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白菊ほたる『災いの子』
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53 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/16(水) 19:32:23.39 ID:sFL9uHdg0
「ボクの番だね」
着席する蘭子さんと入れ替わりに飛鳥さんが立ち上がる。一瞬、ちらりと私を見たような気がした。そして、レッスン着のポケットから青い扇子を取り出し、ぱしんと音をたてて開いた。
イントロが流れ出し、私はあっけにとられた。順番を間違えているのではないかと思った。スピーカーから流れ出したその曲が、私が指定した周子さんの『青の一番星』だったからだ。
周子さんの代役とはいっても、実際のライブでのセットリストは未定だ。もしも選ばれたアイドルが自分の持ち歌を持っているのなら、当然それを含んだ構成をするだろう。
プロデューサーさんは、すでにCDデビューを済ませているアイドルは自分の曲を、そうでないアイドルは周子さんの曲を選択するだろうと予想していた。だけど飛鳥さんはそうしなかった。これは、どう見るべきなのだろう?
飛鳥さんの披露したそれは、周子さんのオリジナルのものとはだいぶ違った。音源は同じでも、歌い方や踊り方で飛鳥さんらしいものにアレンジされている。
順番を恨めしく思う。私は飛鳥さんと同じ曲を続けて披露することになってしまった。それも、私はアレンジなんてしていない、印象としては不利になるかもしれない。
「ありがとうございました。次の方」
拍手に包まれて戻ってきた飛鳥さんが、私の前で足を止め、
「もしかして、使うかな?」
と、青い扇子をひかえめに差し出してきた。
私は首を横に振り、自分の扇子をポケットから取り出して見せた。
「ありますので」
これはプロデューサーさんの私物らしい。オーディションの少し前に、思い立って「このあたりに扇子って売ってるところありませんか?」と訊いてみると、「あるよ」と言ってこれを渡してきた。扇子ってそんな誰でも持っているものなのかと、少しびっくりした。
飛鳥さんが小さくうなずいて着席する。
審査員席の5人が、特に感慨をいだいた様子もなく眺めていた。
おそらく青の一番星はこのオーディションで最も多く選択されている曲だ。ならば、小道具として扇子を持参したアイドルも少なくはなく、先ほどのような貸し借りのやりとりも、もう何度も行われていたのかもしれない。
54 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/16(水) 19:33:41.54 ID:sFL9uHdg0
席を立ち、足を進めながら考える。
飛鳥さんのアレンジは、即興でできるクオリティじゃなかった。かといって、前々から準備していたとも思えない。社内オーディションの話はみんな昨日知らされたばかりなのだから。
つまり、話を聞かされてから、一晩で身に着けたということだ。このオーディションのために。それは勝つための努力、勝つための工夫だ。
蘭子さんも飛鳥さんも、油断や慢心はしていない。それぞれが自分にできる限りのことをして勝ちに行っている。
部屋の中央でゆっくりと息を吸い、吐く。
肩にのしかかっていた重みが、すっと抜ける感じがした。
他人をうらやむのも、気圧されるのも、もうおしまい。余計なことは考えない。
どうせできることは変わらない。私も、私にできることを精いっぱいやるだけだ。
勝つために。
扇子を広げてみると、毛筆で四字熟語らしきものが書いてあった。『撓不折百』、聞いたことのない言葉だ。どういう意味か、あとで誰かに訊いてみよう。
周子さんのプロデューサーさんが、準備はいいかというような視線を投げかけてくる。私は小さくうなずきを返す。
扇子で顔を隠すようにしてしばし待ち、先ほどと同じイントロが流れ始める。
音が出てよかった、と思った。当たり前のことでも、私にとっては幸先がいい。
もっとも、実のところ音楽なしでも同じように歌い、踊れる自信はあった。
何度か、周子さんの練習風景を見学させてもらったことがある。私はそれをしっかり目に焼き付けて、代役の話が出る前から、周子さんの曲はずっとひとりで練習していたのだ。
すっと体から意識が離れ、少し後ろから自分を眺めているような感覚を覚える。
悪いことじゃない。集中できているときにたびたび起こる現象だ。私は私のパフォーマンスを見つめ、その出来栄えを確認する。
今のところ、なかなか上手くいっていると思う。声もしっかり出ているし、音程も外れていない。振り付けも問題ないはず――
そう思った瞬間、ずるっと足が滑り、視界が傾いた。
ちらと足元に目を向けると、ほのかに床が光って見えた。きっと汗を踏んだのだろう。私たちより前にすでに10人以上が審査を受けている。汗の雫ぐらい落ちててもおかしくない。
私は崩れた体勢のまま、勢いを殺さずにくるりと1回転した。そしてなにごともなかったようにダンスを続けた。歌も途切れさせてはいない。
なかなか上手くリカバリーできたと思う。予定にはなかったターンだけど、振り付けのアレンジに見えないこともないはず――だけど、ミスだと思われるかな?
曲が終わり、審査員席に向けて深く頭を下げる。ぱちぱちと拍手の音が湧き起こった。
「ほたるちゃん、途中足すべってなかった?」
席に戻ろうとする私に、夕美さんが問いかけてくる。
「あ、わかっちゃいましたか……すみません」
「よくあわてなかったね」
「はい。私、すべったりつまずいたりするの、慣れてるので」
周子さんのプロデューサーさんが注目を集めるように手を叩く。
「じゃあ3人とも退出して、次の人たちには5分ぐらい待つように言ってもらえるかな?」
残りのふたりのプロデューサーさんが、掃除用具入れのロッカーからモップを取り出している。これからの審査の人たちがまたすべらないように、モップ掛けするということだろう。
55 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/16(水) 19:34:37.09 ID:sFL9uHdg0
「しかしキミは、なかなか渋い扇子を持ってるね」
部屋を出たところで、飛鳥さんが言った。
「いえ、これは借り物で……」
私はプロデューサーさんの扇子を広げてみせた。
「なんて読むかわかります?」
「ふむ、これは…………蘭子、どう思う?」
蘭子さんが扇子を覗き込み、「百折不撓」と言った。
ひゃくせつふとう――ああ、右から読むんだ。
飛鳥さんが腕組みをして、うんうんとうなずいている。
「どういう意味ですか?」
「……どういう意味だったかな、蘭子」
蘭子さんが人差し指を唇に当てて宙に目を向ける。口に出したら怒られそうだけど、なんだか子供っぽくてかわいらしい仕草だった。
「何度失敗しても、志を曲げないこと」
56 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/16(水) 19:35:24.23 ID:sFL9uHdg0
*
社内オーディションの次の日、「合格した」とプロデューサーさんが言った。
「私が……?」
「もちろん、もっと喜べ」
「あ、あの……プロダクションの財務状況はだいじょうぶですか? 朝来たら玄関に張り紙がされて連絡とれなくなったりしませんか?」
「なにを言ってるんだ?」
「いえ、すみません。動揺してしまって」
合格したということは、お客さん5000人のライブに出られるということだ。
私が? 本当に?
急に現実感が湧いてきて、心臓がばくばくした。
じんわりと汗をかき、あわててハンカチを取り出してぬぐう。
その際に、バッグの底に昨日から入れっぱなしにしていた扇子があるのを見つけた。
「これ、昨日返すの忘れてました。すみません」
「ああ、それは返さなくていい。もともとあげるつもりで買ったから」
「そうなんですか?」
「買ったはいいけど、若い女の子がそんな和風バリバリの扇子なんかもらっても喜ばんだろうと思って、ずっと机の引き出しに放り込んでた」
和風好きなんだけどな、と思いながら扇子を開き、ぱたぱたとプロデューサーさんに風を送る。
「ありがとうございます。いつ買ったんですか?」
「たしか1月末ぐらいだったかな? 俺はいちども使ってないから、新品みたいなもんだよ」
あれ? と私は首をかしげた。
それはプロデューサーさんの記憶違いだと思う。
だって今年の1月には、まだ私はスカウトされていない。
57 :
◆ikbHUwR.fw
[sage]:2018/05/16(水) 19:36:10.07 ID:sFL9uHdg0
(本日はここまでです)
58 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/05/16(水) 20:56:51.09 ID:yCguXzRfo
面白い、続き気になる
59 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/05/22(火) 01:23:55.83 ID:1RxOEJRC0
おつ 凄い面白い 待ってるよ
しかしPさん少しドライ気味な感じだね
60 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:36:31.01 ID:XzeV2oVA0
06.
社内オーディションの2日後、ライブに向けて何回か予定されている合同レッスンの最初の日を迎えた。夕美さんと志希さんとはオーディション以来、初めて顔を合わせることになる。
指定された時刻より10分ほど早くレッスン室に入ると、すでに夕美さんがそこにいた。薄緑色の半袖Tシャツを着ていて、下はレッスン用のジャージを穿いている。
こちらに目を向けた夕美さんが、ぱっと顔を輝かせて手を振った。
「ほたるちゃんおはよう、ライブがんばろうねっ!」
「はい、よろしくお願いします」
私が頭を下げたところに、「あっ」という夕美さんの声が届き、なんだろう? と顔を上げる。
夕美さんが私を見ていた。違う。夕美さんの視線は、私よりも更に後方に注がれていた。
ふいに背中に重みが加わり、私は思わず短い悲鳴を上げた。
「ハスハス、くんかくんか、……ふむふむ、ほうほう?」
首をひねって目を向けると、志希さんが後ろから私の首筋に顔をうずめていた。
「もう、志希ちゃん、あんまりほたるちゃんおどかしちゃダメだよ」と夕美さんが言う。
志希さんは、ぴょんと跳ねるように私から離れ、あごに手を当てて目を閉じた。
「……無香料のボディソープにトニックシャンプー。外資系の、特に高くも珍しくもないやつ――だけど、これは!」
「これは?」と夕美さんが繰り返す。
「夕美ちゃんたいへん! ほたるちゃんはなんと、周子ちゃんとそっくり同じお風呂用品を使っているよ、これの意味するところは!」
「寮だからね」
「にゃるほど」
志希さんは納得したようにうなずき、私に向けて片手を上げた。
「よろしくね、ほたるちゃん」
「は、はい……よろしくお願いします」
61 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:38:34.29 ID:XzeV2oVA0
レッスン開始まではまだ少し時間がある。私は気になっていたことをふたりに訊いてみることにした。
「あの……どうして、私が選ばれたんですか?」
「どうしてって?」
夕美さんが首をかしげる。
「えっと、蘭子さんや飛鳥さんや、他にもすごい人はいるのに……」
「ほたるちゃんがいちばん点数高かったからね」
「点数?」
「あれ、これ言っちゃいけないんだったかな?」
「もう終わったからヘーキじゃないかにゃ?」と志希さん。
「そうだよね」
夕美さんがうなずいて私に向き直る。
「こないだのオーディションは審査員で共通の評価シート使ってるんだ。音程とかリズムとか、けっこう事細かな項目があって、それぞれに点数をつけるの。それでみんなの採点を合算して、最高得点になったのがほたるちゃんだったってこと」
「評価シート……ですか」
「印象だけで判断すると、どうしても私情が入っちゃうからね。それは審査としてよくないよねって」
「でも、飛鳥さんは『あのふたりは身びいきはしない』って言ってましたけど……審査の前に」
夕美さんがちらりと志希さんに目を向ける。
「んー、そう言ってもらえるのは嬉しいけどね、そういうのは、しようと思ってするものじゃなくて勝手になるものなのだよ」
志希さんが言った。
「無意識、深層心理、アンコンシャス・バイアス。偏見は誰でも必ず持っている。好意的なものも含めてね。『自分は公正だー』なんて思ってしまうのがいちばんいけない。あたしも夕美ちゃんも、346のアイドル全員と同じだけ関わってなんていないから、偏見は発生するよ。身びいきってのはつまり、身近な子のパフォーマンスはよく見えてしまうということで、それは自分では気づけないんだよね。かといって、自分とあの子は仲がいいから好意的に見ているはずなので、ある程度マイナス評価しようってのもひどい話でしょ。偏見の効果がどのくらいなのかわからないのに」
62 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:41:20.71 ID:XzeV2oVA0
私は「はあ」と言って、あいまいにうなずいた。
「というわけで、審査の基準となる項目を決めて点数をつけることにしたんだね。これでも完全な私情の排除なんてできないけど、審査結果比べてみたら、プロデューサー勢も含めて、だいたい一致してたよ」
なるほど、よく考えてるんだなあ、と感心した。
だけど、私が気にしているのはそういうことではなく、
「その……私、不幸体質で、みなさんに迷惑をかけてしまうんじゃないかと」
「ああ、有名だよね。夕美ちゃんは知ってる?」
「うん、詳しくは知らないけど、ほたるちゃんがそう言ってるってのは聞いてるよ」
「知ってるのなら、どうして私を入れたんですか? こんなだいじなライブに……私のせいでなにかあったら……」
「評価シートに、そんな項目はないから」と志希さんが言って、「そうだね」と夕美さんがうなずく。
あまりに平然とした反応で、私はぽかんとしてしまった。
「そういえば、志希ちゃんはそういうの信じるの?」
「ん? そういうのって?」
「オカルトっぽいの、科学者とか研究者の人はあんまり信じないのかなって」
「そんなことないよー、科学者にも熱心な宗教家とか、もっとおかしなものに傾倒してる人はいっぱいいるし」
「へえ、そうなんだ」
「あと、説明のつかない現象ってのは、科学の使徒なら、単にまだ解明されてないだけって見るものだよ。実際に起きてることを理屈がわからないからって『そんなはずはない』なんて言い張るのは、それこそ非科学的だね」
「そっか、たしかにそうだね」
「そういうものを科学的に研究してるところもあるから、その手の人がほたるちゃんのこと知ったら大喜びであれこれ実験するだろうね。解剖しちゃうかも」
そう言って、志希さんが私に目を向ける。私は思わず何歩かあとずさった。
「ああ、あたしはケミカルが専門だから、そーゆーのは研究対象外なのでだいじょうぶ」
「は、はい……」
背中を一滴、冷や汗が伝い落ちる。
だいじょうぶの理由が「研究対象外だから」というのは、もしも対象の内だったら解剖するのにもためらいはないと言っているように思えてしまうのは、考えすぎだろうか?。
「そーゆー夕美ちゃんは、信じてないのかにゃ?」
「うーん、私にはわからないかな。ほたるちゃんがそう言ってるんならそうなんじゃないかな」
夕美さんがあっけらかんと答える。
「でも、どっちにしても、ほたるちゃんのせいじゃないよね。体質なら」
63 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:43:01.19 ID:XzeV2oVA0
「あ、そうそう。それでひとつ確認したいことあったんだー。ほたるちゃん、ちょっとじっとしててね」
言うが早いか、志希さんは私のレッスン着のファスナーを一気に下まで引き下ろした。
「な、なにをするんですか!?」
「いいからいいから、よいではないか〜」
そう言いながら、志希さんがするすると私のレッスン着を脱がし始める。私は抵抗する間もなく上着をはぎ取られてTシャツ姿にされた。このままぜんぶ脱がされるんじゃないかと思って身を固くしたけど、志希さんは私の上着を片手に、じっと私を見ていた。
「うん、きれいな腕だね」
「腕?」
私が自分の腕に目を落とす。その隙に、志希さんが私のTシャツをぴらりとめくった。私は変な声を上げながら後ろに飛びのいた。
「なにかあった?」
夕美さんがほほ笑みながら訊ねる。
「かわいらしーおへそがひとつ」
志希さんがにゃははと笑う。
「それだけだね」
「そっか」
「なにがですか……」
「ん、傷がないな、ってね」
64 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:44:46.26 ID:XzeV2oVA0
ああ、とようやく納得がいく。
私のプロデューサーさんがいつも傷だらけなのは、今やけっこう有名な話だ。私の不幸を知っているのなら、当然それも知っているはずだ。
プロデューサーさんの負傷の原因が私の不幸なら、私も同じようにケガをしているんじゃないか、ということだろう。
でも、それならそうと、先に言ってくれればいいのに。
「ケガは……昔はよくしていたんですが、今は慣れたので」
「ふーん、慣れたらなんとかなるものなの?」
「気を付けていればだいたいは……それでもたまにケガをすることはあるんですけど、昔からなるべく軽傷で済むように肌の露出をひかえてますので」
たかが布の1枚でも、あるのとないのでは負傷の度合いがぜんぜん違う。
私は夏場でも外に出るときはほとんど長袖のTシャツかブラウスを着て、スカートのときはなるべくタイツを穿くようにしていた。
「にゃるほどにゃるほど。昔って、どのくらい昔?」
どのくらい?
