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芹沢あさひ「この雨がいつか止んだなら」
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1 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 19:55:53.58 ID:hoMUvMIQo
・アイドルマスターシャイニーカラーズ、芹沢あさひがメインのSSです。よろしくお願いします。
・芹沢ハピバ。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1578135353
2 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 19:57:34.23 ID:hoMUvMIQo
「何者かになりたいと思ったことってある?」
3 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 19:58:20.31 ID:hoMUvMIQo
通い慣れたレッスン場からの帰り道での出来事だった。
その声が果たしてどんな色を帯びていたのか、いまとなってはもう思い出せない。
かろうじて呼び起こすことのできるものといえば、車体を激しく打ちつける雨の音と錆びついたような耳鳴りばかりで、交わした言葉のほとんどが、喩えるなら古い映像作品の字幕みたいに、単なる記号としか記憶されていなかった。
あの日は朝からずっと酷い雨が降り続いていた。
私の淡い期待はどうやら空まで届かなかったようで、終業のベルが鳴りレッスン場へと向かう時間になってもなお、依然として雨脚が弱まる気配はなかった。
濡れたら嫌だな、と思いつつビニール傘を片手に校門をくぐると、向かいの歩道に、同じく傘を片手にして立っているその姿を見つけた。
曰く、ちょうど近くに来る用事があったから、そのついでに。
華奢な右腕に支えられた黒傘は不格好に大きくて、なのにスーツの裾が少し濡れていた。
4 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 19:58:59.69 ID:hoMUvMIQo
「それが関係あるんすか?」
どこかで交通規制でも起きているのか、いつもより混雑した四車線の左端を、車はゆっくりと進んでいく。
ガードレールの向こうを歩く人達は、こっそりと示し合わせたように黒かビニールの傘ばかりを差している。
そのことがなんだか面白くて、だけど、すぐ脇に立てかけられた私の傘も窓の外にあるそれらと違わないことに気がついて、それは何となく楽しくないなと思った。
「その『何者か』っていうのは――」
緩慢に過ぎ去っていく風景を眺めながら私は言う。
「たとえば、あの女の子みたいな感じっすか?」
窓の外、前方から歩道の上を、小学生くらいの女の子が、恐らくは父親と思われるスーツ姿の男性と一緒に歩いてくる。
少女の隣で穏やかに笑う男性の手には大きめのレジ袋、その中にはいかにもホールケーキでも入っていそうな角張った箱がみえる。
誕生日のお祝いか何かだろうか。
あてもなく、そんなことを考える。
水を編んだように青く透明な生地でできた傘を、少女は楽しそうにくるりと回す。
たったの一瞬の光景は、だけど、とても鮮やかで、眩しくて、まるで映画のワンシーンみたいに私の目に焼き付いた。
肝心のカメラがどこにも見当たらないことが不思議だった。
5 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 19:59:47.04 ID:hoMUvMIQo
「ん。誰のこと?」
暗がりに声が響く。
視線は横に向けたまま、私は答えた。
「青い傘の女の子っす。もう通りすぎたっすけど」
「青い傘?」
私は軽く頷いて、それ以上なにも言わなかった。
言えなかった、というほうが正しいかもしれない。
どうしてその少女のことに言及したのか、自分自身よく分かっていなかった。
それでも、何かが伝わったのか、
「ああ、なるほど」
さらに数秒ほど経って、どうだろう、と続く。
6 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:00:24.43 ID:hoMUvMIQo
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「何なんすか、それ」
「正しくは、そうであってもいいし、そうでなくてもいい、かな。それはこちら側が決めていいことじゃない」
「言い出したのはそっちじゃないっすか」
「でも、答えるのはあさひだ」
「それは、まあ」
たしかにそうだ。私は小さく頷いた。
雨雲のせいだろう、午後八時の街明かりはやけに心許ない。
助手席の小さな窓は鏡のように私の姿を反射していた。
さっきからずっと前ばかりを向いている運転手の姿もまた、その狭い枠の内側に映し出されている。
風に煽られる雨粒、左右を往復するワイパー、先行車のナンバープレート、遠くで火山でも噴火したのかと疑うほど沈んだ色の雲。
車内から見えるものなんておおよそそれくらいのものだ。
でも、それにしたってすぐに慣れてしまう。面白くない。
だから、かく言う私も、さっきからずっと歩道ばかりを眺めている。
こちらは飽きない。何にせよ、すぐに過ぎ去ってしまうから。
「あさひは」
不意に私の名前が呼ばれる。穏やかな声だった。
7 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:00:54.30 ID:hoMUvMIQo
「たとえば、その女の子みたいになりたい?」
「その女の子みたいになりたい、っすか」
投げかけられた言葉をそのままに繰り返してみる。私に届いたのと同じくらいの速度で。
その行為に意味があるとすれば、それはきっと質問の意図を咀嚼するためだろうけれど、でも、意味なんてない。
何となくそうした。
「どうなんすかね」
そのことについては、尋ねられるよりも先に考えを巡らせていた。
青い傘を差した少女の存在に言及したその瞬間から、ずっと。
何者か、に付随させるイメージとして、どうして私は彼女をあてがったのだろう?
あの少女があの瞬間に特別だった理由なんて、あの青い傘一つしかないのに。
どうして?
