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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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719 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:17:38.18 ID:jiMS7eDVO

 そう言って、佐藤は頭ひとつ投げてよこした。ごろごろ転がってきた。完全な球じゃないから、ときどきぽんと跳ねたりした。眼の前にやってきたそれは長い亜麻色の髪をなびかせ、ぴたりと止まると、その顔を見せた。


 美波の顔をしていた。


 自分がいまいる建物が崩壊しつつある、足場がぐらつき、コンクリートが崩れる轟音と窓ガラスが割れる音、そして吹きすさぶ狂暴な風の音が耳を襲った。

 それらの音が自分の喉から絞り出された絶叫だと気づいたとき、佐藤は首のない死体を引き摺ってビルの屋上から飛び降りようとしていた。

 死体は夏用の学生服を身にまとっていて、首の断面から黒い粒子が湧き出していた。


 新しく出来た永井圭の顔が、首だけになった美波を見た。
720 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:19:28.54 ID:jiMS7eDVO

 アナスタシアは眼を覚ました、汗びっしょり、三十秒してようやく眼が自分の部屋の天井を認める、あまりの悪夢に泣きたくなる、息を吐く、ベッドから這い出ようとする、パジャマがべっとりしている、冷たい感触に嫌な予感をおぼえる、掛け布団をめくる、人型の染み、地図にはなってない、安堵ともに気が抜ける、落ちるようにベッドから出る、しゃがみこみベッドの縁に頭を預ける、が二度と眠れそうな気がしない。

 頭を沈み込ませていると、頸椎に押され皮膚が伸びてゆく感じがした。アナスタシアは額にマットレスの反発を感じつつ、頭のことを考えた。額から後頭部にかけての丸み、そこから首の付け根までを頭のかたちとして意識する。首の後ろの皮膚を張り出している首の骨、ここを絶たれると亜人も死ぬ。正確には断頭され、その頭部を回収範囲外に置かれたまま復活すると新たに頭部が作られる。そのとき、断頭された方の頭部、生まれたときから存続してきた意識は死をむかえる。

 断頭のことを聞かされたとき、アナスタシアは「断頭=死」という永井が認識している等式をイメージとして感じ取ることができなかった。運転席で話を聞いてる中野も同様で、「全然わからない」と全然わかってなさそうな表情で言った。
721 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:20:45.91 ID:jiMS7eDVO

 永井は宗教的な意味での魂とかスワンプマンの思考実験などといった方向から説明するのを一瞬であきらめ、中野とアナスタシアのスマートフォンを頭に見立てて説明することにした。


永井「これをもともとのおまえらの頭部だと思え」


 永井は右手に中野のスマートフォンを掲げながら話はじめた。おまえらと言いつつ、永井は中野にもアナスタシアにも視線をあわせず正面を向いたままだった。


永井「断頭時、この頭部が回収範囲の外に出たとする。新しい頭部がつくられ、まったく同じ記憶・心もつくられるが、離れた頭部から意識が抜け出して新しい頭部に移るわけじゃない。新しい人格は生きているが、離れた頭部の人格は永眠している。つまりこっちがこうなると」


 そこまでしゃべったところで、永井は車の窓から中野のスマホを投げ捨てた。


中野「え? 投げた?」

永井「これが新しくできる」


 今度は空いた手でアナスタシアのスマホを掲げる。
722 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:22:04.22 ID:jiMS7eDVO

中野「おれのケータイ投げたの?」

永井「そうだけど」


 「なんで投げたんだよ」と叫びつつ中野は運転席から外に飛び出した。アナスタシアが前部座席で繰り広げられている滑稽なやり取りに呆気にとられていると、スマートフォンがひゅるひゅると縦に回転しながら眼の前にやってきた。


永井「機能的には同じだが、存在的にはまったく別。そのスマートフォンと同じだ。機種変更する前のものと同じデータを保存し、同じ機能を果たすけど、構成している物質はまったく別。スワンプマンが定義的に歴史性を持たないのと同じ」


 アナスタシアは投げ返された自分のスマートフォンを見つめた。蚊を叩くようにパチンと手を合わせて受け止めたそれは、一月ほどまえに買い換えたばかりの新しいスマートフォンで、永井の説明を反芻しながら眺めてみると、どこか見慣れない、いつも使っているものにかたちは似ているけど違和感を放つ物体のように思えてきた。

 もし切り離されたら、切り離されたことに気づいているのは自分だけになる。亜人にとって断頭は、物理的な切断にとどまらず、時間的な切断でもあり──誕生したときから記憶を保存し、細胞を入れ換えながらおおきくなって感情を育んできた器官が経験した年月の切断──、わたしは死んでいるのに、周囲の人間はそのことに気づかない。友だちも家族も気づかない。わたしの死を知っているのは、わたしだけ。それは、あまりにも絶対的な孤独だと、アナスタシアには思えた。
723 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:23:33.66 ID:jiMS7eDVO

中野「おい、ケータイ見つかんねえぞ」


 中野が助手席の側に寄ってきて、永井に話しかけてきた。


永井「あるだろ、そこらへんに」

中野「おまえも探せよ」

永井「めんどくさい……」


 永井は自分のしたことなどすっかり忘れたかのように気だるげにぼやいたが、シートの背もたれに背中を深く預けた姿勢でポケットからスマートフォンを取り出すと、アスファルトの上だかどこかに転がっているはずの中野のスマホに電話を掛けてみた。

 着信音が鳴り響いたが、位置まではわからない。画面が光っているはずなのたが、射すようなブルーライトの眩しさも眼に写らなかった。結局、三人は車から降り(アナスタシアがなんとか永井を降ろさせた。そのときの永井は渋々としていた)着信音に耳をすませるとその音はこもって聴こえ、音がするところに近づくと側溝を覆うぶ厚いコンクリートふたの隙間から光が洩れ出していることにきづいた。

 中野はさっそくふたを持ち上げにかかった。ふたの重量はかなりのものだったが、持ち上げられないこともない。だが、ふたの持ち手、つまり隙間は片手の指が四本入るか入らないかくらいしかあいておらず、渾身の力を込めてもふたを側溝からどかせられるほどはあがらなかった。
724 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:26:02.27 ID:jiMS7eDVO

中野「手伝ってくれ、永井」

永井「指が擦りむける」

アナスタシア「アーニャがやります」


 アナスタシアは憮然としながら前に進んだ。言い訳するにしてももっとましな説得力のある言い方をしてほしいものだというふうに態度で示しているかのようだった。

 その白くて細い指を隙間に入れるまえに、中野が「ちょっと待って」とアナスタシアを制した。ふっ、と気を抜くように息を吐き、わずかに力を抜いてから右腕に──指、手首、上腕にかけて──一気に力を込める。ふたがふたたび、さっきよりも少し持ち上がり、中野がアナスタシアに「いま!」と指示を飛ばす。

 アナスタシアが指を突っ込み、身体ごと持ち上げる。ふたがくっと上がり、止まる。少しだけしか上がらなかったが、中野が左手の指を入れ込むだけの隙間はできた。

 指からふっと重さが消える。ふたは一瞬、垂直になって静止したかと思うと、銃で撃たれた者のように後ろに倒れた。コンクリートのふたがアスファルトにぶつかったときの衝撃はすさまじく、それこそ銃声のような音を響かせた。事実、アナスタシアはその音のあまりの大きさにたじろいでしまった。
725 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:27:22.78 ID:jiMS7eDVO

 中野は膝まづいて側溝にぽっかり空いた暗闇に眼を凝らした。眼が形を判別すると、手を伸ばし闇のなかを探る。指がスマートフォンに触れる。

 側溝から取り出し、おそるおそる起動させる。パッと画面が明るくなる。傷ひとつない。中野とアナスタシアは安心と感嘆が入り交じった声をあげる。


「おおー」


 その様子を見ていた永井がこぼす。


永井「幽霊使えばよかったのに」


 ふたりして「あ」と、感心と間抜けさが混じった声を出したところでアナスタシアは顔をあげた。時計を見ると、ベッドから這い出したときより二十分ほど時間が経っていた。

 どこからが思い起こした記憶でどこまでが夢なのか、アナスタシアには判然としなかった(“断頭”のことを聞いたのはたしか、スマートフォンを窓の外から投げたかどうかはわからない、永井だったらやりかねないだけに余計にわからない)。
726 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:28:56.61 ID:jiMS7eDVO

 九月になり、すこしずつ日の出の時刻は遅れ始め、カーテンを開けてみてもまだどこか薄暗い。アナスタシアはぼおっと窓の外を眺めていると、だんだんと風景に光の量が増えていく様子が眼に映った。

 外を見ながら、アナスタシアは友だちはもうすぐ学校に行くのだろうと考えた。でも、わたしは別の場所に行く。

 友だちが死んだと告げられた日、担任にカウンセリングを勧められたアナスタシアはそれを受け、結果としてすこしのあいだ休学を許された。仕事についても同様。また精神衛生上、日中の外出が推奨され、そのためアナスタシアは言い訳やごまかしなしで毎日フォージ安全まで足を運んでいる。

 両親や仲間や友だち、プロデューサーにカウンセラーや担任が考えているのとはことなり、アナスタシアの気持ちは消沈していない。そのことでどこかしらズルをしているような後ろめたい思いはあるが、それもわずかなもの、心の大半を闘志が占めていた。

 アナスタシアは外出の準備を整える。人混みに紛れ、電車に揺られる。目的地付近の駅で降り、十分ほど歩く。到着。

 フォージ安全ビル。

 日付は九月八日、時刻は午前八時十二分。

 アナスタシアは待つ。佐藤が来るまで。


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727 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:31:40.47 ID:jiMS7eDVO

「来いよ。佐藤」


 永井は佐藤に宣戦した。ミニガン・ターレットが獰猛に吼え、ヘリポートが剥がれ散り、ビルの上部が喰い千切られる。永井の身体もばらばらに吹き飛ばされる。だがその直前に走馬灯、またも時間の分割、痙攣、細かな震動の刹那の合間に存在する停止、そこに佐藤の“表情”が見えた。

 その“表情”は見たことがないものだったが、聞いたことはあった。……ベトナム、一九七六年の“プレイボール”……

 ソファに横になったまま、永井はなかば寝ぼけたまま、しかしまばたきせずにあたりを眼だけで慎重に見回した。カフカは『審判』の草稿から抹消した箇所でこう言っている。(作者は不要な箇所を抹消するわけではない)。
728 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:33:09.73 ID:jiMS7eDVO


 だれか私にこう言った者がありますよ──それがだれだったかはもうおもいだせまんけれどね──、朝目がさめて、少なくとも大体のところで、すべてのものが動かされずに、ゆうべ置いてあったとおりの同じ場所に置いてあるのを見つけるのは、なんといってもすばらしいことだ、とね。なぜといって、睡眠中と夢のなかでは、人は少なくとも見かけたところ、起きているときとはまったく違う状態にいたわけですからね。まったくその男が言ったとおりなんですが、目をあけると同時にその目ですべてのものを、いわばゆうべ置きはなしにしておいたのとおなじ場所にとらえるというためには、無限の沈着さがいることですし、沈着さというよりは、むしろ機敏さのいることなんです。ですから目のさめる瞬間というのも、一日のうちでいちばん危険な瞬間なのだ、自分のいた場所からどこかへ連れ去られて行ったりはしないで、その危険な瞬間が克服されてしまえば、人は一日じゅう自信を持っていられる、というわけなんです。


 すべてのものは永井が夢を見るまえに置いてあってところからほんのすこしも動かずそのままの位置にあった。よく見ると、平沢と真鍋のまえにあるテーブルの上にふたりが点検中の拳銃その他の装備品のほかに、拳銃を差し込んだままのショルダーホルスターが置いてありそれは中野が付けていたものだったが、いまでは肩掛けの部分が混乱して自暴自棄になった蛇のようにこんがらがって放置してある。中野は年嵩の黒服と並んでガラス窓のところに立ち、景色を見下ろしながらくっちゃべっている。

 永井はそのような変化ともいえない部屋の様子の変化を見てとると、ごろんと背中を向け、半分だけ眼を閉じた。のこりの半分は眠気に落ちてくるにまかせた。

 九月八日はこのように過ぎ去った。

 それから、五日が過ぎた。


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729 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:34:30.51 ID:jiMS7eDVO

 ──九月十三日


 デスクの上にある社用のノートパソコンが警報を報せた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室で火災警報……」


 火災の検知と同時にガス噴射装置が作動し、二酸化炭素ガスがサーバー室の消化を開始した。火災の規模は小さく、火はすぐに消しとめられた。

 戸崎はパソコンを見ながら、思案した。待機を始めてから初めての異変。


平沢「被害が出るほどの規模じゃないな。誤作動ということもあるらしいしな」


 デスクに近づいてきた平沢がパソコン画面を覗きこみながら言った。

 微妙な異変だった。異変の規模こそ小さいが場所が場所だけに違和感がある。確かめないわけにはいかない。しかし大きく介入すれば、秘密裏にしていた自分達の存在が露見しかねない。どの程度の措置をこうずるか。一同は戸崎の判断を待った。


永井「みなさん、配置についてください」


 突然の指示に全員がソファに視線を向けた。永井が肘で上体を起こした格好をしている。顎が肘掛けの上にのせている。永井はのっそりと身を捩らせ、顔をあげると、静かに確信を込めた一言を口にした。


永井「来るぞ」


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730 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:35:48.83 ID:jiMS7eDVO

 火災警報装置の作動から一時間ほどが経過した。

 フォージ安全ビル正面の道路に一台のバンがあった。二時間前にエンジンが切られ、停車したきりで誰も乗り込まず降りてこずの状態だったバンのドアが突然開いた。

 男が三人、バンから降りる。三人組は縦に並び、ずんずんとビルに向かって突き進んでいく。

 ビルの正面で警備にあたっていた警官がその様子に眼をとめる。あきらかにほかの歩行者とは異なる。歩調、速さ、視線の強さ、どれをとっても不審を抱く。

 三人組は手に何かを持っていた。先頭の男は右手に棒状のものを握っている。列から二番目の男の顔が判別できるまでの距離になった。警官は男たちが手に持っている物体が何なのかわかる。同時に先頭の男の正体に気づく。
731 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:37:50.81 ID:jiMS7eDVO

警官「あ!」
 

 警官は肩の無線に手を伸ばした。

 田中は警官の手が動くと同時にショットガンの銃床を肩にあて、狙いをつけ、引き金を絞った。

 警官の口と右手が吹っ飛んだ。

 銃声に怯え逃げ惑う人びと。悲鳴が沸き起こり、しだいに遠ざかっていく。

 田中たちはフォージ安全ビルへと突き進む。

 ビルの前ががらんとした空白地帯になる。人の賑わうオフィス街にぽっかりと無人の空間ができる。警官の欠けた喉からひゅーひゅーと濁った呼吸音が漏れ出す。警官の眼は青い空と白い雲、天を衝く高層ビルを捉えている。やがて見えている景色がだんだんと暗くなり、耳に聴こえるざわめきは遠くなった。警官自身がたてる音もちいさくなってゆく。


 奇妙なほどしんとした静けさが漂うその空間には、口のない死体だけが残されていた。

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732 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:52:46.71 ID:jiMS7eDVO
今日はここまで。

前回の更新の時に来週には更新しますといっていたのに、遅くなってしまい申し訳ないです。

>>706
ありがとうございます。

ノベライズみたいだな…とは書いてる本人も思っています。追加した亜人がアーニャ一人なので、フォージ安全の後半まで展開を変えられなかったのは悩んでいたので、コメントはとてもうれしかったです。

細部のつけたしはこれも楽しいんですが、読んでてどうかと……とくに永井と中野とアーニャが無意味な感じの時間を過ごすのは十代だし、こんな感じに適当に過ごしてほしいと思って書いたんですが、本編にまったく関係ないですしね。

ハロウィンネタのおまけ短編はこんどこそ今週中に更新できるかと思います。
733 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/04(日) 23:05:44.74 ID:epLBYzTr0
おつー
前の永井Pなコメディ短編も面白かったからハロウィン期待してる
734 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:07:28.41 ID:vr0r0Ve5O
予告したいたハロウィンネタのおまけを投下します。

本編との時系列や整合性はかなり適当
735 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:08:19.11 ID:vr0r0Ve5O

「トリック・オア・トリート」


 部屋に入ってきた四人が声を揃えて言った。

 休憩中の永井がドアの方に眼を向ける。アナスタシア、ありす、奏、文香の四人がハロウィンの仮装をしてやってきていた。


永井「ああ、そうだった」

アナスタシア「お菓子をくれなきゃ、イタズラしますよ?」

ありす「え、ほんとにするんですか?」

文香「わたしは、その、あまり勇気が……」

奏「……白状すると、わたしも」

永井「ちゃんとあるから」


 永井は立ち上がり、用意していたお菓子を四人に手渡した。

 そのお菓子をまじまじと見つめながらアナスタシアが言った。
736 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:09:59.37 ID:vr0r0Ve5O

アナスタシア「これ、お菓子、ですか?」

永井「お菓子だろ」

ありす「おせんべいに、おかきとあられ」

文香「たしかにお菓子ですが……」

奏「米菓ね」

永井「安かったから」

アナスタシア「あまいのがいいです」


 ハロウィンなのに雰囲気をまったく考慮しない永井にアナスタシアは不満たらたら。永井はめんどうそうに顔をしかめて、デスクに戻ると床に置いてあった段ボールを持って戻ってきた。

 段ボールを床に置き、中から橙色をしたまるいものを取り出すと、永井はふたつずつ配った。

737 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:11:58.63 ID:vr0r0Ve5O

永井「山中のおばあちゃんが送ってくれた柿。熟しててあまいよ」

アナスタシア「ハロウィン……」

永井「色は似てるだろ」

文香「おおきいですね、この柿」

ありす「入れ物にはいらないです」

永井「ならここで食べてく? 皮むくよ」

奏「あら、いいの?」

永井「手間じゃないから」


 四人がソファに腰を下ろして待っていると、食べやすいおおきさにカットされた柿の鮮やかな橙色が白い皿に載せられてやってきた。柿にはプラスチックのつまようじが刺さっていて、まろやかな感じのライトグリーンが柿の実とは対比的で眼に映えた。


永井「お茶も淹れてくる」


 そこで永井はふと気づいたことを口にする。


永井「姉さんはいっしょじゃないの?」


 四人とも美波と親しい関係なのに、姉は不在だった。


アナスタシア「ミナミは……アー」

奏「肌を出して弟にお菓子を貰いいくのとか無理だし、イタズラとかもっと無理って」

永井「肌を出さなきゃいいんじゃ?」
738 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:13:41.10 ID:vr0r0Ve5O

 永井がお茶を持って戻ってくる。


ありす「ありがとうございます……あの、永井さんもごいっしょにどうですか?」

奏「そうね、ひさびさに映画と本の話をしたいしね。ねえ、文香」

文香「ええ、永井さんはどちらにもお詳しいので……ちなみに、これがなんの仮装かお分かりですか?」

永井「黒猫ですね。どこの国の小説ですか?」

文香「ロシア文学を意識してます」

永井「ロシアで黒猫だと、ベゲモートですか? 『巨匠とマルガリータ』の」

文香「流石です……!」


 文香は眼を輝かせた。密かなコンセプトに気づいたのは永井が最初だった。


奏「今年はみんなロシアを意識した仮装をしてるのよ」

アナスタシア「ナヤーブリ……十月は、ロシアで大切な月、ですから」

永井「なら、去年やれよ」


 ムッとするアナスタシア。ピリピリするまえにありすが話題を変える。
739 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:14:30.12 ID:vr0r0Ve5O

ありす「あの、永井さん、わたしの仮装はどうですか?」

永井「それはハリネズミ?」

ありす「はい、そうです」

永井「じゃあ、『霧の中のハリネズミ』だね。ヨージックだったっけ?」

ありす「正解です。えへへ」

永井「映画は速水さんが勧めたの?」

ありす「はい。いっしょに観ました」

奏「ちょっとまえにBlu-rayが出たから、それでね」

永井「なるほど」


 永井はアナスタシアに視線をやった。白いドレス、頭に花冠。柿を食べる手を止め、得意気な表情。マイナーな選択で勝ちを狙ってる。


アナスタシア「アーニャのは、むずかしいですよ?」

永井「『妖婆 死棺の呪い』」


 あっさり答える。永井はふてくされるアナスタシアから文香に視線を変える。
740 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:16:27.46 ID:vr0r0Ve5O

永井「原作はゴーゴリでしたっけ?」

文香「はい。永井さんはゴーゴリはお読みに?」

永井「主要な作品は。最近、後藤明生の小説を読んだので、読み直したいと思ってるんです」

文香「『挟み撃ち』は『外套』が下敷きになってますからね。芥川龍之介や宇野浩二もゴーゴリの影響下にいますし。というより、明治の作家はほとんど影響下にあると思います」

永井「坪内逍遙が『小説神髄』で〈小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。〉と書いて近代小説には写実的リアリズムが重要だと主張してますが、これもゴーゴリの作風の一部分と到底する主張ですよね」

奏「ねえ、ふたりとも、わたしたちを置いてけぼりにして楽しい?」


 会話が深まりそうなところを奏が軌道修正する。文香は熱中ぎみになったのをはずかしがりつつ、ありすに詫び、ありすはふたりの対話の深まりに感心するばかり、アナスタシアはさっきから柿を食べていて、また食べ始めた。


永井「スーツ……なんだろ、レーニン?」


 こんどは奏の仮装を当てる番。永井はあてずっぽうに答えた。ロシア映画でレーニンといえば、それはもうやっぱりほとんどヒーロー扱いされていたから(セルゲイ・エイゼンシュテイン『十月』の象徴としてのレーニン、ミハイル・ロンム『十月のレーニン』『1918年のレーニン』の普遍性をもった小市民としてのレーニン)、二割くらいの確率で当たるかなと思っていた。
741 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:17:18.33 ID:vr0r0Ve5O

奏「残念」

永井「だよね。髪の毛そのままだし」

奏「おでこ見ないで」


 奏は前髪の分け目からのぞく額を手で隠した。


永井「映画の登場人物?」


 永井が訊いた。


奏「まあ、そうね」

永井「で、ロシア?」

奏「……言うほどロシアは関係ないかも」


 奏の歯切れがだんだんと悪くなってきた。


永井「さすがにわからないな。答えは?」

奏「……ジョン・ウィック」
742 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:21:06.77 ID:vr0r0Ve5O

永井「アメリカ映画だけど」

奏「ほら、劇中ではバーバ・ヤーガって呼ばれてるじゃない」

文香「スラヴ民話に登場する妖婆ですね」

ありす「でも、アメリカ映画なんですよね?」

永井「敵対するのがロシア系の組織だから」

ありす「はあ」


 あまり納得してない様子のありす。アナスタシアはお茶をふーふーしている。まだけっこう熱い。


奏「やっぱりレーニンのほうがよかったかしら?」

永井「『十月』だしね。かつらとかなかったの?」

奏「自分から話を向けてなんだけど、本気で勧めようとするのはやめて」
743 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:23:15.46 ID:vr0r0Ve5O

 話題はまた映画について。

 『MEG ザ・モンスター』の撮影監督がトム・スターンで驚いたという話題から、ハリウッド大作映画の撮影監督ははんぱない一流カメラマンがクレジットされることがあるから油断できないという話題に。

 『アントマン&ワスプ』のダンテ・スピノッティ、『マイティ・ソー バトルロイヤル』のハビエル・アギーレサロベといった名前は否応なしに人を興奮させる(かれらの名前は、クリント・イーストウッド、マイケル・マン、ヴィクトル・エリセといった名前を連想させる)。

 『ジョン・ウイック:チャプター2』はサイレント時代のコメディ映画のオマージュがあるという話。冒頭、ビルの壁面に映写された『キートンの探偵学入門』と銃口に囲まれたポスターイメージはハロルド・ロイド主演の『都会育ちの西部者』の話。チャーリー・チャップリン+バスター・キートン+ハロルド・ロイド=ジャッキー・チェン。最近のトム・クルーズもこの流れ。


永井「懸賞金がかけられたところで、僕のときは一億円って言われたなって思った。ラストとか僕がトラックに轢かれたあとの感じそのままだった」

奏「永井君、たまにリアクションしづらいこと言うわよね」

ありす「リアクションしづらいとか、そういうレベルじゃないと思いますが」

永井「実際に体験してるとやっばりね。『ザ・プレデター』(なにげにハロウィン映画)で麻酔銃がいっぱい出てくるんだけど、麻酔ダートを人の眼に撃つ描写には驚いたな。あんな死に方は僕もしたことない」

文香「あの、怖くはならないのですか?」

永井「映画は映画ですし」

奏「前にも言ってたわね、それ」
744 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:24:34.69 ID:vr0r0Ve5O

 小梅がホラー映画に出演することが決まったときの話。永井が通りかかり、ちょくちょく映画の話をしていた奏が呼び止める。どんな映画と永井が訊くと、小梅はスマートフォンでティーザー予告を見せた。手術台に拘束された男が電動ノコギリで腕を切断される。永井がひとこと。


永井「これ、されたなあ」


 言葉を失うふたり。スマートフォンを返しつつ、永井がさらにひとこと。
 

永井「公開されたら観に行くよ」

奏・小梅「「観に行くの!?」」


 奏が小梅のあんなにおおきな声を聞いたのははじめてだった。

 そんなこんなで話題は永井との印象深いエピソードへと移行した。

 奏がもうひとつエピソードを披露する。永井の好きな映画のタイトルがあからさまに狙いすぎという話。永井が挙げた三つの映画のタイトル──クレール・ドゥニ『死んだってへっちゃらさ』、ヴィターリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』、ジム・ジャームッシュ『デッドマン』──。

 文香の場合はもちろん本が介在した。
745 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:26:01.42 ID:vr0r0Ve5O

 文香の忘れものを永井が届けにきたときの話。忘れものはもちろん本で、いまでは絶版、文香は内心あわてふためていた。

 そんなとき、永井が本を携えてやってきた。


永井「これって鷺沢さんのですか?」


 そう言って見せたのは、ウィリアム・ギャディスの『カーペンターズ・ゴシック』だった。

 ウィリアム・ギャディスはアメリカ合衆国・ニューヨーク出身の小説家。寡作ながら非常に評価が高く、“JR”と“A Frolic of His Own”によって全米図書賞を二度受賞した。作風はポストモダンと称されることが多いが、モダニズム的な色合いも強く、デビュー当時はジェイムズ・ジョイスに似ていると評されることも。トマス・ピンチョンやドン・デリーロなどと並んで、作品はいずれも大部。特に『JR』以後の作品では、ト書きのない脚本のような書き方が顕著で、「誰がしゃべっているのか」、「この人物はどういう人物か」、「今しゃべっている人たちはしゃべりながら何をしているのか」などといった情報は、読者が発話内容から推測しながら読み進めなければならない。また、登場人物の発話も、言いかけて途中でやめたり、言い直したり、他人の話の最中にさえぎったりなどして、非文法的な不完全文が多いが、それによってリアルなせりふとなると同時に、そこにプロット上の仕掛けが施されていたりする。 ──Wikipediaより引用

 「自由にテーマを展開するピンチョンをジャズに、緻密に語りを組み立てるギャディスをクラシック音楽にたとえる比喩がわかりやすいだろう。」とはアメリカ文学者であり、ギャディスの長編『カーペンターズ・ゴシック』と短編『シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五−八七号』の訳者である木原善彦のギャディス評。
746 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:28:35.13 ID:vr0r0Ve5O


 文香は本を見るなり、喜び、そして喜びのあまり永井に本の紹介しそうになるが、思いとどまる。

 ウィリアム・ギャディスは訳書が『カーペンターズ・ゴシック』のみ。日本ではまったくもってマイナーな存在で、文香の通う大学の図書館にも置いてなかったほど。

 そのような作家について熱っぽく語るほど相手を引かせることはない。文香にもそれくらいのことはわかる。まして、このときは永井と話したことは数える程度。しかも仕事で。

 というふうに文香が気持ちを落ち着かせて、そうだお礼を言わなければと思い出したとき、永井がふとした調子で質問した。


永井「ウィリアム・ギャディスの小説って鷺沢さんのところにまだありますか? 洋書でもいいんですけど」

文香「ギャ、ギャギャ、ギャディスをご存じで!?」


 驚き、いきなり距離を詰める。永井はひょいと横に避ける。文香がよろめく。壁に手をついて転ぶのを防ぐ。無人空間への壁ドン。


永井「大丈夫ですか?」


 永井が後ろから声をかける。ちいさく「はい……」と応えた文香の顔が真っ赤になったことは言うまでもない。
747 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:29:41.05 ID:vr0r0Ve5O

奏「受け止めてあげたらよかったのに」


 話を聞いた奏がひとこと。さすがにあきれ口調。


永井「いきなりだったから」

文香「あのときは、ほんとうに……」


 お礼か謝罪か、どちらを口にすればいいのか、文香が言いよどむ。声をかけられ、永井は温度のない眼で文香をみやった。


ありす「わたしのときは良いアドバイスをもらえましたよ」


 微妙な空気が漂う前にありすがエピソードを披露する。

 ラジオのコーナーで、趣味や得意分野のジャンルが異なるふたりが相手のジャンルについて想像であるあるネタを披露し、当たった数が多い方が勝利するというのがあり、ありすは文香に本にまつわるあるあるネタを投げ掛けなければならかった。

 十個の投げ掛け。七つまではなんとか考えついたが、のこりの三つが難しかった。

 収録前日、うんうん悩んでもやっばり思い付かない。と、そこに永井がやってくる。

 永井は姉である美波はもちろん、尊敬する文香や奏やアナスタシアとよく話している。とくに文香とは読書に関する話題だけでなく、ネット上に公開されている論文をダウンロードする方法や、文献管理ソフトの使い方についても話していて、それがのちに文香がありすにタブレット端末の使用について質問するきっかけにもなった。

 そういった経緯もあり、ありすは永井といちどちゃんと話してみたいと思っていた。

 チャンスはいまだと思い、ありすは永井に話しかけた。
748 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:31:25.62 ID:vr0r0Ve5O

永井「読書に限らなくてもいいんじゃないかな」


 ありすから相談された永井が答えた。


ありす「どういうことですか?」

永井「行為そのものの体験量は鷺沢さんが圧倒してるから、それ以外、たとえば本屋でどう過ごすかとか、目当ての本以外に手にとってしまったこととか」


 そう言うと永井は思いつくままに紙にあるあるネタを書き付けた。


本屋の会計で一万円を越えなかったらあんまりお金を使わなかったとほっとする。

いっぱい買ったときは買ったときで手提げの紙袋が用意されるから、ちょっとうれしい。

親族か友人から本でなく本棚を買えと言われた。

というか、大学生なんだからパソコンくらい買えとも言われた(レポートや論文書くときどうするの?)


 最後のは違うかな、とつぶやくと永井は四つ目の文章に横線を引いて、ありすにメモを見せた。

 三つ目の文章のちょっとしたユーモアにありすはふふっと声を洩らした。

 永井のスマートフォンに着信がはいった。永井は全部そのまま使ってもいいよ、口元を手で隠しているありすに言い残しその場を離れた。
749 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:34:53.15 ID:vr0r0Ve5O

 その夜、ありすはうーんと悩んだ。自分でいくつかあるあるネタを考えてみたが、永井の三つよりピンとくるものがない。永井は使っていいよと言っていたが、七つのあるあるネタと並べてみると自分で考えたわけではないから違和感があるし、なんだかズルい気もする。

 もうすぐ就寝時間、ありすは美波を経由してSNSで永井に相談したみた。

  自分が考えたあるあるネタとその評価、正直に自分が感じている逡巡を吐露した。

 メッセージを送って二十分、永井からの返信。



 メッセージ確認しました。

 橘さんはどちらの文章を使っても自分らしさを出せないことに悩んでいるんですね。

 僕の文章で自分らしさを出せないのは当然ですが、橘さんがあとから考えた文章も前に考えた文章と比べると、自分で決めた水準に達していないからこれも自分らしさを出せていない。そのように感じているのがメッセージから伝わりました。

 結論からいえば、どちらを使ってもコーナーは成立すると思います。

 このコーナーの主旨は互いに知識が乏しいと思われる領域に対して、アイドルとしての個性を出しながら接していくかという点にあると思います。ゆえに必ずしも投げ掛けるあるあるネタの精度が高くなくても相手のリアクションやそれに対するこちらの受け答えによっては、僕が考えた文章を使うよりも良い反応を呼び起こすことが可能でしょう。

 ただ失礼だけどこの方法は、橘さんにはちょっと不向きかなと思います。橘さんのアイドルという仕事に対する姿勢には真摯さを感じます。力量を見定めながら事前にプランを設定し、それを実行していく。プロフェッショナルな態度です。

 その分、アドリブに弱いところもあります。自分で納得のいかない文章を使うとなればハプニングが起きたときの動揺はより大きくなるでしょう。

 もちろん、それでコーナーがおもしろくなるのであれば、と橘さんが考えるのであればその選択もオーケーでしょう。ただ、やはり僕としては橘さんが納得できる方法をとってもらいたいと思います。
750 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:36:12.26 ID:vr0r0Ve5O

 さて、僕の文章を使った場合に生まれる齟齬についてですか、これを解決する方法はふたつあると考えています。

 ひとつは僕の文章をもとに橘さんが自分の納得のいく文章を作り上げること。これは齟齬をなくすという方向性なのでわかりやすいと思います。

 もうひとつはあえて齟齬を前に押し出してみること。この前に押し出すという行為に橘さんの個性を出してみてはどうでしょうか。

 これは裏を返せば自分で考えた文章ではないと認めることになります。そのことで苦言を呈されるかもしれません。

 何度も言いますが、僕の書いた文章をそのまま使ってもらってもまったく問題ありません(同じく僕の名前を出す必要もありません)。

 僕たちの仕事はアイドルの方々にまっとうに全力をもって仕事に取り組んでもらい、輝ける手伝いをすることです。

 橘さんを悩ませている自身の納得とコーナーの成立というのは、理想と現実の擦り合わせそのものです。その擦り合わせに納得できる結果がうまれること願っています。 

 それでは、おやすみなさい。

 僕ももう寝ます。お返事は明日にでも。

 
P.S.
 明日の本番は午後三時からでしたね?

