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【ミリマス】木下ひなた「潜移暗化」
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62 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:13:16.40 ID:V6x1Fopt0
──数時間後。
あたしは事務所に居た。
もう時刻は夕方の18時を回っていた。
ぼーっと、さっきまでの時のことを考えている。
カチコチと言う事務所にある掛け時計の音が響く。
63 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:15:22.06 ID:V6x1Fopt0
誰も居ないはずの事務所だったのに、
いつの間にかプロデューサーと奈緒さんが帰ってきていた。
バタバタと階段を駆け上がる音、
勢いよく扉を開ける音が部屋の入り口の方で聞こえる。
「ひなた!? ひなた!? 大丈夫か??」
「ひなた!? どないしたんや!」
「へ?」
2人とも血相変えて、あたしの目をのぞき込んでくる。
大丈夫だよ、何もおかしな所なんて無いよ。
奈緒さんが青ざめた顔であたしに聞いてきた。
64 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:15:55.74 ID:V6x1Fopt0
「こんなとこで何してんねん!!
オーディション合格したんちゃうんか!!?」
「へ? ああ、うん……。断っちゃったんだ……」
「ひなた、俺が出ていったあと、何があったんだ?
嫌なことされたのか??」
二人があたしの肩を掴む。
あたしは痛いからそれを振りほどいた。
あたしは数時間前のことを話した。
65 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:16:53.44 ID:V6x1Fopt0
お下げ髪の女の子はあたしに言った。
「これであたしは最後なんだ。
もうチャンスがここでしかなかった!
あたしは……事務所との約束で今月いっぱいで
オーディションに合格できないようじゃ、退所するしかないって。
だからあたしはこのオーディションを最後の賭けにしていた!
それなのに、よりにもよって最後の枠をあんたに奪われた!
あたしのアイドルとしての活動はもうこれで終わりよ!
笑いたければ笑うがいいわ!」
大粒の涙を流している。
66 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:17:28.75 ID:V6x1Fopt0
あたしは何度も受けて落ちたオーディションだったと思う。
でも、別に今日が最後のチャンスという訳じゃない。
番組の収録はこのあとすぐに行われる。
あたしは気がつけば動き出していた。
大森さんの元へ。
まだ廊下で立ち話をしている大森さんを見つける。
67 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:18:08.27 ID:V6x1Fopt0
「あ、あの……申し訳ないんだけども、今日はあたし帰ります」
「へ!?」
今度は大森さんが素っ頓狂な声を出すのだった。
あたしは頭を下げる。
「きゅ、急に体調不良で……
ちょっとこのあと数時間の番組収録はちょっと難しいので
……ご、ごめんなさい」
そう言ってあたしは逃げるようにその場をあとにした。
正直あたしは自分が合格になるなんて思ってなかったし、
これがいつも通りでいいんだ。
廊下の角まで来て、隠れるように大森さんの背中を見る。
68 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:19:02.13 ID:V6x1Fopt0
困ったようにその場をキョロキョロする大森さんは、
ついにその場で座り込んで動かなくなっている
お下げ髪のあの子に声をかけた。
よし、作戦成功! あの子は最後にアイドルを諦めることなく、
ここでもう一度チャンスを掴むことが出来た。
そしたらいつかあたしと同じ舞台で共演なんてこともあるかもしれない。
あの子は自信過剰でいるけれど、
きっとそれに見合った実力がある女の子なんだと思う。
大森さんを見たオーラ程ではなかったけれど、
あの子には確かにそのオーラが備わっているのを感じた。
こんなところで、才能のある女の子が夢を諦めるなんて勿体無い。
プロデューサーもそう言っていたことがあった。
「ひなたはまだまだこれからだから。
こんな所で立ち止まったり夢を諦めることなんて無いんだ」
69 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:36:29.40 ID:V6x1Fopt0
──奈緒さんは目を見開いて椅子に座るあたしを見下ろしていた。
それはまるで何か信じられないものを見るような目だった。
「だから譲ってきたんか……」
事務所には3人しか居ないのに、凍ったような空気が流れる。
プロデューサーは近くにあった
別の社員のデスクの椅子を引っ張りだしそこに座った。
70 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:37:28.70 ID:V6x1Fopt0
大きく、長いため息をつくと頭を抱えた。
2人の出す空気にあたしは戸惑っていた。
きっと春香さんだったらあの場面でも
同じことをしたと思うんだけど、
あれ……おかしいなぁ……。
「何してくれてんだよ……」
プロデューサーは言う。
71 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:38:34.40 ID:V6x1Fopt0
奈緒さんは青かった顔をだんだんと赤く、
燃えるように真っ赤な顔をあたしに向けて言った。
「ひなた、ちょっと歯ぁ食いしばりや」
パァン!
という空砲みたいな乾いた音が事務所に響くと同時に
あたしの頬にジワっと痛みが広がる。
あたしは何が起きたのか分からなかった。
痛む頬を抑え、目の前を振り切った奈緒さんの手を見て
ようやく引っ叩かれたのを理解した。
72 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:39:47.29 ID:V6x1Fopt0
「何してんねん! そんなん譲る必要一個もあらへんねん!!
遊びでやってんちゃうぞ!」
「で、でもね……。あのお下げのアイドルの子、
これが最後のチャンスだって泣いてて……」
奈緒さんは更に眉間にシワを寄せる。
そして、スマホをポケットから取り出すとサササっと何か操作をしたあと、
画面をあたしに突き出して見せた。
「こいつやろそれ! このお下げの!」
73 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:40:23.92 ID:V6x1Fopt0
奈緒さんが見せてくれたスマホの画面には、
あたしが譲ったアイドルがいた。
「そう、この子、この子だよ……」
「そいつなぁ……!! 常習犯や!!!」
「え……」
奈緒さんは涙を流していた。
怒りの感情が爆発したんだろうか、
涙を流しながらあたしに言った。
74 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:41:21.26 ID:V6x1Fopt0
「私が受けた別のオーディションでもおったわ!
