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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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519 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:34:12.44 ID:OBzab0O/O

中野「よし……ん?」


 中野は力を込めて扉をあげようとしたが、入口はビクともしなかった。


中野「あ! 中からじゃ開かねーのか!」


 だが、そのときコンテナの扉がギイイィと軋みながら開けられた。夕焼けを背景に何者かがコンテナのすぐ側に立っていた。


永井「どいつもこいつも馬鹿ばっかだ!」


 コンテナを登ってきた中野を見て、永井は忌々しそうに叫んだ。


永井「無謀だが、他にどうしようもなくなってきた」


 永井はいらだちを抑えるように頭を振って、茫然と自分を見上げる中野にむかって言葉を吐きつけた。


永井「手伝え! クソッ……」


 ひと呼吸置いてから、永井は中野に要求を伝えた。このとき、はじめて永井と中野は近くで視線をあわせた。血の色が、永井の額を、夕焼けよりも赤く染めているのを中野はしかと見てとった。


永井「佐藤をどうにかしたい!」


ーー
ーー
ーー
520 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:37:02.93 ID:OBzab0O/O

 はっきりしないながらもアナスタシアが意識を取り戻したとき、アナスタシアはロープで吊り上げられた状態で、ダクトテープで固定された両手足がぶらぶらと止まりかけた振り子のように揺れていた。

 ぼおっとしていると、アナスタシアの身体がぐいっと上に引っ張りあげられる。身体を縛るロープが肋骨に食い込んで痛い。引っ張られるたびにロープはぎしぎしと肋骨に食い込み、うめき声をあげそうになったが、口に巻かれたダクトテープのせいで喉の外に声が洩れることはなかった。そのかわり、ポロポロと涙が出てきてしかたがなかった。

 さらに災難なことに、アナスタシアは垂直方向に真っ直ぐ、つまり真上に引っ張りあげられているわけではなく、井戸の外にいる何者かがアナスタシアに巻かれたロープを綱引きの要領で無理矢理引っ引っ張っていたため、アナスタシアは井戸の内壁に身体のあちこちをぶつけられ、ゴツゴツした石に肌を擦り付けられるはめになった。

 口を塞がれているため、やめてと訴えることもできず、アナスタシアは、肋骨にロープを食い込ませるがまま、石にぶつけられるがままの状態で吊り上げられていった。

 ようやくアナスタシアの身体が井戸の外に引っ張り出された。最後はロープでなく誰かの腕によって引き上げられたが、襟の後ろを乱暴に掴まれての動作だったので、首がすこし絞まって苦しい思いをした。

 目の前には意識を失う直前に目にした暗闇が引き続き広がっていたが、井戸の底の奥深い息もできないくらい濃密な闇と違って、土の湿り気を感じながら見るこの闇にはじんわりと濃淡があり、斜め上に伸びる線があった。それらの線は森をかたちづくる樹木の輪郭だった。月明かりは葉の繁りに遮られていたが、光は空気の中に混じり、動くものがいるかどうかくらいは見分けられる程度の明るさはあった。
521 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:38:12.29 ID:OBzab0O/O

 アナスタシアは身体中の痛みに気をとられて、まわりの状況を判断できる状態ではなかったが、すぐ側にいる人影に気づくととっさに身の危険を感じ、本能的にIBMを発現した。

 救いを求めるような必死さを込めて、その人影を遠ざけるようIBMに願うと、星十字のIBMは人影の胸の真ん中に爪を突き立て腕まで貫通させ、腕を真っ直ぐに伸ばしたままいちばん近い杉の木まで突進していった。攻撃を受けた人物と木が衝突し、幹は大きく穿たれ、ガサカザッと葉を鳴らしながら、木が大きく揺れた。



中野「痛っ、てぇ……」


 恐怖のため固く瞼を閉じていたアナスタシアが、聞き覚えのある呻き声に素早くばっと頭をあげると、自らの分身ともいえるIBMが中野を杉の木の幹に磔にしている姿を目撃した。葉のあいだから射し込んだ月明かりが茶色に染めた髪を照らし、アナスタシアは磔にされた男が自分を助けようとしてくれた人だったことに気がついた。

 その瞬間、アナスタシアの気持ちは闇色の絶望に染まった。たとえ故意でなくても、善人を殺めたという事実が一生を通じて呪いのようにつきまとい、あらゆる幸福、感情発生を正当的に禁止し、だがそれが罰というわけでもなく、だから償うこともできず、事実に命じられるがまま、殺人者として生を全うしなければならない。そのような絶望がアナスタシアを襲った。

 なぜそうしなければならいのか? それは、アナスタシア自身がそうしなければならないと考えているからだった。

 アナスタシアは死を恐れはじめていた。自分の死ではなく、どこかの誰かの死。それは、研究所に忍び込んだあの日、夜の雨のなか、真っ黒な無を宿した死人の眼を見てから生まれた感情だった。アナスタシアはその眼を見て、死が“ある”ということをはじめて知った。そして、死は、“もたらすことができる”ものだということも、同時に知った。
522 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/12/22(金) 23:40:23.48 ID:OBzab0O/O

 夜の帳がおりた森の只中は穏やかで、とても人が死んでいる風景には見えなかった。おぼろげな月明かりと夜風に包まれると気持ちが良くて、蒸し暑さを忘れるほどだったが、中野の胸の穴からは血が帯のようになって流れていた。

 脅威を退けるよう懇願されたIBMは、次の命令がないため中野に腕を打ち込んだまま沈黙していた。永井がIBMを発現し、この凶暴な黒い幽霊が星十字型の頭部を砕いた。IBMの身体がくずおれ、木に張りつけられていた中野が地面に落ちる。


中野「なんで……」


 中野は復活すると、頭を振って意識の回復をはかった。永井のIBMが再度中野を貫き、さっきとおなじ木に磔にした。


中野「おれ……」


 二度に渡ってIBMから攻撃を受けた杉の木の幹に亀裂が走り出し、木っ端が散って、ついには幹がずり落ち、アナスタシアめがめて倒れてきた。

 アナスタシアは咄嗟の反応で縛られた両腕で頭をかばい、恐怖で瞼を固く閉じたが、倒れかかる木は枝が別の木の枝と絡みつき、玄のように弾かれる音を響かせながら、骨や内蔵を押し潰そうとアナスタシアに容赦なく降りかかってくる。

 突然、アナスタシアの身体が引っ張られる。草の葉がふくらはぎをくすぐる感触をおぼえた直後、ドスンという大きな物音が振動として伝わった。アナスタシアが眼を開けると、さっきまでいたところに木が横たわっていた。

 アナスタシアを倒木から救ったのは永井だった。永井は折り畳みナイフでとりだし、アナスタシアの手首を縛っている灰色のダクトテープを切断すると、ナイフをアナスタシアに握らせた。


永井「あとは自分でやれ」


 永井はそう言い残し、中野が木の下敷きになってないか確かめにいった
523 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:41:57.52 ID:OBzab0O/O

 永井のIBMはもう消失したのか姿は見えず、中野は幹の半分が抉られた倒木からすこし離れたところに倒れていた。中野はもうそこにはない胸の穴を押さえながら起き上がった。

 触ってみてはじめて気づいたが、中野の服の破れ目はまるい穴ではなく、肋のうえに横線が引かれているようにぱっくり開いていた。中野は破れ目が背中のほうまでつながっているのか確かめようと首を回した。そのとき、井戸の周辺の、かつて均され、いまはところとごろに草が生えた自然状態の開けた地面と森との境界に、一本の腕が転がっているのを見つけた。


中野「永井、腕とれてる」

永井「生えてるだろ、新しいのが」

中野「どうすんの、あれ?」

永井「井戸に捨てとけ」


 自分の腕とはいえ、切断された身体の一部を手にとることに中野は忌避感をおぼえた。おそるおそる触れてみると、指で押さえたところの皮膚が沈みこみ、ぶよっとしていた。中野の躊躇にしびれを切らした永井は、中野の腕をぶんどり、井戸にむかって放り投げた。腕はくるくる回転しながら、アナスタシアのすぐ上を通りすぎ、井戸の底に落ちていった。
524 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:44:36.86 ID:OBzab0O/O

アナスタシアは足首にきつく巻き付いたテープを切るのに苦戦していた。ナイフの刃が粘着部に貼りつき、何層にも重ね巻きされたテープに食い込んでいかない。

 おもむろに永井はアナスタシアに近づいた。アナスタシアはあせった。永井がすぐ横まで近づくと、固く眼を閉じ、頭を永井の反対側に傾け、ナイフを持つ手をかばうかのように突きだした。

 永井は受け渡されでもしたかのようにナイフをひったくると、縛られた足首をぐいっと持ち上げテープを両断し、次いで身体のロープ、そして口元のテープを手際よく切断していった。すべらかなナイフの動きは清流を泳ぐ魚のようで、月の光を反射したナイフの刃が鱗のようにきらめいた。

 アナスタシアは永井の思いもよらない行動に呆気にとられていた。永井はたしか、アナスタシアが亜人であることを露見させたあと、しかるべきときに解放してやると言っていた。だが、永井の様子はどう見ても思惑が滞りなく進んでいるようには見えなかった。しかも、敵対していたはずの中野まで一緒にいる。

 永井はそんなアナスタシアにむかって口を開いた。
 

永井「佐藤がテロを決行し、七百人余りが死んだ」


 永井の説明はあっけなく、たんなる事実の報告としてアナスタシアの耳に届いた。そのあっけなさのせいでアナスタシアの頭はしゃっきりせず、言ってることをちゃんと理解できないまま永井の言葉を聞いていた。
525 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/12/22(金) 23:46:30.86 ID:OBzab0O/O

永井「グラント製薬の本社ビルに旅客機で突っ込んだんだ。その後の対応にあたったSAT五十名も、佐藤に殺された。亜人はいまやテロリストと同義語だ。助かりたかったら……」

中野「あっ!」


 中野が突然あげた大声が永井の話を中断させた。永井は忌々しげに中野に振り返った。


永井「なんだよ?」

中野「この子、おまえが逃がしたって言ってたじゃん!」

永井「嘘に決まってるだろ」


 いまさらの指摘に永井は頭を抱えたくなった。


中野「はあ!?」

永井「いいからもう黙ってろよ」


 当然そんな言葉に納得するはずもなく、中野はさらに食ってかかった。はじめは無視しようとしていた永井も中野があまりにもしつこいので、やがて中野に負けないくらい声を張り上げ、ついには言い争いに発展した。アナスタシアといえば、訳もわからぬまま、罵声を飛ばし合うふたりの顔を交互に見るくらいしかできなかった。

 複数の銃声が突然響き渡った。三人は銃声のした方を向いて固まり、押し黙った。


中野「鉄砲?」

永井「行くぞ」

中野「おまえ、何したんだよ」


 中野が声を潜めて尋ねた。


永井「何もしてない。亜人だから撃たれただけだ」
526 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:48:28.57 ID:OBzab0O/O

 アナスタシアはその言葉にハッとして、永井の方を見た。血がこびりついたシャツに、大きな穴が開いている。血に染まったシャツには見覚えがあった。つい最近、アナスタシアはおびただしい数のそれを見たのだった。記憶はまだ生々しく、永井が亜人だとわかっていても、その赤い円形が胸元にあることに痛ましさを感じた。

 血の跡はバッグのストラップに隠れて見えなくなった。ストラップを肩にかけたとき、永井の視線がアナスタシアとかち合った。永井の視線は相変わらず温度が感じられず、感情の見えない眼でアナスタシアを見下ろしていた。


永井「狩られたくなかったらついてこい」


 それだけ言うと、永井は森のなかに姿を消した。


中野「立てるか?」


 中野がアナスタシアに駆け寄ってきて言った。IBMで攻撃されたにも関わらず、中野は驚くほど無警戒だった。


アナスタシア「あ、あの、わたし……!」

中野「いいから。はやく行かねえと。あいつしか逃げ道知らねーんだ」


 中野にうながされ、アナスタシアは足に力を入れようとしたが、うまく立ち上がることができなかった。立ち上がりかけ、途中で膝ががくんと落ち、ひっくり返りそうになったところで中野が腕をつかみ、その身体を引き上げ、森の方へと押しやった。

 二人が永井の背中が暗闇のなかに浮かんでいるのをみとめたとき、背後で銃声がふたたび轟いた。

 猟銃の音。アナスタシアが何度か耳にし、肌を震わせたこともあるその銃声は、いままでのそれとはまるで違っていた。

 獲物として聞くはじめての銃声は、とてつもなく恐ろしい音となり、アナスタシアの心臓を震撼させた。


ーー
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527 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:51:07.46 ID:OBzab0O/O

堀口「何だったんだ、今のは……」


 堀口は杖をつき、よろめきながら立ち上がった。自分の身体を見下ろし、怪我がないことを確かめると、次は周囲を見渡した。捜索隊の面々は先ほどまでの堀口と同様に腰を抜かし、そのほとんどが自失状態から脱け出せてない。

 かれらは一見、茫漠としているようだったが、実際は恐怖で動けなくなっていた。根本からぼっきりと折れた枝がかれらの周囲に観覧していた。地面にはっきりと残る足跡は、人のものに見えたが、その足跡の主を目撃したものは誰一人いなかった。辺りの木は鋭い爪のようなもので切り裂かれ、幹が抉られているものもあった。

 嵐が去ったあとのような静寂と散乱が暗闇に拡がっていた。だが、それはわずかなあいだのことだった。うずくまっていた者たちが、苦痛にうめきをあげ始めたのだった。


吉田「班長、大変だ!」

堀口「どうした!?」

山田「田村さんのとこのせがれが!」


 老人たちが言っているのは、猟銃を持ち出してきたうちの一人だった。洗濯され色褪せたキャップをかぶったその男は、腕に大きな裂傷を負っていて、内部の筋肉はおろか白い骨まで見える有り様だった。持っていた猟銃は、銃身がひん曲がり、木製の銃床は砕け散っている。


石原「医者に見せなきゃやべぇよ」


 タオルを傷口に当てている老人が言った。タオルは血を吸って、赤く、重くなっていた。上腕部をベルトできつく絞めたおかげで出血の勢いは弱まっていたが、男の顔面は蒼白していて、意識も朦朧としている。
528 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:52:16.38 ID:OBzab0O/O

 事態の重さに堀口は屈みこむ途中のような姿勢で動揺していた。パキッという小枝を踏む音に堀口は顔をあげた。

 いきり立つように荒く呼吸を繰り返している北が猟銃の引き金に指をかけたまま、あたりを警戒していた。わずかな物音があれば、北はあまりある勢いで音がした方向を向いたので、まるで猟銃を振り回しているかのようだった。

 恐慌をきたしている北に近づくのは勇気が要った。「北さん」と声をかけた瞬間、銃口が堀口に向けられた。北はすぐに堀口に気づき、猟銃を上に向けた。生きた心地はしなかったが、つまりそれは生きているということで、大きく息を吐くと言うべきことが口に上った。


