【モバマスSS】世にも奇妙なシンデレラ

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195 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:11:45.64 ID:k1yJYnNv0
………
……


彼女をスカウトしたのは半ば勢いだった。

遠征先の慣れない土地で道に迷い、携帯の充電も切れあてもなく彷徨い行き着いた、人気のない廃ビルの立ち並ぶ一角。
あとで調べてわかったことだが、その辺は一昔前、所謂バブル経済の頃に建設されたまま放置されている商業区域らしかった。
行けども行けども打ちっぱなしのコンクリや剥き出しの鉄骨、投げ出された建設資材しかなく途方に暮れていたとき、かすかな足音が風に交ざって確かに聞こえたのだ。

人に会えたら道を尋ねることができる。最寄駅までの距離があるようなら、携帯を拝借してタクシーを呼ばせてもらおう……そんなことを思っていたが、足音の聞こえた方を向いたときそんな考えもすぐに吹っ飛んだ。

向いた目の前には4階建ての雑居ビルの影が伸びている。正確には、文字通りひとりの人影がくっ付いて。
影の元のビルを見上げると、金網もない屋上の縁に少女が立っていた。
つま先の裏がかろうじて見える。つまり、靴を履いていない。
196 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:14:59.24 ID:k1yJYnNv0
「待てッ!」


反射的に叫んだ。
屋上の少女はびくりと体を引いて、下からは見えなくなる。
と、恐る恐るといった風に小さな頭が伸びてきて覗き込んできた。
思った通り、まだ子供じゃないか。


「そのままそこにいろ! いまそっちに行くから、話をしよう!」

「話すことなんて……ないですよ……」


少女の返事。か細く、それでいてよく通る声だ。


「君になくても俺にはある! いいから待ってろ!」


わざわざ此方を伺いに顔まで出してくるのだから対話はできると踏んで、俺は少女の待つ廃ビルに駆け足で侵入する。
階段を一段とばしで駆け上がる。息が上がるのも構わず。
急げ。もっと急げ!
197 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:16:38.11 ID:k1yJYnNv0
屋上の扉を勢いよく開け放つと、日暮前の低くなった夕日に視界を奪われた。
目を細めた先、逆光の中立ち尽くす少女に訊く。


「まずは自己紹介。俺はアイドルのプロデューサーをやってる者だ……君の名前は?」

「私は……白菊ほたる、です……」


こうして、俺はほたると出逢ったのだ。
198 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:19:03.65 ID:k1yJYnNv0
何が幸せで不幸せかなんてものは一概には言えないのだろうが、それでも、白菊ほたるは不幸体質といっても差支えなかった。
幼いころから身の回りでは良くないことが頻発して、周りからも疎ましがられているようだった。それは両親にアイドル活動をする許可をもらいに実家へ訪問したときにも感じた。
実の家族からもまるで腫物を触るかのような扱いで、逆にプロダクションに迷惑がかかりますがそれでもよろしいんですか、と念を押されたときは怒鳴り散らしてやろうかと一瞬頭をよぎった。

誰からも愛されず、そして誰よりも優しい彼女は、思いつめた結果廃ビルへ足を運んだのだろう。
もう迷惑がかからぬよう自らの命を絶つために。
そんな結末はあんまりだ。


「こんな私でも……みんなを笑顔にさせることができますか?」


スカウトをしたとき、そう訊いてきた彼女のいじらしさにこちらが泣きそうになった。
こうして、白菊ほたるは俺のプロデュースの元、薄幸の美少女アイドルとしてデビューする。
199 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:20:41.86 ID:k1yJYnNv0
守ってあげたくなるような少女に、男は弱い。
その儚げな中に時折垣間見える芯の強さも、彼女の魅力だ。

もちろん、すぐに上手くいったわけではない。
現場に向かえば渋滞やダイヤが乱れ、やっと到着したかと思えば機材が故障して撮影が中断したことも、1度や2度ではない。
低俗な週刊誌に『不幸を呼ぶアイドル』と評されたこともあった。

それでも。
それでも、ほたるはくじけなかった。
不幸をはねのけ、懸命に仕事に取り組んだ。
そのひたむきさが次第に評価され、人気も徐々に上がっていった。
そして今日、初のソロライブを満員御礼で迎えたのだ。
200 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:25:26.71 ID:k1yJYnNv0
………
……


ライブも終盤に差し掛かり、熱狂が渦となって会場を包む。
ここまで舞台袖で見守っていても、心配することがないくらいに完璧なパフォーマンスを魅せている。
次の曲が盛り上がりのピークかなと感じ楽屋に向かった。

楽屋に到着したタイミングで、歓声が背後から廊下に響く。
一番奥の部屋まで聞こえてくるのなら、ステージに立つほたるは割れんばかりの歓声をその身に浴びているだろう。
部屋のモニターには歌い、踊るほたるがライトに照らせれ輝いているのが映る。

置かれた封筒を拾い上げると、彼女らしい遠慮がちな小さな文字で『プロデューサーさんへ』と書かれていた。
中にはスズランのイラストが施された可愛らしい便箋が綺麗に折りたたまれている。

会場のボルテージが最高潮なこの瞬間に読ませたかった、その内容とは何なのだろうか。
はやる気持ちを抑え、丁寧に便箋を広げる。
201 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:33:03.82 ID:k1yJYnNv0
『プロデューサーさんへ

こんな形でしか伝えられなくてごめんなさい。
私をここまで連れてきてくれて、本当にありがとうございます。
お願い通り、一番盛り上がっているときに楽屋で読んでますか?
もし我慢できなくて早めに読んでたり、舞台袖で読んでいたら、続きはちゃんとその時その場所で読んでほしいです。
……なんて、信じてますので心配してないですけど。

プロデューサーさんは、私と最初に会った日のことを覚えてますか?
私はよく覚えてます。もしプロデューサーさんが私を見つけなかったら、声を掛けなかったら、私はあのまま飛び降りていました。そのつもりでした。
それでも多分、私は死ねなかったと思います。

私はいるだけで、まわりの人を不幸にします。そばにいる人ほど、深く傷つけてしまいます。
だから周りから疎まれて、消えてくれと思われていて……そんなある日、自分が死ねばいいんだと思いつきました。
そうすれば、みんなを傷つけずにすむし、周りのみんなも私がいなくなって幸せになれるから。
溺れた人がパニックになって助けようとした人を巻き込んで2人とも溺れるくらいなら、私はひとりで底に沈みたかったんです。
202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:40:32.43 ID:k1yJYnNv0
でも、駄目でした。
首を吊っても、縄が切れました。
手首を切ろうとしても、刃がなまくらみたいに切れなくなりました。
薬をたくさん飲んでも、意志とは無関係に吐きました。
飛び降りも、入水も、感電も、練炭も、全部駄目でした。
怪我をして苦しくて痛くて、それでも不思議と死ねなかったんです。

何度試しても駄目で、それでも早く死にたくてまた試して。そうして、プロデューサーさんが現れて。
本当はアイドルに興味なんてこれっぽっちもなかったですけど、話を聞いてる内に気付いたんです。

私がみんなに消えて欲しいと思われてるのに、死ねないことが不幸なんだと。
疎まれて、私自身も死にたいのに、死ねないことそのものが不幸なんだと。

だから、変えればいいんです。
いなくならないで欲しいと、みんなから愛される存在になれば、私はようやく天国へ旅立てるはずだって。


ここまで読んでくれたプロデューサーさん、ライブは盛り上がってますか?
プロデューサーさんは、私に死んでほしくないと思いますか?
そう思ってもらえたら嬉しいです。

だって、それで私は死ぬことができるんですから』
203 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:42:57.74 ID:k1yJYnNv0
気付くと俺は走り出していた。
廊下を、長いバックヤードをがむしゃらに駆け抜ける。
舞台袖までが馬鹿に遠い。当然だ。楽屋は一番遠い部屋なのだから。

それでも走る。廊下に置かれた物を蹴飛ばしひっくり返しながら。
曲がり角でも減速せずに壁にぶち当たりながら。息が上がるのも構わず。
急げ。もっと急げ!


『みなさん!もっと私と一緒にいたいですか!? なら、私の名前をもっと叫んでください!』


ほたるの声が聞こえる。
普段の彼女があまりしない、観客を煽るようなマイクパフォーマンスに、ファンの歓声は一層爆発する。
ほたる、ほたると彼女の名前が繰り返し響き渡る。
やめろ、やめてくれ!
204 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:45:36.40 ID:k1yJYnNv0
舞台袖に到着し、そのままステージまで飛び込もうとする。
が、地を這う配線に足を引っ掛け倒れ込んだ。痛みと衝撃で、体を起こすこともできない。


「待てッ! ほたるッ!!」


反射的に叫んだ彼女の名前は、観客の発するそれと寸分違わぬタイミングで重なり、ひとつとなって聞こえた。
同時に、頭上から鉄のひしゃげる金属質の悲鳴が轟いて、ほたるの真上の照明が大きく傾いていく。
鉄とガラスの塊が落ちゆくステージに立つアイドルは、舞台袖の俺に顔を向ける。


「あ、プロデューサーさ


白菊ほたるが、微笑んだ。
205 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/19(火) 20:46:28.45 ID:k1yJYnNv0
以上です。
ありがとうございました。
206 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:16:09.09 ID:yNCJI72m0
投稿いたします。30レス程です。
207 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:16:37.58 ID:yNCJI72m0

本田未央「あ〜面白かった!」

未央「まさか最後にあんなどんでん返しが待っているなんてねぇ」

未央「あっ! こんなトコで会うなんて奇遇だねっ!」

未央「え? 私? そうそう、みんなで映画見てたの!」

未央「最後までハラハラドキドキしちゃった! ……詳しくは言えないけどさ?」

未央「えー? そりゃ、現実じゃ起こりえないから面白いんだけど、そーゆーのって『ブスイ』って言うんじゃないの?」

未央「わかるけどさ、起こらないって思ってるから、起こったときに驚けるんでしょ?」

未央「うんうん、わかればよろしい! じゃ、未央ちゃんはレッスンにでも……え? 中止? そんなぁ……」


『どんでん返し症候群』

208 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:17:06.70 ID:yNCJI72m0

「うーん、いい天気!」

窓から差し込む光で目が覚めた私は、体を起こし、腕をぐぐぐーって伸ばした。
いつものように顔を洗って、いつものように朝ごはんを食べて、いつものように事務所へ行く支度をして。
ここで、いつもは家を出る時間までゆっくりテレビでも見るんだけど、今日はなんだか歩きたい気分!
ちょっと早く家を出て、ちょっと駅まで遠回りしよっと。
いってきます!

209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:17:56.47 ID:yNCJI72m0

普段は曲がらない道を曲がって、大きめの公園を横切ったんだ。
そしたら、ちっちゃい女の子が、並木道で泣いてたの!
えーん、えーんって。

「ねえ、どうしたの?」

そりゃあ無視はできませんよ! なんてったって未央ちゃんは正義の味方だもんね!
女の子は泣いたまま、真上を指差して。

「?」

よくわかんないけど、とりあえず私も見上げたら。

「あー、なるほどなるほど。風船が木に引っかかっちゃったんだね?」

赤い風船が、木の枝に行く手を遮られながら、ちょっと風で揺れてたんだ。

「もう大丈夫! お姉さんが取ってあげよう!」

声を聞いた女の子が泣き止み、一瞬こっちを見たのを確認してから、私は風船に手を伸ばす。
よかった。女の子には遥か遠い上空だけど、私には背伸びすれば届く場所。
これがもっと高かったら、早苗さんみたいに木登りしなきゃだったね。

「はいっ。もう離すなよ〜?」

「うんっ! ありがと!」

うんうん、気持ちのよい返事ではないか!
あ、でも、ちょっと時間を使っちゃった。
女の子に手を振って、カッコよく、駅への道を足早に……

「うわーん!!!」

進もうと思ったところで、後ろからまた女の子の声が。
びっくりして振り向いたら、また泣いてる!
両手で目を覆って……
両手?
えっ、だって風船……
そう思って見上げたら、青い空に赤い丸が。
どんどんちっちゃくなって、見えなくなっちゃった。

210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:18:31.61 ID:yNCJI72m0

「ど、どうしたの?」

もう1回駆け寄って、話を聞くと。

「む、虫が……」

「あー、そっか……」

気がつかなかったけど、さっきの風船に虫がついてたみたい。
それでびっくりして離しちゃったのかな。

「おーよしよし、泣くな〜」

頭を撫でながら声をかけるけど、なかなか泣き止んでくれないよ……
そしたら。

「ウチの子に何してるんですか!」

「わっ!?」

お、お母さんでしょうか……?
あ、あのですね、未央ちゃんは決していじめていたとかそういうわけでは

「やめてください!」

そういうと、私から女の子をひったくるように、そしてその場を去って行った。

211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:19:01.98 ID:yNCJI72m0

「んー……」

すっきりしないけど、まあしょうがないかー……
うんうん、こんなこともあるって!
そんなことを考えながら、再び公園を進む。
すると、空き缶が落ちているのを見つけた。
まったく、最近の若いモンは困りますなぁ! 私の若い頃は……あ、まだ若者だっけ?
とかなんとか考えながら、その空き缶を手にする。
大人気の炭酸飲料が入っていたことを示唆する赤いラベルはまだ綺麗で、恐らく買って飲んでからそう時間は経っていないみたい。
ちょっと辺りを見渡したら、自動販売機とゴミ箱が目に入ってきた。

「これでおっけいと」

空き缶をゴミ箱に捨て、今度こそ良いことしたなあとか思いながら歩き始め……

「「「あー!!!」」」

「うおう!?」

いつの間にか、男の子の集団に囲まれてる!?

