一ノ瀬志希「ほころび」

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89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 00:47:32.50 ID:SYS+AFC90
 年配の先生の話が、夕美ちゃんの昔話になってきた。

 どうせ言うことは決まっている。
 あの子は良い子だった、優しい子だった。
 興味深いけど、彼女を見つけたい今のあたしにとっては、聞くまでもない内容だ。


 先生の相手をプロデューサーに任せ、あたしは外に出て、夕美ちゃんが世話したという花壇を見つめた。

 マーガレット、アルメリア、パンジー、ゼラニウム――チューリップはもう少し先かな。
 どれも丁寧に揃っていて、葉っぱの色も青々と綺麗。
 虫に食われたあとも見当たらない。


 夕美ちゃんが帰る場所――ここ以外にどこがあるというのか。

「キミ達は、夕美ちゃんから何も聞いてない?」

 ツンツンと花弁を突いてみる。
 返事が無いことなんて、分かりきっているのに――。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 00:49:13.98 ID:SYS+AFC90
「まったく……ヘンなところで大胆すぎるよ、夕美ちゃんは」

 と、ため息をついたあたしの鼻腔を、花の香りがふわりと刺激した。



「大胆……」


  『えへへ、ハズレー♪』



「…………キンモクセイ?」


  『はいっ! キンモクセイの花言葉は何でしょう、志希ちゃん?』


91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 00:51:46.43 ID:SYS+AFC90
 ――キンモクセイの花言葉は『大胆』だ。
 少なくとも、あたしが作ろうとしているピンクのキンモクセイは、それだと決めている。
 それはともかく。


 なぜ夕美ちゃんは、あの日あの場所に失踪していたあたしを、オンタイムで見つけ出すことができたんだろう?

 ずっと気になっていた。
 マグレだと彼女は言ったけど、どう考えても不可能なはずだった。


 そう――ずっと、あたしは固定観念に囚われていたのかも知れない。

 あの日の夕美ちゃんが、あたしを見つけ出すためにあの場所を訪れたわけではなかったとしたら――?


  『帰ろっか!』



 晴れた日の公園の、青空の下に咲く夕美ちゃんの眩しい笑顔が鮮やかに蘇る。

 あたしは走り出した。
 プロデューサーのことを待とうなどとは考えもしなかった。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 00:56:26.98 ID:SYS+AFC90
 一旦事務所に戻り、夕日が差し込むガレージに駆け込む。
 ピンクのキンモクセイは健在で、夕美ちゃんが来た形跡は――ちょっと期待していたけど、やはり無かった。

 でも、落ちこむことはない。
 あたしの予測は確信に変わっている。

 夕美ちゃんは絶対にあそこにいる。
 でなければ、夕美ちゃんがあの日、あの丘に現れた理由がない。

 東京で、夕美ちゃんの帰る場所が他にあるとすれば、あそこしかない――!


 夕美ちゃん、もう大丈夫なんだよ。

 夕美ちゃんを陥れようとした連中は、直に真実を知った世間によって裁かれる。
 あの件で、夕美ちゃんを責める人は誰もいなくなる。

 あたしと一緒に、まだまだアイドルを続けられるよ。

 活動再開の計画立案はプロデューサーに任せて、家財はゆっくり揃え直したらいい。
 なんならあたしの部屋に一緒に住もうよ。

 そうだ、それがいい!
 せっかく空っぽにしたあの部屋は、夕美ちゃんとあたしの植物園にしちゃおう!
 いっそ大々的に部屋中をリフォームしてさ、フローリングを剥いで土をぜーんぶ敷くの。
 空調も高くてしっかりしたヤツを入れて、厳格に温度や湿度管理ができる部屋も作ろう。
 夕美ちゃんの希望に応じて、あたしが品種改良して新しいお花もポンポン開発しちゃえば、あたしも楽しいし夕美ちゃんも――。


 ――楽しい、でしょ?
 だから。


 一緒に帰ろう。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:00:05.17 ID:SYS+AFC90
 地方に出る電車は、夜遅くにも関わらず満員だった。
 それは、普段電車を使わないあたしにとっては知る由も無い経験で、後ろの人から押されただけなのに、サラリーマンのおじさんから舌打ちをされた。

 あたしもつい、にらみ返した。
 大事なキンモクセイが潰される所だったのだ。
 でもそれは、おじさんにとっては全然どうでもいい話で、むしろこの満員電車の中、デッカい植木鉢を抱えるJKこそ迷惑な存在であろうことも知っている。
 余裕が無いのはあたしの方。

 都心部を離れ、建物も少なくなってくると、窓の外はすっかり闇一色になっていく。
 乗客もだんだんと減り、いつの間にかあたし以外に同じ車両の人は、数えるほどしかいない。


 あの時の駅でも、夜に降りるのは初めてだから、全然違う場所にしか見えなかった。
 ICカードを改札にかざすと、残金はギリギリだ。

 乗り越し精算機が無いけど、チャージする時はどうすればいいんだろう。
 どうでもいいことがいちいち思考を妨げる。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:02:28.53 ID:SYS+AFC90
 街灯が心許ない、真っ暗闇の道路をあの公園に向かって歩く。

 身震いがしたので、コートのチャックを目一杯上げた。
 春が近づいてきたとはいえ、陽が落ちれば吐く息が白くなるほどに寒くなる。
 キンモクセイを下げた袋を代わりばんこに持ち替え、こまめに手を温める。

 手袋、してくれば良かったな――。

 夕美ちゃんは、こんな寒い夜の公園に、本当に一人でいるのかな――。


 いつからあたしはこんなに臆病になってしまったんだろう。

 どうして、要らない不安を掻き集めてしまうんだろう。


 この世界には二つしか無いんだ。
 予測できるものと、できないもの。

 夕美ちゃんがいるか、いないか――それだけだ。
 どっちかの事実しかないんだ。

 仮説したとおりの事象が発現されれば嬉しいし、想定外の事態が起きれば、それはそれで――。



 ――――。



 公園が見えてきた。自然と歩みが早くなる。

 もうすぐ、夕美ちゃんに会える――!
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:06:07.08 ID:SYS+AFC90
 営業時間という概念が無いのか、公園の入口には柵もロープも架かっていない。
 ポケットに手を突っ込み、無造作に置かれたペンキ缶に、ありったけのコインを入れる。

