白雪千夜「アリババと四十人の盗賊?」

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85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:06:29.35 ID:tRJaplXx0
 やがてシーンが終わり、次の稽古の為に小休止を挟むことになった。水分を摂りながら反省を重ねる。多分、これでは駄目だ。暗い気分が、なんとなく雑然とした空間の中で、千夜を一人だけ切り取ったように包む。次はせめて集中しなくてはならない、と思う。
 思い悩むところへ、りあむがやって来た。

「エへへ、あの」
「はい」
 彼女は神経質に眼を動かし、瞬きを繰り返す。
「千夜ちゃんはさぁ」

 そうか、この人に気を遣われてしまうのか。
 そんなに自分は悩ましく見えるのか。実際、悩ましくはあるけれど。
 ――余計なお世話だな。お礼を言うの、面倒くさいな。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:07:17.02 ID:tRJaplXx0
「千夜ちゃんは鰤でいったらネムだよね(笑)」
「は?」
「アッごめ」
「いやあ、楽しそうだねぇ」
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:07:42.48 ID:tRJaplXx0
 演出家の先生がやってきて、目に朗らかな小皺を寄せた。
「白雪さん、上手くいかない実感あるでしょ?」
 素直に首肯する。
「……はい」
「空間に負けてるんだよ。姿勢は意識して、でも力は抜いて、ね」
 千夜はまた頷いて、出来るだけ心に留めようと試みた。
「今日はその為の、見られるのに慣れる練習だからさ」
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:08:39.52 ID:tRJaplXx0
 それから、また稽古の舞台に上がった。座った大勢の盗賊≠スちに見守られながら、物語の続きを演じる。
 《千夜ちゃん》だの《千夜》だのと声援があった。結構な年下からちゃん付けに呼び捨てか、とも思ったが、アイドルとしてはこちらが後輩だし、そもそもさして嫌でもない。可愛いモノ扱いが板に付いているんだな、と内心苦笑する。あの愛情表現を惜しまないちとせと暮らしていたのでは、常日頃から彼女のアイドルをやっていたようなものだったのかもしれない。

 ――アイドルか、と思う。ちとせは自分に何を見ているのだろう。珊瑚のような瞳の内奥に、千夜を打った光はどんな像を結ぶのだろう。知りたい。成りたい。一ミリだけでも近付きたい。まだ見ぬ偶像に、珊瑚の奥に。それ以外、想いがない。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:09:29.09 ID:tRJaplXx0
 とりあえずは目の前の稽古。ババ・ムスタファというのがお調子者で、モルジアナの口止めなど意に介さず、街へ一人で潜入した変装姿の盗賊に、奇妙な仕事について明かしてしまう。財宝を盗んだアリババを狙う盗賊は金貨を差し出し、ムスタファに案内を依頼する。彼はカシムの家に行くまで目隠しをしていた事から一旦断るも、もう一度目隠しをされることで、なんと以前歩いた道を思い出し、盗賊をカシムの家まで導いてしまう。

「……いけませんね。ここで右だったか、左だったか……」
「ああもう、これだろッ! 五枚目だぞッ! これで辿り着けなかったら、タダじゃ――」
「思い出した、ここを真っ直ぐです。そして…… そうそう、ここだった!」

 盗賊は喜びながら、周囲に似たような門の家が多くある事に気付き、目標を見失わないよう、対策を講じる。チョークを用いて、カシムの家に印を付けておくのだ。
 これでばっちりと意気揚々、仲間の元へ去っていったところへ、モルジアナは帰ってくる。目敏い彼女は、門の印にも気付き、注意を払う。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:10:04.45 ID:tRJaplXx0
「これは、何でしょう。近所の子供のいたずら書きか、それとも……」

「こ、これはッ‼︎」横から覗き込んだアリババが大声を上げた。「なんと禍々しいっ! 二本の角にニタリと剥き出しの歯っ!」
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:10:37.42 ID:tRJaplXx0
「そうですか? サインか何かのような……」
 台詞を返しながら、少々気圧される。というより、調子を乱される――その立ち位置、舞台が狭くならないか。

「そしてこの眼帯! いいえ、これは邪悪な精霊の似顔絵! 悪魔降臨の儀式です!」
 ――離れ過ぎ。どこの政治家の演説だ。

「悪魔? 猫のようにも……」
「モルジアナ! この邪悪な儀式を止めなくては!」
 ――詰め過ぎ。余計な緩急が付いてしまうのでは。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:11:11.96 ID:tRJaplXx0
「ふむ、儀式とやらはともかく、これは盗賊が付けた目印かもしれない。なんとか誤魔化しておこう」
 千夜なりに立ち位置を考えながら、見せ方を調整する。それを安斎都はしっちゃかめっちゃかに乱す。付いていっては豆鉄砲を食って、の繰り返し。奔放なアリババは千夜を振り回しながら、その苦労など意にも介さず笑った。
「盗賊? あっはっは、そんな筈はありません。そこはモルジアナがしっかり対処してくれたでしょう」
「アリババ様…… いえ、ともかく、綺麗に消している暇があるかどうか。それより、これと同じサインを近所の家々に付けておきましょう」
「待った! この悪魔を増やすですと⁉︎」
「ああもう、私一人でやりますよ」
「ありましたよ、チョーク」
「やるんですか?」
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:11:37.90 ID:tRJaplXx0
 言いようのない疲労感を抱え、今度は盗賊たちの場を観る側に回る。先に来た一人が仲間たちを引き連れるも、モルジアナの機転によって、盗賊の印は意味を失っていた。彼らは目的の家を見失い、案内役は仲間たちに無駄足を踏ませた責任を取らされる。

 コメディ調にアレンジされたシーンを眺めながら、都と頼子が小さく反省しているのを聞いた。
「なんだか冴えなかったと思うんです」
「え、なぜ? 都ちゃん、とっても良かったじゃないですか」
「立ち位置なんです。印を見せながらポーズのキレを保つのが難しい!」
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:12:07.71 ID:tRJaplXx0
 ――ふうん。まさか、考えがあったのだとは。
「成る程。でも、元気たっぷりにやればきっと大丈夫ですね」
「ええ! 他はバッチリですから!」
「いいえ。あんな出来では、また抜き稽古になりますよ」
 つい、口を挟む。

「抜き稽古?」と都。
「今やっていることです。練習が必要なシーンを抜き出して稽古するんです」答えて頼子。
「出来が悪いシーンをね」
「へえ!」都が笑う。「じゃあ、練習する機会が増えて良いじゃないですか!」
「違う。赤点だから補習を受ける、という事です」
「赤点? ええ、そんなに悪かったんですか?」
「誰のせいだと……」
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:12:52.55 ID:tRJaplXx0
 段々、追い詰められているような気持ちがした。眼前の少女の手綱をとろうとして、その明るさの為に、余計にボロボロになっていく。心が狭くなったのか? 自分が悪いのか?
「次はもっと元気に動き回ってみますね。そしたらきっとポーズも……」
「冗談じゃない」

 しまった、まただ。息苦しい。耐えられない。最近すぐ、かっとなる――
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:13:22.31 ID:tRJaplXx0
「千夜さん……」
 頼子が止めようとしてるのが分かった。構わず都に詰め寄る。
「自分の好きに動くのも結構ですが、それで割りを食うのはこちらだ」

 きょとん、とした顔がまだ憎い。もっと恐がれ――
 
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:13:49.74 ID:tRJaplXx0
「はっきり言って迷――」
「白雪さん」
 ――
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:14:19.54 ID:tRJaplXx0
 演出家の一言が、千夜を止めた。そうさせるだけの、静かで優しく、厳しい声だった。
 先生はそのまま、千夜の顔を覗き込む。朗らかさは忘れず、しかし眼で笑うこともせず、問う。
「白雪さんはさ、誰に怒りたいのかな?」

 答えられず、沈黙したままになる。見つめ返すのが精一杯だった。
「ヤダなぁ、坊さんみたいだ」照れ臭そうに頭を掻きながら、先生は笑った。「よし、白雪さん、休憩にする? 外の空気吸ってきてもいいよ」
 千夜は頷いて、さっさと振り返って扉へ向かった。

 誰に怒る? 都に? 違う。違う筈だ。自分の考えを実現することに固執していただけだ。周りの、安斎都の考えと折り合わせることもせず。相手もアイドルで、自分の見せ方には考えがあるのだという事を気にもせず。認めないから気付かない。何が調整だ。我がままに相手を振り回そうとして、勝手に疲れていたのはこっちだ。

 ぼんやりした頭を抱えて、足元ばかり見ていたのに、何度か躓いた。
 
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:15:18.38 ID:tRJaplXx0
 建物を囲む打ちっぱなしの塀を隔てて、都会の喧騒を耳にしていた。車が行き交い、忙しない足音が響いたり止まったり、察するに今、信号が赤になったところだ。風が街路樹を揺らす。時々鳥の声もする。自販機で買ったミルクティーは、開ける気にならずジャージのポケットだ。

 稽古は上手くいかない。考えるべきことも手につかない。現実は理想とやらと乖離して、問題ばかりが山積みらしい。それでもちょっと頭を冷やしたら、また戻っていかなければならない。

 歩いていても、コンクリートは代わり映えがしない。ヒビとかシミとか、もっと面白い形になってくれればいいのに、と思う。ぼうっと頭を動かしていると、土の色。煉瓦に囲まれたそこに、名前は知らないがピンクの花と、黄緑の大きい葉。