堀口「北さん、もうやめよう」

北「なんだと!?」

堀口「林道と橋には人を置いとくが、森の捜索はまた明日にしよう」


 北は煮えくり返るような怒りに満ちているだろうと堀口は思ったが、北はがなりたてて反対することはなく、唇を歪めるにとどめていた。


山田「班長、はやく!」


 仲間に呼ばれて堀口は北に背を向けた。負傷者を抱えた一団はすでに見えなくなっていて、襲撃があった場所に残っているのは北と堀口以外にはだれもいなかった。

 堀口は歩きながら後ろに注意を払った。北が後をついてくる気配は感じない。堀口はそのことに一抹の不安を覚えていた。


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529 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:54:21.84 ID:OBzab0O/O

中野「こんな堂々と動いて見つからねーか?」


 小高い傾斜を登る永井の背中を見ながら中野が尋ねた。地面から露出した木の根を跨ぎ、幹に手をついてバランスをとりながら坂を上っていく。


永井「あの人達は森の怖さをよく知ってる。たぶんここらの捜索は打ち切ってるはずだ」

永井 (それに、おそらく黒い幽霊に襲われてる。死傷者が出たなら追跡はまず無い)

中野「今晩中に山を越えればいいわけか」

永井「何日もかかるだろ。脱出は一度やった手でやる」


 会話を聞きながら、アナスタシアは二人についていった。中野がそうしたように、幹で身体を支えて傾斜をのぼろうとすると、地面の落ちた葉っぱを踏んで足を滑らせてしまった。剥き出しの固い根に打ち付けた膝は皮膚が擦りむけて血が滲んでいた。転んだアナスタシアを中野がまた引っ張りあげた。服の土を払い、自分のTシャツを破くと擦りむけた膝に巻いてやった。

 永井はすでに傾斜を登りきっていた。振り向きもせず先に進もうとする永井に中野が声を飛ばした。


アナスタシア「イズヴィニーチェ……すみません……」

中野「永井、ライトは?」

永井「月明かりで十分見えるだろ」

中野「いや、危ないって」

永井「注意不足。ダンスやってるんだ。そいつ、僕より身体能力あるだろ」


 ひとりよがりな永井の言動に中野は憤懣とした。一方、アナスタシアは申し訳なさで心が苦しくなっていた。もともと怒りを覚えるような性格ではなかったが、まるで役立たずだと言わんばかりの永井の態度にアナスタシアはすっかり萎縮し、自分をかばってくれる中野に対しても余計な心配をかけさせている気がして、申し訳なさを覚えていた。永井はというと、着々と迷いなく夜の森のなかを歩き続けている。記憶が目印の代わりだった。

 振動音が突然して、ストラップの中が光った。
530 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:55:41.89 ID:OBzab0O/O

中野「は!? ケータイ!?」

永井「おばあちゃんに買ってもらった」


 驚く中野に永井はしれっと答える。スマートフォンの画面はおばあちゃんからの着信を知らせていた。


永井「はあ?」


 奇妙に思いながら、永井はスマートフォンを耳にあてた。相手がほんとうにおばあちゃんかどうか確認がとれるまで、声は出さず息を潜めた。

 電話口の向こうががなりたっていた。北の声だ。口汚い怒声がスピーカーから響いたが、それは永井に向けて放たれたものではなく、北と同じ空間にいる者に向けられていた。

 永井はスマートフォンを耳から離し、しかめっ面をとある方角へむけた。側にいたアナスタシアが怯えたような不安げな表情で永井を見ていた。アナスタシアも電話越しの怒声を聞いていて、不穏な雰囲気を察知したのだが、永井はそのことにまったく気づいてなかった。


中野「永井、急がねーと」


 中野が振り向いて永井に言った。中野は遠くから聞こえるかすかな波の音に導かれ、先頭を永井と入れ替わっていた。永井は身体の向きを視線の方角に合わせると、ワンショルダーバッグを外し、おもむろに肩を落としながら引き返しはじめた。


永井「はあ……先行ってて……」


 面倒ごとにおもむく前によくやるため息を交えながら永井は言った。


中野「どうした!?」

永井「忘れ物!」


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531 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:57:13.82 ID:OBzab0O/O

 使われなくなって何年も経つその小屋は、物置きと化していて、同じように使われなくなった廃材やポリタンクや段ボール、諸々の粗大ごみが壁際に無造作に置かれていた。

 そこは居場所がなくなり、放置され、忘れ去られた物が棄てられた、忘れ去られた場所だった。

 大型のクーラーボックスの上に山中が座らされている。ガムテープで両手を縛られ、額からは出血している。銃床で殴り付けられてできた傷だった。


山中「ちょっとアンタ、異常だよ? なんでそんなにあの子にこだわるんだ?」


 山中のおばあちゃんが北に訊いた。


北「グラント製薬……あの会社がどれだけの人達を救ってきたか……」


 なかば茫然自失とした様子で北は話しはじめた。


北「株価は安定、本当の優良企業だ……それがあの事件で一変……連日のストップ安……どうにもならん」


 話しているうちに絶望を自覚したのか、北の声に悲痛さが増していった。北はほとんど叫ぶようにして、自らの絶望的な苦境をだれに訴えればいいのかわからないまま口にしていた。
532 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:59:35.42 ID:OBzab0O/O

北「おれは年金も蓄えもあの会社の株に突っ込んでたんだぞ! おれの人生は!? 老後の計画は!? どうしてくれるんだ!?」
 
山中「小さい男だね! ただの逆恨みじゃないか!」

北「だまれクソババア!」


 必死の訴えを一蹴した山中の眼前に北は猟銃の銃口を突きつけた。


北「あんなバケモンかくまうんだ、てめえも亜人なんだろ! 正体暴いてやるよ」

山中「どうせあと何年も生きやあしないんだ。わたしはかまわないよ」


 山中は銃口など存在しないように鋭い視線でパニックになりかけている北を睨みあげた。引き金にかけた北の指は強張っていた。力が入りすぎ、万力のようにゆっくりと引き金に力かかかる。

 そのとき、小屋の外でガタンと物音がした


北「なんだ!? 奴か!?」


 北は慌てて振り向いた。


北「おい! そこにいるのか!」


 返事はなく、夜がしんと静まり返っているだけだった。ドアのない小屋の入り口は黒い闇を見せるだけ。北は猟銃を肩に当てずんずんと小屋の外へ進んでいった。


北「どこだ!?」


 北の姿が見えなくなった瞬間、いきなり銃声が轟いた。山中のおばあちゃんの身体が反射的に跳ねた。白い煙がモワーッと闇の中に浮かび、溶けるように消えていく。誰かの足音がした。その足音はすぐに聞こえなくなって、あたりに夜の静寂が帰ってきた。ささやかな虫の声音以外はなにも聞こえなくなっていた。北の怒りも絶望もこの世から消えた。


山中「……ふん!」


 すこしして、事態を察した山中のおばあちゃんが鼻を短く鳴らした。


山中「そうでなきゃあね……男ってのは」


ーー
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533 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:03:18.51 ID:FyC54XJBO

中野「おせえよ。何してたんだ?」


 ようやく森から出てきた永井に中野が言った。


永井「ん? 着替え」


 言葉の通り、永井は弾痕の残るTシャツから半袖のラグランTシャツに着替えていた。


中野「あそう……おれのは?」


 永井は手に持っていた筒状に丸めたTシャツを中野に投げてよこした。中野が着替えているあいだ、永井は発泡スチロールとロープを用意し、発泡スチロールに腕が通るようにナイフでくり貫きはじめた。

 崖下では黒い海面が拡がっていた。波打つ海面の運動にしたがって月の照り返しがきらきらと跳ねている。空に雲はなく、すこし欠けた月と満点の星が一面に輝いていた。月明かりはともかく、小さな星の光は黒い海には届かなかったが、月の光を浴びながら崖砕ける波の欠片は星のように白かった。

 見上げるには絶好の空模様だった。だが、アナスタシアは視線をさまよわせ、やがて自分の膝に視線を固定した。

 永井が戻ってくるまでのあいだ、アナスタシアは中野と会話を交わした。中野はアナスタシアと同じクローネのメンバーである大槻唯のような性格で、ただでさえ喋るのが得意でないのにいつの間にか一緒に逃亡する事態に陥って途方にくれていたアナスタシアでも、話しかけられているうちに自然と口から言葉を出すようになってしまうのだった。中野はアナスタシアがアイドルであることや永井を助けようとしたことに、てらいもなく素直に感心していた(実際、「すげえなあ」と感心をあらわす言葉を何度か口にした)。
534 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:06:34.52 ID:FyC54XJBO

中野「アーニャちゃん、アイドルだって。知ってた?」


 作業を続ける永井に中野が訊いた。つい最近知った凄い知識を友達に披露するときのような口振りだった、永井はナイフを止めることなく答えた。


永井「なんとなく」


 永井のそっけない返答を聞いた中野が眼を見張る。


中野「おまえの姉ちゃんとユニット組んでるだろ?」

永井「だからなんとなく知ってるんだよ」


 中野は「えーっ」と不満げに口から洩らした。アナスタシアは悲しくなり、重みにも似た痛みを心に覚えた。

 穴を開け終わると、永井は発泡スチロールとロープを中野とアナスタシアに投げ渡した。ロープの端を自分の身体に結びつけるよう二人に指示すると、永井もバッグを肩にかけてから同じように二本のロープの端を自分にくくりつけた。それから発泡スチロールを持ち上げると、崖まで歩いていった。中野も当然のように崖まで歩いていった。アナスタシアはすこし迷って、ロープがピンと張られる前にやっと小走りで永井のところまでやって来た。

 はるか下方から波の砕ける音が聞こえる。水平線は黒く塗り潰され、海と空は一体になっていた。アナスタシアはそのときはじめて星空を見上げた。思わずため息をつくほどの星空だった。


中野「でもよ、こんなもんが浮きになんのかよ」


 中野の言葉にはっとしたアナスタシアは持っている発泡スチロールに視線を移した。下を向くと、波の音がはっきりと意識され、いまから自分が何をするのかがわかり、胃がきゅうっと締め付けられるような感じがした。
535 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:09:01.56 ID:FyC54XJBO

永井「水難の講習とか学校でやらなかったか?」

中野「中卒だからなぁ」

永井「そっちは?」


 突然話を向けられたアナスタシアはばっと顔をあげ、永井を見つめた。一瞬なにを言われたのかわからず、アナスタシアはボーッとした表情をしていた。


アナスタシア「えっ?……あっ、ラボータ……お仕事、でした……」


 聞いても無駄かと思った永井が顔を背けようとしたとき、アナスタシアはつっかえながら、何とか答えた。永井は鼻からため息を漏らしてから、二人にむかって忠告をした。


永井「それ、なくすなよ。生体実験されて痛みには慣れたけど、それでも溺死は死ぬほど苦しかった」

中野「怖いこと言うなよ」


 空気が重くなった。そのとき、中野は思いついたことをつい口に出した。


中野「実験って、田中と同じことされたのか?」

永井「銃で撃たれたりとかはなかったかな。生きたまま解剖されたとか、それくらい」


 ますます空気が重くなった。中野は訊かなきゃよかったと後悔し、アナスタシアに至っては絶句するあまり、喉が石のように固まっていた。永井はそのような場の雰囲気を察しようともせず、脱出方法について説明するのだった。
536 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:10:59.37 ID:FyC54XJBO

永井「この辺りのことはいろいろ調べてある。ここから入水すれば潮の流れで押し戻されずに外へ出られるし、そう遠くへも行かない……たぶん」

中野「外国に行っちゃったりしてな」

永井「インドじゃあ亜人は崇拝されてるらしいよ」

中野「すうはい?」


 永井は、中野がバカをさらす発言をしても、いちいち呆れないようにしようと心に決めた。


永井「準備はいいか?」

中野「おれは大丈夫だ」

永井「あそう」


 電話したときの海斗と同じことを言う中野に、永井は不愉快そうに眼を細めた。次にアナスタシアの方に顔を向けると、身体に巻いたロープの結びつけがゆるいことに永井は気づいた。


永井「ああもう」


 永井は結び目をちょっと乱暴に解くと、ロープが緩まないように引っ張っり、それから固く締め上げた。永井が自分に手を伸ばしてきたとき、アナスタシアはビクッとし、おもむろに腕をあげて頭をかばった。やっぱりまだ永井のことは怖かったからだか、その動きが身体を開けることになり、永井の作業をスムーズにさせた。巻き直されたロープはアナスタシアの肋骨に食い込み、じりじりとした痛みを与えていた。

 だが、呻くひまはなかった。アナスタシアの身体が突然「く」の字に折れ曲がり、崖に向かって引っ張られた。

 永井はロープを結び直したあと、すぐに崖から飛び降りた。永井が岸壁から虚空へ足を置いた瞬間、中野は慌てて永井のあとを追った。ロープに苦しめられていたアナスタシアはそのことに気づかなかったのだ。
537 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:13:10.23 ID:FyC54XJBO

 男二人の落下にアナスタシアの足は浮き、転ぶようにして崖から身を踊らせることになった。海面に落下するまでに身体は前に一回転し、アナスタシア星空を見上げながら落ちていった。星の光は痙攣したかのように動きまくっていた。アナスタシアは海へと落ちた。

 海面で打ち付けた後頭部と背中が痛い。冷たさと痛みでとても眼を開けていられない。パニックになり、鼻から海水を吸い込んでしまったアナスタシアを激痛が内側から襲った。発泡スチロールの浮きのおかげでアナスタシアは海面に浮上できた。鼻から海水を吐き出そうとするが、押し寄せる波が顔にぶつかり邪魔をした。波にいいようにされたアナスタシアは、浮きを手離してしまった。

 溺れそうになったアナスタシアを永井が懸命に引っ張りあげた。手足をばたばたさせるアナスタシアを海面から上にあげたままにするには、永井の体力ではあまりに心もとない。


永井「中野、まだか!」


 永井は息も絶え絶えになりながら、必死に叫んだ。

 中野がアナスタシアが手離した発泡スチロールを持って泳いでくる。それを見た永井はアナスタシアを押し出し、大きく呼吸しながら仰向けになって海に浮かんだ。永井は二人から離れるように流されていったが、ロープが張りつめ身体が回転したところで深呼吸し、泳ぎやすい体勢に直した。

 発泡スチロールの浮きをビート板の代わりにして、アナスタシアはなんとか落ち着きを取り戻した。こちらに戻ってくる永井を見たアナスタシアは、さっきのことでお礼を言おうかとすこし悩んだ。

 言うか言わないかの判断をする前に、永井はアナスタシアを通りすぎた。そしてその瞬間、海流が三人を捉え、その身体をどんどん押し進めていった。

 想像以上のスピードで流されながらアナスタシアは、夜の海の宇宙のようなその黒い色そのものに、うまく言語化できない怖さを感じ始めていた。
538 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:24:16.36 ID:FyC54XJBO
今日はここまで。

今回。あんまりアーニャを喋らせられなかったので次の更新ではセリフを増やしたいですね。これからしばらくはアーニャがでずっぱりで、美波の出番は減っていく感じなので、なんとかあの独特のセリフ回しをものにしたいです。

さて、もう年末。このスレを立ててからだいたい一年くらい経ちましたがまだまだ完結するまでに時間がかかりそうです。いまのペースだと来年末にも終わってるかどうか。それを考えるとちょっと恐ろしいです。

とりあえず、今スレ内に9巻のところまでいけるように頑張ります。

それでは少し早いですが、このような有り様にお愛想が尽きねば、来年もまたよろしくお願いいたします。
539 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/12/23(土) 07:36:38.12 ID:2dQhr0Eh0
おつ

アーニャもフォージ作戦に参加するのかな?
でも目立つ外見してるから社員のフリは出来なさそう
540 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:49:06.86 ID:oL93h30zO
7.糞ガキ三人になにができるよ?


