乙倉悠貴「追い風が恋を連れてくる」

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70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:25:17.17 ID:otTlPJINo

撮影の度に待ち合わせてくれたり、ランニングに付き合ってくれたり。

今までが特別だったんだって分かっています。
分かっているはずなんです。
私だけのプロデューサーさんじゃないんだから。

それでも、駅の改札口に向かう階段を、駆け上がってしまいます。
いつもの待ち合わせ場所に、今日も同じようにいてくれる気がして。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:26:15.41 ID:otTlPJINo

「悠貴ちゃん、今日はおしまい! お疲れ様でしたー!」


スタッフさんの大きな声で現実に戻されました。
これで私の今日の撮影はおしまい。
今日のメインは授業風景で、ぼーっと先生の話を聞いたり、授業の間に何気ないおしゃべりをしたり。

外は今日も雨が降っていて、本格的に梅雨入りしたんだなぁと。
走れなくなるのであんまり好きな季節じゃないですっ。


「お疲れ様でしたっ! お先に失礼しますっ」


共演者の方たちやスタッフさんたちに挨拶を済まして、
撮影用の制服から、自分の学校の制服に着替えたら、帰る準備をしました。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:26:45.51 ID:otTlPJINo

プロデューサーさんが現場に来てくれなくなってから、
撮影が終わったという報告をすれば、直帰してもいいと言われています。

スマートフォンからプロデューサーさんの連絡先を探して。

学校の校門を出たところで、ぶるっと身体が震えて、手が止まってしまいます。
雨のせいで冷えるからでしょうか。上手く操作できません。

なんとくなく……寂しいです。

そう気づいたら、もう電話をかけるのがイヤになってきました。

空が暗いから、身体が冷たいから、
きっと……プロデューサーさんがいないから。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:27:13.60 ID:otTlPJINo

ビニール傘をくるくる回して、らしくないなぁなんて笑います。
お仕事はこんなに上手くいってるのに。

でも、いつまでも、うじうじしてはいられませんっ。

やっぱり今日は、事務所に直接報告しに行こう。
ちひろさんや他のみんな、きっと誰かがいるはずです。

もしかしたら、プロデューサーさんも。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:27:40.15 ID:otTlPJINo

そう思ったら、この雨の道も悪くありません。
今日はちょっと元気がないだけ。
また明日から頑張るために、元気を貰いにいくだけなんだと。

1歩、1歩、そう言い聞かせながら、駅までの道を戻りました。


雨の跳ねる音も、冷たい手足も、ペタッとなった髪の毛も、
少しづつ、少しづつ、気にならなくなっていきます。

なんとなくの寂しさも、少しの期待で塗りつぶされていくようでした。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:28:10.50 ID:otTlPJINo

――――――
―――

「ただいま戻りましたー」


やっと辿り着いた事務所に私の声だけが響いて……そして何も返ってきません。
あ、あれっ。誰もいないなんてことはないよね。


「あのっ。ちひろさん? 誰かいませんかっ?」


きょろきょろを見回してみても、やっぱり誰もいないようです。
さすがに誰かには会えるだろうって思ってたのに。
期待していた心の中に寂しさが滲んで、沈んでいきます。


「……プロデューサーさん……」


いつも一緒にいてくれたのに、どこいっちゃったんですかっ。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:28:42.99 ID:otTlPJINo

「すーっ……」

ふと、ソファーに意識を向けると穏やかな寝息が聞こえます。

その人は、薄手のタオルケットを身体にかけていました。
あんまり寝相が良くないのか、ソファーの縁から頭がずり落ちています。


「Pさんっ。」


ついキモチと一緒に、声が跳ねてしまう。
ずっと探していた人は、そんなところに、なんでもないかのようにいました。

って、起こしちゃダメだよね!


