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【ミリマス】恋知れ北沢チョコ渡せ
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40 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:04:18.11 ID:/vJmgnsF0
「……大丈夫。もう行けます」
「よーし! なら、早く帰ろう」
肩を並べて廊下を歩き始める。
玄関扉に着くまでの間、私は何とも言えない気分だった。
居心地の良い気持ちの他に、名前を付けることの出来ない不思議な……感傷?
何故だかどこか懐かしくて、けど、知らない初めての新鮮な気持ち。
妙にこそばゆく感じる思い。……悪くないな、そんな感想を抱く。
私は扉の前に立つと、この落ち着かなさを抑えるように振り返った。
そうして、唇に乗せようとしたのは。
41 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:05:19.81 ID:/vJmgnsF0
「プロデューサーさん」
お茶でも飲んで行きませんか? ……自然な表情、自然な声音。
出来るだけ違和感の無い誘い方を心掛けたつもりだった。
なのに、タイミングが最悪。
私が言葉を発するより先にプロデューサーさんのポケットから聞こえた電子音は、
間違いない、彼が誰かに呼び出された証拠だった。
私の提案を「悪いね」と遮り、ポケットからスマホを取り出す。
着信画面の表示を見た彼の顔が一瞬しかめられた。
42 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:06:38.56 ID:/vJmgnsF0
「もしもし、俺だけど何があった?」
だけど、訊き返すプロデューサーさんの態度はだいぶ緩い。
そんな彼の姿を見て距離感。
私を含めたアイドル達と話してる時には出てこない、遠慮ない気軽さを感じ取ると……。
抱えてる荷物が重たくなって、ズシリと、腕に気怠い圧力。
支える指先が、冷たい。
「泊まる? 泊まるっていったい何処に?――おい百合子。まさかまた寮まで来てるんじゃないだろうな!?」
そうして疑惑が確信に変わった瞬間、
もう、自分でもどうしようもなく、私の笑顔は張り付いたものに変わっていた。
――頭で理解してるのに。胸が、締め付けられるように辛い。
この気持ちは、まるでお気に入りの玩具を取り上げられた子供みたいに。
43 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:08:32.34 ID:/vJmgnsF0
「ダメだダメだ、ちゃんと自分の家に帰らないと俺が叔父さんに叱られるよ!
当然、そうなった時は一緒にだぜ?
……あー、でも、俺が送る。ああ、本棚の本は読んでて良いから。
一人で帰らすにはもう遅いし――優しい? バカ! お前ってやつはまた都合の良い勘違いをして!」
電話越し、話をする彼の姿に名残惜しさ。
胸の前で思わず拳を握りしめて、
強くなっていく気持ちにワガママという名前が付いていることは分かっていた。
……もうすぐ自分の持ち時間が終わって、彼は皆のプロデューサーに戻る。
目を逸らし切れない無力感を覚え、充実した夢の世界から急に現実に引き戻された気分だったし、
バカな話だと理解しながらも、つい、考えてしまうのだ。
もしも自分が、ここで駄々をこねられる子供だったなら、って。
44 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:09:44.19 ID:/vJmgnsF0
「プロデューサーさん」
でも実際には、邪魔にならない小声で呼び掛けるだけにとどまった。
彼に迷惑を言って困らせること、それだけは何より避けたくって。
プロデューサーさんと目と目が合うと、私は礼儀正しく頭を下げて、それから。
「今日はありがとうございました。引き留めちゃってすみません。……早く、百合子さんの所に」
「悪いね、どうにも最後がバタついちゃって」
「平気です。急なスケジュールの変更には慣れてますから」
「本当にすまないと思うよ」
プロデューサーさんがわたわたと持っていた荷物を差し出してくる。
私はそれを落とさないよう注意して受け取って。
45 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:11:03.90 ID:/vJmgnsF0
「あ、あの!」
声を出した。呼び掛けられたプロデューサーさんが顔をあげる。
そしてその瞬間僅かに、でも、確かに指先同士が触れ合って――私はびっくりしてしまったのだ。
予想もしてなかったハプニングに、準備していた言葉が呑みこまれてしまう。
「あっ……また、劇場で」
「ああ――志保もお休み!」
やり取りは単純で、拙く、おまけにとても短すぎる。
プロデューサーさんの背中が離れていくと、直後に悔しいと思った。
まだ足りない。感謝を伝えたい気持ちが、時間も、言葉も。
今日という一日を長引かせたい。彼が呼び出すエレベーターの扉が開かなければ。
いいや、そうでなくても少しばかり、到着するのが遅れるなら!
46 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:12:02.93 ID:/vJmgnsF0
――ボタンが押されて僅か数秒。開いたばかりの扉に彼が消える。
フロアに音が鳴り響いて、それっきり。夢は完全に覚めてしまった。
プロデューサーさんがそうしたみたいに、私だって、私にだって、帰らなくちゃいけない場所がある。
「……お休みなさい。プロデューサーさん」
諦めたように伸ばした指先が、スイッチに触れて、固い感触。
もう届ける手段も無い台詞は、鳴らしたチャイムにかき消された。
47 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:17:29.88 ID:/vJmgnsF0
==2
シャワーを止める。髪をまとめる。それから湯船に足を入れる。
お気に入りのジャスミンの香り、入浴剤はささくれた心を受け止めてくれる。
しっかり肩まで入り込むと、私はようやく一息つけた気がした。
ふぅ、と吐き出した吐息が浴室の暖気と混ざり合ってとける。
タイルの床を水が這って、排水溝に流れ込む様を何とはなしに眺めていた。
それで今日という一日を振り返って、点数を、つけるとしたら。
「はぁ……浮かれ過ぎだ」
もう、プロデューサーさんと別れてから一時間近くは経っていた。
あれから普通に家に帰り、自分を待っていた母親と二言三言会話をしてそのまま浴室に直行した。
廊下で少し、夜風に当たっていたせいもあって、冷え切っていた体を温めたかった理由もあるし、
何となく、浮ついた気分のままリビングに入るのが気まずいという思いもあった。
……それもこれも、全てはプロデューサーさんのせい。
48 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:18:43.72 ID:/vJmgnsF0
「お茶でもどうですか、なんて」
我ながら、よくも思い切ったなって自嘲する。
そもそも一般的な話、車で送って貰ったお礼にと、
あの場面でそういう心遣いをするのは常識的な流れだった。
きっと世の中にある無数の教本にだって正しいって大文字で書いてるハズ。
だけど途中で呼び出しが無かったとして、
プロデューサーさんに断られるだろうという予想が無かったとは言えない。
だって私たち二人の関係は、仲のいい友達とは違う、単なるアイドルとプロデューサーなんだから……
なんて、言い訳めいた理屈を一つ。
お湯を揺らし、浴槽にもたれ、ボーっと目を閉じて脱力、脱力。
49 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:20:24.36 ID:/vJmgnsF0
「そもそも私とプロデューサーさんは、少なくとも私はあの人のこと――」
自然に口走って、溜め息。私は無理くりに思考を紡ぐのを止めた。
これ以上深入りすると引き返せない。警鐘にも似た予感がお喋りな唇を閉じさせた。
やっぱり今日は浮かれている。
二人はアイドルとプロデューサー。
仕事をする上でのパートナー。
それ以上の結び付きは必要無い……ハズだもの。
「……頼りにしちゃって、いいんですよね?」
眉根を寄せてそっと呟く。
それからキュッと目をつむって、ジャスミンの香りに身を任せて十までゆっくり数えだした。
それは小さな頃に教わった、気分の切り替え方だった。
50 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:22:22.03 ID:/vJmgnsF0
入浴を終えてリビングに顔を出す。
部屋の中には親しみやすいデザインのテレビ台と、中央にリモコン類が置かれた小さなテーブル。
それから背の低い衣装ダンスの横に、壁を向く形で使い込まれた机がもう一つ。
傍にはハンガーラックもある。
ハウスカタログに載せても良い位の、実に一般的なお家の内装。
私はそれらに順に視線をやって、最後に隣室から出て来たばかりのお母さんと目を合わせた。
……これは完ぺきな余談だけど、弟は完全に母親似だ。優しい目元とか特にそっくり。
「髪、ちゃんと乾かすのよ」
「うん。ドライヤー持ってきてる」
壁際の机の前に座って、プラグとコンセントを繋ぐ。
お母さんは中央のテーブル。
つけっぱなしだったテレビのチャンネルがニュースに合わせられる。
……ドライヤーは手早く済ませなくちゃ。
51 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:24:18.39 ID:/vJmgnsF0
「そう言えば、アイドルって散髪できるのかしら。ずっと長いままってのも手間じゃない?」
なのに、娘の気配り親知らず。
「別に相談すれば平気だと思うけど。……りっくんは? 眠ったまま?」
「ぐっすり寝てる。なぁに? 無理やりにでも起こしておいた方が良かった?」
「違うけど、ちょっと気になったから。――帰って来るの待ってたでしょ?」
振り返ると、お母さんは「そうねぇ」と首を傾げながら。
「プレゼントを絶対渡すんだって。後五分でも早く帰ってれば、可愛い弟にお休みだって言えたのに」
「そっか。悪いことしちゃった」
それが本当に五分以内で間に合ったかどうかはともかくとして、
教えてもらった私は隣室で眠るりっくんに心の中で「ごめんね」を言った。
52 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:25:51.36 ID:/vJmgnsF0
