【モバマスSS】世にも奇妙なシンデレラ

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245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:13:50.66 ID:1qpUpdjR0
 困惑しながらもページを捲る。
 該当の記事には、高垣楓と芸能関係者の男が一緒に居る写真が何枚も載っていた。

 男は、同じ事務所に所属するプロデューサーだ。
 目の前に居る男性とは別の仕事を請け負っているプロデューサー。
 同じ事務所なので顔を合わせたことは何度かある。だが、それくらいだ。

「これはたしか」

 一枚、男に向かって大判の封筒を差し出している写真があった。
 数日前、事務所に忘れていた書類を、たまたま現場が同じになった楓が届けた時の写真だ。

 本当にそれくらいの関係であった。
 他にも幾つか写真もあるが、どれも大したことはない。

 偶然、一緒に出退勤の時間が被っただけの時。たまたまオフで出会って挨拶した時。そんな些末な内容である。
 だが、写真の下には細かい文字でビッシリと、『親しい人に向ける顔』『プレイベートでの付き合い』などと書かれている。
246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:14:58.59 ID:1qpUpdjR0
 ――実は、元は担当のアイドルとプロデューサーだった。
 ――過去に、恋愛関係であったが、事務所の都合で分かれた。

 元関係者やら過去の関係やら、まったく根も葉もない話題が延々と書かれている。
 よくまあ、ここまで出鱈目を書けるのかと楓も呆れるほどであった。

「そのような事実はありません」

 プロデューサーにそう告げる。彼は、ホッとしたように表情を緩めた。

「それで、これからはどうします?」

 雑誌の流通を止めることは、既に不可能であった。
 とりあえず、事務所からその話題は根も葉もないことだと伝えよう。
 もちろん、このような記事を書かれた以上然るべき処置はとるが、高垣楓はアイドルであると伝えることになった。

 ――『ばけもの』は育つ。
247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:15:26.23 ID:1qpUpdjR0
「ふふっ、はじまるよ――世界で一番素敵な恋が」

 その声は、誰にも聞こえなかった。

「世界中の人が納得する恋の始まりだよ」
248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:16:26.83 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 ――『ばけもの』は育つ。

「――と言うことで、このお話は事実ではありません」

 高垣楓の口からハッキリと、事実ではない、と世間に公表をした。
 けれど、人々は止まらなかった。

「あの高垣楓に恋人?」
「もう三十近いんだから当たり前だろ」
「でも、本人は否定してるだろ?」
「恋人います、とか言うアイドルは居ないだろ」
「うわ、必死だな。ファンの立場で拘束するのか。アイドルが恋しようが勝手じゃないか」
「そうそう、俺たちは広い心で認めてやろうぜ」
「――そうだ――認めない人間は、悪だ」
249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:17:34.89 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 ある日のこと、楓は事務所で不自然に汚れた白いシャツを見つけた。
 首筋に、赤いシミが付いている。
 
 血の跡だった。

「あ、それは洗物に出すんで、放っておいていいですよ」

 後ろには、真新しいシャツに身を包んだ彼女のプロデューサーが立っていた。
 顔には、傷があった。

「プロデューサー……それは」

「はは、気にしないでください」

 笑ってごまかしてはいるが、楓にも心当たりはあった。

 ――『高垣楓』の自由を奪うプロダクションは、悪だ。

 世間一般で流布している噂である。
 時々、事務所のスタッフに対する非難を認めた手紙が届くことがある。
 それどころか、面と向かって悪だと断じられたこともある。

 数日前、事務所の代表が、亡者のような顔で通路を歩いていた。
 プロデューサーも、大分疲れているようだった。
250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:18:20.71 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 数日後、プロデューサーが倒れた。
 原因は過労だった。

 『高垣楓』の噂は、まだ消えていなかった。

 それどころか、噂は加速をしていた。

「――あの人は、これだから素敵なんだ」
「そうそう、『高垣楓』にふさわしい人間は、こうなのだ」
「『高垣楓』も、好きすぎて会うたびにアプローチしてるんだよ」

 人々は、熱狂する。

「事務所の都合があるのに、真実を言えるわけない」
「真実を知っているのは、自分たちだけだ」
「俺たちが『高垣楓』を応援しよう」
「つまらない社会の常識を、俺たちの声でかき消すんだ」
「それが、『高垣楓』のためだ」

 声は、大きくなっていく。

 ――『ばけもの』は、大きくなっていく。
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:20:38.90 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 プロデューサーが倒れた後も、楓は仕事を続けた。

「ファンの皆さんを、不安にしたくありません」

 休業を勧められたが、この段階で下手に動けば余計な誤解を生むと、続行することにした。

 日々は、過ぎていく。
 灰色のような、白のような、曖昧な光が指先から零れる様に実感がない時間だった。

 そんなある日のことだった。
 高垣楓は、男――世間でで恋仲であると噂された男性と鉢合わせになった。

 事務所側でも、接触しないように細心の注意はしていた。
 だが、それでも偶然。本当に、偶然に顔をあわせてしまう。
252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:21:34.07 ID:1qpUpdjR0
「申し訳ありません」

 会うなり、深々と頭を下げて謝罪の言葉を口にする。

「いえ、顔をあげてください」

 これ以上責めないでほしい、そう、顔に書いてあった。

「ですが」

「いえ。悪意はないのでしょう?」

「……はい」

「ふふ……今日のお仕事も、頑張りましょう。お仕事が楽しみで、わーくわーくしてるんですよ」

 本当は、そんな心境ではなかった。けれど、せめて笑顔でいようと冗談を言う。

「わかりました」

 それで納得したのか、男は立ち去る。その先に、彼が担当するアイドルたちが居る。
 何やら話し込んでいたが、楓はそれを気にせず立ち去った。

 ――『ばけもの』は育つ。
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:23:08.39 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

「すごいなあ、ファンの前ならちゃんと個人的な感情は抑えるんだ」
「やっぱり『高垣楓』は素敵だ! どんなことになっても応援するよ」

 声が消えなかった。

「もう、彼と結婚すればいいじゃない」
「高身長だし、美男美女のカップルなんて素敵じゃない」
「友達も言っていたし――」

 外見が似合うから。
 周りがそうだから。
 気が付けば、疫病の如く"それ"は広がっていた。

 誰もが、そうであると信じていた。
 誰もが、そうであると望んでいた。
 誰もが、そう、信じこむことを『信じ込んで』いた。

 ――『ばけもの』は育つ。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:24:13.51 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 その年のクリスマス、珍しく都心にも雪が降った。
 夕暮れの空に、白い光が舞う。

 高垣楓は、事務所の屋上でそれを眺めていた。

 彼女は戸惑っていた。
 いくら自分がこうであると言っても、周囲は自分が恋していると疑わない。
 それが幸せであると、言っている。

 それが違うと言うと、聞いたファンは悲しそうな顔をする。
 それを見るのが、たまらなく嫌だった。

「楓ちゃん」

 川島瑞樹の声が聞こえた。振り返ると、屋上のドアによりかかり、声の主が立っていた。

「元気ない……わよね」

「ええ」
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:25:38.31 ID:1qpUpdjR0
 瑞樹は、硬い床を靴で叩く。苛ついているように、荒い音が寒空に響く。
 瑞樹は楓の隣に立つと、黙って空を見る。

 つられて、楓も空を見る。

 茜色の空は徐々に暗くなり、世界は夜の色に包まれる。
 
 星が、瞬いた。 

「星座」

 ゆっくりと、瑞樹が口を開いた。

「夜空だと近く見えるけれど、実はとっても離れてるよのよ。まったく関係がない」

「はい」

「一括りにされている星でも、本当はとても遠くまで離れてるの」

 楓は、瑞樹が言わんとしていることを理解した。
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:26:38.52 ID:1qpUpdjR0
「見た人が、そこに意味を求めてそうなった」

 よくできました、と微笑むと、瑞樹は楓の肩をそっと叩く。

「そう。そして、意味を求めることに、悪意はないの」
 
 今回の事件において、悪人は居る。
 売名や商売のためだけに高垣楓の名前を利用した人間だ。

 だけど、それだけではない。
 そう、悪意なんて殆どの人は持っていなかった。
 誰もが、そうあったら素敵だと言っただけだった。

 アイドルにだって恋をしてもらいたい。ただ、その行く先がちょっとずれていただけなのだ。

「みんな、引っ込みがつかなくなってるだけだから」

「……私は、皆さんに愛されていると思っていいんでしょうか」

「もちろんよ」

「ありがとうございます」

「お礼は全部終わってから。楓ちゃんの好きなようにしないと」

 ――けれど、『ばけもの』はまだ居る。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:28:30.44 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 高垣楓は意を決すると、すぐに事務所の代表の元へと足を運んだ。
 執務室で書類と格闘するその人は、半年前に比べると大分老け込んでいた。

「私の声を、ちゃんと届けたい――」

「と、言うと」

「高垣楓はここに居て、ファンの人達と一緒に歩いていきたい」

「彼らと一緒に居たいと」

「はい」

 そうか、と代表は短く返した。
 何かを決めたような。また、何かを諦めたかのようだった。

「明日、もう一度話し合おう」

 ――けれど、『ばけもの』はまだ消えない。
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:29:17.11 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 翌日、改めて代表の執務室に呼び出されると、そこには男性――高垣楓と恋仲であると噂された男が居た。 
 彼の傍には担当しているアイドルたちが居た。
 皆、不安そうに大人たちを見守っている。

「……これ以上、混乱を広げないようにしましょう」

「ええ、ですから――」

 男も男で困難があったのだろう。その迷いない瞳には、艱難辛苦を乗り越えてきた人間のものだった。

「こうなったからには、責任を取ります――」

「は」

 この男は何を言っているのだろう、と。

「あなたを、必ず幸せにします」

「は?」

 楓は、その言葉の真意が理解できなかった。

「恥ずかしがることはなんてないよ!」
「そうだよ、高垣さんとプロデューサーなら、みんなが祝福してくれるよ」

 困惑する楓に、周囲のアイドルたちから言葉が浴びせられる。

 ――『ばけもの』が、そこに居た。
 ――『誰かに思いを寄せる高垣楓』はもう、育ちきっていた。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:30:26.67 ID:1qpUpdjR0
「だって、そうでなければおかしい」
「プロデューサーなら、きっと幸せにしてくれる」
「見た目もお似合いだし、大丈夫」

 高垣楓には理解できなかった。

「どういう事でしょうか?」

 高垣楓の顔が、声が、険しくなる。

「――僕は、改めて思ったのです。貴女には笑顔であって欲しい。そうすれば、世界中の人が笑顔になれる。そのための努力を、惜しみません」

 表向きは誠実な言葉だ。だが、その言葉の先には高垣楓は居なかった。

「笑顔は、どうやって生まれると考えているんですか?」

「貴女が笑顔であれば、皆が自然に笑顔になれます」

「それは、私の顔を見て言っていますか?」

「はい」

 何を言っているのだろう、と叫び声が喉の奥まで競りあがる。
 吐き気がする程薄っぺらで傲慢な言葉だった。
260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:31:10.28 ID:1qpUpdjR0
「よく言ってくれた」
「うんうん、やっぱりプロデューサーはすごいよ!」
「それなら、みんな安心だね」

 なのに、この場に居る人間は、高垣楓以外にその言葉を賞賛する。

「もう、そうする他ないのか……」

 代表は何かを諦めたようにしていた。

「仮に認めなければ、わが社はアイドルの自由を奪う存在となる」

 それは、この半年間、何度も言われてきた。
 一人の女性の自由を奪う悪。

「プロデューサーさんなら、絶対に大丈夫」
「悔しいけど、お似合いだって」
「それに――そうでないと、『高垣楓』を誤解していたと言う結果しか残らないよ」

「はい――貴女の笑顔を、守ってみせます」
261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:32:13.43 ID:1qpUpdjR0
 ――『ばけもの』は、見ていた。 

 高垣楓は、理解した。
 もう、人々が求めているのは高垣楓の皮を借りた『ばけもの』なのだと。
 想像の中で肥大化し、それでいて自分たちの思い通りになる化け物なのだと。