 まるで神社だかお寺だか――どっちか分かんないけど、そういう超常的で不明瞭なものに祈ってすがるなんて、極めて非合理的だ。
 だけど、きっとそういう感覚に近いものだった。


 遊歩道に入り込むと、いよいよ足元が見えなくなるくらい真っ暗だ。
 スマホのライトを照らして、樹海を探検するように木々に囲われた道を慎重に歩く。

 以前来た時よりもずっと時間をかけて開けた視界には、月明かりに照らされてかろうじて輪郭を帯びた丘が右手に映った。

 ――人影は、無い。



 いや――ちょうどあのデカいキンモクセイの裏側にいて、ここから見えないだけかも知れない。


 丘に向かって真っ直ぐに歩く。
 所々、思ったより勾配がキツい所がいくつかあって、勇み足を踏み出す度につまづいた。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:09:20.95 ID:SYS+AFC90
 ようやく丘の上にたどり着き、肩で息をしながら辺りを見渡す。


 ――――。


 呼吸を整え、しんと耳を澄ましても、風が木々の葉っぱを凪ぐ音すらもしない、静寂そのものだ。

 ここにも、いないの――?



 ――――。

 にゃははは、なーんだ志希ちゃんの予測大ハズレー♪

 冷静に考えて、そりゃそうだよね。
 こんな寒い日に一人でここに来て、夕美ちゃんが一体何をしようというのか。

 大体、今の時間じゃ終電もない。
 仮に今日一度ここに来ていたとしても、今頃はもう帰っているだろう。

 とんだピエロだ。
 すっかりあたしの思考回路は、ほころびまみれのポンコツに成り下がっていた。

 夕美ちゃんのせいなんだよー?
 にゃはは、まったく――。


 さて、と。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:12:15.27 ID:SYS+AFC90
 キンモクセイが植わった、その根元に腰を下ろす。

 そこにあたしは、予め持ってきたスコップで穴を掘り始めた。

 普段いじっている、人の手が加わってふっくらした土とは違い、自然の中にある土というのは岩かと思えるくらいに硬くて、全然勝手が違う。


 そういえば、夕美ちゃんは花壇以外の土もこうして耕したことあるのかな?
 なーんて。

 どうでもいいか。
「結構大変だよね? 掘るの」





 背後から聞こえたその声に、あたしの体がピタッと止まった。



「もう何年前になるかな……私も、このキンモクセイを植えた時、すごく手こずったの覚えてるから、分かるよ」
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:15:43.36 ID:SYS+AFC90
 気づくと夕美ちゃんは、いつの間にかあたしの隣に座っていた。

「貸してっ」
 言うが早いか、あたしの手の中にあったスコップをサッと取って、穴を掘り始める。

 あんなに手強かったはずの岩がザクザクと土塊に変わり、見る見るうちに穴が大きく深く広がっていく。

「本当だったら、キンモクセイみたいに大きな根鉢を植える時は、片手サイズのじゃなくて、もっと大きなスコップがいいんだけど。
 こういうのは、ただ突き刺すんじゃなくて、手首をこう、何ていうのかなぁドリルみたいに捻って返してあげるといいの。
 それと、根鉢とピッタリのサイズだと、周りの硬い土より外に根が広がっていかないから、少し大きめに……っしょ、っと……」

 逆手に持ち替えて、今度はだいぶ乱暴にスコップを突いて、穴の側面を削っていく。

「よっ、ほ……えへへ、あの、小手先のコツだけだと、本当に硬い土が相手じゃ、限界があるでしょ?
 だから、こうや、って! ちょっとちから、まか、せっ! に! っと……ふぅ、志希ちゃん交代っ」

「……にゃははー、オマカセあれ!
 ただ、あたしは箸より重たいものなんて持てないからすぐ代わってねー♪」
「さ、さっきまで志希ちゃん自分でやってたでしょ!?」
「キミがいなかったからー♪」
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:19:38.27 ID:SYS+AFC90
 あたしがチョビッと広げ、夕美ちゃんが手直ししてくれた穴に、二人でピンクのキンモクセイを植えた。
 文句なしの『大胆』を彼女に想起させるほどのドギツい真っピンクが保たれているかどうかは、暗くて分からない。

「はぁ……ちょっと、休もっか」
「そうだね」


 スッキリ澄んだ寒空に、熱を帯びた二人の息が溶けていく。
 見上げると、東京とは思えないくらいたくさんの星が一面に輝いていて――。

「綺麗」
 って、思わず言っていた。
 視線に気づいて隣に目を向けると、夕美ちゃんが膝を抱えながら優しく笑っている。

「夕美ちゃん」


 あたしも、笑おうとした。
 強張ってしまったのは、寒さのせいだけではきっとなかっただろう。

「あたしとさ……アイドル、続ける気は、ある?」
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:22:10.36 ID:SYS+AFC90
 夕美ちゃんは、どこか困ったように、視線を外した。


「うーん……」


 あ――もういいや。

 そっか。


 そっかそっか。

 そうそう、夕美ちゃんは気休めのウソもつけない子なんだよね。

 あたしは膝をポンと叩いた。

「じゃあさ! にゃはは、そこで志希ちゃん、とっておきのイイものを持ってきてまーす♪」

 キンモクセイを入れてきたものとは別の袋を思わせぶりにゴソゴソとあさり、サッと取り出す。


「ほら、じゃじゃーん! 缶ビール〜〜♪」


 ガレージの冷蔵庫に、プロデューサーがコッソリ入れていたヤツだ。
 こんな事もあろうかと、キンモクセイと一緒に回収してきたのだ。

「はいっ、お互いの良き労働に感謝しよー。
 夕美ちゃん大学生なんだし、あたしよりもお酒なんて慣れっこでしょ? にゃははー♪」
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:28:07.50 ID:SYS+AFC90
 無理矢理夕美ちゃんの手に一本持たせて、あたしはプルタブに指を掛けた。

