【ミリマスSS】かつて守るべきものだった者

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1 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:22:15.60 ID:BHjCA0Mo0

「じゃあ隅子さんにコーヒー1つ、よろしくね。」

マスターからホットコーヒーがのったお盆を1つ受け取り、『隅子さん』と呼ばれたお客さんのもとに運ぶ。

『隅子さん』とはお客さんの本名ではなく、マスターが付けたあだ名だ。いつも店内の奥の奥、薄暗い2人がけの席に座る女性。だから『隅子さん』。ただのオヤジギャグ。

街中から少し外れた小さな個人経営の喫茶店。客足はまばら。もう少し明るい席に座れば穏やかな昼時のコーヒーブレイクを楽しめるのに、彼女はいつもその席に座る。窓から差し込む光や店内の照明を背にして、まるで身を隠すように。

まぁ『まるで』とは言ったが、俺だけは知っている。本当に彼女は身を隠していることを。はぁ...とため息を一つき、俺は彼女にコーヒーを差し出した。

「お待たせいたしました、コーヒーをどうぞ。」

彼女は開いていた手帳をパタンと閉じ、こちらを向いた。少し目深に被ったベレー帽から、彼女の顔が覗く。細くまっすぐな眉に切れ長な目、言葉にするなら容姿端麗。客観的には。

  

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2 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:24:19.31 ID:BHjCA0Mo0

「ありがとう、店員さん。」

そう言って彼女は軽く微笑んだ。端整な顔にほんのりと柔らかさが加えられ、世の殆どの男性はこの笑顔に吸い込まれるんじゃないかと思うくらいの魔力があった。客観的には。

「それでは、ごゆっくりおくつろぎください。」

俺は彼女の笑顔を営業スマイルでかわし、すぐさま踵を返す。一歩踏み出そうとしたところ、くいっと服の裾を引っ張られた。ピキッとこめかみの辺りが歪むのを抑え込んで、営業スマイルで後ろに向き直す。

「店員さん可愛いから、もっとお話ししたいな。」

そう言って彼女はパチっとウインクをした。アイドルが写真撮影でやるような、味付けの濃いあざとさマシマシウインク。

 
3 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:26:01.70 ID:BHjCA0Mo0

またピキッとこめかみの辺りがひきつる。そうなっては彼女の思うつぼだ。いつもいつもこうやって、この人は俺をからかってくる...。こちらも負けじと営業スマイルをマシマシにして返す。

「すみません、次のお客様のご注文が入っておりますので。」

そう言うと、彼女はわかりやすくむすーっと膨れっ面になった。「表情から感情が読み取りやすい、まるでドラマみたいですね流石です」と心の中だけで毒づく。

彼女は仕方ないなと言いたげにふっと息をひとつつき、さっきまでの作った表情とは違うふにゃっとした笑顔で俺に言った。

「それなら仕方ないね。お仕事頑張って、りっくん。」

「りっくんはやめろ...。」

我が姉北沢志保に小声で返し、生暖かい視線を背中に感じながら俺は厨房に戻った。

  
4 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:27:42.15 ID:BHjCA0Mo0

「どうだった?デート申し込まれたりなんかした?」

厨房に戻った俺を、ニヤニヤしたマスターが出迎えてくれた。『隅子さん』の正体を知らないマスターは、彼女と俺の関係について大きな勘違いをしてしまっている。

というのも、どうやら姉さんは俺がシフトに入っていない日は店に来ないらしい。だからマスターの中では、『隅子さん』は俺目当てで店に来る健気な女性となっている。

「いやなんで俺のシフト日そんなに正確に把握してるの?それ現代ではストーカーと呼ぶのでは?」と思ったけれど、これ以上話を掘ると藪蛇になりそうなので、あえてつっこまないでおいた。

 
5 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:28:52.05 ID:BHjCA0Mo0

「いやぁ、お話ししたいって言われただけです。仕事中って断りましたけど。」

そう言うと、マスターは少しつまらなさげに「ちえっ」とこぼした。コイバナ大好き女子じゃあるまいし、やめてくださいよ。

「まぁ、ウチはこの通り忙しすぎず暇すぎずだからさ、君は頑張ってくれてるし、もっと気楽にしていいんだよ。」

良いことを言いながら、マスターの視線は俺と『隅子さん』の方をキョロキョロ忙しく往復する。いや、いい言葉の裏に「サボって彼女との時間をとれ」って下心がありますよね。やっぱり心はコイバナ大好き女子だな。

「あはは、ありがとうございます。」

マスターのあふれる期待を遮るよう、俺は軽く返事をした。

 
6 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:30:04.31 ID:BHjCA0Mo0

バイトからの帰り道、スマホのカレンダーを眺めて今月のシフトを確認する。頭の中で数字を積み上げて、そこに時給を掛ける...のは流石に暗算では無理だから、電卓アプリを立ち上げる。算出された数字を眺めていると、思わずはーっとため息が出た。

