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【モバマスSS】星の巡礼者
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1 :
◆wsnmryEd4g
[!red_res]:2022/08/22(月) 21:13:23.89 ID:JDuYBNLw0
*これから行う試験について、受験生はまず以下の注意事項を熟読するように。
*記載されている条件すべてに同意した者のみ、氏名欄にサインし、試験を開始してよいものとする。
*なお、最終的な合否については然るべき時に判定が下されるが、その時期および方法については答えられない。
1)本試験の最中に生じたいかなる災害・障害も当機関では一切の責任を負いかねます。
2)各設問における一連の文献および登場人物について、これらを著しく冒涜する行為を禁じます。
3)試験途中に離席した場合、あるいは続行不可能と試験官が判断した場合はいかなる理由であってもその時点で試験終了とし、以降再試験の申し出は一切受け付けません。
4)試験内容に関わるもの以外の質問は試験監督に確認のうえ許可される場合があります。質問する際はまわりの迷惑にならないよう静かに挙手してください。
5)当機関は本試験における採点基準について一切の開示義務を負わないものとします。
6)以下の氏名欄へのサインを以てこれらの規約に同意したものとみなします。
氏名【 】
*試験を始める前に私からいくつか話しておくことがある。心して聞くように。
*ひとつ、演劇では観客が舞台の脚本を書き換えたり、役者を交代させることはできない。また、舞台の幕が上がっている限り役者は演じることをやめてはならないが、観客はその気になればいつでも席を立つことができる。
*ひとつ、将棋において一局中に同一局面が数回現れた場合、千日手としてその勝負を無効とする。同様に、囲碁におけるコウも無限に続く局面のことを指すが、これはルールによって反復手が禁止されている。ただし盤上に同時に三か所コウが存在する場合、永遠に対局が終わらないため勝負は無効となる。
*ひとつ、ある候補者が、二億の民衆に演説する権利をゴールデン・タイムの番組に持ち、対立する他候補者には街角のポスターしか与えられない場合、公平で民主的な意思決定モデルは成り立たない。
*ひとつ、最も売れている作品が最も価値のある作品であるとは限らない。
*以上。では問題用紙をめくって、はじめ。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1661170403
2 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:15:03.38 ID:JDuYBNLw0
【1】
おだやかな晴れの日だった。
アトリエへ向かう道はゆるやかな上り坂になっていて、僕はその深い木漏れ日の絨毯の上を歩いていた。
道の先には背の高い垣根があり、頭上を覆っていた木の影はそこで空に開かれている。
垣根に沿って歩いて行くとやがて庭に通じるアーチ状の門が現れた。
僕は立ち止まり、鞄からいくつかの写真を取り出して目の前の景色と見比べ、それから写真を鞄にしまった。
腕時計に目をやる。
僕はスーツの襟を正し、ネクタイを締めなおして門をくぐった。
丁寧に刈り揃えられた芝生、曲がりくねって敷かれた石畳の通路、その先に見える小さな教会が今回の商談相手のアトリエだった。
玄関にインターホンはなく、かわりに錆びたドアノッカーが扉に貼り付けられている。
二度、ノックしてみる。
しかし返事はない。
僕は玄関のポーチに立ち、扉の表面をぼうっと眺めていた。
ある一組の天使のイコンが彫られている。
もう一度ノックしてみたが、相変わらず人の気配は感じられなかった。
僕はポーチから身を乗り出し、建物の周辺を見回した。
「ごめんください」
やはり返事はなかった。
僕はそのまま建物の裏手へとまわって行った。
3 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:15:45.60 ID:JDuYBNLw0
真っ白な外壁に沿って歩いて行くと、やがて奥の木立の深くから鮮やかな黄色の草原が広がるように立ち現われた。
それは広い窪地の一面になびくひまわり畑だった。
なるほど、いかにも田舎らしい牧歌的な風景だ。
画家が根城にするだけのことはある……。
そんな感想を抱きながら僕は、もうひとつ、金色の海原に浮き沈みしている、小舟のような人影を目で追っていた。
(女の人……?)
こちらへ背を向けているのではっきりとは分からなかったが、あの髪形からしておそらく女性だろう。
花の手入れをしているのだろうか、僕の方に気づいている様子はない。
「ごめんくださーい」
僕が遠くから声をかけると、その人影はひょっこりと顔を上げ、眩しそうにこちらを振り向いた。
思っていたよりもずっと幼い、少女の顔立ちだった。
「はーい」
よく通る綺麗な声だった。
「どちらさまでしょうかあー?」
「高森さんの絵について相談に来たPという者ですが」
一応、声は張り上げたつもりだったが、少女は何も答えず、こちらをじっと見つめてばかりいる。
聞こえなかったのかな。
そう思って、僕がもう一度口を開きかけた時だった。
「ごめんなさあい、今そっちに行きますからあ、少し待っててくださあい」
そう言いながら少女が泳ぐようにひまわりをかきわけて来る。
あの爺さんの孫娘だろうか?
まったく、幸せな老後生活もあったものだ。
4 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:16:30.36 ID:JDuYBNLw0
藍子と名乗るその少女に案内され、僕はアトリエ内の応接間に腰を落ち着けた。
質素な部屋ではあるが、ほのかに漂う木の香りがとても心地よく、窓から入る日差しの暖かさがおだやかな眠気を誘う。
「お待たせしました」
ぼうっと窓の外を眺めていた僕の目の前に、どうぞ、とお茶が置かれた。
「わざわざありがとう。……それで、おじいさんは? もしかして留守なのかな?」
事前にちゃんと連絡しておいたんだけどな、と内心呆れながら僕は尋ねた。
しかし彼女は僕の質問には答えず、かわりにテーブルの向かいに座り、僕をじっと見つめだした。
「もうすぐ帰ってくるのかな? まあ僕も別に急いでるわけじゃないからちょっとくらいは待てるけど……」
「亡くなりました」
「え?」
「祖父は亡くなっています。持病で、一年前に、」
「…………」
僕は何かを言おうとしたが言葉が出ず、かわりに下手な役者がやるような肩をすくめるポーズをしてみせた。
それから口元を半笑いの形に歪めて、暗に「何の冗談?」と言わんばかりの視線を向けた。
しかし彼女はいたって真面目な表情で僕を見つめ続けていた。
「私、今、とても驚いています」
「それはこっちの台詞だよ。というか、そもそも死んでるわけない。きみのおじいさんとは数日前まで連絡を取り合っていたんだよ」
「でも確かに祖父は一年前に死にました」
「…………」
少しの沈黙のあと、僕は「ふう」と息をつき、ついでにお茶を飲もうとしたが、茶碗が熱かったので思いとどまった。
5 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:17:19.35 ID:JDuYBNLw0
「……そうか。まあどっちにしろおじいさんがいないなら僕はもう帰るよ。邪魔して悪かったね」
「ま、待ってください」
立ち上がろうとした僕を追うように彼女は身を乗り出して言った。
「あの、お名前はたしか、Pさん、っておっしゃってましたよね?」
「ああ、うん。そういえば名刺を渡してなかったね」
僕は努めて礼儀正しく名刺を差し出した。
彼女は目をぱちくりさせ、おずおずとそれを受け取った。
「おじいさんが帰ってきたらそこに連絡するよう伝えてね。じゃ」
「待って!」
腕を掴まれ、僕は振り返った。
「私、困ってるんです。Pさんに見てもらいたいものがあるんです。祖父の遺作です」
まるで助けを求めるように、彼女は掴んだ手を離そうとしなかった。
「祖父の作品は、今は私がオーナーです。Pさんが商談にいらしたというなら、相手は私のはずです。違いますか?」
僕は別に怒っているわけでも、呆れているわけでもなかった。