 プシュッと開けると、うわっ。

 あ、そっか、炭酸だもんね。
 ここに持ってくるまでにたくさん振っちゃったから、泡が無限にわき出てきて、手がベトベトになっちゃった。

 構わず一口付けてみる。

「……うぇ、にっがい」
 おまけに匂いもあんまし好きじゃない。

 何でプロデューサー、こんなのが好きなんだろう。
 彼にあたしをどうこう言える筋合いは無い。 


 ――でも。

「にゃっはっはー! 未成年飲酒成功ー!」


 スクッとその場に立ち、目の前に広がる星空に向けてダーンッとあたしは缶を突き出した。

「この様子を発信しちゃえば、あたしは炎上確定。
 夕美ちゃんの件みたいに誤解が生まれる余地も無い。
 誰にとっても分かりやすい悪事で、擁護や弁解のしようも無い。
 みーんなあたしを叩くだろうし、あたしも反省する姿勢を見せなければ大問題になるだろうね。
 あ、そうだ、さっきからプロデューサーからの着信がすごいんだけど、さっそく記念にあたしの写真撮って送ろっか? にゃはははー!」
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:33:12.73 ID:SYS+AFC90
 彼女の方を直視することなく、澄み渡る夜空にあたしの笑い声を無理矢理に溶かしていく。

 全部全部、何もかも忘れさせてやりたかった。
 夕美ちゃんの思考も。今回のことで、怒ったり悲しんだりした人の思考も。

 もちろんあたしも。
 くだらない事象で埋め尽くして、この世界をどこまでもどうでも良くしてやろうなんて。

「にゃっはっははは、そうだ夕美ちゃん!
 すっごく良いアイデアがあるんだ。夕美ちゃんあたしと一緒に住もうよ。
 でね? 夕美ちゃんの部屋は全部リフォームして植物園にしよう。プロデューサーへの説得はあたしがしよー。
 大丈夫、手段を選ばなければ同意を得るのは難しくないよー実践したことは無いけど。心配しないで。
 アイドルとして活動できなくても籍を置かせてもらえればいいし、それが無理なら別に違う場所を二人で探せばいいし。ねっ?
 夕美ちゃん、何も……」

「志希ちゃん」


 振り返ると、夕美ちゃんは、小さく笑っていた。
 渡した缶ビールは、開いていないままだった。


「ありがとう。志希ちゃんのそういう優しさ、私、大好きだよ」
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:37:14.50 ID:SYS+AFC90
「……いや、優しいっていうか、あたしのワガママなんだけど」

 やっぱり夕美ちゃんは分かってないなぁ。

「あたしがそうしたいからそうするの。
 そうして皆を振り回し続けて今のあたしがあるの。謙虚とは最も遠い…」

「これは、推測なんだけどね、志希ちゃん」


 夕美ちゃんは、もう一度穏やかに笑った。

「たぶん志希ちゃん、実は、ワガママってあまり言ったこと無いと思うんだ……違うかな?」


「あたしが、ワガママを?」

 この子は一体何を言い出すのかにゃ?
 なーんかいよいよ話が噛み合ってこなくなってきた?

「今でも絶賛ワガママ発揮中なの分からない? ビールも強要するし、一緒に住むのだって」
「ううん」

 首を振り、そのまま彼女は少し手持ち無沙汰そうにビールを見つめる。

「なんて言うかな……
 じゃあ、志希ちゃんからもらったこのビール、私がポイッて投げ捨てちゃったら、志希ちゃんは怒る?」
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:39:35.34 ID:SYS+AFC90
「ん? ううん、むしろ笑っちゃう」

「じゃあ、「ごめんね、一緒に住めない」って言ったら、どう?」
「事情にもよるけど、まぁそうかーってカンジかにゃ?
 気持ちは分かるからねー、あたしが言うのもなんだけど」

「うん、だからね……」


 しばらく間を置いて、夕美ちゃんは、あたしの顔を真っ直ぐに見つめてきた。

「たぶん、志希ちゃんは、何にでも客観的になりすぎているんだと思う」


 ? 一理ある――かも知れない。

「本当のワガママって、私が何て言おうと、「やだ!絶対こうしなきゃダメ!」って、無理強いすることだと思うの。
 志希ちゃん、あまり主観を押しつけるような事ってしないでしょ?
 そりゃあ、すごい事を言って皆をビックリさせる事が多いけど、たとえ自分の思い通りにならなくても、そんなに怒らないのかな、って」
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:41:54.51 ID:SYS+AFC90
「にゃははは、思い通りにならない事なんてケミストやってりゃ日常茶飯事だからねー♪」

 全てが二つに一つだった。
 予測通りに行くか、行かないか。白か黒でしかないのだ。

 いちいち一喜一憂していられるほど、ドラマティックな現場ではない。
 むしろ、黒が起きてもわんだほーを叫んでいた方がよほど楽しいことだってある。


「だからもっと、志希ちゃんは主観的になっていいと思うんだ。
 確かに、化学者さんって、色々と冷静に観察をしなきゃいけないかもだけど……でも、志希ちゃんはもう、アイドルなんだから。
 どんな時でも我を通して、本当の意味で夢中になった時の志希ちゃんを、私はずっと見てみたいのに……
 物事に対して、謙虚になりすぎていないかなって、いつも思うの」



「……まさか夕美ちゃんから、そんなお説教を聞くことになるとはねー」

 一体全体、どの口がそんな事を言えるというのか。

「夕美ちゃんの方こそ、人のこと言えるの?」
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:45:23.63 ID:SYS+AFC90
 ビールを一口飲んだせいか、寒空の下にも関わらず、体の芯がボゥッと熱っぽい。
 次の瞬間、あたしはたぶん、ありったけの怒りをこの子にぶつけてしまう。


「聞いたよ。あの子が不倫騒動をでっち上げようとしてたの、夕美ちゃん、事前に聞かされてたんでしょ?
 なのに、それを咎めて怒ることも、止めることもしなかったって。
 何でそんなことを許したのか、あたしにはこれっぽっちも理解できない」