考えてみると、いつから始めたことなのかわからなかった。私にとってそれは当たり前すぎて、なぜかと疑問に思うことすらなかった。だから、
「……物心ついていないような、小さいころからです」
母が、そうさせていたんだと気付いた。
私がまだ幼く、自分の不幸体質を知らなかったころから。
「いいママだね」と志希さんが言った。
「ね」と夕美さんが言った。
65 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:46:46.39 ID:XzeV2oVA0
*
レッスン開始時刻になり、トレーナーさんが入ってきて、雑談は終了となった。
この合同レッスンの担当になったトレーナーさんは、青木聖さんだ。
「時間は少ない。ビシビシ行くから覚悟しておけ」
聖さんは私たちを見回して言った。
私は周子さんが予定していた曲をそのまま引き継ぐ形となった。本番では、私、志希さん、夕美さんの順でステージに上がる。それぞれの単独での出番のあと、アンコール分として全員で3曲を披露する。つまり私は時間を空けて2回ステージに上がることになる。
準備運動を兼ねた軽いダンスのあと、ひとりずつレッスンをすることになった。残りの2人は休憩を兼ねた見学ということらしい。
「白菊はいきなりだと緊張するだろうから、あとにして、先に先輩ふたりにお手本を見せてもらおうか」
聖さんが言う。緊張していたのはたしかだったので、ありがたいと思った。
「まず一ノ瀬から」
「はーい」
私と夕美さんが壁際に移動して腰を下ろす。
私は少しわくわくしていた。志希さんと夕美さんの歌は、一般販売されているCDでは聴いているけど、生の歌やダンスは見たことはなかったからだ。
「ほたるちゃん、すごい真剣だね」
くすっと夕美さんが笑う。
「はい、見るのも勉強ですから……」
「うーん……でも」
夕美さんが困ったように苦笑する。
「志希ちゃんは、参考にはならないと思うよ」
66 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:48:36.90 ID:XzeV2oVA0
どういう意味だろう? と思ったけど、ちょうど音楽が流れ始めたので、私は見学に集中することにした。
志希さんはどうやら歌にアレンジを加えているようだった。ところどころ音程やリズムをわざと崩していたり、間奏部分でスキャットを入れたり、歌詞も一部変えたりしている。それでいて楽曲としての質は損なわれていない。
さすがに歌もダンスもレベルが高く、私は思わず感嘆の息をついた。志希さんは軽々とこなしているけど、あれは相当に難しいだろう。
「一ノ瀬、振り付けが違う」
最初の曲が終わったところで、聖さんがあきれたようにつぶやいた。
「あれ、そーだっけ? どこが違ったかにゃ〜?」
志希さんがとぼけたように言って、聖さんが深いため息をつく。
「ぜんぶ違う」
ぜんぶ?
「……あの、違うというのは?」
私は小声で夕美さんに問いかけた。
「即興だね、あれ」
夕美さんが答える。
即興――ダンスにもアレンジを加えていたのだろうか?
「あの曲の本来の振り付けはあるんだけどね。ぜんぜん原型とどめてないよ」
「私には、ちゃんとした振り付けに見えましたけど……」
「うん、あれ志希ちゃんが今考えたんだね」夕美さんが言う。「それで、同じのは二度とやらないの。もったいないよね」
それから1曲終えるごとに聖さんが苦言を呈した。「それではレッスンにならない」と。
信じがたいことに、志希さんはすべての曲にオリジナルの振り付けを当てているらしい。私の目には、そのどれもが甲乙つけがたいほど完成度が高く見えた。
夕美さんによれば、それらは全て『その場』で考えて踊っているという。本当に、そんなことが可能なのだろうか?
聖さんは、途中からはもうなにも言わず、ただ複雑そうな顔で志希さんのパフォーマンスを眺めていた。
67 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:51:01.88 ID:XzeV2oVA0
「では次、相葉」と聖さんが言う。
「はいっ」と元気よく答えて夕美さんが立ち上がる。入れ替わりに志希さんが腰を下ろし、そのままこてんと横になった。
夕美さんが、さっきまで志希さんが踊っていたところでトーントーンと飛び跳ねる。リズムを取っているようにも見えたし、体をほぐしているようにも見えた。
聖さんがオーディオを操作し、音楽が流れ始める。
夕美さんが控えめなステップを踏み、少しの間をおいて、澄んだ歌声が響き渡る。
空気が一変した。
私は不思議な感覚を覚えた。
まるで自分が今、色とりどりのお花が咲き乱れる草原にでも立っているような錯覚。
室内にいるはずなのに、降り注ぐ陽光のあたたかさを感じ、そよ風が肌をなでる感触まで伝わってくるようだった。
夕美さんは志希さんとは違い、歌に特別なアレンジはしていない。CD音源を忠実に再現するように、正確なリズムと音程で声を響かせていた。
一方で、ダンスは少し変わっていると感じた。急な動き出しや停止というものがなく、流れる水のように、常に動いている。歌の振り付けというよりは、日本舞踊かなにかみたいだった。全体的にゆっくりに見えるのに、不思議と曲に遅れることはない。
1曲目が終わる。聖さんは特になにも言わずに次の曲を流した。
どくんどくんと、自分の胸が高鳴るのを感じる。
志希さんが私に向けてなにか言ったような気がしたけど、耳には入ってこなかった。
私はまばたきをするのも忘れて、夕美さんに見入っていた。
歌もダンスも、もちろんすごく上手い。だけどそれだけじゃない。
この人は、なんて楽しそうに歌うんだろう。
歌うことが大好きで、心の底から楽しいと思っているのが、その声や表情からあふれ出していて、なんだか、見ている私まで、幸せな気分になった。
68 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:52:34.82 ID:XzeV2oVA0
「相葉はそれまで」
聖さんが言う。
「次、白菊」
ぼうっと余韻に浸っていた私は、その声で現実に引き戻された。
「は、はいっ! すみません!」
「いや、謝る必要はないが……」
私が部屋の中央に向かう。すれ違いざまに夕美さんが、「ほたるちゃん、がんばってね」と言って笑いかけてきた。
なんだかふわふわと雲の上を歩いているような気分になる。
背後で志希さんが、「ほたるちゃんがかまってくれない」と不満そうな声を出し、夕美さんが「レッスン中だからね」となだめている。
こそっと振り返り、その様子を盗み見る。私は膝が震え出しそうになるのを必死に抑えた。
私が、このふたりと同じステージに立つの?
69 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:54:09.32 ID:XzeV2oVA0
「久しぶりだな」
聖さんがニヤリと笑う。
私が聖さんのレッスンを受けるのは、346プロにきて最初のレッスン以来だった。
後になってから知ったけど、そもそも聖さんは通常は新人のレッスンなんて受け持つことはない。あのときは、プロデューサーさんの依頼で特別に、ということだったらしい。それ以降は、聖さんの妹の慶さんや明さんが私のレッスンを担当していた。
聖さんの笑みは、「あれからどう変わったか見せてみろ」と言っているように見えた。
私は、改めて部屋の中を見回した。
整った設備、適切な指導、レッスンに打ち込むための、最高の環境がここにはある。
もうなにも言い訳はできない。なにのせいでもない。これでダメだったら、私自身がダメなんだ。
ゆっくりと息を吸い、吐く。
「お願いします」と私は言った。
そして、案の定というべきなのか、聖さんの叱責の声が飛びに飛んだ。
声が小さい、テンポが遅れている、表情が固い、足元を見るな、指先までしっかり伸ばせ、と。
指摘されたところを修正しようとすると、別のどこかがおろそかになる。聖さんはそれを見逃さず、即座に指摘の声を飛ばす。それをずっと繰り返した。
「よし、そこまで」
予定の曲をひと通り終えて、聖さんが言った。
「……すみませんでした」
私は息を切らせながらつぶやいた。
「なにを謝ってる?」
「私だけ……ぜんぜんダメで」
聖さんが「ああ」と納得したような声を漏らす。
「現時点でそれだけできていれば十分だ。気にしなくていい――というよりも」
聖さんが壁際で休んでいるふたりに目を向ける。
「……白菊ぐらいのほうが、こっちもやりがいがあって助かるな」
70 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:55:06.23 ID:XzeV2oVA0
「いじめっこだ」
と志希さんが笑う。
「上手だったよ」
夕美さんがぱちぱちと拍手をしてくれる。
私はほっと息をついた。自分の中になにか、この人には見放されたくないという思いがあった。
「だけど、振り付けアレンジするんですよね?」
夕美さんが聖さんに向けて言った。
「ああ、だがまずは素の状態を見て、それから矯正していくつもりだったから」
「あの? アレンジというのは?」
私は話について行けていけずに問いかけた。
「本番の衣装は和装になるんだよ。動きが制限されるし、普通のとは見え方が変わってくるから、それ用の振り付けになるんだよね」
夕美さんが答える。
なるほど、夕美さんの振り付けは、本番の衣装まで想定したものだったんだ。
「すみません、考えてませんでした」
「こっちが言ってなかったんだから、考えてなくていい」
「あたしも考えてなかったにゃ」と志希さんがつぶやく。
「一ノ瀬はそれ以前の問題だ」
聖さんが頭痛をこらえるように額に手を当てた。
71 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:56:35.39 ID:XzeV2oVA0
「下駄を履くわけではないから、そこまで極端に難しくはならないと思うが、和装の経験は?」
「えっと、お仕事では少しだけ。歌ではなくて、演劇ですが……」
「ほう」
幽霊の役を、とまでは口にしない。聞いたほうも反応に困るだろう。
「今日のところはそこは気にしなくていい。次回、感覚をつかむためになにか借りてこよう」
「わかりました」
「それはそうと、白菊」
聖さんが、手元のバインダーに目を落とす。
「ここ最近、体重が減っているようだな」
「あ、はい。そうみたいです。えへへ」
「なにを嬉しそうにしている、増やせ」
「ええっ?」
「これはもはや不健康といっていい領域に入っている。お前まだ13歳だろう、成長期に体重落とすヤツがあるか」
「いえ、でも私べつに、ダイエットとかしてるわけじゃ……」
「レッスンのしすぎだな。レッスン量を減らすか、食事量を増やすかしろ」
レッスンは減らしたくないなあ、と思った。
「えっと、じゃあ……がんばって食べます……」
「そうしろ。では、白菊がもう少し休憩したら、全体曲のレッスンを始める」
「あ、私はすぐでも、だいじょうぶですけど」
聖さんがいぶかしげな視線を向けてくる。
「お話してるあいだに、息整いましたので」
「……ああ、そういうヤツだったなお前は」
私はきょとんとした。
そういうやつって、どういうやつだろう?
「心配しなくても、お前も遠からず、あっち側になるよ」
72 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:58:20.56 ID:XzeV2oVA0
*
志希さんと夕美さんはお仕事の予定が多く入っているため、合同レッスンがとれる日はあまり多くない。
2回目の集まりは最初の合同レッスンから3日後のことで、この日は集合時間になっても、志希さんが姿を現さなかった。
「あの、志希さんは……?」
私は夕美さんに問いかけた。
「来てないね、電話も出ないし。今日は来ないかな?」
スマートフォンを片手に夕美さんが答える。
「もしかして……私のせいでなにか……」
夕美さんは笑って首を横に振った。
「志希ちゃんはよくサボるから、いつものことだよ」
「え……本当ですか?」
「うん、志希ちゃんには、ホントはレッスンなんて必要ないだろうからね」
それは、夕美さんもだろうと思う。
前回、今度のライブに向けてのレッスンとしては初回だったにもかかわらず、夕美さんのパフォーマンスは私の目にはそのままステージで披露したとしても問題ない出来映えに見えた。聖さんも、「文句なし」ということなんだろう、夕美さんに対してはコメントがほとんどなかった。
たぶん、このレッスン自体が、ほとんど私のためだけに組まれているんだと思う。
全体曲でも、ふたりはぴったりと息が合っていた。というより、ふたりが私に合わせてくれていた。最初の1回目から、聖さんの細かな指摘はいくつかあったけど、不思議なほど気持ちよく歌うことができた。もしかしたら志希さんは前回私と合わせられるかを試しにきていて、あれでもう十分だと思ったのかもしれない。
73 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 17:59:52.41 ID:XzeV2oVA0
聖さんがやってきても志希さんは姿を見せず、レッスンはふたりだけで始めることになった。
私は、前回よりは叱られることは少なくなった。この3日間で指摘されたところを集中的に直した甲斐があったのかもしれない。
ひと通り終えたあと、今度は聖さんが持ってきた羽織袴とブーツを着用してレッスンをおこなった。本番の衣装そのものではないけど、構造はほぼ同じらしい。ブーツは踵がけっこう高くて、慣れるまでに何回か転んでしまった。
夕美さんはやはり衣装を想定した振り付けをしていたらしく、仮の衣装を着てのダンスも不自然なところは全くなく、むしろよりいっそう映えるものになっていた。
私は夕美さんや聖さんの助言を聞きながら何度も繰り返し、ようやく「なんとか形にはなっている」という程度には踊れるようになった。
志希さんは、衣装を着たレッスンをしなくてだいじょうぶなのだろうか、と思って夕美さんに訊いてみると、「前にやったことあるから心配は要らないよ」と返ってきた。
前というのは、最初に桜舞姫が結成されたときのライブのことだろう。
「志希ちゃんはすぐにちゃんと踊れるようになったけどね、私は最初のうちはすごい下手だったんだ。ほたるちゃんのほうがずっと飲み込みが早いよ」
あのダンスを見たあとでは、夕美さんに下手なころがあったなんて信じられない。私を元気づけようとして謙遜してるんじゃないかと思った。
志希さんがすぐにできるようになったというのは本当だろうけど……
「周子さんは?」と訊いてみる。
「慣れたものだったね」
答えた夕美さんは、どこか誇らしげなように見えた。
74 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 18:01:31.38 ID:XzeV2oVA0
「私このあと少し時間空くから、周子ちゃんのお見舞いに行こうと思ってるんだけど、ほたるちゃんも行く?」
レッスンが終わったころ、夕美さんが言った。
「いえ……私なんかが行ったら、治るものも治らないと思うので……」
実は何度か行ってみようかと思ったことはある。
病状も気になっていたし、私が代役を務めさせてもらうことになったと報告もしたかった。
同じ建物に住んでいるのだから、行こうと思えばいつでもすぐに行けた。
だけど、お見舞いに行った私の不幸でなにかよくないことが起きてしまったら、「お前は、なにをしにきたんだ」という話だ。とどめでも刺しにきたのかと。
「そんなことないと思うけどなあ」
夕美さんが苦笑する。それから「うーん」と少し考え込むような仕草をして、
「ねえ、ほたるちゃん。明日ってどんな予定になってる?」と言った。
「お仕事とかはないです、自主レッスンでもしていようかと」
「そっか、じゃあ私とデートしない?」
夕美さんが、にっこりとほほ笑む。
「デ……えええええ!?」
自分でも驚くくらいの大声が出た。
「ええと……私もオフだから、いっしょにお出かけしない? ってことなんだけど……そんなに驚くことだったかな?」
「そ、そうですよね、ふつうですよね。もちろんだいじょうぶです、はい」
「よかった、じゃあまたあとで連絡するね」
75 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 18:02:57.38 ID:XzeV2oVA0
*
ひとりになったレッスン室でしばらく自主レッスンをこなして、私はいつものようにプロデューサーさんに声をかけに行った。
「プロデューサーさん、私そろそろ上がりますので」
「お疲れさま。今日はいつもより少し早めだな、疲れ溜まってるのか?」
「いえ、その、明日は…………で、でーと、なので、それに備えてというか……」
軽い悪戯心が芽生えて、私はそんなことを口走ってしまう。
「ああ、なんだデートか……」
プロデューサーさんが、カタカタとキーボードを叩きながらそっけなくつぶやく。
この人があわてるとは思っていなかったけど、予想以上に反応が軽くて少しがっかりした。
「では、お先に失礼しま――」
「デート!!!」
突然プロデューサーさんが叫び、ガタンと椅子を倒して立ち上がる。
びっくりしすぎて腰が抜けそうになった。
「それはマズい! たしかにお前はまだこれっぽっちも売れていないし、スキャンダル狙ってる週刊誌もいないだろうけど、それは駄目だ!!」
さすがに少しむっとした。事実ではあっても、『これっぽっちも』は、いくらなんでもひどい。
「相手は誰だ、学校の同級生か!? まさか業界関係者じゃないよな!?」
「知りません」
私はプロデューサーさんに背を向けて、駆け足で部屋を出て行った。
76 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/23(水) 18:05:49.90 ID:XzeV2oVA0
*
これまであまりそういった経験がなかったため、私はたぶん、浮かれていたんだと思う。
寮の自室に帰ってから、私は携帯電話を片手に思い悩んでいた。
つい反射的に引き受けてしまったけど、私といっしょにお出かけなんかしたら、夕美さんになにか悪いことが起きてしまうかもしれない。プロデューサーさんみたいに。
プロデューサーさんならいいというわけじゃないけど、夕美さんはライブを控えているだいじな体だ。万が一にもケガなんてさせるわけにはいかない。
だけど、わざわざお休みの日に誘ったということは、なにか私に話でもあるのかもしれない。それにいちど引き受けたことを反故にするのはよくない。
……なんて頭の中で必死に言い訳を作ってるけど、本当は違う。私は楽しみにしているんだ。夕美さんと、遊びに行きたいと思っているんだ。
『だけど』が頭の中で繰り返される。
今の状況的に、優先するべきはライブだ。断りの電話をかけることが正しい、と思う。
液晶画面には、夕美さんの電話番号が表示されている。私はもう10分以上に渡って通話ボタンに指を伸ばしては引っ込めを繰り返していた。
そのとき、手の中の携帯電話が鳴りだし、心臓が止まるかと思った。夕美さんからのメール着信だった。
メールを開いてみると、明日の待ち合わせの時間と場所が書いてあった。それから「楽しみにしてるね」とひとこと、最後は花束らしき絵文字で結ばれていた。
私は悩みに悩みぬいた末、携帯電話を机に置いた。
断りの電話はかけない。私は夕美さんとお出かけをする。
だけど、夕美さんにケガなんてさせない。いざとなったら、私が身を呈してでも防いでみせる。
ベッドに腰かけて、両手をぎゅっと強く握りしめた。
私が夕美さんを守るんだ。
77 :
◆ikbHUwR.fw
[sage]:2018/05/23(水) 18:06:35.36 ID:XzeV2oVA0
(本日はここまでです)
78 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/05/23(水) 19:02:56.79 ID:OEJ3u89I0
乙です
扇子といいデートへの過剰反応といい、Pの過去が気になる
79 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/05/23(水) 21:54:05.34 ID:YWUXwqGSO
熊本弁きつい
80 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/05/24(木) 20:15:35.07 ID:mhVCyQWwO
周子の一人称マダー?
