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白雪千夜「アリババと四十人の盗賊?」
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1 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:49:20.98 ID:6NLLeJ5C0
「お任せ下さい、アリババ様。必ずお守りしますよ」
これは上手くいった。
「盗賊が付けた目印かもしれない。なんとか誤魔化しておこう」
これも及第だ。
だが、
≪私は幸せでございます≫。
その言葉は、喉も震わせられなかった。
言えばいいだけ、ただの演技だ、割り切ってしまえばいい――のだが、しかし。
――しかし、どの口でこんな事を?
≪幸せ≫だと? 誰が? ……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
白雪千夜の名誉
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「『アリババと四十人の盗賊』?」
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1606830560
2 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:54:18.06 ID:6NLLeJ5C0
オウム返しに聞いたのが、自分ながら、いかにも間の抜けているようで反吐が出た。といってもこれは比喩だから、実際のところ白雪千夜に出来た腹いせといえば――汚いものを吐きつけてやる代わりに――目の前に突っ立つビジネススーツを、足先から脳天まで睥睨し上げてやることぐらいのものだった。
しかしこの反抗は千夜の期待したような、例えば魔法使い≠ノ怖気を震わせるといったような効果を上げたりはせず、かえって、彼のネクタイが新しいらしい些事を千夜に気付かせ、自分自身を苛立たせるばかりだった――チェックなど今まで好まなかったと思うが、……だからなんだというんだ、白雪千夜!
「『アリババと四十人の盗賊』だよ」と、オウム返しをオウム返しに彼。「好きだろ?」
――好きも嫌いもあるものか。
3 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:55:35.07 ID:6NLLeJ5C0
「どうしたというのです、それが」
「演ってもらうことにした。ウチの劇場で、千夜が主役」
そんなところだろう、と大して驚くでもなく、首肯で受け合った。正確には主役とまで言われるのは思い寄らなかったが、それも表情に出るような動揺を生んだり、少なくともその場では、強い重圧を感じさせたりする程の事でもなかった。不安に心を配るより午前十一時の陽光に思うのはむしろ、昼食の弁当を何処で広げるかという事だった――あったかいから、中庭でもいいかな。
「お、いいね」彼は腑抜けた微笑を見せた。「合点承知って感じだ。アイドルらしくなったんじゃないか」
「何を。言われた事はやるというだけのことです」
「じゃ次はスカイダイビングでも――おいおい、よせよそんな顔」
「お前こそ、もう少しプロデューサーらしくなってみては」
彼はデスクに手を付いて、
「だよな、じゃプロデューサーらしい事言うけど、千夜に演ってもらうのは――」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「『アリババと四十人の盗賊』…… アラブ世界で語られた説話の集成、『千夜一夜物語』の一部として、知られている物語ですね」
4 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:57:01.80 ID:6NLLeJ5C0
その儚く蒼い瞳は、千夜を見ているのか、それより奥の何かに関心を寄せているのか、測りかねる具合に澄んでいた。語り口が訥々と、こちらの反応を伺うような調子なのでなかったら、千夜は自分がこの場に存在しているのかどうか、疑うばかりだっただろう。
聞こえていますよ、と首肯で伝えた。それを受けて、鷺沢文香は続けた。
「アリババ≠ニいうのは人名で、アラビア語の読み方で≪アリー・バーバー》、これがアリおじさん≠ニいった意味を持ちます。彼はそれなりの大人で、妻も息子も居るのですね。
さて、ペルシャのある町で、貧乏なアリババは、真面目に木を切って暮らしていました。ある日の事、アリババがいつものように森へ行くと、そこへ盗賊の集団が、やって来ます。隠れて様子を見ていると、盗賊の頭領が、岩の前へ立ち、≪開け、ゴマ≫と叫びました……
その呪文に応え、岩に隠されていた扉が開き、洞穴への入り口を露わにします。盗賊たちがそこへ入り…… やがて出て来て、どこかへ去ると、アリババは、自らも呪文を試してみます。≪開け、ゴマ≫……
そうして入ってみると、その中は、盗賊たちの戦利品や、金貨や銀貨を詰め込んだ袋で、沢山なのでした。アリババは、恐る恐る、金貨の袋を持ち帰りました。
ところで…… 家で待っていたアリババの妻は、夫が持ち帰った金貨を見て、驚き、彼を難詰します。彼が盗みを働いたものだと、ショックを受けてしまうのですね。菊池寛の日本語訳では、アリババはこう返すのですよ。
≪なんで私がどろぼうなんかするものかね。そりゃ、この袋は、もともとだれかがぬすんだものには、ちがいないがね≫……」
5 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:57:48.97 ID:6NLLeJ5C0
ここで文香は息を吸って、
「これでは、ネコババ…… ですね……」
と言った。……
冗談が言われたのだと気付かず、ただ前をじっと見つめて続きを待っていたが、語り手が俯きがちのまま、黒い長髪を斜めに垂らし、徐にこちらへ目を上げた、その様子が妙だったので、ようやく千夜は言意を察した――そうか、アリババとネコババを。
聞こえていますか、と眼で問うようだった。適当に口の端を吊り上げて反応してやったが、それも薄かったらしく、尚も不安そうだったので、加えて「ふふ」と口にした。それでようやく文香は、憂いに代えて、何とも言えない表情を浮かべた。
これで続きが聞けるらしいと安堵し、それから、その表情が≪何とも言えない≫のは彼女と親交の浅い自分だからであって、見る人が見ればきっと満足しているのが分かるのだろう、と思った――≪あはは、良かったな文香≫――うるさい。
6 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:58:18.64 ID:6NLLeJ5C0
「そうしてアリババは、裕福になりました。ところが、誰かが洞穴に侵入していた事に、盗賊の頭領が気付いてしまいます。盗賊たちは町へ来て、侵入者を探します。
この危急に、奴隷のモルジアナが、その叡智をもって、立ち上がりました。家に襲撃の目印が付けられた時には、それを看破し、他の家にも同じものを書き込んで撹乱します。
次には、油商人を装った盗賊の頭領が、アリババの家にやってきます。モルジアナは、三十数個の袋に盗賊が隠れていて、合図を待って一斉に出て来て、襲撃を行う腹積りである事に気付くと、上手く彼らを騙しておいて、それぞれの袋に、煮え立った油を、注ぎ込んでしまいます。
最後には、短刀を隠し持った盗賊の頭領が、客人としてアリババを狙いますが…… モルジアナはこれも見抜き、踊りを披露する中で、隙を見て、頭領を刺してしまいます。
何度もアリババの命を救い、感謝を受けたモルジアナは、奴隷の身分から解放され、アリババの息子と結ばれます。また、アリババは、敵が居なくなりましたから、洞穴の財宝を全て得て、大層なお金持ちとなり、大団円を迎えました……」
7 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:59:00.96 ID:6NLLeJ5C0
文香はそこまで言うと、物語の終わりを確かめるように、深く呼吸した。
「と、いうのが…… 粗筋です……」
カラカラカラ、とエアコンの駆動音が耳に入った。力を抜くと、背中が黒革のソファに沈んでいった。……
千夜はローテーブル向かいに感謝を述べてから、
「昔話というにも奇妙ですね」と発した。「あまり教訓的でない、というか。アリババなど、賊のモノに手を出して、≪真面目に働いている≫とされた前評を裏切っておきながら、それで生まれたトラブルは僕頼り、最後にはそのまま幸福になってしまうとは」
文香は聞いて、ふふ、と笑った。
「はい…… 仰る通り、アリババの境遇には、あまり因果応報といった所感の、得られるようではなく、なかなか都合の良いお話に、思われますね。《全ては神の思し召し》、というところなのでしょう。もし教訓でいうなら、盗賊側が焦点なのかも、しれません。悪事に手を出すことによった成果は、アリババに横取りされ…… そのことへの報復によって、自らを滅ぼしてしまう。せめて報復を取り止め、宝庫の哨戒にでもあたっていれば、少なくともアリババは、それ以上の深入りはしなかったでしょうから…… 《あわてる者は欠損を招く》というあたりが、まあ、総括になるのでしょうか」
「そうなのですね」
釈然とはしないまま返す。それが盗賊の運命から学びを得る為の舞台装置に過ぎないというのなら尚更、千夜から見れば何の努力をするだとか、称賛に値する美徳や才覚をすら備えないアリおじさん≠フシンデレラストーリー≠ヘ、殆ど許し難くさえあった。
もしシンデレラ≠ニ呼ぶのなら、
「実際、モルジアナの方が余程、主人公然としているようですね」
8 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 22:59:41.37 ID:6NLLeJ5C0
文香はまた笑んで、
「はい。奴隷だったモルジアナは、その叡智と巧みな舞踊、あるいは武術をもって、八面六臂の活躍を見せ、最後には資産家となった、アリババの息子と結ばれますから、その将来も明るかったことでしょう。彼女自身は、何らの魔法や、奇跡に頼るのでもありませんが、アリババに魔法のような偶然が訪れた、という好機を、己が常からの資質をもって、幸福に結び付けた、というところを一考するに、アラブのシンデレラ≠フ一人と、言えるかもしれません」
