【ミリマス】恋知れ北沢チョコ渡せ

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1 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 21:53:47.07 ID:/vJmgnsF0

葉っぱも落ち切った街路樹に雪が足跡を残している。

風に触られ、冷たくなっていた公園のベンチに腰を下ろし、私はその時を待っている。

お昼前。街で一番人通りが少なくなる頃合い。

閑散とした園内の、入り口にある車止めを乗り越えてあの人は姿を現した。

普段通りの気取らない格好で、でも、少しだけ緊張してる……かな?

それが私の気持ちと一緒だなんて、些細な共通点が妙に嬉しくって。


良かった。

私はホッとすると立ち上がって胸を撫で下ろした。

彼との距離が狭まって行く。

一歩、二歩。公園の中央。

向かい合ってお互いに見つめ合う瞳と瞳。

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2 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 21:55:58.44 ID:/vJmgnsF0

「待った?」

「いいえ、今来た所です」

答えると、彼の指が私の鼻先に添えられた。

ほんの一瞬、微熱同士が通じ合って。

「でも、ほら、赤くなってる」

「それは……」

寒い中待ってたからじゃなくて。

言葉と裏腹。

誤魔化しの効かない天然のメイキャップに"ごめんね"なんて言わないで欲しい。

……言い当てられた私は慌て顔だ。

だけど、そんなカッコのつかない一面だって、
彼に見られるならむしろご褒美みたく思えちゃうから……恋って、とても不思議。
3 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 21:58:01.56 ID:/vJmgnsF0

私は鞄から包みを取り出した。

きっと覚悟はしてきていたハズの、彼だって表情を引き締めた。

ビロードを思わせる深い赤に、差し色の入ったリボンで飾り付けられたソレは。


「……あの、これを」


私の抱えた正直な気持ちを、届けたくて、形に込めた。

"バレンタインは素直になる為の素敵な魔法。"

……受け取って、貰えるのかな?
4 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 21:59:12.32 ID:/vJmgnsF0

ドキドキ、ドキドキ……。心臓が大きく脈を打って。

まるで一時停止のスイッチを押されたような時間。

遠慮がちに突き出した両腕が固まっている。

そうして、包みを握る指の感覚が信用できなくなった頃に、スッと、両手が軽くなった。

その瞬間に私の気持ちは私を離れ。

今は、ほら、照れ隠しの笑顔の隣に並んでる――言わなくっちゃ、あの台詞を。


「好きです。ハッピーバレンタイン」


ざあっと風が髪をさらう。

私も飛び切りの笑顔を披露して見せた。
5 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:01:09.02 ID:/vJmgnsF0
===

でも結局の所、バレンタインなんて単なるお祭り騒ぎなんだ。


「俺の顔に、何かついてるかな?」

そうやって会話が始まった。

一月十八日だった。

私にとっては特別な日でも、誰かにとってはただの一日。

その時間、道路には沢山の車が走っていて、いわゆる帰宅ラッシュだった。

先に進めば進むほど渋滞模様を作る道は、なんだか人生に似てるような。

飽きずに繰り返される日常。積み重ねられていく平凡。

ただ、カレンダーの中には飛び石みたいな"今日"があって。

それは時々特別なイベント事を兼ねる。
6 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:02:12.38 ID:/vJmgnsF0

太陽はとっくに沈み切って、等間隔で並ぶ街灯とカーライトが混ざり合っては離れていく。

無機質な、闇を裂く無邪気さのじゃれ合い。

テンポが一定のダンスみたいで見ようによってはとても綺麗。

夜は始まったばっかりだった。

蠢く光の列の中に、ありふれた水色の大衆車が一台。


そのカーオーディオから流れているのは、往年のアイドルソングメドレー。
7 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:04:19.31 ID:/vJmgnsF0

それを、助手席で聴いていた。

北沢志保。中学生で十四歳になったばかり。

緩くウェーブの癖がついている、背中まで伸ばした髪は重い栗色。

スタイルについては公式プロフィールを参照のこと。

ネットに繋いで私の名前を検索欄に入力すれば、知りたい情報はすぐにも入手できるハズだ。

他にも一緒に出て来る写真とかで分かる――例えば顔立ち。は、そこそこ整ってる方だと思う。

ただ目つきが良いとは言われないな。自分でもそうは思わないし。

一応「美人だ」とか「綺麗だ」なんて評価を場合によっては受け取るけれど、
きっと「生意気」や「冷血」に「愛想って言葉とは生まれた時に生き別れてそう」って噂されてる方が多いと思う。


……でも、まあ、言わせてもらえば全ては余計なお世話というやつで。

見てくれだけで計れるほど、私はそんなに単純じゃない。
8 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:06:47.67 ID:/vJmgnsF0

ただ、運転席に座ってる人――
プロデューサーさんにしてみれば、そんな悪口も結構な誉め言葉だそうで。

「つまり志保は、クールビューティなんだ!」

なんて思わず歯が浮くようなフォロー、私だったら絶対に言えない。


……一応、話の流れ上、彼のことも紹介しておくことにする。

じゃないと私が自分のことしか説明しない、本当に冷たい人間みたいだから。
9 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:08:35.43 ID:/vJmgnsF0

それで、早速だけど私たち二人は親子じゃない。

恋人なんか以ての外。じゃあ年の離れた兄と妹?

――確かにこうして並んでいるのを見れば、
それが一番近い線だけれど、残念ながらどれもハズレ。

……ヒントは私からの呼び掛け方にある。


って言っても、彼の本当の名前が『プロデューサー』だ!