「み、未央ちゃんのファンなのかな! 悪いんだけどサインは事務所を」

「缶ケリしようと思ってたのにー!!!」

「……へ?」

あちゃー……、そうきたかー……

「ごめん! ごめんって!」

「どうしてくれんだよー!」

「わ、わかった! 買ってあげるから缶ジュース!」

「「「いえーい!!!」」」

「いやいや全員とは言ってないぞ!?」

……はい、結局全員分買ってやりましたよ。もう。

212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:19:31.31 ID:yNCJI72m0

ちょっとモヤモヤもあるけど、電車に乗って事務所の最寄り駅へ。
ま、未央ちゃんはポジティブだからさ? 前を向いて生きていくのさ!
……そ、それはそれとして、時間がけっこうヤバめだ!
とりあえず事務所まで全力でダーッシュ……あ

「うんしょ、うんしょ……」

ううう、おっきな荷物を持ったおばあさんが歩道橋を登ろうとしている……
で、でも、急がないと遅刻……

「……」

なーんてっ。決まってるでしょ?

「おばあちゃん! 手伝いますよ!」

言うや否や、私は重そうな荷物を担ぎ上げた。
あ、案外重いぞ……。数段登ってるだけで敬意を表するよおばあちゃん……

「あとちょっとですよ! 頑張ってください!」

まさかレッスン開始を歩道橋で迎えることになるとはねぇ……
ま、まあ、トレーナーさんも人助けに悪い顔はしないと思うし、もしかしたら褒められちゃうかも?
なんて考えてたら、いつの間にか歩道橋を渡りきっていた。

「はい、荷物どうぞ!」

「ありがとねぇ……」

「いえいえ! それではお気をつけてっ!」

うんうん、やっぱり良いことをしたら気持ちがいい!
今日のレッスン、ノリノリでできるかも!

213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:20:13.94 ID:yNCJI72m0

「……」

「……」

「……」

こんにちは、本田未央です。
私はただいま、固いレッスン場の上で正座をしております。

「あ、あの……、ひ、人助けを……」

「遅刻は遅刻だ」

「ううぅ……」

き、聞く耳を持ってくれない……。なんで……。

「トレーナーさん、なんだか今日は機嫌が悪いみたいなんだよなー、ま、ご愁傷様」

目を盗んでかみやんが囁いてくれたけど、納得いかないー……
た、確かに遅刻したのは私が悪いけど、少しは"じょーじょーしゃくりょー"みたいなのがあっても

「本田、足が崩れてる」

「はい……」

結局マトモにレッスンできなかったよ……

214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:20:49.01 ID:yNCJI72m0

その夜、ベッドの上で、頭の中で、プチ反省会。
とは言っても、今日の未央ちゃんに反省することなんてないと思うんだよね……?
うんうん、明日は明日の風が吹く! おやすみっ!
はい、反省会終わり!
だって考えてもしょうがないもん。明日も正直な私で行こう!

215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:21:26.99 ID:yNCJI72m0

今日はお仕事!
流石にまた遅刻なんてしたら……
せ、背筋が凍るよ……
1回事務所に向かってから移動だから、早めに行こっと。

昨日とは違って、真っ直ぐ駅へ向かって、電車に乗る。
今回は特に何事もなく、事務所の最寄り駅まで着けたね。
しっかし最近なんか暑すぎないかなー?
特に東京はアスファルトの照り返しが酷くて……
ち、ちょっとコンビニに避難しちゃお! 大丈夫、時間はヨユーだし!
飲み物を買ってー、あ、事務所に置いておくお菓子も買っちゃおっと。
それと、みんなのジュース……は重いから、アイスをたくさん買って〜

「ただいま、500円ごとにクジを引いていただけます。4枚どうぞ」

あ、そうなんだ、って、それ以前に2000円も買ってたのか……。栄養ドリンクは余計だったかな……
ま、いいや、本田未央、引きまーす!

「おめでとうございます、4枚全て当たりです! ここで引き換えますか?」

お! やーりぃ! 見たか未央ちゃんの運の良さ! 日頃の行いだねえ!

「はいっ! お願いします」

「ではこちら、2Lのお水2本、2Lのお茶1本、2Lのスポーツドリンク1本です」

ゴトッ

「……はい?」

216 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:22:15.29 ID:yNCJI72m0

「お、重い……!!!」

くそう……、ラッキーだと思ったのに……
いきなり8キロの荷物が……
なんなの……
ひいひい言いながら、私は事務所へたどり着き、冷蔵庫に入れようと思ったんだけど。

「あっ、未央ちゃん」

「ち、ちひろさん……」

「ど、どうしたんですかそんなに息を切らして」

「な、なんでもないよ……。冷蔵庫、使うね」

「あっでも今は」

……冷蔵庫の中身はいっぱいだった。

「ごめんなさい、5階の冷蔵庫に入れてきてもらってもいいかしら?」

「ええぇ〜……」


でも、私が持ってきたやつだし……
え、エレベーターまですら辛い……

「ようやく着いた……」

「ああ、本田。ん? 差し入れか? 良い心構えだな。しかし」

トレーナーさん、なんか言いたげですけど……

「しかし……?」

「そこの冷蔵庫、壊れてしまってな。飲み物なら地下の倉庫に置いといてくれ」

「えええ〜……」

217 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:23:00.44 ID:yNCJI72m0

「疲れた……」

ホントに疲れた……
こうなったら、あの飲み物たちが美味しく飲まれるのを期待するしかないよね……
うん、疲れたのは確かだけど、良いことをしたわけだし……
そんなことを考えながら待機していると。

「お、未央じゃん、おつかれー」

「はるちんだー、おつかれー……って、どうしたのそのヒジ! 血が出てるじゃん!」

「そーそー、だから絆創膏ねえかなって」

「ええっと、確かこの箱に……あった!」

「お、さんきゅ」

「貼ってあげるからちょっと来て?」

「なんか悪いな」

「いいっていいって。またサッカーしてたの?」

「あー、今回は違うんだよな」

「ありゃ、そうなの? よし、貼れた」

「さんきゅーな! いや、さっきプロデューサーの手伝いで地下に備品取り行ったんだけどな?」

……地下?

「そしたらなんか下に飲み物が置いてあって、コケちゃったんだよ……は、恥ずかしいから誰にも言うなよ!」

「……」

「未央?」

「えっ、あっ、うん、そうだね!」

「?」

「ご、ごめん、私、お仕事行ってくる!」

「お、おう、気をつけてな?」

218 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:23:46.04 ID:yNCJI72m0

私は、逃げるように今日の撮影場所へ向かっていた。

おかしい。なんかおかしいぞ。

なんというか……、良いことをしようとするとダメな結果になっちゃう。

ラッキーって思っても結局アンラッキーだ。

なんで? なんで? なんで?

219 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:24:37.59 ID:yNCJI72m0

この日、仕事を終えて家に帰った時、私の気分は最悪だった。

やることなすこと裏目に出る。
荷物を運ぶ手伝いをすれば、後で中身が壊れてたと問題になる。
電車で席を譲ったら、降りるときに近くに立ってた人が「なんで俺に譲らなかったんだ!」とか。
道端で募金してたからお金を入れたら、なんか写真撮られててネットで"偽善者だ"とか。

明日こそ、明日こそ。
って、何とか切り替えようとするんだけど。
そんな日は続いていった。

1つ1つは小さなことだけど、こうも重なると気が滅入るなんてものじゃない。
脳裏からみんなの顔が離れない。
泣く女の子の顔が。怪我をした晴ちんの顔が。

極めつけは、雑誌取材の写真撮影の時。
後ろに予定が詰まってる茜ちんに順番を譲ったら、突然地震が起きて。
機材が茜ちんに倒れてきた。
本人は大丈夫って言ってたけど、その瞬間の痛そうな顔が、私の網膜にこびりついている。


私は悪くない。私は悪くない。
そう言い聞かせても、やっぱりダメだ。

でも違う。一番ダメなのは、違う。
動けなくなってしまったことだ。

困っている人を見た時、足がすくんで、動けなくなってしまったことだ。

220 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:25:36.33 ID:yNCJI72m0

「――ちゃん?」

「―央ちゃん?」

「未央ちゃん!」

「わっ!」

「未央、大丈夫? 最近、なんか気が抜けてるというか……」

「未央ちゃん、具合が悪いなら、早退しても……」

しまむーとしぶりんが、それはそれは不安そうに、私の顔を覗き込んでいる。
無理もないよね。自分でもわかるもん。最近、元気ないって。
でも、ここで甘えるわけにはいかないんだ。

「う、ううん! 大丈夫大丈夫!」

まったくもう! 元気がとりえの未央ちゃんが2人を不安にさせちゃダメでしょ!
そう、自分に言い聞かせる。

「……ならいいけど」

しぶりんは何か言いたそうだったけど、言葉を飲み込んだみたい。
……優しいね。

「先、レッスン室行ってるから」

そう言い残して、2人は部屋から出て行った。
私も、いつまでもボーっとしているわけにはいかない。
重い意識と、重い体をなんとか持ち上げて、部屋を後に……
瞬間、机の上に、何か見慣れないノートを見つけた。
うーん、見たことあるノートだけど、どこで見たんだっけ……?
……あ、そうだ、乃々ちゃんが前に抱えてた気がする。
ということは、ポエム帳かな?