ただ面倒ごとを避けたかったのだ。
それに、悪い予感もあった。
彼女のまっすぐな眼差しには、そこに捉えた者を否応なしに惹きつける強い力があった。
僕はよっぽど「用事がある」と言って帰ろうかと思った。
とはいえ、お茶まで用意してもらった手前、冷たくあしらって終わりというのも失礼だろう。
「……そうだな。せっかく来たんだし、作者不在とはいえ一応、作品のチェックくらいはさせてもらおうか」
藍子はそこでようやく掴んでいた手を離してくれた。
見た目と違って結構強引なんだな、と思ったが、さすがに口には出さないでおいた。
「とりあえず、冷める前にお茶をいただいておくよ」
6 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:17:48.77 ID:JDuYBNLw0
その絵はアトリエの地下室に保存されているらしかった。
僕は藍子の後について地下への階段を降りていた。
「絵はきみが管理してるの?」
「はい。おじ……祖父がいろいろ教えてくれたので」
確かに空調はしっかり効いている。
むしろ肌寒いくらいだった。
「へぇ……それで、その見せたいものっていうのは?」
「これです」
藍子はそう言って、近くに立て掛けてあった、彼女の背丈ほどもあるキャンバスの厚い布シーツに手をかけた。
「ほう……」
僕は大きなキャンバスの全体を見ようとして一歩引いた。
あるいは迫力に気圧されてしまったのかもしれないが。
それは、暖炉の前で一人掛けソファに座っている藍子自身の絵だった。
膝元に"何か"を抱え、それを優しく見守るように微笑んでいる。
暖炉の煌々とした明かりが、藍子の伏しがちな表情に繊細な影を落としている。
目立たないながら実に見事なニュアンスだ、と思った。
その他、いろいろと感じるところはあったが、ひとまず個人的な感想は脇に置いておくとして、まずはこの作品の暫定的な評価を組み立てなければならない。
僕はさっそく頭の中で業務的な見通しを立てようとした。
しかし実際のところその試みはうまくいかなかった。
僕は何も考えられず、ただ絵に見つめられるまま、その場に突っ立っていることしかできなかった。
何秒、何分、いや、何時間……我を失い、どれくらいの間、そうしていたか分からないほどに。
しかも(後になって振り返るとずいぶん奇妙なことではあったが)これほど長い時間作品と向かい合っていながら僕は、ここに描かれている物の明かな違和感にしばらく気付くことさえできなかったのだ。
まるで地下室の隅の深い暗闇のように、それは絵の中でじっと息をひそめ隠れていた。……
7 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:18:26.22 ID:JDuYBNLw0
……そうだ!
この絵には"何か"が欠けているのだ。
絵の中の藍子は確かに"何か"を抱えているのに、それがここには描かれていない。
本来"何か"が描かれているべき場所が奇妙に歪み、そのせいで絵の中の藍子は虚空を抱え、虚空に向かって微笑んでいる。
その奇妙な不完全さが、かえって異質な、不思議な魅力を宿しているのではないか……
そんな仮説を頭に唱えているうち、ようやく僕はハッと我に返った。
「うん……悪くない絵だと思う」
沈黙がいつの間にか地下室いっぱいに満ちていた。
僕は、咄嗟に出た負け惜しみを悟られる前に彼女に言った。
「ただ、まだ分からないことがある。作品の価値にしても、これを僕に見せたかった理由にしても」
「実は先月まで、ここには猫が描かれていたんです」
「?」
8 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:18:52.29 ID:JDuYBNLw0
「突然、いなくなったんです。絵の中の猫が」
「はあ」
「嘘でも、冗談でもないんです。本当に消えたんです。それで、Pさんに猫を探してほしくて」
「いや、あのね。まず僕がその話を信じるかどうかも分からないうちから勝手に話を進めないでくれ」
「お願いします、信じてください」
僕は、付き合いきれない、といった風にため息をつき、藍子の切実な眼差しからむりやり目を逸らした。
そうして逸らした視線の先に、僕は再びあの絵を捉えた。
不意打ちを食らったように、僕はまたもや絵に魅入られた。
もはやそうせざるをえないというほどの魔術的な引力によって、額縁の中の風景へと吸い込まれていく。
僕は思わず目をつぶり、なんとか視線を引き剥がして逃れた。
普通ではない、と思った。
この絵に漂う気配は普通ではない、と僕の直感はくりかえし警告していた。
9 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:19:57.26 ID:JDuYBNLw0
(……ああ、そうか)
曖昧な予感が、やがてはっきりとした理解の形に変わった。
おそらく僕は、その絵の中に失われたという"何か"を探していたのだ。
絵の中に、ではない。
きっと、ここではない、どこかに……
10 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:20:59.83 ID:JDuYBNLw0
「……これ、題名はなんていうの?」
「『猫と和解せよ』。裏に直筆のサインと一緒に書いてあります」
キャンバスの裏を覗くと、制作日時と共に確かに書いてあった。
実際に直筆かどうかは検証する必要がある……とはいえ、見た限りではおそらく本物だろうと僕は思った。
「猫と和解せよ、ね……」
僕はしばらく考えて、
「戻ろうか。ここは少し寒い」
キャンバスにシーツをかぶせ、藍子に目配せして僕は階段を先に上っていった。
11 :
◆wsnmryEd4g
[!蒼_res]:2022/08/22(月) 21:22:54.03 ID:JDuYBNLw0
【問1】
1.人類は、天使の存在を単なる現象としてではなく、絵画や文章、口伝といった物語の形式で記録してきた。こうした自然観において、人類が天使を理解するために物語の形式を必要とした理由を、一個体の生命が有限であることを考慮に入れ、『偶像』という言葉を用いて論述せよ。
2.文中の「P」とは何を意味しているか。以下の選択肢から1つ以上選べ。
(A) Producer(生産者。もしくは、生産を代行している者)
(B) Programmer(記述者。もしくは、仕様の通りにストーリーを組み立てる者)
(C) ピ-音(自主規制)
(D) Persons あるいはPeople(不特定多数の人々)
3.定義上、独裁政治は民主主義の形式においても成立し得る。歴史上の多くの民主主義国家がプロパガンダを利用してきた背景を考え、一般的な選挙制度の問題点を指摘し、『欺瞞』の概念を示せ。
12 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:23:50.84 ID:JDuYBNLw0
【2】
やわらかな木目のテーブルの上には相変わらず平和な午後の光が差していた。
僕は小さく伸びをして窓の外をじっと眺め、考えをまとめようとした。
遅れて藍子が、トレーの上に二人分のお茶とクッキーを乗せて現れた。
「どうぞ」
「ありがとう。これ、自分で焼いたの?」
「はい。今朝、作っておいたんです」
「いただくよ」
僕は椅子に腰かけ、クッキーを一つ齧り、「うん。うまい」とだけ言った。
「……さて、それで話の続きだが」
向かいに座った藍子は、自分で淹れたお茶にふーふーと息を吹きかけ、冷ましているところだった。
「まず確認したいのは、きみのおじいさんは本当に一年前に亡くなっているんだね?」
「はい。持病の肺炎が悪化して、入院後間もなく……」
「そうか……もうひとついいかい?」
「ええ、どうぞ。まだ余ってますから」
「いや、クッキーじゃなくて質問をね」
藍子は「あ」と口を押さえ、恥ずかしそうに笑った。
「はい。私に答えられることなら」
13 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:24:41.92 ID:JDuYBNLw0
「さっきの話で気になったんだが、きみがおじいさんの作品のオーナーになっているというのはどういうことだろう? たしか藍子さんといったね。ご両親はいないのか?」
「両親はいます」
