高山紗代子「敗者復活のうた」

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9 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:07:04.02 ID:ck9R+qDf0
紗代子「イタズラ電話……かな? なんかやだな、次かかってきたら着信拒否にしよう」

 そう言っている間に、またスマホが鳴る。
 ため息をついて着信拒否をしようとした紗代子だったが、ディスプレイを見てハッとする。
 かけてきたのは先ほど2回の番号ではなく、昨日のオーディション前に登録したばかりの765プロの代表番号だった。
 ドクンと心臓が鳴る。
 もしかして……

音無小鳥「もしもし? 私、765プロの音無と申しますが、高山紗代子さんでいらっしゃいますでしょうか?」

紗代子「は、はい! 私です、高山紗代子です!!」

小鳥「昨日は、弊社の新人アイドル候補生オーディションにご参加いただき、ありがとうございました」

紗代子「い、いえ」
10 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:07:54.42 ID:ck9R+qDf0
小鳥「それでですね、そのオーディション結果につきまして、昨日は多忙にて立ち会えなかった弊社のプロデューサーの1人が録画していたオーディションを見て、高山紗代子さんのことを『逸材かも知れない』と、こう申しておりまして」

紗代子「本当ですか!?」

小鳥「先ほどもその件につきまして直接、高山紗代子さんのケータイ……スマホにかけてみたそうなんですが、あいにくプロデューサーの出先の電波状態が悪いみたいで繋がるけれど会話ができないと連絡がありまして」

紗代子「あ、さっきの着信はそうだったんですね。私、イタズラ電話かなにかかと思ってしまって」

小鳥「ご心配をおかけして申し訳ありません。それでそのプロデューサーが申すには、オーディション結果を覆す格好になるが、自分の責任で高山紗代子さんを候補生の1人に加えたいとのことなんですよ」

紗代子「本当に……本当ですか? ありがとうございます!」
11 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:10:53.78 ID:ck9R+qDf0
小鳥「高山紗代子さんにご異存がなければ、本日にでも……もちろん学校が終わった後に昨日の会場、765プロ劇場においでいただけませんでしょうか?」

紗代子「もちろんです! あの……ありがとうございます!! 本当にありがとうございます!!!」

小鳥「いいえ。こちらこそ、色々とご心配をおかけいたしました。では、765プロ劇場にて高山紗代子さんをお待ちしております」

 道ばたで、何度も何度も紗代子は頭を下げた。
 通話を終えて目に入ったのは、いつもと同じ見慣れた風景であるはずの通学路が、まるで金色のように、そして極彩色のように輝いた景色だった。
 終わったと思っていた。
 諦める努力を始めなくちゃ。
 そう思っていた心に、一筋の光が降ってきた。
 昨日まで、いや先ほどまでの惨めな気持ちから一転、紗代子は生き返った気がしていた。
 輝く景色の中を、紗代子は学校に向かって走り出した。
12 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:11:30.65 ID:ck9R+qDf0

小鳥「三者間通話で聞いてましたよね? これで良かったんですか?」

「……」

小鳥「プロデューサーさん? もう、私にまで……え?」

 気がつくと、小鳥のデスクのパソコンに通知サインが出ている。
 通知を開くと、メッセージが入っていた。

『いいです。ありがとうございます』

小鳥「通話は繋がってるんですから、わざわざメッセージで送らなくても……あ、プロデューサーさん?」

 ツーツーツー。

小鳥「プロデューサーさん……」

 小鳥はため息をついた。
13 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:12:08.36 ID:ck9R+qDf0
 その日の授業は、まったく頭に入ってこなかった。
 生来まじめな紗代子としては、それが良くないことだとはわかってはいたが、それでもアイドル候補生になれたことに浮かれている自分を責めることはできなかった。
 幼少の頃からの夢。そして約束。
 それが現実になる道が、最後の望みも断たれて途絶えたはずの道が、繋がったのだ。
 学校が終わると紗代子は、夕日に染まる駅へと走っり、そのままの勢いで765プロへと急いだ。

瑞希「なんと……驚きました。高山さんではありませんか」

紗代子「あ、瑞希ちゃん。こんにちは」

瑞希「どうされたのですか……いえ、昨日は失礼しました」

紗代子「え?」
14 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:13:30.99 ID:ck9R+qDf0
瑞希「挨拶もせずに、帰ってしまいました……いえ、しようとは思ったのですが、高山さんがひどく落ち込んでおられたので……私はてっきり高山さんはオーディションに落ちたのだと思って声をかけられなかったのです……早とちりだぞ瑞希」

紗代子「ううん。気にしないで。それに私、瑞希ちゃんの言う通り昨日は落選だったんだ」

瑞希「はて。昨日は……ということは、今日は違うということですか?」

紗代子「うん! それがね、びっくりなんだけど今朝電話がかかってきて、プロデューサーの1人の眼鏡にかなって候補生になれる、って」

瑞希「そうだったのですか。おめでとうございます。私も……高山さんが一緒で嬉しいです」

紗代子「私も。これからも一緒に、がんばろうね」
15 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:14:10.75 ID:ck9R+qDf0
青羽美咲「はい。みなさん、こんにちは。本日みなさまに今後のことをご説明させていただく青羽美咲と申します。よろしくお願いいたします」

 その場にいた複数名の娘たち……おそらくは紗代子と同じアイドル候補生であろう全員が挨拶を返す。

美咲「まずは、当事務所の事と契約等に関することなどの資料をお渡しします。呼ばれた方は、取りに来てくださいね。それでは、篠宮可憐さん……豊川風花さん……真壁瑞希さん……」

 読み上げられていく名前。が、青羽と名乗った事務員さんが全員分の資料を配り終えても、紗代子の名前は呼ばれない。

紗代子「あの……私、まだ呼ばれていませんけど」

美咲「え? あれ? ええと失礼ですが、お名前は……」

紗代子「高山紗代子です。あの、昨日はオーディション落選だったんですけど、今朝……その……」

 急に不安に駆られる紗代子。
 もしかしてあれは、イタズラの類だったのかな?
 でもちゃんと、765プロからの電話だったし……
16 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:14:39.98 ID:ck9R+qDf0
美咲「高山……紗代子さん?」

高木社長「失礼するよ」

 そう言って、全身真っ黒な男性が入ってくる。

美咲「あ、どうしてこちらへ?」

高木社長「うむ。完成した劇場を見ておきたかったのと、大事な用件もあってね。ええと、もしかしてその娘が……」

美咲「あ、それがその、こちらの方が……」

高木社長「いや、私が来た理由というのがまさにそれでね。君が、高山紗代子君だね?」

紗代子「あ、はい、えっと、あの、ありがとうございます!」

高木社長「え?」

紗代子「私を見込んでくださったそうで。一旦はもうダメかと思ったんですが、プロデューサーのお陰で夢が繋がりました。私、なんてお礼を言えばいいのか……」

高木社長「ああ。違う違う」

紗代子「え?」
17 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:15:30.40 ID:ck9R+qDf0
高木社長「私じゃないんだよ。君を合格にしたのは」

紗代子「あ、そ、そうなんですか?」

美咲「こちらは当765プロの社長、高木順二朗さんです」

紗代子「ええっ!? す、すみませんでした!!」

 紗代子が頭を下げると同時に、候補生達は全員立ち上がる。

高木社長「いやいや、みんなそう固くならなくていいからね。そうか、君が高山紗代子君か。いや、我が765プロの優秀なプロデューサーの1人が、映像の君を見て『この娘だ!』っていうものでね」

紗代子「あの、それでそのプロデューサーは……?」

高木社長「えーと……うむ、彼は多忙な人間でね。なかなかここには来られなかったりするんだ」

紗代子「そう……なんですか」

18 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:16:15.01 ID:ck9R+qDf0
高木社長「だから、とりあえずレッスンなどは他の娘と一緒にやってもらう。そして随時、君には彼から連絡があるはずだ」

紗代子「わかりました。私、がんばります」

高木社長「ああ」

紗代子「私を見つけて……認めてくださったプロデューサーの為にも、がんばります!」

高木社長「……私から彼に、君がそう言っていたと伝えよう」

美咲「じゃあ社長さん、彼女も間違いなく合格者だったんですね。ごめんなさい。資料は後からまたお渡しいたします」

紗代子「いいえ。もとはといえば私が昨日きちんと合格していれば良かったんですから。そして、これからよろしくお願いします!」

美咲「はい。では説明を続けますね。まずは劇場を案内いたします」

高木社長「ではみんな、今後ともよろしく頼むよ。全員アイドルとしての高み、トップアイドルを目指してくれたまえ」

 765プロの新人アイドル候補生たちは頷くと、美咲に連れられてその場を去っていく。
 それを見届けてから、高木社長はポツリと呟いた。

高木社長「確かに、全然違うタイプの娘みたいだね……」
19 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:17:02.86 ID:ck9R+qDf0

紗代子「ふうー……劇場、すごい設備だったなあ。私もいずれ、あのステージに立つのかな……あ、ううん! 立つんだ。そのためにがんばらなきゃ」
 
 わずか1日、昨日と今日で目指す目標が全然違う。
 昨日の自分は、夢との決別を悩んでいた。
 それがとうだろう。今日の自分は、夢への歩み方を考えている。

紗代子「これも全部、プロデューサーのお陰だ。今日……会えなかったけど、どんな人なんだろう」

 その時、スマホから着信音が流れた。
 発信先は、今朝と同じ765プロからだ。

紗代子「はい。高山です」

小鳥「こんばんわ。今朝はどうもお世話になりました、音無です」

紗代子「こちらこそありがとうございました。今もまだ、少し信じられない気持ちです。私が、765プロの練習生になれるなんて」
20 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:19:36.70 ID:ck9R+qDf0
小鳥「全部紗代子ちゃんの才能……あ、ごめんなさい、馴れ馴れしく呼んじゃって」