 本番の一時間前までにメッセージを送ってもらえば返信可能です。また相談したいことがあればぜひ。
751 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:40:56.96 ID:vr0r0Ve5O

 永井からの返信を読み、ありすはどうするべきか決めた。

 ありすはその日の朝に永井にお礼のメッセージを送り、本番ですることを告げた。

 永井から返ってきた了解と応援のメッセージは短かったが、ありすはうれしかった。

 番組は滞りなく進み、いよいよあるあるネタのコーナー。七回目の投げ掛けを終える。ありすの番が回ってくる。ありすは紙を取り出し、言う。


ありす「すいません、あるあるネタを言う前にすこしだけ」


 スタッフには事前に相談してあったが、進行によっては時間がないことも考えられた。タイムキーパーが使用可能な時間をディレクターに告げる。ちょっと急がないと。


ありす「じつは十問すべて考えることができず、ここからは他の人が考えた質問を言うことになります。自分で納得できるものができなかったことは残念ですが、わたしの力不足だとその点は納得できました。それで、勝手かもしれませんが、いまから言う三問に関しては勝敗には考慮しないでほしいんです」

文香「わたしはありすちゃんの言ったことを尊重したいと思います。リスナーの方々はどうですか?」


 SNSにリアルタイムの反応。ありすの態度を誉めるものばかり。

 ありすが紙に書かれた永井の文章を読み上げる。

 文香は一つめでハッとして顔をあげ、二つめで「なぜそれを」と眼を見開き、三つめで椅子から転げ落ちた。

 まさかのリアクションにコーナーが始まって以来もっとも反響のある回になった。
752 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:42:48.70 ID:vr0r0Ve5O

永井「そんな『新婚さんいらっしゃい!』の
桂三枝みたいなリアクションをしたんですか?」


 永井が文香に訊いた。


文香「できれば、そのことには触れないでくだい……」


 文香は両手で顔を覆い隠しながら、答えたので最後の方はほんとにちいさな声になった。


奏「そのたとえ、よく思いついわね」

永井「山中のおばあちゃんの家にいたときいっしょに見てたから」

ありす「永井さん、放送はどうでしたか?」


 ありすの問いかけに、永井が応える。


永井「ごめん、仕事で聞けなかった」

ありす「そうですか、残念です」


 口で言うより残念そうなありす。肩がしょぼんとしている。


永井「タイムフリーで聴くよ。それからちゃんと感想を送るから」

アナスタシア「ケイのそーゆーところ、ダメ、ですね」


 辛辣なこと言うアナスタシア。手前に置いてあるお皿はからっぽ、せんべいとあられもぜんぶ食べてた。
753 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:43:49.28 ID:vr0r0Ve5O

永井「あげたやつ、ぜんぶ食べたのかよ?」

アナスタシア「みんなのお話、アーニャ、ぜんぜんわからなかったです」

永井「どおりで食べてばっかだと思った」


 永井の一言がふてくされていたアナスタシアをムッとさせる。


アナスタシア「ケイ、あまいお菓子が食べたいです」

永井「チッ」

奏 (舌打ちした)

文香 (舌打ちしましたね……)

ありす「いまの永井さん……?」

永井「貰ってくればいいんだろ」


 永井はめんどうそうに立ち上がった。部屋の片隅には職員用のハロウィン仮装コーナーが設置されていた。

 永井はそこに近づくと、ジャケットを脱いでネクタイを外すと、シャツの袖をまくった。それからサスペンダーを付け、ハンチングを被った。

 見覚えのある格好。いやな予感をおぼえつつ、アナスタシアが尋ねる。
754 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:46:02.95 ID:vr0r0Ve5O

アナスタシア「アー……ケイ、それはだれの、仮装ですか?」

永井「佐藤、亜人の」


 佐藤と聞いたとたん、その場にいる全員が動揺しだした。


ありす「それは大丈夫なんですか?」

奏「セ、センシティブ過ぎない?」

文香「あ、亜人は怪物ではないですし」

永井「佐藤は頭のイカれた殺人鬼だから」

アナスタシア「みんな、ボイテスィ……!……アー、怖がる……怖がりすぎます!」

永井「遺族あわなきゃ大丈夫」

ありす「遺族って!」

奏「ほんとにその格好でいくつもり!?」

アナスタシア「もー!」
755 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:48:56.16 ID:vr0r0Ve5O

 アナスタシアは勢いよく立ち上がり、永井を追っかけていった。

 見ると、さっそく永井は川島瑞希と宵乙女のメンバーらに囲まれ、話をしていた。


瑞希「永井君、それってなんの仮装?」

永井「サト……」

アナスタシア「ウタケル!」


 アナスタシアが割ってはいった。おかげで空気は微妙な感じにならずにすんだ。瑞希たちはアナスタシアにもお菓子をあげた。

 瑞希らを見送ったあと、袋の中のお菓子をみながら永井が言った。


永井「たくさん貰った」

アナスタシア「たべる気、しないです……」
756 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:51:54.03 ID:vr0r0Ve5O
以上でおまけはおわり。

もともと別のおまけとして考えてたエピソードをぶちこんだのでかなり長くなりました。後半はここ数日で仕上げたので、荒いところがあるかも。

キャラ崩壊してたらすみません。
757 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/08(木) 19:35:00.27 ID:VKhOhfJ2O
おまけ面白かった!
更新楽しみに待ってます
758 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/09(金) 21:53:20.17 ID:2WNvoBqb0
13巻もこっちも早く続き読みたいわ
759 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/11(日) 22:49:44.91 ID:pig7ZHXY0
乙です
ジョン・ウィックのポスターの話は初めて知った
映画は映画って割り切る永井にヴェスナ・ヴロヴィッチみを感じる…
760 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/06(日) 13:19:59.53 ID:/l2+ircxO
まさかのウィリアム・ギャディス『JR』の刊行におののきながら、発売日までそのおののきを持続させつつ、940ページの書物に8640円(税込)を支払い、1.2kgのその異様な重量感に興奮を覚えつつページをめくっていたら、年末年始が終わってました。


というわけでガチで更新忘れたので生存報告だけ……いやでもマジで衝撃的な時間だったんですよ。デレマスで例えるなら文香が人目もはばからずガッツポーズするくらい衝撃的。

続きはなんとか今月中に。少なくともアーニャ参戦のところまでは書きたい。


>>755
川島さんの名前が誤字っていたので訂正。ついでにオチを足しました。


アナスタシアは勢いよく立ち上がり、永井を追っかけていった。

 見ると、さっそく永井は川島瑞樹と宵乙女のメンバーらに囲まれ、話をしていた。


瑞樹「永井君、それってなんの仮装?」

永井「サト……」

アナスタシア「ウタケル!」


 アナスタシアが割ってはいった。おかげで空気は微妙な感じにならずにすんだ。瑞希たちはアナスタシアにもお菓子をあげた。

 瑞樹らを見送ったあと、袋の中のお菓子をみながら永井が言った。


永井「たくさん貰った」

アナスタシア「たべる気、しないです……」


事の顛末を聞いた奏がハンチング帽をかぶってお菓子を配る永井を見て、ぼそっとつぶやいた。


奏「どちらかというと、綾野剛よね」

761 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:46:00.22 ID:ymR8HEsBO

火災警報によって永井が眼を覚ます四時間前、杖をついた男がゆっくりと歩きながら検問ゲートまでやってきた。

 暦の数字はすでに秋の季節に入り込んでいたが、気候はそのことをまったく気にせず引き続き夏の暑さをそのままにしていた。

 出社する社員たちは空調が放つ冷気が頬を撫でる感触にひと心地つきながら、杖の男を抜き去っていった。男は小太りでその体型の原因はもっぱら運動不足のせいなのだが、筋肉の少ない右脚をみるにそれを理由に責めることはできない。男はネクタイをし、ワイシャツの上から作業用のジャケットを着ていたが汗ひとつかいていなかった。抜き去り際に障害のある脚をちらと見やる社員の視線を気にもとめず、透徹すぎて何も見ていないと思える眼で検問ゲートの先を見つめていた。

 検問に到達すると男は杖とリュックを警備員に預け、社員証を提示した。IDが照合され、男は金属探知機へとむかう。探知機が反応し、警備員がハンディ型の探知機を手に持って検査の続きを行った。胸ポケットに反応があり、ポケットの中身を取り出してみると、オイルライターとタバコが出てきた。


「所定のスペースで吸えよ」


 検査物を返却された男は杖でこつこつと床を鳴らしながらエントランスをまっすぐ進んでいたときと同じゆっくりとした速度でエレベーターへと向かった。エレベーターに乗り込み、セキュリティ・サーバー室のある十四階のボタンを押す。

 階数標示の数字が増していくのを見つめながら、奥山真澄は肩を壁に預けて、エレベーターの上昇に身を任せた。


ーー
ーー
ーー
762 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:47:42.66 ID:ymR8HEsBO


奥山「この配線じゃノイズで速度が二十パーセント落ちるよ」


 蓋が開けられたサーバーの内側を見ながら奥山が言った。

 不備を一目で見抜いた奥山の知識に現場の上司と同僚がかるく感嘆する。奥山は仕事に就いて早々、動作に違和感をおぼえ、サーバーの配線を確認すると言い出した。奥山は仕事を行うにあたって、システムをベストなコンディションにしておきたかったのだ。


フォージ安全社員1「青島さんもたまにはいい人材引っぱってくるじゃん」

フォージ安全社員2「それ言っちゃかわいそう」


 背後から不意につぶやかれた内通者の名前を聞き流しながら、奥山は腕時計を見た。デジタル式の文字盤が午前十一時十五分と標示していた。


奥山「ちょっとどいて」


 奥山は杖を片手に立ち上がり、あたりを見回した。シュレッダーを見つけると奥山は床に座りこみ、シュレッダーのゴミ箱の蓋を開けた。中には裁断された紙の束が山になってつまっついた。奥山は胸ポケットからライターを取り出すと下カバーを外し、それから底にあるオイルの栓をゆるめた。


フォージ安全社員1「なにしてんだ奥山?」


 床に座る奥山に上司が不思議そうに話しかけた。


フォージ安全社員1「一服なら一緒に行こうぜ」

奥山「いや、吸う人じゃないから」
763 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:49:11.09 ID:ymR8HEsBO

 奥山はライターを点けた。ゴミ箱の紙束にはオイルが振りかけられていて、油が染み込んだところの黒っぽく変色していた。インクが滲み、文字が溶けてゆく。奥山がライターを手放す。落ちていく際、ライターはくるりと下を向き、回転にあわせて火が揺らめいた。そのせいで火が消えてしまうのではないかと錯覚するほど赤っぽいオレンジ色の光熱がか細く揺らめいたが、ライターが紙束に落ちたとたん火は炎となって燃え上がり、あらかじめ仰け反ってゴミ箱から離れていた奥山の顔に熱気をぶつけた。


フォージ安全社員1「な、何してる!?」


 黒い煙が吹き上がり、プラスチックの溶ける臭いがサーバー室に充満する。火災警報が響き渡り、CO2ガスの放出までの三十秒のカウントダウンを開始する。部屋の中の社員たちは恐怖に急き立てられて出口のガラス扉へと殺到した。

 いちばん先頭の社員がガラス扉を押し開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。急かす声と罵る声とガラスを叩く音が雑多に混じって響く。扉は壁のようにびくともしない。片手で押す、両手で押す、肩でぶつかる、二人がかりで扉をこじ開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。大声が悲鳴に変わる。


IBM(奥山)『コ……ラ、コレ?……PEF……』


 奥山のIBMがガラス扉に背中を押し当てて四肢を踏ん張っていた。ガラス一枚隔てた背後から悲鳴が飛び交い、乱れるのとは対照的に、意味のない舌足らずな言葉を奥山のIBMはつぶやいた。IBMは背中でガラス扉の振動と命乞いの叫びを受け止めながら、日向ぼっこをしているかのように動かなかった。セキュリティ・サーバー室はいまやガス室のような様相を呈している。
764 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:50:16.84 ID:ymR8HEsBO

『3』

『2』

『1』


 あまりのも機械的なカウントダウンの音声。



「おぉーい!!」

「待て待て待て!!」

「早く開けろよ!!」


 ガス室の内側にいる人間の複数の声。恐慌にかられた人々の叫び。奥山はコツコツと杖で床を叩きながらガラス扉の反対側にある大型モニターの前にある椅子に歩いていった。椅子に腰かけ背凭れに身体を預けると瞼を閉じた。視界が暗くなると奥山の意識から大勢の悲鳴が遠ざかり、機械音声の冷酷な響きだけが選別されたように奥山の耳に届いた。


『CO2ガスを放出します』

765 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:51:35.58 ID:ymR8HEsBO

 天井のガス式スプリンクラーから消火用のガスが部屋中に放出される。ガスが身体に振りかかるのを感じた奥山は静かに深呼吸をした。ガラス扉前の社員たちの一部はとっさに息を止めた。無呼吸でいるのは長く続かず、激しく咳き込む音がいくつもした。室内の二酸化炭素濃度が致死量に達すると、そういった音もなくなり、どさどさという成人男性の体重が床にぶつかる音がガスの放出音にまぎれてかすかに鳴ったが、その音を耳にする者はひとりもいなかった。

 ガスの放出がおわり、室内の二酸化炭素濃度を通常に戻すため空調が働き始める。

 奥山の眼が覚めたとき、ゴォッーという空調の作動音はまだおおきく響いていた。


奥山「さて」


 奥山は理性的な眼で出口の前に積み重なっている死体を見やってから、椅子をくるりと回転させ大型モニターを見上げた。


奥山「んー……フォージ安全のハッキングかぁー……」


 システムを再起動するとモニターが点り、警備システムにログインできるように操作する。


奥山「テンション高いなあ」


 キーボードを叩きながら、奥山はいつもと変わらない平静な調子でつぶやいた。


ーー
ーー
ーー
766 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:55:38.55 ID:ymR8HEsBO

 ビル前に停められたバンのなかで田中は奥山からの報告を待っていた。荷台に座り込んだ田中はスマートフォンを左手に持ち、連絡がくるのを待ちわび焦れたように画面を凝視していた。連絡がまだきてないとわかりポケットにしまってからもスマートフォンを握りしめたままだった。右手は荷台に置かれたショットガンのグリップに置かれ、すこしだけ力をいれて押さえつけている。荷台に張られた車内カーペットの上にショットガンを置いたとき、固さと重さを持った音がかすかに、合成繊維では吸収できなかった分だけ田中の耳に届き、その音のため田中の右手は銃を押さえつけていた。

 田中がふたたびスマートフォンをポケットから取り出し、画面を見つめていると高橋が眼前で小瓶を振った。


高橋「ホレホレ、おまえもやっとけって」


 小瓶のなかの白い粉がさらさらと左右に揺れた。考えるまでもなくヤクだ。


田中「集中しろ」

高橋「こそだろ」


 高橋は小瓶を引っ込め、頭を壁に預けながら田中を見やると、気負っているくせに何もわかっていないとでも言いたげに唇の右端を持ち上げた。


高橋「どちらかというとアッパー系ドラッグだ。すべてが鮮明になる。銃の狙いもハンパなくなるぜ」


 そこまで言うと高橋の微笑が大きくなり、明確に田中を小馬鹿にしたものに変わった。


高橋「おまえ、ド下手なんだからよお」

田中「だまれ」


 田中がぴしゃりと言い返した。

767 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:56:55.98 ID:ymR8HEsBO


田中「あれから射撃はさんざん練習したんだ」


 指に力がはいり、置かれていただけだった右手が銃を握りしめた。それから十数分後、スマートフォンに通知がはいった。ハッキング成功の報せ。


田中「始めるぞ! 甲斐敬一と李奈緒美を暗殺する!」


 田中の号令に高橋とゲンはいよいよかと高揚感をあらわに笑い声をたてた。ふたりは鼻からドラッグを吸い、高揚感を増幅させる。

 バンのバックドアから外へ出た三人は縦に連なってオフィス街を突っ切ってゆく。


高橋「やべえ、やべえ」

田中「佐藤さん抜きなんだ。ナメてっと死ぬぞ」


 通行者たちは険しい表情をした田中にひるみ、道を開けた。すこしはなれたところで脱いだジャケットを手に持ったサラリーマンがスマートフォンを取り出し、田中たちを撮影し出した。

 銃器を手に持った三人の様子 ──田中─ショットガン(ウィンチェスター M1897)、高橋─自動小銃(USSR AKM)、ゲン─自動拳銃(US M1911A1)── から剣呑な雰囲気を感じとっていたが、その雰囲気の範疇に自分は含まれていないとでもいうようなふうだった。

 ビル前で警備にあたっている制服警官と田中の眼が合う。警官は驚き眼を見開いて慌てて無線機に手を伸ばすが、田中が即座に射殺する。
 

768 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:58:30.91 ID:ymR8HEsBO


田中「行くぞ!」


 銃声を合図に田中たちがフォージ安全ビルへと突撃する。根拠のない安全圏はたちまち消え去り、通行者たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出していった。


高橋「くらえ!」


 エントランスに足を踏み入れたとたん、高橋が壁際にいる社員たちにむかって引き金を引いた。白い壁面に血が飛び黒い弾痕が穿たれる。


田中「無駄弾つかうな!」


 走りながら無関係な人間をたのしく撃ちまくる高橋を田中は検問ゲート周辺の警備員を銃撃しながら叱責した。それを受けて高橋は射線を壁から検問ゲートへ移し、警備員を牽制した。最後尾のゲンもゲート左側をむかって拳銃を連射し、警備員たちをその場に押さえ込んだ。


「防犯シャッターおろせ!」


 銃声に負けじと喉奥から放たれた叫び声に突き動かされひとりの警備員が金属探知機の先にあるロビーから業務フロアへと続く通路の壁の赤いボタンに飛びついた。握った拳の底をつかって殴りつけるというふうに警備員はボタンを叩いた。
769 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:00:06.82 ID:ymR8HEsBO

シャッターは下りなかった。警備システムはすでに奥山が掌握していて、すべてを操ることができた。

 ボタンを押した警備員の頭蓋骨が散弾で吹っ飛ばされた。衝撃によって警備員は顔面から壁にぶつかり鼻骨が折れたが、彼はもう痛みを感じることはなかった。糸の切れた操人形のように警備員の膝がくにゃりと折れ、床に倒れた。

 田中たちは検問ゲートを突き抜け、通路へ進入する。そのさい高橋とゲンがそれぞれ左右の側面を銃撃しながら警備員をさらに牽制した。金属探知機を越えると、ゲンはわれがちに逃げ出そうと出口に殺到している社員たちのほうを振り返った。そのようすは増えすぎた個体数を調整するためみずから入水するレミングの迷信を思わせる有り様だった。騒ぎを聞きつけ駆けつけてきた警察官はパニック状態の群衆に行く手を遮られて一向にビルのなかにに入れないでいる。ゲンは視界の中心に警官をおさめつつも狙いはつけず、何発か群衆にむかって発砲した。銃弾は警官にはあたらず、周囲の人間の背中や首に命中した。


田中「奥山!」


 ゲンが銃撃しながら通路まで後退してきたとき、田中がインカム越しにタイミングを告げた。直後、田中の声に反応したかのようにシャッターが下がり、エントランスと通路を遮断した。


田中「ロビーを突破。十五階、社長室に向かうぞ」
770 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:01:26.41 ID:ymR8HEsBO

『エレベーターは使わないでよ。物理的に塞がれたら詰むから』


 インカムから奥山が注意をした。

 奥山は警備システムにアクセスしビルの見取り図を引っ張り出し、事前に入手した青写真と記憶の中で整合した。そして所見を述べる。


『見る限り設備やらなんやらは前情報通りだね。変わってるところはない。作戦通り行けるよ。北階段を使って』


 指示を出したところで奥山は監視カメラの映像から警備員二名がセキュリティ・サーバー室に近づいていることに気づいた。


『警備員がこっちに来る。しばらくオフるよ』


 田中たちが北階段の五階と六階のあいだの踊り場まで上ったとき、奥山から復帰の報告が入った。


『戻ったよ』

田中「おう」


 田中は腰だめにショットガンを構えていて、そのすぐ眼の前の階段には警備員の死体がうつ伏せの状態で転がっていた。
771 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:02:33.88 ID:ymR8HEsBO

高橋「ここまできてさすまたかよ」


 高橋が死体の横に落ちているさすまたを見て言った。


『日本の警備員はスタンガンはおろか催涙スプレーすら使用が認められないからね』

ゲン「引くわー」

高橋「ブッ飛んでな」


 高橋とゲンは死体となった警備員に皮肉な憐憫混じりの視線を投げかけると同時に嘲笑っていた。自分たちが殺した人間に対するふとした同情が可笑しくて仕方ないといった笑みがふたりの唇に浮かんでいた。


『だけどそろそろ気をつけたほうがいいよ』


 奥山の忠告が割ってはいった。


『この会社、ブラックだから』


 奥山はセキュリティ・サーバー室の確認にやって来た警備員(彼らは感電死させられた)の無線から流れる指示を直接インターカムから伝えた。麻酔銃使用の指示が田中らがいる五階より上に配置されている全警備員に通達されていた。
772 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:03:33.84 ID:ymR8HEsBO

高橋「法律違反だろ」

ゲン「だれかクビになったして」

高橋「逮捕だな。いや、どうせおれらが殺すからそれはなしか」


 二人はまたも嘲笑の声をあげた。


田中「マジメにやれ」


 つぎに銃撃戦が起こったのは十階と十一階のあいだの踊り場で、田中は腰を落とし階段に座るような体勢で階上から降りてきた警備員にショットガンを放った。それとほぼ同じタイミングで階段の正面に立つ高橋が十一階フロアからドアを開けて入ってきた警備員二名を射殺する。

 田中がショットガンの排莢を行う。上階から大勢の人間の足音。田中は銃口をあげる。そのとき、視界の横切る黒い影が田中の眼に映る。


田中「は!? バカ!!」


 高橋のIBMが警備員の集団に突っ込んでゆく。巨腕を振り上げ、先頭の警備員の顎にアッパーカットを喰らわせる。警備員の頸がゴムのように伸びる。後頭部が背後の壁にぶつかり、スカッシュのボールみたいに跳ね返ってくる。黒い幽霊は集団の中心で腰を落とすと肘を曲げ、つぎの瞬間、勢いづけて跳ねあがり、両腕をぶんと振り回した。頬骨と頸骨が破壊され、攻撃を食らった箇所がやわらかくゆがんだ。


「え!?」


 最後尾に位置し、ひとりだけ離れたところにいた警備員のすぐ眼前に黒い手が迫っていたが、警備員にとって黒い幽霊の手は透明で、彼は何事が起こったのかを理解する暇もなく─同僚の死すら理解できず─その手に押し潰されて死んだ。
773 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:04:52.65 ID:ymR8HEsBO

高橋「イアー」


 高橋が階段を駆けあがり、黒い幽霊と拳を突き合わせた。黒い幽霊の口角も心持ち上向いている。


田中「高橋!」


 田中が高橋を怒鳴りつけた。


高橋「あ?」

田中「黒い幽霊はシューティングゲームの“BOMB”だ。回数制限がある。本当にヤバいときまでとっとけ」

高橋「いいじゃねえか。あと一回も出せる」

 
 田中はいったん落ち着き、真面目くさった口調で諭そうとしたが、高橋からしたらそれが滑稽な落差を生んでいた。田中の言っていることは佐藤の受け売りであることは明白だった。だが佐藤とちがって田中はいわばゲームの攻略法をしごく真面目に口にしてしまっていた。高橋はヘラヘラとした態度で黒い幽霊と肩を組んで笑っていた。幽霊のほうも高橋と同調しているのかケタケタと歯を剥いていた。


田中「おま……」

『田中さん』


 田中がさらにどやそうとしたとき、冷静な響きをもった奥山の声がインカムから聞こえた。

774 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:07:02.30 ID:ymR8HEsBO

『上の階、固められてる。シールドと麻酔銃で』


 しごく冷静な声を保ったまま、奥山が状況を説明する。


『あと、その階の廊下側からもう一団そっちに向かってる。挟み撃ちにする気だね』

高橋「いよいよ本番か」

田中「どちらかとは戦うことになるな。どっちがいい?」

『下から上に攻めるのは不利だよ』


 奥山が冷静に意見を続けた。


『いまいる北階段を出て廊下側の一団を倒す。そしたら今度はまだ手薄な南階段で上を目指して』


 弾倉交換を手早く済ませたあと、三人は銃口を床に下げ、ドアの前で立ち止まった。田中がちらと高橋に振り返ると、高橋はワンショルダーバッグから粘着力の強いグレーのダクトテープを取り出し田中に手渡した。銃を持つ右手をテープでぐるぐる巻きにすると、田中は高橋にテープを返した。同様のことを高橋とゲンが済ませたことを確認すると、田中はドアノブを握り、力を込めた。


田中「いいか? 隊列を崩すなよ」


 田中は閉じられたドアを見つめたまま、その向こう側の光景を予想しながら言った。


田中「佐藤さんはこれをひとりでやったらしいが、おれらにそんなテクはねえ。練習通りやるぞ!」

775 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:08:00.60 ID:ymR8HEsBO

 言い終わった田中が慎重に、ゆっくりとドアノブを捻る。このとき、廊下で陣取っている警備員のうちの一人がドアノブが動いたと感じたが、田中は二秒間握ったままの姿勢でいたため、その警備員は気のせいかと思い始めた。突然、叩きつけるようにドアが開け放たれた。田中はオフィスに飛び込むと同時にショットガンを持ち上げ、すぐさま引き金を引いた。散弾がシールドを割り、割れた強化プラスチックと散弾が警備員の肩をえぐった。オフィスの隅の方に固まっていた社員たちが悲鳴をあげた。

 田中は腰をおとしデスクの陰に隠れられるように重心を左に傾けた。田中に続いて突入してきた高橋がAKMを乱射する。銃弾が麻酔銃を撃とうとシールドから身体を出していた何人かに貫通した。弾が当たらなかった警備員は高橋が田中の後を追ってデスクに身を隠す前に麻酔銃を撃った。麻酔ダートが左肩の下あたりに突き刺さり、高橋の身体から意識が消え、すぐ後ろのゲンを巻き込んで仰向けに倒れた。


田中「ゲン!」


 ゲンはすぐさま拳銃の先を高橋に押し付け引き金を引いた。銃弾は右耳のあたりから斜めに発射され、左眼球を巻き込んでこめかみから射出された。血と脳漿が飛び散って床を汚した。高橋は仰向けの姿勢のまますぐに上体を起こしふたたびフルオートで撃ち始めた。高橋に麻酔ダートが刺さってからほんの数秒しか経過していなかったので、麻酔銃を持った警備員たちはシールドに隠れる暇もなくまた何人かが射殺された。


「もう一度だ!」


 すぐ隣の仲間が撃たれて死んでいくなか、この一団を指揮しているとおぼしき警備員が麻酔ダートを装填し直し、ふたたび高橋に狙いをつけた。照準をあわせ、引き金を引こうとする。
776 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:09:47.22 ID:ymR8HEsBO

 田中は引き金を引きその男の顔面を吹き飛ばした。


田中「はやくこっちに来い!」


 デスクの陰に移動しようとしている数名を撃ちまくりながら田中が叫んだ。ゲンが高橋のバッグを引っ張り、尻を床につけたまま乱射している高橋を引きずっていった。今度は田中に麻酔ダートが刺さった。ゲンは指示されるまえに田中のこめかみを撃った。倒れる際にオフィスチェアに田中の後頭部がぶつけた。からからと車輪が転がりオフィスチェアはコピー機にぶつかって止まった。同時に田中の復活が完了し、高橋の射線と交差するかたちで廊下側の集団に引き金を引いた。

 銃撃戦がしばらく続けられたが、気づけば、オフィスの床が死体で埋まっていた。

 少人数とはいえ武装した亜人の部隊に対抗する武器が一発ずつしか装填できない麻酔銃では警備員が全滅するのも当然だった。

 息を喘がせながら田中はオフィスの様子を見渡した。興奮の波が退いていく感じ。呼吸を整えるためにその場に立ち尽くしていると、銃声が一発だけ響いた。ゲンがびくびくと痙攣している瀕死の警備員の後頭部に銃弾を叩き込んでいた。ゲンはこれまでの戦闘でやってきたように背後から引き金を引き、動くものをなくしていった。


高橋「田中」


 田中が無感動な表情でゲンの行いを見つめていると、高橋がほくそ笑みを浮かべながら話しかけてきた。


高橋「おれら、いま、無敵だぜ」


 田中もつられてほくそ笑んだ。


田中「いくぞ!」


 銃を握り直し、三人はオフィスから廊下へと出てそのまま南階段へと進んでいった。
777 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:11:31.15 ID:ymR8HEsBO

 田中たちが去った直後のオフィスは霞が漂っている森の中のように静まりかえっていたが、──実際に白煙が漂っていたが、それは銃の硝煙で不快な煙たさを持っていた──やがて、徐々に動き出すものがあった。デスクの下や壁際に身を縮こまらせていた社員たちがおそるおそる顔をだし、周囲の状況を確認しはじめた。かれらは積み重なる死体に怯え、ひとりが北階段のほうへ一目散に走り出すと、ほかの者たちも悪霊にとり憑かれた豚の群れが湖に飛び込んでいくかのようにあとに続いて逃げ出した。

 オフィスにはなにも言わない死体たけが残された。しかしそのように見えたのはほんの五秒ほどのことで、床に仰向けに倒れていた警備員の死体のひとつがふっと右腕をあげ、被っている帽子のつばに触れた。

 帽子の持ち上がり、顔が見えた。

 永井圭がひっそりと生き返っていた。

 永井は顔をあげ、南階段、田中たちが去っていった方を見やった。


永井「痛って。撃たれちゃったよ」


 上体を起こし、血痕がべっとり付いている右手を見て永井は言った。自動小銃で撃たれたせいで右手は手首からずたずたになり、失血死するまでのあいだひどく痛んだのだった。

 永井がとっくに消えてしまった痛覚を気にしたのは理由があった。そっとを気にすることでできれば起こってほしくないことが目の前で展開されてしまったことを意識したくなかったからだった。


永井「というか……ウソだろぉ……」


 実際に言葉を発することで踏ん切りをつけると永井は立ち上がり、オフィスから北階段へと出ていった。
778 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:13:07.19 ID:ymR8HEsBO

 十階へと降りる途中で中野と出くわした。中野は手摺に右手を軽く置いた姿勢で背中を向けていた。背後から聞こえてきた足音に慌てている気配を感じられず、ついさっきオフィスから逃げたしてきた社員たちの避難誘導をしたばかりの中野はその足音が永井のものだろうと振り返るまえから察していた。


中野「なにしてたんだよ、永井?」

永井「この眼で確かめたいことがあった」


 永井はすれ違いざま、中野に顔を向けて言った。


永井「やっぱり、佐藤さんがいない」

中野「戦いたがりじゃなかったのかよ」

永井「ああ。あの人が後方支援なんてありえない。(永井はドアを開けて十階廊下へと進んだ)つまり、本当にこの戦いに参加してないんだ」

中野「あの手下たちを捕まえるだけでもダメージなんじゃねーの?」

永井「次なんかないんだ。ここで全滅させないと」


 十階にはまだまばらに人がいた。家族へ電話する者や互いに無事を確認しあう者、避難か待機か言い争っている者の横を通り過ぎながら、永井はなぜ佐藤が今回の暗殺に参加しなかったのか考えた。


中野「なあ、おれまで着替える必要あったか?」


 中野がふとした調子で尋ねた。


永井「ガキがうろついてたら目立つだろ。バレちゃだめなんだ、とくに奴には」

779 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:14:58.28 ID:ymR8HEsBO

 そう言うと、永井は中野に振り返り、天井に備え付けてある監視カメラを指差した。指差した手は胸のまえに掲げて、監視カメラからの視点では背中に隠れてみえないようにしていた。

 永井は身体の向きをもとに戻し、歩きながら根拠を説明した。


永井「敵はまず絶対にセキュリティ・サーバー室を取りにくる。ここを陥とさず進攻するのは不可能だからだ。すこしでも異変が起こればサーバー室は陥ちたと考えて動くべきだ」

中野「じゃあこんなところで油売ってていいのか?」

永井「中野、要撃はとっくに始まってるぞ」


 真剣な言葉を発した直後、永井の表情はあっという間にゆるんであきれ顔に変わった。


永井「ていうか、作戦要項にかいてあったろ。そんなんでよく従ってられるな」

中野「おれはバカだからなあ」

永井「あ?」


 そんなことはとっくに知ってる、だからなんなんだ。そういったいらだちを浮かべながら永井はちらと顔だけ中野に振り返った。


中野「ただ、これが佐藤を倒すベストなんだろ? 」


 中野は永井の態度を気にせず(気づいていなかったのかもしれないが)、単純な確信をとくべつ感情も交えず口にした。


中野「おまえが言うんだから」


 永井はなにも言わず前に向き直った。機械室のすぐ前まで来ていた。
780 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:15:48.46 ID:ymR8HEsBO

永井「ここからは仕事柄おまえのほうがくわしい」


 ドアノブに手をかけ、ドアを半開きにしながら永井は振り返り、中野の顔に眼をあわせ、言った。


永井「頼んだぞ」


 機械室のなかに入る。つけっぱなしの空調設備の作動音が耳を聾さんばかりにがなりたっている。壁から天井にかけて無数のダクトが繁生した蔦のように張り巡らされていたが、床はきれいなもので定期的に清掃が行われていることがうかがえた。通路がわかりやすいように黄色いラインの内側がグリーンに塗られていた。

 中野は機械室を見渡して言った。


中野「だれもいねえな」

永井「銃声とかで仕事どころじゃなかったんだ」


 空調制御盤を見つけると、中野は蓋を開けて器機の操作スイッチがどのようになっているか眼で確認していった。中野の作業を待つあいだに永井は戸崎に無線で連絡を入れた。


永井「聞こえますか、戸崎さん。最大の標的が来てないようです」

『そうか。なにか案はあるのか?』

永井「はい。佐藤を引きずり出す。現行の作戦は続行。このまま田中たちは捕獲します。が……」

781 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:17:18.64 ID:ymR8HEsBO

 戸崎はイヤホンを指で押さえながら永井の作戦を聞いた。歩く速度はゆるめずセキュリティ・サーバー室への通路を下村とともに歩いている。こっこっこっこっ、と足音が壁に反響する。合わせ鏡で無数に増幅された像のように、迷宮的に反響が連鎖していく。

 無線連絡を終えた永井は中野に振り向くと、まだ制御盤の操作を続けていた。永井がスマートフォン取り出しメールを打とうとしたとき、中野が声をかけてきた。


中野「永井、始められるぜ」

永井「わかった」


 永井は喫煙スペースから持ってきた脚部がパイプ製のスツール運びながらもう片方の手でスマートフォンを操作した。大型送風機のまえにスツールを置き、腰を下ろすとテキストを確認しメールを送信した。


中野「誰にメール?」


 背後に立った中野が訊いた。


永井「アナスタシア」

中野「え、アーニャちゃん、ここにいんの?」

永井「本人が言ったんだよ、佐藤と戦うって」


 永井は中野がぐだぐた反対するまえに先回りして言った。それでも中野は納得しきらず、戦闘という行為においてはただの女の子でしかないアナスタシアがこの要撃作戦に参加するのは、本人の意思がどうだという問題とはまた別だと思った。


永井「詳しく聞いてないけど、佐藤のテロで知り合いが死んだそうだ」
 

 中野の懸念を察した永井はだめ押しするように言った。中野の性格を考えれば、こう言っておけば、一〇〇パーセントの納得は得られずとも承知はするだろうと知っていたからだった。事実、中野は押し黙った。アナスタシアのそれは、中野が佐藤と戦う動機と重なるところがあったから。

 永井は中野の無言の承諾を感じながら、ふと、中野とアナスタシアの動機についてわずかな時間、十数秒ほど、思考の何パーセントかを傾けた。
782 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:18:33.79 ID:ymR8HEsBO

 中野は大量殺戮への反対というごく常識的で倫理的な動機をみずから口した。アナスタシアのそれについては完全に推察したものだったが、三人で行動していた際に車内で尋ねてきたときの不安そうな声の調子と ──アーニャはどうすればいいですか?──、九月に電話をかけてきたときの決然とした宣言 ──アーニャも佐藤とたたかう── との比較、それに加えそのあいだに佐藤の旅客機テロがあったことを考えると、友人の死あたりが変遷の理由だということは簡単に推察できた。

 永井は、中野みたいな直線的なバカでもないのにそんな理由で十分に戦えるのだろうかと疑問に思ったが、戦闘といってもIBMの使用にするに限るのだから、と考え直した。

 送風機のファンが回り始めた。中野は羽の回転を眼で追いながら、永井にふと尋ねた。


中野「そういや結局、UWFは使わないのか」

永井「IBMだろ」


 中野のとぼけた発言を永井はすぐさま訂正した。


永井「使うもなにも、おまえ、出せるようになんなかっただろ」

中野「だよなあ……おまえも操れないままだしな」


 中野の指摘が正鵠を得ていてばつが悪くなったのか、永井は何も応えず、無言で通した。


永井「まぁ、すこしは使うけどね」


 ファンの回転がいよいよ速くなりはじめる。

 中野は制御盤のところまで戻ると、回転速度を上限めいいっぱいになるまで操作する。

 永井は高速回転するファンを見据え、スツールに座ったまま、要撃開始の狼煙をあげた。


ーー
ーー
ーー
783 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:20:22.80 ID:ymR8HEsBO

李奈緒美は一人掛け用のソファに緊張と恐怖に身体を強張らせながらそれでも辛抱強く、慎ましい態度で浅く腰を下ろしていた。フォージ安全社長甲斐敬一は李の背後の壁際に何食わぬ顔をして立っている。黒服たちは囲うのようにして二人を警護していた。応接用のソファとその間にテーブルがあり、四人はそれぞれソファ背後の端から少し離れたところで待機している。

社長室の入口はガラスで仕切られた向こう側にあり、立体的に張り巡らされた一枚ガラスが社長室を二分している。先程まで西側に面した窓から日が差し込んできて、この仕切りガラスに反射していたので黒服たちは警護のポジションを変更していた。

銃声が聞こえてきた。はじめに単発の破裂音が微かに響き渡り、直後に連続的な銃撃の音が続いた。


甲斐「近づいてきたな」


音のする方向に顔を向けながら甲斐が言った。甲斐はふっと背中を向けると南側の壁に近づいていった。


真鍋「あまり動かないでくれ」


甲斐の動きに気づいた真鍋が言った。その言葉に耳を傾ける者は甲斐も含めてだれもいなかった。銃声は徐々に近づいてきていて、黒服たちは応戦の準備をしようとしていたところだった。

甲斐は壁から張り出した柱に右の掌をぴったりとくっつけた。
784 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:21:54.78 ID:ymR8HEsBO

手の触れたところがガコンとへこみ、甲斐の眼の前の壁が自動ドアのようにちょうどドアの横幅の分だけ開いた。

平沢が眼を見開いた。同時に真鍋が叫ぶ。


真鍋「セーフルーム!?」


ほかの二人の黒服、李も突如として現れた空間に驚愕し、動きを止めてしまった。その間隙の時間を利用し、甲斐はセーフルームに難なく滑り込んだ。甲斐の動きにわずかに遅れて真鍋が飛びつく勢いで走り出したが、すでに扉は閉まり出していた。


甲斐「あとは頼んだよ」


扉が閉まり切る直前、見捨てられたことを理解した悲痛な面持ちの李に向かって、甲斐はたったそれだけ言い残し、扉の向こうに消えた。

真鍋が李に向かって詰問した。


真鍋「あんた知ってたのか!?」

李「いえ!」


李は正気に返ってあわてて否定した。


真鍋「クソ野朗……ターゲットがいねえとダメだろーが」

李「大丈夫です」


正面のガラスに強いるように見ながら李は震えた声で言った。閉じられた透明の扉の開閉部は一枚ガラスから独立していて、その切れ目の線がいやに眼についた。李はさらに言葉を続けたが、それは恨めしげに壁を睨みつける真鍋やほかの黒服たちにというより、自分に向かって言い聞かせているふうだった。


李「わたしは……逃げませんから」


ーー
ーー
ーー
785 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:23:37.41 ID:ymR8HEsBO

