一ノ瀬志希「ほころび」

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1 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/28(日) 19:09:42.45 ID:D/gZfYJM0
 ――――。

 寒さで目を覚ましたけれど、陽はもう昇っていた。

 時間を確認しようとスマホを取り出すと、プロデューサーからの着信がたくさん表示されている。
 当たり前か。何も言わずに失踪したのだから。

 帰ろうか無視するか、どうしようかな――自分がどうしたいのかさえ判然としない。


 分かっているのは、今のあたしは独りぼっち。
 キミはもういないのだということ。

 さっきまで見ていた夢の中で、あたしの隣で寝転がってくれていたはずの、夕美ちゃんはいない。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1556446182
2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:11:44.83 ID:D/gZfYJM0
 ――――――

 ――――


「あのなぁ、志希」

 あたしの後ろで、彼の呆れ声が聞こえた。
 生返事でそれに答えるあたしも、すっかり板についてきている。

「俺の事務スペースを占領してまでやらなきゃいけないことか、それ?」
「んーん、そんなでもない」
「だったらどかせよ! 俺の仕事にならないだろ」
「まーまー」

 試験管をチョチョッと振って――ふむ、この反応は予測通りかにゃ?
 ポストイットにメモメモ。
 で、だとすると次は――。

「やれやれ……アイドルに興味があって俺について来たんじゃないのか?」


 彼のその一言に、あたしの体がピタッと止まる。

 その行為に意味はない。
 たぶん、後ろにいる彼が「おっ」みたいな反応をしてくれるのを期待しただけ。

 おもむろに振り返ってみると、ほら予測通り、驚いた顔をしたプロデューサーが立っていた。
 実験成功〜♪

「んー、アイドルにっていうか、キミに興味があっただけー。にゃははー、飲む?」
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:13:34.71 ID:D/gZfYJM0
「なっ!? の、だ、誰が飲むか!」

 なぁんだ、志希ちゃんつまんな〜い。
 手の中にある、沸騰した試験管を台に戻す。

 やっぱ色がまずかったかなぁ? もう少し警戒されにくい、透明の――。

「まったく……そろそろ新しい子が来るんだから、キリのいい所で片付けてくれよ、それ」


 ――――?

 あたしの体がピタッと止まる。

「な、何だよ……前にも言ってあっただろ」
「そうだっけ?」
「確か、お前と同い年くらいの子だ。相葉夕美、って子」
「アイバユミ」

 新しい子――。

「じゃあ、俺、迎えに行くから。
 その子がビックリしないように、ちゃんと片付けておくんだぞ、いいな?」

 念を押すように何度かあたしを指差して、彼がドアの向こうへ去っていくのが見えた。



 ――新しい子。
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:15:18.61 ID:D/gZfYJM0
 今、この事務所にはあたし以外にもアイドルやその候補生達が何人かいて、それぞれにプロデューサーが付いている。
 プロデューサー一人当たり、大体2〜3人のアイドルを担当している計算だ。

 今の彼の担当は、あたし一人だけ。
 聞く所では、彼も新人ってわけじゃないらしいし、もう一人くらいアイドルが付くのは何もおかしいことじゃない。

 ただ、あたしにとっては初めての経験だ。
 他のプロデューサーに付いているアイドルの子達とは、たまに近くのカフェで駄弁ったりすることはあるけれど。


 誰かと一緒に、アイドルをやる――切磋琢磨、というヤツか。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:19:19.40 ID:D/gZfYJM0
 ――おっといけない。
 火にかけてあった丸形フラスコをそっとどかす。加熱時間は3分52秒。温度は116度。メモメモ。

 この世界には二つしか無い。
 予測できるものと、できないもの。

 興味があるから予測し、検証する。
 仮説したとおりの事象が発現されれば嬉しいし、想定外の事態が起きればわんだほー。
 3分おきに止めどなく発生するあたしの知的好奇心は、ケミカルだけでは抑えが効かない代物だったらしい。

 ただ、次なる興味の対象が、なぜアイドルだったのかと聞かれても、リッパな理由なんてない。
 たまたま彼を見かけて、楽しそうなコトをしてて、イイ匂いがしてたから。
 あまりに未知なる領域の、右も左も分からない取り留めの無さが、当時のあたしにはたまらなかったんだろうねー。


 ふふっ――そう考えると、新しい子が入るというのは、あたしにとって大いに歓迎すべきことだ。
 プロデューサーは、反応そのものは単純だけれど、こうして新しいエッセンスをあたしに供給し、興味深い事象を引き起こし続ける。

 さて、何をし――。
「あのぉ」



 ――?

「へ、部屋、間違えちゃったかな?
 ここに来てって、言われたんですけど……」
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:28:16.87 ID:D/gZfYJM0
 ――振り返ると、女の子が一人、ドアのそばに立っていた。

 快活な印象を与える明るいミディアムショートの金髪に、ライトグリーンの七分袖シャツ。
 その下はブルーのワンピースで、花柄のアクセントが愛らしいパンプス。

 そんな爽やかな外見とは裏腹に、なぜか気まずそうに頬を掻いてる不安げな顔。みすまっち。


「飲む?」

 おもむろに、さっき置いた試験管をサッと取って差し出してみる。

「え、えぇっ?」

 露骨に表れた驚きの表情からは、先ほどまであった不安感は跡形もなく消し飛んでいた。
 でも、あたしを驚かせたのはその次だ。

「えぇと……い、いいの?」

 !?
 なんとその子は、恐る恐るではあるけど、あたしが差し出した絶賛沸騰中の真っピンクな試験管を手に取り、匂いを嗅いでみせたのだ。

「うえぇ、エホ、エホッ! な、何コレー!?」

 刺激臭まる出しの試験管をモロに嗅いだその子は途端に涙目になり、あたしに当惑の表情を向けた。
 コロコロと変わる彼女の表情は、とてもファンキーで賑やかだ。

「ぶふっ! にゃははー、それはねー、たぶん知らない方がいいヤツー」
「な、何でそんなのを私にあげるのー!?」
「キミが受け取ってくれるからー♪」
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:30:45.87 ID:D/gZfYJM0
「あ、あれ? おいっ、何してんだ!?」