紗代子「あ、いいんですよ。765プロの人にそう呼んでもらえると、本当に自分もその一員になれたんだ、って思えますし」

小鳥「そう? じゃあ、これからも紗代子ちゃんって呼ばせてもらうわね。それで紗代子ちゃんの担当プロデューサーさんなんだけど」

紗代子「あ、はい」

小鳥「実は今ね、えっと……海外に行ってるのよ」

紗代子「そうなんですか? それで電波も繋がりにくかったんでしょうか」

小鳥「そ、そうかも知れないわね。だから今は紗代子ちゃんに会うことはできないんだけど、レッスンの様子は全て録画してプロデューサーさんに、ネット経由で送ることになってるの」

紗代子「え、それって毎日ですか?」

小鳥「そうよ。その上で指示とかを紗代子ちゃんに送りたいって言ってるんだけど……どうかしら?」
21 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:20:52.47 ID:ck9R+qDf0
紗代子「ええ、私はそれで構いませんけど、海外の仕事でお忙しいのに 私のレッスンまで目を通してもらってなんだか悪いですね」

小鳥「まあ……そこは気にしなくてもいいと思うわ」

紗代子「え?」

小鳥「あ、ああ、ええと、仕事なんですから。それがプロデューサーさんの」

紗代子「? ともかく、私は構いませんよ」

小鳥「それじゃあ紗代子ちゃんのメアドを教えてもらえるかしら」

紗代子「はい」

 口頭でメアドを小鳥に伝えると、すぐに確認のメールが届いた。

小鳥「うん、間違いないわね。じゃあプロデューサーさんにも、伝えておくから」

紗代子「よろしくお願いします! あ、それから……」
22 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:21:49.97 ID:ck9R+qDf0
小鳥「なにかしら?」

紗代子「ありがとうございます……って、伝えていただけますか」

小鳥「……それはプロデューサーさんからの連絡に、直接した方がいいと思うわ」

紗代子「あ、そうですね。わかりました」

小鳥「じゃあ、私はこれで」

紗代子「はい。ありがとうございました」

 通話を切ると、ものの十数秒でメールの着信がある。

紗代子「もしかしてプロデューサーかな? あ、やっぱり」
23 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:22:41.44 ID:ck9R+qDf0
 件名は『プロデューサーより』となっており、さっそく本文を開いてみる。

『これはビジネスだ』
 それが最初の一文だった。
『君は本来、合格者ではない』
 続く言葉も、厳しい内容が続き、思わず紗代子は身を固くする。
『あらゆる面で、君は基本的な基準を満たしてはいない。だが……』
 そこまで読んで、昨日の自分が帰ってくる。
 絶望の底で、全てが否定され、明日という夢を見る権利も無くした、そんな自分が本来の自分なのだ。そう、昨日と今日とで自分は何も変わっていない。昨日の絶望は、何も変わらず厳然として目の前にいる。
『君には将来性がある。少なくとも――私はそう感じた』
 そう、だからこそ自分は、この救いの手に感謝をしている。昨日の自分を、今日の自分にしないように。
『今後、レッスンに私が目を通し、都度都度指示を与える。こういうやり取り故に、細かな質問や疑問は一切受け付けない』
 紗代子は頷いた。もとよりそのつもりだ。
 自分を信じてくれたこの人を、自分も信じよう。そう思っていた。
『私の指示にさえ従えば、君もトップアイドルになれる。明日からのレッスン、がんばるように』
24 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:24:23.81 ID:ck9R+qDf0
 そうだ、明日からアイドルになる本当のレッスンが始まるんだった。
 まだ自分は、アイドルとして何者でもない。ただ、アイドルになる道が、見えただけだ。
 紗代子はメールに返信した。

『高山紗代子です。オーディションで私を見つけ、そして選んでくださったこと、本当にありがとうございます。私、一生懸命がんばります。どうかよろしくお願いいたします』

 それに対する返信はなかった。
 忙しい身なのだろう。紗代子はそう思っていた。
25 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:25:09.34 ID:ck9R+qDf0

瑞希「高山さんは……スポーツの経験は、あるのですか?」

紗代子「ううん。マネージャーはやってたんだけど、自分が身体を動かす何かをするのは初めてかな。瑞希ちゃんは?」

瑞希「はい……私は、バトントワリングをやってます」

紗代子「へえ。じゃあ身体を動かすのは得意なんだ」

瑞希「得意というほどではないですが……いささか、自信はあります。ですがやはり、アイドルのレッスンというのは、勝手が違うのではないかと」

紗代子「そうだね。あ、あの人がトレーナーさんかな?」

「はい全員、注目。これからレッスンを始めます。ほとんどの娘が初心者だと思うので、今日は基本のボイスレッスンと、ステップを中心にやっていきます」

 ボイスレッスンとダンスステップは、それぞれ1時間ほどで終了した。
26 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:25:58.17 ID:ck9R+qDf0
紗代子「瑞希ちゃん、やっぱりすごいね。ステップの足運び、とっても軽やかだったよ」

瑞希「ありがとうございます……ええと、その……高山さんも……」

紗代子「あ、いいのいいの。無理に褒めようとしてくれなくても。うん……わかってる。私、全然なにも出来てなかったよね」

瑞希「そんなことは……私は経験があっただけです。高山さんも、すぐにできるようになります」

紗代子「……うん」
27 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:26:33.81 ID:ck9R+qDf0
 初レッスンは、散々だった。声の出し方から注意を受けた。音程が不正確な上、声も出ていないと言われた。
 ダンスのステップも、足がもつれて転んでしまった。それも3回。
 最初から何もかもできるわけはないと思ってはいたが、こんなに何もできないのは自分でもショックだった。
 そして紗代子は、ちらりとカメラに目をやる。
 レッスンの間中、ずっと自分たちを撮っていたカメラだ。いや――

紗代子「幻滅されちゃったかな……」

 彼女だけはわかっていた。あのカメラは、忙しい彼女のプロデューサーの為の、そして紗代子を録る為のカメラだ。
 レッスンの様子は、海外にいるプロデューサーへ送られるはずだ。
 そしてそれはその通りなのだが、実は紗代子のプロデューサー以外にもこのカメラで撮ったレッスンの様子を見た者がいた。
28 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:31:25.19 ID:ck9R+qDf0

     『黒井社長は覗いていた』

29 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:34:26.93 ID:ck9R+qDf0
黒井社長「あの男……素材を見抜く目だけは確かだからな。その男が見いだした素材……興味はある。必要とあらば、わが961プロに引き抜きをしても……おかしいな」

 黒井社長は首を捻る。
 目の敵にしている765プロ。だがそれだけに無視も出来ない相手だ。当然に諜報活動を行い、その動勢に目を光らせている。
 その765プロの、気になる男が、誰も見向きもしなかった原石を逸材と認め、自らプロデュースに赴く。
 黒井社長にとっては、ビッグニュースだ。
 以来、その原石を彼は個人的に調査した。
 が、その調査結果に彼は眉をひそめる。

黒井社長「これか? これがあの男の認める逸材なのか?」

 隠し撮りされた写真は、確かに目鼻立ちの整った美人ではあるが、それほどの原石には思えなかった。
 アイドルを志望する娘にしては、平凡。それが黒井の持った紗代子に対する第一印象だった。
 しかしなにしろ、あの男の事だ。この自分にすら気づかない何かが、この娘にはあるのかも知れない。
 悔しいが、それだけの実績があの男にはあった。今もあの男が選んだ娘は、海外デビュー間近なのだ。
30 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:34:59.92 ID:ck9R+qDf0
 そして今日も、その海外へネット経由で送られるというレッスン風景のデータを途中でハッキングしようと彼は待ち構えていた。
 が、待てど暮らせどデータが765プロから海外に送信される気配はない。

黒井社長「? なぜだ? なぜデータ送信をしない……? 765プロの脆弱なプロテクトなぞ、容易に超えられるはず……」

 彼はは、試みにデータベースにアクセスしてみる。
 果たしてデータはそこにあった。送信された気配はない。が、データそのものはそこにある。

黒井社長「罠か? データ名は20190406レッスン……か。どれ」
31 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:35:45.78 ID:ck9R+qDf0
 データは簡単にハックでき、すぐさま展開をしてみる。
 そこには紗代子を中心……いや、むしろ紗代子のみ、レッスンの様子を撮ってあった。
 冒頭から最後まで、彼はそれを眺めた。
 続いてもう1度、彼は動画ファイルを再生する。
黒井社長「ノン……ノン! ノン!! ノン!!! なんだこれは、これのどこが逸材なのだ!?」
 広い社長室に大声が響く。いかに初めてのレッスンとはいえ、それはあまりにもお粗末に見えた。

黒井社長「わからない……何を考えておるのだ、あの青二才は……」
32 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:40:13.14 ID:ck9R+qDf0

紗代子「プロデューサー、今日のレッスンいつ見るのかな……」

 自室でペットのハリ子の世話をしながら、ぽつりと漏らす。
 忙しい身と聞いているので、もしかしたら数日……いや、週単位の時間が経過してから連絡があるかも知れない。
 そう思っていた彼女のスマホが鳴る。メールの着信だ。

