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【ミリマス】木下ひなた「潜移暗化」
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102 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:06:29.65 ID:V6x1Fopt0
「携帯は繋がるように一応してるから」
「ああ」
「北海道の爺ちゃんと婆ちゃんの家に帰る……から」
「ああ」
それだけ話をすると、あたしはその場を去ろうとした。
そして、プロデューサーは
慌てたようにあたしを呼び止めて言った。
でも、この瞬間にあたしは
自分が何か引き止められる言葉を
言ってもらうことを期待していたのが分かる。
こんなに心の中に花が咲くような、
気分になったのはいつ頃だっただろうか。
103 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:07:19.09 ID:V6x1Fopt0
「ひなた、今、プリンターで出した。
紙、そういう書類だから書いて提出しておいてくれ」
「……はい」
あたしの中にぱぁっと咲いた花は、
一瞬でぐしゃっとしなびれて真っ黒になって、
枯れ、花弁をボロボロと落とした。
あたしは、サーッと書いて、
それをプロデューサーの机に置いておいた。
プロデューサーはその頃には、もう机には居なくて、
開けっ放しのカバンの中にはタバコが見当たらなかったので、
屋上にタバコを吸いに行ったんだろう。
104 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:07:47.42 ID:V6x1Fopt0
あたしはそのまま、
誰に、何を言うでもなく、事務所を出ていった。
階段を降りて事務所を出ても。
電車に乗るときも。
誰もあたしには気が付かない。
マスクも帽子も必要ない。
あたしレベルの芸能人が変装だなんて。
105 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:08:22.86 ID:V6x1Fopt0
それからあたしは、
両親を飛ばして、婆ちゃんと爺ちゃんに連絡した。
婆ちゃんはあたしの心境を深く理解している、
ということは、多分ないんだと思う。
難しいことは分からないんだと思う。
「ん、じゃあしばらくこっちに居てくれるんだね」
と言ってくれた。
あたしはアパートのワンルームの
ガスや水道を止めたり、
色んな手配を済ませてから北海道に戻ることにした。
106 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:09:06.92 ID:V6x1Fopt0
東京を出る前日の夜。
あたしは、何もしないでベッドの上に居た。
自分をまるごと抱えるように膝を抱いて、
部屋の何もない虚空を見ている。
感情が湧いてこない。
薄暗い部屋に、何も音がしない。
かすかに聞こえる、外の車の音や、バイクの騒音。
107 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:10:56.00 ID:V6x1Fopt0
そうやって、無の空間に
自分を落とし込んで一晩を過ごした。
気がつくと朝になっていた。
不思議と眠くはならなかった。
そして、北海道に来て、もう一ヶ月が経つ。
108 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:11:30.69 ID:V6x1Fopt0
爺ちゃんは最初、とても喜んでくれた。
「東京はどうだ?」とか
「松平健には会ったか?」とか
そんなことをあたしに聞いてきた。
婆ちゃんがそんなあたしのことを
「しばらくはここに居るから」と説明すると、
「そうかそうか」と言った。
それは多分「いつまでも好きなように居たらいい」
という意味が込められた気がする言い方だった。
109 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:12:34.27 ID:V6x1Fopt0
婆ちゃんは何も言わなかった。
最初に連絡をした時と同じように説明したので
分かったような分かっていないような感じだった。
でも、そんな爺ちゃんだったけれど。
一週間も経つ頃には
「ひなたはいつまで居るんだ?」
とか言うようになって、
あたしはそれに対して、ただ苦笑いをするだけだった。
それで、爺ちゃんは
シュンとした顔をするあたしを見て
「ああ、しまった」みたいな顔を一瞬するのだけど、
3日くらいしたら忘れてしまうのだった。
あたしに同じ質問をしてしまし、
それが婆ちゃんに見つかると咎められるのだった。
本当はあたしも分かっているんだ。
110 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:13:54.33 ID:V6x1Fopt0
いつまでも、ここで甘えていてはいけない。
どこかで自立しなおさないといけない。
──そのまま、一ヶ月が経過していた。
111 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:14:22.85 ID:V6x1Fopt0
素麺を食べ終わったあたしは、
流しに持っていき、自分の食べた分の食器を洗う。
後から爺ちゃんも持ってきて、
爺ちゃんは流しの横、あたしのちょうど少し隣に置く。
無言の圧力を感じる。
爺ちゃんは古い人だから、
家事は女の人がやるもんだって、
普通に思っている。
それと同じで「働かざる者食うべからず」
という気持ちもあるらしい。
112 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:15:20.82 ID:V6x1Fopt0
だからあたしは爺ちゃんや婆ちゃんの
お仕事も手伝うことにしている。
近くの農家は爺ちゃん婆ちゃんと
同じ年齢の人たちが多く居て、
あたしが爺ちゃんたちと一緒に居ると
「いいねえ〜」と羨む声をあげる。
その度にかぶっていた麦わら帽子を深く、
ぎゅっとかぶり直す。
113 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:16:00.23 ID:V6x1Fopt0
こんな所でテレビに出ていたころがバレようもんなら、
あっという間に噂がそこら中に広がって、村から浮いてしまう。
なんだか今は、アイドルとかテレビとか
そういう世界とは無関係の所で、
無関係のあたしで居たかった。
自分が求めていたものなのに。
今はそれを切り離したくて仕方ない。
114 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:47:16.97 ID:V6x1Fopt0
あたしはまたテーブルに座り、
野球を見始める爺ちゃんの横を通り抜けて、
自分の部屋として空けて貰った部屋に行く。
スマホを手に取るまで、あたしは何も考えなかった。