 そこで視界に違和感を覚え、つと目をやった。
 花壇にうずくまる人影がある。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:15:48.32 ID:tRJaplXx0
 これに驚いて、熱中症でもやって倒れたか、と反射的に駆け寄った、……のが大きな間違いだった。しなやかな体躯に、ピンクを混ぜたような紫の髪、鼻孔をくすぐる甘くて辛い、刺々しくも茫洋な香り――

 一ノ瀬志希は、千夜に気付いたらしく「ん」と発し、顔も向けず続けた。

「そこでな〜にをしてるのかにゃ〜?」
「こちらの台詞なのですが」
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:16:18.72 ID:tRJaplXx0
 鋭く指摘してやると、彼女はこちらに向き直った。悪戯っぽい笑顔は、本人の伸びやかな四肢からすれば違和感を覚える程に子供っぽかった。
「今日ねー、朝起きたの。十二時。そしたらワオ、お稽古だってゆーじゃん?」
「はい」
「だからお花嗅いでた。……お鼻で」
 ――論理学の教授に中指でも突き立てようかという回答だ。

「それは、耳では嗅げないでしょう」
「まあね。あんまりはね?」
「はい」
「全くではないけれど♪」
「いや、全くです」
「うんうん、千夜ちゃんもそう思うよね」
「ん? いや、その全くです≠ナはなく」
「口の方はきけるのにねー」
「はあ。言葉、ですね」
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:16:45.28 ID:tRJaplXx0
 そろそろだ、と思った。ほんの徳義心、社会的道義から彼女を看過するわけにいかなかったのは、千夜が咄嗟に歩み寄り、杞憂をしたのだと分かり後悔の念を覚えた、その瞬間までだったのだから。
「あの」と切り出す。「貴女の具合が悪いのでなければ、お暇します」

「逃げるの?」
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:17:12.94 ID:tRJaplXx0
 言い放つ。
 鋭く刺さった。志希の口調は強くもなく、眼もくりくりとしていたが、……
 逃げるの、ときたものだ。寸鉄千夜を刺した。その場に縛り付けられて、詰まりながら言葉を返す。

「何の話です」
「あたしにだけ答えさせて、千夜ちゃんは質問スルーだなんて」
「質問?」
「《そこでな〜にをしているの?》」
「ですから…… 貴女が蹲っていたので、急病人ではと」
「よくあたしを見つけられたねー」
「けっこう目立ちますよ」
「あたしが言いたいのはね? 《よくもまあ、こんな所であたしに出会えたものだ――お稽古の時間だというのに》」
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:17:39.83 ID:tRJaplXx0
 志希はそうして千夜を刺激し、反応を観測すべくか身体を傾け、其方此方から視線を投げるのだった。時折鼻を動かし、蠱惑的な笑みを浮かべながら。なんとも落ち着かない。
「ちょっと休憩を頂いたのですよ。それだけです。あの、いくら私の表情が乏しいとしても、そんな風にじろじろ見られるのは心外なのですが」
「にゃは? ウソついたね」
「嘘? 嘘など」
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:19:30.79 ID:tRJaplXx0
「ばれてないって? 成る程つまり」志希は大仰な身振りを交えて、「あたしという人間を知らないなー? オーケイ、じゃあもう一度だけ説明しよう! あたしの名前は一ノ瀬志希。こう見えて――つまり可憐にして高貴、蝶よ花よの箱入りお嬢様に見えて」――見えますね、まさしく!「――その実はアメリカ留学のギフテッド、更に飛び級のジーニアス! のみならず四十人の盗賊を束ねる決死部隊の長にして天使のカオした破滅愛好家、遠からん者には喜劇、近く寄り見ば悲劇、否認を受け持つ守護聖人、イワテの聖シキー!
 あたしはたった今、キミという背徳の仔羊に与えられた森厳なる恩恵を奪うのだ――汝、鶏が鳴く前も鳴いた後も否認する能わざるものなり。呪文もいっとこっか?
 《イフタフ・ヤー・シムシム》♪」
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:20:00.15 ID:tRJaplXx0
 ……
 ――何がなんだか分からない! 千夜は困惑しつつ、ある瞬間、志希の眼に妖しいものを見つけた。ああいう類のカオには覚えがある――戯れ≠セ! ほとんど狼狽え、後退りして距離をとった、が、志希はお見通しというように回り込むと、弾こうとする手も退け、背後から抱き付くように千夜を捕らえた。ぎょっとして、振り払おうと試み、腕を振り回したり身体を屈めてみたり、踵や脛も使ったが、彼女は反射的以上の速さで巧みに受け流してみせると、ついには千夜の両腕をぐいと掴み上げ、抵抗を諦めさせた。

 磷にされたような間抜けなポーズもそうだったが、より屈辱的な気持ちをもたらしたのは、志希が千夜の右の首筋に顔を寄せ、小刻みに鼻を動かしているらしい、その呼吸音を間近に聞かされる事だった。千夜は再度応戦を試み、首に無理を利かせ、顎の骨で志希を押し返そうとしたが、これもすぐ諦めざるを得なかった。じゃれあい以上の効果が現れなかったうえ、傍目から見た自分をより滑稽な存在に仕立てあげているに違いなかったのだ。短い争いが巻き上げたか、土の匂いが少しした。陽光に当てられ、身体が火照りを覚えていた。

107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:20:28.19 ID:tRJaplXx0
 千夜の様子を分かってか、志希は口を開く。
「ハスハス…… ん? にゃはは、無駄な降伏はやめて抵抗しなよ」
「離して頂けませんか。こういう過度な接触は、ちとせお嬢様にだけ仕方なく許しているのです」
「話して欲しい? はーい。あたしには、匂いで千夜ちゃんが嘘ついているのが分かるんだー。キミの否認を、あたしも認めない♪」
「離せと言いました。アイドルに怪我をさせてはと思っていましたが、この際本気を出してもいいのですよ」
「まだまだ、演技で昂めてよ。キミの大脳辺縁系に生まれたモノは視床下部から下垂体・副腎皮質を介して血中に分泌され、ニオイ物質というカタチで皮膚から気流により伝搬、あたしの嗅上皮に溶け込み嗅覚受容体と結合するのだ。パルスは語る――キミは焦ってる。怒ってる。恐れてる。これが《休憩を貰っただけ》だなんて! うーん、ケミカルセンス。ハスハス」
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:21:04.82 ID:tRJaplXx0
 淡々と彼女が語る程、千夜は身の毛がよだつようだった。ハッタリだ、バーナム効果だのショットガンニングだのいうやつだ、と自分に言い聞かせようとしたが、きっともう心で諦めていた。それこそ恐ろしいぐらい、志希は千夜の内面を暴き立つつある。

 今一度、強く拒むと、意外に手応えもなく解放された。振り返り、相対する形になる。
「知ったことではありません、匂いがどうだろうと。そろそろ稽古に戻らなければなりませんから、失礼します」
「何故?」
「……何故?」
「そんな嫌なキモチになってまで何故、どうして、それを続けようとするの?」

「理由など…… 辞めれば皆さんに迷惑が——」
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:21:36.95 ID:tRJaplXx0
 言おうとする千夜を、彼女は目で制止した。憐むような、蔑むような、失望するような目で。

「正義感? 義務感? それとも恐怖感? 望んだ正しい自分でいなきゃならないの? 自分が役に立たない存在だなんて認められないの? ……はあ、理想だの責任だの高潔さだの、ナイフみたいに刺すだけ刺してさ。つまらないとは言わないけど、ツマンナイ。そんなオトナびた理由で足が竦むんなら、あたしがコドモスウィーティーな翼をあげる。否認を奪って、堕落をあげる。そしたら後は跳ぶだけだ。だってさー、疲れたでしょ? 呪文はそうだな、《バウチカバウワウ・ギチギチグー》♪ はいオーケイ。千夜ちゃん、頑張ったね。よくやったね。今までありがとうね、ちゃんと見てたからね。もう大丈夫、どこへでも逃げていいんだよ」
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:22:50.02 ID:tRJaplXx0
 耳鳴りがする。畳み掛ける言葉が飽和する。
「馬鹿な。……馬鹿な」
「そりゃそーだ。あたしは自分もジャンキーの麻取にして、聖歌隊に説教する痴れたヤツなのだ」
「、…… はあ。……それ、増えるのですね。その、肩書き、というか」
「カタガキ、…… カエデ?」
「いいえ」

「どれがホントウのあたしかって? ナンセンス! どれもホントウのあたしだよ。あれもこれもそれもどれも、時にはキミでさえもが、あたしなのだ」
「ナンセンスを言っているのは貴女でしょう」
「That makes sence(それ言えてる)! あたしに任せてよ、とびっきりクレイジーにしてあげる」
「要領を得ないな」
「じゃ次のスマホは256GBにすればー。でもアドバイスが欲しければ一口≠ナ済むよ」
「アドバイス?」
「逃げちゃえ」
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:23:18.07 ID:tRJaplXx0
 それだけ言って、またしゃがむと花壇に興味を戻した……と思いきや、蟻の行列に特別な意味を見出したらしい。
「結局それですか。逃げろと…… 貴女のように?」
「そ」
 軽く挑発しても、千夜ではちとせがやるようにはいかなかった。志希は黒い帯を見つめたままだ。

「どこへ」
「どこに行くか、分かってるでしょ?」と返してから、ぼそり行列の先頭へ、「……うーん、どこに行くんだろーね」
 千夜は黙った。……
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:23:46.53 ID:tRJaplXx0
 暫時の間があり、
「嵐、…… みたいなモンだから」
 ぽつり、志希がこぼした。

 千夜は口を結んで次を待ったが、志希は当分、働き蟻の行軍パターンに自前の化学物質がもたらした乱れを観測しているつもりらしかった。彼女らの行く先に飴でもあればよいが、などと千夜なりの同情を寄せているばかりでは、どうやら《嵐》の先まで辿り着けそうもない。