ワンワン泣いて叫んで、近づいたやつに片っ端から
突っかかって言いたい放題言って、
合格者から席を譲り受けるんや……。
私はそのやり口ずっと横目で見とったからよう知ってんねん。
そいつ、譲り受けた途端に泣くのやめて
マネージャーとヘラヘラ笑っとったわ!」
「そ、そんな……」
「チャンスがあると思ったのか、ひなた」
動揺するあたしに向かってプロデューサーが口を開く。
75 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:42:11.02 ID:V6x1Fopt0
「……あたしにはまだチャンスがあるからって。
今回は譲ってやってもいいってそう思ったのか?
あるわけねえだろ!! そんな奴に!!
さっきも奈緒が言ってくれたよな?
遊びでやってんじゃねえんだぞ!
スタッフになんて言って出てきたんだよ!?
何も言ってねえのか!?」
「ううん、急な体調不良でって……」
76 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:43:14.83 ID:V6x1Fopt0
「おい、いいか? どんな理由にしろ。
体調不良ぐらいだったら多少待ってくれるんだよ。
お待たせして申し訳ございませんで頭下げりゃ済むんだよ……。
でもドタキャンして帰ってきちまったら話がちげえよ。
スタッフにどう思われてると思ってんだ?
木下ひなたはせっかく合格になった番組を
蹴って帰った無礼な奴なんだよ!
誰もお前のことを、夢を諦めそうになった少女を
救った英雄になんて思わねえんだよ!!!
もう今更電話したところで収録が始まってるんだ。
取り返せねえよ今回のことは。
そのアイドルに抗議したところですっとぼけるだけで
俺たちに取り合うこともねえよ」
「で、でも……あ、あのね。
もし春香さんなら同じように手を差し伸べたかなって思って」
77 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:44:22.37 ID:V6x1Fopt0
「お前は春香じゃねえだろうが!
わかるか? 春香は売れてるんだよ。
この違いが分かるか?
売れてないお前と、売れてる春香がやるのとじゃ
全く状況も意味も変わってくるんだよ。
天海春香っていうアイドルはなぁ、
そういう自分の立ち位置を正確に把握して動くんだよ。
だからあいつはセンターに立っているんだ!!」
「あかんわ。プロデューサー、私少し外の空気吸ってっくるわ。
ひなた、……叩いてごめん」
奈緒さんはあたしのことを全く見ずに
事務所を出て行ってしまった。
悪意のあるバタンという事務所の扉の音がとても怖かった。
78 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:45:29.74 ID:V6x1Fopt0
「局のスタッフたちだけじゃねえ。
うちの連中にもこのことはいずれ知れ渡る。
そうなればお前は急に番組をすっぽかした危険人物扱いだ。
真相は俺たちが今聞いたが、もう確かめようもない。
俺も……着いていれば良かった……。
俺がついてさえいれば……」
何を間違えたんだろう。
でもあんな風に演技する女の子だったととても思えないんだけど。
ぐちゃぐちゃの感情が溢れ出てきた。
自業自得のあたしには声を出して泣くことなんて許されず、
あたしはただ、声を押し殺していた。
大粒の涙は、今更になって
取り返しの付かないことをしたことを自覚させる。
79 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:46:35.75 ID:V6x1Fopt0
どうして、気がつかなかったのだろう。
どうして、あの時……。
どうして、プロデューサーは……。
「俺も……最後まで見届けなかったのが悪かったな……。
ひなた、怒鳴ってごめん。俺か……。悪いのは。
そうだよな。ごめんな、ひなた。
俺が最後まで付いていればこんなことには……くそ……」
プロデューサーはあたしを見て、黙って立ち上がり、
自分の机に置いてあったタバコを引っ掴むと、
事務所を出て行った。
80 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:47:28.79 ID:V6x1Fopt0
──数日後、21時頃の遅いご飯の時間だった。
テレビで放送されたあの番組では、
その子はとても元気で、いい笑顔で歌を披露していた。
そのパフォーマンスは
……言っちゃあ悪いけど、”普通”だった。
ダンスが甘いとか音がずれてるとか、
そりゃああれだけ泣き叫んでたら声もかすれてるとか。
そんな粗探しばかりするようになった自分が居て、
それを自覚した瞬間にテレビを別のチャンネルに切り替えた。
81 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:48:07.60 ID:V6x1Fopt0
……何を食べても味がしなかった。
物を口に運び、噛み、飲み込む作業をするだけだった。
実家から送られてきたお米は
綺麗な艶を出して輝いているのに、
いつもと同じ炊き方をしているのに、味はしなかった。
味はしなかった。
82 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:48:40.84 ID:V6x1Fopt0
第3章 おめえ、帰れ
「ひなた」
「ん? ああ、婆ちゃん」
「そろそろもうお昼だから」
83 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:49:09.77 ID:V6x1Fopt0
「そっか。うん。今行くよ」
「今日はいい天気だねえ。
こっからだったら函館の方まで見えるかもしんねえな」
「あはは……。そんなの無理だべさ」
84 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:49:48.17 ID:V6x1Fopt0
一面に広がる緑の景色。
北海道の大地に広がる青空の下で、畑仕事に勤しむ私。
真っ赤な林檎の果実をケースに入れていくのを一旦辞める。
あたしは今、爺ちゃんと婆ちゃんの家に居候している。
85 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:50:41.38 ID:V6x1Fopt0
婆ちゃんはとても優しくて、いつもニコニコしている。
でも、特に何か趣味がある理由ではないらしい。
昔はコーラスとかやっていたって聞いたことがあるけれど。
いつの間にか辞めてしまっていたらしい。
お母さんに聞いた所、
「段々と集まりが悪くなって、
空中分解したんでしょう。ほら、もう歳だから」
と冷たく言い放った。
86 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:51:32.51 ID:V6x1Fopt0
爺ちゃんはいつも眉間にシワが寄っていて
険しい顔をしているけれど、怒っている訳じゃない。
爺ちゃんは婆ちゃんと逆に自由奔放にしている。
家事は女の仕事だ、
と言わんばかりに自分は農家の仕事ばかり。
そして、それ以外の少し空いた時間でやるのが趣味のカメラだった。
