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球磨「面倒みた相手には、いつまでも責任があるクマ」
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422 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:20:06.84 ID:xVa5x4Ph0
初老の軍人と旧式の軍艦。
「大分、やつれたな。提督」
「……そういう貴様は、ボロボロだな。球磨」
「在りし日の提督」の姿と「軍艦・球磨」の姿が、其処にはあった。
423 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:22:35.85 ID:xVa5x4Ph0
「中将になったって話を聞いた。おめでと」
「……ありがとう」
再会の喜びを孕んだ声色を投げかける球磨に対して、更に階級を上げていた在りし日の提督である「中将」は、喜びとは裏腹に何処か上の空で言葉を返していた。
そして中将は、艦首付近にある波切板を背もたれに、力なく腰かけると、球磨に言葉を投げかけた。
「……細やかながら、色々活躍して回ったそうじゃないか」
「フィリピンの海で敵艦をちぎっては投げまくった。やっぱり球磨は、意外と優秀だ。上陸作戦の際も、球磨に搭乗していた特別陸戦隊がザンゴアンガに上陸して、取り残されていた同胞を救出した」
「……そうか」
中将の眼前には、ボロボロになった日章旗が、静かに揺れていた。
424 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:23:23.64 ID:xVa5x4Ph0
「……魚雷が命中したって聞いた」
「比島(フィリピン)侵攻作戦の時に米魚雷艇と戦って、その時一発が艦首に当たった。この球磨をもってしても、ここまでと覚悟した。だけど何故か魚雷は爆発しなかった。あの時は本当、もう少しで死ぬところだった」
「……そうか」
安堵の溜息を一つ吐いた中将は、憂いの表情を浮かべた儘、黄昏色に滲み始めた空を静かに眺めていた。
425 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:25:46.05 ID:xVa5x4Ph0
「それよりも提督は何故、此処に居るんだ? 越南(サイゴン)司令官の仕事はどうした?」
そういえば何故、提督が此処に居るのか気になった軍艦・球磨は、中将の現状について尋ね返した。
「……2か月前に任を解かれた。流石に私も歳だ。数日前に日本への帰国命令が出たが、貴様が此処に居ると聞いて、無理を言って沼南島経由での帰国に変えた……数時間後には、日本行きの艦艇に乗艦して、帰国する手筈になっている」
「そうだったのか。それにしても……そこまでして、こんな旧式の軍艦に会いに来てくれたのは、本当嬉しい」
「……それぐらいしか、今の私に出来る事はないからな」
更に悲しみを吐き捨てた中将の姿は、とても朧であった。
426 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:29:22.48 ID:xVa5x4Ph0
「帰国したら提督はどうする?」
その中将の様子が少し心配になった球磨は、更に問いかける。
「……帰国したら、予備役として昨今設置された軍需省に就けとの事だ」
「そうか、ならお互い後方任務だ」
「……そうさな、お互い後詰だな」
そうして二人は、皮肉的ながらも温かな笑みで言葉を交わした。
その二人の言葉には、何とも言えない親近感があった。
427 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:30:11.29 ID:xVa5x4Ph0
だが、それが中将の憂いの種では無い事は分かり切っていた。
そう言葉を返した中将の声色や姿から、何時も纏っていた筈の覇気が、いつの間にか抜け落ちている。
この様な中将を見たのは、球磨も初めてだった。
428 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:30:48.21 ID:xVa5x4Ph0
「どうしたんだ、提督? 何かあったか?」
やはりいつもと違う中将の様子に、球磨は心配になって尋ねた。
「……球磨。一つ聞きたい」
そして中将は一呼吸の後、球磨に対し、憂鬱を含んだ声で、問いを投げかけた。
429 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:31:23.45 ID:xVa5x4Ph0
「球磨は、自身の存在理由について疑問を抱いた事はないか?」
430 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:32:03.86 ID:xVa5x4Ph0
「無い」
だが、その中将の問いかけは、軍艦・球磨によってあっさりと否定されてしまった。
431 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:33:19.29 ID:xVa5x4Ph0
「開戦前にも言ったかもしれないが、球磨はこの国を、ひいては誰かを護る為に生み出された軍艦だ。球磨は唯、お前たちの想いを乗せ、散華するその時まで戦うだけだ」
そうして真ん丸と目を見開いた中将に対して、球磨は更に力強く宣言した。
「お前たちが球磨に託してくれたその想い。それが球磨自身の想いでもあり、球磨が戦う理由だ」
その輝きは、今の中将には眩し過ぎる程、強いモノであった。
432 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:33:48.64 ID:xVa5x4Ph0
「……貴様は強いな」
「当然だ」
中将の言葉に球磨は、ふふん、と愛らしげに鼻を鳴らした。