紗代子「え? プロデューサーから……?」

 相変わらずタイトルは『プロデューサーより』となっている。
 開いてみると、画面に表示しきれないほどの長文が並ぶ。

紗代子「まずボイスレッスン……ええと、すごい。全部問題点とそれに対する指導が書いてある……」

『明日のレッスンまでは時間がないので、指摘した全てを修正することはできないと思う。しかし君には今現在これだけの問題点がある。その事はしっかりと把握し、私の指示した修正を行っていくように』
33 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:40:45.62 ID:ck9R+qDf0
 スマホが震えていた。いや、その持つ手が震える。
 昨日の自分は、今日と前の日の自分の違いに驚いていた。絶望からの希望。
 今日の自分は、また落胆をしていた。レッスンでの失態が、それ以上に自分の先行きに不安を感じさせていた。
 それが今、不安は霧散している。
 出来ないこと、失敗したことを、こうして指摘しどうすればいいかを、この人が教えてくれるんだ。言う通りにしていけば……いいんだ。
 どのオーディションに出ても見向きもされなかった自分に、ここまで真剣になってくる人がいたことに、彼女は感動すら覚えていた。

紗代子「プロデューサー。私、やります。期待に応えてみせます!」
34 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:41:37.53 ID:ck9R+qDf0

「あら……高山さん? 今日は音程がぶれないわね」

紗代子「本当ですか!? 上達……しているんですかね」

「そうね。昨日よりは、だいぶ良くなってるわ。じゃあCの音で……そう、音程を維持して……クレッシェンド……クレッシェンド……」

 ボイストレーニングの最中、紗代子はプロデューサーからの指摘を思い出していた。
紗代子「そうだ、出す声よりもお腹の力加減に注意して……声を大きくする時は、口の大きさに気をつけて……」
35 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:42:17.63 ID:ck9R+qDf0

「では、昨日のステップのお温習いをします。1、2、3、4! 1、2、3、4! 足はそのまま右見てタン、タン、タンで左ターン!」

紗代子「足下は見ない。視線は正面……頭の中で自分の全身をイメージして……」

「はい、1、2、1、2、その調子、その調子!」

 昨日叱られた所を、今日は指摘されずにレッスンがすすむ。
 褒められたわけではない。自分でもまだトレーナーと同じ動きができていないことは、わかっている。
 しかしそれでも、昨日出来なかったことが出来るようになり始めている自分に、紗代子は感動していた。
 涙を堪えながら、必死でレッスンを続けていた。

紗代子「やっぱりプロデューサーの指摘を確認しながら、練習して良かった。気がついたら夜中の2時だったけど……でも、良かった」

 これなら……この調子なら、レッスンにきっとついていける。アイドルにも……なれる!
36 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:43:06.96 ID:ck9R+qDf0

 レッスンの後、紗代子は呼び止められる。

最上静香「あの、少しいいですか?」

紗代子「え? あ、うん。ええと……」

瑞希「最上さんです。最上静香さん」

静香「単刀直入にうかがいますけど、自宅ではどんな自主トレとかしてるんですか?」

矢吹可奈「あ、それ私も聞きたい〜♪ 知りたい〜♪ 金目だい〜♪」

佐竹美奈子「確かに。昨日と今日で、なんだかすごく上達してたよね」

紗代子「うーんと、私はみんなとはプロデューサーが違う人で、それでそのプロデューサーは今日本にはいないから、後から録画されたレッスンを見て指導が入るんだ」

福田のり子「あ、あのカメラってその為にあるんだ」
37 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:45:07.15 ID:ck9R+qDf0
北沢志保「うらやましい……私たちのプロデューサー、レッスンの時にはいないし、ちゃんと見ていてくれいるのか不安で……」

瑞希「時々、見に来ておられます……ですが、私も高山さんがどんな指導を受けているのかは、気になります」

紗代子「えっとね。これにまとめてるんだけど……」

静香「これ……日記帳ですか?」

紗代子「うん。あ、でも毎日つけてる自分の日記とは別で。アイドルとしての活動を綴る日記にしようって思ってて」

志保「これ……読んでもいいんですか? なんだか人の日記を読むのって抵抗があるんですけど」

紗代子「大丈夫だよ。見られたくないことなんて書いてないし、まだ昨日から書き始めたばかりだし」

瑞希「では、失礼して……高山さん?」

紗代子「なに? 瑞希ちゃん」
38 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:46:03.10 ID:ck9R+qDf0
瑞希「この日記……昨日から書かれたと言われましたが」

紗代子「? うん」

瑞希「既に20ページほど、書かれています」

静香「え?」

伊吹翼「うわ〜文字がびっしり」

美奈子「えっと、良くなかった点……その改善点……注意する点……短期での到達目標と長期的な目標……すごい」

静香「これ……実際にやったんですよね?」

紗代子「え? うん」

静香「納得しました。やっぱり出来るようになる人は、それなり以上にちゃんとやってるんですね」

紗代子「そんな……私なんて、この中で全然出来てないし」

静香「……私、これで失礼します。お話、ありがとうございました」

紗代子「あ……うん」
39 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:46:38.22 ID:ck9R+qDf0
 静香が帰って行ったのを見届けると、一番小柄な周防桃子が口を開く。

桃子「桃子、静香さんは帰ってないって思うな」

中谷育「え? 失礼しますって行って出ていったのに?」

桃子「うん。きっとまたレッスン場に戻ってるって思うな」

志保「……私も」

育「え?」

志保「もう一回、戻るわ。弟の迎えの時間まで、まだちょっとあるから」

可奈「え〜? あ、じゃあ、私も!」

桃子「ね。みんな同じ。紗代子さんの日記を見たから」

紗代子「え? 私の?」
40 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:50:25.10 ID:ck9R+qDf0
桃子「なんというのかな……心配になっちゃったんだと思うな」

紗代子「?」

瑞希「高山さんは、着実に実力をつけておられる上、その方途も持っておられます。私や他のみなさんは、心配になってきたのです。自分は壁にぶつかったらどうすればいいのか……と」

紗代子「それは、みんなのプロデューサーに……」

瑞希「はい。私は今から、それを伝えに行きます……プロデューサーに、みんなが不安になっている、と」

桃子「そうだね。お兄ちゃんは、そういうとこドンカンそうだから……桃子もついていってあげる」

育「あ、じゃあ私も」
41 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:50:57.57 ID:ck9R+qDf0
 それぞれが去った後、紗代子は軽く頷くと言った。

紗代子「私も、もう一回レッスン場に行こうっと!」

 昨日よりも今日は、がんばれた。
 その思いが紗代子に、これまで以上のやる気を起こさせていた。

紗代子「少しずつでいいんだ……一歩ずつ、確実にやっていけば、いつかは……」
42 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:52:57.99 ID:ck9R+qDf0

悪徳「追加の資料をお持ちしやした。と言っても、以前あっしがお届けしたモンと大して変わりはしやせんが」

黒井社長「……」

悪徳「ははあ、依頼のあったこの娘のレッスンで……しかしまあ、これでアイドルになろうってのはムシが良すぎやしやせんか?」

黒井社長「昨日のレッスンは、もっと見るに耐えなかった」

悪徳「へ?」

黒井社長「発声もダンスもなっちゃいなかったよ。そう、例えるならお猿さんと言ったところだね。まるでマンキーみたいに、キーキー叫びながら、猿回しみたいに踊っていたよ」

悪徳「それはまた……へへへ、あっしも見てみたかったで……」

黒井社長「だが……」

悪徳「へ?」
43 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:53:49.75 ID:ck9R+qDf0
黒井社長「ヘタはヘタだが、今日見た彼女は、格段に進歩しているんだ……」

悪徳「そ、そうなんで? ですがまあ、それにしたってお猿さんに毛が生えたようなもんでしょう?」

 記者の悪徳を、黒井社長は一瞥する。

黒井社長「……昨日見たときは、間違いなくお猿さんだった。だが……今日見たら、直立猿人になっていたんだよ!」

 腹ただし気に怒鳴ると、黒井社長は高山紗代子の追加資料を、当の彼女のレッスン風景の映るディスプレイに投げつけた。

黒井社長「もう……猿じゃない」
44 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:56:20.85 ID:ck9R+qDf0

 翌日のレッスン後、候補生達は雑談に興じていた。

可奈「私ね、如月千早さんに憧れてるんだ」

静香「わかるわ。あの歌声、本当にすごいわよね」

志保「天海春香さんにも憧れてるって言ってなかった?」

未来「春香さんに憧れるの、わかるなあ」

静香「もとから765プロ所属の……先輩って言えばいいのかしら……その人たちって今、ツアーなんだっけ?」

翼「北海道から沖縄までまわってるんでしょ? いいな〜私も早く、ツアーであちこち行きた〜い」

美奈子「その為には、レッスンがんばらないとね」

翼「む〜レッスンばっかりじゃ飽きちゃうよー」

志保「そうでもない人も、いるみたいだけど……」

翼「え〜? あ」
45 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:57:04.68 ID:ck9R+qDf0
紗代子「ねえねえ、ロコちゃんは絵が得意なんだよね?」

ロコ「ハイです! まあロコはアートに関しては、ピクチャーに限らずオールマイティーだとシンクしてますけど」

紗代子「ちょっと描き方っていうか、コツみたいなのあれば教えて欲しいんだけど」

ロコ「サヨコもアートに興味があるんですか!?」

紗代子「アートというか、ダンスレッスンの特訓にね」

七尾百合子「絵を描くと、ダンスが得意になれるんですか!?」

永吉昴「うわっ! びっくりした」

百合子「あ、ごめんなさい。あの……実は私、ダンスが特に苦手だと感じていて……それで……」

紗代子「絵を描くというよりは、ダンスを絵に描けたらって思って」

昴「え?」
46 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:57:39.76 ID:ck9R+qDf0
紗代子「うん。プロデューサーが、ダンスのフリがなかなか覚えられないのは、客観的な動きを理解していないからだって」