 仕方なく聞く。
「嵐…… ですか」
 志希はぴくっと肩を震わせると、ゆっくり振り返ってから、心底不思議そうに首を傾げた。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:24:18.03 ID:tRJaplXx0
「え、嵐……?」
「貴女が言ったのですよ」

 空はまったく晴天だ。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:24:49.16 ID:tRJaplXx0
 彼女は、これもゆっくり、立ち上がった。
「こんな風に誰かと喋ったってさ、儚いものだと思わない?」
 聞きたいのか、聞かせたいのか。祈っているのか、呪っているのか。判断に迷う声を、志希は零した。
「かつて嵐だった虹のようで、十二時に解ける魔法のよう。……イマなんてものは、手に入れようと思った瞬間からアタマにしかないんだ。
 Can I get an Amen(キミもそう思うよね)?」
 

――Chapter5 “Stray Heart / Jesus Of Suburbia[V. Tales Of Another Broken Home]”
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:27:07.47 ID:tRJaplXx0
 ぼうっと、思考が痺れていた。甘い頭痛に悩まされながら、不満足な呼吸を繰り返し、いくつかの道路を横断したかしなかったか、いくつかの歩道橋を渡ったか渡らなかったか、認識も目的地も曖昧なまま、ただ本能のようなものに従って、千夜は灰色の街を這いずった。
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:27:36.98 ID:tRJaplXx0
 だから、
「外回りというのは――」

 だから最後には、苛立ちというには刺のない、何か名前のないものを言葉に込めて投げつけた。

「――退屈嫌いにはかえって辛いかもしれませんね。何処へでも行けるのに、それが許されるわけでは決してない。放し飼いの犬です、まるで」
「だな」
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:28:02.62 ID:tRJaplXx0
 資料から目を上げると、プロデューサー室の椅子を軋ませ、彼は千夜に向き直った。まだ新しい、チェックのネクタイを整える。
「気に入ったか?」
「いいえ」
「そっか? 千夜はアイドルだからな」
 けろりと返す。

「アイドル…… か」
 千夜が呟くと、「ああ、アイドルだ」と頷き返し、
「杏見なかったか?」
「いいえ」
「そっか。ま、あと一時間くらい探したことにすれば出てくるだろ」
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:28:29.99 ID:tRJaplXx0
 そうして、彼は立ち上がった。机を回り込んでから、その上にある二つの小さな箱を示す。
「これ、千夜がくれたんだって?」
 首肯して、
「あんな下らないことで私に貸しを作ったと思われては面倒なので。もうひとつは文香さんからで…… 心からの贈り物、というやつです」
「そっか。千夜、気にしてくれてたんだな。ありがとうな」
 眉をひそめて、
「……気にして、だと? 話を聞いていましたか?」
「ああ、聞いたよ。文香にもお礼言わないとな」

「ふん」
 息を吐く。彼は笑って、
「見ていいか?」とすぐ側の方を手に取る。「どっちが千夜の?」
「それですよ」
「おお」
 箱の中から、ステンレス製の黒いマグカップが姿を現した。
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:29:18.44 ID:tRJaplXx0
 文香を連れてお台場の商業施設をうろついてはみたものの、結局元のカップに近いデザインのものは見当たらなかったので、やはり千夜なりに選ぶことにしたのだった。そうと決めた以上、外見に拘ることはない。真空断熱、蓋付き。機能性は文句なし、コーヒーをゆっくり楽しむにはまたとない逸品に違いなかった。千夜自身やちとせ用にも購入しようかと検討したぐらいだ、彼とお揃いになることを鑑みて忌避したが。

「おお、真っ黒だ」
 彼はカップを持ち上げ、様々な角度から眺め回した。
「千夜みたいだな」
「は?」
 どうにか脅しかけてやろうとして、床にボールペンを発見したあたりで――またボールペンか、最近多いな――考え直した。
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:29:47.23 ID:tRJaplXx0
「気持ちの悪いことを言うな」
「気に入ったよ。美味しくコーヒーが飲めそうだ」
「……まあ、不味くはならないものを選びましたが」
「大事に使うよ。千夜、良いマグカップをありがとうな」

 笑って、音も立てず黒いカップを置く。こういう態度に、千夜はもう慣れっこのつもりだったが、時々胸がくすぐったくなる。認めまいとするのもかえって滑稽なようだ、ちとせでも彼でも、誰を相手にしたって感謝を受けるのは嬉しくて当然らしいことなのだから。

 彼はそれから、もう一つの箱に手を出した。
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:30:17.83 ID:tRJaplXx0
「これが文香の? うん……」
 その中身は、ガラスタンブラー。透明な蒼の地に切ったような細工が施されている。その模様は幾つもの線が交差する、花々のようなもので、他の部分とは違う光を散りばめていた。
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:30:51.82 ID:tRJaplXx0
 《江戸切子の、菊繋ぎ紋です》。文香は言った。長寿を祈る紋様です、と。

 千夜はそのガラス細工の蒼さと麗しさに、彼女を想った。彼女の瞳を、舞台でドレスやコスチュームを装った姿を、とりもなおさず、この容器に自分を思い出せ、というようなメッセージを。

 だが翻って文香は、これは彼の色なのだと言った。幾星霜振りの晴天のような、星々が連なる河のような、そういう彼の色なのだと。だから贈るのだ、と。ガラスではあの騒がしい事務所で何日ともたないかもしれませんよ、ホットコーヒーを飲むものを探しに来たと思うのですが、あまり高価そうな、というより実際高価な、ものはかえって気づまりさせるかも――千夜が善意から与えた幾つかの忠告は、文香のそういう決意の前で、全て闇夜の鉄砲となったようだ。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:31:23.64 ID:tRJaplXx0
 千夜は件の男を見遣った――ま、ブルーベースという顔だな。不健康なだけだろうけど。
「綺麗だ。な、千夜?」嬉しそうに彼。
「聞かれても困りますが」
「すぐにお礼言わなきゃな」と、スマートフォンを弄り出す。

 ガラスタンブラーは、窓からの光によく映えた。キラキラが散らばり、模様の花々を彩っている。

 ふと、空虚な思考に囚われる。この光が元を辿れば彼の見せたものだというのなら、文香の瞳は本来違う色だったのではないか。それが今の蒼さを得たのは、何かを追いかける者の瞳が、映す輝きの一端を、写し取らずにはいられないからなのではないか。
 圧倒的なものに支配された感覚の、尾を引く充足と憧憬が、それを追う瞳の中で散乱し続けるのだ――でもまあ、色までは変えないか。

 変えられるものなら、千夜の瞳はとっくに紅や金でなければならない。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:31:50.51 ID:tRJaplXx0
 彼は「ふうん」とか「はあ」とか言いながら画面の操作を終えると、
「十六時に電話くれるってさ」
「お前に? 知ったことか」
「メモしなきゃ…… ええと」

 彼がぽんぽんと腰のあたりをまさぐりだしたので、千夜は言った。
「ペンポケットにするのですね」
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:32:36.98 ID:tRJaplXx0
「ペンポケット?」
「スーツの胸ポケットではその新しいネクタイに似合わないと思うのなら、入れるのは内側のペンポケットにするべきです」床を示し、「座り立ちが多いくせに腰のポケットなど使うから、すぐ落とす」
「おおっ」彼は屈み、ボールペンを拾い上げた。「ペンポケットね。覚えておくよ、ありがとうな」
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:33:02.94 ID:tRJaplXx0
「別に。あまり落とされて、誰かが躓きでもしたらと思っただけです」
「みんなの心配? 千夜は優しいな」
「お前を気にしたのではないと言っている」
「へえ、僕を気にしてない割には名探偵だな。よくネクタイのせいだって分かった、すごいぞ」
「ほんの戯れです」
「『プロデューサー学』の単位をあげよう」
「要らない。不要です。要りません」
「三回も要らないの……」

 彼はメモ書きをして、
「まだこんな時間か」
 とわざわざ壁時計を見上げてから、千夜に向き直り、笑った。

「稽古は嫌だったか?」
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:33:31.46 ID:tRJaplXx0
 空気が揺れた。
 地鳴りのような重低音が部屋を騒がす。上空を飛行機が行ったらしい。
 ああ、そうだった――ついのんびりしてしまっていたが、来るべき時が、言葉が来た。背負おうとしたものの意味を問われ答えあぐねたまま、落胆に嵌りきった千夜がその泥を撒き散らしながら辿り着いたここは、如何わしい司祭の対坐する告解部屋で、千夜はこれから信じてもいない神の名にすがり、自分のしたことを洗いざらい悔い改め、あるいは永遠に破門されなくてはならないのだ。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:33:57.20 ID:tRJaplXx0
 だけれど、彼は千夜の告白を強いはしなかった。顔だけを見て、「そっか」と言った。

「もしどうしても嫌だったら、ひとつも千夜の為にならないと思うなら、今回の仕事はよしにしよう。簡単な話だとは言わないけど――千夜が居なくても問題ないとは言えないし、だけど――カバーしてみせるよ。背中は任せて、千夜は楽しめ」

 彼はとん、と自分の胸を叩いて見せたけれど、
「ずいぶん、頼りないな」
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:34:28.20 ID:tRJaplXx0
 得られなかったと知ってから、自分が求めていたのがやれ≠ナなければやるな≠ネのだと分かった。意思などを問うて欲しいのではない。

