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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」
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319 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:41:34.44 ID:8mPTevMeO
水筒の蓋をコップにして注いだ麦茶はかすかな波を作り、葉の隙間から差し込んでくる光線を跳ね返して揺れている。煎った大麦からできた液体は新鮮な色をしていて、その上透き通っている。アナスタシアは麦茶を一口で半分ほど飲みこんだ。冷たさが喉を通る感覚が気持ち良く、残りもすぐに飲んでしまった。蓋を空にしたあとにゆっくり息をつくと、喉に残っていた冷気が口まで戻ってくる。アナスタシアは永井にお礼を言った。
アナスタシア「スパシーバ……ありがとうございます」
永井「ごはんは食べた?」
アナスタシア「アー……お昼ならもう……」
食べました、と言いかけたところで、アナスタシアのお腹がちいさく鳴り、空腹であることを無遠慮に告げた。永井は、はずかしそうにうつむくアナスタシアにさしたる反応も見せず、バックからプラスチック製の保存容器を取り出しアナスタシアに渡した。
永井「お昼の残りで悪いけど」
容器の蓋を開けると、中にはサランラップに包まれたおにぎりが三個入っていて、底に小型の保冷剤が敷いてある。おにぎりのかたちはどれも不恰好で、ごつごつしていた。
320 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:42:35.35 ID:8mPTevMeO
永井「かたちが悪くてごめんね」
アナスタシア「あなたが、作ったんですか?」
永井「握っただけだけどね。村の人たちで草刈りするからって、みんなのお昼を作るのを手伝わされたんだ」
アナスタシア「だ、大丈夫、なんですか? テレビでたくさん……」
永井「案外気づかれないもんだよ。ちょっと田舎に来ただけで誰も僕の顔を知らないんだ。それに、十七、八なんてみんな特徴ない顔してるし」
そう言うと、永井はペットボトルのお茶を一口飲んだ。ペットボトルから口を離すと、永井はアナスタシアのぴったりくっつけた膝の上に置いたままの容器に視線を移して、言った。
永井「冷たいからおいしくないかも」
お腹が鳴ったすぐあとにパクつくのはなんだかはしたない気がして、アナスタシアはおにぎりに手をつけるのを躊躇っていたのだが、永井のひと言によって一口食べることに決めた。口に入れた白米は、たしかに永井の言う通り冷えていたが、お米は固すぎず柔らかすぎず、芯までしっかりとした食感があり噛むのが楽しい。具材はきのこの煮付け。だし汁と醤油とみりんの風味が噛むごとに染み出し、ご飯とのあいだに染み渡る。きのこそのものの味もとんでもなく美味しい。
アナスタシア「オーチニ フクースナ……!」
永井「そう。よかった」
321 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:44:15.01 ID:8mPTevMeO
アナスタシアが視線をおにぎりから目の前の永井に向けると、永井はアナスタシアがおいしそうにおにぎりを食べる様子を見て、安心したように薄い微笑みを作っていた。アナスタシアはその微笑みを見て驚いた。
アナスタシアは直接的にはじめて見る美波の弟がどんな顔、表情をしているのか、じっくりとよく見てみたい気持ちだったのだが、自分の顔がさんざん報道され、政府や警察はおろか一般の人びとにも追いかけられ、追い立てられている状況にあっては、そうした態度をとるのは失礼だろうと思い、永井が腰を下ろしたときにひかえめに一瞥したあとは、視線を二人のあいだの地面に向けていた。
目や鼻、眉の形といった形質的な類似はそういった理由から、しっかりと見て取れなかった。ただ、口角の角度や頬の持ち上げ方といった形式的な部分は、姉である美波の笑い方にそっくりだった。アナスタシアの驚きは、微笑みのかたちが類似していたことだけに留まらない。表面上は似ているはずの微笑みがもたらす効果は、真逆といっていいほど異なっていた。美波のそれと違い、永井圭の笑みは技術的な点が目について、なんだか落ち着かない気持ちになる。アナスタシアはそんな気持ちにを振り払うように二個目のおにぎりを食べ始めた。小枝を拾い、地面に刺す永井の表情から笑顔はもうなくなっていた。
結局、アナスタシアはおにぎり三個をすべてたいらげた。
322 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:45:17.68 ID:8mPTevMeO
アナスタシア「ごちそうさま、でした」
アナスタシアは手を合わせながら言った。
永井「口にあったようでよかったよ」
アナスタシア「中身は、キノコ、でしたね? なんていうキノコですか?」
永井「なんだっけな。このあたりでよく採れるんだけど」
アナスタシア「おばあちゃん、と言ってました。その人が、採ってきたのですか?」
永井「まあね。この近くの村に流れ着いたときに出会ったんだ。それからお世話になってる」
アナスタシア「ハラショー。それは、とってもいいこと、ですね」
アナスタシアはさっきたいらげたおにぎりの味を思い出し、いままで食べたこともないくらい美味しいきのこの名前をぜひ知りたいと思った。
アナスタシア「ンー……ショウコに訊けば、わかるかな」
アナスタシアがぼそっとつぶやくと、その声を聞いていた永井が疑問の表情を浮かべたので、アナスタシアは簡単に説明をする。
アナスタシア「アイドルです。同じ寮に住んでて、キノコにとっても詳しくて……」
永井「姉さんはいまそこに?」
323 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:47:08.43 ID:8mPTevMeO
永井は、その人物の個人的なことまで知るつもりはないとでもいうように、アナスタシアの言葉を遮った。
アナスタシア「アー……はい」
永井「様子はどう?」
アナスタシア「心配、しています。あなたのこと……」
永井「そう」
永井は視線を斜め下の地面に落とすと、黙りこくってしまった。
アナスタシア「あの……」
しばらくして、アナスタシアは永井に声をかけた。永井は声に反応は示したが、顔は地面に向けたままだ。
アナスタシア「今日のこと、ミナミには話しても……」
永井「駄目だ」
なおも顔を上げないまま、永井はアナスタシアの提案を最後まで聞かないうちにきっぱりと否定した。その否定の明瞭さに、アナスタシアはどぎまぎしてしまう。永井が顔を上げてアナスタシアを正面から見据える。その眼から、冷たいと言えるほどの意志が見て取れる。
324 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:49:05.46 ID:8mPTevMeO
永井「亜人管理委員会は現在逃亡中の僕の行方を最優先に捜索しているだろう。僕の家族や知人は確実に監視されているし、電話の傍受や盗聴だって行なわれているかもしれない」
アナスタシア「でも、ミナミはほんとうに、とても心配して……」
永井「相手は国だ」
永井はまたしてもきっぱりと言ってのけた。アナスタシアが沈黙していると、永井は淡々と言葉を続けた。
永井「僕の消息に関することがわずかでも洩れたら、政府はふたたび関係者を聴取する。母さんはともかく、姉や入院中の妹を煩わせたくない。ああ、それに下手すればきみも追及されるだろうしね」
言い終わると、永井はまたペットボトルのお茶を口に含んだ。斜めから降り注ぐ太陽の光が小楢の影の位置をずらし、永井が座っているところは明るくなっていた。地面に挿した木の枝は真っ直ぐな影を作っていて、枝と影による二本の線は時計の長身と短針のようだった。永井の位置から影をみると、どれだけ時間が経過したわかるようになっている。
アナスタシアはこれ以上自分がなにかを提案するより、永井が自分をここに呼んだ理由を説明するのを待ったほうがいいと思った。永井のほうが事態を冷静に判断しているし、それに頭も良い。
アナスタシアは永井が話し始めるのを待った。永井は膝の上に肘を置いて、手を脚のあいだに力を抜いた状態で垂らしながら垂直に立っている枝を見つめるばかりでいっこうに口を開こうとしなかった。アナスタシアはちらっと腕時計を見た。永井が来てから三十分が過ぎていた。そろそろここを出発しないと、寮の門限に間に合わないかもしれない。
アナスタシア「あの……電話は言ってました、わたしの助けが必要、って」
永井「そのまえにひとつ聞きたいことがある」
325 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:50:33.48 ID:8mPTevMeO
永井は顔を上げて、ふたたびアナスタシアを見据えながら言った。
永井「どうしてわざわざ研究所に?」
永井の口調は、込み入った事件の真相を論理的に解き明かした探偵が、唯一分からなかった事件の動機、犯人の心理の部分への疑問を口にするかのような口調だった。
永井「きみ自身にもリスクはあったはずだ。亜人だとバレたら大変なことになってた」
アナスタシア「ほっとくわけにはいきません」
アナスタシアも永井を真っ直ぐ見据えて言った。いまから自分が口にするのは重要なことだと、アナスタシアは確信していた。
アナスタシア「あなたは、ミナミの大切なムラートゥシィーブラート……弟、なんですから」
永井「そう」
永井は枝の影を一瞥してから、アナスタシアに視線を戻した。目の前の亜人を見据えながら、永井は言った。
永井「僕には理解できないね」
アナスタシア「え……?」
アナスタシアには永井の言ったことこそ理解できなかった。もしかしたら、不用意にロシア語を使ったせいかもしれないと思いあたり、改めて説明を試みようとした。そのとき、激しいめまいがアナスタシアを襲った。
326 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:51:34.30 ID:8mPTevMeO
永井「けっこう旨かっただろ?」
草の上に倒れるアナスタシアに向かって、永井は座ったまま、すこしも身動ぎせず説明してやった。
永井「そのキノコはイボテングタケっていってね、このあたりの針葉樹林帯にコンスタントに自生してる。イボテン酸というアミノ酸が、旨味のもとであると同時に毒成分でもあるんだ。中毒症状は二〇分から二時間で発症。腹痛、嘔吐、幻覚、痙攣、精神錯乱。意識不明に陥ることもある。きみが不死身でも、無力化する方法はあるんだよ」
永井の説明口調は、まるで妹に諭すかのようで、これは毒キノコだから、決して食べないように、と注意しているようだった。
アナスタシア「な……なん、で……どう、して……」
永井「国内四例目の亜人が、知名度のある現役のアイドル。三例目の亜人発見のすぐ後にその事実が発覚すれば、マスコミはいま以上に騒ぎ出す。そうなれば、現在僕を捜索している警察や政府の追手も、きみの捕獲に人員を割かざるをえない」
永井の声音は先ほどと少しも変わらず、やはり妹に説明するような口調だった。その声を聞いたアナスタシアの青い瞳が、毒によるものとは別の種類の揺れを見せはじめたのとは対照的に、立ち上がり、アナスタシアを見下ろす永井の瞳は、黒曜石のように小さく固まり、いっさい揺れることはなかった。アナスタシアは永井の眼を見た。その眼は、いままで見上げてきたどんな夜の空よりも、暗い色をしていた。
永井「アナスタシアさん、きみは最良のスケープゴートだ」
327 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:54:35.18 ID:8mPTevMeO
アナスタシアは反射的に黒い幽霊を発現していた。それはどことも知れないところから、だれともわからない人物が自分の顔面めがけて硬いボールを投げつけてきたとき、咄嗟に眼や鼻を腕を交差させて守るという動作に似て、反射的であっただけに正確さに欠けていた。発現したきり沈黙し立ちぼうけているアナスタシアの幽霊に、永井が発現した黒い幽霊が襲いかかり、その頭部を砕いた。
永井「その状態じゃあ、幽霊はまともに操作できないみたいだな」
制御を失ったアナスタシアの幽霊が地面に倒れる。崩壊していく星十字の幽霊の側に、右腕をなくした永井の黒い幽霊は膝をついている。黒い幽霊は頭を右に向けると、浅い呼吸を何度も繰り返しているアナスタシアを見つける。その黒い顔に、アナスタシアは恐怖を見る。
