高森藍子が一人前の水先案内人を目指すシリーズ【ARIA×モバマス】

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1 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:22:26.85 ID:b+VIQ/E60
いちいちスレを新しくするなと言われたので、今度からここで書きます。
以前に書いたものも、すべてここにのせます。
ARIAの新しい映画は2021年の春に延期になってしまいましたが、オレンジぷらねっとが中心の話らしいので楽しみです。
よろしくお願いします。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1596878546
2 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:23:20.41 ID:b+VIQ/E60
高森藍子「目指せ!水先案内人!」


『本日は、太陽系船宙社東京=ネオ・ヴェネツィア便をご利用いただき、まことにありがとうございます』

『当機はまもなく、惑星アクアの大気圏に突入します』

前略

今、ネオ・ヴェネツィア行きの船の中で、このメールを書いています。
初めての体験ではないらしいのですが、どうやら忘れてしまっているようで、まるで初めての体験をしているみたいな気分でした。そして、宇宙に飛び出すということに興奮して、眠れませんでした。
宇宙を揺蕩う中、写真を何枚か撮ったので、添付しておきますね。
もうすぐ、新天地に着きます。

『かつて火星と呼ばれていたこの惑星が、惑星地球化改造されてからはや150年。極冠部の氷の予想以上の融解で、地表の9割以上が海に覆われ今日では水の星として親しまれています』

『当機は間もなく、目的地ネオヴェネツィア上空に達します』

『21世紀後半まで地球のイタリアに存在していた水の街。ヴェネツィアをベースに造られた、水と共に生きる港町でございます』

ひと段落したら、また書きますね。

追伸
心配しないでくださいね。私は元気です、いつでも。だって、ずっと憧れだった夢の、スタート地点に立てるのですから。

地球暦2042年4月2日 高森藍子

「なります。『水先案内人』!」

私は書き終えると、そう小さく呟いた。そして呟いた後、急に恥ずかしくなって、隣の人に聞こえていないかこっそり確認。隣のおじさんは、新聞を読んでいる。私の声には気づいていなさそうだった。

『ご搭乗の皆様にお知らせします』

『本船は、ただ今電離層を抜けました』

『到着までしばしの間……』

『眼下の景色をお楽しみください』
3 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:28:46.48 ID:b+VIQ/E60
アナウンスの女性がそう言い終わると同時に、船内の底からグオンと音がした。そして、床が開いていく。私はこの時初めて床が透明だったことを知る。そして、目に飛び込んできたのは眩いほどの青。ネオ・アドリア海だった。

「うわぁ……」

私はため息にも似た感嘆を漏らしながら、座席にかけてあったカメラへと無意識に手を伸ばす。そして、カメラを手探りで探すと、ひと時も目を話したくない光景に意識の半分以上を持っていかれながら、何とか胸元にまでカメラを手繰り寄せる。そして、少しだけ震えた手でカメラを持ち上げ、ファインダーをのぞく。

パシャリ。

私の言葉では言い表せないほどに素敵な海の青いきらめきが、カメラを通して私の目を優しく撫でる。私は二枚目を撮ろうとして、でもやっぱり止めてしまった。今はきっと、この光景を目に、脳に、なによりも胸に焼き付けておいた方がいいと、そう感じたから……

『水の惑星”AQUA”へようこそ』
4 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:33:36.66 ID:b+VIQ/E60
『マルコポーロ国際宇宙港へようこそ』

『ネオ・ヴェネツィアに観光のお客様は三番窓口を……』

宇宙船から降機して、二番ゲートを通った私は、多くの人で溢れているロビーを抜け出し、出口へと駆ける。

「……スゥ……」

そして、出口から出てまず最初に思いっきり息を吸い込んだ。鼻腔を通って身体全身に巡るのは、マンホームでは嗅げない匂い。なんだかとっても懐かしい気分にさせてくれる、海の匂いを胸いっぱいにためる。

「……ぷはぁっ!」

そして、吐いた。これだけでもう、ネオ・ヴェネツィアの一員になれた気がして、私は無性に嬉しくなった。

目の前にはすぐ海が広がっていて、私はその生みの近くへと歩いた。潮風が、少しウェーブがかった私の髪の毛を、優しく持ち上げる。

「んん〜。気持ちいい〜!」

長旅で固まった身体を伸ばしながら、もう一度大きく深呼吸する。私の故郷は確かにマンホームだけれど、たしかになぜか懐かしい匂いが私を包んで離さない。

「ここが、水の都……」

私は遠くにある太陽を薄目でみながら、そう呟いた。


「ばいちゃい!」

「うわわわ!?」

私が薄目で太陽をみていると、謎の声と一緒に湿ったものが私の腕を撫ぜた。

「ぶいにゅ」

首を下ろしてみてみると、私の目の前には巨大な猫さんが立っていた(座っていた?)。

「火星猫、初めて見たかも……」

私はリュックサックの横にかけてあるカメラを取り出しながら、その猫と同じ目線になるようにしゃがんだ。そして、私がその猫さんに向かってカメラを向けると、

「ばいにゃ!」

と言って、その猫はポーズを取り始めた。触ったら絶対に気持ちいいであろう、もちもちのお腹を惜しげもなく、自慢げに突き出しながら、次々とポーズをとる猫。私はまるで専門のカメラマンのように、次々と写真を撮っていく。一定のリズムで切られるシャッターの音にだんだん楽しくなっていって、次第にその猫さんとの撮影会に熱が入っていった。

「良いですよ〜、猫さん。次、もう少しひねりを加えたポーズをお願いします」

「ぶいにゅ!」

猫さんは私の言葉通りにひねりを加えたポーズをとる。そして、すぐさまそれを私が撮る。パシャパシャと連続で撮影して、私たちは撮影会を続ける。

「あ、今のいい表情ですね〜、もう一枚!」

「ぷいぷい!」

「下からのアングルも素敵ですよ〜」

「ぶいにゃ!」

私とその猫さんがいつまでも撮影会をしていると、後ろから声が聞こえてきた。

「何してるんですか、アリア社長」

「にゅ?」

「はわっ?」

私が振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。その女性は、ウンディーネの制服に身を包んでおり、両腕を腰に当てている。

「早めに仕事が終わったから、気になって様子を見に来てみれば……アリア社長?」

「……にゅ?」
5 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:36:16.63 ID:b+VIQ/E60
アリア社長、と呼ばれたその猫さんは、小首を傾げた。

「誤魔化そうとしてもダメですよ。さっきまで遊んでたの、見てたんですからね」

「ぶいにゅ〜」

その猫さんは、その女性の足元へと駆け寄ると、女性の足に抱き着いた。

「ダメですよ。そうやって甘えてきても……」

女性はそんなことを言いつつ、その猫さんを持ち上げると自分の胸元に抱えた。

「にゅ!」

「……もうっ」

口では怒ったようにそう言いながらも、彼女の顔には笑顔があった。

私がそのやり取りをぼーっと見ていると、その視線に気が付いたのか、私に話しかけてきた。

「ごめんね。ウチのアリア社長が遊んでもらっちゃったみたいで……」

「あ、ああ。いえ、全然大丈夫ですよ。むしろこっちこそ遊んでもらっちゃって……」

私は思わずそう返す。その言葉に嘘はなかった。

「そうなの?……ありがとうね」

彼女はそう言って私に微笑みかけた。その笑顔は、初対面であるはずなのに、なんだか不思議と懐かしい感じがした。

「ところでアリア社長?肝心の子、ちゃんと見つけたんですか?」

「ぶいにゅ!」

その女性が猫さんに話しかけると、猫さんは彼女の腕から降りて、私の足元に来た。そして、私のスカートのすそをクイクイと引っ張った。

「にゅ!」

「アリア社長!じゃあ、この子が……?」

「ぶいにゅ」

その女性は私の顔を見て少し驚いた顔をすると、コホンと咳払いをした後、口を開いた。

「あなたが、高森藍子ちゃん?」

「えっ!あ、はい!」

「……申し遅れました、私、ARIAカンパニーの、アイです。よろしくね、藍子ちゃん」

アイと名乗ったその女性は、私に向かってほほ笑んだ。

「あ、ARIAカンパニーって、あの……」

「うん、そう。藍子ちゃんがお便りをくれたところ」

「はわ……???」
6 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:38:15.48 ID:b+VIQ/E60
私はいきなりのことに頭が追い付いていなかった。一生懸命状況を整理する。

「私がお世話になるのがARIAカンパニーで、アイさんはARIAカンパニーの人で……ということは……」

ようやく状況が呑み込めて、私は思いっきり頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

アイさんはケタケタと笑いながら、私の頭を撫でた。

「そんなに仰々しくしなくても大丈夫だよ。ほら、頭上げて」

私はアイさんに言われた通り、頭を上げる。愛さんは私の目を見ながら、笑う。そして、言う。

「いらっしゃい、藍子ちゃん。ようこそ、ネオ・ヴェネツィアへ」

「ぶいにゅ!」

その瞬間、近くのカモメたちが一斉に飛び立った。白い羽が辺りを舞っている。

今から、始まる。私の憧れだった生活が、今から。

「さあ、じゃあ、さっそくARIAカンパニーに行こっか」

アイさんは私に背を向けると、船がたくさんある方へと歩き始めた。私は、なんだかずっとこの瞬間を感じていたくて、訳もなく自分自身を抱きしめた。

「藍子ちゃ〜ん!こっちだよ〜!」

気が付くと、先に言っていたアイさんが、私を手招きしていた。

「は、はい!今行きます!」

私はリュックを背負いなおすと、駆け足でアイさんの元へと向かった。
7 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:39:33.36 ID:b+VIQ/E60
高森藍子「そのあたたかな手に」


前略

火星について初めての朝です。

待ちに待った、新しい生活の幕開けです。

「……ん……」

さっきまで黒だったはずの視界が白に塗りつぶされている。まぶたを閉じているはずなのに、そんなことはお構いなしに私のことをまぶしい日差しが私の目の中に飛び込む。

「ズルいですよ……そんなの……」

私は太陽に文句を垂れながら重い重い眼を開ける。見慣れない天井。私は今、アクアにいる。そして、ARIAカンパニーの三階部分にいる。私は起き上がって外の景色を眺めた。丸形の窓ガラスから、あんなに遠く離れている太陽の光を反射して、キラキラと輝く海面が見える。そのずっと奥には、見慣れない水平線。それはどこまでも続いていて、遠くの方になるにつれて空との境界線があいまいになり、まるで空と海が溶け合っているように見える。

「……写真、写真」

私はこの風景を写真に収めようとベッドから降りようとした。それと同時に声。

「にゅ!」

「はわ!?」

私がベッドから降りようとした瞬間、いつの間にか部屋にやって来た猫さん、つまり、アリア社長が何か布を持ちながら立っているのに気が付いた。

「おはようございます、アリア社長。どうしたんですか?そんなところに……」

私がアリア社長に尋ねると、アリア社長は私の言葉を理解して、手に持っていた布を渡してきた。火星猫はマンホームの猫と違い、人間並みの知能を持っているらしい。さすがにしゃべることは出来ないみたいだけど、人間の話していることを理解しているのだそうだ。

「これ、なんです?社長?」

昨日知った話だけれど、水先案内人は青い瞳の猫をアクアマリンの瞳と呼んでいるらしい。アクアマリンは昔から海の女神として航海のお守りとしていたそうだ。そんな伝統がこのネオ・ヴェネチアでも続いており、水先案内人を経営する人たちは、アリア社長のような瞳の青い猫をお店の象徴にして安全を祈願している。

そんな話など全く知らなかった私だけれど、アリア社長のことを「アリア社長」と呼ぶことに早くも慣れてしまった。「社長」の響きも何だか可愛らしく思える。
8 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:41:04.95 ID:b+VIQ/E60
私はアリア社長から布を受け取ると、その布を広げてみた。