Come Together ーーザ・ビートルズ


 古ぼけた電光看板が赤や緑の光で道路を照らしている。寿司屋、中華料理屋、スナックや居酒屋が立ち並ぶ通りに人影はなく、永井たち三人は海水でぐしょぐしょに濡れた靴でアスファルトに足跡を残しながら路面を歩いていた。永井と中野が横に並び、そのすこし後ろをアナスタシアがとぼとぼと歩いている。中野が永井と話しているので、アナスタシアはそうするしかなかった。水に濡れた黒い足跡は、さまざな種類の電光にあてられ、場所ごとに違う色に染められていた。店の前を通るたびに酔っぱらいの笑い声やカラオケの歌がドア越しに聞こえてきた。


永井「中野、足を探さないと」

中野「自転車? バイク?」

永井「車だな。免許持ってるか?」

中野「ないけど、フォークリフトも動かせるぜ。現場じゃ問答無用だからな」

永井「じゃあ、どう盗むかだな。強奪しかないか」


 永井は後半の部分を一人言のように口にした。


永井「でも発覚までに時間がかかるのがいい。なんとか間に合えばいいんだが……」

541 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:51:34.28 ID:oL93h30zO

 今後の計画について、ぶつぶつと唱える永井の考えをアナスタシアはしっかり聞いていた。永井が倫理や道徳を気にかけないことなどとっくにわかっていたが、それでも目の前でこう淡々と盗みを働こうとするのを見ると、戸惑いと緊迫を隠せない。特にアナスタシアをどぎまぎさせたのは、強奪という言葉だった。他者への強制力と攻撃性を内包したこの言葉に、アナスタシアは車の持ち主の後頭部を殴りつける永井の姿を想像した。

 ーーでも、ケイは強奪を目撃されるようなヘマはしないはず。用心深いはずだから……でも、不可抗の事態はいつだって起こりうる。もし、目撃者があらわれたら? 口封じしようとしたら……? コウならとめてくれる……とめられなかったら……? わたしがとめる……? とめられるの……?ーー

 アナスタシアがわるい方向への考えに深くはまりこんでいると、中野が突然二人から離れた。


中野「ちょっと待ってろ」

永井「は!? おい!」


 永井もアナスタシアもこれには面を食らった。引戸がガラガラと音をたて、中野は常連客の態度でのれんをくぐり抜けると慣れたようすで居酒屋に入っていった。

 永井は悪態をつくかわりに頭をふるとすぐさま居酒屋から離れた。隣にある雑居ビルの駐車場を通り過ぎ、ビル裏の錆び付いた非常階段を見上げどの階にも明かりが灯ってないことを確認すると、ぼやけた電灯に照らされた踊り場に腰かけた。
542 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:53:12.09 ID:oL93h30zO

 アナスタシアはまるで十歳幼くなったような足取りで永井の後を追った。階段の一番下の段にちょこんと座り、すこし迷って通りを見やった。

 病んだ老犬みたいに劣化して弱った電灯が立った路地だった。風情など欠片もない古いというより経年という言葉がぴったりくる建物の並び。赤提灯に白く発光する電光看板。どうやら目の前の店はおでん屋さんらしい。そしてあたりに漂うのは酒の匂い。こういった都会の一隅は通りすぎるだけで、立ち寄ったことはなかった。

 アナスタシアは意を決して振り向き、永井を見上げた。永井はバッグを手すりの支柱にくっつけて枕の代わりにして頭を預け、眼を閉じていた。呼びかけの一言を口にするまでには随分時間が必要だった。


アナスタシア「あ、あの……」

永井「なに?」


 永井の返事は明瞭で、眠っていたふりをしていたのかと思うほどだった。永井は閉じていた瞼を上げ、黒い石のような眼でアナスタシアを見下ろしている。アナスタシアはどぎまぎしつつ口を開こうとした。声を出そうとしたが、声は喉に引っ掛かってうまくしゃべれない。喉が干からびてしまったかのようだ。そもそもなにを話そうとしたのだろうか。

 永井の眼が夜の中に浮いている。形だけは月と同じ円形をしていたが、その眼はどこまでも黒く、むしろ特別黒いことで周囲の闇から際立って存在していた。

 アナスタシアはごくりと喉をならした。とにかく舌と唇を働かせることにした。
543 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:55:01.19 ID:oL93h30zO

アナスタシア「ミナミ、心配、しています……」

永井「それはまえに聞いた」


 永井の意識が会話から離れかける。アナスタシアはあわててディテールを、つまり何を心配しているか、美波が弟の安否の次に心配していることを説明する。


アナスタシア「プレス・コンフェレン……(アナスタシアはロシア語の発話をここで中断した)……アー……きしゃ……記者会見、ミナミは、あなたがミナミの会見のせいでつかまったかもって思って……」

永井「それ見てない」


 永井はあっさりと言ってのける。他人事のように。というより、アナスタシアにとって美波の心痛は他人事だろうとでもいうような言い方だった。


永井「僕が捕まったのは、佐藤にハメられたからだ。おおかた、人間への憎しみを植えつけて仲間にするために実験体として差し出したんだろう。田中のときの経験かな」


 永井は自身の体験を小動物を解剖するかのように分析した。アナスタシアにとって、この冷徹さは何度見ても信じがたいものだった。それは、いままで生きてきた世界に、永井のような人間はひとりも存在していなかったからだ。切り刻まれたことも、切り刻むことも、同じようなことだと言わんばかりの態度。

 この瞳を揺らすのに必要な言葉を探すため、アナスタシアは必死に頭を回転させた。美波の弟に人間的な面があると信じられる理由がどうしても欲しかったのだ。
544 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:56:38.05 ID:oL93h30zO

 それを探してまずはじめに思い浮かんだのは、森の中で見た永井のしかめ面だった。スマートフォンから漏れ聞こえてくる怒声に困っていた顔。いま思えば、あの怒声は永井に向けられたものではなかった。永井なら怒鳴られたところで眉ひとつ動かすでもなし、そもそもなぜ電話に出たのだろう?

 その疑問が頭に浮かんだ瞬間、パズルのピースが音をたててはまった。電話越しの罵倒の言葉が小楢の木の下で永井が口にした「おばあちゃん」という語とイコールで結ばれ、ひとりで森を引き返した永井がなにをしに行ったのか検討がついた。そして見当がつくと、研究所の屋上で、永井はやっぱり研究員を助けていたのだと確信できた。

 意識を思考から頭上にもどすと、永井はふたたび瞼を閉じようとしていた。アナスタシアはあわてて口を開いた。


アナスタシア「研究員のひと……助かりました、生きてます」

永井「ああ、あのひと。よかった」

アナスタシア「ダー……! そうです、よかったです」


 アナスタシアの眼がぱっと輝いた。電灯が光を落としているところに身を乗り出したので、顔が照らされて表情がよく見えた。永井はそれを見て、やっぱりかと期待はずれの予感は正しかったと感じた。
545 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:58:52.13 ID:oL93h30zO

アナスタシア「おばあちゃん、森での電話も……」

永井「あの研究員には利用価値があった」


 アナスタシアがしゃべっている途中で永井が出し抜けに、理解を正すために口をはさんだ。


永井「彼は亜人の理解者だった。それでいて政府に属しているのはポイントが高い。一、二回死んでも助ける価値はあるよ」

アナスタシア「りよう、価値……?」

永井「そう。利用価値の有無」


 アナスタシアの口からこぼれたその言葉は、まるでその口から初めて発せられたように響いた。期待していた答えとの落差に、瞳からさっきの煌めきがなくなった。永井の冷徹さが大気を通して伝わり、そのせいでアナスタシアの青い眼を氷のように固めたかのようだ。

 すこし離れたところから、チリンチリンとベルの鳴る音がした。スナックのドアが開けられ、何人かの客が談笑しながら店に入っていった。ドアの隙間からカラオケを熱唱する声が流れてきて、アナスタシアの耳まで届いた。ジョニー・サンダースの〈サッド・ヴァケイション〉。調子はずれの歌声は、歌っている本人にはサンダースの声のように聞こえているのだろう。

 永井は何の反応も見せないまま、困惑するアナスタシアを見下ろしていった。


永井「まさか、善意から助けたとでも思ったか?」

546 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:18:44.07 ID:oL93h30zO

 そう言ってから、アナスタシアの表情を見る。返事は聞くまでもなかった。永井は悩ましげに瞼をぎゅっと閉じ、指で押さえた。いったいどうして、こいつはこんな状況なのに情緒的にしか頭を働かせられないんだ。情緒を理由に行動したり、モラルを優先したりするのは、市民権のある人間ーーそう、まさしく人間ーーにしかできない贅沢だってのに。権利のない人間にとって、道徳の優先順位は食うことより下。ブレヒトを読んでなくたって、それくらい理解できそうなものなのに……。


永井「ああ、そういうことか」


 永井はアナスタシアが自分に何を求めているのか悟った。けだるい態度でふたたび下方のアナスタシアを見る。こんどはゆっくりと、貫くように。思考そのものを読みとろうとするかのように、アナスタシアの凍りついた表情を見る。

 理由はあの小楢の木の下ですでに聞いていたのだと永井は思い出した。新田美波の弟だから。それが理由だ。
547 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:21:08.18 ID:oL93h30zO

 容姿や言葉づかいから鑑みるに、アナスタシアは他者と積極的にコミュニケーションをはかる性格ではない。生まれついての性格やロシアと日本でハーフとして過ごした生い立ちが、現在のアナスタシアの人格をかたちづくったのだろう。容姿は秀でているがそれだけに近寄りがたく、たどたどしい口調を理由にコミュニケーションを断念される。そのような人物が、亜人をめぐる国家的な事態にたいしては積極的に関与してみせた。アナスタシアにとって姉との関係性はそれほど重要だということだ。

 永井は美波が姉で良かったと思い、そのやさしさや他者への気づかう性格に心の底から感謝した。こうして駒として使用できる亜人がひとり、手の内にあるのだから当然だ。結果さえ伴っていれば、アナスタシアの善意にも山中のおばあちゃんと同程度には感謝したかもしれない。だが、アナスタシアの介入は特段かんばしい成果はあげず、だからこそスケープゴートにするのがもっとも有益な活用法だったのだが、この思惑もうまくいかなかった。となれば、アナスタシアも中野と同様に佐藤を止めるために仲間にするのがいまのところましな選択肢なのだが、永井はどうにも気がのらない。
548 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:23:35.95 ID:oL93h30zO

 佐藤との戦闘にあたり、アナスタシアが戦力になるか、永井は評価を保留している。本体の戦闘力はともかく、コントロール可能な黒い幽霊は有益だし、仲間はひとりでも多い方がいい。しかし、問題点もある。そっちの方が多いくらいだ。アナスタシアはただでさえ目立つ容姿をしている、しかもアイドル、それも知名度があるアイドルなのだ。スケープゴートにできたなら、これらの点は有効に作用しただろう。容姿と知名度がアナスタシアを追い詰め、永井は注目されることがなくなる。そういう望ましい状況が生まれるはずだった。いまでは、それらはむしろネックになっている。秘密裏に行動しなければならないこの状況では。

 それに、アナスタシアは死ぬのを怖がっている。自分でリセットできない亜人などどう考えても足手まとい。死に際がわからず、銃撃に怯んで動けなくなってしまったり、逆に空気を裂きながら襲い掛かってくる銃弾の群れに無闇に飛び込んでいくかもしれない。

 永井は階下のアナスタシアを無感心な眼で見やった。

 アナスタシアは永井の良心的な部分を見出だすのをまだあきらめてないのか、涙を堪えために細めた眼でなんとか永井を見上げたままでいる。そんなアナスタシアの様子をみた永井の心のなかにだんだんと疎ましさが増しはじめた。同時に、どうやら姉の状態はかなり良くないようだということも感じ取った。記者会見のことやその他の亜人に関することを気にして、おそらくは鬱状態にまでなっているのだろう。

 すっかり動揺していたアナスタシアは、懇願するときのように声を絞り出して、自分が最も尋ねたかったことを口にしてしまった。
549 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:26:12.88 ID:oL93h30zO

アナスタシア「ミナミを、元気にしたくないの?」

永井「それは僕が気にしなきゃいけないことか?」


 冷徹な響きがアナスタシアを打ちのめした。それは非情さが現れた言葉だとアナスタシアは思ったが、つぎに続く言葉でそれは間違いであることに気づいた。


永井「僕がいまどんな状況にさらされてるのか、おまえ、わかって言ってんのか? 佐藤を拘束し事態を収束させなきゃ未来はないんだぞ」


 冷徹ではあったが、責めるような響きはなかった。それでも、アナスタシアの心を苛めるには十分な冷たさを備えていた。永井の不満はアナスタシアの要求そのものにあるのではなく、要求の仕方にあった。アナスタシアの要求は、交渉や駆け引きの要素が微塵もなく、無防備といっていいほど直截的に、美波に救いを与えるように永井に頼もうというものだった。救いは永井のほうが欲しいものなのに。永井からしてみれば、これは無能力の証左以外の何物でもなかった。バカでも独力で佐藤からも亜人管理委員会からも逃げおおせた中野のほうがまだ役に立つ、と永井は心中でひとりごちた。

 結局ただのガキか。永井はアナスタシアへの興味を失っていた。スケープゴート以外の価値を見出だすのは面倒ではじめから乗り気ではなかったが、そのつもりもすっかり消え失せてしまった。

 アナスタシアもそのことは感じ取っていた。そのことに怒るでもなく、アナスタシアは自分を責めた。正しく怒ることをせず、自責に流されるのは楽だった。というのも、アナスタシアは自分が永井だけでなく、美波に対しても、何ら善い影響を与えられないと分かり始めたからだった。
550 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:27:26.77 ID:oL93h30zO

 永井は階下から視線をはずして、スマートフォンを操作した。新着メールが届いてないことを確認すると、ため息をついた。アナスタシアは最後の希望を込めて、永井に訴えかけようとしたが、永井が先に口を開いた。眼はスマートフォンに落としたままだった。


永井「自分にそれができないからって、僕に勝手な期待をかけるな」


 ちょっとした忠告の響き、聞く人によってはアドバイスのように響く声だった。だがアナスタシアにとって、これは宣告に等しかった。いま現時点において、おまえは無意味だという宣告。過去はどうあれ、いま現時点において、おまえはだれに対しても救いをもたらせられない。おまえは存在する、息をする、鼻と口だけ使って、舌は使わず、だれかがおまえに眼をむける、しかし、気にもとめない、すぐに視線はよそへ行く。おまえは存在し、それだけだ。息をする、それだけだ。

 アナスタシアはふらつきながら立ち上がった。両足に力は入ってなく、身体はふらつき、頭が揺れた。倒れないのが不思議だった。やがて、夢みるような心持ちで、無意識に歩き出した。その夢遊病者のような、儚く離れ行く背中に永井が「おい」と声をかけたが、アナスタシアはうつむいて反応を見せないまま歩き、おぼろげな薄明かりを越え、夜闇のなかにいなくなった。