221 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:26:14.73 ID:yNCJI72m0

……先に言い訳をさせてもらうと、ほんの気の迷いで。
どうせレッスン終わったらすぐ戻ってくるし、上手くいかないことばかりでちょっとむしゃくしゃしてたのかもだけど。
そのノートを、手にして。
棚の1番上に隠しちゃった。
軽いイタズラみたいな……ね?
も、もちろん、後で謝るよ?
だから、良いことをさせてもらえないなら、ちょっとくらいは。
そんな気持ちで。

「レッスン行ってきます」

誰が聞いてるわけでもないけど呟いて、扉を開け……

ドンッ

誰かが勢いよく入ってきた。

「み、未央さん、ご、ごごごめんなさ……」

「乃々ちゃん……!」

「へ? も、もりくぼの顔に何か」

「う、ううん! レッスン行ってくるね!」

そう言って、逃げるように。いや、実際逃げてたんだけど。その場から離れた。

222 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:26:54.09 ID:yNCJI72m0

当然なんだけど、慣れないことはするものじゃない。
レッスンの間、ソワソワしっぱなしで、何回も怒られてしまった。
最近の元気のなさと相まって、トレーナーさんも心配そうな顔を向けている。
でも、こっちはひとまずそれどころじゃなくて、とにかく早く戻って謝んなきゃって。

いつもより何倍も長く感じたレッスンを終えて、私は駆け出していた。
ようやくたどり着いた部屋のドアを開けて。

「あ……未央さん」

「の、乃々ちゃん」

「あの……も、もりくぼ、未央さんを待ってました」

ま、そうだよね……。犯人かどうかわからないとしても、直前まで部屋にいた私に聞くのは正しいし……

「もりくぼのポエム帳を棚の上に隠したの……未央さん……ですか?」

「……うん。乃々ちゃん、ごめ」

「あ、ありがとうございます……!!!」

……

「……んんん?」

「本当に助かりました……。あのままだと、誰かに読まれてたかも……」

「……えっ、え?」

「レッスン中に、机の上に出しっぱなしだと気がついて……。急いで戻ってきたら隠してあって……」

「い、いや、私は」

「あ、あの後すぐにきらりさんに取ってもらったので、困ったとかもないですし……」

「ち、ちが……」

「では、もりくぼは失礼します……。ありがとうございました」

またお辞儀をして、乃々ちゃんは去って行った。
一方私は、なんか……よくわからない。
気持ちの整理がちょっと難しい。
最近ずっと、良いことをしようと思ったら裏目に出て。
今回は……

そして、1つの仮説が頭に浮かんできた。
この1回だけで判断するのは危ないってレベルじゃないんだけど、何かすがれるものが欲しかったのかもしれない。

……ふと窓から外を見ると、誰かがランニングをしていた。

223 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:27:44.27 ID:yNCJI72m0

「3人とも、おっつかれー!」

できるだけ元気な声で、私は千枝ちゃん、仁奈ちゃん、みりあちゃんに声をかけた。
ランニングをしていたのはこの3人で、ちょうど休憩に入ったらしい。
よく見るドリンクで、喉を潤そうとしている。
……今からすることに対して、少し不安で、申し訳なくて、でも確かに、ワクワクしている自分は、いた。

「あ! 未央おねーさん!」

「未央ちゃん! おつかれさまっ!」

「おつかれさまです」

口々に挨拶を返してくれる。優しい子たちだよね。

224 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:28:32.40 ID:yNCJI72m0

「休憩中かな?」

「そうでごぜーます!」

「3人でランニングをしてたんです」

「ほうほう、いい心がけだね!」

「未央ちゃんは何してるのー?」

「え? わ、私は……えーっと……」

「?」

「あ! み、みりあちゃん! 美味しそうだね! そのドリンク!」

「えー? いつもみんな飲んでるやつだよ?」

「ちょっとちょうだい!」

そう言って、私は半ばひったくるように、みりあちゃんの手からドリンクを奪った。
ごめんみりあちゃん! 今度ごはん奢るね!

「み、未央さん……?」

なるべく3人の顔は見ないようにして……

「あ! 手が滑った!」

私はみりあちゃんのドリンクを開け、地面へ落とした。

「あー!」

横になったドリンクの口からは中身がこぼれていく。

「未央おねーさん! ひどいです!」

「……」

「み、未央さん、手が滑っただけ……ですよね?」

「……」

私は黙っている。ごめんね、ごめんね。と心で呟きながら。

225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:29:03.56 ID:yNCJI72m0

「も、もー、未央ちゃん、次から気をつけてね?」

みりあちゃんは私を責めない。本当に優しい子だ。胸がズキズキ痛む。いっそ土下座でもしようかって思った、その時。声が聞こえて、こちらに駆け寄る影が1つ。

「3人ともー!」

「ちひろおねーさん!」

「はぁ……はぁ……」

ちひろさんはだいぶ息を切らしている。大急ぎでここに来たらしい。

「だ、大丈夫ですか……?」

「ちひろさんもランニングしてるの?」

「ち、違います……」

「なにかあったでごぜーますか?」

「そ、そうなんです! さっき3人に渡したドリンクなんですけど、間違えて期限が過ぎた廃棄用を渡してしまって!」

「え! そうだったのー?」

「はい! ごめんなさい……! も、もう飲んじゃいましたか?」

「ええと……まだ……」

3人が、すっかり中身のこぼれたドリンクを一瞥した後に、私の顔を見つめる。
私はどんな表情をしているんだろう? 残念ながらわからない。展開的にはドヤ顔が正しいんだけど、まあそんな気分じゃないし……
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:29:43.06 ID:yNCJI72m0

「未央ちゃん、もしかして知ってたのー!?」

「え? 未央ちゃんが教えてくれたんですか?」

「未央おねーさん、いきなりみりあちゃんのドリンクをこぼしやがったですよ! でも、ダメなドリンクって知ってやがったでごぜーますか?」

みんなが驚いた顔でこっちを見ている。……1番驚いてるのはこっちなんだけどさ。
でも、ここは乗っかるしかない……よね?

「もー、ちひろさん、大きな声で話しすぎだって! 廊下まで聞こえてたよ?」

「ご、ごめんなさい……」

「みりあちゃん、ごめんね? いきなりこぼしちゃって」

「ううん! それより未央ちゃん、助けてくれたんだ! ありがとー!」

ズキン、と痛む胸に見て見ぬふりをしながら、賞賛の言葉を受け取る。

「ごめんなさい、千枝、少し未央さんを疑っちゃいました……」

本当に申し訳なさそうな顔で頭を下げる千枝ちゃん。
そんな顔しないで。悪いのは私だから。千枝ちゃんの感覚は間違ってないんだよ。
……なんてことは思っても、口に出せるわけもなくて。


雰囲気はね? "未央ちゃんありがとー!"って。そういう感じだったんだけど、やっぱ、そのままそれを受け取ることはできないよね。

「じゃ、ランニング頑張りたまえ!」

心の重さを隠すように、大きな声で告げて、その場を去ることにした。

227 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:30:22.79 ID:yNCJI72m0

……まあ、確定と言っていいんじゃないかな。

なんでかよくわかんないんだけど、善い事をすると悪い方向に、悪い事をすると善い方向に転がってしまうみたい。
いやはや、我ながらなんと意味のわからない……
でもまあ、さっきまでの。全部が裏目に出ていた時に比べれば、ちょっとは気分も晴れてる……と、思うけど。

こうして、"善い事をするために悪い事をする"という、なんとも奇妙な私の生活が始まった。


仲間のファンレターを破けば禁止ワード満載の捨てるべきやつで。
プリンを勝手に食べて「美味しかったよ」とやや高圧的に言っても、"初めての手作りで食べてもらう自信がなかった。嬉しい"だってさ。
撮影の邪魔をしたら「その表情、いいね!」って次の仕事に結びつくし。
寝てる人を起こすといつもレッスン10分前で、決まってみんな「ありがとう」って。


じゃあ、そんな良いことをし続けた未央ちゃんは、とびきり悪いことをずっとしていた未央ちゃんは、さぞご機嫌だったのでしょうって思う?
もちろん、そんな訳ないんだよねぇ。

228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:30:54.92 ID:yNCJI72m0

「……はぁ」

最近はもう、ため息がクセみたいになっちゃってる。
そりゃあ、さ? みんなには感謝されるよ。そこは単純に嬉しいけど。
でも、その行動をするときには、まだわからないんだよ。どうなるのか。
結果がどうあれ、私がしているのは間違いなく悪いこと。もちろん、本当に困ってる人と正面から向き合えないのは変わらない。
やってみて初めて「ああ、こうなるんだ」ってわかるの。
これって、とっても怖い。
ともすれば、単なる加害者だもん。

でもやっぱり、こんな回りくどい方法でも、人助けができるのなら。
それならいいのかもって、思い始めてた。

229 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:31:23.03 ID:yNCJI72m0

そんな重苦しい気持ちに蓋をしながら、この日も事務所への道を歩いていた。

「おっ」

ふと道端の自動販売機を見ると、見覚えのある後ろ姿が、お金を入れてたんだ。
あの金の髪は……、見間違えるはずもない! ゆいゆいだ!
ゆいゆい、確かこの前コーラにはまってるとか言ってたような!
ってことは、ここで未央ちゃんがすることは1つ!

「おっしるこ〜!」

なんだかふざけた掛け声で、ゆいゆいの後ろから自販機のボタンを押した。

「わっ! 未央ちゃん!?」

ガコン

「やあやあゆいゆい、元気かい?」

「もー! ゆい、おしるこなんて飲まないよ!?」

「あれー? めんごめんご!」

そもそもなんでこの季節におしるこが売ってるのかとか言っちゃダメだよ?

「酷いよー! ……あれ?」

取り出し口からゆいゆいが取り出したのは、まぎれもない、コーラだ。
よかった……、今回も成功したみたい。

「いやあ、なんか入れ替わってる気がしたんだよねぇ」

不安だった心を見せないように振るまう。
でも、ゆいゆいの表情は……なんというか……

「……」

「……あれ?」

「ゆい、今日はメロンソーダ飲もうと思ってたんだけどなー」

「……え?」

「ま、いいや! おしるこよりはマシかな! じゃ、お仕事あるから先に事務所行ってるね!」

「あ、う、うん」

「じゃーね!」

ごめんね。という声が喉から出る前に、ゆいゆいは見えなくなっていた。

230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:31:54.27 ID:yNCJI72m0

残された私は、今までにない感覚に困惑している。
あれ? 今の、失敗?
悪いことして、良い結果になると思ったんだけど……
結果は……

……あれれ?

首をかしげながら再び歩き始める。
リアクションの小ささとは裏腹に、動揺は大きくなるばかりだった。

231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:32:38.40 ID:yNCJI72m0

「ひ、ひったくり!!!」

突然響いたその女性の声は、私の思考を現実に引き戻すには十分すぎるものだった。

ってか普通にビックリした! え? ひったくり? どこ?
……もしかして、前から猛然とダッシュしてくる人……!?
ど、どうしよう、どうしよう!
以前までの私だったら、そりゃタックルの一つでも決めてやるところだけど。
今はそんなことは、そんな良いことはできない。
でも、さっきのゆいゆいのパターンだったら? 良いことが良い結果になるなら?
いやいや確証がないよ。でもだってああ。

そんなことが頭を駆け巡る間に、犯人はこちらに一瞥もくれないまま、横を走り去って行った。
……罪悪感に潰されそうになる。で、でも、いつもの流れなら、これが良い結果につながるはずだし!
犯人の姿を再度捉えるために振り向くと、大柄な男性が、その犯人を取り押さえているところだった。
正直に言えば、安心した。これで犯人が逃げ延びちゃったら、私は一生後悔することになっただろう。
なんだ、やっぱり、悪いことをしたらいい結果になるじゃないか。
あの男性だって一瞬でヒーローだ。
そうだ、たとえ腕から血が流れていよう……と……

「……あ、え……?」

この距離でもわかる。あれは血だ。取り押さえている男性の腕から血が。
よく見ると傍にナイフが落ちている。犯人が持っていたのか。取り押さえる際に切られたのか。
どんどん増える野次馬に紛れるように、その場から去ることを、体が決断していた。

232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:33:19.46 ID:yNCJI72m0

「ひ、ひったくり!!!」

突然響いたその女性の声は、私の思考を現実に引き戻すには十分すぎるものだった。

ってか普通にビックリした! え? ひったくり? どこ?
……もしかして、前から猛然とダッシュしてくる人……!?
ど、どうしよう、どうしよう!
以前までの私だったら、そりゃタックルの一つでも決めてやるところだけど。
今はそんなことは、そんな良いことはできない。
でも、さっきのゆいゆいのパターンだったら? 良いことが良い結果になるなら?
いやいや確証がないよ。でもだってああ。

そんなことが頭を駆け巡る間に、犯人はこちらに一瞥もくれないまま、横を走り去って行った。
……罪悪感に潰されそうになる。で、でも、いつもの流れなら、これが良い結果につながるはずだし!
犯人の姿を再度捉えるために振り向くと、大柄な男性が、その犯人を取り押さえているところだった。
正直に言えば、安心した。これで犯人が逃げ延びちゃったら、私は一生後悔することになっただろう。
なんだ、やっぱり、悪いことをしたらいい結果になるじゃないか。
あの男性だって一瞬でヒーローだ。
そうだ、たとえ腕から血が流れていよう……と……

「……あ、え……?」

この距離でもわかる。あれは血だ。取り押さえている男性の腕から血が。
よく見ると傍にナイフが落ちている。犯人が持っていたのか。取り押さえる際に切られたのか。
どんどん増える野次馬に紛れるように、その場から去ることを、体が決断していた。

233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:34:06.38 ID:yNCJI72m0

「はぁ……はぁ……」

しばらくの間走っていた私は、知らない住宅街で、ようやく我に返ることができた。
体力には自信があるが、こんなに息が切れている。相当走ったのかもしれない。

……自分のことなのに"かもしれない"だなんて恥ずかしいけど、それだけ余裕がなかったってことだと思う。

しばらく、何も考える気になれなかった。
息を整えながら歩く。ふと気がつくと公園の周りにいた。

「ちょっと休もうかな……」

公園ならベンチの1つはあるだろう。別にブランコに座ってもいい。それは良いことでも悪いことでもないんだし。

そう思いながら、公園の入り口に近づいた瞬間。

ポーン ポーン

「……え?」

私の横を、ボールが、多分サッカーボールだと思うんだけど、そんなことはどうでもよくて。
公園から目の前の道へ飛び出していった。


一瞬、思考に空白が生まれる。


そこから、私の脇をすり抜ける、小さな1つの影。
止まっていたアタマを無理やり現実に引き戻す。
ボールを追うように飛び出す影なんて。相場は決まっているから。
反射的に振り向き、目に入ってくる情報を無理やり飲み込んでいく。道路の向こうにボールが転がり、それを追う、子ども。
さらに視界の端からは大きな、大きな。

「危ない!!!!!」

叫ぶと同時に体は動いていた。
さっきまでの悩みとか、体の重さとかそんなものは置き去りだ。
迫り来るモノに子どもが飲み込まれそうになる。

届け! 届け!

