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【デレマス】ファースト・シンデレラ
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38 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:28:29.18 ID:ut4Hw6Jr0
「ところで、昨日の初顔合わせはどうでした?」
「良かったわよ。若い子たちに囲まれてパワーをいっぱい貰えたわ」
昨日はユニットメンバー達との初顔合わせが行われた。
心配だったのは松本沙理奈がやや元気がないように見えたところだ。
自分のスタイルに最大限の自信を持っていると聞いていただけに不安だったが、神山に確認したところ「折ってもらおうと思っていた鼻っ柱が別のところで折られていた」かららしい。
あれ程の美女の自信を挫いたのは誰だか気にはなるが、「そのうち会うだろう」と言われただけだった。
つまり、このプロダクションのアイドルの誰かなのだろうが、ここは所属アイドルが多すぎる。
全員の顔と名前が一致するまで時間がかかりそうだ。
聞いた話だと同じ仕事に入って初めて同じプロダクションのアイドルだと知った例もあるという。
39 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:29:11.46 ID:ut4Hw6Jr0
「春菜ちゃんの『眼鏡どうぞ』から始まって、沙理奈ちゃんのお悩み相談でしょ?比奈ちゃんはお話の引き出しがとても多くて助かったわ。千枝ちゃんが『千枝もみなさんみたいなオトナになりたいです』って言うものだから、もぅいじらしくって、いじらしくって……千枝ちゃんは私たちで守り育てていきましょうってなったの」
指折しながら嬉しそうに話す川島瑞樹の表情で、この5人を組ませてよかったと心から思う。
「川島さん、ユニット名は決まりましたか?」
「もちろん。プロデューサー君達が挙げてくれた候補、どれも素敵な名前だったわ」
コーヒーを一口し、川島瑞樹は決意を込めて答えた。
「その上で、みんなで考えてみたの。私たちに相応しいユニット名……」
40 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:29:41.60 ID:ut4Hw6Jr0
何枚かの紙をテーブルに広げる。昨日、彼女に渡していたユニット名候補と、可愛らしい少女のイラストが数枚。
「比奈ちゃんすごいのよ。候補名でイメージできたイラストを次々書いていって」
『こんなに筆が乗るなんて、なかなかないっス』と語っていたらしいが、さすが同人作家といったところか。
「春菜ちゃんも事前に聞いていたらイメージに合う眼鏡を持ってきたのにって……フフッ……ごめんなさい、脱線しちゃったわね」
本当に、楽しそうだ。やはり川島瑞樹はアイドルになってよかったのだ。
「……私たちが決めたユニット名は『ブルーナポレオン』よ」
41 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:30:30.32 ID:ut4Hw6Jr0
川島瑞樹から渡されたユニット名の書かれた紙には、松本沙理奈の提案を荒木比奈がイラスト化した5人の共通衣装案が書き添えられていた。
神山を始め、他のアイドルのプロデューサーは「ユニットのリーダーは川島瑞樹、彼女の決定に従う」と言っており、何よりもアイドルの自主性を重んじるのがプロダクションの方針である。
二つ返事で部長の了承は得られ、正式に『ブルーナポレオン』によるユニットデビューが決定した。
それぞれのプロデューサーとの打ち合わせを近日中に行えるよう、スケジュールの調整を千川ちひろに依頼した。
「プロデューサーさん、午後からは代理店さんのところに行かれるのですね?」
「そうですね。できれば明日以降でお願いします」
「はい!任せて下さい」
42 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:31:04.87 ID:ut4Hw6Jr0
ハキハキとした言葉遣いが頼もしい。事務員は何人も居るが、その中でも彼女は群を抜いて有能だ。
「世話になることが多くなる」と言われたが、はたしてその通りだった。
「あら、プロデューサー君。今からお出かけ?」
レッスン中だった川島瑞樹が通り掛かった。休憩中なのだろうが、多少息が上がっているようで言葉は短かった。
「はい。今日はレッスンが終わったらそのまま諸所の手続きに行って下さい」
「わかったわ。それじゃぁプロデューサー君。また明日ね♪」
川島瑞樹と別れ、事務所を後にした。
43 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:31:45.67 ID:ut4Hw6Jr0
夕方、打ち合わせは特に問題なく終わった。
広告代理店、化粧品メーカーの営業とで、現在の川島瑞樹は話題性こそあれデビューが発表されたばかりの新人アイドルであることを説明し、本格的なCM起用の話はデビューLIVE以降という方向に落ち着かせた。
帰り際に「ぜひ川島さんに」と新製品の試供品を手渡されそうになったが、あいにく今日は薄めのバッグ一つしか持ってきていない。
営業はそれに気づいたのか「まとめて送るので川島さん以外のアイドルの方や女性スタッフにも」と運送会社を手配し、まとまった数の試供品を送ってくれると約束してくれた。
よほど製品に自信があるのか、川島瑞樹に乗ることを商機ととらえてくれているか。
44 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:32:22.90 ID:ut4Hw6Jr0
(とにかく、まずはスケジュール通り進めることだな)
アイドルに期待するのは何もファンばかりではない。
様々な企業や業界がそれぞれの思惑で動いてくるだろう。
それら全てが今回のような好意的な反応を見せるわけではないだろう。
「ピピーッ」風を切って笛の音が響いた。
ふと目をやると、どうやら駐車違反の取り締まりをしているようだ。
1人の婦警が、路肩に停車している車の移動を指示しているようだ。
その婦警を目にして、一つの可能性が頭をよぎる。
記憶の中の映像と比べてみて、身長は少し高く、髪の色も……少し違う。
でも、もしかすると、もしかするかもしれない。
10年経ったのだ。面影は変わっていて当然。だが、もし別人なら……。
45 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:32:59.15 ID:ut4Hw6Jr0
(プロデューサー君、もしその子と再会したら何をやっていたとしてもスカウトしちゃえばいいのよ)
以前、川島瑞樹から言われたことを思い出す。
「あの……」
気がついたら肩をたたいていた。瞬間、肩に手を回され、右腕を思いっきり引っ張られ……。
「痛っ!」
視界が反転し、青空が目に飛び込んでくる。幼くみえる顔が、いたずらっぽく舌を出していた。
「ごめんねー。お姉さん、日頃の癖でいきなり掴まれると投げ飛ばしちゃうんだ。職務中の警官をナンパしようとか、いい度胸ね♪」
楽しげに話しかけてくる。見た目よりもう少し年齢があるのかもしれない。
46 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:33:33.83 ID:ut4Hw6Jr0
「いや、ナンパというわけでは」
立ち上がり、スーツの埃を払いながら答えた。
「昔の知り合いに、少し似ていたように感じて」
「ナンパの常套句じゃないの。もう、いくらお姉さんがかわいいからってそんな嘘ついちゃって……」
(常套句なのか?)