永井「待て! 殺すな」
黒い幽霊は首を巡らし、永井に向いた。黒い幽霊は一瞬無言だったが、すぐにアナスタシアに向き直り、永井の命令を無視して爪を開きながら残った左腕を振り上げた。永井は舌打ちし、幽霊とアナスタシアから目線を外し、次の無力化の手段を取り出そうとバッグを探った。
328 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:56:38.05 ID:8mPTevMeO
永井が水がせせらぐ切り立った崖の反対側、光を遮る緑の森に背を向けたとき、木々の間に生い繁る瑞々しい青草を踏む音が聞こえてきた。その草を踏む者は森のなかから飛び出してきたかと思うと、アナスタシアの身体に鋭い爪を突き刺そうとする黒い幽霊めがけて跳躍し、その背中に両足で蹴りを食らわせた。
中野「逃げろっ!」
バランスを崩した幽霊は、押しだされたようにアナスタシアを跨ぎ超えた。幽霊が背中をおこし振り向くと、ドロップキックを食らわせた張本人は草の上に倒れていて、肘を地面について身体を起こそうとしている。幽霊はすぐさま左手を開き、腕を振った。アナスタシアの目の上を、黒い線が横切る。中野は肘をついた体勢のまま、黒い幽霊に左手に貫かれてしまった。
身体を貫通し地面に刺さった血に濡れた黒い手が、陽光を受け緑に輝いている木々の枝と手を繋ごうとするかのように上に向けられる。中野の身体が宙に浮く。猛暑日にも関わらずやけに涼しい風が吹いてきて、まるで暑さを運び去ろうというように静かに吹く風に乗って、腹部の傷口、というか穴から溢れた血がまるで風に落ちた葉っぱのようにアナスタシアの目の前の草の上まで運ばれた。青く瑞々しい草の葉にひとつ、赤いアクセントが加わる。黒い幽霊は腕をハンマーのように振り下ろし、中野の身体を地面に叩きつけようとする。黒い幽霊の肩があがるその瞬間、二人してそれで死んだと思われていた中野が、息を吹き返したかのように黒い幽霊の頭部を両手で押さえ込むと、勢い額を幽霊の顔にぶつけた。
頭突きを喰らった黒い幽霊は思いっきり仰け反り、数歩後退すると、崖から足を踏み外した。
IBM(永井)『あ』
その一言を残し、黒い幽霊は崖から落ちていった。永井は目の前で起きた想定外の事態に困惑を隠せなかった。
永井「ええ……なんだ、このひ……」
329 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:57:43.47 ID:8mPTevMeO
言葉を切った瞬間、永井は死んでいる中野に向かって駆け出した。突然現れたこの男は、黒い幽霊が視認できていた。腹部に開いた傷口から黒い粒子の放出が始まっている。永井は足を上げ、中野の顎めがけてサッカーボールよろしく蹴りを放つ。
つま先が顎を打つ直前、中野の復活が完了した。中野は反射的に両手で顎を庇い、永井の右足を掴んで引き倒そうとする。だが、蹴りの威力を受け止めきれず、両手を弾かれながら中野は肩を回しながら後ろへ倒れた。永井のほうも足を掴まれたせいで、まるで氷で滑ったみたいに背中から地面に落ちた。中野は体勢を立て直そうと、後ろについた手に力を込めた。
アナスタシア「ふにゃっ!」
中野の右手はアナスタシアのほっぺたを潰していた。中野は手を退け、腕を掴みアナスタシアを立たせようとする。
中野「早く逃げろって!」
アナスタシア「う、うしろ!」
330 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 13:59:25.17 ID:8mPTevMeO
警告に振り向くと、ブレをはらんだ軌道が右斜め下から顎を狙って打ち上げられてくるのを中野の眼が捉えた。中野は後ろに身体を傾け、線を回避する。 永井は一メートル程の長さの木の棒を右手で握っていた。振り切った棒を両手で掴み、今度は中野の左側頭部めがけてふたたび攻撃しようと前に出る。
永井 (第二案「脳しんとう」。頭を揺さぶり、軽度なら数秒、重度なら数時間意識喪失させられる)
中野は永井の追撃への対応に全思考を使う。そして、殺さず無力化する方法を思いつき、振りかぶる永井に向かって突進する。
中野「どうやるんだっけな、アレ!」
中野は永井が木の棒を振り切るまえに距離を詰めると、左腕を永井の首にかけ行動を制しながら、自分は永井の背中へとまわる。首に巻きつけた左腕を右手で掴むと、力を込め、永井の首を締め付ける。
中野「中学のとき流行ったっ……!」
永井 (失神ゲームか)
331 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:01:10.99 ID:8mPTevMeO
永井は両手を棒の両端に移動させると、膝を打ち上げ横に倒した棒を半分に叩き折った。痛々しくさされだった折れ目を、首に巻きついている中野の腕に深々と突き刺す。中野に痛みが走った瞬間、首への圧迫が弛む。永井は拘束から完全に解放されるため、腕に突き刺さったままの木の棒を捻って傷口を苛み、さらなる痛みを与える。
中野は痛みに耐え切った。激痛にもかかわらず、解きかけた腕をさっき以上の力を込めて永井の首を拘束し、身体を後ろに倒しながら、首にかかる圧力をさらなるものにしようとする。
永井の気道が狭まり、呼吸がつまる。次の瞬間、永井は頭を後ろへ仰け反らせ、顎を上げて喉を晒した。中野の腕から引き抜いた棒を太陽の光を感じる自分の喉に刺し込む。躊躇のない自家加害は、永井の頸動脈をあっさりと破った。
中野「いっ!?」
アナスタシアは永井がまた中野の腕に棒を突き刺したのかと思った。永井の膝が落ち地面についたところで、アナスタシアは間違いに気づいた。だらんと垂れた両手には木の棒が握られたままで、喉の傷口からは血液が栓を抜いたシャンパンみたいに噴き出した。
僅かなあいだ三人は動けないでいた。アナスタシアは毒で、中野は驚愕で、永井は死亡しためだった。
332 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:03:44.94 ID:8mPTevMeO
この静止状態を打ち破ったのは、やはり永井だった。復活が完了した永井は、今度は中野の両腿に折れ目の尖端を突き刺し、大腿筋の深部まで捩込んだ。
中野「痛ってえ!!」
後ろへ転んだ中野が苦痛にもがいたのは僅かなあいだだった。木の棒を捨てた永井は、さっきバッグから取り出した結束バンドを地面から拾い、ナイロンでできた輪を中野の首に通してテール部を思いっきり引っ張った。
永井 (第三案「窒息」)
バンドは気道を閉塞させたが、永井の目的はそれではなく頸動脈だった。
永井 (もちろん殺すためじゃない。頸動脈洞に刺激を加えると、舌咽神経と迷走神経が反射を起こし、徐脈となって血圧が低下する。脳幹へ運ばれる血液は少なくなり、脳幹での酸素量は減少。結果、意識喪失に至る)
永井は結束バンドのテール部を右手で掴んで引っ張っていて、左手で中野の顔面を地面に押さえつけていた。それに加え、中野が起き上がれないように右膝を胸部に押し付けている。中野は手足をバタバタと、まるで溺れた人間が必死になって水面に上がろうとするように悶えさせていたが、永井が左右の頸動脈をバランスよく圧迫するためバンドを右にぐいっと引くと、その激しい運動は痙攣へと変化していった。
永井 (そして、窒息死には段階がある。数十秒、ほぼ無症状。三十秒〜一分、急性呼吸困難。一分〜三分、痙攣、意識消失、昏睡。死亡するまで四〜五分。海水では八〜十二分程。それ以上のことも。そう、ポイントは死ぬまでに時間がかかるいう所だ)
333 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:05:09.79 ID:8mPTevMeO
ついに中野の意識が消えさった。手足の痙攣が去り、呼吸音すらない完全な沈黙に入った。無呼吸期の段階では、心室細動さえ起こっている。中野の顔面はチアノーゼで青紫色になっていたが、結束バンドが絞めついている部分では毛細血管が破れてピンク色になっていた。
永井は中野の胸から膝をどけ、立ち上がって振り向いた。アナスタシアの姿が消えていた。
永井「まだ動けたか」
永井は舌打ちをしつつ、崖下を覗き込んだ。飛び降りてリセットしたのなら、血痕が残っているはずだがその形跡はなかった。永井は崖から引き返しアナスタシアが伏せっていた場所まで行った。地面を確認すると、小楢の木まで這った跡が残されていた。木から森までの数メートルのあいだには足跡があって、安定しない歩幅がアナスタシアの状態を物語っていた。いまのところ血痕も見当たらない。
永井 (リセットはされてない。死に慣れてはないようだ)
永井「けど、ウカウカしてらんない」
追いかける前に、無力化した中野を簡単に処理することにした。首の結束バンドはそのままで、手足にもバンドを巻いて動きを制限したあと、森の中へ運ぶ。さいわい、森に入ってすぐ落ち葉が溜まった窪地を見つけ、そこに中野を落とすと、その身体が見えないよう落ち葉と土をかけてで隠した。
永井はさっきのところまで戻ると、ワンショルダーバッグを肩にかけてから、永井は急いで森の中へ入っていった。死に慣れていないとはいえ、現在の追い詰められた状況では、先ほどの永井のように自家加害に及ぶかもしれない。永井は飛び越えるようにしてアナスタシアの足跡を辿りつつ、その場合の対処法を瞬時に組み立てた。
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334 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:06:28.82 ID:8mPTevMeO
アナスタシアの眼に映る森の木々は次々と分身を生み出していた。ひとつ、またひとつと木々は半分透けた影のような分身を増やし、樹間を埋めてアナスタシアの行く先を塞ごうとしているようだった。まるで森そのものが幽霊になったみたいで、薄暗い程度だった森の中は、幹の色や葉の裏側や伸び切った草の葉まで黒く見える。半透明の木々の分身と本物の樹木の区別もまるでつかない。焦点を合わせる機能が眼から失われてしまったのだ。アナスタシアは眼がおかしくなったのか、それとも頭のほうがおかしくなってしまったのか分からないでいた。頭の中で永井の声が前後の文脈もなく渦巻いていた。声は幻覚と組み合わさって森の幽霊たちが囁いているようだった。
「そのキノコは最良のスケープゴートだイボテングタケけっこうって口にあったようで中毒症状は旨かっただろアナスタシアさん亜人だとバレたら国内四例目知名度殺すなよかったよ僕にはきみの捕獲理解いってできないねこのあたりの自生していると同時に針葉樹林帯に警察や政府の追っ手コンスタントに不死身でも殺すなアイドルイボテン酸研究所にという事実がわざわざ発覚その状態じゃあ幽霊はアミノ酸が毒成分旨味のもとでおいしくない殺すなまともに操作できない二〇分から二時間で無力化草刈りに発症腹痛嘔吐幻覚痙攣精神錯乱意識不明に陥ることもあ」
335 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:07:45.77 ID:8mPTevMeO
アナスタシアの足が滑った。転んだ先にある木の幹は本物で、アナスタシアは勢いよく固い樹皮に額をぶつけてしまった。ぶつけた箇所の皮膚が擦りむけたが、痛みを感じることが気付けとなり、アナスタシアに現状に対する判断力がすこし戻った。増え続ける幻覚も声も相変わらず続いていたが、それを終わらせる方法をアナスタシアは知っていた。
地面にコマのようなものが回っていた。手を触れたら指が欠けてしまうかもされないような速度だったが、アナスタシアは深呼吸して息を止めると、コマに手を伸ばした。アナスタシアが掴んだのは、長さ三十センチ程の折れた枝で、黒く変色した樹皮の先から鋭く尖った部分が飛び出している。アナスタシアは両手で枝を掴みながら、先ほどの永井の行動を思い出す。眼を閉じて枝の先端を首にあてると、皮膚を針で押したような痛みになりかけている感触が伝わる。アナスタシアは肩を上下させるおおきな呼吸を二、三度行うと、痙攣する腕を引き、首めがけて枝を突き刺す。
336 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:09:01.87 ID:8mPTevMeO
痛みを感じて眼を開くと、枝の先端はわずかに血に染まっていて、首の傷からは血が一筋滴り落ちていっただけだった。アナスタシアは愕然とした。こんなにちいさな痛みのために、わたしは死ぬことを止めてしまったのか?