「うーん……」
「うーんじゃなくて!」

 あたしは夕美ちゃんの優しさが好きだ。
 でも、こういう時に言葉を選ぶのは間違ってる。

「聞きたいことはまだあるよ。夕美ちゃんは何でアイドルをやめる気なの?
 知らないなら教えてあげるけど、あの騒動はもう解決したんだよ。
 でっち上げた犯人はどこぞの芸能事務所のオタク俳優とウチの候補生。きっと明日には真実が明かされて夕美ちゃんの疑いは晴れる。
 誰も夕美ちゃんを責める人なんていなくなるんだよ、やめる必要なんてなんにも無い、誰もそんなの望んでない」
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:48:20.97 ID:SYS+AFC90
「たとえそうだとしても……たぶん、あたしを見て、悲しい、嫌な気分になっちゃう人も、いると思うから。
 真実がどうっていうより、イメージが大事だと思うの。
 アイドルって、お客さんを楽しませるのが仕事だから、余計に。
 気分を悪くする人がいるなら…」

「他人のせいにするの、ズルいよ。自分の意志を他人に依存させないでよ!」

 夕美ちゃんは、とても困ったように苦笑している。
 その表情が余計に腹立たしくて、こんな感情任せになるのはカッコ悪いのに、でも止められない。

「夕美ちゃんがどうしたいのかを教えてよ。
 大体、イメージが悪くなったっていうなら、ますますあの子達のせいじゃん。
 何でそれを見過ごしたの? それとも夕美ちゃんは元々アイドルなんてやりたくなかった?
 そんなはずない。レッスンだってあんなに頑張っていたでしょ、夕美ちゃん。
 あの子なんて、夕美ちゃんに比べれば全然大したこと無かったのに、何でそんな子のために遠慮する必要があるの?
 一部の人間の八つ当たりと身勝手のために、あの頑張りを無駄にしていいって、そう言ってるんだよ夕美ちゃんは!」



「あの人……私が入るずっと前から、事務所で候補生やっていたんだって」
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:52:39.38 ID:SYS+AFC90
 夕美ちゃんの声は、あたしの乱暴で不細工な声とは違って、どこまでも穏やかだった。

「オーディションもいっぱい落ちて、だけどプロデューサーさんと一緒に、何度も励まし合いながらお互いに頑張って、それでも一向に芽を出せなくて……
 そんな時に、志希ちゃんのパートナーとしてスカウトされたあたしが、あっさりステージに立っちゃった。
 自分に容姿が似ている子が……大して違いもしないのに」

「情状酌量とでも言いたいの?」

 全くのナンセンスだよそんなの非合理的で実にニホンジン的っ。

 斟酌すべき事情があれば悪いことをしていいなんて理屈が通るはずがない。
 一つの事象には一つの結果。罪には罰だ。許す理由がどこにあるだろう。


「志希ちゃん……少しだけ、私の話、聞いてもらってもいいかな?」

 自分の隣の芝生をポンポンと叩いて、夕美ちゃんはあたしを見つめた。


「私が、ここに来た理由」



 ――――。

 黙って、夕美ちゃんに従い、あたしはそこに並んで座った。



「ここに初めて来たのは、小学校の時だったの」
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:55:49.47 ID:SYS+AFC90
「夕美ちゃんのお花の先生と?」
「お母さんから、聞いたの?」
「大体ね」

「その先生はもう、私のクラスの担任じゃなくなってたんだけどね」

 夕美ちゃんは、少しだけ楽しそうに笑ってくれた。
 美しい思い出を話す時は、こうしてちゃんと笑顔になれるんだ。

「四年生の遠足で来た時は、この丘の上にも、私があそこの遊歩道から誰よりも早く、一番乗りで走ったの。
 私、男の子よりもかけっこが速かったから、運動会でリレーの選手とかにもなってたんだよ」
「へぇぇ〜」
「まぁそれはともかく」

 夕美ちゃんがチラリと後ろを振り返ったので、あたしもそれに倣った。
 視線の先には、大きなキンモクセイがある。そのそばには、さっきあたし達が植えたピンクのキンモクセイも。


「全然、話飛んじゃうんだけどさ……志希ちゃん、イチゴって育てたことある?」

「イチゴ? あの、食べるストロォベリィーのイチゴ?」
「あははは! うんっ、それ」

 くだらない発音に笑ってくれた夕美ちゃんを、あたしは訝しんだ。
 話がどこに着地していくのか見えなくて、知らず不信感を抱いてしまっている。

「うん……そうだね。育てたことあるって人は、あまりいないかも」

 小さく頷いて、夕美ちゃんは視線をボーッと前方に向けた。
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 01:58:54.25 ID:SYS+AFC90
「遠足に行く、一年くらい前だったかな……家の庭に、イチゴを育てたいって私、お母さんに言ったの。
 私も、お父さんもお母さんも、イチゴは好きだったから、たくさん実がなるように大事に育てようって、さっそく植えて。
 それで、志希ちゃん知ってた? イチゴって、すごく繁殖力が強い植物なの。
 放っておくと、ランナーっていう弦がどんどん辺り一面に伸びていって、根っこも力強いんだよね」

 ふふっ、と小さく笑う――その表情はどこか自嘲的で、先ほどとは色合いが違う感じがした。

「イチゴがどんどん庭を占領していって、私が大好きな他のお花達も、気づいた時には枯れちゃって……
 それで……イヤになって引っこ抜いちゃったの。イチゴを、全部。
 こんなに他の子達に迷惑をかけるような子なんてイヤだ、って……えへへ、本当は、私がちゃんと育ててあげられなかっただけなのに、本当に無責任だよね」

「子供だもん、しょうがないよ」
「うん……ありがとう。
 それで、その日はたまたま先生が家に来てくれる日だったの。
 そう言えば、何もアドバイスを受けていなかったのを、その時に気づいて……」

