白雪千夜「アリババと四十人の盗賊?」

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34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:17:48.85 ID:6NLLeJ5C0
 彼が胸中の痛みなど感じさせない、いつも通りの顔をしていただけに、かえって躊躇われるなか、千夜は「あの」と切り出した。

「ん?」
「この度は、すみませんでした」
 ここは誠心誠意と思い、頭も下げた。会釈程度に。
「はは、大丈夫だって。増えたろ?」

 二人が行ってから、千夜はしゃがみ込んだ。いくつかの破片を取り上げ、文字の形を頼ってパズルよろしく重ねてみる。ちゃんとした接着剤があれば、ハリボテぐらいにはなるだろうか。
 それから大きめのものを一つ、ひょっとしたら暖かく感じられはしないかと、手の平に乗せたり指で撫でてみたりした。

 そうこうするうちに、
「プロデューサー、あのカップどこで買ったの?」
「あのカップ? 通販…… いや結局お台場だったかな?」
「ふーん。あれね、死んだお父さんに貰ったことにしといたよ」
「え、父さん? なんで?」
「あ、引退した先輩だっけ。なんでってほら、エモくなるから」
「あんな安物エモくしてどうすんだ」
「懐くよ」
「んなバカな」
「いいでしょ?」
「ああ最高」
 と聞こえて来たので、破片はすぐさま投げ捨てた。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:19:04.15 ID:6NLLeJ5C0


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 掃除を終え、大袈裟な足音で魔法使いとお付きの妖精を威嚇してやって、建物内をひと往復歩き医務室に寄ってから、二階まで行った。渡り廊下で、張られたガラスから曇り空を眺めるちとせ――述べるまでもないが黒埼ちとせ、金髪紅眼の美女――と合流した。

「お疲れ様です」
「おつかれさま♪」

 並んで渡り廊下を行き、ちとせの今日あった事を聞いた。何とかいう横丁のナポリピザを食べに行く約束を志希としただとか、それは一昨日にもした筈の約束だったとか、他愛もない話だった。ちとせは時折、中庭へ目を落とすと、「うーん」と悩ましげな声で間を繋いだ。彼女が見たのはベンチのある方だったと思い、疲れたのか、と聞いたが、ちとせは笑顔でかぶりを振ると、志希が頼んでタバスコを掛けておきながら、およそ百本のうち三本しか食べなかったフライドポテトを誰が処理する羽目になったかを明かした。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:19:31.75 ID:6NLLeJ5C0
 一段落のところで、今度は千夜から切り出す。
「これからお嬢様をお送りしたら、お台場に出掛けたいと思うのですが」
「お台場? うん、いいよ。お買い物?」
「はい」
「魔法使いさん、気に入るといいね」
「はい…… は?」
「千夜ちゃんなら、きっと良いマグカップ買ってあげられるね」
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:20:16.99 ID:6NLLeJ5C0
 心臓が止まったかと思った。その後の全身の血が逆流したような感覚も、千夜の驚愕を表すものだった――私は何を言ったっけ?

「あはっ、可愛い♪ 驚いた?」
「その…… 何故?」
「分かったかって? 千夜ちゃんの事ならぜーんぶお見通しなんだよ?」
「ですが……」
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:20:47.12 ID:6NLLeJ5C0
「左の手の平、怪我してるよね。隠してるけど、握り方とか向け方とか、千夜ちゃんにしては珍しいよ。だから気にしてたら、手袋が切れてるのも見えちゃった。取って。……ほら、やっぱり絆創膏。消毒は? うん、さすが千夜ちゃん。
 じゃあ何で怪我したかっていったら、私が朝、千夜ちゃんのコーヒー褒めたのが原因だと思うの。《魔法使いさんにも淹れてあげたら?》って。ジャズベも持ってったもんね。あはっ、可愛い。それで魔法使いさんのカップを持って来たんだね。それをどうしてか、割っちゃった。
 それで足や脛じゃなく手、それも指じゃなくて手の平を、しかも利き手じゃない方を切ったのは、単に当たったとか、触った以上の事があったのね。きっと、それが魔法使いさんにとって大事なカップだったから。千夜ちゃんは優しいから、形だけでも戻そうとして拾い集めてみたんだね。それで優しさの証拠がここに。うん、とっても綺麗だよ。ここまでが、千夜ちゃんの左手がお喋りしてくれたこと♪

 魔法使いさんも優しいから、カップなんかいいよって言ったと思うけど、千夜ちゃんは気が済まないよね。何処で買ったかまで聞き出した——少しでも、魔法使いさんの大切≠ノ近い物を贈る為に。単に良い物を買うなら、東京にはいくらでも近場のお店があるのに、渋谷でも銀座でもなくお台場なのはそういうわけ。
 こういうことだと思ったから、千夜ちゃんがお台場に代わりのマグカップを買いに出るんだって、分かるんだよ」
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:21:15.24 ID:6NLLeJ5C0
 ちとせは紅く目を細める。千夜は舌を巻いた――また変な遊びを。
 大筋ではあるが、仕草だの二言三言からこうまで見透かされては敵わない。脱帽です、とお辞儀した。

「おっしゃる通りです」
「ね、千夜ちゃんのことなら何でもお見通しなんだから」
「ほんとですね」
「ほんとでしょ。うん、今から行けばいいんじゃない?」
「そういうわけには」
「私なら大丈夫だよ。暗くなっちゃう前に…… そうか」
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:21:54.57 ID:6NLLeJ5C0
 言いながら、ちとせの宝石のような瞳は、一点を注視していた。その表情に妖しいものが宿る。
 視線が射る先、ベンチに腰掛け、鷺沢文香が本を読んでいた。青い装丁を両手一杯に開いている。ちとせは、すすす、と早足で寄って、
「文香ちゃん、こんにちは」

 朗らかな挨拶を意にも介さないようで、文香は依然、活字へ目を落としたままだった。ちとせ嬢は焦ったそうにベンチの裏側まで回って、耳を喰むかという近さでまた「こんにちは」。餌食の首筋を、華美な五指で撫でながら。
 流石にキャッと叫んで、文香は跳ね上がる。持ち主に突き飛ばされ、バサバサはためき宙に舞うハードカバーを受け止めるのが千夜の仕事になった。頁を折らぬよう気を張る――よし、大事無し。
 雪のような頬を上気させ、文香はちとせと対峙した。前髪は慌てた為に乱れたようで、その間から覗く目はどうも恨めしげに感じられた。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:28:35.29 ID:6NLLeJ5C0
「こんにちは」と再三ちとせ、ベンチの背もたれに両肘ついて。
「こ…… こんにちは」
「驚かせてすみませんでした。どうぞ」本を差し出す。
「いえ…… はい、ありがとうございます」受け取る。
「読書してたんだ? 推理はお好き?」
「はあ」
「私と千夜ちゃん、これからお台場に買い物行こうと思うの。何でか当ててみて?」
 文香の困惑した瞳に、
「主に私の用向きなのですが」と左手の絆創膏を見せた——こういうお戯れ、なのでしょう?
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:29:06.32 ID:6NLLeJ5C0
 彼女は深い思索の視線と暫時の逡巡を表した後、
「マグカップ…… でしょうか。……プロデューサーさんの」
「あはっ、名探偵♪ なんでかな?」
「今の時間からの買い物…… というのは、急ぎの用を暗示するものです。買い求めるのは、明日にでも使う物…… 千夜さんの傷が傍証となるのなら、それは今日使う物でもあったかと。強引な帰納ですが、日常使う物、それが壊れ、早急に利便を回復しなければならないのだと、ひとまず仮定しました。

 それから、渋谷や銀座ではなく、お台場という地を決めて指した事から、お二人は、出来るだけ同じ物を、買い戻そうとしているものだと、考えられます。加えて、傷が手の平についている事から、千夜さんがこれを、壊れたのち、一度拾い集めたものだと思われました。これらは、対象の物品の需要が、機能性のみならず、意匠にも基づいている事の証左かと。それも、分かりやすい絵柄などではなく、態々組み立て、読み直し、記憶を新たにしなければならなかったような、英文プリントの類があしらわれている物では…… と。私には、プロデューサーさんのマグカップが、連想されました」
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:29:33.43 ID:6NLLeJ5C0
 千夜は透徹した推理に瞠目したり狼狽しながら、どうもこいつは二枚舌らしい、と自分の左手を眺めまわした。文香が静かに語り終えるのを待ってから、ちとせは声を弾ませる。
「すごいすごい。うん、『千夜ちゃん学』は引き分けだね♪」
 楽しそうな彼女の、そのなんだかよく分からない言葉に、千夜は思わず笑いをこぼした。
「そんなものについては、誰もお嬢様には敵いませんよ」
「『魔法使い学』はどうかな?」
「魔法使い=A……」
「お嬢様?」
 不吉な予感がした。

「それは…… コーネリアス・アグリッパやアレイスター・クロウリーといった史実の…… それとも、ホグワーツ魔法魔術学校で教えるような……?」
「それも楽しいね。魔法使いさんのことだよ、ほら、貴女を勾引かし静謐な楽園から連れ出してしまった、背徳と享楽の徒♪ 《ヘイ可愛子ちゃん、人間のところへようこそ》♪」
「プロデューサー≠ニ理解して下されば。お嬢様、何を?」
「私と文香ちゃん、どっちが魔法使いさんの毎日に居られるか、勝負しようよ」
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:30:10.74 ID:6NLLeJ5C0
 あっけらかん、言い放ったちとせは、しかしその眼を油断なく光らせた。
 対する文香も、また、あっけらかん、の体だった。
「仰ることが、よく……」
「誤魔化すのはだーめっ。それじゃあ私たち、楽しめない」
「お嬢様、私にも分かりませんよ」
「文香ちゃん、言ったよね。魔法使いさんのカップは、毎日使うものだって。ねえ、私たちがカップを買っていったら、それをあの人、毎日、使うんだよ」

