白菊ほたる『災いの子』
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54: ◆ikbHUwR.fw[saga]
2018/05/16(水) 19:33:41.54 ID:sFL9uHdg0
 席を立ち、足を進めながら考える。
 飛鳥さんのアレンジは、即興でできるクオリティじゃなかった。かといって、前々から準備していたとも思えない。社内オーディションの話はみんな昨日知らされたばかりなのだから。
 つまり、話を聞かされてから、一晩で身に着けたということだ。このオーディションのために。それは勝つための努力、勝つための工夫だ。
 蘭子さんも飛鳥さんも、油断や慢心はしていない。それぞれが自分にできる限りのことをして勝ちに行っている。

 部屋の中央でゆっくりと息を吸い、吐く。
 肩にのしかかっていた重みが、すっと抜ける感じがした。

 他人をうらやむのも、気圧されるのも、もうおしまい。余計なことは考えない。
 どうせできることは変わらない。私も、私にできることを精いっぱいやるだけだ。

 勝つために。

 扇子を広げてみると、毛筆で四字熟語らしきものが書いてあった。『撓不折百』、聞いたことのない言葉だ。どういう意味か、あとで誰かに訊いてみよう。

 周子さんのプロデューサーさんが、準備はいいかというような視線を投げかけてくる。私は小さくうなずきを返す。

 扇子で顔を隠すようにしてしばし待ち、先ほどと同じイントロが流れ始める。
 音が出てよかった、と思った。当たり前のことでも、私にとっては幸先がいい。
 もっとも、実のところ音楽なしでも同じように歌い、踊れる自信はあった。
 何度か、周子さんの練習風景を見学させてもらったことがある。私はそれをしっかり目に焼き付けて、代役の話が出る前から、周子さんの曲はずっとひとりで練習していたのだ。

 すっと体から意識が離れ、少し後ろから自分を眺めているような感覚を覚える。
 悪いことじゃない。集中できているときにたびたび起こる現象だ。私は私のパフォーマンスを見つめ、その出来栄えを確認する。
 今のところ、なかなか上手くいっていると思う。声もしっかり出ているし、音程も外れていない。振り付けも問題ないはず――
 そう思った瞬間、ずるっと足が滑り、視界が傾いた。
 ちらと足元に目を向けると、ほのかに床が光って見えた。きっと汗を踏んだのだろう。私たちより前にすでに10人以上が審査を受けている。汗の雫ぐらい落ちててもおかしくない。
 私は崩れた体勢のまま、勢いを殺さずにくるりと1回転した。そしてなにごともなかったようにダンスを続けた。歌も途切れさせてはいない。
 なかなか上手くリカバリーできたと思う。予定にはなかったターンだけど、振り付けのアレンジに見えないこともないはず――だけど、ミスだと思われるかな?

 曲が終わり、審査員席に向けて深く頭を下げる。ぱちぱちと拍手の音が湧き起こった。

「ほたるちゃん、途中足すべってなかった?」

 席に戻ろうとする私に、夕美さんが問いかけてくる。

「あ、わかっちゃいましたか……すみません」

「よくあわてなかったね」

「はい。私、すべったりつまずいたりするの、慣れてるので」

 周子さんのプロデューサーさんが注目を集めるように手を叩く。

「じゃあ3人とも退出して、次の人たちには5分ぐらい待つように言ってもらえるかな?」

 残りのふたりのプロデューサーさんが、掃除用具入れのロッカーからモップを取り出している。これからの審査の人たちがまたすべらないように、モップ掛けするということだろう。


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