 永井はまた眼をつむった。頭を悩ませてる奴が勝手に姿を消してくれた。不確定要素が去ったいま、永井はひと休みすることにした。


ーー
ーー
ーー
551 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:28:55.16 ID:oL93h30zO

 数時間が経ち、中野がようやく居酒屋から出てきた。サラリーマン風の三十〜四十代の男性数名と連れ添っている。かれらのうちでいちばん太っちょで年かさの男性が両脇を、おそらくは部下であろう二人に抱えられて足を浮かせていた。店前に停まったタクシーまで引きずられながら、おれは運転できるぞー、と喚いている。両脇のふたりはなんとかタクシーに男性を押し込ると、眼鏡をかけたひとりが振り返り中野に快活に別れーーじゃあな、少年!ーーを告げた。


中野「ごちそーさんです」


 中野はタクシーが見えなくなるまで手を振っていた。

 永井はうしろのほうで中野が見送る姿を黙って見守っていた。


中野「サプラーイズ」


 タクシーを見送った右手をぶらぶらさせながら永井の正面まで来た中野は、その手を顔の横に掲げてみせると、そこには自動車のキーがあった。キーワードの輪っかに中指を通している。
552 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:29:57.94 ID:oL93h30zO

永井「スったのか」

中野「そんなことするか。くれたんだよ」


 と言いつつ、中野はだいぶ酔ってたけど、とちいさくつけ足した。


中野「明日休みだって言ってたしな。まあ、あの分だと昼までは起きれんばい」


 居酒屋の駐車場に停めてあった車の運転席に乗り込んだときだった。中野がアナスタシアの不在に気づいて、助手席の永井に尋ねた。


中野「あれ、アーニャちゃんは?」

永井「どこかいった」


 永井はシートベルトを引っ張りながら言った。


中野「はあ!? ひとりで? 女の子だぞ」

永井「平気だろ、亜人なんだから」
553 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:31:23.63 ID:oL93h30zO

 中野は咄嗟にエンジンをかけると不意打つように車を急発進させた。シートベルトを着ける寸前だった永井はダッシュボードに頭をぶつけそうになった。


永井「なんだよ、急に!」

中野「探すんだよ、歩きならまだこの近くだろ」

永井「はあ!? 放っとけよ」


 中野は言うことをきかず、ハンドルを右にきった。赤い車体が幅の狭さにもかかわらず、スピードを出して道路を突き進んでいく。永井は抗議したが、中野は無視した。


永井「わかった、見つけるからいったん車停めろ」


 駅近くまで車が走り、ぽつぽつと人の姿が見えだしたところで、永井が観念して声をあげた。
554 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:33:06.87 ID:oL93h30zO

中野「探してるだろ」

永井「やみくもに走らせても意味ないだろ」

中野「じゃあ、どうすんだ?」

永井「車停めてカーナビつけろ」

 中野は言われた通りにした。起動したカーナビの画面に地図が表示され、現在地の周辺情報が検索可能となる。

 井戸から出したとき、永井は亜人は追われる存在になったとアナスタシアに言った。その説明にうそはなかったが、わざと言わなかったこともある。追われる亜人とは永井のことで、アナスタシアはそうではないということだ。追手の銃声の効果も手伝ってか、アナスタシアはなにも聞かずに黙ってついてきた。疑いを持ったとしても、アナスタシアのスマートフォンはいまも永井が預かったままなので、動画が拡散させれいるか確かめる術がない。自分の正体が世間に露見したと思い込んでいるはずだ。ならば、人気のない場所をしらみつぶしに探せばいい。

 永井は頭は良かったが、この考えは直感的なものだった。トラックに引かれた日、永井もおなじ気持ちを味わっていたから。

 蒸し暑さにうるさく鳴く虫。うんざりするような暑さが今日も夜を包んでいる。訴えるような犬の遠吠えがかすかに聞こえた。

 アナスタシアが歩き去った方角と移動速度を考慮して捜索すべき範囲を決めると、永井はめぼしい箇所をいくつかピックアップする。公園や神社といった夜間に人の気配がない場所を。

 捜索場所を選び終えると、焦れていたのか中野がまた車を急発進させた。

 永井はとっさにダッシュボードに手を置いたので、身体が前に倒れることはなかったが、それでも悪態をつきそうになった。

 こんなことになるなら井戸の底に置いてくればよかった。そう思いながら、永井はようやくシートベルトをつけることができた。


ーー
ーー
ーー
555 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:34:33.45 ID:oL93h30zO

 ドーム型遊具のなかにいると、暗闇のおかげですこしだけ安心して休まった気持ちになる。コンクリートでできた半球形の屋根がすべてを遮断してくれ守ってくれるように思える。例外もあるが。ここにいれば、街灯の緑っぽい光やすれちがう他人の視線から避難することはできる。ただ熱気からは逃れられない。形と材質のせいで、熱気のほうが逃れられないといったほうがいいかもしれない。蒸し風呂とまではいかないが、そうとうな温度なのは確かだ。

 今夜は風がなく、涼むことは望めそうにない。ドームのなかにいるアナスタシアにはなおさら。

 アナスタシアは暑さが苦手のはずだったが、ドームの下で微動だにせず、膝をぎゅっときつく抱き締めて顔を埋めている。額には汗が浮かび、首や背中もしっとりしている。夜の湿気を吸いとりきれず、余剰な水分が全身の皮膚から浮かび上がっているかのようだ。

 アナスタシアは膝を抱えた姿勢のまま、三十分は動かずにいた。眉間を伝って流れた汗の滴が鼻の頭をくすぐったとき、アナスタシアは顔をあげ鼻をすすった。目尻をこすると、汗と涙で手の甲が濡れた。この自分の手を見ても、アナスタシアがこれ以上悲しむことはなかった。悲しむ理由は搾り取られたようになくなっていた。胸のなかに虚無感が拡がっていた。
556 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:35:59.37 ID:oL93h30zO

 とはいえ、人間の心理はひとつの感情が一定のまま長続きするものではない。暑かったり寒かったり、周囲の環境が肉体的負担をかけている場合はとくにそうだ。

 アナスタシアはふと我にかえり、ひどい空腹と喉の渇きを覚えた。

 ドームの丸い穴から外の様子をうかがってみる。ほとんど無意識で、足の向くままにこの公園にやってきたので、周囲がどんな場所なのかはっきり見ておらず記憶になかった。

 穴窓から見えるのは公園の入り口と敷地をぐるっと囲うフェンス、入り口のすぐそばにあるコンクリート製の箱のような建物はトイレだ。トイレの入口横に備え付けられている電灯の蛍光灯は古くなっていて弱々しい白い光をフェンスの向こうにある防災倉庫に投げかけている。地面に草はなく、乾いたむき出しの土が平らに広がっている。お決まりの滑り台やブランコといった遊具。ちいさな公園だった。

 そして、やはり公園の周囲にあるのは住宅地だった。
557 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:37:38.02 ID:oL93h30zO

 子どもたちの遊び場なのだから、人の住む場所の近くにあるのが当然だ。アナスタシアは不安になる。いまはまだ夜で、人のすがたはなく、たまに自転車のホイールの回転する音や自動車の走行が聞こえるくらいだけど、朝になれば子どもたちが公園に遊びにくる、母親あるいは父親もいっしょについてくる、人であふれるほど立派な公園ではないけれど、午前十時くらいにはやっぱりだれかがやってきて、遊具にかけより、すべったりゆれたりする、そのうちドームにやってきて、ゆるやかな曲面をのぼり天辺に立って公園を征服した気分になる子どももいるだろうが穴を通ってドームの内側に入ってくる子どももいて、そしてそこでアーニャを見つけてびっくりする。

 見つけたのは亜人だから。

 もうだれもアーニャをアイドルとして見てくれない。

 ささやかな夜の中にアナスタシアはひとりぼっちでいた。

 どこにも行き場がなく、しかしここにとどまることもできない事実をアナスタシアはあらためて思い知る。絶望感がアナスタシアを襲う。
558 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:38:59.83 ID:oL93h30zO

 自転車の走行音がまた聞こえる。スピードはそれほど出てなく、タイヤがアスファルトを擦る音がやたら大きく響いた。角を曲がったときに鳴るあの特有の音だ。おそらく、公園ちかくに停車したのだろう。ドアが開き、閉められる音がたてつづけにして、だれかが公園へ入ってきた。

 アナスタシアは緊張で心臓をバクバクさせながら、トイレによっただけ、と思い込もうとした。身体を縮こまらせ、呼吸をとめて、気配を消そうと力んだ。

 足音は迷いないリズムを刻みながらアナスタシアのいるドームまで近づいてきた。ざっざっという土を踏む音がまっすぐアナスタシアの耳まで届く。

 アナスタシアは耳を塞ぎ、足音など聞こえないふりをしようとした。足音がいよいよドームのすぐそばまでやって来たとき、アナスタシアはやっとドームの穴から逃げ出きゃと顔をあげた。
559 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:40:49.79 ID:oL93h30zO

 顔にむかって光が投げかけられた。瞳に光線がまともにぶつかり、アナスタシアは反射的にまぶたをとじた。光が眼に滲みる。ぎゅっと搾るようにまぶたを閉じたので、まぶたの裏側の血流を感じた。

 ドームを覗きこんだ人物は光源をさげ、トイレを捜索しているもうひとりの男に向かって叫んだ。


永井「中野、いた」


 その声にアナスタシアが眼を開いた。

 動く気配を察したのか、永井はふたたび光源をアナスタシアに向けた。

 永井はドーム内のむわっとした空気を肌で感じ取って、いった。


永井「よくそんなところにいられるな」


 永井はスマートフォンのライトを消し、ドームから離れた。入れ替わるように中野がドームの入口から顔をのぞかせアナスタシアの姿を認めると、おおきく息を吐きながらいった。


中野「あー、よかったー。冬だったら凍死してるぜ」


 ドーム内の熱気を感じた中野は手に持ったうちわをバタバタと扇いだ。扇部が外に手招きするのように揺れている。風がアナスタシアのところまで流れてきたが、もともとの空気が暑いので涼風とはいかなかった。
560 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:41:56.51 ID:oL93h30zO

 アナスタシアは頭を下げながらゆっくりと外へ出てきた。中野はいっそう強くうちわをあおいだので、銀色の前髪が持ちあがり、額やまぶたをくすぐった。ふらつきながら立ち上がると、喉と胃の訴えがふたたび強くなってきた。
 

中野「永井、飲み物三つな!」


 アナスタシアをあおぎ続けながら、公園の入り口横にある自販機のまえにいる永井にむかって中野がさけんだ。

 アナスタシアのところからでも永井がびくっと身を震わせるのがわかった。永井があわてた様子でふたりのところまでもどってくる。


永井「大声出すなよ。見つかったらどうすんだ」


 声を潜めた永井の文句は、電車のなかでさわぐ子どもを叱るつけるときの口調だった。


中野「夜中だし、平気だろ」


 中野は顔を永井に、うちわをアナスタシアにむけながら言った。
561 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:43:46.73 ID:oL93h30zO

 永井はあきらめたようにうなだれた。永井の右手には五〇〇ミリリットルのコーラのペットボトルが一本あるだけだった。


中野「おれらの分は?」

永井「おまえが急に叫ぶからだろ」


 永井はなじりたくなるのをなんとか我慢した。

 中野が永井に文句を返すなか、アナスタシアは不安がぶり返し、のど元までせりあがってくるのを感じていた。

 永井と中野に再会したことで、アナスタシアはとある思いを抱きはじめていた。覚悟を決めなければならないという思い。亜人として生きていく覚悟、佐藤と戦わなければならない覚悟を。

 あたりまえのことだが、このような覚悟を決めるということはアナスタシアにとって、とてつもない困難だった。亜人のテロリストと戦うしかないという現実を、どうのみ込めばいいのか。アナスタシア十五才の少女でしかないのに。途方にくれ、もうひとつの現実に対する覚悟、自分はもう亜人として世間に認識されているということに考えを向けると、アナスタシアはもうどうしようもなくて、恐怖する。おののく。その容姿のせいで、ものめずらしい目で見られることは頻繁にあったが、これからは決して見られてはならない。すべてを剥ぎ取られた姿を見られてはならない。剥奪されてしまった。保障もない、権利もない、人間ではない、命だけはあって命しかない、亜人。

 美波の弟とおなじになってしまったが、彼は決してアナスタシアを助けてくれない。それどころか気にもとめない。犠牲にされるのがせいぜいだろう!
562 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:44:49.33 ID:oL93h30zO

中野「で、これからどうする? まずはアーニャちゃんを家に帰さなきゃなんないよな」


 出し抜けに中野の声が耳に届き、アナスタシアは顔をあげた。「えっ」という困惑の声が送りつけられた涼風に跳ね返される。風が鼻腔を通っていく。中野はうちわを左手に持ちかえていた。アナスタシアが考えに耽っているあいだも、うちわをあおぎつづけてくれたので、アナスタシアの額の汗はすっかり引っ込んでいた。

 中野がアナスタシアを見やった。さっき洩らした声が聞こえたようで、どうして驚いたのかとすこし訝しげに眉をよせた。が、すぐに得心がいったように中野が声をあげた。


中野「アイドルが男に送られるのはまずいか」

永井「どこかの駅にでも置いてくればいいだろ」


 永井が知ったことかという態度をあからさまに表情に示して言った。


アナスタシア「あ、あの!」


 またもや言い争いになりそうな空気を察し、アナスタシアは声をおおきめに出した。


アナスタシア「アーニャはもう、亜人だってバレてて……」

中野「そうなの?」

永井「気づいてなかったのか?」


 永井が信じがたいものを見る眼で中野を見た。
563 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:46:08.58 ID:oL93h30zO

中野「いや、アーニャちゃんが亜人だってのはわかってるよ。でも、居酒屋で亜人の話になったときもそんな話は全然なかったぜ」

永井「ていうか、こいつの正体ばらしてないし」

アナスタシア「えっ!」


 こんどはアナスタシアが驚いて眼を見張った。顔をぐいっと永井のほうにつきだし、話の続きを聞こうとする。


永井「セーフゾーンにいられなくなったのに動画を公開しても意味ないだろ」

中野「動画ってなに?」


 永井は無視した。アナスタシアにしても中野の疑問にこたえる余裕はなかった。

 心のなかでふつふつと気持ちが湧き起こる。アナスタシアはようやく、あまりにも自分勝手な永井に怒りはじめていた。飲み物を自分の分しか買ってこなかったのもむかむかする。しかし、同時に安堵の気持ちもあった。ふたつの気持ちが拮抗し、アナスタシアの表情が凝り固まった。

 どっちの態度を面にあわらわすか決められずにいたアナスタシアが、永井があるものをズボンのポケットにしまおうとするのを見たとき、思わず叫んだ。
564 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:47:23.02 ID:oL93h30zO

アナスタシア「アーニャのおサイフ!」


 永井はとくに驚いた様子をみせなかったが、大声には顔をしかめた。財布がアナスタシアに投げ返される。中を確かめると、わずかに硬貨が残されているだけで紙幣が一枚もなかった。


