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【ミリマス】木下ひなた「潜移暗化」
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202 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:15:32.70 ID:V6x1Fopt0
「でも、ひなたちゃんも凄いよ。
今回は……その、久しぶりのライブだから端っこだけど、
本当に存在感がすごい。私も飲まれないように必死で」
そう言いながら、自傷気味に笑ってみせた。
あたしは心の中で
「端っこの癖にでしゃばるな」
という嫌味ではないことを神に祈る。
いや、たぶん違うよね。
なんか一生懸命言葉を選んでいたもの。
203 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:16:38.34 ID:V6x1Fopt0
「でも、ひなたちゃんも凄いよ。
今回は……その、久しぶりのライブだから端っこだけど、
本当に存在感がすごい。私も飲まれないように必死で」
そう言いながら、自傷気味に笑ってみせた。
あたしは心の中で
「端っこの癖にでしゃばるな」
という嫌味ではないことを神に祈る。
いや、たぶん違うよね。
なんか一生懸命言葉を選んでいたもの。
204 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:17:47.88 ID:V6x1Fopt0
「あたしも、琴葉ちゃんの表現力にずっと惹かれてて……。
センターに立っていて、本当に輝いて見えるんだよね。
どういう気持ちで、踊ったり歌ったりしてるの?」
改札を出ると、外は雨が降っていた。
田中琴葉は「うーん」と言いながらピンクの折りたたみ傘を取り出す。
あたしは、 手に持っていたビニール傘を差す。
雨が降るのは、気圧とか湿度の感じで、
朝の段階には何となく分かっていた。
205 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:18:24.52 ID:V6x1Fopt0
少し歩いたあと、田中琴葉は静かに言った。
「私ね、今度、引退するんだ」
「……」
あたしは何も返せなかった。
「そうなんだ」「どうして?」とも聞けずに、
次の田中琴葉の言葉を待つ。
206 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:19:04.56 ID:V6x1Fopt0
「これはまだ秘密なんだけれど、
実はプロポーズをされていて……。
それを受けようと思うの」
田中琴葉は、
昔シアターで一緒に居た頃は、
18歳で、それでも大人びた真面目な学級委員みたいな子だった。
あたしが今は19歳だから、
この子も、今は23歳……。
早い気はするけれど、そういうものなのだろうか。
プロポーズをされている。
つまり、付き合っている彼が居て、その彼にされたんだ。
それで、結婚をするからアイドルを引退。
207 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:19:46.48 ID:V6x1Fopt0
これが、あの真面目だった18歳の女の子が選んだ、
アイドルのゴールなんだろうか。
それとも、元から出会いのために始めたアイドルなのだろうか。
いや、それは彼女の性格を考えると無いか。
よっぽど、この人と結ばれたい、
と心惹かれる異性と出会って、
素敵な恋をしていたんだろう。
あたしは、この時、ザーザーと雨が降る中で、
雷に打たれたように合点がいく。
そうか。
やっと、分かった。
208 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:20:19.32 ID:V6x1Fopt0
のうのうと今まで生きていたあたしと、
この田中琴葉は違う。
色んなものを吸収して、
取り入れて、たくさんの経験を積んできたんだ。
親友2人に恵まれて、
ドラマみたいな素敵な恋をして、
たくさんの感情を動かしてきたんだ。
この人とあたしは、
人生経験の厚みがまるで違う……。
恋か……。
209 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:20:53.12 ID:V6x1Fopt0
夜景の素敵なレストランで食事はしたのだろうか。
深夜の高速道路をドライブしたのだろうか。
雨の日は一日中、家でDVDを見たりしたのだろうか。
どこでファーストキスを終えたのだろうか。
それはどんなシチュエーションだったのだろうか。
「ひなたちゃん?」
「……。……すごいね、おめでとう!」
210 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:21:59.77 ID:V6x1Fopt0
あたしは気がついたら足が止まっていた。
振り向いた田中琴葉に、
呼びかけられて、
誤魔化すように絞り出した
お祝いの言葉を発する。
下衆の勘繰りが伝わってないことを願う。
風が吹いて、雨が顔にかかる。
まるで、あたしの枯れた涙が
空から飛んできたみたいだ。
この日、あたしは、
死んだ魚のような目で、
レッスンに打ち込んだ。
211 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:23:16.98 ID:V6x1Fopt0
どうやったら追いつけるんだ、
こんな、アイドルの素質しかないバケモノに。
あたしがやっとの思いでスタート地点に戻ってこれたというのに。
それが今、ゴールを決めようとしている。
この、真面目すぎる委員長みたいなアイドルが選んだ、ゴールを。
そのゴールは、きっと正しくて、
きっと美しく、きっと素敵で、
誰もが羨む、最高のゴールラインなんだろうなぁ……。
そして、この日、
レッスンで上手く行かない箇所が積み重なり、
あたしは人生で初めて「ちくしょう」と声を荒げた。
212 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:24:13.22 ID:V6x1Fopt0
第5章 誰か助けて
田中琴葉のパフォーマンスの秘訣を知ってから、数ヶ月が過ぎた。
悶々とする日々が続く。
幕張で開催されるという、
あたしが久しぶりに出演するライブまで、あと一週間。
今日は7月4日。
あたしの20回目の誕生日だ。
213 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:26:32.84 ID:V6x1Fopt0
もう、すっかり夏になってしまった。
いくら田舎の出身だからって、エアコン無しじゃ
このコンクリートジャングルは生きていけない。