無意識に近い。
充電器に差しっぱなしだったスマホを手に取り、LINEを見る。
あたしが送ったメッセージはあるけど、
誰も返事などしてきていなかった。
あんまりあたしが発言しないグループの
画期的なやり取りは見える。
添付画像に、楽屋で撮影された自撮りが目に入る。
可愛いなぁ。
115 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:49:02.98 ID:V6x1Fopt0
スマホで、自分を撮影してみる。
暗がりの部屋で撮った陰のある自分の写真は、
保存しないですぐ消した。
あたし、こんな顔だったっけ。
スマホで適当なネットニュースを見る。
くだらない、どうでもいいニュースの
リンク先の別のニュース、
そのリンク先にある別のニュース。
誰が誰と付き合っていた。
浮気現場発見。
問題発言に謝罪。
どうでもいいなぁ……。
116 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:52:22.94 ID:V6x1Fopt0
どうでもいい、と思いながら、
色々見て回って、お昼の休みを全部使ってしまう。
爺ちゃんは13時まではお昼休憩としているし、
婆ちゃんもそうしているから、あたしもそうしている。
最後にチラッと見たニュースは
「ダブルエース、改名後はJus-2-Mintに決定!」だった。
スマホを鞄の近くに置く。
「そっか〜変わったんだ」
そう口に出して言ってみる。
言ってみたら余計に浮き彫りになってしまった。
あたしが、どうでもいいと思っていることが。
117 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:53:21.69 ID:V6x1Fopt0
その日の夜。
日が落ちる頃には片づけやら道具の手入れやらが終わる。
あたしはいつもと同じようそれを終えた後、家に戻る。
家で晩ご飯を食べる。
漬け物と、揚げ物。
それに白いお米。
キラキラ光る白いお米が、
爺ちゃんと婆ちゃんに比べると、
おかしなくらい山盛りになっている。
あたしはそれを見て、
心の中で「またか」と思ってしまった。
118 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:54:07.77 ID:V6x1Fopt0
「婆ちゃん、あたしこんなにいらないよ」
「遠慮しないで食べればいいよ」
「そうじゃなくてね。
こんなに多い量は食べられないよ。
爺ちゃんと婆ちゃんと同じくらいでいいんだよ」
婆ちゃんは申しわけなさそうにする。
爺ちゃんはそれに対して何も言わない。
119 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:57:21.64 ID:V6x1Fopt0
重たい空気の中で、テレビの音が聞こえる。
どこかで聞いたとこのある声だった。
「じゃあ多かったら残してもいいからね」
「うん……」
そう言われて、あたしはいつも食べてしまう。
この生活を続けていたら、本当に太ってしまうなぁ。
昼間に動いているとは言え……。
それに、やっぱりあたしは居候だし、
遠慮するなと言われても無理だ。
120 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:58:57.40 ID:V6x1Fopt0
流石に一ヶ月も一緒に過ごしてきた祖父母との会話は、
ハッキリ言ってしまえば退屈なソレだった。
何度もした会話、何度も聞かれた質問。
あたしのことを本当に好きで居てくれているのは分かる。
これが老いであり、仕方のないことだということも理解している。
でも、今のあたしにはそれらを受け入れる度量はなかった。
121 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 19:59:48.14 ID:V6x1Fopt0
いつもなら可愛らしいなぁ
とか思っていたはずなのに。
どうしちゃったんだろう。
ご飯のあと、
既に婆ちゃんが沸かしてあるお風呂に入る。
湯船は熱くもなくヌルい。
あんまり熱いお湯にしと、
婆ちゃんや爺ちゃんが逆上せてしまっても困る。
あたしはせめてシャワーだけでも熱いお湯に変えて、身体を洗う。
122 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:00:31.29 ID:V6x1Fopt0
ここにあるシャンプーは
市販のものでリンスもあるけれど、
あたしの髪の毛はどんどん潤いを無くしていく。
頭から降り注ぐ熱いシャワーの雨の下で、
大きなため息が出てしまう。
違う。
良くないよ、こんなの。
でもどうしたら変われるか、
昔のようにキラキラした自分に戻れるのか分からない。
爺ちゃんや婆ちゃんにだって
このまま甘えている訳にもいかない。
123 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:01:19.23 ID:V6x1Fopt0
あたしはシャワーの温度を
元に戻してからお風呂から上がる。
リビングの方では爺ちゃんが足の爪を切っていた。
その横を素通りして寝室に行こうとした時、
爺ちゃんが声をかけてきた。
「ひなた。ひなたはもうテレビには出ないのか?」
……。
またか。
「……ううん。今は少しばかり休憩してるんだ。
だから、しばらくは出ないっていうだけだよ」
「ひなたの歌ってる所、また見てえなぁ……」
124 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:02:14.88 ID:V6x1Fopt0
それが爺ちゃんが何のつもりで言った言葉なのか
あたしには分からなかった。
励ましているの?
それとも失望しているの?
残念に思っているの?
ただ、自分の孫がテレビに出ているのが嬉しいだけなのに、
どうしてあたしはこんなことを思うようになってしまったのだろう。
自分で自分に嫌気がする。
125 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:02:55.20 ID:V6x1Fopt0
「あたしも……本当は戻りたいんだけどね」
「なあ、ひなた」
パチ、パチ、と爪を切りながら、
爺ちゃんは言う。
「おめえ、帰れ」
それはハッキリとした口調だった。
命令だった。
126 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:03:57.41 ID:V6x1Fopt0
「え」
と情けないことを漏らすあたしに
爺ちゃんはもう一度言う。
「東京に帰れ」
この時、
あたしの中にビリッと電気が走り、背筋が伸びる。
北海道の夜の虫の音が聞こえる中で、
あたしは小さく「……ハイ」と返事をした。
127 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:05:36.48 ID:V6x1Fopt0
「まだ、やり残したことがあんだろ?