433 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:34:29.86 ID:xVa5x4Ph0
――その軍艦・球磨の信念を纏った声色を聞いて、中将は思った――。
434 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:35:27.44 ID:xVa5x4Ph0
これ程、気高く、一点の曇りも疑念もなく、唯自身の想いだけを信じて「戦う」事が出来る少女。
その想いを果たす為なら、この娘は嬉々として、世界にその身を捧げるだろう。
435 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:36:21.59 ID:xVa5x4Ph0
砲雷撃の雷雨に耐え、戦の炎に焼かれてもなお、激動の時代を駆け抜けようとする、この娘の雄姿。
436 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:36:51.26 ID:xVa5x4Ph0
この時、改めて思い知らされた。
私なんかが遠く及ばないほど、この娘は純粋で無垢だ。
この娘は気高い存在だった。
437 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:37:34.13 ID:xVa5x4Ph0
――唯々清らかな器、それがこの娘だ――。
438 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:40:16.92 ID:xVa5x4Ph0
そして中将は、敬意と賞賛と愛情が入り混じった感情の儘、ぽんぽんと鉄板装甲に手を触れ、その表面を優しく撫でた。
そうして触れた鉄板装甲は、先刻まで燦々と照りつけていた太陽光のせいか、幾分か熱を含んでいたが、不思議な事に触り続けられない程、熱くは無かった。
「なでなでしないで欲しい。ぬいぐるみじゃない」
軍艦・球磨は、むぅと目を細めた様な声を上げたが、中将は言葉を返そうとしなかった。
その中将の表情は、優しいながらも、悲しみに満ち溢れていた。
439 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:41:08.05 ID:xVa5x4Ph0
「……提督、球磨で良ければ話を聞く。一体何があった……?」
いよいよ心配になった球磨は、中将に再び尋ねた。
「……少し前に司令部でな、ある話を聞いたんだ」
「ある話?」
そして中将は、一つ一つ悲しみを洩らす様に、話を始めた。
440 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:44:26.23 ID:xVa5x4Ph0
「戦備考査部会議や第一線から、起死回生になるであろう窮余の一策、戦局を挽回するであろう戦法が挙げられた……しかもその戦法は、全て同じ様な内容だった……皆が口を揃えた訳でも無いにも関わらず、だ……」
「それは一体……」
中将は言葉を無理やり吐き出す様に。
441 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:45:34.37 ID:xVa5x4Ph0
「爆薬を積んだ戦闘機なり魚雷なりに乗り込み、それを乗員が操作して、米英の敵艦に体当たりする必中の戦法」
――――それはもう泣きだしそうな程、悲痛な声で、中将はその戦法を洩らした。
442 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:46:28.01 ID:xVa5x4Ph0
「それって……! それでは乗員は……!」
「……言わずもがな」
その中将が述べた戦法を聞いた軍艦・球磨は、「来るところまで来てしまった」と言うやるせなさを、ひしひしと心で感じていた。
443 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:47:48.27 ID:xVa5x4Ph0
「ミッドウェー海戦以降の前線の話は常々聞いてはいたが……まさか……それ程まで、第一線の戦況は追い詰められているのか」
「……そうだ……今はまだ提案段階とは言え、既に各地前線で独断による実行例が報告されている……それに戦況は、日に日に悪化している……海軍中央部も、近々首を縦に振らざるを得ないだろう……」
「……」
「……私は」
そうして歯の食い縛りを緩めた中将は、弱々しく笑みを浮かべながら、自身の心情について、球磨に語った。
444 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:49:23.29 ID:xVa5x4Ph0
「……私はな、球磨……その話を聞いた時……私の心を支配したのは……誰かを護る為に人はそこまで己を捨てられるのかという、自己犠牲に対する敬意の念と……戦争が人を兵器に変えてしまったという、戦争倫理に対する悲嘆の念だった……それで、ふと……私は思ってしまったんだ……」
中将が浮かべた弱々しい笑顔。
445 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:51:33.67 ID:xVa5x4Ph0
「人は生まれたら、後は死ぬだけの存在だ……だが結局、そこまでして私は何の為に戦っているのだろうな……敗戦は免れないのに……私たちが必死になって戦った未来は、一体どうなっているのだろうか。その先に、意味はあるのだろうか……?」
その笑みは、自分自身で掲げた信念なのに、いつの間にか自分自身がその信念、生きる意味を否定し、自分自身と交わした約束と責任を反故にしようとしていると言う嘲笑。
「……情けないよな、軍人として誰かを護る想いを抱いて戦っていた筈なのに……いつの間にか私自身の想い、私自身の存在価値に疑問を抱いてしまっている」