 お見通しでか、そうでないか、
「頼りないか、そうだなぁ。君のお嬢様風に言うなら、僕は魔法使いだ。君の被った灰を払って、ドレスを着せて馬車に乗せるまでが仕事。そこから先、手までは引いてやれるわけじゃない」
「しかも魔法は時限式」
「だな」
「惨めな私はボロ布で走らされる」
「だからこそ、必ず背中を押すからさ」
「押す方は気楽だろう」

「ああ、押してやる背中を信じてさえいればね。王子様は魔法のドレスと結婚したわけじゃない。僕は千夜が自分の望むものや守るべきものを知ってると信じてる。それが地図になって、千夜が誇れる未来を選ばせてくれるってね」
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:34:54.95 ID:tRJaplXx0
 望むもの、と言われ、千夜はちとせの隣を想う。守るべきもの、と言われ、千夜はちとせを想う。そんなものは分かり切っていて、だから今、くだらない自分が頭を悩ませているのだというのに。

「楽しめるばかりではないでしょう。アイドルという仕事が生存競争である事ぐらい、私だって知っている」
「ああ、大変だな」
「華やかな舞台を夢見ながら、実際は声の一つを上げることも許されず、ただ涙を流す者たちを、私でさえ見てきた。そうなっても背中を押すと?」
「辛い目にもあうよ。でも、笑顔じゃなかったら、楽しんでないのか? 泣くのや怒るのは違うって?」
「夢破れた者に、自分を知ってしまった者に、それも楽しいだろと? マキャヴェリストの言い分だ」
「はは、悪者みたいな言い方したかな」

「冗談じゃない。私だって…… 楽しいのかもしれないと思い始めていました。楽しんでもいいのかもしれない、と」
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:38:48.12 ID:tRJaplXx0
 ふつふつと頭痛が始まった。衝動が身体を駆け巡った。

「神様とやらが私を戒めるとすれば、わざわざ塩の柱に変えたりなどしない。硫黄も永遠の火も必要ない。鏡一枚だ。鏡に映る本当の姿を見さえすれば、私には全部が分かる。何を願おうと分不相応だ。何を望む資格もない。
 私がここに居るのは、お嬢様に恩をお返しする、その当然の道理の為だ。お嬢様が望むことならば、応えなければならない。お嬢様が新しい舞台で活躍なさるのなら、よりお側でお支えする為に、私自身も努力をしなければならない。当然の道理だ。私の願うことじゃない。その筈だった。それを……

 お前に分かりますか。私の世界には、白と黒さえあれば充分だった。それを……

 何故、望まなくてはならないのです。何故、求めなくてはならないのです。元々私がいた場所に、何故、走ってまで向かわなくてはならないのです。
 今生きている理由にさえ報いられない私の、いったい何が…… 何が誇れる未来だというんだ? ……何が‼︎」
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:39:16.36 ID:tRJaplXx0
 ほとんど怒鳴って、机も叩いて、目の前に突っ立つビジネススーツをあらん限りに睨み付けた。
 しかし千夜が危惧したような、例えば怖気を震ったりするような態度を彼はとらず、一言一言を吟味するようにしながら、眉や唇を引き締めて黙っていた。

 暫時の間そうしていて、千夜の呼吸が整った頃、ふと思い出したように「そっか」と言い、彼は顔を和らげた。
「分かるよ。自分を見なきゃいけないってのは大変だな」
 怒るでもなく続ける。怒って欲しかったような気もする。自分自身を叱ろうとして痛めつけただけだった千夜に、そのやり方を見せて欲しかったような。
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:40:23.86 ID:tRJaplXx0
「しかも鏡見るだけじゃ駄目なんだ。俯瞰しないとな」
「何が言いたいのです」
「関係性の話だよ。千夜は今、自分の話をしただろ。だけどその白黒の世界には、確かにちとせがいる筈だ。白黒で充分だったのは、お互いを宝石のように守って来たのは、ちとせにも同じ事だったろう」
 彼は言って、文香のガラスタンブラーに指を触れた。

「だけど僕は、ちとせの瞳に真っ赤な蕾を見たよ。そしてあの子の君主論は昨日、文香の為にも述べられた。ほとんど試すように」
「そうは思えないな」
「思わないの? 経験不足ってやつだな。ま、これからだ」
「経験……」
「経験、経験、経験だよ。レベルを上げなきゃ、ゾーマは倒せない」

「お前の悪趣味は知りませんが。……分からないな、お嬢様の事なのに」
「分からないか。大変だよな。ちとせの事だし、文香の事だし、千夜の事だからなんだな。だけど……」
「……それが、経験なのですか」
「うん、そうだ。……それでさ、千夜、言ってくれたな」
「……何を」
「そっかそっか、楽しかったか」
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:40:51.74 ID:tRJaplXx0
 話を聞いていたのかどうか、あまり分からない感想を述べて彼は、
「アイスコーヒーどう? 紙パックだけど」と言い添えた。
 かぶりを振った千夜に背を向け、給湯室へ向かう。
「戻るにせよ、そうでないにせよ、僕が頭を下げにいくよ。まあ、あの先生には要らない気遣いだろうけど」
「しかし……」
「戻るなら大歓迎だろうよ。今回千夜をモルジアナにって言い出したの、あの人だし」
 彼は言う。つまり、千夜に面倒な試練を与えたのはあちらということだ。まるで嫌がらせのような詰問を。

「お前が魔法使いなら、あの先生は狸の妖怪ですね」
「あはは…… 千夜、失礼だから誰にも言うなよ」
 悪意からのことでないのはもう分かっている。千夜はあの先生の眼を知っている。何かを追いかける者の瞳は、映す輝きの一端を、写し取らずにはいられないのだ。

 むろん支持はしかねたが。やはり狸の妖怪だ。
「僕が否定しなかったのも内緒な」
 彼が姿を消している間、千夜はぐるぐると考え続けていた。関係性だと? 適当なことを言って煙に巻いたんじゃないだろうな? もう一回くらい怒鳴ってやれば、詳しく言ってくれるだろうか……

135 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:41:46.07 ID:tRJaplXx0
 戻って来た彼は紙パック――アイスコーヒーと、果汁100%オレンジジュース――を手にしながら、黒と蒼、二つのカップに首を傾げた。
「断熱ねぇ。じゃこっちか? でも、ガラスの方が映えるよなぁ」

 千夜は呆れて、
「はあ、まったく幸せですね。そんな事で悩めたものだ」
「悩むよ。だって二つもあるんだ。前は一つだったよ」
 彼は笑って、

「なあ、千夜。増えたな」

136 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:42:20.79 ID:tRJaplXx0
 ――――

 ――増えたな――

 それを聞いた刹那、千夜は時間が止まったのを感じた。
 ――ああ、だから――と、光の散らばる思いがした。

 ちとせも、覚えてくれていた。クッキーを割った日、《増えたね》と笑ってくれた日を。
 だから文香を巻き込んだ。カップが二つになるよう仕向けた。

 そういうふうに、また同じ言葉を連れて来た。
 やがて虹になる嵐のように、
 十二時に残る靴のように、千夜に救いをもたらした。

 動悸がした。体温が上がった。深呼吸を試みた。何かを抑えられなくなりつつあった。
 ――帰りにクッキーを買っていこう。それから一番良いコーヒーを淹れよう。また美味しいと言って欲しい。もう、美味しいと言って欲しい。何度も、何度も言って欲しい。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:43:21.34 ID:tRJaplXx0
 
  
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 ――やるべきことを、済ませてからな!

 千夜はプロデューサー室を飛び出すと、十六時五分前にたまたま見かけた、レッスン室前の廊下でスマートフォンを握りしめ、うろうろとまごついていた文香の尻を、慣用句の意味で叩き、歩武粛々と正門を指した。

「千夜」

 声が掛かった。
 中庭のベンチに双葉杏が居た。スマートフォンを持ったまま、千夜に手を挙げている。

「また稽古?」
「ええ、まあ。あいつが探していましたよ」
「だからここにいんの。あと四十分探してくれたら出てく」
「成る程」
「都ちゃんさ、気にしなくていいよ」
「はい?」
「ううん、気にするだけソンかな。あの子は実際のトコ探偵でさ、いつだっておかしなことを見つけて、元気になれるんだ」
「ふうん」
「そーそー」
「何故、都さんの名前が貴女の口から出るのです」
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:43:48.78 ID:tRJaplXx0
 舞台に参加しない、稽古の場に居合わせてもいなかった杏が、訳知り顔である事に問いを質した。
 杏はしまったという顔をしそうになって、やめた。白く丸い頬を緩ませる。
「『ベイカーストリート・イレギュラーズ』だよ。杏には八千人の部下がいる」
「はあ」
「しかも世界のうち七億人が杏の端末なんだよね。だから分かっちゃった」
「『LittlePOPS』、でしょう? 『リトルリドル』を歌う…… そのうち四人までがあの場に居合わせた。そして残るもう一人、貴女が彼女たちのリーダーだ。それなら内通、というか、橋渡しがあるのも頷ける」
139 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:44:16.32 ID:tRJaplXx0
「やだなー、DJだよ。リーダーなんてやってらんないし…… ま、なぜか相談を受けちゃったのは確かだよ」スマートフォンを振る。連絡アプリでのやり取りが表示されていた。「人働かせなもんだよね…… ねえ千夜、みんなに心配掛けたね」

 事もなげな調子の声に、胸がぞくっとして、言葉を返せなかった。杏は取り合わず続ける。
「だから杏、《何もするな、気にするのもするな》って言っといたげたよ」
「それは、お世話様でしたね」
「てかさ、詳しいじゃん。LittlePOPSの事調べたの?」
「たまたまですよ。他の人の事など、いちいち知る必要もありません」
「そ。ま、舞台の空気感ってあるよね。みんな千夜が怒ってるんじゃないかって思ってるぐらいだし、千夜の気が済む程度に謝っとけば大丈夫だよ」
「そうですね。ご助言痛み入ります」
「ほんと痛み入る? じゃあさ」
「何です」