ナンパなどしたこともないのでよく分からない。
しかし、彼女がそういうのなら過去にそんな風に声をかけられる機会が多かったのだろう。
「怪しいなぁ……よし!職務質問よ!何か身分を証明できるもの、持ってる?」
47 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:34:06.51 ID:ut4Hw6Jr0
「あ、怪しいものでは……。これ、名刺です」
言われるがまま名刺を差し出してしまった。
かなり強引な人のようだ。
それに冷静になってみると低い身長、髪色の系統、幼気な顔立ちとあの子との共通点はあるが、もしかして、と思うほど似ていないのに気づく。
(何を焦ってたんだろうな、俺)
こちらの思惑もどこ吹く風、婦警は名刺を受け取って覗き込んだ。
48 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:34:37.51 ID:ut4Hw6Jr0
「ふーん…………おおっ!芸能プロダクションのプロデューサー!?へー……スゴいじゃない!ナンパじゃないとしたらスカウト?キミ、見る目あるじゃない♪」
「え?」
唐突な話の展開に思わず声が漏れた。
「え?じゃないわよ。失礼しちゃう!」
ムッと頬をふくらませるが、むしろ子供っぽい可愛らしさが強調されているだけで怖さは微塵もない。
その声音はどことなく楽しそうだ。
49 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:35:10.49 ID:ut4Hw6Jr0
「本当に昔の知り合いと思っただけってことね。信じてあげるわ!」
低い位置から肩をバシバシと叩いてくるが、このカラッとした笑顔は何物にも得難く感じてきた。
「さて、あたしは職務に戻るから。知り合いにも会えるといいわね」
両拳を腰に据え、「行ってよし!」と言わんばかりの大きく口を開いた笑顔。
「アイドルに、興味はありませんか?」
気がつけば、そう声をかけていた。
50 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:35:48.62 ID:ut4Hw6Jr0
もともと直帰予定だったこともあり、その後は彼女の仕事が終わるのを待ってからとなった。
彼女、片桐早苗が勤める警察署から少し離れたカフェ店での待ち合わせとなった。
1時間ほど経ち、辺りが薄暗くなる頃、待ち合わせ場所のカフェに入る。
コーヒーをいっぱい注文して席につくと、スマートデバイスに見慣れないアドレスからのメールが着信した。
『今からいくわ。10分後くらいに。さなえ』
これまで話した印象とは異なる簡潔な文章。
彼女の中にも何か迷いのような感情があるのかも知れない。
51 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:36:17.56 ID:ut4Hw6Jr0
(は?さっきのは冗談で……。あ、あたしがアイドル!?またまた〜)
アイドルの話を持ち出した際、明らかに動揺していた。自分が最初に「スカウト?」とか言ってきたにも関わらず。
(やっぱりナンパだったんじゃなーい?ふふっ)
動揺はすぐに収まったようだが、話の展開は不審なものだったのは認めざるをえない。
(わかった!キミ、ちょっと面白いから話くらい聞いてあげるわ!)
そして、現在に至っている。
52 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:36:48.60 ID:ut4Hw6Jr0
(片桐早苗、新潟県出身、28歳……川島さんと同い年か。柔道空手合気道の有段者で、大学卒業後警視庁に入庁。階級は巡査部長、交通部交通指導課勤務……)
メモしていた内容を見直しながら待つところ数分、片桐早苗がやってきた。
「おまたせー……ってなによその顔?」
「いや、私服のセンスが独特というか……」
一昔前の派手な色の、ボディコンスーツと言っていいのだろうか。童顔の片桐早苗にはあまり似合っていると思えない。
「あたしがなにを着ようが、あたしの好きでやってることっ!センスが古いのはわかってるけど、好きなことは貫かなきゃね!」
大きく口を開いて笑う片桐早苗の声は、自分を曲げない力強さに満ちていた。
53 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:37:20.84 ID:ut4Hw6Jr0
「それで、夕方の話なんだけど……、なんであたしをスカウトしようと思ったの?」
大きな目を見開き、怪訝そうに尋ねてくる。
「警察官より向いてるかな、と思いました」
「あーそう?たしかにお堅いシゴトって向いてないなーって最近思ってたのよねー」
片桐早苗の職務中のふるまいは、特に警察官として逸脱していたわけではない。
ただ、くだけた話しかたは警察官らしいとは思わなかった。
「この方をご存知ですか?」
事務所から持ってきていたスポーツ紙や芸能誌のコピーを取り出す。
54 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:37:51.04 ID:ut4Hw6Jr0
『川島瑞樹 28歳の再挑戦!』
『女子アナからアイドルへの華麗なる転身!』
『28歳の覚悟!アイドル、川島瑞樹の魅力に迫る!』
今朝、川島瑞樹と話していた際に見ていた資料。
「スポーツ紙でみた程度には、かな?あたしと同い歳で女子アナからアイドルに転身なんてスゴいわねーって。まさかあたしが声をかけられるなんて夢にも思わなかったけどね」
表情をころころ変えながら、最後には少しはにかむように笑った。
おそらく、彼女自身が言ったよりもっと大きな関心事だったのだろう。
55 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:38:20.85 ID:ut4Hw6Jr0
「川島瑞樹さんの所属は弊プロダクションです。そして、俺は彼女のプロデューサーを務めています」
「ホントに?」
「本当です」
「ちょっと信じられないわ。そんなうまい話、あたしに降ってくると思えない」
片桐早苗から今までの明るい表情が消え、明らかに怪訝な眼差しを向けてきた。
それもそうだろう。明るく、顔立ちこそ童顔だが片桐早苗も28歳なのだ。
世の中にはうまい話などそうそうあるものではないことも知っているだろう。
なにより彼女は警察官なのだ。うまい話をダシにして人を騙し、甘い汁を吸うような輩がいることなど誰よりも知っている。
56 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:38:51.95 ID:ut4Hw6Jr0
「そこで、職場体験を提案します」
誠意を見せる必要がある。
川島瑞樹の時のように何年も付き合いがあるわけではない。
片桐早苗に人生を変える決断をしてもらうには、駆け引きなど必要ない。
実際に会社を見てもらい、レッスンをするアイドル達を見て、スケジュールが合えば川島瑞樹にも会ってもらう。
こちらの提案を聞いた片桐早苗の瞳から、疑惑の色は消えているように思えた。
「片桐さん、次の休暇はいつですか?」
57 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:39:27.78 ID:ut4Hw6Jr0
「驚いたことに明日なのよ。あははっ、今日はこの後、一杯ひっかけて、明日は何も気にせずお昼くらいまで寝ていようと思っていたのに……」
片桐早苗は「困ったわね」と呟く。
「明日、朝10時でいいかな?」
「飲み過ぎないでくださいよ?」
「あはは!」
俺の返しに、片桐早苗は笑った。
「大丈夫よ!ちゃんと起きれるくらいしか飲まないから!お姉さんを信じなさい!」
58 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:40:04.05 ID:ut4Hw6Jr0