他の誰でもない、中将自身に対しての嘲笑だった。
446 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:52:42.23 ID:xVa5x4Ph0
「この戦いや私の想い……私の今まで生きてきた意味に、一体どれだけの価値があったんだろうな……」
其処には、生きる意味さえも見失った、とても弱々しい初老の男の姿があった。
447 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:53:40.28 ID:xVa5x4Ph0
「てーとく」
軍艦・球磨は、堪らずその初老の男に呼びかけた。
448 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:54:20.42 ID:xVa5x4Ph0
「答え合わせをしないか?」
そして自己否定の念を浮かべた中将に対して、球磨は信念の籠った声色で、言葉を紡いだ。
449 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:55:15.28 ID:xVa5x4Ph0
「……答え合わせ?」
その球磨の言葉を中将は反芻した。
軍艦・球磨は大きく頷いた様な声色を上げ、口を開いた。
「球磨は軍艦とは言え、後方任務が主体だから、生き残る可能性がある」
そして軍艦・球磨は、柔らかな口調で中将に優しく語った。
450 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:56:17.17 ID:xVa5x4Ph0
「もしお互い、生きて終戦を迎えたら……この戦争に、提督と球磨の想いに、どれだけの意味や価値があったのか、お互いに見つけた答えを、交わさないか?」
その声色には、かつての中将と同じく、強い信念が込められていた。
451 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:58:23.75 ID:xVa5x4Ph0
「その答えがどれだけの価値を孕むモノなのかは、球磨には分からん。もしかしたら歴史や社会からしてみれば、提督の想いなど、泡沫の様に儚いモノなのかもしれない。価値が無いモノなのかもしれない。それでも……提督が己の想いを信じ、天命に従い、進み、そして戦ってきた道だ。きっと何かしらの意味が、提督の中にはあるはずだ。世間一般で言われる価値以上のモノが、その答えの中にはあるはずだ」
ふと中将は、軍艦・球磨の影を、目の前に見た気がした。
中将は目を擦り、見上げる形で、その影を見据えた。
452 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 22:59:32.58 ID:xVa5x4Ph0
「……球磨も提督のその強い輝き、その想いに見合うだけの答えを探してやる。いや、それ以上の価値を見出してやる。だから提督……そんな顔をしないで欲しい……」
白衣の水兵服を纏い、鳶色の長い髪と瞳を抱き、頭の癖毛を揺らす、端麗な顔立ちの少女。
453 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:00:17.65 ID:xVa5x4Ph0
――それが、貴様の姿か。
「……」
そして中将を見据える少女のその顔色は、中将の心の内幕を映した様に、とても切なげであった。
454 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:01:00.22 ID:xVa5x4Ph0
「……分かった、球磨」
暫くの沈黙の後、中将はすっと立ち上がると、球磨の影に向かって、吹っ切れた様な笑顔を投げかけて、口を開いた。
455 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:01:38.40 ID:xVa5x4Ph0
「約束しよう。終戦までに私自身、答えを探しておく」
中将のその笑顔、それは月の様な輝きを帯びていた。
456 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:02:42.08 ID:xVa5x4Ph0
「そうか……!」
その中将の言葉を聞いた軍艦・球磨は、めいっぱいの笑顔を中将に投げかけた。
投げかけられた球磨のその笑顔は、太陽の様な輝きを帯びていた。
そしてその瞳は、琥珀色にも思える程、強く輝いていた。
中将はもう一度目を擦り、目の前に視線を投げかけるが、其処にはもう誰の影も無かった。
457 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:04:24.86 ID:xVa5x4Ph0
「そうさな……口約束だけでは寂しかろう、これを貴様にやる」
ふいと、思いついた中将は、自身が被っていた士官軍帽を、隣に備え付けられていた揚錨係留装置(ケーブルホルダー)の上に、ぽんと置いた。
「……気持ちは嬉しい。だけど、球磨はこの身体だ。受け取れない」
その子供の様な中将の姿を見た軍艦・球磨は、少し困った声色で中将に言葉を投げかけた。
その声色には、受け取りたくても受け取れないと言う、もどかしさが含まれていた。
458 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:05:55.23 ID:xVa5x4Ph0
「なら、今の艦長にこの軍帽を艦長室の片隅にでも置いておくよう頼む。私も一時期とは言え、球磨の艦長になった身だ。『例え、形だけでも君たちと一緒に戦いたい』とでも言っておこう。あながち、間違いでもないしな」
「分かった。それなら球磨は、提督の軍帽を約束の証として受け取ることが出来る」
その中将の言葉に喜んだ軍艦・球磨は、静かにその申し出を受け入れた。