 急にドアがバターンと開いて、プロデューサーが飛び込んできた。
 ふむ、にゃるほど。とするとやはり――。

「キミが、アイバユミちゃんだね」


「えっ」

 予測通り、ピタリと止まったユミちゃんにそっと近づき、顎の辺りをちょっとハスハス。

「!? え、えぇっ!?」

「んふふ、甘い匂いがするね、キミ」

 顔を真っ赤にしながら、手を口元に当てて必死に自分の匂いを嗅いでるユミちゃん。
 にゃはは、ソレね、たぶんあたしじゃないと感じ取れないと思うよ?

「悪ふざけはいい加減にしろ。
 相葉さん、ごめんね。この子が君と一緒に活動をすることになる、一ノ瀬志希だ」

 プロデューサーがあたし達の間に割って入り、お互いを紹介する。


「あぁ、そうなんだ。あなたが……」

 先ほどまで混乱していた赤ら顔が、花開くようにパァッと明るくなっていく。


「相葉夕美です! これからよろしくね、志希ちゃんっ」


 その眩しい笑顔を目の当たりにした瞬間、あたしの中で何かが崩れる予感がした。
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:32:02.31 ID:D/gZfYJM0
 ――――


「よ、おっ……わ、きゃぁ!」

 ドテッと夕美ちゃんが尻餅をついた。

「あいたたた」
「だいじょーぶ?」
「えへへ、平気平気……ごめんね、志希ちゃん」

 あたしの手を取りながら、夕美ちゃんは恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。


「焦らなくていい、相葉。
 落ち着いて、引き足をしっかり止めることを意識しなさい。
 テンポを落としてもう一度やってみよう」
「は、はいっ!」

 トレーナーさんのアドバイスに、夕美ちゃんは元気よく答えた。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:34:57.01 ID:D/gZfYJM0
 実際、夕美ちゃんの運動神経はたぶん悪い方じゃない。
 ただ何よりも、彼女はとってもマジメだ。
 レッスンに対し真摯に取り組む姿勢は、他の子達と比べても一際なのだそう。

 あたしは、どうだったんだろう?
 ふと、候補生になりたての頃のレッスンの様子を思い返してみる。

「お前は特別だ、一ノ瀬」

 顎に手を当てて、うーんと唸ってみせたあたしを見るにつけ、トレーナーさんがピシャリと言い放った。
「相葉も、あんな子と自分を比べるようなことはしないように。いいな?」
「は、はぁ」

 あんな子って、そんな言い草あるー? ちょっと志希ちゃん傷ついたなぁ。



 天才だなんだと、小さい頃から言われてはきた。
 ギフテッド――つまりあたしの才覚は、天からの授かり物なのだと。

 ダンスやボーカルも、トレーナーさんが与えてくれる課題に対し、水準はクリアできていた、らしい。
 それは、プロデューサーに言わせればとてもすごいことなのだという。

 一方で、それが簡単だったのかと聞かれれば、あたしにも分からない。

 簡単か難しいかの評価は、比較対象がなければできない。
 あたしにとって、それらのレッスンは初めての出会い、唯一の経験であり、「やったらできた」以上の意味は持たないのだ。
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:38:09.82 ID:D/gZfYJM0
 ところが、今のあたしは、夕美ちゃんという比較対象を得ている。

 彼女が今苦しんでいるステップも、あたしは初見でこなすことができたものだ。
 トレーナーさんの表情がさほど曇っていないところを見ると、それは決して珍しい事象ではないのだろう。

 では、次の疑問はこうだ。


 あたしはアイドルとして、夕美ちゃんより優等なのか?


「あ、志希ちゃん!」
「にゃ?」

 ふと我に返ると、目の前にはちょっとキリッとした夕美ちゃんの顔がズイッとあった。

「女の子なんだから、あまりだらしないカッコしちゃダメだよっ!」
 そう言うが早いか、夕美ちゃんはあたしの着ていたジャージのチャックをズイーッ!っと締めてしまう。

「ふぎゃっ! ええぇ、やだぁモゾモゾする」
「そうじゃなかったら、せめてシャツはあまりはだけさせちゃダメっ」

 夕美ちゃんだってジャージの上脱いでるクセに。
 ほんのり汗を吸って体のラインが見えやすくなった、夕美ちゃんのTシャツ。

「後で嗅がせて?」
「ヘンなことばっか言ってないで、ほらっ、レッスンしよっ!」

 ムムム――なーんか思うようにいかないにゃー。

「はっはっは、相葉はすっかりお姉さんだな」
 あたし達の様子を見て、なぜかトレーナーさんがホッコリした顔をしている。
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/04/28(日) 19:40:57.78 ID:D/gZfYJM0
 夕美ちゃんが事務所に来て、異変がもう一つあった。