「あんだけ働いて...これだけしか稼げないのかぁ...。」

マスターは良くしてくれているし、高校生バイトが働くにはいい店なのだけど、やっぱり稼げる額には限界がある...。とにかくお金が欲しい。もっともっと稼がないと。

じゃないと、俺はいつまでもこのままだ...。

 
7 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:32:08.91 ID:BHjCA0Mo0


数日後、

午前の授業が終わり、昼休みに入る。待ってましたと言わんばかりに教室がざわつき、各々家から持参したお弁当を取り出す。

例に漏れず俺も鞄から弁当を取り出し蓋を開けようとする...開けようとす...る...開けようと...。

「おーいどうした陸?早く弁当開けろよ。」

なかなか弁当の蓋を開けられない俺に、昼食時いつも隣を陣取る友人が声をかける。そうだね、俺も早くすっかすかの腹にご飯を流し込みたいよ。でもね、まぁいろいろと事情があるのです。とりあえずお前は後ろを向いたほうがいい。

「陸君早く今日のメニュー教えて!」

「今日は私も頑張ってきたから負けないよ!」

友人の後ろには、ぎゅうぎゅうにオーディエンスが押し寄せている。女子8割男子2割、俺の弁当箱の蓋が開くのを待ち焦がれている様子だ。そこまで期待されると、一般人の俺としては尻込みしてしまう。

 
 
8 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:34:15.28 ID:BHjCA0Mo0

「えっと、冷蔵庫にあったもので作ったからそんなに期待しないでね。」

期待外れとがっかりされても困るので、そうワンクッション置いてハンデをかける。すると、オーディエンスから罵声が飛んできた。

「そうやって陸君は女子の努力を粉砕するの!」

「女子力王者が何を言う!早く開けろ!!」

これ以上何を言っても火に油だと察し、これ以上燃え広がらないように俺は弁当箱の蓋を開けた。ピーマンの肉詰め、卵焼き、野菜スティックにウインナー、それにご飯。ほら、普通の弁当でしょ?

オーディエンスは骨董品の鑑定でもする様に、弁当の中身に視線を注いでいる。あんま見るものでもないでしょ?君たちが手に持っているお弁当の方がずっと煌びやかだし、美味しそうだよ。

何秒かの沈黙の後、オーディエンスの1人が言葉を発する。

 
9 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:35:48.52 ID:BHjCA0Mo0

「...負けた。」

その子の手元を見ると、唐揚げや根菜の煮物、レタスにパスタ、彩り豊かなお弁当があった。

「いや、そっちの方が美味しそうじゃない?いろんな色で綺麗だし。」

そういうと、その女の子の表情が悲しい顔に変わる。

「ダメ。私のお弁当は色彩が多いだけ。ひとつひとつのお料理の形は陸君みたいに整ってない。全体の色彩にこだわりすぎて、これは食べるものって1番の基本を忘れてたの...。」

「いや、その辺の好みは十人十色じゃないかなぁ」とつっこもうとしたら、次々とオーディエンスから喝采の声が上がった。

「さすが...1番ありふれたメニューで差をつける者こそ、絶対的王者。」

「女子力選手権チャンピオンは伊達じゃない...圧倒的嫁力。」

オーディエンスからたくさんの拍手をいただき、ついでに隣の席の友人からもスタンディングオベーションをもらい、この訳のわからないコントは終了した。

 
10 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:37:16.01 ID:BHjCA0Mo0

「それにしても、お前本当に料理上手いよな。」

友人は、俺の弁当から盗んだピーマンの肉詰めを頬張りながらそう言った。俺もお返しに、そいつの弁当から盗んだ唐揚げを頬張りながら答える。

「まぁ、小さい頃から作ってるしな。慣れだよ慣れ。」

「そっか、すげぇな。」

何気なしに俺を褒めた友人のリアクションに、少し居心地が悪くなるようなむず痒さを感じる。

俺は小さい頃から家事を一通りこなしていて、料理、掃除に洗濯、裁縫などなど、同年代の誰よりも上手かった。でも、それは小さなガキにはなんのステータスにもならなくて、「男のくせに」ってバカにされるばっかりだった。

そんなわけで、さっきのコントでの称賛もそうだけど、俺のこういう面にポジティブな評価をされるのに慣れていない。俺はむず痒さを誤魔化すように友人に言葉を返した。

「まぁ、俺にはこんなことしかないからな。」

 
11 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:38:52.78 ID:BHjCA0Mo0

ホームルームも終わり、急いで教科書やノートを鞄につっこむ。教室を後にしようとしたとき、声をかけられた。

「陸、帰り暇?女子高の子たちとこの後カラオケに行くんだけど、お前も行く?」

「陸がいると女子たちのテンションも上がるだろうからさ、な?行こうぜ。」

そう誘ってきた友人達は、なんとも浮ついた顔をしていた。これは結構可愛い子を揃えているとみえる。そう考えると魅惑的なお誘いではあったけれど、ホイホイとついていくわけにはいかなかった。