昼頃にバイト先のドッグカフェに入ると、
店長がレジのカウンターで、半目で船を漕いでいた。
店内には誰もお客さんは居なかった。
いいのだろうか、これで。
それにしても、寝顔、面白いな。
214 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:27:17.28 ID:V6x1Fopt0
あたしは何も考えずに、
すーっとスマホに手を伸ばし、
店長の顔をアップで写真に収める。
思わず「ふふ」と声が出てしまう。
バックヤードから桃山さんが出てくる。
「あ、見てみて」
あたしは桃山さんを呼び止め、今撮った写真を見せる。
桃山さんはそれを見ると「ぷっ」と吹き出すが、
目の前にいる店長を起こさないように、口を抑える。
それから桃山さんも同じようにスマホを構えて、写真を撮った。
あたしは桃山さんの横を抜け、
バックヤードでエプロンを付けようと支度をする。
215 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:28:05.44 ID:V6x1Fopt0
あ、そうだ。
あと一週間でライブだけど、
二人は来れるようになったのかな。
あたしは、一応二人に予定は聞いていた。
ただ……あたしは誰かを招待する、
とか招待席が用意できるようなアイドルじゃないので、
二人には自力でチケットを取ってもらうように頭を下げた。
216 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:28:37.39 ID:V6x1Fopt0
二人はあたしの事情は知っているので
「まあ、仕方ないよね」と納得して、
「取れるように頑張ってWEB先行申し込み頑張るよ!」
と言っていた。
「桃山さん、ライブの予定だけど」
「えっ!? 何!?」
あたしが、バックヤードから顔を出すと、バッと直立する桃山さん。
桃山さんは店長の顔を覗き込むようにしていたけど。
217 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:29:25.64 ID:V6x1Fopt0
今、何をしていたの……?
「あ、ライブ一週間後なんだけど、……どうだった?」
「あー、あー、うん。
えっと、あ、そうだ。店長取れてたっけ……」
あたしは不自然に動揺する桃山さんのことを考えるのを
一旦保留にして、桃山さんが店長が起こすのを待つ。
218 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:29:55.95 ID:V6x1Fopt0
それから寝ぼけた調子の店長を、
二人で盛大に責め立てるのだった。
不用心だし、営業中にたるんでいるとか。
まあ、責め立てる、というか二人して
「何やってるんですか〜もう〜」
というような、からかう感じだった。
219 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:31:05.79 ID:V6x1Fopt0
「え? ライブ? ああ、そうだ。取れたんだよそれが」
「ええ!? 本当ですか!?」
「店長張り切っちゃって」
そっか。店長、頑張ってチケット取ってくれたんだ。
胸の奥が少し暖かくなる。
220 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:31:56.25 ID:V6x1Fopt0
でも、あたしは、その会話の中でもずっと、
さっきのは何だったのだろう。
本当は何をしていたのだろう。
そういうのが気になって仕方なかった。
そのあとは、
元々あった二人に対しての
モヤモヤした感情を引きずりながら、
仕事に没頭しようとするが、
まあ、元々そこまで人が出入りするような店ではないので、
暇な時は異常なくらい暇になる。
タイミング悪く、今日はそういう日だった。
221 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:32:29.67 ID:V6x1Fopt0
そう思う必要なんて何もないのに、
あたしは今日が暇であることがタイミングが悪いと思ってしまった。
暇であればあるほど、
余計なことを考えることが多い。
予約で来るお客さんも居れば
飛び込みで来るお客さんもいるけれど、
今日はそういう人たちは居ない。
ため息が出てしまう。
最近、また増えてきたなぁ。
222 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:33:17.07 ID:V6x1Fopt0
まあ、こんな猛暑の中に、
生きた動物と触れ合おうという奇特な人はそうそういない。
なんて言ったって生きている動物たちは
それなりに体温があるから、囲まれると暑い。
店内は冷房も効かせているけれど、
それでも暑いものは暑い。
それに動物たちは考えることが
分からない時がある。
特に小さくて若い子犬の時ほど。
223 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:34:08.99 ID:V6x1Fopt0
時間を持て余したあたしは
客が居ないのを良いことに、
子犬たちと戯れている。
わざと、店長と桃山さんから距離を置いている。
二人はそんなあたしのことなどつゆ知らず。
あたしが出るライブの楽曲の予習をしているようで
二人で鼻歌を歌ったり、コールを入れたり、覚えたりしている。
その姿は本当に自由だなぁ、
とも、仕事をしなよ、とも思う。
まあ、子犬たちと戯れている
あたしが言えることではないから黙っているけれど。
224 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:34:42.64 ID:V6x1Fopt0
店長はあたしの思いも知らず、
関係なく、あたしの方にも来る。
「この曲ってやるかなぁ?」
「答えられないですよ」
「やっぱり?」
その二言三言のやり取りのあとに、
店長は「だめだった〜」と戻っていく。
225 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:35:19.80 ID:V6x1Fopt0
桃山さんとどういうやり取りをしているのかは
分からないけれど、悪口じゃないのはなんとなく分かる。
二人がヘラヘラ笑い合って
冗談を言い合っている様子も、
別にあたしのことを馬鹿にしている笑い方ではない。
あたしはそういうのは、なんとなく気がつくようになっていた。
そして、たいていそういうのは当たっている。
なんというか、微笑ましい感じだった。
226 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:35:47.65 ID:V6x1Fopt0
あたしは、子犬と戯れるのをやめて、
