白雪千夜「足りすぎている」

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1 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:44:38.25 ID:QXbKSZYO0
「お戯れを、お嬢様」
 箒を持ち直し、階段を上がろうとする私を、お嬢様はなおも引き留める。

「お戯れてなんかないよ、本気で言ってるの」
「本気であるなら、なおさらタチが悪いです」

 知らず、ため息が出る。
 お嬢様の悪い癖だ。どうやらまた始まったらしい。

「私にどうしろと仰るのですか」

「だから、さっきから言っているでしょう」
 ウンザリとした態度を見せてしまう私を尻目に、お嬢様は愉快そうに胸を張ってみせる。

「すごく大手の芸能事務所らしいよ?
 悪いことは言わないから、話だけでも聞いてみてあげたらどう? ね?」

「お言葉ですが、お嬢様はもう少し世間をお知りになるべきかと」


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2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:47:04.88 ID:QXbKSZYO0
 曰く、都心部へお出かけになられた際、芸能関係者を名乗る男から声をかけられたのだという。
 耳障りの良い口車に気を良くして、自らの素性だけでなく、私の事まで紹介してしまうなど――。

「そのような誘い文句は、男が女性をたぶらかすための常套句です。
 お嬢様の魅力は確たるものとしてございますが、故に安売りすべきものではありません」


「あ、じゃあ私の方も、言わせてもらうけどね」

 ぷくっと頬を少し膨らませて、お嬢様は私に顔を近づけてきた。

「千夜ちゃんはもっと自分を知るべきだよ」

「自分を、ですか」
「そう、千夜ちゃんは自分がいかに魅力的な人なのかを知らない。
 一度きりの短い人生、それはすごく悲しいことなんだよ?」

「お戯れを」
 首を振り、私は壁に掛かる時計を見上げた。

「その男は、何時にこちらに来るのですか?」
「そろそろ来るんじゃないかな。あっ、話聞いてくれる気になった?」
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:48:16.40 ID:QXbKSZYO0
「キッパリと断り、二度とこの屋敷に近づかないよう、私の方から強く念を押しておきます」

 主の世話は従者の務め、とはいえ――余計な面倒ごとを嬉々として拾ってくるのは慎んでいただきたい。
 まして、相手が男では何があるか知れない。御身は大事にしていただかなくては。

「それと、どんな男か、特徴を教えていただけると助かるのですが」
「あーっ! ちょっと千夜ちゃん!」

「自分のことは、自分が一番よく分かっています。お気遣いにはおよびません」

 気まぐれを起こしたお嬢様を説き伏せることは難しい。
 これ以上は不毛な議論になるため、私は階段を上がった。

「とにかく、すごく大きな人が来るから、ビックリして警察とか呼んじゃダメだよ。
 それじゃあ、私出かけてくるね」

 そうだった。
 今日は麓の町へ出向き、4月から始まる学校の編入手続きをしに行くのだった。
 本来であれば私と一緒に済ませるはずだったが、体調を崩されてしまい、お嬢様の分が先送りになってしまったのだ。

「行ってらっしゃいませ。どうかお気をつけて」

 慌てて階下へ降り、お見送りをする。
 おじさまの車に乗り込み、お嬢様が出て行かれると、途端に屋敷は静かになった。
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:50:43.75 ID:QXbKSZYO0
 ルーマニアから日本に戻り、東京での生活を始めるまでの間、私とお嬢様は黒埼家のおじさまの屋敷に身を寄せていた。
 少しの間だけでも空気の綺麗な所で静養された方が、お嬢様の身にも良いだろうという、おじさまと私の判断だった。

 東京の住居の契約は、まだ行っていない。
 いっそここから学校に通ったらどうかと、お嬢様を溺愛するおじさまのご提案もあったが、さすがに交通の難がある。
 私はまだしも、お嬢様のお身体にはご負担になるだろう。

 かといって、近ければどこでも良いという訳にもいかない。
 おじさまと一緒に物件を探してみるが、私もおじさまの気がうつってしまったのか、どこにしても不安が残ってしまう。
 まして奔放なお嬢様のことだ。危険がない所を探すことは難しい。

 やはり、どこかで決断をするべきなのだろう――。
 悩みから半ば目を背けるように家事に没頭するうちに、もう新年度が始まろうとしていた。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:53:59.86 ID:QXbKSZYO0
 窓を開け、書斎の埃をはたき、桟を雑巾で丁寧に拭く。
 屋敷の部屋数は多く、床掃除には掃除機より箒の方が取り回しは利く。
 一度、お嬢様がルンバを買ってきたことがあったが、物と段差が多いこの屋敷では限られた場所しか機能しない。精度も知れている。

 黒埼家の従者となってしばらく経つ。
 ブランクはあれど、この屋敷もルーマニアへ発つ頃と何も変わっていない。
 私には、誰よりもこの屋敷の構造を理解しているという自負がある。

 そう。私にはそれで十分だった。
 人には分というものがあり、相応の役割がそれぞれにある。
 華やかな夢に彩られた人生を送る人もいれば、それを支える人もいる。
 何に価値を見出すのかは、自分が決めること。

 だというのに、お嬢様の言動にはしばしば理解に苦しむものがある。困ったものだ。
 第一、すごく大きな人が来るとか――何かとアバウトが過ぎる。

 改めて嘆息しながら、お嬢様のベッドのシーツを直していた時、呼び鈴が鳴った。


 招かれざる客が来たか――。

 私は手短に最低限の身だしなみを調え、玄関に歩み寄ってドアスコープを覗き込んだ。

 視界は真っ黒だった。
 おそらく、その男のスーツだろう。ドアのすぐ傍に立っているとは、よほど勇んだ性格と見える。

 お嬢様はああ言っていたが、いざという時は、その手合いを呼ぶことになるだろう。
 私は覚悟を決めて、慎重にドアを開けた。
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:55:09.24 ID:QXbKSZYO0
 ――――。

 なるほど、お嬢様の言ったことは間違っていない。

 私を待ち受けていたのは、まるで熊のように大きい男だった。
 ドアスコープの視界が真っ黒だったのは、この男がドアのすぐ近くに立っていたのではなく、あまりに体が大きいために視界が塞がれていたからだと理解した。

「白雪千夜さん、ですね?」

 私の名を確認しつつ、男は胸元から名刺を取り出し、その厳めしい体格とは不釣り合いなほど慇懃な姿勢で腰を折った。

「私は、こういうものです」

 両手で丁寧に手渡された、その名刺に書かれた名前は――。



「……さんびゃく、よんじゅうろく、プロダクション?」
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:56:11.74 ID:QXbKSZYO0
「みしろ、と読みます」

 首を傾げる私に、男は注釈を加えた。

「弊社の代表が『美城』と申しますので、これを当てた数字となります」


 ――346プロダクション。

 シンデレラプロジェクト、プロデューサー、か。

 珍妙な名前からして、信用ならない会社だ。
 シンデレラなどという調子の良い文句も、夢見る女子を釣り上げようという邪な意図を感じずにはいられない。

 だが、お嬢様は話を聞くようにと仰った。


「どうぞ、中へ」
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 20:58:21.36 ID:QXbKSZYO0
 男をゲストルームに案内し、紅茶を出す。
 椅子の背にもたれることの無いまま、男は頭を下げた。まるで背中に大きな定規が刺さっているかのようだ。

「コーヒーの方が、よろしかったでしょうか」
「いえ、お気遣いなく……あの」
「何か?」

 男は部屋を少し見渡して、不思議そうな表情を浮かべて私を見た。

「あなたは、お掛けにならないのですか?」

 ――お茶を出した後も、私が立ったままでいるのが気に掛かるらしい。
 お嬢様からは、聞かされていないのだろうか。

「なぜ私が立っているのか、その理由は二つです。
 一つは、私が黒埼に仕える従者であること。
 主の命令を抜きに、私がこの屋敷にあるものを自由に扱うことなどありません」

 まるで奇異なものに直面したかのように、男は目をしばたいている。
 人に仕えるということに馴染みが無かった男なのだろう。

「そしてもう一つは、あなたと長話をする気など無いという意思表示です。
 どうぞ、ご用件をお話しください」


 男は、首の後ろを掻いて、その手を膝に置き直した。

「あなたには今、夢中になれるものはありますか?」

「えっ?」
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:01:50.98 ID:QXbKSZYO0
 大方、歯の浮くような誘い文句が矢継ぎ早に飛んでくるのだろうと思っていた。
 私のような魅力の無い者に、どのような褒め言葉を繰り出してこれるものかと、高を括っていたのは認める。

 しかし――少し意表を突かれたが、男の続く言葉にはある程度の予測はついた。

「……この家に仕えること。それが私の使命です」

 私はかぶりを振った。

「夢中になるというのは、余裕のある者のみに許された行為です。
 お嬢様をはじめ、黒埼の世話をすることは、私にとって夢中になるならない以前に、行わなければならないこと。
 今の私が持て余しているものなどありません」

 この男は、私を芸能界へスカウトしに来た。
 鬱屈した、漠然とした不満感をくすぐって、これまでどれほどの夢見る思春期世代の女子を誘い込んだことだろう。
 安いロジックに惑わされるほど、私は自分を見失ってなどいない。

「それで、今のあなたは幸せなのですか?」

 しかし、なおも男は、真っ直ぐに私の目を見て問いかけてくる。
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:04:51.45 ID:QXbKSZYO0
 ――知った風なことを。
 人の幸不幸を、この男は定義できるというのか。

「はい、幸せです。
 他に何か、ご用件はありますか?」

「アイドルに興味は…」
「ありません。先ほど申したとおり、余裕も興味も、これっぽっちもありません。
 他には何か?」


 言葉に窮したらしい男は、もう一度首の後ろを掻いた。
 困った時の癖なのだろうと推察される。

「また、お伺い致します」

 頭を下げ、男が椅子を引いて立ち上がったのを見計らい、私は玄関へエスコートした。

「生憎ですが、もうお越しいただかなくとも結構です」
 ブレずにキッパリと言い切る。ここで対応を誤っては、後々面倒だ。

「お嬢様ほどのお方であるならまだしも、アイドルなるものについて、私に務まる要素などありません。
 あなたも、私のような者にいつまでも構うことなく、本来のお仕事をなされた方がよろしいかと」
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:06:17.92 ID:QXbKSZYO0
 こんな山深くまでわざわざ足を運んできた相手に対し、いくらか気が引けた思いも無いわけではない。
 だが、この男も好きでここに来たのだ。たとえ骨折り損で終わることに、まさか文句は言うまい。


「最後に、一つだけお伝えしたいことがあります」

 ドアを開け、退出を促したところで、男は再び口を開いた。

「あなたがこの屋敷に仕える喜び、そこから得る幸せを、否定するつもりは毛頭ありません。
 私は、あなたに可能性を提示したいのです。
 一歩を踏み出し、広がった世界で出会うものの尊さもあるのだと知ってほしい」

「言わんとすることは、分からないでもありません」
 そうやって新たな売り物を手に入れたいという意図は。

「ですが、それを私が求めるかどうかは別の話です。お引き取りを」
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:08:59.79 ID:QXbKSZYO0
 頑とした態度を見せつける私に、男は黙って頭を下げて車に乗り、屋敷を去って行った。


 まったく――芸能界というのは極めて図々しい輩の集まりだな。
 一体何様のつもりだろうか。

 だが、自分の仏頂面に感謝する。
 これだけ愛想の悪い態度を見せつければ、あの男も見当違いだったと納得したことだろう。


 アイドル――と言ったな。

 イメージが微塵も沸かない。
 お嬢様は私に、一体何を期待したというのか――。

 つくづく困ったものだ。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:10:39.25 ID:QXbKSZYO0
 一通り家事を終えて自室で休んでいると、時計は夕刻を指そうとしていた。

 おじさまとお嬢様、遅いな――。
 だが、そろそろ夕食の準備をしなくてはならない。

 昨日は魚、今日は――挽肉があったから、ハンバーグにでもするか。
 他のおかずは、サラダと、オニオンスープ――ほうれん草もソテーして、野菜室もさらえてしまおう。
 明日は買い物に出る必要があるな。


 ――むっ。
 冷蔵庫の余りものをまとめて片付けようとしたのが間違いだったか。
 少々、量が多くなってしまった。

 おじさまや私はともかく、お嬢様は小食だ。
 今日の夕餉は、タッパーの出番が多くなることを覚悟する。

 下ごしらえをして、おじさま達をお待ちする準備が整ったところで、呼び鈴が鳴った。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:12:27.40 ID:QXbKSZYO0
 ――?