81 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:37:46.85 ID:k41t6Mgh0
07
調合した顆粒をカプセルに詰め、ビンに落とす。何度かそれを繰り返し、カプセルがなくなったところで大きく伸びをし、こりをほぐそうと首を振る。
締め切ったカーテンの隙間から差し込む光を視界にとらえ、とっくに日が昇っていたことを知る。時計を確認、午前10時36分。夜間に始めた作業が時間を忘れさせていたらしい。
強い疲労感と眠気を感じる。服を脱ぎ、バスルームへ。シャワーに打たれて眠気を払い、バスタオルで乱雑に体をぬぐう。
ドライヤーで髪を乾かしながら部屋の中を物色。衣類の山、洗濯は済んでいるが畳まれていない。髪の水気が飛びきったことを確認し、スイッチを切る。適当に拾った下着とキャミソール、ショートパンツを身に着け、椅子に引っかけたままにしていたカーディガンをはおる。カプセル入りのビンをバッグに放り込み、外へ。
眩しさに目が痛み、バッグから取り出したサングラスをかけた。
大通りでタクシーを捕まえ、目的地の住所を告げる。バックミラー越しに好奇の視線。
「346プロダクションですか?」と運転手。
肯定の返事を返す。『世間話でもしてみたい』というような欲求が鼻に届く。そしらぬ顔で窓の外に目を向け、無言のまま流れる景色をぼんやりと眺める。
到着、電子マネーで料金を支払い、車を降りる。
事務所の正面入り口前から少し引き返す。隣接した女子寮に入り、サングラスを外す。
1階ロビー。見知った顔がこちらを見て小さく首をかしげる。『キミがなぜここに?』ウインクをひとつ送り、通り過ぎる。エレベータに乗り込み、目的の階へ。
ドアの前に立ち、ぴんぽんとチャイムを鳴らす。しばし待ち、ドアが内側から開かれる。
「……志希ちゃん?」
82 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:39:04.17 ID:k41t6Mgh0
部屋の主、塩見周子ちゃん。片手でドアを抑えながら困惑の表情をする。
寝癖、部屋着、裸足で玄関のスニーカーを踏んでいる。
「やっほ、上がっていいかにゃ?」
「ん? うーん……んー」
やや充血した目、おそらく寝起き、若干痩せた印象、かすかに肌荒れ。
懸念、『伝染してしまうのではないか』という不安。
「あたしはだいじょうぶだから」
「どんな根拠で……ま、いいか。どうぞ」
声は平静。鼻詰まりなし、喉荒れなし、呼吸器官の症状なし――あるいは軽微。
「おじゃましまーす」
周子ちゃんに続き室内へ。奥の部屋へ向かいながらキッチンを確認。最近使用された形跡なし。匂いなし。
寝室に通され、部屋を見回す。空のペットボトル、脱いだままの衣服、散らかし気味。
椅子に座るよう促され、従う。周子ちゃんがベッドに腰をおろす。気怠そうな雰囲気、立っているのが辛かった様子、仄かに紅潮した頬、微熱。
「志希ちゃん、今日オフなん?」
「あ、そういえばレッスンがあったような」
バッグを探り、スマートフォンを取り出す。画面を点灯、6件の不在着信、見なかったことに。
「悪い子だねー」
苦笑する周子ちゃん。呆れ含み、特に問題とは思っていない。
しばし沈黙。なにか言おうか言うまいか迷っている気配。逡巡ののち、口を開く。
「……ごめんねー、ライブ出れなくて」
軽い調子、擬態。罪悪感が香る。
83 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:41:49.48 ID:k41t6Mgh0
「周子ちゃん最近忙しかったもんねー、やっぱり労働は悪だね」
「また杏ちゃんみたいなことを」
「あたしもしばらく周子ちゃんとのんびりしてよっかにゃ〜」
「夕美ちゃんに怒られるよ。あの子を本気で怒らせたら、辺り一面、花しか生えない焼け野原だよ」
「興味深い土壌だね。怒らせたことあるの?」
「ないけどさ」
流暢な会話。娯楽にふけった形跡なし、退屈していた。ひたすらの睡眠。一刻も早く病状を回復させようとしていた。
「そういえばねー、なんと周子ちゃんの代わりにほたるちゃんが出ることになったのだ」
「ほたるちゃん? どういう成り行きで?」
「うちのアイドルで代役のオーディションを開いてねー」
「へえ、オーディション? 誰が審査したん?」
「あたしと夕美ちゃんと、プロデューサー軍団」
「えー、ひとが寝込んでるあいだに面白そうなことやんないでよ。あたしも審査したかったわ」
「周子ちゃんいたらオーディションの必要ないでしょ」
「そらそうだ。……そっか、ほたるちゃんか」
微笑、どこか遠くを見るような目。罪悪感、ある程度解消。
「志希ちゃんは、ほたるちゃんのことどう思った?」
「ひかえめ、というより、自己評価がやたら低いね」
「あー……たしかにそうかも」
「こないだ3人でレッスンしたんだけどね、あれだけできるならフツーもっと自信持ってるものだよ」
「それ、志希ちゃんが折ったんじゃあるまいか」
「いや、ほたるちゃんもぜんぜん悪くなかったよ。他人の曲であれだけできれば大したもの、だけど本人はそう思っていない」
「うーん、志希ちゃんは、なんでだと思う?」
「他人から認められた経験に乏しいから、かにゃ」
84 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:43:31.10 ID:k41t6Mgh0
「……まあ、自信ってな、そうやってつけるものかもね」
「あと加害恐怖の傾向があるね。強迫性障害の一種」
周子ちゃんが眉をひそめる。
「それは、病気?」
「メンタル関係はまだまだ研究が進んでなくてね、病気かどうかの区別なんてのは、名前が付いてるか付いてないかぐらいでしかない。そういった意味では病気になるかな」
「で、ほたるちゃんがそれだって?」
「あくまで傾向。検査でわかるようなものじゃないし、この手のものは明確な指標とゆーものがないから、確実に正確な診断なんてのは、お医者さんでもできない」
「でも強迫性ナントカってのは、ようは思い込みなんだよね。ほたるちゃんの不運は本物だよ」
「本人にとっては同じだよ。思い込みのほうも本物だって思ってるんだから」
「それもそうか。治療とかできるん?」
「投薬である程度の効果は見込めると思う。ただし、効いてるあいだだけだね。思い込みなら、その間に思い込みを解消できれば、今度はお薬を減らしていって最後は要らなくなる。だけどほたるちゃんは本物だから、それだけじゃ本人の認識の変化は望めない」
「じゃあ、体質のほうをなんとかできなきゃどうにもならない?」
「そーゆーわけでもない。他人を巻き込もうが気にしなければいいわけだし」
「それは……ちょっとほたるちゃんには難しいかなー」
「程度の問題だよ。あの子は気にしすぎ。他人にメーワクってんなら、あたしのほうがよっぽどかけてるのにね?」
「せやね」
迷いのない肯定。その遠慮のなさを心地よく感じる。
「周子ちゃんは、前からほたるちゃん気にかけてるよね」
周子ちゃんの目を見ながら言う。
「どうして?」
85 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:45:13.72 ID:k41t6Mgh0
「最初に会ったときさ、ほたるちゃん、私はアイドルなんかやっちゃいけないって言ってたんだ、みんなを不幸にするからって」
「うん」
「それでも、アイドルになりたいって言ったんだ」
「うん」
「あたしは、じゃあなりなって言ったよ。だから、ちょっと責任感じてたりもするんだよね。本当にそれでよかったのかわかんないしさ」
「間違ってはないと思うよ。欲求とはヒトが生きるために必要なメカニズムだから」
「どーゆーこっちゃ?」
「ほたるちゃんにとってアイドルになりたいってのは、きっと自分が生きるために必要なことだから、そう望むんだよ。ほたるちゃんは自分が不幸を振りまいていると思っている。だったらそれを上回るくらい人を幸せにして打ち消したい。理に適ってないこともない」
「なんか複雑やね」
「つまり、あの子に今必要なものは」
「成功体験かね」
周子ちゃんが後を引き取る。あたしはうなずく。
「ライブが大成功すればいいわけだ」
「心配?」
「んー……いや、そーでもない」
「ほほー、そのココロは?」
「志希ちゃんと夕美ちゃんがいるから」
周子ちゃんがこちらを見て薄くほほ笑む。
「助けてあげてよ」
「それを、あたしに頼むかにゃ?」
「信用してるよ」
なんとなく落ち着かない感じがして、もぞもぞと椅子の上で体勢を変える。それから小さく首を縦に振る。
周子ちゃんが優しげに笑った。
86 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:46:31.79 ID:k41t6Mgh0
「そいえば周子ちゃん、ごはんはどうしてる?」
「ん、寮の食堂で。あんまり大勢いるとこに行くのもなんだからね、特別に時間ずらしてもらってる」
「しっかり食べてる?」
「あんまり食欲ないから、しっかりは食べてないかなー」
「そかそか、それはよかった」
「いや、ええんかい」
「いいんだよー、胃腸が弱ってるときはそれが正しい」
しばしの雑談を交わすうち、周子ちゃんがコンコンと咳込む。乾性咳嗽。
エネルギーの消費と、嘔吐神経の刺激。
「んー、咳、ひどい?」
「少しね」
「咳しすぎると吐きやすくなっちゃうから、ひどいようなら咳止め飲んだ方がいいんだけど」
「いや、そこまでじゃないよ。たまに、忘れたころにくるぐらい」
「ふんふん……だったら咳止めはいいかな。それはさておき、これプレゼントね。志希ちゃん特製だよ」
バッグからカプセル入りのビンを取り出し、手渡す。
徹夜の成果、海藻類を原料にした特殊カプセル、胃腸への負担の軽減。
「んー、風邪薬? 10個ぐらいあるね」
ビタミン剤、と告げる。
周子ちゃんがいぶかしげにビンを持ち上げ、カラカラと鳴らす。
87 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:47:36.30 ID:k41t6Mgh0
――いい匂いがする。
「……んっ、じゃあたしはここらで失礼するから、それは飲まないようなら捨てちゃっていいよ。じゃーねー、鍵はかけないでいいからねー」
立ち上がり手を振って、返事を待たずに部屋を出る。
通路、こちらに向かってくる人影、右肩にバッグ、左手に買い物袋を下げている。
一直線に駆け寄り、抱き着く。
「きゃっ」と短い声。
ハスハス、くんかくんか、スーハースーハー。
「志希ちゃん?」
「や、奇遇だね夕美ちゃん」
夕美ちゃんの左肩にあごを乗せ、ちらと買い物袋に目を向ける。食料品。
大根、セリ、昆布……おそらく具沢山のお粥、周子ちゃんのごはんを作るのだろう。
「周子ちゃんのお見舞い行ってたんだね。でもレッスンさぼっちゃだめだよ」
「にゃはは、ごめんごめん」
夕美ちゃんの指があたしの髪を梳く。あたたかさと頭皮に伝わる心地よい感触に、眠気がよみがえる。
「……志希ちゃん、寝不足?」
顔も見えてないのに、なんでわかるんだろう?
88 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:48:35.72 ID:k41t6Mgh0
「あー、うん。少し」
「帰ったらゆっくり休みなね。志希ちゃんまで倒れたら困っちゃうよ」
「プロデューサーたち大あわてだろうね、おもしろそ〜」
「私が、困っちゃうよ」
「――うん」
しばしのあいだ、黙って撫でられるに身をまかせた。
なごりおしいけど、夕美ちゃんもそろそろ周子ちゃんのところに行きたかろうと思い、最後に大きく息を吸い込んで腕をほどく。
お花と、太陽の香りがした。
「またねー」と手を振って、エレベーターに向かう。
「あ、志希ちゃん」と呼び止める声。
足を止め、首だけで振り返る。
「おうち帰ったら、手を洗って、うがいしてね」
思わず笑ってしまいそうになった。
くるっと半回転し、敬礼のポーズをとる。
「はい、ママ!」
「ママじゃないよっ」
89 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/05/26(土) 23:50:18.77 ID:k41t6Mgh0
建物の外へ。かすかに足元がふらつき、頭を振って眠気を払う。タクシーをつかまえ、帰宅。
玄関先で眠りそうになるのをこらえ、洗面所へ。手を洗い、うがいをする。
『私が、困っちゃうよ』
寝室へ移動。室温、問題なし。湿度、問題なし。水分――やや不足していると感じる。
ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。封を切り、半分ほどを一気に飲み下す。
ベッドにもぐりこみ、目を閉じる。
『助けてあげてよ』
まどろみの中、思い返す。
あたしを頼りにするなんて、周子ちゃんもどうかしてる。
白菊ほたる、不幸の申し子。
あまり心配はしていない。あんな捨てられた子犬みたいな目をした子を、夕美ちゃんが放っておくわけがない。
ふと彼女の担当プロデューサーに思案を向ける。
深い会話を交わした覚えはない。ほたるちゃんの代役内定後、丁寧なあいさつをしにきた。
20代後半、独身、いつも戦闘服のように隙なくスーツを着込んでいる。兵士、あるいはサイボーグを連想。ビジネスライク。
以前担当していたアイドルの引退後、ほたるちゃんをスカウトするまでは事務仕事に専念していたという。
事務所内ですれ違った際、ときおり、ごく少量のメンズパルファンを漂わせていることがある。
印象、自ら購入してまで香りを身につけるタイプではない。あれば使うかもしれない、もらいもの?
女から男へ香水のプレゼント。マーキングの意味。
噂、以前の担当アイドルと男性芸能人のゴシップ沙汰。346の権力で握りつぶした。
その後、彼女はテレビの生放送中に引退を表明。くだんの男性芸能人との進展はなし。以降の行方は知れず。
アイドルから担当プロデューサーへの恋慕、失恋、あてつけ?
思考を中断――空想の域を出ない。
だけど彼からは、隠し事の匂いがする。
90 :
◆ikbHUwR.fw
[sage]:2018/05/26(土) 23:51:28.01 ID:k41t6Mgh0
(本日はここまでです)
91 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/05/27(日) 00:00:10.21 ID:xYuDFfGk0
乙です
いいね、匂わせるね、志希だけに
92 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:32:17.97 ID:Y+SAhLWq0
08.