十五階の業務フロアへと続くドアの前で田中たちは上階と下階からの挟み撃ちに警戒しつつ、奥山がドアのロックの解除するのを待っていた。


田中「奥山、まだ開かないのか?」


田中は銃床を肩にあて床に膝をついた姿勢で下階を見張っていたが、いい加減にしびれを感じ始めていた。


『十五階のセキュリティシステムは特別厳重で、熱源に体重感知、社長本人の認証がなきゃ猫すら入れない』


奥山がインカム越しに説明した。


高橋「もう五万分は待ってるぜ」

ゲン「ハハ、サバ言うな」

『あのねえ……きみらがたのしくドンパチしてた間も、僕はこのセキュリティと格闘してたの』


奥山の口ぶりは自分の仕事のほうが撃ち合いよりもはるかに複雑で神経の使う仕事だと言いたげなものだった。


『優秀なエンジニアでもあと五時間はかかるよ』

田中「おい、そんなに待てないぞ!」
786 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:25:13.41 ID:ymR8HEsBO

田中が文句を言った直後、背後からガコンという音がした。三人が階段へ向けていた視線をドアへ戻すと、固く閉ざされていたドアが半開きになっていた。


『ほら、とっと入って』


田中がハッと軽く笑う。高橋とゲンを見やって言った。


田中「ゲン、高橋」


呼びかけられた二人はニヤつていた。クライマックスを楽しみにしているとでもいうような表情。


田中「終わらせるぞ」


三人が社長室への通路を進んでいく様子を監視カメラで眺めらながら奥山は十五階のセキュリティをすべて掌握するためハッキングを続けていた。

奥山の視界には三台のデスクトップモニターが収まっていて、右のモニターが田中たちの様子を、中央のモニターがコードを、左のモニターが自分のいるセキュリティ・サーバー室への通路をそれぞれ映していた。

奥山が熱源感知システムのコードを書き換えていると、左モニターの映像に影が横切るのが見た気がした。


奥山「ん?」

『どうした?』

奥山「いま、なにか……」


声を洩らしていたため、田中が尋ねてきた。


奥山「気のせいか」

『あと二十メートル』
787 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:26:26.51 ID:ymR8HEsBO

奥山「こっちもあと少しで十五階全体のセキュリティを掌握できるよ」


気を取り直した奥山がハッキングの進捗状況を田中に伝える。

田中は奥山からの通信を聞きつつクリアリングしながら通路を進行していく。観葉植物の裏を素早く確認し、視線を前に戻す。奥山からの通信に意識を向ける。


『そしたら熱源で敵の配置を……し……』

田中「奥山?」


突如、無線にノイズが走り、すぐに通信が不可能になった。


奥山「田中さん?」


奥山の無線も同様で、田中との通信を再開しようとしてもノイズばかりがインカムから聞こえてくるだけだった。

田中は足を止めて奥山からの通信が再開するのを待っていた。


高橋「どうするよ」


田中は視線を上げた。社長室のドアが見える。距離は十メートルもない。


田中「……もう眼の前だ。続行するぞ」
788 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:27:12.37 ID:ymR8HEsBO

奥山「何か、変だぞ」


一方の奥山は違和感に手を止め、思考をフル回転させていた。偶然とは思えないタイミングで無線が通じなくなった。しかし、妨害だとしたらいったいだれが? フォージ安全側の人間である可能性はきわめて低い。セキュリティ・サーバー室は掌握してあるし、妨害が可能なら被害が大きくなる前に行っているはず。第三者の介入? だが、外部にセキュリティ業務が委託された痕跡はなかったはず……

いきなり、警報が鳴り響いた。


奥山「火災警報……十階……」


奥山は囮のエサに誘い込まれた鼠のように警報を表示しているモニターに見入った。十階の通路にある監視カメラが火元の映像を映し出した。

永井圭が火のついた紙束を松明のように掲げて、帽子を脱いで監視カメラを見上げていた。


奥山「永井……圭……? 何してる、こんなところで……」


奥山がカメラ越しに永井と視線を合わせていたのは一瞬だった。奥山は左手を素早くあげ、耳のイヤホンを指で押さえて叫ぶ。


奥山「田中さん、中止して!」


インカムから返ってきたのはノイズだけだった。


奥山「ったく!」


床を足で蹴って固定電話へと飛びつく。勢いづいたオフィスチェアをデスクを抑えてとめ、受話器を持ち上げ番号を押す。

789 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:28:42.14 ID:ymR8HEsBO

奥山「佐藤さん!」


留守番電話センターにつながったが、無視して叫ぶ。


奥山「なぜか永井圭がいる! こっちの見えないところでなにか……」


奥山は違和感の正体に気づいた。耳に受話器を当てたまま、左のモニターを見る。セキュリティ・サーバー室への通路には何も映っていない。奥山はキーボードのキーを押し、映像を巻き戻した。受話器を持ったまま、映像を巻き戻しを続けていると、廊下を横切っていくものが見えた。奥山は映像を一時停止して顔をモニターに寄せると、瞬きも忘れモニターを睨んだ。

床から一メートルほどの高さにピストルのような形をしたものが浮かんでいた。


奥山「麻酔銃が、飛んでる……?」


その瞬間、奥山はすべてを悟った。


奥山「ああ、全部ワナだ」


下村のIBMが奥山のすぐ背後で麻酔銃を構えていた。引金が引かれ、麻酔ダートが発射される。麻酔ダートは奥山の首の後ろに刺さり、一瞬で奥山の意識を奪った。

IBMによって室内の安全が確認されると、下村と戸崎がセキュリティ・サーバー室に足を踏み入れた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室を奪還した」


戸崎はキーボードをタッチし、換気システムを作動させた。

平沢が戸崎からの無線連絡を耳にする、そのときドアが開いた。
790 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:29:53.72 ID:ymR8HEsBO

李は震えあがっていた。田中が社長室に侵入してきたのを見たとき、李はとっさに立ち上がったが、それ以上は動かなかった。喉は閉塞し、呼吸するのもつらい。眼はずっと見開かれている。田中が強化ガラスのドアの前で立ち止まる。田中と李の眼があった。


田中「久しぶりだな」


怯えきっている李を睨みつけながら田中が吐き捨てるように言った。

高橋がガラス越しにターゲットを撃った。巨大な一枚ガラスにヒビが入る。


田中「防弾ガラスだよ! ドアの鍵を壊せ!」


田中はドア下部のデッドボルトを狙ってショットガンを撃った。頑丈な作りのため、散弾を一発撃ち込んだだけではビクともしない。


平沢「今だ」


平沢が無線でタイミングを告げた。黒服たちは李から離れ、それぞれソファや壁から張り出した柱に身を隠していた。彼らの任務は対象の護衛ではなく、あくまで佐藤ら亜人テログループの捕獲だった。黒服たちは麻酔銃を構え、銃声にまったく反応を見せないまま、田中らが侵入してくるのをじっと待っている。

三発目でデッドボルトが吹き飛んだ。強化ガラスのドアが開き、銃口を上げることも忘れ、まっさきに田中が中に飛び込む。

ショットガンを持ち上げ、左手で銃身を支える。銃口が真っ直ぐ、李に向けられる。

791 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:36:07.96 ID:ymR8HEsBO

李「あのときは……ごめんなさい」


顔の横に挙げた両手と唇を震わせながら李が言った。瞳から涙が溢れ落ちた。

田中の動きが止まった。心は激しく動揺していた。

李はゆっくりと手を下げ、瞼を閉じた。唇は噛み締められ、手は胸のところでぎゅっと握られている。

田中は大きく動揺したまま、李を見た。撃ち殺される恐怖に打ちひしがれながら、額に脂汗を滲ませ涙を哀れに幾筋も流しながら、逃げることだけはきっぱりと拒否して、李奈緒美はそこに立っていた。

田中の動揺がさらに大きくなった。眼の前の女は復讐されるに当然の人間のはずだった。なのにその顔はなんだ。なんでそんな顔をする。なんでおれみたいに助けを求める顔をして、それなのに逃げ出しもせず命乞いもしないんだ? そこで田中は気づいた。暗殺のとき、相手の顔を正面から見たのはこれが初めてだということに。田中はみずからの殺意が砂の城のようにたよりなく、たやすく波にさらわれ消え去っていくのを感じた。

背後から黒い波が押し寄せてきた。


田中「なんで……亜人の粒子が?」


驚く高橋とゲンにつられ、振り返った田中は換気口から流れ出てくる黒い粒子をいまだ動揺から立ち直られない態度のまま見やった。


田中「いや、それに……あんなすぐ消えちまうもん、こんな大量に……」


粒子の波はいまや濁流と化していた。換気口からの送風にのせられて黒い粒子が部屋を飲み込み始める。すぐ眼の前まで黒い濁流が迫ってきた。そのとき、田中の頭の中で佐藤からの伝聞の情報が線を結び、答えとなって閃いた。

792 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:37:14.94 ID:ymR8HEsBO

田中「永井か」


亜人にしか見えないIBM粒子が田中たちを飲み込んだ。並外れた量のIBM粒子を放出した永井は、何食わぬ顔で巨大送風機の前に座ったままだった。永井は無意識に視線をあげ、ふと閉じていた口を開け、つぶやいた。


永井「あとは任せましたよ、平沢さん」


黒い粒子に埋め尽くされた社長室は亜人にとっても奇妙な空間と化していた。ブラックアウトする視界、だが音もなく匂いもない、暑さや冷たさもなく、ただごうごうと音を立てる送風によって粒子が眼の前で流動していく。


高橋「なんも見えねえぞ!」


パニックになった高橋が銃を乱射する。銃弾は防弾ガラスをひび割っただけだった。悲鳴をあげる李を取り残して、平沢たちは平常通りの滑らかな動きで接近していく。

高橋のAKMが弾切れを起こす。舌打ちしつつマガジンをリリースしたあと、バックに手を伸ばし換えのマガジンを探す。


ゲン「ウッ!」


ゲンの呻き声のあと、床に倒れる音がした。


高橋「ゲン! どうした! ゲン」

田中「落ち着け、高橋!」
793 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:38:09.31 ID:ymR8HEsBO


平沢が麻酔銃に換えのダートを装填しているあいだ、背後の若い黒服が高橋に狙いをつけた。


高橋「ゲン、どこだ!」


言葉を切った瞬間に麻酔ダートが撃ち込まれた。ごうごうと響く送風音で田中は高橋が倒れたことに気づかない。


田中「こんなことになってるのはこの部屋だけだ! なんとか出口へ……」


田中のすぐ眼の前に麻酔銃の銃口があった。

平沢が引金を引く。

麻酔ダートが首に突き刺さる。

田中は意識を失い、床に倒れる。

黒服たちは麻酔銃を構えながら、意識を失った田中以下三名の亜人を見下ろす。

そして、平沢が無線で告げる。


『クリア』


イヤホンを指で押さえながら、永井はその声をしっかりと聞き取った。


ーー
ーー
ーー
794 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:39:05.48 ID:ymR8HEsBO

「クリア」という声がコイル型イヤホンから聞こえたとき、アナスタシアにはその言葉が何を意味するのかすぐにはわからなかった。少ししてビルに侵入してきた田中たちがやっつけられたのだと思い当たった。

アナスタシアが正解に思い当たったのと同時にスマートフォンがブルブルと振動した。洋式トイレの蓋の上に置いていたのでびっくりするような大きな音が婦人用トイレに鳴り響いた。アナスタシアはビクッと肩を震わせ、そのときの動作によって人感センサーが働き、トイレの照明がパッと光った。

メールは永井から送られてきたものだった。本日四通目のメールの文面には、田中以下三名の無力化を確認、佐藤はいまだ確認できず、引き続き待機、との指示が書かれていた。

アナスタシアは洋式トイレの蓋の上にスマートフォンを置き、無線機の横に並べた。トイレットペーパーを敷いた場所に尻を置き直し、ふたたび仕切り壁に背中を預ける。両膝を合わせて抱え込むようにして手を組むと、そこに左頬を置いて無線機とスマートフォンを眺めた。

ウィッグの前髪が垂れ落ちてきた。視界に入り込んできた黒髪を直そうとしたとき、照明が自動で消え、暗闇が戻ってきた。アナスタシアはくすぐったさにむず痒い思いをしたが、身を隠していることを考えるとまた明かりを点けることはためらわれた。結局、ウィッグの毛はそのままにしておいた。
795 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:40:09.19 ID:ymR8HEsBO

アナスタシアはいま黒のウィッグと茶色のカラーコンタクトを付け、ウィッグの色と同じ黒のパンツスーツに身を包んでいる。その姿は百六十五センチという高身長も相まって、キャリアウーマンのように見えるが、足元はレディースの革靴ではなく多少の使用感がある白いスニーカーだった。

火災警報によってセキュリティ・サーバー室の占拠を悟った永井は一通目のメールを送信し、アナスタシアにビル内に入るよう指示した。そのときのアナスタシアは自転車便のメッセンジャーに扮した格好をしていた。変装の精度がどのようなものか判然とせず、アナスタシアはこれまでの人生のなかで最も速く心臓をドキドキさせながらビルへと向かった。十五歳の子どもが隠し事をしたまま、たくさんの大人がいる場所に忍び込むというのだから、当たり前ともいえる反応だった。

アナスタシアの激しい緊張と不安をよそに、検問は難なく通過できた。

アナスタシアの存在はその身元こそ明かされていなかったものの、フォージ安全ビルでの要撃作戦に参加するにあたって、永井は戸崎に協力者がいることを言及していた。 ──同時にそれは戸崎への牽制として機能した。永井は佐藤拘束の報酬として偽の身分と捕獲対象からの除外を要求し、万が一果たされなかった場合、戸崎の婚約者は協力者のIBMによって殺害されることになると脅迫していた。もちろん、アナスタシアはこのことを知らない。── 戸崎は永井の脅迫を受け止めつつ、作戦の成功率を少しでも上げるため、協力者がビル内に入り込めるよう手筈を整えた。

アナスタシアはメールに従って八階まで上がると、その階にいた女性社員から配達物を受け取った。それから九階に上がり、照明が消えていることを確認すると、すばやくトイレの中に入り一番奥の個室へ向かった。鏡の前を通り過ぎる際、アナスタシアは自分の姿を一瞬だけ認めた。その一瞬で、黒髪に茶色の眼をした、若いというより少女にしか見えないメッセンジャーは明らかに場違いだと思い知らされた。
796 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:41:08.68 ID:ymR8HEsBO

個室の戸を閉め、肩にかけた大きめのメッセンジャーバックから小さく折り畳んだジャケットとスラックスを取り出して、着替える。パンツスーツとメッセンジャーの格好を比べ、とりあえずいまの姿の方が多少はましだと結論づける。アナスタシアは配達物の封を開け、中身を確認する。無線機と使用法と周波数が書かれたメモがあった。アナスタシアはメモに従って無線機の電源をオンにした。

コイル型イヤホンを左耳に入れた途端、野太い焦燥が色濃く混じった叫びが耳を貫いた。一階の検問ゲートを武装した亜人三人が突破し、ビルに侵入したと言うのだ。

無線を聞いたアナスタシアの全身が緊張で強張る。

そのとき、身体の麻痺を解くための如くジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが振動した。永井から見計らったように二通目のメールが届いた。指示があるまで待機との厳命。三通目のメールは、アナスタシアの聴覚が微かではあるが遠くで鳴る銃声を、アナスタシアのいる階で轟いたものだとわかるくらいの音量で捉えたときだった。内容は二通目と同様で、命令があるまで絶対に動くなと強い口調が聞こえてくるような書き方がされてあった。
797 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:42:31.52 ID:ymR8HEsBO

この戦いにおいて、自分への期待が高くない ─それどころか、ほとんどない! ── ことはわかっていた。というのも、永井はリスクも手順も最小限の作戦を打ち立てていて、アナスタシアの役目といえば、せいぜい不測の事態が起きた場合にIBMで支援を行うことくらいだったからだ。活躍どころか、働きすらないかもしれないのだ。参戦を通告してから作戦の詳細を知らされるまでのあいだ、アナスタシアには不安と緊張の感情が心の中心に宙吊りになって存在していた。他者の安全、自分の正体の露見、十分な働きができるかどうか……ネガティブな未来が浮かぶたびに、美波やプロダクションのの仲間や学校の友だち(死んでしまった友たちも含めて)のことをイメージとして思い浮かべて戦いの意志を強固にし直していった。だから、永井から役目はほとんどないだろうと知らされたとき、戸惑い、もっと言えば後ろめたさすらおぼえた。密閉された空間に敵を誘い込み、IBM粒子を利用して視界を奪う。永井の作戦が効果的であるのは納得できたし、被害が出る可能性も最小限まで抑えられている点は安堵したほどだった。 でも、とアナスタシアは疑義を浮かべた。亜人であるわたしが、隠れているだけでいいの? 銃を撃ったりはできないとしても、盾になることはできるかもしれないのに……(この時点ではアナスタシアは警備員のことまでは想定していなかった。永井が意図的にその事実を隠したのは、アナスタシアが佐藤と戦う理由はナイーブなものだと予想していたからだった。かすかな銃声が耳に届いたとき、アナスタシアの意識に警備員の存在がはじめて浮上し、その欠落にいままで気づいていなかった自分に愕然とした。すぐに腰を上げたが、銃声はすでにはるか遠くに遠ざかっていた……研究所で見た凍結されていない生々しい滑り気を持った虐殺のイメージが蘇ってきた……「クリア」という声がイヤホンから聞こえ、アナスタシアは現実に戻ってきた)。
798 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:43:22.94 ID:ymR8HEsBO

永井はこの考えを、少年漫画の読みすぎだ、と黒い粒子の狼煙による返答で一蹴したが、銃弾の前に生の肉体を晒してたたかうといういざというときの心構えが完全に退けられることはなかった。この心構えは警備員の死に気づいてから具体的な細部を持ったイメージへと変わったが、いまでは空想の域にまで入り込んでいた。肉体に穿たれた孔と流れ出す血は勇者の赤いバッヂとなり勇敢さをたたえる、こうした空想は輪郭があいまいで現実的な苦痛から遠く隔たっていることをアナスタシアは自覚せざるをえなかった。空想は退けられた。だが、後ろめたさは残していた。永井に言わせれば後ろめたさを抱くこと自体見当はずれの感傷に過ぎないのだが、アナスタシアはそうとは思わない。死なないからこそ、死を他人事にしてはいけないのだと、アナスタシアは考えていた。

そしていま、暗闇の中に浮かび上がった四通目のメールを見つめながら、アナスタシアは命令通りに待機の時間の只中にいた。センサーが反応しないように最小限動きだけでスマートフォンや無線機を操作しながら、ただひたすら、佐藤が現れるまで待つ。後ろめたさを錘にしながら。


ーー
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799 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:46:06.03 ID:ymR8HEsBO

コーヒーサーバーからカップにコーヒーを注ぐと黒い液体がにわかに泡立った。淹れたてで熱々のコーヒーから湯気があがり、カップの内側を水滴で濡らした。ほんのちいさな一ミリくらいの泡がはじけ、コーヒーの水面が完全に静まり黒い円形として停止すると、佐藤はソーサーにのせたカップを持ち上げ、キッチンから休憩室に戻っていった。

アジトの休憩室は雑然としていた。整理整頓はおざなりで、歩くスペースは確保してあったが、パンの袋やコピー用紙などが隅のほうに放置されたままになっていた。

休憩室を通り過ぎ、ゲーム機のある部屋に戻ろうとしていた佐藤は長机の上に置かれた携帯電話に留守番メッセージが新着していることに気がついた。佐藤はさして考えもせず携帯電話を手にとると、メッセージを再生した。


『佐藤さん!』


奥山の声。焦燥で大声になっている。


『なぜか永井圭がいる!』


メッセージはそのあともすこし残っていたが、佐藤はそれを聞かず携帯電話とカップを机に置いた。カップを置いたとき、中身が跳ね溢れそうになった。コーヒーの波間はやがて落ち着き、そして黒い液体が揺らされることはもう二度となかった。


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800 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:47:02.77 ID:ymR8HEsBO
今日はここまで。

なかなか思うように進まない…
801 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/27(日) 15:21:29.42 ID:lGUhnR6s0

アーニャ関連には期待している
802 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/03(日) 02:09:25.72 ID:Zvp9ZrOr0
漫画と変わらないところは飛ばしても良いんじゃないか?
803 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:13:43.74 ID:6D6vTS+OO
亜人捕獲の報せを受けフォージ安全ビルに赴いた刑事はビル前に集結し騒ぎ立てているマスコミの姿を見て、既視感とともにうんざりした気分を味わった。

永井圭が亜人だと発覚したときの美城プロダクションの前もこのような光景だった。報道陣がわらわらとつめかけ、現場整理にあたっていたこの刑事は身体を押しつけられてはフラッシュを焚かれ罵声を浴びせられ、こちらもマスコミを押し返し罵声を浴びせ返した。プロダクションに侵入しようとした記者をひとりとっ捕まえたがそのせいで左小指の爪が割れたし、あとからそいつに訴えられた(とうぜん、特別な説得をもって訴えはすぐに撤回してもらった)。

パトカーから降りてフォージ安全へと歩いてるいくうちに、この刑事は自分が抱えているうんざりした気持ちはマスコミのせいではなく、この会社自体にあるのだと認めざるを得なくなった。社長の甲斐はもともと警察批判で有名で、ここ最近は業績を上げるためか──実際上がっているらしい──舌鋒をさらに鋭くしている。しかも、亜人のテロには警察力より民間セキュリティのほうが有効だということを今日証明してしまったのだ。

彼はフォージ安全の社員にどんな対応されるのかと考えると気が重くなった。最近見たドラマの大企業の幹部のように下請け会社の社員にとる尊大で居丈高な態度でもとるのだろうか……。
804 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:15:05.89 ID:6D6vTS+OO
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805 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:16:15.33 ID:6D6vTS+OO

正面入口で刑事を待ち受けていたのは三十代前半の男性社員だった。警備員二人を従え、刑事にむかって慇懃に挨拶すると一階エントランスへと招き入れた。そんなことはないとは思っていたが、男性社員にこちらを見下すような態度は感じられなかった。刑事は独り合点かつフィクショナルな思い込みに心持ちをすこし悪くした。

入り口を通り、エントランスに足を踏み入れる。眼に飛び込んできたのは、さながら災害が起きた直後の病院のような光景だった。エントランスに負傷者が集められ、床に座るか仰向けに寝かされ、傷口を抑えながら痛みに耐え、あるいは呻き声を洩らしている。タオルやハンカチ、包帯、シャツ、ジャケット、ネクタイ、社員証などが赤く染まり、付き添いの者が傷口を抑えている場合もある。救急隊員が駆け寄って、慎重に傷口を覆う手を剥がしながら処置を行っていく。同じ動作を行なっている私服姿の者もいて、きびきびとした的確な動作や救急隊員に指示している姿から見てボランティアでかけつけてきた医師なのだろう。かれらの奮闘を示す張り上げた声と苦痛に歪んだ声がエントランスを満たしている。
806 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:17:02.02 ID:6D6vTS+OO

刑事という職業をしていても、生存者が多数いる現場に立ち会うことはほとんど経験したことがなかった。複数の死傷者が出た通り魔事件を担当したことはあったが、現場に到着したときには負傷者は既に病院に搬送されていて、死亡したスズキという若い女性も同様だった。だから、このような光景はテレビ画面越しに見るのが常だと記憶していた。そこではヨーロッパがテロが起きたときの夜の光景が警察車両の青い光が警官が羽織る蛍光色のジャンパーと埃まみれか血だらけの怪我人たちを記号的に記憶されている。国名は置き換え可能であり、ジャンパーの色も回転灯の色もべつの色彩に置き換え可能な記号にすぎない。黒尽くめの特殊部隊の様相など、匿名性がきわまって置き換えても置き換えても区別がつかない。眼球に映る現在と記憶のなかの映像とのちがいはひと言でいえばリアリティの有無であるが、それは視野が三次元的な立体感を獲得しているか否かが問題なのではなく、眼の前で生起している/しつつあるできごとの総体が認識の受容範囲の限界を越えようとしてるのが問題で、できごとのリアリティはたやすく人間を自失や失語の状態に持ち込む。置き換えることなどとうてい不可能なことなのだと思い知らされる。とはいえ、テロ自体はもう収束しているのだから、あまりおおきく動揺するのも……
807 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:18:15.23 ID:6D6vTS+OO

刑事を出迎えた社員はつかつかと淀みなく負傷者のあいだを歩いて行った。歩みがあまりにスムーズなので、あらかじめ彼が歩くところには誰も座らせたり寝かさないようにと指示がされているみたいだった。その様子を見た刑事は先ほどとは別種の居心地の悪さを感じた。

防犯シャッターのところまでやってきた。そこにシートを被せられた遺体が何体も並べられていた。何度も見てきた光景だが、これほどの数を一度に視野に収めるのは初めてだった。


「防犯シャッターはまだ開かないのか?」


刑事はシートのふくらみから眼をはずし、遺体が並べられているのとは反対側の床に視線をやりながら言った。


「ウイルス攻撃の影響とのことです。順次復旧するはずです」


刑事に応えた社員のしゃべり方は平坦そのものだった。感情めいたものをいっさい見せず刑事に正対しその顔を見つめている。
808 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:19:04.22 ID:6D6vTS+OO


「亜人はしっかり拘束できてるのか?」

「もちろんです」


さきほどと変わらない平坦な声でフォージ安全の社員は言い切った。


「現在ビル内の仮眠室にて麻酔医の資格を持った研究員のもと、厳重に隔離しています。シャッターが開き護送車が到着し次第受け渡しできます」

「けが人の搬送が優先だ。中の社員の帰宅にはどれくらいかかる?」

「かかりません」


淀みない返答をうけた刑事の表情が面食らったように固まった。音声として聴き取れた言葉の意味がある汲み取れなかったのだ。


「被害のあった区画以外は通常営業を続けます。それが社長の方針なので」


面食らったままの刑事にむかって、フォージ安全の社員はことなげもなくそう告げた。


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809 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:00.99 ID:6D6vTS+OO

機械室に人が戻ってきて、かれらはのびをしてからめいめい作業を再開し始めた。さまざまな種類の機械ががなり立てる騒音は耳栓がほしくなるくらいうるさく、機械や張り巡らされているダクト類の表面を微振動させるほどだった。天井のすぐ近くのダクトにもかすかな振動は伝わっていて、そこに寝転がって身を隠している永井と中野の後頭部や背中に鬱陶しい感覚を送っている。


中野「平沢さんたち、みんな無事だってよ。よかったな」


中野が左に顔を向け、上を見上げたままの永井に言った。ダクトに積もり積もった埃はエアホースから噴射された空気できれいに吹き払われていたので中野は遠慮なくおおきく挙動した。


永井「いいから、そういうの」


永井は顔を向けずとも中野の無遠慮さを感じ取っていて、ちいさく顔をしかめながらうんざりした口調で応えた。


中野「いやほんとすげえって。みんなの安全も考えて」

永井「犠牲者は出ると思ってたよ」

中野「余裕だったじゃん」

永井「佐藤がいなかったからな」


気の緩んだ中野を引き締めるかのように永井は口を開き、きっぱりした口調で言う。


永井「本番はこれからだ」

810 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:49.88 ID:6D6vTS+OO

さきほど戸崎と会話したとき、永井は佐藤が今回の暗殺に不参加だった理由をたった一言で簡潔に述べた。うすうす予感していた嫌な可能性が実現してしまったときに出す、口ごもりと運命に対する呆れ果てた感情を交えた声音で永井は「あの人、飽きてる」と戸崎に言った。
佐藤はその本名をサミュエル・T・オーウェンといい、イングランド系の父親と中国系の母親とのあいだ生まれたアメリカ人であることがすでに戸崎たちには判明している。一九六九年、サンディエゴの新兵訓練場でサミュエル・T・オーウェンに出会った元海兵隊員カーター氏が語るところによると、ポーカーフェイスとの呼び名を持っていたサミュエルは徴兵された若者たちのなかでも際立って若く見えたとそうだ。

「アジア系の顔つきというのも理由だが、それ以前に彼は年齢を偽って入隊していた」とカーター氏は言った。つづけて彼は「身長一七三程度の小柄な男がココでやっていけるのか?」とサミュエルに対して最初に抱いた印象を戸崎に語った。

「犯罪者の片鱗などは?」という戸崎の問いかけにカーター氏は「なかった」と即答し、戸崎がさらに質問を続ける前に「というより、かれは二週間で群を去った」と思い出にも満たない当時の短いできごとを回想した。本格的な戦闘訓練が始まった頃、担当教官が一言、ポーカーフェイスは重病のため使い物にならなくなったと告げた。
811 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:21:44.64 ID:6D6vTS+OO

カーター氏の次の回想はベトナム戦争終結後、米軍の完全撤退が完了してから一年が過ぎた、一九七六年のことだ。シアトルの自宅にいた彼に軍から一本の電話がかかってきた。アメリカ兵パイロット一名がいまだベトナム国内に捕虜として囚われているとの情報を入手した米軍は、とある理由からカーター氏をサミュエルが所属していた特殊部隊「チーム」に同行させ、ベトナムの奥地まで送り込んだ。そこは、戦争終結後も戦いはまだ続くと信じていた、ベトコンのなかでもとくに狂信的な集団百人ほどが潜伏している地域だった。危険極まりない地域だったが、そこへ侵入してゆく「チーム」の隠密行動は芸術的だった。身体の輪郭を暗闇に溶け込ませるすべを持ち、葉っぱひとつ揺らさずにジャングルを潜り抜けるすべを持ち、月明かりに立つ歩哨を音も無く暗闇に引きずり込み永遠に寝かせるすべを持っていた。「チーム」の技能をまの当たりにし、また自らも同様の行動(みずから技能をはるかに越えた行動をとれたのは、「チーム」の、とりわけサミュエルのおかげといってよかった。)をとったカーター氏は、得も言われぬ興奮と感動が胸に満ちていた。厳重な警備を瞬く間に抜け、サミュエルら「チーム」三名とカーター氏は捕虜を救出。カーター氏は捕虜となっていた弟を抱きしめると、弟もまたか細くなってしまった腕で兄を抱きしめた。これには「チーム」のメンバー二人も微笑みを浮かべた。あとはピックアップポイントまで後退すればそれで任務はおわる。

カーター氏は尊敬のまなざしを向けながら、サミュエルに脱出をうながした。カーター氏はにわかに興奮していた。またあの素晴らしい「チーム」の技能を眼にできる、その動きに加わり、弟とともに故郷に帰れる。
812 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:22:42.43 ID:6D6vTS+OO

サミュエルが、拳銃を抜き取り、銃口を地面に向けた。カーター氏は突然の行動にぽかんとし、「チーム」の二人も意味不明な行動に戸惑っている。二人はサミュエルの指が引き金にかかっているのを気にしていた。「チーム」のふたりと違って、カーター氏はサミュエルの表情を見ていた、いつものポーカーフェイスが、別の表情に変わるのをはじめて目撃した。


「プレイボール」


サミュエルは笑顔を浮かべて、引き金を引いた。

一発の銃弾が、百人の敵を呼びよせた。おびただしい数の敵との戦闘。まるでジャングルを形成する植物と熱帯の気候と闇が敵意を剥き出しにしてきたかのよう。戦闘中、サミュエルは笑みを絶やすことはなかった。茂みから飛び出してきたベトコンに銃剣で腹部を刺されても、お礼のように笑いながら水平に寝かしたナイフを心臓に送り返す。手榴弾がジープの荷台に転がり、炸裂しサミュエルの右脚を吹き飛ばす、「チーム」のひとりの顔面が半分になり、もうひとりの方は腹から多量の出血。カーター氏は耳鳴りに苦しみ、現実が遠のいていく感覚に襲われる。

認識が戻り、現実感を取り戻したとき、カーター氏は自分が自軍のヘリに乗っていることに気づいた。しばらくは茫然としていた。浮遊感をおぼえてからだいぶ経って安堵を覚え、カーター氏は弟の無事を確認しようと顔をあげた。サミュエルがいた。

もうその顔に“表情”はなく、その無表情は右脚が失われたことを惜しむというより、右脚が失われた状況が失われたことを惜しんでいるように見えた。

帰国後、サミュエル・T・オーウェンは軍法会議にかけられ不名誉除隊となる。
813 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:24:08.79 ID:6D6vTS+OO

本来ならそこで悪夢は終わるはずだった。あるいは、カーター氏の個人的な悪夢としてときおり思い出される程度のものとなるはずだった。

「だが、神は彼に……第二の戦場を与えてしまったのだ」カーター氏は消え去るような声でつぶやいた。

「亜人」と、戸崎が語り継いだ。

「もうその戦いに終わりなどない」


そう言ってカーター氏は述懐を終了した。

カーター氏の述懐は永井が抱いていたある予感を再確認させる類の話だった。つまり佐藤はたのしいから殺しをしているという予感、つまりたのしくなければ殺しをしない、そしていま佐藤はたのしくなくなってきている。

佐藤のきわめてシンプルな個人的感情へ対応しなければならないなんて。永井はみずからの合理性を放棄したくなった。
814 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:25:13.04 ID:6D6vTS+OO

中野「佐藤にはどんな作戦でいくんだ?」


中野がまた首を横にむけ訊いた。


永井「さっきと同じ作戦でいく。だからまだこの部屋にいるんだよ」

中野「大丈夫なのか? おんなじで」

永井「注射器は百五十年かたちが変わらない。それがベストだからだ」


さも当たり前のように永井は言う。


永井「だいいち佐藤は僕らの介入は知ってても作戦の中身までは知らない。だが問題もひとつ。敵の戦力を削ってくれる警備員が田中との戦いで減ってしまったこと。だから一階のシャッターを開き、実況見分に来た大勢の人間を招き入れる」


永井の口調は淡々としていて、すくなくとも永井にとって問題はたいしたことはないと言いたげだった。


永井「こうやって警察官を警備員の代用品にするんだ」

中野「どういう意味だよ」

永井「言ってるだろ。他人の安全なんか気にしないって」


永井はこのとき、はじめて視線を中野にむけた。中野は身体を起こして永井の顔を見下ろすかたちをとりながら、疑問を口にした。


中野「注射器がどうのって……どういうこと?」
815 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:26:43.84 ID:6D6vTS+OO

一階ではシャッターが開けられ、永井の作戦通りに多くの警察官がビル内に入ってきた。

戸崎はセキュリティ・サーバー室から田中の侵攻ルートを説明して、警官を各階に配置していった。

救急隊員が怪我人を見、手当が済んだ者から一階へと運んでいく。警官のほうは聞き取りをおこない、田中たちの足取りを確認する作業に没頭していた。

無線からは業務的な報告が聞こえてくるだけで、佐藤が現れる気配はまだなかった。

中野は無線の雑音と警官の口ごもりや言い直しが混じる報告を耳で受け止めながら、また永井に質問した。


中野「永井、さっき敵はまずセキュリティ・サーバー室を狙うって言ってたよな。佐藤一人じゃ侵入すらできねえんじゃねーの?」

永井「こちらでシャッターを開けっぱなしにしておく。不審がられたっていい。罠だと知っててテーマパークに飛び込んでくるんだから」


ふと永井が言葉を切った。


永井「正直、佐藤がどんな作戦で来るのかまったくわからない」


声の調子が低くなり、それとともに永井の表情が懸念に眉をよせるのを中野は見た。


永井「だが物理的に入口はひとつ、絶対、田中達とおなじ順路を辿るほかないんだ。それだけわかってれば十分! やつは怪物でもなんでもない、死なないだけのただの人間だ!」


永井は腕組みしている手に力を入れていた。指にかかる握力のせいか、声も少し荒っぽい。言い終わったあと、力を抜き、拳になっている手をゆるめる。そして、自分自身に言い聞かせるようにちいさくつぶやいた。


永井「だれがビビるかよ」
816 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:27:34.74 ID:6D6vTS+OO

アナスタシアは無線越しに永井の声を聞いていた。永井の口から無意識のうちに溢れ出た不安の感情はアナスタシアをむしろ納得の気持ちにさせた。それは永井のつぶやきがアナスタシアの内面の心情と一致するからだったが、それ以上に責任感と重圧の間隙から感情が垣間見えるという心理的葛藤のあり方に姉と弟とのつながりを見出したからだった。

アナスタシアはいまになってようやく、ここにいる明確な動機を掴んだ気がした。


アナスタシア「だれが、ビビるかよ」


アナスタシアは永井と同じ言葉をゆっくり口にした。恐怖を否定するためでなく、恐怖と戦う覚悟をするために。


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817 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:28:26.96 ID:6D6vTS+OO

黒服たちはめいめい装備を点検し、ソファやキャビネットを応接室の入り口付近に縦に配置し身を隠す壁代わりにした。

準備が終わり、静かな待機の時間がまた戻ってきた。

真鍋はふと思いつめた表情を浮かべ、隣の平沢に話しかけた。


真鍋「平沢さん、今のうち返しておくよ」


真鍋は拳銃を取り出し、平沢に渡したい。


真鍋「あんたから貰った銃だ」


ベレッタM92F。真鍋が言った通り、平沢が譲渡したもので、平沢がその手でこの拳銃を持ってからかなりの時間が過ぎていた。

平沢はベレッタの銃口を床に下げ、真鍋を見つめた。

真鍋が口を開いた。

818 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:29:16.34 ID:6D6vTS+OO

真鍋「今回の仕事が終わったら、この稼業から足を洗おうと思ってる」

黒服2「やめてどうする、真鍋」


年嵩の黒服が茶化すように話しに入ってきた。


真鍋「伊豆にいい物件があってな、そこでのんびりするよ」

黒服2「隠居ってやつか」

真鍋「こっちが死なねえように敵を殺す。それだけをやってきたってえのに、死なねえやつなんてのに出てこられちゃあよぁ……」


真鍋は口調には倦んだものが感じられた。十数年続けてきた仕事でときおり去来しては振り払ってきた考えに追いつかれて観念したかのように真鍋はつぶやいた。


真鍋「潮時だろ」

黒服2「おれは好きでやってんだ」


年嵩の黒服は真鍋の諦観を受けても即座に自分の意志を口にした。
819 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:30:08.46 ID:6D6vTS+OO