「一介の僕でありながら、随分とまあ、主人よりも上等といえるくらいに洗練されていたものです。ある意味ではその点、開けゴマ≠謔閧焜tァンタジーだ」
――そして、見上げたものだ。
「謎、ですね」と文香。
「はい」
「モルジアナには、謎がある」
「ええ」
「大きな謎です」
「そうですが」
9 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:00:19.55 ID:6NLLeJ5C0
「物の本によれば」と、文香は目を閉じた。今度こそ千夜は居なくなってしまったようだ。「アラビア語の、日本では《奴隷》や、《召使》と訳されている言葉は——これはジャーリヤ=Aマムルーク≠ネどというのですが——単なる無給の労働力扱いや、人としての権利を軽視されるばかりのところを、意味するのでは、なかったのです。高度な教育を受けたり、家族の一員として暮らしたり、君主にまで出世する場合もあったのだとか…… むろん、主人によっては虐げられましたし、市場で売買され、財産、所有物として考えられるなど、現代先進国の感覚からすれば、決して妥当な人権意識だとは言えませんが……
さて、女性の奴隷、ジャーリヤは、音楽や踊りの技術を備え、学芸にも通じました。千夜一夜物語で登場する、タワッドゥドという才媛は、法律、詩歌、論理、医学などの、並いる専門家に打ち勝つ程の教養を、有しています。この物語当時の感覚からいって、奴隷という言葉でこそあれ…… そう称される人々が、その主人よりも高度な教育を受けたり、豊富な知識、素養を備えていたりすることは、おかしいことでは、ありませんでした。
モルジアナもまた…… 格別に勇気と機知を持つ、分けても優秀な女傑ではありましたが…… そういう奴隷たちの、一人だったのです」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「言われた事はやるというだけのことです」
「じゃ次はスカイダイビングでも——おいおい、よせよそんな顔」
「お前こそ、もう少しプロデューサーらしくなってみては」
10 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:00:52.98 ID:6NLLeJ5C0
彼はデスクに手を付いて、
「だよな、じゃプロデューサーらしい事言うけど、千夜に演ってもらうのは――その顔やめないんだな? そっか。うんいいね、それも可愛いし。あ、やめちゃうの――千夜に演ってもらうのは、モルジアナっていう女の子だ」
「モルジアナ、…… と言われましても。主役というなら、アリババでは?」
「ああ、いいよ。僕も詳しくない」
「いい…… とは」
「で、文香に聞いてみたんだ」
「文香」
「鷺沢文香だよ。本好きの子」
「はあ」
「ほんの雑談でね。それが楽しかったみたいだ」
千夜は鼻息をもらして、再び《そんな顔》を用いて彼を睨んだ。
「その鷺沢さんの嗜好がどうだろうと、私には関係がないでしょう」
「ああ、関係ないって思うよな。それでさ、千夜もほら、役どころ、読み合わせまでにはちょっと掴めた方がいいだろ。で今、文香が丁度それについて調べてる」
「はあ」
「聞きに行ってあげてくれよ。喜ぶよ」
11 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:01:24.37 ID:6NLLeJ5C0
しまりのない笑顔に、気の重い事だとため息が溢れた。床にボールペンが落ちているのが目に入った。
「はあ…… では、気の向いた時に」
「今すぐ頼むよ」
「は?」
「早めに聞いておかないと大変だと思う。文香だっていつまでも暇じゃないし、後になったら猫も杓子も押し寄せるぞ」
「何故」
「四十人の盗賊=v
ご丁寧にエアクオーツを添えて。洋画の見過ぎでは、と千夜は目を閉じて、出来るだけ疎ましい思いが伝わるように頷き返した。
「分かりました。では、鷺沢さんに話を聞いてきます」
「聞いてくる? いいね、行ってらっしゃい。僕はこれから鉄分を摂るよ。千夜も?」と彼は乳酸菌飲料――『ラブレ』――の小さなペットボトルを取り出して見せ(千夜はかぶりを振った)、「要らないの? 美味いのに。じゃあいただきます。ま、文香は静かな方だけど、喋るのも好きな方だからね。じっくり話を聞けば仲良くしてくれるよ」と笑った。
12 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:01:57.30 ID:6NLLeJ5C0
「……お気に入りのようですね、随分」
問うと、彼は記憶を当たるかのように呆然と眉を上げ、のち、喉を鳴らし、ストローから口を離した。
「文香? そりゃあ凄く気に入ってるよ。でも、千夜も同じくらい気に入ってるよ」
「ばか。『ラブレ』の話です。ふん、まあ、お前にも倫理はあるのでしょう」
それだけ言って背を向ける。鷺沢氏を探す時間は、明日のお弁当の献立を立てるのに利用するか、と考えた。まず、アスパラガスとブロッコリーを使わないといけないが、彩りを補うのに何を使おう。人参とトマトではちとせの不興を買う心配もあることだし、片方はウインナーかリンゴか。いっそオレンジを切って、ソーセージと取り合わせるか。《千夜も同じくらい》と言われた時、ちょっと胸に棘が刺さったようだったのは、まあ、低いつもりで高いのが気位、というやつだろう。
「千夜」
不意に、背中を呼び止められた。
どうしてだかピリピリと、髪を引かれるような痛みを覚えた。ドアから廊下へ身を乗り出しているらしい彼に、振り向かないまま「何です」と返す。
「僕のネクタイさ、新しいんだけど、どう?」
「お前の事だと? 知るか」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
13 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:02:30.62 ID:6NLLeJ5C0
モルジアナが、ひいてはアラビアンナイトの頃の奴隷たちがどれだけ優れていたのか一席ぶつのを終えると、文香はそこで初めて存在に気付いたように、丸い目をして千夜を見た。
「そういうわけですから、モルジアナが八面六臂の活躍を見せるのは、道理にかなうことなのですよ」
思わず苦笑する。
「成る程。破茶滅茶な物語というだけではないのですね」
「破茶滅茶…… やはり、そうですよね」
文香は頬に人差し指を当て、考え込むように言う。
「分かります。千夜一夜物語の一群自体、ナンセンスというか…… 他からすれば、あまり納得のいかないような筋立てになるものが、多く見られます。有名な『アラジン』も一例ですが、主人公は単なる怠け者で、果報を受けるような徳を積んでいるふうでもないのが、偶然から最後には幸福になる、といったパターンも複数あります。もっとも、『アラジン』は例として相応しくないかもしれませんが……
そういう、因果応報、あるいは、伏線と回収、といった条理の構造については、千夜一夜物語の初期のものには、特別なテーマが共通しているそうです。……研究者シュライビーの曰く、《ささいなきっかけ、大きすぎる災厄》。『商人とジン』——ある商人が、ナツメヤシの種を投げ捨てたことで、ジンの息子を死なせてしまい、その事で命を狙われる。食事自体はつつましく、またイスラム教徒としても敬虔な彼でしたが…… 悪意や、避けられた過失のないところからでも、トラブルに巻き込まれるのです。昔話、という言葉で我々に連想されるような、西洋的な価値観に馴染む、分かりやすい教訓話にならないのが、千夜一夜物語の、面白いところですね……
それから、……」
――《それから》、じゃない!
14 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:03:02.77 ID:6NLLeJ5C0
いよいよ話は脱線し、千夜の知るべき領域を逸しつつあるようだ。それはちょっとした焦燥をさえ覚えさせた。
「あの」
「ん…… はい」
「たくさん教えて頂いて、ありがとうございました」
「あ…… ええと、はい。その、なんだか、話し過ぎてしまったようで……」
「……いいえ。随分、お調べになったのですね」
「はい、ええと、プロデューサーさんとお話ししていたら、気になってしまって……」
「はあ。では、彼にも聞いて貰えるといいですね」
「ん…… はい」
文香が目を細めた。その眼が、たった今になって潤ったように見えた。
丁度この場を離れるタイミングではあったが、ふと、胸に何かが芽生えた。後ろ暗いといってもいい何か。それはどうやら誘惑、おそらく背徳的な――この綺麗な顔を、試してみたい。
15 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:03:35.58 ID:6NLLeJ5C0
「あいつが、…… プロデューサーが、貴女を大層褒めていましたよ」
「プロデューサーさんが……?」
文香が身を乗り出した。主導権を得た。
「しかめ面も可愛いな…… だとか」
「しかめ面、……」文香は戸惑いを表し、「そのように、見えていましたか……」と悄然、頬を揉んだ。
失言だったようだ。内心、肝を冷やす。成る程、彼の前では努めて顔を和らげたのに違いない。
「そういう表現では…… なかったかもしれませんが」
もし神だとか、吸血鬼の末裔だとかに≪真実を述べよ≫と迫られたなら、只今に一抹の、不満、あるいは焦れのようなものを感じ得ずではなかった事を、千夜は告白しなくてはならない。
喜べばいいのに、誇ればいいのに、どうしてそう儚げなんだ。美しいものは美しいものらしくしているべきだ。
そういうもの、なのだろうにせよ。
――Chapter1 “Mr.Blue Sky”
16 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:04:10.75 ID:6NLLeJ5C0
その『御伽公演』における最初の仕事は、出演者、演出家、舞台監督、諸々、関係者一同による顔寄せだった。会議室を狭しと埋め尽くす面々は、アイドルだけで十数人、濃い赤、ピンクがかった紫、ピンクに水色のインナーと、髪を見るさえ千差万別だった。折り畳みテーブルも部屋の壁紙も白いのが、それを余計に印象付けた。