 妙だな。おじさまもお嬢様も、帰宅を報せるのに呼び鈴を鳴らすことはない。
 また客人だろうか。こんな時間に?


 玄関のドアスコープを覗き込むと、視界は真っ黒だった。

 日が落ちたからではない。
 この黒は――あの男のスーツだ。

 三顧の礼といったところか。
 だが、舌の根も乾かぬうちにやってくるとは図々しいにもほどがある。

 私はつい、ドアを勢いよく開けた。

「言ったはずで……? ……!?」


「ただいまー、千夜ちゃん♪」
「夜分に、失礼致します」


 ドアの前には、先ほどの男と――お嬢様が、並んで立っていた。
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:14:47.48 ID:QXbKSZYO0
「どうぞ、召し上がってください。
 この子の作るハンバーグは、ウチの自慢です。ささ、遠慮せず」

 食卓に着いたおじさまが、ニコニコと笑いながら、同じく席に着いたあの男に促す。
 せっかくだからと、夕食を共にするよう勧めたのだという。

「どうしたの? ハンバーグ嫌い?」
 おじさまの隣に座ったお嬢様が首を傾げる。

「いえ、その……好きです」
 男は気まずそうに首を掻きながら首肯した。

「それは良かった」

 おじさまは笑っているが、良いことなど無い。
 どうしてこうなった。

 この男もこの男だ。
 誘われたとはいえ、人様の食卓に上がり込むなど、やはり厚かましい。


 だが――図らずも、作りすぎた料理がちょうど良く捌けたのも事実だった。
 ひどく恐縮する素振りを見せながらも、男の食べっぷりは体格に違わず見事なもので、瞬く間に私の作った料理が消えていく。

「千夜ちゃん、ちょうど良かったね。
 ひょっとして、この魔法使いさんがまた来てくれることを見越して用意していたの?」

「いえ、そんなことは……魔法使い?」


 聞き違いかと思ったが、お嬢様はニンマリと笑っている。

 やはり、この男のことを指して『魔法使い』と呼んだらしい。
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:15:54.76 ID:QXbKSZYO0
 食事を終え、テーブルの上を片付ける。
 男は私に、「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げた。

「とても美味しかったです。
 よく利用する洋食屋で食べるものよりも、繊細な味付けと食感で、非常な手間暇を感じさせるものでした」
「お世辞は要りません」

 紅茶を出し終えて、私はおじさまとお嬢様に向き直った。

「経緯をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「まぁ落ち着いて。座ろうよ、千夜ちゃん」

 お嬢様に促され、黙って従う。
 その様子を見た男が、どこか得心したように小さく頷いたのが視界の端に見えた。


「私も、この人から名刺をもらっていたからね。
 千夜ちゃんとの話し合いがどうなったか、気になってこの人の携帯電話にかけてみたの」
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:17:22.71 ID:QXbKSZYO0
 なるほど。
 お互い車で移動していたはずのお嬢様方と男が、ここに来るまでどう接触をしたのか不思議だったが、そういうことか。

 同時に、そうまでして私をアイドルにしたかったのかという、お嬢様の強い意欲を感じる。

「千夜ちゃんは、私がアイドルになるならまだしも、ってこの人に言ったんだよね?」

 お嬢様の問いかけに、私は首肯した。
 確かに、お嬢様ほどのお方であれば、人を魅了することは容易い。

「だから私、アイドルになることにしたの」

 そう、お嬢様ほどのお方であれば――。


 ――は?

「今、なんと?」
「だから、アイドル。
 私は、アイドルになります。だから千夜ちゃんもやろう?」


 私は、背中に定規が刺さっているその男を見つめた。

「あなたは、何と言ってお嬢様を籠絡したのですか」
「いえ、そんな……」
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:18:57.19 ID:QXbKSZYO0
「ちとせは言いくるめられたのではない、千夜。私も一緒にいたのだから」

 返答に窮した男に、助け船を出したのはおじさまだった。

「この子がそう考えたように、私もお前に、アイドルなるものを志しても良いのではと思ったのだよ。
 私達に仕える以外にも、違った未来があることを知るのは、決して悪いことではない」


 ――私にここを出ろと、暗に仰っているのだろうか?
 私にはまだ、黒埼家に返すべき恩が残っているというのに。

「良くない想像をしているようだが、そう極端な話をしているのではないよ」

 黙り込んだ私を見て、おじさまはお嬢様と顔を見合わせて笑った。

「千夜ちゃんは、違った生きがいを見つけてもいいんじゃないかな、って思ったの。
 あまり悪く思わないで、ねっ?」
「悪く思うなどということは……」

 私は、首を振った。
 そのように言われてしまうと、返す言葉が無い。
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:20:23.12 ID:QXbKSZYO0
 話を聞くと、男の芸能事務所――346プロダクションには、事務所が有する女子寮がその敷地内にあるらしい。
 地方から上京するアイドル達の生活を支援するものであり、大手故にセキュリティも、万が一の医療体制も万全。
 これまで探してきた都内のどの物件よりも、今後の私達に理解のある住まいとなるのは明らかだった。
 4月から通うことになる学校にも、電車で二駅ほどしか離れていないらしい。


「お聞きしたいことが、二つあります」

 この346プロダクションに入るほか無いというのなら、それでもいい。
 問題は、この男がどれほど本気なのかだ。

「客観的に見て、私はアイドルとしての魅力を満足に備えているとは思えません。
 まず、私をスカウトした理由を教えてください」

 お嬢様やおじさまに強く要望されたから、と答えるのであれば、それでも構わない。
 しかし、仮にも大手の芸能事務所が、こんなにも簡単に候補生なるものを引き入れるものだろうか?
 選り好みのきらいが少しも感じられないのはいかがなものか。


 男は、私以上の仏頂面を少しも変えることなく、抑揚の無い声でまっすぐ言い放った。

「笑顔です」



「……笑顔?」
「はい」
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:22:33.10 ID:QXbKSZYO0
 ――そっと、お嬢様のお顔を覗ってみる。

 お嬢様は、何も言わずにニコニコと笑ったままだった。


 私は、この男の前で笑ったことなどない。
 どういうことか、まるで意味が分からなかった。

 理解できないことは、無視するに限る。
 これまでもずっと、そうしてきた。


 依然として態度を崩さない岩のような男を前に、私は咳払いを一つして気を取り直した。

「もう一つ。雇用形態はどうなるのでしょうか。
 私はアイドルとなる以前に、黒埼家の従者です。
 あなたが私の専属の指導者となるとしても、黒埼家以外の者に隷属するつもりはありません」

 お嬢様が小さく笑う声が聞こえた。
 だが、私にとっては決して小さくないことだ。

「弊社が甲で、黒埼さんや白雪さん……正確には、お二人とも未成年ですので、お二人の代理人となる方が乙となり、346プロと専属契約を結ぶことになります。ですが」


 男は、これ以上正す必要がないと思える姿勢を、今一度正した。

「私が担当のプロデューサーとなり、あなた方がトップアイドルとなれるよう、共に歩むことになります。
 両者は優劣のある関係などではなく、立場としてはパートナー、すなわち対等とお考えいただければと思います。
 遠慮は要りません」
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:23:56.46 ID:QXbKSZYO0
「そうは言っても、私はあなたが導いてくれることを期待しているよ?」

 テーブルに肘をのせ、悪戯っぽくお嬢様が微笑みかける。

「プロジェクトの名が示すとおり、千夜ちゃんをお姫様にしてあげてね、魔法使いさん♪」

 ――なるほど、そういう意味での『魔法使い』か。
 しかし、なぜ私だけ――姫というなら、お嬢様こそふさわしい。

「それはもちろん、ご期待に添えられるよう善処します」

 男は頷いた。
 善処という言葉に卑屈な予防線を感じたが、首を掻いていない辺り、この男なりの意志は垣間見える。

「白雪さんも、私を信じていただけないでしょうか」


「分かりました」

 私が真っ直ぐに応えたことに、男は少し驚いた表情を見せた。

「意外に思われましたか。
 おじさまとお嬢様がそう仰るのなら、決まったことを蒸し返すことはしません」

 お嬢様の戯れに付き合うことには慣れている。
 元より、従者が主に逆らう筋合いなどあるはずも無く、考えるだけ無駄なこと。

 これも戯れの一つであるなら、黙って興じてみせるのみ。


「これからよろしくお願いします、プロデューサー……いや」
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:25:14.44 ID:QXbKSZYO0
 ふと、言葉を止めた。
 今の私には、考えることが一つだけある。

 対等――従者として生きてきた私には、対等といえる立場の相手が久しくいなかったことに気がついた。
 そういった者には、どう呼称するのが一般的なのか。

「プロデューサー……ふむ……」
「あの……白雪さん、何か?」

 単なる肩書きだと考えれば、プロデューサーという呼称も妥当ではある。
 が――やはり隷属している感が否めない。

 そしてこの男は、遠慮は要らないと言った。


「……お前」
「え?」


 うん――そうだな、これくらいがいい。

「とりあえず、お前でいいか」


 お嬢様とおじさまはなぜか苦笑し、プロデューサーとなるソイツは、首の後ろを掻いた。
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:31:50.54 ID:QXbKSZYO0
   * * *

「ほっ! お、やっ……とぉ! ほぁ!」
「未央」
「ふんわぁぁっ!?」

「ああぁ! み、未央ちゃん大丈夫ですか?」
「おぉ〜いちちちち……ううんヘーキヘーキ、ってしぶりーん、変なタイミングで声掛けないでよぉ」
「変な声出してるのは未央でしょ。こっちの調子が狂うから、やめてほしいんだけど」
「あぁー、それは凜ちゃんの言う通りかもですねー」
「し、しまむーまで! 二人ともヒドい!」

 転んでしまい、レッスン室の床に腰を落としたまま、本田さんが私の方に顔を向けた。


「ちよちーも何とか言ってよ!」


「……本田さんは、半拍ほどズレていたように思います」
「そういう事じゃなくって!!
 いや、そういう指摘はありがたいけども! ええぇぇ……!」

 憤慨する本田さんを見て、島村さんはニコニコと笑い、渋谷さんは腰に手を当てて小さくため息をついた。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:35:53.67 ID:QXbKSZYO0
 シンデレラプロジェクトには、総勢15人のアイドル候補生がいる。
 元々は14人で構成される予定だったが、急遽増員が決まったらしい。

 その増員枠に、収まったのは私。
 お嬢様はというと――。

「ちとせさんは、その後、身体の調子は大丈夫なんですか?」

 昨日のレッスンで倒れたお嬢様の容態を、島村さんが心配してくれる。
 その表情を見ると、彼女の気持ちに嘘や打算がないことはよく分かる。 

「お嬢様でしたら、ご心配にはおよびません。
 あの程度であれば、それなりの頻度でよくある事です」
「いや、言うほどそれ大丈夫じゃなくない? ちよちー」

 本田さんの言うとおり、確かに大丈夫とは言いがたい。
 とかく華やかで俗な印象を連想させるアイドルというものが、こうも泥臭いトレーニングを強いられるものとは知らなかった。

 事前に教えなかったアイツにも落ち度があるが――私が予め把握しておくべきことだった。
 アイツは、お嬢様の体力が一般的な候補生と同等だと捉えていたのだろう。
 一概に責めるのは筋が違う。

 私が従者の務めを果たせなかったことを悔やむ一方、お嬢様は毎日毎日、実に愉しそうにされている。


「今日はどんなレッスンがあったの? 誰と一緒だった?」
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:46:46.09 ID:QXbKSZYO0
 あてがわれた女子寮は単身用であり、お嬢様と私の部屋は隣同士にしてもらえた。
 もはやお決まりのように、お嬢様は私の部屋に入り、ニコニコしながら今日の出来事を聞き出そうとする。