黒服2「平和なんてハリボテの上で暮らすなんざ、いまさら気乗りしねえからな。なあ?」

黒服1「金が貰えればなんでもいい」


若い黒服は文庫本からからいちども眼を逸らさず、我関せずの態度のまま返事をした。読んでいたのはウラジミール・ナボコフ『青白い炎』で、開いてあったページにはこんなことが書かれていた。


── 三段論法。他人は死ぬ。しかしぼくは
他人ではない。ゆえにぼくは死なない。

[註釈]これは少年を面白がらせるかもしれない。年を取ってからわれわれは自分たちがその「他人」であることを知るのである。


年嵩の黒服は年下の仲間の態度をかるく笑い飛ばしながら、また何事かを話しかけた。

真鍋は仲間の話し声を耳にしながら、感慨深げに口を開いた。


真鍋「湾岸でも……そのあとも……平沢さん、あんたにはいろいろお世話になったなあ」


平沢はただ黙って、真鍋の言葉に耳を傾けていた。


ーー
ーー
ーー
820 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:31:01.22 ID:6D6vTS+OO

佐藤「ちゃんと整理してよー……田中君たち……」


食べ残しや食べかけが乱雑に詰め込まれた冷蔵庫は、肥満体を維持しようとする健啖家の胃の中身のようだった。佐藤は冷蔵庫のまえでしゃがみこみ、中を覗きこんだ。ソースや脂がこびりついた食品のパッケージデザインが幾重にも折り重なって浅薄な資本主義批判が主題の現代アートもどきの森とでもいうべき光景をかたちづくっている。実際の胃のように蠕動運動と攪拌運動がこの冷蔵庫の中の光景を蠢かしていたら、宇宙的な混沌の最中にいるように感じられただろうが、冷蔵庫は冷蔵庫でしかなく、どれだけ乱雑でも手を加えないかぎり食べ物が位置を変えることはなかったので、しばらくして佐藤はおあつらえ向きのものを見つけた。

佐藤は冷凍バイク便に電話で配達を依頼すると揚げ手羽先のレシピをプリントアウトし、あとひとつ手羽先をつくるのに必要な調理器具と調味料を用意した。食材の用意はいまからする。

佐藤は鍋に油を入れ、コンロに火をかけた。油の温度が揚げ物に適したことを確認すると、中華包丁を握り、まな板の上に置いた自分の左手首に勢いよく振り下ろした。
821 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:31:53.84 ID:6D6vTS+OO

右手で左手首を掴み、油の中にいれる。人間の手首を揚げているにもかかわらずジューっという音だけはおいしそうだった。片手での調理ははじめてだったが、揚げ上がりはうまくいった。タレを絡めるとほかの手羽先と見た目はあまり変わらない。

ビニールパックに手首と手羽先を詰め終わったちょうどそのとき、バイク便がやってきた。

佐藤は包帯を巻いた左手をポケットに入れて隠しながら配達物をバイク便のドライバーに手渡した。

バイク便が行った後、佐藤は近くの材木工場へ自転車で向かった。帰路を考えると、自動車を使うわけにはいかない。

ズボンのポケットに拳銃と左手を忍ばせながら自転車を漕いで行く。夕暮れから夜へと変わる頃。影が道路にのび、車輪がカラカラと音をたてながら回った。

豊郷林業の駐車場に停まっている車は二台しかなかった。佐藤は自転車を乗り捨てると、工場へ歩いていった。

工場の前で二人の人間がなにかを話している。現場の作業員とおぼしき帽子を被った男が木製のパレットを事務所の人間らしい若い社員に見せて、何事かを説明していた。

佐藤は帽子を被った作業員を撃った。

もう一人の社員が同僚が即死したことも理解しないうちに、佐藤はその社員に話しかけた。


佐藤「ある機械を貸してくれないかな?」


ーー
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822 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:32:52.34 ID:6D6vTS+OO

「あのー」


各階の様子を無線で聴きながら被害状況を整理してきた刑事にのんきな呼びかけがかかった。


「配達なんすけど」

「はあ? 何の」

「食べ物っす」


バイク便のドライバーは規制線のテープ越しに刑事に配達物を手渡した。


「サイン貰わないと帰れないんすよ」


刑事が手渡された紙袋を開けると、ビニールパックが入っていて、取り出して確認してみると冷凍された揚げ鳥がパック詰めされていた。


「こんなときに……ここの社員はどうかしてるな」


ビニールパックにはラベルが貼ってあり、「手料理おとどけねっと」という社名が行書体で印刷されていた。ラベルの右上には手書きのスマイルマーク、左下には小さな文字で「“余分な手”を一切加えず、まごころを込めて……」というメッセージが添えられている。


「ちょっと! うちの荷物ですよ」


刑事をエントランスに案内したフォージ安全の社員が駆け寄ってきた。社員ら刑事からの許可も貰わないうちに荷物を掴み取り、紙袋にビニールパックを戻すと連れ立ってきた警備員に手渡した。


「爆発するかもよ」

「警察署より厳重な検査を経て搬入します。ご安心を」


揶揄を嫌味で返された刑事は「けっ」と、ちいさく悪態をついた。
フォージ安全の社員が言ったとおり、配達物は即座にX線検査にかけられた。モニターには揚げ鳥の骨しか映らず、不審なものは何一つ見えなかった。


「異常なし」


警備員のその言葉とともに、紙袋は十階にある機械室へと運ばれていった。



ーー
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823 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:34:01.20 ID:6D6vTS+OO

中野「永井、なんか食べもの持ってねえ?」


永井は考え深げな様子で中野を無視した。

中野は永井が呼びかけに応じないのに慣れてしまったので、どうにかして空腹を誤魔化す方法を自分で考えることにした。胃の中には胃液があることを思い出し、それを意識することで空腹を感じずに済むのではないかと思いついた中野は胃液がたっぷり分泌されているところを想像して、空腹によるキュっーとする痛みににた感覚が胃液のせいではないかと思い始めた。

中野をよそに永井はじっと腕組みして動かないでいる。そのとき、戸崎が無線越しに呼びかけてきた。


『永井、一時間以上待ってるぞ。仕切りなおすべきじゃないか?』


応えはなかったが、戸崎は永井が考えを巡らせている気配を感じた。熟考になりそうな気配、戸崎は別の角度から疑問をぶつけることにした。


『さっきは聞く時間がなかったが……おまえの介入を佐藤が知って楽しいことが待ってるなんて思うのか? 佐藤にとっておまえは何でもない』


永井は、戸崎の疑問に対し、しずかな声で、思い出を語るときのように話し出した。


824 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:34:48.41 ID:6D6vTS+OO

永井「前、佐藤さんと記憶が交差したとき、一瞬だけど僕は、動悸が治り汗が引いた……たぶんあのとき、記憶だけじゃなく、精神状態も交差したんです。佐藤に僕の恐怖が伝わり、僕には佐藤の冷静さが……いや、冷静さだけじゃない、高揚感も」


感覚的に理解していたことを言葉にして語り直したとき、佐藤のパーソナリティがくっきりとした輪郭をともなって見えてきたように永井は感じていた。


永井「あのひとはこんなガキの一挙手一投足を気に入ってた……理解してくださいなんて、無茶なことは言いません」


そして、永井は確信を込めて言った。


永井「これは、僕と佐藤にしかわからない」


すこしのあいだ、沈黙が流れた。中野はまだ空腹に気を取られていて、唸るように息を吐いた。

戸崎は永井と佐藤のあいだに思った以上につながりがあること、そのつながりを永井が認め、告白した声の調子から永井の感情の機微が感じ取られ、自分でも予想しなかったことだが、そのことに感慨深い気持ちになっていた。

やがて、無線から戸崎の声が聞こえてきた。


『きみはいるべくしてここにいる気がしてきたよ』

永井「迷惑ですね」


すぐに返事をした永井の口調は、いつもと同じできっぱりしていた。


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825 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:36:21.01 ID:6D6vTS+OO

佐藤が案内された工場はメインとなる敷地中央の工場の南側にあり、トタン張りの壁に埃がこびりついた、老朽化した小さな作業場だった。

シャッターを閉め明かりをつけると、天井の照明が目的の機械を照らし出した。その機械は正面シャッターからいちばん奥まった場所に置いてあった。



「木材破砕機……丸太を五センチ四方のチップに砕きます」


機械を前にした佐藤に向かって震える声で社員が説明した。

真上にある照明のはたらきのせいもあって木材破砕機は舞台装置めいて見えた。スポットライトをあびて、クライマックスでの活躍をいまかいまかと期待しているようだ。


佐藤「そろそろかな。動かして」


壁時計を見た佐藤は、時刻がバイク便に電話したときに聞いた到着予定時刻を二十分ほど経過していることを確認すると、材木工場の社員に向かって指示を出した。震える指でなんとか起動スイッチを押し、カッタードラムの回転を最速に設定する。

佐藤は丸太をカッタードラムに送り込むためのベルトコンベアの両端に足を乗せた。


「なに……する気だ?」


佐藤の行動はたちまち結果を想像させ、材木工場の社員は堪えきれず、まさかという気持ちで訊いた。


佐藤「運が良ければめずらしいものが見れるよ、ミスター・スポック」


佐藤は社員の恐怖をよそに応えた。
826 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:37:03.65 ID:6D6vTS+OO

佐藤が破砕機と相対していたとき、フォージ安全の機械室に例の紙袋が届けられた。

紙袋を運んできた作業員が中身を見て、言った。


「なんか届いてるぞー。揚げ鳥だって」

「いいねえ、休憩にしよう。チンすりゃいいのか?」

「だれだ? 注文したの」


休憩室にした三人ともだれが注文したのかわからずじまいだったが、さほど気にもとめず、人数分の紙皿を用意して揚げ鳥を分けていった。
サスペンダー付きの工具ベルトを腰に巻いた作業員がひとりにつき三個ずつ、冷凍された揚げ鳥を皿にあけていく。最後に自分の分を皿にあけたとき、三つある揚げ鳥のうちのひとつが妙なかたちをしているのに気づいた。
827 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:39:42.79 ID:6D6vTS+OO

佐藤「亜人は最も大きな肉片を核に再生する」


ビニールパックからごろんと転がり出てきたひときわ大きな塊は、人間の左手首だった。


佐藤「転送だ」


佐藤が破砕機に飛び込んだ。

左手首が突然黒い粒子を噴出して舞い上がった。粒子は螺旋状に回転したかと思うと、たちまち血肉となって人体をかたちづくる。

距離を隔てた死と再生。A地点で死に、B地点で復活する。

転送を果たした佐藤は眼前の作業員の工具ベルトからドライバーを奪い取り、切っ先をこめかみに突き刺した。

佐藤が旅立ったあと、ひとり取り残されていた材木工場の社員は嘔吐し、床を汚した。がたがたと身体の震えが激しくなった。

カッタードラムの刃と受け刃が木材を挿入されたときと同じように人間を細かく砕いたのを見たのは一瞬だったが、破砕音は始めから終りまで聞いていた。

木材破砕機もまた振動を続けていた。排出口から吐き出された佐藤の血と肉片が床にぶちまけられている光景とあいまって、まるで悪いものをたべてしまったかのようだった。


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828 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:40:37.38 ID:6D6vTS+OO

機械音が鳴りわたっている空間に人間の声がかすかに混じったのを永井は聴き取った。


永井「聞こえたか!?」

中野「どうした永井」


永井の表情は眼を見開いたまま固まっていた。口もぽかんと開いたままになっている。ほんのわずかに聞き取られた人間の声は、永井の思考の方向をすべてそれについて向けさせた。それとは耳に届いた人間の声が悲鳴で、一階から上ってくるだろうと想定していた悲鳴が、同じ階から聞こえてきた原因と可能性についてだった。


永井「今、なにか……」

中野「何かの音はするだろ」

永井「だよな……いきなり侵入する方法なんか……な」


永井はひとつの可能性に思いあたった。


いや、そんなはずない……そんな方法……


永井は感情的な否定を心中でつぶやいていた。


だってそれは……普通の人間がやろうと思うような方法じゃない……


だが、思考のほうはこれまでの知識から論理を構築していて、それは十分な可能性を持っていた。
829 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:41:44.63 ID:6D6vTS+OO

永井「そんなはず……ない……」


永井は否定の言葉を口にしながら、天井パイプからぶら下がって、着地した。

着地したさいの膝を曲げたままの姿勢で顔を上げ、通路の先を見る。誰もいない。無人の空間のまま。通路の両端に配置された機械類がゴウンゴウンと作動音を響かせている。単純な文字通り機械的な音の繰り返し。だがその繰り返しは、しだいに人間の声が染み付いたかのような響きへと変貌していた。

それは永井の心象的な音的イメージに過ぎなかったが、機械類がたてる騒音とは別の種類の音を実際に永井は耳にした。

人間の足音。

通路の左側から人影が現れた。


佐藤「あっ、永井君」


永井と佐藤は同時に互いのことを認めた。佐藤は立ち止まって両手を広げ、言った。


佐藤「来ちゃった」


家に突然訪問してきた友人然とした身振り。右手に握ったドライバーから血が滴り落ちる。佐藤は作業用のつなぎとサスペンダー付きの工具ベルトを身につけていた。それらが奪いとったものであることは、染み込んだ血の跡を見れば一目瞭然だった。

830 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:42:27.79 ID:6D6vTS+OO

永井「佐藤さん、なんでそんな方法……できる……」


佐藤がほんとうに現実に存在しているのか、眼に見えている光景を信じきれない感情が渦巻くまま、永井は茫然と訊いた。


佐藤「社長室に直はさすがに無理そうだし、ここなら武器になりそうなものがありそうだし、それに……」

永井「死んだんだぞ!?」

佐藤「気にしないよ、私は」


佐藤はのんびりとした口調で応えた。

あまりの理解しがたさに永井の顔が歪んだ。

眼の前に立っているのはいくつもの矛盾が重なりあった幽霊ともいえる存在だった。肉体を持った幽霊。殺すために喜んで死んでいまも笑顔を浮かべている生きた幽霊。

永井はこれは何かの間違いではないかと思い始めていた。佐藤がここにいることではなく、自分がいてしまっていることが間違いだったのではと……


中野「佐藤オォ!」


根本的な理解の過ちを思い知って言葉を失っている永井の背後から中野の怒声がとんできた。


佐藤「きみは!」


佐藤はそこで言葉を切り、少し間をあけてから「だれだっけ?」ととぼけた返事をした。

831 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:43:37.40 ID:6D6vTS+OO

佐藤「でも意外だなあ。永井君が十階にいるなんて。どんな作戦なんだろう?」


中野への関心もそこそこに佐藤は興味深げに周囲を見回して、言った。

その発言を受け、わずかなりとも永井はショックから回復した。


永井 (こっちの思惑はバレてない!)


永井はすぐさま思考を働かせた。


(予想外の侵入だったが十階分とばしただけ、しかも非武装)(まだ作戦は生きてる)(あとはどうやって僕らをスルーさせ上に行かせるか)


現状認識と作戦の修正案の検討が同時的かつ無数におこなわれる。


佐藤「安心して」


佐藤は見守るようなおだやかな声で言った。周囲に彷徨わせていた視線を永井に戻し、宣言する。


佐藤「ルールは変えないよ。私はこのまま甲斐敬一と李奈緒美を暗殺しに行く」


永井の口の端が上向いた。好戦的ともいえる笑みを作り、同時にまだ焦燥の色もその表情に浮かんでいる。

佐藤の出現に戸崎たちも驚愕していた。モニターを見上げながら緊迫した眼で事態の推移を睨んでいると、突然警報が鳴り出した。

戸崎が無線機に飛びつき、叫んだ。


戸崎「永井! ガス漏れ警報が鳴ってるぞ!」


無線を聞いた永井の表情が固まる。視線は佐藤に固定され、佐藤の動き、佐藤の動きだけが空間から独立して唯一の運動体のように永井には見える。

佐藤の表情がかわる。にっこり笑って話し出す。

832 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:45:55.52 ID:6D6vTS+OO

佐藤「止めてみせてよ、永井君」

永井「戸崎さん! スプリンクラ……」


二箇所が切開されたガス管、そのすぐ近くにはタバコと包装フィルムとマッチで作られた手作りのおもちゃめいた発火装置な置いてあった。タバコの火が根元までじりじりと迫っている。火がマッチの薬頭に届く。火がぼっと膨らむ。空気を求め海から顔を出した哺乳動物のように、包装フィルムを破って外に出た。

次の瞬間、爆発が起きる。

伝播した火炎によって温度上昇が引き起こされ、室内の気体の体積が一気に膨張する。ガス管のある部屋は密閉されていて室内の圧力の急激な上昇が閉じられた空間を吹き飛ばした。閉鎖空間内から凄まじい勢いで高圧の気体が噴出する。熱と衝撃が波となって襲いかかり、永井と中野、そして佐藤も飲み込んでいった。

ビルが揺れる。

眼覚めた永井は腹部に熱を感じた。ネクタイに火が付き、半分ほど燃えてしまっている。中野に至ってはシャツ全体が燃えおちていて、ばたばたともんどりを打ちながら燃えるシャツを脱ぎ捨てた。

永井はネクタイの結び目を乱暴に引っ張った。


永井「戸崎さん! 被害は!?」

『その区画だけだ!』


周囲を見渡すと、あちこちに火が飛び散っている。床にはバラバラになった部品が無数にあり、機械類は激しく損傷し、パイプは歪曲している。

永井が嫌な予感に振り向く。そして叫ぶ。


永井「ファンが壊れた!」


急ぎ、戸崎に叫ぶ。


永井「佐藤はどこに!?」

『今探してる!』

永井「僕らがこの部屋で何をするかはわからない、だからすべて吹っ飛ばしたのか!?」

中野「黒い粒子を送れなくたって……平沢さんたちなら……」

永井「ダメだ、ゴリ押しじゃ!」


吸い溜めていた空気を一気に吐き出すような大声を永井は出した。

833 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:46:56.35 ID:6D6vTS+OO

永井「眼が見えなきゃいくら佐藤でも闘えないはず。だからリセットできない方法で資格を奪う……そこに勝機があった」

中野「じゃあなにをすればいい、永井」

永井「こっちは大勢、やつは一人でたいした武器もまだない。平沢さん! 無勢が多勢に挑むときのセオリーは!?」

『動向をつかまれないよう行動し、撹乱・奇襲を繰り返し徐々に戦力を削っていく。いわゆるゲリラ戦だ』

永井「だがいまセキュリティ・サーバー室はこっちの手中、佐藤の動きは掌握できる。警官・警備員を誘導、僕らも加勢し一気に強襲すれば……なんとか……」

中野「ゴリ押しじゃねえの!? それ」

永井「……戦略的ゴリ押しだ!」


永井は苦しげに押し通した。

さっきからスマートフォンが鳴っている。永井はいらだたしげに電話に出た。


『ケイ! ヴズルィーフ! ばくはつ!』

永井「まだ待機!」


乱暴に指示を出し、アナスタシアからの通話を一方的に切った。


下村「あ、いました!」

戸崎「永井! 佐藤がいたぞ! まだ同じ十階にいる」


セキュリティ・サーバー室のモニターに佐藤の姿が映った。戸崎は映像がどこから送信されているのかを確認し、無線に叫んだ。


『電力区画だ!』
834 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:49:04.49 ID:6D6vTS+OO


それを聞いた永井は一瞬で佐藤の目論見を悟った。


永井「ちがった……」


永井の思考が止まり、すべてが遅すぎたといいたげに暗くなった眼をある方向に向けた。


永井「ここを、爆破したのは……予備発電機を使用不能にするため……これで、主電源が落とされれば」


おそれを滲ませた声で永井がつぶやく。


永井「すべてがとまる」


突如、暗闇が降ってきた。あらゆる機械の作動がいきなり停止し、ビル全体が深い眠りについたかのように静まり返る。

空間を区分するあらゆる物の輪郭が暗闇に沈み、飛び散った小火も消えようとしている。


中野「永井」


中野が永井に呼びかける。その声は荒くなろうとする呼吸を抑えつけようとして非常にゆっくりと口から出た。


中野「つぎは?」


返事はなかった。


ーー
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ーー

835 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:49:47.34 ID:6D6vTS+OO

九階にある人事部。ひとりの社員が後ろめたさと自己正当化に苛まれて自分のデスクから動けないでいる。名前は青島。この青島が今回の内通者だった。

田中たちが捕獲されたときから、青島の内心は異常な勢いで焦燥し出した。内通の露見、共犯扱い、有罪、懲役刑、出所後の人生など考えたくもない。

みずからの手引きによって大勢の犠牲者が出たことにもちろん後悔はした。だがそれもすぐに自己弁護に埋め立てられてしまった。
だって、脅されたんだ。協力しなきゃ絶対殺されていた。やつらは弱みを握っていたんだ。断れるわけがない。弱み、弱みさえなければ。こんなことはしなかったのに。働いた分だけ評価されてれば、弱みなんて持たなかったのに。ずっと働きづめで、疲弊ばかりして、未来なんかなくて、みじめになって……

窮地に立たされた青島は、いっそのこと自首してしまおうかと一瞬だけ考えたが、結局それはできもしないことを夢想してわずかな慰めを得るだけの無駄な行為に過ぎなかった。

爆発とそれに続く停電が彼の心をさらに引っ込ませ、すべてが終わるまで何もしないでいようと逃げの決心をした。

何もしないでいたら、何も起こらないかもしれない……青島は淡い逃避の希望を抱いた。

突然、口を塞がれた。強い力で?が締め付けられパニックになる。


IBM(佐藤)『きみだね? 例の内通者は』


背後から声がした。聞き覚えのある声……ぞわりと、背中に戦慄が走った。
836 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:50:34.67 ID:6D6vTS+OO

IBM(佐藤)『田中君たちが捕まってしまって、このままじゃいずれきみの関与がバレるよ。そこでコレだ』


背後の何者かがデスクの上に何か物を置いた。暗くてよくわからないが、黒い塊からアンテナのようなものが伸びている。


IBM(佐藤)『警察と警備員の無線機。これで嘘の、私の位置情報を流し続けて欲しい』


口を塞いでいた手が青島から離れた。手が闇の中に退いていく。その際、手は青島の?にメッセージを残していった。


IBM(佐藤)『じゃあ、お互いがんばろう』


声が聞こえなくなってしばらく、青島は?の切り傷から血を流したままにしていた。詰めで引っ掻かれたような薄い切り傷。デスクには二個の無線機が紛れもなく存在している。

青島の内心は拒否の気持ちでいっぱいだった。それをやってしまったら、もう言い訳できない。完全な共犯だ。そんなことになったら……
青島は気づいた。すでにもう、そうなのだ。後戻りできるタイミングはとっくに過ぎ去っていた。いや、そもそもそんなタイミングはなかった。内通を持ちかけれた時点で、選ぶべき道はひとつしかなかったのだから。

もはや、降りることは叶わない。

青島は無線機を手に取り、席を立った。

誰もいないところまで移動し、無線機にむかって嘘を言い始める。
佐藤に暗殺を成功させるため、青島は必死になって嘘をまくし立てる。


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837 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:51:25.99 ID:6D6vTS+OO


更衣室のロッカーに鍵はかかっていなかった。佐藤はそのうちのひとつを開け、ゆうゆうと着替えを始めた。作業用のつなぎを脱ぎ、スラックスとワイシャツに着替える。服の上に身につけたサスペンダー付きの工具ベルトにはさきほど殺害した警官と警備員から奪った二丁のリボルバーと麻酔銃があった。ほかに使えそうな工具も何本かある。

サスペンダーを肩にかけ、ロッカーを閉める。更衣室から出ようとしたとき、佐藤の視界にあるものが映る。

ハンチングだった。


佐藤「いいねえ」


佐藤は帽子を手に取り、頭に被った。いつものスタイルが出来上がった。


佐藤「ブチかまそう」


頭部に馴染みの感触を得ながら、佐藤は暗闇に笑った。


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838 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:52:15.63 ID:6D6vTS+OO

『佐藤らしき男の目撃情報が』

「そんなバカな!」


ビル内からの無線連絡にフォージ安全の社員ははじめて感情を表した。亜人によるテロを防いだとしてメディアの取材を受けていたこの男性社員は爆発と佐藤出現の報によってすっかり冷静さの仮面が剥がれていた。

刑事は報告を苦渋の表情で聴いてきた。数秒の逡巡のあと、刑事は振り返り取り乱した様子のフォージ安全社員に向かって言った。


「あんたら、麻酔銃使ったんだろ?」


その言葉を聞いた男性社員の顔が一瞬で元に戻る。彼は刑事と対面した時と同じ顔と声を作り、言った。


「害獣対策用の麻酔銃を開発しています。田中侵入時、警備の数名が無断で使用してしまったようです」


会社の不利益になる可能性のある言葉は徹底して排除されていた。

刑事はそのことに興味はなかった。麻酔銃が使用可能かどうか、それが聞きたかった。


「なかにいる警官用に用意してくれ」


刑事の言葉にそばにいた制服警官が驚き、詰問口調で「いいんですか!?」と声を上げる。


「そういう組織の体質がやつらを野放しにしつづけてるんだろうが!」


刑事は叱責を返した。無線機を口元に寄せて、勢いに任せありったけの声量で叫ぶ。


「全班麻酔銃を受け取り、使用しろ! 全責任はおれが取る!」


「了解」と無線機から声が返ってくる。それを聞いた刑事は頭を下げ、後悔が混じったため息を吐くかのようにつぶいやた。


「クビだちくしょー」


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839 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:54:40.19 ID:6D6vTS+OO


麻酔銃と麻酔ダートが入ったケースを警備員が床に置いた。周辺にいた警官がケースの近くまで集まったことを確認すると、警備員はケースを開け麻酔銃を取り出し、使用法とダートの装填の仕方を実演でレクチャーした。

質問もそこそこに麻酔銃を受け取る警官たち。警備員が実演してみせたように麻酔ダートを装填していると、こつこつと靴音が近づいてくるのが耳に届いた。

警官が振り向く。

キャンバスを担いだ佐藤がゆっくりとこちらに向かっていた。


「佐藤発見! 十一階、プラントルーム前です!」


麻酔銃の引き金を固定しているピンを引き抜き、正面に構える。佐藤は通路の左側面がプラントルームのガラス張りの入口であることを見てとると、いきなりダッシュし真正面から突っ込んできた。警官は麻酔銃を撃った。佐藤は速度を落とすことも避ける動作をする事もなく、キャンバスを盾のように構えた。通路を見栄えさせる油彩画が麻酔ダートを止めた。次々に麻酔ダートが突き刺さる油彩画の裏側で佐藤が拳銃を持ち上げた。キャンバス越しの当てずっぽうの射撃。五発全弾撃ち尽くし警官三人を負傷させたが、死に至らしめることはできなかった。


佐藤「うまくあたらないなあ」


リボルバーとキャンバスを投げ捨てながら佐藤は通路を左に折れ、プラントルームに進入する。キャンバスは前方に投げられ、正面の警備員から佐藤の姿を隠した。警備員は視界から消えた佐藤を追って、無理に身体を捻って右側にいる佐藤に麻酔銃を撃った。

麻酔ダートが、ガラスに弾かれた。


「あ!」


失態に気付いたとき、佐藤が眼の前で鏡写しのようにリボルバーを構えていた。その銃口が自分の視線と同じ高さにあることを警備員は視ていた。

佐藤が二連射し、警備員と警官を射殺する。


「あっちから銃声だ!」


警官の声が通路の奥から響いてきた。

その声を聞き取った佐藤は工具ベルトからナイフを抜き、ふたたび闇の中を走り出した。

右手にナイフ、左手に拳銃、顔には笑み。

まだまだ序盤。それでも佐藤は楽しくてしかたない。


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840 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:55:39.59 ID:6D6vTS+OO

『十一階で佐藤と交戦中!』『六階で佐藤らしき男が……』『いや二十階だ!』


無線機から流れてくる情報はどれもバラバラで、佐藤のいる位置を伝えるどころかむしろ混乱を大きくさせることが目的のようだった。


永井「情報が錯綜してる、佐藤の現在地を確認しないと」


無線機からの情報はあてにならないと判断した永井は無線機をポーチにしまい、中野に向かって「行くぞ!」と叫ぶやいなや、走り出す。
中野は社長室に向かおうと機械室のすぐ近くにある南階段へ走っていこうと身体を前に倒すが、永井が階段のある方とは反対に向かって走っていくのを見て思わず叫んだ。


中野「社長室に直行じゃねえ!?」

永井「そのまえに田中のところに行くと思う! やつらの使ってた武器を調達できるしな!」

中野「佐藤は田中の場所しらねえだろ!?」

永井「職業意識の低い公務員なんかいくらでもいるだろ! 脅せば吐く!」


機械室から飛び出した二人は一つ上の階の南側にある仮眠室にむかって、まず通路を突っ走った。

走りながら永井はスマートフォンを取り出し、アナスタシアに電話をかけた。

841 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:56:43.06 ID:6D6vTS+OO

『もしもし? ケイですか!?』

永井「いいか、おまえの存在を正体は隠したままこっちの仲間に明かす。平沢って人から佐藤と遭遇したと連絡が来たら、おまえはIBMを平沢さんたちのところまで送れ。やつにIBMを消費させ、できるだけ長く引き付けるんだ!」

『わかった!』


躊躇いのない返事。通話を終えたあと、永井は無線機で平沢に先ほどのアナスタシアとのやり取りのことを告げる。平沢から了承の返事。立て続けに喋り続けたせいで、呼吸がとてつもなく早くなっている。永井は肺が破裂したかのように大きく息を吐くと、足に力を込め階段を駆け上がった。

十一階に到着、永井は戸崎に連絡する。


永井「戸崎さん、電力区画の状況は!?」

戸崎「こちらセキュリティ・サーバー室、電力の復旧はできそうか?」


『こちら電力区画、主電源が物理的に破壊されています。修理が数分で済むか数時間かかるか……まだ、なんとも……』


戸崎「だそうだ」

永井「クソ!」


永井の口から悪態が飛び出た。


永井「佐藤にIBMを消費させるためスプリンクラーを切っといたのが裏目に出たか……予備電源の破壊は防げたかも……」


過去の判断を悔やむ発言を口ごもり気味に言い終わった永井は即座に感情を切り替え、戸崎に指示を出した。


永井「戸崎さん、あなたは電力が復旧したときのためにそこを動かないでください。これから講じるすべての策が失敗に終わった場合……わかってますね?」

戸崎「ああ」

中野「永井! そこが仮眠室だ!」


顔を上げると、仮眠室と書かれた室名札が眼に入った。通路を右に折れた先を示している。永井も先頭を走る中野もスピードを緩めず、仮眠室へ走っていく。

仮眠室のドアが開いた。中から負傷者を寝かせた担架を搬送する救急隊員二名と制服警官一名が出てきた。通路を曲がった永井たちと警官の視線が合った。


842 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:57:29.45 ID:6D6vTS+OO

永井「あっ!」


警官の格好をした田中がリボルバーを抜き、二連射する。中野が被弾。腹部を貫通し、銃弾が背後の壁に粉塵を飛ばしながら埋まった。


永井「もう佐藤が来た後だ!」


永井が床に倒れた中野を引きずりながら、無線機に叫ぶ。近くにいた女性社員が悲鳴をあげた。


平沢「佐藤はこっちに向かってるようだ」


悲鳴混じりの連絡を聞いた平沢が即座に動いた。


平沢「IBM粒子もスプリンクラーも無い以上、こんな狭い部屋でIBMを使われたら一瞬で全滅だ。廊下へ出るぞ」

真鍋「平沢さん、作戦は?」


平沢は何も言わずに真鍋を見つめ返した。真鍋もまた無言で平沢の答えを受け取る。


李「あの、わたしは……なにをすれば……」


立ち去ろうとする平沢の背中に李がいまにも消えそうな声で呼び止めた。ソファから腰を上げ、肘掛に手をついた姿勢のままで動きを止めていた。だが、その全身は恐怖によって震えている。


平沢「逃げるなり隠れるなり好きにしろ。その状態じゃ邪魔になる」


平沢はそれだけ言い残し、社長室から出て行った。

843 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:58:25.29 ID:6D6vTS+OO

田中は永井と中野が隠れた通路の角を睨みながら、背後の仲間にむかって叫んだ。


田中「おまえら先に逃げろ!」

高橋「は!? おまえは!?」

田中「少しやりたいことがある!」


麻酔銃を左手で引き抜き、ふたたび二連射。


中野「逃げちまうぞ!」

永井「ほっとけ!」


通路の角を銃弾が削り、内壁材の粉塵が飛んだ。


永井「田中だけは残って何かするみたいだな」

中野「銃使うか!?」

永井「麻酔銃だ!」


永井に言われて中野が麻酔銃をポーチから引き抜いたとき、腹部の銃創が熱くなった。


中野「いってーな、くそッ!」


激しい痛みを堪えながら、しっかりと両手で麻酔銃を握る。


永井「田中は無力化しとくぞ!」


二人は角から飛び出した。
844 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:59:39.54 ID:6D6vTS+OO
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845 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:01:22.61 ID:SzhTzFDuO

田中のIBMがすぐ眼前に迫っていた。右脚の踏み込みが大きく振り上げた右腕を鞭のようにしならせ、鋭い爪が横薙ぎのギロチンのような作用を見せながら中野の首にかかる。


永井「中野!」


永井はとっさに中野を突き飛ばす。反射的な行動は二人のバランスを崩し、中野だけでなく永井も床に倒れる。IBMの攻撃は頭上を通過し、反対側の通路にいた女性社員の二の腕をシャツの上から切り裂いた。振り抜いた腕とともに飛び散った血が宙に軌跡を描いた。


中野「てめえ!」

永井「よせ中野!」

うずくまり悲鳴をあげる女性を見た中野が床から飛び起きる。倒れたままの永井の制止を振り切って中野はIBMへ突進した。IBMが振り返って迫り来る中野に顔を向ける。同時に中野がIBMに飛び掛かり、黒い無貌めがけて頭突きをぶつける。次の瞬間、中野の腹部が弾けた。IBMの左腕が中野の右脇腹を肘のあたりまで貫き、まとわりついた羽虫を追い払おうとするかのように振り回し始めた。


「う」「お」「お」


まだ生存している状態にあった中野の口から洩れ出てくる叫び声がブレを含みつつ、左右に振り回される身体の残像と微妙にズレながら聴こえてきた。

その光景に見覚えのある永井は一瞬だけ対応に悩む。その一瞬のロスを後悔するかのように永井は身体を前に突き出し、IBMを発現した。
846 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:02:45.11 ID:SzhTzFDuO

永井「中野よけろ! こいつはおまえが嫌いだ!」


渦巻くように生成される黒い幽霊の肉体。永井のIBMは床を蹴って一直線に中野めがけて突進する。永井の言葉に頭だけ振り向いていた中野が敵意剥き出しのIBMを目撃する。中野が頭を仰け反らせる。その直後、さっきまで中野の頭部があった場所に永井のIBMが攻撃を打ち込まれる。田中のIBMがその攻撃をまともに喰らい、その頭部と突き出された腕が対消滅する。永井のIBMは突進の勢いそのまま前進を続け、崩壊する田中のIBMと中野を下敷きにして床に倒れた。

うずくまっていた女性社員は突然眼の前で展開された異常な出来事に慄いていた。声も出ないほどの恐怖、喉の強張り、中野が床に倒れたときやっとのことで、「ひっ」という短い悲鳴が口から洩れる。悲鳴に反応したIBMが黒い無貌を女性に向ける。腕を押さえている女性を見た瞬間、IBMは一切躊躇せずに残った左腕を振り上げた。


中野「あっ!」


咄嗟に田中のIBMの爪を掴み、頭上にあるIBMの顔にぶつける。死角からの攻撃がクリーンヒットし、永井のIBMは制御を失った操り人形よろしく背後に倒れた。

IBMの頭部の粉砕を確認した永井は、注意しつつ通路の角から顔を出し、仮眠室前に視線を向けた。 田中の姿はない。


永井「クソ」


永井は視線を中野に戻す。復活し、起き上がろうとしているところだった。


永井「中野、無茶すんじゃねえ! 断頭の話が理解できてないから、おまえは……」


永井はいらだたしげに中野を怒鳴りつけた。


中野「あの話はよくわかんねえけど、とにかく死ぬんだろ?」


めまいでも起きたのか、目元を手で押さえながら中野は静かに言った。一息ついてから起き上がり、永井と視線を合わせた。


中野「死ぬってことがどんなことかってくらいは、わかってるよ」


永井は何も言わず、中野を真っ直ぐ見つめ返した。

847 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:03:59.91 ID:SzhTzFDuO

電力の復旧の目処はまだ立たない。戸崎は永井が田中を見失った瞬間、復旧と同時に佐藤の居場所を見分けられるようにとモニターを見上げつづけている下村に向かって指示を出した。