花や風景、それか自分の育てた果物を撮影する。
87 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:52:42.07 ID:V6x1Fopt0
爺ちゃんに一度カメラを教えてもらったことがある。
それはあたしがアイドルをしているという話をした時だ。
何かを勘違いしたのか、撮る方だと思ったのか、
熱心に教えてきてくれた。
「いいか。このシャッター速度はこれくらいにしておけ。イソ感度はこれくらいだ」
そうやって熱心に教えてくれたけど、
結局あまり理解出来なかった。
でも、5、6台ある一眼レフのカメラは
どれも譲ってはくれなかった。
まあ、高いもんね。
88 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:53:25.20 ID:V6x1Fopt0
あたしは家に一度戻る。
婆ちゃんの家は古い日本家屋だ。
開けるとガラガラと鳴る二重の引き戸の玄関。
木で出来た下駄箱に、その上には木彫りの熊が乗っている。
昔、小さい頃、これが怖くて泣いていたらしい。
今も怖い顔をしているクマだなぁと思うことはあるけれど。
さすがに泣くことはない。
木張りの、歩くとギシギシ言う廊下、
リビングに行くと、テーブルには作業着のまま、
椅子に座って麦茶を飲んでいる爺ちゃんがいる。
爺ちゃんの目線の先は、テレビに映る高校野球、
甲子園大会の中継だった。
89 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:54:12.15 ID:V6x1Fopt0
爺ちゃんはこの夏の時期になると、
必ず甲子園を見ている。
カメラの次くらいに、たぶん好きだと思う。
だから一度詳しいのかと思って、この高校は強いの?
とか聞いたことがあるが、
「さあ? 分かんね」と言っていた。
その割には熱心に見ているのは一体なんだったのか、
それは今でも分からない。
90 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:55:14.54 ID:V6x1Fopt0
そのことについて、プロデューサーとも話したことがあったなぁ。
確か、プロデューサーは
「若い子が一生懸命なところが見たいんだよ。
野球は知っているし、上手い下手が分かるから、
見てるだけなのに、あれが駄目これが駄目みたいに言わないか?」
と言っていた。
確かに爺ちゃんは
片方のチームがホームランを打つと
「ああ!」とか言っているが、
点差を埋めるヒットが出れば
同じように「ああ!」と言う。
どちらかを応援しているわけじゃないんだ。
91 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:56:12.54 ID:V6x1Fopt0
婆ちゃんがそんな爺ちゃんを尻目に
ザルに入れた素麺を持ってくる。
私はそれを見て、器を食器棚から、
麺つゆを冷蔵庫から出して、
私と爺ちゃん婆ちゃんの前に配る。
婆ちゃんはお礼を言ったが、
爺ちゃんは「ん」だけ言った。
婆ちゃんと私の「いただきます」の声に反応して
遅れながらも「いただきます」を言いながら食べる爺ちゃん。
昼食には、扇風機がガーガー言いながら首を振る音。
テレビの騒音。弱い冷房。
これらの音が響く以外には会話は殆どなかった。
92 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:56:54.72 ID:V6x1Fopt0
壁にかけていた時計が、
12時の合図を告げるのに、大げさな鐘の音を流す。
ちゅるちゅると素麺を食べていく。
美味しいなぁ。冷たくて、喉にすっと通っていく。
甲子園の中継に制服衣装を着た若いアイドルが映る。
甲子園の様子を視聴者に伝えようと、
詳しくもないだろう野球の用語を使いながら、喋っている。
爺ちゃんはそれを見ても何も言わない。
若い女の子を前に鼻の下を伸ばすことなんて無かった。
たぶん、婆ちゃんに白い目で見られるのが怖いんだろうなぁ。
93 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:57:35.43 ID:V6x1Fopt0
爺ちゃんはテレビから全く目を逸らさずに言った。
「ひなたは、こういうのやらんのか」
爺ちゃんの言葉は
あたしに疑問を投げかけるというような感じではなかった。
その淡々とした詰問は、質問とは違って、
語尾に「?」がつくような優しい言い方をしていなかった。
まるで、なんで俺の孫がそこに居ないんだ? と。
居るのは当たり前だろう? と言わんばかりの言い方だった。
94 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:58:11.46 ID:V6x1Fopt0
あたしが出遅れて、「う、うん」と言い切る前に
婆ちゃんがフォローに入る。
「ひなたは今、お休み中なんだよねえ?」
「うん……。そうなんだ。あはは」
婆ちゃんの言い方はとてもキツい言い方で、
「そんな余計なことを聞くな」と暗に言っている。
爺ちゃんはバツが悪そうに
あたしのことをチラっと見て「そうか」と言う。
95 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 18:59:25.39 ID:V6x1Fopt0
……お休み中。
あたしは今、事務所に頼み込んで、
休業ということにしてもらっている。
別に何かがあった訳じゃない。
あたしには……。
あたしには、何も無かった。
ただ、それだけのことが分かっただけなんだ。
96 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:00:05.92 ID:V6x1Fopt0
そのことに気がついた時、憧れだった自分のいる世界が。
「どうして自分がいるのだろう」
「どうして自分みたいな人間がここにいるのだろう」
「誰があたしを見ているのだろう」
「あたしは誰に、何を届けたいのだろう」
「あたしは……このあと、何を伝えられるようになるのだろう」
「あたしは、何を届けられる人になるのだろう」
「あたしは……誰なんだろう」
分からない。
97 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:00:42.77 ID:V6x1Fopt0
毎晩、夢を見る。
それも同じ夢。
素敵な衣装を着て、ステージに立って、
マイクを持ってセンターに立つ。
そして、流れる曲は知らない曲。
誰もあたしのことを気にも止めない。
あたしだけが真ん中でただ、おろおろしている。
知らない曲を知っているフリして一生懸命に踊る。
98 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:03:24.79 ID:V6x1Fopt0
そうして、大失敗を引き起こして、あたしは目が覚める。
思い切り転んで膝から先があらぬ方向に曲がったり。
誰かとぶつかってしまって怪我をさせたり。
突拍子もなく誰かがステージ上で爆発してしまうこともあった。
色々なパターンであたしはそのステージで失敗をする。