ドン! と、必死に手を伸ばして、子どもを突き飛ばした。
その子が道路の向かい側で尻餅をつく姿を見届けて。

ザザザッ!

道路の真ん中に滑り込む。
自分の体を向こうまで持っていく余裕はなさそうだ。

ブレーキの音が、これでもかというくらいに耳に突き刺さる。

ああ、走馬灯なんて、見えないんだな。とか思い、なが、ら――

234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:35:04.50 ID:yNCJI72m0

……

……

……

……あれ?

天国にしては地面が硬いね?
なんか焦げた匂いもするし……?

……あれれ?

「よい……しょ……」

力を入れ、体を起こす。マヌケな顔で周囲を見渡すと。
公園があって、反対側に男の子がへたり込んでて。目の前には。

「ナンバープレート……」

ということは、目の前で止まったのか! ラッキー!
……いやいや、そんな緩いスピードじゃなかったよね?
よーく見てみると、そのナンバープレートは車体の後ろについているもので。
え? 未央ちゃん、すり抜けた!? この車……いや、よく見るとトラックだ。を、すり抜け……
それもありえないでしょ。なんてセルフツッコミを入れながら、そう考えると答えは1つだけしかない。

「下……?」

大きい大きいトラックの下を覗きこむと、確かに、少しのスペースが存在した。
ここに入って、トラックが通過したタイミングで止まったの……?
焦げ臭いのは、タイヤのブレーキ跡みたいだ。

改めて、自分の身に起きたことを反芻して、汗が流れ始める。

よかった、よかった!
ようやく、少しずつだが頭が動き始めた。
なるほど、子どもを助けようとした未央ちゃんは、トラックに轢かれかけるも、九死に一生を得る!
なるほど! なるほど!
安堵感もあって腰が抜けてしまっているが、まあ仕方ないって。トラックが大きくて本当によかった……
こういうどんでん返しも、まぁちゃちに見えるかもだけど、悪くないよね?

235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:35:41.67 ID:yNCJI72m0

それにしても大きいトラックだ。ナンバープレートの、さらに上。荷台を見上げると、そこには大量の棒のようなものが積まれていた。
鉄パイプかな……?
これだけの量を積めるトラックはあまり見覚えがないけど。まあその大きさのおかげで助かったんだし。
当然ながら、その大量のパイプはロープで留められていた。
うへえ……、弱そうなロープだなあ……。
切れたりでもしたら大惨事だよ?

ほら、あの結び目のところなんて、今にも千切れ……そ……

ブヂィ!!!

「……え?」

嫌な音が。

聞こえた。

残念ながら、目でも。

それを捉えていた。

降ってくる。

転がって。


降って

236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:36:12.85 ID:yNCJI72m0

ポコポコポコポコ!

「あいたたたたたた!!!」

……んん?

こ、これ……

「プラスチック……?」

……

……

「はぁ〜……」

そのまま、大量のパイプの中で。起き上がる気力はもう、なかった。



おわり


237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/20(水) 23:36:38.95 ID:yNCJI72m0
ありがとうございました。
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/09/21(木) 03:11:24.53 ID:huYZMWvp0
239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:05:37.01 ID:1qpUpdjR0
よろしくお願いします。

タイトル:高垣楓「ばけもの」
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:07:00.04 ID:1qpUpdjR0
「……えま……か?」

 べったりと張り付くような空気が漂っていた。
 月は雲に隠れ、星も見えない息苦しい夜空が世界を覆っている。地上に広がる都市は不出来なランタンのように灯りを散らす。
 駅前の雑踏。ぼんやりとした灯りに照らされる人々の顔は、幽鬼のようであった。

 仮に、ここに幽霊が居たところで、人と見分けはつかないだろう。
 仮に、ここに異界への入り口があったとしても、誰も気付かないだろう。
 仮に、ここに人ではないモノが徘徊していたとしても、誰も気にもとめないだろう。

「おまじないは、いかがですか?」

 雑多な音を切り裂いて、童女のあどけない声が聞こえた。
 偶然、一人の女性がその声を聞き取った。
 
「素敵な素敵な、恋のおまじないはいかがですか?」

 女性は立ち止まり、蒼と碧の瞳で声の主を見る。
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:08:28.98 ID:1qpUpdjR0
 まるで造り物のような容姿の少女が居た。
 透き通るような白い肌。金色の瞳に金色の髪が夜の闇に浮かんでいる。
 それは、不確かな灯りの下では人形と錯覚してしまう程に異様だった。

「世界中の人々が祝福する、素敵な恋をしたくありませんか?」

 引きこまれる様な声だった。金色の瞳に囚われ、そこから逃れられなかった。

「そうですね」

 そして、気が付けばそう答えていた。

「それでは、お名前を教えてください」

「高垣楓」

 ――その日、『ばけもの』は生まれた。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:09:37.94 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 翌日、高垣楓は同僚の川島瑞樹に、夜の出来事を語った。

「楓ちゃん、いくらなんでも不用心じゃないの?」

 呆れながらも窘める友の言葉の温かさを感じ、意地が悪いと思いつつも楓は微笑む。
 しょうもない子、思わず瑞樹の口から洩れた呟きは、優しい声色だったから。

「悪い人には見えませんでしたから」

「とは言っても、密室に連れ込まれて強制的に怪しい壺とか買わされることもあるのよ」

 と、ひとしきり注意をした後、瑞樹はふと言った。 

「それにしても、恋ね……私たちにはちょっと身構えちゃう言葉よね」

 遠くに置いてきた青春。恋、と言う言葉を噛みしめる。

「アイドルですからね」

 高垣楓も川島瑞樹もアイドルである。職業柄、恋愛事は御法度である。
243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:10:58.41 ID:1qpUpdjR0
「そうそう。でも、世界中が認める恋だったら、素敵よね」

 それでも、一人の女性として恋に焦がれることはあった。
 もし仮に、世界中が認めてくれる恋があるとしたら――それは、アイドルにも許されるだろうか。
 そんな、都合のいい考えが昨夜の楓の内にもあった。

 ――『ばけもの』は育つ。

「もし仮に、だけど」

「なんですか」

「恋をするなら、どんな相手がいい?」

「そうですね。瑞樹さんみたいな人でしょうか」

 唇に指をあてて、悪戯小僧のように狡賢い微笑みをする。

「もう、お世辞を言ったって、お酒はおごらないわよ」

「はい」
244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:12:18.40 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 季節は流れる。
 夏は過ぎ、気が付けば秋の暮れ。

 充実した日々を過ごす楓は、いつしか呪いの事を忘れていた。

 そんなある日の事だった。
 事務所に入ると、社員が慌ただしく走り回っていた。
 盛況とは違う、明らかに殺気立った空気が漂っている。

 どうしたものか、と立ち尽くしていると、彼女のプロデューサーが駆け寄ってきた。
 目の下にはクマがあり、シャツも汗で萎びている。明らかに、疲労していた。

「何があったんですか?」

 彼から差し出されたのは、一冊の雑誌。明日発売予定のモノだった。
 問題は、その表紙に踊る文字。

『高垣楓に熱愛発覚か!?」

「……これは?」
245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:13:50.66 ID:1qpUpdjR0
 困惑しながらもページを捲る。
 該当の記事には、高垣楓と芸能関係者の男が一緒に居る写真が何枚も載っていた。

 男は、同じ事務所に所属するプロデューサーだ。
 目の前に居る男性とは別の仕事を請け負っているプロデューサー。
 同じ事務所なので顔を合わせたことは何度かある。だが、それくらいだ。

「これはたしか」

 一枚、男に向かって大判の封筒を差し出している写真があった。
 数日前、事務所に忘れていた書類を、たまたま現場が同じになった楓が届けた時の写真だ。

 本当にそれくらいの関係であった。
 他にも幾つか写真もあるが、どれも大したことはない。

 偶然、一緒に出退勤の時間が被っただけの時。たまたまオフで出会って挨拶した時。そんな些末な内容である。
 だが、写真の下には細かい文字でビッシリと、『親しい人に向ける顔』『プレイベートでの付き合い』などと書かれている。
246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:14:58.59 ID:1qpUpdjR0
 ――実は、元は担当のアイドルとプロデューサーだった。
 ――過去に、恋愛関係であったが、事務所の都合で分かれた。

 元関係者やら過去の関係やら、まったく根も葉もない話題が延々と書かれている。
 よくまあ、ここまで出鱈目を書けるのかと楓も呆れるほどであった。

「そのような事実はありません」

 プロデューサーにそう告げる。彼は、ホッとしたように表情を緩めた。

「それで、これからはどうします?」

 雑誌の流通を止めることは、既に不可能であった。
 とりあえず、事務所からその話題は根も葉もないことだと伝えよう。
 もちろん、このような記事を書かれた以上然るべき処置はとるが、高垣楓はアイドルであると伝えることになった。

 ――『ばけもの』は育つ。
247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:15:26.23 ID:1qpUpdjR0
「ふふっ、はじまるよ――世界で一番素敵な恋が」

 その声は、誰にも聞こえなかった。

「世界中の人が納得する恋の始まりだよ」
248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:16:26.83 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 ――『ばけもの』は育つ。

「――と言うことで、このお話は事実ではありません」

 高垣楓の口からハッキリと、事実ではない、と世間に公表をした。
 けれど、人々は止まらなかった。

「あの高垣楓に恋人?」
「もう三十近いんだから当たり前だろ」
「でも、本人は否定してるだろ?」
「恋人います、とか言うアイドルは居ないだろ」
「うわ、必死だな。ファンの立場で拘束するのか。アイドルが恋しようが勝手じゃないか」
「そうそう、俺たちは広い心で認めてやろうぜ」
「――そうだ――認めない人間は、悪だ」
249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:17:34.89 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 ある日のこと、楓は事務所で不自然に汚れた白いシャツを見つけた。
 首筋に、赤いシミが付いている。
 
 血の跡だった。

「あ、それは洗物に出すんで、放っておいていいですよ」

 後ろには、真新しいシャツに身を包んだ彼女のプロデューサーが立っていた。
 顔には、傷があった。

「プロデューサー……それは」

「はは、気にしないでください」

 笑ってごまかしてはいるが、楓にも心当たりはあった。

 ――『高垣楓』の自由を奪うプロダクションは、悪だ。

 世間一般で流布している噂である。
 時々、事務所のスタッフに対する非難を認めた手紙が届くことがある。
 それどころか、面と向かって悪だと断じられたこともある。

 数日前、事務所の代表が、亡者のような顔で通路を歩いていた。
 プロデューサーも、大分疲れているようだった。
250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:18:20.71 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 数日後、プロデューサーが倒れた。
 原因は過労だった。

 『高垣楓』の噂は、まだ消えていなかった。

 それどころか、噂は加速をしていた。

「――あの人は、これだから素敵なんだ」
「そうそう、『高垣楓』にふさわしい人間は、こうなのだ」
「『高垣楓』も、好きすぎて会うたびにアプローチしてるんだよ」

 人々は、熱狂する。

「事務所の都合があるのに、真実を言えるわけない」
「真実を知っているのは、自分たちだけだ」
「俺たちが『高垣楓』を応援しよう」
「つまらない社会の常識を、俺たちの声でかき消すんだ」
「それが、『高垣楓』のためだ」