戸崎「下村君、行け。十五階へ向かう佐藤を階段で待ち伏せし、一体でも多くのIBMを消費させるんだ」

下村「戸崎さん、ここに佐藤が来るかも……」


椅子から立ち上がりかけたところで、下村が戸崎にもしものときのことを訊いた。


戸崎「行け」


戸崎の命令に下村は真っ直ぐサーバー室から出て行く。イヤホンを耳に付け、永井に指示を仰ぐ。


下村「永井君、北・南、どっちの階段に行けばいい?」

永井「わからない!」


率直な答え。佐藤は田中たちと別行動を取っているのか、それとも田中と合流し暗殺にむかっているのか、情報の錯綜はいまだ解消せず、判断の根拠はほとんどない。


中野「ヤマはるしかねえぞ」

永井「二分の一だ」

下村「じゃあ、わたしは近い北階段へ行く」


下村は現在位置から判断を下した。


永井「中野! 僕らは南階段で行くぞ!」


二人は階段に向かって走り出した。廊下を駆け抜けている途中、中野が永井に訊いた。


中野「永井! いまはどんな作戦だ!?」


永井は走り続けた。返事をするまですこし間があった。永井は、狭まった喉からやっとのことで絞り出したような苦渋に滲んだ声で言った。


永井「こんなの、すでに、作戦じゃない」

848 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:04:51.44 ID:SzhTzFDuO

下村が階段に到達した。ドアを開け、十四階廊下から階段の踊り場に足を踏み入れる。


下村「北階段に着きました。佐藤は……」


階段に足をかけた警官と視線がぶつかる。見覚えのある顔。


田中「病院……以来だな」


階段を挟みながら、下村と田中が対峙した。
849 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:05:30.50 ID:SzhTzFDuO

永井と中野が十二階を通過する。


中野「永井! さっき戸崎さんと話してた全部失敗に終わった場合って……なにをするんだ!?」


手すりを掴んで崩れかけた体勢を立て直した永井にむかって中野が大声で訊く。


永井「最終手段だよ」


永井は振り向き、またすぐに正面を向いて階段を上った。


永井「電力が復旧し次第、屋上、一階の出入り口をロックしてビル自体を巨大な檻にする。佐藤が暗殺に成功しようがしまいがこのビルからは出られない」

中野「でもそれじゃ、ほかの人たちも出られないぜ!?」

永井「ああ! だが、佐藤がこのビルの全人間を殺そうが僕らは死なない! 何日何週間かかろうが、奇跡的に佐藤を拘束できるまで闘い続ける!」

中野「全人間って……本気かよ!」

永井「もちろんだ! 何人死のうが僕の知ったことか!」


中野の声に負けないように永井は大声で言い返した。

言葉を投げっぱなしにしたまま、永井は踊り場を曲がった。十三階へと続く階段を足で蹴る。


永井「だが、そんなことはさせない」


決意の言葉を永井はつぶやいた。


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850 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:07:29.90 ID:SzhTzFDuO

十五階、黒服たちが十字になった通路で左右に展開し伏撃の体制で佐藤を待ち構えている。

下村から南階段で田中と遭遇したとの連絡、黒服たちは北階段からつづく通路を伏撃の地点に選んでいた。


黒服2「平沢さん、あんたはなんでこの仕事を?」


平沢と並んでシグザウエルを正面に構えている年嵩の黒服が訊いた。


平沢「忘れたよ」

黒服2「家族はいるのか?」

平沢「長いこと会ってないな」


オープンサイト越しに通路の暗闇に視線を固定する。真鍋と若い黒服は横に貫く通路にそれぞれ銃口を向けている。

平沢の眼が暗闇の中での黒い影の微妙な動きを捉える。影は通路の陰に消え、同時に動きの気配も消える。数秒間そのままで、眼が間違いを起こしたのかと思い始める程度の時間が過ぎる。

突然、暗闇の中にパステルカラーの脚の生えた抽象画が出現する。

平沢は躊躇せず引き金を引いた。


佐藤「ぬ!?」


抽象画越しの銃撃が佐藤の膝を貫いた。床に倒れた佐藤の頭部はキャンバスで隠れ、平沢からは狙えない。キャンバスが傾く。年嵩の黒服が狙えるようになった佐藤の頭部に照準を合わせる。

佐藤が先に引き金を引いた。牽制のための連射。平沢と黒服が身を隠している隙に佐藤は這いずって通路の角まで後退した。


851 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:08:34.16 ID:SzhTzFDuO

佐藤「きみら、警備の人間じゃないな!」


佐藤は喜ばしさを口にしながらリボルバーを口に咥え、自殺した。笑い声が銃声で途切れた。


平沢「南階段前の通路で佐藤と遭遇」


平沢が協力者にむかって無線で告げる。

アナスタシアはIBMを放出し、十五階へ走らせる。


平沢「やつには麻酔ダート程度の弾速なら一、二発かわす反射神経がある。殺し続ける方法と麻酔銃での無力化、臨機応変に使い分け、やつを拘束するぞ」


暗闇を見張りながら、平沢が指示を出した。


佐藤「この国の、兵士に相当する職種の人間は……戦闘に身を置く覚悟がぬるい」


佐藤が復活した。黒い粒子を口から噴き出している口から言葉が洩れる。


佐藤「だが、きみらはちがう。ちゃんと殺し合いをしてきた風情を感じる」


佐藤はポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動させた。


佐藤「SAT相手よりよっぽどエキサイティングな時間になりそうだね」


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852 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:09:21.01 ID:SzhTzFDuO

田中「女だからって容赦はしねえ。てめえは特にだ」


踊り場に突っ立ったまま、独白するような調子で田中がつぶやいた。


田中「十年……十年だぞ?……佐藤さんが来るまで十年間……おれは実験施設にいた……」


俯きながら身体を震わせて独白を続ける田中を下村は表情一つ変えず見下ろしていた。スーツのジャケットのボタンを外し、前を開ける、脇を圧していたショルダーホルスターが解放される。時間が差し迫っている感覚。


田中「てめえとエレェ違いじゃねえか」


下村を睨めあげた田中が怨みがましい声を出した。


田中「連中に色目でも使ったかよ」

下村「好きに言って」


八つ当たり的な挑発の言動を下村は意に返さなかった。


田中「あんな仕打ち、間違ってると思わねえのか!?」

下村「わたしは与えられた仕事を最後までやりたいだけ」


いらだちを募らせる田中とは対照的に、下村は冷静な態度を取り続けた。下村の黒い瞳は田中の苛立ちが復讐心によるものだけではないことを見て取った。


下村「ていうか」


別の理由による動揺、下村はそれを指摘した。

853 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:10:06.05 ID:SzhTzFDuO

下村「あなただって正しいと思ってこんなことしてるわけじゃないでしょ?」

田中「あぁ!?」


田中のIBMが発現される。怒りに身を任せた突進。下村もIBMを発現、闇雲だが激しい攻撃をなんとか凌ぐ。田中のIBMが背後に回り込もうと壁に向かって跳んだ。下村のIBMがその動きを追いかけ、左脚を軸に身体を反転させる。


IBM(下村)『あ』


下村の視界から三角形の頭部が消える。IBMは足を踏み外し、転んでいた。下村と田中の視線がふたたびぶつかる。田中は麻酔銃を持ち上げようとしていた。

下村は即座に飛び退いた。麻酔ダートが壁に突き刺さる。両脚で着地し、顔を上げる。田中のIBMが逃げ道を塞ぐようにドアの前から下村を睨んでいる。壁を踏んでいた右脚を強く蹴り、IBMは下村に向かって飛び出した。


下村「……来いよ!」


下村は左肩を前に出した姿勢を取り、開いた左手を前に、握られた右手を胸の前に構える。IBMの爪が振り下ろされる。攻撃の呼吸に合わせ、下村は身体を後退させる。下村の左手を切り落とされ、指の付け根から落下していく。爪はそのまま下村の腕に進み、コピー紙が裂かれるみたいに前腕の半ばあたりまで入り込んだ。下村は激痛に眼を細めながら、手を切断した左側の爪が肘にひっかかり勢いが止まったのを見た。爪が引っかかったままの左腕を引き、右肩をIBMの前に入れる。IBMの伸びた左腕の肘を掴み、足が床から離れた瞬間に身体を捻った。


IBM(田中)『お!?』


IBMの上下が反転し、反対側の壁に投げ飛ばされる。下村は体重移動を行い、踊り場から階段の下に身体を出した。途中、麻酔銃をホルスターから抜き、下に向ける。ダートを装填していた田中と眼が合う。焦りを浮かべた表情。下村が麻酔銃を撃ち、ダートが田中の胸に突き刺さる。


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854 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:11:40.47 ID:SzhTzFDuO


平沢が通路に備え付けられている消火器を取り出し、床を滑らす。若い黒服が膝で受け止めたのを見ると、平沢は言った。


平沢「やつがIBMを発現させたらそれで煙幕を張り、消滅までやり過ごせ」


スマートフォンのカメラで床を滑る消化器を見た佐藤がつぶやく。


佐藤「消化器? 何に使うんだろう……幽霊対策かな?」


疑問を解消した直後、年嵩の黒服がスマートフォンを狙撃した。佐藤は気にかけず、顔を出さないように角に頭を寄せながら、暗闇に向かって呼びかけた。


佐藤「大丈夫! 幽霊をこんなタイミングじゃ使わないよ」


佐藤は身体をもとに位置に戻し、腰に巻いた工具ベルトを探った。ダクトテープを取り出す。


佐藤「面白みがないじゃない。せっかく不死身なんだから」


テープを剥がしながら、佐藤は黒服たちの戦略を推察する。

佐藤の動向を見張りながら、平沢がハンドサインで仲間に指示を出す。平沢と真鍋が通路を回り込み佐藤を背後から襲撃、挟撃を目論む。年嵩の黒服が了解のサインを返し、平沢と真鍋が移動を開始する。残った黒服二人が左右の角から佐藤を見張る。


佐藤「彼らの装備から見て、SATの時と同じ無力化の方法かな? だったら……」


壁から張り出した細い柱を掴み、テープで固定した佐藤は高橋のAKMを持ち上げ、銃口を右手首に押し付けた。


佐藤「これで壁から誘い出そう」


855 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:13:24.47 ID:SzhTzFDuO

通路の陰から銃火の閃きを見えた。黒服は意図の掴めない銃撃に疑問を持ちつつ、視線を固定していると、銃声が止んだ。

佐藤がリボルバーを乱射しながら飛び出してきた。佐藤から見て右側、年嵩の黒服がいる角に向かって集中的に発砲を続け、前進する。

若い黒服がイングラムM10で佐藤の頭部を狙撃した。


黒服2「目標射殺」


倒れた佐藤を確認した年嵩の黒服が平沢に告げる。


黒服2「殺し続け接近、拘束する。頭部を狙え」


殺し続ける方法を取りながら、黒服二人が佐藤に接近する。撃たれ続ける頭部からは血と黒い粒子がとめどなく飛び出していた。黒い粒子は右手首からも放出されていた。手首の切断面はズタズタで、自動小銃で千切ったためだった。手首の粒子は頭部のそれとは違い、柱に固定されている右手に吸い寄せられるように通路の陰に伸びていった。黒い粒子が連結し、手首と切断面がすこし持ち上がる。黒い粒子が磁力のように互いに引っ張り合った結果、突然、佐藤の身体が滑り出した。若い黒服が頭部を狙って引き金を引くが、通路の角に邪魔され佐藤の姿が視界から消える。

黒服たちは射撃を中断し、歩みを遅くしながら佐藤のいる位置を注視する。靴音を殺すようなゆっくりとした前進。十五階全体が静まり返っている。
856 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:14:34.28 ID:SzhTzFDuO

佐藤が若い黒服を二連射した。銃弾は右耳の下にあたり、イヤホンのランヤードを切断、そのまま首を貫通した。若い黒服が頭を下げたため、二発目は壁に埋まった。沈み込む黒服から銃口を移し、佐藤は通路の右に位置する年嵩の黒服に向かって二発撃った。身体を下げていたため、弾はあたらなかった。

最後の一発が年嵩の黒服の額に穴を開ける直前、佐藤の首に麻酔ダートが刺さった。平沢が回り込んできたことを確認した佐藤は、通路を横切るように跳躍し、リセット。ふたたび佐藤の姿が隠れる。

年嵩の黒服が銃口をあげる。


黒服2「こっちからは狙えない」


膝撃ちの姿勢で佐藤を狙撃しようとするが、帽子をかぶった頭部はインテリアに隠れて見えない。

若い黒服は射出口を押さえながら、噴き出してくる血の勢いを手のひらで感じていた。激しい脈動に従う血の勢いは、止むことはなさそうだった。若い黒服は傷口から左手を離し、MAC10のストラップを肩から外す。床に放り投げると、MAC10はがちゃんと音を立てた。年嵩の黒服と眼が合う。

若い黒服は右手をあげた。

857 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:16:56.57 ID:SzhTzFDuO

黒服1「お先」


年嵩の黒服は黙って頷いた。

平沢と真鍋が通路を進行、佐藤が倒れた地点を確認するが、姿はなかった。床の血痕は近くのドアまで続いていて、ドアはかすかに開いていた。

年嵩の黒服が合流した。肩からMAC10のストラップをかけている。

若い黒服は足音が遠ざかっていくのを聞いていた。視覚も暗くなっていく。通路の覆う物理的な暗闇以上に暗く黒い闇が、頭の先から下りてきて、手足の先端まで染み渡っていくのを感じる。感覚のすべてが遠くなっていき、力が抜ける。使えるものがなくなる。身体を動かす意識が小さくなる。


天国への扉を叩くような感覚……


傷口を押さえていた黒服の左手が床に落ちた。


黒服2「一名死亡」


かすかな気配の消失を感じ取ったかのように、年嵩の黒服が無線にむかって静かに言った。


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858 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:18:04.95 ID:SzhTzFDuO

『一名死亡』


耳のイヤホンから黒服の報告が聞こえる。永井は十二階と十三階のあいだの踊り場いて、階段に転がっている警官の死体を眺めていた。階段を駆け上ってきたためか呼吸は荒く、頭の横にあげた両手が呼吸に従って上下している。

永井はゆっくりと視線をあげ、死体から眼を逸らした。名前はなんだった、と永井は一瞬考えた。眼の前で横たわっている警官の名前も、十五階で死んだ黒服の名前も永井は知らなかった。


「動くなぁぁっ!」


上の踊り場の警官が永井にむかって怒鳴った。その声をきっかけにその場にいる全員の視線が永井に集まった。


「永井……圭だな……」


警官が緊張感を抑えた声で言った。手に麻酔銃が握られ、永井に狙っていた。


永井「うるせえよ」



この上ない苛立ちを感じながら、永井はぼそりと言い捨てた。




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859 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:19:52.06 ID:SzhTzFDuO

両腕をだらんと床におろし、田中がうなだれている。踊り場のIBMも田中と同様に床に尻をついて、突然いなくなった飼い主を探す忠犬のように虚空に顔を上げじっとしていた。

下村は麻酔銃を捨て、右脇のホルスターからH&K USPを引き抜いた。右手で拳銃を持つのは痛みのせいもあり、かなり苦労した。

騒ぎを聞きつけたフォージ安全の社員が動く様子のない田中に駆け寄って、声をかけようとする。


下村「どけ!」


拳銃を左右に振りながら、下村が怒鳴りつける。踊り場まで下り、銃口を田中に向けながら俯いてる顔を覗き見る。半開きになった口、眼は閉じられている。

下村は一息つき、拳銃を持った右手の親指でイヤホンを押さえ、報告した。


下村「田中を無力……」


突然、下村は何者かに後ろから突き飛ばされた。衝撃で拳銃が手から離れ、宙を舞った。右手が壁と顔に挟まれ、背中を圧迫する凄まじい力によって抜くことは不可能だった。下村は必死に首を伸ばし、何が起きたのか把握しようとする。田中がゆっくりと瞼をあげ、下村を眺めた。


下村「防弾……ベスト……厚み」


田中のIBMが抵抗を示す下村に顔を寄せ、威嚇するように短く吠えた。噛みつかれるのを怯んだ下村が反射的に頭を下げると、田中が麻酔ダートを装填し直す動作が眼にうつる。
860 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:20:55.69 ID:SzhTzFDuO

下村は即座に自身のIBMに命令した。

三角頭のIBMが踊り場に向かって降りかかってくる。頭部めがけて突き出された拳は、田中のIBMが頭を右に振ったことによって壁を強く打つだけにおわった。続けざまに左の拳が繰り出される。壁に張り付いて下村の動きを封じていた田中のIBMは、唯一可能な反撃に打って出る。思いっきり頭を仰け反らせる。田中のIBMの後頭部が三角形をした下村のIBMの頂点に触れたかと思うと、二つの頭部の境界線が混じり合い、黒い塊が溶け合った。


(おそ……いよ…)

(すげーじゃねーか)


精神が混線し、互いの記憶を体験する。田中の意識が混線から回復したのは、二体のIBMと下村の身体の床に倒れた音が続けざまに耳に届いたときだった。

下村は左手の傷口を床に押し付け、上体を起こした。右手ですぐに拳銃を掴むため、そうする必要があった。激痛に襲われながら、下村は拳銃に手を伸ばす。

田中は下村の指が拳銃のグリップに触れたのを見て、ようやく麻酔銃を撃った。

麻酔ダートが首の付け根に刺さり、下村から意識を奪う。田中は手錠で下村の無事な方の手首を手摺のポールにつないだ。その様子を社員たちが覗き込んでいる。手にスマートフォンを持っていたが田中は気に留めず、麻酔銃にダートを込めながら階段を上った。


「え!?」

「なんだ!?」

「嘘だろ!?」


振り返ると、下村が復活していた。

何かする前に田中は下村を撃った。

何事もなかったように階段を上ろうとする田中を、フォージ安全の社員が慌てて呼び止める。

861 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:22:00.13 ID:SzhTzFDuO

「お巡りさん、放置でいいのか!?」


田中はしばし考え、思いついた言い訳を口にした。


田中「……あとで担当の人がくるから……あんたらは早く避難しろ」


社員たちが田中の発言に戸惑っていると、階下から足音が響いてきた。「凄い音がしたぞ?」と言いながら、警備員たちが階段を駆け上がってきた。

田中は背後の物音を意識して遠ざけ、自分の足音に聴覚を集中させた。


「あ、警備員さん! この女、亜人ですよ!」

「何!?」

「佐藤の仲間か?」

「動画も撮ったんで見てください。グロかったすよ?」

「これーーー」

「ーーーうです」


いやでも耳に入ってくる音声の意味が捉えられなくなったところで、田中が足を止めた。数秒の逡巡のあいだにさまざまな考えが頭を過ぎった。十年にわたる自分の時間と正確な年月は不明だが数年に及ぶ下村の時間が重なり、最期の瞬間の記憶と感情が自らの体験のように再生された。


田中「クソがっ」


田中はリボルバーを握りながら、階段を引き返していった。


ーー
ーー
ーー

862 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:22:49.00 ID:SzhTzFDuO


黒い星十字が打ち上げられたロケットのようにフォージ安全ビルを昇っていく。アナスタシアのIBMは手摺を足がかりにして跳躍し、人ひとりぶんしかない手摺と手摺のあいだをすり抜けた。真上に跳躍すると伸ばした手を上の手摺にかけ、身体を持ち上げる。この動作を二回繰り返すと、一階分上ることができる。

はじめは階段を利用していた。だが、階段には想像以上に社員の数が多く、焦る気持ちもあわさってIBMを思うように移動させることができなかった。十一階に辿り着いたとき、IBMが降りてきた女性社員とぶつかりそうになった。IBMと人間が激突すれば、後者が重傷を負うことは目に見えている。アナスタシアは咄嗟にIBMをジャンプさせた。偶然にも手摺の上にのったIBMはそのまま真上に跳びが上がり、踏み込みひとつで上の踊り場まで到達できた。

手摺と手摺のあいだはとても狭く、跳躍のたびにIBMは身体のあちこちをぶつけた。踏んだり掴んだり頭や肩や膝がぶつかったところが凹んだり傷がついたりしたが、もはやそんなことを気にするアナスタシアではなかった。

十三階から上の踊り場まで跳躍する。手摺を掴み、星十字の頭部を隙間から出したとき、永井と眼があった。永井は警官に撃たれ、出血し床に倒れていた。周囲には麻酔銃によって意識を失った警官、壁際に永井と同様、腕と腹部が撃たれた中野がいた。



IBM(アナスタシア)『ケ……』

永井「十五階、プール室!」


その大声を聞いたとたん、星十字はふたたび直線的に上昇した。落ちるような速さでIBMが姿を消したのを見届けると、永井は拳銃を取り出し中野に向けた。中野は銃口をぼんやり睨んだ。


永井「先を急ぐぞ、中野」

中野「とっととやれよ」


永井は引き金を引いた。すぐに乾いた銃声が連続し、踊り場に響いて消えた。


ーー
ーー
ーー

863 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:24:08.55 ID:SzhTzFDuO


プール室のドアの前で平沢たちは一旦足を止めた。


平沢「佐藤の装備だが、警官から奪ったであろうリボルバーが五、六丁。麻酔銃も見えた」

黒服2「さっきの行動から見ても腕を一気に叩き切れるような刃物は無いようだ」


情報を共有を済ませ、真鍋がドアの右側に移動する。ドアノブに手をかけると、年嵩の黒服がMAC10を構えた。社長室のある十五階が主戦場になるだろうという想定から、黒服たちは同階の空間構造を把握している。プール室のドアを開けてすぐ正面に身を隠すのに最適なコンクリート柱がある。柱はドアから入って正面と右側、それぞれ縦に二本ずつ並んでいる。まず佐藤がどの柱の陰で待ち構えているか特定する必要があった。

真鍋がアイコンタクトを送った。二人はうなずき、ドアが開け放たれる。年嵩の黒服がMAC10の銃口を正面に向ける。ドア正面手前の柱の陰から佐藤がリボルバーを連射する。黒服はすぐに身を引き、五回の発砲を数えると手前の柱をフルオートで撃った。


黒服2「行け! 行け!」


銃撃が続けられるうちに平沢と真鍋が室内に突入する。右奥の柱まで走り、手に持った消火器を床に置くと、真鍋が麻酔銃を構えた。佐藤から見て平沢は十二時の方向、真鍋は九字の方向に位置している。

佐藤はコンクリート柱の左側から腕をまっすぐ伸ばし、年嵩の黒服を銃撃した。黒服がドアの陰に隠れたあとも佐藤は撃ち続けた。真鍋は無防備にさらけ出された佐藤の背中を麻酔銃で狙った。引き金を引く直前、帽子の庇がかすかに傾くのを真鍋は見た。麻酔ダートが発射される。佐藤はダートを左腕で止め、リボルバーの銃口をこめかみに押し付けた。


佐藤「あ」


かちんという撃鉄が空ぶった虚しい音がし、佐藤が仰向けに倒れる。
864 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:24:53.05 ID:SzhTzFDuO

真鍋「麻酔ダートが腕に命中……目標を眠らせた」


真鍋の報告は結果に対する疑問が滲んでいた。


平沢「奴を撃ったとき、不意打ちだったか?」


佐藤に視線と銃口を固定したまま、平沢が訊いた。


真鍋「いや、眼が合った。手で防がなくともかわせそうなもんだ」


『平沢さん、喉を見てください』


永井が無線越しに平沢に指示を出した。


『睡眠時、唾液の分泌は著しく低下します』


平沢の眼が佐藤の喉に焦点をあわせる。


『だから本当に寝ているのなら、そう簡単に』


平沢は佐藤の喉を見ている。


『唾を飲み込んだりは……』


佐藤の喉が動いた。平沢と佐藤が同時に撃つ。佐藤の左耳の上半分が吹き飛ぶ。


865 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:26:07.41 ID:SzhTzFDuO


佐藤「バレちゃった?」


佐藤はシャツの袖を捲り上げ、左上腕を縛る布をナイフで切断。そして拳銃で自殺。銃声の後、シノ棒代わりのドライバーが床に転がる音がかすかに鳴った。

年嵩の黒服は銃声と同時に部屋に飛び込んだ。柱の裏に佐藤の姿が見える。銃口を頭部に向け、引き金に指をかける。

佐藤がリボルバーを胸まで持ち上げ、二発撃った。二発とも胴にあたり、着弾の衝撃によって黒服の背中は壁に打ち付けられた。黒服は壁からずり落ちながら、リボルバーめがけてMAC10を撃った。佐藤の右手の指がリボルバーごと吹き飛ぶ。銃弾を受け、佐藤の身体が柱からはみ出る。平沢と真鍋が佐藤を狙撃、佐藤は柱に隠れて代わりのリボルバーを抜こうとする。佐藤の左手が吹き飛ばされる。年嵩の黒服が佐藤を撃った。黒服はなおも引き金を引くが、MAC10が弾切れを起こす。

佐藤の首の後ろに麻酔ダートが刺さった。平沢は佐藤が柱の陰に隠れた瞬間に接近を始めていた。

佐藤は両手を見た。指が六本欠けている。

佐藤はIBMを発現した。


佐藤「使っちゃったよ」


幽霊を使用したことに対して、佐藤は残念そうに、反面どこかはんぶんは嬉しそうに言った。わずか四人との戦闘で幽霊を放出せざるをえなくなった。エキサイティングな時間のピーク。

IBMが佐藤の脊椎めがけて腕を振り下ろそうとする。

そのとき、スプリンクラーが作動する。散水される水滴にIBMの挙動が停止した。


『電力の復旧した』


戸崎が無線で告げた。
佐藤が演技ではない倒れ方を見せる。


真鍋「IBM、沈黙」

平沢「麻酔ダートは首に命中。リセットもされてない。小細工のしようがない」


佐藤を見下ろしながら、平沢は言った。


平沢「確実に寝ている」

866 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:27:33.43 ID:SzhTzFDuO

永井「……考えろ。まだ何かあるんじゃ……」


平沢たちは眠っている佐藤が失血死しないよう止血処置を施している。


平沢「動けるか?」


平沢が年嵩の黒服にむかって問いかけた。


黒服2「ああ、肋骨が折れただけだ。防弾ベストにあたった」

平沢「田中を警戒しろ」

黒服2「了解」


年嵩の黒服は消化器を手に持ち、入口へ向かった。


永井「田中が何かするのか?」


永井はまだ佐藤が状況を打開する可能性を検討していた。


永井「奴はIBMを僕らに一回、下村さんにも一回使ったようだった……恐らくもう出せない……田中ひとりでどうにかできる状況じゃない……」


田中がIBMをまだ使用できると仮定しても、こちらにはアナスタシアがいる。

867 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:29:02.76 ID:SzhTzFDuO

永井「アナスタシア、おまえのIBMはいまどこだ?」

『十五階に着きました』

永井「プール室に向かわせろ。途中、田中を警戒しろ」

『ダー』


アナスタシアはIBMをプール室に向かって進ませた。真っ直ぐ進み左に曲がるとプール室にたどり着く。アナスタシアのIBMがまず右の通路を確認する。若い黒服が背中を丸めて動かなくなっている姿が見えた。一瞬、呼吸が止まり、心が千切れるほどの悲しみがアナスタシアを襲った。星十字のIBMも、打ちひしがれたように突っ立って動けなくなった。

永井はまだ十四階で、意識の全てを思考に捧げていた。


永井「他に何かあるか? 他に……」


可能性のひとつが消え、永井は別の可能性の検討に移った。そして、ひとつ思いつく。


永井「いや、それはない……」


永井は即座に否定した。


永井「それは僕にしかできない……」

868 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:30:32.79 ID:SzhTzFDuO

IBM(佐藤)『プ……プレイ……ボール』


佐藤のIBMが発することのないはずの声を発した。

IBMは素早く身体を回転させ、年嵩の黒服の背中に右手を埋め込んだ。


黒服2「佐藤の……」


黒服の足が床から離れ、身体は宙に浮いた状態で柱に押しつけられている。年嵩の黒服は苦痛にあえぐ声で報告を続けた。


『IBMが……』

永井「自走……!」


黒服からの報告に永井が戦慄する。すぐに階段を駆け上がり、戸崎に向かって無線機越しに叫ぶ。


永井「戸崎さん! 完全封鎖しろ!」

『封鎖実行』

永井「封鎖が完了したら、誰にも解除されないようにシステムを破壊してください!」


ビル内の至る所で防犯シャッターが下り、ロックがかかる。


永井「あいつはまだかよ!」


永井は階段を駆け上がりながらどこか悲痛な感じがする声で叫んだ。
黒服からの報告はアナスタシアの無線機にも届いた。自走を告げられた瞬間、アナスタシアのIBMは射出された銃弾のようにプール室のドアに飛びついた。ドア越しに笑い声 ──『は、は、は』──が聞こえた。

自走を始めた佐藤のIBMは存分にみずからの力を振るった。年嵩の黒服をコンクリート柱に押しつけたまま、入口に向かって走り出す。


黒服2「真鍋! 消化器で煙幕を張れ!」


黒服が激痛を無視して叫ぶ。凄まじい摩擦によって額の皮膚が破れている。真鍋が消化器に飛びつく、IBMは黒服を床に叩きつける。肩から落ち、両脚が真上を向いた。年嵩の黒服は振り上げられたIBMの黒い拳を見て、言った。

869 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:36:05.69 ID:SzhTzFDuO

黒服2「来いよ」


ドアが開いたのはその瞬間だった。アナスタシアはIBMを突進させようと奥歯を噛み締めながら命令する。星十字のIBMの動きが部屋に入ったとたんに停止した。スプリンクラーが機械的な非情さで散水を続けていた。佐藤のIBMが黒服の頭部に拳を打ち下ろす。

アナスタシアはIBMの操作に集中するために瞼を閉じ、星十字の頭部と視覚をリンクさせていた。だから、佐藤のIBMが黒服の頭部を砕く光景から、眼を閉じて流れることも、顔を背けることもできなかった。


平沢「真鍋、スプリンクラーを撃て!」


消化器から手を離し、真鍋は拳銃を天井に向けた。平沢も同時に発砲し、天井に備え付けられている四つのスプリンクラーヘッドが砕けた。

アナスタシアとIBMのリンクが回復する。


IBM(アナスタシア)『あ、あ、あ、あああ゛! あ゛ああ゛あ゛!』


怒りに染め上げれた叫びを発しながら、星十字のIBMが怒りに身を任せて突進する。

佐藤のIBMが顔をあげる。放射状に砕けた頭部から拳を引き抜くと、口角をあげ笑顔を浮かべた。IBMの笑顔は、サミュエルが「プレイボール」といったときと同じような“表情”だった。


IBM(佐藤)『は、は、は』


自身に迫る黒い星を正面から捉えながら、佐藤のIBMは喜びの声をあげた。



870 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 00:56:15.66 ID:SzhTzFDuO
今日はここまで。

黒服たちの最期を書いていると、ふとボブ・ディランの「天国への扉」のメロディが頭の中で鳴りました。

この曲はサム・ペキンパーの『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』のために提供された楽曲で、歌詞の内容は映画のストーリーに合わせるなら西部ももう終わろうとしている時代、進歩から取り残されたガンマンが死にゆく時の最期の心情を歌っていると解釈できるでしょう。

「天国への扉」はさまざなアーティストにカバーされ、多くの映画のサウンドトラックにも使われていますが、個人的に最高だったのがマイケル・マンの『ブラックハット 』でした。実は予告編にアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズのカバーが流れるのみで本編では使われてないのですが、とあるシーンを見て頭の中で自動的に「天国への扉」の歌詞が再生されました。

『ブラックハット 』の評価はじつは散々なんですが、一部のシネフィルには高く評価されていて、蓮實重彦やジャン・ドゥーシェなんか絶賛も絶賛で、個人的は21世紀の映画ベストだと思ってます(ちなみにディレクターズカット版の評価は高く、わたしも観たいんですがソフト化も配信もないんですよね……)。

というわけでこちらが『ビリー・ザ・キッド』と『ブラックハット 』の該当シーン。

https://youtu.be/yjR7_U2u3sM

https://youtu.be/SQCluffO3Wc

後者は激しくネタバレなので注意。

これらを見たあとで「天国への扉」を聴きながら、『亜人』8巻を読むとやべーです。やべーほど泣けます。

871 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/25(月) 01:11:22.19 ID:SzhTzFDuO
>>869
訂正
流れる→逃れる
872 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/25(月) 15:10:13.04 ID:W4wphvD70
更新キテル
お先の人の補完具合がいい塩梅で好き
873 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/27(水) 21:12:47.72 ID:UfIKOYeM0
おつ

スワンプマンの話から久々に読んだ
最新刊の佐藤は腕切ってから自爆するまでの間に
永井を見つけたのを
腕から再生した佐藤も覚えてるんだよな
腕の方に記憶は残ってないはずなのに
874 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/04(木) 15:27:08.12 ID:I7DaQecR0
佐藤さんとの決着の付け方めっちゃ気になるから最後まで頑張ってほしい
875 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 21:58:06.94 ID:kdA8uLchO

脚が千切れてしまうかもしれないと思うほどの強い踏み込みをみせ、アナスタシアのIBMは佐藤のIBMへと猛進する。拳を振りかぶり、爬虫類のそれに似た偏平な頭部めがけて打ち下ろす。

流れ星のような直線的な軌道を描く星十字のIBMの攻撃は、コンクリート柱をはげしく揺さぶった。鈍い衝撃音が重く響く。コンクリートがひび割れた。

怒りに任せた発作的で衝動的な攻撃は、佐藤のIBMからみればただのテレフォン・パンチでしかなく、ヘッドスリップでたやすく躱し、流れるような動作で後ろへと回り込む。佐藤のIBMがうしろから蹴りを放つ。鞭のような鋭い一撃ではなく、足裏を押し出すようなかたちでアナスタシアのIBMの膝裏を突いた。膝が折りたたまれたかのようにガクンと落ち、頭の位置が下がる。アナスタシアはIBMの体勢を整えようと床に手をついて身体を押し上げようとするも、それが判断ミスだと瞬時に悟った。手をついた瞬間、星のかたちをした頭部が一点に留まった。その位置はただ腰を回してフックを打つだけで、佐藤のIBMの拳が地球に衝突する巨大隕石のように放たれる一点だった。

アナスタシアの頭が真っ白になる。背後で佐藤のIBMの動作、その右肩がピクリと動くのを感じた。
876 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 21:59:10.19 ID:kdA8uLchO

消化器から吹き出す白煙によって、IBM二体の黒い肉体が互いの視界から隠された。柱の側の消火器を真鍋が撃ち、銃弾で射抜かれてできた孔から噴出された消火剤が猛烈な勢いであたりを包んだ。真鍋にはアナスタシアのIBMが視認できていなかった。だが、佐藤のIBMの淀みない動作から味方の危機を察知し機転を利かせたのだった。

噴出の勢いで消火器が倒れ、赤い本体を煙幕で隠しながら床を転がっていく。アナスタシアは即座にIBMの手を床から離させた。肩を動かし腕を折りたたみながら勢いをつけてタックルをするみたいに床に倒れると、頭のすぐ上を空気が流動していくのを感じた。佐藤のIBMの六本目の指とアナスタシアのIBMの十字形の頭部の右端の先端がぶつかり、互いに打ち消しあう。

アナスタシアはIBMの右脚をあげ、横になった姿勢のままおおきく足払いをした。こちらの脚一本を犠牲に、あちらの機動力を完全に無効化させるつもりだった。白い煙が切り裂かれ、視界がひらけたところから黒い足首が見えた。さっき佐藤のIBMが立っていた位置から一歩後退したところにいる。

アナスタシアはそのままIBMの右脚をぐるりと一周させ、ブレイクダンスのウィンドミルの要領で身体の上下を反転させる。そのとき手で床を掴み上体が持ち上がらないようにし、首だけあげた。白い煙幕はまだあたりに充満している。アナスタシアのIBMの回転のせいで煙幕には流動が見られたが、伏せっている姿勢を保っていたので消火剤が滞留している位置に身を隠すことには成功していた。佐藤のIBMが動けば、煙幕によって視覚化された空気の流動によってその行動を予期できる。
877 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:00:45.93 ID:kdA8uLchO

アナスタシアは、周囲を包み漂う白い煙幕にじっと眼を凝らした。

煙の中を黒い影が横切った。物体の運動によって押し退けられた煙がもとの空間に戻ろうとする。アナスタシアは、左側にあるプールから大きな水音が起ち上がるのを聞いた。

平沢と真鍋もその水音を聞いていた。平沢は佐藤の止血に集中していた。何が起き、どんな音がしようと止血が終わるまで顔をあげようとしなかった。

真鍋は握っていた拳銃を、落ち着きつつある消火剤の煙幕から飛び出してきた物体に向けた。プールの水が拳銃と真鍋の顔にかかる。微動だにせずプールに視線を固定していると、水が赤く染まり出すのを目撃する。

投げ込まれたのは、年嵩の黒服の死体だった。


真鍋「罠だ!」


真鍋は叫び、銃口を反対側の壁に向ける。巨大な爬虫類の怪物のような黒い影が高速で壁を移動している様子が眼に写る。佐藤のIBMが這っていた壁から跳躍し、大口を開け真鍋に飛びかかった。
878 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:01:50.08 ID:kdA8uLchO