「よいしょ、っと……」

「? 夕美ちゃん、何してんの?」
「あっ、志希ちゃん。引っ越しの準備だよっ」
「引っ越し?」

 見ると、事務室の一角――あたしが勝手にラボに改造した一角が、丸々段ボールの群れに置き換わっている。

「Pさんと相談して、1階のガレージを使わせてもらえるようにしたんだ。
 元々、誰も使ってなくて、必要ないものばかり置いてたっていうから、全部捨てて有効活用しようってね」

 テキパキと、夕美ちゃんは段ボールを台車に乗せていく。
 あーあー、ホントは迂闊に動かすと結構アブナイヤツもあったりしたんだけどなー。
 言わない方がいっか。

「Pさんも安心して事務仕事できるし、志希ちゃんも実験に集中できて、お互いにいいでしょ?
 近場にラボがあった方が都合いいだろうし、かといってわざわざ部屋を借りるのもお金かかっちゃうもんね」
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 19:43:26.60 ID:D/gZfYJM0
 夕美ちゃんに連れられていった1階のガレージは、思いのほか良いカンジの環境だ。
 広いし、最低限の採光も換気扇もあるし、間仕切りを隔てた隣の部屋には簡単な水回りもある。

 ただ、蛇口を捻るとドボドボと赤茶色の水が流れてきて、夕美ちゃんはビックリして飛び退いた。

「ま、まぁ、使っていけばそのうち綺麗になると思うから。あは、あはは」

 そう言うと、夕美ちゃんは一旦部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
 大きいデスクとキャスター付きの椅子を、やっぱり台車に乗せて。
 ひょっとしてそれ、一人で持ち上げたの?

 雑巾で手際よく拭いて、「よしっ!」と一息つくと、

「これ、どこに置こっか?」

 あたしのラボ、になるらしいのに、自分が当事者であるかのように楽しそうに作業を進めていく。
 結局、デスクのレイアウトだけでなく実験器具のセッティングまで、夕美ちゃんはすっかりこなしてしまった。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 19:47:10.99 ID:D/gZfYJM0
 プロデューサーはというと、そんな夕美ちゃんを心の底からありがたがっていた。

「ありがとう夕美……本当に助かる。俺の頭痛のタネを、こんなにも綺麗に…」
「冷蔵庫にあったPさんのビール、捨てといたからね」
「えっ!? 何で!?」
「ここは仕事するところでしょっ。飲みすぎは健康にも良くないっていうし」

「そ、そんなぁ……!」
 膝から崩れ落ち、この世の終わりかってくらい涙目になるプロデューサー。
 そこだけ切り取れば、映画のワンシーンにも使えそうなくらい、絶望的な表情だ。

「えへへっ、なんちゃって♪」

 夕美ちゃんは、イタズラっぽくニコッと笑って、後ろに隠した手をサッと見せた。
「はいっ、ちゃんとお家に持って帰ってね。途中で飲んだりしたらダメだよっ」

「あぁ、ビール! ありがとう、美味しく飲むよ、ありがとう……」

 にゃははー、これじゃどっちが監督者か分からないねー。


 聞けば、夕美ちゃんは通っている大学でも色々とまとめ役を買って出ることが多いらしい。
 実にしっかり者で、何にでも気配りができて、それでいて嫌味が無い。

 絵に描いたように、品行方正の良い子だ。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 19:52:19.90 ID:D/gZfYJM0
 あたしは、人間付き合いの経験が浅い。

 気づけばあたしの回りには、権威と呼ばれるお偉い先生ばかりが集まっていた。
 あたしが適当なプレゼンをすれば、彼らは何でも持て囃した。

 いや、煙たがっていたかな。
 彼らの鼻っ柱を折ることのないよう、適度に手加減をして論文の出来を下げることも一つの処世術だと、あたしは経験で知った。
(詰めの甘さに気づいて、真っ向から否定してくれる人はあまりいなかったけれど)

 つまり、同年代の子達との見目麗しい学生ライフとは無縁だったわけで――。

「志希ちゃん、明日一緒に映画観に行かない?」


 昼下がりの、事務所の最寄り駅のそばにあるカフェ。
 あたしの目の前に座る夕美ちゃんが急に、雑誌を開いて指を差してみせた。

「全米NO.1の純愛ラブストーリーだって! ネットでもすっごく評判なんだよっ。
 映画館の近くにお店屋さんもあるから、観終わったらそこで買い物していこうよ」

 あたしの返答を聞く前から、夕美ちゃんは自分の手帳に楽しそうに記入していく。


 当日、その映画のラブシーンで夕美ちゃんは顔に手を当てて(アレなシーンでは目も隠して)、クライマックスでは泣いてて――。

 かと思ったら、ランチのイタリアンであたしが自分のお皿に無遠慮に振ったマイタバスコにビックリして。
 よせばいいのに、「ちょっと一口」なんて手を伸ばして、案の定涙目になって水をガブガブ飲んで。

 洋服屋さんでは、あたしを着せ替え人形にして子供のようにはしゃいだ。
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 19:53:55.72 ID:D/gZfYJM0
「あ……し、志希ちゃん?」
「ん?」

 ふと、夕美ちゃんがあたしの顔を覗き込んだ後、ちょっと顔を伏せた。

「ご、ごめんね。私ばかり楽しんじゃってて……付き合わせちゃったね」

「え、何で謝るの?」
 あたしには、夕美ちゃんが申し訳なさそうにしている理由が分からない。

「えっ!? だ、だって、何かヘンに私ばかり盛り上がっちゃったかなぁって」
「そんなことないよー。ところであたし、着替え途中なんだけど」
「!? わ、わっ! ごめんなさい!」
「遠慮しないでいいのにー♪」
「何がっ!?」