なんて、意地悪クイズみたいなことはしない。

勿論、外国人だってことも無いし、学名がそうだって話でもないし。

私と同じれっきとした日本人で、きちんと戸籍と名前を持っている。

何なら苗字が同じというだけで、年の離れた従妹から
「運命の人なの!」と熱烈視されているのは仲間内で知られてる公然の秘密。
10 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:10:28.50 ID:/vJmgnsF0

とにかく、彼は何かをプロデュースする人だからプロデューサーさんと呼ばれていた。

具体的にはそれがアイドルで、アイドルとはつまり私のことで、
要するに私たち二人はおんなじ職場で仕事をする頼り頼られのパートナー。

……出会ってからは半年ほどの付き合いになる。


彼の年齢を確認したことはないけれど、噂じゃ二十三歳らしい。

小学校が一緒だったって人から聞いた話だから、まず間違いない情報だろう。


身長は平均より高め。痩せ型で、所々にいつ見ても寝癖と間違えそうになる癖っ気を持った地味な髪形。

縁の太い眼鏡を掛けていて、時と場合を限定すれば、まあ、それなりに見れる顔をしてるんじゃないだろうか?

――ここだけの話、過去には薄口醤油みたいな人って言われたこともあるんだとか。

例えはどうかと思うけれど、パッと見て特徴のない顔をしてるから言い得て妙……なのかな?

髭でも生やせば変わるのかも。

一張羅みたいにスーツを着て、いかにも若手の営業マン。

パッと見はどこにでもいそうなお兄さんだ。
11 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:11:47.25 ID:/vJmgnsF0

そうして四人乗りの車内に二人。私の視線が気になったんだろう。

「俺の顔に、何かついてるかな?」

そうやって会話が始まった。

私は運転の邪魔をしないように、なるべくトーンは抑え気味で簡潔に用件だけを伝えた。

「プロデューサーさん。あの、今日は本当にありがとうございました」

我ながら破格のかしこまりだ。

「それから、顔には何もついてないです」

「なんだ、てっきり俺は落書きとか――」

「大丈夫です。いつも通りに呑気そうで」

「呑気」

と、聞き返す声の調子が既にのんびりしてる。
12 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:14:16.12 ID:/vJmgnsF0

「あ、気分を悪くさせたなら謝ります。……その、ごめんなさい」

私は自分の持てる力で極めていい子を演出すると、口早にこの会話を締めた。

必要以上の長話につき合わせない。極力彼を煩わせない。

それは常日頃から私が心掛けているアイドルとしての心遣いだ。

だけどプロデューサーさんは「あはは」と楽し気に目を細めて、
それからまっすぐ前を向いたまま、ちょっとイタズラっぽい口調でこう続けた。
13 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:15:36.73 ID:/vJmgnsF0

「別に謝らなくったっていいさ。お礼だってそんな他人行儀な……。
大体、志保のことなら日頃から可愛がってるワケで、そんな俺に遠慮はいらないって言うか――」

「……私を可愛がる、ですか?」

でも待って。突然何を言い出すんだ、この人。

二人っきりの車の中で、急に可愛いだとか何とかって……。


私がそんな風に訴えるような目線をやると、彼は「しまった」とでも言いたげに表情を変えて。
14 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:17:53.61 ID:/vJmgnsF0

「言い方が少しマズかったかな? プロデュースだよ、プロデュースのこと」

「なら、最初からそうやって言ってください」

「あっははは、ごめんごめん。でも気に掛けてるのはホントなんだぞ。
――まあクールが売りの志保にとって、今回の催しがお気に召さなかったって話だったら」

一旦言葉を区切ってから、プロデューサーさんがニヤリと笑う。

「今度はこっちから謝らないと。……すまない、そんなつもりはなかったんだけどね」

でもそれは、この場合においては明らかな挑発行為だった。

謝罪風に投げかけられた煽り言葉に反応する程私は子供じゃないけれど、
ただここでやり返さないことによって不本意な不戦勝を相手に与えるのが癪だと考えたのも事実。
15 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:20:05.09 ID:/vJmgnsF0

だから少しの沈黙を挟んでから。

「……そうですね。誕生会をやるって話は事前に聞いてましたけど、
予想以上に大袈裟だったパーティの規模で呆気に取られる大醜態。

おまけにクラッカーや紙吹雪で全身くまなくデコられるし、
一人じゃ持ち帰れない量のプレゼントをどっさりたっぷり渡されるし。

出し物だって歌あり踊りありマジックあり。

御馳走やお菓子の大盤振る舞いじゃ飽き足らずに、うどんやピザが空を飛んで、

最後は主役を置いてけぼりにして飲めや騒げやの大宴会」

「楽しい誕生会じゃないか」

「お陰様で。お礼の言葉が素っ気なくなっちゃう位には十分楽しみました」


と、思い切り捲し立ててみたけど、
これじゃあ予定してた悪態がお礼になって十まで膨れ上がっただけだ。
16 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:21:23.67 ID:/vJmgnsF0

案の定プロデューサーさんが「たはは」と笑う。

全然反省してない顔で、安い挑発に乗った成果としては明らかに見合ってない報酬だった。

……うん、ハッキリ面白くない。

だから私は、さも手の平の上で踊って見せてあげましたよ?――そんな態度で露骨に不満ぶると。


「だけど私って、プロデューサーさんからは、そういうキャラで見られていたんですね」

「キャラって言うのは、クールを売りにしてるっていう?」

「おまけに年下だし、生意気だし」

「扱い辛い気難し屋」

「……聞いてて性悪だって思いませんか? こんなのがバレたらファンが減っちゃう」

「あはは、自分のことなのによく言うよなぁ」
17 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:25:28.43 ID:/vJmgnsF0