あたしは、プロデューサーに、少し休みをください。
という話をした時に言われた言葉を思い出す。
「……そうか」
スケジュールを書くための手帳は半月以上、白だった。
99 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:04:17.66 ID:V6x1Fopt0
レッスンの日付は、月水金。
そんなことはもう決まっているので書かなくなってしまった。
だから、白いスケジュール帳で何も無いということは、
本当はないのだけど。
そのレッスン以外は何もなかった。
だから、あたしはプロデューサーに「もう休ませて欲しい」と言った。
プロデューサーは、机に向かったまま、
画面から目を逸らさない。
爺ちゃんと同じだ。
100 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:04:59.09 ID:V6x1Fopt0
でも、爺ちゃんの方がまだましだった。
爺ちゃんは、なんというか。
まだ会話というか、意識のベクトルが
あたしに向いているのが感じられる。
でも、プロデューサーは……。
あたしはプロデューサーに言われたこの一言をずっと、
頭の中で再生していた。
本当は続きがあったんじゃないか。
本当は何か違うことを言おうとして、
飲み込んだ言葉なんじゃないのか。
101 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:05:33.12 ID:V6x1Fopt0
「……そうか。どうしてなんだ」
「……そうか。残念だよ」
「……そうか。もしかして、妊娠でもしたのか」
違うなぁ。そうじゃない。
あたしはプロデューサーに何を言ってもらいたかったんだろう。
何を期待していたんだろう。
102 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:06:29.65 ID:V6x1Fopt0
「携帯は繋がるように一応してるから」
「ああ」
「北海道の爺ちゃんと婆ちゃんの家に帰る……から」
「ああ」
それだけ話をすると、あたしはその場を去ろうとした。
そして、プロデューサーは
慌てたようにあたしを呼び止めて言った。
でも、この瞬間にあたしは
自分が何か引き止められる言葉を
言ってもらうことを期待していたのが分かる。
こんなに心の中に花が咲くような、
気分になったのはいつ頃だっただろうか。
103 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:07:19.09 ID:V6x1Fopt0
「ひなた、今、プリンターで出した。
紙、そういう書類だから書いて提出しておいてくれ」
「……はい」
あたしの中にぱぁっと咲いた花は、
一瞬でぐしゃっとしなびれて真っ黒になって、
枯れ、花弁をボロボロと落とした。
あたしは、サーッと書いて、
それをプロデューサーの机に置いておいた。
プロデューサーはその頃には、もう机には居なくて、
開けっ放しのカバンの中にはタバコが見当たらなかったので、
屋上にタバコを吸いに行ったんだろう。
104 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:07:47.42 ID:V6x1Fopt0
あたしはそのまま、
誰に、何を言うでもなく、事務所を出ていった。
階段を降りて事務所を出ても。
電車に乗るときも。
誰もあたしには気が付かない。
マスクも帽子も必要ない。
あたしレベルの芸能人が変装だなんて。
105 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:08:22.86 ID:V6x1Fopt0
それからあたしは、
両親を飛ばして、婆ちゃんと爺ちゃんに連絡した。
婆ちゃんはあたしの心境を深く理解している、
ということは、多分ないんだと思う。
難しいことは分からないんだと思う。
「ん、じゃあしばらくこっちに居てくれるんだね」
と言ってくれた。
あたしはアパートのワンルームの
ガスや水道を止めたり、
色んな手配を済ませてから北海道に戻ることにした。
106 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:09:06.92 ID:V6x1Fopt0
東京を出る前日の夜。
あたしは、何もしないでベッドの上に居た。
自分をまるごと抱えるように膝を抱いて、
部屋の何もない虚空を見ている。
感情が湧いてこない。
薄暗い部屋に、何も音がしない。
かすかに聞こえる、外の車の音や、バイクの騒音。
107 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:10:56.00 ID:V6x1Fopt0
そうやって、無の空間に
自分を落とし込んで一晩を過ごした。
気がつくと朝になっていた。
不思議と眠くはならなかった。
そして、北海道に来て、もう一ヶ月が経つ。
108 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:11:30.69 ID:V6x1Fopt0
爺ちゃんは最初、とても喜んでくれた。
「東京はどうだ?」とか
「松平健には会ったか?」とか
そんなことをあたしに聞いてきた。
婆ちゃんがそんなあたしのことを
「しばらくはここに居るから」と説明すると、
「そうかそうか」と言った。
それは多分「いつまでも好きなように居たらいい」
という意味が込められた気がする言い方だった。
109 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:12:34.27 ID:V6x1Fopt0
婆ちゃんは何も言わなかった。
最初に連絡をした時と同じように説明したので
分かったような分かっていないような感じだった。
でも、そんな爺ちゃんだったけれど。
一週間も経つ頃には
「ひなたはいつまで居るんだ?」
とか言うようになって、
あたしはそれに対して、ただ苦笑いをするだけだった。
それで、爺ちゃんは
シュンとした顔をするあたしを見て
「ああ、しまった」みたいな顔を一瞬するのだけど、
3日くらいしたら忘れてしまうのだった。
あたしに同じ質問をしてしまし、
それが婆ちゃんに見つかると咎められるのだった。
本当はあたしも分かっているんだ。
110 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:13:54.33 ID:V6x1Fopt0
いつまでも、ここで甘えていてはいけない。
どこかで自立しなおさないといけない。
──そのまま、一ヶ月が経過していた。
111 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:14:22.85 ID:V6x1Fopt0
素麺を食べ終わったあたしは、
流しに持っていき、自分の食べた分の食器を洗う。
後から爺ちゃんも持ってきて、
爺ちゃんは流しの横、あたしのちょうど少し隣に置く。
無言の圧力を感じる。
爺ちゃんは古い人だから、
家事は女の人がやるもんだって、
普通に思っている。
それと同じで「働かざる者食うべからず」