「わぁ……!」

アリア社長が渡してきた布は、ARIA1カンパニーの制服だった。

「かわいい……」

私はその制服をベッドに広げて、全体を見渡す。スリットの入ったセットアップで、セーラーカラーで真ん中に大きな青いリボンタイ。真ん中に大きなマークが描かれている。そしてARIAカンパニーの名前が入ったセーラー帽。さらに、青地に黄色い施しがされている手袋とぷっくりしたかわいらしいフォルムのハイカットブーツが一組。

「これ、制服ですか?」

私はアリア社長に尋ねた。

「ぶいにゅ」

アリア社長は首を縦に振りながらそう答えた。

「さっそく来ちゃいましょうっ!」

「にゅ!」

「あ、なんだか恥ずかしいからアリア社長は部屋の外で待っていてもらえますか?」

「にゅ〜〜〜!」

アリア社長が部屋から出ていくのを確認すると、私はパジャマを脱いで制服を着始めた。

「ぷはっ」

首の部分から頭を出すと、新しい服の匂いがした。それは、なんだか不思議に心をワクワクさせて、心踊る気分にさせた。姿見の前でしっかりと着れているかを確認する。最後に、いつものお団子ヘアーの上に帽子をかぶせる。

「えへへ」

自然とこぼれだす笑み。ニヤニヤが止まらない。毎秒ごとに実感する。私はもう、水先案内人なんだと。

「って、まだまだ見習いだけど……あ、そうだ」

私は起きてからずっとベッドに放置してあったカメラを取り、胸の高さまで持ってくると、鏡に向かってシャッターを切った。

パシャリ
9 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:46:52.89 ID:b+VIQ/E60
「よしっ!」

私が写真を撮り終えると同時にアリア社長が部屋の中へと入ってくる。

「あ、アリア社長!」

「ぶいにゅ!」

アリア社長がこちらにジャンプしてくる。私はそれを受け止めると、鏡の前で一回転しながら、アリア社長に言う。

「どうです?こんな感じですけど」

「ばいちゃ〜い!」

「本当ですか!?良かった〜」

そしてもう一度ターン。それと同時に、開いていた部屋のドアの向こう、階下から何かの音が聞こえた。私はアリア社長を下すと、下へと向かった。

ARIAカンパニーの二階部分は、普通の家で言うところのダイニングになっていて、キッチンや冷蔵庫、大きめのテーブルと椅子、そしてアリア社長専用のデスクなんかがある。キッチンでは、アイさんが料理をしていた。良い匂いがする。

「おはようございます!」

私が言うと、アイさんは料理の手を止めて振り向く。

「おはよう、藍子ちゃん。……あ!」

アイさんは私の姿を見ると、笑顔で言った。

「制服、似合ってるよ」

「あ、ありがとうございますっ!」

「どこかきつい所とか、ない?」

「はい、大丈夫です」

「良かった。なら良いんだ……さっ、じゃあ朝食にしよう?」

「はい!」

ダイニングテーブルに朝ごはんが並べられていく。

「いただきまーす!」

「召し上がれ」
10 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:47:29.24 ID:b+VIQ/E60
私は目の前にある目玉焼きにフォークを伸ばす。下に敷いてあるベーコンがカリカリに焼けていてとてもおいしそう。目玉焼きを半分に切ると、少しだけ緩い黄身が溢れる。私は真ん中に置かれているパンの籠からパンを取り、切った目玉焼きをそのパンの上に乗せる。私はこぼれないように、でも大胆にそれにかぶりつく。

「……」

私が朝ごはんと格闘していると、頬杖をついて私をずっと見ているアイさんと目が合った。私はなんだか急に恥ずかしくって、朝ごはんを食べる手を止めた。

「ど、どうしたんですか……?何か私の顔についてます……?」

私がアイさんに尋ねると、アイさんは「ふふふっ」と、少し子供っぽく笑って言った。

「ううん。ちょっと嬉しいだけだよ」

「は、はあ……?」

「ふふふっ。さあ、私のことは気にせずに食べて?」

「は、はい!」

朝食を終えると、アイさんは私をARIAカンパニーの一階部分へと連れて行った。

「藍子ちゃん。ゴンドラに乗った経験は?」

「えっと、小さい頃に一度だけネオ・ヴェネツィアに来ていたみたいで、その時に乗ったらしいんですけど、あまり覚えていなくて……」

「そっか。じゃあ、まずは私のゴンドラに乗って、どういうものなのか体験してみようか」

「はいっ!」

私はアイさんのゴンドラに乗ることになった。

アイさんの乗るゴンドラは、白を基調としたシックな船だった。また、舳先にはARIAカンパニーのイメージカラーである青でもって線が入れられている。その真ん中にはこの海と同じ色をしたガラスのようなものが埋め込まれている。

アイさんはそれに乗り込むと、オールでもって船の向きを変え、船を乗るための場所にゴンドラを付けた。

「さあ、お手をどうぞ」

アイさんは舳先に足を置きながらも、その船乗り場に軸を置いて、私に向かって手を差し伸べてくる。私は差し出されたアイさんの手を取った。瞬間、私は強烈な思い出に襲われた。

その思い出は、小さな頃、初めてネオ・ヴェネツィアでゴンドラに乗った時の記憶。もみあげから生えた二つの髪の毛の房が印象的な、とってもあたたかい手をしたウンディーネ。
11 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:50:50.97 ID:b+VIQ/E60
「……どうしたの?」

アイさんの声が聞こえ、私は我に返る。

「あ、いえ……少し思い出して……」

私はアイさんに手を引かれ、ゴンドラに乗りこみながら言う。

「思い出したって?」

アイさんは私に尋ねながら舳先に両足をつけると、オールでもって漕ぎ始めた。私はゴンドラに配置されている椅子に座ると、アイさんが手を引いてくれた方の手、つまり左手を右手で握ってみた。

「はい。さっき、小さい頃に一度ゴンドラに乗ったって言ったじゃないですか」

「うん」

アイさんは極めて自然に船を漕ぐ。水が滑らかさを極端に発揮しているように見えるそのオールさばきは、アイさんの水先案内人としての力量を表していた。

「その時のこと、今の今まで覚えていなかったんですけど、アイさんの手を触ったら、急に思い出せたんです」

「へぇ、どんな思い出?」

「もみあげから生えた二つの髪の毛の房が印象的だった水先案内人の方なんですけど、その人の手の温かさが、アイさんの手のあたたかさと似ていたんです。だから思い出せたんです」

「…………」

「ア、アイさん?」

私が思い出した内容を話し終わると、アイさんは驚いたような顔をしたまま、オールを漕ぐのもやめて、しばらく呆然としていた。そしてそのまま目を瞑ると、静かに息を吐いた。アイさんはしばらくした後に目を開いて、私に向かってほほ笑んだ。微笑んでいるアイさんの目の奥には、どうしてか悲しさのようなものが少しにじんで見えた。

「……それは、とってもすごいミラクル、だね」

アイさんは漕ぐのを再開すると、噛みしめるようにそう言った。

「はい。ミラクルかもしれません」
12 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:52:24.05 ID:b+VIQ/E60
しばらくアイさんが漕ぐ船を体験した後、今度は私がゴンドラを漕ぐことになった。


「じゃあ、試しにここら辺をゴンドラで漕いでみよっか」

「はい」

アイさんに示されたのは、先ほどのゴンドラとは違い、黒色をしたものだった。一人前、つまりプリマウンディーネが使うゴンドラはお客様を乗せるための船なのだが、両手袋と片手袋、つまりシングルとペアはこの練習用の黒いゴンドラを使うそうだ。

「よっと……」

舳先に飛び乗り、バランスをとる。ゴンドラから、年季が入った音がする。私はオールをしっかりと握り、漕ぎ始めた。船の側面についているロウロックを使って支点力点を作用させ、オールをスムーズに動かす。

「あらららら……」

しかし、まっすぐ進まない。左側にそれてしまった船体を直そうと、慌ててオールを逆方向に捌く。しかし、今度は勢いが大きすぎたのか、船がぐらぐらと揺れ始めた。

「あわわわわ……」

何とか落っこちないようにしながら再び漕ぐ。

「よっしょ……ほいしょ……」

一体どれくらい時間がたったのか。蛇行を続けながらも、なんとか数メートル進んだ。その時、後ろからアイさんの声が聞こえた。

「オッケー!じゃあ、今度は船首をこっち側に向けて漕いでみようか」

「は、はい!」

私は船の先をARIAカンパニーの方へ向けようと左側にバックした。

「あれれ」

しかし、思ったように曲がれずにまっすぐ後ろに進んでしまう。

「やっ!はっ!」

気合を入れて、今度こそ曲がるように漕いだつもりだったが、それでも船が曲がる気配はなくただまっすぐバックする。気が付くといつの間にかスタート地点に戻ってきてしまった。

「……ア、アイさん……」

私はアイさんを見上げる。アイさんはしばらく黙った後、口を開いた。

「うん。大丈夫!」

「へぇ?」

てっきり怒られてしまうかと思っていたから、変な声が出てしまった。

「全然良いよ。良い感じだよ、藍子ちゃん!」

「そのままバックしちゃったのにですか……?」

「うん。私が初めてゴンドラを漕いだ時よりも全然上手だよ。これならすぐに上達するね」

「ほ、本当ですか……?」

「本当本当。恥ずかしいけど、私の一番最初の漕ぎっぷりは、それはもう見ていられないほどだったんだから。第一、ちゃんとバランスをとって船を操縦できるっていう時点で素質十分なんだから!……これから一緒にがんばろ?」

アイさんはそう言って、私に手を差し出してくれた。私がその手をつかむと、アイさんは私を陸地へと引っ張ってくれた。やっぱりその手はどこかあたたかくて、私もこんなあたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になりたいと思った。

「……はい!頑張ります!素敵なウンディーネになれるように!」

私はそうアイさんに返事をした。あたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になりたい、じゃだめだ。あたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になるんだ。絶対。

内心息巻いていると、アイさんはそんな私の心を知ってか知らずか、私の顔を見て微笑みながら口を開く。

「うん。その意気、だよ。じゃあ、さっそく、一番重要なことから教えようかな」

「はい!」

「一番重要なのはね、この船が流されて行かないように、このバリーナって言う杭に括りつけることなの。この作業をしておかないと、あっという間に流されちゃうんだから」

「ふむふむ……」

「それとね……」

こうして記念すべきアクアでの一日目は幕を閉じました。操舵技術はもちろんまだまだだけど、これからアイさんと一緒に成長していきたいです。

そして、いつかプリマになったら。その時は、一番最初の「お手をどうぞ」の時から、お客様にあたたかな気持ちになってもらえるような、そんな水先案内人になれるよう頑張ります!
13 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:54:38.08 ID:b+VIQ/E60
浜口あやめ「ARIAカンパニーの新人を」桃井あずき「監視大作戦!」


前略

いかがお過ごしですか?火星はまだ八月で春真っ盛りです。

そして、そんなハルの暖かな陽気が素敵な出来事を運んでくれました。


「うんしょ……っと……」

自分の身体を支える筋肉に目を覚ましてもらうために軽くストレッチをする。鳴れない筋肉も使うので、ときおり痛すぎて小さく悲鳴を上げる。それに耐えながら、穏やかな波に揺れるゴンドラに合わせて身体に弾みをつける。

「……5、6、7、8!」

ゴンドラに乗り始めてから数日が経って、ようやくまっすぐ進めるようになった。バックもできるようになった。と言っても、まだまだのろのろなスピードではあるのだけれど。でも、アイさんも「上手になってるね」と言ってくれるので、へこたれない。

「よし!さあ、アリア社長、今日も練習ですよ!」

「ぶいにゅ」

ストレッチを終え、オールを手にしながら私はアリア社長にそう声をかける。アリア社長は私の言葉に返事をすると、練習用のゴンドラに乗りこんだ。私はアリア社長が乗り込んだことを確認すると、バリーナの紐をほどいて少し蹴る。ゴンドラの頭の向く方へ進む。そのままオールをゆっくりと水につける。一日として同じ水の感触はない。ネオ・ヴェネツィアの海は、いつだって私に新しい発見をくれる。