アナスタシア「お金がないです」

永井「こっちには資金が必要なの」

中野「おまえ、金返せよ」


 永井は中野にも財布を投げた。案の定、財布の中身は空だった。


永井「おまえ、ぜんぜん金持ってないな」


 永井はペットボトルの蓋をひねりながら平然とした調子でいった。

 ついにアナスタシアの堪忍袋の緒が切れた。永井の手からペットボトルをひったくる。開けかけの蓋がすっ飛んだ。アナスタシアは空にしてやるつもりでコーラを一気にあおった。しゅわしゅわとコーラの甘さが口に広がり、舌を満足させる。が、流し込まれた炭酸水が定められたように喉で弾けると、アナスタシアはむせてごほごほと咳き込んだ。
565 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:48:37.36 ID:oL93h30zO

 永井と中野はふたりして呆然としていた。アナスタシアが鼻と口を手でおおって上を向いたとき、永井は文句をぶつけようとアナスタシアに一歩詰め寄った。

 公園に盛大な腹の音がたっぷり五秒間響いた。

 音源はアナスタシアの腹だった。空腹がみずからの存在を思い出させようとしているかのような大音量。むかっ腹とすきっ腹が混じりあった状態にアナスタシアはどうしたらいいかわからず、羞恥に頬を赤く染めた。


永井「でかいし、長い」


 永井は勘弁してくれと思いながら言った言葉は、アナスタシアに追い討ちをかけた。


中野「ダジャレ?」

永井「うるさい」

アナスタシア「うぅぅ〜……」


 とうとうアナスタシアが大声で泣きはじめた。声量を押さえる術を知らない子どものような全力の泣きかた。
566 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:50:07.93 ID:oL93h30zO

永井「中野、車まで連れてってやって……」


 永井はなにもかも諦めたかのように両手で顔をおおった。

 中野は言われて通りにアナスタシアを車まで連れていった。中野は歩きながら食べ物の話をしてなぐさめる。アナスタシア泣きじゃくりながらもすこしは落ち着いた。


中野「車に食べ物あるから、それ食べよう。居酒屋の裏メニューを持ちかえりにしてもらったから」

アナスタシア「ケイはひどいです……おなかが減ってるの、アーニャにもわかってます……」

中野「うんうん、クズだよな、あいつ」

アナスタシア「そこまでは……言ってないです……」


 怒ったとはいえ、侮蔑を口にすることにアナスタシアは賛同できなかった。

 公園に残った永井はアナスタシアが持っていったペットボトルの蓋を探していた。地面をスマートフォンのライトで照らすと、真っ赤な蓋がすぐに見つかった。蓋を拾おうとしゃがむと、どっと疲れが出てきた。

 永井はしゃがんだまま、おおきくため息をついた。こんなことになるとは予想だにしてなかった。バカだろうがガキだろうが貴重な戦力になるだろうから連れてきたのに。中野も、アナスタシアといっしょに井戸に突き落としていたほうが良かったかもしれない……。

 クラクションの音が夜の公園に鳴り響いた。
567 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:52:06.22 ID:oL93h30zO

永井「あー、もう!」


 さすがの永井もついに大声をあげた。いそいで車まで走っていく。助手席に乗り込むと、ドアを乱暴に閉める。

 車内にはカレーの匂いが漂っていた。持ちかえり用の白い容器から中野がカレーをすくって口に運んでいた。


永井「居酒屋で食っただろ」

中野「これすげえうまいだって」


 中野は永井に容器を渡した。手に持つと、容器はまだ温かった。カレーの匂いと温かさは永井の空腹を充分に刺激した。カレーはごろごろした人参やじゃがいもが入った家庭でつくられるいたって普通の代物だった。だが、ひとさじ口にいれると、驚いた。白いごはんと思っていたのは、卵チャーハンで、味つけはされていないが、ぱらぱらに炒められていて、カレーと混ぜると、とてもうまい。山中のおばあちゃんのカレーよりおいしいかもしれない。永井はあっという間に平らげた。

 ふたつあるドリンクホルダーにはペットボトルのお茶がいれてあった。永井は未開封のペットボトルを持ち上げ、一口飲んだ。そのとき、ミラー越しに後部座席のアナスタシアの様子が見えた。
568 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:55:45.71 ID:oL93h30zO

 アナスタシアがじっくり味わいながらカレーを食べていた。もう涙は流してなかったが、眼はまだ赤く、ときおり鼻をすすった。アナスタシアは食事に割り箸を使っていた。なぜカレーを箸で食べるのかと疑問に思ったが、すぐに解消した。アナスタシアのカレーにだけアジフライが入っていた。作られてからそんなに時間が経ってないのだろう。アナスタシアがアジフライを齧ると、サクッという衣を噛む音がした。

 口の中のものを嚥下したアナスタシアがコーラを飲んだ。そしてふたたび食事を再開しようとしたとき、ミラー越しに永井と視線がかち合った。


アナスタシア「や、あげない」


 アナスタシアは永井からカレーを遠ざけながらいった。


永井「いらないよ」


 永井は呆れながら後部座席にペットボトルの蓋を投げた。蓋はアナスタシアのおでこに当たったらしく、ちいさく唸るような声が聞こえてきた。
569 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:58:28.21 ID:oL93h30zO

中野「永井、これ、おまえの姉ちゃんだろ」


 中野が見せてきたCDジャケットには水着姿の美波が印刷されていた。


永井「なんでこんなのがあるんだ?」

アナスタシア「こんなの……?」

中野「この車を貸してくれたおじさんの娘さんがファンなんだって。アーニャちゃんのCDもあるし、あとあれ、ラブライブのやつも」

アナスタシア「ラブライカです!」

中野「あ、ごめん」


 アナスタシアに謝ったあと、気を取り直して中野はいった。


中野「水着ってことは、夏の歌か。TUBEみたいな」

アナスタシア「コウ、ミナミはアイドルです……」

永井「それって違うの?」

570 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:59:48.98 ID:oL93h30zO

 永井の純粋な疑問にふたりは眼を見開いたまま絶句した。


アナスタシア「ケイは……ミナミの弟、ですよね……?」

永井「決まってるだろ」

中野「なのに聞いたことないのかよ?」

永井「ない」

中野「姉ちゃんなんだろ、おまえの」

永井「家族の職業なんて、職種は知っててもふつうは内容まで知らないだろ」

中野「アイドルはふつうじゃねえだろ」

永井「それより、はやく車だせよ」

アナスタシア「コウ、いますぐCDかけてください!」

中野「よしきた」


 中野はCDをオーディオに飲み込ませた。ローディングがおわり、スピーカーからイントロが流れ出す。


永井「だから、車……」

アナスタシア「ミナミの歌が終わるまではダメ!」
571 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 22:00:27.84 ID:oL93h30zO

 曲を聴いているうちに、永井は歌詞の内容が夏の季節感とはまったく関係ないことに気づいた。それは中野も同様だったらしく、曲がおわると「夏っぽくないな」とこぼした。


中野「でも、かっこよかったよな」

永井「あの曲調でなんでこんなジャケットになるんだ?」

中野「歌詞は?」

永井「いや、どうだろ……」

アナスタシア「ニェット……ちがいます、そうじゃないです……どうでもいいところを気にしないで、もっとまじめにミナミの歌を聴いてください……ケイ、〈ヴィーナスシンドローム〉というのはそもそも……」


 アナスタシアの講釈が鬱陶しくなってきたので、永井は別のCDをオーディオにかけた。美波とアナスタシアのユニット〈ラブライカ〉の曲。


 ーーひとりよがりの冷たい……ーー


 Aメロの最初の歌詞を耳にした中野が驚いた様子で永井のほうを向いた。


中野「これ、おまえのこと?」

永井「雨にかかってんだよ、それは」

アナスタシア「もぉー!」


 曲とは別のところばかり気にする永井と悪気がないために盛大に勘違いする中野のコンビに、アナスタシアはとうとう音をあげた。
572 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2018/02/18(日) 22:12:22.35 ID:oL93h30zO
今日はここまで。

話は進みませんだが、とりあえずトリオ結成ということで。アーニャには申し訳ないですが、このクズとバカとガキのトリオだと、人格がまともなアーニャがメインのツッコミ役になっちゃいますね。というわけで、次回も中野がボケて永井がスルーしアーニャちゃんがツッコミます。

卵チャーハンカレーの描写は、殊能将之『美濃牛』からそっくりいただきました。で、『黒い仏』をも読んだんですが、これは、その……マジっすか……。後期クイーン問題にラブクラフト……。凄すぎて絶句しました。
573 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/03/19(月) 13:36:59.33 ID:RhM68ior0
おつ

アーニャは離脱するのか?と読んでる途中に思ったけど
このまま3人で行動する感じみたいね

アーニャは男二人と違って正体が誰にもバレてない強みがあるけど
それが生きる場はあるかな
574 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:20:56.80 ID:7BzTB0Y9O

 今日、私は、第二ウェーブの開始を決意した。

 人間は省みることなく我々亜人への弾圧を加速させている。

 第二ウェーブのテーマは、“浄化”だ。

 田中君が拘束中見聞きした情報等から、陰謀に荷担した組織の主要な面々十一名をリストアップした。

 我々は、この十一名を暗殺する。


ーー
ーー
ーー
575 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:22:54.97 ID:7BzTB0Y9O

中野「ネ、ネ……ネブ……」


 中野は手に持ったアナスタシアのCDジャケットと格闘していた。小学校時代に習得したはずのローマ字読みの知識を動員し、〈Nebula sky 〉なるアルファベットの並びから、どうにか意味を汲み取ろうと必死になっている。


中野「ネブラ……スキ、カ?」


 しばらく眼を凝らしていると、中野の頭のなかでひらめきが起こった。そいつはどう考えてもぴったりくる答えだった、それ以外考えられない、だから歌詞の内容もすっぽり抜け出した、なんてったって英語なのが最大のヒント、いや答えそのものだ。


中野「あっ、そうか、アメリカか!」

アナスタシア「ニェット……アーニャ、ロシアと日本のハーフです……」


 アナスタシアがすかさず訂正する。その声には、わずかながらに無意識の失望の色が滲んでいた。


永井「スペルがちがうだろ。〈Nebula〉は星雲って意味だ」


 意外にも永井がアナスタシアに味方するように中野に注意した。中野は永井のほうを向いた。


中野「せいうんって……線香の?」


 ふたりの脳内で同時にコマーシャルソングのメロディーが再生された。「幸せの青い空」という歌詞もいっしょに。


永井「……それでいいよ、もう」

アナスタシア「よくないです!」


 アナスタシアの叫び声が車中に響いた。永井はうるさく思った。もう、すっかり夜だった。
576 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:24:47.66 ID:7BzTB0Y9O

 三人を乗せた車は高架下の駐車場に停めてあった。道路を行き来する車はなく、高架は屋根のように覆い被さっていた。高架の両側に並んだ平屋の民家も、近くにある踏み切りも、深夜なので真っ暗闇に呼応するように沈黙していた。音がしているのは永井たちがいる車の中だけだった。

 スピーカーの音量は絞ってあったが、中野とアナスタシアがぺちゃくちゃくっちゃべっていて、これが永井にはうるさかった。歌詞の解釈やレコーディング時の裏話などをアナスタシアは嬉々として語った。中野はふんふんと頷きながら感心したように話を聞いていた。アイドル本人が後部座席から歌っている曲の解説をしてくれるのがどれほど幸福なのか、中野はよくわかっていない。

 こいつら、いつまで話してるんだ。永井はいつまでも寝静まらないにふたりにげんなりしていた。

 中野もアナスタシアも親の言いつけを破ってはじめて夜更かしするときのように元気だった。肉体労働者らしい体つきの中野はともかく、細身の少女でしかないアナスタシアのどこからこんな元気が湧いていくるのか……。

 そこまで考えたとき、そういえばアナスタシアは姉さんとユニットを組んでいたっけ、と永井はいまさらながら思いあたった。
577 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:26:31.44 ID:7BzTB0Y9O

 幼いころは姉と遊んだ、トランプとかボードゲームとかで。こういったテーブルゲームの類いで姉と対戦したとき、永井の記憶では、いつも自分が勝っていた。それは、けっして負けがくやしくて忘れ去ったわけではなく、事実負けたのは最初の数回くらいで、あとは全部勝っていたからだった。

 美波は負けず嫌い。つまり熱しやすい性格だった。だから、敗色が濃くなってきたときにチャンスのようなものをそっと差し出してみると、すぐに飛びついてくるのだった。そこに罠を仕掛ける。あるいは、ほんとうにチャンスを差し出す。二回、三回と、逆転の可能性をちらつかせ、こちらもそれを必死にものにしようという懸命さをみせ、接戦を演じてみせる、確実に勝てる切り札を手札に隠しながら。そうすると、美波は地雷を踏んでしまったかのように負けてしまうのだ。

 たかがゲームだから、姉といえど、その感情を利用することにとくにためらいはなかった。永井からしてみれば、感情をよくあらわした美波の表情は手札のカードとおなじようなもので、見えるものを見えないふりするつもりなどまったくなかった。そうやって永井は姉とのゲームで勝ちを積もらせていったが、その結果、とんだしっぺ返しをくらうことになった。

 美波は負けを清算するため、フィジカルな勝負に切り替えた。家の前の道路での競争。いやがる弟を、姉が持つ強制力、先に生まれたというだけで持てる力をつかって外に引っ張りだし、せーので角のところまで駆け出す。当然、美波が勝つ。年上だし、運動するのが好きだからだ。かけっこは一回では終わらない。それまで負けた分を取り返すべく、何度もよーい、どん、で走り出す。
578 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:27:53.33 ID:7BzTB0Y9O

 九月初めの夕暮れ時。濃いオレンジ色の夕陽に照らされて、走るふたりの影がのびる。全力疾走は十回を越える。ついに永井が音をあげた。半分怒ってもいる。美波は水筒から麦茶をごくごく飲んでいた。勝利を味わうように。起き上がった永井はぷいと背かを向け家へと歩いていく。ドアを開けたところで、美波から声がかける──「ねえ待って、まだあと三十回は……」──永井はドアを閉めた、ばたんと大きな音がした。

 その後、姉弟のあいだでゲームが行われたことは一度もない。


永井「修学旅行じゃねえんだぞ。さっさと寝ろよ」


 永井は眠気をおさえながら言った。


アナスタシア「アーニャ、夜はちゃんと寝てました」

中野「おれ、行ったことないや」

アナスタシア「ダティチョー……! ほんとう、ですか?」

中野「金なくてさ。クリスマスや正月もなんもなかったな」

アナスタシア「コウのパパとママは、どうしてたんですか?」

中野「んー……」

永井「貧困エピソードとかいいから」


 永井があくびを噛み殺しながら、じれったそうに言った。眼をしばたたかせると、不機嫌そうな顔つきになった。
579 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:29:30.40 ID:7BzTB0Y9O


アナスタシア「ひどいことを言っちゃ、ダメです」


 アナスタシアは頭を突きだし、大声を出した。その顔は永井のすぐ横にあり、青い眼が永井の耳の穴と直線で結ばれた。アナスタシアはヘッドレストを両手で掴み、あごを親指の付け根のあたりに置いて支えていた。

