや他人同士だといわんばかりに歩き続けていた。
953 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:53:41.65 ID:TPJ777ywO


中野「どこ行く?」

永井「おまえはまだマークされてない。ふつうに帰れるだろ」

中野「おまえは変装でもするのか?」


中野は立ち上がるかちょっと迷ったが、永井が後ろを少しも気にしないで歩き続けているので結局は立ち上がりあとを追った。

中野の気配を察知した永井が振り向いて言った。


永井「僕は、やめる」


永井の言葉はアナスタシアにも聞こえた。それがどういう意味の言葉かすぐにはわからず、アナスタシアは眼を赤くしたまま虚をつかれたようにきょとんとした。

曇天から雨が一滴落ちてきた。途端に雨は激しさを増し、周囲の光量もひときわ暗くなった。


中野「は……あ!?」


驚きに不意をつかれた中野がやっと口を開いたとき、永井はまた歩き出していた。


中野「待てよ、どういうことだよ!?」

永井「目標を下方修正する」


慌てて駆け寄ってくる中野に対して、永井はあくまで平静だった。


永井「おまえらが来てから僕は、ふつうの生活水準を取り戻すために戦ってきたが、佐藤は止められなかった。だから、もう文化的な暮らしはあきらめる! 山奥や大海原とか、社会も佐藤も関係のないところで生きていく。海がいいかな……いつか海外に流れ着くかも」

中野「佐藤を止めなきゃやべぇんじゃねぇのか?」

永井「だろうな」


永井はそっけなく応えた。

954 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:54:37.24 ID:TPJ777ywO


永井「佐藤ひとりが暴れてるだけなのに、マスコミは亜人ってカテゴリーで叩きつづけ、どんどん住みづらくなる。だから離れるって言ってんだ……」

中野「逃げるのかよ!?」


中野が永井の肩に掴みかかった。中野の眉根は険しく、激昂寸前のように見えた。


永井「逃げてなにが悪い!」


肩を掴む手を乱暴に払いのけ、永井が叫び返した。突然の大声の応酬によろよろと二人を追いかけてきたアナスタシアが怯えたように肩を震わせ、思わず息を止めた。

永井は中野を睨みつけながら、なかば感情にまかせて怒鳴りつけ、畳みかけた。


永井「そもそも国が悪いんだろ! 規格外の暴力に対応できないんだからなあ!」

永井「やれ法律や倫理だって、戦わないことを美徳にしようとしやがる。かといって、平和的に解決するスキルもないくせになあ!」

中野「大勢死ぬんだぞ!」

永井「だから人なんざいつだって理不尽に殺されてるって言ってんだろ!」

永井「急に眼の前で起こったからってとってつけたようにヒーローぶってんじゃあねぇ!」

永井「僕は佐藤が何万に殺そうが自分のほうが大切だね!」


中野が永井を殴った。中野の右拳は顎関節のあたりをとらえ、永井の身体を大きく倒した。

思いもよらなかった中野の暴力にアナスタシアはすっかり竦み上がってしまった。激昂している中野はそのことに気づかず、永井に詰め寄りさらに怒りをぶつけようと口を開いた。
955 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:56:03.42 ID:TPJ777ywO


中野「人の命を……」

永井「命!?」


永井が中野の向う脛を力任せに蹴りつけた。歩み寄ってくるタイミングでの蹴りで中野はバランスを崩し、そのうえたっぷりと雨に濡れた草地を踏んでいたせいで中野はひっくり返ってしまった。

アナスタシアが正気に帰り、ふたりの間に分け入ろうと駆け寄った。

永井はこのうえなく苛立ちながら立ち上がり、見下ろす中野に怒声をぶつけた。


永井「命の価値なんざTPOで変わるもんだ!」


激昂しながら永井はさらに言葉を続けた。


永井「家族が死にそうなら助けるだろうが、どっかの国で百万人が死んだって、せいぜいニュースで見て感傷に浸るくらいなもんだろ!」

中野「御託ばっかり……」

永井「どっちがだよ!」


永井が中野の胸ぐらを乱暴に掴み馬乗りのように上に被さった。

そのときアナスタシアが永井の腕を掴み、二人の顔を交互に見やってから言った。
956 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:57:37.11 ID:TPJ777ywO

アナスタシア「ケイ、もうやめてください! コウも殴ったりするのは……」

永井「フォージ安全の社長が死んだとき、たいして騒がなかったよな」


アナスタシアの予想に反して永井は中野を殴りつけたり罵倒を重ねたりはしなかった。自分の声が相手の心内に確実に作用させるため、永井は低く沈鬱な感じのする調子で喋り出した。