俺には細かいことは分かんねえけど。
もう一回見せてくれよ、テレビでさ」
あたしは、なんて自分がチョロいんだろうと思った。
なんでこんなに、
誰かが必要としてくれているのに
気が付かなかったのだろう。
こんな簡単な言葉で、
あたしは背中を押されている。
もう一度頑張ろうかなと思えている。
ただ、不安が無いと言えば嘘になる。
不安だらけで、どうしようもないくらいに押しつぶされそうだ。
でも、戦わなくちゃいけない。
自分はもう一度ステージに戻らないといけない。
128 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:06:33.88 ID:V6x1Fopt0
あたしは、小さくなった爺ちゃんの背中に向かって、
不安を抱えたままの「うん」とも「うーん」とも捉えられる生返事を返す。
でも、気がつけば、あたしはもう東京に帰る気で居た。
東京に帰ったらやらなくちゃいけないことは山程ある。
まずはプロデューサーに連絡をしないと、
もう一度戻りたいと連絡をしないと。
もう一度やり直しをさせて欲しいと言わないと。
もう一度みんなの期待に答えないと。
129 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:07:37.17 ID:V6x1Fopt0
失った信用や期待を取り戻すのは本当に難しい。
それは一ヶ月間、自分が暇つぶしに見ていた
立て続けに起こる芸能人の不祥事のニュースで思い知っている。
世間の目は易易と罪を背負った者を許しはしない。
それはあたしのことを見放した事務所のみんなもそうだ。
だからあたしは人一倍これから努力する必要がある。
そして、爺ちゃんは……
なんて不器用な人なんだろう。
”全部の足の爪が深爪になっていた”……。
130 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:08:42.67 ID:V6x1Fopt0
第4章 私ね、今度、引退するんだ
何日も何日も続くレッスンに、
あたしは何一つ文句を言わなかった。
元々レッスンに文句を言うことはなかったけれど、
でも口に出さなくても不満が募っていくことがあった。
どうして、あたしばかり……。
そういう傲慢さがみんなには伝わっていたんだ。
あたしは爺ちゃん譲りの不器用で、
そんなこと言える義理じゃない。
だから自分の力でなんとか這い上がるしかない。
131 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:09:36.33 ID:V6x1Fopt0
でも、復帰後のレッスンは本当に厳しかった。
肉体も精神も、悲鳴をあげていた。
自分からトレーナーに
厳しくお願いしますと申し出たせいもあるけれど。
週に6日のレッスン。
一日に午前午後で別のレッスンを入れることもあった。
午前中は個人のレッスン、トレーニング、
それから午後は若いアイドルや
勢いのある年下のアイドルたちに混じってのレッスンをする。
私よりも勢いのある子たちのやる気や体力は
本当に底なしで、あたしは付いていくのに必死だった。
132 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:10:41.84 ID:V6x1Fopt0
初日はそれこそ
「誰この人?」
「ああ、なんか病んでて休業してた……」
「なんでこの人帰って来たの?」
という痛々しい視線が向けられていた。
実際に踊って見せてみても
その視線の痛さは変わらない。
むしろ強まるくらいだ。
「本当になんでこの人来たの?」
そういう会話も実際に聞こえてくるくらい
あたしの動きは何もかもがダメダメだった。
133 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:11:11.80 ID:V6x1Fopt0
足がもつれるなんてことは常にあった。
隣の人にぶつかる。転ぶ。
その度に、刺さるような視線と、気まずい空気。
年下の女の子たちに気を使われる、息苦しさ。
歌を歌っても音程が外れる。
分からなくなる。
そんなことが多かった。
134 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:11:41.44 ID:V6x1Fopt0
でも、絶対に挫けなかった。
挫ける、という感情を
今度はどこかへ忘れたかのように、
あたしは何もかものレッスンにがむしゃらに挑んだ。
それでもあたしは一人ぼっちだった。
ただ、目標のために前へ突き進んでいた。
135 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:12:16.50 ID:V6x1Fopt0
目標っていうのは
もう一度テレビでライブをすること。
とにかく、まずは曲をもらえる程度のレベルになること。
そのためにはまずは、
信用、信頼をもう一度取り戻さないといけない。
爺ちゃんのために。
136 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:13:13.62 ID:V6x1Fopt0
それを自分へ言い聞かせて、
レッスンに取り組む。
その思いを、アイドルをもう一度やり直すための言い訳にしていた。
そして、その言い訳を燃料にエンジンに火を付ける。
まだまだ燃え続ける、あたしのエンジン。
もう一度やり直すんだ。
そうやってレッスンを繰り返しながら、
あたしにもう一度チャンスが舞い降りる時をジッと待った。
そして、その時はやっと来た。
それは、あたしはもう19歳にもなる頃の冬だった。
137 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:14:33.69 ID:V6x1Fopt0
週6で入れていたレッスンも3日まで減らして、
その合間にあたしはバイトも始めた。
基礎はもう勘も取り戻してきたし、
もっと他のことにも時間を割かないと、
ということを同じようにレッスンを受けている、
あたしよりも年下の大人びた女の子を見て学んだ。
自分で雑誌を買ってファッションの勉強もした。
色んなYouTubeの動画を漁ってメイクの勉強もした。
髪の毛も少し伸ばした。
髪の毛のセットの仕方も動画で勉強をした。
138 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:15:30.47 ID:V6x1Fopt0
動画の中の人は、あたしなんかよりも
メイクのことが好きで、
一生懸命で、流行にも敏感だった。
あたしも負けないように、
自分に似合ったものを
幾つか手札として持っておくべきだと考えて
日夜、色々なメイクを試している。
昔、事務所で誰かにメイクをしてもらったことがある。
その時のあたしはなんだか別人のようで、
キラキラと輝いて見えた。
でも、今のあたしはそんな風に
同じようにメイクをしたとしても、
キラキラと輝いていなくて、
どこかくすんでいる。
139 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:16:19.66 ID:V6x1Fopt0
雑誌の中には、
先に羽ばたいていった
同僚だったアイドルたちが載っている。
その雑誌に使われている写真は、
素直に「可愛い……」とため息が出るくらいのものだった。
どこの雑誌を見ても
あの頃一緒に頑張っていた誰かが居る。
テレビを見ても、
あの頃一緒に頑張っていたライバルたちが居る。
140 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:17:10.68 ID:V6x1Fopt0