「それで、スカウトしちゃったんだ?トレーナーの麗ちゃんと何を話しているのかと思ったわ」
翌朝、事務所で川島瑞樹に昨日の話をした。
なぜ声をかけたのかというのは適当に言い繕っておいたが。
千川ちひろにはアイドル候補からの来客があること、トレーナーの青木麗にはアイドル候補の見学者が来ることを伝えている。
「そうですね。良ければ川島さんも会ってもらえませんか?」
59 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:40:33.99 ID:ut4Hw6Jr0
「わかったわ。片桐早苗さん、話を聞いていたらとても楽しそうな子だし、同い年だし、それに、フフフッ、お酒もいける口みたいね」
やはり同年代で、しかも酒好きと嗜好があう仲間が増えるかも知れないというのは心強いのだろう。
「まだ片桐さんがアイドルになるかは分からないですけどね」
「なってくれるわ、きっと」
そう、なってくれるという確信がある。
目の前の川島瑞樹が、初めてプロデュースするアイドルだとしたら、片桐早苗は初めてスカウトしたアイドルになるのだから。
もうひとりのファースト・シンデレラに、彼女ならきっと。
60 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:41:03.49 ID:ut4Hw6Jr0
「プロデューサーさん、片桐早苗さんがお見えですよ」
千川ちひろから声がかかる。
「あぁ、いま行きます」
「プロデューサー君、レッスンが終わったら私も行くわ」
川島瑞樹に礼を言い、応接へと向かった。
「プロデューサー君、おはよう!来たわよ!」
応接室には、昨日とは打って変わってスーツ姿の片桐早苗が居た。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
61 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:41:35.40 ID:ut4Hw6Jr0
「こっちこそよろしくね!」
目を輝かせている片桐早苗の様子から、まずは心理的なわだかまりが無くなっていることがわかる。
芸能プロダクションのプロデューサーを名乗る男から、間違いなくプロデューサーであることがはっきりしたのが大きいのだろう。
「それで、何を見せてくれるの?」
「各施設からご案内して、その後にレッスンルームへご案内します」
「ふふっ学生時代に戻ったみたい」
わだかまりがなくなり、昨日、声をかけたときのような明るい笑顔を振りまいていく片桐早苗の様子を、各施設のメンバーたちも暖かく見守ってくれていた。
62 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:42:13.46 ID:ut4Hw6Jr0
彼女の明るさ、気風の良さ、愛嬌が様々な人たちと話すたびに見えてきて、まわりのメンバーもそんな彼女につられて笑顔になっていた。
やはり片桐早苗はアイドルに向いている。
食堂での昼食に舌鼓を打ってもらった後、レッスンルームに案内した。
歌のレッスン、魅せ方のレッスン、そしてダンスレッスン。
基礎的な部分だけであるが一通り見てもらう。
「なにかやってみますか?」
「そうね……ダンスレッスンとかやってみたいわ」
「大丈夫ですか?昨日のお酒が残っているのでは?」
「そこまで飲まないって言ったでしょ……シメるわよ♪」
俺たちの会話を見て、レッスンに参加しているアイドル達も自然と笑顔が零れていた。
63 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:42:45.42 ID:ut4Hw6Jr0
「でも、今日スーツなのよね。もっとカジュアルな格好にしておけばよかったかしら?」
「そういうことなら!今日たまたま予備を持ってきていた私のレッスンウェアをお貸ししますよ!はっ、これはもしやサイキック予知だったのでは?」
レッスンメンバーの1人、堀裕子が元気な声を上げた。身長は問題ない、だが……。
「ありがと。でもちょっとトップが……ね……」
片桐早苗は少し言いよどんだ。
さすがにストレートに胸が窮屈になるとは言えなかったようだ。
「それならー、トップは私の予備をお貸しするというのはーどうですかー?」
もう1人のメンバー、及川雫がゆったりと声をかける。
彼女は背も高く、そのバストサイズはプロダクション内でも最大を誇る。
「ぶかぶかだろうけど、伸びちゃうよりいっか!ありがと、ふたりとも!」
64 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:43:24.91 ID:ut4Hw6Jr0
「ふえー……きつかったわー……」
ダンスレッスンの体験が終わった後、片桐早苗は完全にへばっていた。
「こういう時はキンッキンに冷えたビールが飲みたいわー……。プロデューサー君、ちょっと買ってきて?」
「ダメです」
さすがに半日ほど行動をともにしていると気兼ねない会話ができるようになってきたと感じる。
「しかし、柔道空手合気道と武道の有段者でもきつかったでしょう?」
「そうねー。身体の使い方が全く違うからね……まぁここまで動いたのも久しぶりだったけどね……あー……ビール飲みたいー」
片桐早苗は水を何杯も口にしながら息を整える。
65 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:44:01.40 ID:ut4Hw6Jr0
川島瑞樹のレッスンが終了してしばらく経っている。
そろそろこちらに来る時間だ。
彼女との話が終われば、片桐早苗に今の気持ちを聞くつもりである。
コンコン、とノックする音、「どうぞ」と入室を促した。
「はぁ……今日は特にきつかったわ……。プロデューサー君、ちょっとビール買ってきて?」
とんでもない事を口走りながら川島瑞樹が入室してきた。
66 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:44:31.47 ID:ut4Hw6Jr0
「何を言ってるんですかあなたは」
「フフッ……だって、ちょっと聞こえてたのよ。片桐さんの声。それに片桐さんの気持ち、わかるわ。はじめまして。川島瑞樹よ」
「えっ!ちょっと!」
片桐早苗は慌てて立ち上がった。
「変なところ見せちゃったわ……。はじめまして。片桐早苗よ。これからよろしくね」
片桐早苗の言葉を受け、俺は川島瑞樹と顔を見合わせる。
67 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:45:14.39 ID:ut4Hw6Jr0
「あら、その様子だともう決めちゃってる?」
「片桐さん。アイドルになっていただけるんですね?」
片桐早苗は、両拳を腰に当てて、気持ちよく笑った。
「あははっ!もうほとんどそのつもりだったけどね。はっきり決めたのは今よ!」
「今、ですか?」
「そうよ!たった今!」
片桐早苗は川島瑞樹と向き合った。
「川島さん……いいえ、瑞樹ちゃん!辛いレッスンの後に飲むビールは最高よね!」
「片桐さん……いいえ!早苗ちゃん!わかるわ!」
二人は熱い握手を交わしていた。
俺は一体何を見せられているのだろうか。
68 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:45:45.95 ID:ut4Hw6Jr0
とは言え、片桐早苗の決意を最後にひと押ししたのは、紛れもなく川島瑞樹の一言だったのだろう。
「……では片桐さん。次は退職までのスケジュールを教えてくださいね。公務員なんですからそこはしっかりしてください」
「わかってるわよ!プロデューサー君!さて、ふたりとも!今日の予定は?」
キラキラと目を輝かせ、片桐早苗は尋ねる。
「今日ですか?これからは特に……?」
「わかってないわね、プロデューサー君。ここにビールが飲みたいって女の子が二人もいるのよ?」
つまり?