バックヤードで振り付けの確認をする。
音楽はBluetoothのイヤホンを使っているから、
覗きに来る店長や桃山さんに
どの曲を踊っているのか分からないようにしている。
二人には最大限にライブを楽しんでもらいたいから、
こんなところでネタバレなんて無い方が良い。
227 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:36:25.98 ID:V6x1Fopt0
「木下さん、今度のライブはね、
このあたりなんだけど、どんな感じに見えるかな?」
そう言いながら、
店長は幕張のイベントホールの座席表を見せてくる。
この辺だと、確かステージは逆側だから、
かなり遠くになりそうだなぁ。
大きなモニターはあるにしても、
実際はあたしは端っこだし、
メインどころではないので、
大きなモニターに映し出されることもとても少ないだろう。
「ここだと、……うーん」
228 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:37:26.19 ID:V6x1Fopt0
あたしは、遠いし、
見えづらいというのは分かった上で渋い反応をする。
店長はそれを聞くと「ちょっと遠そうだよね」と言う。
あたしもそれに対して「うん」と、
独り言のように呟く。
「店長は他のアーティストさんとかで
ライブに行く時は望遠鏡とか持っていったりするんですか?」
「いや、しないね。あ、もしかして、
そういうの買っておいたほうがいいのかな?」
「もしかしたら、買っておいた方がいいかもしれないですよ。
それに、結構見える位置だとしても
買っておいて損はないと思いますよ」
229 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:38:04.85 ID:V6x1Fopt0
店長は「そっかぁ」と呟く。
そういうのは店長よりも
若い桃山さんの方が詳しいかもしれない。
「桃山さんに聞いてみたらどうですか?」
「そっか。あとで聞いてみるよ。
今、ちょっと用事を頼んで、
郵便局まで行ってきてもらってるんだ」
「そうですか」
と言い切ったあとに、
二人きりになってしまったことを知る。
そして、ぽっぽっと身体が熱くなっていくのが分かる。
230 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:38:49.24 ID:V6x1Fopt0
──あたしのこの気持ちを伝えるのは今なのだろうか。
ふと、急にそんなことを思ってしまった。
いい加減、このモヤモヤを晴らしたい。
でも、きっとフラれることは分かっている。
フラれたとしても、
このあとのあたしと店長の関係性とか、
気まずさとか、そういうのどうするんだろう。
色んなものを壊す覚悟で、
この思いを告白するのだろうか。
それは、あまりにもリスクがある。
231 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:39:19.37 ID:V6x1Fopt0
あたしは少なくとも、
この3人の関係性というのは好きでいる。
ただ、誤算があるとしたら、
あたし自身も店長のことを好きであるということ。
それに、そういう一人の女性としての恋を抱く前に、
あたしはアイドルとして売り出していかないといけないんだ。
少し時間が経ってしまったせいで忘れかけていたけれど。
232 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:40:07.54 ID:V6x1Fopt0
こんな生半可な覚悟じゃ、
他の真剣なアイドルにまた置いていかれてしまう。
恋は盲目だと言うけれど、
それが急に冷めてしまった。
まるで自分が何故ここに居るのかすら
分からないくらいに、
目が覚める感覚に襲われる。
アイドルの仕事だって、
恋愛禁止とは765プロは言わないまでにしても
「バレるなよ」という暗黙のルールが強いられているのは分かる。
何人かそれで消えていったというのを風の噂で聞いている。
233 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:40:47.06 ID:V6x1Fopt0
あたしはファンを裏切ることになるのだろうか。
人を好きになることが、
誰かを裏切ることになるのか。
じゃあ、あのプロポーズされて
浮かれポンチになった、
あの真面目だったアイドルはどうなんだ。
あたしはこんなにうじうじ悩んでいて、
恋愛だか何だか分からない
このやり場の無い感情の群れに
頭を抱えているのに。
そう思うと腸が煮えくり返るようだった。
234 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:41:22.60 ID:V6x1Fopt0
でも、こんなことを考えるのも、
全部この店長とかいう人間に
目が行ってしまうのが原因なんだろう。
だから、あたしは、
半ば嫌がらせのつもりで言ってやった。
店長に八つ当たりするような言い方で、
自分の尻も蹴飛ばす。
「店長、桃山さんのこと好きですよね」
235 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:42:01.85 ID:V6x1Fopt0
あたしはついに切り込んだ。
自らの腹を切り捌くというのは
こういう気分なのだろうか。
体の中の臓物が
あちこちにねじれる感覚がする。
「て、何を……いやいや。
僕もう結構おじさんなんだよ」
「でも、見てたら分かりますよ」
236 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:43:01.79 ID:V6x1Fopt0
この店長の反応は”クロ”だった。
そう思った瞬間に、
誰かがあたしの頭上から
脳天目掛けてタライを落としたような気がした。
ガーンとぶつかって、
ぐわんぐわんと頭の中を響かせてシンとする。
「まあ、良い子だとは思うけれどね」
「あたし、次のライブが終わるタイミングで、
ここ、辞めようと思います」
「えっ?」
237 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:43:33.14 ID:V6x1Fopt0
時間にしてほんの5秒くらいだろうけれど、
あたしにはこの一瞬の沈黙が、
世界の時間ごと止めたかのように感じた。
嗚呼、言ってしまった。
もう後悔し始めている。
告白したいことはそんなことではなかったけれど。
こんな辞めるなんて計画は
自分の中には全く無かったのに、
言ってしまった。
238 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:44:16.71 ID:V6x1Fopt0
「そうなのかい?