 声は、大きくなっていく。

 ――『ばけもの』は、大きくなっていく。
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:20:38.90 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 プロデューサーが倒れた後も、楓は仕事を続けた。

「ファンの皆さんを、不安にしたくありません」

 休業を勧められたが、この段階で下手に動けば余計な誤解を生むと、続行することにした。

 日々は、過ぎていく。
 灰色のような、白のような、曖昧な光が指先から零れる様に実感がない時間だった。

 そんなある日のことだった。
 高垣楓は、男――世間でで恋仲であると噂された男性と鉢合わせになった。

 事務所側でも、接触しないように細心の注意はしていた。
 だが、それでも偶然。本当に、偶然に顔をあわせてしまう。
252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:21:34.07 ID:1qpUpdjR0
「申し訳ありません」

 会うなり、深々と頭を下げて謝罪の言葉を口にする。

「いえ、顔をあげてください」

 これ以上責めないでほしい、そう、顔に書いてあった。

「ですが」

「いえ。悪意はないのでしょう?」

「……はい」

「ふふ……今日のお仕事も、頑張りましょう。お仕事が楽しみで、わーくわーくしてるんですよ」

 本当は、そんな心境ではなかった。けれど、せめて笑顔でいようと冗談を言う。

「わかりました」

 それで納得したのか、男は立ち去る。その先に、彼が担当するアイドルたちが居る。
 何やら話し込んでいたが、楓はそれを気にせず立ち去った。

 ――『ばけもの』は育つ。
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:23:08.39 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

「すごいなあ、ファンの前ならちゃんと個人的な感情は抑えるんだ」
「やっぱり『高垣楓』は素敵だ! どんなことになっても応援するよ」

 声が消えなかった。

「もう、彼と結婚すればいいじゃない」
「高身長だし、美男美女のカップルなんて素敵じゃない」
「友達も言っていたし――」

 外見が似合うから。
 周りがそうだから。
 気が付けば、疫病の如く"それ"は広がっていた。

 誰もが、そうであると信じていた。
 誰もが、そうであると望んでいた。
 誰もが、そう、信じこむことを『信じ込んで』いた。

 ――『ばけもの』は育つ。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:24:13.51 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 その年のクリスマス、珍しく都心にも雪が降った。
 夕暮れの空に、白い光が舞う。

 高垣楓は、事務所の屋上でそれを眺めていた。

 彼女は戸惑っていた。
 いくら自分がこうであると言っても、周囲は自分が恋していると疑わない。
 それが幸せであると、言っている。

 それが違うと言うと、聞いたファンは悲しそうな顔をする。
 それを見るのが、たまらなく嫌だった。

「楓ちゃん」

 川島瑞樹の声が聞こえた。振り返ると、屋上のドアによりかかり、声の主が立っていた。

「元気ない……わよね」

「ええ」
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:25:38.31 ID:1qpUpdjR0
 瑞樹は、硬い床を靴で叩く。苛ついているように、荒い音が寒空に響く。
 瑞樹は楓の隣に立つと、黙って空を見る。

 つられて、楓も空を見る。

 茜色の空は徐々に暗くなり、世界は夜の色に包まれる。
 
 星が、瞬いた。 

「星座」

 ゆっくりと、瑞樹が口を開いた。

「夜空だと近く見えるけれど、実はとっても離れてるよのよ。まったく関係がない」

「はい」

「一括りにされている星でも、本当はとても遠くまで離れてるの」

 楓は、瑞樹が言わんとしていることを理解した。
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:26:38.52 ID:1qpUpdjR0
「見た人が、そこに意味を求めてそうなった」

 よくできました、と微笑むと、瑞樹は楓の肩をそっと叩く。

「そう。そして、意味を求めることに、悪意はないの」
 
 今回の事件において、悪人は居る。
 売名や商売のためだけに高垣楓の名前を利用した人間だ。

 だけど、それだけではない。
 そう、悪意なんて殆どの人は持っていなかった。
 誰もが、そうあったら素敵だと言っただけだった。

 アイドルにだって恋をしてもらいたい。ただ、その行く先がちょっとずれていただけなのだ。

「みんな、引っ込みがつかなくなってるだけだから」

「……私は、皆さんに愛されていると思っていいんでしょうか」

「もちろんよ」

「ありがとうございます」

「お礼は全部終わってから。楓ちゃんの好きなようにしないと」

 ――けれど、『ばけもの』はまだ居る。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:28:30.44 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 高垣楓は意を決すると、すぐに事務所の代表の元へと足を運んだ。
 執務室で書類と格闘するその人は、半年前に比べると大分老け込んでいた。

「私の声を、ちゃんと届けたい――」

「と、言うと」

「高垣楓はここに居て、ファンの人達と一緒に歩いていきたい」

「彼らと一緒に居たいと」

「はい」

 そうか、と代表は短く返した。
 何かを決めたような。また、何かを諦めたかのようだった。

「明日、もう一度話し合おう」

 ――けれど、『ばけもの』はまだ消えない。
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:29:17.11 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 翌日、改めて代表の執務室に呼び出されると、そこには男性――高垣楓と恋仲であると噂された男が居た。 
 彼の傍には担当しているアイドルたちが居た。
 皆、不安そうに大人たちを見守っている。

「……これ以上、混乱を広げないようにしましょう」

「ええ、ですから――」

 男も男で困難があったのだろう。その迷いない瞳には、艱難辛苦を乗り越えてきた人間のものだった。

「こうなったからには、責任を取ります――」

「は」

 この男は何を言っているのだろう、と。

「あなたを、必ず幸せにします」

「は?」

 楓は、その言葉の真意が理解できなかった。

「恥ずかしがることはなんてないよ!」
「そうだよ、高垣さんとプロデューサーなら、みんなが祝福してくれるよ」

 困惑する楓に、周囲のアイドルたちから言葉が浴びせられる。

 ――『ばけもの』が、そこに居た。
 ――『誰かに思いを寄せる高垣楓』はもう、育ちきっていた。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:30:26.67 ID:1qpUpdjR0
「だって、そうでなければおかしい」
「プロデューサーなら、きっと幸せにしてくれる」
「見た目もお似合いだし、大丈夫」

 高垣楓には理解できなかった。

「どういう事でしょうか?」

 高垣楓の顔が、声が、険しくなる。

「――僕は、改めて思ったのです。貴女には笑顔であって欲しい。そうすれば、世界中の人が笑顔になれる。そのための努力を、惜しみません」

 表向きは誠実な言葉だ。だが、その言葉の先には高垣楓は居なかった。

「笑顔は、どうやって生まれると考えているんですか?」

「貴女が笑顔であれば、皆が自然に笑顔になれます」

「それは、私の顔を見て言っていますか?」

「はい」

 何を言っているのだろう、と叫び声が喉の奥まで競りあがる。
 吐き気がする程薄っぺらで傲慢な言葉だった。
260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:31:10.28 ID:1qpUpdjR0
「よく言ってくれた」
「うんうん、やっぱりプロデューサーはすごいよ!」
「それなら、みんな安心だね」

 なのに、この場に居る人間は、高垣楓以外にその言葉を賞賛する。

「もう、そうする他ないのか……」

 代表は何かを諦めたようにしていた。

「仮に認めなければ、わが社はアイドルの自由を奪う存在となる」

 それは、この半年間、何度も言われてきた。
 一人の女性の自由を奪う悪。

「プロデューサーさんなら、絶対に大丈夫」
「悔しいけど、お似合いだって」
「それに――そうでないと、『高垣楓』を誤解していたと言う結果しか残らないよ」

「はい――貴女の笑顔を、守ってみせます」
261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:32:13.43 ID:1qpUpdjR0
 ――『ばけもの』は、見ていた。 

 高垣楓は、理解した。
 もう、人々が求めているのは高垣楓の皮を借りた『ばけもの』なのだと。
 想像の中で肥大化し、それでいて自分たちの思い通りになる化け物なのだと。

 もう、私は『高垣楓』として求められていない――そう、悟ったのだ。

 僅かに考え込む。
 答えは、決まっていた。

 ――『ばけもの』は、もう、高垣楓ではなかった。

「私が居たら、『高垣楓』は誰の隣にも居られませんね」
262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:32:58.98 ID:1qpUpdjR0
◆◆◆

 年が明ける前に、高垣楓はアイドルを引退した。
 皆、それを予見していたかのように大いに騒ぎ立て、彼女に関連する情報は年明けのお茶の間を散々にかき回す。

 冬は終わり、春も瞬く間に通り過ぎた。
 気が付けばまた蒸し暑い季節になっていた。

 そんなある日の仕事帰り、川島瑞樹は男に呼び止められた。

「あら、どうしたの?」

「貴女は、あの『高垣楓』と親しかったそうですが」

 またか、と内心、毒ずく。この数か月、同じ切り出しの質問は山ほど受けた。

「申し訳ありません。川島瑞樹としての回答は、事務所を通して行いますので」
263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:34:12.33 ID:1qpUpdjR0
「ですが」

 情けなく追いすがる男を置き去りにし、瑞樹は帰路を急ぐ。
 瑞樹の胸に、苦い感情が溢れる。もう少し若ければ、殴り倒していただろう。

 ――まだ、『高垣楓』の名は忘れられていなかった。
 ――まだ、人々は『高垣楓』を幸せにしようとしていた。

 曰く、誠実な男に断られ、姿を消した。
 曰く、内縁の妻として男を支えている。

 人々は口々に言った。
 どんな結果であっても、自分たちは『高垣楓』の幸せを祈る、と。
 彼らの中で、高垣楓は理解ある人々に囲まれて幸せに過ごしている。 

 ――『ばけもの』は、まだ、居る。

「まったく……これじゃあ、あの子が外に出れるのはまだ先かしら」

 帰路を急ぐ。その先には、信じられるのは貴方だけだと告げた、一人の女性が待っている。

264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/09/26(火) 23:34:47.97 ID:1qpUpdjR0
以上となります。
ありがとうございました。
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/09/27(水) 00:01:26.57 ID:MoWO1bnJ0
266 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:19:10.85 ID:ktVirj9S0
投下いたします。
267 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:20:37.39 ID:ktVirj9S0
ほたる「あの……白菊ほたる、です……」

ほたる「この世には、不思議なことってたくさんありますよね」

ほたる「私も、今朝は不思議と犬に吠えられなかったです。……不思議じゃないですか? ……そうですか」

ほたる「他には……お風呂で触れてもいないボディソープが倒れたりとか、急にシャワーが冷水になったりとか」

ほたる「お風呂って怖いですよね。裸で、無防備で。顔を洗おうと目を閉じたときとか」

ほたる「背後に――いえ、目の前に、なにかいるんじゃないかって思ったことはありませんか?」

ほたる「なにかってなんだ? その、なんでもいいんですが……そうですね、たとえば」

ほたる「『自分』がいた、なんてどうでしょう?」

ほたる「……こんな感じ、でいいのかな?」



『エル』


268 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:21:44.54 ID:ktVirj9S0
 加蓮は浴槽に張ったお湯に手を浸し、その温度を確認した。
 少し熱いかな? と思い、水を継ぎ足しながら、差し込んだままの手でゆっくりとお湯をかき回す。
 水を止め、なまぬるくなったお湯から手を引き抜く。たぶんこのぐらいでいいだろう。
 浴槽のふちをまたぎ、普段入浴するときよりは少なめに張ったお湯に身を沈める。
 底面におしりをつけ、脚を伸ばすと、おへその上あたりまでぬるいお湯が上がってきた。かすかに揺らぐ水面が肌をなでているようで、少しこそばゆく感じた。

 加蓮は、半身浴というものを試していた。
 ダイエットや美容にいいと、一時期流行っていたものだが、なんとなく機を逸してしまい、これまでにやってみたことはなかった。
 しかし先日、事務所で先輩アイドルの川島瑞樹から勧められたこともあって、いちどくらい試してみようかな、という気持ちになった。なにも難しいことはない、ぬるめのお湯におなかのあたりまで浸かり、20分から30分ほど待つ、ただそれだけだ。

 手でお湯を掬い、ちゃぷちゃぷともてあそぶ。
 ……うん、そんな気はしていたけど、やっぱりこれはなかなか、

「退屈だね」

 思わずひとりごとがこぼれる。
 なにもしない20分というのはなかなかに長い。近々捨てるつもりの雑誌でも持ってくればよかったか、しかしお湯に入る前だったらともかく、今から取りに行くのは面倒だ。

 特にできることもなく、基礎代謝の重要性について熱心に語る瑞樹の顔をぼんやりと思い返した。自分よりはむしろ、いっしょにその場にいた奈緒のほうが真剣に聞いていたような気がする。そういうの興味あったりするのかな? そういえば、そのあと2日前の夕食を覚えているかという話になったのは、いったいなんだったんだろう。

 シャンプーのボトルの隣に並んだ、防水のデジタル時計に目を向ける。表示は『17:52』、お湯に入ってから5分が経過していた。
 早めに切り上げるにしても、5分はあまりに根気がなさすぎるだろう。お試しの1回とはいえ、せめて10分以上は続けないと格好がつかないし、効果もあるとは思えない。できればキリよく18時までとしたいところだけど。
 ……なにもすることがなく、ただじっとしているというのは、どうも昔を思い出してしまって好きじゃない。

「アタシにはあんまり向いてないかなー」

 代り映えのしない浴室の風景を眺め続けるのにも飽きて、ふぅと息をつく。
 ……あー、ダメダメ、眠っちゃいそう。
 意識が遠のいていくような感覚を振り払い、いつの間にか降りていたまぶたをこじ開ける。
 景色が一変していた。
269 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:22:53.39 ID:ktVirj9S0
 自宅の浴室であることは間違いない。だけど、なぜかタイル張りの床が見えた。それから浴槽が見えた。
 浴槽には人が入っていた。加蓮だった。
 加蓮は、加蓮を上から見下ろしていた。

 思わず悲鳴を上げた。
 上げたつもりだった。
 しかし、「きゃあ」とも「わあ」とも、発したはずの声は出ていなかった。

 ――なにこれ!? どうなってるの!?