「「ちょっと付き合いなさい♪」」
69 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:46:29.48 ID:ut4Hw6Jr0
― 第二章「片桐早苗」 了 ―
70 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/26(土) 22:47:31.86 ID:ut4Hw6Jr0
今日はここまで。続きは明日27日の夕方に投下します。
明日の投下で完結します。
71 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga sage]:2022/11/26(土) 23:45:42.05 ID:Wb6XSBEDO
?「ビール?!キャッツの試合はないけどつきあうよ!」
?「おさけのトラブルはさけなければいけませんからね……ふふっ」
72 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:31:14.92 ID:EM6Mdgk00
再開します。
73 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:31:54.01 ID:EM6Mdgk00
何になりたいのかとか、どう生きたいのかとか、何も考えずに生きてきた。
高校3年生だった俺は、単に何かと子離れしてくれない親元を離れたいという軽薄な動機で、地元を離れて関西の大学を志望していた。
やりたいことは、もっと歳をとったら見つかるだろうか。
そう思いながら過ごしてきた。
成績は割と良い方だったこともあり、それなりに名のしれた大学に進学できそうではあったが、将来に向けて何の目的もないまま過ごしていた。
74 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:32:57.27 ID:EM6Mdgk00
初夏の土曜日。
その日、受験勉強の息抜きに街をぶらついていた。
通りがかった雑居ビルの方から、にぎやかな声が聞こえてくる。
近くのライブハウスから漏れている声々に興味が惹かれ、ほんの気まぐれに足を踏み入ったことは覚えている。
「…………、………出身の16歳でーす♪」
チケットを買って扉を開いた。キンキンと高い声がライブハウスに響き渡る。
最初に出会った際に、名前と設定を話したところを聞きそびれたのは今でも覚えている。
メイド服のような衣装を着て、ウサギ耳のカチューシャをつけた、ポニーテールの女の子だった。
75 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:33:28.67 ID:EM6Mdgk00
(……地下アイドルってやつか)
あの頃はそういう分野にあまり興味がなかったが、こうやって必死に夢を追っている女の子たちがいることくらいは知っていた。
「今日はじめて!ステージに上げさせてもらいましたよー!」
なんて眩しい笑顔なのだろう。
なんて嬉しそうな声なのだろう。
「皆さん!今日は私のステージにきていただいてありがとうございます!精一杯歌いますね♪」
76 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:34:10.60 ID:EM6Mdgk00
特別に歌がうまいわけではない。
それでも、小さな体から発せられている歌声は、このステージの先にきっとある、夢を信じていたからだろう。
必死に歌い、必死に踊る、その一挙手一投足に目を奪われていた。
心のなかでは(がんばれ!)と何度も叫んでいた。
「ありがとうございました!」
曲が終わったと同時に、自然と拍手をしていた。
ただ、拍手も歓声もまばらだった。
そう、彼女はまだまだデビューしたての地下アイドルだったのだから。
彼女の出番の後も、ライブは順調に進行していった。
何人かの地下アイドル、何組かのインディーズバンドのパフォーマンスが続けられたが、頭の中には、彼女の、夢をまっすぐに信じる瞳と、喜びを弾けさせた笑顔だけが残っていた。
77 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:34:41.03 ID:EM6Mdgk00
その後は、受験勉強を続けながら、あのライブハウスに通っていた。
彼女の出演は土日だけ、しっかり勉強することが地下アイドルを続ける条件だという。
そんな彼女を見習って、俺も成績を落とさないよう受験勉強に励んだものだった。
そして、何度目かのライブの後、初めて彼女と話す機会を得る。
少しずつ彼女の認知度は上がっていたようで、ライブ後に握手会が開かれることになったのだ。
78 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:35:30.29 ID:EM6Mdgk00
「あぁっ!いつもありがとうございますー♪」
型通りの挨拶だった、と思いきや……。
「初ライブの時から、毎回見にきてくれてますよね〜。嬉しいです!」
驚きのあまり、一瞬固まってしまった。
「あの、その、いつも応援しています!頑張ってください!」
年下の女の子に敬語で挨拶をしていた。
どれだけ緊張していたのだろう。
「はい!また見にきてくださいねぇ♪」
ふにゃっとした、という表現がしっくりくる微笑みで、握手をしてくれた。
小さな、柔らかい手だった。
79 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:36:14.03 ID:EM6Mdgk00
それから何度もライブハウスに足を運んだ。
何度かの握手会を重ねる内に、少しずつ、少しずつ、彼女の話を聞く機会も増えてきた。
アイドルだけではなく声優の仕事もしたい。
お姫様のようなアイドルになりたい。
アイドルとしての設定(設定ではなく本当だと強弁していたが)について、アニメの話。ゲームの話。
こちらの話も少しずつ聞いてもらっていた。
受験の話。進学の話(関西の大学に行くと言った時は、寂しそうにしてくれたものだ)。
そして、将来何になりたいか。
80 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:36:53.57 ID:EM6Mdgk00
「君がトップアイドルになっても、こんな風に話ができるような仕事が良いな」
そんなことを口走っていた。
「それじゃあ、芸能事務所のプロデューサーさんとかどうですか?そうしたら一緒にお仕事もできるかもしれませんねぇ」
光が差し込んだような気がした。
そこから、今の人生が始まったのだから。
人生を変えてくれた初めてのアイドル。それが彼女だった。
試験の前に行ったライブ後の握手会では逆に応援してもらった。
大学への進学で故郷を離れる前、最後の握手会でも話をした。
81 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:37:33.52 ID:EM6Mdgk00
「もう少しでお誕生日だったんですが……仕方ないですよねっ!頑張って下さい♪」
最後に会った彼女は、本当に寂しそうにしてくれていた。
「君も、4月からはここより大きいライブハウスに行くんだろう?お互い頑張ろうね」
彼女もまた、新しい舞台へ挑戦していこうとしているのだ。最後の握手の後、握り拳を作って彼女に見せる。
「芸能界での再会を祈って」
大きな瞳にうっすらと涙を浮かべていた彼女。
小さな握り拳を作って、俺の拳と合わせた。
「次に会う時は……」
82 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:38:31.04 ID:EM6Mdgk00
―――目が覚めた。
何度も見てきた夢だけど、ここまで鮮明にあの頃を思い出すのは久しぶりのような気がする。
大学から今まで、実家に戻る機会は盆と正月くらい。
「芸能界で再会するまで」なんて言わず、彼女の行き先を聞いておくべきだった。
何をカッコつけていたのか。
だけど、もしその後も理由をつけて彼女に会いに行っていたら。
そうして、どこかで夢を諦めてしまった彼女を見ていたら、今の俺はなかったかも知れない。
そうしたら川島瑞樹とも、片桐早苗とも出会うことはなかった。
それに、川島瑞樹はまだしも、片桐早苗がアイドルになることはなかっただろう。
片桐早苗は既に警察官を辞め、正式にアイドルとしてプロダクション所属となった。
二人のアイドルの未来は俺の肩にかかっている。
いつまでも思い出を引きずっているわけにはいかない。
83 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:39:04.55 ID:EM6Mdgk00
「あら、おはようプロデューサー君」
「おはようございます。川島さん」
川島瑞樹の朝は早い。
アイドルである彼女が定刻通りに出社する必要はないのだが、事務所に寄る用事があるときは、まず俺より早く来て新聞や雑誌を読んでいる。
特に新聞に関しては必ず複数社の記事に目を通す。
アナウンサー時代の癖だと言うが、学ぶことへの貪欲な姿勢が、彼女の魅力のひとつだろう。
そして今日は、1人の小さな訪問者が居た。