アナスタシアは、森に逃げるのではなく崖から飛び降りるべきだったと後悔した。同時にだれかに嘲笑れているという不安感も起こる。永井かと思ったがそれだけではなく、アナスタシアを押し潰そうとするように増え続ける木の分身や、蝉の鳴き声や、日を遮る葉が生み出す薄暗がりや、木の枝に着いた血が、なす術のないアナスタシアを嘲笑していた。
アナスタシアはふたたび木の幹に頭を打ち付け、これは幻覚だ、ほんとうじゃないんだ、と必死に自分に言い聞かせた。だが、もう一度自分で死ぬことはできそうになかった。死を拒否する身体の反応を抑えつけるための意志の力を引き出すには、いまのアナスタシアにはほとんど不可能だった。毒のせいもあるが、ほとんどの人間がそうであるように、アナスタシアは死にたくなんてなかったからだ。
アナスタシアは生命の危機を感じていた。このままでは確実に殺されてしまう。生き返って目覚めたら、解剖台の上にいるかもしれない。田中の生体実験の映像が急に思い出される。銃で頭を撃ち抜かれることがいちばん幸運な死に方だなんて、そんなことは思いもしなかった。
337 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:10:51.17 ID:8mPTevMeO
窮地から抜け出すために、アナスタシアは死ぬしかない。自分で死ぬか、永井に殺されるかの二択。前者が一回限りの死に対して、後者は無数に繰り返される死の始まりに過ぎない。
アナスタシアは黒い幽霊を発現する。黒い幽霊はさっきと同様立ったまま沈黙している。アナスタシアは喘ぎながら、苦しみに耐え頭を上げる。込み上げてくる嘔気を必死で抑えつつ、アナスタシアは自分を見下ろしている幽霊に命令の言葉を告げる。
アナスタシア「こ、殺し……」
首の後ろに衝撃を受け、アナスタシアの命令は途中で途切れる。頭が揺さぶれる感覚のあとに痛みがもたらされ、アナスタシアは木の根元にふたたび倒れた。幹に掴まってなんとか上半身だけ起こすとゴム紐が外れ、結んでいた髪の毛が首の後ろを撫でた。アナスタシアの後髪が血を吸った。
正面の斜面から永井が滑り降りてくる。スニーカーの裏が草や落ちた葉っぱを擦り、黒っぽい土が靴裏の溝を埋める。永井は斜面を降りながら黒い幽霊を発現し、自身も幽霊の後からアナスタシアに走って接近する。
永井がアナスタシアを発見したのは、ちょうどアナスタシアが黒い粒子を放出しているところだった。永井は咄嗟に手の平にぴったり収まる石を拾い上げると、手足を地面につけながら星十字の幽霊を見上げるアナスタシアめがけて斜面の上からから投石した。回転しながら放物線を描く石は、アナスタシアの後頭部にまるで正確に弾道計算がされた砲弾のようにぶつかった。これほど見事に命中するとは、永井にも思いもよらないことだった。
338 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:11:53.39 ID:8mPTevMeO
アナスタシアは幹の寄りかかりながら、襲いかかってくる黒い幽霊を見る。死んで復活するのを待っていたら、そのあいだに永井の幽霊がふたたびアナスタシアの幽霊を無力化するだろう。黒い幽霊の使用は二回目で、この日はすでに使用限度をむかえていた。後頭部から垂れた血が背中へ流れるのを感じながら、アナスタシアは覚悟を決めた。ここで殺されるわけにはいかない。彼の思惑通り、わたしが亜人だと世間に知られ、捕まってしまったら、悲しむ人たちが大勢いる。家族や仲間。そして美波。美波の心はもう限界だ。もうこれ以上、悲しさに耐えることはできない。だから、彼と戦う。戦って、そしていまならまだ、逃げることもできるはず。
アナスタシア「たたかって!」
渾身の叫びを放ったアナスタシアの身体が幹からずり落ちふたたび地面に手をつくことになったが、頭をさげることはなかった。命令を受けた星十字の幽霊が姿勢を低くし、引き絞られた矢が指から解放され張飛するかのように前方に飛び出した。永井はすでに足を止めている。永井の幽霊が星十字型の頭部めがけて右腕を振り下ろす。アナスタシアの幽霊は一際強く踏み込みさらに姿勢を低くすると、地上の獲物を捕獲する猛禽のような鋭い突進を見せた。攻撃をかいくぐり、右腕を伸ばしラリアットの要領で永井の幽霊の両脚にカウンターを加える。両方の膝がまるごと消失した永井の幽霊が前方におおきく倒れる。アナスタシアの幽霊は右腕の付け根から粒子を散らしながら身体を浮上させ、まっすぐ永井に向かってより強い突進してを見せる。
永井が三体目の黒い幽霊を発現させる。
339 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:14:08.26 ID:8mPTevMeO
三体目に対処する暇もなく、またしても星十字の頭部が砕かれる。
IBM(永井)『ざまーみろ』
三体目の幽霊がそうつぶやくのを、アナスタシアは混乱と絶望の入り混じった気持ちで聞いた。彼は、永井圭は、わたしよりもおおく幽霊を使えるの? どうして? なんで、二体同時に動かせるの?
アナスタシアも黒い幽霊を二体同時に発現することが可能だったが、命令通りに動くのは一体だけで、あとの一体はまともに動くことすらできなかった。
混乱はすぐに恐怖に変わった。膝を失くした黒い幽霊が、非人間的な動きと速さでアナスタシアに近寄ってきていた。逃げようとしても身体は麻痺して、気力を失ったアナスタシアは倒れた身体を起こすこともできなくなっていた。黒い幽霊は容赦が無かった。幽霊の手がアナスタシアの右脹脛を掴むと、尖った爪が筋肉を貫通した。
アナスタシア「うあ゛っ……あ、あ゛あ゛あ゛ああ!」
黒い幽霊は絶叫するアナスタシアを気にすることなく、そのまま脛骨も握り潰した。膝下から二十センチあたりのところで、アナスタシアの脚が外側に折れた。
IBM(永井)『なんで……他人を、気遣え……るんですか?』
黒い幽霊はその言葉を残して消失した。幽霊が消えても、アナスタシアは地面に伏せたまま。戦うことも、逃げることも不可能だった。助けを呼ぶことも、命乞いも不可能だった。泣き声まじりの呼吸が弱々しく続くだけだった。
340 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:15:10.21 ID:8mPTevMeO
永井はさっき投げつけた石を拾いアナスタシアに近づくと、その側頭部を小動物を打ち殺すかのように殴った。腕を振るフォームは、肩を温めるためにおこなうキャッチボールのときみたいにいい感じに力が抜けていた。
永井は意識を失ったアナスタシアの脚の傷に止血と応急処置を施した。それが終わると、中野と同様に拘束をしてから、ワンショルダーバッグから折りたたんだ青いビニールシートを取り出し、広げたシートの上にアナスタシアを運び、その身体を出来るだけ隙間がないよう包んだ。左右の端を捻りダクトテープで留めると、近くに隠していたガスボンベ用の運搬台車にアナスタシアを載せ台車から落ちないよう固定すると、後ろ手で台車を引っ張った。
永井「重いなあ……」
意識喪失した四十三キロの人体を運びながら森を進む。永井にとって、これがこの日でいちばん苦労の多い作業になった。
−−
−−
−−
341 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:16:52.69 ID:8mPTevMeO
アナスタシアが復活したときまずしたことは、襲ってくる痛みに耐えるため、瞼をぎゅっと締めつけるように閉じ、歯をくいしばることだった。だが痛みは一瞬で去っていった。アナスタシアが感じたのは錯覚で、折れた骨も裂けた筋肉も死から復活した際すべて完治していた。
永井「復活したか」
声がしたほうを向くと、永井が木を背にして地面に座っている。永井は中野から回収した携帯電話を操作していて、その個人情報を調べていた。永井のすぐ横に三脚が立ててあり、撮影用のスマートフォンが設置されている。永井はスマートフォンをタッチし撮影を中止すると、映像を確認しながら言った。
永井「足の傷は悪かったね。僕の幽霊は命令なしに勝手に暴走するから」
アナスタシアは何を言っていいのかわからなかったが、言いたいことがあったにしても口のまわりをダクトテープで巻かれていたため、声を出すことができなかった。アナスタシアは拘束された両脚をまっすぐ伸ばした状態で、古井戸の縁にもたれかけさせられている。井戸縁は石を積み上げてできた円形のものだった。両方の手首も結束バンドで固定され動かせない。さらに、胴体に圧迫感を感じ視線を下ろすとロープが巻かれていて、アナスタシアに巻きついているのと反対側のロープの端は、永井が背にしている木の幹に括り付けられていた。
342 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:17:54.56 ID:8mPTevMeO
永井「もう幽霊は出さないの?」
撮影した映像を確認し終えた永井がアナスタシアに尋ねた。永井の疑問を受けても、アナスタシアは目覚めてからと同様浅い短い呼吸を繰り返すばかりで、何もできない。細かく震えてもいる。永井はその反応を見て、黒い幽霊の使用回数には個人差があるみたいだな、と思った。これ以上有益な情報は引き出せそうにないし、中野のこともあるので、早めに処理することにした。
永井「その井戸だけど」
永井は身体をアナスタシアのほうに向ける、背後にある井戸を指差しながら言った。
永井「その穴の中には空気がない。地中のバクテリアが酸素を奪い、たかだか六メートル程度の穴の中を無酸素状態にするんだ。人は酸素のないところへ急に入ると、瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ」
説明し終わると、永井はアナスタシアに近づいてフードを掴み、井戸縁に沿ってアナスタシアを引き摺った。井戸縁にはまるごと欠けたところがあり、そこまでアナスタシアを移動させるつもりだった。アナスタシアはくもぐった呻き声をあげながら、手足をバタバタさせ必死に?いたが、永井は力を入れ一気に引っ張った。
343 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:53:35.04 ID:uktM1pJmO
永井「心配しなくても、しかるべきタイミングで外に出してやるよ」
永井はアナスタシアを引き摺りながら言った。
永井「追いかける獲物がいないと、警察も政府も困るだろうからな」
アナスタシアが何かを言おうと口の代わりに目をおおきく開けた。彼女の目が捉えたのは、地面にぽっかりと空いた暗闇だけだった。アナスタシアは一瞬、大きくなった永井の眼に見られているのかと思った。次の瞬間、井戸の内壁にアナスタシアの額がぶつかった。下を向いて落とされたアナスタシアの身体がこの衝突で左方向に回って、肩から落下していった。
どすん、という落下音がした。永井は真っ暗な井戸を覗き込んだまま一分ほど待機してみた。なにも起きなかった。永井は木の幹から井戸まで伸びているロープを土で隠してから、三脚を片付け、アナスタシアと中野から回収した携帯電話の電源を切った。アナスタシアのスマートフォンは解放時に返すつもりだった。亜人管理委員会や警察に追われてパニックになったら、助けを求めて不用意に携帯電話を使用するかもしれない。
永井は森の中を移動しながら、こんどは中野を運ぶ作業か、と思った。中野の体重はアナスタシアより重い。永井はすこし憂鬱になり、ため息を吐いた。
永井「明日は筋肉痛かなあ……」
−−
−−
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344 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:54:43.13 ID:uktM1pJmO
同日、ある映像がウェブ上にアップロードされた。カメラは低いビルの屋上に固定されていて、背景にあるのは何の変哲もない街中の風景。マンションや撮影位置と同様の低いビルが見える。音声には鳥の囀りや自動車の走行音が混じっている。画面中央にパイプ椅子に腰かけた人物がいる。その人物はハンチング帽を被っている。その人物は右手をあげ、映像を見ている者に挨拶する。
やあ、また会ったね。亜人の佐藤だ。
今日話すのは楽しい話じゃない。切迫。我々は追い詰められたのだ。だから、こう決断せざるをえなかった。
我々は武力によって、住み良い国作りをスタートする。
第一ウェーブは、水曜。
まだ参戦を迷っている亜人もいるだろう。君達のためにも我々はその日、圧倒的なATP(戦闘力)を披露しよう。
無関係と思っている人間達、いよいよ始まるぞ。
345 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 14:56:31.59 ID:uktM1pJmO
衝戟に備えろ。
346 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 15:02:27.19 ID:uktM1pJmO
今日はここまで。アーニャの父親の友人が山頂の風景を語るときのセリフは、樫村晴香という哲学者が風景を言葉で描写したときの語りを借用しました。ちょっと長いけど、素晴らしい描写なので飲用してみます。
石灰岩地帯に広がるガリグと呼ばれる低木林に一日いると、太陽の高度と雲の動きに従って、植物と空気が刻々と色を変えていくのが観察できます。そして、太陽が地平線に近づく頃、奇妙な光景に出くわすのです。ほとんど水平の光を受けて、草地の上に無数の銀色の線が出現し、揺れ動き、それを追う視線は、暗くなりかけた草地と明るい光の間を激しく往復させられ、視界全体が、滲むようなハレーションに浸される。ハリュシネーションのような……。これは草地に大量に蜘蛛が棲んでいて、ちぎれた巣が風に乗って舞い上がり、水平の光だけを反射して現れる。それを見ていると、何というか途方もない快楽で、捕らわれたよくに釘付けになってしまいます。死んでもいい、というような感覚。正確にいうと、生きていることと、死んでいることの差異が構造的に変動し、両者が近づいてくるような感じです。−−樫村晴香「自閉症・言語・存在」(保坂和志『言葉の外へ』所収)
このような風景描写、一生に一度でいいから書いてみたいです。
さて、次回はパッション溢れる佐藤さん。
347 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/08(土) 22:10:49.10 ID:uUFpPC78O
>>342
訂正
永井「もう幽霊は出さないの?」
撮影した映像を確認し終えた永井がアナスタシアに尋ねた。永井の疑問を受けても、アナスタシアは目覚めてからと同様浅い短い呼吸を繰り返すばかりで、何もできない。細かく震えてもいる。永井はその反応を見て、黒い幽霊の使用回数には個人差があるみたいだな、と思った。これ以上有益な情報は引き出せそうにないし、中野のこともあるので、早めに処理することにした。
永井「その井戸だけど」
永井は身体をアナスタシアのほうに向ける、背後にある井戸を指差しながら言った。
永井「その穴の中には空気がない。地中のバクテリアが酸素を奪い、たかだか六メートル程度の穴の中を無酸素状態にするんだ。人は酸素のないところへ急に入ると、瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ」
説明し終わると、永井はアナスタシアに近づいてフードを掴み、井戸縁に沿ってアナスタシアを引き摺った。井戸縁にはまるごと欠けたところがあり、そこまでアナスタシアを移動させるつもりだった。アナスタシアはくもぐった呻き声をあげながら、手足をバタバタさせ必死にもがいたが、永井は力を入れ一気に引っ張った。
348 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2017/07/10(月) 21:06:06.05 ID:8gNO9T+80
更新ありがとうございます
亜人のssは数少ないのでめちゃくちゃありがたいです
提案なんですがとある魔術の禁書目録と亜人のクロスオーバーはどうですかね?