「何だか今日の水は少しだけもたっとしてますね、アリア社長」

「にゅ?」

「抵抗感はあんまりないんですけど、少しだけ重たい感じがするんです」

私がそう言うと、アリア社長がゴンドラの縁から身を乗り出して水を触ろうとする。

「わわっ!?落っこちないようにしてくださいね、アリア社長」

「ぶいにゅ!」

アリア社長は「もちろん!」といったように開いている手の方をこちらに振ってきた。そしてもう片方の手で海面を撫でている。私はもともとそんなに早く無いゴンドラのスピードをさらに緩め、アリア社長が落ちないようにする。今はそんなに朝の早い時間というわけではないが、この街特有のゆったりした時間が海に流れている。こんな時間の流れは、マンホームでは味わったことがなかったが、こっちの方が性に合っている気がした。
14 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:56:23.95 ID:b+VIQ/E60
今日の風は今日の水とは違って、さらりとしていた。そよ風が髪を撫でる感覚が楽しくて、自然と笑顔になる。

「気持ちいですね、アリア社長」

「ちゃい!」

いつの間にか海面を触る遊びを止めていたアリア社長が、先ほどまで水を触っていた方の手を振りながらそう答えた。



藍子が気持ちよくゴンドラを漕いでいる中、そんな藍子を眺める瞳が四つ。

「むむむむむ……」

「あれが件の新人さんですね、あずき殿」

「そうだと思うよ。先輩たちが言ってた、あのなんとも言えない雰囲気?が、まんまARIAカンパニーって感じだし。というか、そもそもARIAカンパニーの制服着てるしね」

「確かに」

二人は会話をしながらも、目線の先に藍子を入れたままである。二人はウンディーネの制服に身を包んでいる。一人は赤いラインの入った制服で、もう片方は黄色いラインが入った制服。

「むむむむむ……」

「う〜む……」

「むむむむむ……」

「……それで、どうするのです?」

「え?どうするって?」

「彼女、どんどん進んでいってしまいますよ?このままだと監視大作戦が失敗してしまうのでは?」

「……確かに〜!早く言ってよあやめちゃん!」

「いえ、まだ焦らなくとも大丈夫です、あずき殿。彼女のゴンドラはまだ日が浅いせいかゆっくりです。私たちでも十分追いつけます!」

「じゃあ、今すぐ私たちもゴンドラに乗りこもう!」

「はい!」

「さあ、あやめちゃん!漕いで漕いで〜!」

「わ、わたくしが漕ぐのですか!?」

「そうだよ〜!名付けて忍法・めちゃめちゃ静かに素早い操舵の術大作戦!」

「そんなむちゃな!?」

彼女たちはわちゃわちゃしながらも、軽い身のこなしでゴンドラに乗る。オールを手に取ったのは、オレンジのラインが入った制服を着た方。

「では、行きますよ!ニンッ!」

先ほどまでは慌てていたそぶりを見せた彼女だが、オールを持つと、しっかりとした姿でゴンドラを漕ぎ始めた。

「ゴーゴー!」

「ちょ、あずき殿。あんまり大きな声を出すとバレてしまいます!」

「まだ距離はあるから大丈夫だよ。それより、あやめちゃんめちゃめちゃ静かに漕いでるね。その割にスピードも出てるし」

「先ほどあずき殿が出した作戦通りにやってるだけですよ。とても大変ですけど。でも、このくらい、忍者水先案内人のわたくしにかかれば……わっとと……」

「はわ!大丈夫?あやめちゃん」

「ええ、何とか」

「さっきの作戦は忘れていいから。今度は慎重にでも追いつけるように大作戦にしよう」

「了解です!」

こうして、藍子の後ろに二人の影が重なった。
15 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 18:57:57.91 ID:b+VIQ/E60
「……ん?」

私がゴンドラを漕いでいると、後ろから女の子の声が聞こえてきた。後ろの方を振りむこうとしたのだが、バランスを崩すのが怖くてできなかった。どんどんその音源が近づいてくる。そして、もう一隻のゴンドラが私のゴンドラのすぐ隣にやって来た。

「よ〜よ〜彼女〜お茶でもしない?」

「へ?」

いきなり話しかけてきた彼女はゴンドラの客席部分に座っていて、私と同じ水先案内人の制服を着ていた女の子だった。赤いラインが入っていて、たまに見かけるものだった。そして、船を漕いでいる女の子は、これまた水先案内人の制服を着ているが黄色いラインが入っている。

「あ、あずき殿!?その声のかけ方は悪手では?」

「で、でも、どんなふうに声かけたらいいかわかんなかったし、女の子に声をかける行為って、マンガだとナンパしかなかったから……」

「ナンパはダメですよ!」

「????」

いきなり多くの情報量が私の頭の中に入ってきてフリーズしそうになる。だけど、私の腕はしっかりとオールを漕ぐ。

しばらくの間、私の船と隣の船の間には、水を押す音だけが響いた。

「……と、とりあえず、お茶しませんかって言うのは本気なんですよね?あずき殿?」

無言の空気に耐えられなかったのか、ゴンドラを漕いでいる方の髪の毛の長い女の子が口を開いた。

「そ、そうだね。それはその通りだよ!お茶しませんか大作戦だよ!」

「ということで、お茶しませんか?高森藍子さん?」

「あれ、私の名前……」

「ささっ!あずき殿、この辺りにいいお店を知っているんでしたよね!?」

「そ、そうだね!じゃあそこに行こうか、藍子ちゃん!」

「ええ……???」

いつの間にか私は見ず知らずの水先案内人に連れられて、カフェに行くことになりました。
16 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:00:05.77 ID:b+VIQ/E60
「なるほど、そういうことだったんですね……」

連れられたカフェでカフェラテをすする。昼間は寒いということを感じない季節ではあるが、温かいカフェラテはそれだけで幸せをおすそわけしててくれる感じがする。

「ごめんなさい!私たち、どうしたらいいかわからなくって……」

二人が勢い良く頭を下げる。私はそれに驚きながら、彼女たちに話しかける。

「いいえ、謝らないで大丈夫ですよ。むしろうれしいんです」

「嬉しい?」

私の言葉に二人が反応して、こちらを見てくる。

「はい。火星に来て、アイさん以外の人とお話したのがこれで初めてだったから」

「そうなのですか……そう言っていただいてこちらとしてもありがたいです」

「だから、むしろ話しかけてきてくれてありがとうって、そう思ってます」

そして一息つくためにまたカフェラテを飲む。ここのカフェはサン・ザッカリーア・ピエタを少し過ぎたところにあって、まだ細かな水路にチャレンジすることができない私でも比較的簡単にたどり着くことができる場所にある運河沿いの店だ。この前アイさんに連れて行ってもらったお店もとても素敵なところだったけれど、このカフェはどちらかというとテイクアウトを主としているところらしい。しかし、外にいくつかテーブルと椅子が置いてあるのは、やはりネオ・ヴェネツィア特有かもしれない。

「それで、ええっと……お二人を何とお呼びすれば良いんでしょうか……」

私がそう話を始めると、赤いラインの制服の方の女の子が、思い出したように声を上げた。

「あっ〜!そうだよ!あずきたち、まだ自己紹介してない!」

「そういえば、そうでした。うっかり失念していました」

「ということで……」

二人はいきなり立ち上がると、自己紹介をし始めた。

「わたくしは、あやめ・N・浜口って言います。オレンジぷらねっとに所属していて、忍者水先案内人を目指しています!気軽にあやめと呼んでください!ニンッ!」

「に、にん……?」

「私は桃井あずき。姫屋支店に所属してる水先案内人です!セクシーな水先案内人を目指してます!あずきって呼んでね!」

「せ、せくしー……?」

一通り紹介が終わったのか、あやめちゃんとあずきちゃんは椅子に座った。

「あ、じゃあ次は私が……」

私がそう言って立ち上がろうとした瞬間、二人が一口をそろえて言った。

「高森藍子ちゃん、だよね!」「高森藍子殿、ですよね!」

「う、うん……」

二人の勢いに押されて、持ち上げた腰が再び座版に落ちる。
17 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:02:50.37 ID:b+VIQ/E60
「……さっきも思ったんですけど、どうして私の名前を?」

私は気になって二人に尋ねてみた。

「ああ、それは、私たちの先輩が教えてくれたからだよ」

あずきちゃんがそう言った。

「そうなんです。私たちの先輩は、藍子殿の先輩のアイさんと仲が良いらしくて……それで先輩から『ARIAカンパニーに新しい子が来たみたいだから、顔を見に行ってこい』って言われて」

「それで知ってたんだ〜!」

あずきちゃんとあやめちゃんはそう話しながら、私の顔を見る。

「そうだったんですね……アイさんのお友達が、あやめちゃんとあずきちゃんの先輩……」

私も二人の顔を見つめ返した。それと同時に、アイさんとそのお友達にも思いをはせる。なんだか、遥か昔から友だちだったみたいな感覚が私を包む。

「……もしかして、運命なのかもしれませんね」

私がそうぽつりとつぶやくと、あずきちゃんとあやめちゃんは目を合わせた。そして、お互いに頷き合っている。

「ど、どうしたんです?」

私がそう尋ねると、あずきちゃんが口を開いた。

「いや〜、やっぱり、ARIAカンパニーの水先案内人なんだなぁって」

「そうですね。やはり、先輩の言っていたことは正しかったですね」

「な、なんです……?」

何かやってしまったのかと思い、私は急に不安になって二人に聞く。すると、あずきちゃんが答えてくれた。

「先輩たちがね。『ARIAカンパニーの人はみんな、「ステキ―」って感じのオーラがあるからすぐにわかる。新人の子も絶対そうだから大丈夫』って、言ってたんだけどね」

「まさにその通りだと、先ほどの藍子殿の言葉を受けて思ったのです」

あやめちゃんがあずきちゃんの言葉を引き継ぎそう言う。

「そ、そうなんだ……」

二人の言葉に驚きながらも、まだここに来てから数日しかたっていないにもかかわらず、ARIAカンパニーの雰囲気が出ていると言われて、なんだか少しうれしかった。
18 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:04:47.88 ID:b+VIQ/E60
「あ、いっけない!」

しばらく談笑を続けていた私たちに出来た、ほんの隙間。あずきちゃんが腕時計をふと見てからそう叫んだ。

「どうしたのです、あずき殿?」

「もうこんな時間だよ!いつの間にこんなに時間がたってたんだろう?」

あずきちゃんが時計を見せる。短針が12の文字を少し越していた。

「なんと!もうそんな時間だったのですか」

あやめちゃんが時計を見て驚く。

「わたし、今日午後からあずささんのコーチングがあるんだった」

「わたくしも、この後アーニャさんに教わるんでした!」

二人とも慌てたような様子を見せる。そんな中、あずきちゃんは急にぴたりと動きを止めて、身体を私の方に向けた。そして、手をずいと差し出してきた。

「藍子ちゃん!」

「は、はい」

私は差し出された手を握り返した。すると、あずきちゃんはぶんぶんと腕を振った。

「あずきたち、今日から友達、だね!」

あずきちゃんはそう言って、ニカッっと笑った。

「……はい!」

私もつられて笑顔になる。

「あ、わたくしとも握手ですよ!藍子殿」

「うん。もちろん」

あやめちゃんとも握手を交わす。

「じゃあ、また明日!」

そう言って、あずきちゃんとあやめちゃんは漕いできたゴンドラに乗り込み、さっき通った道を漕いでいってしまった。

私は、そんな二人の背中を見つめながら、「また明日」という言葉をかみしめた。

「また明日、かぁ……」

その言葉は、私の心の中に広がっていって、なんだかとてもやさしいあたたかさに変わっていった。

「あ、私も練習しないと」

しばらく二人の余韻を感じていたけれど、ふと我に返って思い出した。机の下でお昼寝をしていたアリア社長を起こす。

「お待たせしました、アリア社長。ARIAカンパニーに帰りますよ」

「……にゅ?」

寝惚けまなこをこすりながら、返事をするアリア社長。私はアリア社長が起きるのを待ってから、ゴンドラに乗り込んだ。
19 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:06:52.98 ID:b+VIQ/E60
その夜。私は今日あった出来事をアイさんに話した。