「今日は、本田さん、渋谷さん、島村さんと一緒でした。
 ボーカルレッスン、ダンスレッスンをそれぞれ2時間ほど受け、私へのトレーナーの評価は、可も無く不可も無くといったところです」
「そっかぁー、いいなぁ楽しそう」
「なかなか、大変です」

 お湯を沸かし、紅茶を淹れて差し出す。
 茶葉もカップも安物だが、お嬢様はそれを嬉しそうに手に取った。

 カップを持つ右手の手首を、軽く握った左手の上に乗せる。
 黒埼家で使っていたカップは少し大きめで、力の弱い幼少期のお嬢様が、熱くて重たいそれを無理なく持てるよう、おじさまが教えたのだそうだ。
 大人になられた今でも行う見慣れた仕草だが、その特徴的な持ち方は、いつ見ても瀟洒でサマになっていた。

「千夜ちゃんが楽しいなら、それでいいんじゃないかな♪」


 お嬢様は、シンデレラプロジェクトには所属しなかった。
 体力的に不適当と判断されたのだろう。

 一方、346プロは即座にお嬢様を解雇することはせず、籍だけは確保することにしたようだ。

 私がお嬢様より優れている点など、人並みの体力以外には無い。
 お嬢様の魅力を慎重に見出そうとしているのなら、346プロはまだ懸命な判断をしていると言えるだろう。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:51:04.93 ID:QXbKSZYO0
 候補生は、私と同年代の人達が多かった。

 三村さんが事務所に持ち込んだクッキーに、私が紅茶を用意すると、皆さんはとても喜んでくれた。

「甘美な愉悦がこの身に宿り、我が魔力の高まりを感じるわ!」

 今日も神崎さんは、訳の分からないことを言っている。
 事務所で度々開かれるお茶会を、もっとも楽しみにしてくれているのも彼女だ。

「千夜ちゃんの淹れてくれた紅茶、すーっごく美味しいにぃ☆
 ほら、杏ちゃんもこっち来て食べゆ?」
「もう間に合ってるよ、それより」

 諸星さんの誘いを雑にあしらい、双葉さんは飴玉を口で転がしながら部屋を見渡した。

「美波さんとアーニャ、いないなら杏の分と一緒に残しといて、後で食べるから」
「あ、ホントだ。いない人の分も取り分けなくっちゃ!」

 赤城さんがパタパタと給湯室の方に走っていくのを、城ヶ崎さんが後ろから付いていく。

「アタシ知ってるよ、大きいお皿はこっちに置いてあるんだもんねー♪」
「あー! 莉嘉ちゃんズルい、私が先に見つけたのにー!」


 新田さんとアナスタシアさん――。
 確か今日は、宣材写真というものを撮影するのだと、アイツは言っていた。

 事務所のHPに掲載するほか、仕事やイベントのプロモートに使うための写真だと聞いている。
 私が撮るのは、明日の予定だ。


「私、行ってこようか」
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:53:00.55 ID:QXbKSZYO0
 それまで静かにソファーに腰掛けていた渋谷さんが、立ち上がった。
「二人が撮影してるの、スタジオ棟の2階でしょ」

「おっ? なんだなんだしぶりーん、抜け駆けは良くないぞー♪」

 渋谷さんに何かとちょっかいを出したがる本田さんが、肘で彼女を小突く。
 仲が良いな、この二人は。

 しかし、どういう風の吹き回しだろうか?
 私の見立てでは、渋谷さんはあまり、面倒事を率先して行うような人には見えなかった。

 私の思い違いか。

「千夜も、手伝ってくれる?」


「えっ?」

 渋谷さんが声を掛けた。
 気のせいではない。彼女は、私の方を向いている。

「私、紅茶の美味しい淹れ方なんて分からないから」


 淹れ方も何も――水筒に入れてあるものに、作法も何も無い。
 本来であれば、ちゃんとした茶器で淹れたてをお出しするべきなのだが、ここにあるのは粗末なプラカップだけだ。

 それはさておき、彼女には何か別の目的があるようだった。

「分かりました」

 私は頷き、お皿を持つ彼女の後ろについて部屋を出た。
 本田さんや三村さんもついてきたがっていたが、渋谷さんは断った。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:54:29.89 ID:QXbKSZYO0
「……えぇと、千夜、さん?」

 スタジオへ向かう途中、長い廊下を歩きながら、渋谷さんがこちらの機嫌を伺うように口を開いた。
 しばらく無言の状態が続いており、彼女が先に根負けした形になる。

「千夜でいいですよ」

 渋谷さんは、私が年上であることに一応の遠慮をしたらしい。

「それなら、千夜もそんな丁寧語じゃなくてもいいんだけど」
「私のことは、気にしないでください。癖のようなものです」

「まぁ、いいんだけどさ」

 一つため息をついて、渋谷さんはお皿を持っていない方の手で頬を掻いた。
「ごめん、急に付き合わせて」

「私に、何か?」

 渋谷さんは、年齢の割にとても冷静で、客観的な視野を持っている。
 言葉を交わしたことは少ないが、何となく通ずるところを感じていて、密かに二人で話をするのが楽しみでもあった。

 そんな彼女の方から私に声を掛けてきたので、内心少し動揺している。

「あ、いや……千夜も、あのプロデューサーにスカウトされたんだよね?」
「はい」

「その……なんて言って、スカウトされた?」
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 21:58:02.70 ID:QXbKSZYO0
 少し考え込むように俯きながら、渋谷さんは問いかけてきた。

「大したことではありません。お嬢様が推薦しただけです」

「笑顔、とか言われなかった?」

 渋谷さんはそう聞きながら、廊下の窓の外に目を向けた。
 一見素っ気無さそうにしているが、今の彼女には、どことなく照れ臭さを感じさせる。

「笑顔? ……あぁ」
 思考の外に投げ出していたから、すっかり忘れていた。

「渋谷さんも、言われたのですか?」
「一度も笑ったこと、無かったんだけどね」

 ――なるほど。
 渋谷さんが私を誘い、これを聞きたかったことの意味を理解する。

「シンデレラプロジェクトの中で、普段笑わないであろう他の人の話を聞きたかった、ですか?」

「えっと、まぁ……ごめん」
「謝ることはありません」

 あの男が意図したことは、渋谷さんにもよく分からなかったらしい。
 泰然としているように見えて、あの男、いい加減な所もあるのではないか。

「気にすることは無いと思いますよ」

 まともに伝える意志が無いのなら、どうせ大した意味も無いものだ。
 そのようなものに、いちいち気を遣う必要も無い。

 渋谷さんは頷いた。
 やはり、釈然としてはいないようだった。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:00:23.06 ID:QXbKSZYO0
 詳しく知らないが、自前の撮影用スタジオを社内に備える芸能事務所は、そう多くないのではと思う。

 着いてみると、思いのほか大勢の人がいた。
 被写体となるアイドルはほんの数人と思われるが、その十倍はいるであろうスタッフが辺りをせわしなく動き回っている。
 想像していたほど、簡単なものではないらしい。予め確認できて良かったと思う。

「あ、いた」

 渋谷さんが、その広々とした部屋の一角を指差した。
 背伸びして目を凝らすと、確かにアイツと、新田さん、そして――。


 ――アナスタシアさん、か。

 あまり話したことはない。
 おそらく普段着だと思われるが、カメラの前でポーズを取る彼女の顔は、ギリシャ彫刻のように端正だった。
 美しいものには、それだけで価値がある。彼女は、なるべくしてアイドルになったのだなと思う。


 渋谷さんがアイツに声を掛けて、一旦休憩を挟むことになった。

「ごめんね、邪魔をするつもりは無かったんだけど」
「ううん、そんなこと無いわよ。ありがとう、凜ちゃん、千夜ちゃん」

 嬉しそうに新田さんが駆け寄ってきて、ふと後ろを振り返る。

「アーニャちゃんも、こっち来て一緒に休憩しよう?」
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:03:46.64 ID:QXbKSZYO0
「ダー♪」

 途端、先ほどまでのキリッとしたアナスタシアさんの表情がホロリと崩れ、まるで別人のようにあどけない笑顔を見せた。
 ボーイッシュでクールな外見とのギャップがあまりに大きく、思わずドキッとしてしまう。


 控えのスペースに設けられた簡易なテーブルに、皆で席に着く。
 紅茶を注ぎ、アナスタシアさんに手渡すと、彼女はそれを両手で大事そうに受けた。

「チヨの紅茶、飲んだことないから、プリヤートナ……とても楽しみでした」
「このようなプラカップでお出しするのは、些か不本意で恐縮ですが」

「アー……イササカ? キョウシュ?」

 私の言葉に、アナスタシアさんは首を傾げた。

 彼女はロシアとのハーフだという。
 難しい日本語はちょっと苦手なのだと、緒方さんから以前聞いたのを思い出した。

「千夜ちゃんが言っているのは、ちゃんとしたコップで出せなくてごめんなさい、っていう意味なの」
 横から新田さんが注釈すると、アナスタシアさんはますます首を捻っている。

「チヨは、紅茶を淹れる時には謝る、ですか?」
「いえ」
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:05:14.57 ID:QXbKSZYO0
 何と言ったら良いのか――これも日本人的な感覚なのだろうか。
 いたずらに卑屈を構えたつもりは無いが、正確に言い表そうとすると、言葉に迷う。

「もてなす側として、満足のいくものをお出しできないことは、少々後ろ暗い思いがするものなのです」
「ニェット、チヨ」

 アナスタシアさんは、優しく首を振った。
 文脈的に見て、『にぇっと』というのは、おそらく否定の意を示す言葉らしいと推察する。


「アーニャ達のために、チヨがしてくれたことが、嬉しいです。
 優しいことをされて、嬉しくない人、いませんね?」


「優しいこと?」
「ダー」

 彼女は頷いた。これはたぶん『イエス』だ。

「優しいに、満足、アー……足りないも多いも、ありません。
 チヨは、優しいです。スパシーバ、チヨ」
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:07:36.11 ID:QXbKSZYO0
「……そういう事を言われたのは、初めてです」

 従者として仕える間、黒埼家の人達に感謝をされてこなかった訳ではない。
 ただ、彼女がありがたいと言った私の行動は、私にとっては当たり前に思っていたものだった。

「千夜ちゃんは、もっと気を楽にしてくれていいのよ。
 何というか、千夜ちゃんはいつも、お掃除とかお茶出しとか、皆のお世話をしてくれてばかりだから」
「それは私も思う、かな。
 あと、丁寧語はともかく、名字にさん付けじゃなくて、下の名前で呼んでくれた方がやりやすいよ」
「そうそう、まるでプロデューサーさんみたい。ふふっ」

 アイツを引き合いに出されるとは、心外だ。
 少しムッとする私の顔を、どこか満足げに見つめた渋谷さんが、後ろを振り返る。

「プロデューサーも、こっち来て食べたら?」


 何やらタブレットを睨んでいたアイツは、手を止めてこちらを向いた。

「ありがとうございます。
 ですが、私の分はおそらく無いのではと」
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:08:21.97 ID:QXbKSZYO0
「よく分かりましたね。お前の分は、用意がありません」
「ちょ、ちょっと千夜ちゃん!?」

 新田さんと渋谷さんがなぜか狼狽える一方で、アナスタシアさんはクスクスと笑った。

「プロデューサーは、アーニャ達を、太らせたいですか?」
「太っ……!?」

「こんなにあると、食べきれないですね?」
「そうですよ! ほら、プロデューサーさんもどうぞ。美味しいですよ?」

 新田さんに促され、ひどく恐縮してみせつつも、アイツは首の後ろを掻きながら私達の輪に加わった。



 忘れもしない。
 それが、346プロにおける私とアナスタシアさん――もとい、アーニャとの出会いだった。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:09:37.87 ID:QXbKSZYO0
   * * *