 永井はいきなり座席を倒した。勢いよく倒れこんでくる背凭れにはね飛ばされ、アナスタシアは前後部の座席に挟まれるかたちとなった。

 アナスタシアはうーうー呻きながら、抗議の声をあげた。


アナスタシア「ウー、せまい! ケイ、せまくてくるしい、です」

中野「いじわるすんなよ」


 中野はガキのケンカをながめるときのような心持ちで言った。永井は眠りにつく寸前のような面持ちで、その言葉を無視した。座席の背もたれをアナスタシアがぐいぐい押してくる。永井が座席自体を後ろにスライドさせる。隙間はいっそう狭まり、アナスタシアの身動きは完全に封じ込まれてしまう。

 そこまでやったところで、永井は閉じていた瞼をふっと開いた。


永井「なんかめんどくさくなったきた」


 自分のやったことが急に馬鹿馬鹿しくなったのか、永井はそうつぶやいてから、座席の位置を戻した。背もたれは倒れたままだったが、息がつまるほどの狭さがすこしはましになった。
580 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:31:02.58 ID:7BzTB0Y9O


永井「おばあちゃんのトコにいたかったな」


 永井は充電中のスマートフォンをいじりだした。画面の放つ白い光が永井の顔を照らして、闇に浮かべた。


永井「日付変わってる……あ、あれの日だ。知ってる? 子供向け番組、人形が歌うの。けっこう面白いんだよ」


 永井がぶつくさつぶやく後ろではアナスタシアが座席のあいだから抜け出そうと、ずりずり身動ぎしている。アナスタシアが座席から抜けた右手をばたばたさせる。永井が座席をずり下がってアナスタシアの手のひらをかわした。


中野「やる気だせよ」

永井「やだ。もうおまえらふたりで全部決めていいよ」

中野「じゃあ、まずアーニャちゃんを帰して……」

永井「んー……」

中野「なんだよ? おまえ、アーニャちゃんも連れてくつもりか?」

永井「微妙」


 そうこたえた永井は、ずり下がりすぎて背もたれにほとんど肩だけ預けていた。ちょうどそのとき、アナスタシアの頭がすぽんと抜けた。ぜえぜえと疲れた様子をみせ、一息つこうと反対側の座席にある飲み物に手を伸ばすが届かない。アナスタシアの指がペットボトルを何度もかすり、二の腕がぴりぴりと痛くなってきた。永井が話を先に続けた。 
581 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:52:11.84 ID:7BzTB0Y9O

永井「暗殺リストが公開されたいま、佐藤と戦うなら待ち伏せがベストだけど、こいつの容姿は目立つ。不向きこの上ない」

中野「暗殺リストってなんだよ?」

永井「なんだよ、アイドルって。しかもけっこう有名だし……」


 うつらうつらしていた永井はすこし意識をはっきりさせ、中野に答えを返さず、そして、アナスタシアのみてくれを貶しはじめた。

 ロシアでも日本でも、その容姿をもの珍しく見られたり、実際に言われたりしてきたアナスタシアだが、待ち伏せに向かないからという理由で文句を言われたのははじめてだった。これには戸惑った。が、アイドルのことまで永井が文句をつけ始めると、さすがに抗議のひとつでもあげようという気持ちになった。放っておいたらまた何を言われるかわからない。アナスタシアは決心した。永井の頭をかるくはたいてやろう。痛くしないから、そんなに怒らないはず。言っただけではきかないのは目に見えてるし、それに、これまで永井にされたことを思えばはたくくらいはやってもいいと思う。

 アナスタシアはてこずりながら、警戒し威嚇する野良猫をそっとなでようとするときのように、永井の頭の上にゆっくり手を持ってきた。そして一瞬だけ手をとめ、それから意を決してふっと手を振り下ろす。ハンカチのように頭におろされるはずだったアナスタシアの右手は、永井によって思いっきり弾かれた。柏手の音が車内に響きわたった。アナスタシアの右手はぐんと半回転し、運転席の中野の額を打ちつけた。
582 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:54:28.10 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「いたい!」

中野「いてっ」


 手のひらと手の甲の両方に痛みが走った。中野のほうは硬い前頭骨に守られていたので、反射的に言葉が出ただけだった。中野は額を擦りながら頭を後ろにまわす。アナスタシアは下唇を噛みながら、赤くなってヒリヒリしている指を中野に見せてきた。

 
永井「どいつもこいつもバカばっか」


 永井はふたりにスマートフォンで動画を見せた。

 動画には佐藤が映っていた。亜人の人体実験に関与した十一名の顔写真と氏名、所属する組織とその役職名がプリントアウトされた用紙を佐藤は手に持ち、彼らを暗殺すると宣言していた。
 

佐藤『第二ウェーブは第三ウェーブへのカウントダウンでもある』


 佐藤の背後には奥行きのない空間があった。プロジェクター合成された晴れた日の公園の風景。この背景は、その明るさによって、人物の不在が際立っていた。

 佐藤が話を続ける。


佐藤『このウェーブ終了までに国が亜人弾圧の姿勢を改めていなかった場合、我々は第三ウェーブへコマを進める』

佐藤『第三……それが、最終ウェーブだ』


 佐藤はいちど言葉を切り、頭を下げる。頭を上げると、カメラに視線を戻し、こう宣言した。


佐藤『私がこの国を統治する』

佐藤『陳腐な夢に聞こえるか? 私はやる』


 佐藤の口角が笑みを作るようにあがり、動画は終了した。

 中野もアナスタシアも、しばらく言葉を失っていた。いまや二人とも、佐藤が暗殺を実行している様子──開始から達成までを鮮明に──思い浮かべることができた。
583 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:56:41.37 ID:7BzTB0Y9O
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584 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:59:23.16 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「アヂン、ナッツァッチ……じゅういち、人……」


 アナスタシアは数を数えてみた。十一人分の命、十一人分の命がゼロになったときのことを考える、そのときはもっと多くの、夥しいと言っていいほどの命が消える、そんな事態が起きる、ほとんど確信にちかい思い、ふと《戦争》という言葉が頭をよぎった、それは文章になった、それを読んだのは誰かの肩ごしから、──パパ? ママ? グランパかグランマ? それとも、まったく別の人? フミカもよく本を読んでるけど、覗きこんだことはないからちがうはず──こんなふたつの文章を。


《戦争はなくならないんだ。石のことをどう考えるかというのと同じだ。戦争はいつだってこの地上にあった。人間が登場する前から戦争は人間を待っていた。最高の職業が最高のやり手を待っていたんだ。》

《戦争がなくならないのは若者も年寄りもみんなそれが好きだからだ。》


 次いで、もうひとつ、戦争に関する文章が思い浮かんだ。いつどこで読んだのかはもちろん、肩越しに読んだか読み聞かされたのかさえ思い出せなかったが、それでも文章は思い浮かんだ。まったく、自分でその文章を考えついたかのような思い出しかただった。


《ともかく万事がこう、やけくその方向にいっちまったからには、いよいよ最後の、一か八かの手段を試みるしかない、そう覚悟を決めた、自分の力で、僕ひとりの力で、戦争を中止させるのだ! せめて自分のいるこの一隅だけでも。》
585 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:00:57.90 ID:7BzTB0Y9O

 亜人が三人も集まったのなら、尽きることのない命が三つも集まったのなら、《戦争》を、いや《戦争》が起きるのを止められるかもしれない。でも、そうだとしても、覚悟が決まらないし、勇気が足りない。美波がいたらと考え、すぐ思い直す。遠ざけねばならないのだ、争いや殺しといったおそろしいことから。アナスタシアはペシコフを亡くしたときの祖父の姿を思い出す。あきらかに心の均衡を崩していた、正気でいたくないという願望、他人事ではない死の恐怖。美波もそうなっている。佐藤のテロせいで、亜人の国内状況はひどくなるし、亜人の家族にとってもひどくなる。祖父のときよりもっとひどく、長く続く状況。

 アナスタシアとちがって、中野は決然とした態度で永井に身を乗り出して大声で言った。


中野「いますぐ佐藤のトコに乗り込もうぜ!」

永井「バカかよ!」


 永井は手で顔をおおい「あぁ……」という半分呻くような声を洩らした。それから、背もたれとともに身体を起こした。


永井「いいか? 現状僕らに勝機はない」


 ふたりの大声に驚いたアナスタシアは背もたれから解放されると、あわてて中野の後ろの席へぽんとお尻を移して逃げた。


永井「佐藤の居所がわかってそこに乗り込んだとして、糞ガキ三人になにができるよ? だいいち奴を止める方法は? 檻にでも入れるか? その檻はどうする?」

中野「できることはないってのか!?」

アナスタシア「クソガキ……」

永井「ないだろ、ほとんど」

アナスタシア「三人……?」

永井「僕らの持ってるカードは次の二枚ぽっちだ」

アナスタシア「さん……」
586 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:11:12.16 ID:7BzTB0Y9O

 永井は指を二本立てた。中野とアナスタシアはその指を見ながら永井の言葉を待った。永井がふたりの方を向いて、言った。


永井「ひとつ目は……僕がそこらの大人なんかよりよっぽど頭がいいってとこだ」


 永井の答えに、ふたりは同意とは微妙に異なる沈黙を返した。同意できなくないが、できればしたくないという沈黙だった。そのような空気に気づかないまま、永井は話を続けた。


永井「僕らは麻酔銃も亜人を閉じ込める部屋も持ってないが、そこは工夫しだいだ。まえ、生涯無力化する手段があるって話しただろ」

中野「したっけ?」

永井「したの!」


 永井はアナスタシアに顎をしゃくって、中野の視線をうながした。


永井「こいつがいた古井戸の跡には空気がなかった。酸素がないと人は瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ。こうやって周りを観察すれば、戦う手段は案外転がってるかも」

中野「いたっていうか」

アナスタシア「ケイに落とされました」


 アナスタシアははっきり言葉にして反論したが、永井は無視して話を続けた。


永井「二つ目は、戦うための最大のスキルをすでに持っているというとこ。例えば、こういうアンケートを取ったとする」
587 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:12:45.56 ID:7BzTB0Y9O

《戦場に次の三つのうち、ひとつだけ持っていけるとしたらどれを選びますか?》


@修練により鍛え上げられた屈強な肉体
A経験からあらゆる戦略を蓄積した頭脳
B不死身


中野「屈強な肉体だろ」

アナスタシア「コウ、二番だと思います」

永井「そう、すべての人が不死身を選ぶに違いない」

アナスタシア「エ!?」


 アナスタシアは永井がさも当然のように頭の良さを自慢していたたから──永井自身はそれが自慢だとは思っていない。ただの事実なのだ──てっきり答えは二番だと思っていた。そのことを永井に聞いてみたら、経験からって言っただろ、と返ってきた。

 永井はなかばムカつきながら、「聞くほうもヘタなのかよ」と言い捨てた。

 憤慨するアナスタシアを中野がなだめ、おさえる横で、永井がひとりごちるように言った。


永井「それらをふまえて僕らには、あの戦いに介入してできるなにかがあるはず……」


 思考が内へと向かっていくように、永井の声も最後のほうは小さくしぼんで、つぶやくようになった。

 しばらく、といってもそれは、ほんのすこしの秒数だったが、永井が言葉を切ったときの沈黙は、耳が痛いくらいだった。

 気を取り直した永井が、話を再開する。口調はどこか自嘲の色を帯びている。


永井「だが、佐藤にはそれを遥かに上回る人員・物資・経験があるんだぞ。僕らだけで戦う? ハッ、笑えるね」
588 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:14:19.93 ID:7BzTB0Y9O

 高架線の下は暗く、高架橋にのっているコンクリートできた道路は、ぎゅうぎゅうに押し固められたひとつの夜の塊のようだった。アナスタシアは永井の横顔をみた。動作中のオーディオのほのかな青色の光が、わずかにふくらんだ前髪、鼻梁から顎までにかけての輪郭をよわよわしく浮かび上がらせている。


永井「つまり、僕らが今やるべきは何か?」


 永井はふたりに向き直り、きっぱりと言った。


永井「仲間を探すことだ。それも強力なサポートが可能な大人に限る」


 永井の言葉を聞いた中野はニカッと笑い、「それならアテがある」と自慢げに言った。

 ほんとかよ、と半信半疑の永井のななめ後ろで、アナスタシアは頼りになる大人について考えていた。まっさきに挙げられるのは、家族を除けばプロデューサーしかいなかった。だが、彼のことを口には出さなかった。大きな身体をしているが、乱暴なこととは無縁の人で、だからアナスタシアは美波や仲間たちとおなじく、プロデューサーも、危険で物騒なことから遠ざけたかった(それに永井になんと言われるか。芸能関係者の名前を出したところで、またバカと言われるだけだ)。

 永井のスマートフォンがふるえて、充電が完了したのを知らせる。永井は充電器の線を引き抜くと、オーディオからCDを取り出した。それからふたたび座席の背もたれを倒し、眼を瞑って、本格的な眠りにつこうとする。それにつられて中野の伸びをし、背もたれに身体を預けた。
589 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:18:43.50 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「ケイ」


 アナスタシアは首をつきだして、顔を見下ろしながら永井に呼びかけた。


アナスタシア「アーニャは、どうすればいいですか?」

永井「さあね」


 永井は瞼を閉じたままぼやいた。いまにも眠りに落ちそうな声。中野の瞼はすでに閉じられている。


アナスタシア「わたしも、サトウと……バロッツァ……」

永井「どっちでもいいよ」

アナスタシア「どっちでも……?」

永井「おまえが戦闘に参加するとして、メリットとデメリットが同じくらい。だから、どっちでもいい。ぜんぶ自分で考えて決めたら?」


 永井の声に覇気はなく、しぼんでいくようだった。しばらくすると胸が規則正しく上下なせながら寝入ってしまった。アナスタシアが戦おうが戦うまいが、永井にとってはほんとうにどっちでもよかった。深く眠っている中野の寝息と永井の浅い寝息が重なりはじめているのが聞こえた。
590 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:20:45.06 ID:7BzTB0Y9O

 宙吊りの状態。アナスタシアは二つの極のあいだで惑っていた。ひとつは、たとえるなら上方に位置するほうで、そこでは無数の輝きが空間いっぱいに星の海のように広がっている。視界の下から上まで光に満たされ、光を見る自分自身も輝きのひとつになっている。対するもうひとつ、下方に存在するのは死者たちだ。雨に濡れた地面に横たわる死体の反応の無い眼、スプリンクラーが血を洗い流している研究所の通路、墜落させられた旅客機、崩れ落ちるビル、瓦礫の下の人びと、SAT隊員五十名。死者たちのリストは続く。あらたに十一名が加わる可能性。死者の長い列は続いてゆく。

 このようなリストの存在をいつから意識し始めたのか、アナスタシアは疑問に思った。佐藤による暗殺リストの公表が形を明確にしたわけだが、本質はすでにアナスタシアの内部にあった。観念から形象へ。その観念はいつ生まれたのか。死についての観念は。自分がはじめて死んだときかと思ったが、そのときの記憶ははるか過去のもので、痛みの実感とともに遠くにある。幼い頃のアルバムを開いた両親が親戚に向かって撮影当時のエピソードを語っているのを、すこし気恥ずかしい思いをしながら他人事のように聞いているときのようなもので、振り返ってみてもその当時がみずからの人格形成に作用したとはどうしても思えない。だから、アナスタシアにとって、死というものの存在を知った日、死の観念が生まれた日は、うちひしがれた祖父の姿を見たときだ。そして、そのときから漠然と抱いていた死のおそろしさにはじめて戦慄したのは、永井圭が死んだときだった。それは美波の動揺に反応した面もあったが、死そのものに対する言い様のないリアルな不気味さを実感したせいでもあった。以前にも似たような感触を味わったことがある。中学生のときだ。
591 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:22:37.68 ID:7BzTB0Y9O