プロデューサーさんがケラケラと笑う。

私はつい、そう言うアナタは笑い過ぎですと口を挟みたくなったけれど。

「でも勝気な性格は本当だろ? それが急に、しおらしくお礼なんて言い出した日には」

「プロデュース計画と違いました?……お礼とか、礼儀にはいつも気をつけているんですけど」

「だからこそギャップがズルいと来た。それで落としたファンも多いじゃないか」

まさに俺たち二人の作戦勝ちだ、なんて彼が続けたものだから。

「……プロデューサーさんもそのうちの一人ですか」

って、少しは気にするという話だ。

「愚問だね。僕ぁ出会ったときから君のファンさ」

「それ劇場の誰にでも言ってますよね?」

下手くそなウィンクを前にして前言撤回。


助手席からむすっと横目で眺めるのは、笑いを堪える彼の横顔。

――まあ、そんな反応も私の予想通りなんですけど?

なんて、声にも出せない言い訳を、今更になって並べ立ててる自分の迂闊さが嫌になるな。

だって、こんな私にだって……彼に好印象を与えておきたい気持ちが無いとは言い切れないのだから。

でもそれは年頃の少女にありがちな盲目的な恋の病、情熱的に愛し愛され! なんて、うすら寒い浮かれた気分とは別の話。
18 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:27:02.04 ID:/vJmgnsF0

結論、私には居場所が必要だった。

まだ芸能界に入って日の浅い私が「頼れる」と言い切れる人は少ない。

アイドルって過酷な人気商売。

例え自分の為に開かれた誕生会で"おめでとう"を受け取っていたとしても、
舞台の上に立った時に、同じ事務所に所属する人間が敵にも味方にもなる関係。

私が足を踏み入れた場所はそんな厳しい競争がある世界。

だから、どんな状況でも私の隣で待ってくれてる人が。

ピンチのど真ん中に居ても、最後まで味方であってくれる人が必要だった。

それが信頼や絆なんて大層な物じゃなくても別にいい。

ビジネスだけの関係でも、私の努力一つで幾らでも引き延ばせるのなら。
19 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:29:03.62 ID:/vJmgnsF0

――なんてことを考えていると車が交差点に差し掛かった。

タイミングとしてはカンペキだろう。

急にブレーキなんか踏まれたせいで、少しだけ前につんのめってしまった私は。

「みゃっ!?」

シートベルトで胸が圧迫され、思わず変な声を漏らしてしまう。

……ハッキリ言って最悪過ぎる。

こんな間抜けで恥ずかしい醜態を、まさかプロデューサーさんの隣で晒してしまうなんて。

そう思って横目でサッと確認すると、プロデューサーさんはサイドミラーを覗くフリ。

……ホント、こういう失敗はからかってこないのだから気が利くと言うべきか何なのか。
20 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:30:36.89 ID:/vJmgnsF0

膝上に乗せていたハンドバッグの位置を元に戻し、私は何事も無かったように前を向いた。

信号の赤が夜に映えて、無数のヘッドライトが歩行者たちを照らし出している。

皆どこか、目的地を目指す顔をしていた。お店か、駅か、仕事場か。

……でもどういう道を辿ったところで、最後に辿り着く場所は、結局。


「でも実際、迷惑かけちゃったか?」

「何のことです?」

「本当のとこ、今日のパーティでさ」


ラジオの歌手がごはんができたよと歌っていた。

明るいのにちょっとしんみりしちゃう……なんて印象を頭の端で聞き流して、私は少し、考え込むふりで返事を伸ばす。


「いえ、さっきも言った通りパーティは楽しくて、嬉しかった……ハズです。
ケーキも美味しかったですし、お祝いも沢山してもらえて」


そう、誕生会は楽しかった。それは否定する必要も無い事実。
21 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:32:18.97 ID:/vJmgnsF0

「ただ、ああいうのは初めてだったから」

「それは、お誕生日会が?」

「……家族以外の人と過ごすのがです」


だけどこれじゃあ、気持ちに正直になり過ぎたかもしれない。

信号はまだ変わる気配を見せなかった。

でも、そのまま黙り込むのも嫌で、私は取り合えずの言葉で会話を繋ぐ。


「プロデューサーさんは、どうなんです?」

「ん?」

「プロデューサーさんは、お誕生会とか……。その、子供の頃に」


すると彼は、両手をハンドルに置いたままで「うーん」と小さく考えると。
22 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:34:31.61 ID:/vJmgnsF0

「経験が無いとは言わないけど、うちは結構変わってるぞ。
……親父がいつも留守がちでさ。誕生日に、こう、ほぼ木! って感じの銛を貰ったことは?」

言って、プロデューサーさんが銛を構えるジェスチャーを取った。

思わず両手が真似をする。いや、真似しようとしたのを押さえ込んで。

――というか、今、銛って言った? あの漁師さんとかが持ってそうな、先端に針か何かが付いている。

あの、魚を突いて捕まえる時の。……そんな物を貰う子供時代?


「な、無いですけど」

普通は自転車とかじゃないの?

