23:名無しNIPPER
2020/11/08(日) 09:16:11.19 ID:FQVp12gN0
ライブの時間はあっという間だった。
いや、そう感じたライラ含め、会場の皆がステージ上のたった一人を包むパフォーマンスにのまれただけかもしれない。
ライラは圧倒された。張り詰めた空気、微かな息遣い、美しいシルエット。ゆるやかなせせらぎの音、微かな伴奏音。高く静かな音色が一つ。音色はやがて声だとわかる。無から有へ、悠から動へ。そして世界は開闢へ。
彼女の物語が始まった。そこにいる皆が一斉にそう感じた。
繊細なピアノ音、波打つグラフィック。弦を弾く音が一つ、澄んだ吐息がまた一つ。共鳴する舞台。音は歌となり、歌は音となる。
突然そこに、劈くような大きな打撃音が一つ。それを皮切りに、彼女を纏う音々が踊り出す。少しずつ。増える拍数、駆け行く音色。重なる音符、雄大なコーラス。
そして、それらを切り裂く咆哮一つ。
真紅のドレスに身を包んだ、艶やかな黒髪の女性に光が当たる。マイクを前に悠然と構える黒川千秋がそこにいた。
彼女の世界に入った人々にとって、そこからはもう輝きを見て、煌めきに触れるだけの時間だ。とてつもないスケールと歌唱力。舞台を席巻する全能感。見惚れるほどの美しさと壮大さがそこにあった。
彼女は歌う。時に優しく、時に雄々しく。
彼女は踊る。時にしなやかに、時に躍動感いっぱいに。
彼女は綴る。彼女は魅せる。そして彼女は示すのだ。
いま私はここにいる、と。
有名な物語をベースにした歌や、かつて彼女自身が出演したミュージカルで用いられた曲なども披露された。それらは前提となるストーリーや世界観が明確に存在するだけに、いささか唐突で過大な言い回しがあったりするのだが、それでも一切の敷居や隔たりを感じさせる間もなく、聴く人々を一緒に連れて行くだけのパワーがあった。それが今、この瞬間の黒川千秋だった。天下を揺るがす物語が、生死を伴う喜悲劇が、甘美な青春の一頁が、ここにあった。
「明日世界が終わるなら」なんて例えを出さずとも、今日を全力で生きる意味はある。
それは後半で歌われた何気ない一節だった。舞台となっていた物語で、混乱の渦中で翻弄される仲間たちへの主人公の語りと重なるもの。いろんなことが錯綜する時だからこそ、そうでなくとも大切にしていたことを、何よりも今大切なこととしてやろう。意味や価値を決めるのは自分たちだ。そう綴る主人公は、美しかった。
この一節が、今更ながらにライラの心に深く刺さっていた。自惚れたことを言えば、それがあたかも自分に向けて歌われているように思えたから。
機というものはわからない。この歌を練習しているシーンをこれまでにも何度か事務所で見かけていたし、他にも並び立つだけのメッセージたる歌詞は少なからずあったわけで。しかし人に届くということには時節がおおいに関わる。ライラにとってそれが今であり、またこの舞台の、今日のスケールがあって感じ得たのがそのフレーズだった、ということである。大仰かつ仔細に綴られた詩の数々の中でこれが特に響いたことは偶然かもしれないが、それこそが運命なのかもしれない。後々に彼女はそう実感していた。
気が付くとホールが歓声に包まれていた。
アンコール前の幕間でようやく、思い出したように大きく呼吸をするライラ。すごかった。ただただ、すごかった。隣にいた千夏も「参ったわね」と小さな声でつぶやいた。
「すごいものね。彼女」
「……ほんとうですね」
万雷の拍手の中、千秋がステージに戻ってきた。ありがとうございます、と深々一礼。そして少し説明を添えた。
「僭越ながらもう一曲だけ、披露させて頂きます。……ただ、今日これまでのテイストとは少し変わるものですが、ご容赦頂けたらと思います」
曰く、これは私がアイドルになって最初に覚えた曲です、と。アイドルらしい楽曲を否定するつもりは昔も今もないけれど、当時はこれをうまく歌うことができず苦労した。どちらがいいという話ではなく、それぞれに魅力も輝きもある。それを自分の中で噛み締め、表現につなげるまでに時間がかかってしまった。だがそれこそが自分のスタートであり、思い出であり、今も大切にしている輝きの根幹であると。
「私はできることなら、いろんな自分を否定せず信じていきたいし、挑戦し続けていきたいと思っています。過去も、今も、これからも」
アンコール曲が始まった。終始壮大でアーティスト然とした今日のこれまでの流れとはうってかわって、可愛らしく、キャッチーなフレーズに満ちたメロディ。軽快にステップを踏む彼女の姿もまた存分にキュートだった。
曲の中で彼女は五度にも渡り「シンデレラ」というフレーズを出した。魔法にかかる。誰もがシンデレラだという。きらめくステージで彼女がその言葉を解き放つことは本当に意味がある。だけど、とライラは自分の胸に手を当てた。はたしてそうだろうか。それを信じるだけの力が、今の己にあるだろうか。
そんなライラの気持ちを見透かすように、千夏がそっと笑みを見せた。
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