8 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:01:59.39 ID:hoMUvMIQo
「よく分かんないっす」
結局のところ、私はそう答えるしかなかった。
分からないものは分からない。こんなことで嘘をついても仕方がない。
私は相変わらず助手席の窓に向かっていた。
なのに、その向こう側で運転席の影とどういうわけか目が合って、そうして初めて、外に賑わった街の流れが止まっていることに気がついた。
赤信号だ。
運転手の両手から解放されたハンドルは、少し休ませてくれとでも言いたげな様子でピタリとも動かない。
車体を揺らすエンジン音もまた、幾分か穏やかな調子を刻んでいるように思えた。
行ったり来たりのワイパーを何となく目で追いながら、私は続ける。
9 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:02:38.07 ID:hoMUvMIQo
「もしかしたら適当に言っただけかもしれないっすね」
「あまりそういう風には思えないけれど」
「それはわたしも同じっす」
私は軽く頷いて、それから一呼吸置く。
「だけど、うまく言葉にできないっていうか。近いとこまでは来てる気がするんすけど、こう、あとちょっとのところでふっとすり抜けていくんす」
「なるほど。分かりやすい」
「分かりやすいっすか?」
「比較的」
ぴたりと止まったまま、代わり映えのしない景色はやはり酷く窮屈で、私は運転席のほうを振り返る。
だけど、私たちの目は合わなかった。
窓の外へ向けられた表情を、綺麗に整った後ろ髪が教えてくれるわけでもなくて、私は拗ねたみたいにぷいと視線を元に戻した。
「これは勝手な印象だけれど」
雨音に飽和した車内を、まるで秘密の内緒話をするときみたいに潜んだ声が走る。
「あさひと一緒にいると、感情に理解が追いついていない風にみえる場面が割と多いんだ。そういう瞬間は誰にだって多かれ少なかれあるものだろうけれど」
10 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:03:10.15 ID:hoMUvMIQo
私は考える。どうだろう。
上手く言葉にできなくてもやもやするなんてことは、たしかに、ほとんど日常と言ってしまって構わないほどには――当たり前すぎて、最早気にも留めなくなるほどには――ありふれているような気がするけれど、だけど、その絶対量を相対的に評価できるほどの客観的な道具を私は持ち合わせていない。
だからというわけでもないけれど。
私、芹沢あさひという人格が普通か普通でないのかなんて、考えたことがない。
考えたいとか考えたくないとか、そういう問題じゃなくて、そんな発想がそもそもない――なかった。
以前まで、少なくともアイドルとしての活動を始めるまでは。
だから、と私たちの内緒話は続く。
「珍しいんだ、そうやって『よく分からない』ものを強いて言葉に直そうとするのは。全くってわけじゃ勿論ないけれど」
緑色の光が正面から差し込んだ。
ハンドルには再び両手が添えられる。
しばらくして、微かな揺れを伴った景色は流れを取り戻し、緩やかな力が私の全身を後方へ深く沈み込ませていく。
言われた通りなのかもしれないと思った。
だけど同時に、その指摘は全くの的外れだとも思った。
どっちだろう? わからない。
11 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:03:39.84 ID:hoMUvMIQo
「『何者か』」
私は、やはり窓の外を眺めながら言う。
「わたしは何者でもないのかな」
雨粒が窓の表面を斜めに走っていく。
その跡を目で追うわけでもなく、私の視界はただぼんやりと中空を捉えていた。
向こう側の景色なんて、そんなもの、もうどうだっていい。
青い傘の少女が踊っている。
雨の中を、楽しそうに、くるくると、ゆらゆらと、まるで青い灯火みたいに、誰の手も届かない場所で、少女が踊っている。
ずっと。ずっと。
――ああ、駄目だ。忘れられない。
12 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:04:25.27 ID:hoMUvMIQo
「それを決めるのだって」
「わたしの役目、っすか」
「うん。あさひの好きなように決めたらいい」
「そんな適当でいいんすか」
「適当? まさか。自分の定義する自分こそが、他の何物よりずっと本物だよ」
雨が降る街の上を、私たちはただ真っ直ぐに進んでいく。
でも、だけど、それはきっと逆だ。
街のほうが私たちを置いて先へ進んでいっている。
私たちは、少なくとも私は、たったの一歩だって動いていない。
私は、ずっとここにいる。
あの雨の日も。
そしていまも。
13 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:04:59.45 ID:hoMUvMIQo
「高校生活はどう? 楽しい?」
交差点を右に折れる。身体は自ずと左に傾斜する。
車はもう、事務所前の見慣れた通りに差し掛かっていた。
「別に。普通っすよ」
目を閉じる。
透明な暗闇の中に、私は一人きりで立っている。そんな光景を想像する。
雨が降っている。
私はその青色に打たれながら、傘も持たずに、空っぽの空をただ見上げている。
雲なんてどこにもなくて、それなのに雨が降っている。
肌に触れた冷ややかなノイズは耳を伝って、私という空っぽの器をいっぱいに満たし、それ以外のあらゆる音と一緒に、私の意識をもどこか遠くへ攫っていく。
だから。
「プロデューサーさんは」
だから、私は尋ねたんだ。
あの日、酷い雨の夜、助手席から。
「わたしに、何者であってほしいっすか?」
14 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:05:34.25 ID:hoMUvMIQo
ふと気がつけば、私の右手には傘がある。
さっきの少女が持っていたものと同じ、水を編んだように青く透明な傘が、望んだわけでもないのに握られている。
こんなもの、と思った。
どうして、なんて疑問よりも先に、要らない、という感情がぱっと沸き立った。
だったら投げ捨ててしまえばいいのに、だけど結局、私は空に向けて傘を開く。
雨に打たれるのが嫌だったから?
本当はこの傘が欲しかったから?
分からない。知らない。知りたくもない。
理由なんて何だっていい。
俯いたまま、私は囁く。
――わたしに、何者であってほしいっすか?
15 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:06:10.10 ID:hoMUvMIQo
「――」
翳した傘を叩きつける雨の音は、その勢いを一層増したように思えた。
あんなにも穏やかに落下していた雨粒は、水色の傘に触れた瞬間、鮮やかに爆ぜ、火花が散るみたいに細かい破裂音をけたたましく耳元で響かせる。
その雨は、あるいは半透明の壁のようにも思えた。
私が望んだ答えはその壁を越えた先にあって、そして、だから届くことは決して叶わない。
右手に握られた傘は、私を雨の向こう側へまで連れて行ってはくれない。
思い出せない。
思い出せないんだ。
あのとき、プロデューサーは何て言った?