永井「平沢さんが死んだとき聞いたときはあれだけ感情的になってたのになあ!」


まるでそのときの中野の感情を再現するかのように永井は声を荒げて言った。


永井「すべての人間が無意識に他人の命の重さを秤にかけてる……おまえもだ」


いちど言葉を切ったとき、永井は視界にアナスタシアが映っていることを認めた。その表情は計り知れない痛みのような感情に歪んでいた。いままでは天秤の大きく傾いたほうにばかり心を占められ、その傾き、つまりは感情の流れにのって行動を起こしたし堪えきれず内心を現したりもしてきたアナスタシアは、この永井の指摘によって眼が開かれたかのように傾かなかった上皿のことを鋭敏に意識した。しかし、意識できたのは上皿だけだった。そこにのっているはずの命の重さを計るのは当然誰にだってできないことだった。


永井「それを意識的にやってるだけで僕を批判するじゃねえ!」


永井は中野の胸ぐらから手を離し、言葉を失っているアナスタシアにも背を向けその場から立ち去ろうとまた歩き出した。

雨は激しさを増す一方だった。水分を含んで垂れ落ちてきた前髪がアナスタシアの視界を遮った。額に張り付いた銀色の髪をかきあげもせずアナスタシアは永井の背中をただ見送った。追いかけようにも何を言ったらいいのか全然わからなかった。雨は顔を強く打ち、流れ落ちていった。雨滴をやたらと温く感じた。

957 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:58:36.48 ID:TPJ777ywO


中野「そう、なのかもしれない……」


静かなためらいがちな声で中野は自分自身に吐露するようにつぶやいた。


中野「命がどうのって、言えた口じゃないのかも……」

中野「でも……なんて言ったらいいのかわからないけど……佐藤を止めたいんだよ」


中野はふと口をつぐんだ。アナスタシアは困惑しながら、永井は立ち止まって聴き耳を立てている。数秒が過ぎた。雨の音がおおきい。風も強く吹いている。


中野「電球を替えようとしたんだ」


中野はさっきよりもはっきりした声で話を再開した。


中野「雑誌とか新聞を積んで……踏み台にして……」

中野「で、バランスを崩して、頭から落ちた」

中野「そしたら、からだが動かなかったんだ」

中野「声も出なくて、だれにも見つからなくて、何日もそのままだった……生き返るまで」

中野「たぶん、そのとき初めて死んだんだ」


それまで中野は声の大きさにふさわしく淡々と冷静な調子で話していたが、ふいに息継ぎするかのように一瞬だけ言葉を切ると、今度は最初はまだ大声でこそないが底から湧き上がってくる怒りにまかせてだんだんと声を荒げていった。

958 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:59:19.11 ID:TPJ777ywO


中野「おれの親父もお袋もろくでもねえ奴らだった。平気で家を空けて遊び歩いてやがる」

中野「動けなくなったとき、何度も思った。おれはいらない人間なのかって……でも、おれを拾ってくれて、仕事を与えてくれて、使ってくれる人たちがいた! だからおれを頼ってくれる人がいたならおれは絶対に応える! ずっとそうしてきたんだ!」


しゃべっているうちに中野は眼が熱くなっていくのを感じていた。熱さは雫になって眼から溢れ落ちそうになっていた。


中野「だけど……ひとりじゃないもできない。バカだから……」


さっきまでの激情はもはやなかった。沈鬱した感情に声を詰まらせながら中野は永井に言った。


中野「おまえがコンテナのドアを開けたとき、ほんとうに安心したんだぜ? ……おまえのおかけで、ここまでやれたんだ」

中野「身勝手なお願いなのはわかってるよ……でも」


中野の声が震えた。痛めつけるように強い力を込めて拳を握り、中野は涙を流して言った。


中野「もうすこしだけ手伝ってくれよ……永井」


中野が必死になって訴えかける様子を永井は首だけ振り向いた格好でだがしっかりと見ていた。眼から溢れる涙も、震えがおさまらない唇も、締め付けるように閉じられた手も永井は見ていた。

959 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:00:19.66 ID:TPJ777ywO


永井「知るかよ」


永井はそれだけ言い捨てると、その場から立ち去るようにまた歩き出した。


中野「平沢さんも……真鍋さんたちも、みんな……殺されちまった……」


中野は悔しさに涙しながら、途切れ途切れに声を震わせた。


中野「悔しくねえのかよ」


鼻を啜るような声だった。


永井「うるさい」


その一言を言うために永井が一瞬立ち止まったのをアナスタシアは目撃した。耳に届いた声は微かに震えていたと思ったが、激しい雨音に邪魔されたせいかもしれなかった、仮に震えていたとしてアナスタシアには永井を説得する方法などまるでなかった。