84 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:39:42.80 ID:EM6Mdgk00
「おはようございます。プロデューサーさん」
「おはよう、佐々木さん」
ジュニアアイドルの佐々木千枝。
ユニット「ブルーナポレオン」の最年少メンバーだ。
川島瑞樹のデビューライブの際、松本沙理奈、荒木比奈、上条春菜とともにバックダンサーを務め、そのまま5人でのユニット活動が発表された。
以来、「ブルーナポレオン」としてのユニットライブに向けてレッスンに励んでいる。
85 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:40:12.14 ID:EM6Mdgk00
控えめでおとなしい少女だが、学ぶことへの積極性は眼を見張るものがある。
先ほどから川島瑞樹と共に新聞を読んでいたが、読めない字やわからない表現が出てくると、川島瑞樹に尋ねていた。
「学校の先生になったみたいね」と川島瑞樹は微笑んでいたが、しっかり者の佐々木千枝の存在が、ユニットメンバーをまとめる鍵になっているようだ。
4人ともが、この少女の前では憧れの「大人のお姉さん」であろうとするからだろう。
86 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:40:42.14 ID:EM6Mdgk00
「川島さん。少ししたら、来週のスケジュールを確認しましょう」
「わかったわ。いつでも声をかけてね」
専用の事務室に入り、普段どおりメールと、アイドルのスケジュールを確認する。
片桐早苗のレッスンはもう少し先の時間。
とは言え彼女もまもなく出てくることだろう。せっかくだから二人揃っての確認にしようと決める。
二人とも、持ち前のコミュニケーション能力で既に多くの同僚たちと親交を深めていた。
それでもやはり、最も気が合うのはお互いのようだ。
87 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:41:12.87 ID:EM6Mdgk00
「おはよう!プロデューサー君!なにか用事ある?」
そうこうしていると、片桐早苗がやってきた。
「おはようございます、片桐さん。10分後に、来週のスケジュールを確認させて下さい」
「わかったわ!」
そう言うと、片桐早苗は元気に去っていった。
おそらくリフレッシュルームに寄っていくのであろう。
それもまた彼女の日課のようなもので、暇があればリフレッシュルームで同僚のアイドル達と雑談をしている。
そうやって様々なアイドルたちの話を聞き、親交を深めて行っているようだ。
(さて……。川島さんを呼びに行くか)
今日という長い一日は、そうやって幕を開けたのだった。
88 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:41:47.66 ID:EM6Mdgk00
二人のスケジュールを確認し、今のところ無理のない配分になっている事を確認する。
川島瑞樹には新しい化粧品のCMとバラエティ番組でのレポートコーナーへのオファーを、片桐早苗には数件の営業への出演予定を伝えた。
二人のスケジュール自体はかなり先まで埋まりつつある。
その中でもレッスン時間を確保しつつ、新しい仕事に入り、認知度を高めていく必要がある。
とはいえ、もともと鳴り物入りでのアイドルデビューであり、話題性の高かった川島瑞樹とは異なり、片桐早苗は何本かのバラエティ番組に出演したとはいえ、まだまだ地味な仕事が多い。
それでも、文句ひとつ言わずに明るくこなしていく片桐早苗に、早く大きなステージを用意したいものだ。
89 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:42:23.42 ID:EM6Mdgk00
今日は何件かの広告代理店、ドラマの制作会社、提携先のレコード会社を訪問する。
季節は初夏。外回りをするのにも難儀な季節になってきたが、すべてはアイドルのため。そう思うと何の苦にもならない。
プロダクションに届く出演依頼やオーディションの案内はある程度の役柄に限られており、端役やエキストラのような仕事は探しに行く必要がある。
それに、イメージに合うようなタレントがなかなか見つからないこともあるだろう。
訪問回数を増やして縁を作っておけば、思いがけないオファーが来るかもしれない。
事務室に座っているだけで仕事が降ってくるわけがないのだから。
90 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:43:24.09 ID:EM6Mdgk00
「前職は警察官でしたが、お祭好きの明るい性格。片桐さんはそんな女性でしたね」
レコード会社での打ち合わせの際、先方のプロデューサーが切り出してきた。
「ウチの若いメンバーが、80〜90年代のディスコブームに興味があるようで、彼女の宣材写真を見てピンときたらしいです」
「ありがたい話です」
「任せてみますか?彼らに」
そうして、彼ら制作した楽曲を聞かせてもらう。イメージは、共有できているようだ。
「ぜひ、お願いします」
深々と頭を下げた。願ってもないことだが、片桐早苗のデビューシングルの制作プロジェクトが始まったのだ。
(片桐さん、きっと喜んでくれるぞ……)
黄昏時を迎えた街中を、吉報を抱えて家路につく。
今日は週末。報告は来週の頭となるだろう。喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。
91 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:43:57.86 ID:EM6Mdgk00
そんな矢先、ポツリ、と鼻先に水滴が降ってきた。
(今日は、夜から雨だったか?)
天気予報を確認し忘れていたこともあり、傘を持ってきていない。
雨はしだいに強まり、いよいよ本降りとなってきた。
(参ったな……)
運悪く、近くにコンビニエンスストアはなく、目的の駅まではまだ遠い。
雨雲の予報を確認するも、1〜2時間は止みそうにない。
近くに時間をつぶすような場所はと検索してみるも、付近にはメイドカフェくらいしかないようである。
ああいったものはあまり得意ではない。
普通のカフェでもあればよかったのだが。
92 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:44:58.18 ID:EM6Mdgk00
19時、夜の帳が下り、街頭の光が雨に反射して、光の道を作っているようだった。
雨は少し勢いを弱めていた。今のうちに少しでも、と道向かいの屋根付き歩道に移動する。
(ふぅ……)
ようやく人心地がついた。
この道ならしばらくは雨に打たれることもないだろう。
しばらく歩いていると、先ほど検索で出てきたメイドカフェが目に入る。
と、同時に1つの看板が目に入る。
【3階ライブハウスにてアイドル劇場開催中!】。
小さなビルだったが、昔行っていたあのライブハウスよりは広そうである。
1階にメイドカフェ、3階にライブハウスということは、1階の従業員の何名かは、地下アイドルとしてステージに立っているのだろう。
93 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:45:52.71 ID:EM6Mdgk00
雨はまだ止まない。先ほどよりまた、勢いを増したようだ。
(メイド、メイドか……)
本当に何気なく、だった。あの時も、そして今も。
チケットを買い、劇場に足を踏み入れる。
ちょうど最初のアイドルのステージが終わり、二人目の登場を待っているようだ。
ステージの前方には熱心なファンと見られる観客たちが十数名固まっており、他のアイドル目当てや、珍しいもの見たさの観客が少し距離をあけて雑談をしている。
どことなく懐かしい風景。かつては俺も、あんな風に距離を開けて眺めており、やがて前列に陣取るようになっていたものだ。
もしかしたら意外な拾い物があるかも知れない。
そんなことを考えながらステージを眺める。
94 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:46:24.52 ID:EM6Mdgk00
会場のライトが消え、ステージがライトアップされる。
そうして、舞台袖からひとりの小柄な女性が飛び出してきた。
メイド服のような衣装を着て、ウサギ耳のカチューシャをつけた、ポニーテールの……。
(まさか……そんな……)
心臓が飛び出そうになる、とはこのようなことを言うのか。
早鐘のように鳴り出した鼓動。見間違えるはずもない。
95 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:46:57.14 ID:EM6Mdgk00
「こんばんはー!今日もナナのステージにきてくださってありがとうございます!」
あの子が、安部菜々が、居た。
96 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:47:39.35 ID:EM6Mdgk00
「以上!新曲『ウサミン伝説最終章・第4話・その8』を聞いていただきましたー♪」
聞き入っていた。曲の良し悪しや、歌の巧拙ではない。
