周子「だから、あたしが逢いに往く」
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51:名無しNIPPER
2020/05/05(火) 20:42:57.43 ID:XnGtX3Tv0

 術の神聖視。
 神々から術を授かり
 その神々とは決別し
 神々への信仰を捨てながら
 術そのものを汚れ無き清純で崇高なものとして扱う
 この霞皇国特有の概念。

 ある者はこれを基に術者としての誇りや矜持を保ち、またある者は歪であると批難する。
 当然、皇国民のほぼ全員が前者、後者のほぼ全員が他国民である。

 建国時から現在に至るまで脈々と受け継がれてきたその概念は、術者の倫理の保持やそれを目指す若人の情操教育に一役買っていた。
 しかしその一方で、この国のその後の発展の足かせにもなっていた。

 神聖なる術を扱う者なれば、その術を正しく使い正しく生きよとそう教わる。
 それと同時に、この神聖なる術を穢してはならぬという教えの延長としていくつか制約があった。
 術の重ね掛けはさておき、術の改造、ひいては術の成果を更に加工することは術に対する冒涜であるという認識なのだ。

 志希はこの論理的なようで矛盾したこの教義を心底毛嫌いしていた。
 志希にとっては自身が追い求める知への欲求の障害以外の何物でもないからだ。

 また、術のことは神聖視するくせに神々への信仰はしないという点にも歪さがある。
 これについて周子は
“娼婦が男から金をもらいどれほど喜ぼうとも好きなのは金であり男のことなど愛していない事例”
 と同じだという認識だった。

 途轍もなく乱暴な理屈だが、実状のところ的を射た例えであった。
 別れ際の神々が醜狐を地上に叩きつけようとするのも無理はない。




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