「……それで、また明日って言って、別れたんです」

「……あずさとアーニャ、そんな話してたんだ」

私が話し終わると、アイさんは私に聞こえないくらいの声で何かをつぶやいた。

「アイさん?」

「ん?ああ、何でもないよ。私の友達の後輩が、藍子ちゃんの新しい友達になったなんて、ミラクルかもしれないね」

アイさんはそう言って私に微笑んだ。

「はい!まさにミラクルです!」

「明日から合同練習?」

「はい、そうです」

「良いねぇ。私たちが合同練習してた時は……」

「ふむふむ……」

こうして。火星での新しいお友達が、同時に二人もできました。アイさんとそのお友達も、アイさんの先輩も、お友達と一緒に練習をしていたらしいので、これから毎日一緒にあずきちゃんたちと練習できると思うと、ワクワクが止まりません!
20 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:09:22.65 ID:b+VIQ/E60
高森藍子「水没の空・雨雲の街」


前略

今日はとてものんびりしています。

事の始まりは朝でした


いつも通り制服に着替え髪の毛をセットし終わると、私は二階のダイニングに向かった。火星の朝。いつもならアイさんがキッチンで朝食を作っている音がするけれど、今朝は静かだ。二階にアイさんの姿が無かったので、そのまま一階へと続く階段を下りる。そして、じゃぼんという音がした。

「はへ?」

そして靴下が、思いっきり水たまりに飛び込んだみたいに水を吸収する感覚。

「えええっ!?」

私は前代未聞の体験におののきながら、踵を返し階段に戻る。数段昇ると、そこはいつもの階段だった。

「何が起きてるの……?」

私がそうつぶやくと、階段を覗くアイさんの顔が見えた。

「ア、アイさん!」

私は思わずすがるような声を出す。アイさんはニヨニヨ顔で私を見ながら口を開く。

「おはよう、藍子ちゃん。目はばっちり覚めた?」

「……はい、これまでないほどに」

「それは良かった。藍子ちゃんにびっくりしてほしくて、昨日の夜言わなかったんだよね」

アイさんはそう言って嬉しそうに笑う。

「な、何をですか……?もしかして、この浸水現象、アイさんがやったんですか?」

私はアイさんに尋ねた。アイさんが会社を水浸しにしてまで私を驚かせようとするいたずら心があったなんて思わなかった。私の言葉に、アイさんは笑いながら返す。

「違う違う。この浸水現象はね、アクア・アルタって言うの」

「アクア……アルタ……?」

私はアイさんの言葉を反芻する。

「そう。毎年この時期に起こる高潮現象のことをアクア・アルタって言うの。南風と潮の干潮に気圧の変化が重なって起きるんだって」

「へぇ〜……」

なるほど。その影響で、海辺に会社がある我がARIAカンパニーにも潮が満ちてきたというわけですね。

「アクア・アルタの間は街の機能がほとんどマヒ状態になるから、この時期はみんな家でゆっくりするんだ」

「そうだったんですね……」

「うん。街と海の境がなくなってるから、ゴンドラにも乗っちゃだめだよ。乗り上げちゃうと危ないから」

「そうなんですね……わかりました!」

アイさんの言葉に私はしっかりと返事をする。

「いや〜、それにしても。藍子ちゃんの驚いた顔、可愛かったよ」

アクアアルタについての説明が終わると、アイさんは再びニヨニヨ顔に戻ってそう言った。

「ア、アイさんっ!」

私は恥ずかしくなって、思わずアイさんの腕をとる。

「昨日のうちに浸水しそうなところにあったものを全部一人でどかすっていう重労働があったけど、藍子ちゃんのびっくりした顔が見れただけで帳消しされたよ」

「も、もう……言ってくれたら手伝ったのに……」

「それじゃあ、驚いた顔が見れなくなっちゃうじゃない」
21 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:10:34.37 ID:b+VIQ/E60
というわけで。街から水が引くまでの期間は、お店も開店休業状態です。このアクア・アルタが終わると、ネオ・ヴェネツィアに本格的な夏が訪れるそうです。マンホームの日本で言う、梅雨のようなものかもしれません。


二階のテラスでアイさんと何を話すでもなくのんびりと過ごしていると、電話が鳴り響いた。私は急いで受話器を取りに向かった。

「もしもし、お電話ありがとうございます!こちらARIAカンパニーです!」

ここの電話機はずいぶん昔の形を模して作られたものらしく、入力場所と出力場所が一体になっておらず、出力場所だけがぶら下がっている。入力部分は本体にそのまま設置されていて、そのすぐ近くからは空中に映像を投影するための装置が備わっている。

電話の主はアイさんを呼んでいたので、私はアイさんを呼んだ。

「はいはい……」

アイさんに電話を替わる。しばらくしてアイさんが受話器を置くと、私の方を振り向いていった。

「ごめん、藍子ちゃん。ちょっと急用が出来ちゃったみたいなの。だから。後よろしくね」

「わ、わかりました!」

「アリア社長も、良い子にしていてくださいね」

「ぶいにゅ」

「じゃあ、ちょっといってくるから」

「はい。いってらっしゃませ〜!」

アイさんは電話をしてからすぐにどこかへ出かけてしまった。

「……アイさん、行っちゃいましたね」

「ぷい」

「……じゃあ、ゆっくりしましょうか、アリア社長!」

「ばいちゃ!」

こうして私たちは、テラスでゆっくりと過ごすことにした。
22 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:11:54.72 ID:b+VIQ/E60
いったいどのくらいの時間がたったのかわからないほどのまどろみの中。急に耳慣れた声が聞こえてきた。それは、最近お友達になったばかりの声だった。

「藍子ちゃ〜ん!」

「……ふえ?」

自分の名前を呼ぶ声がして、目を開ける。

「あれ?藍子ちゃ〜ん?」

あずきちゃんの声が聞こえる。私は寝ぼけ眼をこすりながら、二階テラスと一階をつないでいる階段を降りた。

「あ、いたいた」

あずきちゃんは私の姿を確認すると、じゃぼじゃぼと音を立てながら近づいてきた。

「どうしたの、あずきちゃん?」

私はゆるんだ顔を上に押し戻しながらあずきちゃんに尋ねる。

「いやぁ、アクア・アルタで練習もできないし、暇だから来ちゃった」

「来ちゃったって……外を出歩くの、危なくなあい?ここら辺、水路も多いし……」

「あずきはこれでも地元っ子だから大丈夫だよ!」

「そうなの……?」

「うん!」

「そっか……それで、どうしてまたウチに?」

「あ、そうだ!忘れるところだった。藍子ちゃん、うちに来ない?」

「へ?」

あずきちゃんは突然手をつかんできた。

「ね!」

「う、うん。良いけど……」

「やった!じゃあ、決まりね!」

「あ、ちょっと待って!」

私は今すぐにでも出発しそうなあずきちゃんを一旦制し、ARIAカンパニーのテラスに戻る。テラスではアリア社長がうたた寝をしていた。少し心苦しいとは思いつつ、私はアリア社長を起こす。

「アリア社長、アリア社長!」

「……ぷい……?」

「今からお出かけするんですけど、アリア社長も一緒に行きませんか?」

私がそう尋ねると、アリア社長は「ちゃい!」と元気に返事をしながら、二階の部屋に入っていった。そして、自分が乗るためのミニゴンドラと、それを引っ張るための紐を持ってきた。そして、紐を私に渡してきた。

「準備は大丈夫ですか?アリア社長?」

「ぶいにゅ!」

アリア社長は元気に返事をした。
23 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:13:16.88 ID:b+VIQ/E60
「あ、ここ、水路が近いから、気を付けてね」

「わかった」

あずきちゃんを先頭に、ズンズント進んでいく。水先案内人の制服は足首の長さまで布があるので、片手で裾が濡れないように布をたくし上げながら、もう片方の手でアリア社長の乗るミニゴンドラの紐を引く。

「そういえば、あずきちゃんの制服、短くなあい?」

ふとあずきちゃんの制服に目をやると、制服がやけに短く、あずきちゃんは両手が空の状態のまま歩いていたので聞いてみた。

「ああ、これはねぇ……」

あずきちゃんは私の方向へクルっと身体を向けると、得意げな顔で言った。

「私がアクア・アルタ用に制服を改造したんだ〜。といっても、ピンでとめてるだけなんだけど……ほら、ここ」

あずきちゃんは腰あたりを指さしながら言った。

「裾の方を内側に織り込んでいってね、それをなるべく目立たないように安全ピンでとめてるの」

「へぇ〜、すごいね」

「でしょでしょ!?動きやすいし、ミニっぽくなっててセクシーだし、結構気に入ってるんだぁ」

あずきちゃんは嬉しそうに言う。

「……あ、ここの道を曲がったらすぐだよ!」

あずきちゃんは急に走り出す。

「あ、待って、あずきちゃん!」

私は水路に落ちないように慎重に、あずきちゃんについていった。
24 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:15:28.59 ID:b+VIQ/E60
「ほら、ここが姫屋の支店だよ!」

あずきちゃんが指さす先には、大きくて立派な建物がそびえ立っていた。

「普段はここの寮で生活してるの。さ、入ろう!」

「あ、うん」

私はあずきちゃんに連れられて、建物の中に入る。

「おじゃましま〜す……」

中に入ると、赤を基調としたシックな内装が施された空間が広がっていた。

「藍子ちゃん、こっちこっち」

あずきちゃんは手招きをする。そんなあずきちゃんのすぐ後ろに、一人の女性が立った。

「こりゃっ!小娘!」

「ひぃ!?」

いきなりの出来事に、あずきちゃんは肩を勢いよくすくめながら振り向く。

「制服を勝手に改造しないって、何度言ったらわかるのかねこの子は」

「し、支店長……」

あずきちゃんは支店長さんに頭を軽くチョップされながらそうつぶやく。

「ち、違うもん!これはただの改造じゃなくて、アクア・アルタ用の奴だもん!」

「だったら余計にダメでしょうが。アクア・アルタの時は危ないからであるくなっていってあったでしょ」

「私、地元民だから危なくないもん」

「アンタは変にどんくさい部分があるんだから、危なくないわけないでしょ」

「……むぅ〜」

「むくれてもダメなものはダメ!」

「……むぅ〜」

「……まったく」

その女性はあきらめたようにため息をつきながらそういうと、再び口を開いた。

「部屋に戻るまでにそのスタイルを直しておくこと。それと……」

そしてその女性は私に一つ視線をよこした後、言った。

「亜子に今日お泊りする子がいますって報告しておくこと。良い?」

「……はぁ〜い……」

「返事はしっかりするっ!」

「……はい」

「よろしい。じゃあ、ちゃんとやるのよ」

支店長さんはそう言うと、今度は私の方に近づいてきた。何だろうと思って少し緊張していると、小さな声で話しかけてきた。

「うちのあずきと、仲良くしてあげてね」

「あ、は、はい」

支店長さんは私の返事を聞くと微笑み、そのままどこかへ行ってしまった。外から急に振り出した雨の音が聞こえてきた。
25 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:17:50.38 ID:b+VIQ/E60
「支店長は頭が固いよ!」