百合子「客観的な動き……なるほど。ダンスって自分でやってるとどう踊ってるか、わからなくなることありますもんね」

紗代子「ダンスのフリを絵に描いたら、どう動けばいいかわかるし覚えるのにも役に立つかと思って」

ロコ「いいシンクです! それなら一緒にドローしてみましょう!」

静香「待って!」

紗代子「え?」

静香「絵を描くことなら、私も少し自信があります!」

紗代子「そうなの? じゃあ、静香ちゃんにもお願いできるかな!?」

静香「はい! ではまず、最初のターンを書いてみますね」
47 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 09:58:36.18 ID:ck9R+qDf0
〜5分後〜

静香「どうかしら!」

百合子「えっと……」

昴「これ……」

育「なに?」

静香「ダンスよ! ダンス!! ターンしてるとこでしょ!?」

百合子「ダンスというよりは……タンス?」

昴「冷蔵庫じゃないのか?」

育「しかもそれが、爆発してるみたい……」

静香「ちょっと! どうしてそんな風に見えるのよ!?」

ロコ「それでですね、最初は線で身体をのムーブをトレスしてドローしたら、ミート付けしてドローするとグッドです」

紗代子「こう?」

静香「そこー! 私の絵も参考にしてくださいーー!!」
48 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:01:32.30 ID:ck9R+qDf0
桃子「でも確かに、動きを描いてみるっていい考えかも知れないよね」

瑞希「はい……混んでなければ、移動の電車とかでもダンスレッスンの代わりになりそうですし」

紗代子「うん! 私もそう考えてたんだ!」

昴「授業中でもできそうだよな、それなら」

琴葉「昴ちゃん? 授業中はちゃんと授業に集中しないと!」

昴「え? あ……」

紗代子「学校はあくまでも、勉強の場だからね?」

昴「うわ。このクラス、委員長が2人いるよ……」

望月杏奈「ゲームの攻略対象キャラでも……委員長キャラが2人は……多い……かも」

紗代子「あ、そういえば静香ちゃん」

静香「あ、絵ですか!? まずですね!!」

紗代子「ううん、絵はいいから。それより静香ちゃんピアノが弾けるんだよね
49 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:02:12.79 ID:ck9R+qDf0
静香「え……? あ、はい」

紗代子「ピアノのCDとか持ってる? 持ってたら貸して欲しいんだけど」

静香「それは持ってますけど、紗代子さんもピアノを始めるんですか?」

紗代子「弾いたりはしないけど、色々なジャンルの音楽を聴くようにしなさいって言われててね」

志保「それってやっぱり、紗代子さんのプロデューサーからですか?」

紗代子「うん」

志保「そういうアドバイス……うらやましいです」

紗代子「え? あ、じゃあ一緒に静香ちゃんにCD借りよう?」

志保「え? いえ、そういう意味じゃなくて……」

紗代子「静香ちゃんいいよね? 志保ちゃんにも貸してあげても」

静香「別にいいですよ」
50 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:02:52.78 ID:ck9R+qDf0
エミリー「色々な種類の音楽ですか……実は私、北欧の重金属音楽に興味がありまして」

のり子「重金属音楽……ってなに?」

ロコ「きっと、ヘビーメタルですね」

美奈子「ヘビーメタルだから重金属音楽かあ、あはは。おもしろいね」

風花「エミリーちゃん、ヘビメタに興味があるの?」

エミリー「はい……大和撫子としては、はしたないかも知れませんが熱気のある音色と歌唱には心惹かれるものがあります」

のり子「ヘビメタならアタシも興味あるから、一緒にCD試聴しに行く?」

エミリー「よろしいのですか?」
51 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:05:00.76 ID:ck9R+qDf0
のり子「うん。メタルも色んな種類があるんだよね。正統派メタルにスラッシュメタル、パワーメタルにプログレッシブメタル、あと忘れちゃいけないデスメタル!」

エミリー「まあ、重金属音楽にもそんなに種類があるのですか? 正統派重金属音楽に斬撃系重金属音楽、力業重金属音楽に革新的重金属音楽、そして丁寧語断定助動詞重金属音楽ですね。忘れないうちに帳面に記入いたしませんと」
52 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:05:42.05 ID:ck9R+qDf0

 幸いに、帰りの電車は空いていた。
 座席に座り、紗代子はレッスン用日記を取り出す。

紗代子「ここでこう……ポーズで。ここから左手、右手……でターン。うん、自分で絵に描くとよくわかる! 実際に身体を動かせない場所でも出来る、これはいいレッスンかも」

「次は涸沼〜。涸沼。お降り口は右側となっております。次は、涸沼〜」

紗代子「……えっ! あ、乗り過ごしちゃった!?」

 電車は大洗を過ぎ、夕日へと向かっていっていた。
53 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:06:22.58 ID:ck9R+qDf0
紗代子「えっと……自分の中では一番苦手でもあり、今よりもダンスを磨く為にレッスンを増やしたいんですけど、どうでしょうか……と」

 プロデューサーからの指示伝達が届くより前に、紗代子は初めて自分からメールをしてみた。絵に描く特訓は、電車ではできないとわかると、何か代替の方途が必要ではないかと心配になってきたからでもあった。
 定期的な伝達と合わせて返事がもらえればとの思いだったが、予想に反し返事はすぐきた。

『それは許可できない』

紗代子「えっ!? どうしてですか……っと」

 返信は淀みなく送られてくる。

『すべては基礎的な力をつけてからだ。君はまだ、私の求める基礎的な体力をも持ってはいない』
54 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:06:53.86 ID:ck9R+qDf0
 以前の紗代子なら、単刀直入な指摘にショックを受けたかも知れない。
 しかし今の彼女は、プロデューサーに全幅の信頼をおいていた。
 そう、プロデューサーならそれをどうすればいいのかを、教えてくれるからだ。

紗代子「基礎的な体力か……うん!」
55 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:07:37.37 ID:ck9R+qDf0

「だめよ」

 普段はノリの軽い母親が、珍しく強く紗代子に言う。

紗代子「どうして? 別に遊びに行くとかじゃなくて、ランニングだよ?」

「時計を見てみなさい。もう夜の九時過ぎよ。外だって真っ暗じゃない。女の子が1人で出歩いていい時間じゃないでしょ」

紗代子「でも……そうだ! ボディーガード!! ボディーガードがいるならいいよね!?」

 この時点で、紗代子の弟には悪寒が走る。慌てて自室に戻ろうとするが、残念ながらそれは少しばかり遅かった。
 普段は物わかりがよく優しい姉が、問答無用にその腕を強く引っ張ってきた。

紗代子「一緒についてきて!」

「……俺、これから勉強が……」

紗代子「後でみてあげるから! ね、お願い!?」

「そうね……まあ、一緒ならいいでしょ。戦車には気をつけるのよ」

紗代子「はーい!」
56 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:10:32.36 ID:ck9R+qDf0
 紗代子の弟は項垂れる。
 しかし時々……アイドル関係のことになると平静でいられなくなる面があるとはいえ、紗代子は彼にとっては優しい姉だ。
 仕方ない。彼は、スニーカーを履く。

 並んで走りながら、彼は姉に聞いてみる。

「姉ちゃん、マジの本気でアイドルになるの?」

紗代子「え? もちろん。候補生にだってなれたんだから、これからはアイドルに一直線だよ」

「候補生って言ったって、全員がアイドルになれるってわけじゃないんでしょ?」

紗代子「それは……」

「姉ちゃんがずっとアイドルになりたがってたのは知ってるけどさあ」

紗代子「大丈夫」

「え?」
57 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:11:09.97 ID:ck9R+qDf0
紗代子「私には、すごいプロデューサーがついてるの。その人の言う通りにしていけば絶対トップアイドルになれるんだって」

「ホントかなあ……だいたい、なんでそんな人が姉ちゃんのプロデューサーになってくれたんだよ?」

紗代子「……なんでだろ?」

「言っちゃなんだけどさ、姉ちゃんホント普通じゃんか」

紗代子「きっと私には、プロだけにわかる隠された才能とか能力があるのかも!」

「……そっかな?」

紗代子「もしお姉ちゃんがアイドルになったら、自慢していいよ」

「はいはい。もしそうなったらね」
58 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:15:58.93 ID:ck9R+qDf0
 最初は――そうこの時はそう言っていた弟も、次第に紗代子が揺るぎなく本気でそう思っている事を思い知る。
 夜間のランニングは、その日だけにとどまらなかった。
 時間こそ一時間ほどと決まっているが、次第に遠くまでランニングに行くようになる。そして、走る速度が上がっていく。
 一週間で彼は、姉に頭を下げる。

「姉ちゃん。お金貸して欲しいんだけど」

紗代子「えっ? 何に使うの?」

「自転車」

紗代子「?」

「もう姉ちゃんに、走ってついてくの無理。ママチャリなら1万ちょっとで買えるから」
59 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:16:35.81 ID:ck9R+qDf0
 それを聞き、嬉しそうに母親が言う。

「いいわよ。お母さんが、買ってあげる」

紗代子「そんな……悪いよ。私が!」

「いいから。紗代子ががんばってるから、この子もつき合ってくれてるんだし、2人とも投げ出さず続けてて偉いから買ってあげるわ」

紗代子「おかあさん、ありがとう! 大事に使うから!!」

「いや姉ちゃんそれ、俺が使う自転車だから」
60 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:17:06.92 ID:ck9R+qDf0
 やはり体力をつけ始めた効果が現れたのか、プロデューサーからのメールにもこうあった。

『目に見えて体力の向上が見受けられるが、何か特別な事をしているのか?』

紗代子「プロデューサーに指摘されて、毎晩ランニングをしています。よくなかったでしょうか? と……どうかな」

 相変わらず、返信がすぐにくる。

『かまわない。効果も現れている』

紗代子「良かった……あ、またメール」
61 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:17:39.52 ID:ck9R+qDf0
『身体は銀行のようなものだ。運動はローンであり、貸せば貸すほど利息が付いて返ってくる』