 ダンスレッスンの時以上に俊敏な動きでカーテンの向こうに消える夕美ちゃん。
 にゃははー、やっぱり夕美ちゃんは楽しいねー。


 夕美ちゃんは、あたしにとって新鮮なもの、あたしに足りていなかったものを絶えず供給してくれる。
 それは、たぶん彼女にとってはごく当たり前のことなのかも知れない。

 あたしを普通の女の子として見てくれる夕美ちゃんは、あたしにとって初めての人だった。
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 19:55:43.77 ID:D/gZfYJM0
「夕美ちゃん」
「ん、何?」

 服屋さんを出て、大きな袋を両手にいくつも抱える夕美ちゃんがくるりと振り返る。
 中身はほとんどあたしのものだ。

「次は、夕美ちゃんの行きたい所、行こうよ」

「私の?」
 夕美ちゃんが首を傾げる。
「さっきの服屋さんがそうだよ?」

「これは推測だけど」
 あたしが彼女の顔を下から覗き込むと、夕美ちゃんはちょっとたじろいだ。

「たぶん夕美ちゃんはさ、悪いこととか、人を困らせるようなことって、したことないでしょ」
「えっ?」

 呆けた夕美ちゃんの顔が面白くて、あたしは畳みかけてみる。

「せいぜい、アイスクリームを寝る前に食べちゃう程度とみた」
「な゛っ!!」

 にゃははー、分かりやすーい♪
 そしてそれを悪いことだと本気で思ってるんだね。

「さらにその後、歯も磨かない」
「は、歯は磨くよっ! 虫歯になっちゃうもん!」
「やっぱ食べちゃうんだ?」
「――!!?!?」
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 19:57:28.09 ID:D/gZfYJM0
 お腹を抱えてゲラゲラと笑う。
 あたしのアイドルとしての知名度はまだそんなに無いけれど、往来のど真ん中で大声を張り上げれば、そこそこ人目にはつくものだ。

「し、志希ちゃんっ! 恥ずかしいから、もう行こう、ねっ?」
「うんうん、夕美ちゃんの行きたい所にね」
「だ、だから私のは……」

「今日は夕美ちゃんがエスコートしてくれてばかりでしょ?
 あたしに気を遣わないで、もっと好きな所行ってもいいよ、ていうか行こう」

 袋を持つ夕美ちゃんの手を上から握って、あたしは大きく振り上げた。

「わ、わっ!? ちょっと志希ちゃん」
「れっつごーとぅーゆぁふぇいばりっと、らいとなーう。にゃははー♪」


「わ、分かったから! じゃあちょっと、志希ちゃんこっち」

 夕美ちゃんは、あたしに捕まれていた手をそのままグイッと引いて、違う方向に歩き出した。
 引っ越しの時も思ったけど、実は夕美ちゃん、結構力持ちだよね。
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:01:26.46 ID:D/gZfYJM0
 荷物を駅のロッカーに預け、連れられた先は――。
 へぇー、お花屋さんかぁ。

「ひょっとして、夕美ちゃんまたあたしに気を遣った?」
「えっ、志希ちゃんもお花好きなの?」
「んーん、でもイイ匂いがいっぱいで楽しいね。ヨリドリミドリー♪」

「良かった」
 夕美ちゃんは穏やかに笑って、屋外に並べられた苗の上に屈み込んだ。

「それは?」
「ベゴニアだね。割と年中楽しめるお花なんだけど、ほら、よく見てみて」

 彼女が指差した先に、目を凝らしてみる。

「お花の形が、左右非対称でしょ? こっちの子なんか、ハートみたいっ。
 花言葉も、『親切』とか『幸福な日々』とか、どれも明るいカンジで好きなんだー♪」

「これを買いたかったの?」
「ううん」

 夕美ちゃんは、なぜか首を振った。

「お花屋さんに来る時は、欲しいものをイメージして来ることはあまり無いの。
 そこへ行って、その時にいいなって自然に思ったものを、育てるようにしてて」

 ベゴニアの苗を一つ手にとって立ち上がり、花弁を指先で愛おしそうに撫でる。
 あたしに向けたその表情は、なぜか赤ら顔だった。

「へ、ヘンかな……?」
「んー、分かんない」
「そ、そうだよね! ごめんねヘンなこと聞いて」

 恥ずかしそうに手を振って、そのまま夕美ちゃんは、別の花を2、3コ手にして店を出た。
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:05:33.05 ID:D/gZfYJM0
「夕美ちゃんの家にも行っていい?」
「えっ? い、いいけど、どうせ帰る所一緒じゃない?」

 夕美ちゃんとあたしは、マンションが同じだ。
 事務所が借りている部屋が何戸かあり、主に地方から上京してきたアイドルの単身住まい用として提供されている。

 夕美ちゃんの実家は、神奈川の南の方らしい。
 神奈川ってどこだっけ?