もうそんなに忙しくなってきているの?」
店長は少し焦ったように言う。
辞めようと思う。というのは、
今この瞬間に決めた。
でも、あたしはここでの居心地の良いバイト生活を
気に入りすぎてしまった。
だから、あたしはこの場所に甘えるようになってしまっている。
239 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:44:59.32 ID:V6x1Fopt0
きっと、アイドルの方が駄目だった時、
ずるずるとこの居場所に引きずられるようになる。
だから、逃げ場所を断ち切るんだ。
「だから、あたしが居なくなっても……
桃山さんのことよろしくお願いしますね」
「……うん。分かったよ」
240 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:45:28.31 ID:V6x1Fopt0
店長はいつもの、
ほわほわした雰囲気のままだが、
キリッとした目つきになり、言う。
あたしはその顔が
少し滑稽に見えて笑ってしまった。
店長は「どうして笑うんだい」と言うが、
すぐに一緒になって笑っていた。
241 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:46:14.08 ID:V6x1Fopt0
そこに桃山さんが戻ってくる。
あたしと店長は「え? なになに?」と聞かれても、
「何でもないよ」と答えるだけだった。
その仲間はずれ感に、
桃山さんが拗ねる前にあたしは自分がバイトを辞めるということを伝えた。
桃山さんは当然のように
「じゃあ、お別れ会しないとね!」
と、そう言った。
242 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:46:50.53 ID:V6x1Fopt0
その日の休憩時間に、
あたしのところにやってきた桃山さんがコソコソと言う。
半笑いの顔で聞いてくるので、
何をからかってくるのか、
と少しだけ身構えてしまう。
「ねえ、さっき、店長とほんとはどんな話してたの?」
「え? ああ、えっと、本当にあたしが辞めるんですって話だよ」
「そうなの? 木下さん、店長に告白でもしたのかと思った」
243 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:47:20.96 ID:V6x1Fopt0
あたしは、休憩時間のために
買っていたお水を吹き出しそうになる。
「げほげほっ、ち、しないよ。どうして!?」
「だって、好きでしょ?」
あれ、何か違和感がある。
でもその違和感には気が付かないフリをして、
あたしはオウム返しのように聞き返す。
244 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:50:08.75 ID:V6x1Fopt0
「桃山さんこそ、店長のこと好きでしょ?」
「え、あたし? 無い無い。
人としては好きだけど、
同い年だったらお友達って感じだと思うよ」
そう言いながら、ヘラヘラと否定するように手を振る。
あれ……。
何か色んな余計なことをしてしまったかもしれない。
どうしよう。
自分が勝手に抱えたショックを隠すのに、
あたしは絞り出すように必要のない嘘をついた。
245 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:50:43.69 ID:V6x1Fopt0
「そっか。あたしも……同じだよ。
人としてすごく尊敬する。
あんなに優しい大人もそう居ないもの」
あたしはまた自分で言った言葉が何かに跳ね返り、
自分に突き刺さる感覚を覚える。
桃山さんは「なにそれ」と笑ってみせた。
あたしの吐いた嘘を見透かしているようだった。
246 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:51:36.69 ID:V6x1Fopt0
「でも、寂しくなるなぁ……ずっと一緒だったもんね」
「うん、……そうだよね。
あたし、桃山さんとは本当に……その」
「ん?」
「友達になれたなって思う」
言えた。
こんな気持ち、
本当は迷惑かもしれないということは分かっていた。
でも、確認したくて、言ってしまった。
247 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:52:10.40 ID:V6x1Fopt0
「うん、ありがとう!」
桃山さんは笑うだけで「私も」とは言ってくれなかった。
でも、もうこのバイトは辞めてしまうんだ。
どうでもいい。
きっと多くを求めすぎているんだと思う。
だから別にいいんだ。
別にいい、そう自分に言い聞かせる。
248 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:52:44.70 ID:V6x1Fopt0
桃山さんは休憩時間でもないのに、
近くにある椅子に座る。
そして、ため息まじりに言う。
「そっか……。私もやめよっかなぁ」
あたしは分かっているのに、聞いてしまった。
「辞める?」
「ここ」
このバイト先を、桃山さんも辞めると、そう言い出した。
249 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:53:32.80 ID:V6x1Fopt0
……。
続けた方が良いなんて、
死んでも言えなかった。
自分の方が先に辞めて行く癖に。
あたしはどうしようもなく、
「そっかぁ」と情けない声を出した。
苦し紛れに「帰ってきた時、
2人が居ないと寂しいよ」と言ってみた。
しかし、桃山さんはあたしの膝のあたりを
ペチンと柔く叩き、ピシャリと言った。