あれから、あずきちゃんは制服を渋々元に戻した。

「もうちょっと自由に着たって良いじゃんねぇ」

あずきちゃんは唇を尖らせながらそういう。

「……そういえば、さっき支店長さんに亜子さんに報告しておくようにって言われてなかった?」

「あ、そうだった!」

私があずきちゃんにそう言うと、あずきちゃんはベッドから跳ね上がった。

「今から報告に行こう」

あずきちゃんの部屋を出て、一階へと戻る。階段を降りてすぐのところに扉があり、あずきちゃんはそれをノックする。

「失礼しま〜す」

「どうぞ〜」

中から声がすると同時にあずきちゃんは中へ入っていった。私もそれに続く。

「あずきちゃんやんか、珍しい。どないしたん?」

声の主はあずきちゃんの姿を見てそう言った後、私を見て口を閉ざした。

「亜子さん、今日私の友達の藍子ちゃんが私の部屋に泊まるから」

「あ、あずきちゃん。まだ泊まるって決まったわけじゃあ……」

あずきちゃんの言葉を聞いて、私は慌ててあずきちゃんに言った。

「でも、当分雨やみそうにないよ?」

「……アイさんに何も連絡してないし……」

「じゃあ、私のケータイ貸してあげる」

あずきちゃんが携帯を渡してきた。私はアイさんに電話をかける。

「……はい、わかりました。はい、ありがとうございます。おやすみなさい」

「どうだった?」

「アイさん、良いって」

「やった!」

私が電話を切ると、あずきちゃんは急いで訪ねてきたのでそう返した。すると、あずきちゃんは嬉しそうに飛び跳ねた。

「ちょい待ちちょい待ち」

そこに、亜子さんと呼ばれていた人の声が入ってくる。

「あずきちゃん。まだウチ、何も聞いてないんやけど?」

「あ、そうだ。だからね、藍子ちゃんが私の部屋にお泊りするの」

「それ、支店長には許可取ってあるん?」

亜子さんはあずきちゃんにそう尋ねる。

「うん。もちろん!」

「ホンマかいなぁ……まあ、一応報告は受けたということにしておくわ」

「嘘じゃないもん!藍子ちゃん、ご飯食べに行こ!」

あずきちゃんはそう言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。

「あ、あずきちゃん!」

私もあずきちゃんの後を追おうとした。すると、亜子さんから呼び止められた。

「あ、ちょい待ち」

「は、はい」

亜子さんは私に手招きする。私はそれに従って亜子さんのそばに行った。

「あの子と、仲良くしたってな」

「……はい!」
26 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:19:38.63 ID:b+VIQ/E60
「そういえば、さっきの亜子さんって、どういう人なの?」

食堂でご飯を食べて大浴場でお風呂に入った後、あずきちゃんの部屋でおしゃべりをしていた。あずきちゃんに貸してもらった和服風のパジャマは、あずきちゃんの匂いが少しした。

「亜子さん?亜子さんはね、自称ネオ・ヴェネツィア一お金の管理が上手い事務員さんだよ。本当に一番うまいのかどうかはわからないけど」

「へぇ〜。じゃあ、支店長さんは?」

「支店長はねぇ〜。新・水の三大妖精の一人で、姫屋支店の店長で、私の先輩の先輩、かな」

「水の三大妖精?」

聞き慣れない単語が聞こえたので、私はあずきちゃんに質問した。

「そ。ネオ・ヴェネツィアにいる水先案内人の中でも実力・人気共に抜きんでてる存在のことを三大妖精って言ってるんだけど……。なんで支店長がそう言われてるのか、私にはさっぱりだよ」

「あ、あははは……」

「先輩もめちゃくちゃ厳しいけど、支店長は先輩よりも厳しいし、すぐに制服直せって注意してくるし……」

「……」

「あずき、支店長に嫌われてるのかな……」

「……」

いつの間にか夜深くまで来ていた。時刻はすでに丑三つ時。外から雨の降る音は聞こえなかった。私は少し重くなった空気を入れ替えるために窓を開けた。

「わぁ……綺麗……」

窓を開けると、そこには凪いだ水面に映し出された、もう一つの夜空があった。それはまるで、世界が鏡みたいに反転してしまったかのように見えた。地面に空があって、空に街があるみたいな。そんな不思議な景色。

「ほら、あずきちゃん。綺麗だよ」

「……うん」

先ほどの話の流れで少ししょんぼりしているあずきちゃんを窓辺に誘う。あずきちゃんはゆっくりと膝を擦りながらこちらにやって来た。

「……ね?綺麗でしょう?」

「……うん。綺麗……」

あずきちゃんの顔が、窓の外を見る前よりも少し明るくなった気がした。

「……私ね、支店長さんがあずきちゃんのことを嫌ってるとは、思えないな」

「え?」

「だって、私、さっき支店長さんに言われたの。あずきちゃんと仲良くしてねって」

「……」

「それって、嫌いな相手のためには言わないんじゃないかな?」

「……でも……」

「もちろん、支店長さんがあずきちゃんを厳しく叱ることがあるかもしれない。けど、それって愛情の裏返しなんじゃないかな。あずきちゃんに期待しているからこそ、厳しく指導してるんだと思う。どうかな?」

「……そうなのかな」

「うん、そうだよ。支店長さんも亜子さんもあずきちゃんの先輩も、もちろん私も、あずきちゃんのことが好きなんだよ」

「……うん、そうだね!」

あずきちゃんの顔がパッと明るくなった。

「さっ、あずきちゃん。もう夜も遅いから寝よう?」

「うん」

それから私たちは横になった。

「おやすみ、藍子ちゃん」

「おやすみなさい、あずきちゃん」

少しだけ空いた窓の隙間から、優しい月明かりが部屋を包む。その明るさは、不思議と私たちを眠りに誘っていった。
27 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:21:44.33 ID:b+VIQ/E60
ここから新しいやつです
28 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:23:41.43 ID:b+VIQ/E60
愛野アイ「絶対について行っちゃだめだよ!?」


前略

その日はぽかぽかの洗濯日和でとても気持ちのいい朝でした


「にゅ」

アリア社長は扉をあけながらそう言うと、一人でどこかに行ってしまった。私はベットのシーツを干しながらそんなアリア社長の後姿を見送る。

「……アリア社長、どこに行ったんでしょうか?」

タオル類を干していたアイさんが、しわを伸ばすようにパンパンとタオルを叩きながら口を開く。

「……気になるの?」

「そうですね。ちょっとだけ」

「ちょっとだけ?」

「……だいぶ、気になります」

私がそう言うとアイさんは笑った。アイさんはいつも私の心を読み取る。

「じゃあ、行ってくる?」

「え?行くってどこに……?」

「アリア社長の尾行」

「尾行」

「そ。尾行」

「でも、洗濯物がまだ……」

「大丈夫。もうこれだけしかないから」

アイさんはそう言って、籠の中に入った洗濯物を私に見せる。そこには残り数枚のタオルが入っていた。

「洗濯ものもこれで終わりだし、ゴンドラの練習ついでに行ってみたら?」

「そうですね……でも、どうしてゴンドラ……?」

私がそう尋ねると、アイさんはアリア社長の電動ゴンドラがある場所を指した。本来あるはずの電動ミニゴンドラの姿は、そこにはなかった。

「なるほど」

「そういうこと。あ、藍子ちゃん」

「はい?」

シーツを完璧に干し終わった私は、さっそくアリア社長を追いかけるための準備にかかろうとしていた。そんな私にアイさんは声をかけてきた。

「もし、でっかい猫のシルエットを見つけても、絶対に追いかけちゃだめだからね?」

「は、はあ……」

「じゃあ、がんばってね」

アイさんはそう言うと、空いた籠をもって部屋の中に入っていってしまった。
29 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:26:19.97 ID:b+VIQ/E60
「でも、『でっかい猫の影』って、いったい何のことなんだろう?」

私はアリア社長が通ったであろうとなんとなく思った水路を、ゴンドラを漕ぎながら進む。

「ああ、それは、『猫の王国』伝説ですね」

ゴンドラに乗ったあやめちゃんが言う。

「猫の王国?」

耳慣れない言葉に、私はただオウム返しするしかなかった。

「はい。マンホームのハイランド地方に伝わる昔話に、猫の集会と言って猫だけの王国があるというものがあるんです。その昔話は、家から猫がいなくなったときは、猫が猫の集会に行っているときだという内容で、その猫の集会の主催者がケットシーという大きい黒猫らしいんです」

「へー。猫の集会、かぁ……」

「だから、アイ殿がおっしゃっていた『でっかい猫の影』というのは、このケットシーのことを指しているのだと思われます」

「なるほど。あやめちゃん、物知りなんだね」

「いえ、私が知っていたのは、私が小さい頃にたまたまおじいちゃんがこの話をしてくれたからなだけで……」

「でも、覚えていること自体が凄いよ。おかげで素敵な話を私も知ることができたし」

「そう言っていただけるのならうれしいです」

あやめちゃんは恥ずかしそうに微笑んだ。

「でも、その猫の集会ってマンホームのお話なんでしょう?アクアにもケットシー、いるのかな?」

「そうですねぇ。確かに言われてみれば、どうなんでしょう?」

会話をしながらもゴンドラを漕ぐ手は緩めない。最近の練習の成果が出てきているのか、こうやって少しおしゃべりしながらでもまっすぐにゴンドラを漕ぐことができるようになってきた。

しばらく静かな時間が流れていたが、突然あやめちゃんが何かを思い出したように言う。

「そういえば、アイ殿と私の先輩が出会ったのも、ケットシー探しがきっかけだったと聞いています」

「へぇ、そうなんだ。だったら、もしかしたらケットシーはいるのかもしれないね」

「はい。アイ殿の目撃情報を頼りに探したらしいですよ」

「アイさん、ケットシー見たことあるんだ」

「影だけらしいですけどね」

「そうなんだ……あっ!」

ゴンドラを漕いでいると、目の前にアリア社長とミニゴンドラが見えた。

「アリア社長ですね」

あやめちゃんもアリア社長の姿をとらえたみたいだった。

「うん」

アリア社長は私たちの姿に気が付いた様子はなく、そのまま右折して細い水路に入っていった。私たちを乗せるゴンドラも、アリア社長が入っていった水路の入り口に到着する。

その水路はとても狭く、どこまで続いているかわからないほどだった。奥の方は、今日は晴れているはずなのに妙に暗く、そのことが少し恐怖を感じさせた。

「……なんだか、少し不気味ですね」

あやめちゃんも私と同じように恐怖を感じたのか、そう言う。

「……行ってみようか」

「……はい」

狭い水路。船体をぶつけてしまわないように気を付けながら、ゆっくりと私たちも入っていった。
30 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:28:25.78 ID:b+VIQ/E60
「だいぶ漕いでるけど、アリア社長の姿、見当たらないね」

「そうですね」

アリア社長の後を追いかけて狭い水路に入ってから、いったいどれくらいの時間がたっただろうか。私たちの頭上には空があって、お日様が辺りを照らしている。そしてその恩恵を受けようと、洗濯物が水路をまたいで架かっている。ネオ・ヴェネツィアのよく見る風景。日常に溶け込んだいつもの景色。だけど、これは……

「なんだか、生活感がないですね。この水路」

あやめちゃんがぼそっと呟く。私もそれに同意する。

「うん。なんというか……ここだけ、ネオヴェネツィアじゃないみたいっていうか……」

オールが水を切る音だけが響く。いつものネオ・ヴェネツィアにはない静けさ。これは、私がここにきて日が浅いことに由来する、ネオヴェネツィアの新しい姿、というわけではなさそうだった。

「あ、藍子殿!」

あやめちゃんが急に指さす。あやめちゃんの示した先には、水路の出口があった。

「出口ですね」

「うん」

少し急ぎ目にゴンドラを漕ぐ。そして、ひらけた空間に出る。

「わぁ……」

「ここは……たぶん、アクアに人々が入植した直後の建物群の跡地ですね……」

「まだ、火星だった時の……」

「はい」

鉄骨むき出しの大きな建物の数々が、錆びて朽ち果てながらもそこには残っていた。ネオ。ヴェネツィアでは見ることのないコンクリート造りの建物は、表面をボロボロにしながらも一定の空間を保って並んでいる。その一定さが、入植した当時の科学技術をふんだんに使った効率的で機械的なものだということを私たちに訴えかけてくる。そのたたずまいからは、俺たちのおかげでアクアが出来たんだぞ、という昔の人々の意思を感じた。