 陰った、と思う。千夜は今、文香に焦燥を見た。
「きっと思い出すのね」ちとせ。「毎日だよ。私が下賜したカップに、私を想って膝を突く。それで、何度もキスするの。天使のように純粋で、地獄のように熱いキス」
「それは」遮るように文香。「、…… それは、プロデューサーさんのお決めになること…… ですから。……私の存意の、介在する余地など」

45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:30:47.52 ID:6NLLeJ5C0
「お嬢様、そろそろ」
「ああん、細かいのは嫌いだな。ねえ文香ちゃん。魔法使いさんが文香ちゃんのものになんかならなくたって、今の関係でさえいられれば、幸せだね。だけど、もしあの人が誰か他のヒトのものになったら? 私のものに? その誰かさんが、文香ちゃんの側にいられないよう、あの人を奪っていったら? 美しいものは永遠の喜びでも、人の想いは風なんだよ」

 文香が顔を背けたり、逆に見つめ返そうとする度、ちとせは踊るように移動した。必ず彼女を隣から覗き込み、視線を惑わせる。
「お嬢様、もう行かないと暗くなります」
「それが、……」
「《それがあの人の幸せならば》? 《背中を見つめてさえいれば》? ねえ、文香ちゃんは今が好き? その今が溢れていくかもしれない、その瀬戸際に、ただ立っていればそれを掴んでいられると思う? それとも玉座に縮まって、宮廷道化師の言うがまま? 街が燃えようって時に、《私のせいじゃないから》? この瞬間に迫られているのに――《異議あるものは今申し出よ、さもなくば永遠に沈黙せよ》。もし手遅れになったら、貴女は何処へ行くの?」
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:31:14.62 ID:6NLLeJ5C0
「文香さん、…… こういうお戯れなので、どうかお気に……」
「あはっ、心配ないか。魔法使いさんだもんね? きっとカリフみたいにハーレムを作るよね。あの子もこの子も侍らせて♪ うん、いいよ。あの人が相談して来たら、文香ちゃんを二号に認めてあ――」

「プロデューサーさんは……!」
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:31:47.80 ID:6NLLeJ5C0
 千夜の驚いたことに、彼女はなかなか鋭い語気で挑発に乗った。ちとせもたじろいだ。

 自分自身の怒りにさえ怯えるように、文香は微かに震えているらしかった。
「……プロデューサーさんは、そのような方ではありません。必ず、誠実に…… その、我々の知る誠実さというものに則って…… 一人を、お選びになります」

「そう」と笑って、「誰を選ぶって?」
「、……わっ、わ、…… わた…… 私をっ、…… お選び、下さいます」
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:32:25.62 ID:6NLLeJ5C0
 それはもう、気息奄々、祈りのように溶けていく声だった。千夜は真っ直ぐ見ていられなかった。この緊迫した状況を代わってさえもらえるなら、神谷氏と佐藤氏が直面したという九十七本の激辛ポテト地獄を自分が請け負ったのにと思った。
 ちとせは満足したように文香を眺め回すと、今度は彼女の正面に立った。

「進化しなければ生き残れない。進歩しなければ今さえ守れない。《同じ場所に留まる為には》――」
「《全力で走り続けなければならない》」文香が受けた。「《どこかへ行くならその二倍》――成る程…… 確かに我々は、鏡の国に立っているのです。いわば時という盤の上に」

「あの、文香さん」
「アイドルという世界で、見知らぬ国で、私は、手前味噌ですが、新たな自分を投影すべく、常に全力を尽くして来たつもりです。それは誇りであり…… 誇らなければならない類の、責任でもあるでしょう。ですが、只今という見地に立って改めるに…… それは未だ生存本能の域を、超えはしなかったのかもしれません。
 ……プロモーション、ですか……」

「あはっ♪ 美味しそうになっちゃって。そうだよ女王サマ。決まりだね? 『魔法使い学』の試験は実技――どちらが好みのカップを贈れるか?」
「承知致しました……、女王陛下」
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:34:14.87 ID:6NLLeJ5C0
 ちとせは「いいね」と享楽するように口を歪めた。ゆらり、立って前の彼女を見据える。
「白黒、…… ううん」細められた瞼の中には、皆既月食の血の色が満ち満ちた。「紅蒼つけちゃお?」

 文香も伍した。困惑や躊躇の表情が、眦を決したそれへ変わりゆく様を千夜は見届けた。
「お望みならば、…… いえ」双の青天にちらと、だがありありと霹靂を閃かせ、「望むところです」

 千夜はといえば、肩でも竦めてやろうかと呆れているほかなかった。……
 

――Chapter3 “Cups (Pitch Perfect’s “When I’m Gone”) / Speak Now”
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:38:11.48 ID:6NLLeJ5C0
 東京テレポートとは大それた名前だ、とつまらない冗談のようなことを思った。きっと都内の何処へでも瞬時に移動出来る、もの凄い駅なのだ。
 こんな考えを文香に打ち明けて馬鹿を晒したくはないな、とちょっと調べてみたら、テレポート≠ノは高度に情報化された地域、といった具合の意味があるようだった。

 スマートフォンから目を上げると、文香はようやく券売機との格闘を終えようとしていた。千夜の方は左手の携帯端末をピ、とかざせば改札を通れるが、彼女は普段の通勤通学に使う定期券しか持っていないらしい。車を回してもらえないようなロケだの営業だのも少ないわけではないだろうに、きっと路線図との睨めっこが楽しいのだろう。

 思い当たってそれを見上げてみれば、ちょっと久々の感を覚えた。最近は調べるとしてもスマートフォンで、小さな画面に出発地と到着地、時間と料金が淡々と表示されるのを見るだけだ。縦にも横にも広がる線路の地図を、どこからどこまで進むのか、距離感のようなものを得られるのは、脳裏に旅が広がるのを感じるのは――うん、趣があるかもな。文香にとっては、きっとこんな些細なことからが冒険なのだ。

51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:38:41.55 ID:6NLLeJ5C0
 艱難の果てに獲得した切符を、宝物ですとばかりに両手で握り、世間知らずのシェヘラザードはトコトコ戻って来た。目立たぬように、と急遽借りた(千夜が借りさせた)、腰にベルトの付いたグレーのキャスケット帽が上々の調和を見せている。彼女は恐縮するように言った。
「すみません…… お待たせしました」
「いいえ。行きましょうか」

 返すと、文香は薄く笑んだ。息が浅くなるほど蒼色だ。もっと堂々としていればいいのに、とやはり思う――貴女がそれでは、灰色の立場がないでしょう。
 ともあれ、黄緑のラインが引かれた電車に乗り込んだ。乗客の入りはそれなりにあったが、二人で座ることが出来た。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:39:12.86 ID:6NLLeJ5C0
 二人=Aだ。あれだけ人を挑発しておきながら、去るには《千夜ちゃんが私の僕だから♪》と一言なのだから、ちとせはすごい、千夜には出来ない。彼女が気侭に並べだした手合いの盤面は、今や文香と千夜を彼我に対置しているのだった。その為か、文香が千夜を見る態度がどうも落ち着かないのが居たたまれなかった。

 ――分かりました、負けてあげますから――とは、言えないけれど。

「そういえば」
 気まずさを打ち破るべく口を開いた。普段なら黙ったままで済ますところだったろうが、そもそも気まずいなどと思う時点で、自分がこの先輩アイドルにただならぬ負い目を感じているのだと分かった。いや、感じているのは引け目の方だったか。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:40:01.11 ID:6NLLeJ5C0
「はい」
 文香は首を傾げ、その為に大きな瞳が露わになった。《そう≠「えば》とは、どう≠ィっしゃったのでしたっけ――というような表情だ。

「ん…… 《ところで》と言うべきでした」言葉の女神に釈明してから、「読書のお邪魔をしましたね。すみませんでした」
「いえ…… 只今のこうした機会にこそ、代え難いものは、ありますから。読書ならば、また時間を作ればよいのです」
「そうでしたか」
「……それより、その…… お見苦しい所を」
「そのようなことは…… 毅然としていましたよ。アイドルだな、と思いました」
「そ、そうでしょうか」
「ええ。それで、時間を奪ったお詫びにはなりませんが、今でしたら本を読んでいて頂いて構わないのですよ」
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:40:31.48 ID:6NLLeJ5C0
 千夜自身の事ながら、心からの親切を提案出来たものだ。そうして貰わないとこちらが気を遣うのでね、とまでは言い添えなかったが。
「はい、ありがとうございます」
 文香は言ったが、不安そうに自分のトートバッグと、車内上方のモニターを交互に見比べた。バッグには『神田古本まつり』のプリントがされ、モニターには次に止まる駅が――『渋谷』と大きく――表示されている。

 彼女は再び口を開いた。
「あの…… こうして、窓の外を見ているのも、楽しいものですから」
「ただの灰色の街並みですが」
「はい、でも……」
「それもあいにく、曇りです」
「はい、でも……」
「上も下も灰色ですね」
「……灰色が、好きなのです」
「ん……」
「……?」
「あまり似つかわしくありませんよ、貴女には」
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:41:12.78 ID:6NLLeJ5C0
「……えっと……」
 困惑した声色に、千夜はまたぞろ内省を余儀無くされた。どうも近頃、かっとなるようだ。
「いえ…… 美しいものには美しいものの、灰色には灰色の世界があるものですよ」

 聞いて、帽子を触っていた文香は顔を傾け、こちらをじっと覗き込んだ。影が、かえって探るような瞳を印象付けた。千夜の表情や所作ではなく、ここにない紅を追っているのだと分かった。
「千夜さんは、…… いえ」

 彼女は言葉を切ると、考え直します、というように一旦顔を伏せてから、また言った。
「白状します。……本を読み出すと、乗り過ごしてしまうのでは、と」
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:42:37.47 ID:6NLLeJ5C0
 やたら真に迫った声がおかしかった。見れば、頬など染めている。まさか、文香にとってこれが重大かつ恥ずべき悪徳だったのだろうか。千夜は笑いを堪えた。
「それくらいのことなら、」
 私が教えますよ、と言おうとして、先の中庭で、文香の読書が妨害された際のいきさつを思い出した。彼女はちとせが耳元に接近するまで、全く気付かなかったのではないか。
「少々、没頭してしまう方で……」
「成る程」