席へ向かう途中カツン、と何か硬い物が靴先に触れ、転がるそれを視界に捉えると、ボールペンだった。その形に覚えがあるようだと感じ、周囲に目を配ると、魔法使いが例の新しいネクタイをひらめかせ、ペコペコ頭を下げて誰がしかと名刺を交換しているのが分かった。あくせく働いているようだ。千夜は素直に感心した。胸の内でなら、ちょっと拍手をしたり労ってやるのは構わなかった。実際には、言葉よりも千夜自身の働きぶりで報いることになるだろう。手を抜かない、というだけのことで、特別なことをするつもりはないが。
17 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:04:55.93 ID:6NLLeJ5C0
声が掛かって、銘々席に着いた。拾ったペンは目につくよう机に放って置いた。
「アリババ役の安斎都です! よろしくお願いします!」
「モルジアナ役の白雪千夜です。よろしくお願いします」
「おかしら役の一ノ瀬志希でーす。にゃはは、よろしく〜」
「カシム役の夢見りあむですよろしくお願いします(早口)」
と簡単に、数が数なので時間は掛かったが、自己紹介を済ませ、日程について等の説明を受けてから、台本の読み合わせに移る。ここで初めて渡されたそれを、千夜はパラパラとめくってみた。全く文香に聞いた通り、とはいかないようだ。
「今回の舞台は、古典の物語をアイドルの皆さんに演じてもらうということで、残虐な表現をマイルドに書き直しています」好好爺といった風の演出家先生が言った。「例えばアリババの兄カシム、夢見さんの役ですね、彼は原作では盗賊に見つかり八つ裂きにされてしまいますが(「え、ぼくそんな役なの!?」とりあむ)、今回は大怪我とトラウマを負って二度と商売が出来ない体になってしまう、という程度に済ませておきます。平和ですね」
「いや平和⁉︎ のんきか‼︎ みやすのんきか⁉︎」
「ふふ。全身の骨を折って包帯巻きになるぐらいなので、歌には参加してもらえますよ」
「ん、パスみあんな?」
18 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:05:51.68 ID:6NLLeJ5C0
「一応当て書のようにはなっていますから、皆さんの個性でもって演じられそうならやってみてもいいし、ただ読んでもらうだけでも勿論構いません」
「あてがき?」声が上がった。「お手紙なんですか?」
「それは『宛名書き』ですよ、都ちゃん」答があった。「ふふ……、当て書というのは、演じる人をまず決めてから、役柄の方を俳優に寄せて脚本を書くことです」
「ほう! 面白いです!」
「おっ、やっぱり詳しいねぇ。古澤さんを呼んで良かったよ。じゃあ、ライラさんの語りからやってみましょうか」
受けて、金髪の少女が息を吸う。
大方は滞りなく進んでいった——
「えーっと、ブンんぼ……?」
「けち≠ナすよ、都ちゃん」
「おおっ、ありがとうございます、頼子さん!」
というようなやり取りを滞りある≠ノ含めないのならば。
その程度は当たり前に許したかもしれない言葉の神も、しかし次の一件が滞り≠ナある事を認めないわけにはいかないだろう。
会議室を飛び交っていた台詞の連鎖が、ぱたと止まって五秒弱、演出家が口を開いた。
「……あれ、次はおかしらだよね。一ノ瀬さん?」
19 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:06:19.03 ID:6NLLeJ5C0
皆一様に目をきょろきょろさせだした。千夜も倣う。居ない。
先程居たはずの位置は空席だ。雲散霧消、一ノ瀬志希の紫の髪も、青味掛かった瞳も、猫のような微笑を湛えた唇もそこにはなく、その行方を知る者もないようだ。
「しまった、志希のやつ! 今すぐ探して来ます!」と、立ち上がりもせずに魔法使い。
(「ボクが行こう」と声が上がった。)
「それには及びませんよ。毎度の事ですからね、こっちも織り込み済みです」と演出家。
「いやあ、ほんと毎度ですよね、僕の力不足で申し訳ありません」
「いやいや、君と一ノ瀬さんなら毎度、順調に仕上げてくれますから」
茶番だと感じた。用意された会話だ、と。千夜からすればまったく重大ごとに思えるのだが、天才一ノ瀬志希の実績とやらが、只今の謝罪や赦免をまるでうわ言にしてしまったのだろう。これでいいらしいので、千夜も考えるのはやめておいた。
それよりは、これから読んでいく台詞に神経を使わなければならなかった。
20 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:06:50.37 ID:6NLLeJ5C0
「お任せ下さい、アリババ様。必ずお守りしますよ」
これは上手くいった。カシムが盗賊に見つかった事をアリババに聞き、盗賊の追跡から身を守らなければならない事を知らされる場面。この時点ではモルジアナはカシムの奴隷なので、アリババと主従関係にはないが、この危機が彼女の仕える家自体に迫るものであるのを思えば、胸を叩いて請け合ってやるくらいのものだろう。
「盗賊が付けた目印かもしれない。よし、誤魔化しておこう」
これも及第だ。家の門に書き込まれた記号を発見し、盗賊による襲撃の目印である可能性を看破するシーン。千夜ならせいぜい印を消すことを考えると思うが、『アリババ』の時代ではけっこう難しいのかもしれない。それを近所中に同じ印を付け、情報の差異を奪ってやろうというのは成る程、木を隠すなら森の中というのか、流石モルジアナ、叡智の人だ。
彼女の立場を、場面を想像しながら、あるいは召使仲間とでもいうべき勝手なシンパシーから単に感心しつつ、千夜は台本の読み合わせをこなしていった。
これが最初の仕事だからなのか、このまま進むのならやっていられそうだ、という前向きな気持ちが芽生え、調子が上がりつつあると言ってもよかった。
だが、そう上手くもいかないようだ。
台本の後ろ、殆ど最後の場面、モルジアナには最後の台詞で、千夜の目は止まった。頭の奥に引っ掛かりが生まれ、不安に近いものが胸をよぎった。
そして、ついに千夜の番が来ても、――
21 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:07:33.25 ID:6NLLeJ5C0
≪私は幸せでございます≫。
その言葉は、喉も震わせられなかった。
言えばいいだけ、ただの演技だ、演技でもない打ち合わせだ、割り切ってしまえばいい――のだが、しかし。
――しかし、どの口でこんな事を?
≪幸せ≫だと? 誰が? ……
「白雪さん、どうしたの?」
演出家先生が言った。思えば、暫く沈黙が流れていたようだ。
「具合が悪いなら、ちょっと休もうか?」
「いえ、その…… 大丈夫です」
「そう? それじゃあ、この台詞は読みづらかったかな?」
「いいえ」千夜はかぶりを振った。「読めない、というか…… その」
「その?」
「モルジアナが、こんなこと言うのかな…… と」
22 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:08:01.38 ID:6NLLeJ5C0
「ううん、確かにそうかもね。ただ、今回はあんまり舞台慣れしてないお客さんを見込んでるから、分かりやすくやろうって腹なんだ」と演出家。
「いえ、そうではなく…… あの、すみませんでした。聞かなかったことにして下さい」
「いやいや、聞かせてよ。君と僕と、皆で作る舞台なんだよ?」
「ほんのつまらないことで」
「千夜」魔法使いが呼び掛けた。言いな、と目配せして。
気の進まないながら、千夜は再び始めた。
「はい…… その、モルジアナは元々カシムの奴隷、だったのですよね。でも、そのカシムが酷く傷つけられて…… 私がモルジアナなら、つまり、誰かに仕える立場なのだとして……」
「黒埼さんのことなら聞いているよ」
「はい。では、私の考えを言わせて頂くなら…… モルジアナは後悔の中にあるのではないかと。例え復讐を遂げたとして、主人を守ることは出来なかったのですから。モルジアナは…… 私がそうなら、自分を責めているような気がします」
23 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:09:30.24 ID:6NLLeJ5C0
その場を沈黙が支配した。
雑音がないのが、かえって耳に痛かった――私は嫌だったのに、お前が言えと! 難詰すべく魔法使いを睨んだ。どんな顔を返されたか頭に入らなかった。空気が張り詰め、紙の擦れる音や、椅子に姿勢を正す様子、誰かの息遣いまでもが聞き取れた。千夜は自分を、打ち上げられた魚のように思い始めた。己の考えを表に出すというのは、なんて気まずいものなのだろう。そんなものは濁った海に泳がせてさえおけば良かった、万事良かっただろうに!
そこへ、ガタッ、と椅子の鳴る音がした。見れば夢見りあむ――アリババの兄にしてモルジアナの主人、カシム役――が呆けた顔をしていた。
24 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:10:09.95 ID:6NLLeJ5C0
「千夜ちゃん……? そんなにぼくのことすこって」
「いいえ」
「ア即オチッ⁉︎ やむ‼︎」
「そりゃあまた――」と、魔法使いが口を切った。「――リトルなリドルがあるもんだ。《幸せって何?》《不幸せって何?》」
(「あ、それ知ってるー☆」
「ふふ…… 私たちの曲、だね……」)
「お前、ふざけているのですか?」
たまらず非難した。大勢の前にしては語気が荒かったようで、千夜を見るいくつかの顔に緊張が走るのが分かったが、自分の怒りにも正当性があるだろうから、内省は頭から追い出した。
25 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:10:40.37 ID:6NLLeJ5C0
「困ったなぁ。実はこれ、完全に脚色なんだよね。元の話には全然ない台詞なんだ」
演出家は言う。魔法使いが答えた。
「脚色ですか? それでは先生のお考えで……」
「いやいや、皆さんの個性に頼ると言った手前だからね。ただ……」
「ただ?」
ふと、新たな疑問が頭をもたげた。何故だろう。
「いや、だからこそ。消すだけってわけにはね」
「とおっしゃいますと…… 書き直すと?」
どうして、
「そうよ、白雪さんの個性に頼ってね」
「ほうほう」
どうしてこんな会話まで用意≠オてあったんだ?