という気持ちもあるらしい。
112 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:15:20.82 ID:V6x1Fopt0
だからあたしは爺ちゃんや婆ちゃんの
お仕事も手伝うことにしている。
近くの農家は爺ちゃん婆ちゃんと
同じ年齢の人たちが多く居て、
あたしが爺ちゃんたちと一緒に居ると
「いいねえ〜」と羨む声をあげる。
その度にかぶっていた麦わら帽子を深く、
ぎゅっとかぶり直す。
113 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:16:00.23 ID:V6x1Fopt0
こんな所でテレビに出ていたころがバレようもんなら、
あっという間に噂がそこら中に広がって、村から浮いてしまう。
なんだか今は、アイドルとかテレビとか
そういう世界とは無関係の所で、
無関係のあたしで居たかった。
自分が求めていたものなのに。
今はそれを切り離したくて仕方ない。
114 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:47:16.97 ID:V6x1Fopt0
あたしはまたテーブルに座り、
野球を見始める爺ちゃんの横を通り抜けて、
自分の部屋として空けて貰った部屋に行く。
スマホを手に取るまで、あたしは何も考えなかった。
無意識に近い。
充電器に差しっぱなしだったスマホを手に取り、LINEを見る。
あたしが送ったメッセージはあるけど、
誰も返事などしてきていなかった。
あんまりあたしが発言しないグループの
画期的なやり取りは見える。
添付画像に、楽屋で撮影された自撮りが目に入る。
可愛いなぁ。
115 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:49:02.98 ID:V6x1Fopt0
スマホで、自分を撮影してみる。
暗がりの部屋で撮った陰のある自分の写真は、
保存しないですぐ消した。
あたし、こんな顔だったっけ。
スマホで適当なネットニュースを見る。
くだらない、どうでもいいニュースの
リンク先の別のニュース、
そのリンク先にある別のニュース。
誰が誰と付き合っていた。
浮気現場発見。
問題発言に謝罪。
どうでもいいなぁ……。
116 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:52:22.94 ID:V6x1Fopt0
どうでもいい、と思いながら、
色々見て回って、お昼の休みを全部使ってしまう。
爺ちゃんは13時まではお昼休憩としているし、
婆ちゃんもそうしているから、あたしもそうしている。
最後にチラッと見たニュースは
「ダブルエース、改名後はJus-2-Mintに決定!」だった。
スマホを鞄の近くに置く。
「そっか〜変わったんだ」
そう口に出して言ってみる。
言ってみたら余計に浮き彫りになってしまった。
あたしが、どうでもいいと思っていることが。
117 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:53:21.69 ID:V6x1Fopt0
その日の夜。
日が落ちる頃には片づけやら道具の手入れやらが終わる。
あたしはいつもと同じようそれを終えた後、家に戻る。
家で晩ご飯を食べる。
漬け物と、揚げ物。
それに白いお米。
キラキラ光る白いお米が、
爺ちゃんと婆ちゃんに比べると、
おかしなくらい山盛りになっている。
あたしはそれを見て、
心の中で「またか」と思ってしまった。
118 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:54:07.77 ID:V6x1Fopt0
「婆ちゃん、あたしこんなにいらないよ」
「遠慮しないで食べればいいよ」
「そうじゃなくてね。
こんなに多い量は食べられないよ。
爺ちゃんと婆ちゃんと同じくらいでいいんだよ」
婆ちゃんは申しわけなさそうにする。
爺ちゃんはそれに対して何も言わない。
119 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:57:21.64 ID:V6x1Fopt0
重たい空気の中で、テレビの音が聞こえる。
どこかで聞いたとこのある声だった。
「じゃあ多かったら残してもいいからね」
「うん……」
そう言われて、あたしはいつも食べてしまう。
この生活を続けていたら、本当に太ってしまうなぁ。
昼間に動いているとは言え……。
それに、やっぱりあたしは居候だし、
遠慮するなと言われても無理だ。
120 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:58:57.40 ID:V6x1Fopt0
流石に一ヶ月も一緒に過ごしてきた祖父母との会話は、
ハッキリ言ってしまえば退屈なソレだった。
何度もした会話、何度も聞かれた質問。
あたしのことを本当に好きで居てくれているのは分かる。
これが老いであり、仕方のないことだということも理解している。
でも、今のあたしにはそれらを受け入れる度量はなかった。
121 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:59:48.14 ID:V6x1Fopt0
いつもなら可愛らしいなぁ
とか思っていたはずなのに。
どうしちゃったんだろう。
ご飯のあと、
既に婆ちゃんが沸かしてあるお風呂に入る。
湯船は熱くもなくヌルい。
あんまり熱いお湯にしと、
婆ちゃんや爺ちゃんが逆上せてしまっても困る。
あたしはせめてシャワーだけでも熱いお湯に変えて、身体を洗う。
122 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:00:31.29 ID:V6x1Fopt0
ここにあるシャンプーは
市販のものでリンスもあるけれど、
あたしの髪の毛はどんどん潤いを無くしていく。
頭から降り注ぐ熱いシャワーの雨の下で、
大きなため息が出てしまう。
違う。
良くないよ、こんなの。
でもどうしたら変われるか、
昔のようにキラキラした自分に戻れるのか分からない。
爺ちゃんや婆ちゃんにだって
このまま甘えている訳にもいかない。
123 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:01:19.23 ID:V6x1Fopt0
あたしはシャワーの温度を
元に戻してからお風呂から上がる。
リビングの方では爺ちゃんが足の爪を切っていた。
その横を素通りして寝室に行こうとした時、
爺ちゃんが声をかけてきた。
「ひなた。ひなたはもうテレビには出ないのか?」
……。
またか。
「……ううん。今は少しばかり休憩してるんだ。
だから、しばらくは出ないっていうだけだよ」
「ひなたの歌ってる所、また見てえなぁ……」
124 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:02:14.88 ID:V6x1Fopt0
それが爺ちゃんが何のつもりで言った言葉なのか
あたしには分からなかった。
励ましているの?