 千夜が囁いても無駄なのだろう、と頷いた。といってちとせを真似て下手に触れでもすれば、また叫んで本を放り出しかねないのではないか、それも電車の中で。そうも目立ってしまえば、キャスケット帽さえ一体何の役に立つものだろう。
 快適な読書から安全な降車まで、あなたに寄り添う安心の白雪保証です――などと出来ない宣伝をするのは賢明ではあるまい。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:43:12.05 ID:6NLLeJ5C0
「一度など、あまりに熱中しすぎて、ご苦労をお掛けしたプロデューサーさんに、怒られてしまいました…… 《男がいる時は何も読むなよ》と」
「では、今こそ言いつけを守らなくてはいけませんね」
「はい…… それで、私は、聞いたのです。《男性というのでは、では、プロデューサーさんは?》」
「聞いていませんが」
「いえ、確かに聞きました。プロデューサーさんは…… 《じゃ、僕が守ってやれる時だけな》と」
「ところで=v
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:45:30.16 ID:6NLLeJ5C0
 嬉しそうな文香には悪くとも、千夜は話題を変えなければならなかった。≪プロデューサー≫という単語はいかにも、窓の外を過ぎ去っていくビックカメラやマクドナルドの看板よりも余程、乗客の注意を引くようだ。
「あー、その、……そう」とっておきの言葉に飛びついた。「『アリババと四十人の盗賊』」
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:46:15.43 ID:6NLLeJ5C0
 渋谷だ。電車が止まり、ドアが開く。人が降り、乗る。

「先日、お話しましたね」
 文香が微笑んだ。ドアが閉じる、電車が動く。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:46:54.10 ID:6NLLeJ5C0
「はい、それなのですが。……例えばの話、決まった解釈、というのは無いのですよね」
「解釈、というと、幅がありますね…… 文化的背景に基づく考察、ということでしたら」
「ん…… そう大袈裟なものでもないような」
 千夜は訥々と、現状を語った。初っ端の読み合わせに躓き、モルジアナについての解釈、最後の台詞の創作を求められた事、稽古が始まって三週間だが、まったく雲を掴むような心地である事、あまり時間が残されていない事。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:47:24.34 ID:6NLLeJ5C0
「そう、ですね……」
 文香は聞き終えると、暫く考え込む様子を見せてから、遠慮為い為い口を開いた。
「あらゆる物語に共通することではありますが…… 決まった解釈というのは、やはり難しいですね。作者個人についての研究をもって、生い立ちや交友、思想や信条を知ったうえで、ひとつの文章に思いを馳せようというのなら、それはよい試みだと思いますが……

 ご存知のように、千夜一夜物語は、一人の作者の手になるものでは、ありません。古くから多くの語り手によって、脈々と受け継がれてきた物語の、集合体なのです。『千夜一夜』としての原型の成立は、九世紀頃とされます。

 千夜一夜物語が広く知られるようになったのは、一七〇四年からフランスの東洋学者、アントワーヌ・ガランによって公刊された仏語訳版がきっかけです。彼は十五世紀のシリアで作られたと考えられる、手写本を入手し、これを主な底本として翻訳し、千夜一夜物語を西洋の世界に広めました。このガラン版の元になった写本、シリア写本や、ガラン写本と呼ばれているものは、現存する、まとまった千夜一夜物語としては、最も初期の形態に近いものであり、これをさしあたって原典として扱うことは、可能なようですが……
 『アリババと四十人の盗賊』については、もう少し複雑なのですよ」
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:48:01.27 ID:6NLLeJ5C0
 文香は滔々と語る。千夜は頷いた。
「『アリババ』の物語や『アラジン』は、千夜一夜物語の中でも特に有名で、ガラン版にも収録されているものなのですが…… これらは、ガランが底本とした写本には存在しないのです」
「存在しない? 原典には書かれていない物語なのですか?」
「はい。千夜一夜物語は、語り手シェヘラザードが、王に様々な物語を聞かせるという構成で、一夜一夜の区切りがあります。一夜に一つの話、ではなく、三十夜を費やして語られるような物語もあるのですが、こういった構成から、ガランは、物語が『千夜一夜』の文字通り千と一夜の分、存在するものだと考えたのです。しかし、ガランの持つ写本には、二百八十三夜の分しか、ありませんでした。

 ガランは残りの物語を求める中で、シリアの男性、ハンナ・ディヤーブと面会し、彼から『アリババ』や『アラジン』の物語を聞き取ったのだといいます。
 ですが、これらの物語は、ガランの書き付けが、残存する最古の資料なのです。それ以前のもので、ハンナ・ディヤーブが語ったとされる『アリババ』などの出典といえるような資料は、ありません。従って『アリババと四十人の盗賊』、また『アラジン』の物語は、その初出、原典が、フランス人のアントワーヌ・ガランによる、仏語訳の千夜一夜物語、『ミル・エ・ユンヌ・ニュイ』だ、という事になるのです。

 ……ゆえに、これらの物語は、ガランの創作によるものではないか、と疑いを受け、正当な千夜一夜物語、アラブ世界で脈々と口承されて来た、物語群の一部としてではなく、外典として扱われることが、あるようです。研究者ミア・ゲルハルトによれば、これらはアラビア語の原典を持たない、という意味で、『孤児の物語』である、と」
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:48:26.65 ID:6NLLeJ5C0
 外典とされる、『孤児の物語』。その言葉が時間を止めてしまった、と思った。少なくとも電車は動いていなかった。遠くで事情を説明するアナウンスが流れている。線路内の安全がどうだとか……。

「アラブ出身かフランス出身かも曖昧というのでは…… ますます、ナンセンスなようですね。この物語の背景だの、モルジアナの気持ちを考えてみよう、などと」
「面白い試みだと、思います。それこそ、読むということ、というような」
「あの男こそ、何を考えているのだろうな」
 独り言のように溢した。無理難題を押し付けられるのは、これが初めてではないけれど。むしろ、アイドルというやつを始めてから、無理でなかったことの方が珍しいのかもしれない。

 文香は満面の笑みをもって迎えた。
「どうでしょう。分かりかねますが…… ですが、プロデューサーさんは、とても良いことをお考えなのだと思います」
「そうかな」
「こうして、千夜さんが思い悩んでいる事が、大切なのでは、と。千夜さんにとって重要でない事柄ならば、悩む必要もない筈ですから…… 元の台詞に納得出来なかったのは、千夜さんの中の、見出すべき何かが、何かの言葉が、翼を得ようと踠いている事が、分かったからなのでは、ないでしょうか…… そういう機会に巡り合えるよう、背中を押して下さったのですよ」

「ふうん。罠に嵌められたとばかり思っていたな」
「……ええと」顔を赤らめ、彼女は返す。「……そういう事も、なさいますけど。……時々、ですよ。でも、必ず、私たちの為になることをお考えです」
「そうなのですか」
 何をされたのか、とは訊かないでおいた。千夜にも心当たりはある。
 それよりは、目の前の問題にまったく掴みどころがないという実感に圧倒されつつあった。これはやはり、誰にも頼めないことなのだ。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:50:10.15 ID:6NLLeJ5C0
「はあ、モルジアナがここにいたらな。……ここにいたら、話を聞かせてもらうのに」
「はい…… ふふ、そうですね」弾ませて言う。「……小さな真珠。美しき奴隷。叡智と武勇、献身の人」
「そう言われてみると、つくづく役者不足ですね」
「そのようなことは、ないと、思います。……話がしたい、ものですね」
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:50:57.49 ID:6NLLeJ5C0
 電車は動き出していた。車窓に区切られ、灰色の空が、街並みが、高架橋が、マンションが、後へ後へと流れていく。信号の点滅に急かされ、横断歩道を渡る人が居た。あれぐらいの幅は、千夜なら二十歩は掛かる。あの場にいれば必死になって繋ぐだろう距離を、今はただ座ってやり過ごしている。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:51:28.12 ID:6NLLeJ5C0
 ぼうっとしていると、文香が囁いた。
「……灰色は、お嫌いですか」

 目を遣ると、彼女はまた、千夜に読めない表情を浮かべていた。大きく見開いた瞳は、探るというより、読み解こうとしているような。締まりきらない唇は、閉じ忘れたというより、微笑み忘れているような。
「……いいえ。好きも、嫌いも」
 返すと、文香は諦めたように微笑みを見せ、顔を伏せた。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:52:16.85 ID:6NLLeJ5C0
 暫時の間、電車の揺れる音だけがあって、
「……あの、やはり、読むのが良いかと」
「『アリババ』を、ですか」
「はい。……脚本だけでは駄目ならば、千夜一夜物語の邦訳のものが、いくつかあります。バートンの英訳版を邦訳したもの、マルドリュスの仏語訳を邦訳したものが、有名です。前嶋信次・池田修による、アラビア語写本からの邦訳、平凡社の『東洋文庫』版というものもあります。ただこれは、『アリババ』については、別巻として収録されてはいますが……」
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:52:58.54 ID:6NLLeJ5C0
「それはアラビア語からの邦訳本、なのですよね。その『アリババ』も、アラビア語からの訳なのですか? そうすると……」

「アラビア語原典は、存在しない、という話でしたね。平凡社版の『アリババ』で底本とされているのは、ヴァルシー偽写本≠ニ呼ばれているもので、これには、アラビア語で『アリババ』の物語が記されています。これは一九八四年まで『アリババ』の原典と考えられていたのですが、実際はガラン版以降に成立したもので、ガラン版の仏語の物語をアラビア語に訳したものだと分かっています。つまり、平凡社『東洋文庫』版の『アリババ』は、ガラン版をアラビア語に訳したものを、改めて邦訳したもの、という事になりますね」

「結局、回りくどいのですか」
「ただし、このヴァルシー偽写本には、元のガラン版からすると、イスラムの雰囲気が色濃くなる、展開の突飛な部分に独自の解説を――といっても、殆ど《アッラーの思し召し》の一言ではありますが――挟むなど、大幅な加筆があります。ガランの物語のみならず、独自の口承資料を参照して、書かれた写本の可能性もあるようで、これを底本にした『東洋文庫』版も、必ず参考になりますよ。