「なら、普通に考えればここの作品はきみのご両親が……つまり作者のご子息が所有するものじゃないか? それに、見たところきみはまだ十代も半ばくらいじゃないか。こういった美術品のオーナーになるには少し若すぎると思うが」
「……それは、祖父が、遺産のほとんどを私に相続させたからです。と言っても、ここにある絵以外に遺産と呼べるものは多くありませんでしたけど」
「なるほど」
ありそうな話だ、と思いながら、僕はまだ熱いお茶に少しだけ口をつけ、一呼吸置いた。
「差し支えなければ、事情を聞かせてほしい」
藍子はゆっくりと語り出した。
14 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:25:30.86 ID:JDuYBNLw0
「祖父は、私の両親とあまり仲が良くなかったんです。昔から売れない絵ばかり描いて、仕事の稼ぎもろくになかったから、子供の頃はずいぶん苦労したと、父はよく言っていました。不愛想で頑固な、気難しい性格だったし、人付き合いではたくさん失敗してきたと、祖父本人もよく語っていました。
「ただ、唯一、私のことだけはとても可愛がってくれたんです。アトリエに改築後、誰も近寄らせなかったこの教会に入るのを許されたのも、私だけでした。
「でも、祖母が早くに死んでしまってから、祖父と両親はますます疎遠になりました。収入どころか貯金もなかった祖父はやがて年金頼みの生活を送るようになりました。さすがに父もしばらくは金銭的な支援をしていたらしかったんですが、結局、それらも画材やお酒に使われてしまう有様でした。祖父は、絵を描くことと、私が遊びに来ることだけが生涯の楽しみだと言って、本当にそれ以外はどうでもいいというような暮らしをしていました。
「……祖父が死んだ後、遺書が発見され、そこで相続の意志が明らかになりました。そして話し合いの結果、私が祖父の作品を相続することになったんです。私の両親は美術に疎く、関心もなかったので、絵についてあれこれ言ってくることはありませんでした。売れるほど価値のあるものだとは考えていなかったんだと思います。それに私も、祖父の作品を売りたいとは考えていませんでした。だから、手放してもいいと思える日が来るまで、ここに保管することにしたんです。
「……これが、私がオーナーになった経緯です。すみません、個人的な話が多くなっちゃって……」
「いや、大丈夫だよ。話してくれてありがとう」
藍子が一息つくのを待ってから、僕は口を開いた。
「失礼だけど、藍子さんはいまいくつなの?」
「十六です」
「高校生?」
「はい」
「そうか」
歳のわりにずいぶんしっかりしてるな、と僕は素直に感心した。
15 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:26:35.77 ID:JDuYBNLw0
「じゃあもうひとつ質問。僕にあの絵を見せた理由についてだ」
僕はテーブルに少し身を乗り出して言った。
「どうしてきみは僕にあの絵を見せ、そのうえ『猫を探してほしい』だなんて頼んだのか? そもそも、描かれていたものが消えるなんて、普通、誰かがいたずらで上書きしたとか、絵具が乾ききらないうちにかすれてしまったとか、そう考えるのが妥当だろ。けれどきみが僕に『猫を探してほしい』と頼んだ時、そこにはあたかも『絵の中から猫が飛び出し、どこかへ逃げてしまった』というニュアンスが込められていたように思う。ほとんど確信的にね」
「それは……」
僕は藍子の言葉を遮って話を続けた。
「しかも驚いたことに、あの絵を見た僕自身、今や『猫が絵の中から逃げた』としか思えなくなっている。あそこに描かれていた猫は今、この世界のどこかに生きているんだ。奇妙な確信がある。いったいなぜ、僕たちはそんな風に感じるんだろう?」
「それは……私にも分かりません」
「猫がいなくなったことが?」
「いえ、違うんです。『Pさんにあの絵を見せ、猫を探すように頼んだ』理由が、私にも分からないんです」
「……?」
「おじいちゃ……祖父が、亡くなる少し前に、私にこんな話を言って聞かせたことがあります……」
――藍子、よく聞きなさい。
近いうちにPと名乗る人物がここを訪れる。
彼と出会ったら、一緒に猫を探す旅に出るんだ。
いいね? これはさだめなんだよ。お前と、Pとの――…………
…………
16 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:27:31.13 ID:JDuYBNLw0
「……あの時は、おじいちゃんが言ってたことの意味が、さっぱり分かりませんでした。でも、さっき、Pさんがここへ来て、Pだと名乗った時、本当にびっくりしたんです。おじいちゃんが言ってた通りだ……って。先月、あの絵から猫が姿を消した時も、最初はただ絵具が剥がれただけなんだと思っていました。でも今日、Pさんが来て、私は確信しました。あの猫は絵の中から逃げ出して、私たちが探すのを待っているんです」
「…………」
僕は目を閉じ、こめかみを指で押さえながらしばらく黙っていた。
周囲は異様なほど静まり返り、風の音はおろか鳥のさえずりさえ聞こえない。
目の前の藍子はこちらをじっと見据えたまま僕が次に発する言葉を待っている。
僕は大きくため息をつき、それから口をひらいた。
「すべては予言どおりってわけか。きみのおじいさんは本当は画家じゃなくて占い師だったんじゃないか?」
「…………」
僕が意地悪な皮肉を言っても藍子は動じなかった。
相変わらずしゃんと背筋を伸ばして椅子に座り、僕を試すように見つめ続けている。
……藍子の言葉に、きっと嘘はない。
こんなに礼儀正しく、まっすぐな目をして、おいしいクッキーを焼く女の子が、見ず知らずの僕をからかうためだけに冗談を言い続けているとは到底思えなかった。
そうでなければ、いわゆる幻覚妄想、精神病の類だろう……だが、彼女の目に狂気の色は欠片もない。
誠実に、ただ真実を語っている目だ。
そして、そんな彼女の静かな眼差しと相対しているうちに、僕はふと、強烈な不安に駆られはじめた。
幻覚を見ているのは、むしろ僕の方かもしれない……そんな恐怖が、突然、胸の内で騒ぎだした。
17 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:28:12.28 ID:JDuYBNLw0
「……あの、大丈夫ですか?」
しばらく考え込んでいると、藍子が心配そうに僕の表情を覗き込んで言った。
「ああ、うん……」
僕は目をじっと細め、顔を窓ガラスの方へ向けたまま、曖昧な返事をした。
藍子がスッと椅子を引いて立ち上がった。
「おかわり、淹れてきますね」
「いや、お茶はもう……」
「気になることがあったら全部、言ってくださいね。たぶん、もうPさん一人の問題じゃないと思うから」
そう言って彼女は茶碗を下げ、部屋を出てしまった。
僕はその後ろ姿をぼんやり見送り、それから椅子の背もたれに寄りかかって「ふう」と天井を仰いだ。
僕一人の問題じゃない……か。
確かに、藍子の言う通りかもしれない。
どちらにせよ、僕たちはお互いに協力し、情報を整理する必要がある。
『僕がここへ来た本当の理由』を知るためにも。
18 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:29:12.15 ID:JDuYBNLw0
「思い出せないんだ」
僕は二杯目のお茶をゆっくり飲んだ後、藍子に打ち明けた。
「僕が、いつ、どこできみのおじいさんを知ったのか……いや、そもそも今日、僕はどうやってここまで来たんだろう?」
僕が独り言のように自問自答し始めたので、藍子が不思議そうに首をかしげて言った。
「えーっと、つまり……記憶喪失?」
「違う、そうじゃない……いや、もしかしたらそうなのかもしれないが……」
考えれば考えるほど、僕の頭は混乱していった。
記憶のあちこちに穴がある……しかも今の今まで、そのことに気付きもしなかったのだ。
奇妙としか言いようがなかった。
「一体僕はどうやって彼の存在を知り得たんだろう? 誰かに紹介されたわけでもない、そもそも画家としては無名に等しかった彼の存在を知ったきっかけは? なぜ僕はここの住所を知っている? 分からないことだらけだ。正直、今とても混乱している」
僕はほとんどパニック寸前だった。
もし今、僕が一人だけだったら、完全に取り乱していたところだろう。
だが、そうならずに済んでいるのは、まさしく目の前にいる藍子の存在のおかげだった。