16 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:06:38.39 ID:hoMUvMIQo
「着いたよ」
そんな声が遠くに聞こえて、私は徐に目を開く。
外の景色は既に流れを止めている。窓の外にはペットショップ、その上が私たちの事務所。
私はシートベルトを外して、それから扉に立てかけられたビニールの傘に手を伸ばす。
そして、それが最後だった。
瞬間、世界の秒針が、私たち二人を刻みつける速度を急激に落とす。
幾度となく巻き返してきた記憶のフィルムは、音も、光も、何もかもを巻き込んで、いつもこの手が届くよりも前にぴたりと止まる。
だって、いつかの私にとって重要だったのは、あの日、あのとき、車の中で交わしたあの会話だけだったから、いまになって思い起こされる映像風景はどうしたところでここまでが全部だ。
だから。
思い出の螺子をもう一度巻き直して、私は記憶の海に潜りこむ。
その言葉を思い出せるまで、たとえ意味なんてないとしても、それでも繰り返す。
何度も、何度も、何度でも。
「――」
雨音は未だ止まない。
17 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:08:22.74 ID:hoMUvMIQo
*
そしてすべての音が消える。文字通りにあらゆる音が、世界の秒針さえも巻き添えにして、ちょうど三小節分だけ消える。
ちゃんと覚えている。その空白は言葉にすると短いようで、実際にはとても長く感じられる。
無音の後で最初に聞こえてくるのは、ボーカルが入る予定のメロディを鳴らすシンプルな電子音だ。
でも、それで反応してたんじゃとても間に合わない。全身をぴたりと静止させたまま、だから頭の中でリズムを刻む。
――さん、に、さん、し。
再び動き始めるのは四拍目。
下げていた右手を顎のあたりまで引き上げて、次の小節に入るまでに胸の前へ持ってくる。
事前に指示されている動作はもうそれまでで、残りは全部アドリブだった。
18 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:08:59.91 ID:hoMUvMIQo
それほど派手に動くような曲じゃない。だけど、これはきっと、感情を込めて表現すべき曲だった。
エレキギターのカッティングと一瞬の空白を挟んで、いよいよ最後のサビへと流れ込む。
メロディラインの起伏をなぞるようにして、私の手足は好き勝手な軌道を描いていく。
いまの私はきっと操られている。この曲が宿した透明な想いの糸に結ばれて、喩えるならマリオネットみたいな感じで、音符の羅列が望んだようにだけ動いている。
そこに私の意思はない。でも、悪い気はしなかった。むしろ心地がいい。
私自身のことなんてどうでもいい。私が表現するべきは、自分の感情じゃなくて、楽曲の感情だ。
弾かれた弦の残響だけを余韻に残して、音楽は穏やかに終わりを迎える。
身体の中心に逸る鼓動でさえ耳障りに感じるほどの静寂だった。
「お疲れ様」
そんな声が聞こえたような気がして、ふっと顔を上げる。
壁一面に取り付けられた大きな姿見の一番奥、私の背後、レッスンルームの壁際。
紺色のスーツをラフに着崩した、いつものプロデューサーさんが立っている。
身体を繋ぎとめていた無数の糸がぷつりと切れたような、そんな感覚がした。
19 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:09:28.76 ID:hoMUvMIQo
「もう、そんな時間っすか?」
額から伝う汗を手の甲で拭いながら、部屋の隅に掛けられているはずの時計を探す。
時計の針は一二時を四分の一ほど過ぎた辺りを指していた。
今日の練習は一二時までの三時間で終える予定だったから、もう十分すぎるくらいにタイムオーバーだ。
「相変わらずの集中力だな」
ほら、と手渡された白いハンドタオルを、そのままの勢いで首に引っかける。思いのほかふわふわで肌触りがいい。
次いで受け取ったペットボトルの冷気を両手に感じながら、彼の目をみた。
「どのくらい前からいたんすか」
「三〇分ほど」
指先にぐっと力を込めて蓋を開ける。
中はただのミネラルウォーターだ。私がそうお願いしているから、プロデューサーさんは毎回同じものを、すぐそこの自販機で買ってきてくれる。
中身をぐっと喉の奥へ流し込む。
しばらくして、じんわりとした新鮮な温度が、鳩尾の少し上を中心に、辺りへ浸透するようにして広がっていく。
それに合わせて呼吸のリズムも本来の調子に整えられていくみたいだった。
20 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:09:58.52 ID:hoMUvMIQo
「時間を過ぎたら止めてくれて構わないって、いつも言ってるのに」
自分のちょうど真正面、鏡の両側に設置された小型のスピーカーから、さっきまでと同じ曲がまた最初から流れている。
もう既に何百回と聴き込んでしまったそれは、世間にはまだ公表されていない、私だけの唄だ。
独り言のつもりで呟いた言葉は、しかしそんな音符たちの隙間を難なく掻い潜って、プロデューサーさんのもとまで届いたようだった。
彼は小さく肩を竦めるようにして笑う。
「勿体ないだろ。せっかくあさひのダンスが観られるのに、それをわざわざ止めるなんて」
「そんなの、毎週観てるじゃないっすか」
「つまり、それだけ観ていても全く飽きないってことだ」
「半年も?」
「もちろん。俺はあさひのプロデューサーであると同時に、ファンでもあるからな」
「ものは言いようっすね」
21 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:10:36.90 ID:hoMUvMIQo
靴底が擦れるたびに、キュッ、とスタッカートの効いた音が鳴る。
その音はここ以外だと、たとえば学校の体育館くらいでしか聞くことのできない、かなり珍しい類のものだけれど、私はこの摩擦音が身体に染み込んでいく感覚をそれなりに気に入っていた。