349 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/07/10(月) 21:41:13.75 ID:9Rb28CM7O
>>348
コメントありがとうございます。『亜人』のssはたしかに少ないですよね。もうすぐ実写映画が公開されますが、ssへの影響は微妙ですよね(映画自体は割と楽しみにしています)。
『とある〜』とのクロスオーバーの件ですが、恥ずかしながら『とある〜』はアニメを数話見たのみで原作未読でして、ご提案に応えることは厳しいと思います。申し訳ありません。
350 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2017/07/11(火) 19:13:14.36 ID:OKD+Ge6+0
>>349
実写映画は配役がちょっとイメージと違う感じがしましたね
それとクロスオーバーなんですがリリカルなのはとかはどうですかね?
351 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2017/07/12(水) 01:50:39.12 ID:tUWbhTVnO
更新乙
女の子にも容赦ない永井マジ永井
352 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2017/08/04(金) 01:03:56.53 ID:8Xal0QuB0
更新待ってます。
353 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:06:19.84 ID:jvW3su8lO
6.Let's Roll!
乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll.(さあやろうぜ)」を合図にしたと言われている。この9・11事件以降のアフガニスタンへの「報復戦争」において、この「Let's Roll」は軍用機に描かれたり、空母乗組員が人文字を空中撮影する際に用いられたりするなど、しばらく「テロと戦うスローガン」とされた。しかし乗客はコックピット内に進入できず、テロリストの操縦により機体を墜落させたと結論づけている。−−ウィキペディア「アメリカ同時多発テロ事件」
−−月曜日
オグラ「オッサン、おれは煙草が吸いたい」
目の前にいる拳を握る男に向かって、オグライクヤはコンビニの店員を呼びかけるみたいに注文をつけた。オグラの頬に拳が見舞われた。殴った男の拳は第三関節のところが平らで、拳が打ちつける面積が普通の人間よりおおきかった。人間を殴り慣れている拳による殴打は、頬を叩いたときの軽い打撃音からは想像もつかない威力でオグラの頭を揺さぶり、拳がぶつかった箇所が口の内側に深く沈みこみ、オグラは自分の歯で頬肉を噛みちぎりかけた。
平沢「渋ってどうなる。もう死んだことになってるんだぞ」
殴った男がオグラにいった。男はふたたび拳を上げ、IBMについて説明するようオグラに強要した。
オグラ「ははは。亜人ぽいな」
354 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:07:53.80 ID:jvW3su8lO
オグラはとくにおもしろくもなさそうにいった。右側の頬骨のあたりと唇から出血している以外、オグラの顔面には変化がなかった。オグラがかろうじてぶらさがっている頬の肉からの出血に気にもとめず喉に流れ落ちるままにしていると、ふたたび同じところを殴打された。オグラの身体が拘束されている椅子の脚ごと浮き上がった。
平沢「なぜ話さない。研究員の前じゃペラペラ話してたんだろ?」
オグラ「そんなこともわからないのか?」
オグラはだらんの下に伸びきった首を上げ、平沢を無感動な眼で見据えながら言った。右の鼻から血が垂れている。
オグラ「聞きたがってる奴に話して何が面白いんだ、ハゲ」
ふたたび殴打が強く見舞われる。平沢の拳はオグラの血に湿った。拳による尋問はまだ始まったばかりだった。
−−
−−
−−
355 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:09:45.58 ID:jvW3su8lO
この日の午前中、亜人管理の責任を引き受ける厚生労働省が開いた記者会見は、まるで可燃性ガスに火がついたかのように紛糾していた。
「ですから何度も言ってる通り、亜人に対して人体実験が行われたなどという事実はありません」
記者たちは厚労省の広報官が繰り返した言い逃れにいい加減飽き飽きし、沸き起こるように抗議の声をあげた。かれらの執拗な興奮は、研究所からの永井圭の逃亡、テレビクルーの前で堂々と田中を施設外へ連れ出す佐藤の映像、のちに判明したオグライクヤを含めた施設内での大量殺人、そして佐藤によるグラント製薬への爆破予告といったここ最近大きなトピックになっているこれらの事件の原因が、グラント製薬が行った亜人への人体実験に集約できるだろうと考えているためだった。
「永井圭は研究所に運ばれたときすでに情緒不安定でした。それはメディアやそれに触発された心ない人たちに……」
広報官の具体性のない言い訳に記者たちがふたたび気炎を揚げるまえに、亜人管理委員会の一人がリモコンでテレビを消した。
356 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:11:34.41 ID:jvW3su8lO
石丸「くそっ、マスコミが騒いでる」
そう苛立たしげに言ったのは、つるりと頭を剃り上げたNisei特機工業の石丸竹雄だった。石丸がリモコンを会議用テーブルに叩きつける音を合図にするかのように、研究者の一人が入口の扉に接する壁のまえに立つ戸崎に向かって問い詰めるように言う。
研究者1「具体的な社名まであがってしまったぞ。どうすんだ、戸崎!」
戸崎「確かにマスコミはやっかいですが、日本の報道の価値はすでに死んでます。一般人も一部を除いて大半がそれに気付いており相手にしないでしょう」
戸崎は正面を向いたまま、会議に参加しているメンバーを視野に収めながらら先ほどから変わらぬ冷ややかな眼を保ったまま言った。
357 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:12:37.81 ID:jvW3su8lO
石丸「その一部がうるさいんだよ。くだらない情報を間に受けるバカどもが」
戸崎「ですが、いま議論するべきことではありません。いま急を要するのは帽子への対策です」
研究者2「何を偉そうに! 研究所への侵入を許すわ、サンプルを逃すわ」
石丸「そうだ! どれほどの損失だと思ってるんだ」
委員会メンバーが飛ばす叱責は戸崎を怯ませるどころか、その眼の冷ややかさを侮蔑のそれに深める効果しなかった。
戸崎 (よく吠えるもんだ……文句ばかりで何もしない連中が……)
358 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:14:24.80 ID:jvW3su8lO
戸崎が眼で軽蔑を示していると、ドアが開き、失礼しますと断りをいれながら会議室に入ってくる者がいた。戸崎はその人物を見て、会議が始まってからはじめて、かすかにだがその眼に感情が宿った。
戸崎「曽我部、なぜおまえがここに」
曽我部「お世話になった先輩には申し上げにくいのですが……大臣から声を掛けて頂いたんです」
そう言ったあと、あなたの後任候補として、と付け加える曽我部の表情にはまだかろうじて慇懃さが保たれていた。曽我部の言葉を聞いた委員会メンバーは胸のすく思いだった。戸崎が辿るであろう顛末を想像し、嘲笑を洩らす者すらいる。
曽我部「今日から先輩の仕事を監視し、逐一上へ報告させてもらいます。もし問題ありと判断が下った場合……」
戸崎「おれはおまえと交代ってわけか」
戸崎は先回りして言った。
曽我部「いえ。地獄行きでしょ」
359 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:15:20.34 ID:jvW3su8lO
そのように答えを返す曽我部の表情には隠しきれない無礼と見下しが浮かんでいて、それは下がり眉と口の橋の上がり具合に見て取れた。自分を侮っていることを隠すどころか、むしろ挑発するような態度を取る後輩に対して、戸崎の表情はどこか弛緩したような感じで、倦怠や諦観や憐れみなどを思いこさせる視線を曽我部に向けていた。
戸崎「曽我部、これはおまえへの最後の忠告だが、この一線は……後戻りできないぞ」
曽我部「先輩風吹かせてる場合ですか」
思っていたような焦りや緊迫といった反応が見られなかったためか、戸崎の忠告に曽我部はすげなかった。
曽我部「グラント製薬の警備は警察が対応に当たるのが必然。われわれ亜人管理委員会はコンサルタントとして参加することになる。あと四十八時間です。それまでにIBM対策をひねり出せるのですか?」
曽我部はまた慇懃無礼な態度になって言った。戸崎の置かれた状況を説明していると、この状況から抜け出す術はないだろうという考えが浮かび、その後のことを考えると曽我部はほくそ笑みたくなった。そんな後輩に向ける戸崎の視線が鋭くなっていく。
曽我部「やってみせてくださいよ、戸崎先輩」
−−
−−
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360 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:16:46.47 ID:jvW3su8lO
ホテルの通路の壁面の上部に備え付けられた灯りが通路をズカズカと進む戸崎を明滅するように照らしていた。影と光が交互に戸崎の顔にかかる。廊下は静まり返っていて人の気配がなかったが、それはいつものことだった。目的の部屋に到着した戸崎はカードキーでロックを解除すると中に入り、後手でドアを閉めた。
オグラ「女王様のご帰還か」
戸崎を見たオグラが言った。顔の傷などまるで気にしていない。
平沢「戸崎さん。これだけやって何も話さねえ。こいつ、本当は何も知らないんじゃ? だいいち、事実かどうか疑わしい情報なんだろ?」
尋問を行っていた黒服が前を通り過ぎる戸崎に話しかけた。戸崎は答えず手に持っていたイージージッパーを机を上に置いた。中には、パスポートなどの身分を証明する証書が数点とマガジンが抜き取られた自動拳銃が入っていて、机に置いたとき拳銃とマガジンががちゃんという音を立てた。
361 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:18:02.00 ID:jvW3su8lO
戸崎はオグラに歩みよると、手錠が掛けられたオグラの左手を掴み、手を開いた状態でテーブルの上に押さえつけ、長方形と二等辺三角形が組み合わさったような五角形の薄いスチール製のこてをつき下ろした。オグラの小指が骨ごと切断された。テーブルに血が広がった。こてを抜いたとき、小指がもとあった位置からずれ、テーブルを覗きこめば手と指の断面が見えるようになった。
戸崎「それを見てみろ。死んだボディーガードの私物だ」
苦悶するオグラの手を押さえつけたまま、いきなりの蛮行に驚いている平沢に向かって、戸崎が言った。平沢は言われた通り、イージージッパーから手帳を取り出し、中身を開いて見た。
平沢「国防総省……」
戸崎「オグラ・イクヤが向こうの国で受け入れられたのは生物物理学者としてではない」
戸崎はオグラを見下ろしながら、話を続けた。
362 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:19:52.34 ID:jvW3su8lO
戸崎「この男の話は理論や根拠はともかく言っていることは偶然にも正しい。そしてそれはある分野で大いに役立った。すなわちIBM対策。こいつの情報は有益だ」
平沢「ぶっとんでるな」
戸崎「さすが成果主義の国だよ」
オグラ「ぐ……く……」
戸崎「もう一本失うか?」
戸崎はこてを握る手を上げて、無表情にオグラを脅す。オグラは苦しそうにゆっくりと顔を上に向けてから、言った。不敵に笑っているように、口の端が上向いていた。
オグラ「二本は……残しとけよ。スモーカーには死活問題だ」
戸崎がいきおい肩を上げこてを振りかぶると、オグラが突然慌て出した。
オグラ「ま、待て! うそうそ」
戸崎「てこずらせやがって」
オグラ「いや、三本だった。灰が落とせない」
オグラの薬指が切断された。
363 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:21:42.18 ID:jvW3su8lO
戸崎は 「なんなんだ、おまえは。痛みに鈍いのか? 亜人にでもなったつもりか?」
表情にこそ表れていないが、戸崎は、激痛に苦しみ喘ぎはするものの、一向に話をしようとも拷問を止めるよう懇願しようともしないオグラの態度に苛立ちと困惑を覚え始めていた。
オグラは苦悶のせいで肩を大きく上下させていたが、呼吸が次第に落ち着いてくると、首を垂れたまま、潜めいた笑い声を洩らしはじめた。戸崎も平沢も、ついにオグラがいかれたのかと思ったが、それにしては笑い声に明確な対象がある気がして、不気味なものを感じ始めていた。笑い声をおさめると、オグラはふたたび顔をあげ、自分を見下ろす戸崎を見て言った。