結局、アナスタシアは永井の後ろ姿が雨に烟り、完全に見えなくなるまでその場に立ち尽くしているしかなかった。

アナスタシアは中野がさっきから押し黙ったままでいることに気づいた。中野の告白はアナスタシアに高架下の車中で交わした会話を思い出した。修学旅行もクリスマスも正月も、中野は無縁だったと言った。それを聞いた自分の質問があまりにも不用意だったことも思い出したアナスタシアは血の気が引く思いだった。

中野のほうを見るのは怖かった。アナスタシアは祈りを捧げるようにギュッと目を閉じ、意を決し顔を上げた。中野が振り返ってアナスタシアを見ていた。中野の顔は、悲しみを堪えていることがわかるような笑顔だった。
960 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:01:18.01 ID:TPJ777ywO


中野「アーニャちゃんは帰った方がいいよ」


おもむろに中野が口を開いた。


アナスタシア「え……」

中野「やっぱり、女の子が危ないことをするのはダメだって」

アナスタシア「コウ、なんで……」

中野「泉さんや戸崎さんが無事ならまだやれるから」

アナスタシア「アーニャだって亜人です!」


中野はアナスタシアを見つめた。


中野「お父さんやお母さんが心配するって」


そのことはまるで考えていなかった。


中野「アーニャちゃんを大切に思ってる人はたくさんいるんだからさ。学校の友達とかさ、あのプロデューサーの人とか……あ、永井の姉ちゃんとも仲良いんだろ? 」


中野はそこでアナスタシアがアイドルだということを思い出したかのように短く笑った。


中野「すげえよな、アイドルって。やっぱアーニャちゃんはアイドルやってたほうがいいって」


中野は自分の言ったことにうなずき、それからアナスタシアを見て言った。
961 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:02:11.41 ID:TPJ777ywO


中野「がんばってよ。新曲でたら買うからさ」


どこか謝りたいと思っているような笑顔だった。アナスタシアからの反応を待たずに中野はあっというまに土手を駆け上がり去っていった。中野の姿が見えなくなると、アナスタシアはその場にへたり込み、心も身体も動けなくなった。

中野の言葉を受けたアナスタシアの内面の感情は「悲しい」や「悔しい」といった言葉で指示できる状態にはなかった。永井や中野の言葉が、佐藤と戦うという意志といままでの人生の記憶、思い出、友情や愛情といったものとの葛藤を引き起こさせていた。記憶から引き出せば心を温めてくれるもの、そういったものを守るための戦いだとアナスタシアは思っていた。だが先ほどの言い争いのなかで明らかになったのは、"そういったもの"を犠牲にしなければならない戦いだった、というより"そういったもの"を犠牲にしなければ参加すること自体が不可能な戦いだったということだった。

永井も中野もそれらを遠くに置いたうえで、佐藤と戦った。自分だけはそうではなかった。

上空に吹き荒れる風が雨雲を運んでいったのか、いつのまにか雨は止んでいた。風がその激しさにふさわしくアナスタシアの肌を荒々しく叩いた。陽の光が差し込み、河川敷を照らし出した。河川のゆらめきや水を吸った草が輝いていた。空は濃紺で、澄んでいた。

このような風景の中で、アナスタシアはようやく敗北したという事実を思い知った。


ーー
ーー
ーー
962 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:05:26.67 ID:TPJ777ywO


法務教官に案内された面会室はドラマや映画によくあるようなアクリル板はなく、取調室のような圧迫感もない、かなりの広さを持った白い壁紙と床に包まれた清潔な場所だった。照明は十分に明るく、また入り口はガラス戸で外から見えるようになっていた。ガラス越しに法務教官たちが働いている様子が見えた。特別に職員用の会議スペースを今回の面会のために使用させてもらったのだ。

五十くらい法務教官はしばらくお待ちくださいと言い残し、部屋から出て行った。その際、飲み物を用意するよう二十歳過ぎの若い職員にむかって言った。

まもなくお茶を出され、一礼する。しかしお茶に手をつけずに三分ほど待っていると、さっき案内してくれた法務教官が少年をともなって戻ってきた。

美波は顔を上げて、少年の顔をまじまじと見た。


美波「海斗くん……」

海斗「おひさしぶりです、美波さん」


そう言って、海斗は椅子に坐った。




963 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:09:46.65 ID:TPJ777ywO
今日はここまで。

前にも言った通り、このスレでの本編の更新はここまで。残りはおまけを書いて埋めてくつもりです。
964 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/01/04(土) 15:20:32.46 ID:7fUwwu0w0
更新まだか
965 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/02/06(木) 19:11:12.52 ID:gOqYRoM20
待ってる
966 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/23(月) 13:34:28.88 ID:3BzQPb7N0
エター?
楽しみだったんだけど
967 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/05/18(火) 20:44:54.29 ID:Vw+2Fh4x0
原作完結しちゃったね
968 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2022/12/19(月) 20:09:25.73 ID:0TinRBsA0
今でも好きだよ
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