パシャリ

私はそんな建物たちをレンズに収めるためにシャッターを切った。

「時代を感じますね」

あやめちゃんは感慨深げに言う。

「うん……そうだね……」

私はカメラを下ろし、再び自分の目でその建物たちを見る。今ではもう使われなくなって、静かに眠っている建造物たち。その姿には、やはりどこか哀愁めいたものがあった。

「……さ、行こうか。アリア社長を見失っちゃうといけないし」

私はこの空間から去ることを名残惜しく感じながらも、オールを動かす。

「はい。行きましょう」

あやめちゃんも頷く。ゴンドラが再び動く。
31 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:30:19.73 ID:b+VIQ/E60
アリア社長が先に行っている通路は、どうやら先ほどの建物たちと同じような建物の中にあるらしく、今度はそれら建物を中側から見ることができた。中側も、今のネオ・ヴェネツィアでは考えられないほど武骨な様子だった。そして、先ほど通ってきたあの狭い水路と同じような静けさが漂っていた。

「なんだか、時間の流れがここだけ違うみたい」

「そうですね……この空間だけ雰囲気が違いますね」

ゴンドラは滑るように進む。

「あれ?」

最初にそれを口にしたのはあやめちゃんだった。

「どうしたの、あやめちゃん?」

「……さっきもここ通りませんでした?」

「え……?でも、まっすぐ進んでるよ?もしかして知らないうちに曲がってた?」

「いえ、そんな感じはしなかったので、藍子殿はしっかりまっすぐ進んでいます……気のせいですかね……」

あやめちゃんはそう言って、うーんと頭をひねりながら前を向いた。そして再び口を開く。

「……そういえば、アリア社長はどこに行ったんでしょう?」

「……あれ、本当だ……さっきまでいたのに……」

「まあ、このまま進んでみましょう」

「うん」

そしてゴンドラを前に進める。
32 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:32:47.50 ID:b+VIQ/E60
しばらく時間がたち、再びあやめちゃんが口を開く。

「やっぱりさっきもここ通りましたよね?」

「うん……そうかも……でも、まっすぐ進んでるわけだし……」

「だから余計におかしいんですよ!」

あやめちゃんは勢いよく私の方に振り向いて言う。

「藍子殿。先ほどは言っていなかったのですが……」

「ん?うん……」

「ケットシーとは、猫妖精、と書くのです」

「うん」

「妖精というものはいたずら好きとして知られるものが多いのです。つまり……」

「……つまり?」

「私たちは今、ケットシーのいたずらに引っかかっているのではないでしょうか?」

「ええ……?」

「でないとこの状況、説明が付きません!ああ、しまった……こんなことなら何か有効な忍術の一つや二つ、身に着付けておけばよかった……」

そう言うと、あやめちゃんはぶつぶつと何かをつぶやき始めた。

「ちょっ、あやめちゃん?大丈夫?」

私はあやめちゃんに声をかける。ちょうどその時。目の前にスイーと流れるミニゴンドラ。そして、ミニゴンドラに揺られながらうたた寝をするアリア社長が現れた。

「ア、アリア社長!?」

私がそう叫ぶと、アリア社長の目が開いた。

「にゅ?」

「アリア社長〜!」

先ほどまで何かぶつぶつ言っていたあやめちゃんが、アリア社長をミニゴンドラから持ち上げてた。

「にゅにゅ!?」

「アリア社長、助けてください!後生ですから!」

そしてそのままあやめちゃんはアリア社長に抱き着いた。

「アリア社長、私たち、今道に迷っちゃっていて、どうやってここから帰ればいいかわからないんです」

私は、あやめちゃんに抱き着かれて少し苦しそうな表情をするアリア社長に向かってそう言った。するとアリア社長は、私たちのゴンドラの左側に向かって手を伸ばす。
33 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:38:27.41 ID:b+VIQ/E60
「にゅ」

「……あ」

アリア社長が示した方には、いつの間にか外の光が少し見える通路があった。

「こんな道、今まであったっけ……?」

私は呟く。こんな道があったら、気が付くはずだ。しかも、私だけじゃなくてあやめちゃんもいる。見落とすはずがない。

「今まではなかったかもしれないですけど、今はあるんです!帰りましょう!今すぐに!」

帰り道を発見したあやめちゃんは、アリア社長をしわくちゃに撫でまわしながらそう言った。私はあやめちゃんから解放されたアリア社長をミニゴンドラに乗せながら言った。

「ありがとうございます。アリア社長」

「ぶいちゃ」

「アリア社長も一緒に帰ります?」

私がそう言うと、アリア社長は、まるで「気にするなよ」とでも言いたげな表情で腕を振った。

「さあ、藍子殿!行きましょう!」

あやめちゃんは船の先にへばりつくように座りながら言う。

「うん」

私はアリア社長に背を向け、いつの間にかあった水路に向かってゴンドラを漕ぎだす。先ほどとは違う景色。確かにこの水路は、私たちが今まで迷っていた水路ではない。確かに別の水路だ。

外の光が強くなるにつれて、先ほどまではなかった現実感が徐々に自分の身体の中に戻ってくるような感覚。私はふと、後ろを振り向いた。

「あ」

私が振り向いた視線のその先には、先ほどまであった入植時代の建物に集まる何匹もの猫の群れ、そして、その中心にどっしりと腰を落ち着かせている巨大な黒い猫の姿があった。その景色はまるで、おとぎ話の中から出てきた魔法の世界のようで、私の瞳をひきつけてやまなかった。

「わわ!藍子殿!このままではぶつかります!」

あやめちゃんの叫び声に、私は我に返り、慌てて前を向く。

「はわわっ……!っとととと!」

何とか船体を立て直し、建物への激突を回避する。そして、もう一度振り返る。しかし、そこには先ほど見た光景はなかった。私たちを乗せたゴンドラは、見慣れた風景へと戻ってくる。

「……いや〜、一時はどうなることかと思っていましたが……戻ってこれて何よりです……ね、藍子殿!」

「……」

「藍子殿?」

「……あ、うん。そうだね」

私はあやめちゃんにそう返事をしながら、もう一度だけ振り返る。そこには、来た時と同じ、晴れているのに妙に暗い水路があった。

「……猫の王国」

「え?」

「……ううん。何でもない。それより、午後からはあずきちゃん合流しなきゃだね。このまま行っちゃおうか?」

「そうですね。裏水路に行かないように、しっかりとしたルートで行きましょう!」

「うん」

「では、出発〜!」

空にはさんさんと太陽が輝いている。
34 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/08(土) 19:41:48.19 ID:b+VIQ/E60
また来週新しいやつを書きます。よろしくお願いします。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/08(土) 23:16:18.27 ID:4PXWqFAyo
36 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:44:21.25 ID:zzfrO0HF0
こんにちは。今日も書いていきたいと思います。
37 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:45:13.09 ID:zzfrO0HF0
高森藍子「希望の丘・夕暮れの街」


前略

空が高く澄み切っている朝。これからどんどん気温が上がっていくのが、海の匂いでわかる。ムッと身体を押してくるような圧をかける空気が身体を包む。そんな朝だからか、アイさんがいつにもましてニコニコ顔です。

「……うふふ」

いつも通り朝ご飯を食べる私の顔を見て笑うアイさん。いつも通りと言えばいつも通りなのだが、少し雰囲気が違う。いつもはニコニコしているだけなのだけれど、今日は心の声が外に漏れだしてしまっているみたいだ。

「……どうしたんです?」

私はご飯を食べる手を緩めながらアイさんに尋ねる。

「ん?いやぁ、今日は晴れて良かったなぁと思ってさ」

「は、はぁ……?」

アイさんは変わらずニコニコしながらそんなことを言う。いつもは天気の話なんてしないのに、どうしたのだろう。何があったのだろうかと不思議に思いながらも朝食を食べ進めていると、キッチンから何かが焼けるような音がした。

「おっ、もうすぐ出来そう!」

アイさんは席から立ち上がると、そのままキッチンの方へと向かう。私は自分の目の前にある料理たちを見た。パンに卵焼きにベーコン、そしてミニトマト入りサラダ。アイさんが作るいつも通りの完璧な朝食。これと言って不備は見当たらない。では、いったいキッチンで何を作っているのだろうか。

「うん、完璧!」

アイさんはコンロの火を消すと、何かを炒めていたフライパンを鍋敷きの上に置く。

「後は〜」

アイさんはフライパンを置くと、別の作業をし始めた。目の前に視線を移すと、すでにアイさんの分の朝食はなくなっていた。

「ぶいにゅ!」

「わあ!?」

いきなりの声にびっくりしてしまう私。
38 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:46:13.27 ID:zzfrO0HF0
「あ、アリア社長!ありがとうございます、これですよこれ。流石です!」

「ちゃい!」

そんな私をしり目に、アイさんはアリア社長にそう言う。アリア社長が引きずっているのは四角く茶色いバスケットだった。褒められたアリア社長は胸を張って威張っている。アイさんはアリア社長から受け取ったそのバスケットをキッチンに持っていく。

「……よしよしよし、完成!」

しばらくして、アイさんがそう叫んだ。私は食べ終えた朝食の片づけをしにキッチンに向かった。

「何してるんですか、アイさん?」

私はアイさんに尋ねる。するとアイさんは、「よくぞ聞いてくれました!」と言わんばかりの顔で私を見ると口を開いた。

「藍子ちゃん、ピクニックに行くよ!」

「……へ?」
39 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:47:36.22 ID:zzfrO0HF0
今日の海は、昨日と少し違ってさらさらしている感じがする。オールを漕ぐ手の感触からそんなことを思う。あの後、あずきちゃんとあやめちゃんとの合同練習が今日はないことを確認された私は、アイさんに連れられるままゴンドラに乗りこんだ。そして、大きなバスケットを持ったアイさんとアリア社長を乗せ、今ゆっくりとゴンドラを漕いでいる。

「それでアイさん、どこに向かうんですか?」

私はゆっくりとオールを漕ぎながら、アイさんに目的地を尋ねる。

「んー?それはねぇ……とっておきの場所、かな」

「とっておきの場所……?」

「そう。きっと藍子ちゃんにとってもとっておきの場所になるんじゃないかな」

あ、この水路をまっすぐね、とアイさんは言いながら、さっきまで私の顔を見ながら座っていた席から位置を変え、進行方向を向いた。

アイさんの指示に従いながらしばらくゴンドラを漕いでいると、急に人通りならぬ船通りの多い水路に出た。

「わわっとと……」

私は他の船にぶつからないようにかじを取りながら、慎重に進んでいく。時折後ろを確認して、自分の後ろに船がいないか確認する。もし、私の後ろにも船がいるのなら、急がないといけないから。途中、何回かすれ違った水先案内人の人に、「がんばれ」と言われたのだが、これは一体どういうことなのだろうか。確かに私はまだペアだから、このくらい交通量の多い水路は他の人からすれば危なっかしく映るのだろう。私は少し不安になってアイさんをちらっと見る。しかし、アイさんは私の方には振り向かず、さっきと同じく前を向いていた。アリア社長はアイさんの膝で丸くなっている。

「……アイさん」

私は何となくアイさんに話しかけた。

「うん?このまま真っすぐで大丈夫だよ?頑張ろう!」

アイさんは振り返らずにそう言った。

「……はい!」

私はもう一度気合を入れなおして、この交通量の多い水路を突破しようとゴンドラを漕ぎ始めた。
40 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:48:43.69 ID:zzfrO0HF0
漕いでいると、いつの間にか開けた場所に出た。狭めの一本道の水路がドンとあるにしては、やけに周りに何もない場所だ。

どっどっどっど

周りを見回していると、前から中型の船がやって来た。私はその船にぶつからないように端に寄りつつ、その船が起こすであろう波にバランスを取られないようにするために身構える。