オグラ「耐えられる程度なのさ……身体の痛みなんてのは」
平沢「戸崎さん、こいつは話さないぜ」
戸崎「なぜ」
平沢「だって、いかれてる」
364 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:23:42.07 ID:jvW3su8lO
オグラ「そうさ……メガネ……こんなもんじゃあ、おれは……話す気分にならない。おれが話す条件はたったひとつ……たったひとつだけだ」
頭を上げたままの姿勢を維持するのに大きな苦労でもあるのか、オグラの首がまた下を向いていた。オグラの発言に戸崎の目が見開いた。耳に意識を集中させ、その内容によって拷問を続行するか瞬時に判断しようとしていた。オグラの頭と手が、ゆっくりと大変そうに戸崎に向かって上がっていく。震える右手が戸崎を指差し、大きく見開かれたオグラの目が、暗闇の中に灯るように浮かんだ。オグラははっきりと宣言するように、要求を口にする。
オグラ「FKを持ってこい」
意味不明の要求に戸崎が腕を振り上げる。スーツが捻れ、脇のところに皺が寄ったところで、戸崎の動きが止まった。オグラの言うFKが何なのか分かったからだ。
戸崎「……え? 本気か?」
戸崎は数年前から禁煙していた。だから、オグラが煙草を要求していることにすぐには気がつかなけった。
オグラ「最初から言ってるだろ。車にあったハズだ。持ってこい、いますぐ」
365 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:25:28.06 ID:jvW3su8lO
黒服が要求に従い、銘柄通り、マイルドセブンFKを部屋まで持ってきた。オグラは最低限の応急処置がされただけの左手で煙草を挟み、口に咥えると、右手に持ったライターで火をつける。口腔内の咬み傷に煙草の煙はひどく沁み入るはずだが、オグラは痛む素振りなど少しも見せず、満足するまで煙草を味わうと、ゆっくりと紫煙を吐き出して、言った。
オグラ「まずい」
左手に巻かれた包帯はいまだ鮮血で赤々しく、煙草を口から離したとき、傷口から浸み出した血が一滴ぽたりと垂れた。
オグラ「さて、なにから話そう」
血の跡が残るテーブルの上に置かれた灰皿に煙草の灰を落としてから、オグラは説明を始めた。
366 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:27:14.01 ID:jvW3su8lO
オグラ「“アドバンス”……ああ、おまえらは“別種”と呼んでたな。
ここ数年、亜人は自分達のもうひとつの性質に気がつき始めた。自分以外にもう一つの肉体を作り出すことができたんだ。形状は個々によって変化することがあり、現れやすいのは手・口周辺。それは武器化する傾向にある。
おれはこれを『魂の痕跡器官』と呼んでる。人間の原始的な武器は爪と歯だからだ。
身体能力は人間と変わらない。が、人間の脳の制約を受けないため常に『火事場の馬鹿力』が出せる」
戸崎「過程はどうでもいい。結果だけ話せ。『つけいるスキ』とは?」
オグラ「IBMを形づくる未知の物質はきわめて不安定で、発生と同時に崩壊が始まってる」
戸崎「つまり?」
オグラ「IBMは五分から十分程度で自動的に消滅してしまうんだよ。
また、あれだけの質量の宇宙の意思に反した物質を生み出すんだ。連続して何度も出せるものじゃない。
日に一、二体が限度」
戸崎「だからあの日佐藤は……」
オグラ「違う。あの日は雨が降ってた」
オグラは言葉を切り、煙草をふかした。
367 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:37:28.14 ID:jvW3su8lO
オグラ「先刻話した通り、IBMは崩壊し続けており、崩壊の際に特殊な電磁波を放っている。放射性同位体のようにだ。この電磁波でIBMと亜人は意思の疎通をしている。
ラジオが聞きづらくなることがあるだろう。雨の日なんかに。アレと同じ、雨の中でIBMは動かしづらくなる。
IBMは、パワフルだができそこないだ。やり合えそうな気がしてきただろ?」
戸崎「ああ」
オグラ「オマケでもうひとつ」
説明が終わっただろうと戸崎が席を立とうとしたとき、オグラが付け加えることがあるかのように言った。
オグラ「おまえらは亜人の殺害が引き金で中村慎也事件が起きたと予想していたようだが、それは少し大きな間違いだ。 われわれはあの現象をフラッドと呼ぶ」
中村慎也事件とは、ただ死んで生き返るだけだと思われていた亜人が特殊かつ危険な能力を持っているのだと、はじめて人間側が認識した事件だった。当時大学生だった中村慎也を捕獲しようとした黒服たちが全員死亡し、遺体は無惨にもばらばらにされていた。現場には多くの爪痕が広範囲にわたって残されていた。この証拠から、黒服たちを殺害した何者かは複数体、おそらく十体以上存在していたのだと推察された。
これまでのオグラの説明によって、 “氾濫”を意味する語を冠するこの現象は、IBMの同時多発現象のことだと戸崎は理解することができた。
オグラ「異常な感情の高まりと復活が重なった時、ごくごく稀に起こる現象だ。殺害にはいうほど気を使わなくて……」
オグラの頭が突然がくんと落ちた。
オグラ「あれ?……えーと……何の話だっけ……」
368 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:39:34.60 ID:jvW3su8lO
戸崎「出血のせいだ。治療の手配を」
オグラ「健闘を祈るよ」
失血のせいで、オグラは眉間を押さえて項垂れていた。右手に挟んだ煙草から昇る煙は、空調に揺られゆらゆらしてながら霧散していった。戸崎はオグラと消えゆく煙を見下ろしながら、思った。
戸崎 (なんとしても、あのバカどもを納得させねば)
明日の会議で、戸崎はオグラの説明を元に立案した作戦を、亜人管理委員会のメンバーに向かって話さなければならなかった。
−−
−−
−−
369 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:40:47.54 ID:jvW3su8lO
−−火曜日
戸崎「以上が警察への助言内容です」
石丸「限界だ!」
石丸竹雄が会議用テーブルを拳で強く打ち付けた。ざわめきたつ傍聴人を裁判長が槌を叩いて静粛さを求めるような動作だったが、この打撃音によって生まれたのは静寂ではなくさらなる叱責と怒声だった。
「科学的根拠が皆無だぞ」
「オグラ君と話してるようだ」
「バカにしてるのか」「戸崎!」
戸崎「先の襲撃から予想して立てたベターな手段です」
無思慮な発言に耐えながら、戸崎は説得を試みるが委員会メンバーは態度を変えないままだった。
「もういい!」
「曽我部君! 上へ報告して戸崎を除名しろ!」
370 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:42:36.79 ID:jvW3su8lO
すこし離れた位置に座って会議を静観していた曽我部は、委員会からの要求を受けてこう答えた。
曽我部「ダメです」
その発言にだれもが驚いて、さっきまで紛糾していた会議は嘘みたいに静まりかえった。
曽我部「皆さん、戸崎先輩一人を責めるのは間違っていますよ」
慇懃な口調で曽我部は話を続けた。
曽我部「研究員の皆さん、あなたたちはこれまでにIBM対策に繋がる研究成果を残していますか? 」
岸たち研究員はうってかわって、口を閉じていた。
曽我部「他の方々も何か提案のある人は?」
371 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:44:11.47 ID:jvW3su8lO
ほかの委員会メンバーも、曽我部の問いかけに答えず、沈黙したままだった。曽我部はそういした場の空気に憤ったのか、一転して声を荒げて身を乗り出して言った。
曽我部「何もないなら、戸崎先輩の意見に従うのが最善じゃないですか!」
会議の参加者たちは曽我部の発言にたいして反論や対案を口にすることはなく、黙って視線を漂わせていた。結局、それが結論となった。戸崎は意外そうに横に立った曽我部に視線だけ向けて言った。
戸崎「曽我部、お前からの後押しがあるとはな」
曽我部「僕は中立です。あなたの仕事ぶりを公正に上へ報告するのが仕事なのですから」
曽我部も戸崎と同じように視線を返した。曽我部が視線を戻したあとも、戸崎は観察を続けた。そして、ひとつの確信を得た。
−−
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372 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:45:53.80 ID:jvW3su8lO
会議を終えた曽我部はその足で直接大臣の元へと赴いた。カーテンが閉められた薄暗さが包む部屋のなかで大臣は高級椅子に腰掛けていた。
大臣「おつかれ」
曽我部は大臣の側に背を伸ばして立ち、後ろで手を組んだ。
大臣「どうだった、戸崎は?」
曽我部「はい。戸崎先輩は、あきらかに異常なです。いろいろと知りすぎています」
大臣「となると、やはり……」
曽我部「はい。オグラ・イクヤは生きている」
曽我部が口にした結論に、大臣はひそめいた笑いを洩らした
大臣「戸崎……思った以上に大した奴だ。アメリカ側の人間に手を出すとは」
大臣「あの男は、われわれには超えられない一線を越えてくれたぞ」
373 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:49:29.64 ID:jvW3su8lO
大臣「曽我部、われわれはこの事実を知らない。いいか? 知らないんだ」
大臣「すべてはあの男の身勝手な単独プレー。大活躍してもらおうじゃないか。そして事態が収拾したあかつきには……すべての責任を負って、消えてもらおう」
曽我部も大臣とともにほくそ笑んだ。陰謀に加担するのは楽しい。厄介な事態への対応はすべて戸崎がやってくれる。おかげですべてが終わったあと、何のリスクもなく上のポストに就けるのだから、笑みが浮かぶのも当然だった。
戸崎は最後の瞬間までこのことに気づかないだろうという優越感も、曽我部をほくそ笑ませる要因のひとつだった。
そんな曽我部と大臣の様子を、下村のIBMが最初から最後まで見聞きしていた。
戸崎は大臣と曽我部の会話を下村から中継されるかたちで聞いていた。長椅子に座る戸崎の眼は細く引き締まり、鋭い視線を真っ直ぐに飛ばしている。戸崎は革手袋をした両手を膝の位置で合わせていて、下村から話を聞かされているあいだもその手は微動だにしなかった。
戸崎「上等だ」
覚悟を込めた声を喉の奥から響かせながら、戸崎は自らの命も賭けのテーブルにあげることを決意した。
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374 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:50:57.27 ID:jvW3su8lO
田中「あ、ちょっと。佐藤さん」
アジトの通路に棒立ちになっている佐藤の幽霊に田中は話しかけた。
IBM(佐藤)『私……の、名前……佐藤……あ……じん』
田中「……あら」
ぶつぶつと独り言を言う佐藤の幽霊は、まるで生まれて初めての自由に戸惑っているかのように両手を弄っていた。明らかに佐藤の命令下にない黒い幽霊をどうしようか田中がと迷っていると、佐藤がやってきて後ろなら田中に声をかけた。
佐藤「呼んだ?」
田中「なにやってんすか? アレ」
田中は黒い幽霊を指差しながら佐藤に尋ねた。
375 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:52:45.32 ID:jvW3su8lO
佐藤「ん? 放任!」
田中「はあ?」
佐藤の答えは単純明快すぎて、田中は逆にその意図をつかめない。
佐藤「黒い幽霊を動かす感覚は、ラジコンの操作というより犬に命令する感じに近い」
佐藤が補足説明を話し始めた。
田中「こいつらにも自我みたいなもんがある感じすからね」
佐藤「うん。それで、永井君の幽霊みたく自発的に行動させることもできたら面白いかもと思ってね。だから放任中。自我を育む」
田中「そんなにうまくいくんすか?」
佐藤「君だってあんな短期間でライフルを撃たせられるようになったじゃないか。野生的な動作より文明的な動作のほうが難易度が高い。殺戮なんかは案外簡単にできてしまうだろ?」
376 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 22:53:57.82 ID:jvW3su8lO
そこで佐藤は一旦言葉を切って、呆れたようにため息をついた。
佐藤「それに比べて奥山君はド下手。本人が器用だから、幽霊にいろいろさせてこなかったんだよ、アレは……」
田中「あいつは喋らすのも下手すからね」
佐藤は頭を上げ、黒い幽霊を見た。幽霊は相変わらず両手を弄っていて、爪の先で反対側の爪の表面をひっかくように動かしていた。
佐藤「何事も練習! シモ・ヘイヘも言ってる」
佐藤は視線を幽霊から田中へ移すと、にっこりと笑みを浮かべて話しかけた。