それとも失望しているの?
残念に思っているの?
ただ、自分の孫がテレビに出ているのが嬉しいだけなのに、
どうしてあたしはこんなことを思うようになってしまったのだろう。
自分で自分に嫌気がする。
125 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:02:55.20 ID:V6x1Fopt0
「あたしも……本当は戻りたいんだけどね」
「なあ、ひなた」
パチ、パチ、と爪を切りながら、
爺ちゃんは言う。
「おめえ、帰れ」
それはハッキリとした口調だった。
命令だった。
126 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:03:57.41 ID:V6x1Fopt0
「え」
と情けないことを漏らすあたしに
爺ちゃんはもう一度言う。
「東京に帰れ」
この時、
あたしの中にビリッと電気が走り、背筋が伸びる。
北海道の夜の虫の音が聞こえる中で、
あたしは小さく「……ハイ」と返事をした。
127 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:05:36.48 ID:V6x1Fopt0
「まだ、やり残したことがあんだろ?
俺には細かいことは分かんねえけど。
もう一回見せてくれよ、テレビでさ」
あたしは、なんて自分がチョロいんだろうと思った。
なんでこんなに、
誰かが必要としてくれているのに
気が付かなかったのだろう。
こんな簡単な言葉で、
あたしは背中を押されている。
もう一度頑張ろうかなと思えている。
ただ、不安が無いと言えば嘘になる。
不安だらけで、どうしようもないくらいに押しつぶされそうだ。
でも、戦わなくちゃいけない。
自分はもう一度ステージに戻らないといけない。
128 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:06:33.88 ID:V6x1Fopt0
あたしは、小さくなった爺ちゃんの背中に向かって、
不安を抱えたままの「うん」とも「うーん」とも捉えられる生返事を返す。
でも、気がつけば、あたしはもう東京に帰る気で居た。
東京に帰ったらやらなくちゃいけないことは山程ある。
まずはプロデューサーに連絡をしないと、
もう一度戻りたいと連絡をしないと。
もう一度やり直しをさせて欲しいと言わないと。
もう一度みんなの期待に答えないと。
129 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:07:37.17 ID:V6x1Fopt0
失った信用や期待を取り戻すのは本当に難しい。
それは一ヶ月間、自分が暇つぶしに見ていた
立て続けに起こる芸能人の不祥事のニュースで思い知っている。
世間の目は易易と罪を背負った者を許しはしない。
それはあたしのことを見放した事務所のみんなもそうだ。
だからあたしは人一倍これから努力する必要がある。
そして、爺ちゃんは……
なんて不器用な人なんだろう。
”全部の足の爪が深爪になっていた”……。
130 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:08:42.67 ID:V6x1Fopt0
第4章 私ね、今度、引退するんだ
何日も何日も続くレッスンに、
あたしは何一つ文句を言わなかった。
元々レッスンに文句を言うことはなかったけれど、
でも口に出さなくても不満が募っていくことがあった。
どうして、あたしばかり……。
そういう傲慢さがみんなには伝わっていたんだ。
あたしは爺ちゃん譲りの不器用で、
そんなこと言える義理じゃない。
だから自分の力でなんとか這い上がるしかない。
131 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:09:36.33 ID:V6x1Fopt0
でも、復帰後のレッスンは本当に厳しかった。
肉体も精神も、悲鳴をあげていた。
自分からトレーナーに
厳しくお願いしますと申し出たせいもあるけれど。
週に6日のレッスン。
一日に午前午後で別のレッスンを入れることもあった。
午前中は個人のレッスン、トレーニング、
それから午後は若いアイドルや
勢いのある年下のアイドルたちに混じってのレッスンをする。
私よりも勢いのある子たちのやる気や体力は
本当に底なしで、あたしは付いていくのに必死だった。
132 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:10:41.84 ID:V6x1Fopt0
初日はそれこそ
「誰この人?」
「ああ、なんか病んでて休業してた……」
「なんでこの人帰って来たの?」
という痛々しい視線が向けられていた。
実際に踊って見せてみても
その視線の痛さは変わらない。
むしろ強まるくらいだ。
「本当になんでこの人来たの?」
そういう会話も実際に聞こえてくるくらい
あたしの動きは何もかもがダメダメだった。
133 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:11:11.80 ID:V6x1Fopt0
足がもつれるなんてことは常にあった。
隣の人にぶつかる。転ぶ。
その度に、刺さるような視線と、気まずい空気。
年下の女の子たちに気を使われる、息苦しさ。
歌を歌っても音程が外れる。
分からなくなる。
そんなことが多かった。
134 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:11:41.44 ID:V6x1Fopt0
でも、絶対に挫けなかった。
挫ける、という感情を
今度はどこかへ忘れたかのように、
あたしは何もかものレッスンにがむしゃらに挑んだ。
それでもあたしは一人ぼっちだった。
ただ、目標のために前へ突き進んでいた。
135 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:12:16.50 ID:V6x1Fopt0
目標っていうのは
もう一度テレビでライブをすること。
とにかく、まずは曲をもらえる程度のレベルになること。
そのためにはまずは、
信用、信頼をもう一度取り戻さないといけない。
爺ちゃんのために。
136 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:13:13.62 ID:V6x1Fopt0
それを自分へ言い聞かせて、
レッスンに取り組む。
その思いを、アイドルをもう一度やり直すための言い訳にしていた。
そして、その言い訳を燃料にエンジンに火を付ける。
まだまだ燃え続ける、あたしのエンジン。
もう一度やり直すんだ。
そうやってレッスンを繰り返しながら、
あたしにもう一度チャンスが舞い降りる時をジッと待った。
そして、その時はやっと来た。
それは、あたしはもう19歳にもなる頃の冬だった。