紗代子「そうなんだ。じゃあ……もっとランニングの時間、伸ばした方がいいのかな!?」

 しかし続くメールの部分には、こう書かれていた。

『とはいえ、ただ闇雲に貸付金……即ち運動量を増やせば良いというものではない。自己資本、要するに体力に見合った融資をしなければ、貸し倒れのリスクに直面してしまう。つまり、運動は自らの体にとって資産にもなれば負債にもなる。重要なのはそのバランスを知り、把握しておくということだ』

紗代子「そ、そう……なのかな???」
62 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:18:08.14 ID:ck9R+qDf0

瑞希「経済の本ですか……父の仕事の関係で、そうしたものも確かに家にはありますが……高山さんのことですから、それもアイドルに関係することなのですか?」

紗代子「うん……これなんだけど、昨日のプロデューサーからのメール。なんとなくはわかるんだけど、どういうことかちゃんと理解したくて!」

瑞希「ふむふむ……なるほど。これは少し、難しいですね」

千鶴「おはようございますですわ! あら、紗代子に瑞希。どうなさいましたの?」

紗代子「あ。千鶴さん、おはようございます。昨日のプロデューサーからのメールでちょっとわからないことが……」

千鶴「あの紗代子のプロデューサーからの? わたくしも拝見してみて、よろしくて?」

紗代子「もちろんです。ここの部分なんですけど……」

千鶴「どれどれ? ……まあ! 貸し倒れ!! リスクに直面!! た、大変ですわ!!!」

瑞希「なんと……二階堂さん、おわかりになるのですか?」
63 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:18:36.94 ID:ck9R+qDf0
千鶴「ここには大変重要で危機感に溢れた示唆が書かれていますわ! な、なるほど……運動に対する姿勢をここまで見事に経済に例えられるなんて……」

紗代子「つまり、どういうことなんです?」

千鶴「運動とはローン、つまり自身の体力を削ることで後々には削った以上の体力を自分に戻すことなわけですわ」

紗代子「それは、なんとなくわかります」

千鶴「ですけれど、削りすぎ身体に悪影響が出る程の運動をしてしまっては……と、ととと、倒産……もしくは、と、ととと、取り付け……つまり、身体を壊してしまうことになるわけです」

紗代子「貸し倒れ、というのはつまり、自分が倒れちゃうのと同じような意味だと思えばいいんですね」
64 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:19:02.56 ID:ck9R+qDf0
千鶴「そうですわね。運動はすればするほど体力として自分に還元されるけど、自分の基の体力を把握して正しくやらないと、身体を壊す……当たり前かも知れませんけれど、こんなに理解できる言葉で……さ、紗代子!」

紗代子「え? あ、はい」

千鶴「この文、わたしくも書き写してもよろしくて? わたくしの金言にいたしますわ!」

紗代子「あ、はい、もちろんです。どうぞ」

千鶴「感謝いたしますわ。そうですわ……わたくしも無理せず、今日は休養日といたします」

瑞希「休養日……つまり、今日のレッスンはお休みされるのですか?」

千鶴「ええ。実は昨日がハードでしたし、体調もあまりすぐれませんの。それでは、ごきげんよう」

紗代子「あ、はい……」

瑞希「ごきげんよう……さまです。ばいばい」
65 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:19:46.68 ID:ck9R+qDf0

翼「というわけで〜私も今日は帰りま〜す」

 意気揚々と帰ろうとする翼をトレーナーが捉まえる。

「なにが、というわけだ! 伊吹! 伊吹だけ最初に3回ダンス追加な」

翼「え〜! だって千鶴さんは〜」

「二階堂は確かにハードワークが見てとれたから、今日はもともと休ませるつもりだったんだ。伊吹はまだそんなに元気だろ」

翼「そんな〜」
66 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:22:59.02 ID:ck9R+qDf0

瑞希「ひとつ、うかがいたいのですが、高山さんはどんなアイドルになりたいのですか?」

紗代子「え? どんなアイドル? うーん、やっぱり歌とダンスが素敵なアイドルに憧れてるかなあ」

瑞希「なるほど……つまり、正統派アイドルですね」

風花「わかるわ!」

紗代子「え? ふ、風花さん?」

風花「やっぱり憧れて、目指すのは正統派アイドルよね。歌声やダンスで見ている人を元気にさせる……そんなアイドルに」

紗代子「え、ええ! もしかして、風花さんも正統派アイドルに憧れてるんですか?」

風花「そうなの! だから一緒に正統派アイドルへの道、がんばりましょょう」

紗代子「はい!」
67 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:23:31.40 ID:ck9R+qDf0
瑞希「実は、私は……セクシー系アイドルに憧れを持っています」

風花「えっ!?」

瑞希「女性としての魅力を、存在からだけでも感じてもらえる……そういう存在に憧れています」

風花「それは、まあ……人それぞれよね」

瑞希「私は、お世辞にもスタイルが良いとは言えません……自分でもよくわかっています。名前も真壁、と呼ばれることが多いです。でも、やはり……女性として魅力的になりたいとも思っているのです」

紗代子「瑞希ちゃんは、スラリとしていて魅力的だと思うけど……なんていうか私は、中途半端というか」

風花「2人とも、私から言わせると魅力的だけどなあ。瑞希ちゃんは羨ましいぐらいにスリムだし、紗代子ちゃんは本当に均整がとれていて可愛いし」

瑞希「自分の魅力は、自分ではなかなかわからないものですか……ですが、お2人にほめられて、私も少しだけ自信がでてきました」
68 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:24:07.77 ID:ck9R+qDf0
紗代子「うん。私も、そう言われると自分のプロポーションも……悪くはないかな、って」

風花「そうよ。私も胸が少し大きくて恥ずかしいんだけど、でもこれだって魅力的に見てもらえれば、嬉しくない訳じゃないから」

瑞希「正直、豊川さんの胸は垂涎です……ですが私にも将来性はあります。なにしろ母はナイスバディですから」

紗代子「プロポーションかあ、色々節制とかした方がいいのかなあ。それもプロデューサーに相談してみよう」
69 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:24:36.39 ID:ck9R+qDf0

 その後も、レッスンに対する指導以外でも、尋ねればどんな質問にもプロデューサーは紗代子に返信をくれた。
 最初は堅く、返信も紋切り型の文章だったが、次第に穏やかで親しみを感じる文章へとなっていった。

紗代子「リズム感ですけれど、どうすれば鍛えることができるんでしょうか……と」

 忙しい身であるはずだが、プロデューサーからの返信はいつも迅速だった。
 時折、時差の事などが気にかかるが、そもそも海外としか紗代子は聞いておらず、どこの国なのかすら知らないためにどのくらいの時差があるのかすらも彼女にはわからず、結局メールだからいいかと時間にこだわらず質問や助言を求めたりしていた。

紗代子「あ、返信だ。ええと、なになに……リズム感を養うには身体を使ってリズムを刻むのが一番良い。具体的には……」
70 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:25:03.92 ID:ck9R+qDf0

 その後も、レッスンに対する指導以外でも、尋ねればどんな質問にもプロデューサーは紗代子に返信をくれた。
 最初は堅く、返信も紋切り型の文章だったが、次第に穏やかで親しみを感じる文章へとなっていった。

紗代子「リズム感ですけれど、どうすれば鍛えることができるんでしょうか……と」

 忙しい身であるはずだが、プロデューサーからの返信はいつも迅速だった。
 時折、時差の事などが気にかかるが、そもそも海外としか紗代子は聞いておらず、どこの国なのかすら知らないためにどのくらいの時差があるのかすらも彼女にはわからず、結局メールだからいいかと時間にこだわらず質問や助言を求めたりしていた。

紗代子「あ、返信だ。ええと、なになに……リズム感を養うには身体を使ってリズムを刻むのが一番良い。具体的には……」
71 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:26:02.49 ID:ck9R+qDf0

のり子「それで、バスケットボールを持ってきたわけ?」

紗代子「はい。音楽に合わせて自分でも歌いながらドリブルしてみるといいって……ボールは学校で借りたんですけど、問題は場所で……」

昴「えー? でもそれってアイドルになる為の特訓だろ? それなら遠慮しなくても、レッスン場で……」

琴葉「昴ちゃん?」

昴「人や物にぶつかったりすると、あぶないもんな!」

紗代子「特にレッスン場は姿見の大きな鏡もあるから……」

のり子「なーんだ。そういうことなら、いい場所があるよ」

紗代子「本当ですか!?」
72 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:26:36.25 ID:ck9R+qDf0

瑞希「なるほど……これは広いですし、少々ボールが転がったりしても問題はありませんね」

のり子「美咲さんに言って、ここの一角はアタシたちだけにしてもらったから、安心して使えるよ!」

 のり子が一同を案内したのは、劇場の地下駐車場だった。

琴葉「よく知ってたわね、のり子はこんな場所」

のり子「えへへ。アタシはほら、バイクで劇場に来ることもあるから」

瑞希「なるほど。ミニコンポも持ってきました」

エミリー「楽曲は、これなどいかがでしょうか」

琴葉「デスメタルで聞く日本の原風景……?」

のり子「あ、この間アタシと行ったCDショップで買ったのだ」
73 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:27:14.02 ID:ck9R+qDf0
エミリー「はい。重金属音楽の燃えるような拍子や歌声と、美しい日本の情景が織りなす和音の調べが素晴らしいと思いまして」

紗代子「うん。じゃあミュージックスタート」

『あんたー↑↓↑↑↓がた〜どこ↓↑↑さ→あ!』

♪〜♪(間奏30秒)

『肥後さ!』

紗代子「この音楽に合わせてドリブルを!」

のり子「なーるほど。ボールのドリブルは、直接打楽器を演奏するのと違って、跳ね返ってくる時間とかも体感で覚えるわけか」

瑞希「慣れるまで少しかかりそうですが……これは確かに、効果がありそうです。では始めましょう……ごー」
74 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:27:40.63 ID:ck9R+qDf0
紗代子「えっと……お、音楽に合わない……もっと早く……あ、今度は早過ぎ!?」

エミリー「あんたがった〜〜〜肥後さ♪」

昴「お、エミリーなかなかやるな。オレも……肥後さ!」
75 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:28:09.15 ID:ck9R+qDf0

琴葉「え!? 紗代子まだやってるの? だってあれから……」

瑞希「はい。6時間は少々オーバーワークですね。私が、止めに行きます」

琴葉「私も行くわ。紗代子……倒れてなきゃいいけど」
76 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:28:57.52 ID:ck9R+qDf0

紗代子「あんたー」

 ↑バン↓バン↑バン↑バン↓バン

紗代子「がた〜どこ」

 ↓バン↑バン↑バン

紗代子「さ→あ!』

 バンバンバンバンバンバンバン

紗代子「肥後さ!」

 バン!