佐藤「よし、明日の準備をしようか」
−−
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377 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:00:24.08 ID:jvW3su8lO
>>1
です。実はこの後の展開が絶賛難航中でして、今日の本編の更新はここまでになります。
長らくお待たせしたうえに、原作の話をまんま文章化したものしか更新しないのはあまりにもあれなんで、代わりといってはなんですが、ちょっとした番外編3編をこの次のレスから更新していきます。
永井が346プロに入社しているという設定のコメディ的な話です。設定とか時間軸とかキャラまでゆるゆるですが、どうかご容赦願います。
378 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:03:36.10 ID:jvW3su8lO
番外編その@
夏期の長期休暇を目前にしてシンデレラプロジェクトのメンバーたちに立ちはだかったのは、学習範囲が広いことが厄介な期末試験であった。
アイドルをしながら学業もある水準をキープしなければならないとなると、常日頃から持続的な勉強が必要になってくるが、アイドルとしての活動も多岐にわたり、またライブやイベントが開催されるとなるとコンディションの調整に気を使わなければならなくなる。レッスンがあれば体力を消費するし、仕事の合間合間に予習復習をしても、すべての範囲をカバーしきれないのが現状であった。
もちろんプロダクションは、就学中のアイドルたちが学業に集中できるようなサポートを欠かさなかった。未成年のアイドルの保護者は、当然ながら彼女たちの学校の成績を心配する。だからプロダクションは、学業をサポートできるよう有名学習塾と契約を結び、希望者にはプロダクション内のまさしく教室そのもの部屋で派遣された講師から一対一、あるいは複数人で講義を受けることもできた。
今回、期末試験にむけて対策講義を受けることになったのは、美波をのぞくシンデレラプロジェクトのメンバー全員だった。美波の大学は試験の日程がはやく、七月初旬から始まった試験はほぼ終了していた。美波はプロジェクトのリーダーとして、メンバーたちの勉強をサポートするつもりだった。
美波とともに講師役を務めることになったのは、彼女の弟である永井だった。契約の更新になにかトラブルがあったのか、今月は講師が派遣されず、社内の人間を代理にたてようと困っていたところを入社試験を完璧にクリアした永井の名前が挙がった。
379 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:06:19.90 ID:jvW3su8lO
永井「それって契約外の業務ですよね」
プロデューサーから講師代理の件を聞かされたとき、永井はそう言った。
武内P「ええ、たしかに」
永井「期末テストの範囲をカバーするとなると、一日じゃ足りませんよ」
武内P「おっしゃるとおりです」
永井「メンバーは十人以上いますし」
永井はパソコンから目を離さず、キーを叩き続けながら言った。
武内P「お引き受けくだされば基本給とは別途に手当が支給されますが」
永井「通常業務に加えて、契約外の業務もやるんです。支給金額が契約先の講師と同額ってことはないですよね?」
プロデューサーはすこしたじろぎながら「確認してみます」とだけ答え、永井が「お願いします」と言ったところで講師依頼の話はそこで終わりになった。
後日、永井は要求が通ったことをプロデューサーから聞かされ、講師を引き受けることにした。
380 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:08:00.35 ID:jvW3su8lO
永井が講師を務めることについて、シンデレラプロジェクトのメンバーたちの心持ちは不安がかなりの割合を占めていた。それは永井の能力への不安ではなく、アナスタシアが評した永井の人物像が原因だった。
彼女たちは永井と仕事のうえで付き合いはあったが、親しくはなかった。はじめは美波に話を聞こうとしたものの、亜人を巡る一連の事件で味わった苦悩と心労から解放されたためか、ちょっと度が過ぎるほど褒めちぎるので参考にはならなかった(そもそも九年間はなればなれに暮らしていたうえに、アイドルとしての活動にまったく興味がなかった弟が自分とおなじ職場にいてはやくも成果をあげているのだから、美波としてはうれしさに満ちた気持ちを所構わず話したくてしかたなかった)。
そこで今度はアナスタシアに永井について尋ねることにした。アナスタシアも永井と同じ亜人で、美波すら預かり知らないところで永井と行動をともにしたこともあるらしい。アナスタシアは、まるで数を数え上げるときのような自然で淡々とした口調で言った。
アナスタシア「情け容赦と躊躇がないです」
美波「そっ……んなこと、はないんじゃないかな……?」
美波は思わず声をあげて反論しそうになったが、言葉はあとにむかうにつれた小さくなり、最後のほうは消え入りそうなくらいだった。
381 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:11:14.56 ID:jvW3su8lO
アナスタシア「アー……あとはフツウだと思います」
卯月「それは普通って言えるんですか?」
美波に対するアナスタシアのフォローに卯月が疑問を挟んだ。
この問答のせいで彼女たちはほとんど恐怖にちかい思いを抱きながら講義当日を迎えたわけだが、そんな不安を知ってか知らずか永井はさきに教室で待っていて、会議用テーブルをひとりで使っていた。メンバーが席に着くと、永井は一人ひとりにプリントを配布した。アナスタシアはプロジェクトクローネとの兼ね合いの仕事があり、すこし遅れて参加するので、配られたプリントの枚数は十二枚となった。そこには数学の問題が書かれていた。
永井「テスト問題を予想してみたから、とりあえずそれを解いてみて」
テストが返却されたのは、テスト終了後の休憩時間のあとだった。間違えた問題には赤ペンでどこをどう間違えたのかや解法に使うする公式が事細かに書かれてあった。
次にプリントが十枚ほど重ねられてホッチキスで留められていた問題集と新しい参考書が配られた。プリントにはメンバー個々人の弱点をカバーする問題がびっしりと印刷されていて、一ページ目は基礎的な内容の問題が並び、ページをめくるごとに難しさがあがっていく。
そのページにある問題のうち八割が正解だったら次のページにいけるが、正解率がそれに満たなかったら、同じレベルの問題が印刷されたプリントを渡されまた問題を解く。
382 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:13:30.48 ID:jvW3su8lO
いちばん最初にプリントを終えたのは双葉杏だった。杏はいきなり十ページ目の最高難度の問題を解き、すべて正解していた。
永井「双葉さんは自習で大丈夫」
杏「寝ててもいい?」
永井「いいよ」
美波「自習しようよ」
美波をはじめメンバーたちは、杏も杏だが、永井も永井だと思った。
問題を解いているあいだ、永井と美波は教室をまわり、質問に答えるなどしていた。中学生以下のメンバーには美波が面倒を見ていて、とくに神崎蘭子には細かく注意を払っていた。おそらく、弟と蘭子を会話させるのはいろいろな意味でまだ早いと思っていたのだろう。
383 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:15:06.31 ID:jvW3su8lO
永井は手が止まっているメンバーを見つけると、苦戦している問題を一瞥してから参考書のページ数を教えた。言われたとおり参考書を開くと、そこには問題を解くのに必要な基礎的な知識や解法、公式が書かれていて、たしかに学習の役に立つのだが、数学が不得意な者にとっては読むだけで完璧に理解ができるといったわけでもなかった。
しかし永井の口調はそっけなく、これ以上のヒントや解説をもらうのを躊躇わらせるものがあった。
そういう場合は美波がすかさず困っている様子のメンバーの側に寄って、どこがわからないのかを尋ねた。
このままでは「いい警官、わるい警官」式の授業になりそうだったが、永井も姉を見習いていねいな解説を加えるようになった。有能な人間というのは自らの能力が基準となっているので、ほかの人間に対しても自分と同等の処理能力を求めがちであり、永井はその典型といえた。周囲が熟達した技術を持ったプロフェッショナルならともかく、勉学においては普通の水準に留まるシンデレラプロジェクトのメンバーたちに永井の勉強法についていくのはかなりつらいものがあった。
美波はそんな弟と仲間たちのあいだでうまく緩衝材の役目を果たしていた。仲間たちには弟の指摘にわかりやすい解説を与え、弟にはメンバーそれぞれの性格や理解度にあわせた対応を見せた。
384 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:20:54.67 ID:jvW3su8lO
おかげで過度な緊張感は次第になくなっていったが、今度は量の問題が現れ始めた。課題の多さのせいでメンバーたちの脳に疲労が積み重なっていたのだ。
かな子「あまいものがたべたい……」
卯月「お菓子、もうありませんね……」
三村かな子と島村卯月が痛みに似た空腹を感じて弱々しく零した。勉強をしているあいだの飲食は自由だったが、持ってきたお菓子類はすでになくなっていた。
多くの難問を解いていくうちに、脳が要求するままに糖分を摂取していたのだが、用意したぶんではぜんぜん足りなかったのだ。
凛「手もつかれたね」
未央「てか痛いよー……」
未央はペンを握ったままの右手の指を左手を使ってゆっくりと解いていった。ペンが抜けた指はまだ固く、曲がったままの指をピンと伸ばすのも一苦労といった有様だった。
385 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:24:50.82 ID:jvW3su8lO
メンバーの疲労の色の濃さを見てとって、永井は彼女たちの机の上に円筒型のプラスチックケースを置いていった。白い容れ物には青いラベルが貼られていた。
みりあ「これ、なに?」
永井「ブドウ糖」
永井はケースを置きながら言った。
永井「タブレットだから問題を解きながらでも食べられる」
美波「休憩にしましょう!」
永井は姉に同意した。メンバーは美波の宣言に感謝してもしきれない気持ちだった。ブドウ糖は摂取してから脳に届くまで十五分から三十分かかるので、十五分間の休憩を取るのは合理的だった。
みんなが口の中でタブレットを転がして甘い以外の感想がないまま休憩していると、突然叩きつけるような勢いでドアを開けられた。アナスタシアだった。
386 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:26:37.34 ID:jvW3su8lO
アナスタシアはここまで急いで走ってきたのか息を切らしていて、呼吸をするたびに学校指定の白い半袖ブラウスの襟ぐりと、そこに結ばれた青いチェック模様のリボンが揺れていた。アナスタシアはまっすぐ永井にむかって大きな早足で近寄ってきた。
アナスタシア「これは、この写真は……アレです。アレなんですよ、ケイ……」
アナスタシアの声には動揺が現れていた。
永井「ちゃんと閉めろよ」
永井はアナスタシアが入ってきたドアを見ながら言ったが、アナスタシアは聞いてないようだった。永井は席を立ち、ドアを閉めにいった。アナスタシアはふるふる震える両手で持った写真集に視線を落としたまま永井を追うと、さっきの絞り出すようなか細い声から一転し、急に大きな声をあげた。
アナスタシア「ミナミがセクシーすぎます!」
美波「アーニャちゃん!?」
永井「うるさい」
アナスタシア「見てください、ケイ!」
387 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:28:37.84 ID:jvW3su8lO
アナスタシアは写真集のページをばっと開いて永井の眼前に突きつけた。
永井「これが?」
永井は開かれたページを一瞥したあと、視線をアナスタシアに戻した。
アナスタシア「水着が多いです!」
永井「アイドルなんだから水着くらい着るだろ」
アナスタシア「だから、セクシーなんです!」
美波「ア、アーニャちゃん、おち、落ち着いて」
美波の声は動揺のあまり、ちゃんと伝わってないようだった。
永井「ていうかこの写真集、サンプルだろ。どっから持ってきたんだ?」
アナスタシア「プロデューサーから借りました」
永井はため息をついて、アナスタシアから写真集をひったくると、最初のページに戻った。席に着いた永井は姉が被写体となっているグラビア写真の点検をはじめた。
388 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:31:42.49 ID:jvW3su8lO
美波「えっ……よ、読むの? 圭」
永井「印刷のミスとかがないかチェックしないといけないし」