「あの? こういうときはどうすればいいのかなっ。えっとっ、まくら!」


わざわざ会いに来たはずなのに、なんの心の準備もしていなかった私は、
とりあえずその寝づらそうな頭を何とかすることに決めました。
決して慌ててなどいませんっ。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:29:14.32 ID:otTlPJINo

プロデューサーさんの頭をなんとか持ち上げて、小さなスペースを作ります。
私の細身のカラダはすっと隙間に入り込めました。


「すーっ……んんっ」


プロデューサーさんは時々顔をしかめながらも、どうやら熟睡しているようです。
膝枕ですよーなんて小声で呟いてみます。
起きたらびっくりしちゃうかな、少しは喜んでくれたりしないかな。


静かな事務所に聞こえるのは、雨音と寝息だけ。
起こしてしまわないように息を潜めて、ぼんやりとプロデューサーさんの顔を眺めます。

ただ顔を見ているだけなのに、少し触れ合っているだけなのに。
こんなに暖かいのはどうしてかな。
プロデューサーさんは、その理由を、教えてくれますか。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:29:45.50 ID:otTlPJINo

もうちょっとだけその身体に触れてみたくて。

プロデューサーさんの胸のところにあった手に、私の手のひらを重ねます。
思い返すと、プロデューサーさんとハイタッチをしたり、手を繋いだり、
私は手が触れ合うのが好きなかもしれません。


手のひらと一緒に、心も重ねられたらいいなっ。なんて。
もし心が重なったら、今の私のキモチも伝わってしまうのかな。


なんだか最近、プロデューサーさんのことばっかりなんです。

アイドルのためとか言って、頑張り過ぎちゃうプロデューサーさんは嫌いです。
いつも私のこと、心配して、期待して、信じてくれるプロデューサーさんは好きです。


伝わって欲しいのか、欲しくないのか分からない気持ちを込めます。
手のひらからは少し高い体温が伝わってきて。

ホントに何かが伝わったようなそんな気がします。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:30:18.24 ID:otTlPJINo

「ん……んっ。……悠貴?」

膝の上のプロデューサーさんと目が合いました。

あれっ。お、起こしちゃいました……
まだ寝ぼけているみたいで、そんなに驚いているような感じはしません。


「た、ただいまですっ、Pさん」

「ふわぁーあ。おー、おかえり、悠貴」


大きなあくびを1つしたプロデューサーさんは、
そのまま手足をぐっと伸ばすと、ぱっと身体を起こしてしまいました。

もうちょっとそのままでも良かったんですよ?

そのまま並んでソファーに座ったプロデューサーさんに恨めしい目を向けてみます。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:31:04.73 ID:otTlPJINo

「膝枕してくれてたのか……ありがとう。現役アイドルにやってもらえるなんて役得だな」

「いえっ。そのっ、私がやってあげたくてっ」

「おかげでだいぶ楽になったよ。もうすぐ仕事が片付きそうだから油断しちゃってさ」

そう言うと、プロデューサーさんは立ち上がって、いたずらっぽく笑いました。

「雨降ってたよな。車で女子寮まで送るからちょっと――」


あっ。も、もうちょっと待ってくださいっ。
なんとかしたくてつい手を伸ばしてしまいます。
私の手は、行ってしまいそうになるプロデューサーさんの袖を捕まえました。


「――悠貴?」


「あの、そのっ…ワガママかもしれませんけど…も、もう少しだけ、
 Pさんと一緒にいたいなって…ダメ、ですかっ?」
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:31:40.89 ID:otTlPJINo

言った途端に、やってしまったと思った。

でも、もう引き下がれません。
もうどうにでもなーれっ。
私は、何とかしようと早口で理由を並べていきます。


「えっと。あの。Pさんも寝起きで今運転したら危ないですしっ。
 あとは、その、お仕事でお疲れだと思いますしっ」


なんだか傷口を広げただけな気がする。


「あはははは。落ち着いて、悠貴。確かにその通りだ」


プロデューサーさんは、降参だとでも言うように両手を挙げると、
くるっと向き直して、また私の隣に座ってくれました。
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:32:06.91 ID:otTlPJINo

「撮影、お疲れ様。見に行けなくて悪いな。今日はどうだった?」


もうちょっと私と一緒にいてくれる。
できるだけこの時間を長くしたくて、ゆっくり、今日のことを話した。

それっぽく授業風景を撮ってるんですけど、高校生の授業だから全然分かんないんです、とか。
湿気でみんなの髪のセットが上手く決まらなくて、スタイリストさんが叫んでたんです、とか。

とりとめのない話を、1つずつ、プロデューサーさんは聞いてくれました。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:32:46.10 ID:otTlPJINo

「雨の日はイヤだよなぁ。悠貴もわざわざこっち来ないで直帰してくれて良かったんだぞ?」


何気なく痛いところを突かれました。
誤魔化すのもイヤだなって思って。力なく笑って答えます。


「なんだか少し疲れちゃって、寂しくなって……。
 誰かとお話したら元気でるかなって思ったので」


それに、いつもほめてくれた人がいなくなっちゃったからですよ。
本当のことは上手く隠せたはずなのに。

そう言った後、プロデューサーさんはすごく申し訳無さそうな顔をしました。


「ここんとこ、現場一緒に行ってやれなくてごめんな」
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:33:18.08 ID:otTlPJINo