「チヨ、お水です」

 休憩に入ると、いつもアナスタシアさんはクーラーボックスから給水を取り出し、私に手渡してくれる。
 最近、一緒にレッスンをすることが多くなった。

「ありがとうございます」
「調子、良いですね」
「そうでしょうか」

「チヨのステップ、とてもキレイです」

 アナスタシアさんは、気安いお世辞とは思えない真っ直ぐな褒め言葉を、臆面も無く私に投げかける。
 何だか、身体がむず痒くなってしまう。

「綺麗というなら、アナスタシアさんの方がずっと綺麗です」
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:11:34.24 ID:QXbKSZYO0
 日本人離れ、とは言うまいが――彼女はそのボーイッシュな美貌もさることながら、パフォーマンスも質実なものだった。
 持って生まれた才能だけでなく、真面目にレッスンに取り組む中で着実に培われていったものだ。

 極めて素直であり、純粋で真面目な心根であることが、そばにいるとよく分かる。
 だが、彼女のアイドルに対するモチベーションは、どこから来るものなのか。

「アナスタシアさんは、ずっと前からアイドルを志してこられたのですか?」


「ンー……チヨ」

 ちょっと困ったような顔で、アナスタシアさんは苦笑した。
「? 何か?」

「アーニャ、と呼んでください。
 パパもママも、事務所の皆も、アーニャと呼んでくれますね?」

「それは……」
 私は言葉に窮した。
 それを拒む理由は、無いといえば無いのだが――。

 返答に困っている私を見て、アナスタシアさんは握り拳を口元に寄せてクスクスと笑った。

「プロデューサーのことは、お前って呼ぶのに、アーニャは難しい、ですか?」
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:15:53.55 ID:QXbKSZYO0
 ――それもそうか。
 確かに、私達は同じプロジェクトの仲間。立場は対等、だな。


「では、アーニャ」


 思い切って口に出してみると、思いのほか言いやすくて驚いてしまう。

 目の前の彼女は、とても嬉しそうに微笑んでいる。
 何だか気恥ずかしくなり、咳払いをして仕切り直した。

「アーニャさんは、アイドルになりたくて、この事務所に入ったのですか?
 レッスンへの姿勢を見ても、すごく誠実で、熱心に取り組んでいると思ったので」

 さん付けに直すと、彼女はどことなく残念そうに苦笑した。

 私にもペースというものがある。どうか斟酌してほしい。
 いや、斟酌という言葉も、彼女には少し難しいのか――。


「レッスンは、好きです。
 出来ないこと、たくさんあるから、それはとても、嬉しいことですね」
「嬉しい?」

 何が嬉しいのだろう。
 ひょっとして、言葉を間違えているのではないか。

 私が訝しむ表情を見せると、彼女はそれを“斟酌”したらしい。
 彼女は小さく頷き、丁寧に言葉を選びながら話を続けた。
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:17:56.20 ID:QXbKSZYO0
「出来ないことは、頑張ればいつか、出来るようになります。
 出来るようになると、フヴァリーチ……褒めてもらえます。
 小さい頃、パパとママはよく褒めてくれました。
 パパとママ、離れていても、それを思い出せたら、寂しくないですね」

「褒められる、ですか」
「ダー」

 まさしく、現在進行形で褒められているかのように、アーニャさんは嬉しそうに笑った。

「アーニャが素晴らしいアイドルになれば、パパもママも褒めてくれます。
 アーニャを送り出してよかったって……だから、頑張りたいです」


 ――なるほど。
 彼女は、ご両親の豊かな愛を受けて、すくすくと健やかに育ったらしい。

「チヨはレッスン、楽しくないですか?」

 アーニャさんが逆に尋ねてきたが、私はかぶりを振った。

「分かりません。
 おそらく、楽しいもつまらないも、無いのだと思います。
 要求に応えるのが、私の務めですから」


「ンー……チヨ、それはたぶん、良くないです」

 アーニャさんは立ち上がり、やおら私に手を差し伸べた。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:19:38.91 ID:QXbKSZYO0
「アーニャさん?」

 訳も分からず手を引かれ、大鏡の前に二人並んで立つ。
 こうして自分と比較すると、年齢の割に長身で均整な彼女のプロポーションが、より際だって見える。

「私と、ゲームしましょう、チヨ。
 勝った方が、好きなこと、命令できます。
 ミクとリイナが、よくやっていること。アーニャも、やってみたいですね」

 合点した。
 確かに、前川さんと多田さんは、レッスン中にお互い勝負事を持ちかけているのを度々見かけたことがある。
 どっちが上手くいったか、どちらがトレーナーに怒られる回数が少なかったか。

 でもそれは、アーニャさんが意図していることとは少し意味合いが違う。
 前川さんと多田さんは、同じユニットを組む同士である一方で、ライバル同士というか――平たく言えば、犬猿の仲だ。
 ユニットの主導権をどちらが握るのかを競うために、勝負をしている。
 それは、ゲームなどという穏やかな響きのあるものではない。

「どうでしょう、チヨ?」


「分かりました」

 だが、これも戯れだ。
 それでアーニャさんが納得するのなら、勝ち負けなどどうでもいい。

 ニコリと笑ったアーニャさんの背後、入口の扉がガラッと開いて、トレーナーが入ってきた。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:22:52.41 ID:QXbKSZYO0
「それで? アーニャちゃんは千夜ちゃんに何を命令したの?」

 その日の夜、私の部屋にはお嬢様ともう一人、アーニャさんが来ていた。
 寮の食堂でお嬢様がアーニャさんを見つけ、この定期報告の場に彼女を招待したのだ。

 ウキウキと興味津々そうに尋ねるお嬢様に、アーニャさんもまた紅茶を飲みながら笑顔で返した。

「今度のレッスンが終わった後、チヨ、アーニャの趣味に、付き合ってくれます」
「へぇー、いいなー。アーニャちゃんの趣味ってなぁに?」

「フフッ。ンー、セクレート……内緒、ですね」

 悪戯っぽく首を傾げる。
 年相応だけど、やはりそんな仕草の一つにも華があって、目を奪われてしまう。

「ただ、チヨはチトセの、アー……ジュウシャ? だから、あまり夜が遅くなったり、長くいるの、できないです。
 それは、仕方がないですね」
「ううん、いいよ♪」
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:24:20.40 ID:QXbKSZYO0
 お嬢様は首を振った。

「むしろシンデレラプロジェクトの皆には、千夜ちゃんのこと、どんどん誘ってあげてほしいの。
 色んなことをしてくれた方が、私も千夜ちゃんから色んなお話を聞けるからね」

「お嬢様、それでは従者としての私の務めが」
「大丈夫だよ、この寮は食堂に行けば美味しい食べ物があるし、念入りなお掃除がしょっちゅう必要になるほどお部屋も大きくないでしょ?
 あ、それとも私の言うことを聞けないのかな、僕(しもべ)ちゃん?」
「いえ、それは……」

 返す言葉が無くなり、黙って紅茶を啜る。
 プロジェクトの人達はもとより、お嬢様の戯れにも、最近は上手く返せなくなってきた。
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:26:20.53 ID:QXbKSZYO0
 しかし、予定された日のレッスンは午後の遅い部であり、終わる頃には夜だ。
 アーニャさんが言うには、それは夕食を食べた後に行うのだという。

 一体、彼女の趣味とは何だろうか?


 その日、寮の食堂を出ると、アーニャさんは外に出ることもなく、エレベーターに乗った。
 最上階まで上がり、降りた脇にある階段を、導かれるまま黙々と上っていく。

 彼女の目的地は、屋上か――来るのは初めてだ。


 塔屋の扉を開けると、広々とした空間に出た。
 手すりと、その外側に落下防止用の柵がグルリと外周を囲っている辺り、寮生も自由に出入りが許されている場所らしい。

「チヨ、見てください」

 アーニャさんが私にそう声を掛け、空を見上げた。
 黙って彼女に倣うと――。


 ――星、か。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:39:39.62 ID:QXbKSZYO0
 東京でも、こんなに見れるものなんだな。
 こうしてマジマジと見るのは、随分と久しぶりな気がする。


「ズヴェズダ……」

 アーニャさんの声が聞こえたので、振り返ってみると、星明かりに照らされた彼女の横顔があった。

「星、キレイ……キレイなもの、見るのは好きです」

「天体観測が、アーニャさんの趣味だったのですね」
「ダー♪」

 嬉しそうに、アーニャさんは一等星を見つけて指を差した。

「あれ、とても赤くて明るいですね」
「あの星は、きっとアークトゥルスかと」

 春の季節、南の空に上る一等星。
 うしかい座を司り、おとめ座のスピカとしし座のデネボラと共に春の大三角を構成する赤色巨星。

「改めて見ると、やはり美しいものですね」

 アーニャさんの視線に気がつき、思わず目が合う。
 とても不思議そうに私の顔を覗き込む彼女の瞳が、何だかおかしい。

「お嬢様にお付き合いして、星や星座の当てっこをしたことがありますから、多少は」
「フフッ。ハラショー!」

 キラキラと感激した様子で、アーニャさんは勢いよく私の手を取った。

「チヨは、ズヴェズダにも詳しいですね? すごいです」
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:42:24.27 ID:QXbKSZYO0
 アーニャさんが指差すものに、私が答える。
 彼女が笑う。
 アーニャさんから、自分にも聞いてみてほしいと言われ、私が適当な星を指差す。
 彼女が誤った回答をし、私がそれを正すと、彼女はキラキラとはしゃいで、また笑う。

 そんなことを、しばらく繰り返していると、時間が過ぎるのはあっという間だった。


「チヨも、キレイなもの、好きですね?」

 目に見える範囲の星々を一通りさらったのち、アーニャさんが微笑みかけた。
 彼女の碧い瞳にも小さな光がいくつも瞬いていて、見つめていると吸い込まれそうになる。

「美術館には、よく行きます」
「オー、ムゥズィエーイ……チヨの、良いものを見る目、それで育ったですか?」
「というより、無いものねだり、と言った方が正しいかと思います」
「シトー?」

 届かないからこそ価値がある、などと詩人を気取るつもりは無いが、確かに星は綺麗だ。
 過去から今に至るまで、想いを馳せた人が絶えなかったのも頷ける。

「美しいものには、それだけで価値があります。
 私自身、無価値であるが故に、そのような強さを感じるものに憧れるのです」

「チヨも、キレイですよ」

 アーニャさんが私の手を握る。
 日が落ちると少し肌寒い、中途半端な季節。
 その中にあって、彼女の手は、まるで細氷のように儚げな指をしているのに、羽毛で包まれたかのように温かい。

「チヨは、どうして昨日のレッスン、アーニャに負けましたか?」
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:43:51.61 ID:QXbKSZYO0
 明確なミスをした訳ではない。
 レッスンを終えた後、トレーナーから私達に対し、改善点の指摘があった。
 私への指摘の方がアーニャさんのそれよりも多かったため、私はそれを勝敗の判断基準とするよう提案したのだ。

「どうして、と言われても……実力の差としか、言いようがないと思います」
「ニェット」
 手を握る力が、少し強くなった。

「チヨは、アーニャに勝とうとしませんでしたね?」

「……それは、そうかも知れません」

 否定はしなかった。
 勝負というのは結果であり、なるようにしかならないこと。
 私とアーニャさんのどちらがより秀でているか。その結果を私達は確認しただけだ。

「決して手を抜いた訳ではありません。
 ただ、私はこの仏頂面ですから、その分トレーナーからの指摘を受けたということです。
 アイドルとしては、この顔は好ましい要素ではないでしょう」
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:45:29.41 ID:QXbKSZYO0
「チヨは、笑えます。だって」

 アーニャさんは、握った私の手を自身の頬に近づけた。

「アーニャに、ズヴェズダを教えてくれる時のチヨ、笑っていました」


 笑っていた――のか。自覚は無かった。

「私とて、感情が無いわけではありません」
 何となく照れ臭くなり、顔を背ける。

「今日は、チヨが笑ってくれるのを見れて、嬉しいです」


「私で良ければ、レッスンの勝敗に関わらず、いつでもお誘いいただいて結構です」
「本当ですか? チヨ、スパシーバ!」

 これからは、週に一度の夕方レッスンの日は、二人で天体観測をすることが決まった。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:46:52.67 ID:QXbKSZYO0
 なぜあんな事を言ったのだろう――。
 自室に戻ってから、椅子の上で一人自問している。