その牙が真鍋の顔に喰らいつこうかという瞬間、もうひとつの黒い影が白煙から飛び出してきた。星十字が爬虫類にぶつかり、平沢の頭上を通り越しながらその斜め背後の壁に激突した。

アナスタシアのIBMは佐藤のIBMの両腕をがっしりと抱きかかえたまま前進し、入口の反対側のいちばん奥まった壁まで押しやった。

IBM同士の眼のない顔が向き合う。佐藤のIBMは口を閉じていた。口角はもう上がっていなかった。笑ってはいなかったが、ほかのどんな感情も現れてはいなかった。

アナスタシアは自身のIBMをさらに前進をつづけ、佐藤のIBMを分身と壁に挟んで圧迫させ、動きを完全に封じ込めようとする。動き回らせてはいけない、とアナスタシアは強く思った。膂力は等しくても、技術や駆引きではまったく劣っていると先ほどの攻防で思い知らされた。さらに時間的なハンデ。IBMを先に発現したのはアナスタシアのほうであった。星十字の頭部のほうがおそらく先に崩壊をはじめるだろう……

アナスタシアはIBMの両脚に力を込めさせた。鋭く尖った足の爪で床に引っ掻き傷がついた。

一歩踏み出したしたところで、前進が止まった。佐藤のIBMは壁に左足をつき、アナスタシアのIBMの前進を押し返すかたちで阻んでいた。偏平頭のIBMはさらに右側面の壁を蹴ることで両者の体勢を崩し、互いの身体をよろめかせた。床に衝突するさい、佐藤のIBMは身体を縛り付けているアナスタシアのIBMのその右腕を、拘束されているにもかかわらず身体を捻ることで床に向かって突き出し、ぶつかった衝撃を利用して消失させた。佐藤のIBMの左腕の半分もそのとき消え、くっついていた両者の身体が離れた。
879 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:02:56.54 ID:kdA8uLchO

倒れたままの二体。アナスタシアが急いでIBMの体勢を立て直す。佐藤のIBMは尻もちをついた格好で黒い星十字を見上げている。

アナスタシアのIBMが上体を素早く起こし、残された左腕を偏平な頭部めがけて振り下ろそうと拳を握った。

あらゆる戦いは駆引きのゲームである。アナスタシアはそのことを学んだはずなのに、焦りのせいで駆引きの方針を放棄してしまった。

間違いに気づく……絶望感……凍てつくような感覚だった……

腕を振り上げたせいで大きく開いた脇に佐藤のIBMが蹴りを入れた。上体が押し出され、真下に打ち下ろすはずだった拳は偏平な爬虫類頭から大きく外れた。

佐藤のIBMは脚で脇を押したさいの反動を利用しアナスタシアのIBMの左側へするりと身体を移した。その途中、直下してゆく左腕の関節を右手で絡めとり床に押し付けると、半分になった前腕を大鉈のように拳めがけて叩きつけた。

手を構成していた粒子がはじけ飛び、空気の中へ消えていく。

手を喪失したIBMの両腕は、餌を取れずに身体が腐り動けなくなってしまった黒い芋虫のように役立たずになって垂れ下がっていた。

なす術がなくなった。だが、アナスタシアは哀れな反撃を試みる。手首の断面を突き出し、頭部を狙う。佐藤のIBMがスウェーする。腕の長さを完全に見切られ、ほんの僅か届かない。ゼノンのパラドックス──アキレスと亀のたとえのように、永遠に届かない距離。伸びきった手首の断面が下がる。佐藤のIBMのカウンター。肘のところまでしかない左腕が星十字めがけて真っ直ぐ走り──
880 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:04:19.68 ID:kdA8uLchO

消化器が赤い水平の弧を描きながら偏平な頭部を打った。真鍋が振り抜いた消化器に頭部を殴られたIBMがよろめく。しかしスリッピング・アウェーで頭部を消化器と同一方向に反らしていたので倒れるまでにはいかず、佐藤のIBMはすぐに体勢を立て直しはじめる。

平沢が上向いた偏平の頭部に全弾叩き込む。

佐藤のIBMの頭部が後方に倒れる。

アナスタシアがIBMを復帰させ、追撃をしかける。

星十字の動きを見た佐藤のIBMはそのまま床を転がり、壁際まで飛び退る。

アナスタシアはそれを追いかけ、IBMが飛び出そうとする。


平沢「待て、深追いするな!」


平沢の言葉にアナスタシアはIBMの動きを止める。

佐藤のIBMはこちらをうかがいながら、最後の攻撃をしかけるタイミングを図っている。じりじりと距離を詰めようとするが星十字のIBMを気にしてか、突発的な行動の前兆は見受けられない。
881 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:05:47.70 ID:kdA8uLchO

アナスタシアがIBM越しに敵を注視していると、肩を叩かれる感触が伝わってきた。

わずかに振り返ると、真鍋が拳銃を左に振っていた。拳銃を振った先には平沢がいて、真鍋と同じように拳銃を構えながら佐藤のIBMの前に立ちはだかっている。

平沢の背後、コンクリート柱の裏側に位置するところに佐藤が寝かせられ、帽子をかぶった頭部が入口の方へ向けられている。上腕部がきつく締め上げられた両腕を胸で交差させて深く寝入っている。まるで平沢が佐藤を護衛しているかのような光景だった。

アナスタシアはIBMを平沢の前まで移動させた。その背中に隠れながら真鍋があとをついていく。

黒い幽霊がこちらにやってくるのを平沢は視界の端で認める。

この星十字のIBMを平沢と真鍋が視認できるようになったのは、真鍋に襲いかかる佐藤のIBMに飛びついてその命を救ったときのことだった。IBMは、強い感情を向けられれば人間にも視認できるようになる。アナスタシアの二人に向けた「絶対に死なせない」という感情が、すべての光線を透過させるIBM粒子で構成された肉体を黒く浮かび上がらせたのだった。

偏平頭のIBMがアナスタシアから見て右に移動する。プールサイドの中ほどまで、プールを斜めに挟み、柱の裏側の佐藤の頭部が見える位置。

アナスタシアもIBMを移動させる。平沢も同時に横に移動し佐藤のIBMの視線を遮るような位置につく。佐藤の上半身がアナスタシアのIBMに、下半身が平沢の陰に隠れる。真鍋は佐藤とは反対側の柱の側面で敵に銃口を向けている。

佐藤のIBMの頭部が崩壊し始める。ほぼ同時に星十字型の頭頂も崩れはじめたのがわかった。

882 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:07:18.14 ID:kdA8uLchO


平沢「仕掛けてくるぞ」


平沢の発言に緊張感が高まる。

アナスタシアの視線はIBMの足元に向けられている。

佐藤のIBMが右に一歩動く。

三者はすぐに反応する。平沢と真鍋は銃口を動かし、アナスタシアはIBMの向きを敵の正面になるように動かす。

アナスタシアは敵のIBMの右手がかすかに動いたのを見てとる。


次の瞬間、真鍋が咳込む。


真鍋は喉を手で押さえて背中を丸めている。咳込みは一回だけで、いまは苦痛に喘ぎながらヒューという音を口から漏らしている。呼吸するたびに指の隙間から赤い血がこぼれ落ちていく。

アナスタシアのIBMが真鍋に手を伸ばす。手が届く前に前髪を逆立たせた頭部ががくんと仰け反り、後頭部がコンクリート柱に打ちつけられた。ズルズルと真鍋が床に沈み込む。

真鍋の額に穴が開いていた。

平沢が前進しシグを連射する。

佐藤のIBMは大きく開脚し上半身を床すれすれまで沈ませる。右手をアンダースローの要領で平沢めがけて振り出す。

親指で弾き飛ばされた銃弾が平沢の胸部に撃ち込まれる。平沢が仰向けに倒れ、右手がプールに投げ出され、持っていた拳銃がプールの底へと沈んでいく。

黒服二人が倒れ、佐藤の護衛がいなくなる。
883 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:08:49.59 ID:kdA8uLchO

佐藤のIBMは年嵩の黒服の死体を囮としてプールに投げ込む直前に、ショルダーホルスターのポーチから予備のマガジンをくすねていた。そして、飛び道具を持っていることに気づかれないようにマガジンを口腔に隠したまま戦闘を続け、不測の事態に備えていたのだった。

自走するIBMは残りの銃弾を使って佐藤を起こすことにした。親指で弾き出された銃弾が音もなく帽子をかぶった頭に飛んでいく。

星十字のIBMが佐藤に覆い被さる。背中に銃弾が埋まる感覚。

佐藤のIBMがすぐさま次の行動に移る。肘にマガジンを持った右手をのせ安定させながら前進をはじめ、銃弾を指で撃ち出しつづける。

銃弾が絶え間なく背中にあたる。

頭部の崩壊は三分の一ほどまで進行している。

突如、銃弾の飛来が途切れる。

振り向くと、佐藤のIBMの姿が消えている。壁を引っ掻く音が耳に届く。

アナスタシアはIBMをその場から動かさず、じっと待つ。壁を引っ掻く音がピタッと止む。

一発の銃声がプール室に轟いた。
884 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:10:00.77 ID:kdA8uLchO

佐藤のIBMは真鍋のシグザウエルP220を右手で握り、目覚めの引き金を引いていた。 銃弾が帽子に焦げ目をつくる。

十指の欠けた手を脇腹にそえた姿勢での佐藤の眠りはまだ守られていた。

アナスタシアのIBMが拳銃を握った敵の右手に左手首の断面をぶつけ、消失させていた。拳銃を握った右手が床に落ちる。がちゃんという金属音がいちど鳴り響く。

アナスタシアはIBMの頭部をそのまま前に突き出し、直進させる。星十字が偏平な佐藤のIBMの頭部に迫る。互いに頭部は半分ほどになっている。

黒い頭部に視界が占められるなか、アナスタシアは佐藤のIBMの?が窄まるのを目撃する。口腔内にあるものを吐き出すときのような、まさに吐き出すというときに見せる?の筋肉の運動。

星と爬虫類を形象する頭部が衝突し、IBM粒子が溶け合い、交流が為され、消失する。佐藤の記憶がアナスタシアに流れ込む。

平沢が復帰して、行動を起こせるようになる。防弾ベストを着ていても、銃弾があたったときの衝撃は身体につたわる。胸部に浸透した衝撃が軽度の肺挫傷を引き起こしていた。

自分の銃がなくなっていることに平沢へ気づいた。平沢は佐藤から押収し、離れたところに置いたリボルバーに手を伸ばす。

腕を伸ばす作業には苦痛が伴った。呼吸することにすら苦痛が入り込んでくる。

平沢の手がリボルバーに触れるまえに佐藤が目覚める。
885 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:11:38.36 ID:kdA8uLchO


佐藤「え、やっちゃったの?」


起き抜けの佐藤があたりを見渡してぼやく。

佐藤はIBMが落としていった真鍋の拳銃に素早く手を伸ばし、平沢に銃口を向けた。

引き金を引くのは、佐藤のほうが早かった。

銃弾が平沢に放たれる。

銃弾よりもはやく永井が平沢に飛びついた。


佐藤「永井君!?」


佐藤は驚きながらも即座に二連射する。そのうち一発が永井の左肩にあたる。永井が苦悶する。

壁から張り出したところに側頭部がぶつかり、平沢は気を失う。

永井はそれに気づく余裕もなく、ポーチから麻酔銃を引き抜くが、佐藤に頭部を二連射される。麻酔銃を握った右手が頭部の仰け反りにつられてくんと上がり、力なく床に落ちる。

遅れて部屋に飛び込んできた中野が佐藤めがけて麻酔銃を撃つ。

佐藤は余裕をもった動作で麻酔ダートをかわし、自分の持ち物だった麻酔銃を拾い上げると背中を丸めた姿勢のまま引き金を引いた。

中野の右脚に麻酔ダートが刺さる。

復活した永井が見たのは、水煮濡れた床、壁に投射された水面の波紋の揺らめき、光を反射する血に染まったプール、そして帽子から水滴を垂らしながら自分を見下ろす佐藤の顔だった。

永井は片膝をついて麻酔銃を佐藤に向ける。

そんな永井を佐藤はとくにおもしろくもなさそうに見つめ、言った。

886 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:12:42.50 ID:kdA8uLchO

佐藤「どのあたりが作戦だったんだ? 永井君」


永井が麻酔銃を撃つ。

佐藤は止血処置が施された左腕をあげ麻酔ダートを受けると、なめらかに滑るようなフットワークで永井の眼前まで接近する。

視界から一瞬で消え失せ、その位置を探そうと視線を変える一瞬の猶予もあたえず、佐藤は永井のふところに入り込んだ。

佐藤の右ストレートが永井の顎をとらえる。衝撃に脳が揺れる。

永井が床に倒れる。床はスプリンクラーによって濡れているので水が跳ねる音が倒れる音に混じる。

壊れたスプリンクラーから水滴が落ちた。ぽちゃんという音を立てて、プールの水面に波紋をつくった。

波紋が赤い水を揺らめかせる。

それもすぐに止む。



静寂。



プール室に立っている者は佐藤以外、誰もいなくなる。


ーー
ーー
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887 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:13:49.64 ID:kdA8uLchO


戸崎「永井、聞こえるか? 完全封鎖完了。システムも破壊した」


セキュリティ・サーバー室にひとり残った戸崎が無線に呼びかける。

サーバー室は徹底的に破壊されていて、最低限の空調や水道を保つほかにはあらゆるシステムが動作不可能な状態になっている。

戸崎はイヤホンに耳を澄ませるが、いくら待っても返答はなかった。


戸崎「ダメか……下村君と合流しよう」


戸崎は廊下を麻酔銃を構えながら進む。

動かない闇が眼の前にある。いつ闇の中に影が動くかわからない。緊張感に震えが起こる。

ジャケットのポケットが突然振動しだす。戸崎は過敏に反応するが、振動しているのは私用の携帯電話だとすぐに思い当たる。


戸崎「誰だ、こんなときに……」


戸崎は電源をオフにしようと携帯を取り出す。

画面に表示された通話先を見て、戸崎は電話に出る。


戸崎「戸崎です。いま取り込み中でして、後で……」


麻酔銃を構えた右手がゆっくりと下に下がる。

眼の前にひろがる闇はもう見えていなかった。想像上の敵も頭から消えていた。戸崎の知覚で働いてるのは聴覚だけだった。

戸崎は電話越しに声を聞いた。その声もやがて遠のいていく……


ーー
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888 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:14:49.35 ID:kdA8uLchO

佐藤が社長室に侵入する。すばやいクリアリング。安全を確認すると、佐藤は入口から来客用のスペースへと進む。


佐藤「この部屋……」


佐藤は部屋を一瞥しながら言った。


佐藤「青写真より、すこし狭いよ」


来客用のスペースに視線を向けたときから生まれた違和感を佐藤は口にした。青写真の情報から部屋の面積と立体的な空間イメージを頭の中に描いていたが、実際の社長室と比べると明らかに狭い。

佐藤はいくらか結論を出していた。こういう場合は……

佐藤は壁のモニターへと歩み寄った。


『やあ、佐藤君』


モニターが点灯し、甲斐の顔を映し出した。余裕を隠そうともしない表情。


佐藤「セーフルームだね」


佐藤は納得した表情をして、言った。


『ご足労悪いが、ここで終わりだ』

『破ることはできないよ。このセーフルームがビル内で終わりいちばん頑丈だからね』

『君がこのあと、逃げるか捕まるかは知らないが、私を殺すことはできない』


甲斐の得意げな呼びかけを聞き流しながら、佐藤は何事かを確かめるように壁を拳で叩いた。

佐藤は不意にモニターの正面に戻り、作業用ナイフと拳銃をそれぞれ手に持ちながら、掲げるようにして甲斐に見せた。


佐藤「これしか道具がないから少し時間がかかると思うけど、いいかな?」

『好きにしてくれ。コーヒーでも淹れようか?』


甲斐はブランデーの入ったグラスを持ち上げながら言った。


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889 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:15:37.73 ID:kdA8uLchO


平沢「起きろ、永井」


復活した永井が平沢の呼びかけによって意識をはっきりさせる。

起きながら状況を確認する。平沢以外の黒服は全滅していた。


永井「どれくらい寝てました!?」

平沢「おれも気を失っていたが、数分てところだろう」

永井「佐藤は?」

平沢「我々を無力化してすぐ社長室に向かったようだ」

永井「中野を起こして奴を追いましょう」


平沢が中野のこめかみを撃つ。

三人は拳銃を構えながら、社長室に向かう。


ーー
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890 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:17:27.24 ID:kdA8uLchO

アナスタシアは激しく嘔吐していた。

胃がひくつき、痙攣している。もう吐き出せるものもないのに吐気は治らず、喉に酸っぱい胃液がせり上がってくる。

アナスタシアがふたたび嘔吐する。胃液混じりの唾が唇から垂れる。泣きながら、呻きをあげる。

アナスタシアは佐藤の記憶を見た。IBM同士の頭部の衝突によって流入してきた佐藤の記憶は、フォージ安全に現れる直前のものだった。

木材破砕機で全身が五センチ四方の肉片に刻まれたときの鮮明な記憶。

流入してきた記憶は映像的なものだけではなく、視覚が捉えたカッタードラムの回転のほかに、機械の作動音、ベルトコンベアから伝わる振動といった聴覚と触覚が知覚した感覚も記憶には含まれていた。



痛みも。



足の先からはじまった痛みがどこで終わったのかは定かではないが(心臓のある胸のあたりか? それとも脳は完全に破壊されるまで知覚を保っていたのか?)、ともかく痛覚は数秒のあいだ持続していた。

それは痛みというより一個の肉体の滅亡だった。魂を容れておくための大事なからだが無意味な肉片に変容するまでの数秒間、破滅の体験。

おそろしくて、震えた。永井が“断頭”をおそれる理由をほんとうの意味で理解した。あんな死に方をしてなお、復活した自分が前の自分と同じ自分だと信じる事はとてもできないことだった。
891 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:18:46.96 ID:kdA8uLchO

だが、アナスタシアをほんとうに戦慄させたのは痛覚の追体験ではなかった。

そのときの、“転送”のときの佐藤の感情、それもいっしょに流れ込んできた、特別な感情ではなかった、アナスタシアも抱いたことがある、たとえばライブ前のステージ袖、となりにいる美波といっしょに星のような輝きの前に歩み出し、歌を歌うときの心のはたらきとまったく同じだった。



佐藤はワクワクしていた。



永井が待ち構えているのを楽しみにしていた、人を殺すのを楽しみにしていた、“転送”そのものを楽しみにしていた、“転送”のあいだ、機械が身体を砕いている最中も佐藤はずっとワクワクし続けていた。

恐怖だった。

佐藤が自分と同じ感情を持っていることが。まぎれもなく死んだのに、その感情が存続していることが。その感情の存続によって行われ、これから行われようとしていることが。

アナスタシアは、もはや佐藤を敵だと思うことができなかった。


892 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:20:05.31 ID:kdA8uLchO


アナスタシア (かいぶつ、サトウはかいぶつ、ころせないかいぶつ……)


不死身のコシチェイというスラヴ神話に登場する老いた悪人のことが頭を過る。コシチェイの命、魂は体と分かたれており、卵の中に隠された魂が宿る針(卵それ自体も幾重にも隠されている)を壊さないかぎりコシチェイは死なない。

佐藤もある意味ではコシチェイといえた。だが、佐藤は卵を別の場所に隠したりはしなかった。佐藤の頭は卵で、脳は針。卵と針といっしょに死んだ。なのに、魂も体もいっしょになってよみがえった。

亡霊のような存在が肉体を使って歩きまわっている。自分のことを亡霊だとも思わない亡霊が肉体を使って楽しみながら人間を殺しまわっている。

アナスタシアの心が完全に折れた。友達や黒服たちを殺されたことに対する怒りも、佐藤を止めるという使命感も心の中のどこにも見当たらなかった。

アナスタシアの泣き方が変わった。はじめは身体的な反応に従うように連続的にしゃくりあげる声を出していたが、今では唇から垂れる唾液のように長く尾を引く呻き声になっていた。敗北感に打ちのめされてしまっていた。

しばらくのあいだ、アナスタシアは泣き臥せっていた。挫折と絶望に頭を上から押さえつけられたかのようにジャケットの袖に顔をうずめていたので、涙滴や口から漏れる唾液が染み込んで袖はすっかりベタベタになってしまった。顔に冷たさを感じた。



そのとき、記憶が浮上した。



893 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:21:06.48 ID:kdA8uLchO

停電の暗闇のなかで白いものが混じった頭を見下ろしている光景、視線の高さや位置から主体は男の背後にぴったりくっついていて口を手で押さえている、無線機が二つデスクに置かれている、その無線機はさっきまで持っていたものだ、男に向かって無線機を使えと言う、『じゃあ、お互いがんばろう』と言いながら男の?を爪で引っ掻いく、鋭く黒い爪、指まで黒い、指が六本あることにアナスタシアが気づく……

佐藤の記憶──一体目のIBMを使用したときの。

アナスタシアが顔をあげる、顔はまだ涙で濡れている、すんすんすん、と鼻をすすって涙を止めようとする、効果はなくアナスタシアはジャケットの袖でごしごし擦る、濡れた袖で顔を擦るのは不快でしかない。

アナスタシアが考えていること、──サトウはもうIBMを出せない? そしてわたしはまだ……

しかし、その考えから行動までには発展しない。

佐藤のことがおそろしくてたまらない。精神に入り込まれ、身体が拒否反応を起こしている。

亜人には生と死の境界線はないものと思っていた。だが、あると思い知らされた。そして、佐藤は境界線など気にもとめない。

自分のも他人のも。

894 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:27:26.55 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「ムリ……アーニャには……ムリです、ケイ……」


「誰がビビるかよ」と永井は言った。アナスタシアもその言葉を繰り返した。いまはもうそんな言葉は口にできない。佐藤の中身を知ってしまったいまでは……



……ケイはどうしてあんなことを言えたんだろう、ケイだってサトウの記憶を見たのに、それだけじゃなくて精神状態も……そうだ、ケイもアーニャと同じ、同じだけどアーニャと違ってケイは戦ってる、こわくても戦ってる……
……ミナミがこわがっているなら、わたしはミナミの手を握る、でもケイはそんなことはやってほしいと思ってない、わたしもこわがってるから手を握ってもケイはいやがるだけ、ケイがやってほしいのはわたしがやると言ったことだけ、わたしはケイにサトウと戦うとたしかに言った……



アナスタシアは変装用のウィッグを頭から剥ぎ取り、カラーコンタクトも外した。コンタクトを外したとき、レンズにたまっていた涙が床に溢れた。

袖の濡れていない部分で顔を拭う。ゆっくりと呼吸する。恐怖はまだじっとりと胸の奥にある。

アナスタシアは震える足でよろめきながら立ち上がり、トイレから廊下へ出た。暗闇に包まれた廊下を見て、アナスタシアはトイレのセンサーが作動していなかったことに遅れて気づいた。

スマートフォンを取り出し、廊下を照らす。階段が見える。
895 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:28:23.04 ID:kdA8uLchO

アナスタシアは階段を上り始める。はじめは踏段を照らしながらだったが、歩幅と踏段の高さの感覚を把握したあとはスマートフォンのライトを下に向ける必要もなくなった。

一定の速さで階段を駆け上る。右の足と左の足を一定の高さまで上げ、一定の歩幅で前に出す、体勢を保つ、スピードを保つ、それだけを考える、佐藤のことは考えない、それをするのはケイに会ってから、アナスタシアは自分にそう言い聞かせる。

十一階を通過し、十二階へ。激しく息切れしている。呼吸のリズムを整える、もう一度足をあげる高さと前に出す距離を意識する。

永井にまだ戦えると伝えるためにアナスタシアは十五階へ駆け急ぐ。



後ほど、アナスタシアはこの決断を後悔することになる。



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896 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:29:28.05 ID:kdA8uLchO


『正直、感謝してるんだ、君が来てくれて』


いちど部屋から出て行った佐藤が戻ってきたのをモニターで確認した甲斐が言った。


『いま話題の亜人・佐藤がセキュリティ会社社長の暗殺に失敗……これ以上の宣伝文句があるか?』


佐藤はあいかわらず甲斐の言葉を聞き流している。モニターの前を通り過ぎると、そのすぐ横で立ち止まり、おもむろに左腕をあげた。


甲斐「ところでさっきから何をしているんだ?」


優越感と自尊心に満ちていた甲斐だったが、佐藤が一向に反応を返さないことに不満なのか、多少の機嫌を損ねながら訊いた。


甲斐「いい加減諦めてかえったらどうだ? 飽きてきたよ」


不意に乾いた音がした。甲斐が耳にしたのは外のマイクが拾った音声だった。

甲斐は椅子に坐ったままなんとなくゆっくり動き、背後を振り返った。
897 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:30:34.35 ID:kdA8uLchO

じっと眼を凝らすと、違和感が眼にはいった。セーフルームの入口、スライド式のドアがある場所、肩の高さくらいの位置、セーフルームの内部は別電源による照明によって薄暗く照らされているのだが、そこだけ暗闇の濃度が違った、まるで外との通り道ができてるいるみたいに……

何よりも頑丈なはずの壁に穴が開いていた。そこからリボルバーが現れ、そして腕が伸びる。


甲斐「ちょっと……」


佐藤は声のした方向を撃った。


佐藤「一人目」


佐藤は穴から腕を引き抜き、言った。


佐藤「女性のほうはどこかな?」


部屋から出ていくとき、佐藤はモニターを一瞥すらしなかった。

モニターには頭部を撃ち抜かれた甲斐が眼を見開き、恐怖が張り付いた表情で天井照明を見上げている姿が映し出されていた。


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898 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:31:43.03 ID:kdA8uLchO

復活した下村がはじめに眼にしたのは、自身を見下ろしている戸崎だった。

思わず、「あ……」という声が洩れる。田中との戦闘に敗れたことを嫌でも思い知る。戸崎の表情から感情がまったく読み取れないのは、失望しているからだろうか……、


戸崎「立てるか?」

下村「はい」


敗北感を飲み込みながら、下村は顔を上げた。踊り場にフォージ安全の社員や警備員たちの死体が転がっていることに下村は気づいた。彼らのものと思われるスマートフォンは念入りに破壊されていた。

下村は一瞬、戸崎の仕業かと思ったがすぐに考え直した。戸崎がここにいるということはすでにセキュリティ・サーバー室のシステムは破壊されている。その作業を済ませるまでのあいだ、警備員はともかく社員がここにとどまる理由はなかった。それに携帯電話。それをわざわざ破壊しなければならないと知っていたのは、下村が亜人だと知られたあのとき、あの場所にいた人間だけだ……


戸崎「永井達と合流するぞ」


戸崎の呼びかけに下村は思考を中断した。右手の手錠を外すため左手でつながれた方の腕を掴み、欄干に足裏をつけ思いっきり引っ張る。


899 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:32:26.55 ID:kdA8uLchO

下村「くそっ」


下村ひとりの力では手錠を外すことは叶わなかった。


下村「引き抜くの、手伝ってください」


戸崎は下村に応じて手錠につながれた手と肩を掴んだ。


下村「いきますよ」


下村がグッと力を込める。手錠が食い込み、皮膚が裂けたところから出血する。

戸崎は突然手を離した。


戸崎「鍵を探してくる」

下村「は!?」


戸崎の意味不明な行動に下村が面食らう。

戸崎は困惑する下村に背を向け、階段を下り始めた。


下村「ちょ……戸崎さん!?……戸崎さん!」


下村は追いかけるように腕を伸ばし、下階へむかう戸崎に呼びかけ続けるが、戸崎はまったく意に返さなかった。


ーー
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900 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:33:50.36 ID:kdA8uLchO

李奈緒美はあてもなく廊下を彷徨っていた。

田中の捕獲、佐藤の侵入、甲斐の逃亡、めまぐるしい事態の展開に惑わされ、そして銃撃戦が始まった。

逃げなければいけないとはわかっていたが、どこへ逃げればいいのだろうか、そもそも、逃げていいような人間なのだろうか、殺されてもしかたがない人間だと自分でも思っていたのに……

李の心中は罪悪感と恐怖がないまぜになっていて、歩む方向を定められずにいる。

李はゆっくりと重い足乗りで廊下を進む。

ふと、通路の先に人影を認める、両手を身体の前に掲げるような姿勢、その姿勢には見覚えがある。


田中「ここにいたのか」


警官の制服を着た田中が言った。やはり拳銃を持っている。

李は眼を閉じた。恐くないわけではなかったが、半分くらい彷徨い歩く時間の終わりにどこか安堵しているようだった。フッーとゆっくり息を吐いた。

足音がだんだん近づいてくる。心臓が早鐘を打っている。呼吸は意識して落ち着かせている。

李は動かず、三つに重なるの音にだけ意識を集中する。

田中が李の手首を掴み、言った。


田中「付いて来い、逃がしてやる!」

李「え!?」

田中「おれの後ろにいろ! 離れるなよ!」

901 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:35:16.79 ID:kdA8uLchO

暗闇を切り裂くように一発の銃弾が飛んできた。

田中の肩から血が飛び散り、つながれていた手が離された。


佐藤「あ! 田中君!?」


田中の顔を見た佐藤が驚く。


佐藤「ごめん、警官かと思ったよ」


佐藤は銃口を床に向けながら、田中に近づいてきた。李はおろおろしつつもしゃがみこみ、田中の肩の傷を心配そうにのぞきこんだ。佐藤の拳銃が李の動きをなぞるように動いた。

田中が銃口の動きを見て取る。

側による李の手を取って引っ張り自分の背中に隠すと、田中は中腰の姿勢になった。下村から奪った自動拳銃を手に持ち、銃口を正面に向ける。

銃口同士がまっすぐ見つめ合う。


佐藤「何をしているんだ? 田中君」


佐藤が田中に訊く。フロントサイトと効き目は直線上に結ばれている。


田中「佐藤さん……おれが暗殺リストを作ったことはわかってる……」

佐藤「どくんだ」

田中「だが、この人は違う……」


田中はいったん言葉を切った。肩の痛みは燃えるようだった。出血も激しく、銃を持つ手が安定しない。田中は右手の位置がすこし下がっていることに気づいた。しかし、元の位置に戻すことはしなかった。したくなかった。

田中は真っ直ぐ佐藤を見据えて、言った。


田中「この人を殺すのは、間違ってると思う」


佐藤は無言で田中を見据えている。銃口も視線も微動だにしない。李は怯えて震えている。田中の額を汗がつたい、息をのむ。

数秒間の沈黙……


902 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:35:57.38 ID:kdA8uLchO


佐藤「いいよ!」


佐藤はにっこり笑って田中に従った。


佐藤「じゃあ、作戦終了ってことで。ここで解散!」


佐藤は身を翻し、廊下を引き返していく。田中と李はまだ事態の推移をのみ込めず、佐藤の背中を見送るがままだった。

佐藤が思い出したように立ち止まり、振り返って田中に言った。


佐藤「私はもう少し、永井君にちょっかい出してくるから」


佐藤はそれだけ言い残して闇の奥へ消えて行った。

田中はしばらくのあいだ、佐藤が残した余韻の意図を掴みとろうとするかのようにじっと暗闇に眼を凝らしていた。


ーー
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ーー

903 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:39:44.45 ID:kdA8uLchO

永井たちが社長室に進入する。三人がそれぞれ三方向をクリアリングし、佐藤の姿はないと確認する。

最初に気づいたのは、中野だった。


中野「うそだろ……」


声につられて、永井も中野と同じ方向へ視線を向けた。


中野「殺されてる」


セーフルームの内部を映すモニターには、撃ち抜かれた甲斐の頭部が映っていた。後頭部に射出口が開き、そこから溢れた血と脳漿が椅子の背もたれを汚していた。

永井が死体に視線を向けていたのは一秒にも満たなかった。

モニターのすぐ横の壁に穴があった。その穴を見た瞬間、永井は佐藤が何を行なったのかを悟った。


中野「永井、穴だ。ここから手を入れて撃ったのか?」


中野が壁に近づき、穴に眼を観察した。穴はきれいな円形を成しておらず、下方の弧が上方の孤より大きく膨らむようなかたちになっていて、右方が凹んでいる。

永井は別のところを見ている。床に倒されたキャビネット。黒服たちが銃撃戦に備えて身を隠すために用意したものだった。そのキャビネットの上向いた側面がべっとりと血塗れになっている。永井はそこで何が解体されたのか理解した。


中野「この素材に!?……なに使って開けたんだよ」


壁に手を触れた中野が驚く。素材の頑丈さと、それに佐藤が穴を開けた事実に。直後に中野は、穴の下部分が濡れていることに気づいた。それは血だった。

904 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:40:26.59 ID:kdA8uLchO


永井「だめだ、失敗だ」


中野が血の跡にぞっとする間もなく、永井が呟いた。


中野「まだ戦うんだろ? そのために完全封鎖したんじゃねーのか?」


永井の突然の諦念に戸惑いながら中野が訊いた。


永井「中野……完全封鎖はハナから、賭けなんだ。佐藤が亜人のある性質に気づいていないかもという望みにベットした、勝率の低い賭け……」


今までのように現在進行で推移している事態を中野は理解していなかったが、対応する永井の声音はそれまでと違い、静かで落ち着いていた。その落ち着きは冷静さによるものだったが、それは行き止まりに行き着いたときにみられる類のものだった。


中野「どういうことだ?」

永井「結果だけ見てみろ。この頑丈なドアに、穴を開けたんだぞ?」


永井が視線で穴を見るよううながす。中野はふたたび、壁の頑丈さとそこに穴が開けられたという事実に息を飲み込む。


永井「佐藤を長時間このビルに閉じ込めておくことなんて、不可能ってことだよ」

905 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:41:16.77 ID:kdA8uLchO


『永井君』


佐藤の声が突然降りかかってきた。

その瞬間、永井はドアのほうへ視線をやった。入口から少し離れた位置に平沢が立っていて、ドアに銃口を向けながら敵の進入を警戒している。


『これが聴こえているとしたら、君はまだ十五階にいるってことだね』


佐藤の声はスピーカー越しに聞こえてきた。すこし籠っている。


『私の作戦は終了したわけだが、君の作戦は……これじゃあダメだよ』

『おさらいをしてみよう。おそらく君の作戦は、私がビルに侵入した時点で破綻していたんじゃないか?』

『“断頭”の話をした私自身があの手段で移動してくるとは考えなかった』


十階の放送室から永井に呼びかけていた佐藤は、そこで一旦言葉を切った。そして、偽りのない実感を込めてマイクに向かって声を出した。


佐藤「あさはかだよ」


あからさまな失望が永井の耳に届く。その声音によって、永井は今もなお佐藤から“感情”を向けられていることに気づいた。

永井個人に向けられた佐藤の放送が続けられる。


『きみはいいものを持っている。なのに、いまのままじゃあもったいない』

『だから、こうしよう』



906 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:41:52.85 ID:kdA8uLchO





『きみを一度、“断頭”させてくれ』





907 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:43:01.60 ID:kdA8uLchO


『一回経験すれば踏ん切りがつくんじゃあないかな?』

『“断頭”という枷を越え、もっと自由な発想で戦えるようになるはずだ』


佐藤の声から失望の感情は無くなっている。我ながら良いことを思いついたとでも言いたげな、明るく、期待を滲ませた声で佐藤はしゃべり続ける。



佐藤「きみならできる」



佐藤は握った拳をマイクの前に掲げながら、言った。まるで眼の前に永井がいて、活躍を期待して励ましているかのようだった。


『じゃあ、いまから行くよ』


佐藤の放送が終わった。


中野「永井……」


中野の呼びかけに永井はまったく無反応だった。

永井は茫然とその場に立ち尽くし、理解を拒むかのように顔を歪めていた。全身に嫌な汗をかいていいて、シャツがじっとりと濡れている。


中野「永井!」


中野の大声に永井はやっと反応を示した。忌々しげな表情を見せていたが、それは中野に対するものではなかった。状況、状態、現状、現在……それらの言葉が意味する範囲をまるごと呪ってしまいたいと心底思っている表情をしていた。

平沢が永井に視線を向ける。
908 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:44:01.47 ID:kdA8uLchO

そのとき、社長室に誰が飛び込んできた。

全員の緊張感が瞬時に高まり、平沢は銃口を床に倒れ込んでいる銀髪に向ける。銀髪の人物は激しく息切れし頭を下げているので、銃口に気づいていない。


中野「アーニャちゃん!?」


中野がアナスタシアに気づき、入口にかけて行く。


中野「平沢さん、この子は味方だから」

平沢「協力者か」


平沢が銃口を下げる。


中野「どうしたんだよ、走ってきたのか、アーニャちゃん」

アナスタシア「ケイ……ケイはどこ……?」


アナスタシアはあたりを見回し、立ち尽くしたままでいる永井を見つけた。突然現れたアナスタシアに当惑した視線を返している。アナスタシアは中野に支えられ、なんとか身体を起こし、永井に歩み寄っていった。


アナスタシア「ケイ……」

永井「おまえ……」

アナスタシア「サトウはもう、IBMを、使えない……」


呼吸を落ち着かせることも忘れ、アナスタシアは途切れ途切れに切羽詰まった様子で話した。

もたらされた情報に永井が眼をみはらせる。

909 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:44:58.82 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「パーミチ……記憶を見ました、サトウの、記憶……IBMの頭がぶつかって、それで……」