 ……もう一つ、読みやすいのは、西尾哲夫の手になる、ガランの仏語版を訳した、岩波書店のものですね。題を『ガラン版 千一夜物語』」

「ガラン版というと、『アリババ』の初出なのですよね」
「はい。……やはり、これが一番、参考になるかと」
「岩波書店ですか、探してみます」
「これです」
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:53:34.78 ID:6NLLeJ5C0
 言下の応答にぱちくり、とした目へ示すように、文香はトートバッグから蒼い本を取り出した。事務所のベンチで彼女が読んでいた、そして千夜に救われ墜落の憂き目を見ずに済んだ、例のハードカバーだ――どうも、さっき振りですね。

 無人レジにバーコードでも読ませるかのように真っ直ぐ提示された、その背表紙には金色で『ガラン版 千一夜物語 6』と彫られている。薄いフィルムで保護されているのは、文香なりの取り扱いというわけだろう。ふうん、と応じた。

「こういう装丁なのですね。覚えてお――」
「どうぞ」
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:54:09.09 ID:6NLLeJ5C0
 今度はインターセプト――この女、本のこととなると。

 鼻先にぐい、と突き付けられたそれに、しかしかぶりを振った。
「大事な御本でしょう。汚してしまうかも」
「本にとっては、読んで頂けるのが、大事なのです」
「貴女御自身、まだお読みだったと思いますが」
「一言一句までを諳んじようというものでは、ありませんから」

 もう何周かはしたらしいと分かった。これでは仕方がない。ここまで嬉々と詰められて断るのでは失礼の感を与えずにはおれまい、まあ書店に赴く手間も省けるし、気を付ければいいか、と丁重に受け取った。
「……ありがとうございます。大切に読んで、早めにお返しします」
「ごゆっくり、お楽しみ下さい」

 こんなににんまり笑う人だったか。
 ずしり、と重みを感じた。ハードカバーが珍しい訳ではなかったが、こういう高価そうな本は持ち慣れない。所有しているだけで、頁が破れ、表紙が溶け、あるいは灰にでもなってしまいそうだ。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/01(火) 23:54:44.36 ID:6NLLeJ5C0
 軽く開いてみると、まだまだ新しい本らしく、軋むような抵抗を感じた。ぱらぱらと頁を捲る。見つけた。『アリババと、女奴隷に殺された四十人の盗賊の話』。思っていたより物騒なタイトルだ。さっと読み進めてみる。
 《「強大なるスルタンさま」とシェヘラザードが言いました》――

「乗り換え、ですね……」

 言われて千夜ははっとした。というより実際、驚いた。それを言うのは自分の役目だと決め付けていた。話や本に夢中になるのは文香の方だ、と。
 電車が止まり、ドアが開く。二人は降り、行く。
 
 
――Chapter4 “話がしたいよ[Chorus1]”
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 00:55:51.59 ID:tRJaplXx0
 カーテンを開けば朝陽が飛び込み、今日の始まる空気が満ち満ちる……とはいかなかった。部屋から見上げる曇天は予報通りで、気持ちの良い陽射しは午後まで御預けのようだった。なんとも気怠い頭を抱えて、ベッドの肌触りが手招きしていて、それでいても朝は朝、やって来たからにはこちらも目を覚まし、今日という日を享受しなければ申し訳が立たない。千夜もそうだし、ちとせもそうだ。

「お嬢様」
 真っ白な掛け布団に包まって、というより殆ど埋まっている彼女に声を掛けた。次いで朝食のオーダーを取るのだ。トーストだろうとシャインマスカットだろうとホットチョコレートだろうと、お気の召すままに供する手筈は整っている。
 
 だがちとせは小さく呻いて、新しい朝にそっぽを向いたきりだった。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 00:56:32.68 ID:tRJaplXx0
 もう一度呼んで、今度は布団を剥ぎ取った。枕に顔を埋めるようにした彼女は、金色の髪を艶美に、しかし弱々しく乱れさせていた。
 様子があまりよろしくない。肩を掴んでひっくり返してやると、苦しげな声を漏らすその顔は、透明な美白というよりいっそ生気がないようだ。

「ん…… おはよう。今日は積極的だね」
 紅眼を覗かせ、ちとせは呟く。
「お嬢様、お顔が優れませんよ」
 今すぐ医者を呼び出すか、病院に担ぎ込むか――昨夜のうちにもっと様子を見ておくんだった。検討やシミュレーションが頭をぐるぐる回るなか、
「うん、ちょっとくらくらするだけ」

 彼女は口を開き、笑う。それから千夜の頬に触れた。その手は、普段なら自由で、いつかは日差しさえ鞄にでも詰めてしまいそうだと思ったものだが、今はむしろ、月下美人、とでも喩えよう程、儚かった。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 00:56:59.83 ID:tRJaplXx0
 それでも、薄弱ながら確かに千夜の輪郭を撫でる指に、張り詰めた不安がましになって、口から笑いともため息ともつかないものが漏れた。
 不思議だ。確かめられているのか、確かめているのか、分からない。動いていく温度が描くのは、千夜なのに、ちとせだ。

「きっとご無理をなさったのですよ。はしゃぎ過ぎたのです、特に昨日は」
「大丈夫だよ」
「大丈夫といっても、この様子で――」
「魔法使いだから」
「――、……?」
「だから、大丈夫」
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 00:58:08.12 ID:tRJaplXx0
 はあ、とだけ曖昧に返したが、首をひねった。言意を量りかねている間に、ちとせは畳み掛ける。

「千夜ちゃんが心配してくれて嬉しいな。それで、このまま病人にお説教続ける気? 牧師様を叱る方がマシってものじゃない?」
「あのですね」
「ねえ千夜ちゃん、昨日早く帰ってれば、なんて思ってるでしょ。そんなの私、嫌だからね」

 冗談めかして言う。だが、千夜には痛かった。頭に静電気が走って、息が止まる。

 ちとせはベッドに倒れ込んで小さく弾むと、歌うような調子をつけて言う。
「のんびりしてれば元気になるよ。のんびりしてから、おいしいコーヒーを飲んだらね。ただちょっと疲れたの。さあ起こさないで、寝かせてよ——そうだな、九月が終わるまで。
 ……お稽古だったよね、楽しんできてね。いってらっしゃい、私の可愛い千夜ちゃん」
 
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 00:58:42.37 ID:tRJaplXx0
「プロデューサーさんなら、外回りに出られてますよ」

 ちひろは言った。こうとなってから思い出すが、確かに昨日、そんな事を漏らしていた筈だった。すっかり忘れていた、と自分の不手際に軽い落胆を覚える。
 千夜は手提げに入った二つの箱を取り出して、彼の雑然とした机に置いた。

「これ、あいつ…… プロデューサーに」
「あら、贈り物?」
 緑の制服に身を包んだ事務員は楽しそうに笑った――しかしこのスーツ、明るいな。

 千夜は答える。
「いえ、ただの弁償です。あ、片方は確かに贈り物ですが。文香さんからの」

 今朝たまたま出くわしたところ、どちらがいいカップか対決≠ヨの緊張のあまり、神経的な痛みをさえ感じ憔悴しきってしまったらしく、文香は千夜に贈答役を押し付け、何処かへ逃げ去ってしまったのだった。
 ――《紅蒼付ける》と言ったよな? 《望むところだ》と?
 ちとせと文香が睨み合っていた筈が、結局土俵に残ったのは千夜ひとりだった。釈然としない。

「千夜ちゃんと文香ちゃんからですね。午後には戻られますから、お伝えしておきますね」
「お願いします」

 ちひろはそのまま、はたきを持ち直し、再び千夜を埃責めに処すべく、プロデューサー室のカーテンレールや資料棚を回り始めた。
 くしゃみする前にここを出ようか、と思ったところへ、

「プロデューサー、今日も未読スルーだよ。飛鳥ちゃんの方もダメみたい…… あれ?」
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:00:24.48 ID:tRJaplXx0
 双葉杏がやって来て、辺りを見回した。其方此方に視線を投げ上げて、最後に千夜へ向く。

「プロデューサーは?」
「あいつなら、外回りというやつですよ。まさか、昨日もそう言っていたのをお忘れですか」
「ぐえー、そうだった。まいっか、こんなのいつもの事だし」
「こんなの…… というと」
「志希ちゃん。どーせ二回も三回も稽古に来てないでしょ?」
「ええ、まあ」

 一ノ瀬志希については、来るには来ても、いつの間にか姿を消しているというのが大体だった。正直な所、別の頭領役を用意するべきだというのが千夜の意見だ。千夜自らが望んだ仕事ではないにしても、このまま志希がやる気を出さないのでは舞台がおじゃんになるやも、という危うさは、焦燥を覚えさせるものだった。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:01:10.38 ID:tRJaplXx0
 そういえば、と思い当たった事を言う。
「今日は盗賊≠ェ集まる日だったかと」
「だー!」驚いたように、「そーだったー! 仮にも売れっ子アイドルが十も二十も集まるチャンスなんてそーそーないじゃん! 流石に今日は志希ちゃん来なきゃやばいよー…… って」杏は頭を抱えていたのを辞め、「何で杏がこんなコト考えなきゃなんないのさ…… 舞台に出る訳でもないのに。ねえ?」
「はあ」
「もー、プロデューサーが捕まえてよーやくめでしょー!」
 腕を振る彼女の声がこだまして、「あらあら」とちひろの笑いを誘った。

 そのあたり、千夜にもまったく謎だった。杏がどうして志希の面倒を見るなど、ひいては舞台の心配などするものなのか。働きたくない≠ニいう常から彼女の主張するポリシーを思えば、まるで埒外、相反する行動ではなかったか。アンビバレンスというやつだろうか。
 ともあれ、杏が何を考えているのだろうと、疑義を申し立てることこそ、千夜にとっては埒外だった。
「いないものに語りかけるのはやめておくことですね」