459 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:06:33.66 ID:xVa5x4Ph0
「……終戦後、また会おう。そして答え合わせをしよう。この戦争に、この私と球磨の想いに、どれだけの価値があったかをな」
「ああ、約束だ!」
460 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:08:27.01 ID:xVa5x4Ph0
そうして中将は、現艦長と二言三言話した後、艦長室の片隅、例え艦長が変わったとしても、ちょっとやそっとじゃ見つかる事が無い様な死角に、自身の士官軍帽を置くと、名残惜しそうに艦から降りて、最後に軍艦・球磨を一瞥した。
461 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:09:25.40 ID:xVa5x4Ph0
艦首付近には、先程見た軍艦・球磨のちんまりとした影があり、中将の月明かりの笑みに負けないくらいの満面の頬笑みを浮かべながら、上甲板からぶんぶんと手を振ると、海軍式敬礼を中将に投げかけた。
中将は、柔和な笑みを掲げながら、球磨に対して敬礼を返した。
462 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:10:53.14 ID:xVa5x4Ph0
数刻後、中将は日本行きの艦艇へと乗り込み、セクター海軍基地を後にした。
――――これが中将の、軍艦・球磨との最後の別れになった。
463 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:12:51.14 ID:xVa5x4Ph0
………………………………
――――1944年1月、1700、軍需監理局。
日が没する黄昏の冬。
蝋が塗られ、赤茶に照った木材床の廊下を、コツコツと軍靴を鳴らしながら歩く、第一種軍装に身を包んだ初老の影が一つ。
その男は、時々廊下ですれ違う、畏れと賤しさが入り混じった顔で敬礼を投げかける者に対し、心の中で溜息を吐きながら、敬礼を返した。
その男、日本に帰国した中将は、軍需省の管理部長の任に着いていた。
久方ぶりの故郷の街並みは、重苦しく退廃していたとは言え、長らく外国にいた中将の郷愁の念を誘うのには十分だった。
恐ろしい程緩やかに、其処では時間が流れていた。
464 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:16:13.88 ID:xVa5x4Ph0
「……42年6月のミッドウェー海戦から、全てが狂った」
ふと、目の前の廊下の角の先、誰かの話声が漏れてきた。
精鍛な声色かつ何処か泥臭さが少ない口調から察するに、若い海軍士官だろうと、中将は考えた。
「……赤城、加賀、蒼龍、飛龍……正規空母四隻を失ったのが大きかった」
「……撤退時に三隈を失った事もな」
中将は廊下の角を曲がらず、丁度、三人の士官たちの死角になる位置の壁に、音も無くもたれかかる。
そうして、その手に持っていた資材管理帳簿を開きながら、廊下で話す若い海軍士官たちの悲痛な叫びに耳を傾けた。
青褪めた声で話を続ける海軍士官たちは、近場の影に自身の上官である中将が居るとも知らず、話を続けていた。
465 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:22:32.66 ID:xVa5x4Ph0
「ソロモンでは、加古、龍驤、比叡、衣笠、綾波、霧島、暁、夕立……サボ島では吹雪、叢雲、古鷹……その後は由良、高波、天龍か……ああ、畜生っ……! 自分で言ってて頭が痛い……!」
「昨年の冬だけで、夕雲、望月、初風、川内、夕霧、大波、巻波、冲鷹が沈没し、伊号第19は行方不明らしい……」
「嘘だろ……!」
その言葉を聞いた中将は、もの悲しさを溜息と一緒に吐き捨てた。
何故だろうか。
中将には、この若い海軍士官たちの嘆きが、中将自身が発した言葉の様に思えてならなかった。
466 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:24:29.90 ID:xVa5x4Ph0
「それでも……俺たちに出来る事は何かないのか……! ……形はどうあれ……俺は最後まで戦うつもりだ……!」
「気持ちは痛い程分かるが、一寸落ち着けって……! それに、後詰の俺たちに一体何が出来るっていうんだ……!? 敗戦は免れないって言うのに……」
「敗戦が何だって言うんだっ!? 戦争に負けたからと言って、俺は米国の奴隷になるつもりなんて毛頭無いぞっ!!」
467 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:30:45.97 ID:xVa5x4Ph0
その一人の若い海軍士官の言葉に、ふいと、中将は昔一度だけ会った事のある、魅力と才能に溢れた壮年の男の事を思い出した。
あの男は当時、かなりの社会的地位を持ち、時の政治家たちとも繋がりがある男だったが、当時の世論とは裏腹に、この国の敗戦を語った。
そして開戦直前にあの男は突然、全ての地位を投げ捨て、田舎に家と畑を買い、そして暫くの後、疎開した。
最初、腰抜けと世間から嘲笑されてはいたが、今にして思えば、その先見の明に脱帽せざるを得なかった。
それぐらいの政治感覚と先見の明が中将にも無かった訳ではないが、軍人と言う立場、そして自分自身の想い、その信念に反する事は中将自身が許さなかった。
468 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:31:32.07 ID:xVa5x4Ph0
『もしお互い、生きて終戦を迎えたら……この戦争に、提督と球磨の想いに、どれだけの意味や価値があったのか、お互いに見つけた答えを、交わさないか?』