「悠貴は、いつも考え過ぎだよってくらい真面目なんだ。でもそれがいいところだと思う」

「仕事も、学校も、ファンのみんなと触れ合おうことも、
 全部、全部、頑張ろうとして、大事にしようとして、
 それらを叶えるためにもっとしっかりしなきゃ!ってさ。」


悠貴はホント自慢のアイドルだよ。
そう、プロデューサーさんは言ってくれました。


「でもさ、たまには力抜いて休んでもいんだぞ。」
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:33:48.58 ID:otTlPJINo

優しい言葉に、視界が少し滲みます。

ホントは全然大人なんかじゃないのに、大人っぽく見られることが多いから、
やっぱりしっかりしなくちゃって、いつも思います。
でも、プロデューサーさんがいると笑っちゃって、肩の力が抜けるんです。


「あと今日はみんないなくてごめんな。雨だったからそのまま直帰させた子が多いんだ」

「いえっ。あの、Pさんと過ごす時間、好きですっ。」


やっぱり、プロデューサーさんがいるから。だから頑張れるんですよ。
ずっと分かっていたはずのことをもう一度確かめて、少し嬉しくなりました。


「そう言ってもらえると助かるよ。悠貴には元気よく笑っていて欲しいからな」
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:34:30.31 ID:otTlPJINo

「じゃあ、私も少しだけ休もうかな…Pさん、傍にいてください……ふあ……」


私の頭が、プロデューサーさんの肩に触れる。
少しづつ強張っていた力が抜けていきます。


「悠貴、いつもお疲れ様。無理してないか心配だよ」


近くで響いた声は、細身のカラダに伝わっていきました。


きっと今だけの、大切な時間。

最近の私はきっとわがままです。
1番大切にしたい気持ちを探して、こんなことまでしちゃってます。

私が大切にしたかった時間をプロデューサーさんも大事に思ってくれて嬉しかったんです。
だから、だから――

心地よい優しさを少しづつ噛み締めて、
私の意識は、まどろみに落ちていきました。
87 :7. まっすぐに走る [saga]:2017/07/10(月) 23:35:13.65 ID:otTlPJINo



6月下旬。
ドラマ撮影も残りわずかとなりました。

今日はいつもの学校ではなく、競技場での撮影です。
インハイの地方大会、100mの真剣勝負を、一番大事なクライマックスを撮影する日。
この日のためにトレーニングしてきたから、一層気合が入る……はず。


「悠貴、緊張してるだろ?」


待機場所になっているスタンド下で、
さらっとプロデューサーさんが言いました。

どうしてそんなに目ざといんですかっ。
がちがちの私に言い返す余裕はありませんでした。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:35:44.31 ID:otTlPJINo

「しかし、陸上のユニフォームって結構際どいんだな」

「は、恥ずかしいですからっ」


やっと声が出せました。
お芝居だって分かっているのに、指先も足も震えが止まりません。

ピンクのブラトップに、黒のショーツ。ゼッケンもしっかりつけて。
なんだかアイドルの衣装とそんなに変わらないような気もします。
へそ出しはやっぱり少し勇気がいりますけどっ。


「足がホント綺麗だ」


きっと、Pさんはわざとやっています。
顔あげて、どうにか笑ってみせます。


「もう、セクハラですよっ!」
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:36:14.43 ID:otTlPJINo

「悠貴、1番大事なことだけ、できたらいいんだよ」


プロデューサーさんの声が、優しいものに変わりました。
いつか言われた台詞は、いつもの私を思い出させてくれます。


「ヒロインは、みんなと頑張ってきて、精一杯自分を磨いて、
 そして、好きな人が応援してくれる前で最高の勝負ができるんだ」

「それって、めちゃめちゃ楽しくないか」

「俺は、それを演じる悠貴を日本中に見せられるんだって思うと、嬉しくてしょうがないよ」


プロデューサーさんは本当に嬉しそうで、
まるでこれからいたずらをする子どものようです。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:36:55.47 ID:otTlPJINo