137 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:14:33.69 ID:V6x1Fopt0
週6で入れていたレッスンも3日まで減らして、
その合間にあたしはバイトも始めた。
基礎はもう勘も取り戻してきたし、
もっと他のことにも時間を割かないと、
ということを同じようにレッスンを受けている、
あたしよりも年下の大人びた女の子を見て学んだ。
自分で雑誌を買ってファッションの勉強もした。
色んなYouTubeの動画を漁ってメイクの勉強もした。
髪の毛も少し伸ばした。
髪の毛のセットの仕方も動画で勉強をした。
138 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:15:30.47 ID:V6x1Fopt0
動画の中の人は、あたしなんかよりも
メイクのことが好きで、
一生懸命で、流行にも敏感だった。
あたしも負けないように、
自分に似合ったものを
幾つか手札として持っておくべきだと考えて
日夜、色々なメイクを試している。
昔、事務所で誰かにメイクをしてもらったことがある。
その時のあたしはなんだか別人のようで、
キラキラと輝いて見えた。
でも、今のあたしはそんな風に
同じようにメイクをしたとしても、
キラキラと輝いていなくて、
どこかくすんでいる。
139 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:16:19.66 ID:V6x1Fopt0
雑誌の中には、
先に羽ばたいていった
同僚だったアイドルたちが載っている。
その雑誌に使われている写真は、
素直に「可愛い……」とため息が出るくらいのものだった。
どこの雑誌を見ても
あの頃一緒に頑張っていた誰かが居る。
テレビを見ても、
あの頃一緒に頑張っていたライバルたちが居る。
140 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:17:10.68 ID:V6x1Fopt0
そして、その誰もが、
もうあたしの味方ではない。
この事務所にももう未練もないし、
どこか別の事務所に移って
やり直すという方が早いのかもしれない。
この頃になるとあたしが
段々と仕事を覚えていったバイト先の方が
なんだか求められている気がしてきて、楽しかった。
日々の癒やしにもなっていた。
そのバイト先は、ドッグカフェ。
141 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:18:56.63 ID:V6x1Fopt0
小さい犬達が所狭しと暴れまわり、
それを操りながら接客をしている。
あたしは子犬たちにすごく懐かれてしまった。
特別何かをしたわけじゃないのに。
バイト先にはあたしと同じ年齢の女の子が一人いる。
彼女の名前は桃山エリカさん。
あたしとは似ても似つかないくらい可愛い女の子だ。
特徴的な優しくニコニコした顔がとても接客向きだと思っている。
ウェーブのかかった髪は
肩ぐらいまであるけれど、短く後ろで束ねている。
142 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:19:51.35 ID:V6x1Fopt0
「おはよう桃山さん」
「あ、木下さんおはよう。
あ、今日はチークいい感じだね」
「本当? 上手に出来たかな?」
桃山さんは「うんうん」と
自分のことのように嬉しそうに喜んでいる。
その姿を見てあたしも嬉しくなってくる。
彼女は、唯一の今のあたしの味方だ。
143 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:20:24.00 ID:V6x1Fopt0
あたしと桃山さんは
桃山さんの方が少しだけ
このバイト先では先輩になる。
でも、同い年だということを知ると、
あたしにも気をつかないでいいと言ってくれた。
そこから桃山さんが人懐っこいおかげで
あたしはすぐに彼女と打ち解ける事ができた。
144 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:21:09.98 ID:V6x1Fopt0
桃山さんにはバイトの休憩中も、
仕事の最中も色んな話をしたり、
色んな相談に乗ってもらったりした。
あたしも代わりに彼女の相談に一生懸命答えた。
それが良い方向に向かうこともあったし、
悪い方向に行くこともあった。
でも、それで喧嘩をする程、
桃山さんはあたしには
強く当たったりそういうことはしない。
最初のうちは、それはもしかしたら、
あたし自身に期待をしていないのかもしれない、
とそう考えたこともあった。
145 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:21:40.70 ID:V6x1Fopt0
北海道を出て、
765プロという事務所に入ってきて、
初めて出来たアイドル以外のお友達が彼女だった。
人当たりの良い彼女は
お客さんからも人気だし、
犬達にも好かれていた。
彼女が歩けばその後ろを
歩いて付いてくる子が何匹も居る。
146 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:22:19.62 ID:V6x1Fopt0
「すごいね、みんなにも人気だし、
お客さんからの信頼もあるなんて。
あたし何度言われたか分かんないよ。
桃山さん今日はいないのって」
「そんなことないよ。
木下さんもすごくお客さんから人気あるんだよ?」
そう言いながら桃山さんはニコニコしていた。
それでいて、謙虚なんだ。
あたしも見習わないと。
147 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:23:09.47 ID:V6x1Fopt0
「そういえば、この前木下さんのこと
すごく可愛くなったって、店長言ってたよ」
「ええ……本当に?」
可愛くなった、というのは、
自分が前まではあまり可愛くなかったのか、
なんて意地悪なことを考える前に、
あたしはそれを聞いて素直に喜ぶことにした。
だって、それは自分が可愛くなろうとか、
綺麗になろうとか、そういう思いでやっている
日々のあれやこれが認められているということだから。
この調子で頑張っていかなくちゃ。
148 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:23:40.24 ID:V6x1Fopt0
「うん、それに、木下さん。
方言も少なくなってきたよね」
「あ、ほんとに? そっちの方が嬉しいかなぁ」
「そうなの? どうして?」
「だって、いつまでも東京にいるのに、
北海道の方言が抜けないのってなんだかちょっと……」
149 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:24:50.00 ID:V6x1Fopt0
桃山さんはいつもこの話をすると
「方言女子って羨ましいと思うんだけど」と言う。