じゃぼん じゃぼん

と中型の船が通り過ぎるなかで発生する波をなんとかいなしながら前に進む。

「……ふう……」

ようやく波が収まって、私は一旦息を吐く。アイさんが振り返って言う。

「今の、よくこなしたね」

「は、はい」

「今から行くところは、観光地としても有名だから、さっきみたいに大きな船との対面通行も頻繁に起きるの。だから、漕ぎ手の技量が問われるんだよ」

「そうだったんですか……」

「うん。藍子ちゃんが一人前の水先案内人になったら、今から行くところにもいっぱい行くことになるだろうから、今のうちにいっぱい練習しておかないとね」

「はい!」
41 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:50:04.86 ID:zzfrO0HF0
またしばらく漕ぎ進めると、目の前に大きな壁が現れた。

「わぁ……これは……」

水路はこれ以上進めなさそうだ。私はアイさんに話しかけた。

「アイさん……これ……」

するとアイさんは振り返って微笑んだ。

「大丈夫。ちょっと待ってね……」

アイさんはそう言うと、「おじさーん!」と叫んだ。しばらくすると、「あいよ」という声と共に、一人のおじさんが現れた。

「ちょっとまってな。もう少しで下りてくるかんよ」

おじさんはそう言うと、ビーチチェアのようなものに座り込んだ。

「何が起きてるんですか?」

私は小声でアイさんに尋ねる。アイさんはそんな私の顔を見てニヨニヨしながらも、何も言わない。そのすぐあと、目の前にそびえ立っていた壁が突然機械音と共に二つに割れた。

「わっ……」

「んじゃ、中に入って大丈夫だかんよ」

おじさんが立ち上がりながらそう言う。私は言われた通り、壁の内側へと入っていった。壁の内側は、大きな空間になっていて、一部屋分のマンションの三階建てが立ちそうなくらい広かった。

「……なんか、マンションが建ちそうな空間ですね……」

私がそう呟くと、アイさんは笑いながらうなずいた。

「そうだね。そういえば、私も初めてここに来た時そう思った覚えがあるよ」

「アイさんも……?」

「うん。私たち、二人ともマンホーム出身だからね。マンホームの人間は、こういう空間はマンションっぽいって思っちゃうのかも」

二つに分かれた壁が再び一つになると、今度は水が流れてくる音がした。

「へぇ?!」

私が驚いた声を出すと、アイさんが口を開く。

「そんなに驚かなくても大丈夫だよ。これはね、水上エレベーターなの」

「水上エレベーター?」

「そう。水の量を調節することによって、上下に移動することができる、水路専用のエレベーター」

「へぇ……」

私は落ちてくる水を眺めながら、よく考えついたなと感心していた。

「なんだか、水に上げてもらってるなんて不思議な感覚ですね。いつもは横に移動するだけだから……そう言えば、これってどのくらいの時間がかかるんですか?」

「うーんっと、確かニ十分から二十五分くらいだったと思うよ」

「ずいぶんゆったりなんですね」

「うん。でも、ゆったり、好きでしょ?」

「はい!もちろん!」

アイさんに手招きされて、私はオールをひっかけながら、アイさんの横に座った。
42 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:51:52.80 ID:zzfrO0HF0
二つ目の水上エレベーターを昇り終えた時には、すでに辺りは夕焼け色に染まっていた。水上エレベーターで水の上昇を待つ間に食べたお弁当のサンドイッチに入っていたレタスの繊維が今更歯の隙間から取れる。アリア社長は、少しだけ揺れるゴンドラに揺られながらうとうとしている。

「あ」

急にそれは目の前に現れた。

「わぁ……」

言葉を出そうと思っても、なかなか思い通りに出てこない。焦げオレンジの光によって染められた白い巨人の大群が、私たちの目の前に姿を現した。風車の羽が回っていて、そのたびにびょうびょうと風の切れる音がする。それと同時に一面に生い茂っている草むらが、ざあざあと少し乾いた音をなびかせながら風車の羽の織りなすベースに色を加えている。

「響き……すごい……」

目を閉じればそこは天然のオーケストラみたいで、私の身体を震わせる。自分の心臓がかすかに揺らされる。

「藍子ちゃん」

アイさんが岸辺に寄るように指をさす。私はそれに従って、ゴンドラを横付けする。

「よいしょ」

アイさんがゴンドラから降りて、私を手招きする。アリア社長もいつの間にかゴンドラから降りていた。

「藍子ちゃん」

アイさんが私の方に手を伸ばす。私がその手を左手でつかむと、アイさんはそのまま私を引っ張った。私の身体が地面の着地する。

「おめでとう」

「へ?」

アイさんはそう言うと、引っ張られた私の手から、手袋が外された。

「え?」

何が起きているのかさっぱりわからない私に、アイさんがほほ笑みながら口を開く。

「あなたはこの難易度が高い陸水橋水路を無事に一人で漕ぎ切りました」

「……は、はい……」

普段とは少し違うアイさんの雰囲気に少しだけ体が硬くなる。そんな私の姿を見て、アイさんは笑いながら言う。

「そんなに硬くならなくて大丈夫だよ……今日一日かけて藍子ちゃんが通った水路は、実は両手袋の昇格試験にも使われる水路なの」

「昇格……試験……?」

「そう。そして藍子ちゃんはその水路を難なくこなすことができた。だから、合格」

「合格……」

「藍子ちゃんは、今日から片手袋、だよ」

アイさんはそう言って、私がさっきまでしていた手袋をフリフリと振る。

「あ…………」

「あ?」

「ありがとうございます!アイさん!」

私は勢いよくアイさんにお辞儀した。

「やだなぁ、藍子ちゃん。私は何もしてないよ?頑張ったのは藍子ちゃんなんだから」

アイさんは私の頭に手をおいて、ポンポンと優しく撫でてくれた。

「ね、見て、藍子ちゃん」

アイさんは私にそう言う。私はアイさんに言われるまま顔を上げて、アイさんがさす方を向く。

「っ……」

そこには、沈みかけている夕日と、それを映す海と、優しい光に包まれたネオ・ヴェネツィアの街があった。

「ここからはね、ネオ・ヴェネツィアが一望できるの。だから、希望の丘って呼ばれてるの」

「希望の……丘……」

目の前に広がる景色は、どこか神秘的で。普段住んでいるネオ・ヴェネツィアが少し違った場所に見える。だからこそ、この素敵な風景を忘れたくなくって、私は首にぶら下げたカメラの存在も忘れて、ひたすらその光景を目に焼き付けていた。
43 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:52:32.33 ID:zzfrO0HF0

「あれ?いつの間にこんなに時間がたってたんだろう」

アイさんの声で、私はふと我に返る。気が付くと、すでに辺りは真っ暗になっていた。相変わらず回り続けている風車の音だけがあたりに響く。空には、遠くにある二つ目の月と、それに負けないくらい強烈に瞬く星々が、夜を照らしている。

「こんな時間にここに来たことはなかったけど……これはこれで良い感じだね……」

「はい……夜も、素敵ですね」

「うん。でも、そろそろ帰ろっか?」

「はい」

「じゃあ、運送よろしくね、片手袋さん?」

「……はいっ!」

あたたかい街灯の光がいくつも見えるネオ・ヴェネツィアに向かって、私はゴンドラを漕ぎだした。
44 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/16(日) 18:52:58.31 ID:zzfrO0HF0
今日はこれで終わります。来週もよろしくお願いします。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/16(日) 20:30:14.93 ID:NfN1Jxh7o
おつ
46 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 18:52:52.64 ID:s2H4XrND0
※注意

今回は登場人物に佐久間まゆが出てきます。「まゆ」なのになんで出したんだ!?と思われるかもしれませんが、どうしても書きたかったし、ままゆの声優さんが牧野由依さんなので、今回だけ何とか見逃していただきたいです。よろしくお願いします。
47 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 18:53:40.89 ID:s2H4XrND0
前略

アクアに来てから、約半年が過ぎました。いよいよ夏本番です。最近流れる潮風が、濃いものになったような気がします。



「藍子ちゃ〜ん!」

朝、いつも通り眠たい目をこすりながら制服を着ていると、外からそんな声が聞こえた。

「ん……?なんだろう……?」

私は急いで制服に身を包むと、ベッド近くの窓を開け、顔を出した。そのまま外を覗き込むと、そこにはあずきちゃんとあやめちゃんが立っていた。

「あれ、二人とも……どうしたの?今日はたしか合同練習の日じゃなかったはずだけど……」

「ええ。ですがわたくしたち、藍子殿に見せたいものがあるのです!」

あやめちゃんが、興奮したようにそう言う。

「見せたいもの?」

「うん!」

あずきちゃんも元気にそう頷く。

「ちょっと待ってて」

私は二人にそう言うと、窓を閉めて二人のいる方へと向かった。

ARIAカンパニーの前にいる二人の前に私が到着すると、二人はいっせいに両手を見せてきた。

「じゃ〜ん!」

二人の手には、手袋が片方ずつ。

「あ」

「そうだよ!あずきたちも、この前シングルになったんだ!」
48 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 18:54:41.64 ID:s2H4XrND0
「これで藍子殿に追いつきましたよ!」

二人が嬉しそうにそう言う。そんな二人を観て、私もなんだかうれしくなって。思わず二人に抱き着いた。

「おめでとう!あずきちゃん、あやめちゃん!」

「これでお揃いだね!」

あずきちゃんとあやめちゃんが、ぎゅっとかえしてくれる。

「これから、もっと頑張らなくては、ですね」

あやめちゃんが言う。

「うん。一人前の水先案内人になれるように、これからも三人一緒に頑張ろうね」

「今まで以上に練習に気合を淹れなきゃだね……あ!」

何かに気が付いたのか、あずきちゃんが突然叫ぶ。

「ど、どうしたの?」

「あやめちゃん、今何時?」

「……八時、五分前です」

「ヤバ!いつの間にそんなに時間が!?始業時間に間に合わなくなるかも」

時間を見て、いきなり慌て始める二人。

「とにかく、私たちも片手袋になったってこと、いちはやく藍子ちゃんに伝えたかったから……」

あずきちゃんはそう言うと、「じゃあまた後で!」と言って、走り出した。あやめちゃんも、「では後日!」と言うと、あずきちゃんについていってしまった。

「……ああ、そう言えばミドルスクールか」

すごい勢いで見えなくなっていく二人の背中を眺めながら、私は二人の慌てぶりに納得がいった。
49 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 18:55:30.65 ID:s2H4XrND0
「じゃあ、始めよっか」

「はい」

少し遅めの朝食の片付けを終えて、アイさんはそう言った。今日は、週に一度あるアイさんが直接指導してくれる日だ。ARIAカンパニーを一人で切り盛りしていただけあって、アイさんは結構忙しい人だ。アイさんの予定表はいつも予約でいっぱい。でも、こうして忙しい時間を縫ってこうして私の練習を見てくれる。すごく、ありがたい。それと同時に、何となく申し訳ない気分になる。本来なら、この時間はアイさんの自由に過ごせる時間なはずなのに、私に時間を割くことで、それもなくなってしまっている。……アイさんのためにも、はやく一人前の水先案内人にならなければと、強く思う。

私は一足先にゴンドラに乗り、ロープをバリーナからほどく。そして、ロープを桟橋に置いてアイさんを待つ。アリア社長が先にやって来て、ゴンドラに乗った。しばらくして、アイさんが姿を現す。

「お手をどうぞ」

私はそう言ってアイさんに手を差し伸べる。

「ありがとう」

アイさんは私の手を取って、ゴンドラに乗りこむ。アイさんがゴンドラに乗りこみ終わるのを確認した後、私はゴンドラを漕ぎ始めた。

「今日はどのルートを通ります?」

私はゴンドラを漕ぎながらアイさんに尋ねる。

「うーん……じゃあ、今回はこっち行ってみようか」

アイさんが指し示す。私はそちらに舵を切り、そのままゆっくりと進めていく。
50 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 18:56:47.89 ID:s2H4XrND0
「……左手に見えますのが、ヴェネツィア共和国時代に存在した大富豪のうちの一人、ジュゼッペ・ペッシーナのお屋敷です。ジュゼッペ・ペッシーナは14世紀に貿易で財産をなしたペッシーナ家でも特に財を成した方と言われています。彼は植物が好きだったようで、今でもこのお屋敷の裏庭には季節ごとに違った花が顔をのぞかせてくれています。今の時期ですと、ピンクやオレンジといった可愛い色合いの花びらを持つヒャクニチソウなんかが咲いていて、とっても綺麗ですよ」