 もう、私は『高垣楓』として求められていない――そう、悟ったのだ。

 僅かに考え込む。
 答えは、決まっていた。

 ――『ばけもの』は、もう、高垣楓ではなかった。

「私が居たら、『高垣楓』は誰の隣にも居られませんね」
262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:32:58.98 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 年が明ける前に、高垣楓はアイドルを引退した。
 皆、それを予見していたかのように大いに騒ぎ立て、彼女に関連する情報は年明けのお茶の間を散々にかき回す。

 冬は終わり、春も瞬く間に通り過ぎた。
 気が付けばまた蒸し暑い季節になっていた。

 そんなある日の仕事帰り、川島瑞樹は男に呼び止められた。

「あら、どうしたの?」

「貴女は、あの『高垣楓』と親しかったそうですが」

 またか、と内心、毒ずく。この数か月、同じ切り出しの質問は山ほど受けた。

「申し訳ありません。川島瑞樹としての回答は、事務所を通して行いますので」
263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:34:12.33 ID:1qpUpdjR0
「ですが」

 情けなく追いすがる男を置き去りにし、瑞樹は帰路を急ぐ。
 瑞樹の胸に、苦い感情が溢れる。もう少し若ければ、殴り倒していただろう。

 ――まだ、『高垣楓』の名は忘れられていなかった。
 ――まだ、人々は『高垣楓』を幸せにしようとしていた。

 曰く、誠実な男に断られ、姿を消した。
 曰く、内縁の妻として男を支えている。

 人々は口々に言った。
 どんな結果であっても、自分たちは『高垣楓』の幸せを祈る、と。
 彼らの中で、高垣楓は理解ある人々に囲まれて幸せに過ごしている。 

 ――『ばけもの』は、まだ、居る。

「まったく……これじゃあ、あの子が外に出れるのはまだ先かしら」

 帰路を急ぐ。その先には、信じられるのは貴方だけだと告げた、一人の女性が待っている。

264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:34:47.97 ID:1qpUpdjR0
以上となります。
ありがとうございました。
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/09/27(水) 00:01:26.57 ID:MoWO1bnJ0
266 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:19:10.85 ID:ktVirj9S0
投下いたします。
267 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:20:37.39 ID:ktVirj9S0
ほたる「あの……白菊ほたる、です……」

ほたる「この世には、不思議なことってたくさんありますよね」

ほたる「私も、今朝は不思議と犬に吠えられなかったです。……不思議じゃないですか? ……そうですか」

ほたる「他には……お風呂で触れてもいないボディソープが倒れたりとか、急にシャワーが冷水になったりとか」

ほたる「お風呂って怖いですよね。裸で、無防備で。顔を洗おうと目を閉じたときとか」

ほたる「背後に――いえ、目の前に、なにかいるんじゃないかって思ったことはありませんか?」

ほたる「なにかってなんだ? その、なんでもいいんですが……そうですね、たとえば」

ほたる「『自分』がいた、なんてどうでしょう?」

ほたる「……こんな感じ、でいいのかな?」



『エル』


268 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:21:44.54 ID:ktVirj9S0
 加蓮は浴槽に張ったお湯に手を浸し、その温度を確認した。
 少し熱いかな? と思い、水を継ぎ足しながら、差し込んだままの手でゆっくりとお湯をかき回す。
 水を止め、なまぬるくなったお湯から手を引き抜く。たぶんこのぐらいでいいだろう。
 浴槽のふちをまたぎ、普段入浴するときよりは少なめに張ったお湯に身を沈める。
 底面におしりをつけ、脚を伸ばすと、おへその上あたりまでぬるいお湯が上がってきた。かすかに揺らぐ水面が肌をなでているようで、少しこそばゆく感じた。

 加蓮は、半身浴というものを試していた。
 ダイエットや美容にいいと、一時期流行っていたものだが、なんとなく機を逸してしまい、これまでにやってみたことはなかった。
 しかし先日、事務所で先輩アイドルの川島瑞樹から勧められたこともあって、いちどくらい試してみようかな、という気持ちになった。なにも難しいことはない、ぬるめのお湯におなかのあたりまで浸かり、20分から30分ほど待つ、ただそれだけだ。

 手でお湯を掬い、ちゃぷちゃぷともてあそぶ。
 ……うん、そんな気はしていたけど、やっぱりこれはなかなか、

「退屈だね」

 思わずひとりごとがこぼれる。
 なにもしない20分というのはなかなかに長い。近々捨てるつもりの雑誌でも持ってくればよかったか、しかしお湯に入る前だったらともかく、今から取りに行くのは面倒だ。

 特にできることもなく、基礎代謝の重要性について熱心に語る瑞樹の顔をぼんやりと思い返した。自分よりはむしろ、いっしょにその場にいた奈緒のほうが真剣に聞いていたような気がする。そういうの興味あったりするのかな? そういえば、そのあと2日前の夕食を覚えているかという話になったのは、いったいなんだったんだろう。

 シャンプーのボトルの隣に並んだ、防水のデジタル時計に目を向ける。表示は『17:52』、お湯に入ってから5分が経過していた。
 早めに切り上げるにしても、5分はあまりに根気がなさすぎるだろう。お試しの1回とはいえ、せめて10分以上は続けないと格好がつかないし、効果もあるとは思えない。できればキリよく18時までとしたいところだけど。
 ……なにもすることがなく、ただじっとしているというのは、どうも昔を思い出してしまって好きじゃない。

「アタシにはあんまり向いてないかなー」

 代り映えのしない浴室の風景を眺め続けるのにも飽きて、ふぅと息をつく。
 ……あー、ダメダメ、眠っちゃいそう。
 意識が遠のいていくような感覚を振り払い、いつの間にか降りていたまぶたをこじ開ける。
 景色が一変していた。
269 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:22:53.39 ID:ktVirj9S0
 自宅の浴室であることは間違いない。だけど、なぜかタイル張りの床が見えた。それから浴槽が見えた。
 浴槽には人が入っていた。加蓮だった。
 加蓮は、加蓮を上から見下ろしていた。

 思わず悲鳴を上げた。
 上げたつもりだった。
 しかし、「きゃあ」とも「わあ」とも、発したはずの声は出ていなかった。

 ――なにこれ!? どうなってるの!?

 そう叫んだつもりの声も、やはり空気を震わせることはない。
 真上から見下ろすようなアングル、この視点が本当なら、今自分のいる位置は天井付近だ。つまり、浮いているということになる。
 そんなことってある?

 戻らないと、と思った。状況がわからず頭は混乱していたが、視界は意思の通りに、浴槽の中の加蓮に向かって移動していった。
 体当たりでもするように、もうひとりの自分に突っ込む。一瞬、頭の中が白く光った気がした。 

 ぱちりと目を開く。見慣れた浴室の風景がそこにあった。
 下半身にお湯のぬるさを感じ、深い眠りから覚めたように五感が働き始める。
 胸に手を当てる。どくんどくんと早めの鼓動が伝わってきた。

 ……生きてるね、うん。

 お湯に浸っていない上半身からは汗が流れていたが、半身浴の効果ではなく、今この瞬間にドッと湧き出たような気がする。冷や汗というものだろう、これは。
 加蓮はシャワーで軽く体を流し、浴室を出た。
 視界の端にちらりと映った時計には『17:55』と記されていた。

 動悸はしばらく治まりそうにない。


270 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:24:20.17 ID:ktVirj9S0
「あら加蓮ちゃん、半身浴やってみた?」

「あー、あれ一応やってみたんですけど、すごい汗かいて、しばらくぐったりしてましたよ、あはは」

「体力を消耗するものね、わかるわ。最初のうちは短い時間から慣らしていったほうがいいわよ」

「そうですね、そうします」

 後日、加蓮は事務所で会った瑞樹とそんな会話を交わした。
 しかしこれは口先だけの社交辞令であり、加蓮は再び半身浴に挑むつもりはなかった。
 変に心配されても面倒だからと、誰にも相談することはなかったが、あんな恐ろしい体験をするには、一度だけで充分だ。

「……って、思ってたはずなんだけどねぇ」

 あの不思議な出来事から1週間が経過したその日、加蓮は浴槽に張ったお湯の温度を調整していた。
 日が経って恐怖心が薄れてきたのか、あれはいったいなんだったんだろうという、好奇心が上回った。
 全く怖くないと言えば嘘になるけど、あのときは戻ろうと思って戻れたんだから、おそらく危険はないはずだ。

 お湯の温度も量もほぼ同じ、時間帯もおよそ同じぐらいにした。
 浴槽に入り、脚を伸ばす。あとはどうしたんだっけ? そうそう、目を閉じるんだったかな。
 現実的に考えれば、あれはきっとうたた寝でもして、短い夢を観ていたのだろう。
 それならそれでいい、夢だったと確認できれば納得もいくし、怖くもなくなる――んだけど、

 ――まさかホントにできちゃうとはね。
271 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:25:18.92 ID:ktVirj9S0
 つぶやいた声は声にならない。
 恐怖がぶり返しそうになるのを必死に抑えながら、目の前に手を持ってくる。手は見えなかった。
『あっちに動こう』と念じる。視界はするすると空中を泳ぐように移動した。
 動いた先は洗い場の鏡の前。鏡には浴室の、後方の壁が映っていた。
 なるほど、透明人間ってことだね。

『幽体離脱』という言葉がふと浮かぶ。たぶん知っている言葉の中ではそれが一番この状況に近い。
 幽体とはいっても、漫画やアニメで描かれる幽霊のような人型はとっていない。足どころか手もないわけで、どうやらなにかを動かすようなことはできない。
 思い立って、浴室のドアに向かって動いた。目の前にぐんぐんとドアが迫る。視界いっぱいが磨りガラスのドアで埋まる。そして、景色は脱衣所になった。ドアをすり抜けた。 
 再度ドアをすり抜けて浴室に戻り、浴槽の自分の姿を確認する。胸がかすかに上下していて、呼吸している様子が見て取れた。どうやら体は眠っているのと変わらないようだ。前回と同じなら、この本体に触れることで目が覚めるはず。

 ……だけど、その前に、

 加蓮はドアの反対側、浴槽の接している壁をすり抜けた。この向こうは建物の外になる。
 お隣の家の外壁が目の前にあった。壁と壁の隙間にそって、念じるままに移動し、家の前の道路に出る。
 とっくに見飽きた街並みを、沈みかけた夕日が橙色に染めていた。
 どこか遠くの空で、カラスの鳴き声が響いていた。

 もっと上へ、と思ったら空高く飛び上がった。
 あっちの方向へ、と思ったらその通りに空中を泳ぐことができた。
 もっと速くは?
 速度が上がる。『風を切る』ではなく、風が自分の中を通り抜けていく感覚があった。

 声が出せたなら、笑っていたと思う。
 高揚していた。こんなに楽しい気分になったのは、いったい、いつ以来だろう。

 ――すごい! アタシ、空を飛んでる!!
272 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:26:11.95 ID:ktVirj9S0
 しばらく辺りを飛び回った加蓮は、浴室で眠る自分の体に戻った。前回と同じく、なにごともなかったように、ただ時間だけが経過していた。
 お湯から上がり、浴槽のふちをまたぐときに若干体がふらついた。意識が離れているあいだも肉体はずっと半身浴の状態にあったから、長くお湯に浸かりすぎたのだろう。時計を見ると開始から30分が経っていた。

 じっとりと汗をかいた全身をシャワーで流し、浴室を出る。
 髪を乾かし終える頃には、もう指一本も動かしたくないほど疲弊していた。
 ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めながら、先ほどの体験を思い返す。
 楽しかった。そしてこの現象はどうやら、条件を整えれば、自分の意志で起こせるようだ。
 体は疲れていても、心はこれ以上ないくらいに晴れやかだった。


273 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:27:17.70 ID:ktVirj9S0
 翌日になっても疲労は抜けきらず、加蓮はレッスンで多くのミスをやらかし、トレーナーから散々に怒られた。

「調子、悪いのか?」

 レッスン終了後、加蓮と共にレッスンを受けていた奈緒が問いかけた。

「風邪とかじゃないよ、半身浴ってのやってみたら、思ったより疲れちゃって」

「ああ、こないだ川島さんが言ってたアレか。けっこう体力消耗するよな」

「奈緒もやってみたんだ? どうだった?」

「どうって……普通だよ。汗かいて疲れた、体重は変わってない。そんなすぐ効果が出るようなもんじゃないだろ?」

「そうだね」

 そういえばダイエット効果なんてものがあるんだっけ、すっかり忘れていた。美容のほうも忘れていたぐらいだ。
 そして、奈緒は幽体離脱はできなかったようだ。当たり前かな、誰でもできるようなら、もっと大騒ぎになってるだろうし。きっとあれは、アタシだけが特別なんだ。