暫くの間、部屋の中の音は髪を乾かす作業音と天気予報だけになった。
「あら、明日は冷え込むんだって。……陸もあったかくさせないといけないわね」
お母さんの何気ない一言でプロデューサーさんのことが浮かぶ。
駐車場で荷物を持とうかと訊いてきた、着古したコートの襟を正す姿。
あれは正直、ちょっと寒そうだったな、なんて。
「うん、分かった」
返事をして、渇き残しが無いかを確かめてドライヤーを止めた。
私が隣に座り直すと、お母さんはやっと本題に入れるといった感じでこちらに向き直った。
そうして何を言われるんだろう? と私が開きかけた口を遮るように。
53 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:28:08.26 ID:/vJmgnsF0
「ところで今日の誕生会なんだけど」
「あ、うん」
「楽しかった? ……聞くまでもないか」
お母さんが一人で勝手に納得する。
その視線が照れ臭くなってる私から外れ、壁際に置かれた紙袋へと移る。
……改めて見ると凄い量だ。
確かにこれだけの数があれば、娘がどんな誕生会を開いて貰ったかなんて一目瞭然。
寂しいパーティだったなんて捻くれたコメントとは無縁だ。
「志保」
不意に、お母さんの手がそっと私の掌に重ねられた。
そうして、限りなく優しく。
「良かったね」
54 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:29:38.48 ID:/vJmgnsF0
……その言葉の、笑顔の、一体何が"良かったね"なのか、
お母さんが言いたいことの意味は理解してあげられるつもり。
帰りの車でプロデューサーさんにも言ったけれど、私がこれまで済ませた十三回の誕生日は、
家族に祝われることはあっても、友人と呼ばれる存在と一緒に過ごすことは無かったからだ。
……もしあっても、それは遠い記憶。
輪郭すらハッキリしない、まだ私が、本当に小さかった頃の。
だけどそれが、アイドルになって変わり始めた。
自分の誕生日を誰かに教えるとか、ましてやプロフィールとして世間に公開するなんてことも、
想像もつかなかった変化。でも何より大きな変化と言えば――。
お母さんの視線に熱がこもる。……本当に、心の底から喜んでるみたい。
55 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:31:19.87 ID:/vJmgnsF0
「お母さんね、志保がアイドルになりたいって言い出した時には驚いたけれど、
最近のあなたを見ていたらそう悪いものじゃないって思えてくるの」
言われて私も思い出す。
初めてオーディションを受けたいって相談をした時には、結構心配させちゃった。
学生である間にアイドルデビューするってことは、大人から見ればまだまだ子供な私みたいな女の子を、
変則的とはいえ社会に差し出すことなんだ。
それで不安にならない親はいない。
少しばかり違うけど、りっくんが子役を目指すことになれば……私だって心配になる。
それが月謝を払って通わせる、塾や教室みたいな守られたコミュニティでもないなら猶更だ。
競争社会は常に挑戦。出鼻を挫かれて諦めるより、
曲がりなりにも道が開けて、その半ばで行き倒れる方が残される傷も深くて酷い。
56 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:32:24.84 ID:/vJmgnsF0
……だからなんだ。
「志保が頑張る姿を見て、お母さん勇気を貰ってる」なんて、真っ直ぐ見つめて言われたら。
「最初は不安もあったけれど、お仕事の内容については
あなたのプロデューサーさんが逐一報告してくれるし……改めて言うのも変だけれど、765プロって良い所ね」
思わず頬が熱くなった。嬉しさと気恥ずかしさが混ざり合った気持ち。
自分の活動を認められることは、良い点を取ったテストを褒められるより何倍も強く心に響く。
「お母さん、あのね、聞いて欲しいの」
だから私は、居ても立っても居られなくなって。
「私、これからもアイドル頑張るから」
57 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:33:34.30 ID:/vJmgnsF0
時間にしたらほんの僅か。
でも、親子のやり取りとしては十分過ぎる程に濃密な。
そうして僅かな沈黙の後。
「ところで志保」
なんて、お母さんが神妙な面持ちで話題を変えようとしたから、
私も何を言われても良いように小さく身構えて言葉を待った。
すると――。
「百瀬莉緒さんのサイン貰ってこれない? 私、あの人のファンなのよ〜!」
「お母さんっ!」
思わず声を大きくして、こんなくだらないことで笑えるのが嬉しくって。
こうして私の誕生日は、幸せを感じながら緩やかに幕を閉じた。
全体的に点をつければ……花丸だったんじゃないかな、きっと。
58 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:35:21.67 ID:/vJmgnsF0
===
翌日。
母に頼まれたんです、というシンプルな私の説明を聞いて。
「それで莉緒さんのサイン貰ったんだ」
と、目の前の人物――百合子さんは疑うことなく頷いた。
……多分これが怪しいダイエット食品の勧誘でも、彼女ならまず頷いてから判断し始めそう。
人としての根が良いんだろうな。
それで、ここは私たちが所属する芸能事務所
『765プロダクション』が新設したアイドルとファンの為の舞台、765プロダクションライブ劇場。
その楽屋控え室として使われている部屋の中で、
私は彼女と長テーブルを挟み向かい合う形で座っていた。
59 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:37:07.81 ID:/vJmgnsF0
百合子さん、と言えば例のプロデューサーさんの従妹でもある。
十五歳の、私より一学年上のお姉さんで、七尾百合子がフルネーム。
人生という意味でも、学園生活においても先輩の立場にいる人間。
とはいえ、同じオーディションを受けて同時期にプロダクションに入ったからか、
パワーバランスを含めた上下関係が徹底されているとは言い難いかも。
60 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:41:32.80 ID:/vJmgnsF0
それで次に、容姿の面から掘り下げれば、まるでステゴサウルスの背ビレみたいだね、
と揶揄される愛らしい片側編み込みと、黙っていれば小綺麗を地で行く快闊な容姿。
今じゃ到底信じられないけど、本人が「人見知りなんだよ」とあちこちで公言する通り、
初対面の人物が相手だと彼女は物凄く大人しい。
だけど本当は、無数の読書を介して供給される物語への飽くなき探求心、
それを依り代とした類まれなる妄想力でアイドルに挑んでいる、苛烈で鮮烈、熾烈な人だ。
要するに無類の本好きで、でも文学少女を名乗るには、
アクティブさが悪目立ちを過ぎる情熱の人。
……こんなものかな? 簡単な百合子さんの紹介はおしまい。
61 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:42:27.62 ID:/vJmgnsF0
ちなみに、お母さんがファンだと言った百瀬莉緒さんもプロダクション所属の同期アイドル。
こっちはプロデューサーさんと同い年の、文字通り大人のお姉さん――なんだけど部屋にはいなかった。
彼女は現在、他のメンバーと一緒に合同レッスンを別室で受けている。
62 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:43:28.15 ID:/vJmgnsF0
ところでだ――私には一つ疑問が残る。
それは目の前に座る百合子さんが、どうしてこの楽屋で私とエンカウントしたか。
というのも鞄をここに置いて、莉緒さんを探しに出掛けた時には人影一つ無かったから。
これはちゃんと確認したから確かなことだ。
おまけに劇場には幾つか楽屋があるけれど、この部屋は中でもアイドル人気が最低で、
大人数を一か所に集める理由でもない限りは近寄り難いような大部屋だった。
広すぎて椅子やテーブル以外置かれていない、
そんな面白味の欠片も無い部屋にどうして皆が寄って来よう?
……まあ、だからこそ私は、プライベートな用事を邪魔されないようにこの部屋に荷物を置いたワケだけど。
63 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:44:42.65 ID:/vJmgnsF0
なのに、七尾百合子は出現した。
一応(?)神出鬼没の話をすれば、
765プロには彼女以上に突然の登場をこなす人材が多く揃っている。
(でもその説明を今はしない。
だって宮尾美也さんの神隠し事件なんかは半日あっても語り切れない!)
それでも現実は奇怪で不可解だった。
室内には簡易な暖房器具はおろか、百合子さんを呼び寄せる本棚ラックも置いてないのに……。
「っていうか百合子さんオフですよね? なんで劇場に来てるんですか」
「あっははは……。確かに志保の言う通りだけど、相談事があったってことで」
64 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:46:19.38 ID:/vJmgnsF0
私の質問をわざとらしい反応で笑い飛ばして、彼女が顔の前でぺちっと両手を合わせる。
お願いごとの定番ポーズ。
普段着より少しは余所行きを意識した格好で、顔には明らかな作り笑い。
何処からどう見ても怪しいし、厄介事の匂いがプンプンする。
……でも悲しいかな、私は彼女より年下だった。
それにこうして頭を下げる相手を、無下に叩き出すほど冷たい人間でも居ないつもり。
だから私は「仮にもアイドルなんだから、もっと上手に笑えないんですか?」と言いたい気持ちを我慢して。
65 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:49:49.57 ID:/vJmgnsF0
「相談事って何なんです?」
サインを入れた鞄を閉めながら訊き返した。
「私、自慢じゃないですけど、そういうのに答えるの苦手な人種なので」
「まぁたまた〜。おんなじ日本人同士じゃない!」
「……恋愛相談はごめんですよ」
直後、百合子さんは「うぇっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
その、私のことを見つめる視線。
心を読まれたのかと疑ってかかるような眼に思わず額に手を当てる。
……どうしてこういうカマは当たるんだろう?