ステップを一つ刻むたび、その音一つ分だけの質量が自分から欠け落ちるような、窓明かりに染まったこの部屋と同じ色に近づけるような、そんな気がするから。
「時間、大丈夫なんすか?」
いち、に、さん、と足元が刻むスタッカートを頭の中で数えながら言った。
「大丈夫だ。いつも通り、一二時半まで借りてある」
「いつも通りに大丈夫じゃないっすね」
鏡の前、いつもの立ち位置から扉脇に設置されたミキサーの前まではちょうど一五歩分。
どうだっていいことだけれど、こうして何度も数えるうちに覚えてしまった。
ミキサーを操作して、スピーカーの音量をゼロにする。
それから繋いでいた音楽プレイヤーを取り外し、ジャージの右ポケットに滑り込ませた。
最後に後ろを振り返って、部屋全体をぐるりと見渡してみる。
窓際、ベンチの上、鏡の前。
大丈夫。忘れものなんかは特になさそうだ。
22 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:11:24.76 ID:hoMUvMIQo
私が確認を終えるのとほとんど同時に、ギィ、とやけに年季の入ったような唸り声が後方から、静まりかえった部屋の中央へ転がっていく。
その音を合図に私は無人のレッスンルームに背を向けて、それからプロデューサーさんの後を追いかけた。
空調の電源はすでに彼が切ってくれていた。
夏の陽気に照らされた廊下を進みながら、ずっと気になってたんすけど、と私は言う。
「あの扉、見た目は真新しそうなのに、妙に軋んだ音がするのは何なんすかね?」
「油が切れてるんじゃないのか」
「油?」
「潤滑油だよ。ほら、自転車とかのチェーンとかに差すだろ」
「あれって扉にも使うんすか」
「いや、知らない。でも、使うんじゃないかな。どっちも金属だし、多分同じようなものだろう」
「なるほど。言われてみれば、たしかにそうっすね」
話題の扉と全く同じ造りのそれらを横目に、私たちは道なりに歩いていく。
左手の壁を切り取った窓の先には、何階か建ての建物に忙しなく行き交う車の影、それから正午の空が映されている。
雲は遠く向こうのほうに薄らと見えるだけで、笑顔でいることを強制するみたいに、清々しいまでの快晴だった。
23 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:12:28.26 ID:hoMUvMIQo
他愛もない会話を交わしているうちに、いつの間にか扉の列はふっと途切れ、幅の広い折り返し階段に行き当たる。
このフロアは四階で、かつ最上階でもあった。
私は特に気にしていないけれど、一方のプロデューサーさんはここを通るたびに、エレベーターがあればいいのにな、と口癖のように言う。
たしかにあれば便利だろうとは思うけれど、あってもどうせ使わないだろうなとも思う。
エレベーターでの移動は、そのための待ち時間をどうにも勿体なく感じてしまう。
少なくとも私には向いていない。
階段を二階まで下りると、三階や四階とは少し違った場所に出る。
その空間に強いて名前をつけるのなら休憩室とでもいうのだろうか、そんな風のだだっ広いスペースが二階には設けられている。
そして、ここを少し進んだ先には個室のシャワールームがあった。
プロデューサーさんとはここで一旦お別れだ。
「一〇分くらいで戻るっす」
「ああ、待ってる」
私は軽く手を振って、閑散としたラウンジの中を案内板の示すほうへと向かう。
シャワーを浴びながら、そういえば、とふと考えた。こうして私を待っている間の彼は、いったい何をしているのだろう?
大したものは何も見えない窓の外をぼうっと眺めているか、案外、設置されたテレビが映すバラエティ番組を観ているのかもしれない。
あるいは、彼は飲み物を持っていなかったから、自販機まで買いに行っていてもおかしくはない。
あとは、煙草とか。まあ、プロデューサーさんは煙草なんて吸っていなさそうだけれど。
そうやってあれやこれやと頭を悩ませた後で、結局何よりもしっくりときた想像は、休憩室にもかかわらず生真面目に手帳を捲っているスーツ姿で、もし本当にそうだったなら面白いなと小さく笑った。
24 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:13:14.87 ID:hoMUvMIQo
午後にも車での移動が控えていたけれど、私たちは一旦事務所へ戻ることにした。
事務所に着いたのは午後一時頃。といっても、特別な準備が必要というわけではなかった。
私のしたことといえば今後の予定には不要な荷物を、主には先ほどまで使用していたレッスンウェアの類を事務所に移動させて、それから帰りにコンビニで買ってきたおにぎりを二つほど口へ運んだくらいだ。
プロデューサーさんはその間、はづきさんと何やら話をしていたようだけれど、そこにどのようなやり取りがあったのかは私の知るところじゃない。
25 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:13:52.39 ID:hoMUvMIQo
「傘は?」
事務所を出る直前、扉の前で彼はそう言った。
私はわざとらしく首を傾げてみせる。
「傘? 何に使うんすか、そんなの」
「傘の用途なんておおよそ一つしかないだろう」
彼の言葉を聞き流しながら、一時間ほど前に焼き付けたばかりの空の青さを思い起こす。
群青色のペンキで一面を塗装された天井みたいな、それでいてどこまでも突き抜けたような、そんな空。
脳裏で再現されていく情景に、馴染みの傘を一つ放り込んでみた。
だけど、それはやっぱり景色にうまく馴染めなくて、不機嫌そうな表情でぽつりと宙に浮いている。
26 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:14:29.26 ID:hoMUvMIQo
「雨が降るって言いたいんすか」
「それ以外にいったいどんな可能性があるんだ」
「外、あんなにも晴れてたのに」
「でも、降るらしいぞ」
天気予報を信じるならな、とプロデューサーさんは下駄箱横の傘立てから黒色の傘を一つ抜き取りながら言った。
曰く、提示された降水確率は四割ほどらしい。
絶対というわけでもないけれど、だからといって平然と無視できるほどの値でもない。微妙なところだった。