「はーあ。いいや、杏しーらない。てか、千夜は? 稽古行かないの?」
「これからです。まあ、今日は手短に終わらせて、早めに帰らせて頂きますよ」
 
 
  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:01:36.81 ID:tRJaplXx0
「ここ、荒立ちでは顔を寄せて、内緒話のようにしていましたが……」古澤頼子が囁いた。「ビデオを見たら、もっとそっぽを向いて、肩越しに話す方がいいと思ったんです。ええと、こんな風に」身体を捻る。

「肩越しに、ですか」と返して千夜。頼子に倣って対峙する。
「お、さすが古澤さん」演出家が割って入った。「ボクもそれ言おうと思ってたんだ。うんうん、そっちの方が舞台っぽいよね」
 嘯きに、頼子はくすくすと笑って返す。

 成る程、と思う。立ち稽古と頼子の提案、それぞれの画を想像すると、後者の方がしっくりくるようだ。多く観ているわけではないが、サスペンスものの映画やドラマでは、内密な話ほどかえって顔を寄せたりはしない、ように思う。すれ違い様に重要な物品を取引したり、背中合わせに情報を交換するようなシーンは何度も見る。機能的な側面をいえば周囲の盗み聞きへの警戒や、関係性を匂わせない為の気遣いという描写でもあるのだろうが、《舞台っぽさ》の為にああやっているのだ、というようにいわれれば、それも千夜の腑に落ちる説明だ。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:02:16.95 ID:tRJaplXx0
「あの…… 千夜さんは、どうでしょう」
 頼子が首を傾げてみせた。その囁くような声量と、蒼い光を返す瞳は、安心感とも倦怠感ともいえようデジャヴを覚えさせる。そしてやはり、こそばゆい。逸らしがちに見返す。この自分の仕草も《舞台っぽい》のじゃなかろうか、と思う。

「はい、賛成です。それで行きましょう」
 頼子は微笑むと、ババ・ムスタファの立ち位置へ戻って行った。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:02:43.20 ID:tRJaplXx0
 アリババの兄カシムは既に裕福な町有数の商人でありながら、強欲にも、魔法の洞窟で財宝を得たアリババを脅し、合言葉を聞き出すと、自分もそこへ向かう。弟と同じか、それ以上の財宝をせしめた筈が、うっかり呪文を忘れ、洞窟に閉じ込められる。
 原作では帰ってきた盗賊たちにバラバラにして晒され、今回の舞台での《やさしい》演出では慌てて逃げた為に全身の傷とトラウマを負わされ、迎えに来たアリババの知るところとなる。

 アリババはカシムを家に送り届けると、盗賊たちの追撃を躱す為、兄の身に起こったことを隠蔽する必要がある事を告げる。その任命を受けたのがカシムの家の奴隷、賢く美しいモルジアナ。

 彼女は知恵を絞ると、主人カシムが病に伏せっているという噂を流してから、街で一番朝早くに開店する老靴屋、ババ・ムスタファの元へ向かう。誰も見ていないところでこっそり金貨を握らせ、秘密裏の仕事を依頼するのだ。
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:03:48.02 ID:tRJaplXx0
「では案内の前に、目隠しをさせて頂きます」
「目隠し……? もしやましい仕事なら……」
 蒼い眼のムスタファが、取り決めた通り肩越しに返す。
「いいえ、靴屋様。誓って、やましい仕事ではありませんよ」

 もう一枚金貨、手を繋ぐように。頼子は注意深く受け取ると、あえて手を遠ざけ、顔も逸らし、突き放すようにしながら流し目で検める。その気配を、千夜は感じる。その鋭いまでの視線、抉るような懐疑は、演技を観るものからも納得を奪う。その小道具を、状況、お約束からして金貨だろう、と考えていたところを、ひょっとしてこの舞台では違うのかもしれない、と。そうして剥がされたレッテルは、最後に頼子が納得してみせることで、実在感へと変わって金貨を顕示する。観客は記号的な理解を奪われ、劇に引き込まれていく。そういう魔力こそが、頼子の目力には秘められている――というのが、千夜の分析だ。きっとこの眼差し一つのために、彼女は今の役に選ばれた。ひょっとしたら、このためにアイドルに選ばれさえした。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:04:25.10 ID:tRJaplXx0
 演じながら、あるいは人がそうするのを見ながら、考える。モルジアナは今、誰の、何の為に動いているのだろう。

 アリババはまだ主人ではない。カシムの妻だろうか。自分に降りかかる火の粉を振り払う為か。それとも、亡き主人の復讐を果たす為だろうか。守るべきものを守れなかった、奴隷の汚名返上の為に。

 モルジアナにとって、そもそもカシムは想うべき存在であったのか。奴隷が、世情からいえば人格を否定されるような支配を受けていたのではなかったろうにせよ、果たして仕えることに満足を見出せる関係性だったのか。千夜に言わせれば、愚かな主人だ。合言葉、それも胡麻≠フ一言だけを忘れる間抜けな最期は、モルジアナの知るところではなかったとはいえ、彼女を含めて奴隷の一人も連れて行かずに結局自滅したのは頂けない。財宝を運ぶにも人手はあった方が良かっただろうし、結果論ながら呪文も忘れずに済んだ筈だ。それは罪の意識の為、他の者に秘密を共有する必要を嫌ったからであっただろうか。それとも、悪事は一人で背負い込むという男気か。

 いかに主人が強欲で愚かで、無様な最期を迎えたのだといっても、それは自分を信用しなかったからだと、モルジアナは笑いとばせただろうか。それとも、自分が信用されなかった理由を胸に問うたり、巻き込むまいとした主人の気遣いを汲んだだろうか。

 いずれにしても、《モルジアナは主人の死を悲しみました》とか《むしろ内心喜びました》とか、簡明率直にはガランの物語に書かれていない。書かれていないから考えなければならない。考えたところで、モルジアナの気持ちが分からない。想像したくもないのかもしれない。分かる立場になど、身を置いた時点で白雪千夜の破滅ではないだろうか。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:05:29.23 ID:tRJaplXx0
「千夜さん、もっと前に」

 頼子の指摘に頭を下げて、踏み込む。もっと舞台を利用しなければいけなかった。
「まったく、散々連れ回して……」 
「ご苦労様でした。もう目隠しをお外ししますが、何をご覧になっても、あまり声などあげられませんよう。その場合、こっちには備えがありますよ」
 ベッドに転がる包帯巻き、ということになっている夢見りあむが呻く。
「ンゴゴ! だ、だ、だ、誰だ!よ! 酷いことするつもりだなっ!」

 頼子もまた距離を取り、
「ひゃあ! だ、だ、だ、誰なんです!」
 舞台上で円を描いて、遠目にりあむを眺め回す。千夜も応え、交差するように動く。

「黙って傷を縫って下さればよろしい。そういうお約束です」
「傷⁉︎ 縫う⁉︎ やだよぅ、痛いよぅ⁉︎」
「黙って縫われていればよろしい」
「塩⁉︎ 塩なんだけど! もっとぼくを労われ! 愛せ!よ!」
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:06:29.35 ID:tRJaplXx0
 やがてシーンが終わり、次の稽古の為に小休止を挟むことになった。水分を摂りながら反省を重ねる。多分、これでは駄目だ。暗い気分が、なんとなく雑然とした空間の中で、千夜を一人だけ切り取ったように包む。次はせめて集中しなくてはならない、と思う。
 思い悩むところへ、りあむがやって来た。

「エへへ、あの」
「はい」
 彼女は神経質に眼を動かし、瞬きを繰り返す。
「千夜ちゃんはさぁ」

 そうか、この人に気を遣われてしまうのか。
 そんなに自分は悩ましく見えるのか。実際、悩ましくはあるけれど。
 ――余計なお世話だな。お礼を言うの、面倒くさいな。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:07:17.02 ID:tRJaplXx0
「千夜ちゃんは鰤でいったらネムだよね(笑)」
「は?」
「アッごめ」
「いやあ、楽しそうだねぇ」
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:07:42.48 ID:tRJaplXx0
 演出家の先生がやってきて、目に朗らかな小皺を寄せた。
「白雪さん、上手くいかない実感あるでしょ?」
 素直に首肯する。
「……はい」
「空間に負けてるんだよ。姿勢は意識して、でも力は抜いて、ね」
 千夜はまた頷いて、出来るだけ心に留めようと試みた。
「今日はその為の、見られるのに慣れる練習だからさ」
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:08:39.52 ID:tRJaplXx0
 それから、また稽古の舞台に上がった。座った大勢の盗賊≠スちに見守られながら、物語の続きを演じる。
 《千夜ちゃん》だの《千夜》だのと声援があった。結構な年下からちゃん付けに呼び捨てか、とも思ったが、アイドルとしてはこちらが後輩だし、そもそもさして嫌でもない。可愛いモノ扱いが板に付いているんだな、と内心苦笑する。あの愛情表現を惜しまないちとせと暮らしていたのでは、常日頃から彼女のアイドルをやっていたようなものだったのかもしれない。

 ――アイドルか、と思う。ちとせは自分に何を見ているのだろう。珊瑚のような瞳の内奥に、千夜を打った光はどんな像を結ぶのだろう。知りたい。成りたい。一ミリだけでも近付きたい。まだ見ぬ偶像に、珊瑚の奥に。それ以外、想いがない。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:09:29.09 ID:tRJaplXx0
 とりあえずは目の前の稽古。ババ・ムスタファというのがお調子者で、モルジアナの口止めなど意に介さず、街へ一人で潜入した変装姿の盗賊に、奇妙な仕事について明かしてしまう。財宝を盗んだアリババを狙う盗賊は金貨を差し出し、ムスタファに案内を依頼する。彼はカシムの家に行くまで目隠しをしていた事から一旦断るも、もう一度目隠しをされることで、なんと以前歩いた道を思い出し、盗賊をカシムの家まで導いてしまう。

「……いけませんね。ここで右だったか、左だったか……」
「ああもう、これだろッ! 五枚目だぞッ! これで辿り着けなかったら、タダじゃ――」
「思い出した、ここを真っ直ぐです。そして…… そうそう、ここだった!」