250 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:54:14.50 ID:V6x1Fopt0
「帰ってくるなんて言わない」
「……はいっ」
あたしは反射的に答えてしまう。
ここは、私と店長の愛の巣になるのだから、
帰ってくるなとか、そういうことを言ってるのかと一瞬だけ勘ぐる。
桃山さんはいつものニコニコした表情から一変して、
怒っていた。
251 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:54:48.17 ID:V6x1Fopt0
「木下さん、ここに戻ってきたり
出来ないように辞めるんでしょう?」
ドキッとした。
違う。ギクリ、とした。
バレていたんだ。
この場所からも逃げようとしていることも
きっとバレているんだろうな。
そんなに顔に出やすいのかなぁ。
もっと演技の勉強をしないとダメかな。
252 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:55:20.17 ID:V6x1Fopt0
しかし、あたしが辞めて、
桃山さんが辞めてしまったら
このお店はどうなるんだろう。
別に他にもバイトの人は
居るから大丈夫だと思うけど、
特に良くシフト入れていた桃山さんが
辞めるというのが心配だ。
253 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:56:04.31 ID:V6x1Fopt0
でも、店長のことを顔覗き込んで何かしていたよね。
あれはなんだったんだろう。
ただの、勘違い……?
それとも、桃山さんも自分の感情に
蓋をするように嘘を付いてる?
まあ……それは、この店に遊びに来れば分かることか。
「おーい、木下さーん、ちょっといいかなぁ?」
店内の方から店長の呼ぶ声がする。
254 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:56:35.22 ID:V6x1Fopt0
あたしは、桃山さんの方に
「あたし、頑張るよ」と言ってから、
そっちに向かう。
桃山さんは笑顔で頷くだけだった。
その日、帰り道、
夏の夜の下を一人歩いて帰る。
あと、数回のバイトが残っているけれど、
あの場所にあたしはもう帰らないんだ。
255 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:58:02.60 ID:V6x1Fopt0
これで良かった。
悔いもあるし、
もしかしたらあのまま店長に
自分の思いを打ち明けていれば
自体は大きく変わったのだろうか。
もし、あの時、
桃山さんが辞めると言うのを止めていたら、
何か変わっていたのか。
結構シフト入ってる桃山さんが辞めてしまったら、
お店はどうなるのだろうか。
お店がなくなる、
ということは無いとは思うけど、心配だ。
256 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:58:29.94 ID:V6x1Fopt0
でも、そんな心配はするけれど、
店長は結局、あたしのことなんて好きじゃなかった。
いや、きっとLIKEでは居てくれてる。
LOVEには決してならないだけということ。
これだけはハッキリと分かった。
やっとモヤモヤが晴れるのかな。
257 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:59:03.75 ID:V6x1Fopt0
そう考えた時に、
またあたしは気がついてしまう。
暗い夜道の街頭の灯りに照らされながら。
あたし、また一人ぼっちになるのか。
でも、今度のこれは
自分で選んだことだから良いんだ。
何度もそう自分に言い聞かせながら、
とぼとぼと家に向かって歩いていく。
「あ、……誕生日」
258 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:59:49.10 ID:V6x1Fopt0
今日一日のことを
振り返っていて思い出した。
バイトに行く時には、
もしかしたら桃山さんが
何かサプライズを用意しているかもしれない、
とか考えていた。
でも、別によく考えたら、
桃山さんはあたしの誕生日を知っていたのだろうか。
知らないとしたら、何も悪くないし、
知っていたとしても、
こんな祝って欲しい感じを丸出しにした
厚かましい人を祝いたくなんてないだろう。
259 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:00:23.72 ID:V6x1Fopt0
そうだ。あたし、もう20歳なんだ。
お酒だって買えるぞ。
自宅付近のコンビニに寄って、
スイーツのコーナーを見る。
空っぽの棚に、
ちょこんと一個だけ生クリームの乗ったプリンがあった。
あたしはそれを手に取り、
そして、お酒コーナーで
ほろ酔いのカルピスサワーをレジに持っていく。
260 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:00:58.77 ID:V6x1Fopt0
深夜のダルそうな若いお兄さんは
あたしのことをチラリと睨むように見ると、
無愛想に金額を伝えてくる。
あたしはさっと千円札を出し、払い終える。
化粧や髪型の研究とか重ねた成果は出ているのだろうか。
と疑わしくなるくらい、店員のお兄さんはあたしを見てくる。
商品を袋詰され、
受け取るとあたしは足早にコンビニを出る。
261 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:01:27.87 ID:V6x1Fopt0
そのまま、速歩きで自宅まで駆け込んだ。