永井は業務的な態度で姉に答えた。アナスタシアは腰を屈め、永井の肩口から写真集をのぞき込むと、美波の水着や濡れて透けたTシャツの過度な色っぽさをいちいち指摘していった。永井はそんなアナスタシアが邪魔でしかたないといった表情をしながら、無視してページを進めていく。
そのような二人の様子をシンデレラプロジェクトのメンバーたちはなんとも言えないまま居心地悪そうに眺めていた。
凛「反応が対照的すぎる」
卯月「永井君、ドキドキしないんでしょうか?」
未央「いやまあ、弟だからね」
杏「アレが普通なんだね」
未央「最近までアイドルことぜんぜん知らなかったみたいだから、みなみんが基準になってんじゃない?」
みりあ「ねえ、美波ちゃんが」
美波「許して……謝るから、許してぇ……」
アナスタシアと弟が自分の写真集を見ている現実に、美波は顔を赤くしながらもだえていた。
389 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:34:08.77 ID:jvW3su8lO
未央「ああ……うん。これはキツいわ」
智絵理「わたし、家族が自分の歌を口ずさんでるだけでも恥ずかしいのに……」
蘭子「恥辱」
李衣奈「でもさ、永井君はなんというか、淡々としてるしさ……」
みく「余計にキツくない?」
卯月「えっ、美波ちゃん、こんなポーズ……」
未央「しまむーいつの間に」
アナスタシア「ケイ、これ! このメイド服、肩と胸が見えすぎです! 前のページはふつうだったのに!」
永井「なんでカウボーイが使う牛追い鞭を持ってるの?」
永井は姉に尋ねたが、美波は顔を伏せたまま「知らないよぉ……」と消え入りそうな声で言うだけだった。いつの間にかギャラリーが増えているのに気づいた永井は、人の多さにうんざりしてページをめくるのをやめ、アナスタシアに振り返り聞いた。
390 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:37:53.69 ID:jvW3su8lO
永井「で、なにが言いたいんだよ?」
アナスタシア「ミナミにカワイイ衣装を着せてください!」
永井「プロデューサーに言えよ」
永井が面倒そうに前に向き直ったとき、写真集のページが自然にめくれた。
空気が凍ったような気配を感じた美波はふと視線だけをあげてみると、弟やアナスタシアだけでなく、彼らの周囲にいたメンバーたちも固まって、机の上にある写真集に視線を注いでいた。
美波は異様な雰囲気に息を飲みながらやっとの思いで立ち上がり、恐るおそる慎重に自分以外の人間が見つめたままでいる自分のグラビアに近づいていった。
二ページ使った見開きに写っていたのは、小悪魔の格好をした美波が椅子の背を前にして脚を大きく開脚しながら振り向いている姿だった。短いスカートの裾がすこし上がり、そこから木の座面に押し付けられ膨らんだようすの大腿部からヒップのラインが覗いていた。見返る美波の横顔は口の辺りが右肩に隠れていた。黒いナイロン生地に覆われた肩の上から見える頬は朱に染まり、さらにその上に潤んだように光る茶色の瞳としとやかに垂れた瞼の線があった。
永井は静かに写真集を閉じた。
391 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:42:12.86 ID:jvW3su8lO
美波「あっ……えっ……」
美波はこのグラビアの過度な色っぽさに説明を試みようとしたが、言葉にはならず息が洩れるばかりだった。一同は美波の呼吸音に顔を上げた。その表情を見た美波はへなへなと元の位置に戻り、ふたたび顔を伏せた。いまにも泣き出しそうな雰囲気があった。実際、うめき声のようなものが聞こえた。
アナスタシア「パルゴヴォイ……ミナミ、エッ……」
永井は右手に持った写真集をすばやく後ろに振って、左肩のあたりにあるアナスタシアの顔を写真集のカバーで叩いた。パンという軽快な音が教室に響き渡り、二人の周りにいたメンバーたちは驚いてその場から飛び退った。
きらり「にょわっ!?」
未央「顔は! 永井君、顔はやめよう!」
アナスタシアはのけ反った頭を元に戻し鼻を押さえながら、腕を上げて手のひらを見せ、自分の落ち度を認めるジェスチャーを示した。
392 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:46:49.63 ID:jvW3su8lO
永井「まあ、そろそろ別の路線の仕事も入れるべきかも」
永井がぼそりと言った。
アナスタシア「おねがいします、ケイ」
鼻を押さえてるせいか、アナスタシアの声はすこしくもぐっていた。
永井「プロデューサーと相談してみる」
アナスタシア「わたしもいっしょに行きます」
永井「勉強しろよ」
アナスタシア「歩きながらやります」
永井はそれ以上なにも言わなかった。二人が部屋から出て行くと、部屋に残されたメンバーは、羞恥に呻きながら顔をうずめている美波をいったいどうやって励ますかという、この日いちばんの難題に頭を悩ませることになった。
393 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:48:21.37 ID:jvW3su8lO
番外編そのA
休憩中、ラウンジの自販機で缶コーヒーを買おうとする永井に、アナスタシアと蘭子が話しかけてきた。
蘭子「黒き分け身を我が眼が捉えんと欲しているの」
永井「……」
永井は無言で蘭子を見つめた。
蘭子「えっと……そのぉ……」
アナスタシア「アー……黒い幽霊が見たい、と言ってます」
アナスタシアの後ろで蘭子がこくこくと頷いた。
永井「見せたらいいだろ」
アナスタシア「むずかしいです……チゥーストヴァ、感情を強く込めるの」
永井「舞台稽古かよ」
394 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:50:10.65 ID:jvW3su8lO
永井は自販機に硬貨を入れて、缶コーヒーを買おうとしていた。 アナスタシアもつられて自販機のラインナップを見ると、新しく並んでいるきな粉味のスタミナドリンクに興味を惹かれた。
アナスタシア「きなこ……」
永井「自分で買え」
そう言うと永井はブラックコーヒーのボタンを押した。ガコンという音がして、永井が取り出し口からコーヒーを取り出す。
アナスタシアは一瞬ムッとしたが、永井の態度はいつものことなので、気を取り直してIBMについて質問することにした。
アナスタシア「オグラ博士はケイの幽霊を見た、と聞きました。ケイは、どんな感情をこめたのですか?」
永井「殺意だけど」
395 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:51:31.84 ID:jvW3su8lO
アナスタシアの背後で蘭子がぴぃっ、とちいさく悲鳴をあげた。アナスタシアも内心穏やかではなかったが、さらに質問を重ねた。
アナスタシア「……きらい、なんですか? 博士のこと……」
永井「なんで?」
アナスタシア「だって……」
永井「好悪の感情に関係なく人は殺せるだろ?」
永井は缶コーヒーの蓋を開けた。永井の答えに蘭子は本気で怖がっていたし、アナスタシアは、そうだ、ケイはやばいやつだった、と質問したことを本気で後悔していた。
396 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:53:38.47 ID:jvW3su8lO
自販機の硬化投入口の横の電光板がちかちら光っていた。四桁の数字が揃い、当たりの表示がされている。
アナスタシアは思いきってきなこ味のスタミナドリンクに人差し指を伸ばした。これを話題にして、果敢にも凄まじく居心地の悪いこの場の空気をすこしでも良くしようとしての行動だったが、先に永井の指が音もなく伸び、同じ缶コーヒーのボタンを押した。
取り出し口に手を伸ばす永井を見下ろしながら、アナスタシアはいじけたようにボソッとつぶやいた。
アナスタシア「ケイ、そんなことしてたら、友だち、いなくなります」
永井「カイになにかしたら、おまえ、殺してやる」
アナスタシアの背筋が一瞬凍りついた。明確な殺意を身に浴びて恐怖した。それが一瞬だけですんだのは、永井自身が言った直後にさっきの反応は早とちりだったし、過剰だと省みて殺意をおさめたからだった。
永井はふたたび硬貨を自販機に入れた。商品ボタンが点灯すると、永井はアナスタシアに聞いた。
永井「……きなこ味?」
永井が自販機の見本を指差した。
アナスタシア「……きなこ味」
そう答えたあと、アナスタシアも永井と同じ見本に指先を向けた。永井がボタンを押すと、商品が取り出し口に落ちてきた。
397 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:55:43.75 ID:jvW3su8lO
永井「神崎さんは?」
蘭子「はひっ!?」
永井に尋ねられた蘭子は肩をビクッと震わせた。スタミナドリンクを手に取ったアナスタシアは、永井の視線から蘭子をかばうように二人の間に割って入った。
アナスタシア「ランコも、きなこ飲みますか?」
蘭子は戸惑っていたが、やがてゆっくり頷いた。永井がボタンを押し、ふたたびがこんという音がしたとき、自販機のルーレットがまた当たりを出した。
アナスタシアは即座に動いて同じ飲み物のボタンを押していた。 飲み物を手に取った途端、取り出し口からまた音がしたので永井は奇妙に思った。
アナスタシアは流れるような動作でボタンから取り出し口に手を移動させ、ドリンクの瓶を手に取ると、永井に押しつけるように手渡した。
398 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:57:55.97 ID:jvW3su8lO
三人はラウンジにある円形ベンチに腰掛け、ドリンクを飲み始めた。
永井は飲み物を奢った時点でさっさとその場を離れたかったのだが、アナスタシアが蘭子を怖がらせた分はきっちり埋め合わせをしろと視線で告げていたし、永井自身も必要のない感情を蘭子にも見せてしまったことに多少の申し訳なさも感じていた。
しかし、きなこの味がするという以外に飲み物についての感想はなく、空気は相変わらず重かった。
アナスタシアはがんばって蘭子が興味を持ちそうな話題を話して、さっき永井が見せた殺意のことを忘れさせようとした。
アナスタシアが話したのはロシアの民話に登場する不死身のカシチェイという老人についてだった。ニコライ・リムスキー=コルサコフが歌劇の主題にもしたこの老人は痩せこているが強い魔力を持った魔王で、不死身の源である魔法の針を折られれば死ぬが、その針は念入りに隠されている。オークの木の上の長持ちがあり、その長持ちの中にはウサギがいて、さらにウサギの中にアヒルが入っており、そしてまたアヒルの中には卵が入っている。魔法の針はその卵の中にある。
永井はその話を聞きながら、針を折って死ぬのなら楽な話だな、と思った。
ロシア民話について語るアナスタシアのがんばりが功を奏して、蘭子は話に夢中になり、元気を取り戻したようだった。
399 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/12(土) 23:59:13.85 ID:jvW3su8lO
蘭子「分け身たる黒き従者はやはり不可視であったか」
休憩時間がもうすぐ終わろうというとき、蘭子が残念そうに言った。
アナスタシア「ランコ、もうすこし待っていてください。ポカーザノ……見せられるようにしますから」
永井「おまえが神崎さんに殺意を持つのは無理だろ」
アナスタシア「ほかの感情!」
永井「あそう」
と、そこで永井の身体から黒い粒子が放出されるのを、アナスタシアは見た。
400 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:01:09.14 ID:P+sjA4XXO
アナスタシア「オイ!」
ロシア語で驚きの声をあげながら、アナスタシアは背中で蘭子に覆いかぶさり咄嗟にIBMを発現した。
永井から放出された黒い粒子は人型IBMを作らず、空気の中に消えていった。
アナスタシアは、いったいケイはなんのつもりだったんだろうと訝りながら身体を起こし、蘭子に振り返った。
蘭子の目は驚いたように見開いてた。
アナスタシア「アー……いまのは、ロシア語で」
蘭子「幽霊……?」
蘭子の視線を追うと、たしかにその先にアナスタシアが発現したIBMが立っていた。
アナスタシア「ランコ、見えますか?」
蘭子はこくこくと頷いた。
アナスタシアは永井のほうに向き直った。永井はもうその場から離れていて、ドリンクの空き瓶と缶を捨てるとすぐに去っていった。
401 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:02:51.28 ID:P+sjA4XXO
蘭子「星光りの如き十字架よ!」
蘭子の瞳も星のように輝いていた。
アナスタシアは、そうか、こういう気持ちになればいいのかと思った。自分ではない誰かを必死になって守ろうとする気持ち。おそらく、ケイもこの気持ちのことを知っているのだろう。
アナスタシアは永井が折れていった廊下から視線を戻し、ふたたび蘭子を見つめた。
アナスタシア「リクエスト、ありますか? ランコ」