「体って、重いよね」

「アホか、加蓮はもう少し太れ」

「じゃあ今から食べに行こっか? 最近この近くでみつけたお店、お客さん少なくて居心地いいんだ」

「……いちおう訊いとくけど、何屋?」

「誰でも知ってるハンバーガー屋さん」

「やっぱりか、うーん……駄目だ、あたしはパスで」

「えー、なんで?」

「ダイエットしながらファストフード食ってどうすんだよ。意味ないだろ」

 奈緒も全然太ってないのにな。

「だったら、アタシひとりで行こうかなー」

「でも、もうすぐ雨降るぞ」

 レッスン室の窓に目を向ける。暖かな陽光が差し込んで、きらきらと輝いていた。

「……いい天気に見えるけど? 天気予報でそうなってた?」

「予報とかは見てないけど、湿気の具合でなんとなくわかるんだよ」

「エスパーみたいだね」

「軽率に召喚ワードを口にするな。来たらどうする」

「これで来たらむしろ本物だよね」

 加蓮は笑った。奈緒もつられたように笑った。エスパーは、どこかでくしゃみでもしているかもしれない。
 超能力か、今だったらそれも信じられる気がする。奈緒の天気予報だって、見ようによっては一種の予知能力みたいなものだろう。

 だけど、アタシのは、もっとずっと面白いよ。


274 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:28:31.35 ID:ktVirj9S0
 加蓮はレッスンでの反省を踏まえ、離脱は3日以上の間隔を置くこと、時間は最大でも30分までとルールを定めた。いくら楽しいからといって、アイドルの活動に悪影響は与えたくない。
 それと、離脱中はきっと、なにをされても起きることはない。たとえばお風呂の外から家族に呼びかけられた際に、全くの無反応では心配するだろう。戻ってきてみたら本体が病院に担ぎ込まれていたなんて事態にもなりかねない。
 だから、離脱をするのは家の中でひとりきりのときだけと決めた。加蓮の母は専業主婦であるため、チャンスはそう多くない。自然と『3日以上の間隔』というルールにも合致した。

 何度か試してわかったのは、最大の飛行速度はだいたい全力で走るのと同じくらい、ただし長時間飛んでいても疲れるということはないので、結果的に走るよりもずっと速い。
 それから、交通機関は使えない。いちど駅で電車に入ってみたら、動き出した車両が体を貫通して走り抜けていった。あのときの光景はなかなかのホラーだった。
 つまり、移動の手段は自身の飛行のみ。ルールで決めた時間制限もあるから、それほど遠くまで行くことはできない。

 奈緒の家は距離がありすぎて無理だ。だけど、凛の家ならそんなに遠くないので、ちょくちょく覗きに行ったりもした。
 ふだんは格好つけてるけど、自室でひとりのときはけっこうだらけてるとか、なかなか気合いの入った下着を隠し持ってるとか、よく知っていたつもりでも、意外な顔が見えたりして面白かった。幽体離脱様様だ。
 もちろん、それでからかったりはしないけどね。


275 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:29:22.83 ID:ktVirj9S0
 最初のような感激こそ徐々に薄れていったものの、空を飛ぶというのは、他の何物にも代えがたい快感だった。

 解放されて初めてわかった、人間というものは苦痛に苛まれながら生きている。常に、絶え間なく。
 体の重さ、呼吸をする苦しさ、それから痛み。
 生まれてからずっとそうだから気にならないだけで、人間は、生きているというだけでいつも痛みを感じている。それは健康であってもだ。

 思えば、自分は普通の人より多くの痛みを味わいながら生きてきた。今でこそ日常生活に不便を感じない程度には健康になったものの、昔はなにもなくても常に自覚できるほどの苦痛があった。他人の『体調を崩した』が、自分にとっての日常みたいなものだった。
 なんでアタシだけ、と世界を呪ったこともある。そして、大人になるまで生きていられないのではないかという恐怖もあった。

 だから、これはきっと神様がくれたご褒美だ。
 あんなに苦しんできたんだもの、このぐらいの見返りがなくちゃ、割に合わないよね。


276 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:30:21.91 ID:ktVirj9S0
 加蓮は、ふだんは立ち寄ることもない駅の前を、上空から見下ろしていた。
 少し経って、ひとりの男性が改札口から出てくる姿が映る。それは加蓮の担当プロデューサーだ。
 急な残業とかはなかったみたいだね、よしよし。

 何日か前、ちょっとした世間話に交えて「プロデューサーって、どのあたりに住んでるんだっけ?」と訊いてみた。
 彼はプライバシー意識が高いのか、日頃から自身の情報を漏らすことがなかった。加蓮の他にも数名のアイドルをプロデュースしているが、その誰もが、彼の住所については知らないようだった。
 ひとり暮らしである、ということだけ、以前耳にしたことがある。346プロは福利厚生に手厚いと有名で、住宅手当なんかもかなり出ているだろうから、わざわざ遠くから通っているという可能性は低いはず、おそらく都内だろうとまではアタリをつけていた。
 プロデューサーの目にかすかな警戒心が宿るが、加蓮はそれには気付かないふりをして、「この仕事だと遅くなるときもあるでしょ、終電逃したりはしないの?」と続けた。
 彼は少し迷った様子を見せつつも、最寄り駅の名前を口にした。それぐらいでは住所の特定まではできないと思ったのだろう。
 加蓮は心の中で拍手を贈った。その駅は、降りたことはないが通り過ぎたことは数えきれないほどある。加蓮の家からもそう遠くはない、まっすぐ飛んで行けば往復してもまだ時間の余る距離だった。
 その後は、「そのあたりって行ったことないな、近くに遊ぶようなとこあるの?」などと適当な話題を振って話を終わらせた。

 ――では、ご案内してもらいましょうか。

 てくてくと歩くプロデューサーの横をぷかぷかと浮かんでついていく。
 駅から遠かったらどうしよう、という一抹の不安は杞憂に終わり、彼は、あまり大きくはないが新しめに見えるアパートの前で足を止めた。
 加蓮はエレベーターに向かう彼にはついていかず、郵便受けを見て部屋番号を確認した。そしてまっすぐ上に飛び、プロデューサーよりも早くその部屋の中に入った。
277 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:31:12.47 ID:ktVirj9S0
 へえ、意外と綺麗にしてるんだね、というのが第一印象だった。
 しかし、よく見てみるとそれは、片付いているというよりは物がない。物がなさ過ぎて散らかしようがない、という部屋だった。
 そこそこ広めのワンルーム、だけどせっかくの面積を無駄にするように、机がひとつと小さなタンスひとつ、あとはベッド、それしかなかった。備え付けのクローゼットが開いていて、ワイシャツやスーツが掛けられているのが見えた。机の上にはノートパソコンが乗っている。つまり最低限の衣類とパソコンしかない。
 いかにも、寝に帰るだけの部屋という感じだ。日頃から「仕事が恋人」と言っている彼らしいかもしれない。

 恋人といえば。

 うん、どう見ても女の気配はないね。
 この部屋に通い詰めるのは、いくらなんでも不便すぎるだろう、付き合っていれば多少なりとも私物を置くはずだ。それに……
 加蓮は部屋の壁を眺めた。正確には、壁にある加蓮のポスターを眺めた。それも壁紙に直接貼っているのではなく、簡素なものではあるが額縁に入れて飾られていた。
 なーんか嬉しいな、こういうの。……まあ、隣には奈緒のポスターがあって、更に隣には美嘉のポスターが飾られてるんだけども。
 職業がアイドルのプロデューサーだと知っていても、仏のように慈悲深い女でない限り、この部屋は嫌がるはずだ。そんな女はいない。

 玄関の方からカチャカチャと音がする。上がってきたプロデューサーが鍵を開けているのだろう。
 もうちょっとゆっくりしていきたいところだけど、そろそろ時間がヤバイかな。
 加蓮は玄関に向かい、ちょうどドアを開いたプロデューサーの胴体を突き抜けていった。

 ――また今度ね。


278 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:32:21.10 ID:ktVirj9S0
 加蓮は、離脱時間をもっと延長してもいいのではないか、と考えていた。
 最近は体が半身浴に慣れてきたのか、自らが課したルールの30分いっぱいまで離れていても、それほどの疲労は感じなくなっていた。少なくとも前のように翌日のレッスンにまで影響が出るということはない。
 不安があるとすれば、お湯の温度だ。30分離脱してから目覚めたとき、お湯はかなり冷めている。あれ以上温度が下がったお湯に浸かっていたら風邪を引いてしまうかもしれない。
 だったらお湯を多めに、普通に入浴するときと同じくらいの量でやってみたらどうだろう? 多少は冷めにくくなるはず、だけど体力の消耗は大きくなるかな?
 なにごともやってみなくちゃわからない、失敗したら失敗したで、今後の糧にすればいいんだ。だって人生は長いんだから。

 そもそも、それで離脱はできるのだろうか? という疑問もあったが、実際にやってみると、あっさりと体から抜け出せた。どうやら離脱の条件にお湯の量は関係なく、温度が重要らしい。

 その日、加蓮が肉体から離脱して10分ほど経ったころ、突然ぐらりと視界が揺れた。
 めまい? と思いながら空中に静止する。違う、幽体にめまいなんて起こるはずがない。
 揺れてるのは加蓮ではなかった、地面が揺れていた。

 地震……けっこう大きいかな?
 
 空中にいる加蓮は振動を感じることはない。だが自分自身が揺れに含まれることなく、景色だけが揺らいでいるというのは、どこかゾッとする光景だった。大地や建物がゆらゆらと揺れるさまは、なにか得体の知れない巨大な生き物が身をくねらせているようにも見える。
 地震は、30秒もかからずにおさまった。道中で足を止め、様子をうかがっていた人々がわらわらと動き始める。遠くの方では、止まっていた電車も走り出した。
 建物が倒壊するほどの規模ではなかったにしろ、まるで一時停止していた動画を再生したかのように、さっさと動き始める地上の人々の姿が、加蓮には、なんだか異様に映った。

 加蓮は、はっと我に返って反転し、元来た道を全速力で飛んだ。
 自宅から現在地まで、およそ10分の時間がかかっていた。当然、帰りにも同じくらいの時間がかかる。

 体は! アタシの体は大丈夫!?
279 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:33:08.13 ID:ktVirj9S0
 ほぼ一直線に自宅の浴室に戻り、即座に自分の体に飛び込む。
 これで目が覚めるはずだった。今まではずっとそうだった。
 しかし、今回に限っては、そうはならなかった。加蓮の幽体は、体を素通りした。

 揺れで体勢が崩れたのか、加蓮の体はいつもより深く浴槽に沈んでいた。今日は普段より多くお湯を張っていた、その水面は、ちょうど顔の半分あたりにあった。鼻も口も、その下だ。
 眠り続ける加蓮の顔は、穏やかに目を閉じたまま、紫色に染まっていた。
 
 ――嘘でしょ。

『窒息』という単語が脳裏をよぎる。
 体に戻ることはできなかった。何度繰り返しても、建物の壁や他の物質と同じようにすり抜けてしまう。
 どうする? まずお湯から出さないと。それから、人工呼吸? 心臓マッサージ? 救急車を呼んで……
 思考が氾濫する。その全てが、今の加蓮にはできないことだった。すべての物質をすり抜けるこの状態では、浴槽から体を出すという、ただそれだけもかなわない。
 家の中に人はいない。加蓮は離脱の際は家族のいない時間を選んでいた。当分家に帰ってくることはない。
 壁を抜けて屋外に出る。そこから少し飛んだ先にある大通りでは、たくさんの人が、地震なんてなかったような顔をして歩いていた。

 ――助けて!

 声の限りに叫んだ、つもりだった。

 ――向こうの家にアタシがいるの! お風呂でおぼれてるの! 誰かきて、助けて!

 反応はない。道行く人の目の前をめちゃくちゃに飛び回っても、体の中を突き抜けても、誰ひとりとして、そこにいる加蓮に気付くことはなかった。

 どうしてこんなことになっちゃったの? 空なんて飛んだから? みんなの家を覗き見したから? アタシそんなに悪いことしたの?