真っ暗の部屋は蒸し暑く、
すぐにエアコンを付ける。
服を脱いで、シャワーを浴びる。
初めてお酒を買った。
それだけでウキウキだった。
262 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:02:06.24 ID:V6x1Fopt0
火照った身体で、
お待ちかねの初めてのお酒。
先にプリンを開ける。
そして、カルピスサワーを開ける。
プシッと炭酸の弾ける音がする。
ふわっと香る甘い香りを前に、
クラクラする。
263 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:02:43.68 ID:V6x1Fopt0
「いただきます」
カルピスサワーを一口。
……。
普通にペットボトルで売ってる
お酒じゃないものと味が変わらない。
と思うのも束の間、
身体がどんどん熱くなる。
264 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:03:12.50 ID:V6x1Fopt0
ほぅっ、と息を付くと、顔も熱いのが分かる。
それからあたしは、
プリンを一口食べた。甘い。
なんて甘いんだろう。
美味しいなぁ。
美味しいなぁ。
「あ、そうだった」
265 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:03:40.60 ID:V6x1Fopt0
プラスチックの小さなスプーンを
マイク代わりにする。
今日のことが思い出される。
「ハッピバースデートゥーユー」
店長はあたしのことなんて好きじゃなかった。
フラレずに済んだ。
良かったじゃないか。
266 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:04:09.60 ID:V6x1Fopt0
「ハッピバースデートゥーユー……」
もう店には戻れない。
あたしが自分でそうしたんだから。
「ハッピバースデーディア……あたし〜」
267 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:04:42.60 ID:V6x1Fopt0
店長のこと、好きだったんだなぁ……。
でも、この思いは叶うことはない。
まだ少しだけバイト出る日は残されているけど、
あたしは叶わない想いを抱いて、
叶わない恋をする店長を
応援する振りをしないといけないのか。
それはしんどいなぁ。
268 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:05:25.99 ID:V6x1Fopt0
「ハッピバースデー……トゥーユー……」
一人暮らしの小さな部屋に、
あたしの震える声が響く。
目の前にある液晶テレビは、
つけないから真っ黒で、
その画面が反射させてあたしを映し出す。
一人ぼっちで、
初めて買ったジュースみたいな
お酒でいい気分になっちゃって、
小さいプリン一個で幸せになっている。
269 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:06:01.63 ID:V6x1Fopt0
飛んだ大馬鹿野郎だ。
なんだこいつは。
たった一人で何をやってるんだ。
自分のせいだけど、
誰も悪くないけれど。
また、あたしは一人になる……。
270 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:07:04.40 ID:V6x1Fopt0
20歳になる最初の夜に、
あたしは耐えきれなくて涙を流した。
もう、心が折れそうだ。
辞めたい。
帰りたい。
そう言えればどんなに楽だろうか。
誰にそれを言えばいいのだろうか。
辞めてどうするのだろうか。
どこへ帰るのか。
涙が止まらない。
本当はもう要らないのに、
もったいないからもう一口、プリンを食べる。
271 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:07:44.96 ID:V6x1Fopt0
「甘……っ」
あたしは、プリンを一気に口の中に流し込む。
ほろ酔いをガッと掴んで
いっきに喉の奥に通す。
あたしは一人ぼっちの部屋で泣いた。
何が悲しくて泣いているのかなんて分からない。
膝を抱えても涙を流しても、
部屋に響くだけで、
何も起きなかった。
「誰か助けて……」
272 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:09:09.69 ID:V6x1Fopt0
第6章 もうアイドルは諦めようよ
「はい、オッケーです」
ついに明日に本番を控えるライブ。
入念な会場リハが行われていた。
この頃には、田中琴葉の引退ライブでもあることが判明し、
世間は大騒ぎになっていた。
273 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:09:53.32 ID:V6x1Fopt0
チケットの倍率は跳ね上がり、
転売の価格は高騰。
ネットのあちこちで憶測にすぎない議論が飛び交う。
それに乗っかる形でマスコミは
あらぬ噂を垂れ流し、
世間はまたもそれに奔走する。
しかし、そこは田中琴葉、
そういった出どころの不明な噂はすぐに消滅する。
真相はライブで実際に語られるだろう、
ということだけが、ファンたちの頼りの綱だった。
274 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:10:50.49 ID:V6x1Fopt0
そして、その一方で出演するメンバーたちは、
彼女の最後のステージになるのだから、
間違いやミスは万死に値する!