469 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:33:17.88 ID:xVa5x4Ph0
そしてそれ以上に、中将には決して反故に出来ぬ「あの娘」との「約束」がある。
中将はその約束を交わした時、いや戦争が始まるずっと昔から、「あの娘」に対しての自分自身の想いを素直に認めていたのだ。
470 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:33:51.25 ID:xVa5x4Ph0
「……人生は戦いなり、か」
ぽつりと、中将の口から言葉が漏れた。
471 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:35:33.73 ID:xVa5x4Ph0
よくよく考えたらあの男は、癇癪持ちの癖して憶病とも言えるほど繊細な精神の持ち主の様であるから、単に血を見るのが怖かったから疎開したとも言える。
だがあの男は、決して「戦い」に背を向けて逃げる様な男ではなさそうだ。
あの類は、中将と同じく、自分自身の想い、その信念の為なら、己が精神、ましてや命さえも厭わずに戦う事が出来る心を持った男だ。
恐らくはあの男も、あの男なりの信念があってその道を選んだのだろう。
472 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:38:10.08 ID:xVa5x4Ph0
「私もあの男も、そしてあの娘も……いや皆が各々の信念を纏って……形はどうあれ、必死に戦っているのだろうな……」
気が付くと、海軍士官たちの話声は既に遠退き、しんとした空気が、廊下へと降りていた。
パタンと資材管理帳簿を閉じ、再び歩を進めた中将は、静かに廊下の角を曲がったが、其処には既に誰の影も無かった。
くたびれた廊下、その視界は暗褐色に塗られ、寂しくドンヨリとした空気が圧し掛かっており、四角の窓から夕陽だまりが、ぽつり、ぽつりと落ちていた。
時々、窓の外に映る枯れ木を抱いた黄昏の空を眺めながら、中将は仕事場である、管理部長室へと、再びコツコツと軍靴を鳴らした。
473 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:38:40.65 ID:xVa5x4Ph0
――――その日の夕映えは、血液を垂らした様に、紅く滴り、広がっていた。
474 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:40:21.67 ID:xVa5x4Ph0
………………………………
――――1944年1月、1730、軍需監理局、管理部長室。
コンコン、コンコン、と管理部長室の扉が4度の繊細精強な物音を立てた。
「入れ」
「失礼致します、中将閣下」
管理部長室の扉を開けたのは、若い陸軍将校だった。
小柄な中将とは違い、陸軍らしく筋骨隆々な出で立ちである。
陸軍将校は、柔らかな物腰で扉を閉めると、業務机に座っている中将を見据えた。
475 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:41:51.83 ID:xVa5x4Ph0
「件の主要軍需会社生産管理に関する資料を持って参りました。それと幾つか中将閣下が本部に頼まれた資料も届いております」
「ああ、ありがとう。そこの棚に置いといてくれ」
「承知致しました」
そうして脇に抱えていた資料を、資料棚の端へと並べていった。
「いつもすまない」
資料を棚へと均一に整頓する陸軍将校を尻目に、万年筆を書類に走らせながら、中将は答える。
「いえ、私でよろしければ何時でもお声掛け下さい」
資料を並べ終わった陸軍将校は、堅物厳格ながらも敬意を含んだ陸軍式敬礼を中将に投げかけた。
476 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:43:10.14 ID:xVa5x4Ph0
実の所、この陸軍将校は、海軍出身で、更に突慳貪な態度を取る中将に対し、最初はあまり良い印象を持ってなかった。
だが陸軍将校は、何度か会話を重ねていく内、中将に対しての印象を改める事になる。
この激動の時代において中将は、やや偏屈者ではあるが、理知的に物事を見据る慧眼を持った人物である事を知るに至る。
故に陸軍将校は、中将の事を尊敬に値する人物であると、高く評価していた。
そして近頃では、こうして中将直々の司令を受ける事についても、やぶさかでは無かった。
最も中将が陸軍将校の事をどう思っているかは知らなかった。
477 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:44:04.69 ID:xVa5x4Ph0
――だけど、毎回毎回、僕を指名する辺り、それなりに僕の事を買ってくれているのだろうか。
――いや、ある意味では似た者同士なのかもしれない。
478 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:44:49.38 ID:xVa5x4Ph0
陸軍将校は、中将に対し、なんとも言えない親近感を抱いていた。
「中将閣下、つかぬことをお伺い致しますが……」
「何だ?」
だからこそ、時々こうして会話を挟む事が出来た。
だからこそ、陸軍将校は尋ねた。
479 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:46:07.92 ID:xVa5x4Ph0
「中将閣下は、戦前に『軍艦・球磨』の艦長をなされていたとの事で」
陸軍将校が運んできた資料群。
その中、各種軍艦艇戦時日誌資料の中に『軍艦・球磨』の資料が紛れ込んでいたからだ。
480 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:47:00.58 ID:xVa5x4Ph0
