藤原肇「ドラマの主役ですか?」
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4:名無しNIPPER
2017/10/01(日) 11:11:39.94 ID:rGr4vwwsO
 朝食後、私が鬼に渡した課題は、「般若心経の写経」でした。というより、私が教えられる唯一のことが般若心経でした。しかし、鬼は実に真面目に、毎日何度も、それを繰り返しました。はじめは字の読み書きはおろか、筆の持ち方、墨のすり方、何も知りませんでした。すべて一からの手習いでした。大きな手で、優しくつまむように墨をもち、そっと擦っておりました。筆を使うより、指に墨をつけて書くほうが早そうなのでそうさせました。
筆を持つのも初めてだったらしく、両の手で細い筆を持ち、上を下に、右に左に持ち替えている様は、なんとも愛らしく、自然と笑いがこみ上げてきました。が、当の本人は真剣です。どうにか笑いをこらえていたが、顔の正面にかざして筆を睨みつけた時にはこらえきれずに噴出してしまいました。
「師匠、笑わないでください。筆なんて持つのは初めてなんです。」
情けない顔をしてそう言うものですから、尚更笑えてきます。笑いというのは、一度堰を切ると、なかなか止まらないものですが、どうにか抑えて、謝りました。
「すみません。あまりに鬼らしからぬ、なんと言うか、可愛らしかったものですから、つい笑ってしまいました。」
言い終わると、また笑いがこみ上げ、今度は二人で笑いました。笑いながら、私はふと、思いました。このように声を上げて笑ったのはいつ振りだろうか。この前に心から笑ったのは、いつだったか。人との交わりを極力絶ってから、何日も誰とも口を利かないことなど、よくあることでした。生業としている陶芸の品を売る時も、必要以上のことは話しませんでした。そのことに気付き、いつしか、笑いながら泣いていました。頬をつたう物の意味を忘れかけてしまうほどに、泣いたのもまた、久方ぶりのことでした。解放された涙はとめどなく流れ続け、頬を濡らし、いつしか私は、子供のように声をあげて泣いていました。そんな私を、鬼は不思議そうに黙って見ていた。
ある程度書けるようになると、鬼は一字一句、意味を問うてきました。そして経の意味を知って後は、さらにその奥のことを問うてきました。私もわかる範囲で応え、わからないことについては、共に考えました。二人で考えると、自分では全く気付かない疑問に出会ったりもするものです。そのような時は、どちらが師だかわかりませんねと言い、やはり二人で笑いました。
成り行きのように始まった付き合いでしたが、毎日師匠、師匠と懐かれれば、たとえ相手が鬼であろうと、くすぐったくもあり、うれしいものです。昼夜を問わず没頭し、質問をする鬼に、少しの意地悪を言ったこともあります。そんな時はいつも決まって、悲しそうな、困ったような顔をして、申し訳ないと言うのでした。時には意見の違いから口論もしました。共に山に入って薪を集めた時は、さすがにその力に感心した。いつしか彼女は、私の最も大切な友となっていた。
ある時、鬼は私に訊ねてきました。
「師匠はなぜ、このように人との交わりを避け、人里を離れて暮らしをしているのですか?」と。
思えば、その理由も遠く色褪せていることに気が付きました。当初は、様々な理由がありましたが、何度も春を迎えているうちに、今ではただ、心地よいから、となっていました。幸い、養うべき家族もいないので、この自由気ままな暮らしはこの上なく性に合っていたのです。
正直にそう応えると、鬼はこちらを真っ直ぐにみながら、こう言ってきました。
「寂しいと思ったことはございませんか?」
「そうですね。始めたばかりの頃ならば、時々は寂しく感じたかも知れんが、ここの暮らしもなかなかに賑やかでして。鳥も来れば獣も通ります。季節に合わせて様々な花が咲きます。それだけでも私には十分楽しいものです。それに、時には仏門を志したいという、妙な鬼が訪ねてくれますし。」
そう言って見ると、鬼は照れたように笑っていた。
そうこうしているうちに、約束の一月が経とうとしていました。



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