26 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:11:26.03 ID:6NLLeJ5C0
「というわけだから…… 白雪さん、考えておいてくれる?」
「考える、というと……」
「勿論、最後の台詞だよ」
与えられた試練、というわけだ。千夜は初めて、自分の役柄に重みを感じた。ただこなす、というわけにいかなくなった。
「よし、任せた。千夜!」
彼はこちらの心など知らず、口の端を持ち上げ、親指など立てて見せる。
「解き明かせ、キミの手で」
――Chapter2 “Can’t Find the Words(feat. Caitlin Ary)”
27 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:13:25.96 ID:6NLLeJ5C0
クッキーを焼いた。シートを敷いた天板に、並べたのは花や木やハート。皿に移していた時、どうかした弾みに一つ、取り落とした。ペシャ、と小気味良くもない音を立て、それはへし折れた。元は星型だったそれの、テーブルの上、一つ角が分かたれた無残な姿に、首を撥ねられた死体の印象を重ね、体が首を離すまいと抗い続けたような屑の軌跡を眺め、不気味に感じるのと、虚しい気持ちとに襲われた。
昔の話だ。思い出しても色の付いていないような、いかにもノイズの走りそうな、瞳が紅く輝いていたのは信じられるけれど、それも感覚ではなく理屈でそれと分かるような、白と黒しかない世界の、その中で。
ちとせは優しく微笑んだ。優しく、優しく囁いた。
「増えたね」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
28 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:14:08.68 ID:6NLLeJ5C0
そんな記憶を、バラバラになった陶器の破片を眺めながら喚び起こしていた。たまには事務所でトルコ風コーヒーを、気分も良いし、折角だから彼にもと、その机からマグカップを奪って来たのが失敗の始まりだった。一条を通じて述べるには千夜の記憶が飛んでしまったが、とにかく給湯室の床、かつては《ME BOSS,YOU NOT》と声高だったそれは、今や手榴弾にでもやられたように無残な最期を晒して散らばっている。
断末魔の叫びを聞きつけたか、タッタと足音を鳴らし、彼が顔を覗かせた。
「割れたか?」
「増やしたのです」
29 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:14:51.14 ID:6NLLeJ5C0
彼は悪戯っ子のように笑い、
「だな。怪我ないか?」
「いえ…… すみません。弁償します」
「弁償? そんなのいいんだよ。千夜が怪我してなくてよかった」
「……、それはまた後で、として。すぐ片付けますので」
「それもいいよ、と言いたいとこだけど、片付けは千夜が上手だよな。よし、任せた。僕は道具を」と、彼は立ち去った。
能天気、良くすれば鷹揚とでも言うべき足音が去るのを聞きながら、実地を検証した。陶器だから、細かい破片はガラス程には多くない。飛散もそう広範には及ばないだろう。ゴミ箱を退けたり、シンクの扉を開け閉めして、影に尖ったものが入り込んでいないかと探す。
――私も、≪上手≫じゃないけれど。
そこへ気怠げな声が掛かった。
「あー、やっちゃったねぇ」
30 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:15:28.44 ID:6NLLeJ5C0
振り返ると、双葉杏が口に右手を当てている。千夜より頭ひとつ分低い妖精じみた身体に、着ているというより引っ掛けたような白いシャツは大胆に《ホリデイ》とあった。短いパンツから華奢な生脚がすらっと伸びており、千夜は裸足を連想してどきりとしたが、スリッパを履いていたので深い心配は要らないのだと分かった。一応手の平を向けて《危ないですよ》の意を通わせておく。
杏は床に、しげしげと視線を注いだまま言う。
「プロデューサーの? 見事にバラバラだねー。怒られたでしょ?」
質され、大きめの破片を蹴って集めようかと算段つけていたのをやめた。彼女の問いを千夜は解さなかった。彼はおよそ憤慨とは程遠い態度を取った筈だ。所有物を壊されたのだから、怒るのが本来適当なのだろうとは思うけれど、しかしそれで彼が怒鳴ったりするような絵面には想像も及ばなかった。マグカップ如きで、ではなく、人間性から考えて、《怒られた》かということを、杏に問われるのはどうも意外の感を拭えない。
31 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:15:55.55 ID:6NLLeJ5C0
「いいえ」とかぶりを振って、ちょっと甘えていたかもしれない、と省みた。実際、罰されて当然の事はした。それで怒られると思わなかったとは、虫がいいのではなかろうか。
「そうなの? ふーん」
杏は尚も、概観以上の何かを見出そうとしているようだった。
「意外だなー。杏が落として割りかけたときは、こっぴどく言われたもんだけどね」顔も向けず話す。
「そうなのですか?」――それこそ意外だ。
杏は目を上げて、
「《それこそ意外だ》って言い方するね。あれ、千夜知らないの?」
気を持たせる言い方に反感を覚えたが大人しく、
「何をです?」
「これ、凄くお気に入りだったんだよ。憧れの先輩からの贈り物なんだってさ」
32 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:16:28.69 ID:6NLLeJ5C0
「贈り物……」
「そーそー」杏は声を低くして語った。「その先輩、プロデューサーに一から十まで叩き込んだ人なんだけどね、お母さんが病気になって、田舎に帰らなきゃいけなくなったんだって。プロデューサーも何とか引き留めようとしたんだけど、やっぱり駄目でね。それで最後の日、夏の日ね、ヒグラシとか鳴いてたの。見送りに行った電車の改札でさ、絶対トップアイドル育てて、世界のはじっこまで輝き届けてくれって、このカップ託されたんだ」
何かを確かめるように、千夜を覗き込む。
「それ以来、このカップは約束の…… ううん、これはプロデューサーの一等星――夢の象徴だったんだよ」
33 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:16:57.24 ID:6NLLeJ5C0
話を聞いて、ふたたび破片を見返した。細かいものは少ないし、何処かが消えてなくなったということもないと思う。
「そっかそっか。こんなに大事な物壊されても、千夜の方を心配してたんだね」としみじみ杏。「ふーん。なんか、分かっちゃったなぁ。千夜がどんなに思われてるか」
千夜は落としていた視線を持ち上げた。
「それは、どういう――」
「お待たせ」
会話に割って入り、彼が箒とちり取りを持って寄越した。受け取る千夜へ、杏はウインクをして見せ、あちらへ振り返った。
「じゃ、ここにいても邪魔だろうし、私らはあっち行ってようよ」
「杏はレッスンなかったか? 千夜、手伝う事ないか?」
「いえ、杏さんの言う通りです。散った破片を掃くのに、いちいちお前をどかす方が大変です」
「そーそー。てかプロデューサーこそ、外回りの時間じゃないの」
「外回りは明日になったの。そっか、千夜は大丈夫か。じゃ頼むよ、ありがとうな。手を切らないようにな」
34 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:17:48.85 ID:6NLLeJ5C0
彼が胸中の痛みなど感じさせない、いつも通りの顔をしていただけに、かえって躊躇われるなか、千夜は「あの」と切り出した。
「ん?」
「この度は、すみませんでした」
ここは誠心誠意と思い、頭も下げた。会釈程度に。
「はは、大丈夫だって。増えたろ?」
二人が行ってから、千夜はしゃがみ込んだ。いくつかの破片を取り上げ、文字の形を頼ってパズルよろしく重ねてみる。ちゃんとした接着剤があれば、ハリボテぐらいにはなるだろうか。
それから大きめのものを一つ、ひょっとしたら暖かく感じられはしないかと、手の平に乗せたり指で撫でてみたりした。
そうこうするうちに、
「プロデューサー、あのカップどこで買ったの?」
「あのカップ? 通販…… いや結局お台場だったかな?」
「ふーん。あれね、死んだお父さんに貰ったことにしといたよ」
「え、父さん? なんで?」
「あ、引退した先輩だっけ。なんでってほら、エモくなるから」
「あんな安物エモくしてどうすんだ」
「懐くよ」
「んなバカな」
「いいでしょ?」
「ああ最高」
と聞こえて来たので、破片はすぐさま投げ捨てた。
35 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:19:04.15 ID:6NLLeJ5C0
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
掃除を終え、大袈裟な足音で魔法使いとお付きの妖精を威嚇してやって、建物内をひと往復歩き医務室に寄ってから、二階まで行った。渡り廊下で、張られたガラスから曇り空を眺めるちとせ――述べるまでもないが黒埼ちとせ、金髪紅眼の美女――と合流した。
「お疲れ様です」
「おつかれさま♪」
並んで渡り廊下を行き、ちとせの今日あった事を聞いた。何とかいう横丁のナポリピザを食べに行く約束を志希としただとか、それは一昨日にもした筈の約束だったとか、他愛もない話だった。ちとせは時折、中庭へ目を落とすと、「うーん」と悩ましげな声で間を繋いだ。彼女が見たのはベンチのある方だったと思い、疲れたのか、と聞いたが、ちとせは笑顔でかぶりを振ると、志希が頼んでタバスコを掛けておきながら、およそ百本のうち三本しか食べなかったフライドポテトを誰が処理する羽目になったかを明かした。
36 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:19:31.75 ID:6NLLeJ5C0
一段落のところで、今度は千夜から切り出す。
「これからお嬢様をお送りしたら、お台場に出掛けたいと思うのですが」
「お台場? うん、いいよ。お買い物?」
「はい」
「魔法使いさん、気に入るといいね」
「はい…… は?」
「千夜ちゃんなら、きっと良いマグカップ買ってあげられるね」
37 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:20:16.99 ID:6NLLeJ5C0
心臓が止まったかと思った。その後の全身の血が逆流したような感覚も、千夜の驚愕を表すものだった――私は何を言ったっけ?
「あはっ、可愛い♪ 驚いた?」
「その…… 何故?」
「分かったかって? 千夜ちゃんの事ならぜーんぶお見通しなんだよ?」
「ですが……」
38 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:20:47.12 ID:6NLLeJ5C0
「左の手の平、怪我してるよね。隠してるけど、握り方とか向け方とか、千夜ちゃんにしては珍しいよ。だから気にしてたら、手袋が切れてるのも見えちゃった。取って。……ほら、やっぱり絆創膏。消毒は? うん、さすが千夜ちゃん。
じゃあ何で怪我したかっていったら、私が朝、千夜ちゃんのコーヒー褒めたのが原因だと思うの。《魔法使いさんにも淹れてあげたら?》って。ジャズベも持ってったもんね。あはっ、可愛い。それで魔法使いさんのカップを持って来たんだね。それをどうしてか、割っちゃった。
それで足や脛じゃなく手、それも指じゃなくて手の平を、しかも利き手じゃない方を切ったのは、単に当たったとか、触った以上の事があったのね。きっと、それが魔法使いさんにとって大事なカップだったから。千夜ちゃんは優しいから、形だけでも戻そうとして拾い集めてみたんだね。それで優しさの証拠がここに。うん、とっても綺麗だよ。ここまでが、千夜ちゃんの左手がお喋りしてくれたこと♪
魔法使いさんも優しいから、カップなんかいいよって言ったと思うけど、千夜ちゃんは気が済まないよね。何処で買ったかまで聞き出した——少しでも、魔法使いさんの大切≠ノ近い物を贈る為に。単に良い物を買うなら、東京にはいくらでも近場のお店があるのに、渋谷でも銀座でもなくお台場なのはそういうわけ。
こういうことだと思ったから、千夜ちゃんがお台場に代わりのマグカップを買いに出るんだって、分かるんだよ」
39 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:21:15.24 ID:6NLLeJ5C0
ちとせは紅く目を細める。千夜は舌を巻いた――また変な遊びを。
大筋ではあるが、仕草だの二言三言からこうまで見透かされては敵わない。脱帽です、とお辞儀した。
「おっしゃる通りです」
「ね、千夜ちゃんのことなら何でもお見通しなんだから」
「ほんとですね」
「ほんとでしょ。うん、今から行けばいいんじゃない?」
「そういうわけには」
「私なら大丈夫だよ。暗くなっちゃう前に…… そうか」
40 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:21:54.57 ID:6NLLeJ5C0
言いながら、ちとせの宝石のような瞳は、一点を注視していた。その表情に妖しいものが宿る。
視線が射る先、ベンチに腰掛け、鷺沢文香が本を読んでいた。青い装丁を両手一杯に開いている。ちとせは、すすす、と早足で寄って、
「文香ちゃん、こんにちは」
朗らかな挨拶を意にも介さないようで、文香は依然、活字へ目を落としたままだった。ちとせ嬢は焦ったそうにベンチの裏側まで回って、耳を喰むかという近さでまた「こんにちは」。餌食の首筋を、華美な五指で撫でながら。
流石にキャッと叫んで、文香は跳ね上がる。持ち主に突き飛ばされ、バサバサはためき宙に舞うハードカバーを受け止めるのが千夜の仕事になった。頁を折らぬよう気を張る――よし、大事無し。
雪のような頬を上気させ、文香はちとせと対峙した。前髪は慌てた為に乱れたようで、その間から覗く目はどうも恨めしげに感じられた。
41 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:28:35.29 ID:6NLLeJ5C0
「こんにちは」と再三ちとせ、ベンチの背もたれに両肘ついて。
「こ…… こんにちは」
「驚かせてすみませんでした。どうぞ」本を差し出す。
「いえ…… はい、ありがとうございます」受け取る。
「読書してたんだ? 推理はお好き?」
「はあ」
「私と千夜ちゃん、これからお台場に買い物行こうと思うの。何でか当ててみて?」
文香の困惑した瞳に、
「主に私の用向きなのですが」と左手の絆創膏を見せた——こういうお戯れ、なのでしょう?