「変わったプレゼント……ですね」

応えると、プロデューサーさんは「けど、嬉しかったんだよ」と優しく微笑んだ。
23 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:36:59.22 ID:/vJmgnsF0

「八歳の時に親父がくれて九歳までお気に入りだった。
俺の通ってた小学校の近所にお化け沼って沼があってさ。
で、当時の小学生の間じゃ、そこには巨大なヌシが棲んでるって噂もあった」

「じゃあ、プロデューサーさんはその銛を持って」

「ああ、夏休みに友達を引き連れて。自転車で長い坂登って、へとへとになってそこについた。
……なのに最初の一投でヘマしちゃって、俺の手から離れた銛は沼底に取られてそのままポキンッ!」

「折れたんですか!?」

それは悲しい。

「今でも忘れられない想い出だよ。すぐに拾おうと身を乗り出したんだけど、藻だらけの水面は濁っててね。
底は深いし怖い噂もあるし、どうしても腕をツッコむ勇気が出せなかった」

静かに、プロデューサーさんが目を細める。

視線の先、横断歩道の向こう側で、子供の時の記憶を思い返してみたりしてるんだろうか?

私には窺い知れなかったけど、そのことが何だか少しだけ、悔しいって気分にさせてくれる。

……どうしてかはよく、分からないけれど。

モヤモヤするままに目を逸らせば、信号がチカチカ点滅を始め、
渡り遅れていた歩行者が慌てて駆け抜けて行くのが目に入った。
24 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:40:54.10 ID:/vJmgnsF0

「いつもは楽しみだった親父の帰りが憂鬱だったのを覚えてるよ」

ププッとクラクションが鳴らされた。

信号は青。

喋り終えたプロデューサーさんがアクセルを踏むと車は軽快に走り出した。

でも、車内の空気は少し重い。原因は間違いなく私にもあって。

話の流れがアレだったから。考えれば、胸が締め付けられるみたいにドキドキする……。

緊張かな?――嘘、本当は少し不安がってる。

思わず膝上のバッグに手を伸ばした。

取り付けてあるキーホルダーのチェーンを指先でそっと絡め取って、
心を落ち着けたかったから、その先についてる黒猫のぬいぐるみの毛並みを無言で撫でる。

……毛並みはふわふわ、優しい。
25 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:42:11.34 ID:/vJmgnsF0

ただそれでも、ほんの数分前の無遠慮がこの雰囲気を作ったって理解してるせいで、
今の空気を怖いと感じてる自分は消せないでいた。

こんな些細なやり取りがきっかけになって、もしもプロデューサーさんに嫌われたり、怒らせたりなんてことになれば……。

運転席から逸らした視線、喧騒が窓を横切る光の筋に変わってく。

それを気まずい思いで見つめながら。


「お父さんは銛を壊したこと……許して、くれたんですか?」


吐き出す言葉が、掠れる。

その質問をどういう気持ちで口にしたか、許されたいのは私だったのかも。

胸騒ぎはずっと続いたまま、目線を伏せて、彼の返事を待つ時間はとても長く感じた。
26 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:43:29.01 ID:/vJmgnsF0

「うん、ちゃんと許してくれた」

なのに、返って来た返事は驚くほどに能天気で。

「正直に全部話したからね。笑って許してくれた後に、
親父のアドバイスで残った柄が虫取り網に変身して、こっちは三年間持った。中学校に上がるまでだ」

顔を上げると、プロデューサーさんは変わらず笑顔。

あまつさえ、良い想い出エピソードの一つも披露することが出来た――そんな自慢気すら覗かせて。
27 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:44:35.92 ID:/vJmgnsF0

……だから、かな。自分でも、顔つきが柔らかくなっていくのが分かる。

「その網は、どうやって壊しちゃったんです?」

「壊れたんじゃない、卒業したんだ。中学に上がってすぐだったかな? アイドルブームが始まって――」

私が訊いて、彼が答える。

なんてことのないやり取りだけど、こんな時じゃないと教えてもらえない想い出話を聞きながら車は目的地へ向かう。

そうして、そんな時間が心地よく感じられたから……。

今は少し、ほんの少し、到着が遅れてくれることを願う気持ちだった。
28 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:46:16.82 ID:/vJmgnsF0
===

目の前に見慣れたマンションが見えてくると、
私は小さな欠伸を噛み殺して、そろそろかとシートの上で身じろぎした。

どうも半分眠っちゃってたみたい。

それもこれも適度な体の疲労感と、居心地の良い振動を生み出すこの車と、
適度な眠気を誘発する暖房の設定が快適過ぎることが悪い。

人間は体が温まると眠たくなってく生き物だ。

そういう風に作られてるといつだかに聞いた覚えがあったことを思い出す。
29 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:47:47.88 ID:/vJmgnsF0

「もうすぐだよ」

まだウトウトしてる頭でプロデューサーさんの言葉を受け取る。

車が駐車場に着くと、私はお礼を言って外へ降りた。

小さな頃から変わらない、立ち並ぶマンションを見上げて「ただいま」と胸の内で呟く。

ブーツがアスファルトを鳴らし、無遠慮な夜風が通り過ぎて、
ざわざわざわ、と景観用の木々が揺らぐ。

ふぅっと吐いた息が白い。

遠くで犬が高く吠えた。

私は乱れた髪を直しながらトランクを開ける。


「一人で持つには多くないか?」

いつの間にかプロデューサーさんも傍へ来ていた。

彼はコートの襟を閉じながら笑う。擦り合わせる手の平がちょっと寒そう。
30 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:49:19.05 ID:/vJmgnsF0

「こんな時だって頼ってくれよ。その為のプロデューサーなんだぞ」

「それじゃあ大きいのをお願いします」


頼めば、プロデューサーさんはすぐにも荷物が入った袋を受け取った。

私も残りの細々とした物を――どれも今日の誕生会で貰ったプレゼントだ――手に取って、
エントランスに向かって歩き出す。カツコツカツ、重なる足音。二人の歩幅も横並びだ。