自分一人の問題じゃない……なかなか心強い言葉だ。
「その鞄の中には、何が入ってるんですか?」
「カバン?」
僕は意表を突かれて言葉を返した。
19 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:30:05.04 ID:JDuYBNLw0
「はい。何か手がかりになりそうなもの……たとえば、手続きの書類?とか」
言われて僕はハッとした。
そうだ、ヒントはあるじゃないか……どうしてこのことにすぐ思い至らなかったんだろう。
僕は慌てて鞄の中を漁り、そして数枚の写真を取り出した。
「これだ! 僕はこの写真をもとにここへ来たんだ……」
それは、教会やその周囲の風景をさまざまな角度から映した写真だった。
しかし手がかりはそれだけだ。
藍子はテーブルの上に広げられたそれらを興味深そうに眺め、
「けっこう古い写真みたい……庭に石畳がないし、それに、ここに映ってるのってたぶん、薪と釜戸ですよね」
「今は薪じゃないのか?」
ふと尋ねたら、藍子が声をあげて笑い出した。
「ふふっ、さすがにガス給湯器です。薪で焚くのも、楽しいかもしれませんけど」
牧歌的なイメージに引っ張られてつい間抜けな質問をしてしまったが、それはそれとして、彼女が釜戸に薪をくべている姿はさぞかし絵になるだろうな、と思った。
「もしかしたら私が生まれるより前の写真かも…………あっ!」
一枚の写真を手に取った藍子がふいに叫び、驚きに目を見張った。
「どうした?」
「……猫がいる」
藍子は食い入るように写真を見つめ、それから興奮気味に顔を上げた。
「この猫です。間違いありません」
僕も思わずテーブルに身を乗り出し、藍子が指さす写真の片隅に目を凝らした。
一匹の黒猫が、教会の日陰の角にぽつんと佇み、不気味な二つの目を僕たちの方へ光らせていた。
20 :
◆wsnmryEd4g
[!蒼_res]:2022/08/22(月) 21:31:01.86 ID:JDuYBNLw0
【問2】
1.創世記では登場する天使のすべてが女性として描かれている。なぜか? 理由を簡潔に述べよ。
2.信仰とは、
(A) 祈りである。
(B) 運命に忠実に従うことである。
(C) 悪を裁き、正義を遂行することである。
(D) 栄養のある食事を心がけ、日中は体を動かし、夜は十分な睡眠をとることである。
3.天使とは
(A) かわいいものの総称
(B) 救済の象徴
(C) ヒトに羽が生えたもの
(D) 魂の原初の姿
21 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:32:04.20 ID:JDuYBNLw0
【3】
またあの夢だ、と思った。
一匹の猫と一人の少女の夢。
小さい頃によく見た、名前のない町に暮らしていた。
ひまわりの海に浮かぶ小さな島だった。
ふと顔を上げると、少女がひまわりの小島にぽつんと立っていて、その腕に真っ黒な猫を抱いていた。
真夏の日差しが、麦わら帽子の少女の顔に深い影を落としていた。
僕は「危ない」と叫んで少女の姿を追いかけた。
しかし少女は太陽のうねりの中にたゆたうまま、僕からどんどん遠ざかって行った。
がむしゃらに追いかけようとすればするほど、僕の体は太陽の海の中に沈んでいった。
やがて僕の肉体は虫ほどの大きさになり、はるかな高みから明るい日の差すひまわりの森を、少女と猫の姿を求めてさまよった……
22 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:32:55.15 ID:JDuYBNLw0
……固いベッドの上で目を覚ました。
遠くで鳥たちがさざめいていた。
暗がりの中で備え付けの時計へと目をやった。
またあの夢か、と思った。
それだけだった。
23 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:34:02.33 ID:JDuYBNLw0
僕はベンチに座り、朝の駅前の商店街をぼんやり眺めていた。
学生たちが通学する様子を眺め、商店街の人々が挨拶し合う様子を眺め、空を眺めていた。
あいかわらず嫌味なくらいのんびりした陽気だった。
藍子との約束の時間まで、しばらくそうやって時間を潰していた。
まるで昨日の今日でリストラされた会社員みたいだな、と僕は自嘲気味に鼻で笑った。
実際、全ての仕事をほっぽりだしてこの町にとどまることに決めたのは事実なのだ。
本当のことを言えば、多少やけっぱちな気分ではあった。
ま、たまにはこんな休暇があってもいいだろう。
果たしてどんな休暇になるのか今のところさっぱり目途がつかないが、平和なまま終わってくれれば何よりだ。
ベンチの背もたれに寄りかかって天を仰げば、青い空を泳ぐ雲の群れが見える。
目を閉じればさわやかな風が吹き、草木のこすれる音、鳥の鳴き声、静かな町の息遣いが聞こえる。
すると、やがてゆったりしたテンポの足音が一人分、近づいて来て、僕のすぐ前で止まった。
「昨日はぐっすり眠れましたか?」
「おかげさまでね」
目を開け、まぶしさに顔をしかめると、藍子が小さく笑っているのが見えた。
24 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:35:16.16 ID:JDuYBNLw0
……僕がこの町に留まることになった経緯はこうだ。
昨日、あれから帰ろうとした僕は、駅までの道のりすら覚えていないことに愕然とし、すっかり途方に暮れてしまった。
そこで藍子が親切にも駅まで歩いて送ってくれた。
別れ際に僕は、何かお礼をしたい、と彼女に申し出た。
世話になりっぱなしのまま帰るわけにもいかないから、と。
すると藍子は少し考えて、「じゃあ、しばらくこの町にいてくれませんか?」と真顔で言ったのだった。
僕はその時、当然のように自分の家へ帰るつもりだった。
帰ってやるべき仕事がたくさん残っていたし、そもそも長期間滞在するほどのお金の用意もない。
僕は「困ったな」とは言わなかったが、それとなく面倒そうな身振りをしてみせた。
しかし結局、僕もまた少し考えて、「わかった、そうしよう」と答えたのだった。
はっきりした理由はない。
だが、今のところ後悔もしていない。
どのみちこうなることは分かっていた……そんな気もする。
そういうわけで、僕たちは先行きも不透明なまま、猫をめぐる冒険にくりだすことにしたのである。
25 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:36:15.75 ID:JDuYBNLw0
冒険の最初の朝は、藍子の提案でひとまず喫茶店へ行くことになった。
「藍子さんは今日は学校があるんじゃないの?」
道すがら、ふと思い付いて尋ねると、彼女は「あー、まあ」と曖昧な返事をした。
「べつに、いいんです。わりとしょっちゅう休んだりしてるし」
「そうなの?」
藍子がちらりと僕を横目に見て、何を察したのか「サボってるわけじゃないですよ?」と釘を刺した。
「意外と不良なのかと思った」
僕が冗談めかして言うと、
「事情が、あるんですよ。いろいろと」
それから藍子は「ここです」と指をさして、喫茶店の重々しい扉を開いた。
26 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:36:49.46 ID:JDuYBNLw0
「あら、いらっしゃい藍子ちゃん」
「こんにちは」
入ってみると中は意外にも広々としていて、どちらかと言えば大衆食堂のような雑然とした雰囲気があった。
「今はお客さんいないから、ゆっくりしてってね」
「はい、お言葉に甘えて」
恰幅の良いおかみさんはずいぶん親しげだった。
どうやら藍子のなじみの店らしい。
案内された席で僕が座って待っていると、藍子は勝手にカウンターの奥に入り、ピッチャーの水を二人分、コップに注ぎ、それから慣れた手つきでテーブルへ運んできて、言った。
「なにかご注文はありますか?」
「え、じゃあ……コーヒーを」
僕が戸惑いながら注文すると、藍子はどこか楽しげに踵を返し、厨房のおかみさんにオーダーを伝えた。
「ここでアルバイトでもしてるの?」
藍子が向かいの席に座った時、思わず尋ねた。
「はい。アルバイトっていうか、お手伝いですけどね」
えへへ、とはにかみながら答える藍子に、僕はつい「ふぅん……」と素っ気ない反応をしてしまった。