「傘なんて持って来てないっすよ」
「だろうと思った」
彼は傘立てを指さしながら言う。
「事務所のやつ、使うか? ビニール傘だけど」
私は少しだけ考えて、しかし首を振る。
そのまま歩を進めて、それから靴を履いた。
「いや、いいっす。なんだか馬鹿らしいっすから」
「あさひらしい」
プロデューサーさんはため息交じりにそう呟いて、それっきりだった。
27 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:15:08.21 ID:hoMUvMIQo
押し開けられた扉の内側を、やはり彼の背中を追うようにしてくぐる。
直前、素直に傘を持って出かけたほうがいいだろうかと一瞬だけ考え直して、しかし結局、私は何も持たずに事務所を後にした。
仄暗い階段を駆け足で下って、いまは駐車場に停められているだろう車がやってくるのをしばらく待つ。
ふと空を見上げる。
黒の平行線の上に小鳥の影、背景はわずかに日の傾いた空。
なるほどたしかに、一時間前の空模様に比べると灰色の切れ端が幾分か目立つように思える。
だけど、それだけだ。
これから雨が降るなんて、やっぱり信じられない。傘は要らない。
28 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:15:45.70 ID:hoMUvMIQo
そうして空を眺めながら、雲は案外すごい速さで動いているのだという事実に思いを馳せ始めた頃、見慣れた藍色のセダンが事務所前に到着した。
歩道と車道の間には一〇センチ程度の段差がある。
こうして助手席の扉を開くたびに、もしかしてぶつかったりしないかなあ、と不安に思うけれど、いまのところは掠ったことさえ一度もない。
きっと扉のほうがもう何センチか高いのだろう。
だけど、そう分かってはいても気になってしまうのだから、こればっかりはどうしようもない。
身体を屈めながら車内に潜りこむ。芳香剤の薄いバニラの香りが仄かに漂っていた。
「オッケー?」
運転席のプロデューサーさんが言う。
「オッケーっす」
私はシートベルトを締めながら答えた。
直後、窓の外側が緩やかに流れ始める。
身体は勝手にシートへ沈んでいく。大型の乗物が動き始める瞬間のこの感覚が、私は割と好きだったりする。
慣性力、という名前だったっけ、たしか。一年生のときに授業でやったはずだ。
物理は一応得意科目のつもりだけれど、現象そのものの名称にはあまり興味がない。
ためしにプロデューサーさんに尋ねてみたら、慣性力で合ってるよ、との答えが返ってきた。
29 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:16:16.98 ID:hoMUvMIQo
四車線の道を、車は真っ直ぐに南下していく。
そのまま二〇分ほど下道を走り続け、それから高速道路へと乗り込んだ。
一般道の風景も高速道路の風景も、昼間のうちは同じくらいにありきたりで、要するに退屈だった。
通行料金を告げる無機質な音声が止んで、私は言った。
「この道は何て名前なんすか?」
私の記憶が正しければ、ここを通るのは初めてのことじゃない。
それほど多くもないけれど、仕事の関係で何度か使ったことがあるように思う。
でも、私はこの道路の名称を知らなかった。
彼は一瞬だけこちらを見て、だけど、すぐに視線を前方に戻した。
30 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:16:45.37 ID:hoMUvMIQo
「東名高速道路。東京と名古屋を繋いでるから、その頭文字をとって東名」
トウメイ、と私は何とか反復してみる。
トウメイ、東名、トウメイ。
「いい響きっすね」
「俺もそう思うよ。頭文字を取っただけにしては、上手くまとまってる」
私とプロデューサーさんとでは、きっと話が噛み合っていなかっただろうと思う。
少なくとも私は、彼の言ったような理由でその名前をいいと思ったわけじゃない。
それでも、私は頷いた。
だって私たちは立っている場所が違うだけで、だけど同じ結果を共有することが出来ていて、だからその程度の差異をわざわざ気にする必要なんてどこにもない。
それで、と私は続ける。
「茅ヶ崎、っすよね。目的地は」
31 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:17:24.99 ID:hoMUvMIQo
「ああ。それは事前に説明した通りだ」
「わたし、それまで知らなかったんすよ。プロデューサーの出身がどこなのか」
「あれ、そうだったのか。てっきり知ってるものだと」
「神奈川だったんすね。その茅ヶ崎って町はどんなところなんすか?」
「特徴らしい特徴といえば、太平洋に面していることくらいかな。サザンビーチって名前の海水浴場が有名だ」
「海っすか」
夕焼けに照らされた砂浜の上で佇むスーツ姿を想像してみた。
だけど、それが面白いくらいに似合わなくて、思わず声を上げて笑ってしまう。
「なんだよ」
怪訝そうな声が運転席から聞こえる。
私は一度深く息を吸って、呼吸を整えた。
「プロデューサーにはまったく似合わないなと思って」
「失礼だろ」
「失礼っすけど、いやあ、あはは」
32 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:17:52.62 ID:hoMUvMIQo
想像上の場面を色々と切り替えてみる。
照り付ける太陽と青空の下。あるいは真夜中、下弦の月を反射する水面。
それから、しとしとと降り続く雨を呑み込む広大な黒。
だけど、いずれにしたって、その姿はまるで不自然な合成写真みたく風景に浮いていた。
海ではしゃいでいる様も、海を遠く眺めて黄昏る様も、同じくらいに似合わない。
笑いながら、私は言う。
「わたし、プロデューサーの私服姿がどんななのか知らないし、だから候補が見慣れたスーツ姿しかなくて、そのせいで面白おかしい感じになってるような気がするっす」
「なるほど。間違いなくそれだな」
彼は納得したように頷いた。
「今度、写真見せてやろうか? 何枚かあるぞ」