「そう言えばさ」


建物に入ってすぐ辺りで、プロデューサーさんが思い出したように口を開いた。


「志保の弟……陸君は最近も元気にしてるのかい?」

「ええ、はい。してますけど」

「折角だ、顔ぐらい見てから帰ろうかな」

「止めておいた方が良いと思いますよ」


即答。面識の少ない弟のことを気にしてくれたのは意外だけど、
私は肩をすくめてエレベーターの呼び出しボタンを押す。
31 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:51:02.37 ID:/vJmgnsF0

それから理由を訊きたげなプロデューサーさんに振り返って。


「あの子最近、プロデューサーさんのことを悪の手先だって疑ってるみたいなんです」

「悪の手先」

「今撮ってるデストルドーみたいな……。悪の組織って言うんですか」

「そこで、俺が働いてるかもしれないって?」

「ここの所、レコーディングだなんだって予定が立て込んだじゃないですか。
仕事が急に忙しくなって、その分、家にいる時間が短くなりましたから。……プロデューサーさんに送って貰ったって話をすると」

「あー……大好きなお姉ちゃんを取らないでってコトか」


私の説明で納得してくれたのか、プロデューサーさんが悪いことしたね、と小さく項垂れた。
32 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:52:26.41 ID:/vJmgnsF0

「陸君ぐらいの年にはそういうの、身近な悪の組織とかと関連づけるもんな」


俺にも苦い経験があるよ、とプロデューサーさんが肩をすくめる。


「はい。多分、そんな所です」

「スケジュールも詰め過ぎちゃってたし」

「私自身はそんなこと無いって思いますけど。弟は、まだ小さいですから」

「だけどさ、北沢家にとっちゃ由々しき問題だよ。
……悪いんだけど志保伝手でさ、埋め合わせは必ずするって言っておいてくれる?」


そう言って、プロデューサーさんがポリポリと後ろ頭を掻く。
……そんなに重たく受け取られるとこっちとしても困るのだけど。まあ、いいか。


「はい。伝えておきます」
33 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:54:25.54 ID:/vJmgnsF0

その時、階数表示が『1』になって、トースターみたいな音を鳴らしてエレベーターの扉が開いた。

中には時々見かけたことがある若い女性が一人で乗っていた。

不躾な私の評価だけど、お洒落がバッチリ決まっている。……これからデートに行くのかも。


「こんばんは」


そんなことに気を取られていると、プロデューサーさんが一番最初に声を掛けた。

恐らく初対面の相手に、ううん、初対面の相手だからこそか。

瞬時に見せた余所行きの対応、流石の営業スマイルだ。

……咄嗟のスイッチの切り変え方、私も見習わなくちゃいけないな。

それで、私も続けて挨拶すると、女の人は一瞬驚いた表情になったけれど。


「こ、こんばんは」


相手も挨拶と軽い会釈。

廊下の脇にサッと退いて、道を譲ったプロデューサーさんに従ってみてようやく気付く。

あ、これ単純にカッコつけたいやつだ。

まるで映画のハンサムがするみたいに、女性を見送る彼の顔つきで……。

なんでだろ、こういうのは不思議と分かるのにな。
34 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:56:06.00 ID:/vJmgnsF0

「……優しさのバーゲンセール」

「何だいそれ」


プロデューサーさんにはポーカーフェイスの練習が必要だな、なんて。

女の人が行ってしまうと、私は怪訝そうな彼と一緒にエレベーターへと乗り込んだ。

扉が閉まり、ぶぅんと重力に引かれる感じ。おへそが少し落ち着かない。

目的階に到着するまでの時間を使って提げてる荷物を持ち直した。


「じゃあ、帰ってもご機嫌斜めかもしれないな」

「えっ?」


あんまり急に言われたので、それってつまり私がですか? と思わず訊き返すところだった。

まるで今だって機嫌が悪いみたいな言い方に、お互いの視線と視線が交差する。

するとどうだ。プロデューサーさんは簡単な推理を披露するみたいに。


「誕生会、早めに切り上げたけど良い子ならもう寝てる時間だろう?
だったら大好きなお姉ちゃんと顔を会わせるのは明日になるじゃないか。……まあ、起きて待ってるなら話は別だ」
35 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:57:10.24 ID:/vJmgnsF0

言われてから「確かに」と頷いた。

さっきも話に出て来ていた、私の弟である北沢陸は保育園生。

品行方正、成績優秀、出された給食も残さず食べる。

とってもとってもいい子なので、この時間ならきっとお布団の中ですやすやだろう。

何時もみたいに寝かしつけてあげられないのは仕方がないけれど、良い夢を見てくれているといいな。

……でも歯磨きはちゃんとしたんだろうか?