42 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:29:06.32 ID:6NLLeJ5C0
彼女は深い思索の視線と暫時の逡巡を表した後、
「マグカップ…… でしょうか。……プロデューサーさんの」
「あはっ、名探偵♪ なんでかな?」
「今の時間からの買い物…… というのは、急ぎの用を暗示するものです。買い求めるのは、明日にでも使う物…… 千夜さんの傷が傍証となるのなら、それは今日使う物でもあったかと。強引な帰納ですが、日常使う物、それが壊れ、早急に利便を回復しなければならないのだと、ひとまず仮定しました。
それから、渋谷や銀座ではなく、お台場という地を決めて指した事から、お二人は、出来るだけ同じ物を、買い戻そうとしているものだと、考えられます。加えて、傷が手の平についている事から、千夜さんがこれを、壊れたのち、一度拾い集めたものだと思われました。これらは、対象の物品の需要が、機能性のみならず、意匠にも基づいている事の証左かと。それも、分かりやすい絵柄などではなく、態々組み立て、読み直し、記憶を新たにしなければならなかったような、英文プリントの類があしらわれている物では…… と。私には、プロデューサーさんのマグカップが、連想されました」
43 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:29:33.43 ID:6NLLeJ5C0
千夜は透徹した推理に瞠目したり狼狽しながら、どうもこいつは二枚舌らしい、と自分の左手を眺めまわした。文香が静かに語り終えるのを待ってから、ちとせは声を弾ませる。
「すごいすごい。うん、『千夜ちゃん学』は引き分けだね♪」
楽しそうな彼女の、そのなんだかよく分からない言葉に、千夜は思わず笑いをこぼした。
「そんなものについては、誰もお嬢様には敵いませんよ」
「『魔法使い学』はどうかな?」
「魔法使い=A……」
「お嬢様?」
不吉な予感がした。
「それは…… コーネリアス・アグリッパやアレイスター・クロウリーといった史実の…… それとも、ホグワーツ魔法魔術学校で教えるような……?」
「それも楽しいね。魔法使いさんのことだよ、ほら、貴女を勾引かし静謐な楽園から連れ出してしまった、背徳と享楽の徒♪ 《ヘイ可愛子ちゃん、人間のところへようこそ》♪」
「プロデューサー≠ニ理解して下されば。お嬢様、何を?」
「私と文香ちゃん、どっちが魔法使いさんの毎日に居られるか、勝負しようよ」
44 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:30:10.74 ID:6NLLeJ5C0
あっけらかん、言い放ったちとせは、しかしその眼を油断なく光らせた。
対する文香も、また、あっけらかん、の体だった。
「仰ることが、よく……」
「誤魔化すのはだーめっ。それじゃあ私たち、楽しめない」
「お嬢様、私にも分かりませんよ」
「文香ちゃん、言ったよね。魔法使いさんのカップは、毎日使うものだって。ねえ、私たちがカップを買っていったら、それをあの人、毎日、使うんだよ」
陰った、と思う。千夜は今、文香に焦燥を見た。
「きっと思い出すのね」ちとせ。「毎日だよ。私が下賜したカップに、私を想って膝を突く。それで、何度もキスするの。天使のように純粋で、地獄のように熱いキス」
「それは」遮るように文香。「、…… それは、プロデューサーさんのお決めになること…… ですから。……私の存意の、介在する余地など」
45 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:30:47.52 ID:6NLLeJ5C0
「お嬢様、そろそろ」
「ああん、細かいのは嫌いだな。ねえ文香ちゃん。魔法使いさんが文香ちゃんのものになんかならなくたって、今の関係でさえいられれば、幸せだね。だけど、もしあの人が誰か他のヒトのものになったら? 私のものに? その誰かさんが、文香ちゃんの側にいられないよう、あの人を奪っていったら? 美しいものは永遠の喜びでも、人の想いは風なんだよ」
文香が顔を背けたり、逆に見つめ返そうとする度、ちとせは踊るように移動した。必ず彼女を隣から覗き込み、視線を惑わせる。
「お嬢様、もう行かないと暗くなります」
「それが、……」
「《それがあの人の幸せならば》? 《背中を見つめてさえいれば》? ねえ、文香ちゃんは今が好き? その今が溢れていくかもしれない、その瀬戸際に、ただ立っていればそれを掴んでいられると思う? それとも玉座に縮まって、宮廷道化師の言うがまま? 街が燃えようって時に、《私のせいじゃないから》? この瞬間に迫られているのに――《異議あるものは今申し出よ、さもなくば永遠に沈黙せよ》。もし手遅れになったら、貴女は何処へ行くの?」
46 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:31:14.62 ID:6NLLeJ5C0
「文香さん、…… こういうお戯れなので、どうかお気に……」
「あはっ、心配ないか。魔法使いさんだもんね? きっとカリフみたいにハーレムを作るよね。あの子もこの子も侍らせて♪ うん、いいよ。あの人が相談して来たら、文香ちゃんを二号に認めてあ――」
「プロデューサーさんは……!」
47 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:31:47.80 ID:6NLLeJ5C0
千夜の驚いたことに、彼女はなかなか鋭い語気で挑発に乗った。ちとせもたじろいだ。
自分自身の怒りにさえ怯えるように、文香は微かに震えているらしかった。
「……プロデューサーさんは、そのような方ではありません。必ず、誠実に…… その、我々の知る誠実さというものに則って…… 一人を、お選びになります」
「そう」と笑って、「誰を選ぶって?」
「、……わっ、わ、…… わた…… 私をっ、…… お選び、下さいます」
48 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:32:25.62 ID:6NLLeJ5C0
それはもう、気息奄々、祈りのように溶けていく声だった。千夜は真っ直ぐ見ていられなかった。この緊迫した状況を代わってさえもらえるなら、神谷氏と佐藤氏が直面したという九十七本の激辛ポテト地獄を自分が請け負ったのにと思った。
ちとせは満足したように文香を眺め回すと、今度は彼女の正面に立った。
「進化しなければ生き残れない。進歩しなければ今さえ守れない。《同じ場所に留まる為には》――」
「《全力で走り続けなければならない》」文香が受けた。「《どこかへ行くならその二倍》――成る程…… 確かに我々は、鏡の国に立っているのです。いわば時という盤の上に」
「あの、文香さん」
「アイドルという世界で、見知らぬ国で、私は、手前味噌ですが、新たな自分を投影すべく、常に全力を尽くして来たつもりです。それは誇りであり…… 誇らなければならない類の、責任でもあるでしょう。ですが、只今という見地に立って改めるに…… それは未だ生存本能の域を、超えはしなかったのかもしれません。
……プロモーション、ですか……」
「あはっ♪ 美味しそうになっちゃって。そうだよ女王サマ。決まりだね? 『魔法使い学』の試験は実技――どちらが好みのカップを贈れるか?」
「承知致しました……、女王陛下」
49 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:34:14.87 ID:6NLLeJ5C0
ちとせは「いいね」と享楽するように口を歪めた。ゆらり、立って前の彼女を見据える。
「白黒、…… ううん」細められた瞼の中には、皆既月食の血の色が満ち満ちた。「紅蒼つけちゃお?」
文香も伍した。困惑や躊躇の表情が、眦を決したそれへ変わりゆく様を千夜は見届けた。
「お望みならば、…… いえ」双の青天にちらと、だがありありと霹靂を閃かせ、「望むところです」
千夜はといえば、肩でも竦めてやろうかと呆れているほかなかった。……
――Chapter3 “Cups (Pitch Perfect’s “When I’m Gone”) / Speak Now”
50 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:38:11.48 ID:6NLLeJ5C0
東京テレポートとは大それた名前だ、とつまらない冗談のようなことを思った。きっと都内の何処へでも瞬時に移動出来る、もの凄い駅なのだ。
こんな考えを文香に打ち明けて馬鹿を晒したくはないな、とちょっと調べてみたら、テレポート≠ノは高度に情報化された地域、といった具合の意味があるようだった。
スマートフォンから目を上げると、文香はようやく券売機との格闘を終えようとしていた。千夜の方は左手の携帯端末をピ、とかざせば改札を通れるが、彼女は普段の通勤通学に使う定期券しか持っていないらしい。車を回してもらえないようなロケだの営業だのも少ないわけではないだろうに、きっと路線図との睨めっこが楽しいのだろう。
思い当たってそれを見上げてみれば、ちょっと久々の感を覚えた。最近は調べるとしてもスマートフォンで、小さな画面に出発地と到着地、時間と料金が淡々と表示されるのを見るだけだ。縦にも横にも広がる線路の地図を、どこからどこまで進むのか、距離感のようなものを得られるのは、脳裏に旅が広がるのを感じるのは――うん、趣があるかもな。文香にとっては、きっとこんな些細なことからが冒険なのだ。
51 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:38:41.55 ID:6NLLeJ5C0
艱難の果てに獲得した切符を、宝物ですとばかりに両手で握り、世間知らずのシェヘラザードはトコトコ戻って来た。目立たぬように、と急遽借りた(千夜が借りさせた)、腰にベルトの付いたグレーのキャスケット帽が上々の調和を見せている。彼女は恐縮するように言った。
「すみません…… お待たせしました」
「いいえ。行きましょうか」
返すと、文香は薄く笑んだ。息が浅くなるほど蒼色だ。もっと堂々としていればいいのに、とやはり思う――貴女がそれでは、灰色の立場がないでしょう。
ともあれ、黄緑のラインが引かれた電車に乗り込んだ。乗客の入りはそれなりにあったが、二人で座ることが出来た。
52 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:39:12.86 ID:6NLLeJ5C0
二人=Aだ。あれだけ人を挑発しておきながら、去るには《千夜ちゃんが私の僕だから♪》と一言なのだから、ちとせはすごい、千夜には出来ない。彼女が気侭に並べだした手合いの盤面は、今や文香と千夜を彼我に対置しているのだった。その為か、文香が千夜を見る態度がどうも落ち着かないのが居たたまれなかった。
――分かりました、負けてあげますから――とは、言えないけれど。
「そういえば」
気まずさを打ち破るべく口を開いた。普段なら黙ったままで済ますところだったろうが、そもそも気まずいなどと思う時点で、自分がこの先輩アイドルにただならぬ負い目を感じているのだと分かった。いや、感じているのは引け目の方だったか。