この人なりに勇気づけようとしてくれるんだ。
大人扱いも、子ども扱いもしない。ちゃんと私が頑張れる一言を言ってくれる。


「じゃあ、Pさんと仲間とファンのみんなに、笑ってもらわないといけませんねっ」


緊張が静かに高揚感と期待に変わっていく。
えへへっ。いつもありがとうございます。感謝してもし足りないんですよっ。
でも、今は、まだ言わない。代わりにやるべきことがあるから。


「Pさんっ、お願いがあるんですっ」

「おう。 俺はどうすればいい?」

「ゴールラインの先で待っていてくれませんかっ」


ゴールラインの向こう側には、普段なら選手の集合場所になる小さなスペースがあります。
そこは100mのスタートラインの見つめる先。


「分かった。ギリギリまで一緒にいなくていいのか?」

「はいっ! Pさんのところまで走っていきますから、どーんと待っていてくださいっ」
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:37:31.48 ID:otTlPJINo

――――――
―――

「悠貴ちゃん、スタンバイお願いします!」

「分かりましたっ!」


とうとう、このときがやってきました。
ここから先は1人です。きっとどんなすごい選手もみんな同じ気持ちになるんでしょう。


「じゃあ……また後で」

プロデューサーさんは、くるっと身体の向きを変えました。
あっ。ちょっと待って――


「あのっ。私の名前呼んでください! 迷わず前を向いていられるようにっ!」


頑張るって決意したばかりなのに。口からこぼれるようにして、叫んでしまう。
やっぱり、ちょっとだけ勇気が欲しくて。

プロデューサーさんはこちらに向き直ると、優しく笑います。
それは、私の1番好きな表情でした。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:37:57.91 ID:otTlPJINo

「悠貴。 転ばないように、気をつけてな」

プロデューサーさんは、そう言ってすっと手を上げました。

Pさんはあんまり頑張れって言いません。
でもちゃんと見てくれています。いつも心配してくれます。
だから、私はいつだって安心して頑張れるんです。

そんな気持ちは、上手く言葉にできなかったから、自分の手のひらに託します。
パーンっと、手の重なる音が、スタンド下に響きました。

「はいっ! ユウキいってきますっ」
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:38:24.40 ID:otTlPJINo



私は、8レーンある内、真ん中の5レーンを走ることになりました。
本当の大会だったら、一番速い人たちが走ることを許される特等席です。
ぞろぞろとランナーがレーンに揃っていきます。

ヒロインは、ここで優勝して、インハイへの出場を決めます。
ドラマの撮影とは言えど、本気の勝負。
全力の私でいかないと、きっと上手くはいきません。

『ただいまより、南関東100m女子決勝戦を行います』

『出場選手の紹介をいたします、1レーン――』

1レーンずつ、名前や高校の名前が呼ばれていく。
ランナーたちはスタンドにお辞儀をして、そのたびにスタンドがわーっと盛り上がる。

もし私が本当に大会に出られるなら、こんな景色が見られるのかな。
一度、深呼吸をしました。景色も歓声もタータンの匂いも、全部忘れないために。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:39:00.80 ID:otTlPJINo

『――以上、8名により、南関東100m女子決勝戦のレースを行います』


『位置について』


ブロックに足を掛けて、スタートラインに手をつくと、
広げた両手に、私のすべてを乗せます。


『用意』


お尻をあげて、ぴたっと止まる。
今は何も見えない。でもきっとこの先にプロデューサーさんがいてくれますっ。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:39:35.98 ID:otTlPJINo

ピストル音。

1歩目がぐっと地面をつかんで、すっと次の足が出ていきます。
背が高い私は、細かく足を刻めないので、他の人より素早くスタートできません。

でも、私は私でいいんだって、みんなから教えてもらいました。
ぐい、ぐいと加速して、1歩が少しづつ大きくなっていきます。
背が高い私だけの歩幅で、ただまっすぐ、まっすぐ。


色とりどりのユニフォームが1つ、1つ、目の前から消えて。
遠くのスタンドから聞こえる歓声も、私の周りの風景も消えて。


追い風がびゅんびゅんと背中を押していきます。

早くプロデューサーさんのところまで走っていきたい。
もっと、もっと、あなたに近づきたいんですっ。
想っているだけじゃ届かないから。


もう、ゴールとその先のプロデューサーさんしか見えません――
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:40:07.68 ID:otTlPJINo