「悪い、今日バイトなんだ。」

「今日も?よく働くなぁ。」

「ほぼ毎日じゃね?マジやばくね?」

そういえばこいつらの誘いをいつも断ってばかりだな、これで何連続だろうと頭の中で指を折る。悪いとは思うけど、こればかりは仕方がなかった。

「金がいるんだ、すまん。」

そう言うと、友人たちは仕方ないなと諦めたようだった。

 
12 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:40:58.22 ID:BHjCA0Mo0

「よーし、次は陸の予定に合わせてセッティングするわ。」

「どういう子が好み?やっぱクール美人系?」

「やっぱ」とはなんだ「やっぱ」とは。俺はクールな美人系よりも、笑顔がぱぁぁっと可愛くて明るい子が...なんてそんなどうでもいいことを考えていると、友人達が言葉を続けた。

「でもさ、そんなに金が欲しいなら、芸能界とかありなんじゃね?陸くらいのイケメンなら人気出ると思うし、姉ちゃんのコネとかでいけるんじゃね?」

「てか、何回かスカウトされたことあるって聞いたぜ。なんで断ったの?」

思いもかけない言葉に驚いて、俺はさっとその場を後にする。

「姉さんと違って俺は一般人だよ、そんな世界無理だって。そろそろ時間だから行くわ。よければうちの喫茶店来いよ、じゃあな。」

 
13 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:42:33.37 ID:BHjCA0Mo0

つかつかと早足で学校の最寄り駅まで向かいながら、さっきの友人の言葉を思い出す。確かに俺は何度かスカウトを受けたことがある。いかにも業界人な風貌の人に名刺を渡された。渡された名刺は、悪いと思いながら近くのゴミ箱に捨てた。持っておくと、心が揺らぎそうだったから。

確かに芸能界はお金はたくさん入ってくるんだと思う。俺はそれをよく知ってる。身をもって。だけど、それは俺が目指してるやり方じゃない。芸能界だけは選んではいけない。

グッと足を強く踏み込んで、アスファルトを蹴る。硬い地面の反発が足の裏に、ふくらはぎに痛みを伝える。その痛みが自分の足で歩いていることを教えてくれた。

 
14 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:44:37.73 ID:BHjCA0Mo0



「じゃあ陸君、今月のお給料。」

今日の営業も終わり、店の掃除もそろそろ終わりに差し掛かった頃、マスターから声がかかった。マスターのところに行き、給与明細の入った封筒をもらう。

「陸君ほんとに頑張ってくれてるから、上乗せしておいたよ。」

マスターはそう言って、早く開けて見てみろと言わんばかりにドヤ顔をするので、封筒を開けて明細を見る。「おぉ」と思わず声を漏らしてしまうほど、給料が上乗せされていた。素直に嬉しいのだけど、やや罪悪感も生まれてきたのでマスターに問う。

「これホントにいいんですか?」

マスターは上機嫌で言葉を返す。

「あぁ、陸君がバイトに入ってくれてから、マダムから若い女の子までホントたくさんのお客さんが来るんだよ。噂になってるらしいよ、イケメンがコーヒーを運んでくれる小さな喫茶店って。」

あくまで一般人の俺は、そこまで話題になるような人物ではないと思うのだが、このお店に貢献できているのは嬉しい。それに、下世話だが、やっぱりバイト代を上乗せしてもらえたのは格別の嬉しさだ。明細を見ながらホクホクしていると、マスターが優しい声で俺に告げた。

「陸君、頑張ってくれてるのは嬉しいんだけどね、私は時々心配になるんだよ。」

 
15 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:46:42.18 ID:BHjCA0Mo0

心配?この店は順調だってさっき言ったばかりなのに、心配することがあるんだろうか?

「高校生、青春真っ只中じゃないか。青春は一度きり、返ってこないんだよ。それをほとんど毎日こんなチンケな喫茶店に費やしていいのかなって?」

それを聞いて、マスターは本当にいい人だと思ったのと同時に、胸にズキッと痛みが走る。そうだ、青春は一度きり。俺にとっても、そしてきっとあの人にとっても。奪われた青春は返ってこない。そうすれば、奪った側はどう償えばいいのだろう?思考に暗い影が立ち込めたところに、マスターは言葉を続ける。

「だから、その上乗せしたお金で『隅子さん』と楽しんでくるといい。ディズ○ーシーとか行ってパレードでも眺めながらね...うひひひひ。」

クラス内で初めてできたカップルをからかう女子中学生みたいに、グフグフ笑うマスター。ほんとコイバナ好きだな。俺の思考はマスターのピンクな妄想に浸食されてしまったらしく、モヤモヤ考えるのもバカらしくなってしまった。