 あぁ、東京の南かー。

「ま、まぁ知らない人にとっては分からないよね」

 苦笑しながら、夕美ちゃんは自分の家のドアを開けた。
 おそらく普通の人にとっては常識なんだろうけど、気を遣って流してくれる辺り、夕美ちゃんはやっぱり優しい。

 そして――。



「……へぇー」

 夕美ちゃんの部屋は、あたしの想像をはるかに超えていた。
 なるほど、あたしのラボを見て変人呼ばわりしないのは、あたしに気を遣ってくれたからだけではないらしい。

 彼女もなかなかのレベルで変人だ。
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:13:39.56 ID:D/gZfYJM0
 夕美ちゃんの部屋は、まるで植物園だった。
 リビングもバルコニーも、床もテーブルの上も、至る所に大小色とりどりの花が咲き乱れている。

 よくよく見たら、植木鉢や花瓶だけでなく、スリッパやトイレのペーパーホルダーのカバー、食器、冷蔵庫のマグネット等、あらゆる小物に至るまで、花柄のモチーフで溢れていた。
 ここまで徹底していると、感心してため息が出る。

 心持ち、黄色系統の花が多いかな――夕美ちゃんの好きな色なのかも知れない。
 そういえば、さっき買ったベゴニアという花も黄色だ。

 部屋を観察している内に、バルコニーの方でゴソゴソしていた夕美ちゃんが戻ってきた。

「さっき買った子を、鉢に植えなきゃ。志希ちゃん、こっち来てみて」


 そこそこの大きさの鉢植えに、袋詰めにされた土をスコップで入れていく夕美ちゃん。
 いくつか種類があるらしい。

「今日買ったベゴニアは、四季咲きベゴニアって言って、一番ポピュラーな品種なのっ。
 それで、これを植える時の土の配合は、腐葉土を入れて、あとは水はけを良くするために小粒の赤玉土と、パーライト、あとはこの……しょっと、このピートモスっていう、コケを乾燥させたヤツを混ぜ合わせるといいかな。
 で、苗をこう入れて……お水はたっぷり入れます。何でもそうなんだけど、土に直接こうして……ほら、下から出て来たでしょ? ここまでちゃんと……」


 言いかけて、夕美ちゃんは止まって、顔を俯かせた。

「? どうしたの?」
「ううん……また、一人で突っ走っちゃったかなぁって。ごめんね」
「えぇー?」

 夕美ちゃん、またヘンな所で謝るなぁ。おかしくないのに謝るのはおかしい。
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:15:41.53 ID:D/gZfYJM0
 でも、一つ分かったことがある。

 夕美ちゃんの面倒見の良さは、どうやら花の世話をしていく中で培われたものらしい。
 これだけ多くの種類があると、花を咲かせる時期も、留意すべきポイントもたくさんあるだろう。
 それらを全て把握して、時宜を得た世話を続けていくことは、並大抵のことではない。

 彼女は、どうやら本当に良い子なのだ。
 そして――。

「夕美ちゃん夕美ちゃん」
「え、何?」
「あたしにも育てられそうな花、あるかにゃ?」


「それなら、このベゴニアあげるっ!」

 暖かくて力強い優しさは、あたしの価値観を容易く破壊してくれる。


「え、いいの? やったー、ありがとー♪」
「ヘンな薬とかあげちゃダメだよ?」
「にゃははー、その可能性は否定しない」
「否定してっ!」


 次に起こり得る事象を絶えず予測し、検証することに慣れきっていたあたしにとって、夕美ちゃんの与えてくれる刺激はどれも新鮮で、身を任せているだけで楽しいものだった。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:18:32.75 ID:D/gZfYJM0
 ――――


 先般の疑問の答えは、今のところハッキリとは表れていない。

「今日は皆さん、ありがとうございましたぁー!!」
「次にやるときも、また来てねー!」


 夕美ちゃんとあたしは、ユニットを組むこととなった。

 頑張り屋さんの夕美ちゃんは、どういうわけかあたしをライバル視というか、目標の一つとして捉えたようである。
 もっと目指すべき人いると思うんだけどなぁ。

 なんてウカウカしていたら、気づくとあたしよりも良いステップを踏むようになっているから面白い。
 どれ、あたしもアチョチョチョーッてね♪

「わ、わぁ……やっぱり志希ちゃんはすごいなぁ」

 あたしのステップを食い入るように見て、夕美ちゃんは今日も居残りでレッスンをする。
 好きでやっているんだから、志希ちゃんは付き合わなくていいよ、って夕美ちゃんは言うけど、それはあたしを止める理由にはならない。
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:24:59.61 ID:D/gZfYJM0
「それなら、あたしも好きで夕美ちゃんの自主練に付き合うから、気にしないでいいよー♪ どんとまいんど」
「だ、だからっ! 志希ちゃんが一緒に上手くなっちゃうと、差が縮まらないでしょっ!」

 どうやら、一方的に負い目を感じているようである。
 なーんかニホンジン的なんだよねー。卑下や謙遜は美徳ではない。ましてあたし達アイドルだよ?

「夕美ちゃんがあたしより魅力的じゃないなんてこと、絶対にないんだからね?」
「……えっ」
「まーあたしの方こそ負けるつもりないけどねー、負けてもいいけど♪」
「な、何を言ってるのぉ志希ちゃん〜!」


 ユニットを組んでいるから、人気の差が現れにくくなっている、という可能性もある。
 どちらが優等なのか、定量的な評価は難しい。

 だが、あたしはケミストの端くれとして、物事を分析することは不得手ではない。
 あえて断言しよう。


 夕美ちゃんはアイドルだ。
 それこそお花のように、およそ全ての人に愛される、アイドルになるべくしてなった子だ。

 誰かを楽しませるための配慮も、地道な努力も惜しまない、美しい心を持った子なのだ。
 徹底して自己中なあたしと違って。

 ベタ褒めしすぎかにゃ?
 夕美ちゃん本人に聞かせたら、きっと顔を真っ赤にして狼狽えるだろう。
 あえて実証せずとも、それは手に取るように分かる。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:28:01.47 ID:D/gZfYJM0
 一方で、一つ断りを入れさせてもらうならば――。