 そう叫んだつもりの声も、やはり空気を震わせることはない。
 真上から見下ろすようなアングル、この視点が本当なら、今自分のいる位置は天井付近だ。つまり、浮いているということになる。
 そんなことってある?

 戻らないと、と思った。状況がわからず頭は混乱していたが、視界は意思の通りに、浴槽の中の加蓮に向かって移動していった。
 体当たりでもするように、もうひとりの自分に突っ込む。一瞬、頭の中が白く光った気がした。 

 ぱちりと目を開く。見慣れた浴室の風景がそこにあった。
 下半身にお湯のぬるさを感じ、深い眠りから覚めたように五感が働き始める。
 胸に手を当てる。どくんどくんと早めの鼓動が伝わってきた。

 ……生きてるね、うん。

 お湯に浸っていない上半身からは汗が流れていたが、半身浴の効果ではなく、今この瞬間にドッと湧き出たような気がする。冷や汗というものだろう、これは。
 加蓮はシャワーで軽く体を流し、浴室を出た。
 視界の端にちらりと映った時計には『17:55』と記されていた。

 動悸はしばらく治まりそうにない。


270 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:24:20.17 ID:ktVirj9S0
「あら加蓮ちゃん、半身浴やってみた?」

「あー、あれ一応やってみたんですけど、すごい汗かいて、しばらくぐったりしてましたよ、あはは」

「体力を消耗するものね、わかるわ。最初のうちは短い時間から慣らしていったほうがいいわよ」

「そうですね、そうします」

 後日、加蓮は事務所で会った瑞樹とそんな会話を交わした。
 しかしこれは口先だけの社交辞令であり、加蓮は再び半身浴に挑むつもりはなかった。
 変に心配されても面倒だからと、誰にも相談することはなかったが、あんな恐ろしい体験をするには、一度だけで充分だ。

「……って、思ってたはずなんだけどねぇ」

 あの不思議な出来事から1週間が経過したその日、加蓮は浴槽に張ったお湯の温度を調整していた。
 日が経って恐怖心が薄れてきたのか、あれはいったいなんだったんだろうという、好奇心が上回った。
 全く怖くないと言えば嘘になるけど、あのときは戻ろうと思って戻れたんだから、おそらく危険はないはずだ。

 お湯の温度も量もほぼ同じ、時間帯もおよそ同じぐらいにした。
 浴槽に入り、脚を伸ばす。あとはどうしたんだっけ? そうそう、目を閉じるんだったかな。
 現実的に考えれば、あれはきっとうたた寝でもして、短い夢を観ていたのだろう。
 それならそれでいい、夢だったと確認できれば納得もいくし、怖くもなくなる――んだけど、

 ――まさかホントにできちゃうとはね。
271 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:25:18.92 ID:ktVirj9S0
 つぶやいた声は声にならない。
 恐怖がぶり返しそうになるのを必死に抑えながら、目の前に手を持ってくる。手は見えなかった。
『あっちに動こう』と念じる。視界はするすると空中を泳ぐように移動した。
 動いた先は洗い場の鏡の前。鏡には浴室の、後方の壁が映っていた。
 なるほど、透明人間ってことだね。

『幽体離脱』という言葉がふと浮かぶ。たぶん知っている言葉の中ではそれが一番この状況に近い。
 幽体とはいっても、漫画やアニメで描かれる幽霊のような人型はとっていない。足どころか手もないわけで、どうやらなにかを動かすようなことはできない。
 思い立って、浴室のドアに向かって動いた。目の前にぐんぐんとドアが迫る。視界いっぱいが磨りガラスのドアで埋まる。そして、景色は脱衣所になった。ドアをすり抜けた。 
 再度ドアをすり抜けて浴室に戻り、浴槽の自分の姿を確認する。胸がかすかに上下していて、呼吸している様子が見て取れた。どうやら体は眠っているのと変わらないようだ。前回と同じなら、この本体に触れることで目が覚めるはず。

 ……だけど、その前に、

 加蓮はドアの反対側、浴槽の接している壁をすり抜けた。この向こうは建物の外になる。
 お隣の家の外壁が目の前にあった。壁と壁の隙間にそって、念じるままに移動し、家の前の道路に出る。
 とっくに見飽きた街並みを、沈みかけた夕日が橙色に染めていた。
 どこか遠くの空で、カラスの鳴き声が響いていた。

 もっと上へ、と思ったら空高く飛び上がった。
 あっちの方向へ、と思ったらその通りに空中を泳ぐことができた。
 もっと速くは?
 速度が上がる。『風を切る』ではなく、風が自分の中を通り抜けていく感覚があった。

 声が出せたなら、笑っていたと思う。
 高揚していた。こんなに楽しい気分になったのは、いったい、いつ以来だろう。

 ――すごい! アタシ、空を飛んでる!!
272 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:26:11.95 ID:ktVirj9S0
 しばらく辺りを飛び回った加蓮は、浴室で眠る自分の体に戻った。前回と同じく、なにごともなかったように、ただ時間だけが経過していた。
 お湯から上がり、浴槽のふちをまたぐときに若干体がふらついた。意識が離れているあいだも肉体はずっと半身浴の状態にあったから、長くお湯に浸かりすぎたのだろう。時計を見ると開始から30分が経っていた。

 じっとりと汗をかいた全身をシャワーで流し、浴室を出る。
 髪を乾かし終える頃には、もう指一本も動かしたくないほど疲弊していた。
 ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めながら、先ほどの体験を思い返す。
 楽しかった。そしてこの現象はどうやら、条件を整えれば、自分の意志で起こせるようだ。
 体は疲れていても、心はこれ以上ないくらいに晴れやかだった。


273 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:27:17.70 ID:ktVirj9S0
 翌日になっても疲労は抜けきらず、加蓮はレッスンで多くのミスをやらかし、トレーナーから散々に怒られた。

「調子、悪いのか?」

 レッスン終了後、加蓮と共にレッスンを受けていた奈緒が問いかけた。

「風邪とかじゃないよ、半身浴ってのやってみたら、思ったより疲れちゃって」

「ああ、こないだ川島さんが言ってたアレか。けっこう体力消耗するよな」

「奈緒もやってみたんだ? どうだった?」

「どうって……普通だよ。汗かいて疲れた、体重は変わってない。そんなすぐ効果が出るようなもんじゃないだろ?」

「そうだね」

 そういえばダイエット効果なんてものがあるんだっけ、すっかり忘れていた。美容のほうも忘れていたぐらいだ。
 そして、奈緒は幽体離脱はできなかったようだ。当たり前かな、誰でもできるようなら、もっと大騒ぎになってるだろうし。きっとあれは、アタシだけが特別なんだ。

「体って、重いよね」

「アホか、加蓮はもう少し太れ」

「じゃあ今から食べに行こっか? 最近この近くでみつけたお店、お客さん少なくて居心地いいんだ」

「……いちおう訊いとくけど、何屋?」

「誰でも知ってるハンバーガー屋さん」

「やっぱりか、うーん……駄目だ、あたしはパスで」

「えー、なんで?」

「ダイエットしながらファストフード食ってどうすんだよ。意味ないだろ」

 奈緒も全然太ってないのにな。

「だったら、アタシひとりで行こうかなー」

「でも、もうすぐ雨降るぞ」

 レッスン室の窓に目を向ける。暖かな陽光が差し込んで、きらきらと輝いていた。

「……いい天気に見えるけど? 天気予報でそうなってた?」

「予報とかは見てないけど、湿気の具合でなんとなくわかるんだよ」

「エスパーみたいだね」

「軽率に召喚ワードを口にするな。来たらどうする」

「これで来たらむしろ本物だよね」

 加蓮は笑った。奈緒もつられたように笑った。エスパーは、どこかでくしゃみでもしているかもしれない。
 超能力か、今だったらそれも信じられる気がする。奈緒の天気予報だって、見ようによっては一種の予知能力みたいなものだろう。

 だけど、アタシのは、もっとずっと面白いよ。


274 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:28:31.35 ID:ktVirj9S0
 加蓮はレッスンでの反省を踏まえ、離脱は3日以上の間隔を置くこと、時間は最大でも30分までとルールを定めた。いくら楽しいからといって、アイドルの活動に悪影響は与えたくない。
 それと、離脱中はきっと、なにをされても起きることはない。たとえばお風呂の外から家族に呼びかけられた際に、全くの無反応では心配するだろう。戻ってきてみたら本体が病院に担ぎ込まれていたなんて事態にもなりかねない。
 だから、離脱をするのは家の中でひとりきりのときだけと決めた。加蓮の母は専業主婦であるため、チャンスはそう多くない。自然と『3日以上の間隔』というルールにも合致した。

 何度か試してわかったのは、最大の飛行速度はだいたい全力で走るのと同じくらい、ただし長時間飛んでいても疲れるということはないので、結果的に走るよりもずっと速い。
 それから、交通機関は使えない。いちど駅で電車に入ってみたら、動き出した車両が体を貫通して走り抜けていった。あのときの光景はなかなかのホラーだった。
 つまり、移動の手段は自身の飛行のみ。ルールで決めた時間制限もあるから、それほど遠くまで行くことはできない。

 奈緒の家は距離がありすぎて無理だ。だけど、凛の家ならそんなに遠くないので、ちょくちょく覗きに行ったりもした。
 ふだんは格好つけてるけど、自室でひとりのときはけっこうだらけてるとか、なかなか気合いの入った下着を隠し持ってるとか、よく知っていたつもりでも、意外な顔が見えたりして面白かった。幽体離脱様様だ。
 もちろん、それでからかったりはしないけどね。


275 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:29:22.83 ID:ktVirj9S0
 最初のような感激こそ徐々に薄れていったものの、空を飛ぶというのは、他の何物にも代えがたい快感だった。

 解放されて初めてわかった、人間というものは苦痛に苛まれながら生きている。常に、絶え間なく。
 体の重さ、呼吸をする苦しさ、それから痛み。
 生まれてからずっとそうだから気にならないだけで、人間は、生きているというだけでいつも痛みを感じている。それは健康であってもだ。

 思えば、自分は普通の人より多くの痛みを味わいながら生きてきた。今でこそ日常生活に不便を感じない程度には健康になったものの、昔はなにもなくても常に自覚できるほどの苦痛があった。他人の『体調を崩した』が、自分にとっての日常みたいなものだった。
 なんでアタシだけ、と世界を呪ったこともある。そして、大人になるまで生きていられないのではないかという恐怖もあった。

 だから、これはきっと神様がくれたご褒美だ。
 あんなに苦しんできたんだもの、このぐらいの見返りがなくちゃ、割に合わないよね。


276 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:30:21.91 ID:ktVirj9S0
 加蓮は、ふだんは立ち寄ることもない駅の前を、上空から見下ろしていた。
 少し経って、ひとりの男性が改札口から出てくる姿が映る。それは加蓮の担当プロデューサーだ。
 急な残業とかはなかったみたいだね、よしよし。