「そうだが、それが何か?」
ピタリと、万年筆を走らせるのを止め、何処かドスの利いた声で中将は、陸軍将校に返答した。
余りの恫喝的な声に、陸軍将校は狼狽しながらも、口を開いた。
481 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:48:08.88 ID:xVa5x4Ph0
「いえ、その……艦長として乗艦なされた際、どの様な心境だったのかを、お聞きしたくて……」
それを聞いた中将は、頬杖を付き、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに口を開いた。
「どの様な心境と言われても、所詮は軍務の延長だ。士官の転勤など日常茶飯事だろう。それに軍艦の艦長など、偉くなる為の箔付けに過ぎん」
「なっ……!」
その返答に若い陸軍将校は、天下の海軍中将にあるまじき言動では無いかとムッとした。
482 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:49:12.71 ID:xVa5x4Ph0
――中将閣下、お言葉ですが……!
だが、その言葉が口に出される事は無かった。
ふと、陸軍将校は、普段の中将とはどこかズレた返答に違和感を覚えた。
先程のドスの利いた声といい、普段は目線を合わせて話す中将だが、「軍艦・球磨」の話題が出たとたん、先程から目を合わせようともしない事に、陸軍将校は疑問に思った。
483 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:50:03.37 ID:xVa5x4Ph0
「それで何故、君はその様な事を私に聞く?」
だが先程まで、目線を逸らしていた中将。
その中将は、いきなり射抜く様な眼差しで陸軍将校を捉え、声色を低くして話の続きを促した。
484 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:50:45.37 ID:xVa5x4Ph0
「え、ええと……」
その眼差しに陸軍将校は、少なからず戦慄した。
その時の中将の目の鋭さは、鷹の目そのものであった。
一寸でも下手な事を口走ったら掴み殺してやると言う気概さえ伺えた。
485 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:52:00.71 ID:xVa5x4Ph0
だが、下手な事を言うつもりは毛頭なかった陸軍将校は、慎重に言葉を探しながら。
「……実のところ、私は熊本県の球磨群出身でして」
――――中将を見据え、「軍艦・球磨」についての己が思い出を語った。
486 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:53:13.84 ID:xVa5x4Ph0
………………………………
「ほう。それで?」
気立ては良いが、少々お喋りなこの若い陸軍将校の話を、中将は「興が乗った」と言わんばかりに言葉を返した。
その中将の返事に陸軍将校は、「待ってました」と言わんばかりに、目を輝かせて思い出を語った。
487 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:55:16.44 ID:xVa5x4Ph0
「軍艦・球磨……やはり自分自身の郷の名前が付いた軍艦には自然と熱が入るものなのですかね……! 水雷戦隊の旗艦を担う、最初の艦として建造され、あの長門型を超える9万馬力という大出力! そして、その馬力から生み出される36ノットという超高速!」
中将は、他の出世欲に駆られる若者と違い、自己の信念を強く持つ、今のご時世で珍しいこの若者を高く買っていた。
この陸軍将校を事ある毎に指名していたのは、純粋にこの若者の事が気に入ってたからであった。
488 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:57:28.19 ID:xVa5x4Ph0
「列車以上の拘束力を持ち、14センチ砲7門と53センチ連装魚雷発射管4基の強武装を携え、他の水雷戦隊の追随を許さないその気概! まさに熊本人の気概そのものを体現したかの様でした!」
いや、それどころか、ある意味では似た者同士なのかもしれないと言う親近感を、中将は陸軍将校に対して抱いていた。
「それはもう少年の時は、本当に感動しましたよ! あの時の感動は今でも忘れません! 今では旧艦扱いではありますが、それでもなお、彼の地でその武勇を振う雄姿は、胸踊ります!」
489 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:58:08.64 ID:xVa5x4Ph0
――それにしてもこれは、些か、気恥ずかしい。
中将は自分が褒められている訳でもないのに、とても誇らしく思えた。
陸軍将校の言葉のせいで、静かに零れ落ちた笑みを隠す為、中将は書類へと向かった。
490 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/25(金) 23:59:04.70 ID:xVa5x4Ph0
「正直、申し上げますと、私も他の陸軍連中と同じく、海軍連中はあまり好きではありません……ですが、『軍艦・球磨』や他の艦艇は違います! とても誇り高い限りです……!」
陸軍将校の話を静かに聞き入りつつ中将は、航空機及び関連兵器生産受注書に捺印し、民間地方鉄道網整備計画書に署名していった。
思いの外、作業が捗った。
491 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:00:32.14 ID:xlUQQs3U0
「そう……だからこそ……」
しかし陸軍将校に目もくれず、書類へと向かい、万年筆を滑らす中将。