 杏は十字を切り、合わせた手を頬に当てながら、
「Can I get an あ〜め?」

 ちょっと傾げたその笑顔は溶けるようで、むしろマシュマロをあげたら似合うだろうな、とぼんやり思う。この頬、気を抜いたら突ついてしまいそうだ。

「考えておきますよ」
 目を切って、稽古場に向く。陽はもう傾いている。何でもいいから先を急ごう、と考えるのをやめた。足を早めようか――

「千夜」
140 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:44:52.35 ID:tRJaplXx0
 袖を引かれ、宙に浮いた右足が元へ戻った。視線をやると、杏が千夜のポケットをぱしぱし叩いた。
「はい?」
「スマホスマホ」

 言われて取り出すと、軽く操作しても反応がない。電源が落ちていた。そのようにした覚えもなく驚いて、すぐに再起動を試みる。滞りもなく画面は光った。バッテリーの異常ではないようだ。
 体調を崩しているちとせから緊急の連絡はないかと目を皿にしたが、その心配は要らなかった。

 喫緊の課題は別のことだった。
「杏さん。貴女、何もするなと言ったのでしたね」

 連絡アプリの画面を突き付けた。頼子から、《都ちゃんは一緒ですか? 居なくなってしまったんです》と表示されている。
141 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:46:24.33 ID:tRJaplXx0
 睨んでやった妖精は、しかしまったく態度を崩さなかった。
「《何もするな》は千夜には言ってないよ」

 のんびりと言うか何なのか、鷹揚と言ってやってもいい、というのが千夜の意見だったが、とにかくマイペースに鎮座する杏の、その髪が揺れて甘い香りが鼻をうつ。
「確かに、私が言われたのではありませんでしたよ」
 頷き返す。唇を締めた。

「でしょ?」
「ええ。行ってきます」
「うんうん、頑張れ若者。杏はここで…… 溶けてるからね」
「若者? 同い年でしょう」
 
 
――Chapter6 "A Thousand Miles"
142 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:46:51.82 ID:tRJaplXx0
「いやあ、やっぱり一ノ瀬さんはいいなぁ。あんなに大勢の盗賊≠、カリスマというか、雰囲気でまとめあげてるんだよ。みんな自由なのに、どこか見えないロープで電車ごっこしてるみたいだ」
「ふふ、本当にすごい…… これなら志希さん、先生の舞台にもお声が掛かるかしら?」
「いやいや、手に余っちゃうよ。呼べたらそりゃ、いいんだけどね。でも今こうしてくれてるのも、魔法みたいなものでしょ」
「うーん、そうかも……」
「呼ぶならそうだね、古澤さんに…… ほら、」と振り返って千夜を指し、「白雪さん。君たちがいいな」

 先生と頼子、二人揃って扉をこそっと開け、覗くように稽古の風景を眺めていた。頼子はともかく、先生は中で指導していればいいと思う。意識の半分で息を整えつつ、頭を下げた。

「抜け出したりして、すみませんでした」
「いやいや、休憩あげたのボクだよ。ゆっくり出来た?」
「ゆっくり…… いえ、まあ、そうですね」
「それで……」
143 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:47:31.68 ID:tRJaplXx0
 頼子が首を傾げて見せる。お淑やかな性格もその博識も、蒼い瞳も印象を似せるが、右の泣きぼくろが文香との違いだ。投げかける視線の、油断の無い鋭さも。千夜がモナリザなら、頼子にはあまり観に来て欲しくない。自信を問われ続けることになるだろう。

「いいえ」かぶりを振る。都とは会わなかった。「そちらでも、まだ見つかっていないのですか」
「そうかぁ、白雪さんと一緒かもと思ったんだけど」
「都ちゃん、お稽古に来た志希さんと何か話した後、何処かへ行ってしまったんです」
「連絡は?」
「スマホが私服に入っていて……」
「よし、もう一回探してみよっか」
「はい、そうですね」
「あの」
 手を挙げ、二人を止める。
144 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:48:22.35 ID:tRJaplXx0
「いいえ」かぶりを振る。都とは会わなかった。「そちらでも、まだ見つかっていないのですか」
「そうかぁ、白雪さんと一緒かもと思ったんだけど」
「都ちゃん、お稽古に来た志希さんと何か話した後、何処かへ行ってしまったんです」
「連絡は?」
「スマホが私服に入っていて……」
「よし、もう一回探してみよっか」
「はい、そうですね」
「あの」
 手を挙げ、二人を止める。

「今度の事態は私の責任です。私が行きます」
「責任なんか。君たちの監督者は、ここではボクだよ?」
「いえ、やはり私に果たさせて下さい。やる必要がある、と思うのです。先生はご指導を」
「そう?」
「頼子さんも、どうぞ稽古を」
「ふふ、では、お願いしますね」

 多少は反対される覚悟もあったが、二人ともすんなり受け入れてくれた。そういう空気、なのだろうと思う。
 《志希さんと何か話した》という言葉に導かれ、花のような香辛料のような匂いを追って外へ出た。ちょっと振り返ると、相変わらず稽古を覗くようにした先生が呟いた。
「いやあ、いいなぁ。欲しいなぁ」
 
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
145 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:49:02.52 ID:tRJaplXx0
 塀に沿って歩く。物陰に注意しながら、耳もそばだてた。そしてすぐに、そう注意する必要はなかったと知った。

 見えないロープを手繰ってきたように、殆ど分かっていたように、都の元へ辿り着いた。ピンクの花と黄緑の葉の花壇に、俯いてしゃがんでいた。

 しかし、ちょっと人目から隠れる場所とはいえ、劇場の敷地内に居る彼女を、誰も見つけられなかったとは思えない。どうやら気を遣われたのだな、と先生や頼子、志希の顔を思い浮かべた。

 足を止めると、都は振り向いた。

「おや、志希さんかと思いました!」
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:49:48.41 ID:tRJaplXx0
「私で残念でしたね」
「あっはっは、千夜さんで良かったです! 探しましたよ!」
 《探した》はこちらの台詞ですが――というのは飲み込んだ。実際のところ、先に消えたのは千夜だった。

「先程は、失礼な物言いでした」
「いえいえ、構いませんよ」

 鼻白む。つまり――つまり、《私が悪かったんですから》などとは言わないらしい。謝り損だったかな、と横目に見れば、俯いた姿勢だったのも、手帳に書き込みをしていたからなのだと分かって、千夜はいよいよ後悔を深くした。彼女は勝手な許しをくれたまま、その髪に紅い光を散らし、何かを覗き込みながらメモを続ける。
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:50:42.18 ID:tRJaplXx0
「何を書いているのですか」
「よくぞ聞いてくれました! ジャジャーン、『探偵手帳』!」

 はぁ、と相槌を打ったつもりだったが、溜め息に終わったかもしれない。散々に書き込まれたそれを開いて示しながら、少女は見ているものへと千夜を誘う。今更に機嫌を改めてやるのも癪だから、手帳に《千夜さんをよく見て、立ち位置に注意》と書いてあるのは見なかったことにした。
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:51:09.37 ID:tRJaplXx0
「ここに千夜さんのダイイングメッセージがあると聞いたので、行き先を示すのではないかと推理していたんです」
「成る程、私は死んだのですね」
 倣ってしゃがむ。それは黒い糸…… 蟻の行列だった。その不自然な線は、巣から出てきたり戻ったりするものではなく、何か奇妙な形を成して蠢いていた。

 ――ああ、角砂糖でも持って来れば良かった。志希のあんまりな実験は結局、黒い働き者たちから正常な仕事の能力を奪ってしまったのだ。ちょっとの甘味を求めていただけだろうに……。
149 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:51:53.77 ID:tRJaplXx0
 蟻たちは常に動きながら、歪んだ円のように並んでいる。その歪みは一定のパターンを繰り返して変化しているようだった。
「ここ! ここで、下部の変化が一旦止まるでしょう」
「はい」
「改行中なのだと思います! 私の見立てによれば、これは筆記体による、二つの文字列なのです!
 はい、この手帳をご覧のように、w2l=Ar2c≠繰り返している」
「ふむ」
「ですが、どちらが先で後か、あるいは上か下か、見分けが付かなくて……」
「志希さんは何か?」
「そうです! 《一回ずつでいいよ〜》と。でも、何のことやら」

 都は蟻と手帳、それぞれを見比べながら、指を顎に当てた。千夜も暫く考え込んだ。きっともう手掛かりは揃っている。

 意識が溶けて、街の音が沈み、……
150 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:53:13.22 ID:tRJaplXx0
 それから、口を開いた。
「文字列が循環して前後を特定する手段がないなら、これは順序を必要としない情報なのかも。《一回ずつでいい》というのもヒントになるでしょう。つまりこの二つは並列して処理すべき、アルゴリズムそのもの…… そう考えれば、2は換字を指示するtoとも解釈出来る。toでは一筆書き出来ないのを嫌ったのでしょう。
 WtoL、RtoC。WをLに、RをCに…… ふむ」
 思い当たって、スマートフォンで検索を始める。

「ええと、そうすると、置き換え元の暗号文の方が必要で……」
 都が辺りに目を配り出す。
「文字列が表すのが復号のアルゴリズム単体だとしても、このメッセージが持つ情報はそれだけではありません。
 いわば文字そのもの、いえ、文字を書くペン、……というか。
 記述の方式それ自体が暗号なのだとしたら?」
「文字そのもの……」
151 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:53:51.61 ID:tRJaplXx0
 首を傾げ、
「ああ、蟻ですね!」