53 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:40:01.11 ID:6NLLeJ5C0
「はい」
文香は首を傾げ、その為に大きな瞳が露わになった。《そう≠「えば》とは、どう≠ィっしゃったのでしたっけ――というような表情だ。
「ん…… 《ところで》と言うべきでした」言葉の女神に釈明してから、「読書のお邪魔をしましたね。すみませんでした」
「いえ…… 只今のこうした機会にこそ、代え難いものは、ありますから。読書ならば、また時間を作ればよいのです」
「そうでしたか」
「……それより、その…… お見苦しい所を」
「そのようなことは…… 毅然としていましたよ。アイドルだな、と思いました」
「そ、そうでしょうか」
「ええ。それで、時間を奪ったお詫びにはなりませんが、今でしたら本を読んでいて頂いて構わないのですよ」
54 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:40:31.48 ID:6NLLeJ5C0
千夜自身の事ながら、心からの親切を提案出来たものだ。そうして貰わないとこちらが気を遣うのでね、とまでは言い添えなかったが。
「はい、ありがとうございます」
文香は言ったが、不安そうに自分のトートバッグと、車内上方のモニターを交互に見比べた。バッグには『神田古本まつり』のプリントがされ、モニターには次に止まる駅が――『渋谷』と大きく――表示されている。
彼女は再び口を開いた。
「あの…… こうして、窓の外を見ているのも、楽しいものですから」
「ただの灰色の街並みですが」
「はい、でも……」
「それもあいにく、曇りです」
「はい、でも……」
「上も下も灰色ですね」
「……灰色が、好きなのです」
「ん……」
「……?」
「あまり似つかわしくありませんよ、貴女には」
55 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:41:12.78 ID:6NLLeJ5C0
「……えっと……」
困惑した声色に、千夜はまたぞろ内省を余儀無くされた。どうも近頃、かっとなるようだ。
「いえ…… 美しいものには美しいものの、灰色には灰色の世界があるものですよ」
聞いて、帽子を触っていた文香は顔を傾け、こちらをじっと覗き込んだ。影が、かえって探るような瞳を印象付けた。千夜の表情や所作ではなく、ここにない紅を追っているのだと分かった。
「千夜さんは、…… いえ」
彼女は言葉を切ると、考え直します、というように一旦顔を伏せてから、また言った。
「白状します。……本を読み出すと、乗り過ごしてしまうのでは、と」
56 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:42:37.47 ID:6NLLeJ5C0
やたら真に迫った声がおかしかった。見れば、頬など染めている。まさか、文香にとってこれが重大かつ恥ずべき悪徳だったのだろうか。千夜は笑いを堪えた。
「それくらいのことなら、」
私が教えますよ、と言おうとして、先の中庭で、文香の読書が妨害された際のいきさつを思い出した。彼女はちとせが耳元に接近するまで、全く気付かなかったのではないか。
「少々、没頭してしまう方で……」
「成る程」
千夜が囁いても無駄なのだろう、と頷いた。といってちとせを真似て下手に触れでもすれば、また叫んで本を放り出しかねないのではないか、それも電車の中で。そうも目立ってしまえば、キャスケット帽さえ一体何の役に立つものだろう。
快適な読書から安全な降車まで、あなたに寄り添う安心の白雪保証です――などと出来ない宣伝をするのは賢明ではあるまい。
57 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:43:12.05 ID:6NLLeJ5C0
「一度など、あまりに熱中しすぎて、ご苦労をお掛けしたプロデューサーさんに、怒られてしまいました…… 《男がいる時は何も読むなよ》と」
「では、今こそ言いつけを守らなくてはいけませんね」
「はい…… それで、私は、聞いたのです。《男性というのでは、では、プロデューサーさんは?》」
「聞いていませんが」
「いえ、確かに聞きました。プロデューサーさんは…… 《じゃ、僕が守ってやれる時だけな》と」
「ところで=v
58 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:45:30.16 ID:6NLLeJ5C0
嬉しそうな文香には悪くとも、千夜は話題を変えなければならなかった。≪プロデューサー≫という単語はいかにも、窓の外を過ぎ去っていくビックカメラやマクドナルドの看板よりも余程、乗客の注意を引くようだ。
「あー、その、……そう」とっておきの言葉に飛びついた。「『アリババと四十人の盗賊』」
59 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:46:15.43 ID:6NLLeJ5C0
渋谷だ。電車が止まり、ドアが開く。人が降り、乗る。
「先日、お話しましたね」
文香が微笑んだ。ドアが閉じる、電車が動く。
60 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:46:54.10 ID:6NLLeJ5C0
「はい、それなのですが。……例えばの話、決まった解釈、というのは無いのですよね」
「解釈、というと、幅がありますね…… 文化的背景に基づく考察、ということでしたら」
「ん…… そう大袈裟なものでもないような」
千夜は訥々と、現状を語った。初っ端の読み合わせに躓き、モルジアナについての解釈、最後の台詞の創作を求められた事、稽古が始まって三週間だが、まったく雲を掴むような心地である事、あまり時間が残されていない事。
61 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:47:24.34 ID:6NLLeJ5C0
「そう、ですね……」
文香は聞き終えると、暫く考え込む様子を見せてから、遠慮為い為い口を開いた。
「あらゆる物語に共通することではありますが…… 決まった解釈というのは、やはり難しいですね。作者個人についての研究をもって、生い立ちや交友、思想や信条を知ったうえで、ひとつの文章に思いを馳せようというのなら、それはよい試みだと思いますが……
ご存知のように、千夜一夜物語は、一人の作者の手になるものでは、ありません。古くから多くの語り手によって、脈々と受け継がれてきた物語の、集合体なのです。『千夜一夜』としての原型の成立は、九世紀頃とされます。
千夜一夜物語が広く知られるようになったのは、一七〇四年からフランスの東洋学者、アントワーヌ・ガランによって公刊された仏語訳版がきっかけです。彼は十五世紀のシリアで作られたと考えられる、手写本を入手し、これを主な底本として翻訳し、千夜一夜物語を西洋の世界に広めました。このガラン版の元になった写本、シリア写本や、ガラン写本と呼ばれているものは、現存する、まとまった千夜一夜物語としては、最も初期の形態に近いものであり、これをさしあたって原典として扱うことは、可能なようですが……
『アリババと四十人の盗賊』については、もう少し複雑なのですよ」
62 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:48:01.27 ID:6NLLeJ5C0
文香は滔々と語る。千夜は頷いた。
「『アリババ』の物語や『アラジン』は、千夜一夜物語の中でも特に有名で、ガラン版にも収録されているものなのですが…… これらは、ガランが底本とした写本には存在しないのです」
「存在しない? 原典には書かれていない物語なのですか?」
「はい。千夜一夜物語は、語り手シェヘラザードが、王に様々な物語を聞かせるという構成で、一夜一夜の区切りがあります。一夜に一つの話、ではなく、三十夜を費やして語られるような物語もあるのですが、こういった構成から、ガランは、物語が『千夜一夜』の文字通り千と一夜の分、存在するものだと考えたのです。しかし、ガランの持つ写本には、二百八十三夜の分しか、ありませんでした。
ガランは残りの物語を求める中で、シリアの男性、ハンナ・ディヤーブと面会し、彼から『アリババ』や『アラジン』の物語を聞き取ったのだといいます。
ですが、これらの物語は、ガランの書き付けが、残存する最古の資料なのです。それ以前のもので、ハンナ・ディヤーブが語ったとされる『アリババ』などの出典といえるような資料は、ありません。従って『アリババと四十人の盗賊』、また『アラジン』の物語は、その初出、原典が、フランス人のアントワーヌ・ガランによる、仏語訳の千夜一夜物語、『ミル・エ・ユンヌ・ニュイ』だ、という事になるのです。
……ゆえに、これらの物語は、ガランの創作によるものではないか、と疑いを受け、正当な千夜一夜物語、アラブ世界で脈々と口承されて来た、物語群の一部としてではなく、外典として扱われることが、あるようです。研究者ミア・ゲルハルトによれば、これらはアラビア語の原典を持たない、という意味で、『孤児の物語』である、と」
63 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:48:26.65 ID:6NLLeJ5C0
外典とされる、『孤児の物語』。その言葉が時間を止めてしまった、と思った。少なくとも電車は動いていなかった。遠くで事情を説明するアナウンスが流れている。線路内の安全がどうだとか……。
「アラブ出身かフランス出身かも曖昧というのでは…… ますます、ナンセンスなようですね。この物語の背景だの、モルジアナの気持ちを考えてみよう、などと」
「面白い試みだと、思います。それこそ、読むということ、というような」
「あの男こそ、何を考えているのだろうな」
独り言のように溢した。無理難題を押し付けられるのは、これが初めてではないけれど。むしろ、アイドルというやつを始めてから、無理でなかったことの方が珍しいのかもしれない。
文香は満面の笑みをもって迎えた。
「どうでしょう。分かりかねますが…… ですが、プロデューサーさんは、とても良いことをお考えなのだと思います」
「そうかな」
「こうして、千夜さんが思い悩んでいる事が、大切なのでは、と。千夜さんにとって重要でない事柄ならば、悩む必要もない筈ですから…… 元の台詞に納得出来なかったのは、千夜さんの中の、見出すべき何かが、何かの言葉が、翼を得ようと踠いている事が、分かったからなのでは、ないでしょうか…… そういう機会に巡り合えるよう、背中を押して下さったのですよ」
「ふうん。罠に嵌められたとばかり思っていたな」
「……ええと」顔を赤らめ、彼女は返す。「……そういう事も、なさいますけど。……時々、ですよ。でも、必ず、私たちの為になることをお考えです」
「そうなのですか」
何をされたのか、とは訊かないでおいた。千夜にも心当たりはある。
それよりは、目の前の問題にまったく掴みどころがないという実感に圧倒されつつあった。これはやはり、誰にも頼めないことなのだ。
64 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:50:10.15 ID:6NLLeJ5C0