 盗賊は喜びながら、周囲に似たような門の家が多くある事に気付き、目標を見失わないよう、対策を講じる。チョークを用いて、カシムの家に印を付けておくのだ。
 これでばっちりと意気揚々、仲間の元へ去っていったところへ、モルジアナは帰ってくる。目敏い彼女は、門の印にも気付き、注意を払う。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:10:04.45 ID:tRJaplXx0
「これは、何でしょう。近所の子供のいたずら書きか、それとも……」

「こ、これはッ‼︎」横から覗き込んだアリババが大声を上げた。「なんと禍々しいっ! 二本の角にニタリと剥き出しの歯っ!」
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:10:37.42 ID:tRJaplXx0
「そうですか? サインか何かのような……」
 台詞を返しながら、少々気圧される。というより、調子を乱される――その立ち位置、舞台が狭くならないか。

「そしてこの眼帯! いいえ、これは邪悪な精霊の似顔絵! 悪魔降臨の儀式です!」
 ――離れ過ぎ。どこの政治家の演説だ。

「悪魔? 猫のようにも……」
「モルジアナ! この邪悪な儀式を止めなくては!」
 ――詰め過ぎ。余計な緩急が付いてしまうのでは。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:11:11.96 ID:tRJaplXx0
「ふむ、儀式とやらはともかく、これは盗賊が付けた目印かもしれない。なんとか誤魔化しておこう」
 千夜なりに立ち位置を考えながら、見せ方を調整する。それを安斎都はしっちゃかめっちゃかに乱す。付いていっては豆鉄砲を食って、の繰り返し。奔放なアリババは千夜を振り回しながら、その苦労など意にも介さず笑った。
「盗賊? あっはっは、そんな筈はありません。そこはモルジアナがしっかり対処してくれたでしょう」
「アリババ様…… いえ、ともかく、綺麗に消している暇があるかどうか。それより、これと同じサインを近所の家々に付けておきましょう」
「待った! この悪魔を増やすですと⁉︎」
「ああもう、私一人でやりますよ」
「ありましたよ、チョーク」
「やるんですか?」
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:11:37.90 ID:tRJaplXx0
 言いようのない疲労感を抱え、今度は盗賊たちの場を観る側に回る。先に来た一人が仲間たちを引き連れるも、モルジアナの機転によって、盗賊の印は意味を失っていた。彼らは目的の家を見失い、案内役は仲間たちに無駄足を踏ませた責任を取らされる。

 コメディ調にアレンジされたシーンを眺めながら、都と頼子が小さく反省しているのを聞いた。
「なんだか冴えなかったと思うんです」
「え、なぜ? 都ちゃん、とっても良かったじゃないですか」
「立ち位置なんです。印を見せながらポーズのキレを保つのが難しい!」
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:12:07.71 ID:tRJaplXx0
 ――ふうん。まさか、考えがあったのだとは。
「成る程。でも、元気たっぷりにやればきっと大丈夫ですね」
「ええ! 他はバッチリですから!」
「いいえ。あんな出来では、また抜き稽古になりますよ」
 つい、口を挟む。

「抜き稽古?」と都。
「今やっていることです。練習が必要なシーンを抜き出して稽古するんです」答えて頼子。
「出来が悪いシーンをね」
「へえ!」都が笑う。「じゃあ、練習する機会が増えて良いじゃないですか!」
「違う。赤点だから補習を受ける、という事です」
「赤点? ええ、そんなに悪かったんですか?」
「誰のせいだと……」
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:12:52.55 ID:tRJaplXx0
 段々、追い詰められているような気持ちがした。眼前の少女の手綱をとろうとして、その明るさの為に、余計にボロボロになっていく。心が狭くなったのか? 自分が悪いのか?
「次はもっと元気に動き回ってみますね。そしたらきっとポーズも……」
「冗談じゃない」

 しまった、まただ。息苦しい。耐えられない。最近すぐ、かっとなる――
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:13:22.31 ID:tRJaplXx0
「千夜さん……」
 頼子が止めようとしてるのが分かった。構わず都に詰め寄る。
「自分の好きに動くのも結構ですが、それで割りを食うのはこちらだ」

 きょとん、とした顔がまだ憎い。もっと恐がれ――
 
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:13:49.74 ID:tRJaplXx0
「はっきり言って迷――」
「白雪さん」
 ――
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:14:19.54 ID:tRJaplXx0
 演出家の一言が、千夜を止めた。そうさせるだけの、静かで優しく、厳しい声だった。
 先生はそのまま、千夜の顔を覗き込む。朗らかさは忘れず、しかし眼で笑うこともせず、問う。
「白雪さんはさ、誰に怒りたいのかな?」

 答えられず、沈黙したままになる。見つめ返すのが精一杯だった。
「ヤダなぁ、坊さんみたいだ」照れ臭そうに頭を掻きながら、先生は笑った。「よし、白雪さん、休憩にする? 外の空気吸ってきてもいいよ」
 千夜は頷いて、さっさと振り返って扉へ向かった。

 誰に怒る? 都に? 違う。違う筈だ。自分の考えを実現することに固執していただけだ。周りの、安斎都の考えと折り合わせることもせず。相手もアイドルで、自分の見せ方には考えがあるのだという事を気にもせず。認めないから気付かない。何が調整だ。我がままに相手を振り回そうとして、勝手に疲れていたのはこっちだ。

 ぼんやりした頭を抱えて、足元ばかり見ていたのに、何度か躓いた。
 
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:15:18.38 ID:tRJaplXx0
 建物を囲む打ちっぱなしの塀を隔てて、都会の喧騒を耳にしていた。車が行き交い、忙しない足音が響いたり止まったり、察するに今、信号が赤になったところだ。風が街路樹を揺らす。時々鳥の声もする。自販機で買ったミルクティーは、開ける気にならずジャージのポケットだ。

 稽古は上手くいかない。考えるべきことも手につかない。現実は理想とやらと乖離して、問題ばかりが山積みらしい。それでもちょっと頭を冷やしたら、また戻っていかなければならない。

 歩いていても、コンクリートは代わり映えがしない。ヒビとかシミとか、もっと面白い形になってくれればいいのに、と思う。ぼうっと頭を動かしていると、土の色。煉瓦に囲まれたそこに、名前は知らないがピンクの花と、黄緑の大きい葉。

 そこで視界に違和感を覚え、つと目をやった。
 花壇にうずくまる人影がある。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:15:48.32 ID:tRJaplXx0
 これに驚いて、熱中症でもやって倒れたか、と反射的に駆け寄った、……のが大きな間違いだった。しなやかな体躯に、ピンクを混ぜたような紫の髪、鼻孔をくすぐる甘くて辛い、刺々しくも茫洋な香り――

 一ノ瀬志希は、千夜に気付いたらしく「ん」と発し、顔も向けず続けた。

「そこでな〜にをしてるのかにゃ〜?」
「こちらの台詞なのですが」
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:16:18.72 ID:tRJaplXx0
 鋭く指摘してやると、彼女はこちらに向き直った。悪戯っぽい笑顔は、本人の伸びやかな四肢からすれば違和感を覚える程に子供っぽかった。
「今日ねー、朝起きたの。十二時。そしたらワオ、お稽古だってゆーじゃん?」
「はい」
「だからお花嗅いでた。……お鼻で」
 ――論理学の教授に中指でも突き立てようかという回答だ。

「それは、耳では嗅げないでしょう」
「まあね。あんまりはね?」
「はい」
「全くではないけれど♪」
「いや、全くです」
「うんうん、千夜ちゃんもそう思うよね」
「ん? いや、その全くです≠ナはなく」
「口の方はきけるのにねー」
「はあ。言葉、ですね」
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:16:45.28 ID:tRJaplXx0
 そろそろだ、と思った。ほんの徳義心、社会的道義から彼女を看過するわけにいかなかったのは、千夜が咄嗟に歩み寄り、杞憂をしたのだと分かり後悔の念を覚えた、その瞬間までだったのだから。
「あの」と切り出す。「貴女の具合が悪いのでなければ、お暇します」

「逃げるの?」
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:17:12.94 ID:tRJaplXx0
 言い放つ。
 鋭く刺さった。志希の口調は強くもなく、眼もくりくりとしていたが、……
 逃げるの、ときたものだ。寸鉄千夜を刺した。その場に縛り付けられて、詰まりながら言葉を返す。

「何の話です」
「あたしにだけ答えさせて、千夜ちゃんは質問スルーだなんて」
「質問?」
「《そこでな〜にをしているの?》」
「ですから…… 貴女が蹲っていたので、急病人ではと」
「よくあたしを見つけられたねー」
「けっこう目立ちますよ」
「あたしが言いたいのはね? 《よくもまあ、こんな所であたしに出会えたものだ――お稽古の時間だというのに》」
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:17:39.83 ID:tRJaplXx0
 志希はそうして千夜を刺激し、反応を観測すべくか身体を傾け、其方此方から視線を投げるのだった。時折鼻を動かし、蠱惑的な笑みを浮かべながら。なんとも落ち着かない。
「ちょっと休憩を頂いたのですよ。それだけです。あの、いくら私の表情が乏しいとしても、そんな風にじろじろ見られるのは心外なのですが」
「にゃは? ウソついたね」
「嘘? 嘘など」
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:19:30.79 ID:tRJaplXx0
「ばれてないって? 成る程つまり」志希は大仰な身振りを交えて、「あたしという人間を知らないなー? オーケイ、じゃあもう一度だけ説明しよう! あたしの名前は一ノ瀬志希。こう見えて――つまり可憐にして高貴、蝶よ花よの箱入りお嬢様に見えて」――見えますね、まさしく!「――その実はアメリカ留学のギフテッド、更に飛び級のジーニアス! のみならず四十人の盗賊を束ねる決死部隊の長にして天使のカオした破滅愛好家、遠からん者には喜劇、近く寄り見ば悲劇、否認を受け持つ守護聖人、イワテの聖シキー!
 あたしはたった今、キミという背徳の仔羊に与えられた森厳なる恩恵を奪うのだ――汝、鶏が鳴く前も鳴いた後も否認する能わざるものなり。呪文もいっとこっか?
 《イフタフ・ヤー・シムシム》♪」
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:20:00.15 ID:tRJaplXx0
 ……
 ――何がなんだか分からない! 千夜は困惑しつつ、ある瞬間、志希の眼に妖しいものを見つけた。ああいう類のカオには覚えがある――戯れ≠セ! ほとんど狼狽え、後退りして距離をとった、が、志希はお見通しというように回り込むと、弾こうとする手も退け、背後から抱き付くように千夜を捕らえた。ぎょっとして、振り払おうと試み、腕を振り回したり身体を屈めてみたり、踵や脛も使ったが、彼女は反射的以上の速さで巧みに受け流してみせると、ついには千夜の両腕をぐいと掴み上げ、抵抗を諦めさせた。