そして、その誰もが、
もうあたしの味方ではない。
この事務所にももう未練もないし、
どこか別の事務所に移って
やり直すという方が早いのかもしれない。
この頃になるとあたしが
段々と仕事を覚えていったバイト先の方が
なんだか求められている気がしてきて、楽しかった。
日々の癒やしにもなっていた。
そのバイト先は、ドッグカフェ。
141 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:18:56.63 ID:V6x1Fopt0
小さい犬達が所狭しと暴れまわり、
それを操りながら接客をしている。
あたしは子犬たちにすごく懐かれてしまった。
特別何かをしたわけじゃないのに。
バイト先にはあたしと同じ年齢の女の子が一人いる。
彼女の名前は桃山エリカさん。
あたしとは似ても似つかないくらい可愛い女の子だ。
特徴的な優しくニコニコした顔がとても接客向きだと思っている。
ウェーブのかかった髪は
肩ぐらいまであるけれど、短く後ろで束ねている。
142 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:19:51.35 ID:V6x1Fopt0
「おはよう桃山さん」
「あ、木下さんおはよう。
あ、今日はチークいい感じだね」
「本当? 上手に出来たかな?」
桃山さんは「うんうん」と
自分のことのように嬉しそうに喜んでいる。
その姿を見てあたしも嬉しくなってくる。
彼女は、唯一の今のあたしの味方だ。
143 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:20:24.00 ID:V6x1Fopt0
あたしと桃山さんは
桃山さんの方が少しだけ
このバイト先では先輩になる。
でも、同い年だということを知ると、
あたしにも気をつかないでいいと言ってくれた。
そこから桃山さんが人懐っこいおかげで
あたしはすぐに彼女と打ち解ける事ができた。
144 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:21:09.98 ID:V6x1Fopt0
桃山さんにはバイトの休憩中も、
仕事の最中も色んな話をしたり、
色んな相談に乗ってもらったりした。
あたしも代わりに彼女の相談に一生懸命答えた。
それが良い方向に向かうこともあったし、
悪い方向に行くこともあった。
でも、それで喧嘩をする程、
桃山さんはあたしには
強く当たったりそういうことはしない。
最初のうちは、それはもしかしたら、
あたし自身に期待をしていないのかもしれない、
とそう考えたこともあった。
145 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:21:40.70 ID:V6x1Fopt0
北海道を出て、
765プロという事務所に入ってきて、
初めて出来たアイドル以外のお友達が彼女だった。
人当たりの良い彼女は
お客さんからも人気だし、
犬達にも好かれていた。
彼女が歩けばその後ろを
歩いて付いてくる子が何匹も居る。
146 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:22:19.62 ID:V6x1Fopt0
「すごいね、みんなにも人気だし、
お客さんからの信頼もあるなんて。
あたし何度言われたか分かんないよ。
桃山さん今日はいないのって」
「そんなことないよ。
木下さんもすごくお客さんから人気あるんだよ?」
そう言いながら桃山さんはニコニコしていた。
それでいて、謙虚なんだ。
あたしも見習わないと。
147 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:23:09.47 ID:V6x1Fopt0
「そういえば、この前木下さんのこと
すごく可愛くなったって、店長言ってたよ」
「ええ……本当に?」
可愛くなった、というのは、
自分が前まではあまり可愛くなかったのか、
なんて意地悪なことを考える前に、
あたしはそれを聞いて素直に喜ぶことにした。
だって、それは自分が可愛くなろうとか、
綺麗になろうとか、そういう思いでやっている
日々のあれやこれが認められているということだから。
この調子で頑張っていかなくちゃ。
148 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:23:40.24 ID:V6x1Fopt0
「うん、それに、木下さん。
方言も少なくなってきたよね」
「あ、ほんとに? そっちの方が嬉しいかなぁ」
「そうなの? どうして?」
「だって、いつまでも東京にいるのに、
北海道の方言が抜けないのってなんだかちょっと……」
149 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:24:50.00 ID:V6x1Fopt0
桃山さんはいつもこの話をすると
「方言女子って羨ましいと思うんだけど」と言う。
彼女は東京出身の女の子なので、
特に方言がないから羨ましいのだそうだ。
あたしはというと、
そういう「方言を喋る、田舎出身の女の子」である
というキャラクターに甘えていたんだと思う。
私みたいなテンポの遅い喋り方は
中々矯正することができないでいるけれど、
「方言女子」であり、「テンポの遅い喋り方をする女の子」
というカードで守りに入っていたところが、
どこかであったんだと思う。
150 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:25:33.22 ID:V6x1Fopt0
以前、憧れていた大森さんという
今も活躍する方に直接
「方言女子は良い」
みたいに褒められことで
付け上がっていたんだろう。
同じように田舎の出身の女の子であっても、
バリバリ動けるような子はたくさんいるし、
あたしはそういうのを見てみぬフリをしてきたんだと反省した。
151 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:26:09.74 ID:V6x1Fopt0
だからあたしは、
今まで持っていた「田舎のおばあちゃんっ娘」とか
「方言を喋る子」とか
「テンポの遅い喋り方をする女の子」というのを
卒業することに決めた。
いつまでも自分がそのポジションに
居座ったままやり過ごせる程、
この業界は甘くはないんだと思う。
152 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:27:06.11 ID:V6x1Fopt0
そんな他愛の無い雑談をしていると、
奥からブラシを抱えた店長が出てくる。
30代も超えたあたりの店長は
おっとりとしたへの字に曲がった目と
垂れた眉が特徴の背が高い、
というかひょろ長い男性だ。
多分765プロに居たプロデューサーが
身長170センチあるって言ってたから、
たぶんそれよりも大きいんだと思う。
この店長は、今あたしが目指しているものとは
全くの正反対の位置にいる人だった。
153 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:27:53.32 ID:V6x1Fopt0
いや、たぶん前のあたしに似て、
すごくおっとりとした人だったからこそ、
自分がこう見えているというのを
客観視させてくれた人だった。
「私の”おっとり”ってもしかして、
いつの間にか人を傷つけたり、
イライラさせたりしていて、癒せないのかも」
そう思いながら、
あたしは自分自身を見直すことが出来た。
そんな風に店長を見ているのがバレたら