 中学の一、二年のとき。夏休みがあけた九月一日の始業式。全校生徒が体育館に集められていた。アナスタシアは隣の列の友だちと他愛なくおしゃべりしながら始業式がはじまるのを待っていた。マイクで拡声された学年主任の声が響いて、校長先生が壇上へあがる。学年主任と入れ替わるかたちで演台の前に立った校長は、おはようございますと生徒たちに向かってあいさつをした。マイクを通しているにも関わらず、声は低く通りがよくない。そのせいか生徒たちの返事はまばらでためらいがちだったが、校長はやり直しを求めなかった。

 校長はこう言った。悲しいお知らせがあります。三年ーー組のーーさん(クラスも名前も覚えてなかったが、名前は女子生徒のものだということだけは確かだ)が夏期休暇中に亡くなられました。交通事故でした。

 教師たちの予想に反してざわめきは起きなかった。生徒たちは顔を見合わせたり、固まったりしたまま、息を止めたかのように静まっている。アナスタシアは三年生が列を作っている方へ首を向けた。生徒たちは密に伸びた木々のようで、事故で死んだ生徒のクラスの様子は伺えなかったが、友人らしき女子生徒数名がすすり泣いているのが聞こえた。
592 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:28:28.99 ID:7BzTB0Y9O

 それをきっかけにしてか、演台の校長が哀悼の言葉を言う。黙祷が一分つづき、それが終わると校長は演台から離れ、学年主任と交代した。学年主任も引き継いだように哀悼の言葉を一言いってから、連絡事項に移る。始業式が終わり、教室に戻ってからも担任教師が女子生徒のことでなにかを言った。おざなりではなかったが、演台の校長の言葉にくらべると、深刻さは薄かった。

 しかし、それも無理のないことだった。三度目ということもあるし、アナスタシアを含む教室の全員が上級生の死に対して、可哀想と思いつつも、悲しみにくれていなかったからだ。顔も名前も知らない人の死を心から悼むことはできないのは当然だ。

 だが、生徒たちのあいだにはひとつの共通する思いがあった。

 十五才で死ぬひとがいるなんて。死は老人か病人のもので、自分たちが死を意識しはじめるのは五十年は先のことだと思っていたのに。

 壇上の校長は、生徒たちに向かって、あなたたちも死に得ると告げたようなものだ。死なないように。あなたたちは死に得るのだから。

 アナスタシアたちは、そのことに特別おそろしくなったわけではない。ただ死ぬことを悟っただけだ。数学の応用問題の解き方をふと思いついたときのように、自分が死ぬことを生徒たちは悟ったのだった。
593 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:29:49.05 ID:7BzTB0Y9O

 アナスタシアは充電器をそっと手に取り、自分のスマートフォンに差し込んだ。画面が明るくなり、アナスタシアの顔を照らした。不在着信の数は百近い。そのひとつひとつを確認していきたかったが、眠気が限界に近い。

 アナスタシアはあきらめて座席に横たわると眼を閉じた。暗闇がいっぱいになる。永井と中野、ふたりの寝息が規則正しいリズムで重なっている。アナスタシアもふたりの寝息にあわせて息をする。心臓の音すらも、呼吸にあわせているかのようだ。やがて、ふたつに重なっていた呼吸の音は、暗い車中でみっつに重なっていた。


ーー
ーー
ーー

594 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:40:58.35 ID:7BzTB0Y9O
今日はここまで。

ほんとはもっと先まで書いてから投下するつもりでしたが、前回から二ヶ月経ちそうだったんできりがいいと思うところまで投下しました。

話が全然進んでないので、短めのをこまめにあげてくスタイルにしたほうがよいのかしらと考え??います。

話は変わって劇場での美波はとても可愛かったですね。そういうのはファンにやれって永井も言いそうだし。二曲目もとてもいい感じの曲でした。

今回の引用は上の二つがコーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』、最後のがルイ・フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』からです。
595 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/18(水) 21:11:15.80 ID:l9KsL7Sw0
おつ。「たくさん!」の出だしが亜人としか聞こえないの思い出した
596 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:54:35.68 ID:HRQM2WMiO

 手の中の振動がアナスタシアの目を覚ました。

 曙光が空に筋を描いて街を明るくするにはまだすこし時間があったが、あたりの暗闇は淡くなりはじめていた。もののかたちがぼんやりと見えてくる。輸送トラックが高架線を走る音が聞こえた。近くの踏切はまだ沈黙している。

 寝ぼけ眼で頭がはっきりしないまま、アナスタシアはつねにそうしているという習慣的な理由のみで電話に出た。


武内P『アナスタシアさん、ご無事なんですか!?』


 プロデューサーの声にアナスタシアは飛び起きた。勢い余って天井にごんと頭をぶつけてしまい、前部座席で眠っていた永井と中野は起き抜けに後頭部をおさえているアナスタシアを目撃することになった。

 寝ているあいだに指が通話ボタンに触れてしまったらしい。

 プロデューサーは動揺と焦燥に急き立てられていた気持ちに安堵が入り交じった複雑な感情でいて、通話口から漏れ聞こえてくる、がなりたてないように抑えられながらもアナスタシアの状態と居場所をはやく把握しようという必死な声が、永井らの耳にも届いた。
597 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:55:55.88 ID:HRQM2WMiO

 座席に正座するように膝をついていたアナスタシアは、これまでの経緯をどうやって説明すればいいのかさっぱりわからないでいた。

 高架線ではトラックが相変わらず行き来していたし、始発電車も動き出している。窓の外に眼をやれば、踏み切りの色、黄色と黒の縞模様が淡くなった薄闇のなかに浮かんでいるのが見える。ランプが赤く光ると、周囲の薄闇は青みがかっているように見えた。

 アナスタシアはこれらの音のせいで、プロデューサーに居場所がバレるのではないかと不安になった。下手にしゃべったら秘密にしておかなければならないことも口に出してしまいそうだった。アナスタシアは悩んだあげく通話口を手のひらで押さえると、顔を突きだし永井に助けをもとめた。


アナスタシア「どうしよう?」

永井「知るかよ」

中野「おまえのせいで困ってんだろ」

永井「じゃあ、遭難してたとか……」

アナスタシア「遭難してました!」

598 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:57:15.64 ID:HRQM2WMiO

 いくつかの案を提示する前にアナスタシアは最初のひとつに飛びついた。その性急さが永井には考え無しにみえ、勝手に困ってろといわんばかりにまた眼を閉じて二度寝した。電話口の向こうでは、当然プロデューサーが事態を把握しようと質問攻めをはじめるが、見切り発車の発言に首を絞められたアナスタシアは返答に窮している。 

 中野が首をのばしてアナスタシアをうかがっている。中野は永井の肩をこづいて起こそうとするが腕を払いのけられる。

 後部座席のアナスタシアはすっかり困りきって、弓の弦を引き絞るように下唇を噛んでいた。良い説明が思いついた瞬間、すぐにプロデューサーに話せる準備をしているかのようだが、まったく思いつかない。ウー、という涙を連想させるうめき声がもれた。

 中野が手のひらを差し出した。アナスタシアは意味がわからず、中野を見た。中野が差し出した手を振って、スマートフォンを渡すようにいっているのだ。

 すこし迷って、アナスタシアは中野にスマートフォンを手渡した。


中野「もしもし。おれ、中野です。あ、アーニャちゃんが森で倒れてるとこみつけたのおれなんすよ。マジビビりました、死んでんのかと思って。はい、遭難してて。気を失ってただけだったんすけど、最近まで意識なくて。持ち物もケータイしかなくて、これも壊れてたのか電源入んなかったんすよ。今日叩くかなんかしたら直ったけど。だからどこのだれだか分かんなかったんですよ。え? 警察? ああ、届けたんですけどすげー田舎で、ネットもないとこなんすよ。捜索届け出てるかわかんなくて。ダメっすね、田舎は。警官もやる気ないっすもん。あ、アーニャちゃんってアイドルなんすよね。それも意識が戻ってからはじめて聞いて」
599 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:58:27.69 ID:HRQM2WMiO

 得々とした中野の語りにアナスタシアは眼を見張っていた。それはプロデューサーも同じで、ここまで話を聞いたときにはもう中野のペースにはまっていた。

 打ち解けた感じのする通話が続いたと思ったら、中野がスマートフォンをアナスタシアに返してきた。


中野「てきとう言ったけど、アーニャ無事だし、まあなんとかなるばい」


 スマートフォンを耳に当てるとまだ通話中で、プロデューサーの声は落ち着いた雰囲気を取り戻していた。


武内P『中野さんから事情は伺いました。大変だったんですね』

アナスタシア「アー……はい……」


 これまでのいきさつを思い起こし、アナスタシアは苦り切った返事をした。


武内P『こちらに到着したら、すぐに寮までお送りします。今日はとにかく身体を休めることに専念してください』

アナスタシア「プロデューサー、ごめんなさい……わたし、みんなに迷惑かけてしまいました……」

武内P『多くの方がアナスタシアさんのことを心配していました。その方たちはアナスタシアさんが無事だとわかれば、心のそこからホッと安心しますよ。私もそうなのですから』


 アナスタシアは感極まりそうになる。そのことを悟られまいとスマートフォンを耳から離して胸元にあて、深呼吸して気持ちを落ち着ける。息を長く吐いて胸元をたいらにすると、アナスタシアはスマートフォンを耳にもどした。
600 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:59:41.72 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「プロデューサー……その、ミナミはどうしてますか?」


 いちばんの心配ごとを口にした。口にした途端、自分の言葉にうぬぼれが滲んでいないか不安になった。

 永井と出会ってから、アナスタシアの心中に、じつは美波のことをよく理解できていなかったのではないかという思いが去来していた。亜人だと発覚するまで、美波の弟の顔も名前もアナスタシアは知らなかった。妹のほうは名前も知っていてスマートフォンのカメラで撮影した美波とのツーショット写真や美波の歌を照れくさそうに唄う様子を撮影した動画(美波が吹き替えたのではないかと思うほど、妹の声は姉にそっくりだった)を見せてもらったことがあったが、重い病気でいまも入院生活を余儀なくされているとは知らなかった。

 アナスタシアが話してきたほどに、美波は家族のことを話さなかった。

 それは話さないという意志的な選択ではなく、話しがたさ、困難さのためだった。未解消の家庭事情から発生する困難さは、言語表象を不可能に近づけるし、話すことが可能だとして、そもそも人に話すような事柄ではない。

 一連の報道によって美波の家族の歴史を知ったアナスタシアもそのことを理解できた。しかし、それでもわたしには、という思いが拭いきれないのも事実だった。

 プロデューサーはアナスタシアの不安に気づいていないようだった。プロデューサーは別のことに気をとられ、ほのかな陰りに滲んだアナスタシアの声のニュアンスに気づくことはなかった。
601 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:01:22.24 ID:HRQM2WMiO

武内P『それは……あとで話したほうがいいでしょう』


 プロデューサーは苦しげに言葉を濁して通話をおえた。

 あたりはかなり明るくなりはじめていた。時刻は午前六時をすこし過ぎた頃。中野が言うには、プロデューサーと合流するのは二時間後の午前八時とのことだった。

 中野は助手席でうたた寝している永井を起こし、事情を説明した。

 怒りこそしなかったが、アナスタシアが思ったとおり永井は不機嫌そうに顔をしかめた。まだ眠っていたいのに邪魔されたのが不機嫌の理由のような態度だった。


永井「僕がそいつに見られたらどうすんだよ」

中野「トランクに隠れてればいいじゃん」


 中野はいたってまじめに答えた。

 ひとりでこっそりとトランクに隠れる永井を空想すると、アナスタシアはなかなか愉快な気持ちになった。とはいっても、永井がそんなことをするつもりがぜんぜんないことは、ふてくされた様子で背もたれに沈みこんでいる姿をを見なくてもわかりきっていた。
 

永井「お腹すいたな」


 眠気をにじませた声で永井がぼやいた。そのひとことでアナスタシアたちも思い出しかのように空腹を自覚した。
602 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:05:08.82 ID:HRQM2WMiO

中野「あそこに食堂があるぜ」


 言いながら中野は顎をしゃくって前方にふたりの視線をうながした。張り紙がしてある古びれたサッシの引き戸、ひさしのうえに掲げられた年月に晒されくたびれた白地の看板には色褪せた赤い字で食堂の名称が書かれている。ひと気のない観光地の路地にひっそりとたたずむ商品替えもしたことないようなみやげ物屋、そういう印象を与える食堂だった。

 引き戸の入口のすぐ側には鉢植えが並んでいて、世話をされず放置されたのをいいことに植物は生命力を野放図にひろげ、重く厚くなった葉を地面に垂らしていた。鉢植えのあいだに立て看板が縦につらぬくように立っていた。黒い細かな文字、おそらくメニューだ。

 三人は車から出て、立て看板へと歩いていった。今日はサービスデーらしく、朝の献立をたのむとたまごか納豆が無料でついてくると書いてあった。
603 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:07:03.17 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「アーニャは納豆にします」

中野「日本人だなあ」

永井「いいけど、変装しとけよ」


 アナスタシアは車から持ってきたレイバンのサングラスをかけてみた。サイズが大きく、顔の半分が隠れるほどだった。

 
アナスタシア「似合ってますか?」

永井「ダサい」

中野「デカすぎじゃね?」

永井「ていうか、髪の色をどうにかしろよ」



 男性陣からの不評に、アナスタシアはむっとしつつフードをかぶって銀髪を隠した。


アナスタシア「これでどうですか?」


 アナスタシアの声には憮然とした調子がこもっていた。


中野「なんかラッパーみたい」

永井「余計目立ってどうすんだよ」
 
中野「あれ? ロシアってラッパーいんの?」

永井「興味ない」

アナスタシア「ママがよく聴いてますね。アー……Dead Dynasty、とか」

中野「すげえなあ。おれ、t.A.T.u.くらいしか知らないや」

アナスタシア「アーニャもよく知らないです」
604 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:09:00.45 ID:HRQM2WMiO

 そこだけは何時になってもずっと暗い食堂と隣家のあいだの狭い路地というか隙間から猫が一匹飛び出てきた。猫は着地すると、その猫は白と黒のぶち猫で右眼のまわりの黒い模様が眼帯みたいに見えた。ぶち猫は育ちすぎて鉢植えから地面まで伸びた葉先が鋭尖頭の葉っぱの下を背中を掻くようにして歩き、ふと白い方の眼を永井にとめると腰を下ろし頭をあげ、ぱちくりと両眼をひらいた。