何が起こったのかまだ理解できていなかったが、あの頃のままの姿かたち、あの頃のままの歌声、それでいて、疲れているような感情。
俺はすぐに近場のスタッフに声をかけ、名刺を渡し、ライブハウスの責任者に話を通した。
あの子と、安部菜々と話がしたい、と。
責任者は名刺を見て目を丸くしていたが、今はそんなことはどうでもいい。
会場はまばらな拍手と、十数人の掛け声。
笑顔で舞台袖に退出する安部菜々を追うように、スタッフを伴ってステージ裏へと入っていった。
97 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:48:20.18 ID:EM6Mdgk00
「はぁ……」
控室、安部菜々はそこに居た。
ため息まじりにうつむいて、息を整えているようだった。
(覚えているだろうか……)
不安だった、だけど。
(プロデューサー君、もしその子と再会したら何をやっていたとしてもスカウトしちゃえばいいのよ)
あの日、川島瑞樹からかけられた言葉を再び思い返す。
会えたら良い、ではない。目の前にいる。
「あの……」
遠慮がちに声をかけた。
98 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:48:55.16 ID:EM6Mdgk00
「え、はい!」
今にも泣き出してしまいそうな顔で、安部菜々は振り向いた。そして。
「あぁ〜♪お久しぶりです!懐かしいですねぇー」
あの頃と同じような、ふにゃっとした微笑み。
「覚えていて、くれたんだ……」
「もちろんですよ!だって、ナナの最初のファンだったんですし、でも……」
……言葉が止まった。
「こんなところで再会しちゃうなんて……思わなかったですけどね……」
困ったように眉尻を下げ、小さく呟く。
99 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:49:27.34 ID:EM6Mdgk00
「菜々さん、これを……」
名刺を差し出した。
「……芸能プロダクションのプロデューサーさん!?ええええっ!」
驚きの声とともに、安部菜々の表情は喜びに満ちていく。
「夢、叶えちゃったんですね!わぁ〜♪おめでとうございます!」
まるで自分のことのように喜んでくれる。そんな所もあの頃のままだ。
「それで、プロデューサーさんはどうしてここへ?」
ひと通り喜んだあと、困ったような顔を向けてくる。
「その前に」
一息ついた。
100 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:50:00.02 ID:EM6Mdgk00
「アイドル・ウサミンの自己紹介。また聞かせてくれないかな?」
「は、はい!」
笑顔。ずっと変わらないままの笑顔。
「え〜と、あの時とちょっと違うんですけど……。ちょっとまってくださいね!ンッ!深呼吸します!」
大きく息を吸って、大きく吐いて、挙動がいちいち大きくて。
「キャハッ☆ナナはウサミン星出身の永遠の17歳!声優アイドルになるため、ニンジンの馬車に乗って、ウサミン星から地球にやってきましたっ!はい、ウーサミン☆」
「ウーサミンッ」
「アハッ♪常連さん達に、もう飽きたって言われてますけど、毎回ちゃんと返してくれるんですよねー」
照れたような、困ったような、でも嬉しそうに。
101 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:50:31.84 ID:EM6Mdgk00
「今日もそうだったね。それで改めてお伝えしたいことがあります」
敬語に切り替える、ここからは仕事の話だ。
「ど、どうしたんですか?」
急によそよそしい言葉遣いになって困惑させてしまったのだろう。
でも、これは必要なことなのだ。
「我がプロダクションで、メジャーデビューしませんか?」
102 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:51:01.92 ID:EM6Mdgk00
「ええええっ!?ス、スカウトですかっ!ナナ、メジャーデビューできるんですかっ!?」
表情をコロコロ変えながらずっと驚いている。
それもそうだろう、おそらくずっともがいていた暗闇に、急に光が差しこんだのだから。
「はい。菜々さんを必ずトップアイドルにします」
右手を差し出す。
ファンとアイドルとしてではなく、プロデューサーとアイドルとしての、最初の握手。
「あ、ありがとうございますっ!よろじぐおねがいじまずっ!」
涙声まじりに握り返してくれた小さな手は、あの頃よりちょっとだけ、硬くなっていた。
103 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:51:39.54 ID:EM6Mdgk00
月曜日、出社して最初にやったことは、事務室の掃除だった。
(週明けに、身分証明証と履歴書を持って本社事務所を訪ねて下さい)
(はいっ!それにしてもびっくりですっ!まだ夢の中にいるみたいです〜。早起きしてお邪魔しますね♪)
安部菜々は今日、ここを訪ねてくる。
雑然とした事務室を少しでも片付けておきたかった。
「おはようプロデューサー君。今日は早いわねー」
「おはようございます。川島さん」
珍しく、自分より先に出社しているプロデューサーを見かけた川島瑞樹は、何も言わずに片付けを手伝いだした。
104 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:52:09.35 ID:EM6Mdgk00
「川島さん、アイドルに雑用を手伝わせるのは悪いですよ」
「大事なお客さんがくるんでしょ?わかるわ」
女の勘というやつだろうか?
「早苗ちゃんが初めて訪ねてきた時も、プロデューサー君はこうやってお掃除していたじゃないの」
そうだっただろうか。
通したのは応接室だったが、事務室も見せる予定だったので、川島瑞樹と会話しながら書類を整頓していたのは覚えている。
105 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:52:39.36 ID:EM6Mdgk00
「早苗ちゃんの時は10時に来る予定だったから、いつもどおり出社してからお掃除していたんでしょうけど、今日はいつもより早く出社してからのお掃除でしょ?朝早くから来るかもしれないのなら、私にも手伝わせて?」
本当によく気が付く女性だな、と改めて思う。
「おはよう!何だか早起きしちゃったから来ちゃったわ♪」
片桐早苗が事務室にやってきた。
確かに、いつもより1時間以上早い。
なぜ今日に限ってかは置いておいて、片付けの手を止める。
106 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:53:09.23 ID:EM6Mdgk00
「片桐さん!ソロデビュー曲の制作が決まりましたよ!」
「本当!?やるじゃない!プロデューサー君!」
「あらっ!おめでとう早苗ちゃん!」
まずは3人で喜びあい、片桐早苗を祝福する。
「それで、どうしたの朝っぱらから?二人して片付けなんて」
それは……。
「ふふっ。今日はプロデューサー君の大事なお客様、そしてきっと、私たちの新しい仲間がやってくるのよ」
「へぇ!それじゃ、張り切ってお掃除しないとね!」
こちらがなにも言っていないというのに、確実に真実を言い当てていく。これが年の功なのだろうか?
107 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:53:49.00 ID:EM6Mdgk00
「プロデューサー君。今、すっごく失礼なこと考えてなかった?」
「よし、シメる♪」
「お、落ち着いて下さい。感心してただけですよ?」
川島瑞樹との付き合いは長いが、最近は特に考えていることが読まれるようになっている気がする。
アイドルとプロデューサーとなり、共にする時間が増えたのもあるのだろうか。
「それで、どんな子をスカウトしてきたの?」
片桐早苗はホウキを手にとって、床を掃いてくれていた。
「ふふっ」
机を拭きながら、川島瑞樹が笑う。
「あら、もしかして?」
川島瑞樹の仕草から片桐早苗はなにかを察したようだ。
ここ何分か、この件についてろくに言葉を発していないはずなのに、順調に外堀が埋まっているのを感じる。
108 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:54:20.35 ID:EM6Mdgk00
「プロデューサーさん、お客様がお見えですよ」
二人の協力により予定より早く片付けが終わってからしばらくして、千川ちひろが来客を告げに来た。
「こちらに、お連れして下さい」
「かしこまりました」
軽くお辞儀をして、千川ちひろが戻っていく。
「お二人とも、ありがとうございます」
気がつけば、川島瑞樹と片桐早苗は打ち合わせ用のテーブルを挟んでコーヒーを飲んでいた。
109 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:54:56.44 ID:EM6Mdgk00
「スカウトしたアイドル候補がやってきましたので、お二人とも別室に……」
「あら?」
言い終わる前に川島瑞樹が口を開く。
「早苗ちゃんの時は私とお話させたのに、今回は二人きり?」
え?