「あ、千夜ちゃんいた。ねぇねぇ千夜ちゃん♪」

 私には、お嬢様の世話をする義務がある。
 ただでさえ、学業やレッスン、仕事で時間と労力を割かれる中で、無駄な行いは避けるべきなのは自明だ。


 ――笑っていた、か。

「あれ? ……千夜ちゃーん、聞いてるー?」

 何が楽しかったのかな――。
 言われてみれば、悪くない感覚ではあった。

 アーニャさんを前にすると、妙に調子が狂うというか――不思議だ。

「千夜ちゃーん、千夜ちゃーん」


 昔、似たようなことが、どこかで――。

「千夜ちゃんってば!」
「わっ!?」
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:48:24.15 ID:QXbKSZYO0
 金色の長い髪をだらんと垂らし、上から覆いかぶさるように、お嬢様のお顔が私の目の前に現れた。

「お、お嬢様……お越しになられていたのですか。申し訳ございません」
「ううん、いいよ。
 珍しいね、気ぃ遣いの千夜ちゃんが自分の世界に籠ってボーッとするなんて」
「面目ありません。今、紅茶をお淹れします」
「謝らなくていいってば、悪いことじゃないと思うし。あ、それでね?」

 いつものように楽しそうなお嬢様の手には、気づくと一枚のDVDが握られている。

「アイドルのライブのDVDを、北条加蓮ちゃんって子から借りてきたの。
 千夜ちゃん、こういうの見た事ないでしょう?」

「お嬢様、今の時間からそのようなものをご覧になられては、ご就寝のお時間が……」
「大丈夫だよ、眠くなったら寝るし、千夜ちゃんも途中で好きに寝てくれていいから」

 勝手知ったる様子で、お嬢様は備え付けのテレビに内蔵されているDVDプレーヤーにそれをセットする。
 リモコンを操作し、画面が切り替わると、途端に華やかな衣装に身を包んだ女の人達が飛び出してきた。

「夜中ですので、音量は小さめでお願いします」
「はーい」
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:51:19.65 ID:QXbKSZYO0
 てっきり、346プロ所属のアイドル達によるライブイベントの映像かと思っていた。
 だが、実際に見てみると、収録されているのは他社のプロダクションが主催するライブのようだ。

 お嬢様の話によれば、貸した当人はDVDを間違えた認識は無かったようで、業界研究用ではなく、あくまでプライベート用に持っていたものだという。
 筋金入りのアイドル好きなのだろう。

 ステージに立つ一団の中央、マイクを持った女の子が観客席を指差して叫ぶ。


「一番後ろの人も、ちゃんと見えてるからねーー!!」


 以前、何かの本で読んだことがある。
 このような劇場で、演者の大まかな身振り手振りが視認できる視距離の限界は約40m。
 演者の細かい表情となると、20m程度が限界だという。

 これだけ大きな会場だと、舞台上の演者から、まして暗い客席の一番奥に座る観客一人一人の顔など、視認できる訳がない。
 パフォーマンスの一環と言えばそれまでだが、アイドルというのはこうして媚を売らなければならないのだなと、他人事のように感心する。


 しかし、映像の中にいる観客の盛り上がり方は尋常ではない。
 アイドルの言葉を鵜呑みにしているのか。それとも、真偽などどうでもよく、ただ騒ぎたいだけなのか。


 いずれにせよ、私のいる場所からは、遠い世界の出来事だな――。



 ――――。
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:54:02.19 ID:QXbKSZYO0
 ――――


 ――夢か。

 目の前で、あらゆるものが燃えている。

 私の大切だったもの――。


 いつもの夢だ。今さら、驚くべきことでもない。

 荒れ狂う炎を眺めているうち、直に目が覚める。

 私はただ、それを待つだけ。



 ――?

 誰だろう、見知らぬ人影が――炎の奥に立っているのが見える。

 背格好からして、子供。

 俯いて、とても、辛そうに――。


「カナール……」


 ――――
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:55:56.23 ID:QXbKSZYO0
 ――――。

 携帯にセットした二つ目のアラームの音に、起こされる。
 いつの間にか、布団に入って眠っていたのか。

 もしかして、お嬢様が私に布団をかけてくださったのか――?
 きっとそうなのだろう。またしても面目ないことをしてしまった。

 しかし、我ながら今日はいつにも増して寝覚めが悪いらしい。
 一つ目のアラームで起きないとは――。


 おそらく、今朝見た夢のせいだ。
 いつもと違う、あの子供、そして――謎の一言が、なぜか頭の片隅にこびりついている。

 あれは、誰だ?
 なぜ、あんな夢を――。

 “かなーる”って、何だろう――。



 まぁ、深く気にすることでもないか。
 分からないことは無視、だ。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 22:57:05.86 ID:QXbKSZYO0
   * * *

「李衣菜チャン! 今日はみくが早起き勝負に勝ったから、一日みくの言うこと聞くにゃ!」
「そんなのズルいよ! 昨日私が早く起きた時はそんなの言わなかったくせに!」
「ちゃんと約束したもん! つべこべ言わずに猫チャンになる!」
「じゃあ朝ごはん早食い勝負で勝ったらチャラね、よーいどん!」
「ああぁぁあフライングー!!」

 民宿の食堂で、今日も前川さんと多田さん――もとい、みくさんと李衣菜さんは、朝から言い争いをしている。
 ケンカするほど仲が良いとはよく言うが、あの二人を見るとあながち間違いでもないなと思う。

 ただ、いつもと違うのは――。


「智絵里ちゃん、さっき食堂のおばさんに聞いたら、後でスイカを振る舞ってくれるんだって。
 どっちがたくさん食べられるか、競争しよう!」
「ええぇぇ、そ、そんなかな子ちゃん、スイカって結構お腹冷えちゃうから、たくさん食べるとお腹壊しちゃいそう…」
「美味しいから大丈夫だよぉ」
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:00:50.85 ID:QXbKSZYO0
「しーぶりん! 朝ごはん食べたらランニングしよう、ランニング!」
「やってもいいけど、私は競走なんてしないからね」
「な、何で!? 人はなぜ走るのか、考える脚だからである。
 じゃあしまむーやろうよ! 勝った方が今日一日私をちゃん付けね!」
「うえぇっ!? わ、私は普段からちゃん付けですし、そもそも未央ちゃんが勝つの前提……!」

「きらりちゃーん! みりあ達とお皿片付けるの、競争しようよ!」
「えへへ、みりあちゃん莉嘉ちゃん、そんなにたくさん持つと危ないにぃ。きらりに任せて」
「アタシだって、家ではお姉ちゃんのこと、いーっぱい手伝ってるもんねー!」

「誘われても杏はもうやんないからね」
「いいえ、今日こそは勝つわよ。今夜、もう一度杏ちゃんの部屋でババ抜きしましょう」
「美波さんの部屋で勝手にやっててくんない?」


 346プロダクションによるサマーフェスを控えた、シンデレラプロジェクトによる夏合宿。

 元を正せば、みくさんと李衣菜さんに端を発する勝負事が、合宿が始まってからというもの、妙に流行りだしている。
 アーニャさんと私の話が、プロジェクトの間で広まったらしい。

 プロジェクトのメンバーではないが、広めたのはお嬢様だという噂話も聞こえてくる。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:02:18.06 ID:QXbKSZYO0
「そこまで憂慮すべき事態でもないと考えています」

 この風潮について、何となく申告してはみたが、コイツはどうも楽観視している。

「お前は、メンバー同士の穏やかならぬこの状況が、プロジェクトとして問題ではないと思っているのですか」
「お互いの不和に発展する場合は、問題であると思いますが」

 レッスン場の片隅に備えたデスクから立ち上がり、プリンタにある紙を取りながら、コイツは続ける。

「研鑽には目標が必要であり、これを満たす上で、競争心は有効に機能することもあります。
 とはいえ、白雪さんの仰るように、あまり関係のない事にまでいたずらに競いすぎるのであれば、健全ではないかも知れません」

「それは、何ですか?」
「今後の予定表と、フェス当日のセットリスト案です」
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:04:14.01 ID:QXbKSZYO0
 合宿の始期から当日までの、メンバー各々の予定とレッスン日程がビッシリ示されている。
 それまで他人事のように捉えていたものが、白雪という名前を見ると、ようやく我が事としての実感が湧いてくる。

「白雪さんは、このセットリスト、いかがでしょう」
「経験がないのに、聞かれても答えられるはずがありません」

 紙を返した。私は与えられた役割を果たすだけだ。

「一応のプロであるお前が良いと判断したのなら、それに従うのが現時点での最善です」

 私がそう言うと、コイツは首の後ろを掻いた。
 照れているのではない。なぜ、コイツは今困った仕草をしたのだ。

「どうか、皆さんの自発性を……「我」の強さというものを、あまり悪く思わないでください」

 コイツは頭を下げた。
 仕事の都合で、しばらく合宿の場から離れるらしい。そのための予定表か。


 いかに技能向上が望ましいとはいえ、戦わないに越したことなどないはずだ。
 競争など、くだらない。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:05:49.56 ID:QXbKSZYO0
「チヨ。一緒にチーム、組みましょう」

「何の、ですか?」
「リレー、ですね?」

 プロジェクトのリーダーに任命された美波さんから、どういう訳か提案があったらしい。
 二つのチームに別れて行うとのことで、アーニャさんが楽しそうに私に駆け寄ってきた。


 言ったそばからこれか。
 第一、これはステージパフォーマンスとは何も関係が無いのではないか。
 戯れにしても、度が過ぎている。

 だが、すっかり皆やる気のようだ。
 レッスンの時と同じか、それ以上に息巻いている。

 気分転換、というものか――。
 自身の器量の小ささ故に、必要以上のことを行ってこなかった私には、あまり馴染みがなかったことだと気づかされる。


「分かりました」

 これも戯れ。
 私一人の心情など、取るに足らないものであれば、流れに身を任せていればいい。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:08:48.44 ID:QXbKSZYO0
 と思ったものの――。

「はぁ、はぁ……!」

 い、意外と皆、本気でやるもんだな。
 遊びじゃないのか。何なんだこの殺伐とした空気は。

「ちよちー早く! らんらんが後ろから来てるよぉ!」
「チヨ! ダヴァーイ!」
「ぜぇ、ぜぇ……ふんす、わ、我が翼に宿りし魔力、今燃やし尽くす時、かひゅ……!」

 蘭子さんの猛追をやっとの思いで振り切り、杏さんにバトンを渡す。
 しかし彼女は、傍目にも明らかなほどにやる気の無いペースでノロノロと走り出した。

「ふ、杏さん、早く……せっかく私が、こんなに、が……頑張って……!」
「省エネ運転が杏の売りだからねぇ」

 こ、この人は――!

 結局、その予期せぬブレーキが響いてしまい、私達のチームは負けた。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:10:34.20 ID:QXbKSZYO0
 次は飴食い競争。
 ご丁寧に、小麦粉がたっぷり入った大皿をわざわざ用意するという力の入れようだ。

 これに、顔を埋めろと?

「うぅぅ……えいっ!」
 意を決して、智絵里さんが隣の皿に顔を突っ込んだ。

「早く早く! 千夜ちゃん、アタシもやりたいんだからぁ!」
 莉嘉さんが邪な理由で私を急かす。

 どうやらやるしかないらしいので、大きく息を吸い込んで飛び込む。
 途端、小麦粉が気管に入ったらしく、盛大にむせた。

「!? グエェッホ!! ウェホ、エホッ!!」
「ああぁぁ!! 千夜ちゃん! 千夜ちゃん大丈夫ですか!?」
「ば、バカ殿みたいな顔になってるよ千夜ちゃん!!」


 飴食い競争に参加した人は、何故か顔を洗ってはいけないルールが追加された。
 私達のチームはまた負けた挙げ句、さらに私は白粉まみれの顔を写真に撮られた。


 その後も競技は続く。
 ハンカチ落とし、二人三脚――モノマネ対決などというふざけたものもあった。

 疲労感に肩を落としつつ、最後の競技は、大縄飛びだ。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:11:37.91 ID:QXbKSZYO0
「きらりさんは、杏さんを抱っこしながら飛んでください」
「随分な言い方だね」

 杏さんはややヘソを曲げているが、私は合理的な提案をしているにすぎない。
 どうせこの人はまともにジャンプをする気など無いに決まっている。
 この期におよんで、勝つために手段を選ぶ必要があるのか。

「あ、ちよちー。大縄飛びはチーム対抗じゃなくて、私達皆でやるんだって」
「えっ!?」

 こ、ここまで来て、私は負けっ放しでいろと――!?