お母さんはりっくんにベタ甘だから、もしかすると仕上げ磨きがおろそかになってるかもしれない。
36 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:58:20.84 ID:/vJmgnsF0

明日の朝一番目の予定に弟の歯磨きを追加して、私はプロデューサーさんと向き直った。


「去年までなら毎年誕生日は家に居て、三人でケーキを食べてたんです。なのに今日は、お母さんが強引に」

「ははっ、劇場に送り出してくれるよう頼んでおいたからね」

「ちょっと不気味なくらいでした。……たまには母親らしいことしたかったみたい」


だけどそんなことは普段からしてくれている――
続きを言い出す前にエレベーターがぐぃんと止まり、私たちはマンションの廊下へ追い立てられた。

冷たい風が頬を撫でる。

目の前には蛍光灯が寂しく照らす、見通しが良過ぎる一本道。

家の玄関までもう目と鼻の先だ。
37 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 22:59:44.75 ID:/vJmgnsF0

……なのに、さっきのプロデューサーさんとの会話によって、
唐突に気づかされてしまった私は中々歩き出せなかった。

だって留守番をしていた家族のことを考えると、どうしてかとても切なくなって、とにかく謝りたくなって。

私一人がこんなにも楽しんで帰る事実、それが何だか凄く居心地が悪い。


まるで一人だけお祭りに出掛けた帰りみたいに。

楽しい事に目を奪われてお土産なんかも忘れてしまい、でも買って帰る時間も無いみたいな。

それなのに、私の顔からは笑みが消えない。

抑えよう、落ち着こうとすればするほど内側から溢れて来るみたいで。
38 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:01:49.70 ID:/vJmgnsF0

「……こんなに浮かれて帰っちゃダメですよね」


深呼吸と一緒に無理やり口から吐き出した言葉。

プロデューサーさんが即答した。


「だけど、楽しかったんだろう?」

「それは……」

私は返事に困ってしまう。そう、誕生会は楽しかったのだ。

だからこんなにも罪悪感に埋もれている……。

短い沈黙。

観念するように肩を落とすと、プロデューサーさんは少し迷った感じで喋り出した。


「志保、お節介かもしれないけど、親ってのは子供が喜ぶ姿を見るのが嬉しいんだ」

「それは、その、それぐらいなら……。私だって知ってるつもりですけど」


でもそれが何だって言うんですか!? なんて、食って掛かれるならどれ程気持ちが楽なんだろう?

今の私、プロデューサーさんを見上げてきっと酷い顔をしているんだろうな。

例えば、足の不自由な人が杖を失くして、手すりを探してるみたいな顔を。

……この瞬間の無言の訴えは、私が伸ばした不安の手だ。
39 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:03:06.06 ID:/vJmgnsF0

だけど、そんな私にプロデューサーさんが言ってくれた。

「なら堂々と笑顔で帰ればいい。ほら、俺がするみたいに」

続けて安心させるみたくニカッと笑う。

わざとらしさが一杯で、傍から見ればバカみたい。

でも、その行動を理解できないワケじゃない。

時にはこんなおどけっぷりが私みたいな子にはきっと必要で。


「そうだよそれ、その調子で。――子供は笑顔が一番だぜ!」


嘘ばっかり。アナタみたいに上手に笑えてないのは知ってる。

でも、こうしていれば理屈っぽい頑なさも、いつかは。
40 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:04:18.11 ID:/vJmgnsF0

「……大丈夫。もう行けます」

「よーし! なら、早く帰ろう」


肩を並べて廊下を歩き始める。

玄関扉に着くまでの間、私は何とも言えない気分だった。

居心地の良い気持ちの他に、名前を付けることの出来ない不思議な……感傷?

何故だかどこか懐かしくて、けど、知らない初めての新鮮な気持ち。
妙にこそばゆく感じる思い。……悪くないな、そんな感想を抱く。


私は扉の前に立つと、この落ち着かなさを抑えるように振り返った。

そうして、唇に乗せようとしたのは。
41 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:05:19.81 ID:/vJmgnsF0

「プロデューサーさん」

お茶でも飲んで行きませんか? ……自然な表情、自然な声音。
出来るだけ違和感の無い誘い方を心掛けたつもりだった。

なのに、タイミングが最悪。

私が言葉を発するより先にプロデューサーさんのポケットから聞こえた電子音は、
間違いない、彼が誰かに呼び出された証拠だった。

私の提案を「悪いね」と遮り、ポケットからスマホを取り出す。

着信画面の表示を見た彼の顔が一瞬しかめられた。
42 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:06:38.56 ID:/vJmgnsF0

「もしもし、俺だけど何があった?」


だけど、訊き返すプロデューサーさんの態度はだいぶ緩い。

そんな彼の姿を見て距離感。

私を含めたアイドル達と話してる時には出てこない、遠慮ない気軽さを感じ取ると……。

抱えてる荷物が重たくなって、ズシリと、腕に気怠い圧力。

支える指先が、冷たい。


「泊まる? 泊まるっていったい何処に?――おい百合子。まさかまた寮まで来てるんじゃないだろうな!?」


そうして疑惑が確信に変わった瞬間、
もう、自分でもどうしようもなく、私の笑顔は張り付いたものに変わっていた。


――頭で理解してるのに。胸が、締め付けられるように辛い。

この気持ちは、まるでお気に入りの玩具を取り上げられた子供みたいに。
43 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:08:32.34 ID:/vJmgnsF0

「ダメだダメだ、ちゃんと自分の家に帰らないと俺が叔父さんに叱られるよ!
当然、そうなった時は一緒にだぜ?