小学6年生の運動会のとき、私は女子長距離走のクラス代表に選ばれた。
特別運動に秀でていたわけでもない私が、なぜ代表に選ばれたのかはわからない。もしかしたら、みんながやりたがらない種目を押し付けられただけなのかもしれない。
自他ともに認める雨女で、遠足などのみんなが楽しみにするイベントには数限りなく雨を降らせてきた私だけど、運動会当日は抜けるような快晴だった。
長距離とはいっても、実際にそれがどのくらいだったかは覚えていない。小学校のことだし、それほどの距離ではなかったと思う。
校庭のトラックを1周し、校門から外に出て、決められたルートを走る。
ところどころに目印代わりの生徒や教師たちが立っていて、道を間違えないように誘導していた。
私は一生懸命走った。押し付けられたはずれくじでも、代表であることは変わりない。手を抜いて、みんなの迷惑になんてなりたくなかったから。
車にぶつかりそうになっても足を止めず、靴ひもが切れたら急いで結び直して、何度も転んで、同じ数だけ立ち上がって、ひたすら一心不乱に走り続けた。
しばらくして、後続がどんどん離れていくのがわかった。
私が先頭を走っている。私が他のクラスのみんなを引き離している。そんな快感を背中で覚えながら、私はまた一生懸命に走り続けた。
街中をぐるりと周り、再び校門をくぐる。トラックのコースに戻って、ゴールを目指してまっすぐに走る。
私はいちばんでゴールをした。
はずだった。
ゴールラインを駆け抜けて、倒れるように地面にへたりこみ、咳込みながら息を整えて、ようやく気付いた。
ゴールの両側で向かい合うようにしたふたりの教師が、テープを持っていなかったことを。
先頭だと思っていた私の、視界に入らないほど遥か先を、ひとりの少女がずっと、悠然と走っていたことを。
私が2位になったことでそこそこの得点が入り、私のクラスは優勝した。もしこれが3位だったなら、優勝は逃していたらしい。
予想外の私の健闘を、みんながたたえてくれた。会話を交わしたこともないクラスメイトとハイタッチまでした。
みんなが喜んでいた。みんな笑っていた。
私は、笑えなかった。
93 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:33:20.64 ID:Y+SAhLWq0
*
駅の階段を駆け昇り、地上に出る。空は灰色に曇っていて、季節のわりに少し気温が低かった。
携帯電話を取り出して時間を確認する。約束の時間を10分ほど過ぎていた。
きょろきょろと辺りを見回すと、少し離れたところで、女性が手を振っていた。
「ほたるちゃん、おはようっ」
一瞬、それが夕美さんだと気付けなかった。
事務所で見かけるとき、夕美さんはスカート姿が多い。だけど今日は細身のジーンズを穿いて、橙色のテーラードジャケットをはおっていた。
もしかしたら変装なのかもしれない。顔を隠しているわけじゃないけど、こうして見ると雰囲気がいつもとはだいぶ違っていて、これなら通りすがりの人が見かけても、よく似た別人だと思ってしまうだろう。
「すみません、遅れてしまって」
「ううん、私も今来たところだよ」
気を遣ってくれてるのかと思ったけど、私が遅れた理由は電車遅延なのだから、同じ駅で待ち合わせしている夕美さんも遅れていてもおかしくはない。私はそれ以上なにも言わず、小さく頭だけ下げた。
「じゃあ行こっか」
夕美さんが歩き出し、私が後を追おうとしたところで、ぽつぽつと軽い感触が頭を叩いた。
「あ、降ってきたね」
「すみません、私のせいです」
「うん? なにが?」
「その……私が外出したときは、よく雨が降るんです」
夕美さんは少し黙ったあと、にっこりと笑って、「私は雨も好きだよ」と言った。
私は首をかしげた。雨が好きな人間なんているのだろうかと思った。
「植物はお水がないと枯れちゃうからね。人が育ててるのはよくても、誰もお世話していない街路樹とか野の花は、雨が降らないと困っちゃうんだよ。あと農作物とかもね」
それに、と言って、夕美さんが傘を広げる。
「この傘、お気に入りなんだけど、使う機会がないと寂しいからね」
94 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:34:25.10 ID:Y+SAhLWq0
夕美さんの傘は、透明だけど外側のほうにピンク色のラインが入って、その少し内側に色とりどりのお花の模様が踊るように散りばめられていた。丈夫さ以外の観点で傘を選んだことのない私には、こういうものがどこで売っているのかもわからなかった。
「かわいらしいですね」
「ほたるちゃんは、傘は?」
「忘れてしまって……いつもは持ってるんですけど……」
私は折り畳み傘は常に持ち歩いている。だけど、今日に限ってそれがなかった。
いつの間にかバッグの底に大きな穴が空いていて、来る途中で傘がその穴からすべり落ちてしまったらしい。そんなことあり得るだろうか、と思うけど、状況を見るとそうとしか考えられない。
「そうなんだ、じゃあどうぞ」
夕美さんが傘を少し持ち上げ、隣にスペースを作る。
断る理由が思いつかず、私は「失礼します」とつぶやいて、いそいそと夕美さんの隣に入った。
服装と、もともと髪が短めなのもあってか、ものすごくきれいな顔立ちをした男の人のようにも見えて、少しどきどきしてしまう。
夕美さんがゆっくり歩きながら、道すがら目に入る草花や街路樹をひとつひとつ解説していく。
私は肩を並べて相槌を打ちながら、車道に注意を払っていた。予想される不幸で特に被害が大きくなるのは、やはり交通事故だろうから。
遠くから向かってくる1台の車が目に入る。けっこうスピードを出している。
ちゃんとまっすぐ走っているから、歩道に突っ込んでくるようなことはないだろうけど、なんとなく気になって目で追っていた。そして、ちょうどあの車が私たちとすれ違うあたりの車道が、ほんのわずかくぼんでおり、雨水が溜まっていることに気付いた。
気付くのが少し遅かった。私が夕美さんに警告の声をかけるより早く、車がすぐ横を走り抜ける。
すっと傘がかたむき、真横を向く。タイヤが踏みあげた水しぶきが傘に当たり、バァンと大きな音を立てた。
「透明の傘って、視界をさえぎらないからいいよね」
夕美さんが何事もなかったように傘を上に向け直す。私も夕美さんも、ほとんど濡れていなかった。
「気付いていたんですか?」
「うん、ほたるちゃんなに見てるのかなーって思ってて」
夕美さんが上に目を向ける。
「あれ、もう止んだかな?」
つられて私も空に目を向けた。ちょうど雲が切れて日が差し始めたところだった。
夕美さんが閉じた傘を軽く振り、水を飛ばした。
95 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:35:17.93 ID:Y+SAhLWq0
待ち合わせ場所を指定したのは夕美さんで、目的地は聞いていない。私は夕美さんの隣を半歩ほど遅れて歩いていた。そこに、細い路地からぴょこんと真っ黒い猫が飛び出してきた。
よりによってこの日にかと、ため息をつきたくなった。
「あ、ほたるちゃん、猫!」
夕美さんが無邪気な声を上げる。
「首輪してないね。珍しいね、東京で野良猫って」
「そうでもないですよ」と私は言った。「だいたい3日に1回は見かけます」
「……ほたるちゃん、猫嫌い?」
「いえ、嫌いじゃないですけど……」
夕美さんがしゃがみ込んで猫のあごの下をなでる。猫がゴロゴロと喉を鳴らした。
「私はけっこう動物寄ってくるほうだと思うんだけどね、私のプロデューサーさんは、なぜか動物に嫌われやすくて、よく襲われてるんだ」
「襲われ……?」
「ほたるちゃんは、そういうことはない?」
「ええと……さすがに、襲われることはないです」
夕美さんが顔を上げて私にほほ笑みかける。
「じゃあ、ほたるちゃんは猫に好かれてるんだね」
猫が夕美さんの視線を追うように振り返って、私の足に頭をすり寄せてきた。おそるおそるなでてみると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。かわいい。
好かれているなんて、考えたこともなかった。だけど、そう思ってみると、よく猫と出くわすというのも、そんなに悪いことじゃないのかもしれない。
……たまには、真っ黒じゃない子とも会ってみたいけど。
96 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:36:28.82 ID:Y+SAhLWq0
ばいばい、と猫に手を振って再び歩き出し、夕美さんが足を止めた場所はオープンテラスのカフェだった。
建物の中と屋外、それぞれにだいたい半分ずつ席が設けられている。
「よかった、空いてるね」
夕美さんがスキップするような足取りで入口をくぐる。
そこはお店の構え、インテリア、店員さんの物腰にいたるまで、すべてが高いレベルで洗練されていて、自分ひとりではまず気後れして入れないようなお店だった。もっとはっきり言うと、『高そう』だった。
「いいお天気になってきたし、テラス席でいいかな?」夕美さんが問いかける。
「おまかせします」と答えた。
案内された席に着く。雨が上がったのを見てすぐに拭いたのか、椅子もテーブルも、少しも濡れていない。メニューを置いたウエイターさんが分度器で測ったようなお辞儀をして離れていく。
「夕美さんはこのお店、よく来るんですか?」
「うん、最近見つけてね、気に入ってるんだ。私はもう決めてるから、メニューはほたるちゃんが見ていいよ」
「はい、じゃあ私は……」
メニューを開く。予想はしていたけど、どれもお店に負けずなかなか立派なお値段をしている。……飲み物だけでいいかな。
「夕美さんは、なにを?」
「パンケーキと、今日はカモミールティーにしようかな」
「じゃあ、私もカモミールティーで」
夕美さんが片手を上げ、ウエイターさんに注文を告げる。
「あの……今日は、どうして私を呼んだんですか?」
再度ウエイターさんが去っていったところで、私はおずおずと訊ねた。
今日のことは楽しみでもあったけど、なにか特別な話があるんじゃないか、レッスンでなにか至らないところがあっただろうかと不安でもあった。
「ほたるちゃんと遊びたかったから」
夕美さんがこともなげに答える。
なにか続く言葉があるのかな、と待っていたけど、夕美さんはなにを言うでもなく、にこにことほほ笑んでいた。
97 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:38:12.57 ID:Y+SAhLWq0
「えっと、なにかお話があったとかでは?」
「ううん、私はただ、ほたるちゃんとお茶したかっただけだよ。このお店ね、ひとりではよく来てるけど、いっしょに来たのはほたるちゃんが初めてなんだ」
少し意外に感じた。夕美さんは交友関係が広く、ひとりでいるところを見た記憶がほとんどない。事務所のアイドルにはカフェ巡りを趣味にしてる人もいるし、お気に入りのお店なら真っ先に紹介してそうなものだけど……
「藍子さんとか、琴歌さんとも来ていないんですか?」
「うん、それに私のところのプロデューサーさんも、連れてきたことないね」
「どうしてです?」
「私ね、みんなといっしょにいるのも楽しいけど、ひとりの時間も好きなんだ。何の気兼ねもなく、ひとりきりでリラックスしていられる秘密の場所っていうのかな? だから誰にも教えないの」
「だったらなおさら……なんで私をつれてきたんですか?」
「なんでだろうね?」
はぐらかしているという感じはしなかった。本気で「そういえばなんでだろう?」と疑問に思っているみたいだった。
「私はそんな深く考えて行動してないよ。ほたるちゃんとこのお店に来たいなって思ったから、そうしたの」
ウエイターさんがワゴンを押してきた。パンケーキが3枚盛られたお皿、それに耐熱ガラスらしい透明のポットと、白いカップがふたつ乗っている。
テーブルに置いたカップに、淡い黄色の液体が注がれる。ちょうど2杯分の分量が入っていたらしく。空になったポットはワゴンに戻していった。
98 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:39:23.50 ID:Y+SAhLWq0
カップを口元に近づけると、ぽわんと不思議な香りがした。
カモミール、お花の見た目はわかるけど、匂いがこんな感じだったかというと、ちょっと自信がない。だけど、嫌いじゃない。
そっとひとくちすすってみる。味はほとんどない。ふつうの紅茶や緑茶と比べるとお湯みたいなものだった。そのぶん、お茶類特有の渋みもなくて香りの邪魔をしない。きっとそういう楽しみかたをする飲み物なのだろう。
「どうかな?」
と夕美さんが問いかける。
「苦手な人はすごい苦手らしいんだけど、ほたるちゃんは平気?」
「はい。私これ、好きです」
「よかった」
夕美さんが輝くような笑顔を見せて、私はつい見惚れてしまいそうになった。
夕美さんはいつも笑っている。周子さんや志希さんもよく笑うけど、夕美さんはその比じゃない。もはや地顔が笑顔なのではないかと思ってしまうほど、いつだってほほ笑んでいる。
「笑うって、どうやるんですか?」と訊ねてみた。
夕美さんがわずかに首をかたむける。
「えっと……私、笑顔というものが苦手で、夕美さんは、どうやってるのかなって……」
「うーん、同じようなことけっこうよく訊かれるんだけどね、実はよくわかんない」
「わからない?」
「うん、私は笑おうと思ってないから」
私は当惑した。笑おうと思ってないのに、いつも笑ってる?
「楽しくもないのに笑わなくていいよ。自分が楽しめば、自然に笑えると思うよ」
99 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:40:47.67 ID:Y+SAhLWq0
「……楽しかったことを思い出せばいいんでしょうか」
「思い出すんじゃなくて、そのとき楽しむ、かな?」
「よく……わかりません」
夕美さんが「ううん」とうなる。それから、ひとくちサイズに切ったパンケーキをフォークに刺し、私に向けてきた。
意図はわかるんだけど、これは……
「あの……恥ずかしいので……」
「うん、私もこの状態はちょっと恥ずかしいから、できれば早く食べてほしいな」
……引っ込めるという選択肢はないんでしょうか?
周囲を気にしながらこそこそとフォークに顔を寄せて、先端に刺さったパンケーキを口に含む。ほのかにレモンの匂いがした。
けっこう厚みがあるかな、と思いながら歯を立てる。生地の香ばしさとメープルシロップの甘さとチーズの風味が口の中でひとつになり、するすると消えていく。本当に消えた。
あぜんとした。私は飲み込むという工程をとっていない。なのに、ひと噛みしたパンケーキは、まるで魔法のように口の中で溶けてなくなった。
「……おいしい」
思わず、そうつぶやいていた。
100 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:41:34.93 ID:Y+SAhLWq0
「でしょ」
夕美さんが嬉しそうに言う。
「今、ほたるちゃん笑ってたよ」
私は、はっとして自分の頬をぐにぐにと触った。
「……自分じゃ、わかりません」
「だよね」と夕美さんがほほ笑んだ。
「もうひとくち食べる?」
私はこくこくとうなずく。食い意地が張っていると思われてしまう恥ずかしさよりも、さっきの味をもういちど味わいたいという欲が勝っていた。
それから何回か『あーん』を繰り返し、結局3枚のうち1枚は私が食べてしまった。
「ところでほたるちゃん、お花は好き?」
お皿とカップを空にしたところで、夕美さんが言った。
「好きです」と私は答えた。
お会計は夕美さんが持ってくれた。
私は「夕美さんの頼んだパンケーキまでかなり食べておいて、そんなわけにはいかない」と固辞したけど、夕美さんの「お姉さんぶりたいから」というセリフに返す言葉が見つからず、結局押し切られてしまった。
101 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:42:15.02 ID:Y+SAhLWq0
お店を出て歩いているとき、夕美さんがぴたりと足を止めた。
どうしたんだろう、と私も立ち止まると、すぐ近くでパシンと軽い音が鳴った。
私の顔のすぐ前に夕美さんの手があって、野球のボールが握られていた。
夕美さんの視線は近くの高いフェンスに向いていた。どうやらそこは学校らしい、金網のフェンスの向こうから高校生ぐらいの男子が走ってきた。左手にグローブをつけている、野球部員のようだ。
夕美さんは彼に向けて手を振り、空めがけてボールを投げた。高く上がったボールはフェンスを乗り越えて、彼が構えたグローブに入った。
夕美さん肩強いなあとか、いいコントロールしてるなあ、なんてのんきに考えて、ふと我に返ってあわてて頭を下げた。
「す、すみません! 手はだいじょうぶですか!?」
「うん、平気だよ。ホームランだったのかな?」
夕美さんはほほ笑みを絶やさない。
だけど、自慢じゃないけど私は、主な球技に使うボールはひと通り当たったことがある。その経験からすると、野球のボールはなかなか硬くて痛い。
それも今回はけっこう遠くから飛んできて、かなりのスピードがついていたはずだ。素手で受け止めて、痛くないとは思えない。
「ちょっとしたコツがあってね、手を後ろに引きながら受け止めるの。ボールに優しくって感じにね、そうしたら痛くないよ」
夕美さんがひらひらと手を振る。本当に痛がってはいないようだった。けど――
「……助けてくれてありがとうございました。でも、私はだいじょうぶなので、次からは放っておいてください」
夕美さんがきょとんとする。
「だいじょうぶって?」
「その、私はずっとこうなので、もう慣れているというか……」
「本当にそう?」
「いえ、痛いことは痛いんですが……余裕があれば自分でなんとかしますので……」
「ほたるちゃんは、いつも自分のことは後回しだね」
夕美さんが、少し困ったような微笑を浮かべる。
「痛いことに慣れたりしないよ」
102 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:44:10.81 ID:Y+SAhLWq0
それから、私たちはバスに乗って植物園に向かった。
私はこういうところに来るのは初めてだったけど、夕美さんはオフの日にたびたび訪れているらしい。入園料は400円、意外と安い。人はあまり多くなくて、落ち着いた雰囲気だった。
広い園内をふたりでゆっくりと、色んなお花を眺めて歩く。
右を見ても左を見てもお花でいっぱいで、夕美さんは、はしゃいでいるといってもいいくらいに喜んでいた。お花ももちろんきれいだったけど、その嬉しそうな顔を見るだけでも来てよかったと思った。
ときどき夕美さんはお花に聴かせるように歌を歌った。きっと夕美さんにとって歌うというのは特別な行為ではなく、嬉しいとき、楽しいときに自然とそうしてしまうものなのだろう。
気のせいか、辺りに咲くお花が夕美さんの歌声を聴いて、少し元気になったように花びらを広げたように見えた。
私がいっしょにその歌を口ずさむと、夕美さんはにっこりと笑って、きれいな声だとほめてくれた。
103 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:45:34.50 ID:Y+SAhLWq0
園の敷地内に小さな売店があって、夕美さんが「アイス食べよっ」と言って私を引っ張っていった。
私は昔から好きでたまに食べている棒つきアイスを買った。夕美さんも同じものを選んだ。
ベンチに腰掛け、慎重に袋を開ける。私は開けようと力を入れた拍子に中身が吹き飛んでしまったり、ちゃんと開ききっていない袋にアイス本体がひっかかって棒だけが抜けてしまうということがよくあったから。
「あ――」
無事に取り出せてほっとしたのもつかの間、ふたくちほどかじったところで、アイスが崩れて棒から落下していった。
アスファルトに散った残骸に、すぐさま勤勉な引っ越し業者のように蟻が集まり始める。私は恨めしく思いながらじっとそれを眺めた。
……ううん、ふた口も食べれたんだから、十分って思わなきゃ。
「あ、落としちゃった? 服にはついてない?」
すでに自分のぶんを食べ終えている夕美さんが訊ねる。
「はい……服は無事です」
たしかに、お洋服が汚れなかったのは幸運といっていいかもしれない。アイスだってぜんぜん高いものじゃないし、落ち込むようなことじゃない。
「そっか、よかった」
それから夕美さんが「はい」と言って、食べ終わったアイスの棒を差し出してきた。
捨ててきてってことかな? と思いながらそれを受け取って、私は初めて、長年食べてきたこのアイスが『当たり付き』だったと知った。
「……もらっちゃっていいんですか?」
「ふたつは食べ過ぎだからね。聖さんもほたるちゃん太らせようって言ってたし、ちょうどよかったね」
「太らせようとは言ってないと思いますけど……」
当たり棒を水道で軽く洗ってから、お店で新しいアイスに引き換えてもらう。今度は落とさずにぜんぶ食べることができた。
「当たりって、よく出るものなんですか?」
「珍しいと思うよ、私もあのアイスでは初めてだったかな」
104 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:46:29.52 ID:Y+SAhLWq0
ひと通り園の中を眺め終えて、私たちは出口の近くにあるお土産屋さんに入った。
さまざまな種類の種や小さめの鉢植え、それに植物の図鑑、お花をモチーフにした雑貨などが売っている。
夕美さんが真剣な表情で種を選んでいた。可能なものなら全種類買っていきたいとでも思っているようだった。
私は必要なものはなかったけど、なんとなく記念に、お花柄のついたメモ帳とシャープペンを買った。
楽しい時間は流れるのが早いという話は間違いではないらしく、植物園を出ると、沈みかけた太陽が世界をオレンジ色に染めていた。
夕美さんが「よかったら、うちで晩ごはん食べてく?」と言った。
それはとても魅力的な提案だったけど、私は遠慮した。せっかくここまで何事もなく終えたのに、夕美さんのおうちで不幸を起こすわけにはいかない。
「そっか」と、少し残念そうに夕美さんが言った。「今日はありがとね、楽しかったよ」
「こちらこそ、とっても楽しかったです」
「そうだ、これあげる」と言って、夕美さんが小さな包みを渡してきた。さっきのお土産屋さんで買ったものらしい。
開けてみると、銀のネックレスが出てきた。お花を模した小さいトップがついている。カモミールの花だ。
遠慮するべきだと思う。それほど高価なものじゃないにしろ、今日はたくさんのものをもらい過ぎている。
だけど、この1日でわかった。夕美さんは意外と強引なところがある。「受け取れません」と付き返しても、たぶん聞きはしないだろう。
なによりも、私が喜んでいた。とてもとても嬉しいと思っていた。
だから私は、夕美さんの前でネックレスをつけてみせた。
「よく似合ってるよっ」
夕美さんがぱっと顔を輝かせる。お花が咲くような――とは、きっと夕美さんのためにある言葉なんだろう。
105 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:47:31.47 ID:Y+SAhLWq0
私は寮に戻り、食堂で早めの夕食をとってから事務所に向かった。
「第2レッスン室を使います」と私が言うと、プロデューサーさんは、どこかとがめるような眼差しを向けてきた。
「相手は誰だ」
プロデューサーさんが言う。不機嫌、というより、少し怒っているようだった。
相手? と私は首をひねり、昨日の帰り際のことを思い出した。
「夕美さんです」
プロデューサーさんはがっくりと膝をつき、魂を吐き出すみたいに長い息をついた。
「どうしました? 体調でも……」
うなだれたプロデューサーさんの顔をのぞきこむ。
「いい、だいじょうぶ。レッスンしといで」
プロデューサーさんはそう言って、追い払うように手を振った。
106 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:48:35.91 ID:Y+SAhLWq0
レッスン室のオーディオに持ってきたCDをセットし、再生ボタンを押す。
流れ出した夕美さんの歌に、いっしょに歌っているつもりになって自分の声を重ねる。
合同レッスンで見学させてもらった動きを、見よう見まねで再現する。
見るのと自分でやるのはやっぱり大違いで、なかなかうまくはいかない。
この1日を振り返りながら、それを何度も何度も繰り返した。
ときどきネックレスが揺れて、ちゃらんと音を立てるたびに、少し口元が緩んでしまった。
夕美さんはとても楽しそうに歌う。その笑顔は見ている人を幸せにする。
私もあんなふうになりたいと思ってしまうのは、さすがにおこがましいかな?