「先生は、何て?」

「思いっきり引っぱたかれちゃった」

 えへへ、ともう一度笑った。先ほどの表情の理由はこれか。
 とはいえ、あの写真で見る限りは優しそうなお婆ちゃん先生が、そこまでしたとは驚きだ。

「命を粗末にするなとか、育てる責任を放棄するなんて何事だー! みたいなカンジ?」
「もちろん、それもあったけどね……先生が本当に怒ったのは、別のところにもあって」
「…………」
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:03:36.85 ID:SYS+AFC90
「迷惑をかけられて困っている子を助けたかっただけなのに、って、私は先生に言って……そんな、泥だらけになって泣く私の頬を、先生は叩くから、いっぱい泣いたなぁ。
 それで、えぇと……先生はね? 迷惑って何かしら、って私に聞いたの」

「迷惑とは何……小学生の女の子に対して、なかなか哲学的な問いだね」
「本当にね。優しそうに見えて、結構厳しい先生だったんだよ?」

 厳しい先生、か――あたしには実感が無い人種だった。

 強いて言えば、ダッドだろうか。
 ただ、彼もあたしに無茶苦茶な要求こそすれど、怒ったり叱ったりされた記憶は無いから、まぁ、あれで一応愛されてはいたのかも知れない。

 プロデューサーは、あたしを叱りつけてばかりだけど、もはや諦めてそうな面もあるし。

 鉄拳制裁を行使して矯正してやろうという人は、とうとうあたしの周りには現れなかったなぁ。


「一切の迷惑をかけない人が、この世にいると思う?
 自分は誰にも迷惑をかけたことが無い人だと、夕美ちゃんは自分でそう思うの? って先生は言ったの」


「それ、ちょっと意地悪じゃない?」

 思わずムキになってしまった。
 当時の彼女達が掘り下げるべきはそこじゃないと思った。

「夕美ちゃんが言及したのは、イチゴちゃんが他のお花達に迷惑をかけたことの是非についての話でしょ?
 そして、それを引っこ抜いた夕美ちゃんの是非。
 迷惑をかけたことが無い人しか正義を振りかざしちゃいけないとか、そう言いたいんだとしたら、先生の話は論点のすり替えだよ」
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:05:32.27 ID:SYS+AFC90
「あはは、そう、かな……それを小学生の私が理解して、その時反論できていたら、違ったのかも知れないけどね」

 ワガママを言う子をあやすような笑い方だ。
 困った子供扱いされた不満よりも、夕美ちゃんを困らせてしまった事への申し訳なさが勝る。

「ごめん、話の腰を折っちゃったね」
「ううん、いいの。それで、そう……ちょっと違ったかな。先生の言いたかったことは」


「誰も悪い子なんていない。迷惑なんていうのは自然界には無い。
 自然は、皆が必死になって生きようとするんだから、結果として必ず誰かが割を食うし、泣いたり、傷ついたり、死んじゃう子だっている。
 それ自体に良い悪いなんて無いの。
 夕美ちゃん、あなたが学ぶべきは、生きるためのいかなる行為には寛容でありなさいということ。
 それと、そういう生物の摂理に手を加えることには、必ず責任が伴うことを知りなさい、って」

「…………」


「全然、当時の私には理解できなくて……その次の日、家出しちゃった」
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:08:20.09 ID:SYS+AFC90
 小学4年生の遠足の1年前――3年生で初失踪か。
 プロデューサーの話といい、あたしの失踪デビューは世間一般に比べると遅い方だったのかも知れない。

「携帯も持たずに、電車に飛び乗って……どうやって来たのか、まるで覚えてないんだけどね。えへへ。
 どんどん人里を離れていって、少なくなってきた乗客の人達が、一人ぼっちでいる私を不審そうに見てて……
 逃げるように降りたのが、あそこの駅。無人駅だったから、たぶんお金払わないで飛び出しちゃったと思う」

 それにしても、夕美ちゃんは本当に行動力がある。
 小さい頃からそれは変わらなかったらしい。

「トボトボ歩いた先に公園があって、丘の上に座って……お日様も傾いてきて、お腹も空いて……
 先生の言葉が頭の中によぎって、お父さんとお母さんを思い出したの。
 心配しているかな、余計な迷惑をかけちゃったかなって、うずくまって泣いて……そしたら」


「……先生が来た、なんて言わないよね?」
「えへへ、正解ー♪」

 たまたま先生は、その公園の管理人さんと知り合いで、ちょくちょく草木の手入れをしていたのだという。
 夕美ちゃんを見つけた先生も、さぞビックリしただろう。

 あの日あたしを見つけた夕美ちゃんも、それは同じだったのかも知れない。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:11:11.07 ID:SYS+AFC90
「キンモクセイを植えようと、先生、すごく大きな鉢を持ってきていたんだ。
 私も手伝わされたんだけど、本当に土が硬くて大変で……
 植え終わった後に、先生がおにぎりをくれたの。あれは美味しかったなぁ」

「その時に、キンモクセイの花言葉を?」
「私が志希ちゃんにしたように、先生にクイズを出されたんだ。
 私も、志希ちゃんと同じことを答えて、「えー!?絶対ウソだよ!」なんて文句言ったりして」
「にゃははー、なぁんだ」

 二人で笑い合う。
 偉そうにあの日、私に講釈をしてみせた夕美ちゃんが、どこか滑稽に思えてしまった。

「先生、優しかった……お父さんとお母さんは、ちょっとだけ怒っているけど、心配はいらないわ。
 私からもご両親には言っておくから、夕美ちゃんは決して萎縮はしちゃダメ。
 迷惑だなんて考えないで、好きなように、これからも元気に伸び伸びと生きなさい。
 ただ」

 夕美ちゃんは、後ろを振り返った。

「この場所と一緒に、慎み労る気持ちは、忘れないようにしましょう。
 心のどこかには、他者を尊重し、寛容となれるよう、謙虚な部分も残しておきなさい、って」


 ――なるほど。
 まさにそれは、今日の夕美ちゃんの人生哲学となったわけだ。

「やっぱり、思い出の場所だったんだね。夕美ちゃんにとっても、ここは」
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:15:30.46 ID:SYS+AFC90
「次の年、ここに遠足で来るのを提案したのも、先生だったの。
 この素敵な場所を皆にも一番に教えたくて、私、はりきっちゃったなぁ」