……あー、でも、俺が送る。ああ、本棚の本は読んでて良いから。
一人で帰らすにはもう遅いし――優しい? バカ! お前ってやつはまた都合の良い勘違いをして!」


電話越し、話をする彼の姿に名残惜しさ。

胸の前で思わず拳を握りしめて、
強くなっていく気持ちにワガママという名前が付いていることは分かっていた。

……もうすぐ自分の持ち時間が終わって、彼は皆のプロデューサーに戻る。

目を逸らし切れない無力感を覚え、充実した夢の世界から急に現実に引き戻された気分だったし、
バカな話だと理解しながらも、つい、考えてしまうのだ。

もしも自分が、ここで駄々をこねられる子供だったなら、って。
44 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:09:44.19 ID:/vJmgnsF0

「プロデューサーさん」


でも実際には、邪魔にならない小声で呼び掛けるだけにとどまった。

彼に迷惑を言って困らせること、それだけは何より避けたくって。

プロデューサーさんと目と目が合うと、私は礼儀正しく頭を下げて、それから。


「今日はありがとうございました。引き留めちゃってすみません。……早く、百合子さんの所に」

「悪いね、どうにも最後がバタついちゃって」

「平気です。急なスケジュールの変更には慣れてますから」

「本当にすまないと思うよ」


プロデューサーさんがわたわたと持っていた荷物を差し出してくる。

私はそれを落とさないよう注意して受け取って。
45 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:11:03.90 ID:/vJmgnsF0

「あ、あの!」


声を出した。呼び掛けられたプロデューサーさんが顔をあげる。

そしてその瞬間僅かに、でも、確かに指先同士が触れ合って――私はびっくりしてしまったのだ。

予想もしてなかったハプニングに、準備していた言葉が呑みこまれてしまう。


「あっ……また、劇場で」

「ああ――志保もお休み!」


やり取りは単純で、拙く、おまけにとても短すぎる。

プロデューサーさんの背中が離れていくと、直後に悔しいと思った。

まだ足りない。感謝を伝えたい気持ちが、時間も、言葉も。

今日という一日を長引かせたい。彼が呼び出すエレベーターの扉が開かなければ。

いいや、そうでなくても少しばかり、到着するのが遅れるなら!
46 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:12:02.93 ID:/vJmgnsF0

――ボタンが押されて僅か数秒。開いたばかりの扉に彼が消える。

フロアに音が鳴り響いて、それっきり。夢は完全に覚めてしまった。

プロデューサーさんがそうしたみたいに、私だって、私にだって、帰らなくちゃいけない場所がある。


「……お休みなさい。プロデューサーさん」


諦めたように伸ばした指先が、スイッチに触れて、固い感触。

もう届ける手段も無い台詞は、鳴らしたチャイムにかき消された。
47 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:17:29.88 ID:/vJmgnsF0
==2

シャワーを止める。髪をまとめる。それから湯船に足を入れる。

お気に入りのジャスミンの香り、入浴剤はささくれた心を受け止めてくれる。

しっかり肩まで入り込むと、私はようやく一息つけた気がした。

ふぅ、と吐き出した吐息が浴室の暖気と混ざり合ってとける。

タイルの床を水が這って、排水溝に流れ込む様を何とはなしに眺めていた。

それで今日という一日を振り返って、点数を、つけるとしたら。


「はぁ……浮かれ過ぎだ」


もう、プロデューサーさんと別れてから一時間近くは経っていた。

あれから普通に家に帰り、自分を待っていた母親と二言三言会話をしてそのまま浴室に直行した。

廊下で少し、夜風に当たっていたせいもあって、冷え切っていた体を温めたかった理由もあるし、
何となく、浮ついた気分のままリビングに入るのが気まずいという思いもあった。


……それもこれも、全てはプロデューサーさんのせい。
48 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:18:43.72 ID:/vJmgnsF0

「お茶でもどうですか、なんて」


我ながら、よくも思い切ったなって自嘲する。

そもそも一般的な話、車で送って貰ったお礼にと、
あの場面でそういう心遣いをするのは常識的な流れだった。

きっと世の中にある無数の教本にだって正しいって大文字で書いてるハズ。

だけど途中で呼び出しが無かったとして、
プロデューサーさんに断られるだろうという予想が無かったとは言えない。

だって私たち二人の関係は、仲のいい友達とは違う、単なるアイドルとプロデューサーなんだから……

なんて、言い訳めいた理屈を一つ。

お湯を揺らし、浴槽にもたれ、ボーっと目を閉じて脱力、脱力。
49 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:20:24.36 ID:/vJmgnsF0

「そもそも私とプロデューサーさんは、少なくとも私はあの人のこと――」


自然に口走って、溜め息。私は無理くりに思考を紡ぐのを止めた。

これ以上深入りすると引き返せない。警鐘にも似た予感がお喋りな唇を閉じさせた。

やっぱり今日は浮かれている。

二人はアイドルとプロデューサー。
仕事をする上でのパートナー。

それ以上の結び付きは必要無い……ハズだもの。


「……頼りにしちゃって、いいんですよね?」


眉根を寄せてそっと呟く。

それからキュッと目をつむって、ジャスミンの香りに身を任せて十までゆっくり数えだした。

それは小さな頃に教わった、気分の切り替え方だった。
50 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:22:22.03 ID:/vJmgnsF0

入浴を終えてリビングに顔を出す。

部屋の中には親しみやすいデザインのテレビ台と、中央にリモコン類が置かれた小さなテーブル。

それから背の低い衣装ダンスの横に、壁を向く形で使い込まれた机がもう一つ。

傍にはハンガーラックもある。

ハウスカタログに載せても良い位の、実に一般的なお家の内装。

私はそれらに順に視線をやって、最後に隣室から出て来たばかりのお母さんと目を合わせた。

……これは完ぺきな余談だけど、弟は完全に母親似だ。優しい目元とか特にそっくり。


「髪、ちゃんと乾かすのよ」

「うん。ドライヤー持ってきてる」


壁際の机の前に座って、プラグとコンセントを繋ぐ。

お母さんは中央のテーブル。

つけっぱなしだったテレビのチャンネルがニュースに合わせられる。

……ドライヤーは手早く済ませなくちゃ。
51 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:24:18.39 ID:/vJmgnsF0