107 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:50:26.77 ID:Y+SAhLWq0
その日の夜、久しぶりに実家に連絡をしてみた。思えば346プロに入ったとき、書類の郵送をしたとき以来だった。
電話には父が出た。また移籍だろうか、と身構えてる雰囲気が電話越しでも伝わってくる。
「今度お客さん5000人ぐらい来るライブに出るんだ」
私が伝えると、電話からガタンという物音と、くぐもった悲鳴が届いた。
「あの……」
《少し待て》と父の痛みをこらえるような声がする。
電話を耳に当てたまましばらく待っていると、《もしもし》と、母の声に代わった。
「あ、お母さん、私……」
《聞いたよ、50000人だって? すごいじゃない》
「5000だよ」
私はあきれてつぶやいた。
たったふたりの伝言ゲームで、どうして10倍にまで膨れ上がってしまうのか。
「それも、先輩アイドルの代理だから、私は本当はまだまだで――」
母がうんうんと相槌を打つ。
「その……お父さんはだいじょうぶ? どこかぶつけた?」
《久しぶりにほたると話した感じがするって、痛がりながら喜んでるよ》
すごく反応に困ったけど、喜んでるのなら、まあいいのかな?
それからひとしきり、元気にしているかとか、ごはんはちゃんと食べてるかとか、お金は足りてるかなどと他愛のない話をして、母は最後に、
《寂しくなったら、いつでも帰ってきていいからね》
と言った。
私はきっと、笑っていたと思う。
「だいじょうぶ、寂しくなんかないよ」
嘘偽りなくこの言葉を返せることが、心の底から嬉しかった。
108 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:51:19.24 ID:Y+SAhLWq0
それから、毎日の自主レッスンと、何回かの合同レッスンを重ねて日々を過ごした。
志希さんは、ときどき気まぐれに顔を出しては、自由奔放に歌とダンスを披露し、気付けばまたどこかに消えていた。
夕美さんは、「困ったものだね」と笑っていた。
休憩時間に夕美さんの前で、ひとりでこっそり練習していた夕美さんの曲をやってみた。
夕美さんは驚いたように目を見開いて、「すごい上手」と拍手をしてくれた。それから「いっしょにやってみよう」と言って、ふたりで並んで歌って踊って、聖さんから「休憩時間は休憩をしろ」と怒られた。
私の衣装も届いた。白い生地に、私の苗字に掛けたのだろう、白い菊の柄が入った羽織と、黒い袴、それに黒革のロングブーツ。白地に白い模様で見えるのかな? と思ったけど、柄の部分だけ光沢が強くなるような加工がされているらしく、鏡に向かって動いてみると、菊のお花がきらきらと輝いて見えた。
扇子も用意してもらえるという話だったけど、私はプロデューサーさんからもらった扇子を使いたいと言った。
聖さんが扇子に書かれた百折不撓の文字を見て、「お前にぴったりだ」と言った。
ライブの日が近づくにつれ、緊張で胸がどきどきした。だけどそれ以上に、わくわくもしていた。
早くその日が来ればいいのになと、夜はいつもベッドの中で、指折り数えながら眠りについた。
悪夢はもう見なかった。
109 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/02(土) 10:52:07.97 ID:Y+SAhLWq0
*
ライブ当日、私とプロデューサーさんはかなり早い時間に出立した。
きっとだいじょうぶ、なんて希望的観測をもってはいけない。なにが起きてもかまわないと思っておくくらいがいい。
あらかじめ予測し、十分な備えをした場合はなにも起こらないことが多い。今回も特に問題は起こることなく、移動に使用したバスは十分な余裕をもって会場近くの停留所に到着した。
会場の前に、まだライブまでは相当な時間があるにも関わらず、ちらほらと人の姿が見える。
「ライブのお客さんでしょうか? 早すぎません?」とプロデューサーさんに問いかける。
まさかこの人たちまで不幸に備えてるということはないだろう。
「遠くから来ている人もいるから、ふだん会わないファン同士の交流とか、いろいろあるんだろ」
プロデューサーさんが言った。
「あと物販待ちかな」
なるほど物販、と私はうなずいた。
プロデューサーさんに続いて、関係者用の出入口から会場に入ろうとしたとき、ふと辺りが暗くなった。
曇ったかな、雨が降るのかな? と振り返り、空を見上げる。
思わず息をのんだ。
数千羽か、数万羽か、あるいはそれ以上か。
到底数えきれない、おびただしい数のカラスの群れが、太陽をさえぎり、昼間の空を黒く染めていた。
110 :
◆ikbHUwR.fw
[sage]:2018/06/02(土) 10:53:02.54 ID:Y+SAhLWq0
(本日はここまでです)
111 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/02(土) 11:33:41.05 ID:tYeyQESgo
からすとか不吉すぎんよー
112 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/02(土) 12:53:31.97 ID:I/4vJzUco
カラス「ほたるちゃんが歌うと聞いて」
113 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/02(土) 12:54:50.51 ID:Z4pNSmOEo
相葉ちゃんから漂う「昔やんちゃしてた」感
さすが総選挙で舎弟を引き連れてた強者
114 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/02(土) 15:18:49.34 ID:y5jJ9TGLo
相葉さんが命じればたくみんとちゃまも即仲良しよ
115 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/02(土) 15:30:56.89 ID:O6MlAJp7o
>「痛いことに慣れたりしないよ」
なんか実感がこもってるような
116 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/05(火) 10:20:32.18 ID:FE+vipXDO
元気でいるか
友達できたか
さみしくないか
お金はあるか
117 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:36:51.28 ID:AfpWDvGb0
09.
建物に入ると、遠くのほうからざわざわと人の声が聞こえた。
プロデューサーさんのあとについて進むと、だんだんと喧騒が大きくなり、スタッフさんたちが忙しく駆け回る姿が見えてくる。
いたるところに、なにに使うのかわからない機材が雑多に積まれていて、床はコード類が駆け巡っている。埃っぽくて、火薬みたいな匂いがした。どこかテレビ局のセット裏に似ている。
「まだまだ時間あるな」
腕時計を見て、プロデューサーさんがつぶやく。
「俺は設営のほう見てるから、控室入っててくれるか? 会場の外に出るときはひと声かけてって」
「わかりました」
プロデューサーさんと別れ、演者用の控室に入る。
けっこう広い部屋だった。壁のほぼ一面が大きな鏡になっていて、化粧台がいくつか並んでいる。部屋の中央には長机と椅子が6脚あって、長机の上には電気ポットと急須、重ねた湯呑がいくつか、それにお茶っ葉の缶が乗っていた。
椅子をひとつ引いて腰掛ける。
部屋の隅のほうに、ダンボール箱が3つ並べられているのが目に映った。箱にはそれぞれ相葉夕美、一ノ瀬志希、白菊ほたると名前が書いてある。今日の衣装が入ってるんだろう。
私はしばらく、座ったままでぼうっとしていた。
時間つぶしに外に出るつもりはない。さっき見た、黒い空が忘れられなかった。
『不吉』というものを表すのに、あれ以上のものはないだろう。思い返すだけで、ぞくりと寒気がした。
早く夕美さんが来てくれたらいいのに、と思った。夕美さんがいてくれたら安心できる。あんな光景、きっとすぐに忘れさせてくれる。
もちろん、夕美さんと志希さんはまだ当分来ることはない。早い会場入りをしたのは、もし私が交通機関のトラブルにあった場合に、ふたりを巻き込まないよう時間をずらすという意図もあったのだから。
外に出ないとなると、時間をつぶせるようなものは携帯電話ぐらいしかない。だけど、バッグからそれを取り出し、画面を点灯させると、『圏外』になっていた。もはや落胆もしない。私にはよくあることだ。
118 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:38:29.19 ID:AfpWDvGb0
メイクさんもまだ来ていないだろうし、着替えるにしても、いくらなんでもまだ早い。
なにをしてようかな、と悩んでいるところに、コンコンとノックの音が届く。
「どうぞ」と答えると、大きいサングラスをかけた、長い黒髪の女性が入って来た。
てっきりプロデューサーさんだとばかり思っていた私は、びっくりして言葉を失った。
誰だろう? スタッフさんには見えないけど……
「お、やっぱりもう来てたんだ、早いねー」
どこか茶化すような、その声には覚えがあった。
「周子さん?」
「うん、ひさしぶりだね、ほたるちゃん」
周子さんがサングラスを外し、こちらに手を振る。
「その髪は……?」
「もちろんヅラだよん。ふだんはここまで気合いの入った変装はしないんだけどね、なかなか似合うっしょ」
「どうして、ここに?」
「関係者用の席ひとつ用意してもらえてね、今日は客席から見せてもらうんだ。でもさすがにこの日にあたしが堂々とうろついてるのはマズいから、こんな格好してるってわけ」
「お加減はよくなったんですか?」
「おかげさまで、風邪のほうは完治してるよ。ずっと寝てたから、カラダはだいぶなまってるだろうけどねー」
周子さんが私の向かい側に腰掛け、目の前にあった電気ポットの中をのぞき込む。
「むしろほたるちゃんがなんか元気ないねー。緊張してる?」
「いえ、その……空を見てしまって……」
119 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:39:40.41 ID:AfpWDvGb0
「ああ、アレね。そいえば、うちの公式サイトの今日のライブ情報に、『天気予報にかかわらず傘の持参を推奨します』とか書いてあったの、あれほたるちゃんが言ったん?」
「え? あ、はい。私が関わると、天気が崩れやすいので……」
それはたしかに私が進言したことだった。だけど、どうして今その話が出るんだろう。
「そかそか、ファインプレーだったね。外のファンたち、傘さしてフンから身を守ってるよ」
なるほど、あれだけのカラスがいればフンを落とされる危険性は大いにある。見た目の不吉さに気を取られていて、考えもしなかった。
「実害になるようなのはそんぐらいだね。あんなん気にしないでええよ」
私はうなだれて「はい」と答えたけど、自分でもわかるくらい、声には力がなかった。
きゅぽんと妙な音がして顔を上げる。周子さんがお茶の缶の蓋を開けた音だった。
「あ、すみません。私がやります」
「いいからいいから、任しとき」
立ち上がりかけた私を手で制し、周子さんが鼻歌混じりにお茶を淹れ始める。
傾けた缶をゆすって急須にお茶っ葉を入れる。ポットのお湯をふたつの湯呑に注ぐ。それから湯呑を軽く揺らして、中のお湯を急須に移した。
私はお茶の淹れ方に詳しくはないけど、正しい手順のようには見えない。周子さんの独自のやり方なのかもしれない。
急須の蓋を閉じて少し待ってから、中身を何回かに分けて交互に湯呑に注ぐ。全て目分量だし、時間も計ってはいないようだけど、とても手際がよかった。
「ほい、これで帳消しね」
そう言って、周子さんが湯呑を押し出してくる。
なにが帳消しなんだろう、と思いながらそれを手に取り、私は目を見張った。茶柱が立っていた。
さすがに偶然とは思えない。もしかしたらなにかコツみたいなものがあって、周子さんは狙ってこれを立てたのかもしれない。
それでも、やっぱり嬉しかったし、少し気分が軽くなった。
120 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:40:55.06 ID:AfpWDvGb0
「ところで、志希ちゃんは迷惑かけてない?」と周子さんが言った。
志希さんは、その頭脳やアイドルとしての実力とは別に、奇行で有名なところがある。事務所でたびたび怪しい化学実験をして、問題を起こしているという噂も聞く。たぶん、その心配をしているんだろう。
「えっと、合同レッスンに来ないことはありましたけど、特に迷惑ということは……」
レッスン初日にセクハラっぽいことをされたような気がするけど、とりあえずそれは置いておこう。
「そらよかった。まあ夕美ちゃんがいるなら平気だろうとは思ってたけど」
「夕美さんがいると、平気なんですか?」
「志希ちゃんは夕美ちゃんになついてるからねー」
あのふたりはかなり仲がいいように見えるけど、『なついている』という表現は、志希さんのほうが夕美さんを特別視しているということだろうか。
少し考えて、そうであってもなにもおかしくはない、と思った。
「夕美さんは素晴らしい人ですから」
「あれ、ほたるちゃんまで夕美ちゃんにご執心なのかな? いいの? あれは寝る前にアイスだって食べちゃう女だよ」
「食べてもいいじゃないですか……」
周子さんがけらけらと笑う。
「夕美ちゃんっていい子なんだけど、別にいい子であろうとはしてないんだよね」
意味がよくわからず、私は首をひねった。
「どういうことです?」
「んー、ふつう『いい子』ってな、どこか無理してるところがあるんだよね。周りからいい子であることを期待されている、だからそうあるように努めている、みたいな。だから心の奥底では、けっこう鬱屈したものを抱えてる事が多かったりする。でも夕美ちゃんは違う。あの子、仕事現場でスタッフの手伝いとかよくしてるんだけどさ、あれは本当に本人が好きでやってるんだよ。根が善良だから、自分のやりたいようにやってたら結果的に他人のためにもなっているみたいな感じかな。ある意味では欲望に忠実ともいえるね。ああ見えて、ときどきキツいことも言うよ。素直だから」
121 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:42:20.06 ID:AfpWDvGb0
周子さんがお茶をひとすすりし、ほうっと息をついた。
「……志希ちゃんは、アタマがよすぎるからなのか、なんなのか知らないけど、ふつうの人じゃ見えないもんまで見えちゃうんだよ。嫌でも。てゆーか嫌だろうね」
「嫌、ですか?」
「うん、天才の宿命ってやつだね。他の人が死ぬほど努力してもたどり着けないようなところをお散歩感覚で越えていくんだから、妬まれるし、嫌われるよ。まあ、良識ある人は思ってもわざわざ表には出さないだろうけど、志希ちゃんにはたぶん、顔だけは笑って調子のいいこと言ってる人が腹の底ではどう思っているのか、なんとなくわかっちゃうんだ。それってきっと、しんどいよ」
周子さんが手に持った湯呑に目を落とし薄くほほ笑んだ。
「夕美ちゃんは表も裏もないから、裏を読む必要なんてない。言ったことはそのまま言葉通りに受け取ればいい。そーゆーのが志希ちゃんにとっては、すごく楽なんじゃないかな。……あたしは夕美ちゃんみたいにはなれない。どうしてもアタマで考えちゃうからね、これはもう、どうしようもない」
「……よく見てるんですね」
周子さんが肩をすくめる。
「これぜんぶあたしの勝手な想像だから、あんま信用しないでね」
「でも……志希さんは、周子さんのお話しているときも、とても楽しそうにしてますよ」
レッスンの合間のちょっとした雑談で周子さんの話題になったとき、志希さんの声や表情からは深い親しみの色が感じられた。特別というのなら、周子さんも志希さんにとってはそうなのだと思う。
周子さんは少しのあいだきょとんとしたあと、にんまりと笑った。
「……そっかそっか、それは嬉しいね」
それは、嬉しそうというよりは、『いいからかいの種を得た』というような性悪そうな笑みで、私は言ってしまったことを少し後悔した。志希さん、ごめんなさい。
122 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:43:29.64 ID:AfpWDvGb0
それから周子さんの提案で衣装のチェックをした。周子さんが言うには、こういった場合に使うはずの小物が足りなかったり、他の人のところに紛れ込んでいたりするのは珍しくないらしい。
幸いにも、今回はそういったアクシデントはないようだった。
