375:孤独の味(お題:酒)3/7[sage]
2017/01/08(日) 16:36:23.87 ID:eqTV8GGAo
「そう。いや、ちょっとしたことでね。こっちで就活進めてたのに、今更地元に戻ってこいなんて言い出して
さ。実際、まだ本格的に動き出してないから強く言い返すこともできなかった。俺自身、なんで東京で就職した
いかと言われれば、特に理由もないんだ」
私はそう話してからすぐ、余計なことを言ったな、と思った。しかし同時に、それほど親しい相手ではないか
らこそ、好きなだけ話したって構うものかという気になった。その日は酒の席でもないのに、私は妙に饒舌にな
っていた。
「だけど、自立したい気持ちがあり、親とのズレを感じている」
サイトウは低く響く声で言う。私は頷いて続けて言った。
「そう。東京で働きたいという積極的な気持ちはない。けど、地元に戻りたくないという積極的な気持ちがある
わけだ。なんというか、母親と一緒にいるとあの話を思い出すんだ。『今昔物語』霊鬼についての話」
「母親が鬼になって子を食べようとする話」
「そう、それ。千年くらい前の話のくせに、よくできてるぜ。年をとった母親は子を食おうとする。手元に置い
て、ああしろこうしろって自由を奪うんだ。家にいると、自分が食われようとしてるのがわかる」
「それは怒り? 不安?」
「さあね。……まあ、どっちもだろうな。現実問題として学費を払ってもらってたり、世話してくれたのをありが
たく思う気持ちもある。だからそれを後ろ盾にされると反論もできない。それは不快な気分だよ。がんじがらめ
だ。向こうが正しい。でも、こっちは息苦しい。早く経済的に自立して、親に金を返して、独りになりたい」
私のコーヒーは冷めていた。私自身は熱くなっていた。彼に話していると、実家にいた時の荒れた感情がむく
むくと蘇ってくるようだった。サイトウはそれを聞きながら頷き、ときに相槌を打ち、表情をほんの少しずつ変
えてみせた。
結局その日、二時間近くカフェで話し込んでしまった。サイトウは寄るところがあると言って、カフェの前で
別れを告げ、駅とは反対方向に歩き去って行った。彼は夜の雑踏の中にあっというまに消えてしまった。
私は独りで乗った電車の中でようやっと気がついた。彼のことは何一つわからなかったということに。一方で
私のことは何もかも話してしまったようなきがする。大学での交友関係や様々な思い出、考え方、思想、家の位
置まで。
普段私は聞き役に回ることの方が多いというのに、奇妙な経験だった。サイトウは相当な聞き上手だ。自らの
沈黙を守る才能、そして相手から聞き出す才能、それらを隠す才能を持った男なのだ。
その会合を境に彼への見方がすっかり変わった。
それから私は度々彼と食事に行ったり、買い物に行ったりした。それでも彼は常にヴェールの内側に身を隠
し、何も明かすことはなかった。
・・・・・
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