 何日か前、ちょっとした世間話に交えて「プロデューサーって、どのあたりに住んでるんだっけ?」と訊いてみた。
 彼はプライバシー意識が高いのか、日頃から自身の情報を漏らすことがなかった。加蓮の他にも数名のアイドルをプロデュースしているが、その誰もが、彼の住所については知らないようだった。
 ひとり暮らしである、ということだけ、以前耳にしたことがある。346プロは福利厚生に手厚いと有名で、住宅手当なんかもかなり出ているだろうから、わざわざ遠くから通っているという可能性は低いはず、おそらく都内だろうとまではアタリをつけていた。
 プロデューサーの目にかすかな警戒心が宿るが、加蓮はそれには気付かないふりをして、「この仕事だと遅くなるときもあるでしょ、終電逃したりはしないの?」と続けた。
 彼は少し迷った様子を見せつつも、最寄り駅の名前を口にした。それぐらいでは住所の特定まではできないと思ったのだろう。
 加蓮は心の中で拍手を贈った。その駅は、降りたことはないが通り過ぎたことは数えきれないほどある。加蓮の家からもそう遠くはない、まっすぐ飛んで行けば往復してもまだ時間の余る距離だった。
 その後は、「そのあたりって行ったことないな、近くに遊ぶようなとこあるの?」などと適当な話題を振って話を終わらせた。

 ――では、ご案内してもらいましょうか。

 てくてくと歩くプロデューサーの横をぷかぷかと浮かんでついていく。
 駅から遠かったらどうしよう、という一抹の不安は杞憂に終わり、彼は、あまり大きくはないが新しめに見えるアパートの前で足を止めた。
 加蓮はエレベーターに向かう彼にはついていかず、郵便受けを見て部屋番号を確認した。そしてまっすぐ上に飛び、プロデューサーよりも早くその部屋の中に入った。
277 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:31:12.47 ID:ktVirj9S0
 へえ、意外と綺麗にしてるんだね、というのが第一印象だった。
 しかし、よく見てみるとそれは、片付いているというよりは物がない。物がなさ過ぎて散らかしようがない、という部屋だった。
 そこそこ広めのワンルーム、だけどせっかくの面積を無駄にするように、机がひとつと小さなタンスひとつ、あとはベッド、それしかなかった。備え付けのクローゼットが開いていて、ワイシャツやスーツが掛けられているのが見えた。机の上にはノートパソコンが乗っている。つまり最低限の衣類とパソコンしかない。
 いかにも、寝に帰るだけの部屋という感じだ。日頃から「仕事が恋人」と言っている彼らしいかもしれない。

 恋人といえば。

 うん、どう見ても女の気配はないね。
 この部屋に通い詰めるのは、いくらなんでも不便すぎるだろう、付き合っていれば多少なりとも私物を置くはずだ。それに……
 加蓮は部屋の壁を眺めた。正確には、壁にある加蓮のポスターを眺めた。それも壁紙に直接貼っているのではなく、簡素なものではあるが額縁に入れて飾られていた。
 なーんか嬉しいな、こういうの。……まあ、隣には奈緒のポスターがあって、更に隣には美嘉のポスターが飾られてるんだけども。
 職業がアイドルのプロデューサーだと知っていても、仏のように慈悲深い女でない限り、この部屋は嫌がるはずだ。そんな女はいない。

 玄関の方からカチャカチャと音がする。上がってきたプロデューサーが鍵を開けているのだろう。
 もうちょっとゆっくりしていきたいところだけど、そろそろ時間がヤバイかな。
 加蓮は玄関に向かい、ちょうどドアを開いたプロデューサーの胴体を突き抜けていった。

 ――また今度ね。


278 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:32:21.10 ID:ktVirj9S0
 加蓮は、離脱時間をもっと延長してもいいのではないか、と考えていた。
 最近は体が半身浴に慣れてきたのか、自らが課したルールの30分いっぱいまで離れていても、それほどの疲労は感じなくなっていた。少なくとも前のように翌日のレッスンにまで影響が出るということはない。
 不安があるとすれば、お湯の温度だ。30分離脱してから目覚めたとき、お湯はかなり冷めている。あれ以上温度が下がったお湯に浸かっていたら風邪を引いてしまうかもしれない。
 だったらお湯を多めに、普通に入浴するときと同じくらいの量でやってみたらどうだろう? 多少は冷めにくくなるはず、だけど体力の消耗は大きくなるかな?
 なにごともやってみなくちゃわからない、失敗したら失敗したで、今後の糧にすればいいんだ。だって人生は長いんだから。

 そもそも、それで離脱はできるのだろうか? という疑問もあったが、実際にやってみると、あっさりと体から抜け出せた。どうやら離脱の条件にお湯の量は関係なく、温度が重要らしい。

 その日、加蓮が肉体から離脱して10分ほど経ったころ、突然ぐらりと視界が揺れた。
 めまい? と思いながら空中に静止する。違う、幽体にめまいなんて起こるはずがない。
 揺れてるのは加蓮ではなかった、地面が揺れていた。

 地震……けっこう大きいかな?
 
 空中にいる加蓮は振動を感じることはない。だが自分自身が揺れに含まれることなく、景色だけが揺らいでいるというのは、どこかゾッとする光景だった。大地や建物がゆらゆらと揺れるさまは、なにか得体の知れない巨大な生き物が身をくねらせているようにも見える。
 地震は、30秒もかからずにおさまった。道中で足を止め、様子をうかがっていた人々がわらわらと動き始める。遠くの方では、止まっていた電車も走り出した。
 建物が倒壊するほどの規模ではなかったにしろ、まるで一時停止していた動画を再生したかのように、さっさと動き始める地上の人々の姿が、加蓮には、なんだか異様に映った。

 加蓮は、はっと我に返って反転し、元来た道を全速力で飛んだ。
 自宅から現在地まで、およそ10分の時間がかかっていた。当然、帰りにも同じくらいの時間がかかる。

 体は! アタシの体は大丈夫!?
279 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:33:08.13 ID:ktVirj9S0
 ほぼ一直線に自宅の浴室に戻り、即座に自分の体に飛び込む。
 これで目が覚めるはずだった。今まではずっとそうだった。
 しかし、今回に限っては、そうはならなかった。加蓮の幽体は、体を素通りした。

 揺れで体勢が崩れたのか、加蓮の体はいつもより深く浴槽に沈んでいた。今日は普段より多くお湯を張っていた、その水面は、ちょうど顔の半分あたりにあった。鼻も口も、その下だ。
 眠り続ける加蓮の顔は、穏やかに目を閉じたまま、紫色に染まっていた。
 
 ――嘘でしょ。

『窒息』という単語が脳裏をよぎる。
 体に戻ることはできなかった。何度繰り返しても、建物の壁や他の物質と同じようにすり抜けてしまう。
 どうする? まずお湯から出さないと。それから、人工呼吸? 心臓マッサージ? 救急車を呼んで……
 思考が氾濫する。その全てが、今の加蓮にはできないことだった。すべての物質をすり抜けるこの状態では、浴槽から体を出すという、ただそれだけもかなわない。
 家の中に人はいない。加蓮は離脱の際は家族のいない時間を選んでいた。当分家に帰ってくることはない。
 壁を抜けて屋外に出る。そこから少し飛んだ先にある大通りでは、たくさんの人が、地震なんてなかったような顔をして歩いていた。

 ――助けて!

 声の限りに叫んだ、つもりだった。

 ――向こうの家にアタシがいるの! お風呂でおぼれてるの! 誰かきて、助けて!

 反応はない。道行く人の目の前をめちゃくちゃに飛び回っても、体の中を突き抜けても、誰ひとりとして、そこにいる加蓮に気付くことはなかった。

 どうしてこんなことになっちゃったの? 空なんて飛んだから? みんなの家を覗き見したから? アタシそんなに悪いことしたの?

 ――無視しないでよ!!

 焦燥と絶望が怒りに転換され、気付けばそう叫んでいた。
 それから道行く人々に、思いつく限りの罵倒の言葉をひたすら浴びせかけた。そのひとつも、音になることはなかった。

 地震発生から、どれだけの時間が経っただろう? 蘇生措置が間に合うのはどのくらい?
 わからない。
 わからないけど、たいして知識を持ってるわけじゃないけど、そんな時間は、もうとっくに過ぎているだろうことだけはわかる。

 ……嫌だ。

 せっかくアイドルになったのに、まだまだ、これからだったのに。

 誰か……聞いてよ。

 泣けるものなら泣いていただろう。しかし、どれだけ振り絞っても、声も、涙も出なかった。



 ――わたし、まだ、死にたくないよ。 


280 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:33:59.76 ID:ktVirj9S0
 その日観測された地震は、震度5強、マグニチュード5.5と発表された。
 地震の多い日本では、さほど珍しくもない規模である。これにより、1人の死者と16人の重軽傷者が出た。
 大多数の日本人にとっては『いつもの地震』であり、大きな話題になることもなく、忘れられていった。
 だが、346プロダクションの内部は、それからずっと重苦しい空気に包まれていた。
 地震による人的被害、その唯一の死亡者が、346プロ所属アイドルの北条加蓮だったからだ。
 死因は水死。地震発生時入浴中だった加蓮は、なんらかの理由で意識を失い、浴槽の湯に沈んで窒息したと見られている。

 そしてもうひとり。
 地震発生時、屋外を徒歩で移動中だった白菊ほたるが、マンションからの落下物を頭部に受け、昏倒。通行人が119通報し、病院に搬送された。検査では脳に損傷や出血は見られなかったが、丸一日以上もの間、意識不明だったという。
 ケガそのものは重いものではなく、入院も3日程度だったらしいが、それ以降、346プロのアイドルたちが事務所でほたるの姿を見かけることはなかった。彼女は寮住まいだったが、寮の自室にも戻っていなかった。

「地震を自分のせいだと思っているのかもしれない」

「アイドルを辞めるつもりでは?」

 そんな噂が流れ、加蓮の訃報によるショックも冷めやらないアイドルたちの表情を、より一層曇らせた。
281 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:34:41.33 ID:ktVirj9S0
 地震からおよそ1ヶ月が経過した頃、ほたるが事務所を訪れた。
「みんな、久しぶり」と手を振るその顔は、どこか固く、緊張しているように見えた。
 ほたるが語ったところによると、この1ヶ月、ほたるは負傷の連絡を受けて見舞いにやってきた母親と共に、鳥取県の実家に帰省していたらしい。休養の理由については、頭部に衝撃を受けたことによる、軽い後遺症が残っていると説明した。

 それから数日後、ほたるから担当プロデューサーに「しばらくは仕事は受けずにレッスンに専念させてほしい」と申し出があり、プロデューサーとトレーナーで協議し、これを承諾した。
 休養を明けてからのほたるは、ブランクのせいか、それとも後遺症の一環か、歌にもダンスにも、どこかぎこちなさが見られ、到底ステージに上げられるレベルではないと判断されたからだ。他の寮住まいのアイドルから、「箸の使い方がヘタになった」と言ってスプーンやフォークで食事しているとの報告も上がっている。
 復帰当初は、はたしてカンを取り戻せるのだろうかと危ぶまれたものだが、仕事を取らない代わりに他のアイドルよりも多くスケジュールされたレッスンを、ほたるは執念にも似た熱心さで取り組み続け、歌やダンスの違和感はまたたくまに改善されていった。表現力に至っては、前よりもいいぐらいだとトレーナーは言った。
 また、後遺症のひとつに、自分のロッカーの場所を覚えていないといった軽度の記憶障害があったが、同僚アイドルたち、特に寮住まい組の協力もあり、今では日常生活に困るようなことはないらしい。
282 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:35:49.39 ID:ktVirj9S0
 その日、ほたるは予定されていたレッスンを終え、事務所をあとにした。
 346プロの寮は事務所にほぼ隣接して建てられており、歩いて2分もかからず帰宅することができる。しかし、そのときのほたるは、寮の前を素通りした。
 大通りに出たあと、駅とは反対方向の、あまり栄えているとはいえない区画に足を進める。同僚のアイドルたちは、通常このあたりにやってくることはないと、事前に調査を済ませてあった。