「すみません、気が付きませんでした」
「なかなか謝りグセ抜けないねー」
私は、再び「すみません」と言ってしまいそうになって、なんとかこらえた。
だけど、言いかけたことまでお見通しだったらしく、周子さんがくすりと笑った。
「こーゆーときはすみませんじゃなくて、ありがとうって言うといいよ」
「……ありがとうございました」
「そうそう、どういたしましてだね」
しばらくのあいだ、いっしょにお茶を飲みながらお話をし、途中でいちど顔を出したプロデューサーさんが周子さんを見て何者かと困惑する場面もあったりして、時間はあっという間に過ぎていった。
周子さんはきっと、私が早めに現場入りして時間を持て余していることまで予測していたんだと思う。もしひとりで待っているだけだったら、時間の進みはこの何十倍にも遅く感じられただろう。
開場の時間が近づき、周子さんが「がんばってね」と言って控室を去っていく。
会場に入ったときの暗澹とした気分は、すっかり晴れていた。
だけど、やはりアクシデントはあった。
志希さんと夕美さんが到着しない。
123 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:46:35.75 ID:AfpWDvGb0
*
「想定が甘かったな、こういうこともあるのか」
プロデューサーさんがつぶやく。
「私も……こんなことは初めてで……」
どうやらふたりは、それぞれのプロデューサーさんが運転する車で会場に向かっていたところを、渋滞に巻き込まれて立ち往生してしまったらしい。渋滞の原因はわかっていない。動き出しさえすれば30分ほどで着くような位置だけど、原因が不明だからいつ動き出すのかがわからない。
すでに開場は始まって、開演時間は刻一刻と迫っている。
「少し前にふたりは車を降りて、別の方法でこっちに向かったそうだ」
「今はどのあたりに?」
「それが、連絡が付かない。車に残ったプロデューサーどもには繋がるんだけどな」
「その場所から電車ですと、どのくらいかかるんですか?」
「……調べてみたら、電車も止まっているらしい」
「それじゃあ……」
「渋滞も電車の運行停止も極一部でしか起きていないようで、今のところライブのお客さんが足止めをくらっているという情報はない。どうも相葉さんと一ノ瀬さんを狙ったように、ピンポイントで起きているみたいだな」
それは、私が日頃遭っているアクシデントの特徴とぴったり一致していた。
渋滞してるエリアを抜けて、タクシーでも捕まえればいいように思えるけど、私の経験では、そういったときに流しのタクシーを捕まえられることはまずない。電話で呼ぼうにも、こちらからの連絡が繋がらないということは、おそらくふたりの携帯電話は機能していない。故障か、謎の圏外にでもなっているんだろう。
「どうするんですか?」
「白菊はトップバッターだから、気にせず予定通りにやればいい」
「そのあとは……?」
「白菊の出番のあいだに、到着することを祈ろうか」
祈る――私の祈りなんて、天に届くだろうか。
「他人の心配するより先に、自分の仕事をしろ」
「……はい」
もし間に合わなかったら? と喉まで出かけた言葉を飲み込む。口に出してしまったら、本当になってしまいそうだと思ったからだ。
開演時間になっても、ふたりは到着しなかった。相変わらず連絡もつかず、今どこでどうしているのかもわからない。
私はひとり、ステージに向かった。
124 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:47:53.97 ID:AfpWDvGb0
つい昨日リハーサルで立っていたはずなのに、そこはまるで別の世界のようだった。
中央に立った私をスポットライトが照らし出し、大きな歓声があがる。
私にではなく、桜舞姫に、本来であれば周子さんに向けた歓声だということはわかっている。それでも、脚がすくんでしまいそうになった。
首筋にライトの熱さを感じる。ステージがまぶしすぎて目がくらみ、客席はあまりよく見えない。だけどホールを埋め尽くす生命の気配とでもいうのか、大勢のお客さんが詰めかけていることはわかった。
「み、みなさんこんにちは。白菊ほたるです」
マイクに向かって言った。私の声がスピーカーから流れる。
「えっと……今日は周子さんの代わりで歌わせていただくことになりました。よろしくお願いします」
客席に向けて深くお辞儀をする。ぱちぱちと拍手の音が返ってきた。
袂から扇子を取り出し、ぱしんと開く。
百折不撓。何度失敗しても、志を曲げないこと。
今は、自分のステージに集中しなきゃ。こんなに大勢のお客さんが私を見てくれている。このどこかには周子さんもいる。恥ずかしい姿は見せられない。
大きく、ゆっくりと息を吸い、吐く。いつからか、緊張したときに儀式のようにおこなっている深呼吸。動悸が静まり、肩が軽くなる。緊張も不安も、鬱屈も憂悶も、吐き出した息とともに消えてゆく。
扇子で顔を隠すようにしてしばし待つ。
音楽が流れ、体がパブロフの犬みたいに反射的に舞い始める。
激しい動きは要らない。まとった衣装も体の一部のように、はためく袖も振り付けの一部となるように、ゆうゆうと、だけど遅れることのないように動く。
息を吸い込み、マイクに向けて、声を響かせる。
客席で、無数の青い光が揺れ動いていた。
125 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:49:44.91 ID:AfpWDvGb0
最初の曲が終わり、拍手と歓声が湧き上がる。
これを私が起こしているのだという、えもしれぬ感動がこみ上げた。
ステージは、怖いくらいに順調に進んだ。足をすべらせることもなく、床が抜けることもなく、上空からなにかが落下してくることもない。
3曲を終えたところでMCに入る。内容は歌った曲の簡単な解説と、事務所での周子さんのちょっとしたエピソードなんかだ。もちろんアドリブでできるなんて思っていないので、前もって書き出して、プロデューサーさんにチェックしてもらったものを丸暗記してある。ところどころつっかえながらも、ちゃんと予定通りに喋ることができた。
反応も悪くなく、客席からは笑い声が上がった。周子さん本人はどんな気分で聞いてるんだろう、と思うと、ちょっと悪いことをしたような気もするけど。
MCのあとは、再び音楽に身を委ねる。
もう、頭で考えることはやめていた。これまでに何百回と繰り返して、すっかり体に染みついたリズムに身を任せ、声を響かせた。
あるときから、意識が体から離れて、自分を少し後ろから眺めているような錯覚を覚えた。集中できている証拠、いい傾向だ。
ミスもなにもない、歌声も身のこなしも機械のように正確で、パフォーマンスは完璧といっていい。
だけど、
私は今、どんな顔をしているんだろう?
126 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:51:08.31 ID:AfpWDvGb0
*
「ありがとうございました」と言って客席に手を振り、ステージをあとにする。
舞台袖にいたプロデューサーさんに駆け寄り、「夕美さんたちは?」と訊ねる。
プロデューサーさんが首を横に振った。
「まだ到着していない。どこにいるのかもわからない」
それから10分が経過した。もともと演者の入れ替わりの際には5分から10分程度の休憩時間を予定していた。だけどこれ以上経つとお客さんも騒ぎ始めるだろう。
私とプロデューサーさんはいても立ってもいられず、スタッフ用の出入口の前で待っていた。
「……喋りでつなぐって、無理か?」
プロデューサーさんが言った。いつもは冷静に落ち着いている印象の彼にも、さすがに焦りの色が見える。
正直言って自信はない。私自身は知名度がほとんどなく、お客さんは今日初めて見たという人がほとんどだろう。なにを話せばいいのかもわからない。
それでも、この状況でできないとは言えない。
――と、そのとき、
バァンとドアが開け放たれ、夕美さんが息を切らせて駆け込んできた。
「あっ、ほたるちゃんおまたせっ! 遅れちゃってごめんね、今どうなってる?」
「夕美ちゃん待ってー」と、志希さんも後に続いてきた。
私はほっと胸をなでおろした。
「えっと……私の出番が終わって、休憩時間を少しオーバーしてるぐらいです。あの、どうやって来たんですか?」
「自転車を買って、走ってきたよ」
思いもよらない、力ずくな答えが返ってきた。
「じ、自転車ですか。すぐに出れるんですか? 疲れてるんじゃ……?」
「あー……買ったのは1台だよ。本当はいけないんだけどね、志希ちゃんを後ろに乗せて、私がこいできたの。私は志希ちゃんのステージのあいだ休めるから」
言われてみれば、夕美さんは汗をかいて息を切らせているけど、志希さんは平然としている。
127 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:52:34.71 ID:AfpWDvGb0
「一ノ瀬さん、こちらへ」
プロデューサーさんが志希さんを控室に誘導する。
私は、すっかり安心しきって、油断していた。
意識が引き延ばされ、スローモーションの映像を見ているように感じた。
通路の端に積み上げられた機材が崩れ、志希さんに向かって倒れ込む。
誰かが発した警告の声に、志希さんが振り返る。
目前に迫っている危機に気付き、身を硬直させる。
一瞬で駆け寄った夕美さんが、志希さんを突き飛ばす。
轟音と悲鳴が上がる。
埃が舞い上がる。
ふたりの人影が倒れている。
通路の奥のほうの人影、志希さんがよろよろと起き上がる。
倒れたときに打ったのだろう、肘をさすっているけど、見てわかるようなケガはないようだった。
もうひとつの人影、夕美さんが身じろぎして、うめき声を上げた。
「動かないで!」
志希さんが叱責するように言った。
「医療スタッフ呼んで。夕美ちゃん痛む? どこ?」
「……左の、足首かな?」
「ちょっとごめんね」
志希さんが慎重な手つきで夕美さんの左足の靴を脱がす。夕美さんがわずかに顔をしかめた。
「……かなり腫れてるね」志希さんが苦々しくつぶやく。
「他に痛む個所は?」とプロデューサーさんが訊ねる。
夕美さんが首を横に振った。
医療スタッフが到着し、夕美さんを両側から支えて移動していった。
私は、一部始終を馬鹿みたいに呆けて眺めていた。
今更遅れて、震えが体を駆け上ってきた。
「ご、ごめんなさい……私のせいです……」
か細い声を絞り出す。志希さんがにらみつけるような視線を向けてきた。
「一ノ瀬さん、相葉さんのことはスタッフにまかせて、今はステージの準備をお願いできますか?」プロデューサーさんが言った。
「わかってるよ」
志希さんは今までに聞いたこともない刺々しい声で答え、控室に向かった。
私は動くこともできずに、その場に立ち尽くしていた。
128 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:54:36.86 ID:AfpWDvGb0
志希さんの準備は手早く、着付けもメイクも5分ほどで終えてきた。
私の出番が終わってからはおよそ20分ほど経っていて、客席はざわつき始めている。
控室を出てステージに向かう志希さんを、遠目から盗み見る。あんなことがあった直後に舞台に上がれるものだろうかと、不安に思った。
志希さんは舞台袖でいちど足を止め、瞑想するように固く目をつぶった。
数秒後、目を開いたときには、表情の険しさはあとかたもなく消えて、誰もが知っている『一ノ瀬志希』になっていた。
スポットライトに照らし出された志希さんを、大歓声が出迎える。
「お待たせしちゃってごめんねー」と志希さんが手を振る。声の調子も、すっかり普段の通りだった。
私は無人の控室に入った。夕美さんのケガが気になったけど、私が様子を見に行って、これ以上更に悪いことが起きるのが怖かった。
しばらくして、プロデューサーさんがやってきた。
「夕美さんは?」
「おそらく捻挫だろうって。骨に異常があるかどうかは、病院に行ってみないとわからない」
「……ステージは」
「無理だな」
噛み締めた奥歯が軋みをあげた。
また、私のせいで……
「ライブは、どうするんですか?」
「プロデューサーたちが渋滞を抜けてもうすぐ着くらしいから、話し合って決めることになるけど、おそらく休憩を長めにとって一ノ瀬さんに続投してもらうことになるかな」
志希さん……志希さんならうまくやってくれるだろう。
夕美さんのファンの人たちは残念に思うかもしれないけど、志希さんだったら、それでもみんなを満足させるだけのパフォーマンスを見せてくれるに違いない。
――けど、
「……私が出ます」
そんな言葉が、私の口をついて出た。
「夕美さんの代わりに……私の、せいだから……」
プロデューサーさんが、一瞬だけちらりと私を見た。だけどなにも言うことはなく、椅子に腰を下ろして、なにか考え込むように腕を組んでいた。
ややあって、部屋の外から騒ぐような声が届く。夕美さんと志希さんのプロデューサーが到着したのかもしれない。
彫像のようにじっとしていたプロデューサーさんが席を立つ。
「あのっ」と声を上げる私の肩に、ぽんと手が置かれる。
「交渉してくる」
そう言い残して、プロデューサーさんは部屋を出て行った。
129 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:56:12.22 ID:AfpWDvGb0
再びひとりきりになった控室で、私はふらふらと鏡の前に立った。
辛気くさいと、暗いと言われ続けてきた真っ白い顔が、私を見返していた。
なるほど、これは辛気くさいと言われても仕方ない。まるで死人のような顔色だった。
鏡の中の自分が、これは全てお前のせいだと言っているように思えた。
夕美さんがケガをしたのも、
ふたりの到着が遅れたのも、
……周子さんが倒れたのも、
私が社内オーディションで選ばれなければ、
私が346プロダクションに入らなければ、
私がアイドルになろうなんて思わなければ、
ちがう、と心の中でつぶやく。
鏡の中の私が、あざ笑うような表情を浮かべた。
だってあなた言ったじゃない。
私は人を不幸にするって。
呪われてるって。
アイドルになんて、なっちゃいけないって。
プロデューサーさんにスカウトされて嬉しかった?
大手のプロダクションなら平気だって思った?
人を幸せにしたいなんて言いながら、どれだけの人を不幸にした?
鏡に映った唇が、ゆっくりと動いて、言葉の形を作る。
『あなたさえいなければ』
――うるさい黙れ。
ぴしっと乾いた音がして、鏡に大きな亀裂が走る。
映った私の顔を斜めに切り裂いたヒビは、またたく間に蜘蛛の巣状に広がっていき、鏡は無数の破片となってバラバラと床に落ちた。
次いで、部屋中の蛍光灯が爆発するように砕け散った。
暗闇に包まれた部屋に、自分の荒い呼吸音だけが響いていた。
130 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:57:27.06 ID:AfpWDvGb0
それからどのくらい時間が経ったろう。ドアが開かれ、通路の光が薄く差し込んだ。
「あらら大惨事。ほたるちゃん無事?」
志希さんの声だった。ステージが終わったんだろう。
「……足元、気を付けてください。ガラスの破片が」
「うん、ありがと」
志希さんは意に介した様子もなく、ブーツの底でジャリジャリとガラスを踏んで、まっすぐ私の前にきた。
「ねえ、今そこでプロデューサーたちが話してるの聞いたんだけど、ほたるちゃんが夕美ちゃんの代わりにステージに出るって言ってるって、ホント?」
「……本当です」
「なんで?」
「私の……せいですから」
志希さんが私の胸倉をつかんで引き寄せた。暗がりに浮かぶ大きな目に、はっきりと怒りの感情が宿って見えた。
「夕美ちゃんは“あたし”をかばって、“あたし”の代わりにケガをしたんだよ。これが、ほたるちゃんのせいだっていうの? ほたるちゃんにはそれがわかるの?」
「ごめんなさい」
「謝ってないで、答えてよ」
「……ごめんなさい」
「だから――」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
小さく舌打ちの音がして、私をつかむ手に力がこもる。
叩かれるんだろう、と思った。そのとき、
「一ノ瀬さん」
部屋の入り口から声が届く。プロデューサーさんの声だった。
「白菊は、起きたことが自分の体質によるものか、そうでないか、区別はつかない」
「……ずいぶんはっきり断言するんだね。どうしてキミに、そんなことが言い切れる?」
「前に所属してた事務所に、白菊をクビにさせるよう仕向けたのは俺だ。だけど白菊はそれに気付かずに、自分の不幸のせいだと思っているから」
世界がひっくり返ったような混乱に陥る。
この人は今、なんて言った?