瑞希「なんと……高山さん、できるように……」

琴葉「それも両手交互に組み替えながら……」

紗代子「できた……両手を使ってもできたよ!」
77 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:30:04.46 ID:ck9R+qDf0
瑞希「すごいです……時間はかかりましたが、ついにやりましたね」

紗代子「うん! 絶対に私にも出来るって信じてたから。弱い自分を出したくなかったから……時間?」

琴葉「紗代子、6時間も休まずやってたのよ? 大丈夫?」

紗代子「6時間……って、6時間も!? うわ、帰らないと!!」

瑞希「高山さん……途中まで、一緒に帰りましょう。だから、大丈夫です。田中さん……」

琴葉「お願いね、瑞希ちゃん」
78 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 10:30:37.45 ID:ck9R+qDf0

瑞希「……先程」

紗代子「え?」

瑞希「弱い自分と高山さんはおっしゃいましたが」

紗代子「私……ね、本当は弱いんだ。それを隠していつもせいいっぱいやろうって、心に決めてるの」

瑞希「私には……少し、信じられませんが。高山さんは、いつも全力で迷わずがんばっておられるイメージです」

紗代子「そんなことないよ。でも、自分が弱いってわかっているけど、でもそんな自分に負けたくないから!」

瑞希「……高山さんは、ご自分で気づいておられないだけで、本当は……強い人です」

紗代子「私が? ううん、私は強がってるだけ。本当は強くなんかないの……」

瑞希「あります。では、私はここで……」

紗代子「あ、うん。また明日ね」

瑞希「はい。明日……」
79 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:42:18.30 ID:ZRhpxi3E0

 紗代子が765プロのアイドル候補生になって半月が過ぎた。
 ついに、765プロ設立当初から所属するアイドル達がツアーから帰ってきた。

三浦あずさ「まあ〜。本当に素敵な劇場が完成したのね〜」

萩原雪歩「立派な設備で、ちょっと圧倒されちゃうね」

双海真美「事務所とえらい差だねえ」

如月千早「音響も素晴らしいわ。早く、歌いたいわ。ここで」

静香「ほ、本当に765プロのアイドルだわ……て、テレビで見るのと同じ……」

未来「もう、静香ちゃん。そんなの当たり前じゃない。さ、挨拶しないと」

静香「ま、待って! ま、まだ心の準備が……」

水瀬伊織「それで? 新しく所属になったって娘たちは?」

未来「ほら、呼ばれてるみたいだよ?」

静香「待ってって! あなたは気楽に言うけど、あの有名アイドルの人達にそんな軽々しくは……」

翼「は〜い! 伊吹翼で〜す。よろしくお願いしま〜す」

静香「翼!!!」

天海春香「あ、よろしくね。いちおう、765プロの先輩っていう形にはなるけど、同じ事務所のアイドル同士なんだから、よろしくね」

未来「ほらー。あの春香さんだってすっごくフレンドリーだよ? はーい、春日未来でーす。お願いしまーす!」

静香「み、未来〜!」
80 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:44:35.94 ID:ZRhpxi3E0
千早「……あなた、名前は?」

静香「え!? あ、は、はい!! 最上……静香で、す……」

千早「如月千早です。よろしくね」

静香「あ、こ、こちらこそ……お願いします」

千早「心配いらないから」

静香「え?」

千早「私たちは仲間よ。だから、心配いらないわ」

静香「は、はい」

伊織「にひひっ。千早が言うと説得力かあるわね」

千早「もう、冷やかさないで」

 世間では有名になった765プロのアイドルたちは、思っていた以上に優しく、友好的だった。

春香「さっき千早ちゃんも言ってたけど」

瑞希「? はい……」

春香「私たちは、仲間。これから同じ765プロのアイドルとして、絆を深めあいながらがんばっていこうね!」

桃子「きずな?」

高槻やよい「だーいじょーぶ。すぐにわかるからね」

桃子「あ、えっと……うん」

雪歩「うん。わからないことがあったら、なんでも聞いてね」
81 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:45:29.03 ID:ZRhpxi3E0
真「さーて。じゃあ軽く汗を流していく? レッスン場も完備されてるんだよね?」

伊織「ちっょと真、ツアー終わったばかりだからダウン期間じゃないの?」

真「ちっょとだけだって。いくらダウン中でもなんにもしないとなまっちゃうからさ」

千早「そうね。私も少し、歌っておきたいわ」

春香「あはは。そうだね。ねえ、レッスン場はどこかな?」

未来「あ、私が案内しま〜す」

翼「こっち、こっちぃ!」
82 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:46:27.16 ID:ZRhpxi3E0

真「へえ、立派なレッスン場だね。あ、みんな続けていいからね」

 先に自主レッスンを始めていた一同は、憧れの765プロアイドルに驚き、頭を下げる。

千早「少し、一緒にいいかしら?」

可奈「も、もちろんです! あ、あの、後でサイン……いいですか!?」

千早「え? ええ」

 結局、先輩アイドルを含めた合同レッスンとなり、和やかなままそれは終了する。
 ロッカー室で着替えながら、彼女たちは談笑を始める。

雪歩「みんな、いい娘たちだったね」

伊織「そうね。私たちも、もう先輩なんだからしっかりしないといけないわね」

真美「いおりんは、今以上にしっかりしなくてもいいと思いまするぞ」

伊織「なによ……ってまあ、褒め言葉と受け取っておくわ」

真美「うむ。受け取っておきたまえ」

千早「思っていたより、レッスンもすすんでいるのね」

雪歩「半月後には、劇場もこけら落としで、バックでデビューしてもらうって聞いたよ」

真「1人……気になる娘がいなかった?」
83 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:47:01.19 ID:ZRhpxi3E0
伊織「ああ……まあ、ね」

千早「誰? あ、もしかして……」

春香「高山……紗代子ちゃんだっけ? ちょっとまだまだって感じではあったけど、大丈夫だよ」

真「そう?」

春香「うん……大丈夫」

伊織「まあ、リーダーである春香が言うならそうなんでしょ」

春香「あの娘はあきらめない、そういう目をしてたよ。だからきっと、大丈夫」

真「目、ねえ」
84 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:47:27.78 ID:ZRhpxi3E0

「けど姉ちゃんもよく続くよな」

紗代子「え?」

「毎晩毎晩、よく走るなって」

紗代子「何をするにも基礎的な体力は必要だ、って言われたからね。どうかな? 体力、ついてきたと思う? 毎日一緒に走ってきて」

 紗代子の弟は肩を竦める。これだけ毎日走り、そして1時間という制限の中で速度も距離もどんどんと早く長くなっているのに、まだ実感がないのだろうか?」

「姉ちゃん、もっと自信持っていいと思う」

紗代子「……今日ね、765プロの先輩アイドルの人たちが帰ってきたの」

「え!? あの、春香ちゃんとか雪歩ちゃんとかが!?」

紗代子「みなさんやっぱり……すごかった。私もああなりたい!」

「姉ちゃんさ」

紗代子「え?」

「やっぱお金貸して」
85 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:47:55.64 ID:ZRhpxi3E0
紗代子「今度はなに?」

「自転車、ちゃっとしたの買うよ」

紗代子「? どういうこと?」

「ママチャリじゃ、間に合わなくなりそうだからさ」

 弟の言葉通り、すぐにママチャリでは弟は紗代子についていけなくなってしまった。
 ママチャリは母親にお下がりというか、お上りになり、弟はクリスマスプレゼントとお年玉の前借りで、変速機付きの自転車を購入した。

紗代子「本当にいいの? 私の為にクリスマスもお年玉も使っちゃって」

「まあ、きっかけは姉ちゃんだけどさ。自転車は自転車で楽しくてさ」

 ピカピカの新車を嬉しそうに更に磨く弟を、紗代子は背後から抱きしめた。

「ね、姉ちゃん!?」

紗代子「ありがとう……絶対にトップアイドルになるからね」

「……うん」
86 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:49:55.80 ID:ZRhpxi3E0

『ダンスは随分と上達したが、まだ表現が固い』

 次第に体力もつきリズム感も鍛えられ、まだ自信は持てないがそれでも成長を実感し始めた頃、プロデューサーからメールが届いた。
 そしてその指摘に、紗代子は静かに、だが確かに胸が燃え上がるのを感じていた。
 自分の未熟さは、伸びしろだ。そう思うようになってきていた。事実、出来なくてもレッスンや努力で出来るようになった事のなんと多いことか。
 最初からは何も出来なくても、こうして身につければそれが実力になっていく。
 指摘され、注意されたのなら、それは自分が成長するチャンスだとプロデューサーのお陰で思えるようになってきていた。