 ――無視しないでよ!!

 焦燥と絶望が怒りに転換され、気付けばそう叫んでいた。
 それから道行く人々に、思いつく限りの罵倒の言葉をひたすら浴びせかけた。そのひとつも、音になることはなかった。

 地震発生から、どれだけの時間が経っただろう? 蘇生措置が間に合うのはどのくらい?
 わからない。
 わからないけど、たいして知識を持ってるわけじゃないけど、そんな時間は、もうとっくに過ぎているだろうことだけはわかる。

 ……嫌だ。

 せっかくアイドルになったのに、まだまだ、これからだったのに。

 誰か……聞いてよ。

 泣けるものなら泣いていただろう。しかし、どれだけ振り絞っても、声も、涙も出なかった。



 ――わたし、まだ、死にたくないよ。 


280 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:33:59.76 ID:ktVirj9S0
 その日観測された地震は、震度5強、マグニチュード5.5と発表された。
 地震の多い日本では、さほど珍しくもない規模である。これにより、1人の死者と16人の重軽傷者が出た。
 大多数の日本人にとっては『いつもの地震』であり、大きな話題になることもなく、忘れられていった。
 だが、346プロダクションの内部は、それからずっと重苦しい空気に包まれていた。
 地震による人的被害、その唯一の死亡者が、346プロ所属アイドルの北条加蓮だったからだ。
 死因は水死。地震発生時入浴中だった加蓮は、なんらかの理由で意識を失い、浴槽の湯に沈んで窒息したと見られている。

 そしてもうひとり。
 地震発生時、屋外を徒歩で移動中だった白菊ほたるが、マンションからの落下物を頭部に受け、昏倒。通行人が119通報し、病院に搬送された。検査では脳に損傷や出血は見られなかったが、丸一日以上もの間、意識不明だったという。
 ケガそのものは重いものではなく、入院も3日程度だったらしいが、それ以降、346プロのアイドルたちが事務所でほたるの姿を見かけることはなかった。彼女は寮住まいだったが、寮の自室にも戻っていなかった。

「地震を自分のせいだと思っているのかもしれない」

「アイドルを辞めるつもりでは?」

 そんな噂が流れ、加蓮の訃報によるショックも冷めやらないアイドルたちの表情を、より一層曇らせた。
281 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:34:41.33 ID:ktVirj9S0
 地震からおよそ1ヶ月が経過した頃、ほたるが事務所を訪れた。
「みんな、久しぶり」と手を振るその顔は、どこか固く、緊張しているように見えた。
 ほたるが語ったところによると、この1ヶ月、ほたるは負傷の連絡を受けて見舞いにやってきた母親と共に、鳥取県の実家に帰省していたらしい。休養の理由については、頭部に衝撃を受けたことによる、軽い後遺症が残っていると説明した。

 それから数日後、ほたるから担当プロデューサーに「しばらくは仕事は受けずにレッスンに専念させてほしい」と申し出があり、プロデューサーとトレーナーで協議し、これを承諾した。
 休養を明けてからのほたるは、ブランクのせいか、それとも後遺症の一環か、歌にもダンスにも、どこかぎこちなさが見られ、到底ステージに上げられるレベルではないと判断されたからだ。他の寮住まいのアイドルから、「箸の使い方がヘタになった」と言ってスプーンやフォークで食事しているとの報告も上がっている。
 復帰当初は、はたしてカンを取り戻せるのだろうかと危ぶまれたものだが、仕事を取らない代わりに他のアイドルよりも多くスケジュールされたレッスンを、ほたるは執念にも似た熱心さで取り組み続け、歌やダンスの違和感はまたたくまに改善されていった。表現力に至っては、前よりもいいぐらいだとトレーナーは言った。
 また、後遺症のひとつに、自分のロッカーの場所を覚えていないといった軽度の記憶障害があったが、同僚アイドルたち、特に寮住まい組の協力もあり、今では日常生活に困るようなことはないらしい。
282 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:35:49.39 ID:ktVirj9S0
 その日、ほたるは予定されていたレッスンを終え、事務所をあとにした。
 346プロの寮は事務所にほぼ隣接して建てられており、歩いて2分もかからず帰宅することができる。しかし、そのときのほたるは、寮の前を素通りした。
 大通りに出たあと、駅とは反対方向の、あまり栄えているとはいえない区画に足を進める。同僚のアイドルたちは、通常このあたりにやってくることはないと、事前に調査を済ませてあった。

 ほたるはひとつの建物に足を踏み入れた。
 そこは全国展開しているファストフードのチェーン店で、立地条件のせいか、客はあまり多くない。ほたるはさっと店内を見回したあと、空いているレジカウンターの前に進み、店員に向けて言った。

「ポテトのLください」



   〜Fin〜
283 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:36:25.86 ID:ktVirj9S0
終わりッス。
ありがとうございました。
284 : ◆LEaEgxSrqk [sage saga]:2017/10/01(日) 03:09:57.60 ID:iKH7pqC/0
テスト
285 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:13:12.92 ID:iKH7pqC/0
投稿させていただきます よろしくお願いします
286 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:14:45.06 ID:iKH7pqC/0
「不老の秘訣」
287 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:16:47.33 ID:iKH7pqC/0
「若いままでいる秘訣、ですか……?」

菜々パイセンは少し困惑した表情で、私の方に顔を向けた。

「そうです!やっぱり菜々パイセンって、お肌つるつるだし動きもきびきびしてるし、17歳を名乗ってるだけあるぅ〜って尊敬してるから、だからこそ、その美の秘訣に迫ろうと!!教えて☆」

表情をにへらと緩ませながら小さい手を振って、「そ、そんなことないですっ」と頑なに賛辞を受け入れないパイセンも、小動物のようで可愛らしい。
この歳になって、ほぼ同年代の女性を見下ろすなんて事態が起こるとは思わなかったし。……おっと、パイセンは17歳だった。いっけね。アイドルとしてのキャラを重く背負う私達にとって、設定の徹底というのは必須だ。ファンの前だけキャラを演じて、ステージ降りたらはい終わり、ではいつかボロを出してしまう。まぁ、私は出来てないしパイセンは徹底しているのにボロが出る始末なのだが。

それはさておき、パイセンの年齢不詳っぷりは衝撃だ。
体力持つのは一時間と言っても、その間のパフォーマンスは実際の17歳アイドル達に引けをとらない。いや、菜々パイセンは実際17歳であるのだけれども。言葉のアヤである。

そんな彼女のことだ。きっと、いや必ず若さを保つ秘訣があるに違いない。こういうのは瑞樹さんの方が得意分野かもしれないけど、彼女の手法はちょっと、手間がかかるから。三日坊主で揃えた道具を散らかす未来が見える。既に部屋には用途を失った美容グッズが転がり始めている。パイセンに希望を見出しているのは、決してズボラであると思っているからではない。

「教えて欲しいぞ、センパイ☆」

「うーーーーん」

唸りながら首をひねっている。出し惜しみするということは、いやでも期待が高まってしまう。

「……ここだけの話ですよ?」
288 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:18:22.25 ID:iKH7pqC/0
周りをきょろきょろと確認してから、パイセンと私は空いてる会議室へと向かう。二人とも中に入ると、パイセンは抜かりなく鍵をかけた。

ワクワクはしてるんだけど、なんだろう、思ったより神妙な雰囲気だ。見慣れた会議室なのに、少し肌寒く感じるのは気のせいだろうか。

「誰にも言わないでくださいね」

そう言ってパイセンは、ウサミミ型のポーチから茶色の小瓶を取り出した。一般的な栄養ドリンクを彷彿させるが、ラベルは貼られていない。
「んーーと、これは……?」
お手上げのポーズを取ると、パイセンはその小瓶を私に渡した。中を覗くと、ゆっくりと液体が揺れている。

「顔パックなんかもしているんですけど……どうしても肌が荒れたり、疲れが取れない時はそれを飲んで、回復してるんです」

「これを飲むと〜……?もしかして、若返り出来ちゃったり?」

「その通りです!」

瓶の中身を揺らしていた手先が止まる。ぶわっと鳥肌が広がり、寒気が一層ひどくなる。

「そ、そんな嘘はノースイーティー……っすよ」

「一瓶飲めばおおよそ一歳分若返り出来る。これは、そういうお薬なんですよ」
289 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:22:06.70 ID:iKH7pqC/0
パイセンの目は、人を騙そうとする意地悪な目じゃない。しかし、こんな荒唐無稽なことを信じるというのも、いくらパイセンが相手とはいえ。

……まさか、パイセンも騙されている? 

最近は水素水やら怪しい物が流行っているから、ただの栄養ドリンクを高値で買わされていてもおかしくない。

パイセン、こんな詐欺に騙されるくらいキャラを維持するために悩んでいたんだ。

私が目を覚まさせてあげないと……。

「あっ、別に騙されているわけじゃありませんよ!」

心の内を見透かされたようで、びくっと肩が上がる。

「べ、別にパイセンを疑っているわけじゃ……」

「目が、とても心配そうだったので」

気持ちは分かりますよ、と私の懸念までカバーされてしまうといよいよ立つ瀬がなくなる。

「菜々も、初めは疑いましたよ。ある日突然、家のドアを開けたすぐそこに小箱が置いてあって、その中にこれがいくつか入ってて、そんなの怪しいですしすごくびっくりしましたし」

「えっ、じゃあこれ差出人分からないんすか!?」

つい大きな声が出てしまい、慌てながらパイセンがしーっ、しーっと口の前に人差し指を立てる。

しかし、アイドルにとって住所が特定されるということは非常事態だ。

そのことくらい、パイセンも分かってるはずだけど……。

「箱の中に書き置きみたいなのはありましたけど、そこにも何も……」

「書き置き?なんて書いてあったんですか?」

そう言われてパイセンはもう一度ポーチの中を漁る。

少し経って、しわのついた紙きれを取り出した。見る限りは変哲のない紙だ。

「えーと……『年齢を保ち続ける貴方の一助になりますように』って初めに書いてあって、それからはこの液体の説明ばっかりですね、やっぱり」


私は考え込む。文面的に、やはり送った人物はパイセンの知識をある程度知った上でこの得体のしれない小瓶セットを送っている。

ストーキング目的にしては、やや行動がずれているが。
290 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:23:56.78 ID:iKH7pqC/0
「あ、忘れてました。これ、副作用あるんですよ」

「ひどい頭痛がくるとかですか?」

ぶぶーっ、と得意気に返される。何に得意気になっているのかは不明だが、可愛い。

「これを飲むと、一年分若返る代わりに」

一拍。

「一年、寿命が縮まるんです」

「やっぱり危ない薬じゃないですか!こんなの捨てましょ!」

「ああーっ、ちょっと待ってくださいっ、待って、ノウッ!」

小瓶を持って外に出ようとすると、後ろからパイセンにぐいぐいと引っ張られる。

服を掴まれているから、このままじゃベロベロに伸びてしまう。

しぶしぶ立ち止まり、瓶の底でこつんとパイセンの頭を叩く。思ったより小気味いい音が響いた。

無言で頭を押さえるパイセンも、小動物めいてて可愛い。

「勢いついちゃったぞ☆てへっ☆」

上目で睨まれる。

「……すんません」

「もーーっ!痛かったんですからね!」

「それでも、飲み続けてたら早死にする代物なんてロクでもないっすよ。……ていうかパイセン飲んだんすかこれ?」

照れくさそうに指を二本立てる。照れる場面ではないんだけれども。
291 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:26:18.87 ID:iKH7pqC/0
「早苗さんとかと遅くまで飲んじゃって、どうしても肌荒れが治まらなかった時に、栄養ドリンクと間違っちゃって……」