中野「マジかよ」

アナスタシア「わたしはまだ、あと一回、IBMを出せます」


アナスタシアは永井にすがった。鼻が擦れ合うほどの距離まで近寄って、顔を上げる。顔から噴き出した汗が雫となって伝い落ちていく。アナスタシアの顔を濡らしていたのはほとんど汗だったが、そこには涙も混じっていた。

アナスタシアは永井を見上げながら言った。


アナスタシア「ケイ、おしえてください……アーニャは、どうすれば、サトウとたたかえますか?」


永井はアナスタシアを見ていなかった。その表情には先程から引き続いている苦悩が浮かんでいる。現状を計測しているがゆえの苦悩、実現しうるリスクについての苦悩、具体的な苦悩に永井は唇を噛んだ。


アナスタシア「ケイ?」


アナスタシアの呼びかけに永井は応えない。


平沢「おまえが決めろ、永井」


永井が顔を上げ、平沢を見る。


平沢「おれたちはおまえの命令に従う」


平沢の言葉につられて、永井は視線をアナスタシアと中野に向ける。
ふたりとも、無言の同意を顔に浮かべている。

十秒ほど経過し、永井は決断を下す。


ーー
ーー
ーー


910 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:45:49.57 ID:kdA8uLchO

佐藤は十一階にあるプラントルームへ足を運んだ。

理想的な植生が維持されているプラントルームの植物たちには眼もくれず、佐藤は造園用具の収納スペースのドアを開けた。



うってつけの道具があった。



佐藤「ボーナスステージスタートだ、永井君」


ーー
ーー
ーー

911 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:48:03.61 ID:kdA8uLchO

永井は中野と並んで通路の中央に立っている。二人はシグザウエル P220を握り、階段のある南北にそれぞれ視線を向けながら佐藤を待ち構えている。装弾数はマガジンに九発、薬室に一発の計十発。換えのマガジンは互いに一つずつしか残っておらず、相談の結果、中野のほうは平沢に預けている。麻酔銃に装填する麻酔ダートは二人合わせてもそれより少ない。

伏撃の場所は永井の予想を元に平沢が指定した。さきほどの黒服たちを率いた戦闘と同じロケーションだったが方角は反対の南側で、階段へ続くドアからほど近い場所だった。エレベーターからも遠くなく、サーバー室のシステム破壊による電力ダウンのため、エレベーターの使用自体は不可能だが、亜人にとっては第二の逃走経路になりえた。

平沢とアナスタシアは十字に交わる通路の左右に分かれて、永井と中野の背中を見守っている。



作戦はひどく単純だった。



永井を囮にし、中野と平沢が戦闘をサポートしつつ、隙を見てアナスタシアがIBMを発現、佐藤を拘束し、麻酔銃を撃ち込む。

万が一、佐藤がまだIBMを発現できたときのため、戦闘当初は永井と中野が受け持つことになった。IBMが使用不可だと確認されたとき、永井あるいは平沢の指示に従ってアナスタシアはIBMを発現する。
912 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:49:46.83 ID:kdA8uLchO

即興で立案した作戦を説明する段階で、アナスタシアは佐藤が永井の“断頭”を目論んでいることを初めて知った。“断頭”そのものへの恐怖、仲間が死ぬかもしれないという恐怖にアナスタシアがふたたび見舞われる。


永井「おまえが唆したんだ」


永井が恐怖に揺れるアナスタシアに向かって言う。


永井「“断頭”のリスクなら半分くらいは受け入れてやるから、絶対に佐藤を拘束しろ。それ以外のことは考えるな」


苦渋を耐える表情で、永井はアナスタシアの眼を真っ直ぐ見据えた。その眼に浮かぶ色はアナスタシアのものと同じだった。違うのは意識しているのは、自分の首だという点。

アナスタシアの懸念はもうひとつある。平沢のことだ。プール室での戦闘で死者が出たことにアナスタシアはひどく気を病んでいる。あらゆる瞬間に後悔がある。プール室のドアを開け、年嵩の黒服の頭部が砕かれるのを目撃したその瞬間から……。

佐藤を待ち構えている現在、アナスタシアはたえず平沢を意識していた。平沢が自分をどう思っているのか、未熟者だと見なしているのか、それとも仲間をみすみす死なせた役立たずだと考えているのか。


平沢「集中しろ」


視線と銃口を通路に固定したまま、平沢がアナスタシアに注意した。

息の詰まる思い。
913 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:50:57.34 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「あ、あの……」

平沢「おれたちのことなら気にしなくていい」


平沢がアナスタシアの震える声をを遮った。


平沢「金で雇われてこういうことをしている。非合法に。人を殺したこともある。一般人からしたら、佐藤とそう立場は変わらない」


平沢が視線をちらりとアナスタシアに向ける。


平沢「ロシア人とは何度か組んだことがある。優秀なやつらだ」

アナスタシア「……アーニャは、日本とのハーフです」

平沢「いいとこどりだな」


そう言って平沢は右眼をフロントサイトに合わせ直した。

アナスタシアはしばらくしてから平沢が冗談を言ったことに気づいた。平沢が自分のことをほんとうにいいとこどりだと考えてるとは思えなかったが、少なくとも自虐に意識を乱すことはなくなっていた。

アナスタシアは視線を平沢と同じ方向に向けた。
914 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:52:42.57 ID:kdA8uLchO

最初に影を見たのは中野だった。中野が永井に呼びかける。二人は銃口を影に向ける。

暗闇が下りた廊下をまっすぐこちらに向かってくる。影が近づいてくるにつれ、暗闇に慣れた眼が影の覆いを透かす。


佐藤「永井君! まだ十五階に……」


永井が喜色をたたえる佐藤に向けて発砲する。銃火が互いの輪郭を一瞬だけはっきりと見せる。佐藤は俊敏な猫のように身を低くし、真っ直ぐ向かってくる。

永井の予想通り、佐藤は草刈機を身につけていた。腕を両断できるような大ぶりの刃物を所持していない以上、佐藤は“断頭”にうってつけの道具をビル内で調達する必要がある。くわえて社長室のある十五階からそれほど離れていないことも調達の条件に含まれる。よって佐藤は十一階南のプラントルームから“断頭道具”を拝借するだろうと永井は考えていた。

草刈機の回転鋸が耳をつんざく不快な音を立てて、接近してくる。

永井と中野は音の在りかめがけて発砲を続ける。

佐藤が倒れる──あきらかに罠──永井と中野はあえて接近する。発砲音、銃弾が永井の足首を砕く、中野が反射的に引き金を引く、佐藤の右耳の下半分が千切れるが草刈機で中野の右前腕部の内側を切りつける、佐藤は立ち上がり作業用ナイフを中野の腹部に突き刺す、永井は佐藤が拳銃だけでなく防弾ベストも黒服から奪ったことを見て取る……次の瞬間、永井の右肘と膝に銃弾が撃ち込まれる。

平沢が中野越しに佐藤を狙撃する。中野は後頭部を撃ち抜かれ即死、佐藤に凭れかかってゆく。佐藤は草刈機のシャフトを掴み自分の方へ引き寄せると、自分と中野の隙間に回転鋸を入れた。復活した中野の腹を草刈機が引き裂いた。

腹から溢れる内臓にかからないように中野を蹴り払うと、佐藤は永井に接近する。平沢からの銃撃に見舞われるが、防弾ベストと急所を庇う低い姿勢のためか佐藤の前進はとまらない。

平沢の銃が弾切れになる。

草刈機の回転鋸が永井の首の後ろに当てられる。
915 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:55:53.29 ID:kdA8uLchO


アナスタシア「ケ、ケイが……!」

平沢「まだだ」


弾倉交換を行いながら、平沢がアナスタシアを諌める。

首の後ろの皮膚から血が飛び散った瞬間、永井の背中から飛び出してきた二発の銃弾が佐藤の首と左肩をとらえた。佐藤は壁に背中をぶつけ、そのままずり落ちていく。

永井は痛みを頼りに佐藤の位置を捕捉し、自分の方へ越しの銃撃とリセットを同時に成功させた。

復活した永井は上体を起こし、片膝を立て銃口を佐藤に向ける。シャフトを持った佐藤が草刈機を操り、拳銃を握る永井の手を回転鋸で襲う。シャフトを持つ佐藤の右手首を中野が撃った。中野はもういちど引き金を引こうとするが、そこで命が限界をむかえる。


永井「いまだ!」


永井はアナスタシアに向かって叫び、それから佐藤の両膝に銃弾を撃ち込んだ。拳銃が弾切れを起こす。IBMが接近する足音を耳にしながら永井はすばやく弾倉交換を行い、銃口をふたたび佐藤に向ける。



永井は佐藤の顔を見た。



蜘蛛の濡れた足のようなものがうなじを走り、一瞬、髪の毛が逆立った。



永井は佐藤の“表情”を見た。



初めて見る“表情”だったが、その“表情”のことは話に聞いていた──「彼の“表情を初めて見た」──顔も名前も知らない老人の声が頭の中で響き渡った。

佐藤は永井にむかってにっこり笑いかけた。とてもうれしそうだった。
916 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:56:56.52 ID:kdA8uLchO


佐藤「プレイボール」


佐藤は無事な左手で草刈機のシャフトを掴んだ。永井が佐藤の左手を連射する。左手の動きは銃撃を喰らっても止まらない。拳銃が弾切れになる。永井が銃火で眩んだ眼を凝らし、佐藤を見つめる。

回転鋸が佐藤の喉の半分まで差し込まれている。鋸は骨にあたり、かっかっかっという音を立てている。

永井は復活したばかりの中野に駆け寄り、腕を取って乱暴に身体を起こした。


永井「逃げるぞ!」

中野「はあ!? 待てよ、まだ佐藤を……」

永井「もたもたすんじゃねえ!」


永井は星十字のIBMの腕をまるでアナスタシア本人であるかのように掴むと、十字路のところにいる平沢とアナスタシアに向かって逃げるように叫ぼうと口を開いた。


『は、は、は』


笑い声がした。


『は、は、は』


別のところからまた笑い声がした。


『は、は、は』『は、は、は』
『は、は、は』


今度は三箇所から同時に笑い声。

917 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 22:59:19.99 ID:kdA8uLchO


『は、は、は』『は、は、は』『は、は、は』
『は、は、は』 『は、は、は』『は、は、は』『は、は、は』 『は、は、は』
『は、は、は』 『は、は、は』『は、は、は』
『は、は、は』
『は、は、は』 『は、は、は』『は、は、は』


笑い声は永井たちの周囲から発せられている。

笑い声はどれも同じ声だった。

佐藤と同じ声が囲むように永井たちに浴びせられている。

佐藤のIBMが通路のあちこちに立っている──フラッド現象。


佐藤「永井君」


背後から呼びかけられた。永井は振り返るだけで精一杯だった。胃が凍りつき、喉がひどく渇いている。

佐藤は通路の真ん中にいた。さっきと同じ“表情”をして、恐怖に固まっている永井に笑いかけている。


佐藤「さあ、もうワンラウンドだ」


佐藤は永井にむかって言った。


ーー
ーー
ーー



918 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/05/06(月) 23:14:19.42 ID:kdA8uLchO
今日はここまで。

佐藤のフラッド発現はけっこう最初の段階から考えていて、佐藤がはじめて亜人になったときにフラッドが起きたという二次創作のほうも考えていたんですが、『タクシードライバー』『ローリング・サンダー』『ソルジャー・ボーイ』といったベトナム帰還兵ものを参考にプロットを考えていたら、原作の方で佐藤の過去が描かれちゃったんでやめちゃいました。

時間があれば改めて書くかもしれませんが、とりあえずこのSSでは最初にフラッドを起こしたってことで了承してもらえば幸いです。

あと余談ですが、『亜人』がハリウッドリメイクされたら妄想しているんですが、佐藤はトム・クルーズがいいですね。

トム・クルーズ、アクション面では言うことなしだし、実年齢も劇中の佐藤と同じくらいだし、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でLive Die Repeatする役を演じてるし(これはループものですが)、なにより笑顔がステキだしでマジでハマり役だと思います。
トム・クルーズの「君ならできる」が聴いてみてえ。

ラブライカの二人とも吐かせちゃってごめんなさい。マジでこれは想定外でした。
919 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/05/08(水) 01:16:24.30 ID:fqQjd7qK0
乙おつ
そういえば結構前からやってるんだなこれ
920 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/08(土) 15:00:06.93 ID:LhxyyD+T0
洋画リメイクなら佐藤役はあえての浅野忠信でもいけるんじゃないかと思う
佐藤にもアジア人の血入ってるし、調べて知ったけど本名が佐藤忠信だったし
921 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/08(土) 15:01:26.48 ID:LhxyyD+T0
13巻といい今回の14巻といい対亜人特選群かっこよすぎません?
922 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/07/04(木) 22:11:02.79 ID:ftj14UQ5O
ここのところ忙しく次の更新は今月末くらいになりそうとだけご報告。

本編の更新は次回分で一旦止め、余ったレスはおまけで埋めていこうかと考えています。

次スレは書き溜めがある程度できたら立てるつもりです。


P.S.
亜人最新話、佐藤さんが勝手に閉会式を始めてて笑いました。首相の開会の挨拶は邪魔してたのになあ。はた迷惑な人だわ。
923 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:56:31.30 ID:TPJ777ywO

誰よりも早く動いたのは平沢だった。それは動作を開始した時点という点でも、動作そのものの素早さという点でも、その両方の意味において、永井に微笑みを与えている佐藤や笑い声を廊下中に響き渡らせている平べったい頭の黒い幽霊たちよりも素早く迅速に行動を始め、気づいたときには終わっていた。

平沢は拳銃を麻酔銃に持ち替えると、永井だけしか見ていない佐藤めがけて麻酔ダートを撃った。

麻酔薬の詰まった矢が水平に真っ直ぐ飛ぶ。帽子の男から溢れ出た黒い幽霊たちは矢にまったく無関心で、視線を投げることも見送ることすらしなかった。


佐藤「あ、しまった」


胸に刺さったダートを見下ろしながら、佐藤が言った。


佐藤「油断しちゃった」


まるで全身を支えている骨がとつぜんすべて無くなってしまったかのように両足がくにゃりと曲がり佐藤は崩折れていった。平沢は佐藤が床に倒れるまでの間にナイフを握った左手が右の手首に伸びていく様子を目撃した。そのことに気づいていたのは平沢だけだった。

フラッドによって発生した幽霊たちは倒れる佐藤に眼もくれず、永井の首にじっと視線(もちろん眼球など有していないが、その先細る矢じりのような頭部の先端すべて)を送っていた。幽霊たちの視線はとある実現の可能性が濃厚な予感がを永井に与え、その予感によるひりつく恐怖が首輪のように喉を締め付け、永井をその場に拘束させたかのように動けなくしていた。

そのようなとてつもない恐怖をあたえているIBMたちだったがそれらにぜんぜん悪意はなく、ただたんに自らが発生した原因、存在理由の根本にいっさいの疑義を持つことのないままそれを遂行しようとする。

それら──十二体のIBMたちは永井を断頭するために発生した存在だった。
924 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:58:04.76 ID:TPJ777ywO

永井のすぐ右側にいるIBMが腕を振り上げた。その手と鋭く尖った爪はあまりに黒かったため、明かりのない通路の中でもその動きをはっきりと見てとれた。


中野「永井!」


中野が咄嗟に永井に飛びつく。

突き飛ばされ、永井は床に転がった。ふと首の後ろに痛みをおぼえ、血が背中へと流れていくのを感じる。シャツの襟から肩甲骨のあたりにかけて一筋の赤い染みができていた。

正気に戻った永井が起き上がって走り出そうとする。だが幽霊たちの挙動はあまりに素早く、あっという間に永井たちに追いついた。


平沢「IBMで援護しろ」


すかさず平沢がアナスタシアにむかって叫んだ。アナスタシアはびくりと震えたあと、ぎこちない動作で首を回し、平沢を見た。そこには平沢にとって見慣れた顔があった。戦場で何度も見てきた顔だった。あちこちを飛び交う銃弾、ひゅんひゅん飛んきてで空気を切り裂くそれらのうちの一発がこの世との最後の邂逅になるだろうと悟ったときの顔。アナスタシアの顔はもっと悪い。あちこちにいるのは黒い幽霊たちだったからだ。

平沢はアナスタシアの肩をひっ掴み、鋭い調子で叱咤した。


平沢「助けなければ死ぬぞ」


突き抜ける声の響きによって、アナスタシアが意志を取り戻す。
925 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 19:59:16.36 ID:TPJ777ywO

前を向くと、永井のIBMが集団の先頭に立つフラッドのIBMに向かっていきり立っている様子が眼に入った。永井のIBMが腕を振りかぶり、平らな頭部めかげて軽く開いた右手を打ち下ろそうとする。フラッドのIBMは瞬時に体勢を低くし、眼の前の相手の腰に肩からぶつかっていった。勢いそのまま、左腕で腿を抱えたフラッドのIBMは同時に右手を四十五度の角度で突き上げていた。掌底が頭部に衝突し、永井のIBMはあっけなく敗北した。

永井と中野が背後にかまわず走り続けている。背後から迫ってくる、墓掘人が迫ってくる、追いつかれたら墓を掘られる、墓掘人は手で墓を掘る、土のかわりに肉を掘る、横たわる肉体を墓のように掘る、背中の肉を掻き分ける、背骨を掴む、頭を丸ごと引っこ抜く、追いかけてくるのはそういうやつら、走ってくる、壁を這ってくる、天井をつたって追いかけてくる。やつらの関心はたったひとり。そしてそれは幸運なこと。

黒い星十字が一直線に駆け抜け、笑い声を渦巻かせている群体から飛び出してくる。

アナスタシアのIBMは先頭を走る断頭をしたいだけのIBMを追い抜き、追いつかれそうになっていた永井と中野の背中を掴んだ。一歩踏み込むと同時に腕を引いて二人を引き倒したかと思うと、次の瞬間にはアナスタシアのIBMは二人をぶん投げていた。

宙を舞い、禿頭と銀髪の頭上を永井と中野が飛び越えていく。星十字はそれを見守ることなく瞬時に踵を返すと、先頭を走るフラッドのIBMに意趣返しの右ストレートを突き放った。首のない幽霊と星十字が黒い氾濫に飲み込まれてった。

階段へと続くドアのところまで転がる二人をアナスタシアが追いかける。痛みを堪えうずくまる二人のシャツの襟や腕を掴んで引っ張りながら、アナスタシアは慌ただしく叫んだ。


アナスタシア「立って立って立って!」

永井「うるせぇ……」


身体を起こしながら、永井は小さな声で悪態をついた。

平沢が三人に合流する。手には通路に備え付けてあった消火器を持っている。

消火器を見た途端、永井は平沢の意図に気づいた。

926 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:00:32.28 ID:TPJ777ywO

平沢「IBMをありったけ発現しろ!」

永井「行け行け行け!」


中野とアナスタシアを追いやるように階段へと促し、永井は振り返って平沢の様子を見た。


永井「平沢さん!」


平沢は通路に置いた消火器を後退しながら撃ち抜いた。

白い噴煙が通路のあちこちにふりかかるのと同時に永井はあたう限りの黒い粒子を放出する。噴煙と粒子はそれぞれの層を作り、白黒を完全に色分けされた流動がもうひとつの氾濫となってフラッドのIBMたちに迫っていく。黒い粒子がかたちを作り始める。頭、胴体、手足が形成され、霧の中に潜んでいた怪物が獲物を求めるときのような叫びが消化剤の煙幕から鋭い反響をともなって轟わたる。複数のIBMが噴煙から飛び出し、永井の断頭を目論む集団と衝突する。


平沢「永井、もういい。退け!」


七体目のIBMを発現したところで、平沢が永井に向かって叫んだ。

縺れ合う絶叫と笑い声。黒い幽霊たちが身体を捻じ曲げながら白煙をかき混ぜ、狭い通路で殺し合いを演じている。マニエリスム的な通路の状況に背を向け、永井は階段へと遁走する。


アナスタシア「ケイ、急いで!」

中野「永井、早く!」

永井「先に行ってろ!」


手摺から身を乗り出す二人にいらだちながら永井が叫び返した。

踊り場まで駆け上がり平沢に追いついたとこで、先行していた二人は身体を反転させ階段を上った。
927 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:02:01.26 ID:TPJ777ywO
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928 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:02:49.35 ID:TPJ777ywO

十五階の踊り場のドアが吹っ飛んだ。ひとつに纏まった黒い塊も同時に飛び出してきた。強い圧力によって変形したドアは壁にぶち当たり、うるさく音を立てながら階段を転がり落ちていく。黒い塊の上半分がテープを剥がしたときのように起き上がり、その扁平なかたちの頭部を永井のいる踊り場に向けた。



『は、は、は』


永井を睨めあげながらIBMが笑う。

ずるりと起き上がり、一足飛びで永井のもとまで跳んでいこうとするフラッドのIBM。真横から現れたアナスタシアのIBMが飛びついてそれを食い止める。足が床から離れた瞬間に肩からぶつかり手摺まで追いやる。二体のIBMが手摺の隙間から落下していく。永井は十六階と十七階のあいだの踊り場で平沢たちに追いついた。中野が持っている消火器の暗い赤色が眼に入った。階段を駆け上がる途中、壁を引っ掻く音が下階から聴こえ、思わず顔を左に向けた。何かの残像が一瞬だけ視界を通過したかと思うと、引っ掻き音が右側から近づいてきていた。脳裏に大振りのナイフを振りかぶる佐藤のイメージが蘇り、永井は反射的に右腕を振り上げ、首を守った。次の瞬間、壁から跳躍したIBMが永井の腕と首の皮膚を噛み千切った。

腕を吐き捨てたIBMは筈にした左手を喉に食らわせ、永井を壁に押し付けた。IBMが手に力を込める。首の骨が折れ、脳の重みによって右に傾いた永井の頭にIBMが右腕をのばす。

階段から跳躍した中野がIBMの頭部に身体ごとぶつかった。永井の頭部を掴む寸前に黒い右腕に自分の腕を回し、中野はIBMの身体を支柱のようにして宙で右側へと回った。遠心力によってIBMがすこし右に傾いた。一拍遅れてアナスタシアが階段を駆け下り、腕を開いて肩から膝にタックルする。痛んだのはむしろアナスタシアの肩の方でIBMはビクともしなかったが、さすがに纏わりつく二人をわずらわしく思ったのかIBMは首の折れた永井を投げ捨て、対処することにした。消火器が階段を転がり落ちてきた。
929 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:03:55.69 ID:TPJ777ywO

IBMは左手をピースにし、自身の首と右腕をがっちり固めている中野の両眼を突いた。中野は熱によく似た痛みに叫び、眼を両手で覆った。指の隙間から血が涙のように流れ、溢れ出た。IBMは左膝を両腕で抱きしめ、押し倒そうと踏ん張っているアナスタシアのスラックスから露出した左のアキレス腱に右の拳を打ち下ろした。足関節が丸ごと潰され、血と骨のかけらが床に飛び散った。

復活した永井の耳に中野の絶叫とアナスタシアの悲痛な泣き声が届く。IBMと視線がかち合う。IBMがアナスタシアを跨ぎ越えて、階段のすぐ前にいる永井に近寄ってくる。永井は後ずさろうと身体を起こす。一番下の踏段で転がるのをやめた消火器が右肘がぶつかる。そのとき、右腕がまだ再生していないことにに気づく。永井は咄嗟に消火器を掴み、唯一の策を実行しようとするが操作に手間取って消火器のピンを抜けないでいた。


平沢「永井!」


声に反応した永井が消火器を平沢の方へ投げる。みっともない動作で叩きつけられるように投げられた消火器は弧を描くこともできずに床を転がっていった。

視線を床に戻したとき、黒い幽霊の足がすぐ眼の前にあった。その左足首に白く細い指がからみついていて、後方の闇には血が描いた赤い線が浮かび上がっていた。それはIBMの足首にすがりついていたアナスタシアが引き摺られるがままにされたことによって床に描かれた線だった。砕かれた足関節が床に擦れると、アナスタシアは激痛に苛まれ、みじめに泣き叫んだが手を離すことはしなかった。永井とアナスタシアの視線がかち合った。

IBMはアナスタシアのことなどまったく気にもとめず永井を見下ろしている。IBMは今度こそ断頭を成功させるため、永井の首に手を伸ばした。永井はその手から逃れるように身体を前に出し、IBMに迫った。親指の爪が右耳を裂いたが永井は再生途中の右腕を上げて、偏平な形をした頭部に向けて突き出した。黒い粒子は螺旋を描きながら腕を形成していく。分解作用をもった粒子の運動がIBMの頭部を襲う寸前、平沢が消火器のノズルをIBMへと向ける。消化剤がまっすぐに噴射され、IBMを眩ませる。永井が白い靄が隠しているその箇所めがけて腕を突っ込む。
930 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:05:12.11 ID:TPJ777ywO

永井の視界が突然暗くなる。左側頭部に衝撃が走り意識が一瞬途切れ、続いて圧迫感と痛みに襲われる。IBMの右手が永井の頭部を掴んでいた。IBMが力を込めると、するどく尖った爪が額を突き破り、頭蓋骨に食い込んだ。IBMが左手で永井の喉を掴む。


アナスタシア「ニェーニェー!」


アナスタシアがロシア語で悲鳴をあげる。

中野が悲鳴のした方向に顔を向ける。ちょうど突然視界を奪われたことと痛みによるショックから立ち直り、ポーチの拳銃を手探りで見つけたところだった。


中野「アーニャちゃん、どこ!?」


アナスタシアがはっとする。痛みに叫ぶ永井の声がすぐ上から聞こえてくる。


アナスタシア「まっすぐ、そのまま!」

平沢「体勢を低くしろ!」


平沢の声はどこかくぐもっている感じがした。

言われた通りの位置に向かって、言われた通りの姿勢を保ちながら中野が走った。

喉を掴むIBMの手が永井の頚動脈を突き破った。浮きあげられた永井を見上げるアナスタシアの青い眼に血が降りかかってきた。まさにその瞬間、中野がIBMにぶつかった。膝がくの字に折れ曲り、IBMは倒されるのをふせぐため右脚を前に出した。咄嗟の行動の勢いがあまってIBMの右手が永井の額を引きちぎった。平沢はその瞬間を見逃さなかった。永井の頭部を一発で撃ち抜くと、復活までの時間を稼ぐために消火器を投擲しつづけて撃った。
931 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:06:08.01 ID:TPJ777ywO

IBMと三人の姿が白さに隠される。平沢は深く息を吸い腹筋に力を込めると一気に立ち上がり、煙幕が漂う空間に歩を進めた。

煙の中から何者かの身体が倒れるように躍り出てきた。暗闇のせいでその姿ははっきりせずただの黒い塊に見える。そのシルエットから判断できる唯一のことは首から上がないことだった。平沢が拳銃を構えながら黒い身体ににじり寄る。そして黒さの理由が暗闇のせいではなく、身体そのものにあることに気づく。

平沢は銃口を煙幕の方へ向け、無造作に連射した。それから平沢は煙を手でかき、階段の前に漂う白さを晴らしていった。

三人は折り重なって床に倒れていた。三人とも見事に撃ち抜かれ、それぞれ負傷した箇所もすっかり修復されている。いちばん上にいるのが永井で、アナスタシアがいちばん下で下敷きになっている。


永井「つかれた」


永井がぼそっと、ベットに倒れ込んだときのように呟いた。


アナスタシア「重い……です!」

中野「のけよ、永井!」

永井「腕、まだ治ってないんだけど」


永井はそう言ったがそれはIBM同士の衝突が印象に残っているためだった。自身の右腕が再生していることに気がつくと永井は起き上がった。左手で中野の背を押してグッと身体を起こしたので、いちばん下にいるアナスタシアの背中がつぶされ、カエルみたいなうめき声を出した。
932 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:07:17.36 ID:TPJ777ywO

平沢「五分が過ぎた。おそらくフラッドは収束した」


立ち上がった永井の顔を見つめながら、平沢が言った。


永井「たぶん佐藤は復活してる。グズグズしてられません」


そう言うと永井は視線を中野とアナスタシアに向けた。ちょうど中野がアナスタシアの手を取って身体を起こすのを手伝っているところだった。


永井「もたもたすんな」


永井はさっとを背を向け階段を上っていった。


中野「マジかー……」


疲労感が残っているような声を中野が洩らした。アナスタシアも同調してささやかにうめき声を発した。


ーー
ーー
ーー

933 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:21:53.21 ID:TPJ777ywO

屋上までは問題なくたどり着いた。いつのまにか永井を追い抜いて先頭を走っていた中野がドアを手で押した。


中野「閉まってるぜ!」


中野はずっと握っていた拳銃をドアに向け、二回撃った。銃弾はドアにわずかな凹みをつけ、跳ね返って暗闇を飛んだ。跳弾した弾のうちの一発がアナスタシアにあたった。アナスタシアは踊り場まで転げ落ち、あらぬ方向に四肢を捻じ曲げてしばらくのあいだ死んでいた。永井も中野も理解の追いつかない眼で踊り場の死体を眺めていると、頭がばっと跳ね上がった。

復活したアナスタシアがさすがに憤懣やるかたないといったふうに叫ぶ。


アナスタシア「どうしてですか!?」

永井「おまえ、下で見張ってろ!」

中野「だな!」

永井「早く上がってこい!」


永井がアナスタシアにむかって叫んだ。ドアの前までやってくると、永井が電子ロックの上下十センチ程のところを指し示しながら言った。


永井「ココとココに穴を開ける。設計図で見た限りそれで開くはずだ」

アナスタシア「でも、どうやって?」

永井「僕の両腕を切り落とす」

934 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:22:38.27 ID:TPJ777ywO

アナスタシアは驚愕のあまりわずかなうめき声すら出せなかった。そのせいか背後で平沢がナイフを抜いた際、ナイロン製のケースと擦れる静かな音がいやに耳を衝いた。平沢はドアの前まで来ると永井が指し示した箇所をナイフで引っ掻き、バツを描いて目印を作った。


永井「佐藤がどうやってあの穴を開けたか……」


言いながら、永井は平沢と入れ替わるように階段の方へ戻っていった。数段下りると振り向いてしゃがみこみ、右腕を一番上の踏段に置いた。


永井「まず、奴は自分の腕を切り落とした。手持ちの道具ではそれなりに時間がかかっただろう。次にその腕を復活時、回収できる範囲外に捨てる。過去のデータから見て五〜十メートルで圏外だろう。そして社長室に戻り、自殺。新しい腕が作られる。が、そこで傷口をドアに押し当てた。こうすると腕を作り出さなければならない空間に障害物ができるわけだ。亜人はどんな状況だろうと肉体をフラットに戻す。再生の障害となる物体があれば、それを分解し始める。そうやって穴を開けた」

アナスタシア「物体を、分解……?」

永井「特別なことじゃない。おまえや中野の肉体でも何度も起きてることだ」


印をつけ終わった平沢がアナスタシアにナイフを手渡した。

永井はナイフを見つめるアナスタシアを見上げながら話を続けた。

935 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:23:25.15 ID:TPJ777ywO

永井「撃たれて復活したら体内の弾丸は無くなってるだろ? 同じ理屈だ。それに消すわけじゃない。たとえば肝臓が作り出すアルコール分解酵素。これはけっして体内に入ったアルコールを消すのではなく、アルコールと反応して人体に無害に物質に変化させるだけだ。おそらく似たようなことが起きてるんじゃないか? 亜人は再生の際、障害となる物体を分解するための未知の物質を……作り出してる」


永井の話が終わっても、アナスタシアはナイフを持ったまま棒立ちになっていた。ナイフを持たされた意図を理解しておらず、あきらかに戸惑っている。

しびれを切らした永井が「腕に当てるんだよ」とアナスタシアを叱り飛ばした。

アナスタシアはまだ多少の戸惑いを残したまま、おろおろと膝を折り、ためらいがちにナイフの刃を永井の腕に当てた。


永井「ちゃんと両手で握ってろ」


アナスタシアの様子を見た永井がきつい調子で言葉を発した。


平沢「いくぞ、いいか永井」

永井「よくはないですよ」


永井は忌々しさを表情に表しながら言った。

平沢が足を踏み下ろした。

アナスタシアの両手に衝撃と生々しい切断の感触が伝わった。


ーー
ーー
ーー
936 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:26:36.46 ID:TPJ777ywO

ビルの屋上は風が激しく吹いていた。風は冷たく、皮膚に震えを催させ、吹き上げられた髪が乱れ舞い、風音がうるさく、耳の奥が痛くなるほどだった。新鮮な空気が身体に染み渡るが、あまりに透き通っているからか、呼吸には適さない。鼻の奥がツンと痛くなった。

ごうごうと鼓膜を突き刺してくるかのように吹き荒れる風は、しかし、どこか虚しさと寂しさを感じさせた。風は身体全体にぶつかってきたが、どこか届かないところから鳴っている声みたいに思えてならない。

アナスタシアはふと行き止まりに辿り着いてしまったときのような、物哀しい、感傷的な気持ちに襲われた。家出した子どもが何日も飲み食いせず、腹を空かせたまま、ぼんやりとした記憶を頼りに自由になれる場所を目指し、歩き疲れても足を前に出してようやく辿り着いた場所が、果てしなく広がる海だったときのような……。目指すべきものは自由なのか。自由とは状態であり、地点ではない。求めるべきものは出口であって、出口は自由と異なり固定的な一点に過ぎない。

ビルの屋上は空中に固定されていて、足場を担保する四辺の向こうには無辺の空間が拡がっている。この真っ暗闇が出口なのか、ここから先、重力に従って、望ましい状態はやってくるのか。紫色の雲は空全体を埋め尽くしていて、明るい期待はいっさいなしだと視界の上端に雲を映しているアナスタシアに告げているようだった。

発達した低気圧の洗礼を浴びた中野がぶるっと身を震わせた。 中野は手のひらで腕をこすり、鳥肌のたった肌をすこしでも温めようとした。摩擦で生まれたぬくもりはすぐに冷えた。中野はあたためるのをあきらめ、容赦なく吹こんでくる風に眼をしばたたせながら振り返り平沢を見た。


中野「で、どうするんだ!?」


中野は平沢に訊く。


平沢「逃げるぞ」


まるで曲がり角にきたことを指示するように、平沢はあっさりと言ってのけた。

937 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:27:24.36 ID:TPJ777ywO

中野「え、でもよ……」


激しく吹き荒れるビル風にかき消されるまでもなく、中野の言葉はそこで途切れた。中野はなにかを探すように視線を彷徨わせた。見えたのは不愛想なコンクリートの屋上の床ばかりだった。風に揺れ動くものは何もなく、階段を駆け上がってきたせいで火照って汗をかいた身体ももうすっかり冷え込んでしまっていた。


平沢「中野、作戦は失敗した。戦うにしても一度態勢を立て直す必要がある」


落ち着いた諭すような口振りで平沢は中野を言い含めようとした。それは中野自身うすうす感じていたことだった。永井は屋上に来てから一言もしゃべらない。アナスタシアも不安そうに身を縮こまらせている。強い横風が屋上に吹き付けてきた。平沢も強風に煽られたが翻るのは服だけで、大木のようにどっしり構え風の冷たさにも平気そうに見えた。

息継ぎをするかのように風が一時やんだ。中野が俯いている。空気が沈黙しているあいだに平沢は中野にむかって静かな声で言い聞かせた。


平沢「やつに勝つためだ」

中野「くそ……」


アナスタシアも悔しさに俯いた。敗北したのはもはや確定事項だと理解せざるをえなかった。あれだけの犠牲を払って、なにひとつ状況を良くすることができなかった。眼がじわりと熱くなり、アナスタシアはとっさに顔を空に向けた。厚ぼったい紫色の雲が巨大な塊になって風に流れていっている。星々はまったく見えない。星々は雲の上、空の上、宇宙のなかで、地上の出来事とまったく関わりなく輝いている。そんな予感をおぼえたアナスタシアの心にぽっかりとした無情感が生まれた。美しいもの、平和なもの、輝けるもの、そのようなすべての喜ばしいものは物理的な条件に左右されることなく存在するが、観察は可能でも所有したり属したりすることはできない。虚無的な考えの去来にアナスタシアは打ちのめされた。

永井は風の流動を見えているかのような透明な視線で他の三人を視野に収めていた。中野が屋上の縁に近づき、アナスタシアの身体の重心が中野の移動につられて傾くのが永井には見えた。

938 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:28:34.00 ID:TPJ777ywO

中野「うお!」


下を覗き込んだ中野が叫んだ。後をついてきていたアナスタシアもおそるおそる顔を出す。それまで意識の外にあった地上や周囲のビルの窓から洩れる明かりが色とりどりに輝いているのが眼に入ってきた。地上に埋め込まれた光を見ていると、風のせいではない悪寒が背筋を走り抜けた。


平沢「はやく飛び降りろ」


地上を見下ろし呆然としている二人の背中に平沢が声をかけた。平沢は拳銃を握り、屋上への入口を見張っている。


アナスタシア「ヴイソーキー……」

中野「うん。慣れたと思ったけどこれは高すぎだな……」


アナスタシアのつぶやきに中野が共感を示した。中野は今までの経験から落下中の体感と落ちた後の血の広がりを想像してぞっとした。そしてふと平沢のことに思いあたり、振り返って訊いた。