根っからのひねくれ者なのだ。
おかげで損ばかりしている。
27 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:37:32.61 ID:JDuYBNLw0
「友達のお店なんです。昔からよく遊びに来てて」
「そういうことか」
「Pさんはもう朝食は済ませたんですか?」
「いや。朝はいつもあまり食べないんだ」
「体に悪いですよ」
そんなやりとりをしていると、おかみさんがコーヒーを手に僕らのテーブルまで来た。
「藍子ちゃんの言う通りだよ。朝はちゃんと食べなきゃ!」
有無を言わさぬといった調子でコーヒーを置き、さらに「これはサービス」と言って大きめサイズのカツサンドも差し出してきた時はさすがに僕もたじろいだ。
そうして僕が何か言おうとするより先に、おかみさんは勢いまくしたてて色々喋りだした。
「藍子ちゃんの知り合いかい?」
「知り合いっていうか、お客さん……かな?」
「あら、そうだったの! いやね、こんな若くてかっこいい人いきなり連れてきて藍子ちゃんどうしちゃったのかしらーってね、少しワクワクしてたんだけどねえ」
「もう、おばさんったら!」
「お名前はなんていうのかしら」
「あ、紹介しますね。こちらPさんという方です……で、こちらが日野さん」
僕はようやく「どうも」というような言葉を発したが、日野のおかみさんは一向意に介さずといった調子で喋り続けた。
「珍しい名前なのねえ、どちらの出身?」
「まあ、絵を! あ、描いていらっしゃるんでなく? ……画商、へえ!」
「藍子ちゃんには本当に世話になっててねえ。今どきこんな器量良のいい娘、滅多にいませんよ……うちの子も見習ってほしいくらいなんだけどねえ」
「観光はまだしていらっしゃらない? 意外と近くに名所があるんですのよ。ここから4、5kmほど南に行きますとね……」
……というような会話がしばらく続き、僕は半ば気圧されながら、おかみさんが満足して厨房に戻るまで愛想笑いと相槌だけでなんとか乗り切った。
28 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:38:51.62 ID:JDuYBNLw0
「いや、すごかったな」
僕が「ふう」とため息交じりに呟くと、藍子が「ああいう人なんです」と苦笑いを浮かべてフォローした。
どちらかと言えば騒がしいより静かな方が性に合っている僕としては、日野の奥さんのような人は周りに一人いれば十分、むしろ一年に一度会えれば十分といったところだ。
とはいえ、まったく無益な世間話だったかというと、そういうわけでもない。
藍子には気の毒だが、おしゃべりでお節介焼きのおかみさんは、藍子についても僕にいろいろ教えてくれた。
彼女が高校をよく休んでいるというのは本当らしかった。
そして、彼女が学校を休む時はたいていこの喫茶店か、あるいはあのアトリエで過ごしていることも。
突っ込んだ理由まではさすがに触れられなかったが、そんな話を聞いて僕は、なんとなく彼女にこれまでと違った親近感を覚えた。
少なくとも真面目なだけの女の子よりは好感が持てる。
「カレーが名物なんです、ここ。高校のラグビー部の人たちがよく食べに来るくらい、ボリュームがあって」
メニューを見ると、確かに普通サイズでもなかなかの量のようだった。。
食後のアイスコーヒーもおまけについてきてこの値段だと、かえってお店の儲けを心配してしまう。
「食べてみたいのは山々なんだが、まずはこのぶ厚いカツサンドを平らげないことにはね」
朝ごはんにしては重すぎやしないか、とは言わなかった。
「お持ち帰りもできますよ」
「それは大いに助かるね」
「Pさんって、いつもそうなんですか?」
「え?」
29 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:39:36.54 ID:JDuYBNLw0
「なんていうか、全然、興味なさそうだから」
「…………」
呆気に取られて何も言えなかった。
年下の、しかもこんなおっとりした女の子に、ここまで正面切って言われたのは初めてだった。
「……そんなことないさ。興味津々だよ。あまねく全てのものに対してね」
ほらまた、とでも言いたげに彼女は僕をじっと睨みつけた。
「嘘だと思う?」
「子ども扱いしないでください。そんなことばかり言ってると、嫌いになっちゃいますよ」
僕は思わず吹き出しそうになった。
「あ。またそうやって……」
「いや、ごめん。あんまり子どもっぽいこと言うから、つい」
ぷく、と頬を膨らませて怒るほど彼女は子どもではなかったが、不満げにそっぽを向くくらいには子どもだった。
「まあ、確かに僕は皮肉屋だとか冷笑家だとか言われることが多いけど、だからって嫌味なだけのロボットみたいな人間だと思われるのは心外だな。そりゃ、少しくらい、他人に関心を持つことだってある」
「少しくらい」
今度は藍子が皮肉っぽく繰り返した。
「ちなみに、いま僕がもっとも関心があるのは何だと思う?」
「え? ……なんだろう。食後のデザートのこと、とか?」
「それはきみが気になってることだろ」
「違います」
毅然と否定した後、「いじわる」と拗ねたように呟いた。
30 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:40:35.05 ID:JDuYBNLw0
「僕が興味があるのは、たとえばきみについてだ」
「私に?」
藍子は不意を突かれたように身を強張らせた。
「たとえば、藍子さんみたいな真面目そうな子が学校にあまり行かないなんて、一体どんな理由があるんだろう? たとえば、あのアトリエでいつも何をして過ごしてるのか? たとえば、彼氏はいるのかどうか……」
「お付き合いしている方はいません」
訝しむように眉をひそめながら、その質問にだけはすぐ答えた。
「まあ、それはどっちでもいいんだけどさ」
「やっぱり興味ないじゃないですか」
興味あった方がよかった? とは言わなかったが、僕は笑って続けた。
「芯が強くて物怖じしない。人には媚びないが、気が利くし、物腰も柔らかく、しっかりしてる。でも、それだけじゃない何かがきみの中にはある。情熱的で激しい、何かが……」
藍子は言葉の真意を読み取ろうとして、じっと僕の目を見据えていた。
まるで雄弁な人間には用心しなければならない、という忠告を自分自身に言い聞かせているようだった。
とはいえ、とりあえず褒められているということは理解したみたいだった。
「そろそろカツサンド、食べてもいいかい?」
「え? あ、ごめんなさい。どうぞ」
かぶりついて一口。
なるほど、悪くない。
外はふっくらした柔らかいパン生地、中は食べ応えのある肉がみっちり詰まっている。
マスタードなんかがあれば、より僕好みといったところだ。
31 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:41:25.31 ID:JDuYBNLw0
「本当は、深い理由も事情も、ないんです」
僕は黙々とカツサンドを口に運び、ゆっくり味わいながら藍子の話を聞いた。
「こんなこと言うと、ただのわがままに聞こえるかもしれませんけど……昔から、学校って少し苦手で。もちろん友達はいるし、楽しいこともたくさんあって、そういうのは好きで、でも……なんだろう。集団生活、っていうのが、合わないのかもしれません」
共同体の中で何の不満も抱かずにいる人間なんていない、という言葉を僕はカツサンドと共に飲み込んだ。
「小学校とか中学校はまだ良かったんです。でも高校に進学して、受験とか勉強とか、進路とか……急になんだか、せわしなくなっちゃって。ついていくのも大変だし、もっと自分のペースでやりたいなあ、ってぼんやり考えてたら、いつの間にかこうなっちゃってて……」
「それは、いつ頃から?」
ソースがついた口元を紙ナプキンで拭い、僕は言った。
察しのいい彼女は、僕の言わんとすることをすぐに汲み取って答えた。
「自分のなかではっきり繋がってるわけじゃないんですけど、やっぱり、おじいちゃんのことがあってから、だと思います。学校だけじゃなくて、他のいろんなことも、私を置いてどんどん先に行っちゃうような、そんな感覚で、いつの間にか……」
「ご両親とはうまくいってる?」
言った直後、さすがに踏み込みすぎたかな、と後悔した。
わずかに間を空けて、
