5: ◆kiHkJAZmtqg7[saga]
2019/08/19(月) 23:04:10.01 ID:rNK9Zl/t0
そう聞いて、嬉しくなると同時に少し惜しくも感じたものだから不思議だ。
仕事柄、アイドルの少女たちからのお悩み相談を引き受けることはたまにあった。その時はただ微笑ましく思うばかりで、我が事のように何かを感じ入ることはなかったというのに。
「ええ、もちろん。どんな話ですか?」
「……笑いませんか?」
「思いついたのが笑い話でなければ」
「それは、違いますね。……ええと、面と向かって話すのは、少し恥ずかしいのですが……」
前置きして、彼女は話し始める。
「私、さっきよりも少し、気が楽になりました。ただ話を聞いてくれる、それだけの相手すら、いなかったものですから……。だから、あなたが話しかけてくれて、よかった」
穏やかに微笑みかける彼女を見て、その姿をまた見たいとただ率直に思った。
今まで見たどんな表情よりも魅力的で、心惹かれる。僕はなんの疑問もなく、自然と上着の内ポケットに手を差し入れていた。
「……なんて、いかがでしょうか」
気恥ずかしげに目をそらす、そのしぐさに胸の高鳴りを覚える。
だけどすぐに、これから僕がしでかすことへの緊張感と混ざりあって判別できなくなる。
はやる気持ちに反して、指先は慣れきった動きで名刺入れから一枚の名刺を取り出していた。今更引けないぞと自分に言い聞かせて、どうにか口を開く。
「アイドルに……なりませんか」
「…………え? アイドル、って……」
「僕、こういう者です」
名刺を差し出す。それを受け取った彼女はぼう、とそこに書かれた文字を見やって「アイドルの、プロデューサーさん……」と小さく呟いた。
「新米ですが。答え、すぐじゃなくても結構です。とりあえず、名刺だけでも」
早口になっていることに気づいて、どうにか直そうとするけれど不恰好に区切りだけ多くなるばかり。名刺とこちらを交互に見やる彼女の視線は、困惑まじりだった。
「その……どうして私を? 私、そこまで若くも可愛らしくもない、ただのOLです。歌も踊りも、経験なんてありませんし……。いえ、それよりも。声をかけてくださったのは、スカウトするため、ですか?」
声が、悲しげに揺れる。まず伝えるべき言葉を口にできていないことに、それで気づいた。
そういうことを一切考えず話しかけたわけじゃないけれど、つい先ほどまでアイドルがどうとかなんてこと、忘れていたのだから。
「決めたのは、たった今です。その、明るい話をしてる時のあなたが、とても魅力的な表情をしていたものですから」
「……私、どんな顔をしていましたか?」
「薄く笑って、とても落ち着いた、いい顔でしたよ。アイドル顔負けです……というと、なんだか変ですが」
「笑って……いたんですね」
確かめるようにひたひたと自分の頰を手で触れる。どんな顔をしていたのか、本当に自覚がないとばかりの様子だった。
「私、本当にアイドルになれるんでしょうか」
「なれます……というか、します。もちろん大変なこともあるでしょうけど、それでもアイドルとして輝けるようサポートするのが、僕の仕事です」
新米のくせに大きく出てしまった、と思わないわけでもない。
だが、それくらいの気概もなしにプロデューサーを名乗れるはずがないのだ。……これは、受け売りだけど。
僕を見る瞳に、かすかに期待が宿った気がした。それだけで、この言葉を撤回なんてできなくなる。
「考えてみます、アイドル。少しだけ、前向きに」
「本当ですか! 決まったら、名刺にある連絡先に電話なり、メールなり……あるいは直接出向いてもらっても構いません」
彼女は頷くと、ゆっくり立ち上がる。僕もそれにならうように遅れて立ち上がった。
「よい、しょっと……。立てました。さっきはもう、めげてしまっていたのに」
つまさきをぴんと立ててこちらにアピールしてくる彼女は、少なくとも出会ったときより元気そうに見えた。
「あ、そうだ。終電とか大丈夫そうですか? 結構な時間ですけど……」
「…………ああ、間に合いませんね。タクシーでも呼んで、帰ろうと思います。あなたは、大丈夫ですか?」
「僕はどうにか。家、そこそこ近くなので」
というのは残念ながら嘘だ。二、三駅は歩くことを覚悟する必要があるだろう。とはいえ、そんなことを正直に言って恐縮されるのも気が進まなかった。
「心が決まったら……その時は、連絡しますね」
「はい、待ってます」
そうやって僕らは別れて、家路を辿った。予想通り終電には間に合わず、酔い覚ましには余りにも長い時間を歩き通すことになったけど、悪い気分ではなかった。
帰路においても、家に着いてからも、彼女の控えめな笑顔がたびたび頭をちらついた。
その意味について深く考えるべきではないのだろう。だって僕は、多分に酔っているのだから。
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