「今回はあたしが瑞樹ちゃんの役割かぁ。お姉さんはりきっちゃう!」
この二人のコンビネーションは困った方向に磨きがかかっている気がする。
戸惑っていると、コンコンッとノックする音が聞こえた。
仕方ない。大人しくしてくれていることを願うばかりだ。
110 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:55:29.32 ID:EM6Mdgk00
「どうぞ」
「し、失礼しま〜す」
あからさまに緊張した顔で、安部菜々が入室してきた。
「あ、安部菜々です!今日からお世話になりますっ!よろしくお願いします!」
「あら、菜々ちゃんって言うのね?」
こちらが口を開くより前に川島瑞樹が立ち上がる。
「こんな可愛い子を捕まえてくるなんて、プロデューサー君は罪な男ねぇ……。やっぱり逮捕しておけばよかったかしら?」
畳み掛けるように片桐早苗が近づいてくる。
「あーっ!お、お二人はっ!?」
二人の顔を見て、安部菜々は驚きの声を上げた。
111 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:55:59.49 ID:EM6Mdgk00
「女子アナからアイドルに華麗な転身を果たした川島瑞樹さんと、婦警さんからアイドルになったって話題の片桐早苗さん!?ほ、本物ですか!?ナナ、お二人が大好きなんです!!サインくださいっ」
背中のバッグから色紙とサインペンを取り出す。
「あらあら、瑞樹ちゃんだけじゃなくあたしも知っててくれたんだ。お姉さん嬉しいわぁ」
サラサラとサインを書きながら、片桐早苗は笑う。
「ふふっ。これからは仲間なんだから、そんなにかしこまらないでね。菜々ちゃん」
「わぁ……。ありがとうございます♪川島さん!片桐さん!」
二人からサインを受け取り、安部菜々はご満悦と言ったところか。
112 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:56:32.96 ID:EM6Mdgk00
「それに菜々ちゃん?仲間になったのだからかしこまったのはナシよ?」
川島瑞樹がいたずらっぽく微笑んだ。
「はい!ありがとうございます♪瑞樹さん!早苗さん!」
最初の緊張はどこへやら、安部菜々は朗らかに笑っていた。
「さて、役割も済んだことだし、私と早苗ちゃんはリフレッシュルームにでも行こうかしら」
「菜々ちゃん、これからよろしくね!プロデューサー君が何かしたらすぐに呼ぶのよ?シメるから♪」
そう言って、かしましい二人は事務室を去っていった。
113 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:57:10.57 ID:EM6Mdgk00
「すみません菜々さん。いきなりお騒がしいところを見せてしまい……」
「いえいえ。瑞樹さんと早苗さんは大好きですし!それにお二人をプロデュースしていたのはプロデューサーさんだったんですねぇ♪」
「安心しましたか?」
いくら旧知が名前のしれたプロダクションのプロデューサーになっていたとはいえ、何の実績があるかもわからないと不安だろう。
川島瑞樹と片桐早苗は、それを察して最初に賑やかしをしてくれたのだろうか。
女の勘も年の功も侮れないものだ。
「「クシュン!」」
ドアのすぐ外からくしゃみが2つ重なって聞こえた。
せっかくの感心が台無しだが、まあ良い。
114 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:57:52.08 ID:EM6Mdgk00
「もちろんプロデューサーさんのことは信じていました。でもそれ以上に、すぐにお二人と仲良くしてもらって、歳が近いだけに心強いなぁ……って!違います!ナナは永遠の17歳です!大人のお二人が!心強くって!」
設定に対して言動が甘すぎるのは昔と変わっていない。
でもそれがもっと微笑ましい愛嬌になっている。
「俺は菜々さんに出会って、人生に光が差し込んだような気持ちでした。そして今の俺があります」
机を挟んで向き合う。
契約書を読み終えた安部菜々は、署名と捺印を済ませる。
115 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:58:24.59 ID:EM6Mdgk00
「ナナも、プロデューサーさんと再会できて、どうしようもなかった暗闇から光が差し込んできたような気持ちだったんです!」
そうだったろう。とっくに諦めていたと思い込んでいた。
実際には、安部菜々は10年にも渡って1人、もがき続けていた。
思い通りにならない地下アイドル活動に何度も挫けそうになりながら。
再会した日の彼女は、明らかに疲れていた。
もう、折れそうになっていたのかもしれない。
本当に、紙一重の再会だったのだろう。
116 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:58:54.68 ID:EM6Mdgk00
「これからは菜々さんにはもっともっと頑張ってもらうことになります。今までとは違う種類の努力が必要になります。それでも」
まっすぐと安部菜々の瞳を見る。
彼女もまた、俺から目をそらさないでいてくれる。
「俺がいますし、同僚のプロデューサーたちもいます。川島さんや片桐さん、そしてこれからたくさんの仲間たちと出会うことになります」
一息入れ、コーヒーを口に運ぶ。
117 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 16:59:59.32 ID:EM6Mdgk00
「彼女たちは仲間ですが、同時にライバルでもあります。ですが彼女たちは菜々さんを1人にさせません。その上で競い合っていきましょう。助け合っていきましょう。そして、トップアイドルに、ウサミン星のプリンセスになりましょう」
静かに聞いていた安部菜々は、俺が話し終わるのを待っていたように、静かに口を開く。
「今まで、辛いこともありました。苦しいことだってたくさん……。でも諦めなければ叶う夢もあるんですね。こんなナナの姿が、プロデューサーさんにとって光だったのなら、これからもっともっと、たくさんの人たちの前で、歌って、踊って」
大きな瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちていく。
「ナナは、トップアイドルになります!ウサミン星のプリンセスになります!ナナを見てくれる誰かの光になってみせます!支えてくださいね、プロデューサーさん♪キャハッ☆」
この日、安部菜々は地下アイドルからアイドルになったのだった。
118 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:00:46.09 ID:EM6Mdgk00
― 第三章「安部菜々」 了 ―
119 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:01:16.98 ID:EM6Mdgk00
― エピローグ ―
120 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:02:07.91 ID:EM6Mdgk00
3人のアイドルを担当することになった俺は、その日も都内を駆けずり回っていた。
川島瑞樹は新たにバラエティ番組の1コーナーを担当することになり、ソロとしてもユニットとしても順調に活躍を続けている。
片桐早苗のデビューシングルも売上は上々。
縁のあった堀裕子、及川雫とユニット『セクシーギルティ』を組んで活動するようになった。
安部菜々もメジャーデビューとなった合同ライブで持ち前の設定に対する言動の隙きの多さを発揮し、すぐに話題になっていった。
最近はバラエティ番組やゲーム関係のイベントへの出演も増えている。
川島瑞樹を通して荒木比奈との交流も生まれているようだ。
後はデビュー曲と、彼女の夢の一つでもある声優の仕事を持ってこれれば……。
121 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:02:42.41 ID:EM6Mdgk00
「すんませーん。ちょっと今撮影中で……」
考え事をしながら歩いていると、誘導スタッフに止められてしまった。
道路を貸し切ってのドラマ撮影が行われているという。
この道は本社事務所までの近道だったのだが仕方ない。
遠回りしようとしたが……。撮影場所の方で何か揉めているようだ。
122 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:03:19.84 ID:EM6Mdgk00
(何だ……あの服は……?)
監督と思える人物から、こっぴどく叱られている、派手な柄の服に、羽を背負った服を着た女性。
顔立ちは美しいが、表情がいちいちうるさい。
話自体は殆ど聞こえないが、どうにも女性の喋り方は特徴的すぎる。
さらに、出演者の1人だと思っていたが、どうもただのエキストラのようだ。
……女性はやがてつまみ出されていった。
気落ちしているのか、トボトボと歩いている。
どうにも気になってしまった。
123 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:04:03.97 ID:EM6Mdgk00
「ずいぶんと目立ってましたね」
女性は振り返った。
近くで見ると本当に綺麗な顔立ちをしている。同時に、格好の奇抜さも目につく。
「でしょー☆あ、この服ね。はぁとの手作りなんだ☆」
はぁと?はぁととは一体?