 ほたるはひとつの建物に足を踏み入れた。
 そこは全国展開しているファストフードのチェーン店で、立地条件のせいか、客はあまり多くない。ほたるはさっと店内を見回したあと、空いているレジカウンターの前に進み、店員に向けて言った。

「ポテトのLください」



   〜Fin〜
283 : ◆ikbHUwR.fw [saga]:2017/09/30(土) 10:36:25.86 ID:ktVirj9S0
終わりッス。
ありがとうございました。
284 : ◆LEaEgxSrqk [sage saga]:2017/10/01(日) 03:09:57.60 ID:iKH7pqC/0
テスト
285 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:13:12.92 ID:iKH7pqC/0
投稿させていただきます よろしくお願いします
286 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:14:45.06 ID:iKH7pqC/0
「不老の秘訣」
287 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:16:47.33 ID:iKH7pqC/0
「若いままでいる秘訣、ですか……?」

菜々パイセンは少し困惑した表情で、私の方に顔を向けた。

「そうです!やっぱり菜々パイセンって、お肌つるつるだし動きもきびきびしてるし、17歳を名乗ってるだけあるぅ〜って尊敬してるから、だからこそ、その美の秘訣に迫ろうと!!教えて☆」

表情をにへらと緩ませながら小さい手を振って、「そ、そんなことないですっ」と頑なに賛辞を受け入れないパイセンも、小動物のようで可愛らしい。
この歳になって、ほぼ同年代の女性を見下ろすなんて事態が起こるとは思わなかったし。……おっと、パイセンは17歳だった。いっけね。アイドルとしてのキャラを重く背負う私達にとって、設定の徹底というのは必須だ。ファンの前だけキャラを演じて、ステージ降りたらはい終わり、ではいつかボロを出してしまう。まぁ、私は出来てないしパイセンは徹底しているのにボロが出る始末なのだが。

それはさておき、パイセンの年齢不詳っぷりは衝撃だ。
体力持つのは一時間と言っても、その間のパフォーマンスは実際の17歳アイドル達に引けをとらない。いや、菜々パイセンは実際17歳であるのだけれども。言葉のアヤである。

そんな彼女のことだ。きっと、いや必ず若さを保つ秘訣があるに違いない。こういうのは瑞樹さんの方が得意分野かもしれないけど、彼女の手法はちょっと、手間がかかるから。三日坊主で揃えた道具を散らかす未来が見える。既に部屋には用途を失った美容グッズが転がり始めている。パイセンに希望を見出しているのは、決してズボラであると思っているからではない。

「教えて欲しいぞ、センパイ☆」

「うーーーーん」

唸りながら首をひねっている。出し惜しみするということは、いやでも期待が高まってしまう。

「……ここだけの話ですよ?」
288 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:18:22.25 ID:iKH7pqC/0
周りをきょろきょろと確認してから、パイセンと私は空いてる会議室へと向かう。二人とも中に入ると、パイセンは抜かりなく鍵をかけた。

ワクワクはしてるんだけど、なんだろう、思ったより神妙な雰囲気だ。見慣れた会議室なのに、少し肌寒く感じるのは気のせいだろうか。

「誰にも言わないでくださいね」

そう言ってパイセンは、ウサミミ型のポーチから茶色の小瓶を取り出した。一般的な栄養ドリンクを彷彿させるが、ラベルは貼られていない。
「んーーと、これは……?」
お手上げのポーズを取ると、パイセンはその小瓶を私に渡した。中を覗くと、ゆっくりと液体が揺れている。

「顔パックなんかもしているんですけど……どうしても肌が荒れたり、疲れが取れない時はそれを飲んで、回復してるんです」

「これを飲むと〜……?もしかして、若返り出来ちゃったり?」

「その通りです!」

瓶の中身を揺らしていた手先が止まる。ぶわっと鳥肌が広がり、寒気が一層ひどくなる。

「そ、そんな嘘はノースイーティー……っすよ」

「一瓶飲めばおおよそ一歳分若返り出来る。これは、そういうお薬なんですよ」
289 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:22:06.70 ID:iKH7pqC/0
パイセンの目は、人を騙そうとする意地悪な目じゃない。しかし、こんな荒唐無稽なことを信じるというのも、いくらパイセンが相手とはいえ。

……まさか、パイセンも騙されている? 

最近は水素水やら怪しい物が流行っているから、ただの栄養ドリンクを高値で買わされていてもおかしくない。

パイセン、こんな詐欺に騙されるくらいキャラを維持するために悩んでいたんだ。

私が目を覚まさせてあげないと……。

「あっ、別に騙されているわけじゃありませんよ!」

心の内を見透かされたようで、びくっと肩が上がる。

「べ、別にパイセンを疑っているわけじゃ……」

「目が、とても心配そうだったので」

気持ちは分かりますよ、と私の懸念までカバーされてしまうといよいよ立つ瀬がなくなる。

「菜々も、初めは疑いましたよ。ある日突然、家のドアを開けたすぐそこに小箱が置いてあって、その中にこれがいくつか入ってて、そんなの怪しいですしすごくびっくりしましたし」

「えっ、じゃあこれ差出人分からないんすか!?」

つい大きな声が出てしまい、慌てながらパイセンがしーっ、しーっと口の前に人差し指を立てる。

しかし、アイドルにとって住所が特定されるということは非常事態だ。

そのことくらい、パイセンも分かってるはずだけど……。

「箱の中に書き置きみたいなのはありましたけど、そこにも何も……」

「書き置き?なんて書いてあったんですか?」

そう言われてパイセンはもう一度ポーチの中を漁る。

少し経って、しわのついた紙きれを取り出した。見る限りは変哲のない紙だ。

「えーと……『年齢を保ち続ける貴方の一助になりますように』って初めに書いてあって、それからはこの液体の説明ばっかりですね、やっぱり」


私は考え込む。文面的に、やはり送った人物はパイセンの知識をある程度知った上でこの得体のしれない小瓶セットを送っている。

ストーキング目的にしては、やや行動がずれているが。
290 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:23:56.78 ID:iKH7pqC/0
「あ、忘れてました。これ、副作用あるんですよ」

「ひどい頭痛がくるとかですか?」

ぶぶーっ、と得意気に返される。何に得意気になっているのかは不明だが、可愛い。

「これを飲むと、一年分若返る代わりに」

一拍。

「一年、寿命が縮まるんです」

「やっぱり危ない薬じゃないですか!こんなの捨てましょ!」

「ああーっ、ちょっと待ってくださいっ、待って、ノウッ!」

小瓶を持って外に出ようとすると、後ろからパイセンにぐいぐいと引っ張られる。

服を掴まれているから、このままじゃベロベロに伸びてしまう。

しぶしぶ立ち止まり、瓶の底でこつんとパイセンの頭を叩く。思ったより小気味いい音が響いた。

無言で頭を押さえるパイセンも、小動物めいてて可愛い。

「勢いついちゃったぞ☆てへっ☆」

上目で睨まれる。

「……すんません」

「もーーっ!痛かったんですからね!」

「それでも、飲み続けてたら早死にする代物なんてロクでもないっすよ。……ていうかパイセン飲んだんすかこれ?」

照れくさそうに指を二本立てる。照れる場面ではないんだけれども。
291 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:26:18.87 ID:iKH7pqC/0
「早苗さんとかと遅くまで飲んじゃって、どうしても肌荒れが治まらなかった時に、栄養ドリンクと間違っちゃって……」

「大丈夫だったんですか?」

縛った髪をぴょこっと揺らして彼女は頷く。

「それはそれは凄い効果でした。身体全体で若返りを感じるんです。こう、キュピ―ン!って感じで、さながらメルヘンチェンジしたかのように……」

「あーわかったわかりました」

効果は絶大らしい。真に迫る表情からそれが伝わってくる。

興奮してぴょんぴょん跳ねるウサギを宥めながら、段々湧き上がる怪しい液体への興味を、温い手汗とともに感じていた。

「その顔は信じてませんね!肌がほんとに一年分若返るんです!ダンスだって、一年前に踊ることの出来た時間まで踊り続けられたんです!」

「え、ずっと体力持つのは一時間じゃないんすか?」

「実は年々少なくなってるんです。今年は去年より29秒縮まりました……」

マラソン選手かよ。そう言いかけたが、本気でしょんぼりしているパイセンにそんな軽口は、ノースィーティーだ。

しかし、ウサミン星人の実態もさることながら、効果らしきものはありそうだ。

最近階段を急いで駆け上がったら動悸が激しくなってしまった私にとって、充分魅力的な特効薬だった。

「本当に寿命が縮まるのは怖いですから、結局二本しか飲んでいないんですが、本当に困っているなら一本どうですか?」

そう言ってパイセンが小瓶を渡す。

少しためらったが、私の手に再び謎の薬が戻ってきた。

数々のアンチエイジングを試してはやめてきた私にとって、またとないチャンスかもしれない。

この液体が、私の救世主となるか、はたまた死神となるか。

この選択は、賭けだ。それなら……。

292 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:28:53.94 ID:iKH7pqC/0
「おおっ!?」

パイセンが素っ頓狂な声をあげたのもつかの間、私は瓶のふたを開けて、そのまま一気に飲み干した。

味を思い出そうとする前に、眩暈がきた。

経験したことの無いような、まるで大型地震に巻き込まれたように、天と地があやふやになる。

今どこにいるのか分からなっていく。

「あっ!」

パイセンの声と身体への衝撃で、自分が倒れたのだと分かる。床の冷たさに体温まで奪われていく。

視界のほとんどが闇に包まれていく。

そして、私の身体に頼りない糸でぶら下がっていた意識も、ぷつんと、容易く切れて消えていく。

何故だろう。もしかしたら、私の寿命は残り一年未満だったのかもしれない。

それなら、馬鹿なことをしてしまった。

いや、これでいいのかもしれない。楽をして美を得ようとした罰なのだろう。

パイセンは、努力と最善を尽くした上で、どうしようもなくなった時の最終手段としてしか服用していなかった。

やっぱ、パイセンには敵わないな……。
「……なさい」

もっと、努力すれ良かったかなぁ。私なりにしていたと思っていたけれど。

「……きなさい」

ああ、次もし生まれ変わったら、もっとスイーティーなアイドル目指して、がんば……。





「起きなさい、心!!!」

顔面に容赦ない衝撃が刺さる。ぼやけた視界に、新聞か雑誌を丸めたものが映る。


「あれ……?」
293 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:32:18.74 ID:iKH7pqC/0
死んでいない。

身体の下の慣れた感触は、畳のざらざらだった。

木目上の天井にも、見覚えがある。

身体を見回しても、服装がTシャツ一枚とひどくよれたジャージズボンに変わっているだけで、他に変化はない。

「なにぼーっとしとるか!ゴミ捨ててきんしゃい!」

怒号と共に大きいゴミ袋が二つ飛んでくる。

アイドルがこんな格好で外出たらダメだろ、と着替えようとすると、

「いつもそんなんでゴミ捨て行っとる!」

と、謎のおばさんに睨まれてしまった。

と、いうか。謎のおばさんっていうか。
どっからどう見ても私のお母さんだ。見覚えのある部屋も、ここが私の実家なら説明がつく。

しかし、全く納得はできない。

混乱したままの頭で、外に放り出される。

終わりかけとは思えない日照りが、アスファルトも草も関係なく照らしている。

ゴミ袋は意外に重く、少しの距離でも汗が垂れる。

って、こんなことをしている場合じゃない。一体何が起こったのかを突き止めて、事務所へ戻らないといけないのに。

その時、タイミングよくポケットのスマホが震えた。藁にも縋る思いで、通話に応じる。

「あ、もしもし!今、どうなってる?」

「パイセン!!」

私は感激の言葉を飲み込んで、状況を細かく話す。

「なるほど……。大体何が起こったのか分かりました」

「ほんとっすか!?」

やっぱりパイセンは頼りになる。

「やはりあの薬は、本物なんですね。はぁとちゃん、やっぱりあなたは寿命が尽きてしまったんです」

諭すような彼女の口調で言われても、その意味を飲み込めない。

「でもはぁとは死んでないぞ☆ 現にこうやって通話出来てるじゃないすか!」

「年齢の、じゃないんです」

一呼吸おいて、再びパイセンが言う。


「アイドルとしての、です」
294 : ◆lT1JsxjocTLP [saga]:2017/10/01(日) 03:32:51.68 ID:iKH7pqC/0
おしまい

ありがとうございました
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