131 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 18:59:27.81 ID:AfpWDvGb0
「……プロデューサーさん?」
私の声は弱々しく、かすれていた。
「本当だよ」
とプロデューサーさんが言う。表情は見えなかった。
「346のプロデューサーという立場を利用して、持ちうる限りのコネを使って圧力をかけた。あの事務所に仕事を回さないように。すでに決まっている仕事がご破算になるように。あの事務所が存続できなくなるまで」
「どうして……?」
「白菊を手放させるためだ。向こうからすると、なにがなんだかわからないけど突然仕事がぜんぜん取れなくなったって状況だ。それだけで白菊のせいだと思ってくれる。本当は違うのに。あの日、白菊の同僚アイドルがキャンセルしたことも、俺がそうなるように仕組んだ。スカウトした日、俺があの場にいたのも偶然じゃない。あの頃の白菊の仕事現場にはぜんぶ行っていた。解雇されたばかりの白菊を、その場ですぐにスカウトするために」
頭が混乱して、まるで働いていなかった。
この突然の告白を、どう受け止めていいのかわからない。
「ひどいやつだと思う?」
プロデューサーさんが自嘲するように笑う。
「俺もそう思う。俺の悪意で起こしたことを、わざと白菊のせいだと勘違いさせてたんだから。結局のところ、会社ひとつを潰したわけだ」
「……なんで、そんなことまでして、私を」
「その答えは、前に言った」
わからない。前に? 前って、いつ?
志希さんはいつの間にか私から手を離し、黙ってプロデューサーさんのほうを見つめていた。
「お前は不幸じゃない」
プロデューサーさんがゆっくりと言った。
「事務所が潰れたのも、そこの社員たちが路頭に迷ったのも、相葉さんのケガも、お前のせいじゃない。なんの責任も、罪滅ぼしの必要もない」
それから少しの間を置いて、プロデューサーさんが私に問いかけた。
「……だったら、白菊はどうしたい?」
132 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 19:01:06.81 ID:AfpWDvGb0
私はどうしたい?
私が不幸じゃなかったら、私のせいじゃなかったら?
うまく考えることができなかった。
だって、私はいつだって不幸だった。いつも周りの人に迷惑をかけていた。
私に選べることなんて、なにもなかった。
何度も頭を下げて、ごめんなさいと繰り返すことしかできなかった。
だから、少しでも償おうと、罪滅ぼしをしたいと、そう願わなきゃいけなかった。
『ほたるちゃんはいつも自分のことは後回しだね』
いつか言われた言葉が脳裏に浮かぶ。たしか夕美さんだ。
夕美さんは少し困ったように、悲しそうにほほ笑んでいた。
『今は不幸とかどうでもええねん! あたしはほたるちゃんの気持ちを訊いてんの!』
これは周子さんの言葉だ。
周子さんはいらだって、怒っているようだった。
私の気持ち。
小学6年生のときの運動会。
みんなが喜んでいた。みんな笑っていた。私は、笑えなかった。
家に帰って、枕に顔を突っ伏して、声を噛み殺して泣いた。
クラスが優勝した喜びよりも、いちばんになれなかった悔しさで。
私は、夕美さんの代わりにステージに立つと言った。
私のせいだから。
私さえいなければ、こんなことにはならなかったから。
じゃあ、私のせいじゃなかったら?
どうやら、志希さんは夕美さんの代わりに出るつもりでいる。
志希さんが出てくれるなら、全ては解決する。
お客さんはきっと喜んでくれる。
みんなが笑ってくれる。
だけど、私は――
「……それでも私は、歌いたい」
133 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/10(日) 19:02:50.70 ID:AfpWDvGb0
意思じゃなく、心がそう言った。
自分でも気付いていない心だった。
不幸のせいじゃなく、贖罪のためじゃなく、ただ私自身が、こんなにもステージに立ちたいと思っていたなんて。
プロデューサーさんが大きくうなずく。
「だけど残念ながら、話し合いの結果では、この後は一ノ瀬さんに出てもらうことになった。白菊を推薦してみたけど、俺の一存だけじゃどうにもならなくてね」
……それは、そうだろう。どう考えても私よりは志希さんのほうが信用がある。
夕美さんのプロデューサーさんや志希さんのプロデューサーさんなら、志希さんを選ぶのが当然だ。それが正しい。
「いや、キミ……さんざん人を惑わすようなこと言っといて、それはどうなの?」
志希さんがあきれたようにつぶやく。
「そう、思いますよね?」
プロデューサーさんが志希さんに向けて言う。
短い沈黙が流れた。
「……キミはひょっとして、あたしを説得してるのかにゃ?」
「察しのいいことで、助かります」
「キミは、346プロのプロデューサーだよね。その立場でありながら、今この状況において、あたしよりほたるちゃんがステージに上がったほうがいいと思うわけ?」
「はい」
志希さんとプロデューサーさんが無言で見つめ合う。空気が張り詰めて、銃でも突きつけあっているみたいだった。
志希さんがすっと目をそらし、ガリガリと血が出そうな勢いで頭を掻きむしった。
「…………わかったよ」
ガラス片を踏みにじって出口へと向かい、プロデューサーさんの横をすり抜ける。そして、いちど私のほうに振り返って、小さく笑った。
「志希ちゃん、失踪しまーす」
134 :
◆ikbHUwR.fw
[sage]:2018/06/10(日) 19:03:40.04 ID:AfpWDvGb0
(本日はここまでです)
135 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/10(日) 19:13:36.76 ID:WI4a1TbZo
乙
プロデューサーの言ってることは本当なんだろうか
136 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2018/06/10(日) 21:45:03.84 ID:vuO0fTZj0
乙です
お話がグッと展開していく瞬間たまらない
137 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:33:24.18 ID:sg2qAd8w0
10.
シンデレラとは成り上がりの物語だ。灰被りからお姫様に。地の底から天国の頂上に。
シャルルペロー、もしくはグリム兄弟のものが有名だが、類似の物語は更に古代、紀元前から存在するともいわれている。
つまり、ある程度『定型』となっているストーリーを、数多の文学者が自己流にアレンジするという文化があった。その中で、たまたま広く世に受け入れられ、語り継がれたものが、今の誰もが知っているシンデレラになったということだ。
だからシンデレラの物語には、古今東西、星の数ほどのバージョン違いがある。現代でも日を追うごとに増えていっているのかもしれない。
幼き頃の俺が偶然目にしたものも、そのひとつだ。その物語では、『シンデレラは長い時間をかけ、綿密に練り上げた計画をもって王妃の座を射止めた』という内容になっていた。
カボチャの馬車も魔法のドレスも登場しない。この話に『魔法』はなく、それに当たるものは、シンデレラの境遇に同情した使用人であり、シンデレラが姉や母からうまいことくすねた装飾品であり、内に秘めた、野心と知恵だった。
この話が好きだった。魔法などという子供だましのうさんくさいものではなく、確かな人間の力を持って成り上がるというところが、当時の俺の琴線に触れた。
いつ、どこでそれを読んだのかは覚えていない。探してみようにも手掛かりのひとつもなく、年月を重ねるにつれて徐々に記憶は薄れていった。
それでも、アイドルのプロデューサーという職を志した理由に、幼心に深く刻みつけられた、この物語があったのは間違いない。
138 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:35:23.21 ID:sg2qAd8w0
*
ある日、その筋では有名なゴシップ雑誌の記者が面会を申し込んできた。
薄汚れたトレンチコートにハンチング帽といういでたちの男を来客用の部屋に招き入れ、向かい合って席に着く。
形式的な名刺交換を済ませたあと、男が「お忙しい中、ありがとうございます」と言って、へつらうような笑みを浮かべた。
「いやあ、それにしても噂には聞いてましたが、立派な事務所ですねえ」
男が部屋の中を見回して言った。
「今にも殺人事件が起こりそうですよね」と答えた。
自分がこの346プロダクションのプロデューサーというものになって、初めて事務所に足を踏み入れたときに抱いた感想がそれだった。
「それで、どういったご用件でしょうか?」
男はカバンから写真を1枚取り出し、テーブルの上に置いた。
写っているのはカクテルバーのボックス席のようで、ひと組の男女が酒を酌み交わしていた。男のほうは、テレビに映らない日はないような人気の若手俳優で、女は、自分の担当アイドルだった。
「よく撮れてますね」
「でしょう? まるでドラマのワンシーンのようだ」
たしかにそう見えた。なにしろ写っているのは、つい最近まで放映されていた連続ドラマで共演していたふたりだ。ただし、そのドラマにこのような場面はなかったが。
「これを記事に?」
「まだ誰にも見せていませんから、あっしひとりが忘れれば、この写真はなかったことになります」
記事にしたところで自身に還元される金額はたかが知れている。それよりは、346プロに買い取ってもらったほうが実入りがいいと判断したということだろう。
写真から目を外し、男の顔を見る。男がわずかに身を固くした。こちらが激昂して殴りかかってきたらどうしようかとでも思っているようだった。
「おいくらですか?」と言った。
男が提示した金額は、たしかに安いものではなかったが、彼女が今後稼ぎ出すであろう額から考えれば微々たるものだ。
実際にカネを出すのは会社だし、監督不行き届きとして多少のお叱りは受けるだろうが、自分の懐が痛むわけでもない。
「また、いいのが撮れたら、持ってきてください」
軽い足取りで退出する男を見送る。それから、担当アイドルに電話をかけ、応接室にくるようにと言った。
やってきた彼女がテーブルの上の写真を見て一瞬顔をしかめる。しかし反省している様子はなく、ふてくされたように黙りこくっていた。
「逢引きならもう少し気をつけろ。なんだったら手伝うから」と言った。
説教をするつもりなんてなかった。色恋沙汰なんて、やめろと言われてやめられるものでもあるまい。それならば、いっそバレないように協力してやったほうがいいと考えたのだ。
だが、どうやらこの発言は失敗だったらしい。
彼女は燃えるような目でこちらを睨みつけ、写真をぐしゃりと握りつぶした。
「あなたは、さぞかしほっとしたでしょうね」
大股で部屋を出て行く彼女を、呼び止めることもできなかった。彼女の言い捨てていった言葉が、この上なく図星だったからだ。
139 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:36:50.09 ID:sg2qAd8w0
彼女がアイドルになったのは3年前だ。
346プロが定期的に開催している所属オーディションを受けに来た。当時すでに19歳で、そのオーディションの参加者の中では最年長だった。他の審査員は年齢を理由に見送ろうとしていたから、彼女が合格したのは、ほとんど俺の独断といっていい。
彼女は俺の担当アイドルになった。
ある時期までは、上手くやれていたと思う。彼女は順調に人気アイドルの階段を上っていった。
仕事がうまくいけば喜び合い、祝い事のときはプレゼントを贈り合ったりもした。あくまで、仕事上のパートナーとして。しかし、いつからか彼女にとってはそうではなくなったらしい。
珍しいことではない。アイドルにとって担当プロデューサーとは最も身近な異性ということになる。似たような話はいくつも聞いたし、いい結果になったという話はひとつも聞かなかった。
この時点で上司に掛け合って、担当の交代でも提案するべきだったのかもしれない。しかし俺はそうしなかった。彼女には才能があった。努力家でもあった。ちっぽけな功名心が、彼女を手放してしまうことを惜しいと思っていた。
やがて好意を隠そうともしない振る舞いが多くなっていっても、徹底して無視した。
彼女は苛立ちを募らせ、生活が乱れていった。飲めない酒におぼれるようになり、最近は仕事にまで影響を及ぼすようになっていた。
だから、記者の持ってきた写真を見て、最初に抱いた感情は安心だった。彼女の気持ちが自分以外に向いた、これはいい傾向に違いないと思った。
数日後、彼女は生放送のテレビ番組で突然引退を表明した。担当プロデューサーであるはずの自分は、なにも聞かされていなかった。
トップクラスとまでは行かないにしても、人気アイドルと呼んで差し支えない地位にあった。まだまだこれから、いくらでも活躍の場を広げることができた。
なぜ? と周囲のものは不思議に思ったが、彼女は一切の説明を拒否し、口をつぐんだまま346プロを、芸能界を去った。
ある意味では自由の身になったともいえるが、それから、くだんの俳優の近くに彼女の姿を見ることはなかった。
一夜限りのお遊びだったのかもしれないし、スキャンダルを嫌った相手が離れていったのかもしれない。あるいは、本当にただいっしょに酒を飲んだだけだったのかもしれない。
しばらく経って、一般人の男性と結婚したらしいという話を人づてに聞いた。
自分には、ハガキの1枚も来なかった。
140 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:38:29.66 ID:sg2qAd8w0
*
346プロダクションでは、複数のアイドルを担当し、多忙で死にそうになっているプロデューサーが常にいる。また、アイドルとプロデューサーで折り合いがつかず、担当替えを希望しているところもある。
担当が引退したばかりで手が空いていた俺に、新しくアイドルを受け持ってみないかという提案はいくつもあった。
全て丁重に断り、代わりに他のプロデューサーたちの事務仕事を預かるようになった。
朝から晩まで、量だけは人並み以上にこなした。いっそこのまま異動させてもらおうかとも考えた。
「休暇をとってはどうか」
「気分転換にスカウトでもしてみるといい」
周りがそんなことを言うようになる。このままでは倒れるんじゃないかとでも思ったのかもしれない。
担当を持っているあいだは長期休暇なんて取ることはできない。毎年、そのほとんどが虚空に消えている有給休暇を、使うなら機会は今しかないだろう。
しかし、長年仕事漬けの生活を送りすぎて、休みというものをどう扱っていいのかわからなくなっていた。機械的な事務仕事に追われているほうが、なにも考えずにいられて楽だとすら思えた。
一方で、スカウトというものには、わずかながら心引かれるところがあった。街角に立ち、素人の女性に声をかけて、アイドルにならないからと勧誘する。
思えば、本当に駆け出しの、新人プロデューサーのころにやったきりだった。初心に帰るには、それも悪くないかもしれない。
141 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:39:52.75 ID:sg2qAd8w0
空いた時間を使って街に出て、道行く女性を値踏みする。何日かそうしてみたが、スカウトしようと思える女性はいなかった。1週間経っても、2週間経っても成果はなかった。
やはり逸材はそうそう転がってはいない。いたとすれば、とっくに誰かに拾われているのだろう。
ふと、以前同僚のプロデューサーが立ち上げたシンデレラ・プロジェクトなる企画を思い出した。
それは個性的なアイドルの発掘・育成を目標とした企画で、プロジェクトに含まれるアイドルは総勢14名にのぼった。いささか多すぎないだろうか、などと思いながらメンバーのリストを見せてもらい、思わず感嘆の息をついたことを覚えている。14人が14人とも、金の卵と呼んでいい逸材に見えた。
そして、内部ではさまざまな紆余曲折があったようだが、プロジェクトは予定された期間を満了し、今やその全員が346プロの中でも上位の人気を誇るアイドルとして活動している。
アイドルをシンデレラになぞらえるなら、このプロデューサーはまさしく魔法使いだろう。しかしなんとなく、イメージには合わないと思った。彼が、無口で不器用で、実直を絵に描いたような人間だったからかもしれない。たいていの物語において、魔法使いとは本来、邪悪なものだろう。
彼のもとを訪ね、人材を見つけ出すコツを聞いてみる。しかし、返答はいまひとつ要領を得なかった。
更に詳しく聞いてみると、それは彼の用いている評価の方法であるとわかった。『笑顔が素敵であること』、なるほど、それはそうだろう。もしくは、彼が『きっと笑顔が素敵だろうと思うこと』、こちらはやや難解だったが、言わんとすることはなんとなく理解できた。
だが、俺が知りたがっているのは判定の方法ではない。どこをどう探せばそのような人物を見つけ出せるのかということだ。
そう訊ねると、彼は困ったように首の後ろに手を添えた。わからない、ということらしい。むこうからオーディションを受けに来た子もいれば、たまたま見かけた花屋の娘であったりもする。つまり出会い自体は偶然の産物、幸運であったという。
幸運、こればかりは自力ではどうしようもない。神社で賽銭でも投げてみようかなどと考えた。
無論、ただの気まぐれにすぎない。元々験担ぎをするような性質ではなく、正月の初詣にもろくに行かない不信心者だ。神や仏とは、身内の葬式ぐらいでしか縁がない。
しかし、願いはほどなくして現実となった。
幸運は、不運な少女の姿をとっていて、この世の誰よりも、灰にまみれていた。
142 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:41:20.55 ID:sg2qAd8w0
*
携帯の地図アプリを頼りに、最寄りの神社にたどりつく。「神と煙は高いところが好き」との格言通り、石造りの長い階段の上にそれはあった。
これを上るのか、とため息をついたところに、ひとりの少女が鳥居をくぐって飛び出してくる姿が目に映った。少女は急いでいるらしく、階段を2段飛ばしで駆け下りていた。
危なっかしいなと思い、眺めているそばから、少女が足を踏み外して前のめりに落下した。
思わず声を上げそうになったが、少女は猫のように空中で体をひねり、すとんとやわらかく着地した。そして、まるで自分が足を踏み外すことをあらかじめわかっていたかのように平然と、そのまま駆け出していった。
ぽかんと口を開けてそれを見送り、気付く。女性と見れば、それが一般人であっても、「もしアイドルになったらどうなるか」と考えることが癖となっていた。品定めのつもりもなく、ただ『見る』という行為が、自分にとっては点数をつけることと同義だった。
先ほどの少女も、当然しっかりと見ていた。顔立ちはなかなか整っていたと思う。年齢は、中学2年か3年くらいだろうか。
もしも、あの少女がアイドルになったとしたらどうか?
わからない。判断が付かない。なぜわからないかもわからない。
奇妙な感覚だった。いつもなら、それが正しいかは別としても、駄目なら駄目と直感的にわかるのだ。
大いに興味をそそられた。だが少女はとっくに視界の外である。名刺を渡すどころか、声をかける隙もなかった。
この神社にはよく来るのだろうか? しばらく通い詰めてみようか?