「関係する語から、分けて、要素にWとRを、そして少なくとも一方を二つ以上持つものを試してみればいい。
 蟻にまつわる英単語は幾つかあります。ant(蟻)、queen(女王)、soldier(兵隊)……
 それから、――worker ant(働き蟻)≠フ、worker」
152 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:54:19.42 ID:tRJaplXx0
「worker!
 ええと、WをLに、RをCに。《一回ずつ》……
 locker=I
 ろ、……」
「ロッカー」
「ロッカーですね! 答えはロッカールームにあるっ!」

「そうですね…… 保証はありませんが、確認する価値はあるかと」
 そこまで話すと、答えは聞き届けた、とでも言わんばかりに、蟻たちは形を解き、真っ直ぐな列を成してその場を離れていった。謎の化学物質が時間で飛んでいったのだろうか。
153 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:55:12.22 ID:tRJaplXx0
「千夜さん、流石です!」
「いいえ」
「これで真実は、都と千夜さんのものだっ!」
 都は言い放ち、聴衆の喝采に応えるかのように、気取って一礼して見せた。

「あれ、でも」首を傾げてばかりの子だ。「これがダイイングメッセージなら、千夜さんがロッカールームに居るという事になりますが…… 千夜さんはもうここに居ますね?」
「そうですね」
「あっ!」
「はい」
「待ちきれなくて出てきちゃったんですか⁉︎」
「そんなところかも」
「そ、それは」何故か狼狽た様子を見せて、「お持たせしました……」

「いいえ」
 適当にあしらって、暗号の意味を考える。志希が千夜の居場所をロッカーだと思ったわけではないだろう。
「でも、英語が読めるなんてすごいです!」
「すごくなどありませんし、ちょっとだけです。貴女もすぐ出来ますよ」
「はい! 私もちょっとは読めますよ! 私もすごいです!」
 ――やれやれ。
154 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:56:17.64 ID:tRJaplXx0
 このまま突っ立っていては、すごいすごい″U撃を延々と捌き続ける羽目になるようだ。
「何かがロッカーに隠されているのかもしれませんし、行ってみましょう」
「おおっ、私も今言おうと思っていました! 気が合いますね! 行ってみましょう!」

 ぐいっと、手を引かれ――

 不意打ちに身体の均衡を損なった。引っ張り返すか身を任せるか、刹那逡巡し、結局都の肩に手を掛けて止まった。
「あっ……」
「あ?」
 不思議そうに見返され、何かを言わなければならなくなった。何でもいいのだけれど――出来れば、《すみません、バランスを崩してしまって》以外の、何かを――
155 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:56:46.11 ID:tRJaplXx0
 しかし、
「そうだ」
「ん」
「もう一つ、解けてない謎があるんです」

 先に口を開いたのは都だった。
「謎?」
「千夜さんとのお仕事が決まって、ちょっと調べてみたんです。ウワサでは、《美術館が好き》なんだそうですね。頼子さんと話が合いそうです!」
 彼女は身体を捻ったまま、眼を輝かせた。
「ええ、まあ」
156 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:57:35.64 ID:tRJaplXx0
「私も絵画を見て推理するのが好きなんですよ」――推理? 美術の話だったのでは?「ところでプロフィールを見てみたら、千夜さんの趣味は料理≠ニ睡眠≠ノなってました。これは妙ですよ」

「変ですか。プロフィールなど、普通の書き方を知らないものですから」
「いえいえ、普通に書けてましたよ! ただ料理はともかく、睡眠は趣味って感じがしませんから。どうしても何か書かないといけなかったなら、美術鑑賞≠ノすればいい。そうしなかったのは、趣味というほど美術が好きではなかったからでしょうか? ……そこで、私の頭脳は最大の疑問を探り当ててしまったのですよ」

 やけに神妙な態度を作って、何人もの関係者を集めています、というように演説を続ける。すっかり彼女の舞台らしい。白面の兵士も相槌を打って、客演してやるとする。
「ふうん、疑問ね」
157 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:59:02.78 ID:tRJaplXx0
「千夜さんがお好きだとウワサになっているのは美術館≠ネのです。美術≠ナはなく! これは一体何を意味するのか? この些細な違いに事件を見出すのが探偵というものです! そう、パセリの沈んだバターを舐めるようにね!」

 都は得意げに言うーー成る程、探偵なのかもしれないな。
 彼女にかかれば、まったく、問題ばかりが山積みらしい。
158 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:59:47.95 ID:tRJaplXx0
「それで? 貴女は何を見出したのです」 
「分かりませんッ!」
 これも得意げだ。何も分からない事を明かして気勢を削がれない事こそ、千夜には分からない。
「分かりませんか」
「分かりませんでした! どうしてなんですか? 気になります!」

 分からないことが、楽しいのだろうか。分からないことが楽しいのなら、分かろうとすることにはどんな意味があるのだろうか。
 ――いや、逆か。分かっていく過程が楽しいのだ。分かる瞬間を求めている。だから分からない≠ヘ楽しい≠ヨの入り口だ。
 この少女はきっと、扉を見つけたのだ。児童文学の主人公でも張れそうな、無邪気な笑顔で。
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:00:29.65 ID:tRJaplXx0
「謎ですか」
「大きな謎です! 面白いです! 白雪千夜には、謎がある」

 不躾なものだ。他人の内面にずけずけ踏み込み、暴いてやろうという試みだ。だが、と思う。彼女の瞳が求めているのは、ただ興味本位の知識欲を満足させる答えではないのだろう。仲良くなりたい、子供のような心でそう願い、相手を知りたいと望んでいる。都は仲良くない≠ウえ楽しい≠ヨの入り口にしてしまったのだ。そう思う。只今の問答に悪い気がしなかった事へ、理由を付けたかったのかもしれない。

「おや、千夜さん、そんな顔もするんですね」

 都が笑った。意外な言葉に、というのも自覚がなかったからだが、千夜は自分の顔を揉んだ――どんな風だったかな?

「名探偵がひとつ、あなたの真実を暴いてしまいましたな!」
「さて、どうでしょうね」
「おお? 千夜さん、面白いです!」
「面白いことばかりですね」
160 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:01:05.60 ID:tRJaplXx0
 目を切ると、都は笑顔で千夜を覗き込んだ。やっぱり、やりづらい。そんな風に見ても何も出ないのに。ため息の牽制も、効果はなかった。
「私が美術ではなく、美術館を好きだといった理由を問いましたね」
「はい!」

「リトルなリドルですよ、そんなのは。別に教えてもいいのですが、またにしておきましょう。今は私にだって、解決すべき問題がありますから。それまではその謎を挑戦状にしておきます。自力で答えを見つけてみるのですね、探偵さん」

 都はしばし呆けた顔を見せてから、花咲く満面の笑みで頷いた。
 さて、と千夜は歩む。まずロッカールームに寄って、稽古はどこから再開するのか、ああ皆に向けて一言謝っておかなければ、あれやこれやと考えながら身体を伸ばした。都の足音が後に続く。志希の残した匂いが鼻腔をくすぐった。


――Chapter7 “ピュアなソルジャー”
161 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:01:50.70 ID:tRJaplXx0
 寒くて眠れそうにないと言い、
「ココア淹れてよ」
「実際には」千夜はちとせに答える。「寝る際に暖めるべきは体の外側で、内側の体温を逃さなくてはいけないのですよ」

「へえ、流石千夜ちゃん」
「《睡眠が趣味》なので」
「真面目なんだね」
 ちとせは背後から千夜に抱き付き、手を取った。

「お嬢様?」
「だったら千夜ちゃんが暖めてよ」
「ふふ、そうですね」
「千夜ちゃん、あったかい」
「暖まってますよ。……お嬢様が、太陽なのですから」

「ふうん」
 ちとせは小さな声で返すと、捲ったカーテンから外を眺め、呟いた。
「ベイビー、月が綺麗だよ」
 千夜も倣った。街並みは昼の喧騒を忘れ去り、それでも眠ることだけは拒んでいた。暗い空に浮かぶのはそれより暗い雲ばかり。月はと言えば、ベール越しの輪郭のように、仄明かりで存在を示すだけ。

「曇ってるじゃないですか」
「綺麗だよ」
 
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
162 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:02:28.99 ID:tRJaplXx0
「え、こないだのお礼? なんだー、気にしなくてよかったのに。ううん、ちょーだい。あ、これかー。杏、飴は手使わないで舐めたいのに、これったら棒が危なっかしいじゃない。ううん、ちょーだい。ありがと。杏さ、こないだこれ買ったの。ゲーセンのね、二百円入れたら四本出るやつ。いやルーレットで四本から七本出るって書いてはあるけど、結果出るのは四本なやつね。あれさ、筺にお金入れたら、一本ずつ取り出し口に落ちてくるのね。コトンって。一本目ね、バナナシェイク味。まー好きじゃないけど、あえて選べないやつで買ってるから。これも縁じゃない、バナナいいじゃない、って思って。で、次何出るかな、って。わくわくするよね。したっけ、コトンつって。バナナシェイク。ま、ま、ま、って感じ。こういう場合もあるよねって。いいじゃん食べよーよって。で、その次何出たと思う? 三本目。コーラとかあるじゃん。イチゴとか、いっぱい種類さ。コトン! バナナシェイク! 筺見るじゃん。これバナナシェイクの筺? 違うじゃん。《バナナシェイクしか出ません》って書いてある? いやない。ガラス越しに色んな味見えるじゃん。もう嫌じゃん。四本目に望みかけるじゃん。望みっていうか、もう王子様だよね。バナナに囲まれた杏を救ってくれーって。うん。コトンって出るじゃん、王子様。何だろ? バナナシェイク! わーお! バナナ王子バニラアイスまみれ! もうさ、せめて一本違うの出てくれたら、杏それが腐った卵味でもバンザイしたよー。…… いや、せん‼︎
 ……なので、イチゴくれて、ありがと。うまー」
163 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:03:37.63 ID:tRJaplXx0
 滔々たる杏の語りを聞きながら、千夜はバナナシェイク味を用意しておくべきだったと悔いた。どんな顔をしただろう。眉をひそめ、飴を睨み、歯を剥き出して、一旦しまって、それからほっぺたを膨らませて、ああ、ほっぺたを膨らませて……。