「そう言えば、アイドルって散髪できるのかしら。ずっと長いままってのも手間じゃない?」


なのに、娘の気配り親知らず。


「別に相談すれば平気だと思うけど。……りっくんは? 眠ったまま?」

「ぐっすり寝てる。なぁに? 無理やりにでも起こしておいた方が良かった?」

「違うけど、ちょっと気になったから。――帰って来るの待ってたでしょ?」


振り返ると、お母さんは「そうねぇ」と首を傾げながら。


「プレゼントを絶対渡すんだって。後五分でも早く帰ってれば、可愛い弟にお休みだって言えたのに」

「そっか。悪いことしちゃった」


それが本当に五分以内で間に合ったかどうかはともかくとして、
教えてもらった私は隣室で眠るりっくんに心の中で「ごめんね」を言った。
52 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:25:51.36 ID:/vJmgnsF0

暫くの間、部屋の中の音は髪を乾かす作業音と天気予報だけになった。


「あら、明日は冷え込むんだって。……陸もあったかくさせないといけないわね」


お母さんの何気ない一言でプロデューサーさんのことが浮かぶ。

駐車場で荷物を持とうかと訊いてきた、着古したコートの襟を正す姿。

あれは正直、ちょっと寒そうだったな、なんて。


「うん、分かった」


返事をして、渇き残しが無いかを確かめてドライヤーを止めた。

私が隣に座り直すと、お母さんはやっと本題に入れるといった感じでこちらに向き直った。

そうして何を言われるんだろう? と私が開きかけた口を遮るように。
53 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:28:08.26 ID:/vJmgnsF0

「ところで今日の誕生会なんだけど」

「あ、うん」

「楽しかった? ……聞くまでもないか」


お母さんが一人で勝手に納得する。

その視線が照れ臭くなってる私から外れ、壁際に置かれた紙袋へと移る。

……改めて見ると凄い量だ。

確かにこれだけの数があれば、娘がどんな誕生会を開いて貰ったかなんて一目瞭然。

寂しいパーティだったなんて捻くれたコメントとは無縁だ。


「志保」


不意に、お母さんの手がそっと私の掌に重ねられた。

そうして、限りなく優しく。


「良かったね」
54 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:29:38.48 ID:/vJmgnsF0

……その言葉の、笑顔の、一体何が"良かったね"なのか、

お母さんが言いたいことの意味は理解してあげられるつもり。

帰りの車でプロデューサーさんにも言ったけれど、私がこれまで済ませた十三回の誕生日は、

家族に祝われることはあっても、友人と呼ばれる存在と一緒に過ごすことは無かったからだ。

……もしあっても、それは遠い記憶。

輪郭すらハッキリしない、まだ私が、本当に小さかった頃の。


だけどそれが、アイドルになって変わり始めた。

自分の誕生日を誰かに教えるとか、ましてやプロフィールとして世間に公開するなんてことも、
想像もつかなかった変化。でも何より大きな変化と言えば――。


お母さんの視線に熱がこもる。……本当に、心の底から喜んでるみたい。
55 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:31:19.87 ID:/vJmgnsF0

「お母さんね、志保がアイドルになりたいって言い出した時には驚いたけれど、
最近のあなたを見ていたらそう悪いものじゃないって思えてくるの」


言われて私も思い出す。

初めてオーディションを受けたいって相談をした時には、結構心配させちゃった。

学生である間にアイドルデビューするってことは、大人から見ればまだまだ子供な私みたいな女の子を、
変則的とはいえ社会に差し出すことなんだ。

それで不安にならない親はいない。

少しばかり違うけど、りっくんが子役を目指すことになれば……私だって心配になる。

それが月謝を払って通わせる、塾や教室みたいな守られたコミュニティでもないなら猶更だ。

競争社会は常に挑戦。出鼻を挫かれて諦めるより、
曲がりなりにも道が開けて、その半ばで行き倒れる方が残される傷も深くて酷い。
56 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:32:24.84 ID:/vJmgnsF0

……だからなんだ。

「志保が頑張る姿を見て、お母さん勇気を貰ってる」なんて、真っ直ぐ見つめて言われたら。

「最初は不安もあったけれど、お仕事の内容については
あなたのプロデューサーさんが逐一報告してくれるし……改めて言うのも変だけれど、765プロって良い所ね」


思わず頬が熱くなった。嬉しさと気恥ずかしさが混ざり合った気持ち。

自分の活動を認められることは、良い点を取ったテストを褒められるより何倍も強く心に響く。


「お母さん、あのね、聞いて欲しいの」


だから私は、居ても立っても居られなくなって。


「私、これからもアイドル頑張るから」
57 : ◆Xz5sQ/W/66 [sage saga]:2020/03/04(水) 23:33:34.30 ID:/vJmgnsF0

時間にしたらほんの僅か。

でも、親子のやり取りとしては十分過ぎる程に濃密な。

そうして僅かな沈黙の後。


「ところで志保」


なんて、お母さんが神妙な面持ちで話題を変えようとしたから、

私も何を言われても良いように小さく身構えて言葉を待った。

すると――。


「百瀬莉緒さんのサイン貰ってこれない? 私、あの人のファンなのよ〜!」

「お母さんっ!」


思わず声を大きくして、こんなくだらないことで笑えるのが嬉しくって。

こうして私の誕生日は、幸せを感じながら緩やかに幕を閉じた。


全体的に点をつければ……花丸だったんじゃないかな、きっと。
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