66 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:51:35.46 ID:/vJmgnsF0
重たい溜息をついた後で、私は彼女に言い聞かせるようにしてこう続けた。
「プロデューサーさんのことですよね?」
「プロデューサーさんのことなんだよ!」
これだ。私の表情に増々苦味が加えられる。
俗説、アイドルは恋愛禁止なんて文句は古事記にも書かれているらしいけれど、
誰かを想う気持ちを自分の意志で止められるなら、
人類はとっくの昔に永劫の世界平和を実現させて宇宙に進出してるハズだ。
けど現実はそう上手くいかない。
どれだけ私が不思議がっても、人が誰かを好きになる現象は超自然的に発生するし、
なんなら空気より身近な話題。
765プロという女子校で唯一の若い男性教師、
それが我らのプロデューサーさんだ……なんて説明が一番しっくりくるのかな?
67 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:53:38.23 ID:/vJmgnsF0
勿論、所属するアイドルの全員が全員という話じゃないけれど……。
かかれば広がる厄介なはしか。
間違いなく、百合子さんは恋の桜前線、その一番先頭を走っている。
「ほら、私、こう見えても、プロデューサーさんとは親戚でしょ?
だから事務所の他の人達より距離感が近いのはわかってたつもりだけど、
それはそれ、私もアイドルになれたんだし、
日頃からプライベートを持ち込んじゃダメだなってなるべく気を付けてたつもりなの!
なのに最近お兄ちゃ――あー……プロデューサーさんに
『百合子。公私混同って言葉の意味、わかるか?』って呆れたように言われちゃって!!」
と、ここまでを一気に捲し立てて、百合子さんは息継ぎの為に鼻を膨らませた。
68 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:55:40.48 ID:/vJmgnsF0
まるで無限弾倉の機関銃だ。ぷしゅーっと噴き出る湯気が見える気分。
銃身が焼き付いても喋り続ける彼女の癖には慣れてるけど、それでも口を挟む時の気持ちはこわごわ。
「つまりまた人目もはばからずイチャついて、琴葉さん辺りに注意されたんですね」
「いやいやいや、そこは誤解しちゃダメ!
場合によっては地の雨が降るし、神様に誓ってそんなことは――うん、あのね?
確かに私はプロデューサーさんに特別な気持ちを抱いてる。
かもしれないし、そうとも言い切れないっていうか。
実際特別な人だとは思ってるけど、私たち別に恋人じゃないし、歳の差あるし、
法が許しててもいとこ同士の恋愛はちょっと風当たりが……
第一私が普段から持ってるのは、あくまで昔から知ってるお兄さんに向けてのひょんな時に出ちゃうスキンシップ?
親愛の情! 決して恋愛由来じゃなくてっ!!」
「はぁ……」
「だから、えーっと、結局相談したかったのは――」
「相談したかったのは、何です?」
百合子さんの間接が焼き付かないよう油を差すと、恥ずかしい所を見せてしまったと思ったのか、
彼女はいまだ興奮冷めやらぬといった自身を落ち着けるように息を吸って。
69 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:57:18.18 ID:/vJmgnsF0
「バッ、バレンタインに何あげようっ!?」
その勢いに圧倒され、思わず瞼を閉じてしまう。
すると物音一つもしなくなって。ああ、訪れたこの静寂が怖い。
……恐る恐ると目を開けると、そこには同じように目をつむったままの百合子さんがいた。
耳まで顔を真っ赤にして、両手を顔の下近くで握りしめて……怯えて震えるリスみたいだ。
もしも私がランチタイムでお弁当を広げた猟師だったら、
向けてた猟銃を下ろした後でハートフルな交流が始まってたかもしれない。
でも結局、猟師でも何でもない私が返せた返答は。
「それこそチョコレートで良いんじゃないんですか?
……他には気の利いた恋愛ソングだとか。まあこれは、最近仕事でやったからですけど」
赤点よりは少し上の、当たり障りのない回答。
そもそもバレンタインと言われたって、私にしてみればチョコレートがスーパーを潤す季節イベントに過ぎないし、
後は他人の恋路を焚きつけての便乗商法が伸びる時期、かな。
……それ以上の意味合いは生憎持ち合わせてないし。
70 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/04(水) 23:59:04.07 ID:/vJmgnsF0
「……志保ってほんっとーにクールだよねぇ」
言って、小リスの構えを解いた百合子さんはやれやれと嘆息した。
ご丁寧にも両手をちょんと上げて、首まで横に振っている。
私は会話術の一つとして、身振り手振りを交えた
大袈裟な話し方が相手の注意を引くのに有効だ、なんて俗説を思い出した。
……後はそう、反射的に手を出さなかった自分を褒めて欲しい。
「確かに志保の言った通り、バレンタインにチョコレートってのは定番中の定番だけど、
そもそも二月十四日に贈られるチョコレートにどんな意味が込められてるか……。
同年代の女の子として知らないなんて言わせないよ!?」
百合子さんは「この人にドラマの仕事は向いてないな」とか、
目の前の相手に思わせていることも知らずに得意満面で喋り続けた。
まあ、これだって慣れているからいいのだけど。
71 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:02:00.56 ID:11/PX7+w0
私も一々口に出すのも面倒くさいといったオーラを纏ってそれに応える。
「好きって言葉の代わりですね」
「そぉなの! だから困ってるの〜〜!!」
「別に渡して良いんじゃないですか? さっきの話みたいに百合子さんを叱るぐらい、
あの人、そういうことにはうるさいんだし。……本気にしないと思いますよ」
だけど迂闊。私がしまったと思うよりも早く「ちょっと待って」と彼女の片手が持ち上がる。
……この人、こう言う時ばっかり素早く動くから侮れない。
そんなことを私が苦々し気に思ってると、会話を止めた百合子さんは疑いの眼差しをこっちに向けて。
72 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:03:50.98 ID:11/PX7+w0
「……あの、ね。怒らないから正直に話してほしいんだけど……志保ってプロデューサーさんと仲良いよね?」
訊かれて、少しドキッとする。
怒らないから、なんて前置きをして本当に怒らない人間を私は知らなかったし、
そうでなくてもプロデューサーさんと私の関係は……。
そりゃあ、仕事をする上でのコミュニケーション、人間関係は良好だろう。
顔をつき合わせれば常にケンカ、みたいに年中いがみ合ってるつもりも無かったから。
ただ、それが二人を外から見てる人に――例えば今の百合子さんとか――お互いを好き合ってる仲の良さ、
みたく誤解して受け取られてしまうと言うのなら、それは随分安直に出された結論ってやつだ。
73 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:05:37.94 ID:11/PX7+w0
だから一概にはどうとも言えない。
だから、この質問に答えるすべを私は持たない。
それからようやく私も気づく。百合子さんは"コレ"を確認する為に私のことを待ってたんだ。
……二人とも黙ってしまったまま、何とも言えない時間が過ぎた。
気まずい沈黙はジクジクと胸の内を傷つけ、心情をこの場から逃げ出したい程強く怖気させる。
「志保」
名前を呼ばれて肩が跳ねる。
私は押し黙ったままで、百合子さんの顔も見れなかったけど。
74 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:07:48.68 ID:11/PX7+w0
「じゃないとそんな分かった風な――表立ってベタベタはしてないけど、暗黙の信頼で結ばれてるって言うか」
それが、引き金になったみたいに。
「……考え過ぎですよ。私は誰にだってこんなもんです」
「それじゃあなんで『あの人』とか言って!
プロデューサーさんもプロデューサーさんで、志保といるときは私といる時より優しさ三割増し増しだし!」
「わっ、私は別に――別にプロデューサーさんを好きだとか、
そういう気持ちは持ってません。ただ、仕事の時に他に頼れる人もいないから……!」
身を乗り出す勢いの百合子さんをどうにかいなし、私は「とんでもない!」と首を振った。
……でもなんでだろう?
正直な気持ちを喋ってるハズなのに、どこか白々しいと感じてしまう自分が居るのが分かる。
まるで脚本通りの受け応え。百点満点を貰える回答。
それでも勘違いされちゃたまらないから、私は冷静に反論したし、
彼女に向けてる表情だって、綻びを一切含まない、真顔も真顔、超真顔だ。
……すると私の真剣さが伝わったのか、百合子さんは「ぐぬぬ」とご丁寧に口に出して。
75 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:09:17.90 ID:11/PX7+w0
「一応言わせてもらうけど、私も頼って良いんだからね?」
「……覚えておきます」
「後、さっき志保の気持ちは……アイドルの神様に誓って?」
「神に誓って、絶対です。……プロデューサーさんとはビジネスライクな関係で、それ以外の関心は一切持ってませんよ」
昨日お風呂で確認した通り、今度は本心からだった。
それぞれが神に誓い合うと、私たちを神聖で厳かな空気が包み込んだ。
まるで沈黙を強制されているような、呼吸まで押し殺さなくては失礼なような。
実際息を殺していた。感情をリセットされるように。
頭の中にイメージが浮かぶ。
夜が明けて、小さな窓の、レースのカーテンを陽光がひらひらひらめかせるような、
澄み切った清々しさに眩暈を覚える頃になって――。
76 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:10:55.90 ID:11/PX7+w0
「それでね」
静寂を打ち破ったのは百合子さんだった。
「ぷぁっ」
思わず息を吸って吐いた。
でも、百合子さんはそんなこと気にも留めてない感じで、
再び喋り出した時にはもう、私が良く知る何時もの彼女。
「チョコレートは、分かるんだよ。
私だって他の候補にネクタイとか、香水とか、高級腕時計の詰め合わせとか――」
「高級腕時計の詰め合わせ?」
「想いがあれば何だって良いの!