そんなことを考えながら、ひとまず当初の目的だったお参りをしようと石段に足をかける。どうせなら少女との再会を願掛けしてもいいかもしれない。
日頃の運動不足を実感しながら階段を上り切り、本殿の前まで足を進める。賽銭箱の前に財布が落ちていた。周囲に人影はない。
拾ったそれを開くと、少しばかりの現金と、保険証のカードが入っていた。カードの氏名の欄には、『白菊ほたる』と記されていた。
143 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:42:54.16 ID:sg2qAd8w0
財布を交番に届け、城のように巨大な事務所に戻る。
本名でSNSでもやっていないかと思い、インターネットの検索ワードに名前を打ち込んでみると、情報は思いのほかあっさりと出てきた。
検索結果の一番上に出てきたのは、芸能事務所の公式サイトだ。白菊ほたるは、他事務所のアイドルだった。
先を越されたと苦々しく思う気持ちはある。しかし、これはむしろ都合がいいかもしれないと思い直した。
スカウトの難しさは、なんといっても芸能界というものの『うさんくささ』によるものが大きい。どれだけの好条件を提示したところで、なんとなく信用ならないという理由だけでも忌避されるには十分だ。だが、他事務所に所属しているということは、本人はアイドルになる意思を持ち合わせているということだ。
まずは所属事務所の情報を集めた。社員、所属アイドル、主な仕事先、財務状況。そしてその過程で、意図せずして白菊ほたるについての情報も入ってきた。『疫病神』の噂だ。
白菊ほたるの世間一般における知名度はゼロに等しい。
ただし、業界の一部においては、彼女はある意味で有名人だったらしい。
『彼女の仕事現場ではアクシデントが起きる』
『彼女が所属した事務所は潰れる』
『不幸をもたらす』
事務所が倒産しているというのは事実だった。ざっと調べた限りでふたつ、現在所属しているところを含め、少なくとも3つ以上の事務所を渡り歩いていることになる。
強く興味を引かれる。
例のシンデレラ・プロジェクトの影響もあって、芸能関係の事務所はどこも新人の発掘に力を入れている。毎日毎日、スカウトマンたちが目を血走らせて街を駆け回っている。
少しでもこの世界に興味を持つようなら言葉巧みに引き込まれ、ふるいにかけられる。ほとんどは挫折し、消えていく。一握りの才能がある者は世に出て活躍する。だから今の世では、ダイヤの原石が埋もれたままでいるということはない。
その現代に、はたして灰被りは存在するのか、いるとすればどのような場合か。ここしばらく毎夜のように想像し、考え続け、ついに出すことのできなかった解答を得た。なるほど『不幸』か。
144 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:45:13.72 ID:sg2qAd8w0
代わりにいくつかの疑問が浮かぶ。
この少女の不幸とは本物だろうか。偶然、あるいは無関係な出来事の責任を押し付けられているだけではないか。
また、例の噂は簡単に調べるだけで出てくる程度には広まっている。小さな事務所でも、経験者として雇用するのであれば過去の経歴ぐらいは調査するだろう。それにもかかわらず、今彼女が所属している事務所は、なぜ疫病神を採用したのか。
考えられる可能性はいくつかある。採用を決めた者が、オカルトなどくだらないと気にしなかったか。噂を差し引いても余るほどの光るものを感じたか。あるいは、その『不幸』を話題性として活用しようとしたか。
「あら」と声がして目を向けると、事務員の千川ちひろさんがいた。
346プロの名物事務員ともいえる存在で、最近は業務内容が近くなったため、関わる機会も多い。
「こんな時間まで、まだお仕事ですか?」
と千川さんが言う。時計を見ると、時刻はいつの間にか20時にさしかかっていた。
「そちらこそ」
「私はもう帰ろうとしていたところですよ。よろしければ、なにか飲みますか?」
「ではスタドリを」
千川さんは事務所がまとめて購入している栄養ドリンクの管理もおこなっている。社員は彼女に申請し、もらったドリンクの代金は給料から直接差し引かれる。そういった点でも、この事務所のプロデューサーは皆、日頃から彼女には世話になっている。
「……お茶かコーヒーでも淹れましょうか、って話だったんですけどね。まあいいです、どうぞ」
千川さんがバッグから星のマークのついたビンを取り出す。
「ありがとうございます」
「ええと……今週それでもう13本目ですね。あまり飲み過ぎると体に毒ですよ」
「気を付けます」と答えて、もらったドリンクを一気に飲みほした。
千川さんが軽蔑するような視線をよこし、それからパソコンのモニターに目を移した。
「……かわいい子ですね」
「ですよね」
「他社の子ですか。引き抜きを?」
「ええ、考えてます」
「しかし、なんというか……宣材写真らしからぬ宣材写真ですね」
145 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:46:17.66 ID:sg2qAd8w0
たしかに、と思った。この事務所の所属アイドル一覧の中で、ただひとり、白菊ほたるだけが笑っていない。
あえてそうするということはある。クールなイメージで売り出すため、表情を抑えめにというように。しかし、白菊ほたるのこれは、無表情というわけでもなく、言うならば『困り顔』のように見えた。わざとにしては、狙いがよくわからない。
「みんながみんな、笑ってなきゃいけないってものでもないでしょう」
「そうかもしれませんが、私はやっぱりもったいないって思っちゃいますね。きっと、笑ったらもっとかわいいのに」
『笑顔が素敵だろうと思うこと』、なるほど。
そういえば、千川さんはシンデレラ・プロジェクトのアシスタントを務めていた時期もある。その彼女のお墨付きというのは、なかなか縁起がいいかもしれない。
「では、お先に失礼します」
会釈して去っていく千川さんを見送り、再度モニターに映った写真に目を向ける。
疑問はもうひとつある。この少女は、なぜアイドルを続けている?
憧れを持つのは珍しいことではないだろう、そうでなければこの業界が成り立たない。しかし、度重なる事務所の倒産という目に遭って、なおもそれを目指し続けられる人間が、いったいどれほどいるだろうか。
『百折不撓』という言葉が頭に浮かぶ。
白菊ほたるはなぜ折れない? なぜあきらめようとしない?
疫病神と呼ばれるそれが、本当に固有の体質だというのなら、彼女は生まれてからずっとそれを背負って生きてきたということになる。
13歳。
中学1年生。
13年間、絶え間なく続く不幸とは、いったいどのようなものだろう。
146 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:48:40.17 ID:sg2qAd8w0
*
翌日、白菊ほたるの所属事務所に電話をかけた。
自動応答のような女性の声が応じ、こちらが346プロのプロデューサーと名乗ると、《少々お待ちください》と言って、保留音が流れ始めた。
少し待って、横柄そうな野太い男の声に代わった。男は、この事務所の社長だと名乗った。
《それで、ご用件は?》と男が言った。
「御社のアイドルをひとり、うちの事務所に移籍させる気はないかと」
《――ああ》
男はぺらぺらと所属アイドルの輝かしい経歴を語り始めた。しかし、話しているのは白菊ほたるのことではない、別のアイドルの話のようだった。
「おそらく、別の方のお話をしていると思います。こちらが言っているのは、白菊ほたるさんです」
《白菊?》
少しのあいだ、カチカチとボールペンをノックするような音だけが繰り返し届く。
《白菊を、346プロが?》
「はい。互いの条件が合えばですが」
《そうですね……白菊を移籍させるとしたら、2千万円はいただかないと》
耳を疑った。
「冗談でしょう?」
《いやいや、あいつはウチでも大いに期待を寄せている有望株ですから》
まだろくに仕事をしたこともないアイドルの移籍金に、2千万?
とても本気で言っているとは思えない。初めに吹っかけておいて、少しでも高く売ろうという魂胆だろうか。
「電話ではなんですし、詳しいことは直接会ってお話しましょうか。どこか都合のいい日は……」
《いえ、値下げ交渉は受け付けませんよ。ウチの条件は、先ほど言った通りです》
舌打ちしそうになるのをなんとかこらえる。
移籍を成立させるには上役の了承がいる。ある程度までは割高になったとしても説得するつもりでいたが、なんの実績もないアイドルの引き抜きにこの額を認めさせるのは、どう考えても不可能だった。
「……こちらとしては、承諾できかねます」
《では、ご縁がなかったということで》
いささかの躊躇もなく電話を切ろうとする相手を呼び止め、「もし気が変わったら」と言って、自分の業務用携帯電話の番号を伝える。
相手はメモを取っているかも怪しいおざなりな態度で相槌を打ち、電話を切った。
147 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:50:06.30 ID:sg2qAd8w0
346が大手だから足元を見ている、という感じではなかった。
そもそも全く移籍させる気がない。あるいは、万が一その条件で受けてくれれば儲けものといったところだろう。しかし、現状の白菊ほたるは事務所の金食い虫でしかないはずだ。なぜ、そこまで強気になれる?
あきらめるべきだろうか。あの少女は偶然見かけただけに過ぎず、どうしても引き抜かなければならないという理由はない。それこそ、縁がなかったとでも思えばいいだけの話だ。
休憩ラウンジにコーヒーを買いに行く。ちょうど顔見知りのプロデューサーがいたので、声をかけてみた。
「とある零細事務所に、13歳の売れないアイドルがいるとする」
「急になんの話です?」
「そこに、大手の事務所から『彼女をうちの事務所に移籍させないか』というオファーがくる」
「はあ……」
「零細事務所は、成立させる気がないとしか思えない金額を吹っ掛けた。オファーしてきた大手は当然、それでは無理だと言って話が終わる」
「ふむふむ」
「なぜ、こんなことをすると思う?」
「まともな額で成立させるより、手元に置いといた方がカネになると判断したからでしょう」
「どうやってカネにする?」
「キッズポルノ。見た目がよければですが」
「なるほど」
あり得る話だ。ポルノとは言わないまでも、ポルノ一歩手前のような仕事は世にいくらでもある。一歩手前だから、違法ではないようなものが。ゆくゆくはその方面で売るために採用したという可能性は大いにある。
少なくとも容姿は整っている。それに、薄幸そうな女というのは独特の色気があるものだ。弱冠13歳にして、すでに幸の薄さ日本代表のような風格を身にまとっている白菊ほたるは、その方面で人気が出てしまうかもしれない。
「ありがとう、参考になった」
「どういたしまして」
自販機の横の長椅子に腰を下ろし、コーヒーをすすりながら思案する。
なにが幸せかなんてわからない。
あるいはそれもひとつの成功の形で、本人は満足するのかもしれない。
そもそもこれは憶測にすぎない。向こうの事務所には、なにか別の思惑があるのかもしれない。
それでも、邪魔をすると決めた。
148 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:51:36.94 ID:sg2qAd8w0
穏便に済ませるならば、自ら事務所を辞めてもらうというのが理想的ではある。違約金が発生するだろうが、移籍金代わりに346プロでそれを持てばいい。おそらく、そこまで大した金額にはならない。
しかし、彼女は事務所の寮(実際はボロアパートを事務所名義で借り上げているだけだ)に住んでおり、最低保障のわずかな賃金で日々の暮らしをやりくりしている。
今の事務所を辞めるというのは、生活の基盤を失うと同義だ。あまり積極的に大きな変化は望まないだろう。話がこじれて、こちらの事務所に悪印象を持たれても困る。
まず、いつかの雑誌記者に電話をかけた。
「どうも、以前はお世話になりました」
わざとらしいほどに友好的な声を作って話しかける。
電話の向こうから、怯んだような気配が伝わってきた。
《……あっしも、あんたには悪いことしたとは思ってるんですよ》
例の写真の件を言っているらしい。
あれを買い取らせた、ほんの数日後に被写体のアイドルが引退を表明した。この男の中でどのようなストーリーが出来上がっているのかは知らないが、うしろめたさを感じてくれているのなら好都合だ。
「その件は水に流して、ひとつ頼みたいことがあるんですよ」
《頼み? なんです?》
「ある事務所の、悪評を流すってできますかね?」
短い沈黙が流れる。それから、ふうっと息をつく音が聞こえた。
《あんたは、天国には行けませんね》と記者は言った。
ありがたい話だ。長い階段を上らずに済む。
149 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:53:16.09 ID:sg2qAd8w0
さすがに会社のカネを使うわけにもいかず、記者への報酬は自分のポケットマネーから出した。
それから、向こうの事務所の主要な仕事先に出向いた。同じ業界内のことだし、たいていのところは346とも付き合いがある。特に顔見知りがいないところでも、名刺を1枚渡せばどこも喜んで歓待をしてくれた。
適当な雑談を交わし、機を見て「ところで」と切り出す。
白菊ほたるの所属事務所の名前を出し、あの事務所にはよく仕事を依頼するんですか? なぜでしょうか? と訊ねる。
なぜかと言われても、仕事だから以外に答えはないだろう。相手はこちらの意図が読めず、困惑を見せる。
「あの事務所、近頃悪い評判を聞きますので。346としては、あまり関わりを持ちたくはないものでして」
だいたいこのあたりで、相手の顔から笑みが消える。聞きようによっては「あの事務所と付き合いを続けるのなら、今後346のアイドルは使わせない」とも解釈できる。
もちろん口先だけだ。俺にそんな権限はないし、こういった形で346の名を濫用するのは規定で禁じられている。
これを、片っ端から繰り返して回った。『悪い評判』は、そのうち流れてくるだろう。
150 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:54:42.34 ID:sg2qAd8w0
1週間ほど経って、例の事務所から電話がかかってきた。どうやら番号は一応控えていたらしい。
《以前おっしゃっていた、白菊の移籍の件ですが》
前のときより、いくらか疲れているような社長の声が届く。不思議なことに、消沈していてもまだ横柄そうに聞こえた。
「ああ、あの件でしたら、もうけっこうです」
《いえ、なんと言いますか……こちらもさすがに欲張りすぎたと反省しておりまして……1千万ではいかがでしょう?》
「ですから、その件はもうけっこうです」
《……500万では?》
必死さを取り繕う余裕もなくなっているようだった。
少し間を置き、わざと相手に伝わるようにため息をつく。
「白菊ほたるさんでしたか? あの後に知ったのですが、彼女ちょっとした有名人らしいですね。なんでも、『不幸をもたらす』とか」
《根も葉もない噂ですよ! バカバカしい!》
「しかし、現にそちらの事務所は、状況が逼迫しているのでは?」
返事はない。どう返していいか考えているようだった。
「失礼します」と言って電話を切った。
151 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 00:59:33.52 ID:sg2qAd8w0
あの事務所にはひとりだけ、それなりの人気を博しているアイドルがいる。
彼女の予定を調べ、仕事が終わってひとりで歩いているところに声をかけて名刺を渡した。
君の活躍は知っている、しかしあの程度の事務所にいては先が見えている、君は本当はもっと大きな舞台に立てるはずだ、と適当に思いついた言葉を並べ立て、近くの喫茶店に誘う。
彼女は黙秘権を行使するように口をつぐみつつも、後についてきた。
「引き抜き、ということですか?」
飲み物を注文し、店員が離れていくのを見計らって、彼女が警戒心のこもった声で言った。
「そうなるかな。もちろん今の事務所に愛着があるのなら、無理にとは言わないけど」
「移籍したら、今より人気が出ると?」
「保証はできない」と言った。「君の努力次第だ」
彼女は迷っているようだった。
現状のままでも、稼ぎは十分にある。この誘いに乗ったら、今の誰もがちやほやしてくれる場所を捨てることになる。346なんて大手に行ったら自分なんてその他大勢のひとりではないか、居心地のいい事務所を捨ててまで応じる価値はあるのか、という葛藤が見て取れた。
だが、アイドルなんて目指すような人間は虚栄心や自己顕示欲が強いものだ。彼女は逡巡のすえ、首を縦に振った。
「じゃあ、明後日の15時にもういちどここに来てほしい」
「明後日? いえ、その時間は仕事が入ってるんです。テレビの」
「すっぽかせばいい」
「怒られますよ。いくらなんでも」
「どうせ辞める事務所から怒られたって、どうってことないだろ」
彼女は眉を寄せて考え込んだ。本当に事務所を移る意思があるかどうか、試されているとでも思っているのかもしれない。
「でも、なんて言えば……」
「君の事務所に、白菊ほたるって子いるよな」
「はい……明後日の、共演者です」
「その白菊さんには、ちょっとよくない噂がある。知ってるかな?」
同じ事務所にいるのだから、当然不幸のことは知っているだろう。
彼女がこくりとうなずく。
「だから、その子とはいっしょに出たくないとでも言えばいい」
152 :
◆ikbHUwR.fw
[saga]:2018/06/28(木) 01:00:27.08 ID:sg2qAd8w0
2日後の15時ちょうど、同じ喫茶店を訪れた。
彼女は先に店に入っていて、チーズケーキをつつきながら紅茶をすすっていた。俺は席にはつかず、彼女の前に立って、テーブルの上に一通の封筒を置いた。
「これは?」と怪訝そうに問う彼女に、「紹介状」と答える。
「紹介?」
「先方も喜んでるよ」
彼女が封筒を開き、睨みつけるように書面に目を通す。
「……騙したんですか?」
「嘘はついていない」
中身は本物の紹介状だし、相手にも話は通してある。紹介先が346プロではないというだけだ。大きいところではないが、少なくとも現在所属しているところよりはよほどまともであることは間違いない。
伝票を取り、背中に罵声を浴びながらレジに向かう。
店を出た頃には彼女の顔も、名前も忘れていた。
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