「はあ、モルジアナがここにいたらな。……ここにいたら、話を聞かせてもらうのに」
「はい…… ふふ、そうですね」弾ませて言う。「……小さな真珠。美しき奴隷。叡智と武勇、献身の人」
「そう言われてみると、つくづく役者不足ですね」
「そのようなことは、ないと、思います。……話がしたい、ものですね」
65 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:50:57.49 ID:6NLLeJ5C0
電車は動き出していた。車窓に区切られ、灰色の空が、街並みが、高架橋が、マンションが、後へ後へと流れていく。信号の点滅に急かされ、横断歩道を渡る人が居た。あれぐらいの幅は、千夜なら二十歩は掛かる。あの場にいれば必死になって繋ぐだろう距離を、今はただ座ってやり過ごしている。
66 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:51:28.12 ID:6NLLeJ5C0
ぼうっとしていると、文香が囁いた。
「……灰色は、お嫌いですか」
目を遣ると、彼女はまた、千夜に読めない表情を浮かべていた。大きく見開いた瞳は、探るというより、読み解こうとしているような。締まりきらない唇は、閉じ忘れたというより、微笑み忘れているような。
「……いいえ。好きも、嫌いも」
返すと、文香は諦めたように微笑みを見せ、顔を伏せた。
67 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:52:16.85 ID:6NLLeJ5C0
暫時の間、電車の揺れる音だけがあって、
「……あの、やはり、読むのが良いかと」
「『アリババ』を、ですか」
「はい。……脚本だけでは駄目ならば、千夜一夜物語の邦訳のものが、いくつかあります。バートンの英訳版を邦訳したもの、マルドリュスの仏語訳を邦訳したものが、有名です。前嶋信次・池田修による、アラビア語写本からの邦訳、平凡社の『東洋文庫』版というものもあります。ただこれは、『アリババ』については、別巻として収録されてはいますが……」
68 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:52:58.54 ID:6NLLeJ5C0
「それはアラビア語からの邦訳本、なのですよね。その『アリババ』も、アラビア語からの訳なのですか? そうすると……」
「アラビア語原典は、存在しない、という話でしたね。平凡社版の『アリババ』で底本とされているのは、ヴァルシー偽写本≠ニ呼ばれているもので、これには、アラビア語で『アリババ』の物語が記されています。これは一九八四年まで『アリババ』の原典と考えられていたのですが、実際はガラン版以降に成立したもので、ガラン版の仏語の物語をアラビア語に訳したものだと分かっています。つまり、平凡社『東洋文庫』版の『アリババ』は、ガラン版をアラビア語に訳したものを、改めて邦訳したもの、という事になりますね」
「結局、回りくどいのですか」
「ただし、このヴァルシー偽写本には、元のガラン版からすると、イスラムの雰囲気が色濃くなる、展開の突飛な部分に独自の解説を――といっても、殆ど《アッラーの思し召し》の一言ではありますが――挟むなど、大幅な加筆があります。ガランの物語のみならず、独自の口承資料を参照して、書かれた写本の可能性もあるようで、これを底本にした『東洋文庫』版も、必ず参考になりますよ。
……もう一つ、読みやすいのは、西尾哲夫の手になる、ガランの仏語版を訳した、岩波書店のものですね。題を『ガラン版 千一夜物語』」
「ガラン版というと、『アリババ』の初出なのですよね」
「はい。……やはり、これが一番、参考になるかと」
「岩波書店ですか、探してみます」
「これです」
69 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:53:34.78 ID:6NLLeJ5C0
言下の応答にぱちくり、とした目へ示すように、文香はトートバッグから蒼い本を取り出した。事務所のベンチで彼女が読んでいた、そして千夜に救われ墜落の憂き目を見ずに済んだ、例のハードカバーだ――どうも、さっき振りですね。
無人レジにバーコードでも読ませるかのように真っ直ぐ提示された、その背表紙には金色で『ガラン版 千一夜物語 6』と彫られている。薄いフィルムで保護されているのは、文香なりの取り扱いというわけだろう。ふうん、と応じた。
「こういう装丁なのですね。覚えてお――」
「どうぞ」
70 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:54:09.09 ID:6NLLeJ5C0
今度はインターセプト――この女、本のこととなると。
鼻先にぐい、と突き付けられたそれに、しかしかぶりを振った。
「大事な御本でしょう。汚してしまうかも」
「本にとっては、読んで頂けるのが、大事なのです」
「貴女御自身、まだお読みだったと思いますが」
「一言一句までを諳んじようというものでは、ありませんから」
もう何周かはしたらしいと分かった。これでは仕方がない。ここまで嬉々と詰められて断るのでは失礼の感を与えずにはおれまい、まあ書店に赴く手間も省けるし、気を付ければいいか、と丁重に受け取った。
「……ありがとうございます。大切に読んで、早めにお返しします」
「ごゆっくり、お楽しみ下さい」
こんなににんまり笑う人だったか。
ずしり、と重みを感じた。ハードカバーが珍しい訳ではなかったが、こういう高価そうな本は持ち慣れない。所有しているだけで、頁が破れ、表紙が溶け、あるいは灰にでもなってしまいそうだ。
71 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/01(火) 23:54:44.36 ID:6NLLeJ5C0
軽く開いてみると、まだまだ新しい本らしく、軋むような抵抗を感じた。ぱらぱらと頁を捲る。見つけた。『アリババと、女奴隷に殺された四十人の盗賊の話』。思っていたより物騒なタイトルだ。さっと読み進めてみる。
《「強大なるスルタンさま」とシェヘラザードが言いました》――
「乗り換え、ですね……」
言われて千夜ははっとした。というより実際、驚いた。それを言うのは自分の役目だと決め付けていた。話や本に夢中になるのは文香の方だ、と。
電車が止まり、ドアが開く。二人は降り、行く。
――Chapter4 “話がしたいよ[Chorus1]”
72 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 00:55:51.59 ID:tRJaplXx0
カーテンを開けば朝陽が飛び込み、今日の始まる空気が満ち満ちる……とはいかなかった。部屋から見上げる曇天は予報通りで、気持ちの良い陽射しは午後まで御預けのようだった。なんとも気怠い頭を抱えて、ベッドの肌触りが手招きしていて、それでいても朝は朝、やって来たからにはこちらも目を覚まし、今日という日を享受しなければ申し訳が立たない。千夜もそうだし、ちとせもそうだ。
「お嬢様」
真っ白な掛け布団に包まって、というより殆ど埋まっている彼女に声を掛けた。次いで朝食のオーダーを取るのだ。トーストだろうとシャインマスカットだろうとホットチョコレートだろうと、お気の召すままに供する手筈は整っている。
だがちとせは小さく呻いて、新しい朝にそっぽを向いたきりだった。
73 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 00:56:32.68 ID:tRJaplXx0
もう一度呼んで、今度は布団を剥ぎ取った。枕に顔を埋めるようにした彼女は、金色の髪を艶美に、しかし弱々しく乱れさせていた。
様子があまりよろしくない。肩を掴んでひっくり返してやると、苦しげな声を漏らすその顔は、透明な美白というよりいっそ生気がないようだ。
「ん…… おはよう。今日は積極的だね」
紅眼を覗かせ、ちとせは呟く。
「お嬢様、お顔が優れませんよ」
今すぐ医者を呼び出すか、病院に担ぎ込むか――昨夜のうちにもっと様子を見ておくんだった。検討やシミュレーションが頭をぐるぐる回るなか、
「うん、ちょっとくらくらするだけ」
彼女は口を開き、笑う。それから千夜の頬に触れた。その手は、普段なら自由で、いつかは日差しさえ鞄にでも詰めてしまいそうだと思ったものだが、今はむしろ、月下美人、とでも喩えよう程、儚かった。
74 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 00:56:59.83 ID:tRJaplXx0
それでも、薄弱ながら確かに千夜の輪郭を撫でる指に、張り詰めた不安がましになって、口から笑いともため息ともつかないものが漏れた。
不思議だ。確かめられているのか、確かめているのか、分からない。動いていく温度が描くのは、千夜なのに、ちとせだ。
「きっとご無理をなさったのですよ。はしゃぎ過ぎたのです、特に昨日は」
「大丈夫だよ」
「大丈夫といっても、この様子で――」
「魔法使いだから」
「――、……?」
「だから、大丈夫」
75 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 00:58:08.12 ID:tRJaplXx0
はあ、とだけ曖昧に返したが、首をひねった。言意を量りかねている間に、ちとせは畳み掛ける。
「千夜ちゃんが心配してくれて嬉しいな。それで、このまま病人にお説教続ける気? 牧師様を叱る方がマシってものじゃない?」
「あのですね」
「ねえ千夜ちゃん、昨日早く帰ってれば、なんて思ってるでしょ。そんなの私、嫌だからね」
冗談めかして言う。だが、千夜には痛かった。頭に静電気が走って、息が止まる。
ちとせはベッドに倒れ込んで小さく弾むと、歌うような調子をつけて言う。
「のんびりしてれば元気になるよ。のんびりしてから、おいしいコーヒーを飲んだらね。ただちょっと疲れたの。さあ起こさないで、寝かせてよ——そうだな、九月が終わるまで。
……お稽古だったよね、楽しんできてね。いってらっしゃい、私の可愛い千夜ちゃん」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
76 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 00:58:42.37 ID:tRJaplXx0
「プロデューサーさんなら、外回りに出られてますよ」
ちひろは言った。こうとなってから思い出すが、確かに昨日、そんな事を漏らしていた筈だった。すっかり忘れていた、と自分の不手際に軽い落胆を覚える。
千夜は手提げに入った二つの箱を取り出して、彼の雑然とした机に置いた。
「これ、あいつ…… プロデューサーに」
「あら、贈り物?」
緑の制服に身を包んだ事務員は楽しそうに笑った――しかしこのスーツ、明るいな。
千夜は答える。
「いえ、ただの弁償です。あ、片方は確かに贈り物ですが。文香さんからの」
今朝たまたま出くわしたところ、どちらがいいカップか対決≠ヨの緊張のあまり、神経的な痛みをさえ感じ憔悴しきってしまったらしく、文香は千夜に贈答役を押し付け、何処かへ逃げ去ってしまったのだった。
――《紅蒼付ける》と言ったよな? 《望むところだ》と?