 猫の行動をみていたアナスタシアはしゃがんで、できるだけ猫とおなじ視線になろうとした。


アナスタシア「コーシュカ」

中野「猫のこと?」

アナスタシア「ダー。にゃんこのこと、です」

中野「にゃんこ」

アナスタシア「にゃんこ、です。にゃー」


 アナスタシアにつられて中野もしゃがみ猫の鳴き真似をして、ぶち猫の気を引こうとした。二人はミャウミャウ言ったり、指をならしたりしてみるが、猫は永井を見上げたまま動かなかった。永井はスマートフォンを見ていたが、ため息をついてポケットにしまうと道路の向こうを行き来する車や自転車をぼーっと見つめ出し、猫に視線をやることはなかった。

 猫が前足を永井のスニーカーの上に置くと、永井はようやく猫を見下ろした。猫はにゃーおとひと鳴きして甘えたがっているみたいだったが、永井はズボンのポケットに両手をつっこんだまま何もしないで無感情でいた。
605 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:10:11.57 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「遊びたがってます」

中野「かまってやれよ、永井」

永井「食べるまえにのら猫になんか触れるか」


 猫に対する態度をしない永井に、ふたりは文句をたれた。ふたたびミャウミャウと猫を呼びかけはじめたが、猫はかまいたがりに一瞥もくれず、前足を置いた姿勢のまま永井の反応を待っていた。

 永井が不意をつくように足をあげた。踵は地面についたままなので爪先がはね上がるかたちになった。猫はびっくりして一歩後ろに飛び退いた。

 永井が足首をやわらかくする体操みたいに足を振ると、左右に振れる爪先をを猫じゃらしだと思ったのかぶち猫が前足で叩こうとする。

 猫は夢中になっていた。足首を振るのに疲れた永井が爪先で地面をとんとんと叩くと、猫はスニーカーの爪先を引っ掻こうとした。
606 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:11:55.27 ID:HRQM2WMiO

 食堂の引き戸がガラガラと音をたてながら開かれ、なかから開店準備をしにきた六十代くらいの女性が出てきた。丈の長い襟元の弛んだTシャツを着ていた。猫は女性を見たとたん、一目散に逃げていった。中野が女性にすかさず話しかけ、店内に案内してもらう。

 朝食のメニューは白米にごぼうの味噌汁、ふっくらした焼鮭にきのこと卵の炒め物、そして三人が頼んだサービスの納豆はじゃこがまぶされたじゃこ納豆だった。飲み物の緑茶はぬるかった。

 箸が茶碗にあたる。鮭の身はほぐされ、納豆がかき混ぜられる。味噌汁をすする音と湯飲みを卓に置く音。みるみるうちに朝食が三人の胃に納められていく。

 アナスタシアは口をもぐもぐさせながら炒め物に箸をのばした。かき分けた卵のなかにきのこを見つけたとき、箸の動きがぴたりと止まった。半円のかさを持ったしめじとの睨めっこ、正確に言うならば一方的に睨まれているという感じだ。アナスタシアは箸で持ち上げ口をおおきく開けてきのこを食べようとした。だが喉が詰まったような飲み込めない感覚がして、結局すこし顎を引いて口を閉じた。何度が同じことをしてみたが、きのこは箸につままれたまま食卓の上に浮いていた。


永井「なにやってんだ」


 口を開けたり閉じたりしているアナスタシアを変に思った永井がそう言った瞬間、どうすれば思いついた。アナスタシアはすかさず永井に皿に箸をのばす。
607 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:13:42.17 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「あげます」

永井「口つけた箸でつまむんじゃねえよ」


 永井は不快感を露にきのこをつまんだ箸を押し返した。それから永井は中野がお茶をぐいっとあおっている隙にまるごと残ったアナスタシアの炒め物をすっかり空になった中野の皿にあけた。

 お茶を飲みおえた中野が元通りになった皿の様子に気づいた。


中野「あれ? 増えてる」

永井「やる」

中野「好き嫌いすんなよな」

アナスタシア「イズビニーチェ……ごめんなさい、です」

中野「なんでアーニャちゃん?」


 中野はかきこむようのして炒め物をたいらげた。

 永井は伝票を見て財布から千円札を二枚取り出して卓に置いた。


永井「払っといて」


 永井はふたりを残して食堂から出ていった。

 中野は伝票を手に取り、記入された金額と永井が置いていった金額を見比べる。考え込むような表情。眼はじっと二枚の紙幣に注がれている。


アナスタシア「コウ、どうしました?」


 アナスタシアが中野に声をかける。もしかしてお金が足りないのかと心配になる。

 中野は懐かしいものを見たときのような声で言った。


中野「これ、おれらの金なのかなあ」

アナスタシア「アー……」


 食堂の外では、ふたたび現れたぶち猫が永井に背中を撫でられて気持ち良さそうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。


ーー
ーー
ーー
608 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:15:12.37 ID:HRQM2WMiO

 中野が右にくんっとハンドルをきり、自動車はコンビニへと入っていった。アナスタシアは強い遠心力を感じながらスピードが速すぎるのではないかと思ったが、車はスムーズに駐車場に進入していった。

 時刻は七時五十分。プロダクション近くのこのコンビニのこの時間帯は客足のピークが過ぎ去ったころで、停まっている車は従業員のものをのぞけば一台しかなく、その車はプロデューサーが運転してきたものだった。プロデューサーは車から降り、コンビニの入口前に直立姿勢で待っていた。どことなく落ち着かない様子だ。

 車が曲がったとき、リアウインド越しにアナスタシアとプロデューサーの眼が合った。プロデューサーが車に引っ張られるように身体の向きを変え、アナスタシアを追いかけた。


アナスタシア「コウ、あの人がプロデューサーです」


 中野がバックのために振り向くとアナスタシアは頭を下げた。駐車スペースに停まり、アナスタシアは車から降りた。

 プロデューサーはアナスタシアがいま眼の前にいるのがまだ信じられないのか、半分呆けたような表情をしていた。言葉を失っているプロデューサーを前にすると、アナスタシアも何を話していいのかわからなくなっていた。
609 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:16:25.80 ID:HRQM2WMiO

プロデューサー「お怪我は、ないんですね?」


 やっとことでプロデューサーが口を開いた。


アナスタシア「ダー……大丈夫、です」

プロデューサー「そうですか」


 長く細い息をはいたあと、プロデューサーはようやく安堵の表情を浮かべた。


プロデューサー「よかった……ほんとうに……」


 胸が締め付けられるような気持ち。数時間前に電話で話したときのことを思いだし、アナスタシアはまた申し訳ないという思いでいっぱいになった。


アナスタシア「わたし、いっぱい心配かけたんですね?」

プロデューサー「あなたが無事ならそれでいいんですよ」


 背後で中野がゆっくりと車を発進させた。車はふたりの横に停まり、運転席側の窓から中野が顔を出してきた。
610 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:17:48.03 ID:HRQM2WMiO

中野「アーニャちゃん、おれらもう行くから」


 元気でとだけ言い残し、アナスタシアの返事も待たずに中野は窓を閉めようとした。プロデューサーはあわてて車に近より、中野に話しかけた。アナスタシアは思わずぎくりとする。


プロデューサー「中野さん、でしたね? この度はなんとお礼を申し上げたらいいか……」

中野「ぜんぜんたいしたことないっすよ」


 プロデューサーは永井に気づいた様子はないようだった。助手席の永井は帽子で顔に隠しシートに凭れて寝たふりをしていた。


中野「それじゃこれから仕事なんで」


 その言葉を最後に中野の運転する車は気ままな旅烏のように去っていった。空いた道路を走る車に劇的な印象はまったくなく、アナスタシアは永井と中野との別れがこんなにあっさりしてていいのだろうかと思った。


プロデューサー「なにか買っていきますか?」


 プロデューサーが尋ねた。朝食はもう食べたし、たとえ空腹でもアナスタシアは食べ物をねだったりしなかっただろう。プロデューサーはとりあえずミネラルウォーターを手渡した。
611 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:19:18.40 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「あの、これからどうしますか?」


 プロデューサーの車に乗り込んだアナスタシアが尋ねた。


プロデューサー「大事をとってまずは病院で検査を受けてもらいます。見たところお元気そうなのでわずらわしいかもしれませんが、ご両親もいらっしゃってますので」

アナスタシア「パパとママが?」


 アナスタシアはとても驚いた様子でプロデューサーに聞き返した。


プロデューサー「え、ええ」


 予想外の反応にプロデューサーの言葉が詰まった。アナスタシアの顔は青くなっていて、なにか怯える理由があるかのようだ。


アナスタシア「アーニャがあぶないことしたとき、ママはとても怒ります……」

プロデューサー「その、お父様もいっしょですし……」

アナスタシア「ママが怒ってるとき、パパはニナヂョーズニー……すこし頼りないです……」


 プロデューサーは言うべきことが見つからなかった。しばらくしてからとまどいがちに「車を出しますね」と言い、アナスタシアは消え入りそうな声で「ダー……」とだけ答えた。


ーー
ーー
ーー
612 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:20:33.61 ID:HRQM2WMiO
短いですが、今日はここまで。
613 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/21(月) 03:29:37.62 ID:MQxsUN2EO
追いついた

614 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:16:45.73 ID:Wqc3ZOPPO

 極度の混乱、極端ともいえる自罰的傾向、事実関係の誤認識、うつ症状の進行、精神療養の必要あり。新田美波─療養施設にて治療を受けている。面会謝絶され、隔離されている。世間から遠ざけられる─さらに。亜人に関する事柄からも─つまり、佐藤と永井圭。

 均衡が崩れた精神。それがどのような思考や感情を生み出すのか、アナスタシアにはわからない。今日は九月二日、アスタシアは高校の教室にいて、自分の席に浅く腰かけながらいま現在の状況について考えをめぐらせている。昨日の始業式の日には、心配しきったクラスメイトに囲まれ、静かに考えることができなかったから、今日は昨日の分までより多くのことを深く思索しなければならない。
615 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:18:29.01 ID:Wqc3ZOPPO

 学校に行くことに、母親は懸念を示した。母親はそれが過敏な態度だとは自覚していたが、亜人のことがひどく取りざたされている現状で、娘が突然消息を絶ち、その間に亜人が殺戮を引き起こし、その亜人は殺戮は一過性のものではなくこれからどんどん拡げていくと宣言したのだから、アナスタシアが亜人だと判明した直後の周囲への疑心暗鬼と不安がぶり返してしてたとしても仕方のないことだった。

 母親は(父親にも祖父母にもいえることだが)アナスタシアが亜人だと発覚してから、むしろ娘の安全にこれまで以上に気を遣いだした。車の行き来の激しいところでは痛いくらいに手を握りしめ、川の流れを覗き込もうと橋の欄干から身を乗り出そうとすればまるで連れ去ろうとでもするかのようにきつく抱き締めた。成長するにつれ、アナスタシアは家族のそうした態度にうんざりすることが多くなった。

 あるとき、母親のふとした注意に愚痴ったときの表情はいまでも忘れられない。
616 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:20:05.88 ID:Wqc3ZOPPO

 晴れ渡った冬の車内、ロシアはとてつもない寒波に見舞われていた。暖房の調子がわるく、途切れ途切れに吐き出される温風は調子を崩した犬の喘ぎに似ていた。窓ガラスが白くなっていたのは曇りのせいではなく凍ったせいだった。

 空気そのものが凍るほど寒い日に母娘ふたりで車に乗ったのは、明日は仕事なのにガソリンを入れることをすっかり忘れていたためだった(ついでに灯油を買う必要もあった)。母親は七歳になる娘に眼をやった。ふてくされていた。人形アニメが見たかったのだ。ひとりでも平気だから家にいると駄々をこねたが、もちろん母親は有無を言わさず防寒着をしっかり着込ませ車に乗せた。いまでは防寒着の前は開きマフラーはほどけていた。寒さよりこんな風に窮屈にされるのが我慢できないとでも言いたげな風だった。

 母親は寒いでしょと言いながら直しようとアナスタシアに手を伸ばす。アナスタシアは身体をはんぶん捻って母親に背を向けその手から逃げると、アーニャは亜人だからいいとぼやいた。

 母親が息を呑むのが気配でわかった。二、三回ゆっくり呼吸して、アナスタシアは慎重に瞳と首を動かした。母親は顔を前に向けていたから、横顔しか見えなかった。それでも母親の顔面に強張っているのがわかった。怒りと慄きと悲しみがいっしょになって直しようのない亀裂を刻み込んでしまっていた。
617 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:22:25.68 ID:Wqc3ZOPPO

 いまなら母親がそんな顔をした理由がわかる、亜人の情報提供を呼び掛けるチラシに載った永井圭の顔写真──佐藤と田中のあいだにあるその写真で永井は学生服の詰襟を上まで閉めている──を見ているとつよくそう思う。太い枝をみずからの首に突き立てて易々と頸動脈を破ってしまったあの光景は恐ろしかったが──あの躊躇いのなさは自分が亜人だと確信しているからというより、自分より偉大な存在にみずからのすべてを捧げようとしているかのようにアナスタシアには思えた──ある程度時間が経過してみると、行いそれ自体への恐れとはまた別の感情もあることがわかった。美波があの光景を見ていたらと考えると、背中を寒気が走り抜けたような感覚をおぼえた。それと同時に、アナスタシアは自分だけが感じる寒気におののいた。死を躊躇しないあの態度。それがある一点を越えたら自他の区別がなくなってしまうのではと、アナスタシアは漠然と感じている。一線を越えた先には帽子を被った男がいる。

 冷風がうなじにあたり、アナスタシぶるっとは身震いをした。髪を二つ結びにしていたから冷たさが首の後ろにまともにぶつかった。ひとりきりの静寂が守られていた教室にクーラーのゴォッーという作動音がおおきく響いた。
618 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:23:48.96 ID:Wqc3ZOPPO

 教室に入ってきたのは友達とはいえない距離間のクラスメイトだった。彼女はアナスタシアを見て、一瞬驚いたように口をすぼめてからおはようと言った。それから「すごく早いね」とそのクラスメイトは続けた。

 アナスタシアは「うん」とだけ応えた。理由を説明することはむずかしかったからだ。さいわい、相手は追及するつもりがなく自分の席にスクールバックを置いた。

 窓は大きく開けられ光と風をいっぱいに取り込んでいた。ふわりと風に浮かんだカーテンに視線をやってからクラスメイトはアナスタシアに「窓閉めてもらっていい?」と言った。

 他のクラスメイトが次々と登校してきて、教室に入ったとたん、彼女たちは室内の涼しさを喜び感嘆したように声をあげた。教室はにわかに騒がしくなっていった。宿題や部活、気になるアーティストの新曲やお菓子やおしゃれなど様々なことが話題にあがったが、今朝はやくNisei特機工業の石丸竹雄が出張先のホテルの一室で刺殺されているのが発見されたことを口にする者はいなかった。

 そんな教室の様子は、登校するまでの一見いつもと変わらないように見える風景のことを思い起こさせた。寝て起きて朝食を食べる女子寮であったり、学校やプロダクションにむかうときに通り過ぎる街中、行き交う人びとのことであったり、校門の隣で緑の葉を繁らせている桜の木であったり。風景には空気と光があり、肌の感覚が風や熱や音を記憶していた。それらはまるで亜人などはじめから存在していなかったかのような風景だった(例外はさらなるテロに対する厳戒警備にあたっている警官たちで、いまアナスタシアが眺めているチラシもその警官たちから渡されたものだった)。
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