 それからというもの、定期的にこの場所にも通って、先生の草木の手入れを手伝っていたのだという。

 やがて時が経ち、先生が足を悪くしてからは、それを引き継いで――。


「私がプロデューサーさんにスカウトされて、アイドルになるって連絡したら、先生すごく喜んでくれたんだ。
 最近、少し元気が無くなってきていたから、お世話になった先生をたくさん元気にできるならって、私も……」



「…………夕美ちゃん?」

 夕美ちゃんの言葉が、突然途切れた。


 見ると、夕美ちゃんは唇をギュッと小さく振るわせて、目には涙を溜めている。



「あまり、言いたくなかったから…………先生のこと、週刊誌の人とかに……」
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:18:22.50 ID:SYS+AFC90
 ――そうか。

 自身の潔白の証明のために大切な人の死を晒し、それを辱めてしまうことを彼女は避けたかったのだ。
 だから、あの日に起きたことを夕美ちゃんは黙して語ろうとしなかった。


「志希ちゃん……私、あのね……」


「先生が死んじゃったからアイドルをやる理由が無くなった、なんて言わないで、夕美ちゃん」


 あたしは夕美ちゃんの手を握った。
 いっそ、あたしの手を払って、恩人の死を軽々しく口にした私の頬をそのまま叩いてくれたらと思った。

 でも、夕美ちゃんはあたしを受け入れた。

「夕美ちゃんを陥れたあの子達を、夕美ちゃんが止めなかった理由は分かったよ。ほんのちょっとだけ。
 でも……もしあたしがもっとワガママを言うべきだって思ってくれているなら、夕美ちゃん……やっぱり、アイドル続けてよ。
 夕美ちゃんにとっての先生と同じくらい、夕美ちゃんはあたしに綺麗な思い出をたくさんくれたんだよ?」
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:21:40.10 ID:SYS+AFC90
「ありがとう、志希ちゃん……本当にありがとね」


 夕美ちゃんが私の方へ顔を向けた時、綺麗な瞳から大粒の涙が一つ流れた。

「その無遠慮な優しさは、私だけじゃなくて……皆にも与えてあげて。アイドルだから」


「……あたしは、夕美ちゃんに受け取ってほしいのっ!」

 あたしは繋いだ手を乱暴に解いて立ち上がった。

「何でっ! 調子の良いことを言っておきながら、あたしのワガママを受け入れてくれないのかなぁ!?
 アイドルがどうとか言うなら、夕美ちゃんこそアイドルを続けるべきだよ、あたし……あたしなんかよりずっと!
 あたしだけのために一緒にアイドル、もっとやろうよ!」

「ごめんね、志希ちゃん」

 月明かりに照らされた夕美ちゃんの笑顔に、涙がポロポロと星のように光って浮かんでいる。

「私も、ワガママだから」

「――――ッ!!」


 あたしは手に持っていた缶ビールを丘の下に向けてぶん投げた。

 舐める程度の一口しか飲めなかったそれは、輪郭が曖昧な芝の上へ落ちて転がり、遠くでゴボゴボと中身が流れ出る音が微かに聞こえる。
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:24:47.37 ID:SYS+AFC90
「はぁ……はぁ……」

 こんなに感情が昂ぶっている自分に内心驚いている。

 どこまでも自分にとって淡泊であるはずの結果に、許し難いものがあるなんて考えもしなかった。

「あたしは……」


 顔を上げ、夕美ちゃんの方へと振り返る。
 彼女は肩を震わせ、嗚咽を漏らすことだけは辛うじて耐えているような有様だった。

「ひょっとして、余計なことをしちゃったのかな……夕美ちゃんをハメたあの子を、あたしは追い詰めた。
 せっかく夕美ちゃんが許したのに、結局、夕美ちゃんが期待したように芽を出せないまま、あの子はアイドル人生を終える」

「それも、し、志希、ちゃん……っ」

 涙声を枯らして、夕美ちゃんは首を振った。

「志希ちゃん……私の、ためにっ、してくれたから、大丈夫だよっ」
「何がどう大丈夫なの!! 夕美ちゃん、イヤだ!!」
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:27:54.69 ID:SYS+AFC90
 あたしは夕美ちゃんを助けたかっただけなんだ。
 真実を明らかにすれば夕美ちゃんが置かれた不当な境遇はきっと洗われて、問題なくアイドルを続けられるはずだった。

 これじゃあ何のために、あたしはいたんだ――どうして、夕美ちゃんは辛い思いをしなければならなかったのか!?

「夕美ちゃんは、報われるべき人なのに……!
 あたし、あたしは……ただ、夕美ちゃんと一緒にいたいだけなのに! どうして……」

 あぁ、もうダメだ。
 修復不可能な傷が、この胸に刻まれていくのが分かる。


 納得を得られない、理解ができないのって、こんなに辛いことだったのか。

「どうして、あたしは夕美ちゃんの力になれなかったのかなぁ!!」


 何だってできると、かつてダッドは言ったけど、それはウソだった。
 結局、あの人も自分の物差しでしかあたしを測れない。
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:29:42.47 ID:SYS+AFC90
 どうして皆、そうやって分かったフリをして、勝手なレッテルを貼るんだ。

 その場にガックリと膝をついた。
 視界に映る芝が滲んで揺れる。ブチブチと握りしめると爪の間に土が入って、それも構わず次々に引っ掴んだ。

「く、うぅぅ……!」

 この草ほども、あたしには価値が無い。



「志希ちゃん」

 振り上げたあたしの手を、夕美ちゃんが掴んだ。
 意外と力強い、夕美ちゃんの手――。

「え……」

 あたしの八つ当たりで傷つき失われた命が、あたしの手の中からポロポロと落ちていく。



 そのまま夕美ちゃんは、黙ってあたしを抱き寄せた。
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:32:21.72 ID:SYS+AFC90
 甘い匂い――キンモクセイの香りだ。