 
16 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:48:05.59 ID:BHjCA0Mo0


家の玄関の前まで来て、鞄の中から封筒を取り出す。貰った給料を早速引き落として、封筒は厚みを増した。これを見たら、みんなはどんな顔するだろう。期待に胸を膨らませて、玄関のノブを回す。

「ただいま。」

リビングには母さんと、珍しく姉さんもいた。2人は上機嫌に俺の帰りを迎える。

「おかえり、ご飯そろそろできるから着替えてきなさい。」

「おかえり、今日は早く現場が終わったから、一緒にご飯食べれるね。」

姉さんは仕事柄家でご飯を食べることは少ないし、母さんも度々仕事で遅くなることがある。だから、本当に言葉どおり久しぶりに家族3人での夕飯だ。

 
17 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:49:33.45 ID:BHjCA0Mo0

「いただきます。」

3人で声を合わせて食事を始める。ご飯に味噌汁、サラダに煮物、豚生姜焼き、今や日本中に名を知らぬものがいない大女優北沢志保の家の夕飯とは思えない、普通で平凡なメニューだ。

姉さんは、笑顔でそんな平凡なメニューに舌鼓を打つ。たまに食レポの仕事なんかもしているが、そこでは見られないふにゃふにゃで心から幸せそうな笑顔。

母さんも嬉しそう。テレビ局やロケ現場で出されるお弁当ばかり食べてる姉さんをいつも心配しているから、目の前で自分の料理を食べてくれるのが嬉しいのだろう。

俺はポケットに突っ込んだ封筒をチラリと見てニヤッと笑う。今日は姉さんもいるからちょうどいい、これを見せて少しは俺のことを...。

「陸、どうしたの?ニヤニヤして。」

「おわぁ!?」

突然の姉さんからの呼びかけに驚く。ちょっと人がコソコソ企んでる時に声かけるのやめてくれませんか!

 
18 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:51:45.91 ID:BHjCA0Mo0

姉さんは俺のリアクションが気に入らなかったらしく、眉をひそめてジトーっと俺の顔を見る。

「なんか怪しい。」

万引Gメンばりの鋭さで、姉さんは俺を見る。いや、確かに少し企んでニヤニヤはしてたけど、そんなに鋭い視線を向けられることは企んでないよ。弁解しようとした矢先、姉さんから斜め上の言葉が飛んできた。

「陸、バイト先で女の子にモテてるんでしょ?お姉ちゃん聞いたよ。」

は?なんなの?姉さんもマスターと同じく頭コイバナ大好き女子中学生なの?

「あら、そうなの?陸やるじゃないの。」

母さんが姉さんの言葉にグイッと食いついた。もうこれあれだな、人類は皆コイバナ大好き中学生だな。

 
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/06/12(金) 21:53:01.27 ID:BHjCA0Mo0

「いや、モテてないだろ?何を根拠に。」

全く、一般人平民アルバイト高校生な僕にちょっかいかけてくる女性は、今目の前にいる人とそっくりな『隅子さん』しか知らないんですけどね。ジトーっとした視線を投げ返すと、姉さんは不敵に笑った。

「客席に座ってるとね、おばさんやOL、女子高生もみーんな『あの店員さん超イケメン、彼女いるかなぁ?』とか、『えー、いたらショックー、私狙ってるのにー』みたいな会話をしてるのが聞こえるのよ。」

言葉を続けるたび、姉さんのボルテージが上がっているのを感じる。なんか目に炎宿ってないですか?家燃やさないでね。

「そのたび私は心の中で言ってやるの『あんたたちにかわいいりっくんは渡さない!』ってね!」

姉さんはそう言って、ドヤ顔で締めくくった。いや、店内にこんな守り神がいたなんてな心強い心強い、守り神のせいで客が減ったら倍の値段請求していいんじゃないですかマスター?

姉のテンションが高くなりすぎて手に負えないので、いつものツッコミでこの話題を切り上げる。

「だから、りっくんはやめろって。」

 
20 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:53:54.54 ID:BHjCA0Mo0
>>19
酉入れ忘れました。でへへ〜
21 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 21:57:51.30 ID:BHjCA0Mo0


夕飯も終わり一息ついた頃、ここぞと俺はポケットから封筒を取り出し、母さんに渡す。

「母さん、今月もこれ。」

母さんはいつもどおり少し困り眉になって、その封筒を受け取り、俺に問いかける。

「陸、本当にいいの?」

「いいって、受け取ってよ。」

給料日の度にこのやりとりを繰り返している。母さんはいつもどこか申し訳なさそうで、俺はいつも押し付けるように給料を渡す。

「今月はマスターがおまけしてくれて、結構入ってるから。」

フフンと笑みが漏れ出そうになるのを抑えながら言葉を続け、視線で母さんに封筒を開けるよう促す。母さんの視線が俺から外れたところで我慢をやめると、フフンと口の端が釣り上がった。