私は身体ごとゴールラインに突っ込んでいきました。
とにかく終わったんだって気持ちで一杯で、もう何も分かりません。

ちゃんと1位でゴールできたよねっ?上手く撮れたのかな?
ぐるぐるする視界の中で、心配が泡のように湧いては消えていきます。

少しづつ世界が戻ってきて、プロデューサーさんの輪郭が見えます。
そうしたら、じわじわと染み込んでくる嬉しさに耐えられなくなって。


「プロデューサーさんっ!」

「え…あの、うわっと!」


大きめのタオルを広げたプロデューサーさんが私を抱きとめてくれます。
触れた部分からまた暖かさが広がっていくような気がしました。


「えへへっ…ちゃんと見ててくれましたかっ」

「おう、ちゃんと見てたよ」

「これが、これが、私ですっ。走るのって楽しいんですよっ!」
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:40:37.67 ID:otTlPJINo

「分かってるよ」


気持ちも身体も舞い上がって落ち着かない私に、プロデューサーさんが笑いました。


「最後、笑ってたろ」

「最後……ですか?」

「ゴールの時にな、ふっと笑ったんだ。監督もいい絵が撮れたって喜んでたぞ」

「あっ…っと、それはっ――」


どうしましょう、プロデューサーさんのことを考えていてとは言えません。
なんだか、だんだんと嬉しさよりも恥ずかしさの方が強くなってきて、顔もうつむいていきます。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:41:04.25 ID:otTlPJINo

バサッと私の頭にタオルがかけられたと思ったら、
そのまま髪をわしゃわしゃーっとされます。


「悠貴、ホントよく頑張ったな! やってくれるってずっと信じてたぞ!!」


プロデューサーさんが、子どものように笑って褒めてくれました。
その笑顔は、お仕事が上手くいった時に見せてくれる一番の笑顔でした。

いつもだったら、もう子どもじゃありませんっ!って言うのがお約束なのに。
なでられたことなんて全然なくて、苦手だったはずなのに。

とうとう、気づいてしまいました。

この顔がずっと見たかったんだと。
それが何を意味するのかを。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:41:34.13 ID:otTlPJINo

このドキドキは、この暖かさは、走ったからだけじゃありません。
いっぱい遠回りして、いろんなことを経験して、今日やっと分かったキモチなんだ。

私は、いつだってプロデューサーさんに笑っててほしくて。
プロデューサーさんがそこにいるだけで幸せなんです。

きっと今は言葉じゃ伝えられないから。
見慣れたその手が恋しくなって、ぎゅっと両手で包み込みます。


「えっと、その、Pさんっ! ただいまですっ」


時間にして数秒。
たったそれだけに私が気づいたキモチを込めました。

そして、ちゃんと顔をあげて、私にできる最高の笑顔で。


「応援してくれて、信じてくれてありがとうございましたっ」
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:42:05.81 ID:otTlPJINo

100mのタイムは、自己新記録でした。
お芝居だから、タイムはあんまり関係ないんですけど。

それでも、嬉しい記録です。
私は私らしく。全力で挑めたんだって分かるから。
今日のこと、きっと一生忘れないと思います。

追い風 2.0mのベストレース。

もしかしたら、追い風が連れてきてくれたのかもしれません。
ゴールの向こうで待っていたプロデューサーさんのところまで。

走っていく私の身体とキモチを。
101 :8. 最後のセリフ [saga]:2017/07/10(月) 23:42:44.14 ID:otTlPJINo



『――センパイっ。』


学校のグラウンドに私の声だけが響きます。


『応援、ありがとうございましたっ。センパイが背中押してくれたから、私、頑張れたんですっ』


私は、泰葉さんが言うように、私を知って、ヒロインのキモチを知りました。
今は、この子のために、伝えなきゃいけない私のキモチを乗せるんです。


『ずっと私のこと信じて、そのままで大丈夫だって、背伸びしなくていいって言ってくれました』


こんな私にもアイドルができるってずっと信じてくれてたんですよね。
大人っぽいとか、子どもっぽくないじゃなくて、わたしをちゃんと知ろうとしてくれました。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:43:11.75 ID:otTlPJINo