 磷にされたような間抜けなポーズもそうだったが、より屈辱的な気持ちをもたらしたのは、志希が千夜の右の首筋に顔を寄せ、小刻みに鼻を動かしているらしい、その呼吸音を間近に聞かされる事だった。千夜は再度応戦を試み、首に無理を利かせ、顎の骨で志希を押し返そうとしたが、これもすぐ諦めざるを得なかった。じゃれあい以上の効果が現れなかったうえ、傍目から見た自分をより滑稽な存在に仕立てあげているに違いなかったのだ。短い争いが巻き上げたか、土の匂いが少しした。陽光に当てられ、身体が火照りを覚えていた。

107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:20:28.19 ID:tRJaplXx0
 千夜の様子を分かってか、志希は口を開く。
「ハスハス…… ん? にゃはは、無駄な降伏はやめて抵抗しなよ」
「離して頂けませんか。こういう過度な接触は、ちとせお嬢様にだけ仕方なく許しているのです」
「話して欲しい? はーい。あたしには、匂いで千夜ちゃんが嘘ついているのが分かるんだー。キミの否認を、あたしも認めない♪」
「離せと言いました。アイドルに怪我をさせてはと思っていましたが、この際本気を出してもいいのですよ」
「まだまだ、演技で昂めてよ。キミの大脳辺縁系に生まれたモノは視床下部から下垂体・副腎皮質を介して血中に分泌され、ニオイ物質というカタチで皮膚から気流により伝搬、あたしの嗅上皮に溶け込み嗅覚受容体と結合するのだ。パルスは語る――キミは焦ってる。怒ってる。恐れてる。これが《休憩を貰っただけ》だなんて! うーん、ケミカルセンス。ハスハス」
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:21:04.82 ID:tRJaplXx0
 淡々と彼女が語る程、千夜は身の毛がよだつようだった。ハッタリだ、バーナム効果だのショットガンニングだのいうやつだ、と自分に言い聞かせようとしたが、きっともう心で諦めていた。それこそ恐ろしいぐらい、志希は千夜の内面を暴き立つつある。

 今一度、強く拒むと、意外に手応えもなく解放された。振り返り、相対する形になる。
「知ったことではありません、匂いがどうだろうと。そろそろ稽古に戻らなければなりませんから、失礼します」
「何故?」
「……何故?」
「そんな嫌なキモチになってまで何故、どうして、それを続けようとするの?」

「理由など…… 辞めれば皆さんに迷惑が——」
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:21:36.95 ID:tRJaplXx0
 言おうとする千夜を、彼女は目で制止した。憐むような、蔑むような、失望するような目で。

「正義感? 義務感? それとも恐怖感? 望んだ正しい自分でいなきゃならないの? 自分が役に立たない存在だなんて認められないの? ……はあ、理想だの責任だの高潔さだの、ナイフみたいに刺すだけ刺してさ。つまらないとは言わないけど、ツマンナイ。そんなオトナびた理由で足が竦むんなら、あたしがコドモスウィーティーな翼をあげる。否認を奪って、堕落をあげる。そしたら後は跳ぶだけだ。だってさー、疲れたでしょ? 呪文はそうだな、《バウチカバウワウ・ギチギチグー》♪ はいオーケイ。千夜ちゃん、頑張ったね。よくやったね。今までありがとうね、ちゃんと見てたからね。もう大丈夫、どこへでも逃げていいんだよ」
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:22:50.02 ID:tRJaplXx0
 耳鳴りがする。畳み掛ける言葉が飽和する。
「馬鹿な。……馬鹿な」
「そりゃそーだ。あたしは自分もジャンキーの麻取にして、聖歌隊に説教する痴れたヤツなのだ」
「、…… はあ。……それ、増えるのですね。その、肩書き、というか」
「カタガキ、…… カエデ?」
「いいえ」

「どれがホントウのあたしかって? ナンセンス! どれもホントウのあたしだよ。あれもこれもそれもどれも、時にはキミでさえもが、あたしなのだ」
「ナンセンスを言っているのは貴女でしょう」
「That makes sence(それ言えてる)! あたしに任せてよ、とびっきりクレイジーにしてあげる」
「要領を得ないな」
「じゃ次のスマホは256GBにすればー。でもアドバイスが欲しければ一口≠ナ済むよ」
「アドバイス?」
「逃げちゃえ」
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:23:18.07 ID:tRJaplXx0
 それだけ言って、またしゃがむと花壇に興味を戻した……と思いきや、蟻の行列に特別な意味を見出したらしい。
「結局それですか。逃げろと…… 貴女のように?」
「そ」
 軽く挑発しても、千夜ではちとせがやるようにはいかなかった。志希は黒い帯を見つめたままだ。

「どこへ」
「どこに行くか、分かってるでしょ?」と返してから、ぼそり行列の先頭へ、「……うーん、どこに行くんだろーね」
 千夜は黙った。……
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:23:46.53 ID:tRJaplXx0
 暫時の間があり、
「嵐、…… みたいなモンだから」
 ぽつり、志希がこぼした。

 千夜は口を結んで次を待ったが、志希は当分、働き蟻の行軍パターンに自前の化学物質がもたらした乱れを観測しているつもりらしかった。彼女らの行く先に飴でもあればよいが、などと千夜なりの同情を寄せているばかりでは、どうやら《嵐》の先まで辿り着けそうもない。

 仕方なく聞く。
「嵐…… ですか」
 志希はぴくっと肩を震わせると、ゆっくり振り返ってから、心底不思議そうに首を傾げた。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:24:18.03 ID:tRJaplXx0
「え、嵐……?」
「貴女が言ったのですよ」

 空はまったく晴天だ。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:24:49.16 ID:tRJaplXx0
 彼女は、これもゆっくり、立ち上がった。
「こんな風に誰かと喋ったってさ、儚いものだと思わない?」
 聞きたいのか、聞かせたいのか。祈っているのか、呪っているのか。判断に迷う声を、志希は零した。
「かつて嵐だった虹のようで、十二時に解ける魔法のよう。……イマなんてものは、手に入れようと思った瞬間からアタマにしかないんだ。
 Can I get an Amen(キミもそう思うよね)?」
 

――Chapter5 “Stray Heart / Jesus Of Suburbia[V. Tales Of Another Broken Home]”
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:27:07.47 ID:tRJaplXx0
 ぼうっと、思考が痺れていた。甘い頭痛に悩まされながら、不満足な呼吸を繰り返し、いくつかの道路を横断したかしなかったか、いくつかの歩道橋を渡ったか渡らなかったか、認識も目的地も曖昧なまま、ただ本能のようなものに従って、千夜は灰色の街を這いずった。
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:27:36.98 ID:tRJaplXx0
 だから、
「外回りというのは――」

 だから最後には、苛立ちというには刺のない、何か名前のないものを言葉に込めて投げつけた。

「――退屈嫌いにはかえって辛いかもしれませんね。何処へでも行けるのに、それが許されるわけでは決してない。放し飼いの犬です、まるで」
「だな」
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:28:02.62 ID:tRJaplXx0
 資料から目を上げると、プロデューサー室の椅子を軋ませ、彼は千夜に向き直った。まだ新しい、チェックのネクタイを整える。
「気に入ったか?」
「いいえ」
「そっか? 千夜はアイドルだからな」
 けろりと返す。

「アイドル…… か」
 千夜が呟くと、「ああ、アイドルだ」と頷き返し、
「杏見なかったか?」
「いいえ」
「そっか。ま、あと一時間くらい探したことにすれば出てくるだろ」
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:28:29.99 ID:tRJaplXx0
 そうして、彼は立ち上がった。机を回り込んでから、その上にある二つの小さな箱を示す。
「これ、千夜がくれたんだって?」
 首肯して、
「あんな下らないことで私に貸しを作ったと思われては面倒なので。もうひとつは文香さんからで…… 心からの贈り物、というやつです」
「そっか。千夜、気にしてくれてたんだな。ありがとうな」
 眉をひそめて、
「……気にして、だと? 話を聞いていましたか?」
「ああ、聞いたよ。文香にもお礼言わないとな」

「ふん」
 息を吐く。彼は笑って、
「見ていいか?」とすぐ側の方を手に取る。「どっちが千夜の?」
「それですよ」
「おお」
 箱の中から、ステンレス製の黒いマグカップが姿を現した。
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:29:18.44 ID:tRJaplXx0
 文香を連れてお台場の商業施設をうろついてはみたものの、結局元のカップに近いデザインのものは見当たらなかったので、やはり千夜なりに選ぶことにしたのだった。そうと決めた以上、外見に拘ることはない。真空断熱、蓋付き。機能性は文句なし、コーヒーをゆっくり楽しむにはまたとない逸品に違いなかった。千夜自身やちとせ用にも購入しようかと検討したぐらいだ、彼とお揃いになることを鑑みて忌避したが。

「おお、真っ黒だ」
 彼はカップを持ち上げ、様々な角度から眺め回した。
「千夜みたいだな」
「は?」
 どうにか脅しかけてやろうとして、床にボールペンを発見したあたりで――またボールペンか、最近多いな――考え直した。
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:29:47.23 ID:tRJaplXx0
「気持ちの悪いことを言うな」
「気に入ったよ。美味しくコーヒーが飲めそうだ」
「……まあ、不味くはならないものを選びましたが」
「大事に使うよ。千夜、良いマグカップをありがとうな」