 
22 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:00:37.04 ID:BHjCA0Mo0

「まぁ、こんなに...。」

そう言って母さんは何か思いを飲み込むように深く息を吸って、すーっと吐いた。どこか目は寂しげだ。封筒を見てポジティブなリアクションが返ってくると思っていたので、呆気にとられてしまう。

「陸、こんなに受け取れないわ。あなたが頑張って稼いだお金でしょ、あなたのために使いなさい。」

母さんの言葉を聞いて、パキッと空気にヒビが入ったような音が聞こえた。母さんから差し出された封筒を受け取れずにいると、横から姉さんが封筒を手に取り、俺の目の前に置いて言った。

「陸、生活費ならお母さんとお姉ちゃんのお給料で十分だから、あなたのお金はあなたのために使いなさい。」

パリンと空気が割れるような音がする。割れた隙間から空気が漏れ出ていき、息苦しくなるような錯覚がする。

「でも、俺さ、家のためになると思って頑張ったんだ。受け取ってくれよ、な?」

姉さんの眉間がキュッと狭くなって、目も鋭くなる。さっきより少し低くなった声色で俺に言葉を返す。

「前々から思ってたの、高校生のうちからアルバイトをするよりも、その分部活とか勉強を頑張ってほしい。ウチは十分にお金があるのに、なんで陸は自分のためじゃなくて『家のために』アルバイトをするの?」

 
23 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:02:10.03 ID:BHjCA0Mo0

なんでって...それは絶対に言いたくなかった。情けなくて、カッコ悪くて、絶対に口になんてできない。姉さんの鋭い目から逃げるように、視線だけ下に逸らす。姉さんは逃げ場を塞ぐように、強さを増した口調で問いかける。

「もう一回言うけど、お母さんと私のお給料で、家のお金は十分。陸を大学に行かせてあげるだけの貯金も十分にある。陸もそれはきっとわかってると思うの。」

「だからわからないの。それなのに、アルバイトで稼いだちょっとのお金を、どうして家に入れる必要があるの?」

多分、姉さんは悪意なしに言ったのだろう。少し表現を誤っただけなのかもしれない。でも、その言葉は俺の気持ちの真ん中を貫いて、粉々にしてしまうものだった。

姉さんに背を向けて自分の部屋へ向かう。一歩進んで、二歩目を踏み出そうとしたところで、ガシッと肩を掴まれた。

「まだ話は終わってない!どうして答えてくれないの?」

 
24 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:03:48.11 ID:BHjCA0Mo0

姉さんも相当頭にきているようだ、言葉の端々から怒気が漏れ出ている。もう何年も聞いたことのないような強い口調だ。だけど、こっちもキューっと喉元まで上がってきてる怒気を抑えるだけで精一杯なんだ。

「離せよ。」

姉さんの目がガッと見開いた。多分キレたんだろうな。今までよりもずっと大きな声で、俺に言葉を投げつけた。

「ちゃんと話してよ!!どうして話してくれないの!?」

グッと腹の底の熱が増す。その熱で内臓が溶け落ちてしまうのを防ぐように、身体が反射的にその熱を言葉に変えて外に出す。

「何もできない俺みたいなガキの稼いだ端金なんて、いらないってわかってるよ!!!!姉さんの稼ぎに比べたら雀の涙だもんな!!!姉さんはすごいよ!!!今の俺より小さい頃から、この封筒の中の金よりもずっとずっと稼いでさ!俺には無理だよ!何にもないよ!」

一方的に言葉を投げつけられるだけ投げつけて、部屋まで走り、鍵を閉めて布団の中で疼くまる。扉がコンコンと叩かれる。姉さんが何かを言ってる声が聞こえる気がする。耳を塞いでるからよくわからないけど、きっと怒ってるんだろうな。せっかく家でゆっくり過ごせる日に、罵声を浴びせられたんだ、たまったもんじゃない。

やがてドアの前の声は聞こえなくなった。音も光も無い空間、思考は内に内に入っていく。

  
25 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:05:56.09 ID:BHjCA0Mo0

姉さんはカッコよくて、俺の憧れだった。

いや、今じゃ形や熱は変わっているけれど、根本的には変わらず同じ感情を抱いてるのだと思う。姉さんはいつもアイドルを頑張って、家事をしてくれて、俺を守ってくれる絵本の中の強いお姫様。

ずっと姉さんの背中を逞く思い、その影に隠れていた。沢山の辛いことを知らずに、沢山の痛みから守られて、多くの幸せと喜びだけを貰っていた。それが当たり前だと思っていた。

だけど、成長していき、いろいろと理解が増えるたびに、気がついたことがある。父親のいない家庭、母親の仕事、姉がアイドルを始めた理由、俺がどれだけ無知で愚かだったのか。

だから俺はまず家事を始めた。守られるだけの弱者にはなりたくなかったから。少しでも家族の役に立つように。だけど、そんなの姉さんだって小さい頃からやっていたし、それに加えて仕事をして生活を支えていた。自分で『アイドル』という道を切り開いて、母さんと俺の幸せを守ってくれていた。