……けどそういう物品と比べたら、チョコレートの方がよっぽど純粋な気持ちって言うか」
77 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:12:47.36 ID:11/PX7+w0
刹那、私の脳裏で義理チョコという文字がネオンサインみたいに輝き出した。
わざわざ説明するまでも無いけれど、義理チョコは義理で渡されるチョコのことで、
愛情よりも日頃の付き合い、交友の一環として贈られる物だと一般的には定義される。
勿論、私や百合子さんを含めた同年代女子の中でもそうだ。
……というか、こんな高枝切りばさみ位便利な代物があるのをどうして思い出せなかったのか。
この時の私は正直に言って、この上なく素晴らしい回答を見つけ出したとやにわにほくそ笑んでいたハズだ。
「百合子さん、世の中には義理チョコもあります。これなら誤解を生む心配もありませんよ」
「とんでもない! 志保は義理チョコを渡せって言うの!?」
しかし悲しいかな、革新的な案というのはしばしば世間の同意を得られない。
高枝切りばさみを買った後で、家に庭木が無いことを思い出すぐらいには悲しい。
ついでに義理チョコのネオンが消えてしまう。
暗闇の中、代わりになる物を手探りで探してみても手に入るのはネクタイや手帳に革財布、
それから高級腕時計の詰め合わせ。……ダメだ、結局堂々巡り。
78 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:13:32.12 ID:11/PX7+w0
「本命はダメ、義理チョコも嫌。じゃあやっぱりそれ以外を渡すしかないですよ」
「でもでもでも〜、皆はチョコを渡すんだもんっ!!」
「百合子さんは一体どうしたいんですか!?」
アレはダメだコレは嫌だなんて、駄々をこねる百合子さんに思わず声を荒げてしまう。
……って言うか呆れたいんですけど。
完全にお手上げ状態だった。
でも、だからってそんな叱られた子が見せるようなションボリ顔にならないで欲しい。
79 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:14:33.49 ID:11/PX7+w0
「――すみません。落ち着いてもう少し考えます」
とは言ったものの、正直に白状すれば、毎年家族に渡す分以外には
友チョコだって未経験の、私みたいなバレンタインビギナーに彼女の相談は高度過ぎる。
そんな恨み節を口には出さずに一つ二つ。
私がどうしたものか黙っていると、百合子さんは百合子さんでブツブツ何か呟いていて。
「私だって、決定版三島由紀夫全集で喜んでもらえるならそうするけど」
一年に一冊、全部揃えるのに四十二年……なんて。
気付けば彼女の体から、何かどよどよとしたモノが溢れ出してるような気が……。
80 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:16:15.25 ID:11/PX7+w0
「……あー、確認しますけど百合子さんは、本命のチョコを渡しても本命だと思われたくはないんですよね?」
私の言葉が光明となったのか、途端に百合子さんは顔をあげた。
「そうなんだ」
乾いた返事。それから照れ隠しと嘲笑と困惑がない交ぜになった複雑な顔で溜息をつくと。
「本当、無茶苦茶言ってるよね。自分でもそれは分かってるの」
「でも、どうしてそんなに怖がるんです? たかがチョコレートの一つじゃないですか」
「そのたかが一つで一喜一憂するのがバレンタインって催しだよ」
百合子さんの言葉にはしたたかな冷静さがあった。
とてもさっきまで百面相をやってたとは思えない程聡明な感じ。
奇妙だけど、たったそれだけでも彼女は年上なのだな、と力強く納得させられる。
81 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:17:41.79 ID:11/PX7+w0
それが拝聴の姿勢を作ったのか、百合子さんは目を伏せてとつとつと語りだした。
「私ね、プロデューサーさんのことは子供の時から知ってるから、
多分、あの人の存在を、自然に受け入れてたんだと思うんだよね。
家も近くて遊びにもよく行ってたし、何時でも近くに居てくれるのが当たり前って言うか」
「それが好きって気持ちになったんですか?」
「そうだけど、そうじゃないの。それって親戚相手に抱くような、
受け入れられるのが当然って言う、家族みたいな『好き』なんだよ。
でも、バレンタインにチョコレートを贈るって、少なからず好意を明確に示すワケで。
……去年までなら平気だったの。
私にとってプロデューサーさんは、私を甘やかしてくれる、親戚の優しいお兄さんだったから」
82 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:19:10.39 ID:11/PX7+w0
しかしそれも、二人がアイドルとプロデューサーの関係になってから変わってしまったと百合子さんは言う。
「私ね、初めてだったんだ。"プロデューサー"をするあの人を見たの。
それまで親戚としての姿しか知らなかった私に、真剣な時、怒ってる時、
悩んでる顔も情けないトコも、隠せないぐらい近くに来れて、初めて見れた顔があった。
……目をつむったら今でも思い出せる。初めてのステージが成功して、私がお客さんから拍手を貰ってる時に――」
「――舞台袖から見てくれてた笑顔」
つい、口を挟んでしまった。……それが私も知ってる顔だったから。
アイドルデビューをして初めてのステージ。
あの人はきっと、事務所のアイドル皆を同じ笑顔で迎え入れているんだろう。
でも、そんな私に百合子さんは優しい表情を崩さないまま。
83 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:20:17.99 ID:11/PX7+w0
「……そうだね。きっと志保も知ってる。
俺がプロデュースしてるアイドルなんだぞ! って、皆に自慢するみたいに。
……それで、その時に気づいちゃった。
結局私って女の子は、好きな人の全部を知ってるつもりになってただけなの。
あの人にはまだ私の知らない面があって、それを知ったら、もっともっと知りたくなっちゃって」
「恋に落ちた?……物語みたいに」
「……今はまだ、独りよがりなんだけどね。
――だけど私が頑張ったらプロデューサーさんも笑ってくれる。
その笑顔の作り方を知っちゃったら、もっと頑張れる自分がいる。
勿論、アイドルをする動機としては不純だって分かってるつもりだけど、私を応援してくれるファンの人達に
頑張ってる姿を見せたいのと、プロデューサーさんに褒めてもらいたい気持ちはどっちも選べないくらいに大切で」
84 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:21:58.58 ID:11/PX7+w0
そこまで喋って一息つくと、彼女は真っ直ぐに私を見つめて問いかけた。
「志保は、こんなこと言う私をワガママだと思う?」
「それをワガママかどうかって、私は――」
決められない、だって百合子さんの気持ちなんだから――そう返そうとしたはずだった。
なのに、私の開きかけた口がピタリと止まる。
喉まで出掛かってた次の言葉が「そうじゃないでしょ」って嫌がっている。怖がっていた。
百合子さんの話を聞いたせいで、形のないモヤモヤとした何かがお腹の奥で渦巻いてる感覚。
85 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:23:01.95 ID:11/PX7+w0
「――でもそういうの、自分の気持ちに素直になった方が良いと思います。
……伝えられる相手がいるうちに、残しておくのも大切だって思うから」
唇を閉じてまた開いた。
まるでからくり仕掛けで動くように。
冷や汗が流れそうな寒気を気取られないよう口角を上げた。
すると百合子さんが不安げに眉を寄せて、それからせがむようにして。
86 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:23:42.19 ID:11/PX7+w0
「じゃあ、志保は」
「渡しましょう、チョコレートを」
「だっ、だけど……!」
「不安になるのは分かります。でも、それが自分にとって大切なら」
「それでもし二人のバランスが変わっちゃって、本当に恋の芽生えが起きちゃったら!」
「願ったり叶ったりじゃないですか! ……まあ、事務所的にはちょっとまずいですけど」
「……それに、上手くいかなかった時は――」
百合子さんがキュッと肩を縮める。
その頬は赤く、瞳は恋しく。
87 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:24:38.58 ID:11/PX7+w0
「……もう、今みたいな二人の関係。仲の良いいとこ同士には……絶対戻れなくなっちゃうよ」
眦に涙が浮かんでいた。
恋する彼女は綺麗だった。
「だとしてもです」
私には、それが羨ましい。
「後悔したくないんだったら」
自分にも涙を浮かべる程、想える誰かが出来るのかな?
「百合子さんは――誰かにお兄さんを取られたくないんですね」
顔をあげると、百合子さんの口元は笑っていた。
寂しさが形になったように。
その、しっかりと、注意しなくては分からない程に微かな変化は。
88 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:25:43.45 ID:11/PX7+w0
「……だから、ずっと子供扱いされるのかな?」
すぐには言葉が出なかった。
躊躇う理由に心当たりはあって、さっきからずっと、何かとてつもない、
自分にとっても彼女にとっても大きな決断をしようとしていることが確かだったからだ。
……私はその意味を呑みこんで、噛み砕いて、
この恋路の先行きを占うなんて、とても恐ろしいことに感じていた。
それでも百合子さんが勇気を出して、荒れ狂う海原に自分の船を出すのなら。
「本人には――案外、その気が無いのかも。
気付いてないし、知らないから、百合子さんみたいな人がいるかもって考えることすらできないんですよ」
89 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:26:56.80 ID:11/PX7+w0
言ってしまった。――もう、後には戻れない。
でも後悔より安堵が強い。
深い深いため息と一緒に言い放った。
百合子さんが鼻をすすった音がやけに響いた。
私が顔をしかめながら視線を上げると、そこにはぐしゃぐしゃになった彼女がいた。
「し、しぃ〜ほぉ〜っ! 私、まだ、アイドルだって続けたいよぉぉ〜〜〜!!」
「わ、分かった! 分かりましたから顔を拭いてください!」
急いでポケットティッシュを取り出して、彼女の右手に握らせる。
そうして、私は鼻をかむ百合子さんを眺めながら考えていた。
恋心を持て余すと誰でもこんな風に……激情的になるんだろうか? なれるんだろうか? なんて、
びゅうびゅうと吹いてる隙間風が、開いても無い帆にチクチク当たるのを感じながら――。
90 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:29:30.78 ID:11/PX7+w0
===3
迷子の飼い猫を探しに来たら、知らない野良猫も一緒だった。
……百合子さんの相談がひと段落したころに扉を開けてやって来た
プロデューサーさんを言い表すならそんな感じ。
それもようやく探し当てた大部屋に二人、
一方は険しい顔をして、もう一方はさめざめと涙を流しているなんて。
「や、やっぱり志保が泣かせたのか?」
「違います! これには色々ワケがあって――」
第一声が随分失礼だと思う。後、やっぱりって何だ!