中野「平沢さんはどうやって逃げるんだ?」


平沢は視線を中野に返してから応えた。


平沢「向こうに窓清掃用のリフトがある。それでだ」


永井はさっきと変わらぬ位置から三人の様子を透明な感情で見ていた。風が息を吹き返したかのように屋上を駆け抜けていった。前髪が一斉に風になびき、視界がいっそう開けた気がする。平沢のジャケットの前の裾が手を使って三角形に折り曲げたかのように持ち上がってその裏地が見えた。ジャケットの裾が元に戻った。永井はようやく気づきかけていたことに気づいた。

ふたたび風が、猛烈な殴りつけるような勢いで吹きつけてきた。中野の身体がぐらっと後方の闇に向かって揺れ、そのまま帰ってこなかった。
939 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:29:26.78 ID:TPJ777ywO

中野「あっ」

アナスタシア「アッ」


あまりにもあっけなく落下していったので、アナスタシアは宙を掻く手を掴むことも思わず悲痛な声で名前も呼ぶこともできず、中野と同じ小声で驚くことくらいしかできなかった。「ああぁ、ぁ」という悲鳴が真っ暗闇から耳に届いたが、すぐにか細くなって消えてしまった。


平沢「まったく、あいつは」


平沢が呆れ声を洩らす。怒っているような感じはまったくない。表情こそ微笑んでいなかったが、声の調子は微笑んでいる。そんな感じのつぶやきだった。


平沢「おまえら、早く行け」


残った二人に向かって平沢が言った。もう声に微笑むようなかすかなやわらかさはなく、命令めいた厳格さがあった。


永井「先に行け、アナスタシア」


永井に話しかけられ、アナスタシアは平沢のほうに向けていた顔を永井に移した。はじめて見る顔だった。何かの予感、不吉で受け入れがたい予感が確信に変わったのに、それを隠しているかのような透き通った何物も見つめていない眼を永井はアナスタシアに向けていた。アナスタシアは永井から見られている気がせず、むしろほんとうに永井のことを見ているのか不確かになる気持ちにさせられた。


永井「僕は平沢さんを、どこで拾うか話してから行く」


永井の声は平沢とはちがい、すこしも急かすような調子は感じられずフラットそのものだった。そのことがアナスタシアの背中を押した。自然とそうすべきだと思えた。永井が平沢と話す時間をつくるべきだといういたわりにも似た感情が起こり、作戦の失敗のために逃げるという事実も一瞬忘れてしまった。

とはいえ、恐怖は感じた。屋上の縁に立ち、前に倒れこむか、それとも足から落ちていくか逡巡したが、意を決して瞼を閉じ、失神することを願いながら川に飛び込むように足から落ちていった。


平沢「おれのことは待たなくていい」


アナスタシアを見送るように下を眺めている永井の背中に向けて、平沢が言った。


永井「平沢さん」


永井は顔を上げ、虚空にひろがる闇から平沢へと視線を戻し、鋭く言った。
940 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:30:23.95 ID:TPJ777ywO

永井「清掃用のリフトなんか無い」


永井は平沢の顔から上着へと視線を下げた。おもむろなゆっくりとした視線の移動は平沢にそのことを告げるためのようだった。永井は上着のある部分を見つめながら、こんどは静かな声で言った。


永井「あと、なんで上着のボタンを留めてるんです?」


二人はわずかなあいだ、共に押し黙った。向き合う二人のあいだを相変わらず風が流れていたが、いまはゆるやかだった。次に出てくる言葉をたがいに承知しているときの沈黙が風に移し込まれているようだった。


平沢「ああ。くらった」


そう言ったとき、ジャケットの裾を伝って血が一滴、滴り落ちた。


永井「あのときですね」


永井はプール室での銃撃を回想しながら言った。


平沢「防弾ベストの隙間からな」


まるで他人事をつぶやくかのように平沢が付け加える。


平沢「当たりどころも悪かった。大勢見てきたからよくわかる」


そう言うと平沢はふっーと静かに息を吐き、永井の顔を見つめた。悟ったような表情をしている。大勢見てきたもののほとんどをその場に残してきたことを平沢は吐息とともに思い起こしていた。


平沢「おれはもう死ぬ」


抜け出していくものを止めようがないことをふたりは知っていたが、実際に言葉となって伝わると心が重くなる感覚が沁み渡っていくのを永井は感じざるをえなかった。


永井「……ですね」


息が詰まりそうな声で永井は平沢に応じた。
941 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:31:52.24 ID:TPJ777ywO


平沢「持っていけ。おれにはもう必要ない」


平沢は沈黙の間を作らないように真鍋から返された拳銃を取り出し、永井に渡した。真鍋の拳銃は黒服や永井たちが統一して使用しているシグザウエル P220ではなくベレッタ M92Fで、銃器に詳しくない永井は見た目ではなく手に持った瞬間に感じた重さで支給された装備とは別の種類の拳銃だと気づいた。重さの違いに気づくと手に持った感触も別のものに感じられた。見た目の違いもあったし永井もそれには気づいたが、やはり重さと感触の違いのほうがはっきりしていてリアリティがあった。そのベレッタにはひとつの物語があった。拳銃には特定の人物の生きられた時間があり、この黒い物質とともにその時間まで移譲されたかのようだった。

永井が手渡されたその時間的な重さにかすかに戸惑っていると(というのも無意識の領域で感じ取っていた時間の重さは永井がこれまで背を向けてきた歴史性に他ならないからだった)、かん、かん、かんという等間隔の歩幅から繰り出される足音が屋上へ続く階段から響いてきた。
佐藤が姿を現した。


佐藤「もう逃げるのかい? 永井君」


佐藤は問いかけを投げたのにもかかわらず永井の返事を聞く事なく草刈機を作動させ、耳障りな高めの回転音を響かせ示威を見せつけるかのようにその場に立っていた。


平沢「逃げろ、永井」


佐藤を見据えながら、平沢が落ち着いた声で永井に語りかけた。


平沢「このビルからだけじゃない。この戦いすべてからだ」


佐藤が身体を前に傾け一気に駆け出した。それでも永井はその場から動かずにいた。その気配を察知した平沢は固定していた視線を永井に向け、あらためて諭すような声で言った。


平沢「おまえが戦わなきゃならない義理はない」


その言葉を受け、まず反応を示したのは眼だった。最初に見開かれて、まるい眼球を覆う粘膜が風に晒された。永井は眼を細めたがそれは風のせいではなく、内側からせり上がってくる痛みにもよく似た熱のせいだった。

永井は平沢と同じ方へ向き直り、決然として言った。
942 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:32:52.55 ID:TPJ777ywO

永井「やだね」


永井は弾薬ポーチから麻酔銃を引き抜いた。


永井「ぜったいに、いやだ」


接近する佐藤に麻酔銃を向けるが、これほどの強風が吹く中でまともに当てるのは難しいとすぐにわかった。麻酔銃そのものが風のせいで激しく振動した。永井は両手に力を入れ、ノズルの先についているフロントサイトに効き眼をあわせ、佐藤を待ち構える。胴体を狙う、もっと近付いてから、胴体を撃つ。早鐘を打つ心臓を落ち着かせる呪文を唱えるように、永井は心中でつぶやいた。


平沢「楽しかったよ」


平沢の声はやけにやさし気で、思い出を慈しむようで、声のする方向から考えても平沢が佐藤ではなく永井を見つめながら言ったのはあきらかで、だから永井は平沢へと視線を向けた。


平沢「息子たちを見てるようで」


永井を見つめるふたつの眼があった。ひとつは眼鏡越しに見える平沢の瞳、もうひとつは黒くてちいさな銃口。永井の眼はその黒い穴に注がれた……一瞬だったが、長い時間のように感じられた……ともかく、その瞬間はやってきた。


平沢が引き金を引いた。


943 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:33:47.05 ID:TPJ777ywO


佐藤「あ!」


ぱん、と乾いた音がした。永井の頭が思いっきり仰け反り、身体が暗闇に落下していった。永井が握っていた麻酔銃が風に吹かれ、はらはらと布切れのように遠くに流されていく。

佐藤はバスに乗り過ごしたみたいにそれらを見送った。


佐藤「どうしよう……飛び降りて追いかけようかな」


佐藤は動力を切った草刈機を所在なさげに肩からぶら下げていた。真剣味のかける声で佐藤が悩んでいる横で平沢が弾切れになった拳銃を捨て、留めていたジャケットのボタンに手をかけた。


佐藤「いや、やめとこう。これが壊れちゃうだろうし。それに……」


佐藤はストラップを肩から外し、草刈機を無造作に屋上に放った。がたっという鈍い音が響き、同時に平沢が脱ぎ捨てたジャケットが風に舞って飛んでいく。

平沢が拳闘の構えを見せる。白いTシャツは腹部が血に染まっていて、出血部である右脇腹には四つ折りにされたタオルが当てられ、ガムテープで固定されている。ショルダーホルスターには永井の腕を切り落とすのに使ったナイフがまだ残っている。


佐藤「いいよ、やろうか」


平沢に同調した佐藤が同様の構えを取る。
勝負の終わりがどうなるかは互いに承知していた。


ーー
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944 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:36:59.20 ID:TPJ777ywO

永井「クソッ、クソッ……」


永井はビルの窓の出っ張りにたった三本の指を引っ掛けて奇跡的にしがみついていた。指に力を込めると爪が出っ張りの部分を引っ掻き、食い込で痛んだ。永井の筋力で片腕で自身の体重を持ち上げることはかなわず、爪が剥がされるときのような痛みの数歩手前の予感を指先から感じながら、一分もしないうちに落下するであろうこの状況を呪うことしかできないでいた。


永井「クソッ!!」


自棄になった永井がIBMを放出する。頭部と右腕がまず形成され、舞い上がる粒子が上半身と下肢を連結させているあいだ、永井のIBMははじめに作られた右腕で横の出っ張りを掴み、頭を少し突き出した格好で永井を見下ろしていた。

全身が出来上がってもIBMは同じ姿勢を取り続けて動こうとはしなかった。きわめて乱暴な自我を持ち凶暴な振る舞いしかしてこなかった永井のIBMがこのときばかりは、その場に永井しかいないためか命令を待ち受ける飼い犬のようにおとなしくしていた。

永井はIBMを見上げた。息切れが激しい。苛立ちが募り、誰かを憎んだときのようなうめき声が喉からこぼれた。


永井「役立たずが」

IBM(永井) 『?』


永井から敵意に等しい罵倒を浴びせられてもIBMは意味を理解できず、小首を傾げる仕草を見せるだけだった。突然、それまでより一層強い横風がビル街を吹き抜け、か細い指先で体重を支えていた永井のを吹き飛ばし、暗闇にさらっていった。

永井を見送ったあともIBMはその場にとどまり、首をめぐらしあたりを見回した。真上を向き、しばらくのあいだ空を見上げていた。IBMはふいにかつて永井が中野にため息混じりにこぼした言葉を意味ありげにつぶやいた。
945 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:39:06.68 ID:TPJ777ywO


BM(永井) 『……先……行ってて』


言い終わった途端、IBMは驚くべき軽やかさでビルの壁面を昇っていった。その軽やかさは猿の木登りよりも鳥の飛翔のほうに近い運動を示していた。軽業めいた動作で一分もしないうちに天辺まで上り詰めたIBMが最後に片腕の力だけで持ち上げた身体を屋上に着地させ顔を上げると、鼻血を出し瞼を切った佐藤が息を切らした様子で夜気を肺いっぱい吸い込んでいる姿とその足元に倒れ伏してピクリともしない平沢を見てとった。タオルを当て止血を施していた腹部の傷からあらたに出血し、佐藤の靴先を黒く濡らしていた。


佐藤「いやぁ……タフな人だったよ!」


IBMの姿を認めた佐藤がまだ抜けきらない興奮に染まった声で語りかけてきた。

IBMは突発的に『あ、あ、あ』、と音節を区切った絶叫を発しながら、佐藤に向かって飛び出していった。


佐藤「はは!」


同じタイミングで佐藤も真正面に駆け出した。ビルの東側から走ってくるIBMと直角をなすように、屋上の南側に向かって佐藤はスリルを味わいながら疾走していく。


佐藤「断頭はできなかったけど期待しているよ!」


佐藤が叫ぶ。IBMはコースを斜めに修正して佐藤に接近していく。

追い風が吹いて佐藤の背中を押した。目下に街の灯りが風景として拡がって見えた。
946 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:40:24.10 ID:TPJ777ywO


佐藤「最終ウェーブでまた会おう、永井君」


佐藤は屋上から跳びだし、その身を暗闇へと投げ出した。そのすぐ背後でIBMの腕がむなしく振り抜けいていった。は、は、は、と佐藤の笑い声が切れ切れに聞こえ、やがて消えていった。

ひとり取り残されたIBMは意味もなく佐藤が飛び降りたところを眺めていたが、ふとした拍子に振り向き平沢を見やった。もうしばらく前からそうだったしわかっていたことなのだが、平沢は死体になっていた。


死とは、おまえが世界にされるがままの存在になること。


フランツ・カフカ式の文章がはたして自我を持っているとはいえIBMの思考から生じたかどうかは不明だが、死体となった平沢の肉体は世界に起きるあらゆる現象や法則に無防備に支配される状態になっており、すくなくともそのことはIBMも理解していたようだった。

いつのまにか視点がクレーンを用いたカメラのごとく上昇し、ビルの屋上の周囲が開け、明かりの灯る街を一望できるほど高くなっていた。平沢の姿は小さな点になったかと思うと、すぐに見えなくなってしまった。

頭部の崩壊がはじまり、上昇する黒い粒子のひと粒ひと粒が視覚を獲得したかのような風景の拡がりは実際にIBMが知覚するところのものだったのか、リンクのない永井には不明だし、IBMはすでに消え去ってしまっていた。

風がごうと唸って乱れ行く。最後の粒子の漂いが空気の流動によってさらわれてゆく。

ビルの屋上で動くものはもう誰もいなかった。


ーー
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947 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:42:36.03 ID:TPJ777ywO

潰れる音と砕ける音が混ぜ合わさった人間が本能的に忌避する不快な落下音が背後から響き、落下物の周囲にいる記者やカメラマンたちの背筋に蜘蛛が駆け抜けていくような寒気が走った。

落下音は周囲の人間の心象に赤い血が広がる様子を喚起させ、事実近くにいた人間の靴やズボンの裾には飛び散った血が付着しており、そこからカメラや視線を上げると大きな血だまりの中に落下の衝撃によって、砕けて折れて潰れて捻れた人体があった。

何人かは眼を背けたが、カメラマンのうちの半数はカメラを向けたままでいた。シャッター音が鳴り渡り、もっと近くで撮影するため前方の人を押しのけようと怒声があがった。

一眼レフを持った若い男が血だまりに気をつけながら死体に近寄り膝をついて構図の中心に収める。

そのとき、永井が息を吹き返す。

記者たちはまずはじめに眼の前で死んだ人間が生き返ったこと自体に驚きの声をあげ、復活したのが永井圭だとわかると緊張感を宿した警戒の声を発した。永井のことを佐藤の仲間だと思い込んでいる記者とカメラマンたちは永井から数歩退いたが、撮影や中継は続行されたままだった。

永井はすぐに現状を把握しようと顔を上げた。フォージ安全ビルが聳え立つ姿が眼に入った。距離感からしてかなり離れた位置にある。車の走行音が後方から聞こえ振り向くと、すぐ背後は車道だった。


「下がって!」「道をあけて!」


ビルの前で警備していた警官が騒ぎを聞きつけ、永井に迫っていた

永井は亜人の声を使おうと息を吸い込む。警官は耳栓を装備しているだろうが、道を塞ぐ記者たちの動きを止めれば足止めになるはず。

最も効果的なタイミングを見計らって、亜人の声を発しようとしたそのとき、一台の中継車が猛スピードで突っ込んできて永井のすぐ背後で急停車した。
948 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:43:38.54 ID:TPJ777ywO

中野「乗れ! 永井」


助手席側のドアを開けた中野が運転席から叫ぶ。

永井はすぐさま車に乗り込み、乱暴にドアを閉めた。

前部座席と中継用の設備が備えられたスイッチャーと仕切るカーテンが慌てた様子で開けられ、そこからアナスタシアが顔を出した。


アナスタシア「ケイ! 無事ですか!?」

永井「まだ引っ込んでろ!」


永井ら大声で心配するアナスタシアの額を手で押してスイッチャーへと押し戻す。短い悲鳴と機材にぶつかる音を無視しながら、永井は中野に向かって叫んだ。


永井「出せ!」


永井のどなり声に弾かれたように中継車はその場から猛スピードで発進した。車道を走る車の数は少なく、眼の前の交差点の信号が青だったため、中継車はあっという間にビルから離れていった。

呼吸が落ち着いていく。街灯やビルの明かりが尾を引きながら後方へ消えてゆくのを見えた。永井はぼやき声で文句を言った。


永井「なんでこんな目立つ車……」

中野「カギがついてたんだよ!」

永井「マスコミのおかげで警察がゴタついてる。今のうちに距離をとってどこかで乗り捨てるぞ」

中野「平沢さんはどうやって拾う!?」


百キロ以上ものスピードで運転している中野は事故を起こさないように神経を張り詰めさせながら、永井に大声で訊いた。そのときアナスタシアがふたたびカーテンを開けた。永井の後頭部が見えた。永井は窓ガラスに頭を預け、サイドミラーでパトカーが追跡していないかを確認していた。文句を言おうとアナスタシアが口を開いた。
949 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:44:41.06 ID:TPJ777ywO


永井「死んだよ」


アナスタシアが言葉を発するよりも先に永井が言った。


永井「平沢さんは、死んだ」


永井はフラットな調子で言った。感情を交えない言葉だっただけに中野もアナスタシアも意味を了解するのにしばらく時間を要した。

中野が突然大声で「クソッ!」と叫んだ。堪えきれなかった感情が爆発したかのようだった。眼に涙が浮かんでいた。中野は乱暴に眼元を擦って涙を拭うと、運転に集中するため真っ直ぐ前を見据えた。

一方、アナスタシアはへたり込み、茫然自失の状態に陥っていた。アナスタシアの性格を考えればそれほど見知ってもいない相手の死に悲しみを覚えるのも納得のいく話だが、しかしこれほどのショックを受けるとはアナスタシア自身にとっても意外だった。

平沢の死を告げられた瞬間の頭が真っ白になる感覚には既視感があり、それは夏休み明けの学校に登校したとき友達の死を告げられた瞬間にもたらされた感覚と同一のものだった。なぜそこまでの内心の衝撃をアナスタシアは受けたのだろうか? いくらつい先ほどまで行動を共にした人物とはいえ、知り合い、言葉もほんの二言三言ほどしか交わさなかったのに、友人の死にに匹敵するまでのショックを受けるものなのだろうか?

車が大きく右に振れ、アナスタシアの身体も右側へ傾いた。立ち並べられた中継用の機材に手をつき身体を支えたとき、アナスタシアは平沢の死はある種の決定打だということに気づいた。

アナスタシアが目撃した黒服たちの死。三人が死に、うち二人の死ぬ瞬間を目撃した。彼らの死を悲しむ時間もなく、戦いに身を投じ、そしていま為すすべもなく逃げ回っている。平沢の死を告げれたとき、アナスタシアがそれまで眼をそらし続けてきた感情が一気に噴出した。アナスタシアを激しく揺さぶった衝撃の正体、それは生き残ったことに対する罪悪感だった。
950 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:45:33.90 ID:TPJ777ywO


アナスタシア「いのちを、かけてた」


アナスタシアは自失の状態からなおも抜け出せないまま、ぼそりとつぶやいていた。


アナスタシア「いのちをかけて、たたかってた」


自分はそうではなかったとそう言いたげな口調でアナスタシアは言った。言い終わった瞬間、アナスタシアの瞳から涙が止めようもなく溢れ出た。


ーーなぜ、亜人であることを明かさなかったんだろうーー


アナスタシアの内心を占める罪悪感の主な要因はこの一言に集約できた。永井や中野のようにはじめから作戦に参加していれば、IBMをもっとはやく送り込むことができたかもしれない。そうなっていれば誰も死ななかったかもしれない……

咽び泣くアナスタシアの嗚咽の声を聞きながら、中野を唇を血が滲むほど強く噛んだ。ハンドルを握る手にも力が入り、指先が真っ赤になっていた。

永井はあいかわらず窓に額を預けていた。景色を眺めていると、飛び行く街灯の白い光が規則的に永井の顔を照らした。そのたびに暗く沈んだ瞳に光が写り込んだが、光ったのはあくまで反射した街灯の光だけだった。

永井は感情のない瞳を車が走行しているあいだ、ずっと外に向け続けていた。


ーー
ーー
ーー

951 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:46:29.74 ID:TPJ777ywO

夜が白みはじめた。

中継車はオフィス街を抜け住宅が立ち並ぶ一帯へと進み、河川敷のほうへ移動した。中野は中継車を橋の下に停車させた。橋は低く、中継車の車高から一メートルも離れていなかった。あたりには人影は見えなかったが、早朝のランニングを習慣にしている付近の住人がそろそろ現れてもおかしくなかった。

中野は助手席から下りてきた永井にむかって言った。


中野「永井、どうやって隠れ家へ帰る?」


永井は中野に応えず、スイッチャーの置いてある後部のドアを開けた。

泣き腫らしたアナスタシアが怯えたように瞳を揺らし永井に眼を向けた。永井の眼にはあいかわらず感情が見えず、アナスタシアを眺めるその表情はまるで壁でも見てるかのようになにもなかった。

永井は取り出したスマートフォンをアナスタシアの眼前に放り投げた。


永井「おまえが復活してる様子を撮影した動画が保存されてる。端末ごと処分しろ」


永井は平沢の死を告げたときと同じ声の調子でアナスタシアに語りかけた。

アナスタシアは思わず身を乗り出した。しかし口を開いてもちゃんとした言葉を作れないで、ただ口をパクパクと動かすことしかできなかった。


永井「これでもう戦う理由はないだろ」


最後通牒を告げた永井はそそくさとアナスタシアの視界から立ち去った。

952 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:52:35.64 ID:TPJ777ywO


アナスタシア「ニェット……! ちがいます、アーニャは……」


弱々しい言葉を呟きながらアナスタシアが永井を追いすがった。足取りは心もとなかった。曇天模様の空はいまにも雨が降り出しそうで強い風も吹いていた。ふらふら歩くアナスタシアに強い横風が吹き付けてきた。バランスを崩したアナスタシアが草の生い茂る河川敷に倒れこんだ。中野があわててアナスタシアのもとに駆け寄り、こけた拍子に手から零れ落ちたスマートフォンをアナスタシアへと返した。

中野は無力感に苛まれているアナスタシアを複雑な表情で見ていた。いまでも女の子であるアナスタシアが戦うことに内心反対だった。フォージ安全ビルでの要撃作戦においてのアナスタシアの役割はIBMを用いた後方支援だったから、中野も渋々納得したに過ぎなかった。一方で中野もアナスタシアに自分と同じように佐藤と戦う理由があることを理解していた。中野はそういった感情を無碍にできる人間ではなかった。しかし現状を冷静に鑑みると、このままアナスタシアが戦闘に参加し続けるのは賛成できかねた。黒服たちが死んでしまった以上、次の戦闘はアナスタシアも前線に立たざるを得ないだろうし、アナスタシア自身も立ちたがるだろう。

中野は顔を上げて永井を見やった。永井はアナスタシアとは完全に手を切り、もはや他人同士だといわんばかりに歩き続けていた。
953 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:53:41.65 ID:TPJ777ywO


中野「どこ行く?」

永井「おまえはまだマークされてない。ふつうに帰れるだろ」

中野「おまえは変装でもするのか?」


中野は立ち上がるかちょっと迷ったが、永井が後ろを少しも気にしないで歩き続けているので結局は立ち上がりあとを追った。

中野の気配を察知した永井が振り向いて言った。


永井「僕は、やめる」


永井の言葉はアナスタシアにも聞こえた。それがどういう意味の言葉かすぐにはわからず、アナスタシアは眼を赤くしたまま虚をつかれたようにきょとんとした。

曇天から雨が一滴落ちてきた。途端に雨は激しさを増し、周囲の光量もひときわ暗くなった。


中野「は……あ!?」


驚きに不意をつかれた中野がやっと口を開いたとき、永井はまた歩き出していた。


中野「待てよ、どういうことだよ!?」

永井「目標を下方修正する」


慌てて駆け寄ってくる中野に対して、永井はあくまで平静だった。


永井「おまえらが来てから僕は、ふつうの生活水準を取り戻すために戦ってきたが、佐藤は止められなかった。だから、もう文化的な暮らしはあきらめる! 山奥や大海原とか、社会も佐藤も関係のないところで生きていく。海がいいかな……いつか海外に流れ着くかも」

中野「佐藤を止めなきゃやべぇんじゃねぇのか?」

永井「だろうな」


永井はそっけなく応えた。

954 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:54:37.24 ID:TPJ777ywO


永井「佐藤ひとりが暴れてるだけなのに、マスコミは亜人ってカテゴリーで叩きつづけ、どんどん住みづらくなる。だから離れるって言ってんだ……」

中野「逃げるのかよ!?」


中野が永井の肩に掴みかかった。中野の眉根は険しく、激昂寸前のように見えた。


永井「逃げてなにが悪い!」


肩を掴む手を乱暴に払いのけ、永井が叫び返した。突然の大声の応酬によろよろと二人を追いかけてきたアナスタシアが怯えたように肩を震わせ、思わず息を止めた。

永井は中野を睨みつけながら、なかば感情にまかせて怒鳴りつけ、畳みかけた。


永井「そもそも国が悪いんだろ! 規格外の暴力に対応できないんだからなあ!」

永井「やれ法律や倫理だって、戦わないことを美徳にしようとしやがる。かといって、平和的に解決するスキルもないくせになあ!」

中野「大勢死ぬんだぞ!」

永井「だから人なんざいつだって理不尽に殺されてるって言ってんだろ!」

永井「急に眼の前で起こったからってとってつけたようにヒーローぶってんじゃあねぇ!」

永井「僕は佐藤が何万に殺そうが自分のほうが大切だね!」


中野が永井を殴った。中野の右拳は顎関節のあたりをとらえ、永井の身体を大きく倒した。

思いもよらなかった中野の暴力にアナスタシアはすっかり竦み上がってしまった。激昂している中野はそのことに気づかず、永井に詰め寄りさらに怒りをぶつけようと口を開いた。
955 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:56:03.42 ID:TPJ777ywO


中野「人の命を……」

永井「命!?」


永井が中野の向う脛を力任せに蹴りつけた。歩み寄ってくるタイミングでの蹴りで中野はバランスを崩し、そのうえたっぷりと雨に濡れた草地を踏んでいたせいで中野はひっくり返ってしまった。

アナスタシアが正気に帰り、ふたりの間に分け入ろうと駆け寄った。

永井はこのうえなく苛立ちながら立ち上がり、見下ろす中野に怒声をぶつけた。


永井「命の価値なんざTPOで変わるもんだ!」


激昂しながら永井はさらに言葉を続けた。


永井「家族が死にそうなら助けるだろうが、どっかの国で百万人が死んだって、せいぜいニュースで見て感傷に浸るくらいなもんだろ!」

中野「御託ばっかり……」

永井「どっちがだよ!」


永井が中野の胸ぐらを乱暴に掴み馬乗りのように上に被さった。

そのときアナスタシアが永井の腕を掴み、二人の顔を交互に見やってから言った。
956 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:57:37.11 ID:TPJ777ywO

アナスタシア「ケイ、もうやめてください! コウも殴ったりするのは……」

永井「フォージ安全の社長が死んだとき、たいして騒がなかったよな」


アナスタシアの予想に反して永井は中野を殴りつけたり罵倒を重ねたりはしなかった。自分の声が相手の心内に確実に作用させるため、永井は低く沈鬱な感じのする調子で喋り出した。


永井「平沢さんが死んだとき聞いたときはあれだけ感情的になってたのになあ!」


まるでそのときの中野の感情を再現するかのように永井は声を荒げて言った。


永井「すべての人間が無意識に他人の命の重さを秤にかけてる……おまえもだ」


いちど言葉を切ったとき、永井は視界にアナスタシアが映っていることを認めた。その表情は計り知れない痛みのような感情に歪んでいた。いままでは天秤の大きく傾いたほうにばかり心を占められ、その傾き、つまりは感情の流れにのって行動を起こしたし堪えきれず内心を現したりもしてきたアナスタシアは、この永井の指摘によって眼が開かれたかのように傾かなかった上皿のことを鋭敏に意識した。しかし、意識できたのは上皿だけだった。そこにのっているはずの命の重さを計るのは当然誰にだってできないことだった。


永井「それを意識的にやってるだけで僕を批判するじゃねえ!」


永井は中野の胸ぐらから手を離し、言葉を失っているアナスタシアにも背を向けその場から立ち去ろうとまた歩き出した。

雨は激しさを増す一方だった。水分を含んで垂れ落ちてきた前髪がアナスタシアの視界を遮った。額に張り付いた銀色の髪をかきあげもせずアナスタシアは永井の背中をただ見送った。追いかけようにも何を言ったらいいのか全然わからなかった。雨は顔を強く打ち、流れ落ちていった。雨滴をやたらと温く感じた。

957 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:58:36.48 ID:TPJ777ywO


中野「そう、なのかもしれない……」


静かなためらいがちな声で中野は自分自身に吐露するようにつぶやいた。


中野「命がどうのって、言えた口じゃないのかも……」

中野「でも……なんて言ったらいいのかわからないけど……佐藤を止めたいんだよ」


中野はふと口をつぐんだ。アナスタシアは困惑しながら、永井は立ち止まって聴き耳を立てている。数秒が過ぎた。雨の音がおおきい。風も強く吹いている。


中野「電球を替えようとしたんだ」


中野はさっきよりもはっきりした声で話を再開した。


中野「雑誌とか新聞を積んで……踏み台にして……」

中野「で、バランスを崩して、頭から落ちた」

中野「そしたら、からだが動かなかったんだ」

中野「声も出なくて、だれにも見つからなくて、何日もそのままだった……生き返るまで」

中野「たぶん、そのとき初めて死んだんだ」


それまで中野は声の大きさにふさわしく淡々と冷静な調子で話していたが、ふいに息継ぎするかのように一瞬だけ言葉を切ると、今度は最初はまだ大声でこそないが底から湧き上がってくる怒りにまかせてだんだんと声を荒げていった。

958 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 20:59:19.11 ID:TPJ777ywO


中野「おれの親父もお袋もろくでもねえ奴らだった。平気で家を空けて遊び歩いてやがる」

中野「動けなくなったとき、何度も思った。おれはいらない人間なのかって……でも、おれを拾ってくれて、仕事を与えてくれて、使ってくれる人たちがいた! だからおれを頼ってくれる人がいたならおれは絶対に応える! ずっとそうしてきたんだ!」


しゃべっているうちに中野は眼が熱くなっていくのを感じていた。熱さは雫になって眼から溢れ落ちそうになっていた。


中野「だけど……ひとりじゃないもできない。バカだから……」


さっきまでの激情はもはやなかった。沈鬱した感情に声を詰まらせながら中野は永井に言った。


中野「おまえがコンテナのドアを開けたとき、ほんとうに安心したんだぜ? ……おまえのおかけで、ここまでやれたんだ」

中野「身勝手なお願いなのはわかってるよ……でも」


中野の声が震えた。痛めつけるように強い力を込めて拳を握り、中野は涙を流して言った。


中野「もうすこしだけ手伝ってくれよ……永井」


中野が必死になって訴えかける様子を永井は首だけ振り向いた格好でだがしっかりと見ていた。眼から溢れる涙も、震えがおさまらない唇も、締め付けるように閉じられた手も永井は見ていた。

959 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:00:19.66 ID:TPJ777ywO


永井「知るかよ」


永井はそれだけ言い捨てると、その場から立ち去るようにまた歩き出した。


中野「平沢さんも……真鍋さんたちも、みんな……殺されちまった……」


中野は悔しさに涙しながら、途切れ途切れに声を震わせた。


中野「悔しくねえのかよ」


鼻を啜るような声だった。


永井「うるさい」


その一言を言うために永井が一瞬立ち止まったのをアナスタシアは目撃した。耳に届いた声は微かに震えていたと思ったが、激しい雨音に邪魔されたせいかもしれなかった、仮に震えていたとしてアナスタシアには永井を説得する方法などまるでなかった。

結局、アナスタシアは永井の後ろ姿が雨に烟り、完全に見えなくなるまでその場に立ち尽くしているしかなかった。

アナスタシアは中野がさっきから押し黙ったままでいることに気づいた。中野の告白はアナスタシアに高架下の車中で交わした会話を思い出した。修学旅行もクリスマスも正月も、中野は無縁だったと言った。それを聞いた自分の質問があまりにも不用意だったことも思い出したアナスタシアは血の気が引く思いだった。

中野のほうを見るのは怖かった。アナスタシアは祈りを捧げるようにギュッと目を閉じ、意を決し顔を上げた。中野が振り返ってアナスタシアを見ていた。中野の顔は、悲しみを堪えていることがわかるような笑顔だった。
960 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:01:18.01 ID:TPJ777ywO


中野「アーニャちゃんは帰った方がいいよ」


おもむろに中野が口を開いた。


アナスタシア「え……」

中野「やっぱり、女の子が危ないことをするのはダメだって」

アナスタシア「コウ、なんで……」

中野「泉さんや戸崎さんが無事ならまだやれるから」

アナスタシア「アーニャだって亜人です!」


中野はアナスタシアを見つめた。


中野「お父さんやお母さんが心配するって」


そのことはまるで考えていなかった。


中野「アーニャちゃんを大切に思ってる人はたくさんいるんだからさ。学校の友達とかさ、あのプロデューサーの人とか……あ、永井の姉ちゃんとも仲良いんだろ? 」


中野はそこでアナスタシアがアイドルだということを思い出したかのように短く笑った。


中野「すげえよな、アイドルって。やっぱアーニャちゃんはアイドルやってたほうがいいって」


中野は自分の言ったことにうなずき、それからアナスタシアを見て言った。
961 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:02:11.41 ID:TPJ777ywO


中野「がんばってよ。新曲でたら買うからさ」


どこか謝りたいと思っているような笑顔だった。アナスタシアからの反応を待たずに中野はあっというまに土手を駆け上がり去っていった。中野の姿が見えなくなると、アナスタシアはその場にへたり込み、心も身体も動けなくなった。

中野の言葉を受けたアナスタシアの内面の感情は「悲しい」や「悔しい」といった言葉で指示できる状態にはなかった。永井や中野の言葉が、佐藤と戦うという意志といままでの人生の記憶、思い出、友情や愛情といったものとの葛藤を引き起こさせていた。記憶から引き出せば心を温めてくれるもの、そういったものを守るための戦いだとアナスタシアは思っていた。だが先ほどの言い争いのなかで明らかになったのは、"そういったもの"を犠牲にしなければならない戦いだった、というより"そういったもの"を犠牲にしなければ参加すること自体が不可能な戦いだったということだった。

永井も中野もそれらを遠くに置いたうえで、佐藤と戦った。自分だけはそうではなかった。

上空に吹き荒れる風が雨雲を運んでいったのか、いつのまにか雨は止んでいた。風がその激しさにふさわしくアナスタシアの肌を荒々しく叩いた。陽の光が差し込み、河川敷を照らし出した。河川のゆらめきや水を吸った草が輝いていた。空は濃紺で、澄んでいた。

このような風景の中で、アナスタシアはようやく敗北したという事実を思い知った。


ーー
ーー
ーー
962 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:05:26.67 ID:TPJ777ywO


法務教官に案内された面会室はドラマや映画によくあるようなアクリル板はなく、取調室のような圧迫感もない、かなりの広さを持った白い壁紙と床に包まれた清潔な場所だった。照明は十分に明るく、また入り口はガラス戸で外から見えるようになっていた。ガラス越しに法務教官たちが働いている様子が見えた。特別に職員用の会議スペースを今回の面会のために使用させてもらったのだ。

五十くらい法務教官はしばらくお待ちくださいと言い残し、部屋から出て行った。その際、飲み物を用意するよう二十歳過ぎの若い職員にむかって言った。

まもなくお茶を出され、一礼する。しかしお茶に手をつけずに三分ほど待っていると、さっき案内してくれた法務教官が少年をともなって戻ってきた。

美波は顔を上げて、少年の顔をまじまじと見た。


美波「海斗くん……」

海斗「おひさしぶりです、美波さん」


そう言って、海斗は椅子に坐った。




963 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/08/18(日) 21:09:46.65 ID:TPJ777ywO
今日はここまで。

前にも言った通り、このスレでの本編の更新はここまで。残りはおまけを書いて埋めてくつもりです。
964 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/01/04(土) 15:20:32.46 ID:7fUwwu0w0
更新まだか
965 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/02/06(木) 19:11:12.52 ID:gOqYRoM20
待ってる
966 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/03/23(月) 13:34:28.88 ID:3BzQPb7N0
エター?
楽しみだったんだけど
967 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/05/18(火) 20:44:54.29 ID:Vw+2Fh4x0
原作完結しちゃったね
968 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2022/12/19(月) 20:09:25.73 ID:0TinRBsA0
今でも好きだよ
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