紗代子「もしかして、だからプロデューサーは私を選んでくれたのかな……う、ううん。今はそれよりも……どうしたらいいんでしょうか、と」

『身体に無駄な力が入りすぎている。もちろん、体力がなければダンスはできないし、君はその体力をつけてきた。しかし逆にそれが君のダンス表現を固くしている』

紗代子「そうか。体力はついたけど、その分動きに力が入りすぎているんだ」

『言っておくがそれは悪いことではない。成長の過程ではままあることだ。これからは身体から無駄な力を抜くことを心がけることだ』

紗代子「それにはどうすればいいんですか……と」

『イメージとしては、両手に生卵をもっているつもりでダンスをするといい』

紗代子「生卵? はい、わかりました! そうか……生卵か」
87 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:50:32.25 ID:ZRhpxi3E0
 母親はニコニコとしているが、それでも紗代子は申し訳なさそうに頭を下げている。

「なるほどね。それが卵を割っちゃった理由なわけね?」

紗代子「ごめんなさい……やっぱり実際にやってみないとイメージもわかなくて……」

「なるほどなるほど。それで卵を2パックも割っちゃったのね?」

紗代子「ごめんなさい……」

「いいのよ? その代わり」

紗代子「え?」

「割った卵は、紗代子が責任を持って使うこと。いいわね?」

紗代子「……はい」
88 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:51:02.04 ID:ZRhpxi3E0

「ふあーぁ……姉ちゃんおはよう。夕べ夜中に母さんとキッチンでなんかやってた?」

紗代子「あら、おはよう。これ、お弁当」

「え? 今日は姉ちゃんが作ってくれたの?」

紗代子「う、うん。まあね」

「?」
89 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:51:32.74 ID:ZRhpxi3E0

「……高山」

「……なんだよ」

「お前……そんなに卵、好きか?」

「……」

「弁当、真っ黄色じゃん」

「……姉ちゃあああぁぁぁーーーんんん!!!」
90 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:52:08.50 ID:ZRhpxi3E0

瑞希「高山さんは、卵料理がお好きなんですか?」

紗代子「え? えーと……あはは」

翼「うわ〜紗代子ちゃんのお弁当、真っ黄色!」

可奈「卵焼きにスクランブルエッグに……オムレツ?」

紗代子「それが実は……プロデューサーに、生卵を持っているイメージでダンスをしろと言われて」

志保「生卵を持つイメージ……そうか、力みすぎないダンスのコツですね。……え? もしかして紗代子さんは、本当に生卵を持ってダンスをしたんですか……」

紗代子「これがなかなか難しくてね! 特に両手で持つと、片方に意識がいくと反対側が割れちゃったり」

二階堂千鶴「なんということを!」

紗代子「え!? ち、千鶴さん?」

千鶴「紗代子! あなた今、卵が1パックいくらかご存知でらっしゃいまして!?」

紗代子「え、ええと……」

風花「それに卵の摂りすぎは、コレステロール過多になっちゃうわよ?」

紗代子「すみません……」

美奈子「ふむふむ。私、いいこと思いついちゃいましたよ」

志保「?」

美奈子「みんなも、紗代子ちゃんと同じように自然体のダンスをする特訓、してみたくない?」

志保「それは私も……やってみたいですけど」

翼「どうするんですか?」

美奈子「わっほーい! 私についてきてくださいね」
91 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:53:04.00 ID:ZRhpxi3E0

未来「ここって……佐竹飯店?」

静香「もしかしてここって、美奈子さんの家ですか?」

美奈子「そうなんです! さあさあ、みんな中へ」
92 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:53:35.77 ID:ZRhpxi3E0

美奈子「じゃあみんな、両手に生卵を持って……はい、ミュージックスタート!」

 ダンスレッスンと同じ曲が始まり、全員が踊り出す。
 が、ものの数秒で半数の手の卵が割れてしまう。

志保「え? あ……これ、難しい」

未来「ちょっとステップに気を取られただけなのに、割れちゃったー!」

美奈子「はーい! 割れた卵はこのボウルに入れてね。じゃんじゃん、割れても大丈夫だよ。次々と料理に使っちゃうからね」

静香「そういうこと……でも、なるべく割らないで……あ!」

 注意しながらでも割れてしまう卵。しかし、その内に全員コツを掴んでくる。
 ただ1人を除いて……

紗代子「えっと……はっ! あ!!」

のり子「こう言うとなんだけど、紗代子はあんまり飲み込みがいい方じゃないみたいだね」

瑞希「はい……ですが、高山さんは着実に実力をつけていくタイプです。そして必ず最後までやり遂げ、妥協もしない……そういう人です」

のり子「なるほどね。体格やセンスは劣っていても、根性でファイトを続ける……そういうのアタシも嫌いじゃないな」

瑞希「飲み込みの良くない高山さんが、飲み込んだ時。きっとその技術は、高山さんから離れない身体の一部になっているのでしょう」

のり子「そっか……」
93 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:55:27.14 ID:ZRhpxi3E0

美奈子「どう? 新しい卵、あるかな?」

紗代子「あ、はい。これ、お願いします美奈子さん」

美奈子「うん。助かるよ……まだまだ、かかりそうだね」

紗代子「助かってます。美奈子さんのお陰で、いくらでも特訓できて」

美奈子「こちらこそ、助かってるから、お礼なんていいんだよ」

紗代子「お陰で、ようやく卵3個はクリアできたので、4個に挑戦中なんです」

美奈子「そうなんだ……4個?」

紗代子「はい。こうやって、卵を両手に持ってから……こう」

 いつの間にか、紗代子は卵3個をジャグリングしながらダンスをするようになっていた。
 特訓を始め、一人残ってダンスをすること、3日目のことだった。

美奈子「ええっ! す、すごいけど……これって意味があるのかな」
94 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:55:54.64 ID:ZRhpxi3E0

のり子「もちろんあるよ」

 格闘技好きを自認するだけあり、候補生の中では一番フィジカルが強くダンスも得意なのり子が言う。

のり子「身体に余計な力を入れずにスムーズに動いて、体感バランスも鍛えられるんだから、意味はあるよ」

美奈子「なるほど。確かに……本当だ」

 ダンスレッスン中、紗代子は息切れもせず最後まで踊るようになっていた。
 なにより、ダンスがスムーズだ。いや、見ていて迫力すら感じるのに、動きそのものも繊細になっている。

のり子「これは、アタシも負けてらんないよね!」

美奈子「そうだね。よーし、がんばろう!」

志保「あの……美奈子さん」

美奈子「ん? どうしたの、志保ちゃん」
95 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:56:35.48 ID:ZRhpxi3E0
志保「その……私も美奈子さんの家でまた特訓、いいですか?」

美奈子「いいけど……志保ちゃんはもう生卵特訓はクリアしたんじゃなかったっけ?」

志保「ええ。ですけど……紗代子さんに聞いたら、ジャグリングするといいって聞いて……」

美奈子「え? あ……」

静香「美奈子さん、私また美奈子さんま家で特訓をしたいんですけど」

美奈子「……静香ちゃんもか」

未来「あのぉー美奈子さん、私お願いがあって……」

 美奈子とのり子は、顔を見合わせて笑った。
 翌日、佐竹飯店は卵関連料理30%オフのサービスを行った。

紗代子「もっと……もっと踊れるように……歌いながらでも、踊れるように……」
96 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:57:06.68 ID:ZRhpxi3E0

 卵の特訓で、紗代子のダンスは上達し、しかも歌いながらリズムに合った踊りが出来るようになっていた。

のり子「すごいよね。でも、同じ特訓をしたし、つられてお陰でアタシも上達できたよ」

志保「はい……すごいです。効果ありました。これって高山さんのプロデューサーが教えてくれたんですよね?」

紗代子「まあ、ジャグリングは私が勝手に始めたんだけど、コツや練習方法は聞けば色々と教えてもらえるんだ」

志保「うらやましい……」

のり子「あはは。ねえねえ、その紗代子のプロデューサーってどんな人なの?」

紗代子「それが……」

のり子「え?」

紗代子「まだ会ったことなくて」

のり子「えー? そうなの? まだ帰ってきてないんだ」

紗代子「はい。どんな人なのかな……」

瑞希「聞いてみては、いかがでしょう?」

紗代子「え? 聞くって誰に?」

瑞希「高山さんのプロデューサーを、知っている人に……です」

紗代子「うーん。でも私たち候補生はもちろん誰も知らないし、美咲さんも劇場ができてからのスタッフだから知らないみたいだったし。社長さんや小鳥さんに、どんな人かだけ聞くために事務所まで行くのも……」

瑞希「765プロの先輩アイドルのみなさんは、どうでしょうか?」

紗代子「え? あ!」

瑞希「先輩のみなさんは、劇場ができるより以前からおられますし、高山さんのプロデューサーの事もご存知なのではないでしょうか?」

紗代子「そうだね! 聞いてみよう!」
97 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 12:58:27.59 ID:ZRhpxi3E0

雪歩「プロデューサー?」

紗代子「はい。あ、でもみなさんのプロデューサーじゃなくて、私の担当プロデューサーのことなんですけど」

真「え? そんな人いたっけ?」

あずさ「紗代子のちゃん担当プロデューサーさんだけ、違う人なの?」

紗代子「はい。今は海外におられて、私もメールでしかまだやり取りをしていないんですけど……」

伊織「海外……思い出したわ。ほら、アイツじゃないの? 海外事業部だかの」

雪歩「ああ、そうか。そうだよきっと」

真「かいがいじぎょうぶ……? あ。あれってまだ動いてる企画だったんだ」

紗代子「どんな企画なんですか!?」

雪歩「えっとね。765プロも、ゆくゆくは国内だけじゃなくて海外へも羽ばたく事を視野に入れなくてはいけない、って社長さんが言い出して」

真「そうそう。それで、海外事業部っていう部門を立ち上げたのは覚えてるけど……」

千早「私も海外進出は嬉しいと思ったけれど、その後なにも話を聞かなくなったわね」

真「担当者も1人だけだったしね」

紗代子「そ、その人って、どんな人なんですか?」
98 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:00:44.50 ID:ZRhpxi3E0
伊織「ええと……」