「意外と千夜って、ムキになるところあるんだね」

 凛さんが少し驚いた様子で私を見つめる。
 それを見つめ返していると、ほどなくして彼女は吹き出した。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:13:18.87 ID:QXbKSZYO0
「何で笑うんですか」
「ごめん。でも、やっぱりそれ、おかしくて」
「好きでこんな顔になっているのではありません」

 そのやり取りを見ていたアーニャさんも、クスクスと笑っている。

「アーニャさんまで、私をおかしいと笑うのですか」

 そう言うと、アーニャさんは「ニェット」と首を振った。

「おかしいでは、ありません。
 チヨが楽しそうなのが、嬉しいです」

 何が楽しいものか。
 もういい。こんな戯れ事はさっさと終わらせようと、私は美波さんに進言し、大縄飛びが始まった。


 背が低い私は、先頭に立たされた。
 体を縮こませ、かつ脚は高くジャンプしなければならない。
 負担の大きいポジションではあるが、誰かが務めなければならないことだ。

 きらりさんは美波さんと大縄を振る役割を担ったため、杏さんはしんがりを務める。
 大変だなんだと文句を言っているが、今さらご託を並べないでもらいたい。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:14:46.54 ID:QXbKSZYO0
「5…6…7…8、あ、あぁぁ!」
「何やってるにゃー! 李衣菜チャン!」
「そ、そんなこと言われたって!」

 李衣菜さんが脚を引っかけ、みくさんがすかさず責め立てる。
 面倒ごとが大きくなる前に、私は仲裁に入った。

「言い争いをしている暇があったら、すぐに再開しましょう。その方が生産的です」
「く、くひひ……ち、ちよちー、そんな顔でまともな事言われると逆に……!」
「な、何ですか!」

 未央さんが茶化したのをきっかけに、皆が笑う。
 みくさん達も、一緒に笑っているうちに仲直りしたようだ。


 この顔で、もう余計な事は言うまい。
 ただ無心で飛ぶのみ。
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:16:26.13 ID:QXbKSZYO0
「……44…! 45…! 46…う、わああああ!」
「ごめんなさい! 私が、今のは私がぁ、うぅぅ…!」
「大丈夫だにぃかな子ちゃん! 何度でもやり直そう?」
「ダー! キラリの言うとおりです」

 くっ……そろそろ脚が、上がらなくなってきた。
 震える膝に両手をつき、肩をガックリ落として必死で呼吸を整える。

「ち、千夜ちゃん、大丈夫ですか?」
「はい……ありがとうございます、卯月さん。まだ大丈夫です」

 ふと杏さんの方を見る。
 彼女は怠そうにしながら、Tシャツをパタパタとはたいている。
 汗は多少かいているものの、顔色はさほど変わっていないようだ。

 端っこ同士、条件は私と杏さんで同じのはずなのに、この違いは何だろう。
 どうやら彼女には、無視できないレベルの技術ないし基礎体力が備わっているらしい。


 美波さんが、目標回数を下げることを皆に提案した。
 だが、皆は一様に首を振った。
 ここまで来たのなら全員でやり遂げようという、気迫のこもった未央さんとみくさんの回答があり、皆もそれに同調したのだ。

 私も、それには同意見だった。
 冷静に考えれば、こんな戯れ事に意味は無いのだけど――いや、このまま終わったら、本当に意味が無いままで終わってしまう。
 それは私にとっても我慢がならないことだった。
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:18:08.98 ID:QXbKSZYO0
「……95…! 96…! 97…! 98…!」

 これもようやく――ようやく、終わる。

「……99…!! ひゃくーーっ!!!」


 悲鳴のようなカウントが夕暮れの広場に弾け、同時に皆の体が一斉にその場に崩れ落ちた。

 さすがに、これは堪えたな――。
 膝と両手をつき、肩で息をしているうちに、目の前の地面に汗がいくつも垂れていく。
 顔についていた白粉は、とっくに剥がれ落ちているだろう。


「チヨ」

 ふと、視界が少し暗くなった。
 何とか体を起こして見上げると、アーニャさんがペットボトルを持って目の前に立っている。
「お水です」
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:20:20.72 ID:QXbKSZYO0
「……ありがとうございます」

 この人の、これだけ気配りができる余裕はどこから来るものなのか。
 彼女の行いは、私が黒埼家で行っているような使命感、義務感とは、まるで毛色が違う。

 アーニャさんは私の隣に腰を下ろし、自分のペットボトルをクイッと一口飲んで息をついた。

「チヨ、楽しかったですか?」

 首を傾げ、星が舞う碧い瞳を私に向ける。
「ミナミが、気にしていました。ワガママに、皆を付き合わせてしまったかと」


「……分かりません。
 これが楽しかったのかも、フェスの完成度を上げるために必要なことだったのかどうかも。
 ただ、疲れました」

 私はかぶりを振って、空を見上げた。
 先ほどまで青い空に上っていた積乱雲はいくつにも千切れ、茜色に染まりながら暢気に浮かんでいるのが見える。

「こんなにボーッとした、のんびりした気分は、久しぶりです」


 フフッ、と弾けるような小さな笑いが、隣から聞こえる。
 見ると、アーニャさんはもう一度水を一口飲んで、どこか思わせぶりにこう言った。

「はぁ……アズマシィ」
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:23:13.08 ID:QXbKSZYO0
 ――あずましぃ。

「あっ! アーニャ、それってどんな意味!?」

 遠くの方でかな子さん達と談笑していた未央さんが、耳ざとくアーニャさんの呟きを聞きつけて駆け寄ってくる。

「ふっふーん、私、当ててみせよっか。
 このシチュエーション、この雰囲気から推測するに、アズマーシィ、その意味はズバリ「縄跳び楽しい」っ!」
「いや、そんな限定的な単語無いでしょ」

 凛さんの指摘はもっともだ。
 それはロシア語ではなく――。

「それたぶんロシア語じゃなくて北海道弁だよ」


 未央さんと凛さんが、杏さんの方に向き直った。
「そうでしょ、千夜?」


 彼女、北海道の人だったのか――私は、首肯した。

「あずましいというのは、心が落ち着くとか、居心地が良い、満足とか、そう言った意味の言葉です」
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:24:55.55 ID:QXbKSZYO0
「えっ、ちよちーも北海道出身なの!?」
「はい」

「ええぇぇ、でも、そんなズルいよアーニャ!
 だってさっき、明らかにロシア語っぽく「アズマァースィ〜」って流暢に言ってたじゃん!」

 未央さんが訳の分からない難癖をつけ、頬を膨らませて憤慨してみせる。
 その仕草のおかしさに皆が笑い、未央さんもまた楽しそうに笑った。


 まぁ――お嬢様への良い土産話になったと思えば、悪くない。

 この合宿で留守にする間、ずっとお世話ができずにいた。
 いくら寮のサービスが整っているとはいえ、従者としての最低限の務めは――。

 ――?


「……北海道、覚えていますね、チヨ」


 アーニャさんから感じる、潤沢な愛に満たされた心の余裕は、私には無いものだった。

 それを疎ましく思ったことは無い。
 卑屈な思いをさせられたことも無い。

 彼女は、私に無いものを与えてくれる。何の見返りも期待せず。


 ただ、その時のアーニャさんの笑顔は、なぜか少し寂しそうに見えた。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:26:37.46 ID:QXbKSZYO0
   * * *

 当日は生憎の天気だった。
 それはシンデレラプロジェクトにとって、ある意味幸いだったかも知れない。

「ふっ……ッ……!」
「チヨ、良い感じです。焦らなくても大丈夫、ですね」

 特に、私にとっては。


 事の発端は、美波さんがリハーサルの直前に倒れたことだった。
 プロジェクトのリーダーというプレッシャーを背負い込み、高熱を出してしまったのだ。
 偶然女子トイレを通りかかったスタッフが、洗面所の前でうずくまっている彼女を発見したという。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:28:37.68 ID:QXbKSZYO0
「ごめんなさい……! うぅ、うっ、ううぅ……!!」

 医務室のベッドの上で、ひどく無念そうに泣きはらす美波さんを、沈痛な面持ちで見守るメンバー達。

 思うに彼女は、気ぃ遣いが過ぎたのだ。
 リーダーに抜擢されてから、ずっとそうだったが、特に今日は会場に着いた時から、熱の入れようが異常だった。
 重責に耐えるため、自分を納得させるために率先して動き回ったのは良いが、心と身体のバランスが取れずに自壊した。

 故に、美波さんに感謝や同情をする人はいても、責め立てることなど出来はしない。

 そんなところだろう。
 黒埼の従者としての務め以上の気配りを他人に行う余裕がない私には、理屈は分かっても理解は難しい。


「セットリスト、どうするの? プロデューサー」

 凛さんが、いつになく不安そうな表情でアイツに問いかける。


 ソイツは、少し手を口元に当てて考え込み、タブレットを幾度か操作すると、私達に向き直った。

「セットリストは、このままで行きます」
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:30:19.49 ID:QXbKSZYO0
 メンバーが一斉にどよめく。

 お前、状況が分かっているのか?
 美波さんがこのような状況になっていて、ラブライカの曲をどうやり遂げようと言うのか。

「こちらに接近していた台風は、今では太平洋側に抜けて、天候も回復傾向に向かうようです。
 これからステージマネージャーらと協議し、開演を1時間ほど遅らせるように提案しようと思います。
 その間」

 ソイツは一度、言葉を切った。
 ほんの少しだけ、私の目を見た、気がした。

「新田さんの代わりにラブライカを……アナスタシアさんのパートナーを、どなたかに務めていただきたいのです。
 開演までの間、可能な限りラブライカの振付を習得していただきたいのですが、お願いできないでしょうか」
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:32:20.81 ID:QXbKSZYO0
 ――視線を感じる。
 言うまでもなく皆の、そして、誰よりもアーニャさんの視線を。

 確かに私は、アーニャさんと親しくさせていただいていた。
 というより、何故かアーニャさんが積極的に私との交流を図ってくれると言った方が正しい。
 それは、断る理由も無かったし、悪い気もしなかった。

 ラブライカでない時のアーニャさんが、いつも何となく私と一緒にいることを、美波さんを含め、メンバーの誰もが認識していた。
 彼女と呼吸を合わせる適役は一人しかいないと、皆はすっかり思い込んでいる。


「遠回しな言い方などせず、ハッキリと私に命じたらどうですか」

 結果が見えていながらそこにたどり着かない部屋の空気に業を煮やし、つい言葉に棘が出る。
 私は、ソイツに一歩踏み寄った。

「お前が一言言えば、それで済む話です」

 私の後ろで「ちょっと千夜チャン……」と零すみくさんの声が聞こえた。
 当のコイツは、困ったような顔をして首の後ろを掻いている。

 困らせるような事は言っていない。私は事実を言っている。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:34:19.62 ID:QXbKSZYO0
「ニェット、チヨ」

 声が聞こえた方を振り向くと、いつも優しく微笑んでいるアーニャさんが、険しい顔をして私を見つめていた。

「プロデューサーもアーニャも、チヨに言ってほしいです。
 チヨは、アーニャと一緒のラブライカ、やりたくないですか?」


 ――アーニャさん、そういう言い方はズルいと思います。

「あっ! ちよちー、首の後ろを掻いた」
「プロデューサーとおんなじだね!」

「えっ?」

 ふと、自分の手を見つめた。
 私の手が、いつの間に首へ――?