 研究を進める中で、飽きるほどに散々嗅いだはずなのに、あたしのささくれだった心は不思議なほどにその温かな匂いで安らいでいく。

「あ、うぁ……」

 夕美ちゃんは、何も言わなかった。

 あれが最後の言葉であってほしくない。言葉をかけたいのに、何も出てこない。

 なのに、夕美ちゃんに包まれると、気持ちが良くてウトウトして、自然と瞼が閉じていく――。



「どうか、笑って……」


 夕美ちゃん――。



 ――――。
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:33:25.40 ID:SYS+AFC90
 ――――――

 ――――


  『おぉー、志希! お帰りなさい。一体どこに行っていたんだ?』

  『まぁ話は後で聞こう、母さん! 母さん、志希が帰ってきたぞ!』

  『お腹も空いただろう? 母さん、何か志希の喜ぶものを……』


  『ん? 志希、お前は一体何が好物だったっけか?』

  『ウームいかんなぁ、お前の失踪の時期がどうにも長かったもので、ハッハッハ』
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:35:21.84 ID:SYS+AFC90
  『しょうがないですよ。志希ちゃんはワガママの言わない、手のかからない子だったのでしょう?』

  『うん! 志希ちゃん、この間初めて私にワガママを言ってくれたんだよっ』


  『おぉっ、ハッハッハそうだったな! お前は実に聞き分けの良い子だった』

  『せっかくだ、何か願い事を言ってみなさい。どんなワガママでも今回は聞いてやろう』



  『……アイドルを続けてもらいたい? 彼女に?』


  『あぁー……それはねー』

  『えっ、ダメなのか? お前と志希の活動再開に向けた企画も、上層部にもう通してあるんだぞ』

  『アイドルとして元気に活躍していった方が、先生も喜ぶだろうに』
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/29(月) 02:36:55.66 ID:SYS+AFC90
  『えぇと、そ、そうやって自分の意志を他人に依存させるのは良くないと思いますっ! って志希ちゃんが言ってました!』

  『なるほどなぁ、ウーム、さすが我が娘……うおっ、辛ぁ!!』

  『タバスコ入りのジャスミンティーです。この子の好みかと思ったのですが……』

  『ひ、ひぃぃぃっ!!!』

  『お義父さん! お義父さん、これ水です、しっかり!』

  『き、キミにお義父さんと呼ばれる筋合いなど無い!』


  『ほら、あんな人達のことなんていいから、こっち来て志希ちゃんっ!』

  『私の自慢の庭だよっ。芝生が気持ちいいから、一緒に寝転がろうよ。デーンッ!』

  『あれはアサガオのグリーンカーテンで、こっちはキンモクセイ! えへへ、すごいでしょ?』
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:40:28.81 ID:SYS+AFC90
  『志希ちゃん……まだ正直、私もどうしたらいいのか、よく分かってないんだ』

  『でも、今のポッカリ空いた気持ちのまま続けても、誰かに迷惑をかけちゃうかも』

  『なんて……他人のせいにするのはズルい、だよね? でも……』

  『やっぱり私、アイドルである理由を、依存していたんだと思う。だから……』

  『まずは、自分の中でしっかり、気持ちの整理をつけてからなのかなって』


  『でもね、志希ちゃん。私は、アイドルを嫌いになったわけじゃないの。本当だよ?』

  『それに私だって、楽しい思い出をたくさんくれた志希ちゃんを、もっと独り占めしたいもん♪』

  『えへへ。なーんて、ちょっと大胆だったかな?』


  『もう、この子ったらまた服を泥だらけにして……ちっとも成長しないわね。ふふっ』

  『な、そ、そんなこと言わないでよぉ!』

  『おーいそろそろ帰るぞー、ってキンモクセイ!! くっっせぁ!!!』


  『ワッハッハ、志希は良い友達に恵まれたのだなぁ』


 ――――

 ――――――
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:43:04.15 ID:SYS+AFC90
 ――――。

 寒さで目を覚ましたけれど、陽はもう昇っていた。

 時間を確認しようとスマホを取り出すと、プロデューサーからの着信がたくさん表示されている。
 当たり前か。何も言わずに失踪したのだから。

 帰ろうか無視するか、どうしようかな――自分がどうしたいのかさえ判然としない。


 分かっているのは、今のあたしは独りぼっち。
 キミはもういないのだということ。

 さっきまで見ていた夢の中で、あたしの隣で寝転がってくれていたはずの、夕美ちゃんはいない。



 優しい夕美ちゃんは、あたしが本気で頼み込めば断ることなんて無いだろう。

 そう思いたかっただけなのか――あたしも、勝手なことを――。
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:45:50.97 ID:SYS+AFC90
 もういいや、どうにでもなれ。

 このまま目を閉じていれば、この悲しみも忘れられるかも知れない。

 あるいは――。



 ――キミの匂いが好きだった。甘い匂いがした。

 風が吹き、それが鼻腔を刺激して、覚醒する。

 飛び起きて振り返ると、案の定視線の先にあったのは彼女ではなく、小さなキンモクセイだった。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:47:24.06 ID:SYS+AFC90
 起き上がって、そのそばに近づく。

 昨日は暗くてよく見えなかったドギツい真っピンクが、小さいながらもその存在感を無遠慮に主張している。

 でも、本来キンモクセイは秋の花。

 本格的な春を迎える前に無理矢理花を咲かせたこの子のリズムは、既にガタガタに狂っていて、この先天寿を全うできるかどうかは分からない。

 キミは一体、何のために生まれてきたんだろうね。



「……おや」


 ――?