『転んだこともありました。引っ張り起こしてくれましたよねっ』


私が、私のことを信じてあげられなくて、何度も困らせちゃいました。
そのたびに一緒に悩んでくれて、私ならどんなことだって跳べるって言ってくれました。


『一緒にいると楽しくって、笑っちゃって。私ずっと恋だって気づいてなかったんです』


好きにだって、ちゃんと理由があるんですね。
落ちるような恋もステキだけど、考え過ぎちゃうような恋で良かった。

もしサイコロを振り間違えて、振り出しに戻されても、
思い出を1つ、1つ拾っていったら、
きっと私、また恋してるって分かると思うから。


『今しかないから、ちゃんと伝えますっ』
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:43:39.32 ID:otTlPJINo

プロデューサーさん――

もう何かを与えてもらうだけじゃダメなんです。
あなたにも、私の気持ちを伝えたいんです。



『センパイっ、好きですっ! これからもずっと一緒に走ってくれませんかっ』



生まれてはじめて、好きだと伝えました。
真似っこなのかもしれない。ただのお芝居なのかもしれない。
でも誰かに伝えたいこの気持ちだけは、ニセモノなんかじゃありませんっ。

ドキドキで苦しくて、怖くて、ふわふわして、恥ずかしくて。

響いたはずのカットの声は、
一瞬の風になって通り抜けていってしまったような、そんな気がしました。
104 :9. ミックスジュースのいうとおり [saga]:2017/07/10(月) 23:44:08.03 ID:otTlPJINo



「それでは、みなさま、ドラマスペシャルの撮影お疲れ様でしたー!乾杯!!」

「「「「乾杯!」」」」


監督さんのよく通る声がお店の中に響きます。
なんとかすべてのシーンを撮り終えて、こうして打ち上げを迎えることができました。
他の出演者の皆さん、スタッフの皆さん……そして私とPさんも。

子どもたちの席に座らされた私は、先輩方に囲まれて、たくさん褒められています。

最後の告白シーン私もドキドキしちゃったよ! あんなに足速いなんて知らなかった!
撮影中もたくさんお話ししたのに、まだまだ話題は尽きません。

困った顔をしたり、あいまいな相槌を浮かべたり、目の前がぐるぐるしながらも。

それでも、年齢も、アイドルも関係ない、
一緒に走ってきたメンバーとして、ここにいることができる嬉しさを感じています。
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:44:34.46 ID:otTlPJINo

気がつくと先輩たちは、恋バナの方にヒートアップし始めています。

さすがについていけなくなって、逃げ出そうかと振り返ると、
大人たちの席に座っているプロデューサーさんは、スタッフさんたちと楽しそうです。

隣の女性スタッフさんがお酒を注ぐたびに、
「ありがとうございますっ」とか言って、笑いかけています。

それも、お酒のせいか、少し顔を赤くさせながら。


ぷくーっと頬を膨らませたくなります。
これはあとで追求しないといけませんねっ。

そんなありきたりな反応をしている私に少し驚いて、苦笑いをしました。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:45:06.49 ID:otTlPJINo

――――――
―――

「はい、それではお手を拝借。よーぉっ―」

パンッ

打ち上げがひとまず終わったところで、私とプロデューサーさんは抜け出してきました。
最寄りの駅までの道のりを2人で歩いていきます。


「やー、飲んだ食った喋った。悠貴の方もなんだか楽しそうだったな?」

「は、はいっ! で、でも見てたなら助けて欲しかったですっ」

「ごめん、ごめん」


少し酔っ払っているプロデューサーさんが、にへらと笑います。
はじめて私に向けられた表情は、なんだかふにゃふにゃして可愛いものでした。

プロデューサーさんもこんな顔するんだ。
また、1つ、プロデューサーさんのことを知って、嬉しくなります。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:45:33.70 ID:otTlPJINo

でも、それはそれ、これはこれです。


「ダメですっ、許してあげませんっ」


私は笑って、プロデューサーさんにずいっと詰め寄ります。
これは、隣の女性スタッフさんにデレデレしてた分です。


「えー。そ、それじゃあ、お詫びとご褒美を兼ねて、何でも言うことを聞くよ」

「何でもですかっ?」


そう言われると、私の心がちょっぴり跳ねます。
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:46:08.19 ID:otTlPJINo

「俺のできる範囲でね」

「じゃあ、えっと、その……お願いがあるんですっ――」


私は、1つだけお願いをしました。
それは、プロデューサーさんにとっては小さなものでも、
今の私にとっては、大きな、大きなお願いです。

望んだものに向かってまっすぐ。
私の少し震えた声は、暑い夏の夜に溶けていくようでした。
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:46:37.00 ID:otTlPJINo