俺もそうありたかったけれど、姉さんがアイドルデビューをした年齢をむかえたとき、俺は結局姉さんみたいに家族を守れる存在にはなれなかった。そしてその年齢を数年越した今も、それは変わっていない。守られるだけの、愚かな弱者そのままだ。

今のアルバイトだって、本気で家計の足しになるなんて思ってやってるわけじゃない。ただ、何もできない自分から目を逸らしたくて、言い訳のように母さんにバイト代を押し付けていた。

変わらなければ...変わらなければいけないのに...粘っこい暗黒色のヘドロのような思考に溺れながら、いつしか俺は眠ってしまっていた。

 
26 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:07:46.69 ID:BHjCA0Mo0

数日後、

俺はあるカフェの奥の席で人を待っていた。コーヒーをブラックのまま口にする。苦味が口に広がって、思わず顔をしかめてしまう。でもまぁ、今の家の空気よりはマシな苦味だけど...なんて、その苦味の元凶が言うのはズルイと思いつつ、スマホの時計を確認する。

約束の時間を30分ほど過ぎている。こちらからお願いをして会ってもらうのだから、このくらいは気にしない。まぁ、あの人めちゃくちゃに忙しいだろうから、会ってくれるだけでも感謝だ。

ボーッと店の外を眺めていると、小走りでこっちに向かうスーツ姿の男の人が見えた。あの人だと、一目でわかった。会うのはもう数年ぶりになるけど、あまり変わってはいない。あ、でも、ちょっと白髪が増えたかも。

そのスーツの男性は店内に入り、俺を見つけると笑顔で小さく手を振った。俺は席を立って、挨拶をする。

「お久しぶりです。プロデューサーさん。」

 
27 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:09:30.42 ID:BHjCA0Mo0

そう、俺が待っていたのは、かつて765プロシアターで姉さんたちのプロデューサーをしていた人、通称プロデューサーさんだ。姉はもうシアターを卒業して、765プロに直接出入りしているらしい。その頃から、俺もプロデューサーさんには会ってない。

プロデューサーさんは、久しぶりに自分を訪ねてきた生徒を迎える先生のような笑顔で俺に話しかけてきた。

「いやぁ、陸くんすっかり大きくなったなぁ。もう高校生か。」

マジマジと俺の顔を見て、プロデューサーさんは言葉を続ける。

「それにしても、随分イケメンになったなぁ。小さい頃は可愛かったけど、今はそれにカッコ良さも加わった。いい男だ!」

それを聞いてグッと拳に力がこもる。早速本題になってしまうが、プロデューサーさんも時間がないのでそのほうがいいだろう。

「あの、俺、芸能界に入りたいんです!」

 
28 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:10:56.86 ID:BHjCA0Mo0

唐突な俺のお願いに、プロデューサーさんは驚いたようだった。無理もない、段階も踏まずにいきなり話を切り出したから。プロデューサーさんはまだ言葉を飲み込めていない様子で、俺に尋ねる。

「えっと、陸君がアイドルになりたいの?」

特に、アイドルとか役者とかそこまでは決めていなかったので、正直に答える。

「アイドルでなくても構いません。どこかプロデューサーさんの知ってる会社で、俺を雇ってくれるところはありませんか?」

プロデューサーさんは何かを見透かすように、ジッと俺を見て答える。

「ウチで雇ってくれ、ってお願いじゃないんだね。」

「いえ、765プロは女性アイドルの事務所でしょうし...それに...。」

思わず口籠ってしまった俺の代わりに、プロデューサーさんが言葉を続ける、

「志保がいるからやりにくい?」

首を縦に振り、肯定の合図を伝える。プロデューサーさんは「そりゃそうだ」と軽く笑って、アイスコーヒーを一口静かにすすった。

 
29 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:12:52.70 ID:BHjCA0Mo0

「で、どうでしょう?」

俺がそう促すと、プロデューサーさんは考えるそぶりもなく答えた。

「こんなにイケメンだし、北沢志保の弟なんて話題性も抜群だ。歌や演技は未知数だけど、それだけでもう引く手数多だよ。うちとしても、君を全力で説得して765プロ初の男性アイドルとして売り出したいくらい。」

思いがけない好反応に、ガッツポーズしそうになるのを堪える。よし、これはいけるんじゃないか?そう期待したところに、プロデューサーさんから質問が投げられた。

「ところで、どうして陸くんは芸能界に入りたいんだ?」

入りたい理由。それは俺の中にきちんとある。でも、プロデューサーさんに話すのは躊躇われた。言葉は思いを形にするものだ。そうやって形作られてしまう俺の思いを、俺は直視したくない。