「……ふふっ、なんだかカウンセリングを受けてるみたい。Pさんに聞かれると、なんでも話しちゃいそう」
藍子がふいに笑みをこぼして言った。
32 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:42:10.03 ID:JDuYBNLw0
「話したくないなら無理にとは言わない、僕はなにも……」
「そんなことないですよ。両親との仲は……悪くはないんですけど、やっぱり、おじいちゃんの一件があってから、少し壁ができちゃったような、そんな気はします。元から放任主義みたいなところがあったので、学校を休んでることについて特にあれこれ言われたことは……まあ、一回か二回くらいはあったかもしれないけど」
「そうか」
僕は、この話題は一旦ここで打ち切りにしよう、と暗に示すように、
「分かった」
と続けて言った。
どうやら話を聞く限りでは、藍子の置かれた境遇はなかなか不憫であると言わざるをえない。
だが一方で、実際に語る藍子の口ぶりからは、その内容ほどの深刻さはあまり感じられなかった。
これは、あくまで僕の憶測にすぎないが、いま彼女が僕に話してくれたことのほとんどは、実際彼女にとってそれほど重要な問題ではないのかもしれない。
もちろんそれも僕の勘違いで、十代の若者の繊細な悩みを取り違えているという可能性もなくはないだろうが。
「さて」
僕はグラスの水をぐいっと飲み干して一息つき、
「これ、美味しかったよ。お腹もいっぱいだ。カレーはまた今度かな」
「はい。もし機会があれば、私の友達も紹介しますね」
いや、それはべつに……と言いかけたが、ふと思い直し、
「……うん。そうだな、是非紹介してもらおう」
「とても良い子なので、Pさんもきっと仲良くなれると思いますよ」
それはどうかな、と僕は心の中で呟いた。
33 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:42:51.37 ID:JDuYBNLw0
【4】
「もう出ちゃうんですか? ゆっくりしてっていいのに」
店を出て歩いていく僕の後ろを、藍子が足早についてきて、言った。
「歩きたい気分なんだ」
ぶっきらぼうに答えると、彼女は不安そうに僕の顔を覗き込んで、
「でも、どこに?」
「…………」
僕は何も答えず、人もまばらな商店街をあてもなく歩き過ぎた。
藍子は黙ったまま、僕の少し後ろを遠慮がちに歩いていた。
数分間、僕たちの間に気まずい沈黙が続いた。
「……さっきの私の態度、やっぱりよくなかったですよね」
「?」
「なんだか、生意気なことばかり言っちゃって」
僕は思わず足を止めた。
そして改めて自分の態度を振り返り、その大人げなさに我ながら呆れてしまった。
「違う、そうじゃないんだ。僕はべつに怒ってなんかない。本当に」
「え、そうなんですか? 私てっきり……」
「すまない、それとは全然関係ない。ただちょっと、気が急いていただけで……そんなつもりじゃなかったんだ」
「よかった」
藍子はホッとした様子で、今度は彼女の方から先へと歩き出した。
「お散歩しながら話した方がいいかもしれませんね」
そう言って、太陽の下にふわりと身を翻しながら、僕の方へと微笑みかけた。
34 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:43:25.11 ID:JDuYBNLw0
「あっ」
僕は短い叫び声を上げた。
深い記憶の底で、ほんのわずかな火が星のように灯り、僕の意識に呼びかけていた。
デジャヴ。
どこかで、これと同じ風景を見たことがある……
おぼろげな記憶をなんとか辿ろうとして、僕はその場に立ち尽くした。
しかしそうしているうちに星のような光もどんどん遠ざかり、やがて何の確信も残さないまま、とうとう闇の中に消えてしまった。
「どうかしましたか?」
「今の……今のは、藍子さんだったのか?」
「え?」
僕の頓珍漢な問いかけに彼女は一瞬キョトンとして、それから可笑しそうに笑った。
「へんなPさん」
何か、小さな違和感が頭の片隅にこびりつき、僕はよほどそれを拭い去りたい衝動に駆られた。
が、全てが曖昧になってしまった今、それを確かめる術は僕にはなかった。
僕は、なんでもない、と適当に誤魔化して、それから、
「そろそろ本題に入りたいんだが」
と切り出した。
「本題?」
「猫のことだよ。忘れたの?」
藍子はとぼけたように、ああ、そういえば、と空を見上げて、言った。
僕はわざとらしくため息をついてみせる。
「頼むよ」
「えへへ」
儀式めいたやりとりだ。
だが、嫌いではない。
35 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:44:02.18 ID:JDuYBNLw0
「きみに預けておいたあの写真は? 何か分かったことはある?」
「あ〜……えと、そのことなんですけど」
「まさか失くしたなんてことはないだろ」
「いえ、ちゃんと持ってきてますよ。ただ……」
妙に歯切れが悪いな、と僕が訝しんでいると、藍子はおもむろにポーチを開き、
「なんて説明したらいいか分からないんですけど……朝、起きたらこうなってたんです」
そう言って手渡してきた写真を見て、僕は驚くよりも先に、してやられた、と思った。
「まったく、すばしこいやつだ」
教会の隅にうずくまっていたはずの黒猫の姿が、綺麗さっぱり消えていた。
まるで最初からそこに何も映っていなかったかのように、薄暗い教会の壁と苔むした地面があるだけだ。
まさか昨日の今日でこんなにも鮮やかに逃げられるとは。
思った以上にやっかいな相手なのかもしれない、と思った。
「本当にこんなやつを見つけ出すことができるんだろうか?」
僕は困り果てて、ついそんな独り言を漏らした。
「でも、ヒントはあると思うんです」
すっかり弱気になった僕とは対照的に、藍子はこんな状況でも前向きに考えようとしていた。
顎に手をあて、難しい顔つきをしながら身を翻すと、写真を手に立ち尽くしている僕を置いて先へテクテクと歩き出した。
やれやれ、まるで探偵ごっこだ。
僕は写真を鞄の中に仕舞い、彼女の後についていった。
36 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:44:37.47 ID:JDuYBNLw0
「そのヒントっていうのは、つまり?」
「どうして猫は、わざわざ私たちの前に姿を現したのかな、って。逃げようと思えばどこへだって逃げられそうなのに、あの猫はまるで試すみたいに私たちの前に現れて、そしてすぐ消えた。やっぱり、私たちに見つかるのを待ってるような、そんな意志を感じるんです。あるいは、そうせざるを得ないような理由があるのかも……」
藍子は、自分の言葉に疑問を抱いたかのように一瞬、黙ったが、すぐに気を取り直して話を続けた。
「どのみち、猫があの教会の写真に現れたことには何か意味があると思うんです」
「それはそうだろうけど……」
「それで私、父に聞いてみたんです。あの写真を見せて、いつ頃の写真なのか、映ってる猫のことについてとか」
「仲悪いんじゃなかったの?」
「ふふ、そこまで険悪なわけないじゃないですか。まあ教会の話をして父は良い顔をしませんでしたけどね」
僕は、失礼ながら勝手に藍子の父親を想像してみた。
気は小さいが温厚で、娘に強く出られると為すすべがない、哀れな中年男性といったところだろうか。
「年代についてはっきりしたことは分からなかったんですけど、少なくとも私が生まれる前、たぶん20年から30年くらい前の写真だろうと言っていました」
「猫については?」
「見覚えはない、って一言だけ。父はあまり猫が好きじゃないんですよ」
苦笑する藍子と、猫におびえる気弱な中年男を想像する僕。
誰しも苦労しているんだな、と他人事のように思うのだった。
37 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:45:30.70 ID:JDuYBNLw0
「ところで」
僕たちは今どこへ向かおうとしているんだろう? と言いかけたところだった。
気が付けば太陽はすでに頭上高く上り、辺りは民家もまばらといった風で、建物と木々の隙間にちらちら覗える景色から察するに、もう少し歩けば一面の田園風景が見渡せるに違いなかった。
駅からずいぶん歩いたらしい。
こんなところまで来て、どこへ行くつもりなんだろう?