「大丈夫だったんですか?」

縛った髪をぴょこっと揺らして彼女は頷く。

「それはそれは凄い効果でした。身体全体で若返りを感じるんです。こう、キュピ―ン!って感じで、さながらメルヘンチェンジしたかのように……」

「あーわかったわかりました」

効果は絶大らしい。真に迫る表情からそれが伝わってくる。

興奮してぴょんぴょん跳ねるウサギを宥めながら、段々湧き上がる怪しい液体への興味を、温い手汗とともに感じていた。

「その顔は信じてませんね!肌がほんとに一年分若返るんです!ダンスだって、一年前に踊ることの出来た時間まで踊り続けられたんです!」

「え、ずっと体力持つのは一時間じゃないんすか?」

「実は年々少なくなってるんです。今年は去年より29秒縮まりました……」

マラソン選手かよ。そう言いかけたが、本気でしょんぼりしているパイセンにそんな軽口は、ノースィーティーだ。

しかし、ウサミン星人の実態もさることながら、効果らしきものはありそうだ。

最近階段を急いで駆け上がったら動悸が激しくなってしまった私にとって、充分魅力的な特効薬だった。

「本当に寿命が縮まるのは怖いですから、結局二本しか飲んでいないんですが、本当に困っているなら一本どうですか?」

そう言ってパイセンが小瓶を渡す。

少しためらったが、私の手に再び謎の薬が戻ってきた。

数々のアンチエイジングを試してはやめてきた私にとって、またとないチャンスかもしれない。

この液体が、私の救世主となるか、はたまた死神となるか。

この選択は、賭けだ。それなら……。

292 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:28:53.94 ID:iKH7pqC/0
「おおっ!?」

パイセンが素っ頓狂な声をあげたのもつかの間、私は瓶のふたを開けて、そのまま一気に飲み干した。

味を思い出そうとする前に、眩暈がきた。

経験したことの無いような、まるで大型地震に巻き込まれたように、天と地があやふやになる。

今どこにいるのか分からなっていく。

「あっ!」

パイセンの声と身体への衝撃で、自分が倒れたのだと分かる。床の冷たさに体温まで奪われていく。

視界のほとんどが闇に包まれていく。

そして、私の身体に頼りない糸でぶら下がっていた意識も、ぷつんと、容易く切れて消えていく。

何故だろう。もしかしたら、私の寿命は残り一年未満だったのかもしれない。

それなら、馬鹿なことをしてしまった。

いや、これでいいのかもしれない。楽をして美を得ようとした罰なのだろう。

パイセンは、努力と最善を尽くした上で、どうしようもなくなった時の最終手段としてしか服用していなかった。

やっぱ、パイセンには敵わないな……。
「……なさい」

もっと、努力すれ良かったかなぁ。私なりにしていたと思っていたけれど。

「……きなさい」

ああ、次もし生まれ変わったら、もっとスイーティーなアイドル目指して、がんば……。





「起きなさい、心!!!」

顔面に容赦ない衝撃が刺さる。ぼやけた視界に、新聞か雑誌を丸めたものが映る。


「あれ……?」
293 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:32:18.74 ID:iKH7pqC/0
死んでいない。

身体の下の慣れた感触は、畳のざらざらだった。

木目上の天井にも、見覚えがある。

身体を見回しても、服装がTシャツ一枚とひどくよれたジャージズボンに変わっているだけで、他に変化はない。

「なにぼーっとしとるか!ゴミ捨ててきんしゃい!」

怒号と共に大きいゴミ袋が二つ飛んでくる。

アイドルがこんな格好で外出たらダメだろ、と着替えようとすると、

「いつもそんなんでゴミ捨て行っとる!」

と、謎のおばさんに睨まれてしまった。

と、いうか。謎のおばさんっていうか。
どっからどう見ても私のお母さんだ。見覚えのある部屋も、ここが私の実家なら説明がつく。

しかし、全く納得はできない。

混乱したままの頭で、外に放り出される。

終わりかけとは思えない日照りが、アスファルトも草も関係なく照らしている。

ゴミ袋は意外に重く、少しの距離でも汗が垂れる。

って、こんなことをしている場合じゃない。一体何が起こったのかを突き止めて、事務所へ戻らないといけないのに。

その時、タイミングよくポケットのスマホが震えた。藁にも縋る思いで、通話に応じる。

「あ、もしもし!今、どうなってる?」

「パイセン!!」

私は感激の言葉を飲み込んで、状況を細かく話す。

「なるほど……。大体何が起こったのか分かりました」

「ほんとっすか!?」

やっぱりパイセンは頼りになる。

「やはりあの薬は、本物なんですね。はぁとちゃん、やっぱりあなたは寿命が尽きてしまったんです」

諭すような彼女の口調で言われても、その意味を飲み込めない。

「でもはぁとは死んでないぞ☆ 現にこうやって通話出来てるじゃないすか!」

「年齢の、じゃないんです」

一呼吸おいて、再びパイセンが言う。


「アイドルとしての、です」
294 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:32:51.68 ID:iKH7pqC/0
おしまい

ありがとうございました
295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/10/01(日) 10:57:18.95 ID:wj96qBmlo
アイドルとしての寿命も一年未満やったんかい……

296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:50:49.22 ID:F2x1bood0
短いですが投稿させていただきます。よろしくお願いします
297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:51:17.66 ID:F2x1bood0
初めまして。○○大学の文学部に所属している鷺沢文香といいます。趣味は読書です。昔から本を読むのが好きだったので文学部を志望しました。

最近、同じ学部の方に勧められて自分でも物語を綴ることを始めてみました。彼女曰く「自分だけの物語を書いてみるのは楽しいよ。体験談なんか入れてみると感情移入がしやすいから筆も進むしね♪」とのことでした。
298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:51:52.49 ID:F2x1bood0
「君、アイドルとか興味ない?」

眼鏡を掛けた明るいスーツの男性は私、鶯琴香の手を握りながら興奮気味に尋ねてきた。

「あの…ええと…」

答えあぐねている私に男性は続ける。

「大丈夫!大丈夫!見学してからでいいからさ!連絡先を渡しておくからいつでも連絡してきてよ!じゃあね!」

男性はアイドルのプロデューサーらしく所属事務所はCGプロダクション。CGプロダクションといえば人気アイドルを何人も輩出している大手で芸能界に疎い私でも知っている。
299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:52:32.30 ID:F2x1bood0






今日はここまでにしておきましょう。明日もう一度見直してみて不要な部分を無くせば読めるものにはなると思います。いつか『私』の物語を読んでくれる人もいるのでしょうか。その日が来るかは分かりませんが。

「まさか来てくれるとは思わなかったよー!! 嬉しいなぁ。ささ!座って、座って!京子ー!お茶を入れてもらっていいか?それに摘める位のお菓子も!」

名刺に書いてあったCGプロダクションを訪れるとそこには何人もアイドルが雑談をしたり、テレビを見たり、電話をしたりとそれぞれが楽しそうに過ごしていた。

「あの…それでアイドルのことなんですけど…お誘いお受けしようと思います。ご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願いしますね。プロデューサーさん」

「本当にかい?やった!今日はパーティーだ!ヒャッホウ!」

プロデューサーさんは嬉しそうに跳ねながら手を叩き、アイドルはその様子を見て茶化し、それにプロデューサーさんが「なんだよ!!」と突っ込んだりとプロダクション内の雰囲気は明るいものだった。
300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:53:16.33 ID:F2x1bood0
『私』もこのプロダクションの一員でいることができるんでしょうか?少し不安です。
301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:54:02.58 ID:F2x1bood0





「プロデューサーさん…引っ込み思案で何事にも怯えていた私をここまで引っ張ってきてくれたのは貴方です。月が綺麗ですね」

月が照らすのは私達2人だけ。ライトも無い丘の上で『私』はプロデューサーさんに自らの思いを告げる。

「ごめん、君の好意は受け取れない。俺は好きな人がいるんだ。だから…ごめん」

いつも戯けているプロデューサーさんは真面目な表情で『私』見つめる。その眼は『私』ではなく他の子を見ているのだろう。
302 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:54:46.86 ID:F2x1bood0
悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。クヤシイ。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。

ダカラ
303 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:55:41.98 ID:F2x1bood0
「私こそゴメンナサイ。でもずぅっと一緒、ですよ?」

プロデューサーさんの首筋に2つの牙を持った電気を帯びているスタンガンを当てる。首筋に当たるとそれはパチリと強く光りプロデューサーさんの意識を刈り取った。
304 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:56:19.20 ID:F2x1bood0




「おい、文香!これは何のつもりだ!離せ!この!くそッ!」

檻に必死に掴みかかって『私』に吠えるプロデューサーさん。ああ、なんて可愛らしいのだろう。今は彼の眼は『私』を見ていないが何れはきっと『私』のことしか考えられなくなるだろう。ライターで錐の先端を炙りながら考えていた。
305 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:56:47.45 ID:F2x1bood0
「ああ、文香!文香ぁ!どこに行っていたんだ!寂しかったよぉ…なんで2週間も会ってくれなかったんだ…暗いし寂しいし死にそうだったよ」

ぽっかりと空いた眼孔が『私』を見つめる。これが欲しかった。プロデューサーさんの眼の入った瓶を撫でる。食べてしまいたいほど可愛らしい。

「大丈夫ですよ、プロデューサーさん。『私』だけが貴方のアイドルなんですから。だから貴方も『私』だけをミテクダサイネ?」

『私』だけの物語(プロデューサーさん)。読んでくれる人は1人だけ。作者と読者だけでいい。その関係が続く限り2人の世界は永遠なのだから。
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 19:57:17.05 ID:F2x1bood0
これにて投下は終わりです。ここまで読んでいただきありがとうございました
307 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/10/04(水) 20:07:19.39 ID:F2x1bood0
忘れていました。タイトルは「うつろ」です
308 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 20:29:08.28 ID:4vaHGXF9O
上げさせていただきます。少し解釈が異なる場合があります。ご注意ください。
309 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 20:30:57.94 ID:4vaHGXF9O
ちひろ「あーあ、この前古本屋で買った紅白シマシマおじさんを探す絵本、答えに赤いマジックでバツがついちゃってる……あ、もうカメラ回ってますか?……コホンッ」


ちひろ「さて、『耳だけ極楽』というお話があります。念仏を聴いた『だけ』で実行はせず、知った気になった男。彼は死後、耳だけ天国に行き、体は地獄に落ちてしまった……そんなお話」


ちひろ「知ったつもりというものは恐ろしいもので、自分はそれを理解していると思い込んでしまうため、それ以上その知識に深く入り込もうと思わない」


ちひろ「場合によっては本当の知識を教えられてもそれを信じることが出来ない、酷いときはそれを嘲笑って断ずる」


ちひろ「これは案外誰にでも起こり得る弊害です。人間は中途半端に頭のいい生き物ですからね」


ちひろ「間違い探しなんて良い例です。一度は思ったことありませんか?『◯つも間違いなんてないよ』と。全部みた つ も りになっているんですね。俗にいうアハ体験などの『変化』も同様で、中々気付けない」


ちひろ「ここで大事なのは、テーブルの上の間違いより先に、自分というそれに気付くこと。決してそのままにしてはいけません」


ちひろ「放置された自分という『間違い』は真実に届くことはなく、それどころか無意識のうちに新しい『間違い』を生み出し肥大化し……」


ちひろ「そのうち、この絵本のように……ふふ♪」


『まちがいさがし』
310 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 20:37:35.57 ID:4vaHGXF9O
注・P視点でお送りします。


ガチャリ、という金属音が無人の事務所に響く。


「おはよーございまーす、と……一番乗りだな。さて仕事仕事」


最近現場に出ることが多かったせいか、書類仕事がたまりにたまってしまっているので今日は一日デスクワークだ。俺は現場の方が性に合うのか事務仕事は苦手なのでこうして早めの出勤というわけだ。


「社畜はつらいよっと。書類は引き出しにためてあるから……ん?なんだこれ」


いつもの席に着くと、俺の机の上に明らかに仕事とは関係のない陽気な文面の紙切れが置いてあり、そこにはこう書いてあった


『チキチキ☆抜き打ち間違い探し・全4問


全問正解→おめでとうございます!あなたはアイドルのみんなから信頼してもらえる立派はプロデューサーです


3問正解→惜しい!あなたは特に大きな歪みもなくアイドルを導けるプロデューサーです


2問正解→ピンチ!あなたはアイドルたちと何度もすれ違いをしますが、上手く取り繕うことはできるプロデューサーです


1問正解→残念!あなたはアイドルをトップに連れて行くのにはちょっと相応しくないプロデューサーです


では、頑張ってください!