「いろんな事務所が引く手数多なら、理由とかはどうだっていいんじゃないですか?」

誤魔化すためにそう言ってみた。実際、芸能界にはスカウトされて入る人もたくさんいるんだろう。それならば、就活みたいに志望理由は大事ではない筈だ。

 
30 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:15:12.21 ID:BHjCA0Mo0

プロデューサーさんの表情から柔らかさが消える。俺が今まで見たことのない、真面目な仕事の顔になって話を始めた。

「我々はね、スターを育て上げることが大事だけど、もっと大事なことがあるんだ。それは、スターの才能を持つ子をスカウトすること。」

唐突に始まった話に驚くけれど、まぁそれはそうかと思う。残酷なまでに『生まれ持ったもの』というのは、人の運命に影響し続ける。きっと、努力で覆すことができることよりも、覆せないことの方がはるかに多い。

「だから、スターの兄弟姉妹ってやつは、関係者たちの興味の的なんだ。所謂『血統』ってやつかな?どこの誰だか知らない子よりも、スターの兄弟姉妹の方が才能を持ってる可能性は高い。」

「だから、この業界の陰の方には、情報網を使ってそういった子を特定して、その情報を売ってる輩もいるようなんだ。才能を見抜けない、ボンクラプロデューサーなんかがそれを買うんだってさ。」

その話を聞いて思い当たる節があった。俺をスカウトしてきた人たち、中には直接弟だと言わないまでも、やたら姉さんの名前を出してくる人もいた。

「ウチはもちろんそういう情報に手を出していない...ってのはどうでもいいか。それで、狭い業界だから耳に入って来たことがあるんだよ『北沢志保の弟に、絶対に芸能界に入らないってきっぱり断られた』って話。」

「しかも、その話を聞いたのは最近なんだ。それなのに、なぜ今日こんな話を持ってきたのか、その理由を聞かせてもらっていいかな?」

 
31 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:17:00.79 ID:BHjCA0Mo0

そう言うと、プロデューサーさんは柔和な表情に戻った。理由を聴きたいというのは本当の真剣な話で、でも俺が話しやすいように、一旦仕事モードをオフにしたんだと思う。はぁ...これは話さないわけにはいかないみたいだ。

「姉はずっと俺と母さんを守ってくれました。多分、いろんなものを犠牲にしたと思うんです。だけど、俺はそれを知らなくて、甘えてました。」

「そんな自分が嫌で、姉さんのように強くなるために、俺なりに頑張ったんです。沢山アルバイトして、お金稼いで、俺は一人でも大丈夫なんだって証明するために。」

「芸能界は嫌だったんです。どうしても姉さんの名前が付き纏って、俺一人で戦うことは出来ないから。でも、俺、姉さんに八つ当たりしちゃったから、どうにかしないと、このまま駄目になると思って。」

前後の文脈もうまく繋げないまま、ただ思いを言葉にして形作る。プロデューサーさんは何も言わず、ただ優しい目でそんな俺を見守ってくれていた。

そんなプロデューサーさんに勇気づけられて、俺はゆっくりゆっくりではあるけれど、思いを最後まで言葉にすることができた。腹の底に溜まったドロドロと冷え固まったものが、幾らか消えてった気がして、身体がやや軽くなった気がする。

 
32 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:18:32.55 ID:BHjCA0Mo0

そんな俺の話を静かに全部聞いてくれた後、今度はプロデューサーさんが話を始めた。

「昔さ、俺は野球部のキャプテンになったことがあったんだよね。」

俺の話と全然変わって、始まったのはプロデューサーさんの昔話。意図は後から分かると思うので、余計なことは言わずに聞いておくことにする。

「キャプテンに指名される前まで俺は自己中でさ、とにかく自分が上手くなることしか考えてなかったんだよ。だから驚いた、チームの中では1番まとめ役に遠い人間だったから。」

昔と今のプロデューサーさんは、全く違う人間みたいだ。あんな個性豊かなアイドルたちをまとめてる人が、昔そんな自己中な人だったなんて。人間、変われるものなのかもしれない。

「最初は戸惑ってたけど、やっぱ嬉しかったんだ。だから、それに相応しい人間になろうとした。1番早くグラウンドに出て準備したり、最後までグラウンド整備したりな。」

「そうやって行動を変えていくうちに気がついたんだよ。あぁ、自分のことだけ考えて練習するよりも、みんなのために頑張る方が楽しいなって。俺、こっちの方が好きだって。」

「もしかしたら今こういう仕事やってるのも、そういう経験があったからかもしれないな。」

 
33 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:20:09.79 ID:BHjCA0Mo0

そこまで話して、プロデューサーさんは改めて俺にアイコンタクトを送り、一息つく。なんとなくその意図を理解する。どうやらこれから本題に入るらしい。

「君は志保みたいに『強くなりたい』と言った。確かに北沢志保は男性だけじゃなくて、女性にも憧れられるような本当に芯のある強い人だ。」

「でも、志保は最初からそれを持っていたのだろうか?」

プロデューサーさんからの問いかけは、意外なものだった。俺はずっと姉さんはすごい人で、強い人だったのだと思ってた。そうじゃないとしたら?姉さんも何かがきっかけで、今の姉さんになったのかもしれない。