「夕美ちゃーん」
「んー?」

「これ、枝がちょっと伸び過ぎちゃったカンジかにゃ? どう思う?」

 夕方、レッスンを終えて自分の部屋に戻り、鉢植えを持って夕美ちゃんの部屋に行く。
 ほとんど日課と言っても良い。

 そして、夕美ちゃんに聞かずとも、本当はそれくらいの判断はあたしにも既にできている。
 参考文献をテキトーに(なんて言ったら夕美ちゃん怒るだろうけど)紐解いて得た知識によれば、これは剪定が必要なレベルだ。

「うーん、そうだね〜……ちょっと貸してっ」

 夕美ちゃんは、毎度毎度、嫌な顔ひとつせずあたしの相談に応じてくれる。

「そうだね、ちょっと葉っぱも付いちゃってるかも……
 この辺りを少し剪定してあげると、もっと高く元気に育つと思うよっ」
「わぁーい、さすが夕美ちゃんっ♪」


 一つ断りを入れさせてもらうならば――やはりあたしは、夕美ちゃんに好意を抱いている。

 かつてのダッドやママ以外で、初めて安心して寄りかかることのできる夕美ちゃんの存在は、あたしの中で次第に大きくなっていた。

 客観的な視点を保つことは、どうやら困難になってきている。
 それは否定できない。
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:32:36.27 ID:D/gZfYJM0
 ――――


 ――オーウまいがっ。
 これは想定外のカロリー量だねー、キミ写真と違くない? なーんて。

「あ、いた! 志希ちゃんっ!」

 街角の屋台でお兄さんからクレープを受け取り、振り向いた先には夕美ちゃんがいた。

「あ、夕美ちゃんだー。にゃははー、食べる?」
「食べるじゃないでしょっ! ほらっ、レッスン戻ろう」
「だよねー」

 生クリームが零れるのもいとわず、ガシッとあたしの手を掴んで引っ張る夕美ちゃん。
 ホント力強いね。



 夕美ちゃんは、失踪したあたしを見つけるのも上手だった。

 元々、あたしの失踪には意味なんて無い。
 興味が3分しか持続しない、飽きっぽくて落ち着きの無い、ともすれば多動性障害と言われかねない性分は、失踪の誘因の一つではある。
 でも、物事に飽きたその捌け口が失踪に帰着する理由は、あたしにもよく分からないのだ。

 意味も理由も無いので、傾向も統一性も無い。
 ある時は衆目溢れるターミナル駅の中にあるカフェだったり、ある時は都会の喧噪から離れた公園の遊具で遊んでみたり。
 畑仕事をしているお婆ちゃんに、おにぎりをごちそうになったこともあった。
 それはともかく。

 あたし自身にさえ分からないあたしの行く先が、他の誰かに看破されることはそう無いはずだった。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:34:26.35 ID:D/gZfYJM0
 それでも夕美ちゃんは、その日のうちに容易くあたしを探し出してしまう。
 今日みたいに、午前のレッスンを抜け出して、昼過ぎに見つかることなんてザラだ。


 ムキになるなんて、ガラじゃないんだけど――。



 ICカードを改札にかざす。
 事務所から支給されるまでは、持っていなかったものだ。

 未だにあたしは、電車の乗り方がいまいち分からない。
 ホームのどこに並んだらいいのか、目的の乗り換え路線をどう見つけたらいいのか。
 そんな気は無かったのに列に割り込んでしまって、余裕なさげなサラリーマンのおじさんに怒られた。

 システムも面倒だし、人も多いので、失踪に使うことはそんなになかった。
 だけど、今日は思い切ってどっかに行っちゃおう。
 乗り方も目的地も分からないなら、かえって好都合だ。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:39:46.33 ID:D/gZfYJM0
 たどり着いた先は、無人駅だった。

 設置されたばかりであろう、不釣り合いなほどピカピカの改札にICカードをかざす。
 出てから気づいたけど、乗り越し精算機とかいうヤツが見当たらない。
 もしカードにチャージした残金が足りなかったら、どうすればいいんだろう?

 まぁいいや、えーと――現在、午前11時半。
 およそ2時間乗って、たぶんここはまだ東京なのかにゃ?


 あー、それにしても良い天気ー♪
 緑豊かな山々と小川、およそ東京とは思えない田園風景が歩けど歩けど続いていく。
 たまーに車が通りすぎる以外は、なーんにもない所だった。

「……なんか懐かしいな」
 誰に聞かせるでもなく、口から零れ出た。
 懐かしい――?

 確かに、記憶の中にあるあたしの生まれ故郷、岩手はこんなカンジだったかも知れない。
 何にもなくて、優しくて――退屈で。


 そのうちに、そこそこ大きな公園が見えてきた。
 車での旅行者が立ち寄るための、道の駅みたいなものかにゃ?
 でも、管理人らしきお爺ちゃんが小屋で寝ている以外は、一人の利用者もいないようだ。

 ちょっと喉が渇いたので、自販機でジュースを買う。
 一口飲んで、なんかヘンな味がしたので、賞味期限を見ると昨年の日付だった。

 ポイッと投げ捨てて、公園の入口へ――あ、入場料なんて取るんだココ!
 にゃははー、セコいねー。でも、お世辞にも経営が順調そうには見えない。

 ペンキ缶に穴を開けただけの粗末な料金箱に100円玉を1枚。
 ――いや、2枚入れてあげるか。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:43:16.63 ID:D/gZfYJM0
 木々に囲まれた遊歩道を5分ほど歩くと、視界が開けた。
 辺り一面に芝生が広がり、右手にはそこそこ大きな木が一本植わった小高い丘が見える。

 ロクに管理もされてなさそうなのに、綺麗な芝だな。
 そう思いながら、あたしは丘の上を目指した。
 存外に広い視界はあたしの遠近感覚を狂わしたようで、目的地までは結構距離があり、たどり着くころには息が上がっていた。