その為、中将はこの陸軍将校の様子に気付かなかった。
492 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:01:41.84 ID:xlUQQs3U0
「だからこそ……」
この若い陸軍将校が、手を握り締めて、歯を食いしばって俯いていた事に。
493 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:02:11.10 ID:xlUQQs3U0
この若い陸軍将校が、悔しげに口を開いた事に。
494 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:02:58.15 ID:xlUQQs3U0
「……先日、軍艦・球磨が沈んだ事は、本当に残念でなりません」
495 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:03:33.73 ID:xlUQQs3U0
「……は?」
496 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:04:31.06 ID:xlUQQs3U0
そして、若い陸軍将校のこの言葉に、中将は凍て付き、絶句した。
陸軍将校が口にした、軍艦・球磨の轟沈。
497 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:05:09.72 ID:xlUQQs3U0
――――その、突然の訃報に。
498 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:06:18.86 ID:xlUQQs3U0
その言葉を聞いた中将は、時計の針が止まり、世界が突然終わった様な絶望感を覚えた。
自分の心臓が突然誰かに掴まれ、ぶち抜かれた様な喪失感を覚えた。
胸の中を蠢蠢とのたうち回る感情を吐き出したくて、剃刀で喉を掻き切られた様に、ひゅうひゅうと、息を洩らした。
499 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:07:17.80 ID:xlUQQs3U0
「……中将閣下?」
そして愛娘の訃報を伝えた、この若い陸軍将校の呼び掛けに、ぷつり、と何かが切れ、箍が外れた音を中将は聞いた。
500 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:08:02.65 ID:xlUQQs3U0
「……ふざけ……るな……」
――――中将は理知的、冷笑的、高踏的、そして利己的に生きてきた人生で初めて、理性を失った。
501 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:09:14.85 ID:xlUQQs3U0
………………………………
「ふざけるなっ!! そんな筈があるかっ!?」
寸秒の後、突如として顔を上げ、腹の奥底から沸き出す様な怒号を張り上げた中将は、手に持っていた万年筆を机に叩き付け、書類を撒き散らし、椅子を蹴り倒しながら立ち上がると、飛び掛かる勢いで若い陸軍将校に迫り、その胸倉を掴み上げた。
502 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:10:11.46 ID:xlUQQs3U0
「……ぅぐっ!?」
「あの海域で大規模な戦闘は発生していない筈だっ!! 出鱈目を抜かすなっ!!」
この若い陸軍将校は体躯も良く、中将よりも一回りも大きかったが、その身体が半分中空に浮く程、掴みかかった中将の腕力は強く、万力で締め上げられた様であった。
「ぐっ……! 本当です、中将閣下……!」
503 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:11:24.82 ID:xlUQQs3U0
陸軍将校は戦慄した。
確かに自分よりも階級が高い上官に掴みかかられては、恐怖を覚えるのは至極当然である。
しかしそれを抜きにしても、只ならぬ中将の鬼気が、陸軍将校を唯々恐怖させた。
この小柄な初老の上官の何処にこんな力があるのか、陸軍将校は唯々畏怖していた。
504 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:12:18.48 ID:xlUQQs3U0
「先日11日……! 対潜戦演習時……! マラッカ海峡沖……! 英国潜水艦の雷撃を受けて……!」
その恐怖から逃れる為、陸軍将校は己が知っている事実だけを端的に述べていった。
505 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:13:08.72 ID:xlUQQs3U0
「そんなことが……! あって……! たまるか……!」
その残酷な現実を聞いた中将は、青褪めた表情を更に紺に染めた。
506 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:13:50.67 ID:xlUQQs3U0
「そんなことが……あって……たまるか……」
その顔色は白く、もはや血は巡っていないぐらい蒼白であった。
それと同時に、陸軍将校の首根っこを掴んでいた中将の手から力が抜けた。
507 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:14:35.88 ID:xlUQQs3U0
「コホッ……ガハッ……!」
陸軍中将は、咳き込みながらその拘束から逃れた。
「何をなさるのですかっ……!? 中将……閣下……?」
危うく意識を失いかけそうになり、思わず声を荒げた陸軍将校は、襟を正し、先程まで自分を締め上げていた中将に正対し、見据えた。