「わかりません...。プロデューサーさんは、どう思いますか?」

俺の問いかけに、プロデューサーさんは首を横に振った。

「それは俺が言うことじゃないな。答えるべき人に答えてもらってくれ。」

答えるべき人、それが誰かは考えるまでもなかった。でも、きっとそれをすんなり聞けるのなら、こんなにぐちゃぐちゃに拗れることなんてなかっただろう...。


 
34 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:20:58.78 ID:BHjCA0Mo0

頭をぐちゃぐちゃにこんがらがらせていると、プロデューサーさんは腕時計を一瞥し、荷物を整理し始めた。

「悪い、そろそろ時間だから行くね。アイドルの話は一旦保留。志保に許可が取れたら、改めて相談しにきて。」

ちょっと...母さんというか保護者の許可なら分かるけど、なんでそこで姉さんが?

プロデューサーさんは俺の疑問をアイコンタクトで理解したのか、ちょっと苦笑いをして答えた。

「陸君を勝手に芸能界に入れたって知られたら、あの姉は黙っちゃいないだろ?勘弁してよ、俺にも立場がある。」

どうやらこの話は最初から勝ち目はなかったらしい...。流石に、プロデューサーさんも姉さんに頭が上がらないとは思っていなかった...。

 
35 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:23:38.92 ID:BHjCA0Mo0


「隅子さん、最近来なくなったけど喧嘩でもした?」

マスターが心から心配そうに俺に尋ねる。いや、だからなんで俺と隅子さんがめちゃくちゃ親しい前提で話してくるのこの人?転勤とか引っ越しとかあったのかもしれないじゃん?まぁ、その前提は間違ってるのに、導かれた結論は正しいので、何も言わないことにするけど。

「陸君、何があったかは知らないけど、謝るのは男の仕事だよ。」

マスターはドヤ顔でそう言った。マスターの「マスター」は喫茶店のマスターではなく、恋愛マスターの「マスター」なのですよとも言いたげなドヤ顔に少しイラッとくる。おまけに俺が謝るべきだってとこも正しいので、余計にイラっときてしまう。

 
36 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:25:11.17 ID:BHjCA0Mo0

「すみませーん。」

入り口からお客さんの呼ぶ声がしたので、助かったと言わんばかりに早足でそちらに向かう。女性1名のお客様ですね、かしこまりました。

席に案内してメニューを渡す。女性はこちらを見てニコニコと笑顔だ。やたらジーっと見てくるので、めちゃくちゃ気恥ずかしい。直視できないのだけど、多分かなり可愛い人だし。

「コーヒーとパンケーキお願いします。」

注文を受け、視線から逃げるように厨房へ向かう。厨房では、ニヤニヤと俺に変な視線を送ってくるマスターが待ち構えていた。なんなのこれ?なんでみんな俺に変な視線を浴びせてくるの?

「あのお客さん、随分陸君のことじーっと見てたよ。それに今もこっち見てる。しかもニコニコだねー。これは怪しいねー。」

怪しがっている割には、声が嬉しそうなマスター。コイバナ大好き中学生の心に、また火がついてしまったみたいだ。

「隅子さんが来ないと思ったら、あのニコニコさんが来て、あー三角関係ってやつ?陸君ダメだよ修羅場は。」

マスターの中ではかなり話が進んでるようで、なぜかサスペンスめいた内容になってきてるようだった。まってニコニコさんってあの人のあだ名ですか?またセンスがない。ともかく、隅子さんはアレだけど、あの人のこと俺全然知らないんですって。

マスターは2時間サスペンスのテーマを鼻歌で歌いながら、コーヒーとパンケーキを用意し始めた。いややめてくださいお願いします、縁起でもない。

  
37 : ◆uYNNmHkuwIgM [sage saga]:2020/06/12(金) 22:26:34.74 ID:BHjCA0Mo0

「お待たせしました。ホットコーヒーとパンケーキです」

カップとお皿をお客さんの目の前に並べると、パァァァァっという擬音が浮かぶくらい満面の笑顔になり、俺の方にその笑顔を向けて言った。

「ありがとう、りっくん!」

へ?りっくん?ということは、この人は俺の知り合い?長い髪の先を三つ編みにした大人の女性らしい髪型。可愛らしく弧を描いている眉に、赤のフレームのメガネ。弾むように口角が上がっていて、今にも歌い出しそうな...歌い出しそうな?あれ?

「もしかして...可奈さん?」

俺の言葉を聞くと、女性は髪の三つ編みを解き、後ろにまとめポニーテールに編み直す。メガネを外して、ようやく種明かしをしてくれた。

「せいかーい!でもりっくんに100点はあげられないかな、すぐに気がついてくれても良かったのに。」

そう言って可奈さんは笑顔になった。俺もその笑顔に反射するように、笑顔になってしまう。あ、でもりっくんはやめて欲しいです。

 
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