「これはこれは。まさかお客さんが来てくださっていたとは」
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 02:51:18.86 ID:SYS+AFC90
 振り返って丘の下を見ると、お爺さんが空き缶を持って立っていた。
 手の中にあるのは、空になったあの缶ビールだ。

「……管理人さん?」

「普段、こんなド田舎の公園に、人など来ませんでな」

 ボサボサの髭を撫でながら、お爺さんはニコニコと笑った。


 めったに人が来ないというのなら、その缶ビールを捨てたのが目の前のあたしであることも、おおよそ見当が付いているんだろう。

 だけど、その人はそれを気に留める様子を見せず、こちらに上ってくる。


「キンモクセイがお気に召しましたか」

 あ゛ぁ〜と呻き声を上げながら腰をトントンと叩き、軽く伸びをする。

「ですがすみませんなぁ、キンモクセイの季節は」
「秋」

「えぇ、よくご存じだ」


「教えてくれたんだ……あたしの……」

 友達が――。


「あぁ〜〜、夕美ちゃんのお友達でしたか。
 それは、ホッホッホ、なるほど、夕美ちゃんに負けず劣らず可愛らしいわけだ」
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 03:04:03.55 ID:SYS+AFC90
「……え」


 どっこいしょ、っとお爺ちゃんは芝生の上に腰を下ろした。

「夕美ちゃんは、この公園の木々や花々を……中でもそのキンモクセイを、丁寧に手入れをしに来てくれていてね。
 先日来た時、彼女からあなたの話を聞いていたんですわ」

「夕美ちゃんが、あたしのことを?」

 その場に立ち尽くして動けないあたしの方へ顔を向け、お爺ちゃんは優しく笑いかける。


「とても素敵な、アイドルのお友達ができたんだと。それは嬉しそうにね」


「……そんなの、ウソだよ」

 友達なら、本当に苦しい時にそばにいてあげられる。
 救ってあげられるはずなんだ。

 一方向からの視点でしか――都合のいい部分しか彼女には、見せることができなかった。
 夕美ちゃんは、ずっとあたしの事を誤解したまま――。

「笑顔が綺麗に咲いている人に憧れる、と」
「えっ?」
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 03:05:51.67 ID:SYS+AFC90
「アイドルは、それを咲かせることができるからすごい、とあの子はよく言っていました」

 立ち上がってお尻をポンポンと叩き、お爺ちゃんはあたしの方へ歩み寄ってくる。

「いつか皆を笑顔にできるその子を、私は笑顔にしてみせたいのだとも……ところで、妙ですな」
「? ……な、何が?」
「いえ、この香り」

 あたしを通り過ぎて、お爺ちゃんは鼻をくんくんと鳴らしながら首を捻っている。

「キンモクセイの季節は、半年以上先のはずだが」
「あ、それはコレ……」

「……ほぉ〜〜」

 あたしが指差したそれの前に座り込み、お爺ちゃんは興味深そうに観察し始めた。

「キンモクセイの花言葉に納得がいかなくて、新種を作ってやろうとして……」
「こりゃあすごい」


「ピンクと、この、一部欠けたように控えめについた黄色の対比が見事ですなぁ」
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 03:08:59.30 ID:SYS+AFC90
 ――!?

「え、黄色?」

「まさに謙虚と言いますか、しかし、確かな存在感を放っている……
 ピンクという色も、この時期に咲くこと自体も珍しいが、この互いを称え合うような色合いのバランスが実に美しい」


 お爺ちゃんを押しのけ、もう一度そのキンモクセイを食い入るように観察した。


 本当だ――たくさん咲いた花弁の一つ一つ、よく見るとそれぞれに黄色の欠片が――。

 まるで、そこだけほころんだかのように――。

「どうやったらこんな色合いになるのか、はぁ、良いものを見れました。ホッホッホ」


 白か黒、二つに一つしかないと思っていた。
 ピンクになるか、ならないか――でも。

 本当は、白と黒の間には数えきれないほどの色があって――。


 ――夕美ちゃん。
 今、一つだけ信じてみたいことができたんだけど、いいかな。

「夕美ちゃんは」
「ん?」

 あたしは、結論を急ぎすぎたのかも知れない。

「……夕美ちゃんは、またここに来ますか?」
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 03:12:18.26 ID:SYS+AFC90
「あの子がここを忘れることなどありません」

 お爺ちゃんはニッコリと笑いかけた。

「もちろん、このキンモクセイもね」


 あたしは、もう一度出来損ないのキンモクセイを見つめた。

「あはは……」

 改めて見ると、なんて中途半端な色合いだろう。
 しかしその花は、モノクロでしか視界に映さないあたしに、目を覚ませと生意気にも叱りつけるようにも見えて――。


「はははは」

 夕美ちゃんに破壊され、ボロボロになった心から、ほつれた糸が垂れていた。
 それを何となしに引っ張ったら最後、それはするりするりと伸びていく。

 一体何がおかしいのか、自分でも分からないくらい、どんどん顔がほころんでいくのが止まらない。

「な、はは、あははは」

 そうか、夕美ちゃん――。


 ほころびはまた広がって、何かが顔を出した。
 そこにいたのはキミだった。

 笑ってるキミ。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/29(月) 03:21:59.49 ID:SYS+AFC90
「……ありがとう」

 謝る以外で人に頭を下げることは、たぶん初めてかも知れなかった。

 あたしはお爺ちゃんとキンモクセイに、一旦別れを告げる。


 夕美ちゃんの帰る場所は、この先も変わらずここにある。

 だけど――信じてはいるけど、もう大丈夫だよ。


「……もしもし、プロデューサー」

 昨日の悲しみは、まだ納得できていない。
 でも、受け入れた。

 悲しみを跨いで、あたしも帰るよ。
 夕美ちゃんがくれた、この心の柔らかい場所をずっと、大事にして。


 いつかキミは帰ってきてくれるのか。
 キミが期待してくれたように、アイドルとしてあたしは皆を笑顔にできるのか。

 それらは、二つに一つという、単純な事象とは言えないのかも知れない。
 だけど、今のあたしなら、いずれ迎える結果について納得し、尊重できるだろう。
 この先もきっと、いつまでも。

 ピンクの中に黄色がほころんだ場所が、この胸にある。


〜おしまい〜
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/29(月) 03:24:15.21 ID:h7H+XLyEo
読ませるねえ
おかげで寝不足だよこんちくしょう
136 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/29(月) 03:24:26.88 ID:SYS+AFC90
Mr.Childrenの『ほころび』という曲を基に書きました。
途中、同曲の歌詞を所々引用しています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/29(月) 10:42:44.14 ID:akNQUIpfo

いいSSだ、感動的だな
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/29(月) 18:27:16.17 ID:ltXa8fsro
武内Pと楓さんのfanfareの人?
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