「えっ、何でそんなの持ってるんすか」
「勘違いするな。はづきさんとか社長とか、社員のみんなで飲みに行った時に撮った写真だ」
「びっくりしたっす」
私はわざとらしく安堵の息を吐いて、それから続ける。
33 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:18:25.47 ID:hoMUvMIQo
「プロデューサーって、お酒飲む人だったんすね」
「意外か?」
「意外といえば意外っすね。そんなイメージがあまりないっていうか」
「その感覚は正しいよ。大学にいた頃は、たしかに飲み会なんかは敬遠してた」
「それにまあ、普通に持ってるって言われてもあんまり違和感ないっすけど」
「何を?」
「写真を」
「どういう意味だよ、そりゃ」
「いやあ、別に。大人の事情ってやつがあるのかなあ、と思って」
「からかうなって」
言いながら、彼は浅いため息を零した。
こんな冗談を言いあえる今が嬉しかったのか、それとも悲しかったのか、分からないけれど、分からないままで私はまた笑った。
今度は彼もいっしょに笑ってくれた。
34 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:19:17.96 ID:hoMUvMIQo
高速道路でしか見かけないような警告色の看板が、前方からフロントガラスの上部へと消えていく。
白色の文字で何やら書かれていたが、それ以上のことは何も分からなかった。まあ、私がそれを読む必要はあまりない。
差し当って重要な情報であるところの目的地までの概算距離は、備え付けられたカーナビの左下あたりに表示されている。
曰く、ちょうどこの辺りが折り返し地点のようで、目的地まではあと二〇キロメートルちょっと、事務所を出発した時点での半分ほどだ。
ここまでに三〇分が経過したかどうかというくらいだから、車を使えば事務所からは一時間程度で来られるという計算になる。
思いのほか遠くないらしい。
看板の消えた空をぼんやりと眺める。
街路灯さえ設けられていない一本道は、どこまでも自由に、ありのままの空を映し出す。
だから、目を逸らせない。
「雲、本当に出てきたっすね」
35 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:20:07.58 ID:hoMUvMIQo
「だから言ったろ」
プロデューサーさんは呆れた様子で、視線をわずかに上へ動かす。
「この様子じゃ、向こうに着いた頃には降り出すんじゃないかなあ」
私も同じことを考えていた。
まるでいまにも溶け落ちてしまいそうな色の空だ。
「おあつらえ向きっすね。笑えるくらいに」
投げやりに放った私の言葉に彼は、何が、と言った。
鈍色の雲を追いながら、私は続ける。
「こういう日には雨が降るって、それはもうお約束じゃないっすか」
そう、お約束だ。
影に青空、傘に曇天。生は純白、死は漆黒。出会いが朝なら、別れは夜。夢が夜明けなら、思い出は雨模様。
心象風景、因果の逆転、舞台装置、お約束。
36 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:21:29.59 ID:hoMUvMIQo
今日の午後から雨が降り始めるという天気予報は、そう考えてみるとなんだか妙に説得力があるように思えた。
たとえばそれこそ神様のような誰かがいて、いたとして、その誰かが書いた台本の上ですべて決まっていたのでは、という気さえする。
今日の天気も、私たちの行動も。傘も、死も、別れも、思い出も。
私は彼のほうをみた。
彼はわずかに首を傾けながら、薄く笑った。
「嫌だなあ、そんなお約束。今日くらい晴れてくれてもよかったのに」
全くだと思った。だけど、私は言う。
「梅雨だから仕方ないっすよ。それに、わたしは運命的なものを感じるっす」
「運命? それはまたどうして」
「わたしの中で、プロデューサーといえば雨っすから」
私の言葉に、しかし彼は何も答えなかった。
その沈黙は肯定と否定のいずれでもないように思えて、だから私も同じように口を閉ざすしかなかった。
37 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:22:37.33 ID:hoMUvMIQo
前方から再び緑色の看板が流れてくる。
白色の文字で、茅ヶ崎、と書かれているのが見えた。
彼は多分、その看板自体は一瞥した程度だっただろうと思う。それでも車は分かれ道の右側へと正しく進む。
私はここから先の景色を知らないけれど、きっと彼にとっては通い慣れた道なのだろう。
そのまま大きく緩やかなカーブを経由して、私たちの進行方向はほとんど直角に南へ折れる。
合流地点を過ぎて一本道に戻るのを待ってから、私はもう一度口を開いた。
38 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:23:09.70 ID:hoMUvMIQo
「『何者かになりたいと思ったことってある?』」
運転席が小さく息を呑んだような気がした。
きっと私の勘違いだろうけれど、でも、たしかにそう感じられるような一瞬の隙があった。
プロデューサーさんは、やっぱり笑って応える。
「あったな、そんなことも」
「あったっすね、そんなことも」
中央を断続的に走る白線の左側を、私たちを閉じ込めた箱は真っ直ぐに進んでいく。
窓の外、高速道路の下には、平坦な地形の上を幅の広い河川が南北に流れている。
水流の勢いはさほど強くないようで、ぴたりと凪いだ水面はまるで鏡のように空の色を反射し、それは、だから酷く濁っているようにみえた。
次の言葉は、私よりも彼のほうが早かった。
39 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:23:38.69 ID:hoMUvMIQo
「あさひは、答えを見つけられたのか?」
「答えっすか。まあ、それなりには」
「そっか。そりゃよかった」
彼はどこか気の抜けた声でそう言った。
その物言いが、ともすれば話題を切り上げるためのもののようにも思えて、私は思わず尋ねかえす。
「訊かないんすか?」