 ふぅっ、と息をついて腰を下ろしたが最後、そのままデーンッともんどり打って寝転んでしまう。


 どこまでも晴れ渡る青空。通り抜けていく爽やかな風。

 よく言われる、ゲンダイジンに必要なゆとりじゃないかにゃ? コレって。
 年がら年中やりたい放題のあたしがゆとりを説くのもなんだけど、あのサラリーマンのおじさんは、たぶん来た方がいい。

 まぁいっか。
 気持ち良いのは事実だし、目を瞑って、このままウトウトとまどろんでいくのも悪くない。


 今日は、大した予定はなかったな。
 仕事もレッスンも無くて、今度出るオーディションの戦略を練ろうって、プロデューサー言ってたっけ。
 あたしだけが出るから、夕美ちゃんには関係が無い。そもそも彼女は今日一日オフだった。

 つまり――今あたしが失踪したという事実すら、夕美ちゃんは知る由も無い。

 さすがに、今日のあたしを見つけることはできないだろう。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:44:37.88 ID:D/gZfYJM0
 ――――。


 風が吹いた。
 甘い香りが鼻腔を刺激して、目を覚ます。

 寝転んだまま見上げると、頭上の木にオレンジの花がチラホラと咲いているのを見つけた。


 これは――。
「キンモクセイだねっ」



 ――?


「そっかー、もうそんな時期か。
 私と志希ちゃんが出会って、もう半年くらい経っちゃったんだね」
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:50:08.59 ID:D/gZfYJM0
 寝転んだ視界の中に、水玉模様のスカートが揺れる。
 季節はもう秋に差し掛かっていたけれど、青空の下に咲く夕美ちゃんの爽やかな笑顔は、春か夏のそれだった。


「……夕美ちゃん、もう少しめくって」
「ど、どこ見てんのっ!?」

「なんで、夕美ちゃんがここにいるの?」

 ひょっとして、GPS?
 体を起こし、パタパタとしてみるけど、異物が服にへばり付いてる感覚は無い。

 それか、夕美ちゃんらしく、花の匂いを擦りつけてるとか?
 ――ってそんなわけないか、犬じゃあるまいし。
 大体、今日着た服に付ける暇なんて無かったし、それならとっくにあたしが気づいてる。

 こんなにも馬鹿げた仮説を想起するほど、夕美ちゃんの突拍子も無い行動はあたしの思考を破壊してしまうらしい。


「まぁ、それはそれとして。
 はいっ! キンモクセイの花言葉は何でしょう、志希ちゃん?」

 強引にあたしの質問を無視して、夕美ちゃんはあたし達のそばにあるそれを指差した。

「夕美先生の花言葉抜き打ちテストだよっ♪
 せめて、お花の知識くらいは志希ちゃんに良いところ見せたいなって」
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:54:30.56 ID:D/gZfYJM0
 ――ま、いいや。

 知識として蓄えがないものは、予測するしかない。

 キンモクセイの特徴といえば、その甘い匂い。
 こんな小さい花弁とは似ても似つかない、その主張の強さを言い表すならば――。

「大胆、とか?」
「えへへ、ハズレー♪」

 夕美ちゃんは得意げに鼻を鳴らした。
 妙に楽しそう、というか嬉しそうだ。

「キンモクセイの花言葉は、『謙虚』。
 香りの強さとは裏腹に、控えめなお花を咲かせるから、っていうのが理由みたいだね。
 他にも、『真実』とか、色々あるけど」

「えぇー、謙虚?」
 あたしは憤慨した。
 なるほど、逆の発想だったかぁ。とはいえ、この強い匂いのどこが謙虚だというのか。

「夕美せんせー。志希ちゃん納得できませーん」
「そうはいっても、そう言われてるんだからしょうがないでしょ」
「誰が決めるの? 花言葉って」
「ん? それは……」

 あたしの隣に腰を下ろして、夕美ちゃんは空を見上げた。
「昔の人が決めたんだよ、きっと」
「決めたモン勝ちってこと?」


 ――ふふ、イイことを思いついた。

「ってことは、新しい花の花言葉は、あたしが決めてもいいのかにゃ?」
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:57:10.15 ID:D/gZfYJM0
「えっ?」
 夕美ちゃんは驚いてあたしに向き直る。

「まるきりの新種は難しいにしても、例えば、このキンモクセイのお花。
 新しい色の花弁のキンモクセイを開発できたら、あたしがお似合いの花言葉をつけてあげようかなぁって」

「志希ちゃんは、すごいことを考えるね」

 呆れるように、夕美ちゃんは笑った。
 あのね、凡人のフリしてるようだけど、夕美ちゃんも大概なんだよ?

「新しいキンモクセイは、どんな色にするの?」
「んー……ピンクかな」

 どうせなら、ギラギラにドギツい真っピンクの花弁をいっぱい咲かせてやろう。
 そしてこの匂いである。『大胆』以外の花言葉がどこにあ――。

「それ、志希ちゃんの好きな色だねっ!」
「?」

 ――言われてみればそうかも?