※明確な間違いがある以上、言い訳等は一切受け付けません』


ひょうきんな書き味とは裏腹に結構物騒な物言だなぁ、と思いながらその文章を読み終えた。


そんなことより、間違い探し?周りを見回してみるが問題のようなものは見当たらない。ちひろさんの悪戯か?いや、彼女は昨日から二日間の出張だ。


……まぁ一応注意しておこう。なにかあったら自然にわかるだろうし。


おっと開始が遅れた。さーて、仕事だ仕事。
311 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 20:43:03.59 ID:4vaHGXF9O
ーーーーーーーーーーーーー

ガチャ


「おーすプロデューサー、今日は随分早いな?」


「おう、おはよう拓海。今日はやることが山積みなんでな」


そういいつつ目の前の担当アイドルの一人、元ヤンアイドル向井拓海の方を向く。……間違いとか特にはないな。別に顔が里奈ってわけでもないし、胸部が減ってたりもしてない。


「……ジロジロ見てんじゃねぇ、殴んぞ?」


よし、本物だ。


「すまんすまん。あれ、今日のレッスンってこんな朝からだったか?」


「話逸らしやがって……おう、本当はレッスンまでもうちょっと時間があるんだけどよ、ちょっと調子がいいんで自主練しときたくて、昨日の宿泊先から直で原付きトバしてきた!」


「昨日……たしか海辺での撮影か。うまくやれたか?」


「最高!水着でバイク乗り回す気持ちよさったらねぇぜ!」


「お、おう。海の方はどうだった?」


「あぁ!流石のアタシも海とあったらこの身朽ち果てるまで泳ぎ回るしかねぇってもんよ!」


「で、朽ち果て過ぎて早苗さんに投げ飛ばされたと」


「い、言うな馬鹿!」


「ははっ、拓海らしいよ」


「……おう。じゃ、ちょっくら行ってくる」


P「おう、行ってら〜」


バタン


……なんか最後素っ気ない態度取られたか?まぁそんなお年頃ってやつだろう。


別に事務所とかに異常があるわけでもなさそうだし、拓海もいつも通りだったし……やっぱりイタズラか何かだろう。


ブブーッ
312 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 20:48:38.43 ID:4vaHGXF9O
拓海が出かけて1時間ほど経った頃。


ガチャッ


「プロデューサー、おっはよ〜★」


と、若く元気に満ち溢れた声で挨拶してくれたのはカリスマJKアイドル城ヶ崎美嘉の妹、ちびギャルアイドル城ヶ崎莉嘉だ。


「おう、莉嘉か、おはよう」


「……うん!今日は凸レーションでミニライブだよね!?プロデューサーは来るの!?」


「すまん、俺は今日は一日ここでデスクワークなんだ。きらりの言うことをちゃんと聞くんだぞ?」


「そっか……わかった!絶対盛り上げてくるからプロデューサーも頑張ってね!」


「おう!成功するって信じてるぞ!みんなの力は俺がよくわかってるからな!」


「……」


まるで落ち着かない子犬のようにはしゃいでいた莉嘉が急にその挙動を止めた。


「?どうかしたか?」


「ホントに?」


「?」


「プロデューサー、本当にアタシたちのことわかってくれてる?」


「……勿論」


彼女たちのことを考えなかったことなんて殆どない。それだけは誓って言える。


「……お仕事行ってくるね」


そう一言告げ、自慢の金色のツインテールを揺らしながら仕事に向かってしまった。


……拓海と同じだ。話が終わって出ていくときになると元気がなくなっているように見える。となれば、もっと現場までついていった方がいいのかも知れない。


ブブーッ
313 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 20:53:55.43 ID:4vaHGXF9O
昼過ぎ。今日は忙しいのでカロリーとメイトになれる食品で昼食を済ませた。


バターン


「おはようございます。ふふーん、かわいい僕の出社ですよー」


「おはよう、幸子。というわけで巴とイチゴパスタ食レポ行ってら」


「え、僕そんなの聞いてませんよというか誰ですかこの真っ黒な人たちは待ってくださ」


ずるずる、と引き摺られていく幸子。幸子のために村上家のちょっぴりゴツいお兄さん方に送迎をお願いしておいたのだ。


次は何をさせようか……楽屋のお茶請けに百味ビーンズとかを仕込むドッキリとかいいかもしれない。


ブブーッ
314 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:04:54.00 ID:Q2Ts9Z3PO
カロリーとメイトになりきれなかったのか、結局おやつにたらふく菓子を摘んでしまった午後三時過ぎ。


「こんちわーす……」


その挨拶とともにオレンジ色の髪と緑ジャージに眼鏡……もといオタク系アイドルの荒木比奈がひょっこり顔を出す。


「おう、比奈か。今日は春菜と一緒に◯◯さんとこで打ち合わせだっけか」


「そうっす。その事でプロデューサーさんに相談があるんすけど……」


「相談?なんだ?」


「今度の春菜ちゃんとのステージなんすけど、眼鏡で出たいなーって……」


「んー……?お前は前までの自分を抜け出したくて眼鏡を取ったんじゃないのか?」


「いやーそうなんすけど、たまにはありのままの自分をさらけ出してみるのも良いんじゃないかなって」


「比奈」


「はい?」


「そんな生半可なスタンスで自分を変えるなんて言ってたのか?違うだろ?お前のコンタクトは変化の象徴だ。そのままでいい」


「で、でも、春菜ちゃんも眼鏡があった方がいいって」


「春菜には俺から話をつける。とにかく、意志を捻じ曲げるような言動には気をつけて欲しい」


「は、はいっす。じゃあお仕事行ってきます……」


バタン


……ふぅ、我ながらかなり険しく接してしまった。けど、彼女はステージでは眼鏡を取り、それ以外では普段通りの眼鏡。それが彼女の求めた彼女。それが荒木比奈であるべきなんだ。


ブッブーー


……今日はちょっとスピーカーの調子が悪いのかよく雑音が鳴る。クイズ番組の不正解時に流れるSEに似ていると思ったが、まぁ単なるノイズだろう。今日の俺はミスをしていない。
315 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:14:32.08 ID:Q2Ts9Z3PO
「ふぅ……と、もうこんな時間か」


気がつくと外は既に夜が更けてしまっていた。早めに始めたからか、定時+ちょっぴりで退社できそうだ。


「今日はもう戸締りしちゃっていいかなっと」


そう独り言をいいつつ、俺は事務所の窓を閉め、電気を消して回る。


「しかしこの紙は結局なんだったんだ……?」


そう呟き、朝机の上にわかりやすく乗っていた紙を改めて見つめる。変なことがあったとすればどこからともなく雑音が響いたことくらいだが、それが間違いとでもいうのか?やっぱり単なるイタズラだったのか。


ガチャリ


「仮眠室は……うん、誰も残っていないな」


とは言え、もしこれが関係者ではなく部外者によるものだったとしたら不味いし、警備体制強めた方がいいか?なんて考えつつ事務所を後にし


くらっ


ーーーようとしたところで、視界が180度回転した


「……っ!?」


何が起こったのかさっぱりわからない。理解できることといえば、今自分は確実に倒れているだろうということくらいか。


「あれ?疲れ、てんの、か……」


今日は一日中デスクワークだからな、とは思ったが流石にこれは異常だ。


「(仕方ない……今日はここで寝よう)」


幸いなことに今俺は仮眠室のドアを開けたところにいる。止むを得ず、床を這ってソファーによじ登った。


『結果発表……全問不正解。
残念です。あなたとアイドルの絆は頂点に立つ前に必ず千切れます。そうなる前に……



さようなら』


何か聴こえた気がしたが頭には入ってこない。どれが地面でどれが空なのかもわからずただ眩む視界の中、意識が薄れていく感覚だけがあった。
316 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:20:22.33 ID:Q2Ts9Z3PO
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317 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:24:42.88 ID:Q2Ts9Z3PO
undefined
318 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:27:02.53 ID:Q2Ts9Z3PO
翌日、カーペットにボディプレスをかましたところで目が醒める。いつもの俺の家ではない。



「いてて……んー、そうだ、昨日急に眠くなったもんだから事務所で寝たんだった」


最近は仕事が安定していたため、仮眠室を使うのは久々だったが、起きて直接出社できるのもたまには悪くない。


「もうちひろさんあたりは来てる頃かなっと」


今日は結構みんなの仕事に同行できるし、できるだけコミュニケーションを取っていければ昨日の素っ気ない態度も改善できるだろう。

ガチャ


「おはようございまー……す……」


仮眠室の鍵を開け、朝の挨拶をすると


「……おはようございます。失礼ですが、どちら様でしょうか……?」


俺が昨日まで座っていた席に見知らぬ男がいた。お客様だろうか?それにしてはまるでここの社員と言わんばかりの雰囲気が気に入らない。もしかしてここの新人か?そんな話は聞いていないが


「えっと、自分はここのプロデューサーですが……あなたこそどなたですか?」


仕方ないので自己紹介をすると、目の前の男は納得するどころか更に怪訝な表情を浮かべ


「……?ちひろさーん?」


と、うちの事務員と同じ名を呼んだ。


「はーい?」


俺のよく知るふんわりとした口調で出てきたのはやはり俺のよく知る顔立ちと蛍光色がやや眩しい制服を着た千川ちひろさん。
319 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:31:18.21 ID:Q2Ts9Z3PO
「ちひろさん!誰ですかこの人は!新人にしても勝手に俺の席に座るなんて常識がないんじゃないですか!?」


理解が追いつかないのと、寝起きだからか口調が乱暴になってしまう。


「……えっと?」


……その反応はどういう意味ですか?何故俺の方を向いて怯えている?不審者はそっちの男じゃないんですか?


「……なんですか?まるで、俺のこと知らないみたいな……反応して……」


そう言葉を絞り出す。同時に嫌な予感が頭に引っ付いてどうしても取れない。待ってくれ、その答えだけは



「……此方では彼以外のプロデューサーは雇っておりません。従ってあなたのような方も存じ上げません」


最後の望みはすこぶるたやすく砕け散った。


「だそうです。何故貴方が仮眠室から出てきたのかは不明ですが、当方としましても大事にして信用を失っても不都合です。今回の件は不問と致しますので、どうかお引き取りをお願いします」


「……は?……え?はい、大変失礼しました……?」


生まれて初めて、ものの数分で全てを没収される喪失感というものを味わった。出来ることなら未経験で終わっておきたかった。
320 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:38:37.64 ID:Q2Ts9Z3PO
ーーーーーーーーーーーーーーーーー


……あれから呆然とした意識が戻らないまま、早朝から公園に佇んでいる。失職者かよ。……その通りだった。


陣中が未だに痛む。あの後事務所に入ってきた拓海に思いっきり叩き込まれたものだ。


『拓海!!お前は俺の事覚えてるよな!?長い付き合いだろ!?』


彼女の両肩を思いっきり掴んでそう叫んだ。返事はグーパンだった。俺が知らない男にこんなことされたら絶対そうする。こっちが訴えたところで正当防衛が成立するだろう。


「そうだ、連絡先は……」


スマホを取り出し、通話アプリを開く


「……一人くらい残っててもいいもんだろうがよ……」


まるで俺がプロデューサーだったのが全部夢だとでも言いたげに、俺のスマホからはアイドル関係の一切合切が消えてしまっていた。


「……ん?メール?」


ふとメール一覧を確認すると、『答え合わせ』というタイトルのメールがあり、動画が一本添付されていた。
321 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 21:50:01.95 ID:Q2Ts9Z3PO
その動画を再生してみると、そこには事務所が映し出されていて、昨日俺が話をしたアイドルたちとコミュニケーションを取っていた。


『「おーす、プロデューサー」


「向井さん、おはようございます。海辺での収録、お疲れ様でした。すみません、泳げないのを知っていながらこんな仕事をあててしまって」


「恥ずかしいから言ってくれんな……いーんだよ、すぐ助けてもらったし、楽しかったから」


「でしたら、幸いです」

ーーーーーーーーーーーーーーー

「プロデューサー、おっはよ〜★」


「おはようございます。その口調はお姉さんの真似ですか?」


「あったりー!Pくんすごーい☆」ギュッ

ーーーーーーーーーーーーーーー


「おはようっす、プロデューサー」


「おはようございます。おや、荒木さんは吉岡さんの真似ですかね。……そうだ、この前伺ったサイバーグラスの企画通りましたよ!」


「おぉ!流石プロデューサーっス!春菜ちゃんも喜びまス!」

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「かわいい僕がやってきましたよ」ばーん


「おはようございます。輿水さんは……少し雰囲気が柔らかくなりましたね。ですが、僕は以前の自信に満ちた輿水さんの方が好きですかね」


「……フフーン!それでこそカワイイボクにふさわしいプロデューサーさんです!」


「はい、そちらの方がカワイイですよ」


「そうでしょうそうでしょう!よーく分かってるじゃないですか!」


「そしてそんなカワイイ輿水さんには、バラエティ方面一切ナシのソロライブの企画書をお持ちしました!」


「……わぁ……!お任せください!カワイイボクが最高のステージにしてあげますから!」』
322 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 22:04:26.65 ID:Q2Ts9Z3PO
動画はここで終わった。


「え?間違いって……そういうやつ……?そんなの、小さなもんd」


言おうとして、すぐにその口を塞いだ。ナイフがあったら今すぐこの口を切り落としてやりたい。


「まさか、俺は、俺は……」


昨日の俺は、それ以前の俺は。気付く。気付くさ。あれだけやれば流石に。あれだけやってようやく。


「あ、ぁああ……」


体の震えが止まらない。吐きそうだ。


昨日の記憶を反芻させる。俺は彼女たちに何をしていた?彼女たちにはこれが向いていると思い込んで新しいことを何もさせてこなかったんじゃないか?