嫌われてしまうかもしれない。
それは嫌だな。
154 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:28:31.96 ID:V6x1Fopt0
そう、嫌われてしまうかもしれない、
という心配の仕方も増えてきた。
誰かに嫌われる怖さをどこかで知ったから。
でも、これはいつかプロデューサーが
言っていたけれど
「誰にでも好かれるなんてのは不可能だから。
そういう自分を攻撃してくる何かから
心を守る方法を身につける必要がある」
そう言っていた。
155 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:31:51.73 ID:V6x1Fopt0
今なら分かる。
若いあたしはそれが分からなくて
人の悪意を考えてしまっていた。
それで、ずぶずぶと抜け出せない沼に沈んでいった。
「どうしたんだい? 怖い顔をしているよ」
店長はあたしの顔を覗き込む。
反射的に身体を引いてしまう。
156 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:32:25.66 ID:V6x1Fopt0
「な、なんでもないべさ。あっ」
思わず、これも反射的に、
昔の言葉遣いが出てしまう。恥ずかしい。
顔が赤くなるのが分かる。
あたしは犬たちにブラッシングする店長の背中を
見ながら店の奥にあるバックヤードに入っていく。
そのあたしを追いかけるように、桃山さんが入ってくる。
「木下さん〜。顔真っ赤」
「あ、もう」
157 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:32:58.38 ID:V6x1Fopt0
桃山さんはいつものニコニコ笑顔ではなく、
ニヤッとした笑みを浮かべていた。
そんなんじゃないのに。
桃山さんがからかってくるのも別に嫌な気はしない。
桃山さんはそれだけ言うと、
バックヤードから去っていった。
何しに来たんだろうか……。
店内を覗くと、
同じように店長をからかっている桃山さんの姿があった。
158 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:33:58.18 ID:V6x1Fopt0
ああ見えて色恋の話が好きなのかな。
本人に浮いた話はあまり無さそうに感じるけれど、
でもきっとモテるんだろうなぁ。
今度聞いてみようかな。
さっき、からかわれている時、
店長はどんな顔をしていたんだろう。
159 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:34:25.16 ID:V6x1Fopt0
その時、一本の電話がかかってきた。
それは待ちに待った
プロデューサーからの電話だった。
「もしもし、ひなたか?」
「はい」
「今、大丈夫か?」
そう聞いてくるプロデューサーの方が、
まるで風邪でも引いてるかのような声だった。
あたしは「はい」と答える。
160 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:38:18.78 ID:V6x1Fopt0
この店の店長にも桃山さんにも
あたしがどういう経緯のある人物なのかは話してある。
だからもしも、こういう仕事の電話が入ったら、
電話には出るからと伝えている。
プロデューサーは言う。
「次回のライブ、幕張でやるライブがあるんだけど、
半年後の夏のライブだけど、出るか……?」
「はい、出させてください」
161 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:39:06.40 ID:V6x1Fopt0
即答した。もう迷わない。
あたしは電話越しでも真剣な顔で答えた。
ふとバックヤードの扉の方を見ると、
団子のように頭を重ねて、
こちらを覗く店長と桃山さんが居た。
店内をほったらかして何をしているんだか……。
でも、2人にはぐっと親指を立ててみせる。
2人ともぱあっと笑顔になるのが分かる。
「そうか、分かった……。
それじゃあ、来週の火曜18時に事務所来てくれ。
打ち合わせしようと思う」
「はい」
162 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:39:47.72 ID:V6x1Fopt0
ここからだ。
あたしが逆転していくのは。
電話を終え、
バックヤードから戻ると桃山さんが
早速あたしの方へニコニコの笑顔でやってくる。
顔にもう言いたいことが書いてある……。
「あたし、ライブ出るの決まったよ」
「やったね!」
桃山さんは手のひらを上に向けてあたしの前に出す。
あたしはその手のひらを
ぐっと溜めたあとに振りかぶり、パンっと叩いた。
「うん!」
163 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:40:22.85 ID:V6x1Fopt0
音に何匹もの犬がこちらを振り向いてしまった。
あたしと桃山さんは「ふふふ」と笑った。
店長にはこの時のことを
閉店間際に「あれはだめだよ」と、
やんわり怒られた。
でも、店長はそのあとに
「おめでとう」と頭を優しく撫でてくれた。
その手が大きくて暖かい。
164 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:40:59.00 ID:V6x1Fopt0
その日の閉店間際。
桃山さんも居る前で店長には、
あたしがこれから忙しくなって、
中々シフト入れないということを事前に伝えた。
当然のように店長はそれを承諾してくれた。
一匹のダックスフントが
あたしの膝の辺りであたしに飛びついている。
まるでお祝いしてくれてるみたいだ。
さっき、みんなをケージに入れたと思ったのに。
お祝いしに出てきたのかな。
165 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:41:51.07 ID:V6x1Fopt0
翌週の火曜。18時。
あたしは約束通りの時間に事務所にやってきた。
北海道に逃げて、帰ってきてからは
何回か来ている事務所では、
前の仲間ともすれ違うことがある。
だけど、あたしからは決して話しかけたりなんてしなかった。
別に嫌な訳ではないし、
話しかけてくる子にはちゃんと対応する。
きっとあたしなんかに話しかけられても迷惑だろう。
反応に困っている顔は見たくない。
……という言い訳で
本当はあたしの方が気まずくて避けている。
166 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:42:25.90 ID:V6x1Fopt0
名前も知らないいつの間にか入社した事務員の方が、
名前を覚えていてくれたみたいで、
あたしは応接室に案内される。
プロデューサーはまだ来ていないみたいだった。
応接室に案内され、
シンとした部屋の中に居ると、
隣か、もう一つ隣くらいの部屋から聞こえる
男女混じった談笑の声が聞こえる。
男性の声はプロデューサーではないみたいだ。
会話の内容までは聞こえないけど、
楽しそうな打ち合わせ風景だろうなあ、と思う。
167 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:43:53.06 ID:V6x1Fopt0
さっきの事務員の方がお茶を運んできてくれる。
机に置く際にその人が
「少々お待ち下さいね」と優しい口調で言う。
目は笑っていなかったけれど。
あたしは堪らずにその人に
「プロデューサーは今日は……?」と聞く。