「あら、泡が立ってきたみたい……」

「ん」
 欲を持て余した指でスプーンを掴み、左手はジャズベの握りへ伸ばす。この真鍮の小鍋から、泡をすくって四つのカップに分けていく。それからまた、火にかける。

「手際がいいなぁ。格好いいぞ千夜」
「ほんとほんと。やっぱ杏に召使えてよ」
 火にかけたり、下ろしたりを繰り返す。やがて出来上がったコーヒーを、注いでいく。粉が入り過ぎないよう、慎重に傾ける。それぞれにカップを渡し、粉が沈むのを待つ。
164 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:04:27.61 ID:tRJaplXx0
 頃合いを見、頷いて合図を出す。三人が目を合わせ、一斉に啜った。

「うん、美味しい……」
 頼子は目を閉じ、神経を集中させた風に言った。
「いいカンジ」と杏。
「美味しいよ、千夜」彼。
 千夜も飲む。旨いし、甘い。満足な出来だと言っていい。ほっと胸を撫で下ろす。

 プロデューサー室でのゆるやかなコーヒータイムは、それから静黙と過ぎて行った。窓の外、爽やかな青天の、少しずつ流れる雲や高度約七百五十mを行く飛行機を眺めながら、それ以外はほうとかふうとか、息遣いが主な音になった。

「千夜、おさとー。イエス、プリーズ」

 杏がのんびり沈黙を割り、それが合図だったように、
「《悪魔のように黒く、地獄のように熱く》――」頼子が口を開く。「《天使のように純粋で、そして》――」勿体ぶってみせ、「――そして、《恋のように甘い》」
165 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:05:04.09 ID:tRJaplXx0
「武装錬金だ」杏が声を上げた。
「さあ、それは寡聞にして存じ上げませんが……
 ナポレオン体制の外務大臣などで活躍した、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが、よいコーヒーについて語ったとされる言葉です」

「悪魔なのに天使ね。矛盾というか、文学的だな」
「《天使のカオした破滅愛好家》」呟いて千夜。
「ふーん、苦い≠ヘないんだ。ペリゴーさんもこーゆーの飲んだの?」
 杏はたった今飲んでいる、コーヒー粉と砂糖で煮出したトルコ式を示す。

「はい…… タレーランが飲んだのはエスプレッソのようで、お砂糖をたっぷり入れる味わい方はこれと同じですよ」
「げーっ、粉っぽい」
「あはは、混ぜたらそうなるよ。もう一回沈むの待たないとな」
166 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:05:32.33 ID:tRJaplXx0
「悪魔で、地獄ね……」
 千夜は零して、カップを覗き込んだ。黒いのは、確かだ。表面の凹凸は泡や粉で出来ている、トルコ式ならではの見た目。しかし、これがもし十八世紀頃のエスプレッソだとして、タレーランには地獄の窯に見えたのだろうか? フランスの激動を生きた者ならではだろうか、感じ方というのは人それぞれであるものだ。

「これが悪魔だなんて。のんびり出来るのにな?」
「ほんとほんと。のんびり出来るのにね」
「時々し過ぎますね」千夜は水を飲んで、「特にお前たちは」

「まーま、本番前くらい一緒に骨を休めよーよ」
「杏さんは本番ではありませんがね」
「はは、いよいよ明後日だな。調子はどうなんだ?」
 彼が目を遣って、頼子がカップを置いた。
「これが面白いのですよ。特に志希さんと都ちゃん」

「ホー」
「志希さんは都ちゃんの自由さに合わせているのだと思ったら、いつの間にか操っている。都ちゃんは抜け出したと思ったら、今度は自分から志希さんの糸に絡まりに行って、逆に引っ張ってしまう…… ふふ、私、目が離せません」
「はは。へえ、面白いなあ。そうなの、千夜?」
「ええ、まあ。正直振り回されますが。純粋な癖に知略を好むから、あるいは賢い癖に無垢でいたがるから、軌道が無くなる」
「振り回されるの――」彼も微笑み、「好きだろ?」
167 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:06:01.43 ID:tRJaplXx0
 カップを傾けると――ちょっと傾け過ぎた――ざらざらした舌触りと共に、飲める分は終わりになった。底に残った粉の模様で占いを、というわけにはいかない。ちとせのように上手く未来を見ることも、見えたものを説明することも千夜には出来ない。

「きっといいものになるな。楽しみだよ」
 代わりに見通したような言葉。

 それを契機にまたゆるやかな沈黙が立ち込め、
「じゃ、杏行くね」と、カップが置かれた。「ごち。片すのよろです」
「やっとくよ。ほら、千夜のも…… いいからいいから」
「お帰りですか?」と頼子。
「まーね」
「ホー、こんな時間にとは感心だな。鍵はちゃんと返すんだぞ」
「げ、バレてた?」
「こないだ大騒ぎだったんだから。セイさんがさぁ」
「はいはい、杏も骨身に応えてまーす」

 身体を伸ばしながら、妖精アイドルは部屋を出て行った。頼子が千夜と目を合わせる。
「それでは、私たちも……」
「はい」
「あ、待った」
168 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:07:43.61 ID:tRJaplXx0
 彼の静止に、立ち上がったまま顔を向ける。
「千夜にちょっと羽織る衣装を試してもらいたいんだ。あんま時間は取らないけど」
「そうですか。ではもう少しゆっくりしていますね」
「いえ、待つには及びません。頼子さんは先に行っていて下さい」
「そう? それでは、美味しいコーヒータイムをご馳走様でした」

 頼子も去り、元から静かではあったが、部屋に二人となる。
 彼は隅の方で暫くごそごそやると、「ん?」だの「まいっか」だの、不安になる声を上げた後、煌びやかな衣装を手に戻って来た。
「衣装まで本番と同じにしての通し稽古、だからドレリハ――ドレスリハーサル――というんだが」
 ショールのようだ。真紅のオーガンジーに、金糸の刺繍があしらわれている。
「これだけ細かい直しが必要で、明日のドレリハに間に合わないんだ。明日も形の似たものは使うけど、これで動き難かったりしないか、ちょっと試してみてくれよ」
169 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:08:12.45 ID:tRJaplXx0
「ちょっとギラギラし過ぎやしませんか。アラビアンとはこういうものなのか」
「はは、キラキラだろ。アイドルだからいいんじゃないの」

 着せようとする彼の手から奪い取り、ブラウスの上に袖を通す。変に引っ掛けて痛めないよう気を遣った。真紅を彩る金の模様に、千夜はなにか気圧される思いがして、これがどうと呼ばれる形なのかは知らなかったが、何にせよ台無しにしてはと神経を擦り減らす。やっとの思いで、それぞれの袖四秒程ずつの戦いを終える。

「似合うよ。くるってしてみて」
「ばか。見るな」
 彼が不満そうに背中を向けてから、軽く腕を振って、舞台中の動作をいくつか再現して、それから――見られていないことを確認して――左足を軸にターンしてみる。ふわっと浮いて、ふわっと戻る。着心地は上々で、動きづらいこともない。悪くないじゃないか、と気分良く肩を持ち上げ眺めてみると、ふと、甘く瑞々しく果実様で、ややバニラ風味の混じった香りが鼻腔をくすぐった。

 これは、――そうだ、

「おい…… なんだこれ。メロンの匂いがしますよ」
「好きだろ?」
170 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:08:41.68 ID:tRJaplXx0
 ふざけて返され、千夜は睨んだ。強い言葉で攻撃を仕掛けようと思い、しかし取り止めた。
 というのも、
「なにそっぽ向いている。失礼でしょう」
「はいはい」

 彼が苦笑しながらゆっくり向き直ったところに、今度こそ、と口を開こうとして、あんまり真っ直ぐ目を合わされた為に、千夜はたじろいだ。思考が止まりかけ、咄嗟に明後日の方へ目をやってしまう。
 ――どうしてそんな風に見るんだ?
171 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:10:00.11 ID:tRJaplXx0
「うん、やっぱり似合うよ。千夜に紅、いいな」
 企画書のファイルが突っ込まれた棚を見遣りながら、紅と聞いて、似合う筈がない、と思う。身を焦がすもの、悪夢の色。焦がれるもの、慕う瞳。『Unlock Starbeat』でだって、着こなせていた自信はない。似合う筈がない。少なくとも、まだ。
 これが本当に似合うようになったら。ショールへ目を落とす。それもひとつの望みなのか。
172 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:10:27.90 ID:tRJaplXx0
「いや、蒼も捨てがたいんだが。白と蒼、いいよな」
 彼が言添えたので、思考が遮られ、白紙に戻る。呆れて、
「まったく…… 紅とか蒼とか、食傷なのですが」