ぷらん、と脱力した腕に力が戻ってこない。たぶん疲弊とは違うものだろう。


俺は昨日、間違いを間違いと気付けていない裏で、アイドルたちの意志・本質を理解し切れず、正しくない方向に導いていた。


いや、恐らく俺の方は昨日より前からずっと間違いを続けていたのだろう。


挙げ句の果てにはそれらを棚に上げ、間違いの存在すらわからなかったにも関わらず文句を吐こうとしたなんて、虫の良すぎる話は存在しない。


思えばこの間違い探しは俺にとってラストチャンスだった。これをきっかけに自分の思い込みを改めることが出来れば……もう少し未来は変わった……のかも知れない。


後悔先に立たずとはよく言ったもので、悔いて悔いて悔い終わった頃にはもう全てが終わってしまっていた。俺が今更何をしようが、彼女たちが進めていなかった時は今更巻き戻しようがない。


「……本当の間違いは俺だった……」


微塵もかっこよくない台詞を吐き捨てる。気付けば俺の足はとある場所を目指して力なく歩きだしていた。
323 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 22:16:40.77 ID:Q2Ts9Z3PO
マンションの自分の部屋の前に立つと、俺の部屋には違う苗字……恐らくあの男の名前が表札に刻まれていた。まぁそうだろうなと予感はさせていた俺はまだふらついた意識の中で、階段を登っている。元々帰るつもりはなかった。


コツ、コツ、コツ


「(……あの苗字。あの男、どこかで見たと思ったら以前入って半年もせずにウチを辞めた奴だ)」


カチャ、ドンッ!ガコッ!!


……この場所には行ったことがなかったからわからなかったが、結構立て付け悪かったんだな、このドア。


「(……そうだ、アイツは入って数ヶ月もしないうちに俺から担当を引き継いだ娘に大きな仕事を持ってきた)」


カツ、カツ、カツ


誰もいない場所だからか、革靴が地面を叩く度に少し心地のいい音が響く。


「(俺は正直彼に嫉妬した。だからその担当アイドルを下げる風潮をネットに流し、プロデューサーの方は担当についてのちょっとした解釈違いに対してしつこく口出しし、言いふらしもした。その結果彼は自分から辞めていった)」


ヒュゥ、と向かってくる風が、吹き出る汗を乾かし、体がだんだん冷えていくのがわかる。


「(……なにがその子らしさだ。自分の理想を押し付けただけじゃないか。彼女らが変わろうとしていたら即刻否定。現状維持にはしる。だから未だに凸レーションに固執する。だから比奈の成長を促してやれない。幸子にはバラエティばかり取らせる)」


どの道、もう俺には彼女を導く資格はないし、むしろ彼が先導を切って進む今こそが、あのプロダクションの本来の姿だったのだろう。


だから


とんっ



間違いは、紅く塗りつぶすとこにした。



ぐしゃっ


『終わり』
324 : ◆/tT5hkyI4g [saga]:2017/10/04(水) 22:20:04.69 ID:Q2Ts9Z3PO
終わりです、ありがとうございました。
325 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:43:21.19 ID:MPbYTksVO



卯月「もう一人の私がやっておいてくれたらいいのに」

卯月「皆さんは、そういう事を考えた事はありませんか?」

卯月「夏休みの宿題、もう一人の私がやっておいてくれれば気兼ねなく遊べるのに」

卯月「テスト前の勉強、もう一人の私がやっておいてくれれば徹夜せず寝られるのに」

卯月「体力測定のマラソン、もう一人の私がやっておいてくれれば疲れずに済むのに」

卯月「なんでも言う事を聞いてくれるもう一人の私がいたら、とっても楽に毎日を過ごせると思うんです!」

卯月「でも、もし本当にそうなったんだとしたら」

卯月「……少し、不安になりませんか?」

『another our』
326 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:44:09.73 ID:MPbYTksVO




 こんにちは、島村卯月です!

 最近は少しずつ暑さが薄れてきて、過ごしやすい日々が続いてますね。
 夏休みはもう終わっちゃいましたけど、もうすぐまた連休がきます。
 何しようかな。
 せっかくの三連休なんですから、楽しまないと勿体無いです!

 ……なんて、言ってる場合じゃないんです。

 目の前に積み上げられた問題集が、机と私の心に強い圧力を掛けます。
 明日から中間テストなんですよね。
 こんなことなら夏休みももっとちゃんと勉強しておけばよかったのに……
 なんて、後の祭りすぎますよね。

 もっと言うと、この宿題は一週間前に出されたんだから少しずつやっておけば良かったんですが。
 テスト前の宿題っていっぱいありますし……
 でもお仕事忙しかったし、夜はお友達と電話したいもん……

「終わらない……ママー!」

 呼んでも助けなんて来ません。
 当たり前ですよね、もう深夜2時になっちゃってるもん……
 眠いけど、早く終わらせなきゃ……
 でも、そろそろ寝ないと明日起きられない……

「うーん、もう一人の私がやっておいてくれればいいのに」

 疲れてるんでしょうか。
 でも、こういう状況になると多分みなさんも考えた事があると思うんです。
 私が寝てる間に、もう一人の私がやっておいてくれたらいいのになーって。

 ……うん!明日早く起きてやる事にします!

 目覚ましのアラームを五時半にセットして、私は布団に潜り込みます。
 目も身体も疲れていたからか、直ぐに私の意識は薄れていきました。

327 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:44:47.65 ID:MPbYTksVO




 ーーピピピッ!ピピピッ!

 うーん……あと五分……はっ!

 急いでスマホをつけると、表示された時刻は七時ジャスト。
 五時半から五分ごとに鳴り続けてたアラームの十九回目にしてようやく起きることが出来た私は、飛び起きて机に駆け寄りました。
 まずいです!宿題終わってないし今日のテスト範囲まだ復習し切れてません!

 どうしましょう!
 今からやって間に合うかな!
 それともいますぐ学校に行って友達に少し手伝って貰って……
 とにかく、早く着替えなきゃです!

 それにしても、なんだかすっごく身体が重いです……
 寝るの、いつもより遅かったからでしょうか……

 ……あれ?

 机の上に広げられた問題集。
 その解答欄全てに、答えが書き込まれていました。
 ペラペラとページを捲ると、それは最後のページまで同じで。
 要するに、私の宿題は終えられていて……

 ……私、寝る前に解き終えましたっけ?
 それともママがやってくれたんでしょうか?
 不思議です、どうしてでしょう?
 うーん……

 と、問題集を捲っていて気付いたんですけど、なんとなく全部の問題に見覚えがあるような気がします。
 こう、一回解いたことがある問題、みたいな感じで。
 って事はつまり……
 ……どういう事なんでしょう?

 あ、悩んでる暇はありませんでしたね!
 急いで支度して朝ごはんを食べて、私は学校へ向かいました。


328 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:45:31.02 ID:MPbYTksVO


 一限目は数学Bのテストです。
 開始のチャイムと共に問題用紙を捲れば、確率や数列の問題がズラリ。
 どうしよう、どの公式を使えばいいんだっけ……
 うーん……そもそも、公式がどんな式だったか覚えてないよ……

 ……あれ?

 公式を思い出せず、行き当たりばったりで解き進めていたんですが。
 何故か、解けました。
 なんででしょう?
 理解出来てなかった筈なのに、すらすらとはいかずもそこまでつっかからず答えまで辿り着けたんです。

 その後の問題も、何故かこうすれば解ける気がする、やなんとなくこんな感じかな……で解けて。
 最終的に、解答用紙のほとんどが埋まりました。

 授業で一度習っていたから、頭のどこかできちんと記憶されていたんでしょうか?
 それにしても、テスト問題に似た問題をつい最近解いた気もします。
 えっと……そうです、昨晩睨めっこしていた問題集ですね。
 でも、私は最後までは終わらせられなかったのに……

329 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:46:15.20 ID:MPbYTksVO



 私の疑問なんて知らないと言うかのように、テスト終了のチャイムは鳴りました。
 そして疑問だらけなのに解けてしまったテストの解答用紙が回収されてゆきます。
 そしてその後に、宿題だった問題集も回収されました。

「ねぇ卯月ちゃん、どーだった?」

「え、私ですか?!えっと……多分、埋める事は出来たかな」

「結構難しかったけど、宿題と殆ど同じ感じの問題だったよね」

「俺ノー勉だけど8割いったわ」

 テスト後の休憩時間中、クラスのお友達との言い訳合戦タイムです。
 でも、私の頭の中はそれどころではありませんでした。

 終わらせてない筈な問題集が終わってて。
 暗記した覚えのない公式を覚えてて。
 解いた覚えのない問題を、解いたことがある気がして。
 これって……

 ……睡眠学習?
 なんだか意味が違う気がします。
 えっと、つまり。
 これって……

 寝てる間に、もう一人の私がやっておいてくれた……?

 そうとしか思えません。
 でも、本当にそんな事なんてあるんでしょうか?
 確かに、朝起きたとき全然寝れてなかった感じはしましたけど……
 それは、本当に全然寝れてなかったから……?

 考えは全くまとまりませんでしたけど。
 その後のテストも、何故か大体解くことができました。

330 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:47:00.09 ID:MPbYTksVO



 テスト期間なので、レッスンはお休みです。
 家に帰ってお風呂に入った後、私は昨日と今日あったことを思い返しました。

 もし本当にもう一人の私がやっておいてくれたんだとしたら、それってとっても凄い事じゃありませんか?!
 だって、勉強しなくてもテストが解ける様になるんです!
 それに、宿題だって気にせず遊ぶこともできますし。
 あと、自分は徹夜しなくてもよくなって……

 さて、そんな事を考える私の前には。
 英語の教科書とノートと単語帳が広がっています。
 明日の最難関科目は英語ですから。
 少しでも沢山、英単語を覚えなきゃです。

 それに、英語のノートも提出しなきゃいけないんです。
 授業中に教科書の英文を和訳したところを、ノートに記入する。
 それ自体は別段大変な事じゃないんです。
 きちんと毎回授業に出てれば、ですけど。

 ……ノート、空白多いなぁ。

 お仕事で出席できなかった回の部分は、和訳をノートに書いていません。
 だから今から、教科書の英文を訳さなきゃいけなくって。
 運が悪い事に、英語の授業がある日は高頻度でお仕事がはいっていて。
 今から全部訳していたら、徹夜でもしない限り他の科目に手が回りません。

 うーん、取り敢えず少しずつ進めましょう。

 
331 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:47:31.48 ID:MPbYTksVO



「うぅ、終わらないよ……」

 時計の短い針が真上を差す頃。
 和訳作業は、大体六割くらいしか終わっていませんでした。
 まだ地理と国語もあるのに……
 あと英単語覚えて、古文単語覚えて……

 でも、そろそろ眠くなってきました。
 このまま続けても、きちんと頭に入る気がしません。
 今回こそ、明日早く起きてやりましょうか……

 ……あ、そうでした。
 もう一人の私がやっておいてくれれば、私は寝ても問題ないんじゃないでしょうか?