「何を?」
「わたしの答えを」
「訊かないよ」
「どうして?」
「どうしてって、言わなきゃ分からないか?」
「そういうわけじゃないっすけど、でも、訊かないんだなあ、と思って」
「それはそうだろ」
「一応、わたしは話してもいいと思ってるんすけど」
「だとしても、俺は二人目でいい」
「なるほど。らしいっすね」
40 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:24:13.83 ID:hoMUvMIQo
最後に零したその言葉が、どうやら合図だったらしい。
次の瞬間、ぽつり、とフロントガラスの真ん中あたりに砂粒みたいな水滴が一つ分だけ落ちてきた。
それが二つ、三つと続いて、数秒足らずのうちに視界は無数の雨粒で覆われる。
光の屈折のせいか、仄かに白い輝きをまとった水玉模様はまるで真冬の星空みたいだった。
見慣れたワイパーが水色の跡を綺麗に拭い去る。
すると、その先端に押し溜められた水分が、湾曲した表面上を風に煽られて斜め下に引っ掻いていく。
そうして伸びた透明な直線が一つ、二つ、三つと、流れ星みたいに次々と灰色の星空を横切っていった。
雨だ。
41 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:24:42.54 ID:hoMUvMIQo
「懐かしいなあ」
ほとんど無意識のうちに、私は呟いていた。
「雨の音がするんすよ。去年のあの日から、ずっと。こんな風に、何かを叩きつけるような――傘を叩きつけるような、雨の音がいつまでも止まなくて」
瞼の奥、真っ暗闇の向こう側に、いつかの光景がフラッシュバックする。
何もない、雲さえない、空っぽの、なのに大雨を降らせる、どこまでも黒く透明な空。
それに、水色の傘も。
42 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:25:10.61 ID:hoMUvMIQo
「いつ止むんだろうな、この雨」
私たちのやりとりを真っ白に上書きしていくように、無数の雨粒たちが一斉に車体を鳴らしている。
私は徐に目を見開いた。
「もしかしたらずっとこのままかもしれないっすね」
そう笑いかけた私に、彼は呆れたようなため息を一つ吐いた。
「それは嫌だな」
「どうしてっすか?」
「誰だって、雨は止んでくれたほうが嬉しいだろ」
乾いた色をした声だった。
誰だって、という前置きにプロデューサーさんの語気が偏っていることに、私は気がついていた。
あるいは、語気だけじゃないのかもしれない。
どれほど複雑な言葉でも決して言い表せないような、だからこそ単純な言葉に任せるしかないようなどうしようもない想いが、その一言にはきっとこめられていた。
だけど。
43 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:25:42.56 ID:hoMUvMIQo
「まあ、そうっすね」
だから、私はそれに気づかないふりをして適当に相槌を打った。
欠伸をする真似をして、音が鳴りそうなくらい深く座り込み目を閉じる。わざとらしいくらいが丁度いい。
「着いたら起こすよ」
プロデューサーさんがそう言った。
私は、寝るつもりはないっすよ、と声には出さずに頭の中でだけ返事をする。
だけど、穏やかに騒ぎ立てる雨音に耳を傾けているうちに、どうやら私の意識は水中へ溶けてしまっていたらしい。
その後のことは、何も覚えていない。
44 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:26:28.50 ID:hoMUvMIQo
*
プロデューサーさん、何やってるんすか?
これ? 次の仕事に向けて企画書を書いているんだ。
キカクショ、っすか! 強そうっすね!
強そうかな。
強そうっていうか、なんかこう、全体的にトゲトゲしてる感じがないっすか?
なるほど。それは語感の問題だね。――あさひはブーバキキ効果って知ってる?
ブー、キ……? 何すか、それ。
たとえば、漫画で使われる尖ったフキダシがあるじゃない。あれと、あの棘をぐにゃぐにゃの曲線に書き換えたもの、二つの図形を左右に並べるんだ。
ふむふむ。それで?
45 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:27:08.15 ID:hoMUvMIQo
被験者にこう尋ねる。――片方はブーバ、もう片方はキキという名前です。貴方はどちらがブーバでどちらがキキだと思いますか? ってね。あさひはどう思う?
トゲトゲとぐにゃぐにゃっすよね。うーん。それならトゲトゲのほうがキキっぽくないっすか? 理由は、うまく説明できないっすけど。
そうだね。実際、むかしの心理学者が実験してみたところ、あさひと同じように答えた人が全体のほとんどを占めたらしい。
へえー! 面白いっすね!
言語音と視覚情報とに強い相関があることを示した心理実験、それがブーバキキ効果。企画書がトゲトゲして聞こえるというあさひの主張は、まさしくブーバキキ効果そのものだよね。
なるほど……。いつも思うっすけど、プロデューサーさんって本当に色んなことを知ってるっすよね。経験の差を感じるっす。
大袈裟だな。それに、これでも大学では心理学専攻だったからね。これは話したことがあったっけ?
冬優子ちゃんたちのプロデューサーさんから聞いたことあるっすよ。同じ研究室だったって。
そうか。そういえば、あさひは彼とも随分仲がいいらしいね。そう、彼は大学時代からの後輩だ。
まあ、それはそれとして、なんすけど。
それはそれとして?
何のキカクショを書いてるんすか?
46 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:27:53.30 ID:hoMUvMIQo
ああ、訊かれるだろうなとは思っていたけれど、残念ながらいまは教えられない。
えー! なんでっすか!
まだ正式には決まっていないからね。これはあくまで案の段階なんだ。もしかしたら没になるかもしれないし、なのに憶測の噂だけが飛び交っても困るでしょう。
誰にも言わないっすから!