と言い出しかねない程の熱量があった。
現場はビリビリと緊張感が走る。
一つのミスも許されない。
誰もが好きだった彼女に華を持たせるんだ。
その全員の意気込みで、
圧倒的な苦しみを産み出しながら、
本番は迫ってくる。
275 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:11:31.02 ID:V6x1Fopt0
これまで、心が何度も折れながら、
喰らいついていったあたしは
その熱量にやられることなく済んでいる。
だけど、あたしよりも若い女の子達は、
前々からいる765プロのアイドル達の
熱意について行けずに弱音を吐く姿が見えてきている。
「ほら、立って。大丈夫だから」
そう若い子に話しかけるのは所恵美だった。
276 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:12:10.14 ID:V6x1Fopt0
親友の田中琴葉がメインとなるライブで
最も気合が入っていたアイドルの一人である。
優しく声をかけているように見えるけれど、
彼女の本質はそこではない。
自信を亡くしたり、
戦意を失いかけた女の子たちを一人で呼び出し、
個別に話をする。
そうやって話しかけられた女の子たちは戻って来ると、
全員が洗脳されたかのようにキビキビ動き出す。
277 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:12:54.02 ID:V6x1Fopt0
キビキビ動き出すところにやって来るのが
もう一人の親友である島原エレナだった。
緊張に圧迫される女の子たちを
ほぐしに行くのが彼女の役目であり、
飴と鞭が上手いこと完成するのである。
それが洗脳を加速させるのだが……。
本当に洗脳しているのか、
それとも脅しているのか。
一体どんな話をされたのかはあたしは知らない。
何にせよ、この会場リハが行われる頃には
「鬼の副長」と噂される程だった。
誰もが彼女の顔色を伺う。
278 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:13:25.79 ID:V6x1Fopt0
当然あたしはそんなことしない。
何故ならこのライブは、
あたしにとって復帰の最大のチャンスであり、
田中琴葉の引退ライブだとかいう
どうでもいいこととは関係がない。
「ひなたはやっぱりすごいね」
あたしは帰り支度をしようと楽屋に戻ろうとしていた時、
鬼の副長こと所恵美に会場の廊下で話しかけられる。
ギクリとする。
今すぐここから逃げ出したいくらいだ。
279 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:14:10.97 ID:V6x1Fopt0
元々彼女とは、ノリが違うというか、
彼女のテンションには
どうにもついて行けないところがある。
学校内のクラスカーストで言っても、
あたしと所恵美のポジションは明確に差があると言える。
しかし、すごいね、
の意味が分からず素直に聞くことにした。
280 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:15:19.40 ID:V6x1Fopt0
「なにが?」
あたしは「しまった」と思う。
何せ、話しかけないで欲しいという感情が
語気にまるまる乗ってしまうような強い言い方になってしまった。
これではまるで喧嘩腰に見えるだろう。
しかし、所恵美はそんなことはどうでも良さそうに、
ただあたしの質問に答える。
あたしのような格下の喧嘩は
買わないと言わんばかりの余裕だった。
281 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:16:13.10 ID:V6x1Fopt0
「やっぱり昔から知ってるメンバーって
どこか根っこが違うっていうか。
ひなたも同じように凄い根っこがあるっていうか。
あんまり上手く言えないけれど、
ひなたには自信を持って、ステージを任せられるよ」
「……そっか」
あたしはそれだけ言うと、
その場から逃げるようにして去ろうとした。
282 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:16:50.22 ID:V6x1Fopt0
ステージを任せられる?
あたしはその言葉を鼻で笑う前に立ち去らないと。
端っこしか空いていなかったのに、良く言うよ。
まあ、最も、そんなステージの立ち位置なんてものは
所恵美が決めているという訳ではないというのは分かっているが。
283 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:17:32.30 ID:V6x1Fopt0
それ以上、あたしは所恵美と
話をすることなんて何も無いと思った。
それともこのタイミングで
そんな風に話しかけてきたのは、
あるいは逆のことを意味しているのだろうか。
明日は大事なライブなのだから、失敗するなよ。
昔からアイドルやってるんだもんね。
そうそう失敗なんかしないでしょ?
284 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:18:03.68 ID:V6x1Fopt0
そういう心根が聞こえて来る気がして、耐えられない。
あたしは所恵美に背を向けて歩こうと振り返ると、
目の前にはプロデューサーが居た。
まるであたしの行く道を塞ぐように立っている。
「……お疲れさまです」
「ああ、お疲れ」
285 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:18:36.14 ID:V6x1Fopt0
今度は苛立ちや、
負の感情が乗らないように制御できた。
と思ったが、プロデューサーはあたしのカバンを持っていた。
無言でそのカバンを渡されたあたしは、
まず財布の中身をチェックした。
別に何も減ってはいなかった。
286 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:19:21.80 ID:V6x1Fopt0
「電話が鳴ってたっぽいんだが。ずっと。
何度も鳴ってたから緊急じゃないのか?」
「電話……?」
あたしは、カバンの中にあるスマホを探し出す。
あれ、どこにやったんだろう。おかしいな。
こうやって急いで取り出そうとする時ほど、
スマホは出てこなくなるの、なんなんだろう。
287 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:20:03.29 ID:V6x1Fopt0
「明日はライブ本番なのに大丈夫なのか」
緊張感漂う現場の空気に押されたのか、
苛立った声色を見せるプロデューサーは、
横でカバンをひっくり返す勢いで漁るあたしの背後からカバンを覗いてくる。
それを所恵美が首根っこ掴んで
「こらこら、女子のカバンを覗かないの」
と辞めさせている。