 千夜は吐き捨てた。彼は目を丸くした。
「そう?」
「こっちがお嬢様の紅い瞳なら、こっちは蒼の和製シェヘラザード。こっちが赤毛のアンみたいな探偵で、こっちにまた蒼い眼の美術愛好家。もう、目が回る」
173 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:11:26.00 ID:tRJaplXx0
「ああ……」と頷き、「色々いるよな」
「い過ぎます」
「はは」と笑って、「ほかには?」

「三分もレッスン出来ない天才」
「自分を燃やしちゃうアイドルオタク」彼も言い上げた。
「わがまま妖精――やる時はやる」
「それから」目を細めて、「現代を生きる吸血鬼の、その従者」
「……ふん」自嘲を込めて返し、「それから、…… それから、お前です。エセ芸術家。蛇舌。宮廷道化師、背教の魔法使い」
174 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:11:57.79 ID:tRJaplXx0
「僕も? ほー、エセ芸術家ねえ、……」
「私の世界は白黒でさえあれば充分だった。それをお前は、――よくもまあ、ブカレストの壁にスプレーでもするように」
175 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:12:25.37 ID:tRJaplXx0
「スプレーか!」彼は口元いっぱいに笑みを湛え、鼻を鳴らした。「嫌だったか?」

 答えないままで、ショールを摘む。ひんやりする。持ち上げて、離して、持ち上げる。
 そういえば、
「直しが要るのでしょう、これ。いつまでも着ているわけにいかないのでは」

「そうだった、もうすぐ時間だ! 脱いで脱いで」
「急かさないで下さい」
「ごめんな、ちょっとのんびりし過ぎた」
「言ったでしょう」
「はは、名残惜しいか? いい衣装だよな。本番で着れるからさ」

 慎重に袖を外していく――そうか、本番、か。
 まあやってやるか、と息を吸う。すると、なにか独特の香りもまた飛び込んできた。甘く、瑞々しく、バニラ風味も混じっているようだ。

 これは、――

「おい…… やっぱりメロンくさいぞ」
「好きだろ?」
176 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:12:53.63 ID:tRJaplXx0
 
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 その姿を認めると、彼女が本を読むベンチへ向かった。どこまでも広がる高空の下、注ぐ十五時の柔らかな陽光と、撫でるような風を頬に受け、歩く。文香は端に寄っていた。誰かがここに座ることを分かっていて、その人の場所を空けているというように。彼女にも光は注ぐ。中庭の樹々が生むちょっとした木漏れ日が、それから、渡り廊下が薄めた光線が、文香を神秘的な存在にしていた。

「お邪魔します」

 返事は待たないで身を返し、誰かの場所へ腰掛ける。座面は軽く軋んで、千夜を受け止めた。ちょっと遠慮した為、文香と仲違いしたようにそっぽを向いた。持ってきた紙の手提げを太ももに乗せて、中身と、その無事を確認した。
177 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:13:33.17 ID:tRJaplXx0
「……舞台、順調です」
 顔は斜めに逸らしたまま、肩越しに声を掛ける。文香は未だ読書に夢中のようで、――これでは、誰に言っているのだろうな。

 手提げの持ち手を弄び、二つのアーチを寄せたり離したり、繰り返しながら、
「……色々とお話を聞かせて頂いたお陰で、考えがまとまりました。助かりました」
 澄み渡った沈黙の中だったが、呼吸音までは聞こえない。代わりに紙の擦れる音が、見えていなくても文香の居ることを知らせていた。

 手帖をめくりながら、千夜は待った。待ちつつ、零すように言う。
178 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:14:02.27 ID:tRJaplXx0
「『アリババと四十人の盗賊』…… 不詳の語り手たちに継がれた『千夜一夜物語』は、題材として扱う際の自由度の高さゆえに今日の人気を博したのだといいますね。『アラジン』を題する有名なアニメ映画の内容にしても、ガランのそれとはまるで違う。しかし、それを気にする人は多くない。原作など知らないのか、知っていて構わないのか、両手を上げて受け入れる。これこそが『アラビアンナイト』だ、『アラジン』だ、と。この物語集成は、いわば銘々の作り手の、その解釈によって、幾らでも形を変えて人気を得ながら、それでも『アラビアンナイト』ではあり続けてきたわけだ。可塑性というやつがあるのですね。虚像の群像、正体など最早ないような、あるいは全てを正体にしてしまった、千の夜と、もう一夜……

 思いました。そもそも受け取り方によって形を変えない物語など、ひとつとしてないのかも。周りから見れば喜劇でも、当人にとっては悲劇かも――天使のように純粋に見えて、悪魔のように黒いかも。周りから見れば悲劇でも、当人たちには喜劇かも――地獄のように熱くても、恋のように甘いかも。黒が白、でなくとも、灰色や、ひょっとしたら青というように、やはり受け取り方は人それぞれでしょう」
「はい…… 私も、そのように思います」
「ええ…… ん」
179 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:14:46.35 ID:tRJaplXx0
 うわの空で続けようとしたのを止めて、振り向けば、文香が目を細めていた。

 本を閉じ、膝を、身体を、こちらに傾けている。彼女はゆったりと髪を垂らし、思い出に浸るように続けた。

「人は、物語に己を映す。受け取った光を、自分が鏡になって、様々に形を変え、世界に映し出す…… ただ言葉を受け取る、というわけにはゆかない、らしいのです。己は、己を相手には黙さぬもの。自分ならどうするか、自分は今どう感じたか、自分の知識から考証は可能か…… 全く知らなかった筈の世界や、自分のではない隣人についてさえ、物語の最後には持論主張を手に入れる。話を聞きながら、話をしているのです。

 だからこそ、物語は編まれ、聞かれるのでしょう——北村薫からですが——《人生がただ一度であることへの抗議》を、申し立てるように。ひとり分のいのちで世界に立つのでは、得られない光を求めて」
180 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:15:21.73 ID:tRJaplXx0
 ……
 一結杳然、というように間を置くと、文香は静かに目を開け、微笑んだ。こちらもゆっくり頷き返した。深く息をすると、葉っぱの匂いがした。

 千夜は手提げを持ち上げた。素材のクラフト紙がガサ、と音を立てる。
「これ、ありがとうございました。大変参考になりました」
 文香は受け取ると、中身の『ガラン版 千一夜物語』を手にとって、愛おしがるように撫でた。
「楽しんで、頂けましたか。それで……」
「はい」噛み締めて、続けた。「結論が出ました。……ただ」
 文香は首を傾げて、
「ただ?」
181 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:15:58.48 ID:tRJaplXx0
「何というか、…… 取り留めのない想像話です。朝食の傍するような。お嬢様の話に応答を求められて、それで口にするような。月をつき≠ニ呼ぶ理由を尋ねられたような。……、あるいは、……」
182 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:16:50.90 ID:tRJaplXx0
「あるいは、砂上の玉座に編んだ頌詩のような」

 詰まった言葉を、文香が引き継いだ。その微笑みは確かな優しさを湛えていて、千夜はそれを感じながら、手を伸ばしかけていた。彼女の手を取って、その甲を撫でようと考えていた。

 はっと我に返り、自分がしようとしたことを思って、そんな間柄ではないからぐっと堪えて、堪えたところに、なにか懐かしい気持ちが押し寄せた。

 微笑みだ。あれはちとせの微笑みだ。重なっていた。

 ああ、だから話をしたくなったのか、と合点して、いや、話をしたくなったからそう見たのでは、と懐疑した。

「聞かせて、頂けますか」
 彼女は左の髪をかき上げた。
「はい」

 千夜は改まって、正面に文香を見据えた。妙な緊張で、肋骨が締まるようだった。息をゆっくりにして、彼女がいそいそと顔を向けるのを待った。千夜の切迫が伝播したか、文香も深呼吸をするのが分かった。それから彼女は、静かに千夜を見返した。

 その儚く蒼い瞳は――
 
――Chapter8 “リトルリドル”
  
Last Chapter “話がしたいよ[Chorus2] / Gravity[Chorus1]”――
183 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:17:24.13 ID:tRJaplXx0
「この物語は、犯してはならぬこと、禁忌にまつわる筋書きなのだと思いました」

「ある一定の法則、というやつです。研究者シュライビーの成果では、《ささいなきっかけ、大きすぎる災厄》というのが、初期の千夜一夜物語にみられるテーマだそうですね。『商人とジン』では、食べ終えたナツメヤシの種を投げ捨てただけで、ジンに命を狙われる。食事はつつましく、また《よきイスラム教徒たるにふさわしく》お祈りをしてさえいるところに、恐ろしい精霊は現れ、商人を襲うのです。お前が捨てた種のせいで息子が死んだ、と言って。

 一義的には悪徳や罪とも思えない行動が、奇妙な因果に導かれて、不思議な結果をもたらしていく。そういうテーマが『アリババと四十人の盗賊』にも流れているのだと思います」
184 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:17:51.92 ID:tRJaplXx0
「カシムが盗賊に命を奪われるきっかけになったのは、アリババが盗賊の宝をくすねたことは勿論ですが、それをカシムの妻が嗅ぎつけたことが大きいですね。アリババが魔法の洞窟から持ち帰った大量の金貨を、アリババの妻はなんとか計量したがり、カシムの家へ枡を借りに行きます。カシムの妻は枡を貸し与えますが、枡を持たない貧乏なアリババが、一体何を量る程に手に入れたのか訝しみ、升の底に脂を塗り付けておきました。

 そうして枡に残された一枚の金貨が、カシムの嫉妬を、怒りを呼び、彼自身の破滅を、そしてアリババの身に迫る大きな危険を巻き起こすことになります。《ささいなきっかけ、大きすぎる災厄》という言葉に――厳密な対応ではなくモチーフとして、ですが――照らすに、この脂に囚われた金貨≠ニいうのは、いかにも暗示的なように思われますね」
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