……私が即座に否定すると、彼の登場に気づいた百合子さんが真っ赤になって立ち上がった。
その顔が悲しみより驚きだったから、
プロデューサーさんもイジメの現場を目撃したワケじゃないって安心したみたい。
91 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:30:55.26 ID:11/PX7+w0
「でも、ちょっとはヒヤリとしたぞ。第一、志保を探してたら百合子まで一緒にいるなんて」
「ほ、本当! 凄い偶然ですよね!」
百合子さんの鼻息が三割増した。
「まさかこれも、二人を運命の導きが結びつけて――」
「違うね」
即答。
「皆の予定を事前に確認すれば、この後の志保の衣装合わせに
俺が付き添うことぐらいは簡単に予想できる。
そうすれば運命の演出だって思いのまま……実に初歩的な推理だよ百合子君?」
「うっ、鋭い……!」
呆気なく言い負かされて消沈する百合子さんとは対照的に、
私は忘れかけていた謎を、彼女がどうやって自分を待ち伏せしていたのかという不思議が解明されてちょっとスッキリ。
92 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:32:25.42 ID:11/PX7+w0
プロデューサーさんが百合子さんを見る。
「それより今日はオフじゃなかったっけ?」
「あ、実は朋花さんとこの後に予定があって。レッスンももうすぐ終わりますよね?」
その返事にプロデューサーさんが腕を組む。
「朋花ぁ? 確かに莉緒と一緒だったな」
私は傍に来た彼を見上げ、それから百合子さんへと視線を移してこそっと尋ねた。
「百合子さん。朋花さんとも会う予定だったなら、どうして私にあの話を?」
すると百合子さんはきまずそうに。
「う、ん……。志保の方が拗れないと思ったから」
「拗れないって何の話だ?」
「そっ、それは乙女の秘密です!」
口を挟まれ、声を荒げた彼女に「女の子ってのは便利だなぁ」と頭を掻く。
プロデューサーさんは苦笑いだ。
93 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:33:12.40 ID:11/PX7+w0
「とにかく、休みだからって皆にちょっかい掛け過ぎるんじゃないぞ」
「うぅ、分かってます! ……もう、信用ないなぁ」
百合子さんが恥ずかしそうに首を振った。
「バカ、付き合いが長いから言うんだよ。――それじゃあ志保、衣装合わせに行こう」
「はい、分かりました」
促されて、私は椅子から立ち上がった。
そうして部屋を出る直前に、プロデューサーさんはまだ何か言いたげな百合子さんの方へと振り返って。
「後、その新しい服は似合ってるぞ」
何でもないことみたいに付け足して、やっぱり一言多い人だ。
退室間際にかけられた魔法。
その瞬間、満面の笑みに変わった百合子さんを、私は見逃すことが出来なかった。
94 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:34:47.64 ID:11/PX7+w0
===
だから私は、つい、意地悪をしたくなったんだろう。
「プロデューサーさんって女たらしなんですか?」
質問された途端にむせ込んだ。まるで演劇みたいに出来過ぎの反応。
プロデューサーさんは取り繕うみたいに口元を拭い。
「――何だって?」
「女の子を喜ばせるのが趣味なのかなって」
訊き返されても平然と。
衣装合わせの為のドレスアップルームで二人きり、アイドル達の衣装管理を一手に引き受ける
事務員の青羽美咲さんが荷物を取りに退室してからすぐだったのは、言い出すタイミングをずっと計っていたからだ。
95 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:35:44.63 ID:11/PX7+w0
「思ったんです。さっきは百合子さんの服を褒めて、次に衣装を着た私を褒めて」
試着室を出てすぐに置かれた姿見には、今度の公演の為に用意されたドレスを着た私が映っている。
サイズはとてもピッタリだし、上品なレースの手袋も、頭に乗せた髪飾りも、
アイドルとしての自分を申し分なく引き立てている……と、プロデューサーさんに褒められたばかりだった。
「似合ってるって言っただけじゃないか」
プロデューサーさんが反論する。
心外だな、というニュアンスは顔色だけに収まらない。
96 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:36:50.78 ID:11/PX7+w0
「レディみたい、を忘れてます」
「そりゃあ、ドレスを着てたからな」
「ドレスを着てればレディですか?」
言って、くるりと振り返った。
スカートの裾がひらりと揺れる。肩を少しだけ傾け口角を上げる。
ついでに澄ました微笑みもつければ、たちまち見逃せないシャッターチャンスの完成だ。
以前の自分とは縁遠い、可愛らしいを引き出すための媚びを売る動作、あざとい仕草も今なら武器として振舞える。
どれもアイドルの仕事をするうえで、プロデューサーさんと相談して組み立てた動きだった。
……だから、それを見せつける気分はまるで授業参観。
97 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:38:07.75 ID:11/PX7+w0
なのにプロデューサーさんは、手近な机にお尻を預けて微笑みを浮かべて見ているだけ。
それが、私が弟の発表会を見ている時ぐらいに穏やかな表情だったから。
「少なくとも、今は立派なレディに見える。大人っぽいと思ったんだ」
言葉が一々引っかかる。
「じゃあいつもの私は子供っぽい?」
「志保、そんな屁理屈こねたりしなくたって――」
プロデューサーさんが顔をしかめて、聞き分けの無い子供に言い聞かせるように。
「俺は"君が"綺麗だって言ったつもりさ。
青羽さんの作った衣装も素敵だけど、それを着た志保はとっても魅力的だ」
「それは例えば、パーティでダンスに誘うぐらいに?」
「パーティ? ……ああ、簡単なステップも踏めないけど」
それでも良ければ、と答えたプロデューサーさんへ私は承諾するように微笑みかけた。
98 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:38:46.01 ID:11/PX7+w0
「でも、気付きませんでした。プロデューサーさんって、意外に未成年でも行けちゃう人なんですね」
「未成ね――まっ、待て待て待て!? 志保、そいつは悪質な誘導だぞ!」
全く君には参ったな、とでも言いたげにプロデューサーさんが低く唸る。
その顔は全然参ってなかったけど、一矢は報いた気分だった。
こういうからかいを私がしても、大丈夫だって思わせてくれるプロデューサーさんの人柄は助かる。
……年齢差なんかも気にせずに、遠慮が要らない関係って、きっと、こんな感じなんだろう。
99 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:39:22.24 ID:11/PX7+w0
「すみません、調子に乗り過ぎました。……ただ、そういうことでも言ってないと」
「言ってないと?」
「落ち着きを無くしてしまいそうで。折角大人っぽいって褒めてもらったのに、
はしゃいだ姿を見せて幻滅させちゃ台無しじゃないですか」
ペコリという音がしそうな程、悪びれも無く礼儀正しく頭を下げた。
そうすると思っていた通り、プロデューサーさんは仕方ないなって風に肩をすくめてくれる。
これが百合子さんの言う優しさだってことだったら、私もだいぶ甘えてるな。
100 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:40:14.37 ID:11/PX7+w0
「……プロデューサーさん」
「ん?」
「次の撮影も頑張りますね」
「ああ……頑張れ! 応援してるからな」
見えるように小さくガッツポーズ。
そこに、美咲さんが戻って来た。
手には追加の衣装用小物――ポーズを解いたプロデューサーさんが腕時計を見て。
「それじゃあ、後は青羽さんに任せますね。そろそろ局の仕事が終わる頃です」
「はーい。運転、お気をつけて」
他のアイドルの送迎の為にこの場を後にしようとする。
昨日の夜と同じように、私の持ち時間が終わる。
でも、私は美咲さんに少し待って欲しいと手振りで示し。
101 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:41:19.99 ID:11/PX7+w0
「プロデューサーさん」
呼び止め、自分の鞄から取り出したのは使い捨てのカイロ。
不意を突かれたようなプロデューサーさんにまだ未開封のソレを手渡して、私は念を押すようにこう続けた。
「これ、良かったら使ってください。風邪を引かれても困りますから」
「わざわざ用意してきたのか?」
「まさか。弟の為に準備した分が余ってただけです」
それから、大人用のマスクも取り出しカイロと一緒に押し付ける。
「ありがとう、志保は気が利くな」
「別に、勘違いしないでください。
……プロデューサーさんが風邪を引いたら、一番最初に移されるのが私だからです」
「そ、そういう時は素直に休むさ。有休だって消化しなきゃ」
「……どうだか。それより遅れるとマズいんじゃないですか?」
「あはは、実はそうなんだよ。 ――のんびりしちゃあいられないな!」
おどけて、慌てるふりをするお調子者さん。
その背中が、スッと離れていく……だけど!