「そう言えば、いつぞや夕美ちゃんに飲ませようとしたおクスリもピンクだったっけ。
 あれはケッサクだったなー、夕美ちゃんホントに飲もうとしてさ♪」
「んもうっ、知らなかったんだからしょうがないでしょ!
 志希ちゃんのことをだんだん分かってきてからは、ちゃんと警戒してるし」


「あたしの失踪先が分かるのも、あたしを理解してくれているから?」
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 20:59:23.36 ID:D/gZfYJM0
 ――しばしの沈黙の後、夕美ちゃんは、優しくニコリと笑った。

「志希ちゃん、私ね? 失踪には、二種類あると思うの」
「ふむ?」


「見つけてほしい時と、見つけてほしくない時」


 夕美ちゃんの綺麗な金色の横髪が、静かに凪いでいく風に揺れてキラキラ光るのが見える。

「志希ちゃんは、たぶん前者だと思ったから、見つけたいって思ってるだけなんだ」


 ――あれ、理由になってなくない?

「ここはあたしも知らない場所だよ。
 勝手な思い込みで見つけてくれるのは嬉しいっちゃ嬉しいけど、どうやって見つけたのかにゃ?」

 ここは都心部から遠く離れている。
 当たりをつけるでもしない限り、オンタイムでたどり着くのは物理的に不可能だ。

「ただの、まぐれだよ」
「マグレ?」

「つまり、すごくラッキーだったってこと。
 でも、あらゆる場所をしらみ潰しに当たってでも、見つけなきゃとは思っているの」

「あたしが、夕美ちゃんの友達だから?」

 しれっと爆弾を投下してみた。
 自分で自分のことを友達などと、我ながら思い上がりも甚だしい。
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 21:01:49.50 ID:D/gZfYJM0
 顔を真っ赤にして照れるのか、それとも、顔を真っ赤にして否定するのか。
 夕美ちゃんの性格からして、たとえ違っていたとしても、否定をすることはないだろう。

 でも、夕美ちゃんの返答は、あたしのいずれの予測とも違っていた。

「いつか、志希ちゃんの本当の笑顔が見たいから」


「――もっかい言って?」

「誰よりも謙虚で慎み深い志希ちゃんが、誰にも遠慮せずに心の底から笑う姿を見たい」

 おもむろに立ち上がってキンモクセイの花弁を一つ摘み、夕美ちゃんはそっとあたしに向ける。

「私がその一助になれたら、って思うの」


 ――おーぅ。まい、がっ。
 ゆーあーきでぃんぐみー、夕美ちゃん。

「いつでも自由奔放でやりたい放題、迷惑かけ放題のあたしを捕まえて、謙虚で慎み深い?
 にゃははー、こう言っちゃ悪いけど、夕美ちゃんは人を見る目が無いねー♪」
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 21:05:07.27 ID:D/gZfYJM0
「そうかな」

 ふぅっと息をつくと、彼女は目の前に高く広がる青空に負けないくらい透き通る声で笑いかけた。

「帰ろっか!」

「そうだね」
 あたしも立ち上がる。
「帰ろう」

「お得意の『にゃはは』笑いもいいけど、いつか志希ちゃんの本当の笑いを、見れるといいな」


「……気が向いたら、黄色のキンモクセイも開発してあげるよ。夕美ちゃん、黄色好きでしょ?」
「えっ? よく分かったね。でも、黄色のキンモクセイは既にあるから大丈夫だよっ」
「何が大丈夫なのかにゃー?」

 小屋の中で寝ている管理人のお爺ちゃんに二人で手を振り、公園を後にする。


 まるで今のあたしが本物じゃないみたいな言い方をされたようで、少し心がささくれ立ったのは、言わないでおいた。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 21:08:10.38 ID:D/gZfYJM0
  『すごいぞ、志希! お前は何という子だ』


  『どんな無理難題をもいとも容易く乗り越え、新たな発見をこの世界にもたらし続ける』


  『まさに至宝だ。砂糖粒がダイヤに変わるのと同じくらい、お前は奇跡の象徴だ!』


  『次は何をしてくれるんだ? プルトニウムの半減期を5秒に縮めてみせるか?』

  『それとも、太陽光エネルギーの変換効率をほぼ100%にまで高める触媒を発明してくれるのか?』


  『何だってできるだろう。なぜなら志希、お前は――』
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 21:09:21.17 ID:D/gZfYJM0
 ――――。


 ――初めての失踪は、4年ほど前。

 歴代最長であり、今なお記録は更新を続けている。



 夕美ちゃんの言うとおり――こうして夢に見る程度には、あたしは彼らに、見つけてほしいのかも知れない。
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/28(日) 21:12:00.74 ID:D/gZfYJM0
「志希! これはどういう事だっ!!」

 あたしの後ろで、彼の怒鳴り声が聞こえた。
 生返事でそれに答えるあたしも、すっかり日常のワンシーンだ。

「んー? 新しいお花の生成実験」
「事務所全体にキンモクセイの匂いが充満してるのはそのせいか!?」
「ごめんねー、換気扇を伝って全部に回っちゃうみたいで」
「チキショウ! これから外回りだってのに『キンモクセイの匂いする人』って後ろ指さされちまう!!」

「アハハ、えーと……ごめんねPさん、私が止めなかったせいかも」

 頬を掻きながら、場を宥める夕美ちゃん。
 その“大人な対応”が、何となく不愉快に思えてしまう。


 あの日、夕美ちゃんに言われてから、あたしの言動はますますエスカレートした。
 こうして事務所全体に迷惑をかけることなんて序の口。
 レッスンやお仕事に時間通りに到着したことなんてまず無いし、気が乗らない時はドタキャンだってした。
 その度にプロデューサーは頭を下げた。あたしも下げさせられた。

 あたしが謙虚で慎み深い――。
 夕美ちゃん、これを見ても同じことが言えるの?

 ムキになるなんて、ガラじゃない。
 だけど、明らかに誤った認識は正すべきだ。
 スペクトルが卓越していれば、それだけ明瞭な判断が可能となる。
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