「白雪さん」

 向き直ると、ソイツは、少し柔らかくなった部屋の空気に少しも表情を緩めることなく、私を見つめていた。

「あなたの抱く感情は、もっともです。
 無言の圧力で、あなたに押しつけるような形となり、大変申し訳なく思います。
 当然に、この責任はプロデューサーである私が取ります」
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:35:39.04 ID:QXbKSZYO0
 決して折れない定規を背中に刺したまま、ソイツはその姿勢そのままの真っ直ぐな目で私を見つめ続ける。

「ですが、私はあなたの主体性に期待したいと考えました。
 図々しいお願いであることは承知しておりますが、能動的な一歩を踏み出していただきたい。
 自分から投げ出すことで得られるものを、その目で見てほしいのです。
 アイドルとは、その連続です」



 ――まったく、コイツは勝手なことをばかり言う。

「お前はウソつきですね」
「えっ?」

 いや、ウソつきというなら私も同じか。
 対等と言いながら、私に命じろなどと――。

「あるいは、バカです……バーカ」


 聞こえよがしに盛大なため息を吐いて、私は顔を上げた。

「お前と私は対等の関係。
 そういう約束だったことを、私も忘れていました。
 故に、責任を持つべきはお前ではなく私。いちいちお前に指図されるまでもありません」
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:37:20.88 ID:QXbKSZYO0
「チヨ……!」

 随分と面倒なことになった。だが、四の五の言ってもいられない。
 幸いにして――と言うのが正しいかは分からないが――私はアーニャさんにせがまれ、『Memories』の振付を戯れで模倣したことはある。

 当初の開演時間まで、あと2時間弱――。

「伸ばせる時間は1時間と言いましたね。
 できれば、私達の出番は原案よりも後半に組んでください。
 少しでも長い練習時間を要求します」

 戯れ――そう。
 乗りかかった船の上で、黙って興じるだけのことだ。


 ありがとう、ありがとう――。
 ベッドの上から、美波さんの涙声が聞こえる。感謝されるいわれなど無い。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:39:10.04 ID:QXbKSZYO0
 元々、私のソロ曲は用意されていなかった。
 お嬢様を差し置いて、一人で先を行くことを良しとしなかった私が、アイツにそう要求したためだ。

 故に、与えられる仕事は、ほとんどがグラビアと呼ばれるビジュアル重視の内容がほとんどだった。
 ステージに立ったことも何度かあったが、どれも他の誰かのバックダンサーとしてのもの。

 今日の出番も、最後にプロジェクトのメンバー全員で歌う『GOIN'!!!』しか予定されていなかった。
 つまり、余力という意味でも、私が最も代役として適任ということになる。
 さほど労することなく、『Memories』の振付はアーニャさんと通しで確認することができた。

 後は、歌詞を間違えずに歌いきるだけだが、これについては、演者向けに表示されるディスプレイがあるらしい。
 ステージにて、機材の動作確認をしていたスタッフが、両手で丸印を作った。
 先ほどまで大雨に降られていただけに故障が心配されたものの、どうやら問題は無いようだ。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:41:48.58 ID:QXbKSZYO0
 開演を30分後に控え、スタッフ用の通用廊下に掲示されたセットリストをもう一度確認する。

 ●MC(前川みく・多田李衣菜)
  M17 「LEGNE -仇なす剣 光の旋律-」Rosenburg Engel(神崎蘭子)
  M18 「できたてEvo! Revo! Generation!」new generations(本田未央・島村卯月・渋谷凛)
  M19 「Happyx2 Days」CANDY ISLAND(双葉杏・三村かな子・緒方智絵里)
  M20 「LET'S GO HAPPY!!」凸レーション(城ヶ崎莉嘉・諸星きらり・赤城みりあ)
  M21 「OωOver!!」*(Asterisk)(前川みく・多田李衣菜)
  M22 「Memories」LOVE LAIKA(アナスタシア・新田美波)→白雪千夜
 ●MC(城ヶ崎美嘉)
  M23 「GOIN’!!!」CINDERELLA PROJECT


「緊張してきた? ちよちー」

 未央さんがひょこっと、横から私の顔を覗き込んできた。
 この人は、つくづく他人に対する心の壁というものが無いらしい。
 彼女の後ろには、凛さんと卯月さんもいる。

 私が出番の繰り下げを進言した時、これに応じて出番を入れ替えてくれたのが、未央さん率いるニュージェネレーションズだった。
 彼女は普段から、プロジェクトのメンバー内でも率先して協力的な姿勢を示し、ムードメーカー役を担うことが多い。
 美波さんを表のリーダーとするなら、未央さんは裏の、第二のリーダーとも言うべき人だろう。

「分かりませんが……緊張をする必要も筋合いも、無いと考えています」

 そう、元々私は無価値。
 まして代役で果たすべき役割に興じるだけのことに、手前勝手な緊張など――。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:43:22.12 ID:QXbKSZYO0
「ヒツヨウもスジアイも、無いと考えていマス」


 私の言葉をオウム返しに、それも何故かしかめ面をしながら冗談めかして未央さんは言った。

「そんな事言ってぇ〜。知らないぞ〜、私もそうだったけど初ステージってすっごく緊張するんだから!」
「今からそんなプレッシャーかけてどうすんの、まったく……千夜、気にしないでいいからね」
「千夜ちゃん、人を! 人を手のひらに書いて飲み込むといいですよ!」


 三者三様でありながら、この人達に共通して言えることは善意だ。
 代役とはいえ、初の舞台に立つ私を気に掛けてくれている。

「ありがとうございます」

 素直な言葉が自分の口から出たことに、ふと驚いた。

 軽くあしらおうとして発したものではない。
 彼女達にどう受けとめられたかは分からないが、私にしては、確かな湿り気のある言葉だ。


 少し、心臓の鼓動が早くなっている。
 アーニャさんともう一度確認をしておきたくなり、私は三人に断りを入れて踵を返した。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:45:23.81 ID:QXbKSZYO0
 ――――。


「あ、ありがとうございましたぁ!」
「たぶん電車混むから、今日は早めに帰った方が良いよ」
「あ、杏ちゃん、終わる前からそんなこと言わないで!
 あの、これから登場する子達も、いっぱい応援してください!」

 キャンディアイランドの三人がステージを降りる。
 私とアーニャさんの出番は、この後に登場する凸レーションの、次の次だ。

 舞台の袖から、こうして様子を見るのは初めてだ。
 それは当然のことだった。ライブイベントを直に見たことさえ無かったのだから。

 1時間の順延をした甲斐もあってか、雨は今では止み、会場は満員に近い観客達による真夏の熱気に満ちている。


 ――――。


「お前」
「はい」

「アーニャさんはどこにいる」
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:47:31.48 ID:QXbKSZYO0
 おそらく、美波さんの様子を見に行っているのだろうと推察された。
 私が懸念しているのは、美波さんの容態でもあり、彼女の本来のパートナーであるアーニャさんが、ステージに集中できないのではないかということだ。


 それだけだ――そ、それだけ――。

「アナスタシアさんは、直にこちらにお越しになるのではと思います」
「どこにいるのかと聞いているんです!」

 思わず上ずった見苦しい声に、スタッフの何人かがこちらを振り返ったのが見えた。

「あ、う……す、すみません、私は、ただ……」

「白雪さん」

 ソイツは、大きな膝を畳んで私の前に屈みこんだ。


「初舞台は、誰もが緊張します。あなただけではありません」



 咄嗟に何も言い返すことができないのが情けない。

 膝の震えが、止まらない――。


「私は……お、お嬢様が……」
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:49:13.21 ID:QXbKSZYO0
 そう、今日はお嬢様だけでなく、黒埼のおじさまがわざわざ会場へ来てくれることになっている。
 従者として、粗末なものは見せられない。

「黒埼家の、じゅ、従者として……私は、果たすべき……!」
「それよりも、白雪さん」

 急に両肩に手を置かれ、私の体が跳ねた。


「今のあなたは、シンデレラプロジェクトの力になりたいと願っているように、私には見えます」


 胸の奥が大きく響く。
 しかし、どういうわけか、目の前のコイツの瞳から、目をそらすことができない。


「今のあなたが感じていることは、メンバーの一員としての責任感と、皆さんとの思い出、絆。
 これを守りたいがための緊張だと、私は思います。
 あなたは、正常です。何も恥じることなどありません」


 ――知った風なことを、コイツは。

「どうか、自分を無価値などと、思わないでください。
 守りたいものができたあなたと、アナスタシアさんなら、何も心配はいりません」


 つくづく――私のことを、好き勝手に、知った風なことを――。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:51:03.44 ID:QXbKSZYO0
「イェーイ、みんなーありがとーー!!」
「この後もぉ、すーっごく可愛ぃ子たちがたくさん登場するから、楽しんでってにぃ☆」
「みりあ達もまたあとで出てくるからねー!」

 いつの間にか、凸レーションの出番が終わったらしい。
 次の、みくさん達の出番が終わったら、私が――。

「チヨ」


 振り返ると、ステージ衣装に着替えたアーニャさんが、私の後ろで真っ直ぐに立っていた。

「アーニャさん……」

「チヨ、手を」

 彼女の指が私の手に絡み、ギュッと握りしめられる。
 細いのに温かい、とても不思議な、彼女の手。

 鼓動が、ゆっくりと小さくなっていく――。


「アズマシィ、ですね?」


「……そうですね」
 私はかぶりを振ったが、アーニャさんにつられ、つい小さく笑った。

「あずましいです」
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:53:14.52 ID:QXbKSZYO0
 出番が訪れ、意を決してアーニャさんと二人、ステージに立つ。

 美波さんが急遽リタイヤしてしまった旨は、既に冒頭でアナウンスされている。
 彼女の出番を期待してきた観客は、代わりにやってきた私を見てさぞガッカリすることだろう。

 そう思っていた。


「――――ッ!?」

 観客の熱気と、歓声の圧に押され、思わず身じろぎをした。

 これは皆、ラブライカのファンによる声援のはず――そうではなかったのか?
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:55:48.09 ID:QXbKSZYO0
 後になって知ることだが、あの場には私の出番に期待して来たという観客も一定数いたらしい。
 元々、ステージパフォーマンスの仕事が多くなかっただけで、思い返せば、他の仕事での露出は少なくなかった。

 アイツの宣伝戦略、と認めるのは些か釈然としないが――。

 差し詰め、シンデレラプロジェクトの隠し球――アイツは、私をそう位置づけたのか。
 それで観客の期待感を煽り、今日のこの場で起爆するよう周到に仕込んでいた。

 だから、私の名前がプリントされた団扇を振る人もいた。
 なんと物好きな――。

「せぇーの、千夜ちゃあぁーーーーん!!!」


 一際大きな歓声が上がった一角に目を凝らす。
 あれは――。

「お……お嬢様っ!?」

 いや、お嬢様だけではない。
 一切伝えていなかったはずなのに、お嬢様や私が通う学校の同級生まで来ている。
 なんと、あんな品の無いペンライトを、黒埼のおじさまが振るうなんて――!

 動揺するなという方が無理な話だった。

 再び心臓の鼓動が早くなる私の手を、アーニャさんが握った。


「ダヴァーイ、チヨ♪ 一緒に、楽しみましょう♪」
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/22(金) 23:59:05.55 ID:QXbKSZYO0
 ――――。

 一言で言えば、上出来だったのだろう。


 歌い終わり、二人で観客席に向かって頭を下げると、割れんばかりの歓声が上がった。
 アーニャさんが微笑みながら、彼らに手を振っている。

「チヨも。皆、喜んでくれますね?」

 促されるまま、胸の前で小さく手を振ってみる。

 ――た、ただ手を振っただけなのに、何の冗談かと思うほどの反応だ。

「アーニャさん、も、もう良いです行きましょう」

 これ以上はなんだか、現実の出来事として受け止めきれない。
 頭がおかしくなりそうだ。
 踵を返し、大股で歩いて舞台袖へ捌ける。


 降りた先では、メンバーの皆が手厚く出迎えてくれた。
 無我夢中でしかなかった私のパフォーマンスを褒めてくれているようだった。

「すごかったわ、千夜ちゃん! 私の立場がなくなっちゃいそう」
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:01:25.83 ID:1/ZkFkMM0
「……美波さん!?」

 なんと、メンバーの中には、先ほどまで医務室で寝ていたはずの美波さんまでいた。
 いつの間にかステージ衣装に着替え、ピンシャンとしている。顔色も良い。

 初舞台を終えたばかりで冷静な思考ができない身に追い打ちをかけられ、すっかり頭が混乱している。
 一体、どういう事なのか?