102 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:42:13.22 ID:11/PX7+w0
「行ってらっしゃい、プロデューサーさん」
えっと、それから……。
「よ、よそ見運転なんてしないでください!」
――僅かに声が上擦ったけれど、今度はちゃんと伝えられた。
片手で応えたプロデューサーさんがそのまま部屋を退室する。
そんな彼を最後まで見送って、私はホッと息を吐いて……
こんなの、普段の自分らしくは無かったかもしれない。
でも、それでも、どうせ後悔するのが決まってるなら、言ってしまった方が気も楽だから。
「……後で私も懺悔しなきゃ」
ぽそり、呟きは口の中で。
まだ高鳴り続ける胸の内には、ライブ終わりに感じる物にも似た満足感が詰まっていた。
103 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:43:03.93 ID:11/PX7+w0
===
衣装合わせを無事に済ませて、劇場で残っていた予定を終わらせた私はいつものように帰路に着いた。
その途中で保育園に立ち寄って、りっくんをお迎えするのも忘れない。
住宅街に敷かれた道路。手と手を繋いだ影が伸びる。
行き交う景色の一部になって、夕餉の予感の風の匂い。
遠くで笑い声が聞こえ、電柱を音もなく超えて鳥が渡る。
歩調を合わせて、夕暮れに染まるアスファルトを姉弟仲良く並んで歩く。
その間、私たちの話題はりっくんの保育園生活のこと。
劇場内だけの話じゃない。駆け足で活気づくバレンタインの気配は、
小学生に上がる前の彼らにも容赦はないみたいで。
104 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:43:58.61 ID:11/PX7+w0
「チョコがほしくないってどういうこと?」
私は小さな弟を見下ろして、聞かされた話に少しだけ複雑な気持ちになった。
何を隠そうりっくんには、仲の良い女の子のお友達が二人いる。
今だって彼女たちからチョコを貰うって話をしてて、
それ自体は問題じゃないのだけど、こういう季節の行事ごとに板挟みになる心労と言えば。
「だってかほちゃんもしーかちゃんもあまくするって」
「けど、りっくんはチョコ大好きじゃない」
「う、ん」
りっくんが空いてる方の手で困ったように自分の服の裾をつまむ。
かわいい。
それから私のことを見上げて、珍しい、難しい顔をする。
……なんだろ? "今日は一緒にお風呂に入る"の顔?
105 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:44:41.21 ID:11/PX7+w0
「でも、あまいとまたむしばになるし」
違った。りっくんから出た虫歯ってワードは、去年のバレンタインが由来。
沢山お菓子を貰ったのと、初めての虫歯がたまたま重なって大変だったのを覚えてるんだ。
「スキなら、あまくするんだって」
それで、彼の語るところは。
「だからすっごくあまいチョコは、すっごくスキ、になるんだよ」
なるほど。好意の分だけチョコが甘いと、それだけ虫歯になるかもしれないって怖いんだ。
……ふふっ、年相応の可愛い悩み。
この話をプロデューサーさんが聞いてたら「モテるなぁりっくん」なんて茶々を入れたかも。
106 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:45:33.72 ID:11/PX7+w0
「それでも、要らないって言わなかったんだよね?」
「うん」
「二人とも大事なお友達だもんね」
訊き返すとこくんと頷いた。
「ぼくがそんなこといったらないちゃうから」
「ふふっ――優しいね、りっくん」
「……バレンタインなくならないかなぁ」
だからってその解決法にはお姉ちゃん感心できないし、叶えてあげることも難しそう。
苦笑して、夕焼け空に顔を上げる。
歩きながら考えを巡らすのは、今こうやって話してる間にも、
誰かの笑顔の為に頑張ってる人たちがいるということ。
それは単純にただの仕事だったり、贈り物の内容で頭を悩ませることだったり。
107 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:47:12.74 ID:11/PX7+w0
「だけどバレンタインが無くなったら、色んな人が困ると思うな」
「こまる?」
「誕生日とかとおんなじなの。ケーキ屋さんみたいに、特別な日がなくなっちゃうと、お客さんがいなくなっちゃうから。
……そうやってお店が閉まっちゃうと、りっくんだってお菓子、食べられなくなっちゃうかも」
なんて冗談めかして言ってみる。
小さい子向けにはこの位の説明が分かり易いだろうと思ったけど、
言い終わった途端に「たいへんだ!」みたいな顔にさせちゃった。
……でも、バレンタインが無くなって困るのは本当。
次の仕事もソレ絡みだし、当日行う公演の為に練習だって重ねてる。
そうでなくても! 普通の人達にとっては勇気を出すための大事な口実だ。
受け取る側も、渡す側も。
きっと、みんな臆病だから。
108 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:49:07.56 ID:11/PX7+w0
「おねえちゃんもバレンタインがないとこまる? ……チョコレート、つくるんだよね」
何となく呟いた一言が、もしかしたら未曽有の混乱を招くかもしれない。
本気でそう思ってるような、遠慮がちに、こわごわなりっくんが私を見つめる真っ直ぐな瞳。
だから、嘘偽りなく答えてあげたかった。
「うん、作るよ」
何より私の大切な人に。
「でも飛びきり苦いのも作ろうかな?」
私の大切な人達の為に。
「にっ、にがいの?」
「大丈夫。りっくんにはちゃんと甘いのだから。
お姉ちゃんの大好きが詰まったとっておきに甘いのを上げる」
答えるとりっくんはパッと笑顔に戻って、ハッとしたように両手で頬っぺたを押さえつけた。
109 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:49:56.56 ID:11/PX7+w0
===4
「志保ちゃんと一緒にチョコ作り〜♪ 出来上がりがとっても楽しみ〜♪」
「可奈」
「それに〜、ここは志保ちゃんのお家で〜♪」
「可奈」
「遊びに来れたのも嬉しいかな〜♪ かなかな〜♪」
「可ぁ奈!」
途端、ビタッと作業の手が止まった。
調子よく歌ってた彼女が人懐っこい犬みたいな顔を向ける。
110 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:50:47.13 ID:11/PX7+w0
「……志保ちゃんそんな怒っちゃいや〜♪」
「別に、怒ってるワケじゃないから。
……そっちのチョコも良い感じになったかどうかを確認したかっただけ」
私は表情を緩めると(最も、最初から怖い顔をしてたつもりもないけど)開いていたレシピ本と作業の進捗を見比べた。
チョコづくりについてりっくんと話してから数日。
スーパーのお菓子売り場が平積みの業務用板チョコで続々と占拠されていく。
そんな光景が日常の一コマになった頃に、
私がチョコを作るという情報をどこからか嗅ぎつけて現れたのが矢吹可奈だった。
111 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:51:48.74 ID:11/PX7+w0
「はれっ? 材料は一緒に買いに行って――」
「可奈!」
「はいっ!」
「――もうちょっとだけかき混ぜた方がよさそう。その後で冷蔵庫に入れるからね」
「わっかりました〜! ぜ〜んぶ可奈に〜、おっまかせ〜♪」
それで、えぇっと、何だったっけ?
……ああ、作業を再開した可奈のことも説明しておかないと。
って言っても、彼女は私と同い年の、要は百合子さんと同じアイドル仲間で、
事務所に所属した時から何かと一緒になることが多い相手。
例えるなら新しいクラスになって最初の日、隣の席にいた子みたいな。
外ハネしてるショートカットが似合う明るい見た目に明るい性格。
良い意味でも悪い意味でも裏表のない可奈は、変に気兼ねする必要が無い分付き合ってて楽だと言えた。
後はそう、何かにつけて自作の歌を歌いたがる癖と、
遠慮無い距離感の近さがたまに鬱陶しくなる時もあるけれど。
……それは人付き合いの苦手な私の短所とでお互い様だ。
だからバレンタインに用意するチョコづくりも、自然と一緒にやろうって話になった。
というか一方的に決められてしまって、今日のお菓子作り教室開催に至る。
112 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:54:45.68 ID:11/PX7+w0
適温になったチョコを型に入れて、冷蔵庫に閉まって後片付け。
一緒にお手伝いをしてくれてたりっくんはようやく見れるテレビに夢中。
画面の中ではケレンにマントを翻し、百合子さんが怪人相手に戦っていた。
「ねえ志保ちゃん」
そんな時に、洗った調理器具を拭きながら可奈が話し始めたのだった。
「なんでハートのチョコ作らなかったの?」
「え?」
「だってバレンタインのチョコレートなのに、志保ちゃん一つも作らなかったよね」
「別にハートにしなくちゃいけないって、決まってないでしょ」
私はボウルを渡しながら言った。
可奈が受け取り、布巾で底を擦りながら。
113 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:55:55.90 ID:11/PX7+w0
「でもプロデューサーさんにも渡すのに」
「は?」
「あげないの? チョコ。バレンタインだよ?」
見つめ返す彼女が視線を逸らすことはなく。
純粋な疑問をぶつけられて、私は思わず口ごもった。
どうして可奈は、私がプロデューサーさんにチョコを渡すって決めつけてるんだろう?