彼女は東京出身の女の子なので、
特に方言がないから羨ましいのだそうだ。
あたしはというと、
そういう「方言を喋る、田舎出身の女の子」である
というキャラクターに甘えていたんだと思う。
私みたいなテンポの遅い喋り方は
中々矯正することができないでいるけれど、
「方言女子」であり、「テンポの遅い喋り方をする女の子」
というカードで守りに入っていたところが、
どこかであったんだと思う。
150 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:25:33.22 ID:V6x1Fopt0
以前、憧れていた大森さんという
今も活躍する方に直接
「方言女子は良い」
みたいに褒められことで
付け上がっていたんだろう。
同じように田舎の出身の女の子であっても、
バリバリ動けるような子はたくさんいるし、
あたしはそういうのを見てみぬフリをしてきたんだと反省した。
151 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:26:09.74 ID:V6x1Fopt0
だからあたしは、
今まで持っていた「田舎のおばあちゃんっ娘」とか
「方言を喋る子」とか
「テンポの遅い喋り方をする女の子」というのを
卒業することに決めた。
いつまでも自分がそのポジションに
居座ったままやり過ごせる程、
この業界は甘くはないんだと思う。
152 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:27:06.11 ID:V6x1Fopt0
そんな他愛の無い雑談をしていると、
奥からブラシを抱えた店長が出てくる。
30代も超えたあたりの店長は
おっとりとしたへの字に曲がった目と
垂れた眉が特徴の背が高い、
というかひょろ長い男性だ。
多分765プロに居たプロデューサーが
身長170センチあるって言ってたから、
たぶんそれよりも大きいんだと思う。
この店長は、今あたしが目指しているものとは
全くの正反対の位置にいる人だった。
153 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:27:53.32 ID:V6x1Fopt0
いや、たぶん前のあたしに似て、
すごくおっとりとした人だったからこそ、
自分がこう見えているというのを
客観視させてくれた人だった。
「私の”おっとり”ってもしかして、
いつの間にか人を傷つけたり、
イライラさせたりしていて、癒せないのかも」
そう思いながら、
あたしは自分自身を見直すことが出来た。
そんな風に店長を見ているのがバレたら
嫌われてしまうかもしれない。
それは嫌だな。
154 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:28:31.96 ID:V6x1Fopt0
そう、嫌われてしまうかもしれない、
という心配の仕方も増えてきた。
誰かに嫌われる怖さをどこかで知ったから。
でも、これはいつかプロデューサーが
言っていたけれど
「誰にでも好かれるなんてのは不可能だから。
そういう自分を攻撃してくる何かから
心を守る方法を身につける必要がある」
そう言っていた。
155 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:31:51.73 ID:V6x1Fopt0
今なら分かる。
若いあたしはそれが分からなくて
人の悪意を考えてしまっていた。
それで、ずぶずぶと抜け出せない沼に沈んでいった。
「どうしたんだい? 怖い顔をしているよ」
店長はあたしの顔を覗き込む。
反射的に身体を引いてしまう。
156 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:32:25.66 ID:V6x1Fopt0
「な、なんでもないべさ。あっ」
思わず、これも反射的に、
昔の言葉遣いが出てしまう。恥ずかしい。
顔が赤くなるのが分かる。
あたしは犬たちにブラッシングする店長の背中を
見ながら店の奥にあるバックヤードに入っていく。
そのあたしを追いかけるように、桃山さんが入ってくる。
「木下さん〜。顔真っ赤」
「あ、もう」
157 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:32:58.38 ID:V6x1Fopt0
桃山さんはいつものニコニコ笑顔ではなく、
ニヤッとした笑みを浮かべていた。
そんなんじゃないのに。
桃山さんがからかってくるのも別に嫌な気はしない。
桃山さんはそれだけ言うと、
バックヤードから去っていった。
何しに来たんだろうか……。
店内を覗くと、
同じように店長をからかっている桃山さんの姿があった。
158 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:33:58.18 ID:V6x1Fopt0
ああ見えて色恋の話が好きなのかな。
本人に浮いた話はあまり無さそうに感じるけれど、
でもきっとモテるんだろうなぁ。
今度聞いてみようかな。
さっき、からかわれている時、
店長はどんな顔をしていたんだろう。
159 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:34:25.16 ID:V6x1Fopt0
その時、一本の電話がかかってきた。
それは待ちに待った
プロデューサーからの電話だった。
「もしもし、ひなたか?」
「はい」
「今、大丈夫か?」
そう聞いてくるプロデューサーの方が、
まるで風邪でも引いてるかのような声だった。
あたしは「はい」と答える。
160 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:38:18.78 ID:V6x1Fopt0
この店の店長にも桃山さんにも
あたしがどういう経緯のある人物なのかは話してある。
だからもしも、こういう仕事の電話が入ったら、
電話には出るからと伝えている。
プロデューサーは言う。
「次回のライブ、幕張でやるライブがあるんだけど、
半年後の夏のライブだけど、出るか……?」
「はい、出させてください」
161 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:39:06.40 ID:V6x1Fopt0
即答した。もう迷わない。
あたしは電話越しでも真剣な顔で答えた。
ふとバックヤードの扉の方を見ると、
団子のように頭を重ねて、
こちらを覗く店長と桃山さんが居た。
店内をほったらかして何をしているんだか……。
でも、2人にはぐっと親指を立ててみせる。
2人ともぱあっと笑顔になるのが分かる。
「そうか、分かった……。
それじゃあ、来週の火曜18時に事務所来てくれ。
打ち合わせしようと思う」
「はい」
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