暗に「今どこにいますか?」と聞いたつもりだった。
でも、事務員さんは頭を下げるだけだった。
その頭の下げ方と申し訳無さそうにする顔は
「今呼んで来るから大人しくここで待っていて」
というのを暗に示していた。
168 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:44:29.33 ID:V6x1Fopt0
あたしは大人しく待つことにしたが、
10分以上経ったあとにプロデューサーは
何も言わずに入ってきた。
「おう」とも「ああ、居たか」とも、
ましてや「遅れてごめん」なんてことも言わずに。
対面のソファに座ると、
ファイリングも何もしていないプリント用紙を
目の前に置き始めながら言う。
169 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:45:07.59 ID:V6x1Fopt0
「これが言っていた幕張でのライブ概要だ。
事務所の設立10周年記念のライブなんだ。
新人の一人が、急遽映画の出演に決まってな。
その撮影とかでレッスンの日程が取れないから、出演を断念したんだ」
プロデューサーはそう、
わざわざ言う必要のない情報をあえて言った。
たぶん、この人のことだから、
こういう背景を説明しないと気がすまない質なのだろう。
だから、あたしの気持ちとかは二の次になる。
170 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:46:00.79 ID:V6x1Fopt0
まるで、あたしに「代わりだから」と言いたいようだ。
「まあ、そういうことで、新人の代わりなんだけどな」
言った。
少し年月が経ったせいで、
このプロデューサーも礼節というのが欠如したのだろうか。
この薄汚い芸能界に染まっていったのだろうか。
それとも毎日吸い続けているタバコが原因か。
部屋に入ってきた時にプンと臭ったタバコの匂いで、
タバコを吸ってて遅れたのか、と理由が分かった。
あたしはあえてそれを追求したりはしない。
171 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:46:42.76 ID:V6x1Fopt0
今すぐにでも、
さっき事務員さんが淹れて持ってきてくれた
熱いお茶を顔にかけてもいいんだ、と思ったけれど。
そうだった。
もう10分くらい経ってるから、
とっくにお茶は冷めているんだ。
あたしはお茶をかけることを取りやめた。
「それで、二枚目が、全体のスケジュール。
合わせ、合同レッスンの日付。リハまで。何か問題は?」
「いえ、無いです」
「じゃあ、セトリと音源。それからダンスの映像。データがこれで一式」
172 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:47:30.86 ID:V6x1Fopt0
プロデューサーは机の脇に避けていたCDを三枚差し出す。
あたしはそれを受け取る。
三枚のCDの表面は白で何も書いていない。
これじゃあどれがどれのデータが入っているか分からない。
まあ、ここでどれがどれですか、
なんて聞いたところで、帰って自分で調べてくれ
と言われるのが関の山。
それじゃあまずは帰って
データの表面にどれがどれかを書くことから始めないと。
173 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:48:07.82 ID:V6x1Fopt0
と、ここであたしは気になることを聞いてみた。
「あの、レッスンの日付……これ少なくないですか?」
「ああ、全員がそうなんだ。
今回はレッスンの時間が取れる人が
少ないこともあるからこうして各自にデータを渡しているんだ。
他の人は、ドラマにテレビ、ラジオの仕事も立て込んでいるから」
……まるであたしには何もない、みたいな言い方だった。
でも、じゃああたしにはレッスンを入れてくれてもいいのに。
それくらいバイト先のみんなだって分かってくれる。
174 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:48:50.49 ID:V6x1Fopt0
「それじゃあ分からないところはあとは、
追ってメールでもLINEでもいいから聞いてくれ。
一応そこに書いてあることで全部だから。
それじゃあ。お疲れ。
わざわざ来てくれて待たせたのに悪いな、これだけで」
さっと立ち上がるとそのまま出ていってしまった。
忙しそうなのは本当なようだ。
しかし、メールでもLINEでも聞いてくれなんて、
よくそんな嘘が平気でつけるものだ。
どうせ返信なんてくれない癖に。
175 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:50:12.23 ID:V6x1Fopt0
あたしが書類をカバンに入れて
事務所を出ていく時もそのプロデューサーは、
パソコンの前で一人作業に集中しているようだった。
あたしとの打ち合わせは
タバコ休憩よりも大事なことではないようだ。
次のレッスンは1週間後、
そのあとは2週間も間が空く。
バイトもしないと家賃が払えないし、困ったなぁ。
176 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:51:14.47 ID:V6x1Fopt0
翌日。
そんなことを思いながら
レッスンが始まる前に、
あたしは動画と音声のファイルに名前を付けた。
パソコンを扱うのもだいぶ慣れてきた。
まだまだ難しいソフトが入れられないし、
ウイルスとかも怖いから
なるべくオフラインのまま使っている作業用の道具になっている。
それから、自宅でまずは音声で歌よりもまず踊りに取りかかった。
動画の再生と停止を繰り返し押しながら、一つずつ覚えていく。
この作業は楽しい。
黙々と身体に覚えていってもらう。
177 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:52:03.40 ID:V6x1Fopt0
パソコンをいじくり回す内に0.5倍速なるものを見つけ、
速度を変更することを覚えた。
これで何度も押していた再生停止ボタンは押さなくてよくなる。
ゆっくりの画面の動きとシンクロさせるように同じように動く。
10回20回繰り返し、等倍に戻し、また10回20回繰り返し踊る。
フローリングに汗の水溜まりの出来損ないみたいなのが出来ていた。
あたしはそれを踏んで滑って転びそうになる。
そして、ようやく自分が熱中して
やり過ぎていたことに気が付くのだった。
178 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:52:40.67 ID:V6x1Fopt0
時計を見るとバイトに行く時間になっていた。
あたしはシャワーをばーっと浴びて、
汗を流すとタオルで乱暴に水気を拭いた。
タオルは洗濯機に放り込んだ。
あたしは、そのまま荷物を一気にまとめて、家を飛び出す。
冬の風が顔にも目にも染みる。
走るなかで、頭の中で曲を流す。
街の街道をステージに見立てて、走り抜ける。
街灯はあたしを照らすスポットライトなんだ。
179 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:53:08.22 ID:V6x1Fopt0
駅まで猛ダッシュしたせいで、
電車内は今度は逆に暑くなっていた。
そのせいで少し汗をかいてしまった。
今から風邪なんて引かないようにしないと。
ドッグカフェに着くと、店長も桃山さんも
慌ただしく何かの準備していた。
なんだろう? お客さんのイベントかな?