そういう話は作業中、一切出なかったハズなのに。
今日だって友チョコを作るって体で。
……なんて考えてる間もジャージャーと水道が音を立てる。
私としたことが酷い失態。無駄遣いは家計の常に大敵。
水を止めて、濡れた手を拭いて、咳払いで不機嫌を演出すると。
「そりゃ、勿論、渡すけど」
「でしょ?」
「って言うか、逆に聞きたいんだけど」
強引に主導権を奪って今度はこっちが尋ねる番。
114 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:57:23.38 ID:11/PX7+w0
「可奈こそなんでハートにしたの?」
それも自分の掌サイズのハートばかり、五つも六つもこしらえて。
全部を渡すってワケじゃないだろうけれど……。
「……好きなの? プロデューサーさんのこと」
「うん」
なのに、彼女の返事は浮雲みたいに軽くって。予想外だ。
少し意地悪く聞いてみたつもりだったのに、まるで好きな食べ物を聞かれた時みたいの「うん」に、
口はぽかん、二の句も告げられなくなる私。
間抜けみたいに次の言葉を待っていると、ボウルを拭き終わった可奈が、
空っぽになった手を自信たっぷりに握りしめて言った。
「えへ♪ だってプロデューサーさんは、私のヒーローなんだもん!」
115 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:58:40.52 ID:11/PX7+w0
キラキラしながら宣言する。
アイドルにしても歌にしても、好きなことにはいつでも全力で、
前向きな姿勢が彼女の真骨頂だってことは痛い程知ってたつもりなのに。
「私、まだまだ歌はへたっぴだし、お仕事だって結果を残せる方が少ないけど、
どんな失敗をした時でも、プロデューサーさんが笑って励ましてくれるから」
すぐに立ち直れるんだ、と告白する可奈の横顔には、嫌になる程見覚えがあった。
彼女の顔は私の顔で、言葉は私の言葉だった。
反省会を開いてくれる、居残りレッスンに付き合ってくれる。
些細な上達を褒めてくれて、失敗は一緒に悔しがってくれて、歩幅を合わせて二人三脚。
他にも細かい所まで、可奈が楽し気に連ねるプロデューサーさんへの印象は、そっくりそのまま私の心証。
「それにやっぱり、初めての舞台が終わった時に見た――」
「……笑顔」
「ふえっ?」
「教え子を自慢するみたいな、それか子供が喜んでるみたいな……。あの人のしまらない笑顔のことなんでしょ?」
116 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 00:59:50.38 ID:11/PX7+w0
言いながら、何処かで繰り返した話だなと思った。
それからちょっと、私たちって似た者同士でチョロ過ぎるんじゃないかなって。
「うん、そうだよ」
力強い笑顔と共に、可奈がもう一度頷いた。
「その時になって初めて私、歌を、届けられたと思ったんだ。
後はこの人と一緒にアイドルすれば、何にも怖いコトは無いぞって。
……だから、私はそういう気持ち、感謝の想いは素直に伝えたいの」
「……別にダメなんて言わないわよ」
応える私もやれやれと、自然に首を縦に振っていた。
それから冷蔵庫の扉を開けて、何するんだろう? と不思議がる可奈に振り返ると。
117 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:00:41.64 ID:11/PX7+w0
「可奈、ハートの型ってまだ余ってたっけ?」
「あ、うん。余ってるよ」
「じゃあ、小さいので良いから貸して。……一つぐらい、物の試しに用意するから」
途端に可奈の目が丸くなって、それから急に……何でそんな恥ずかしそうな顔になるの?
「ねえ志保ちゃん、一つだけいーい?」
「なに?」
「そのハートチョコ、私の分も……あればとっても嬉しいかな〜……どうかな?」
チラリ、上目遣いをして、えへへとだらしなく可奈が笑う。
それで、もしかするとこういう仕草も、あの人仕込みなのかもしれないな……なんて考えちゃって思わず溜め息。
「良いけど、私の作るチョコは苦いわよ」
言われて可奈が「えぇ!?」と漏らす。
その反応に笑いを堪えながら、結局私は、特別な友人の分も含めてハート型を要求したのだった。
118 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:01:47.64 ID:11/PX7+w0
===
それからは本当にあっという間で、私は滞りなく問題の日を迎えた。
危なげなく作り上げたチョコは自信作で、
可奈やりっくんにも味見してもらったそれは、自分で言うのも何だけど十分悪くない出来上がりだ。
家を出る直前、丁寧にラッピングしたチョコは鞄の中。
チャックを閉める時に黒猫さんと目が合った。
キーホルダーで繋がって、何処へでも一緒に出掛けてくれる猫さんは、今日も私に勇気をくれる。
――大丈夫だよ、安心して。
そんな風に返してくれてる気分がした。
……絵本に出て来る主人公を導くみたく、何時でも頼りになる猫さんをコートのポケットに忍ばせて。
119 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:03:23.70 ID:11/PX7+w0
「行ってきます!」
力強く玄関の扉を開ける。
視線を上げてみれば、青空。
今ならどんな願い事でも、雲の上の神様にきちんと届きそう。
この前みたいにドキドキしたり、プレッシャーに負けて急にお腹が痛くなったり、
ガスの元栓や戸締りを気にして後ろを振り返ることもせずに。
それでもどこか浮つくのは、きっと、挑戦しようとしているから。
……案外と、私はこの高揚感が嫌いじゃないのかもしれない。
ひゅうっと風は冷たいけれど、かえって気持ちが引き締められていい。
粛々と歩き出す私の心は不思議と軽かった。
出陣だ――百合子さん風に言えば――決戦の場に臨むぞという気持ち。
本番開始はいよいよだった。
耳の奥、どこか深い場所で開演のベルが静かに鳴った。
120 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:05:23.00 ID:11/PX7+w0
==
ふと見ると、葉っぱも落ち切った街路樹に雪が足跡を残していた。
冷え切ったベンチにお尻を置いて、私はその時を待っている。
時刻はお昼近くだった。
この時間、公園から人が居なくなるのは事前のリサーチで知っていて、
だから私は、彼との待ち合わせ場所にここを選んだんだ。
膝上の鞄にそっと手を。
「まだかな」とか、呟いてみる。
暖かい服装をして来たつもりなのに、一時間も前から待っていれば、そんなの全く意味も無くて。
そわそわ。遠くに立ってる時計の針に、何度目かの目配せをした。
そろそろかな? もうすぐかな?
ゆっくりと園内を見回して、最後はやっぱり入り口に――。
121 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:06:47.20 ID:11/PX7+w0
「あっ」
その時、車止めを乗り越えて現れたあの人の姿を捉えて、目を開く、立ち上がろうとする。
近づいて来る待ち人は普段通りの気取らない感じだけど、でも、歩き方が少し緊張してる……かな?
それが私の気持ちと一緒だなんて、些細な共通点が妙に嬉しくって。
――良かった。
ホッとした私は立ち上がって胸を撫で下ろした。
それから一歩、二歩。彼との距離が詰まって行って、公園の中央、噴水をバックに向かい合うお互いの瞳と瞳。
122 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:08:17.12 ID:11/PX7+w0
「待った?」
「ううん、今来たトコです」
嬉しさを押し堪えるように、私は上目遣いをする。
スッと伸びて来た指先が、そんな私の鼻の先に触れる。
「でも、ほら、赤くなってる」
「それは……」
寒い中、待たされたもの。……ギュっと強張っていた肩の力を抜いて思う。
態度と裏腹。こだわってつけた天然のメイキャップの出来栄えを気にしつつも、
彼に問われて慌てる表情、口ごもる反応もそつなくこなし……それでも恋って、やっぱり不思議。
もう後には引けなくなってるのに、未だによく、分からなくて。
何故だか素直になれないって、まるで何時もの私みたいだなって片隅で考えたりしてる。
123 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:09:44.97 ID:11/PX7+w0
だけど手順通り、私は鞄から包みを取り出した。
もう一度、目線を上げて、対面する彼がドキリと固まる。
そうして勿体ぶって差し出された、ビロードを思わせる深い赤に、差し色の入ったリボンで飾り付けられたソレは。
「……あの、これを」
恋する女の子が抱えた正直な気持ちを、届けたくて、形に込めた。
"バレンタインは素直になる為の素敵な魔法。"
……受け取って、貰えるのかな?