僕は、藍子の歩みに任せるままについてきて、いまさらそんな疑問を抱いた。
ところで……そう口にした瞬間、僕はすぐ、藍子がこれから向かおうとしている目的地に気付いた。
それはまるで森の中を泳ぐ巨大なクラゲだった。
何か白くて大きな建造物が、僕たちの行く手のずっと先、山のふもとの深緑の波の上に、埋もれるように横たわっていた。
「あれはなんだろう?」
僕は質問を変えた。
「ふふ、気になります?」
藍子が目線だけをこちらに投げかけて言った。
「この町でいちばんの観光名所は、って聞かれたら、ほとんどの人があそこだって答えると思いますよ」
「いや、僕は観光なんて……」
「まあそう言わないでください。それに、きっと猫探しにも役に立ちますから」
ここで僕は、あの喫茶店でおかみさんが自慢げに話していたことを思い出した。
この町には星の記憶が眠っているという……
「そうか、あれが……」
38 :
◆wsnmryEd4g
[!蒼_res]:2022/08/22(月) 21:46:37.00 ID:JDuYBNLw0
【問3】
1.現在までに発見されている、天使とヒトにまつわる神話を記した創世記において、かつてヒトが上位存在に逆らい罰せられた歴史が示唆されている部分がある。これについて、ヒトが安寧を否定し、みずからが神と呼ぶ存在に逆らおうとした理由を、「運命」という言葉を用いて考察せよ。
2.絵に描いた餅とはどういう意味か? 簡潔に述べよ。
3.説話「屏風の虎」において、虎退治を依頼された一休は「では屏風から虎を出してください」と言う。虎が屏風から出てこられなかった理由は何か? また、この逸話を通して作者が主張したかったこととは何か?
39 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:47:51.89 ID:JDuYBNLw0
【5】
「……いいえ、そうではありません。もちろん、鑑賞目的というのであれば、ここで公開している資料の大部分はそのまま御覧いただけます。しかし、もしそれらの資料を"活用したい"というのであれば、不可能ではありませんが少々込み入った相談になります。例えばきわめて個人的な、けれど個人にとっては非常に深刻かつ重大な記憶と記録の夢をお探しになりたいのでしたら、相応の準備と、最悪の場合は一生分のお時間が必要となります。運がよければすぐに見つかることもあります。ですが、なにぶん記憶と記録の夢は時間が経つにつれどんどん星のコアと融合してしまいますから、それはつまり海に落ちた指輪を探すというような、もっと言えば海に溶けた角砂糖を元の形に戻すというような途方もない作業に相当します。当然、専門的な技術がなければそれは不可能です」
そのために私たちがいるのです、とでも言うように、眼鏡をかけた女性職員は僕と藍子を交互に見やり、静かに口をつぐんだ。
僕たちは真っ白なエントランスの隅にある応接スペースに案内され、この施設の説明を受けているところだった。
どうも聞いていた話と違うぞ、と職員の説明を頭の中で整理しながら僕は思った。
「ちょっと風変りな博物館」だなんて、藍子も日野のおかみさんもずいぶんと適当なことを言ったものだ。
だいたい、ここから見える館内のどこにも、展示物はおろかインテリアも、ポスターの類すら見当たらない。
「博物館でなければ、ここは一体なんなんです?」
「私たちの本来の目的は宇宙と星、そして人類の土地と歴史と神話のための検索システムを開発することであり、ここはその研究および管理施設のようなものです。とはいえ、一般的なミュージアムとして楽しんでいただくことも十分可能です」
職員は長い髪をかきあげ、手元にあったパンフレットをそっと差し出した。
「ご希望でしたら私がご案内いたしますが……」
話を聞いている間ずっと「はあ」だの「へえ」だの相槌を打っていた藍子は、良い暇つぶしができたとばかりにパンフレットを手に取り熱心そうに読み始めた。
あとのことは僕に丸投げするつもりらしい。
僕は視線を戻し、改めて話を持ち出した。
40 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:48:59.22 ID:JDuYBNLw0
「ええとですね。とにかく、僕は探しものをしにここへ来たんです。例えば、その……いわゆる郷土資料というか、具体的にはこの町のとある教会についてなんですがね……あるいは、偏屈な画家とか、絵の中に住む猫についての情報だとか」
言ってから、これじゃ頭のおかしな奴だと思われかねないな、と不安になった。
まあ今さらそう思われたところで大した不都合もないのだが。
するとその女性――首から下げた名札に「古澤頼子」と書かれている職員、あるいは学芸員か研究者――は、それまでの落ち着いたポーカーフェイスにわずかに不審な色を浮かべ、独り言のように聞き返した。
「絵の中に住む猫……ですか」
「何か知ってるんですか?」
パンフレットを読んでいた藍子が身を乗り出して尋ねた。
「いえ、残念ながら……」
がっかりした様子でソファにかけ直す藍子に、古澤女史は「ですが」と続けて言った。
「お客様が、そういった不可解な存在に導かれてここにいらしたということは、私たちの言葉で言うなら、それは"予兆"のようなものです。星の見る夢はしばしば地上に干渉し、奇妙な現象を私たちに見せることがあります。それ自体は私たちの研究の対象ではありませんが、星の夢に繋がるチャンネルのひとつとして、貴重なサンプルになりうると考えています」
「えーっと、それってつまり……」
「あるいは、私たちがお役に立てるかもしれません、ということです」
僕と藍子は思わず顔を見合わせた。
よく分からないが、協力してくれるならこちらとしてもやぶさかでない。
41 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:50:06.25 ID:JDuYBNLw0
【6】
「藍子さんが以前来た時もこんな感じだったの?」
「うーん、どうだったかなあ。うんと小さい頃だったから……」
僕たちは古澤女史に案内され、館内の展示物を順繰りに歩いているところだった。
最初の扉を開けて進むと、中は広いドーム状の空間になっていた。
先ほどとは打って変わって薄暗い照明の、その中央に小さな丸テーブルがぽつんと置いてある。
そこには人の顔ほどの大きさの四角いガラスケースが飾られている。
近づいてみると、ケースの中には爪よりも小さい、光り輝く石がうやうやしく飾られていた。
「こちらは、当館が設立されるきっかけになった、この地域で最初に発見された星の夢の欠片です」
僕と藍子は「へえー」と言いながらそれを眺めた。
そもそも星の夢というのが何なのか分かっていないのに感心も何もないものだが。
「ただの小さな石ころのように見えますが」
僕は純粋に気になって尋ねてみた。
「はい、見た目はただの石です。より具体的に言うなら、これはただの火山岩です。しかし重要なのは材質ではありません。その石の持つ"ことば"が重要なのです」
「光ってる。不思議な色……」と藍子。
確かに、その淡い光り方にはどこか惹きつけられるものがあった。
表面は七色のグラデーションを帯びていて、まるで海辺に打ち寄せる波のようにうねっている。
どの角度から見ても光り方は一様で、そのせいで石の形状や凹凸がはっきりせず、二次元の平坦な模様のように見える。
「この輝きこそが星の"ことば"です。さあ、よく見てください……」
女史がそう言って丸テーブルの側面のスイッチを入れると、輝く石に向かって細い蛍光灯の明かりが照らされた。
すると、石のすぐ下、黒い土台に描かれた模様と文字が浮かび上がってきた。
42 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:51:15.25 ID:JDuYBNLw0