508 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:15:15.94 ID:xlUQQs3U0
「……」
しかし、先程まで陸軍将校を掴んでいた中将。
その中将の姿に衝撃を受けた陸軍将校は、先程まで死にかけていた事さえも一瞬にして忘れてしまった。
509 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:16:31.23 ID:xlUQQs3U0
「中将……閣下……」
「……」
その場で項垂れている今の中将の姿は、見るに堪えない程、痛々しい姿であったからだ。
陸軍将校の呼び掛けにも応じず、中将は暫くの間、咎人の様に首を垂れていた。
そうして不気味な程しんと静まり返る管理部長室には、沈黙と緊張の糸が走っていた。
510 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:17:48.09 ID:xlUQQs3U0
「……」
暫くの沈黙の後、中将は陸軍将校に背を向けると、ふらつきながら、先程まで座っていた、所々にインク跡や書類が散乱する机へと向かう。
蹴り倒した自身の椅子を弱々しく引き起こし、骨が無くなった様にその椅子に腰かけると、窓の外へと視線を投げかけていた。
511 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:18:37.09 ID:xlUQQs3U0
「すまな……かった……」
そして悲しみを押し殺した声で、陸軍将校に言葉を吐き、中将は謝罪した。
512 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:19:54.25 ID:xlUQQs3U0
「いえ……私こそ……中将閣下が激高される程、軍艦・球磨が思い入れ深いモノであったとは知らずに……配慮に欠けた事を……」
陸軍将校は、先程掴まれた事が当然の結果である様に、中将の無念を共感しながら、自分の非を詫びた。
「いや、君は何も……悪くない……ただ……ただな……」
中将は陸軍将校に対して、更に言葉を探していたが、悲しみが中将の思考を邪魔しているせいか、それが口に出される事はなかった。
513 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:20:35.70 ID:xlUQQs3U0
「すまないが……暫く、一人きりにさせてくれ……」
その言葉の後、中将は一切の口を閉ざし、唯窓の外へと目線を投げ捨てていた。
514 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:21:39.22 ID:xlUQQs3U0
「承知致しました……失礼致します、中将閣下……」
逆鱗に触れてしまったという事よりも、中将の打ちひしがれた姿に胸を痛めた陸軍将校は、震える手で敬礼し、とぼとぼと、管理部長室を後にした。
515 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:22:34.12 ID:xlUQQs3U0
………………………………
「……確かに、あの娘は後方任務とは言え、戦地の真っただ中に居る……無論、この瞬間は覚悟していた……だが……」
落日の陽が光を失い始め、透きとおる鮮やかな柿色の光が、管理部長室の窓から降り注ぐ。
そうして斜陽が誰を責める事無く、中将の居る部屋を照らしていた。
516 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:23:11.73 ID:xlUQQs3U0
「約束はどうした……」
中将の膝には、ぽつりぽつりと、悲しみの雫が、滴り落ちていた。
517 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:23:53.54 ID:xlUQQs3U0
「答え合わせはどうした……」
中将の瞳からは、弔いの涙が、人知れず静かに流れていた。
518 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:25:09.75 ID:xlUQQs3U0
「親より先に死ぬ奴があるか……この親不孝者め……」
血の様に深い紅から、青褪めた様な紫、そして濃紺へと表情を変えていく、日没の刻。
中将は一刻ずつ姿を変える夕闇に、あの日見た「軍艦・球磨」の笑顔を、何度も何度も思い浮かべていた。
519 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:26:39.92 ID:xlUQQs3U0
………………………………
『軍需管理部長――――海軍中将。充員召集解除(解雇)トス』
――――半年後、召集解除の通達が言い渡された中将は、儘、軍を去った。
中将は敗国の将ではあったものの、「海軍中将」というかなりの社会的地位が、その手には残っていた。
また、その地位相応の財産、食糧難ながらも食っていけるだけの財産が、その手には残っていた。
動乱の最中、公における成功を手にし、この時代における最良の形で、中将は退役した。
この戦時中、誰もが中将の事を羨ましく思ったであろう。
520 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:27:13.02 ID:xlUQQs3U0
だが、軍需省時代に中将と最も親しかった陸軍将校は、退役時の中将の事を、後にこう語った。
521 :
◆AyLsgAtuhc
[saga]:2017/08/26(土) 00:27:50.60 ID:xlUQQs3U0
――――その時の中将の顔。
――――それは紛れも無く「全てを喪った男の顔」であった、と。
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