5: ◆U.8lOt6xMsuG[sage saga]
2019/04/09(火) 00:35:38.71 ID:Tnjuxph+0
◆◇◆
親しく思っている人のめでたい日は自分の事と同じくらい嬉しいし、辛そうなときは自分の事以上に苦しい。
今日のこの、21歳の4月9日が、比奈にとって良い思い出になれば良いと思ってた。良い思い出にしたかった
タクシーがアスファルトの凹凸を通過すると車体が揺れる。その度に比奈は顔をしかめる。どこか痛むのだろうか、僕にはそれが分からない。
ぶつけようのない腹立たしさは、病院の待合室でも同じように手にしてしまう。早く順番が来てくれないものか、待合室の、微妙な座り心地のソファでふらふらとしている比奈が見ていて痛々しい。
「荒木さーん、荒木比奈さーん」
ようやく名前が呼ばれた。僕は比奈の肩を優しく叩き、手をとって立ち上がらせる
「え!? 荒木比奈!? アイドルの荒木比奈が……同姓同名か」
左腕を三角巾で釣っている男子高校生にそう言われた。登校前に通院をしている運動部の男子だろう。人違いって何だ人違いって、アイドルの荒木比奈だよ
……まぁ、バレないに越したことはないし、むしろ比奈の名前に反応してくれる人がいるのは良いことだろう。
診察室で医者の話を聞く。壮年の男性医師だった。何故か白衣の下にラガーシャツを着ている。オールブラックスのだ
「えーインフルエンザも陰性ですねぇ、えー、まあこの時期は寒暖差や新生活でのストレス等ありますしねぇ、えー」
医者の話を聞く。インフルエンザでなくてホッとした。胸に鉛のようにたまっていた重さが外れたのが分かる。しかし、体調不良である事には変わりない。緩みかけた気を再び引き締めた
話の間、後ろで看護師さんが指折り数えをしていた。医者が「えー」と言う度に指は曲がっていく。いま2往復くらいしてる。
「えー、あなたは旦那さん?」
「違います」
「彼氏さん?」
「違います」
「えー、じゃあ何?」
「上司です」
「じゃあ上司さん」
プロデューサーと名乗るわけにもいかないだろうし上司でいいか
「まず今日はね、えー、休ませてあげてね、えー、疲労がなくて体力があれば体調不良はね、えー大体どうにかなりますから、休息が一番ですね、えー」
それは極論でないだろうか。
「それから貴女」
「はいっス……」
医者は比奈へ視線を移した。カルテを片手に「えー」を混ぜながら話をしていく
「えーまず気になったのが目の下のクマと体重なのよね。クマは濃いし体重は軽すぎる。えー、女性にあんまり言うのはえー、ちょっと控えたいけどね、もっとよく寝て、食べて」
後ろの看護師は指折り数えを続けながらも顔をしかめた。女性として医師に言いたいことがあるのだろう
「一応頭痛薬と解熱剤は出しときます、えー、まあゆっくり休んでくださいな。えーまあね、また体調崩したり治らないって時は来てくださいね、えー」
「はい……ありがとうございました……」
「ありがとうございました」
看護師が左手の指を三本、右手の指を二本立てたに一瞥して、比奈と診察室を出る。32回も「えー」って言ったのかあの人
待合室に戻ると、まださっきの男子高校生いた。よく見ると左腕だけでなく右足にもギプスをしている。ソファではなく車椅子に腰をかけていた。何があったんだあの子に。
薬局で薬を受け取り、再びタクシーを呼ぶ。やはり外出するのはまだ厳しかったのだろうか、比奈の目は一層朧気になっている。早く家で休ませた方が良いだろう
心に余裕がでてきたとは言え、比奈の体調が改善されたわけではない。タクシーを待つ間に、病院内の売店で必要と思える物を買っておいた。会計を済ませ、比奈の元へ戻る
「……大丈夫?」
ボーッと、どこを見つめているかも分からない彼女に声をかける。マスクから吐息が漏れて、眼鏡を曇らせていた
「……うん」
比奈がぽつりと、そう答える。この返答には少し面食らった。彼女がこれまでにない言葉遣いをした。タメ口とか初めてだ
「分かった。タクシー来るまでもうちょっとだと思うから、それまで楽にしてて」
程なくしてタクシーが来た。比奈の手を引いてそこまで案内する。握って、握り返される。その手に入る力が弱々しくて、なんとも言えない気持ちになった
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