「木下さん! 改めておめでとう〜」
180 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:53:54.89 ID:V6x1Fopt0
バックヤードでエプロンを付けているところに、
コンビニで買ったであろうチョコレートケーキを
桃山さんが運でくる。
ケーキの容器の蓋にはセロテープで
メッセージカードがくっついている。
店長の達筆な文字で
「アイドル木下ひなたの育った店!」と書かれている。
「アイドルの親友!桃山!」と店長の文字がデカいせいで
こっちは小さく書かれている。
この場所は、こんなにも温かいんだ。
「ちょっと、お化粧直してもいいですか」
「うん、ダイジョブ。今日はお客さんも居ないし」
181 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:54:39.33 ID:V6x1Fopt0
来た時にバタバタしていたのは、
あたしのためだったんだ。
別にいいのに……。
でも、全然嫌な気はしないや。
嬉しいって、こういう感じだったなぁ。そういえば。
お店でレジ打ちをしている時に、奥から2人の声が聞こえてくる。
182 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:55:50.86 ID:V6x1Fopt0
「大成功でしたね」
「うん。喜んでくれて良かったよ。
それもこれも、エリカさんが提案してくれたおかげだね」
「え〜、そんなことないですよ〜」
チクリ。
あれ? なんだろう今の感情の動きは。
2人が仲良くしているから?
いや、それはいつもの光景だよね。
でも、なんだか、いつもよりも二人が
イチャイチャというか……ベタベタしてる気がする。
あたしはなるべく考えないように、満面の笑みで接客対応をする。
足元に来る、一匹のチワワをこれでもかというくらいに撫で回し甘やかす。
183 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:56:21.72 ID:V6x1Fopt0
「ああ、木下さん。今日も暇だねえ」
バックヤードから出てきた店長が
コロコロ転がすタイプの
粘着カーペットクリーナーを両手に持って出てくる。
それをあたしは一つ受け取りながら言う。
「店長がそれ言ったらマズいと思いますよ」
「ははは、そうだねえ。そうだ。レッスンとかで忙しくなりそう?」
184 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:59:04.22 ID:V6x1Fopt0
あたしは「うーん」と言いながら、
毛だらけの店長の肩、背中をコロコロしだす。
店長の肩を掴んで回す。
店長はされるがままに正面を振り向き、
身体の前をコロコロされていく。
ひょろ長い店長は身体まで薄いから、
力強く押すとそのまま後ろによろけてしまう。
「なんだかレッスンの時間自体があまりないみたいで。
だから逆に空いた時間はシフトは増やせそうです」
「へえ! そうなんだ。まあ、休憩中、
裏で邪魔にならないように踊るとかなら全然いいから。
僕もエリカちゃんもサポートするよ」
チクリ。
あ、そうか。「木下さん」と「エリカちゃん」なんだ。
このモヤモヤの正体はこれかぁ。
185 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 20:59:42.23 ID:V6x1Fopt0
確かにあたしは、
なんとなく桃山さんのことを最初に
桃山さんと呼んでいたせいで、
仲良くなってきてからもそれが抜け出せないんだ。
でも、別にこんな名前の呼び方で
モヤモヤする必要なんて無いのに。
なんでだろう。
186 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:01:20.07 ID:V6x1Fopt0
……。
いや、本当は気がついているんだ。
たぶん、あたしはこのひょろ長い
店長のことが好きなんだ。……たぶん。
惚れた腫れたの色恋沙汰なんて、
今まで経験したことなかったし、
ドラマで見ても、映画で見ても
「そっかぁ、素敵なお話だなぁ」
なんてことしか思わなかったのに。
いざ、自分に降りかかるとこんなにも辛いんだ。
187 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:02:48.00 ID:V6x1Fopt0
しかも、きっとあたしの方には振り向いてもらえない
──たぶん、店長は桃山さんの方が好き──
ということが分かっているのに。
自分でも嫌になる。
告白し、玉砕するでもないのに、
諦めようとも出来ずにいる。
あたしはただ、この思いを抱えたまま
ずるずる引きずって歩こうという覚悟を、既にしている。
188 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:03:26.17 ID:V6x1Fopt0
目の前から店長もお客さんも居なくなると、
小さく頭を振って雑念をかき消す。
どうして、好きになったのかなんて、
理由が特に思いつかないのがなんとも言えない。
でも、本当にいい人だからこそ、
嫌いになんてなりきることは出来ない。
まあ、人を好きになるって、
きっとそういうものなんだと思う。
というのは何となくだけど分かる。
いや、理由なんか要らないし、
理由なんて結局探しても無い、
って昔事務所で誰かが言っていたかも。
189 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:03:58.91 ID:V6x1Fopt0
ああ、いけない。
また考えてしまう。
あたしはまた少し頭を振る。
でも、結局この日は、
あまり仕事に集中が出来ないままだった。
大きなミスをしたり、
そういうのは無かったから良かったけど。
190 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:04:34.27 ID:V6x1Fopt0
モヤモヤを抱えたまま、
あたしは自主練とレッスンに挑むこととなった。
久しぶりに会う765プロシアターのメンバーもいれば、
あたしが知らないような女の子まで入り乱れる
大所帯のレッスンになっていた。