ドキドキ、ドキドキ……。心臓よ大きく脈を打って。
まるで一時停止のスイッチを押されたように。
遠慮がちに突き出した両腕を固め、一秒、二秒……包みを握る指の感覚が信用できなくなった頃に、スッと、両手が軽くなった。
124 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:11:33.68 ID:11/PX7+w0
その瞬間に私の気持ちは私を離れ。
今は、ほら、照れ隠しの笑顔の隣に並んでる――言わなくっちゃ、あの台詞を。
「好きです。ハッピーバレンタイン」
ざあっと風が髪をさらう。
相手の奥に光るレンズ。
その隣で、心配そうに、事の成り行きを見守ってる彼にも分かるように。
『大丈夫です。安心してください』
そんな口に出せない気持ちも全力で込めて、私は飛び切りの笑顔を披露して見せた。
125 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:12:15.65 ID:11/PX7+w0
次の瞬間、現場に響く「カット!」の合図。――"彼女"の告白は大成功だ。
寒い中頑張った甲斐のある、自分の実力も十分に出せたシーン。
だから火照った体を冷ましていく、風の心地よさは達成感と清々しさの表れ。
……なんだけれど、まだ一つの懸念が残ってると言うなら。
「いやあ〜、それにしても本気でドキッとさせられたよ」
声を掛けられて意識をそちらに向ける。
さっきまで相対していた相手、小道具の包みを受け取った共演していた男性が
――私が演じる女子生徒の、憧れの先輩って役の人だ――残念そうに溜息をついた。
「これが単なる撮影じゃなくて、本当に志保ちゃんの本命ならね」
126 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:12:53.45 ID:11/PX7+w0
言って、くいっと肩をすくめて見せる。
その動作が様になってたから、ああ、やっぱりこの人は俳優だなって。
男は狼なのよなんて、水色の車中で聴いたフレーズが頭に踊る。
だから「義理にもならないチョコでごめんなさい」とか、
当たり障りの無い会話を交わした後で、私は彼との話をこうやって締めた。
「でも、アイドルは恋愛禁止ですから」
127 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:13:41.44 ID:11/PX7+w0
===
それで、ここからが大事な話。
結局の所、バレンタインなんて単なるお祭り騒ぎだって、そういう風に思ってた。
……思い込もうとしていた私が居た。
誰が誰のことを好きになるとか、告白しようとかどうしようとか。
女の子ってそういうので騒ぐのが大好きだし、スーパーはチョコを売りたくって、
喧騒は留まるところを知らず、神聖さは失われて行って、結局はお祭り騒ぎに鳴り果てる。
それを、冷めた視線で見ていたんだ。関わりが少ないから特に。
128 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:14:48.43 ID:11/PX7+w0
「プロデューサーさん、お仕事、まだ終わらないのかな」
――なのに今、私は今、撮影終わりの駐車場の、
いつもの水色の車の前で、どうしようもない程に戸惑っている。
……どうして、こんなに緊張するんだろう。
やりたいことは分かっていた。
たった今撮影でこなしたみたく、準備して持って来ていたチョコを、
ただ日頃のお礼で渡せばいいの……それだけ、なのに。
打ち合わせから戻って来る彼を待ってる間、私の中をぐるぐるって、
今日までのアレコレが反芻される。
百合子さんのこと、可奈との話、お母さんやりっくんと喋ったことも、
劇場で、いつもみたいに、プロデューサーさんと過ごした日々のことも。
「……不思議」
独り言が冬の風に溶けた。
少しずつ日暮れが近付いて来る。
どんよりと、雪の降り出しそうな空が、見上げても神様の居場所は見当もつかない。
129 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:15:45.93 ID:11/PX7+w0
「志保」
名前を呼ばれて振り返った。
公園の入り口。駐車場との間の車止めを越えてプロデューサーさんが近付いて来る。
片手を上げて、ひらひら振って、何時もみたいに優しい笑顔――じゃ、ない。
「中で待っててくれて良かったのに」
困った奴だって言うみたいに、プロデューサーさんが私を見下ろす。
その声は、調子は、普段通りなのに。
表情が少しも合って無くて、私は返事も忘れてただ頷く。
「そうじゃなくても、今日は演出の都合で外に立ちっ放しだったじゃないか。
――風邪でも引いたらどうするんだって、俺、やっぱり我慢できなくてさ」
130 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:16:37.43 ID:11/PX7+w0
言って、彼は助手席の扉を開けた。
「あの」
私もやっと口を開けた。
「打ち合わせってそれだったんですか? ……次の仕事の話し合いとかじゃなくて」
「いや、確かにそれもしたけど」
プロデューサーさんの顔が緩む。
「一番は志保への対応についてだよ。後はそう……分かってても鼻を触るとかの、アドリブだって止してくれって」
「別にそれは……気にしませんでしたけど」
「いーや、こういうのはちゃんと釘を刺しておかなくっちゃ! ……俺だって言いたかないけどな、志保」
それでまた、似合わない険しさになったかと思えば。
131 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:17:43.55 ID:11/PX7+w0
「不意を突かれてキスとかされて、アドリブでしたじゃ困るだろう?」
「はあ」
こんな話をされるなんて全く予想もしてなかった私は、
思わず気の抜けたような声を出してしまった。……それからすぐに可笑しくなる。
ああそうか、私はきっと、この人のこういう所を信頼して。
「でも、プロデューサーさん」
「ん?」
「それが仕事だって言うなら私は受けます。
アイドルになるって決めた時から、そういう覚悟もある程度してますから」
言って、私が意地悪に首を傾げた途端、
プロデューサーさんは何だか凄く焦ったような、見ていて笑っちゃいそうな顔になって。
「……まさか、まさかとは思うけれど、志保は今日の共演相手みたいなのが好みなのか?」
「それって――つまり軽薄そうな人をですか?」
「そうじゃなくてもイケメンとか、俳優とか――」
だから無理、我慢なんて出来ない。
私はとうとう堪え切れなくなって、ふふっと小さく笑みをこぼした。
132 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:18:42.93 ID:11/PX7+w0
「まさか、笑わせないでください」」
「でも、今日の撮影だって演技にしちゃさあ」
「それはプロデューサーさんのアドバイスが良かったんじゃないですか?
気持ちを形にしてもらえるだけで嬉しいって、結構役作りの参考になりましたよ」
そうして私は準備してたチョコを――シックな柄の包装紙でくまなく包み込んでいた――プロデューサーさんの前に差し出して。
「それから安心してください。私はまだ誰かを好きになったりとか、恋をしたりもしていないので」
グイっと相手に押し付けるように。
「あの、ハッピーバレンタイン」
リボンの代わりに感謝の言葉。
プロデューサーさんの手にチョコレートが渡る。
133 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:19:59.93 ID:11/PX7+w0
すると彼は、一瞬ひどく驚いた後で。
「……今日はまだ、十三日だ」
「当日は荷物になりそうだと思ったんです。
……きっと、私以外にもプロデューサーさんにチョコを渡したい人が沢山いるから」
ポリポリと後ろ頭を掻いた。
それはプロデューサーさんが決まりの悪い時に出しちゃう癖だ。
でもそういう風にしてる時は、問題を真面目に受け取ってくれてることの証拠だから。
「それと私、最近思い出したことがあるんですよ」
「思い出したこと?」
「はい」
頷き、私は微笑み返す。
「自分の気持ちに素直になるって……案外悪くありませんね」
134 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:21:16.53 ID:11/PX7+w0
だから今の私は清々しい気分。
しがらみとか、モラルだとか、そういうのは後から考えたって良い。
大切なのは笑顔の気持ちを隠さないこと――。
「これからも、北沢志保のプロデュースをよろしくお願いします」
言って、丁寧に頭を下げる。
世間が騒いでる恋だとか、愛だなんて、私にはまだ決められないけど……
少なくともプロデューサーさんに特別な気持ちを抱いてるのならば、
きっとそれは親愛の情で、大切な人を想う気持ち。
かけがえのない繋がりを慈しむ為の心構えだ。
「……こちらこそ、よろしく頼むよ!」
笑顔を取り戻したプロデューサーさんが助手席に座るよう促したので、私は素直に従った。
それから彼も車に乗り込み、ぶるるッとエンジンが動き始める。
「――あっ、ちなみにの話ですけど」
「なんだい?」
シートベルトを取り付けながら、私は言い忘れていたことがあったとプロデューサーさんへと視線を投げた。
……それと、わざわざ話を聞くためにこっちを向いてくれるのは嬉しい。
135 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:22:00.88 ID:11/PX7+w0
「さっき渡したチョコ、大人の人は甘いのが苦手かもしれないってビターテイストで作ってみたんです」
「ビター」
「でも、キスの演技も要求できないプロデューサーさんには……ちょっと渋すぎる出来になってるかも」
するとミラーの位置を確認していたプロデューサーさんは「たはは」と笑って。
「……うーん、捻くれてるなぁ」
「それも、自分に正直なだけです」
「俺も、ミラーの位置の話だ」
直後に、してやったりって憎らしい顔。……ああ、全く私の迂闊さと来たら。
136 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:23:05.74 ID:11/PX7+w0
「そうですか。じゃあ、忘れてください」
恥ずかしさを誤魔化すように、私は呆れましたって態度を溜め息で表現してから前を向いた。
「だけどチョコレートにしろプロデュースにしろ――」
言いながらプロデューサーさんが片手でハンドルを握る。
車が動き始める寸前、彼は止まっていたカーオーディオを操作しながら続けた。
「苦味があるぐらいで丁度いいさ」
何より甘さが引き立つからね、なんてキザな台詞も一緒。
でも同意の「そうですか」は唇に乗せない。
車内に音楽が流れ始めて、車はゆっくり動き出した。
いつかのように、私を待ってる場所へ向けて。
私は今一度シートに深く座り直すと、何時もしているみたいに聞こえてくる歌に耳を傾けた。
それは何度か聞いていて知ってる一曲……そのタイトルは確か、何て言ったか。
137 :
◆Xz5sQ/W/66
[sage saga]:2020/03/05(木) 01:24:02.00 ID:11/PX7+w0
「…………」
ポツリ、呟きが歌で消える。
私は窓の景色を眺めながら考える。
――もう、自分の都合だけを押し通すような「好きです」なんてまさか言えない。
それを自覚した今年のバレンタインだった。
だって自分一人だけの彼じゃないのだから。
自分一人だけの私でもないのだから。
そんな私の自覚した恋心は、本当に私好みの形をしてる……実にわがままで偏屈な片思いだから。
138 :
◆Xz5sQ/W/66
[saga]:2020/03/05(木) 01:28:03.50 ID:11/PX7+w0
===
エンドBGM 松田聖子/わがままな片思い
https://www.youtube.com/watch?v=ongJEV3YMeg
以上おしまい。
限定バレンタイン沢志保の可愛さにSSを書こうと思って早や三月。
書きたいシーンは詰めこんだので個人的には満足です。
では、最後までお読みいただきありがとうございました。
139 :
◆NdBxVzEDf6
[sage]:2020/03/05(木) 01:32:05.05 ID:ADtVkygLO
【ミリマス】我が恋の運命に応えてあなたっ♪のPかな?
乙です
北沢志保(14) Vi/Fa
http://i.imgur.com/9rUjMge.png
http://i.imgur.com/b9hqpu8.png
>>58
七尾百合子(15)Vi/Pr
http://i.imgur.com/oNaYKxk.jpg
http://i.imgur.com/cOBTJeA.jpg
>>109
矢吹可奈(14)Vo/Pr
http://i.imgur.com/x1Dioqg.png
http://i.imgur.com/sasbC3I.png
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