ちとせと文香が睨み合っていた筈が、結局土俵に残ったのは千夜ひとりだった。釈然としない。
「千夜ちゃんと文香ちゃんからですね。午後には戻られますから、お伝えしておきますね」
「お願いします」
ちひろはそのまま、はたきを持ち直し、再び千夜を埃責めに処すべく、プロデューサー室のカーテンレールや資料棚を回り始めた。
くしゃみする前にここを出ようか、と思ったところへ、
「プロデューサー、今日も未読スルーだよ。飛鳥ちゃんの方もダメみたい…… あれ?」
77 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:00:24.48 ID:tRJaplXx0
双葉杏がやって来て、辺りを見回した。其方此方に視線を投げ上げて、最後に千夜へ向く。
「プロデューサーは?」
「あいつなら、外回りというやつですよ。まさか、昨日もそう言っていたのをお忘れですか」
「ぐえー、そうだった。まいっか、こんなのいつもの事だし」
「こんなの…… というと」
「志希ちゃん。どーせ二回も三回も稽古に来てないでしょ?」
「ええ、まあ」
一ノ瀬志希については、来るには来ても、いつの間にか姿を消しているというのが大体だった。正直な所、別の頭領役を用意するべきだというのが千夜の意見だ。千夜自らが望んだ仕事ではないにしても、このまま志希がやる気を出さないのでは舞台がおじゃんになるやも、という危うさは、焦燥を覚えさせるものだった。
78 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:01:10.38 ID:tRJaplXx0
そういえば、と思い当たった事を言う。
「今日は盗賊≠ェ集まる日だったかと」
「だー!」驚いたように、「そーだったー! 仮にも売れっ子アイドルが十も二十も集まるチャンスなんてそーそーないじゃん! 流石に今日は志希ちゃん来なきゃやばいよー…… って」杏は頭を抱えていたのを辞め、「何で杏がこんなコト考えなきゃなんないのさ…… 舞台に出る訳でもないのに。ねえ?」
「はあ」
「もー、プロデューサーが捕まえてよーやくめでしょー!」
腕を振る彼女の声がこだまして、「あらあら」とちひろの笑いを誘った。
そのあたり、千夜にもまったく謎だった。杏がどうして志希の面倒を見るなど、ひいては舞台の心配などするものなのか。働きたくない≠ニいう常から彼女の主張するポリシーを思えば、まるで埒外、相反する行動ではなかったか。アンビバレンスというやつだろうか。
ともあれ、杏が何を考えているのだろうと、疑義を申し立てることこそ、千夜にとっては埒外だった。
「いないものに語りかけるのはやめておくことですね」
「はーあ。いいや、杏しーらない。てか、千夜は? 稽古行かないの?」
「これからです。まあ、今日は手短に終わらせて、早めに帰らせて頂きますよ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
79 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:01:36.81 ID:tRJaplXx0
「ここ、荒立ちでは顔を寄せて、内緒話のようにしていましたが……」古澤頼子が囁いた。「ビデオを見たら、もっとそっぽを向いて、肩越しに話す方がいいと思ったんです。ええと、こんな風に」身体を捻る。
「肩越しに、ですか」と返して千夜。頼子に倣って対峙する。
「お、さすが古澤さん」演出家が割って入った。「ボクもそれ言おうと思ってたんだ。うんうん、そっちの方が舞台っぽいよね」
嘯きに、頼子はくすくすと笑って返す。
成る程、と思う。立ち稽古と頼子の提案、それぞれの画を想像すると、後者の方がしっくりくるようだ。多く観ているわけではないが、サスペンスものの映画やドラマでは、内密な話ほどかえって顔を寄せたりはしない、ように思う。すれ違い様に重要な物品を取引したり、背中合わせに情報を交換するようなシーンは何度も見る。機能的な側面をいえば周囲の盗み聞きへの警戒や、関係性を匂わせない為の気遣いという描写でもあるのだろうが、《舞台っぽさ》の為にああやっているのだ、というようにいわれれば、それも千夜の腑に落ちる説明だ。
80 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:02:16.95 ID:tRJaplXx0
「あの…… 千夜さんは、どうでしょう」
頼子が首を傾げてみせた。その囁くような声量と、蒼い光を返す瞳は、安心感とも倦怠感ともいえようデジャヴを覚えさせる。そしてやはり、こそばゆい。逸らしがちに見返す。この自分の仕草も《舞台っぽい》のじゃなかろうか、と思う。
「はい、賛成です。それで行きましょう」
頼子は微笑むと、ババ・ムスタファの立ち位置へ戻って行った。
81 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:02:43.20 ID:tRJaplXx0
アリババの兄カシムは既に裕福な町有数の商人でありながら、強欲にも、魔法の洞窟で財宝を得たアリババを脅し、合言葉を聞き出すと、自分もそこへ向かう。弟と同じか、それ以上の財宝をせしめた筈が、うっかり呪文を忘れ、洞窟に閉じ込められる。
原作では帰ってきた盗賊たちにバラバラにして晒され、今回の舞台での《やさしい》演出では慌てて逃げた為に全身の傷とトラウマを負わされ、迎えに来たアリババの知るところとなる。
アリババはカシムを家に送り届けると、盗賊たちの追撃を躱す為、兄の身に起こったことを隠蔽する必要がある事を告げる。その任命を受けたのがカシムの家の奴隷、賢く美しいモルジアナ。
彼女は知恵を絞ると、主人カシムが病に伏せっているという噂を流してから、街で一番朝早くに開店する老靴屋、ババ・ムスタファの元へ向かう。誰も見ていないところでこっそり金貨を握らせ、秘密裏の仕事を依頼するのだ。
82 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:03:48.02 ID:tRJaplXx0
「では案内の前に、目隠しをさせて頂きます」
「目隠し……? もしやましい仕事なら……」
蒼い眼のムスタファが、取り決めた通り肩越しに返す。
「いいえ、靴屋様。誓って、やましい仕事ではありませんよ」
もう一枚金貨、手を繋ぐように。頼子は注意深く受け取ると、あえて手を遠ざけ、顔も逸らし、突き放すようにしながら流し目で検める。その気配を、千夜は感じる。その鋭いまでの視線、抉るような懐疑は、演技を観るものからも納得を奪う。その小道具を、状況、お約束からして金貨だろう、と考えていたところを、ひょっとしてこの舞台では違うのかもしれない、と。そうして剥がされたレッテルは、最後に頼子が納得してみせることで、実在感へと変わって金貨を顕示する。観客は記号的な理解を奪われ、劇に引き込まれていく。そういう魔力こそが、頼子の目力には秘められている――というのが、千夜の分析だ。きっとこの眼差し一つのために、彼女は今の役に選ばれた。ひょっとしたら、このためにアイドルに選ばれさえした。
83 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:04:25.10 ID:tRJaplXx0
演じながら、あるいは人がそうするのを見ながら、考える。モルジアナは今、誰の、何の為に動いているのだろう。
アリババはまだ主人ではない。カシムの妻だろうか。自分に降りかかる火の粉を振り払う為か。それとも、亡き主人の復讐を果たす為だろうか。守るべきものを守れなかった、奴隷の汚名返上の為に。
モルジアナにとって、そもそもカシムは想うべき存在であったのか。奴隷が、世情からいえば人格を否定されるような支配を受けていたのではなかったろうにせよ、果たして仕えることに満足を見出せる関係性だったのか。千夜に言わせれば、愚かな主人だ。合言葉、それも胡麻≠フ一言だけを忘れる間抜けな最期は、モルジアナの知るところではなかったとはいえ、彼女を含めて奴隷の一人も連れて行かずに結局自滅したのは頂けない。財宝を運ぶにも人手はあった方が良かっただろうし、結果論ながら呪文も忘れずに済んだ筈だ。それは罪の意識の為、他の者に秘密を共有する必要を嫌ったからであっただろうか。それとも、悪事は一人で背負い込むという男気か。
いかに主人が強欲で愚かで、無様な最期を迎えたのだといっても、それは自分を信用しなかったからだと、モルジアナは笑いとばせただろうか。それとも、自分が信用されなかった理由を胸に問うたり、巻き込むまいとした主人の気遣いを汲んだだろうか。
いずれにしても、《モルジアナは主人の死を悲しみました》とか《むしろ内心喜びました》とか、簡明率直にはガランの物語に書かれていない。書かれていないから考えなければならない。考えたところで、モルジアナの気持ちが分からない。想像したくもないのかもしれない。分かる立場になど、身を置いた時点で白雪千夜の破滅ではないだろうか。
84 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage saga]:2020/12/02(水) 01:05:29.23 ID:tRJaplXx0
「千夜さん、もっと前に」
頼子の指摘に頭を下げて、踏み込む。もっと舞台を利用しなければいけなかった。
「まったく、散々連れ回して……」
「ご苦労様でした。もう目隠しをお外ししますが、何をご覧になっても、あまり声などあげられませんよう。その場合、こっちには備えがありますよ」
ベッドに転がる包帯巻き、ということになっている夢見りあむが呻く。
「ンゴゴ! だ、だ、だ、誰だ!よ! 酷いことするつもりだなっ!」
頼子もまた距離を取り、
「ひゃあ! だ、だ、だ、誰なんです!」
舞台上で円を描いて、遠目にりあむを眺め回す。千夜も応え、交差するように動く。
「黙って傷を縫って下さればよろしい。そういうお約束です」
「傷⁉︎ 縫う⁉︎ やだよぅ、痛いよぅ⁉︎」
「黙って縫われていればよろしい」
「塩⁉︎ 塩なんだけど! もっとぼくを労われ! 愛せ!よ!」
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