駄目なものは駄目。
えー。プロデューサーさんの意地悪。
このまま順調に進めば二週間ほどで告知できるはずだから、それまでの辛抱だよ。
仕方がないっすね……。それじゃあ、待つことにするっす。
うん、いい子だ。あさひはなんだかんだ手がかからなくていいな。
そうっすかね? ――あっ、そういえばわたし、プロデューサーさんに訊きたいことがあってここに来たんす。いまのいままで忘れてたっすけど。
どうしたの?
プロデューサーさん、今日のレッスンは観に来てくれるっすか?
ああ、その話か。どうしよう、スケジュール的にはどちらでもいいけれど。
それなら来てほしいっす! わたし、プロデューサーさんがいてくれたほうが調子いいみたいなんで!
そっか。じゃあ一緒に行こうかな。準備して待ってて。
やった! ありがとっす、プロデューサーさん!
47 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:28:25.55 ID:hoMUvMIQo
*
私が目を覚ましたとき、車のエンジン音は完全に止んでいて、雨粒の跳ねる音だけが相も変わらずに空気を劈いていた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしいことを認識すると同時に、窓の外に目を向ける。
もしかしたらもう目的地に着いてしまったのかと思ったけれど、しかしどうやらそうではないらしい。
見た感じ、ここはホームセンターかどこかの駐車場だ。
48 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:28:52.67 ID:hoMUvMIQo
「おはよう」
すぐ隣からプロデューサーさんの声がした。私は目を擦りながら応える。
「おはようっす。どこっすか、ここ」
「見ての通り、ホームセンターだ」
「なにか用事でもあったんすか?」
思うように思考がはたらかず、まるで上の空みたいな声しか出てこない。
ついさっきまで眠っていたはずなのに、気を抜けば欠伸が出そうになる。
寝起きはいつもこうだ。なんだか全身の神経がうまく繋がっていないような、そんな感覚。
ホームセンターに来る理由なんてあっただろうか?
49 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:29:49.56 ID:hoMUvMIQo
運転席に腰かけたプロデューサーさんはなにやら携帯端末を操作していた。
指先は忙しなく液晶を叩いている。
はづきさん辺りに連絡を回しているのかもしれない。
「花だよ」
とプロデューサーさんが言った。
水溜まりに落ちる小雨みたいに、小さく潜んだ声だった。
ほら、と彼が後部座席を指す。
つられて振り返ると、大きめのレジ袋で包まれたそれが二人掛けのチェアの上にポツンと置かれていた。
50 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:30:16.32 ID:hoMUvMIQo
「なるほど」
私は頷いた。それはどちらかといえば感嘆に近かった。
彼の答えは、あまりにもっともすぎるものだった。
たしかに、今日という一日に花は不可欠なのかもしれなかった。
いや、きっとそうなのだろう、多分。
個人的な感覚からすれば、それはさして重要な要素ではないように思えてしまうけれど、一般的にはそうでないことくらい流石の私でも知っている。
思い至らなかった。
といっても、もしかすると彼も私と同じような考えなのかもしれなかった。
ホームセンターで手に入るものなんてたかが知れているだろうし、ここで最後の準備を整えたというのなら、それはつまりそういうことなのだろう。
51 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:30:44.29 ID:hoMUvMIQo
「らしくないよな。花なんて」
彼がいつも通りの様子で笑う。
その言葉の意味が私にはうまく掴めなくて、だから私は何も答えずに黙っていた。
私の沈黙を彼は返事と受け取ったようで、そのまま続ける。
「あさひだって知ってるだろ。こういう形式的なことをすごく嫌うんだよ、あの人。意味がないって言って」
「そうっすね。私も同じような考えだから、よく覚えてるっす」
「だからいつも迷うんだけど、でも結局、毎回買っていくんだ」
「その場所にホームセンターを選んでいるのは、つまりそういうことなんすよね」
「うん。言い訳だよ」
「あはは、たしかに。それならまだ許してくれそうっすよね」
その光景は、面白いくらい容易に想像できた。
プロデューサーはその内側に様々な基準線を幾つも引いていたようだけれど、それでも他人の好意を無碍にするような人では決してなかった。
こんなの要らないのに、なんて口を尖らせながらも受け取ってくれる。
誰よりも素直なくせに、素直じゃない。
そういう人だ。
52 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:31:40.09 ID:hoMUvMIQo
両腕に残った痺れを振り払うように、自分の頬をぺちと叩く。
話しているうちに目が冴えてきた。
できれば一度思いきり身体を伸ばしたかったけれど、狭い助手席の上じゃどうしようもない。
アスファルトを黒く染める雨脚は、しかし降り始めた頃に比べると随分弱まったようにみえる。
それにしたって、わざわざ濡れてまで目的を果たしたいとも思わない。
視界の端で、プロデューサーさんが端末をスーツに仕舞うのがみえた。
「もういいんすか?」
「ああ。終わった」
53 :
◆J2O9OeW68.
[sage saga]:2020/01/04(土) 20:32:08.52 ID:hoMUvMIQo
ハンドル脇に差し込まれていた鍵を、彼の右手がぐいと回す。
すると、いったいどういう構造になっているのだろう、まるで息を吹き返したように唸り声をあげたエンジンの振動が、車体を大きく揺らし始めた。
車体が身体、エンジンが心臓。だったらこの揺れは鼓動そのものだ。
ならば、タンクいっぱいに溜められたガソリンは血液、いや、燃やして走るのだから酸素のほうがイメージは近いのかもしれない。
この場合、そもそもの起動に使った鍵はいったい何に置き換えることができるだろう?
絶え間なく続く心拍を自由自在に扱う機能なんて、私たち人間には備わっていない。
止まってしまったときが最初で最後だ。
「じゃ、出すぞ」
プロデューサーさんが言った。
私は考えるのを一旦やめて、シートベルトがついたままになっていることを確認する。
それから彼にも見えるよう首を振った。
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