どれだけの女の子がステージに立つライブになるのだろう。
191 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:05:09.79 ID:V6x1Fopt0
そして、あたしはどれだけ期待されていた
女の子の穴埋めをしなければいけないのだろうか。
いや、たぶんその穴埋めのポジションには、
今の有力な子がそのポジションに付くんだろう。
それで、連鎖的に繰り上げされていって、
あたしは結局隅っこになる。
そんなのは分かっている。
192 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:05:45.69 ID:V6x1Fopt0
それでも、ステージに立つ、ということを、
このレッスンの休憩中に談笑している女の子たちの中の
誰よりも、大事に思っているのはあたしだと強く思う。
勿論、古くから知っているメンバー達は、
そういうまるで昔のあたしのような慢心を抱えている子は居ない。
193 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:06:28.12 ID:V6x1Fopt0
あたしは、あえて顔なじみの女の子たちとは
あまり話さないようにしていた。
空気を察したのか、レッスンを重ねていくごとに、
話しかけれる回数は減っていく。
そして、当然あたしのことを知らない、
あたしも知らない子には無駄に話しかけたりはしない。
振り付けの中で
隣の女の子と向かい合って手を合わせて、
みたいな振りがある時は、ちゃんと話をする。
話、と言うか、確認作業と言うべきだろうか。
事務的な内容だった。
194 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:07:07.57 ID:V6x1Fopt0
知っているメンバーには、横山奈緒も、エミリーも居た。
そして、ライブのセンターを飾るのは田中琴葉。
そのサイドには所恵美、島原エレナが両脇を固めている。
他にもレッスンに来ている、知っているメンバーはたくさん居る。
みんな、今度のライブに出る子たちだ。
195 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:09:09.05 ID:V6x1Fopt0
テレビでも見かける子達が多い中で、
特に田中琴葉は連日のドラマに
出演していたりもするし、大忙しなはず。
現に初回のレッスンは不在だった。
それなのに、初めてレッスンに顔を出して、
全体で合わせた時、
まるで最初のレッスンから居たかのような仕上がりだった。
いや、そんな生易しいものじゃなかった。
まるで、完成形をすでに知っているかのようだった。
196 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:10:14.80 ID:V6x1Fopt0
あたしはそれを端っこで見た時、
ただ、唇を噛むだけだった。
そして、
もし自分があの立場だったら出来ているだろうか、
という情けない妄想に蝕まれる。
まだ、
まだ足りないのだろうか。
遅れた分の負債もう支払い終わったと思っていた。
でも、まだ足りない。
足りないものはなんだ……。
197 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:11:14.58 ID:V6x1Fopt0
あたしは、寝る時間を削って、自主練に励んだ。
だけど、そうじゃなかった。
そういうことじゃなかった。
ある時、
田中琴葉と二人になる時があったので
思い切って聞いてみることにした。
それは5月だというのに、
一足早い梅雨の湿気と湿度で蒸し暑い、
最悪の雨の日だった。
どうして、田中琴葉にあって、自分に無い。
そんな誰も答えを教えてくれない
あるなしクイズを強いられていた。
気が滅入る。
198 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:12:34.55 ID:V6x1Fopt0
一人で強がっていても仕方ない。
情けなくても泥臭くても、頼れるものには頼って
自分の力になるものは何でも吸収しようと思っていた。
それに、面倒見のいい田中琴葉のことだから、
こういう質問をした時に、
無下にはできないことをあたしは知っている。
家から電車に乗って、
レッスンスタジオに向かう時に
降りたホームでばったりと出くわした時のこと。
一つ隣のドアから降りてきた田中琴葉とバッチリ目があった。
199 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:13:01.77 ID:V6x1Fopt0
帽子を目深に被って、マスクもしているのに、
目があった時、にっこりと微笑みながら小さく手を降ってきた。
あたしもそれに応えるように小さく手を降った。
「今日もレッスン頑張ろうね」
「うん。ありがとう。ドラマ、面白いね」
「あー、見てくれてるんだ。ありがとう」
「うん、すごく面白いと思う」
200 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:14:04.32 ID:V6x1Fopt0
演技の勉強も必要かと思って
たまたま見たドラマに、
途中からレギュラーとして追加されたのが田中琴葉だった。
内容的にはかなり強引な加入だったので、
テコ入れというか、事務所のゴリ押しというのが透けて見えた。
あたしは、田中琴葉の反応を見て、
なんだかまるで
「メインどころではない出演ドラマを褒めてくる嫌味な奴」
になっていないか心配になる。
201 :
◆BAS9sRqc3g
[sage saga]:2020/10/09(金) 21:14:48.03 ID:V6x1Fopt0
駅の階段を二人並んで降りていく。
階段の照明は私の側だけ、
チカチカと消えかかっている。
「レッスン、あんまり来れないのに、ダンスも歌も完璧ですごいね」
「本当? ありがとう」
まるで、嫌味のような
あたしの薄っぺらい褒め言葉に
ニコリと笑う田中琴葉に、
何故か自分が傷ついている。
もう少し言い方はなかったのか。馬鹿者め。
妄想の自分が、自分の頭をポカリと殴る。
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