「ごめんね、千夜ちゃん。
 実は、予め皆で話し合っていたことなの。プロデューサーさんや、ちとせちゃんとも、ね」


 話を聞くと、どうやらお嬢様の差し金だったらしい。

 シンデレラプロジェクト内で、唯一自分の持ち歌が無い私に、お嬢様は疑問を抱いた。
 そして、アイツに問い質して事情を把握し、私を表舞台に引きずり出そうと画策したのだ。
 それは、私を起爆する機会を覗っていたアイツにとっても利害の一致があったのだろう。

 リーダーである美波さんにその意志が伝えられると、彼女の方から今回の“作戦”が提案された。
 つまり、アーニャさんのパートナーとして登場する方が、私にとっても良いだろうという、彼女の配慮だったのだ。
 他のメンバーも、皆一様にこれに賛同したという。


 納得した。どうりで無言の圧力があったわけだ。
 アーニャさんが私に、戯れに振付の模倣をせがんでいたのも頷ける。
 不自然なほど統制が取れていた学校の同級生の一団があったのも、当然にお嬢様の音頭によるものだろう。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:08:13.47 ID:1/ZkFkMM0
「でもさ、ちよちー。楽しかったでしょ?」

 後ろから肩をポンッと叩かれ、未央さんがニカッと歯を見せて笑う。

「これからもぉーっと楽しいことが待ってるにぃ☆」
「そうだよ、皆での全体曲があるもの!」

 そうだった。
 まだ、私の――私達の出番があったのだな。


「それでは、新田さん。後はよろしくお願いします」
「はいっ」

 アイツが舞台の上へ手を向ける。
 目の錯覚かと思った。アイツが、ニコリと笑っているなど――。

「それじゃあ、皆。
 私達の今日最後の締めくくり、私達の最高を、最高のお客さん達に精一杯届けましょう!」

 アーニャさんが、そっと私に寄り添った。
 足を指差し、小声で何かを伝えようとしている。

 足を――?
「足を、鳴らします。一緒に、ですね?」


「シンデレラプロジェクトっ!!」

 ダンッ!
 という、一斉に踏み鳴らした足の群れに、私も加わった。

「ファイトーー!! おぉーーー!!!」
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:21:00.83 ID:1/ZkFkMM0
 曲が始まると、その場の空気の隅々が一斉に熱を帯び、私達と共に音と光が縦横無尽に弾け飛ぶ。
 お嬢様もそこにいるであろう観客席は、もはや言うまでもないほどの盛り上がりようだ。

 ラブライカの『Memories』とは違い、『GOIN’!!!』は前々からしっかり練習を積んでいた曲だ。
 それに、今のこのステージ上には、馴染みのある15人のシンデレラプロジェクトのメンバーが勢揃いしている。


 ずっと不思議だったことがある。
 観客が行う、いわゆるコールと呼ばれるものだ。
 今日初めて披露される新曲でも、こうして観客がピッタリ息を揃えて声を出し、ペンライトを振るうことができるのはなぜだろう。

 皆に聞いてみたところ、どうやら入場した際に予めパンフレットと一緒にコールを示したものが配られるらしい。
 それは、観客にもステージ上のアイドル達と一体となって楽しんでもらうための配慮なのだろう。

 事実、まるで観客達と会話をしているかのように、私達の歌にペンライトの群れが呼応する。
 然るべきタイミングで与えられるコールが私達の気力を引き上げ、同時に観客のボルテージも上がっていく。


 先ほどよりも、ずっと落ち着いていることに気づいた。
 こうしてステージを見渡し、観客の反応を楽しむ余裕さえある。


 ――楽しい?
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:22:08.62 ID:1/ZkFkMM0
 アーニャさんとの天体観測の時といい、最近の私はどうかしている。

 これは、あの日お嬢様と一緒に見たライブの映像と、よく似ている。
 私がいるべき世界とは、まるで遠いものだったはずの――。

 それが、どうして楽しいなどと――。

「――ッ!? あっ…!」


 突如、私の上体がグラリと揺れた。
 ステップを踏み外し、足があるべき所に着地しなかったのだ。

 私の体は、そのまま無様にもんどり打って倒れ――。



 るはずだった。

 すんでの所で私の手を引いたのは、凛さんだった。


「り……ッ!?」

 そのまま彼女は何食わぬ顔で――私も、彼女に倣ってステージを続けた。
 時間にしてみれば、コンマ数秒のことだっただろう。

 最後の曲も、そうして無事に、終わった――。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:23:57.31 ID:1/ZkFkMM0
「はぁ……はぁ……!」

 あのまま倒れていたらと思うと、ゾッとする。
 皆とのステージを台無しにするところだった。


 ――皆との?

 お嬢様にお見せするステージが、ではなく?


 最初に脳裏をよぎった言葉の妥当性を自問する。
 私は、アイドルである以前に、黒埼家の従者であるはずだ。
 第一に考えるべきはお嬢様――。


「……え?」


 ともすれば地響きさえも起こしている観客席から、ふと毛色が異なる高音域の歓声が上がった。

 見上げると、ステージの上をキラキラと、白い何かが舞っている。



 これは――雪?
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:28:05.28 ID:1/ZkFkMM0
 近く、世界的なスポーツの祭典が東京で行われるに辺り、その暑さ対策が様々に検討されていた。
 この日に舞い降りた雪も、その一環だったという。
 つまり、人工雪による冷却効果の実証実験を行う場として、346プロがその事務局側の公募に応じたのだ。

 真夏とはいえ夜間の、しかもアイドルのライブという、様相も条件も異なるものにも採用された辺り、まるで節操が無い。
 だが、346プロはこれを効果的なステージ演出として利用できると考え、実際その目論見は奏功したと言えるだろう。


 ちらちらと降る雪を、諸手を挙げて拾い上げようとしながらはしゃぐ観客達。
 ステージ上のアイドル達も、思った以上に綺麗に煌めくそれに、誰もが弾けるような笑顔を浮かべている。

 雪、か――。
 ルーマニアでは、一度お嬢様と雪合戦を――。

「white snow……」


 大歓声のステージ上で、流暢な英語が唐突に、それも――。

 とても小さな声だったのに、なぜか私の耳に強く響いた。


 案の定、というべきか、それはアーニャさんの声だとすぐに分かった。
 彼女の方に顔を向けると、しっかりと視線が合ったからだ。


「チヨの名字……ですね?」
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:28:43.17 ID:1/ZkFkMM0
「……アーニャさん?」



 後になって知ったが、人工雪による演出は、アーニャさんの強い希望があったのだという。

 その時の彼女も、いつか見た時と同じ――まるで、泣き出したいのを必死で誤魔化すような――。


 何かを言いたいのを堪えるような、寂しい笑顔だった。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:30:45.13 ID:1/ZkFkMM0
   * * *

 ――――


 無理にとは言わないが――養子になる気はないのかい?


 もちろん、君のお父さんもお母さんも、たった一人しかいない。

 私に代わりが務まるなどという、思い上がったことを言うつもりなんて無い。


 だが――君さえ良ければ、私達を本当の家族だと思って、接してくれていいんだよ。

 ちとせもあの体だし、私の仕事の都合もあって、同世代の友人があまりいなくてね。

 歳の近い妹のような子がいた方が、あの子も喜ぶだろう。



 どうかな――?


 ――――
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:32:26.87 ID:1/ZkFkMM0
   * * *

「はぁぁ……ハラショー……」

 上野にある美術館。
 その大広間に飾られた絵画の一つを見て、アーニャさんが感嘆の声を漏らした。
 やはり大作というのは、人の心に残るだけの力がある。

「クロード・モネの『睡蓮』ですね。
 1900年代初頭ですから、彼の晩年におけるシリーズのうち、比較的早期に制作されたもののようです。
 柔らかで温かみのある色使いと光の表現は、モネならではかと」
「はあぁぁぁ……」


「すっかりツアーコンダクターだね、千夜」

 私とアーニャさんの後ろから、凛さんがからかい混じりに感心した様子で声を掛ける。

「これくらいのことは、何でもありません」
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:34:08.12 ID:1/ZkFkMM0
 あのフェス以降、私達の仕事は劇的に増えた。
 私でさえ、それまではグラビアだけだったものが、最近は歌う仕事の方が多くなっている。
 346プロの他のアイドルがパーソナリティを務めるラジオ番組のゲストに呼ばれたり、あろうことかテレビに出たこともあった。
 それをこなすためのレッスンも比例して増えたため、ますますお嬢様のために費やす時間が無くなっていく。

 本来、あまり望ましいことではないのだが――。
 そのような生活の中で得た貴重なオフを、お嬢様のためではなく、こうして他の人達と過ごすという選択をしている辺り、いよいよ私はおかしくなってきている。

「チヨ、これは何ですか?」

 余計な思考に耽るのをまるで茶化すように、アーニャさんはもう次の作品の前にいる。
 楽しそうだ。凛さんも、悪い気はしていないように見える。
 誘って良かったと思う。

 ただ――。


「セザンヌのようですね」

 後ろから、黒くて大きい定規が私のそばを通り過ぎた。
 アイツの位置から、おそらく作品の名前までは判読できていないはずだ。

「オォ〜〜。プロデューサー、すごいです。知っているんですか?」
「過去に、見覚えがあった気がしたもので」
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:35:46.87 ID:1/ZkFkMM0
 私は呼んだ覚えはない。なぜか、アーニャさんと凛さんが誘ったのだ。

 しかし、なかなかどうしてコイツも、絵画に対する造詣が深いように見える。
 畑は違うとはいえ、アイドルという芸術を作り上げるものとして、一定の教養は持ち合わせている――ということか?

「プロデューサー、あそこにも似たようなもの、あります。
 一緒に、行きましょう。ダヴァーイ♪」
「あ、アナスタシアさん。あの、腕を……」


 ――――。

 ああいう過度なスキンシップは、プロデューサーとして節度を持って断るべきではないのか。

「千夜、千夜ちょっと、怖い顔してる」
「何か」

 私が仏頂面であると言いたいのならいつもの事だ。
 今さら凛さんが注意すべきものでもないだろう。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:36:58.95 ID:1/ZkFkMM0
「今日は、ありがとう千夜。
 アーニャだけじゃなくて、私まで誘ってくれて」

 アイツとアーニャさんが私達を置いて先に行ってしまったのを見計らい、凛さんが改めて私に声を掛けた。

 確かに、日頃からお世話になっているアーニャさんとは、一緒に美術館に行きたいとはずっと思っていた。
 ただ――。

「凛さんにも、お世話になっていますから……ですが、お誘いしたのには、理由があります」
「えっ?」

 そう、凛さんにはお世話になった。
 彼女がいなければ、あのフェスはどうなっていたことか知れない。

 だからこそ呼んだのだが、それは単純な感謝の気持ちだけによるものではない。

 そう、今は二人だけ。タイミング的にもちょうどいい。


「なぜ、凛さんはあの時、私の手を引くことができたのか。
 それをお聞きしたかったのです」
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/11/23(土) 00:39:39.44 ID:1/ZkFkMM0
 どうしても分からなかった。

 あの『GOIN’!!!』で、私と凛さんのポジションは、確かに隣同士ではあった。
 それに、一緒にレッスンを重ねてきていたし、複雑なライン移動もピッタリ呼吸を合わせてこなせるまでになっていた。

 だが、基本的には個の集合体であるはずのものだ。
 移動で導線が交わる以外は、私と凛さんは当然に各々別の場所で歌い踊っているにすぎない。

 いくら隣同士とはいえ、私が倒れようとした瞬間に手を伸ばして助けることなど、人間の反射神経ではまず不可能だ。
 それとも、私があそこで転ぶことを予め予測していたとでもいうのだろうか?


「あぁ……あれは」

 凛さんは、平静を装っているものの、気恥ずかしそうに頬を掻いた。
 そうして、「うーん……」と言葉を選びながら、悩ましげに俯いている。


「千夜は、納得しないかも知れないけど……そういうものなんだよ、きっと」
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