「おじゃまします」

「どうぞっ、Pさん。あ、これ、なんか照れますねっ!」


あの夜、私は自分のお部屋で2人でお祝いがしたいとお願いしました。
小さなテーブルの上は、ケーキやら、お菓子やらでいっぱいです。

プロデューサーさんには、高いお店とかに連れて行っても良いんだぞ?と聞き返されました。
これがいいんです。私はきっぱり言えたでしょうか。


「そういえば飲み物、買わなくて良かったのか?」

「はいっ!とっておきがあるんですっ」


きょろきょろと落ち着かなさそうなプロデューサーさんに、私は笑って答えます。
いつもは支えてもらってますけど、たまには私がPさんをリードしたいから。


「Pさん、一緒に、ミックスジュース作りませんかっ?」
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:47:03.61 ID:otTlPJINo

――――――
―――

ベビーリーフ、バナナ、ヨーグルト、牛乳、はちみつをミキサーに入れて、スイッチオンっ。
ごーっと音をたてて、ミキサーが回り始めます。
ちょっとした待ち時間がやってきました。


「へー、野菜のミックスジュースってこうやって作るのか」

「はいっ!こうすれば苦い生野菜だって、なんとかなりますっ」


備え付けの小さなキッチンに2人並んで、なんでもない話をします。

いつもはどうしていいか分からない待ち時間も、
一緒にいてくれる人がいるだけでこんなに違うんですね。


「悠貴が趣味の欄に書くくらいだもんなぁ。それ系のCMとか取って来れないかな」

「Pさんっ。今くらいはお仕事のこと、忘れましょうっ
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:47:29.49 ID:otTlPJINo

私の好きなことを2人で一緒にする。
改めてやってみると、こんなにドキドキすることはありません。

私が好きなことを、プロデューサーさんも好きになってくれたら嬉しいんです。
大人でも、子どもでも、アイドルでもない、私をもっと知って欲しいんです。

そうしたら、私は、自分がどれだけあなたを想っているのかを知って、
そして、もっと、もっとあなたのことを好きになります。
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:47:57.40 ID:otTlPJINo

やっぱり今はまだ子どもかもしれませんけど、
今まで一緒に頑張ってきたプロデューサーさんに認めてもらえたら……
私、もっとかわいくなれる気がするんですっ!

いつかプロデューサーさんもびっくりするくらいに。


だから、プロデューサーさん、これからも私をいっぱい、かわいいって褒めてくださいっ!

アイドルとしての可愛いを、私がずっとなりたかった可愛いを、
いつだって、ていねいに教えてくれるのはプロデューサーさんだけですっ。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:48:27.25 ID:otTlPJINo

アイドルになって嬉しかったこと、数え切れないくらいあります。
悲しかったことや辛かったことだってたくさんあります。

きっとこれからもそんな毎日が続いていくのでしょう。


今はこれでいいんです。
触れ合って、甘い言葉を囁き合って、なんて、まだまだ私には恥ずかしいから。


アイドルとしての夢も、可愛くなりたいってことも、
走ることも、小さな恋のキモチも、
ぜんぶまるごとミックスジュースにして。

そうしたら、何気ない毎日だって、きっと生まれ変わります。
もっと、ずっと楽しくなります。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:49:25.08 ID:otTlPJINo

パチンとミキサーのスイッチが鳴りました。
それは、なんだかスタートを告げるピストルの音みたいです。

止まったミキサーから、並んだ2つのコップに半分ずつ注いで。
それぞれがコップを取ったなら、乾杯の合図にお互いの目を見つめ合って。


私、恋をしたんですっ。 きっとこの先もずっと――
そんな私とあなたを、今日と明日を、このジュースが繋いでくれますように。


「Pさん、悠貴特製のミックスジュースっ。どうぞ召し上がれっ!」
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/07/10(月) 23:49:55.68 ID:otTlPJINo


おしまい。
こんな子がいる陸上部に入りたかった。
乙倉ちゃんはかわいい、やったぜ。
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/07/11(火) 01:06:21.64 ID:jiMC3UZ80
乙、乙倉ちゃんは恋を知ったんですね
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/07/11(火) 03:03:22.65 ID:TDkpgEW6o
おつおつ
悠貴ちゃんきゃわわ
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/07/14(金) 11:01:07.35 ID:5b5Bjuako
おつ
読みやすいしとても良かった
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/07/14(金) 14:27:51.61 ID:LdHvCkA9O
いい話だった、掛け値なしに
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