 笑って、音も立てず黒いカップを置く。こういう態度に、千夜はもう慣れっこのつもりだったが、時々胸がくすぐったくなる。認めまいとするのもかえって滑稽なようだ、ちとせでも彼でも、誰を相手にしたって感謝を受けるのは嬉しくて当然らしいことなのだから。

 彼はそれから、もう一つの箱に手を出した。
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:30:17.83 ID:tRJaplXx0
「これが文香の? うん……」
 その中身は、ガラスタンブラー。透明な蒼の地に切ったような細工が施されている。その模様は幾つもの線が交差する、花々のようなもので、他の部分とは違う光を散りばめていた。
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:30:51.82 ID:tRJaplXx0
 《江戸切子の、菊繋ぎ紋です》。文香は言った。長寿を祈る紋様です、と。

 千夜はそのガラス細工の蒼さと麗しさに、彼女を想った。彼女の瞳を、舞台でドレスやコスチュームを装った姿を、とりもなおさず、この容器に自分を思い出せ、というようなメッセージを。

 だが翻って文香は、これは彼の色なのだと言った。幾星霜振りの晴天のような、星々が連なる河のような、そういう彼の色なのだと。だから贈るのだ、と。ガラスではあの騒がしい事務所で何日ともたないかもしれませんよ、ホットコーヒーを飲むものを探しに来たと思うのですが、あまり高価そうな、というより実際高価な、ものはかえって気づまりさせるかも――千夜が善意から与えた幾つかの忠告は、文香のそういう決意の前で、全て闇夜の鉄砲となったようだ。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:31:23.64 ID:tRJaplXx0
 千夜は件の男を見遣った――ま、ブルーベースという顔だな。不健康なだけだろうけど。
「綺麗だ。な、千夜?」嬉しそうに彼。
「聞かれても困りますが」
「すぐにお礼言わなきゃな」と、スマートフォンを弄り出す。

 ガラスタンブラーは、窓からの光によく映えた。キラキラが散らばり、模様の花々を彩っている。

 ふと、空虚な思考に囚われる。この光が元を辿れば彼の見せたものだというのなら、文香の瞳は本来違う色だったのではないか。それが今の蒼さを得たのは、何かを追いかける者の瞳が、映す輝きの一端を、写し取らずにはいられないからなのではないか。
 圧倒的なものに支配された感覚の、尾を引く充足と憧憬が、それを追う瞳の中で散乱し続けるのだ――でもまあ、色までは変えないか。

 変えられるものなら、千夜の瞳はとっくに紅や金でなければならない。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:31:50.51 ID:tRJaplXx0
 彼は「ふうん」とか「はあ」とか言いながら画面の操作を終えると、
「十六時に電話くれるってさ」
「お前に? 知ったことか」
「メモしなきゃ…… ええと」

 彼がぽんぽんと腰のあたりをまさぐりだしたので、千夜は言った。
「ペンポケットにするのですね」
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:32:36.98 ID:tRJaplXx0
「ペンポケット?」
「スーツの胸ポケットではその新しいネクタイに似合わないと思うのなら、入れるのは内側のペンポケットにするべきです」床を示し、「座り立ちが多いくせに腰のポケットなど使うから、すぐ落とす」
「おおっ」彼は屈み、ボールペンを拾い上げた。「ペンポケットね。覚えておくよ、ありがとうな」
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:33:02.94 ID:tRJaplXx0
「別に。あまり落とされて、誰かが躓きでもしたらと思っただけです」
「みんなの心配? 千夜は優しいな」
「お前を気にしたのではないと言っている」
「へえ、僕を気にしてない割には名探偵だな。よくネクタイのせいだって分かった、すごいぞ」
「ほんの戯れです」
「『プロデューサー学』の単位をあげよう」
「要らない。不要です。要りません」
「三回も要らないの……」

 彼はメモ書きをして、
「まだこんな時間か」
 とわざわざ壁時計を見上げてから、千夜に向き直り、笑った。

「稽古は嫌だったか?」
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:33:31.46 ID:tRJaplXx0
 空気が揺れた。
 地鳴りのような重低音が部屋を騒がす。上空を飛行機が行ったらしい。
 ああ、そうだった――ついのんびりしてしまっていたが、来るべき時が、言葉が来た。背負おうとしたものの意味を問われ答えあぐねたまま、落胆に嵌りきった千夜がその泥を撒き散らしながら辿り着いたここは、如何わしい司祭の対坐する告解部屋で、千夜はこれから信じてもいない神の名にすがり、自分のしたことを洗いざらい悔い改め、あるいは永遠に破門されなくてはならないのだ。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:33:57.20 ID:tRJaplXx0
 だけれど、彼は千夜の告白を強いはしなかった。顔だけを見て、「そっか」と言った。

「もしどうしても嫌だったら、ひとつも千夜の為にならないと思うなら、今回の仕事はよしにしよう。簡単な話だとは言わないけど――千夜が居なくても問題ないとは言えないし、だけど――カバーしてみせるよ。背中は任せて、千夜は楽しめ」

 彼はとん、と自分の胸を叩いて見せたけれど、
「ずいぶん、頼りないな」
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:34:28.20 ID:tRJaplXx0
 得られなかったと知ってから、自分が求めていたのがやれ≠ナなければやるな≠ネのだと分かった。意思などを問うて欲しいのではない。

 お見通しでか、そうでないか、
「頼りないか、そうだなぁ。君のお嬢様風に言うなら、僕は魔法使いだ。君の被った灰を払って、ドレスを着せて馬車に乗せるまでが仕事。そこから先、手までは引いてやれるわけじゃない」
「しかも魔法は時限式」
「だな」
「惨めな私はボロ布で走らされる」
「だからこそ、必ず背中を押すからさ」
「押す方は気楽だろう」

「ああ、押してやる背中を信じてさえいればね。王子様は魔法のドレスと結婚したわけじゃない。僕は千夜が自分の望むものや守るべきものを知ってると信じてる。それが地図になって、千夜が誇れる未来を選ばせてくれるってね」
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:34:54.95 ID:tRJaplXx0
 望むもの、と言われ、千夜はちとせの隣を想う。守るべきもの、と言われ、千夜はちとせを想う。そんなものは分かり切っていて、だから今、くだらない自分が頭を悩ませているのだというのに。

「楽しめるばかりではないでしょう。アイドルという仕事が生存競争である事ぐらい、私だって知っている」
「ああ、大変だな」
「華やかな舞台を夢見ながら、実際は声の一つを上げることも許されず、ただ涙を流す者たちを、私でさえ見てきた。そうなっても背中を押すと?」
「辛い目にもあうよ。でも、笑顔じゃなかったら、楽しんでないのか? 泣くのや怒るのは違うって?」
「夢破れた者に、自分を知ってしまった者に、それも楽しいだろと? マキャヴェリストの言い分だ」
「はは、悪者みたいな言い方したかな」

「冗談じゃない。私だって…… 楽しいのかもしれないと思い始めていました。楽しんでもいいのかもしれない、と」
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:38:48.12 ID:tRJaplXx0
 ふつふつと頭痛が始まった。衝動が身体を駆け巡った。

「神様とやらが私を戒めるとすれば、わざわざ塩の柱に変えたりなどしない。硫黄も永遠の火も必要ない。鏡一枚だ。鏡に映る本当の姿を見さえすれば、私には全部が分かる。何を願おうと分不相応だ。何を望む資格もない。
 私がここに居るのは、お嬢様に恩をお返しする、その当然の道理の為だ。お嬢様が望むことならば、応えなければならない。お嬢様が新しい舞台で活躍なさるのなら、よりお側でお支えする為に、私自身も努力をしなければならない。当然の道理だ。私の願うことじゃない。その筈だった。それを……

 お前に分かりますか。私の世界には、白と黒さえあれば充分だった。それを……

 何故、望まなくてはならないのです。何故、求めなくてはならないのです。元々私がいた場所に、何故、走ってまで向かわなくてはならないのです。
 今生きている理由にさえ報いられない私の、いったい何が…… 何が誇れる未来だというんだ? ……何が‼︎」
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:39:16.36 ID:tRJaplXx0
 ほとんど怒鳴って、机も叩いて、目の前に突っ立つビジネススーツをあらん限りに睨み付けた。
 しかし千夜が危惧したような、例えば怖気を震ったりするような態度を彼はとらず、一言一言を吟味するようにしながら、眉や唇を引き締めて黙っていた。

 暫時の間そうしていて、千夜の呼吸が整った頃、ふと思い出したように「そっか」と言い、彼は顔を和らげた。
「分かるよ。自分を見なきゃいけないってのは大変だな」
 怒るでもなく続ける。怒って欲しかったような気もする。自分自身を叱ろうとして痛めつけただけだった千夜に、そのやり方を見せて欲しかったような。
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 01:40:23.86 ID:tRJaplXx0
「しかも鏡見るだけじゃ駄目なんだ。俯瞰しないとな」
「何が言いたいのです」
「関係性の話だよ。千夜は今、自分の話をしただろ。だけどその白黒の世界には、確かにちとせがいる筈だ。白黒で充分だったのは、お互いを宝石のように守って来たのは、ちとせにも同じ事だったろう」
 彼は言って、文香のガラスタンブラーに指を触れた。

「だけど僕は、ちとせの瞳に真っ赤な蕾を見たよ。そしてあの子の君主論は昨日、文香の為にも述べられた。ほとんど試すように」
「そうは思えないな」
「思わないの? 経験不足ってやつだな。ま、これからだ」
「経験……」
「経験、経験、経験だよ。レベルを上げなきゃ、ゾーマは倒せない」

「お前の悪趣味は知りませんが。……分からないな、お嬢様の事なのに」
「分からないか。大変だよな。ちとせの事だし、文香の事だし、千夜の事だからなんだな。だけど……」
「……それが、経験なのですか」
「うん、そうだ。……それでさ、千夜、言ってくれたな」
「……何を」
「そっかそっか、楽しかったか」
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