何とか記憶から情報を手繰り寄せ、言葉にする。水先案内人は、ネオ・ヴェネツィアのガイド役も担う。ガイドは、いかにこのネオ・ヴェネツィアが素敵な場所であるかを、少しでもお客様に知ってもらうための機会だ。だから、しっかりと出来るようにしておかなければならない。

ガイドの練習は、あずきちゃんやあやめちゃんと一緒の合同練習の時にはあまりできない項目だ。なぜならその情報が本当に正しいのかどうか、恥ずかしながら確信を持つことができないからだ。バリバリ現役で活躍している水先案内人であるアイさんにガイドの練習を見てもらうのが、ガイドの上達には一番だと私は思う。

「うんうん。だいぶ様になって来たんじゃないかな」

アイさんは私の案内を聞いて、そう言った。

「だけど、もうちょっと肩肘張らずに言えるようになった方が良いかもね。それと、自分なりのおススメポイントなんかも紹介できるようになると、もっと良いかも。ゴンドラに乗るお客様の多くは、ガイドブックやガイドサイトには載ってない情報を知りたいと思ってるから」

「自分なりのおススメポイントですか……」

「そう。そしてそのおススメポイントを見つけるためには、自分で実際にその場所に行ってみて、いろいろなことを感じる必要があるよね」

「はい」

「だから、今のうちにネオ・ヴェネツィアの色々な場所に行っておくと良いよ。それで、藍子ちゃん自身が、もっともっとネオ・ヴェネツィアのことを好きになってくれたら、アタシは嬉しいなぁ」

アイさんはそう言うと、私の方に振り返って笑った。

確かにアイさんの言う通りだ。最近の練習では、決まったルートしか通らなくなってきているし、ネオ・ヴェネツィアにときめくことも少なくなってきているかもしれない。

何よりもまず、ネオ・ヴェネツィアを好きになること。好きになることは、好きになった相手をもっと知りたいと思うことだ。例えば、普段何気なく生活しているだけでは見えてこないネオ・ヴェネツィアの素顔だったり、ほんのちょっとしか見せてくれない裏の顔だったり。そんな一面を見つけることができたら、ネオ・ヴェネツィアのことがもっと好きになるかもしれない。

「いい所でしょう?ネオ・ヴェネツィア。私、ネオ・ヴェネツィアが大好きなんです!」

ふと、そんな言葉が脳裏によみがえった。おぼろげな記憶に見えるのは、やはりピンク色の髪の毛をした、もみあげに房のある笑顔の素敵な女性の姿だった。

「さ、気を取り直して出発出発!」

そんなアイさんの言葉で我に返った。

「は、はい」

私はゴンドラを再び漕ぎ始める。
51 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 18:57:42.51 ID:s2H4XrND0
来たことのない水路でゴンドラを漕ぐのは、結構神経をすり減らす。慎重になりすぎるあまりゆっくりになって、他の人の進行を邪魔してもいけないし、だからと言ってゴンドラの規定スピードを超える速さで移動することもできない。水先案内人はいつだって、一定のスピードを求められるのだ。

のろのろ

……なんて言っても、今私は既定のスピードより遅いスピードで走行しているけど。

すると、私のゴンドラを巧みによけながら進んでいくゴンドラが一つ。姫屋の制服に身を包み、長くきれいな髪の毛をなびかせながら、ほれぼれするような操舵技術で私のゴンドラを避けていった。

「あ」

そのゴンドラを見て、アイさんが口を開く。

「どうしたんですか?」

「いや。さっき藍子ちゃんのゴンドラを抜かしていった人、晃さんだったから、つい……」

「晃さん?」

「そう。旧・水の三大妖精の一人で、今でも現役で水先案内人をしているすごい人なんだ」

「へぇ〜。知らなかったです」

水の三大妖精というのは知っていたが、彼女がそのうちの一人だったとは知らなかった。

「……いずれ、藍子ちゃんも会うことになるかもね」

アイさんはそう言いながら、少し懐かしそうな顔をした。
52 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 18:58:44.23 ID:s2H4XrND0
そんなふうにしてのろのろとゴンドラを漕いでいると、どこからか声をかけられた。

「あのっ……」

声のした方を見ると、そこにはフードを深くかぶった女性の姿があった。

「は、はい……?」

もしかしたら私に声をかけたのではないのかもしれないけれど、一応返事をしてみる。

「急いでるんです。乗せてもらえませんか?」

「え?」

そんな言葉が続くと思っていなかったので、私は思わず聞き返してしまった。

「だから、乗せてもらえませんか?急いでるんです」

一度聞き返したところで、返事の内容は変わらなかった。

「ア、アイさん……」

私は思わずアイさんを呼んだ。

「良いんじゃない?片手袋は指導者がいればお客様をお乗せすることは可能だし。代金は半額だけどね」

「じゃあ、決まりですね。乗せてください」

「わ、わかりました」

フードを深くかぶったその女性は、ゴンドラに近づくように水路の縁までやって来た。私は慌ててゴンドラを寄せ、お客様を乗せる準備を整えた。

「では、お手をどうぞ」

私が手を差し出すと、その女性も私の手を取ってゴンドラに乗りこむ。

「早く出発していただけますか?」

「は、はい!」

お客様にせかされ、私は急いでゴンドラを漕ぎだす。すると、先ほどその女性がいた場所に、二人の女の子が走ってきた。

「はぁ、はぁ……ったく。どこに逃げたのよ!」

「この街、迷路みてーになってるから、これ以上探すのは難しそうだな」

「バカ言ってんじゃないわよ!まゆ見つけないと明後日の公演に支障が出るでしょ!それと人がしゃべってるときにフーセンガム膨らまさないの!」

「へーへー」

そういって二人の女の子は別の方向に向かって走っていった。それと同時に、お客様がフードを外す。
53 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 19:00:34.25 ID:s2H4XrND0
「ふぅ……」

「……えっと……」

私は思わずそのお客様に声をかけた。

「さっきの二人から逃げていたんですか?」

「え?」

「いや、あの、答えたくなかったら答えなくていいんです!すいません、いきなりそんなこと聞いてしまって」

「ああ、いえ。大丈夫ですよ……そうですねぇ……あの二人からも逃げていた、というのが正しいかもしれません」

お客様はもう一度ため息をついた。しばらくの間、オールが水を切る音だけが耳に響いた。アイさんもお客様も何もしゃべらない。私は何とかこの少し重たい空気を換えるべく、もう一度お客様に話しかけた。

「あの……私、高森藍子って言います。差し支えなければ、お客様のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」

私が勤めて明るい声でそう尋ねると、お客様も返事をしてくれる。

「藍子さん、ですか……私は、佐久間まゆって言います」

「なるほど……では、まゆさん、とお呼びしてもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ」

お客様、もとい、まゆさんはそう答えた。私はこのままの流れで話を続けることにした。

「まゆさんは、どうしてこのネオ・ヴェネツィアに?」

「お仕事です」

「お仕事ですか。どんなお仕事をされてるんですか?」

「私、普段はアイドルをやってるんです。今回はちょうどここでライブ公演があって」

「まゆさん、アイドルなんですか!?」

私は思わず大きな声でそう言ってしまった。すぐに自分の声の大きさに気が付いてトーンを下げる。

「……すいません。いきなり大きな声を出してしまって……まゆさん、アイドルだったんですね……どおりで綺麗な方だなと思っていたんですよ」

「……ありがとうございます……アイドル、か……」

まゆさんはそう言って、遠くの方を見つめた。そんなまゆさんの横顔は、なんだか儚げで今にも消えてしまいそうに美しかった。
54 : ◆jsQIWWnULI :2020/08/30(日) 19:02:03.96 ID:s2H4XrND0
「……そういえば、目的地を聞いていませんでしたね。すいません。目的地はどこですか?」

「目的地、ですか……考えていませんでした……とにかく今は戻りたくないから」

先ほどからまゆさんは暗い顔をしている。戻りたくないってことは、きっとアイドルとしての活動の際に何かあったのだろう。

「……では、ネオ・ヴェネツィアをぐるっと大回りしましょう!安心してください、私はまだ半人前なので大回りしようと一人前の水先案内人の料金よりは安いですから!」

さすがに大回りすればプリマの通常料金よりも高くなるのだが、なんだかまゆさんを放っておけない気がして、私はそう言った。アイさんが私の顔を見てきたので、ニコッと笑顔を返した。するとアイさんはやれやれと言った表情で先ほどの姿勢に戻った。

「……じゃあ、そうしてもらえますか?」

まゆさんが言う。

「はい、もちろん!任せてください!」

私はそう言うと、ゴンドラを漕ぐ手を少しだけ強めた。

「……さっき、自身のことを半人前だと言ってましたよね」

「ええ」

私がゴンドラを漕いでいると、今度はまゆさんから話しかけてきた。

「だけど、藍子さんの運転は、他の人と比べても、なんというか、粗が少ないというか……」

「本当ですか?ありがとうございます!私が自分のことを半人前と言ったのは、水先案内人にそう言った制度があるからなんですよ」

「制度?」

「はい。水先案内人になるには、まず両手袋、つまり見習いとして基礎的なことを身につけなくてはいけません。そして、試験を経て片手袋、半人前になるわけです。そしてさらに実践的な練習だったり、観光案内の練習だったりの研鑽を積んでようやく、晴れて一人前の水先案内人になるんです。こうした制度をとることによって、より質の高いサービスをお客様に提供することができるようになったらしいです。私はこの前片手袋になったばかりなので、一人前の水先案内人になるにはまだまだなんですけどね」

「なるほど……水先案内人にはそういった仕組みがあるんですね。藍子さんはどうして水先案内人に?」

「そうですね……なんだか呼ばれた気がしたんです」

「呼ばれた?」

「はい。私はマンホーム出身で、ゴンドラに乗ったのも小さい頃でよく覚えていなかったんですけど……中学校で自分の進路を決めるとき、どうしてかアクアの、ネオ・ヴェネツィアの、水先案内人が頭に浮かんだんです。ネオ・ヴェネツィアの女の子たちは水先案内人があこがれの職業らしいんですけど、マンホームではそんなことなかったから、どうしてあの時そう思ったのか、どうして自分が今ここにいるのか、未だによくわからないんです。けど、水先案内人を目指してよかったって、毎日そう思ってます。運命って言葉はきっと、こういうことを表すためにあるんですよね」

「……良いですねぇ……」

「はい!……まゆさんは、どうしてアイドルに?」

「私は、モデルをしていた時に、プロデューサーさんにアイドルやってみないかって誘われたのがきっかけなんです。そこからプロデューサーさんと一緒にやって来たんです」

さっきまで少し暗い顔をしていたまゆさんの表情が明るくなる。

「そうなんですか。じゃあ、そのプロデューサーさんと出会ったのは、もしかしたら運命だったのかもしれませんね」

「ええ、間違いなく運命です」

まゆさんは間髪入れずに答える。

「運命だし、運命の人なんです。プロデューサーさんは……」

そして、まゆさんは左手首に巻いてある赤いリボンをぎゅっと握った。

「……好きなんですか?その人のこと」

言って、私は踏み込みすぎたなと思った。しかし、まゆさんは気にした様子もなく

「ええ。もちろん」

と答えた。

「どんな方なんですか?」

「とっても優しくて、頼りがいがあって、カッコよくって……でも」

まゆさんは一旦口を閉じる。そして再び開く。

「身体の芯まで、プロデューサーなんです」

そう言って、悲しそうに笑った。
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