その後も腕組みをした指先は
トントンと腕を落ち着き無く叩いている。
288 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:21:27.17 ID:V6x1Fopt0
そうこうしている間に、
3人が立ち往生している廊下に着信音が響く。
あたしはその音と、
スマホが出すヴァイブレーションの振動で、
すぐにカバンの脇のポケットに入れたことを思い出し、
スマホを取り出す。
画面には「お母さん」と書かれていた。
背筋が凍るような嫌な予感がする。
289 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:22:30.12 ID:V6x1Fopt0
お婆ちゃん娘だったあたしは、
お母さんとは殆ど連絡を取ったりしない。
本当に緊急の時にしか、連絡を寄越さない。
その緊急具合は例えば、──家族に何かがあった時。
前は、どうだったっけ。
何があったかは忘れたけれど、
祖父母に任せっきりの母親が
あたしのことを呼び出す、
というだけでただ事ではないのだけは分かる。
290 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:23:05.16 ID:V6x1Fopt0
あたしは、所恵美とプロデューサーに
背を向けて電話に出る。
「もしもし……?」
「あ、やっと出た! ちょっと、今大丈夫?」
291 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:24:00.67 ID:V6x1Fopt0
母の声は、どこか焦っている様子で、
やっぱり何か緊急のことがあったんじゃないかと思う。
あたしは「うん」と言いながら、
チラリと背後の二人の方を見る。
二人共、心配そうに、……は見ていない。
その目は、どちらかというと
「何かトラブル?」
「これ以上トラブルは起こさないでくれよ」
「明日が本番なんだぞ?」
という目だった。
292 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:24:52.23 ID:V6x1Fopt0
二人の様子を伺うあたしを見て、
プロデューサーは口をへの字にひん曲げながら
「ふん……」とため息にも似たイライラが見える鼻息を漏らす。
その二人から目を逸らす時、
電話の向こう側の母は言った。
「お爺ちゃん、倒れたの。
お医者さんが言うには、もう長くないって」
「……」
293 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:25:23.72 ID:V6x1Fopt0
あたしは声が出なかった。
思考が追いつかない。
目の前が真っ白になっていく。
あたしが爺ちゃんと婆ちゃんの家に居た頃は
それほど前ではないはずなのに。
あの頃はすごく元気にやっていたと思っていたけど。
それが、もう長くない……?
294 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:25:59.67 ID:V6x1Fopt0
何かの冗談ならそう言ってほしい。
今のあたしにはそんな冗談を受け止めるほど、
広い心を持っていない。
しかし、長くないと言われても、
……ふと背後の視線に気がつく。
トラブルを嫌うプロデューサーの
厄介そうな視線が痛い。
あたしは鬱陶しがるように、
少し強い口調で言う。
295 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:26:28.43 ID:V6x1Fopt0
「な、んで……今それを言うの……?」
「あんたがいつまで経っても電話も出ないし、
連絡をよこさないからでしょう!?」
母の怒気が強い言い方に、
思わずスマホから耳を離してします。
恐る恐る耳に戻し、母に聞く。
296 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:27:10.48 ID:V6x1Fopt0
「爺ちゃんは、どうなるの」
「だから、長くないんだってば。
ねえ、帰ってこれない?」
「あたし! 今すぐには帰れないよ!?」
話の通じない母にイライラする。
あたしは嫌な予感がしたので、
先手を打って、話を遮るようにして言う。
297 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:28:02.61 ID:V6x1Fopt0
「あたし、明日は大事なライブなの!
これを逃したらあたしはもう、戻ってこれない!」
どうか。
どうか言わないで欲しい。
「何言ってんの!?
お爺ちゃん死んじゃうかもしれないんだよ!?
あんた最後に会えるかもしれない
っていうチャンスがあるのに、どうするの!?
アイドルのこと、また頑張ってるのは知ってるけれど、
また頑張り直せばいいじゃない!?」
そんなことは分かっている。
だから言わないで欲しかった。
298 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:28:47.95 ID:V6x1Fopt0
心配事やキレたり感情が爆発すると
おっかないくらいヒステリーを起こす母の癖は変わっておらず、
矢継ぎ早に何か言ってくる。
話の聞かない母にイラつくあたしは、
スマホを地面に叩きつけないよう必死だった。
「聞いてるの? ねえ!
お爺ちゃんにはもう一生会えないかもしれないんだよ!?」
「聞いてるよ……」
299 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:29:19.04 ID:V6x1Fopt0
爺ちゃんには感謝してる。
でも、……だってあたしは
爺ちゃんのために頑張ってきたのに。
死んじゃえば、
この頑張りを認めてくれる人は誰が残っているの!?
300 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:29:49.16 ID:V6x1Fopt0
でも、爺ちゃんは言ってた。
また、テレビで見たいって。
そのために、このライブは絶対に欠かせない。
何よりも、背後にいるプロデューサーとの間には、
ドタキャンでの重く苦しい思い出がある。
絶対に、絶対にここで帰る理由にはいかない。
301 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 22:30:33.00 ID:V6x1Fopt0
「お母さん、爺ちゃんに電話繋いでよ」
「は!? 意識もないのに、 どうやって……。
今、集中治療室に入ってるからそんなこと出来ない」
そんなに重症なのか……。
それならそうと早く言って欲しい。
電話も出れない、せめて受話器越しにでも
声をかけられたりでも出来れば良かったのに。
母は言う。
「あんた帰っておいでよ」
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