一瞬、何か科学的な作用によって文字が現れたのかと思ったが、そうではなかった。
単に、暗がりの中で見えなかった資料の説明文が、明るい照明によって映し出されただけだった。
そこにはこう書いてあった……
『"星の夢"が放つ輝きは、物理現象としての光とは大きく異なります。本来であれば、この文章は石の光によって照らされ読めるはずですが、実際に石の輝きは光子を放っているわけではないため、物体に反射したり、影を作ったりしません。石の輝きは、私たちの感覚を通して意識に直接働きかけている光の幻なのです』
「えっ……あ、ほんとだ……」
藍子は今度こそ「へえー」と興味をあらわに感嘆の声をあげ、子どものように横から斜めから石を眺めだした。
すると何を思ったか、おもむろに自分の顔を両手で覆ったので、「何やってるの?」と聞くと、
「えっと、影を作らないなら目を覆っても光は見えるはずだと思って……あれ、私なにか勘違いしてるかな?」
「いえ、鋭い指摘です」
女史はにこりともせず話を続けた。
「この光はどんな物体も通過して人の意識に届きますが、それはその人が"見えている"と認識している時のみ、つまり星の夢へのチャンネルを開いた時のみそれが可能になります。お客様が、ここに石がある、と正しく認識さえすれば、目を塞いでも、石が金庫の中に入っていても、光、すなわち星の"ことば"を感じることができるはずです」
それを聞いた藍子は半信半疑で目をつぶったり手で前を覆ったりしたが、なかなかうまくいかないようだった。
「大事なのは感覚を研ぎ澄ますこと、そして"ことば"の存在を信じることです。コツさえ掴めば、これはそれほど難しいことではありません。例えば、耳を塞いでみるとより効果的に……」
思いがけず古澤女史のレクチャーが始まり、藍子は当初の目的もどこへやら、摩訶不思議な心眼チャレンジに夢中になった。
一方、僕はそんな戯れに興じる気分にはとてもなれなかった。
正直に言うと、この謎めいた光――専門家に言わせれば星の"ことば"――について、好奇心をそそられるよりもむしろ嫌悪に近い抵抗感があったのだ。
まるで幽霊からのメッセージみたいだ、とさえ思った。
そんな幼稚な存在を怖がるような歳でもないのだが。
43 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:51:53.05 ID:JDuYBNLw0
僕は、夢中になっている藍子と、淡々と説明している古澤女史をそのままにして、一人奥の通路へと進んでいった。
すると部屋を出てすぐ横の壁に見知らぬ町を描いた風景画が飾られていたので、なんとなく近づいて眺めてみた。
職業病とでも言うのだろうか。
僕は無意識に、これが市場で取引されるとしたらどれほどの値が付くかなどと考えていた。
とはいえ、技術的に特筆すべきところもなく、全体的に平凡で、特に市場価値があるようには見えなかった。
これならまだ藍子さんのおじいさんの絵の方がずっといい。
「こちらの絵にご興味がおありで?」
急に背後から声をかけられたので僕は仰天して振り返った。
背の高い、ラフな恰好をした若い男が斜め後ろに立っていた。
こちらへは顔を向けず、絵を見ながら僕に話しかけたらしい。
が、僕が驚きのあまり反射的に体を動かしたので、ふいに目が合ってしまった。
すらりと細い顔立ちに爽やかな微笑を浮かべ、男は口を開いた。
「後ろのソファに座っていたんです。驚かせたようでしたらすみません」
「ああ、いえ、こちらこそ……まさか他に客がいるとは思っていなかったもので」
「あっはは、そんなことはありませんよ。ここは平日でもまあまあ人は入りますから。でも確かに、今日は今のところあなた方しか見かけていませんね。そういうことも、たまにはあります」
「こちらの職員の方ですか?」
「まさか。ただの一般客ですよ。まあ、どちらかと言えば常連客と呼んだ方がいいかもしれませんね。自分で言うのも変な話ですが」
男は朗らかに微笑むと、再び、額縁に飾られた、何の変哲もない風景画に目を向けた。
「どうです? なかなか素敵な絵だと思いませんか?」
44 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:52:52.30 ID:JDuYBNLw0
僕は「まあ……」と曖昧に相槌を打った。
そして、「あまり好みではありませんが」と言う代わりに、
「そうですね」
と答えた。
彼は満足げに「でしょう?」と微笑んだ。
まるでこの素晴らしい絵を描いたのは自分なのだとでも言いたげな、子どものように素朴で純粋な表情だった。
「ここへは頻繁に来ているんですか?」
「そうですね。ほとんど毎日のように」
「はあ、それは……」
ずいぶん暇人なんですね、とはさすがに言わなかったが、なんとも答えようがなかったので僕は黙ってしまった。
「はっはは、よっぽど暇なんだな、と思われたでしょう」
男が朗らかに笑いながら言うので、僕はつい「ええ、まあ」と肯定してしまった。
喋り方にまったく嫌味がなく、誰かと話すことはとても楽しいことだと根っから信じている人間のようだった。
僕とは正反対のタイプだが、それはそれとして、この男との会話は悪い気分ではなかった。
「実際、暇なんですよ。毎日これといって特にやることがない。ちなみに無職というわけでもありません」
「お仕事は何を?」
「理容師です。この町で唯一、髪を切ることを許されている職業です」
「はあ……」
僕は、なぜそんな仕事に就いていながら暇なのか?という疑問と、唯一許されている……のくだりに対する疑問とを、どちらを先に質問すべきか一瞬迷った。
「この町の人間の、非常に奇怪だが一般にはほとんど知られていない、とある特性を御存じですか?」
逆にこちらが質問されてしまった。
「いえ、知りません」
45 :
◆wsnmryEd4g
:2022/08/22(月) 21:53:57.17 ID:JDuYBNLw0
「大昔から、この地域の血筋の人たちは、ある一定の年齢になると髪の毛がそれ以上伸びなくなるという奇妙な体質を持っています。嘘だと思うでしょう? 僕も最初はただの都市伝説だと思っていました。ああ、ちなみに僕はここの出身ではありません。あなたと同じ、よそ者ですよ。結果的に居ついてしまいましたがね。まあそれはいいとして……」
男はとっておきの秘密を打ち明けるように、嬉しそうな表情で話を続けた。
「ここらの地域の、いわゆる名門と呼ばれるいくつかの家系は、実は遥か大昔、神話と呼ばれる時代に存在した、ある天使たちの直系の血族だと言われています。眉唾物の話ですが、実際、それらの家系の者はみな、放っておいても一定の長さ以上は絶対に髪が伸びません。不思議でしょう?」
そんなわけですから、私に仕事が来ることは滅多にないんです、と理容師は自虐的に言った。
「その話が本当だとして、仕事がないならどうやって生活を?」
「散髪の仕事が一切ない、というわけではありません。つまり、天使の家系ではない人々、たとえば他所から越してきた人などは普通に髪が伸びますから、そういう彼らのために私は仕事をします。ただしこの町では、そんな特異体質の家系が古くから特権階級でしたから、髪の毛を切るというのはいわば忌むべき行為、天使に対する冒涜だとする信仰が根強いのです。私の言いたいことが分かりますか?」
「なかなか面倒なお仕事ですね、ということまでは」
「はっはは、その通りですよ。散髪にもいちいち町役場の許可がいるんですからね。儲かるはずがない」
「もちろんそれもあるでしょうが」と僕は言った。
「あなたの立場もずいぶん面倒そうだ」
「まあ」と男は答えた。
「損な役回りではあります。今でこそ偏見や差別はほとんどなくなりましたがね。まあ、町から補助金が出て、それで暮らしている分には、そんなに悪くない仕事だと思いますよ」
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