 そう考えた私は、さっそく布団に潜り込みました。
 もしダメだった時の場合に備えて、アラームは昨日と同じく五時半にセットします。

 お願いします!頑張って下さい、もう一人の私!

 自分自身に願いを託すと、私の意識は直ぐに薄れてゆきました。
 
332 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:48:04.93 ID:MPbYTksVO



 ピピピッ、ピピピッ。

 アラームの音で眼が覚めると、時刻は六時半でした。
 急いで英語のノートを開くと……やりました!
 全部和訳して記入されています!
 古文単語と英単語帳をペラペラ捲ると、何故だか大体覚えています!

 やっぱり、もう一人の私がやっておいてくれたんですね!
 その代わり、とっても眼と身体が重いですけど……
 五時半にアラームをセットしてあるのに私が今起きたって事は、ついさっきまで私は勉強していたのかもしれません。
 それでも、辛い過程を飛ばして結果だけで済むのはとてもありがたいです。

 意気揚々と学校へ向かい、テストに臨みます。
 解答欄は大方埋まりました。

333 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:48:40.51 ID:MPbYTksVO



 ……眠いです……

 ある日、事務所でレッスンが午前中も午後も入っている日の事です。
 昨晩かなり遅い時間までクラスの友達と通話しててとっても身体が重い日に、ニュージェネレーション三人でお喋りしながらレッスンルームへ向かっている時。
 凛ちゃんと未央ちゃんの声が時折遠く聞こえるくらい、私はかなり疲れていました。
 正直に言えば一時間くらい寝たいです。

 言い訳をさせて貰えるなら、昨日は学校でマラソンもあったんです。
 本当は、帰って直ぐ寝ようとしたんですけど……
 友達と少しおしゃべりしたくなっちゃって……
 遅くまで通話していた昨晩に後悔しつつ、私は歩きました。
 
「大丈夫?卯月」

「え?あ、はい!頑張ります!!」

 二人に迷惑かけちゃいけませんよね。
 でも、今のコンディションでレッスンして最後まで体力保つかな……コンディション管理はアイドルの必須要項なのに……
 反省して、今日はいつも以上に頑張らなきないけません。
 私たち三人のライブも近付いてきてますし。

 ……うぅ、どうせなら。
 このレッスンも、もう一人の自分が受けてくれればいいのに。

334 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:49:39.67 ID:MPbYTksVO



「お疲れ様、卯月」

「お疲れーしまむー!」

 ……え?

「あ、あれ?レッスンは……きゃっ!」

 気が付けば、私はレッスンルームの鏡の前に立っていて。
 突然襲いかかってきた疲労に、思わずその場で座り込んでしまいました。

「おっとっと、大丈夫?」

「さっきまで、あんなに頑張ってたからね。少しストレッチしよっか」

「え、えっと……レッスンは……」

「何言ってるのさしまむー、今丁度終わったところでしょ?」

 え?
 つ、つまり……

 また、もう一人の私がやっておいてくれたんでしょうか?

「それにしても凄かったね。卯月、いつもより動きがキビキビしてたって言うか……」

「うんうん!なんだか頑張り過ぎって感じもしたけどね。今になって疲労がきたのかな?」

「あ……え、そ、そうですね!もうすぐライブですから。島村卯月、頑張りました!」

 よくやく頭の整理が追いついてきました。
 やった記憶はありませんが、私たちの曲のダンスを完璧に覚えています。
 今ならバッチリ踊れそうです。
 その分、今になって一気に疲れが襲ってきましたけど。

「部屋に戻って、少し休んでから帰る?」

「そうですね……結構疲れちゃいました」

335 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:50:24.30 ID:MPbYTksVO



「三人ともお疲れ様。特に卯月、トレーナーさんが褒めてたぞ」

「お疲れ様、プロデューサー!」

「お疲れ様です、プロデューサーさん!」

 私たちの部屋に戻ると、プロデューサーさんが迎えてくれました。
 ライブが近付いてて私たちよりもハードな量の仕事をこなしている筈なのに、笑顔でこっちに手を振ってくれて。
 それだけで、私の心はあったかくなります。

「ね!ほんと凄かったんだよ、今日のしまむー!」

「あ、何か飲むか?今ちひろさんいないけど、俺でよければお茶淹れるぞ」

「あ、大丈夫です!私が……あれ?」

 自分が思っている以上に、私の身体は疲れているみたいです。
 座ったソファから立ち上がれませんでした。

「座ってなって、疲れてるだろ。時間あるなら少し寝てったらどうだ?」

「そうですね。すみません、少しだけ休ませて貰います」

 プロデューサーさんが淹れてくれたお茶を飲んで。
 凛ちゃんと未央ちゃんとお話ししてるうちに、気づけば私は夢の世界へ落ちていました。

336 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:52:32.44 ID:MPbYTksVO



 それから、私は事あるごとにもう一人の自分に押し付けてきました。

 模試前日の勉強や数学の予習。
 長距離走やシャトルラン。
 疲れた日のレッスンや苦手な俳優さんとの収録。
 そしてその全てを、もう一人の私は完璧な形でこなしてくれました。

 私は完全に依存しきっていました。
 都合の良い、全てを押し付けられる私自身に。

 なんて、楽な人生なんでしょう。
 なんて、苦のない人生なんでしょう。
 嫌なこと、辛いことを全て押し付けて。
 私はその結果だけを受け取ればいい、なんて。

 でも、やっぱり。
 私は不安でした。

 本当にこのまま、いつまでももう一人の私が存在してくれるんでしょうか?
 本当にこのまま、ズルし続ける人生でいいんでしょうか?
 ほかのみんなが頑張っているのに、私だけそれをしないでいいなんて。
 みんなが苦労しているからこその喜びを共有してる中、私だけそれを実感出来ないなんて。

337 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:53:11.56 ID:MPbYTksVO




 そして、ライブを二日後に控えた私は。
 今までで一番の悩みを抱えていました。

 それは、プロデューサーさんの事です。
 今まで一緒に進んできてくれたプロデューサーさんに、全てを打ち明けるかどうか。
 信じてもらえないかもしれないけど、怒られるかもしれないけど。
 これからは迷うことはあっても、きちんと自分自身の力で乗り越えます、と。

 たとえ何を言われても、どんな結果になっても。
 私は受け入れようと思っています。
 でも、その為には。
 私はきちんと、自分の言葉で打ち明けなきゃいけなくて……

 もう一人の自分が、私の代わりに打ち明けてくれれば……

 ……その考えを、やめなきゃいけないんですよね。
 でも、もうずっと頼りっきりで。
 今更自分を信じる事ができなくて。
 依存してる事は分かってても、抜け出すのは怖くて。

「どうしよう……私……」

 悩んで、考えて、決意は固まらなくて。
 眠りに落ちたのは、かなり遅い時間でした。

338 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:53:50.69 ID:MPbYTksVO



 朝、太陽の陽で私は目を覚ましました。
 アラームが鳴るまで、まだ三十分もあるくらいの時間です。
 遅くまで寝れなくて、目が重い筈なのに。
 いつもだったら、二度寝しようかな、なんて考える筈なのに。

 ……よし、頑張ります!

 心はどこか晴れ晴れとしていて、射し込む光は心地よいです。
 決意は固く、今にでも飛び出したいくらい。

 私は決めたんです!

 きちんと全てを伝えて、今後はちゃんと自分の力で乗り越える、って。
 今まででお世話になってきたもう一人の自分とはお別れして、自分を信じよう、って。
 ズルなんてせず、頑張って、今まで以上に頑張って。
 私は、島村卯月は、堂々とステージの上に立ちたい、って。

「行ってきます!」

 かなり早いですが、私はすぐ支度を終えて家を飛び出しました。
 いつも通っている道も、時間と気持ちが違えば全く別の風景です。
 その全てが心地よくて、なんだか楽しくなって。

 私は笑顔で、道を歩きました。


339 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:54:28.19 ID:MPbYTksVO



「おはよございます!島村卯月です!」

「お、おはよう卯月。早いじゃないか」

 事務所へ着くと、プロデューサーさんは既にパソコンとにらめっこしていました。
 こんなに早い時間から、プロデューサーさんは頑張ってたんですね。
 改めて、感謝の気持ちでいっぱいです。

「プロデューサーさん!少しだけ、お話ししてもいいですか?」

「ん、いいぞ」

 迷いはありません。
 心は変わりません。

 私は一切合切包み隠さず、今までの出来事を語りました。


340 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:55:13.76 ID:MPbYTksVO



「……なるほどな。俄かには信じがたいけど……でも、卯月はそれを俺に話してくれたんだな」

「はい!私、決めたんです。自力で乗り越えなきゃ、意味がありませんから!」

 自分と、プロデューサーさんと約束しました。
 きちんと自分で努力して、これからももっと輝きたいから。

 全てを伝えて、本当によかったです。
 悩んでクヨクヨしながら続けてても、きっと良い結果にはならなかったでしょうし。
 今は、とても心が軽いですから。
 
「ありがとう、卯月。俺は卯月のそう言うところが大好きだぞ」

「……えっ、あ、あの、それって……」

 ぷ、プロデューサーさんの事だから深い意味はないのかもしれませんが。
 もしかしたら、もしかしたりして……

「つまり、あの……!」

 プロデューサーさんは、私のことを……!

 と。

 そう、尋ねようとした時でした。
 

341 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:55:59.65 ID:MPbYTksVO


「……あ、あれ?私、なんで事務所に……?」

 私の口が、勝手に動きました。

「どうしたんだ?卯月。何かあったか?」

「……いえ!大丈夫です!」

 ……え?ど、どう言うことですか?!

 急いで頭をまわそうにも、別の思考に邪魔されました。
 唐突に、全く違う言葉と思いが頭に流れ込んできたんです。

『結局、頼っちゃったんですね。でも、これからは本当に自分の力で頑張りますから!』と。

 ……嘘、ですよね?
 私、自分で決意したつもりだったのに……
 自分で覚悟を決めて、自分の言葉で伝えたつもりだったのに……
 私は、押し付けられた側の……!

『それに、本当に今回は自分で決めた事ですから!もしかしたら、もう一人の私が力を貸してくれたんでしょうか?なら、もう大丈夫です!』

 ねぇ!
 私の頑張りは、全部作られたものだったんですか?!
 私の決意は、全部押し付けられたものだったんですか?!
 私は……!

『そろそろ、凛ちゃんと未央ちゃんも来ますよね。明日はライブですから!いつも以上に気をつけて通しのレッスンをしなきゃいけません!島村卯月、頑張ります!』

 届いてよ……!
 ねぇ、私!
 私が少しでも『もう一人の自分がやってくれたら』なんて考えたら。
 それだけで……!

 少しずつ、自分の意識が薄れてきました。
 体も、自分の意思では動きません。
 プロデューサーさんとお話しをする私は。
 とても、幸せそうで。


342 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:56:45.79 ID:MPbYTksVO


 ……い、嫌です!
 私、消えたくない……!

 もしかしたら、今まで押し付けてきた私もこうだったんでしょうか?
 願った私が、自分の意思だと思い込んで頑張って。
 新しい私が作られて、結果だけを受け取って。
 こんなのって……!

 そんなの嫌です!
 消えたくない!
 これからも沢山の私が消えていくなんて!
 そんなの……!

 やだ……!やだよ!
 誰か助けてよ!私を止めてよ!
 消えたくないよ……!怖いよ!

 私はーー!

343 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:57:24.00 ID:MPbYTksVO





「さ、頑張ってこい!」

「はい!島村卯月、頑張ります!」

 私たちのライブが始まります!
 さっきまで、緊張して足がすくんじゃって。
 もう一人の自分が、なんて考えちゃってましたけど。
 私は自分の力で乗り越えるって決めたんですから!

「最高のステージにしますから!プロデューサーさん、見ていて下さい!」


344 : ◆TDuorh6/aM [saga]:2017/10/04(水) 22:58:46.75 ID:MPbYTksVO

以上です
お付き合い、ありがとうございました

そろそろHTML化依頼を出してこようと思います
投稿して下さった方々、読んで下さった方々
本当に、ありがとうございました
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