雪歩「うーん……」

真「……」

紗代子「どうしたんですか?」

伊織「ごめんなさい。正直、あんまり印象にないのよね」

雪歩「社長さんに紹介はされたんだけど、それっきりだし」

真「ボクらとは完全に別行動だもんなあ。あ、でも」

紗代子「え?」

真「海外進出用の人材をスカウティングしてる、っていうのは聞いたよ」

あずさ「私もそれは聞いたわ。それに確か、1人スカウトしたんじゃなかったかしら」

伊織「あれって本当にいたの? 姿は誰も見てないんでしょ?」

千早「社長さんが『乞うご期待だよ』って言ってたけど……その後なにも聞かないわよね」

雪歩「あの2人ならヒュッテに籠もってるよ、とも社長さんは言ってたなあ」

紗代子「ヒュッテ……ってどこですか?」

真「さあ?」

紗代子「え?」

あずさ「765プロにそんな場所はないのよね〜」
99 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:01:22.67 ID:ZRhpxi3E0
伊織「あんたたち、社長の言葉を真に受けすぎよ。ヒュッテってのは、ドイツ語よ。山小屋って意味。英語だとハット」

真「ハットって、帽子じゃないの?」

雪歩「真ちゃん、それはhat。伊織ちゃんが言ってるのは、hutのハット。ほら、ピザハットって言うでしょ?」

真「え? ピザハットのハットって、帽子のハットじゃないの?」

伊織「違うわよ。山小屋……つまり社長はどっかにこもってレッスンとかしてるって言いたかっただけでしょ」

紗代子「つまり、そのどこか……っていうのが海外なんですか?」

伊織「そこまでは……でも、そうなんじゃないの。きっと」

 先輩アイドルたちも、紗代子のプロデューサーについてはよく知らないようだ。そして、どうやらもう1人そのプロデューサーが担当しているアイドルもいるらしい。

あずさ「ごめんなさいね〜。あまりはっきりとしたことを教えてあげられなくて」

紗代子「いいえ。ありがとうございました」

真「あ、紗代子」

紗代子「なんですか?」
100 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:03:25.32 ID:ZRhpxi3E0
真「なんていうか……ゴメンね」

紗代子「え? いいえ、少しだけでもプロデューサーの話が聞けて良かったです」

真「あー……そうじゃなくてさ」

紗代子「?」

真「ボクさ、最初は紗代子のこと、ちょっと誤解してたんだよね。一番に脱落しちゃうんじゃないか、って」

紗代子「そ、そうなんですか?」

真「でも違った。すごいよ、紗代子。最近の上達ぶり」

紗代子「あ、ありがとうございます!」

真「最初はバックって話だけど、ボクのソロの時にお願いしたいな」

伊織「あら、それは私もよ。お願いできる?」

紗代子「もちろんです。嬉しいです」
101 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:05:28.72 ID:ZRhpxi3E0
千早「でも、最初は春香のバックじゃないかしら。ほら」

真「あー……うん」

伊織「そうね」

紗代子「あの、なにか?」

千早「私も真も水瀬さんも、みんな高山さんを心配してたけど、春香だけは大丈夫だって言っていたのよね」

紗代子「え……」

千早「さすが、リーダーよね」

紗代子「ありがとうございます! みなさん、ありがとうございます!!」


瑞希「残念でしたね。あまり、詳しいことはわからなくて」

紗代子「うん。でも、いいんだ」

瑞希「?」

紗代子「私がひとつひとつ成長していって、少しずつ実力をつけて、そしてアイドルとして成功していけば、いつかプロデューサーに会える気がするんだ」

瑞希「そうなんですか?」

紗代子「今はメールだけでしかやり取りをできなくても、いつか……ね」

瑞希「その日がくるのが……楽しみですね」
102 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:06:21.60 ID:ZRhpxi3E0

瑞希「衣装合わせでも着ましたが、やはりこう……衣装というものに袖を通すと、アイドルになった……という気がしてきますね。ひしひし」

のり子「ね、ねえ、これ……こんな可愛い衣装、アタシに本当に似合ってるのかな?」

美奈子「大丈夫だよ! のり子ちゃんもちゃんと可愛いよ。ほら、私もエプロンは似合うって言われるけど、この衣装も……似合ってるって言われたから」

琴葉「のり子もさっきプロデューサーに可愛いって言われて、喜んでいたじゃない」

のり子「ええーっ!? み、見てたの!?」

琴葉「……私も」

のり子「え?」

琴葉「心配だから聞きに行ったから……」

のり子「え? 琴葉でも?」

琴葉「それはやっぱり……アイドルの衣装って初めてだし」

志保「あの……みなさん、プロデューサーに衣装が似合ってるか聞いたんですか?」

桃子「だって自分からは客観的に見えないこともあるんだから、全身を見てくれる人の感想は重要だよ」

志保「え、あ……ど、どうしよう。見て、もらった方が……?」
103 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:09:01.56 ID:ZRhpxi3E0
可憐「あ、あの……さ、紗代子さんがまだ来てない……みたいなんですけど」

環「まだメイク室にいたぞ。たまき、呼んでくる」

紗代子「ごめんね、おそくなっちゃった」

のり子「……え?」

育「さ、紗代子さん?」

桃子「だよね?」

紗代子「え? どうかした?」

瑞希「これは驚きました……高山さん、今日はメガネを外しておられるのですね」

風花「髪もほどいて……そうか、ちょっとクセっ毛でも、伸ばすと可愛く見えるかも」

紗代子「あ、うん。ステージではメガネは外して髪もほどこうって……変、かな」

のり子「そんなことないよ! すっごく可愛い!」

琴葉「ええ。ちょっと驚いちゃったな。いつもと違う可愛さだよ」

昴「すっげー可愛いよ!」

紗代子「そ、そう? 良かった……実はプロデューサーにこの姿を見てもらってないから、不安で」
104 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:09:50.54 ID:ZRhpxi3E0
麗花「あれ? 見てもらってないの? こーんなに可愛い紗代子ちゃんの晴れ姿を」

紗代子「メガネを外して髪もほどくことは話してあるんですけど……たぶん、プロデューサーがこの姿を見てくれるのは、今日のステージ録画が送られてからかな」

志保「紗代子さん」

紗代子「え? なに? 志保ちゃん」

志保「ステージ前にプロデューサーに衣装を着たところを見てもらってなくても、今日はがんばりましょう」

紗代子「う? うん」

春香「みんな、準備できた? 緊張しなくても大丈夫だよ。私たちで一緒にステージを作ろう……ね? えっと……紗代子ちゃん、だね。今日はがんばろう」

真「ボクのバック、頼むね」

紗代子「はい!」

春香「じゃあみんな、円陣組んで……そうそう、手を伸ばして……いくよ……765プロー! ファイトーー!!」

一同「おーーー!!!」
105 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:11:26.89 ID:ZRhpxi3E0

 765プロ劇場のこけら落としである公演が始まった。
 駆けつけたファンもマスコミも、後にそのステージを絶賛する。765プロの新しい活躍の場。いや、躍進の発信基地を765プロは手に入れたのだ。
 新しい場には、新しい花が加わった。
 新たに加わった候補生たちは、一同に紹介を受け、お披露目をされた。
 高山紗代子も、その中にいた。
 ここに、ささやかながら彼女のアイドルとしての活動が始まったのだった。
 候補生たちは、それぞれ先輩たちのバックで踊り、コーラスをし、最後には全員で一曲を歌った。
106 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:11:54.76 ID:ZRhpxi3E0

 同じ頃、紗代子のプロデューサーは1人、やきもきしていた。

P「ど、どうなったんだ……す、す、ステージは……さ、紗代子も、どんな姿で? 衣装は似合っていたか? メガネを外し……髪も……ど、どんな髪型になった? え、映像は……まだ、か……?」
107 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:12:36.40 ID:ZRhpxi3E0

     『奇蹟がはじまった』
108 : ◆VHvaOH2b6w [saga]:2019/12/29(日) 13:13:12.80 ID:ZRhpxi3E0
順二朗「次回公演のセンターは、プロダクション内の公募で決めたいと思う」

 久しぶりに劇場にやってきた765プロの社長は、開口一番そう言った。

可奈「こうぼ? こうぼってなんですか?」

エミリー「公募は、公に募ると書きます。つまり、誰でも自分がやりたいと表明しても構わないということですね?」

順二朗「うむ。最近の君たちの上達ぶりには目を見張るものがある。正直、目移りしてしまって誰を選んでいいのかわからないほどだ。それならいっそ、やりたい者にやってもらおうかと思ってね」

静香「複数の人が立候補した場合は、どうなるんですか?」

順二朗「その場合は……そうだな、社内オーディションを開催したら面白いかも知れないね」

小鳥「社長。またそんな、思いつきをすぐ口にされて……」

順二朗「いやいや、自分で言っておいてなかなかいいアイディアだと思うよ。アイドルは互いに磨きあい、高めあってトップを目指すものだよ」

志保「じゃあ私、立候補してもいいですか」

可奈「え、志保ちゃんが!? そ、そうか……はい!! 私もやりたいです」

静香「私も、やりたいと思います」

 結局、その場のほぼ全員が手を挙げた。
 そして手を挙げた全員が『ほぼ』に入っていない、紗代子を見る。
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