「で、あなたはだぁれ?変質者だったらぶっとばすぞ☆」
それなりに普通の身なりのつもりだ。
けれど以前、片桐早苗に制圧された経験もある。
片桐早苗や安部菜々の件で慣れてしまったが、そもそもこういう風に女性に声をかけること自体が問題なのだろう。
124 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:04:55.37 ID:EM6Mdgk00
「俺はこういう者です」
流れるように名刺を差し出した。
このやりとりが、これからどうなるのかはまだ分からない。
だが、もう俺はアイドルのプロデューサーなのだ。
夢を見させてくれる人と、夢を知らない人たちを繋いでいくこと、
誰かの人生を変える出会いを創り出していくことが、出会ってきた3人の『ファースト・シンデレラ』から教わったことなのだから。
125 :
◆xMUmPABXRw
[sage saga]:2022/11/27(日) 17:06:11.53 ID:EM6Mdgk00
終わりです。
読んでいただいた方がいらっしゃいましたらありがとうございます。
お疲れ様でした。
126 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga sage]:2022/11/27(日) 18:34:18.78 ID:Y25PKdfDO
おや、美優さんにダジャレスキーがいないですね
とりま乙
こんなスタートもいいですね
127 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:18:29.29 ID:sQ22x4PF0
Scene 1
128 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:18:58.02 ID:sQ22x4PF0
走っていた。ずっと、ずっと。
高校のブレザーを着ていた俺は私服に着替えて、そしていつの間にかスーツに身を包んでいた。
走る道の先に、あの子がいるのが見える。俺の人生を変えてくれたアイドルが。
最初は浮かない表情をしていたあの子が、俺に気づいて安心したように笑って、手を振って。
129 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:19:30.72 ID:sQ22x4PF0
――そこで、目を覚ました。
130 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:20:04.24 ID:sQ22x4PF0
既に朝日は姿を現していて、空からは雪の粒が車の窓に落ち、溶けて消えている。
人もまばらな交差点を歩く男女が、凍りつく空気から互いを守るように寄り添って歩いていた。
(時間は……もう少しあるな)
新しい冬はまだやって来たばかりだ。まだ夜中と言ってもいい時間に家を出た俺は
昨日のうちに手配していた社用車に乗って都内から東に向かった。
(菜々さん、予定通り明日は早い時間に移動することになります)
昨日の会話を思い出す。
(はいっ!今日は早く休んで明日にそなえますね!)
俺が担当するアイドルの一人、安部菜々さんは威勢よく返事をしてくれた。
131 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:20:34.61 ID:sQ22x4PF0
(7時半頃にはアパートの付近のコンビニに着いていると思います)
そう言いながら、実際は6時頃には目的地に着いていた。
雪が降るという予報があったこともあり、万が一と考え早い時間に家を出た。
実際、雪はちらついていたが交通機関に影響を与えるほどでもなく、
合流の時間まで一眠りすることで時間を潰すことにした。
ガソリンを無駄にするわけにはいかなかったので、念の為に持ってきていた
コートを羽織って目を閉じ、そして、少しだけ懐かしい夢を見たのだった。
132 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:21:11.86 ID:sQ22x4PF0
菜々さんと再会し、どれくらい時間が過ぎただろう。
着実に仕事も増えてきたし、ファンクラブ会員数も順調に伸びている。
愛らしい笑顔と一生懸命な姿勢、設定への墓穴を掘っては恥ずかしがるその仕草。
念願だったアニメの主題歌、ゲスト枠とは言え声優デビューも果たして。
菜々さんは、ほんの少し前までは想像もできなかったような、夢のような道を駆けている。
(菜々さんを、必ずトップアイドルにします)
あの日、菜々さんに誓ったことは、菜々さんの努力もあって一歩ずつ進んでいるように思える。
菜々さんはトップアイドルになれる、いや、トップアイドルになる。
10年前、菜々さんの地下アイドルデビューに立ち会ったあの日から、それは何も変わっていない。
何よりも眩しい笑顔に照らされて、魅せられて、生き方を決めたこの想いは恋だったのだろうか。
133 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:21:41.59 ID:sQ22x4PF0
それとも、とうに恋ではなくなっていたのだろうか。
134 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:22:23.80 ID:sQ22x4PF0
「その子が好きだったんでしょー?」
菜々さんをスカウトする少し前、担当アイドルである川島瑞樹さんと片桐早苗さんと3人で飲みに行った時、早苗さんからあっけらかんと言われたことがあった。
「早苗ちゃん、少し違うと思うわ。これはもう愛よ。LOVEなのよ」
川島さんもその日は随分と酒が入っており、いつもの知的で落ち着いた雰囲気は無くなっていた。
「会えると良いわねー。おねーさんたちも会いたいわー!」
ビールジョッキを呷りながら、その日の早苗さんは殊の外愉しげだった。
「プロデューサー君。私、少し思うことがあるの」
そんな最中、川島さんは猪口を持った手を止めて、神妙な面持ちをする。
「プロデューサー君はその子と再会したら、何よりもスカウトしてしまえばいいと、今も思ってるわ。でもね……」
そして、猪口のお酒を空にする。
「こんなにも永く想った相手を、アイドルとしてだけ見ていくことができるのかしら?」
135 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:22:56.17 ID:sQ22x4PF0
その時は不思議な問いだと思ったものだ。
だけど再び出会ったあの夜、胸を打ったのは再会の喜びではなく、寂れたステージに飛び込んできた菜々さんの、変わらない笑顔。
アイドル安部菜々に魅せられ続けていたことを確信した夜だった。
戻ることのない流れの中で、心を燃やした人だったのだと。
(だけど)
事務所に菜々さんを迎え入れたあの朝、手を取り合っていこうと誓ったあの時。
地下アイドルとファン1号から、担当アイドルとプロデューサーになったその時。
何かに、蓋をしたような感覚があった。
それは多分、菜々さんがアイドルを続ける限り、貫いていかなければいけないこと。
その答えに向き合うつもりは、今のところ無い。
136 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:23:25.75 ID:sQ22x4PF0
コンッ……コンッ……
137 :
◆1hbXi1IU5A
[sage]:2022/12/07(水) 23:23:55.84 ID:sQ22x4PF0
物思いに耽っていると、誰かが車の窓を叩いていた。
「菜々さん……」
遠慮がちに、窓の外で俺の顔を見ている。
「おはようございます!プロデューサーさん!今日も一日頑張りましょう!」
心地よい、明るい声が胸を満たしていく。
「おはようございます、菜々さん。今日もよろしくお願いします」
冬空の下でも、菜々さんの笑顔は眩しい。頬は少し赤らんでいて、吐く息は真っ白だった。
「すみません、菜々さん。寒かったでしょう?早く車に……」
「いえいえ!いま来たところですよっ!」
なんて温かい笑顔なのだろう。なんて温かい心配りなのだろう。
「行きましょうか。今日もきっと楽しいですよ」
菜々さんを助手席に迎えて、車のエンジンを点ける。
「はいっ!今日もアイドルを楽しみますよー!」
この笑顔が見たいから、見続けていたいから。
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