それからアナスタシアのIBMは人間には不可能なさまざまな動作を披露して蘭子を驚かせ喜ばせた。五分ほどしてIBMが消滅すると、二人はラウンジからレッスンルームへと向かった。移動中のおしゃべりの内容は、当然アナスタシアのIBMについてだった。
蘭子「でも、ちょっとこわかったかも……」
ひとしきり興奮が収まったあと、蘭子がポツリと言った。
アナスタシア「仕方ないです。ケイは、ああいう性格ですから」
蘭子「アーニャちゃんの幽霊のこと……」
アナスタシア「オイ!」
アナスタシアはまたロシア語で驚きの声をあげた。
402 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:04:45.55 ID:P+sjA4XXO
番外編そのB
アナスタシア「ラッキースケベ、という言葉があります」
永井「あ?」
衣装合わせに向かう途中、アナスタシアが出し抜けに言った。永井は冷ややかな目でアナスタシアを見た。このような目で見られることに慣れつつあることを感じながら、アナスタシアは話を続けた。
アナスタシア「ディエーヴァチカ……女の子がたくさんいるところに、男の子がひとりだと、To LOVEるが起きます。マンガで読みました」
永井「マンガを間に受けてるのかよ」
永井は呆れて頭を下げると、面倒から逃れるようにアナスタシアを残してつかつかと先に進んだ。アナスタシアはいつもより大股で歩きながら永井を追いかけ、結論を聞かせた。
403 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:06:05.10 ID:P+sjA4XXO
アナスタシア「衣装室、いきなり開けたらダメ、ですよ?」
永井「それくらいの常識はマンガじゃなくて親に教えてもらえよ」
永井の煽るようなもの言いに、アナスタシアは腕を伸ばしただけの痛くないパンチを永井の肩に繰り出して答えた。ちゃんと拳を作ってなかったので、軽く曲げた指が永井の肩甲骨に当たったとき、がくんと関節が折れ、痛かった。
ひー、という表情をして右手の指をおさえるアナスタシアを見て永井はため息をついたが、それ以上のことはせず、バカと言うこともなかった。
そうしているうちに二人は衣装室に到着した。永井がドアをノックすると、中からどうぞ、という声が聞こえてきた。
衣装室にいたのは十時愛梨だった。
愛梨「あっ、アーニャちゃんに永井君」
404 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:07:34.06 ID:P+sjA4XXO
愛梨はバニースーツに身を包んでいた。肩を露出した赤いボディスーツの前は黄色いボタンで窮屈そうに留められていて、足ぐりのあたりには黒いフリルが舞っていて、お尻のほうにも黒くて丸い尻尾飾りが整ってついている。網タイツに包まれた脚が伸びている先にあるハイヒールもスーツと同じ赤色で、ウサギの耳をかたどったヘアバンドや蝶ネクタイなど、バニーガールにお馴染みの装飾もしていたが、カフスはなく左手首に金色のブレスレットを二つつけていた。
アナスタシア「プリヴィエート、アイリ。ウサギさん、ですね?」
永井「まだ終わってないんですか?」
愛梨「はい〜……じつはこの衣装、サイズがちいさくて……」
永井「衣装さんは?」
永井は衣装の裏に衣装係が隠れていないかと探すように部屋を見渡した。
愛梨「直しに必要な道具を取りに行ってるみたいです」
永井「そうですか」
405 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:08:59.57 ID:P+sjA4XXO
永井は手帳を取り出し、この後のスケジュールを確認した。愛梨の女性らしい丸みをおびたボディラインを強調する姿を見ても、永井にこれといった感想はなく、バストがおおきくなったかもとこぼす愛梨に、体型維持は大変ですね、と永井は手帳に目を落としたまま淡々と言った。
その返答はどうなのかと思いつつ、アナスタシアはこれほどふわふわしてセクシーな愛梨を前にしても普段と変わらない態度をとるケイは、さすがにミナミの弟だなと思ったりしていた。
とはいえ、懸念もあった。永井と愛梨はある意味で互いに無警戒と言えたからだ。永井は無関心のため、愛梨は天然な性格のためだった。二人してボタン糸が醸造しているサスペンスに気づいていない。もしも場合に備えてアナスタシアは身構えていた。
406 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:11:03.06 ID:P+sjA4XXO
永井「僕たちはラウンジで待ってますから……」
と永井が言ったとき、愛梨の胸元のボタンが弾け飛んだ。
それからこれらのことがほぼ同時に起こった。
おおきな乳房が衣装から零れ落ちそうになり、愛理はあわてて声をあげながら背中を丸めて両腕で胸を押さえ、愛梨の声に反応し顔を上げた永井の右目にボタンが回転しながら命中し、反射的に痛むところを手で押さえようとしたら、アナスタシアが永井の視界を覆い隠そうと突き出した手がさきに永井の目元に届き、その右目に二撃目を打ち込んだ。
永井「痛ってえっ!」
アナスタシア「ああ! ごめんなさ……」
永井は反射的に右足を打ち上げて反撃をしていて、真新しい革靴の固い爪先がアナスタシアの向こう脛を蹴った。
407 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:13:11.43 ID:P+sjA4XXO
アナスタシア「いったい!」
ロケットみたいに跳び上がりながら、蹴りつけられた右足をアナスタシアは赤くなった脛を両手でばっと押さえた。あまりにすばやく足を上げたので、アナスタシアはバランスを崩し、右目を押さえている永井のいる方に倒れてしまう。ふたりして後方に倒れこむと永井の背中がドアにぶつかり、鍵のかかってないドアは二人分の体重と衝撃で勢いよく開いた。
永井とアナスタシアの二人は廊下に倒れこんだ。アナスタシアは倒れた拍子に脛を押さえていた両手を思いっきり投げ出していた。それは永井も同様で、アナスタシアの後頭部ががら空きの目にぶつかり、永井の右目にまた衝撃が届いた。
開いたドアは壁にぶつかると勢いはそのままで跳ね返り、永井の身体に上向いて重なっているアナスタシアの赤く腫れた脛めがけて、角のところがまるで引き寄せられるみたいに戻ってきた。
−−
−−
−−
408 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:18:19.30 ID:P+sjA4XXO
>>407
訂正
アナスタシア「いったい!」
アナスタシアはロケットみたいに跳び上がりながら、蹴りつけられた右足の赤くなった脛を両手でばっと押さえた。あまりにすばやく足を上げたので、アナスタシアはバランスを崩し、右目を押さえている永井のいる方に倒れてしまう。ふたりして後方に倒れこむと永井の背中がドアにぶつかり、鍵のかかってないドアは二人分の体重と衝撃によって勢いよく開いた。永井とアナスタシアはふたりして廊下に倒れこんだ。
アナスタシアは倒れた拍子に脛を押さえていた両手を思いっきり投げ出していた。それは永井も同様で、アナスタシアの後頭部ががら空きの目にぶつかり、永井の右目にまた衝撃が届いた。
開いたドアは壁にぶつかると、勢いはそのままで跳ね返り、永井の身体に上向いて重なっているアナスタシアの赤く腫れた脛めがけて、ドアの角がまるで引き寄せられるみたいに戻ってきた。
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409 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:20:07.60 ID:P+sjA4XXO
衣装係が戻ってくると、そこには混沌としかいいようのない状況が広がっていた。
右目を押さえた永井は壁に手をつきながら冬のナマズのように動かず黙りこくっているし、アナスタシアは涙目で脛を押さえながらうーうー呻きながら廊下を転がっているし、バニーガールの衣装を着た愛梨は破けた胸元を隠しながらどうしたらいいかわからず廊下でおろおろしている。なにがあったらこんなことになるのか、衣装係はぜんぜん理解できず、ぽかんとしたまま口を開けていた。
その後の衣装合わせはとてつもなく重い空気の中で行われた。永井の右目は眼帯で覆われているし、アナスタシアの右足を上げる動作はぎこちないし、衣装係はとにかくはやく帰りたがっていた。三人とも、衣装のサイズが合っていればもうなんでもよかった。
それからしばらく、永井は胸の大きい女性がボタン付きの服を着ていると警戒して距離をとり、アナスタシアも永井が大きなバストに警戒しているときは蹴りが届かないところまで離れるようになった。
二人は胸の大きな女性を中心にして反対側に距離を取るので、警戒された女性からすれば、そのかたちはまるではさみ打ちのかたちのように見えた。
410 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/08/13(日) 00:24:53.29 ID:P+sjA4XXO
今日はここまで。本編の続きは資料とか読んでて、なんとか構成が見えてきた感じです。
また本編に苦戦したら番外編を書くかもしれません。次に書くとしたら、永井とありすかなとぼんやり考えてます。いまのところ確実に言えるのは、永井はデレないということくらいです。
411 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 19:46:37.69 ID:Tw0BKg/zO
−−水曜日 午前九時五十八分。
水曜日。決行の日。田中は椅子に浅く腰掛け、型落ちした薄型テレビの黒い画面を見つめていた。
田中は一昨日もこうしてここに座り、いま自分の顔の輪郭が崩れたようにぼんやりと浮かんでいるこのテレビで厚生労働省の会見の様子を見ていた。予想していた通り、奴らは嘘と誤魔化しと言い逃ればかりを口にした。それはあらかじめわかっていたことだった。この十年で味わった苦痛はいまでも鮮明に覚えていて、眼を閉じればすべてが容易く思い出された。口の中に逆流してくる自分の血の味や膨らんだ鼻の穴から抜けていく血の臭いさえも。
田中は射抜くような視線をテレビの画面に向けた。厚労省の広報官は見も知らぬ男だったが、でたらめを口にしているという理由だけで殺せそうな気がしてきた。だが、実際にこの広報官が眼の前にいて、自分の手に拳銃が握られていたとしても、田中はその男の口を撃つことはなかっただろう。広報官のことなどどうでもよかった。田中にはもっと他にやるべきことがあった。
準備を終えた田中は会見を見ていたときと同じ姿勢で、液晶画面に写る自分の顔を見つめていた。うっすらと滲んだ肌色にまとわりつく深く沈んだ黒色を見ていると、憎しみが呼び起こされ、心が奮い立った。
時計の針が十時ぴったりを指した。田中はキャップ帽を目深かにかぶり、椅子から立ち上がった。
部屋から出て準備を終えた佐藤らと合流すると、田中は緊張で四五口径のコルトを握る手の強張りを解こうと頭の中で計画と役割を反芻し、やるべきことを心に刻みながらアジトを後にした。
−−
−−
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412 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 19:48:26.18 ID:Tw0BKg/zO
−−午前十時五十六分。
スクリーンのような横幅の広いガラス窓から差し込んでくる光線は壁に斜めの線を走らせ、三角錐を横倒しにしたような明るい領域を社長室のデスクのあたりに作っていた。
グラント製薬の社長はデスクにしまわれた椅子の後ろに立ち、身体の向きを斜めにして窓の外を眺めている。佐藤からの爆破予告を受けたにもかかわらず、その様子に動揺したところはなく、平然としている。たかをくくっているとも言えそうな様子だった。
機動隊隊長「社長」
背を向けて高層ビルが立ち並ぶ外の景色に目を向けているグラント製薬の社長にむかって、警備の現場責任者である機動隊の隊長が声をかけた。
機動隊隊長「社員を帰宅させるべきです」
隊長の声は落ち着いていたが、真剣だった。
グラント製薬社長「時は金なりだ」
振り返った社長が機動隊の隊長に答えた。
グラント製薬社長「一日の休業で何億の損失になると思う」
機動隊隊長「人命に係わります」
グラント製薬社長「金と命は同義語だよ」
そう言うと、社長はふたたび窓のほうへ首を向けた。
413 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 19:56:14.17 ID:4fkctst+O
グラント製薬社長「もし、IBMなんてものが実在するとして、何ができるというんだ」
社長室から見下ろす視界に映っているのは、盾を装備した機動隊がグラント製薬の本社ビルをまるで城壁のようにぐるりと囲んでいる光景だった。機動隊のほかに百五十名近くの警察官が本社ビル周辺の警戒にあたり、不審車両のチェックのため交通規制を敷いている。そのため、グラント製薬の周囲の道路には車が延々と連なり、遅々として進まなくなっていた。
警備の警官は屋上にも配置されていた。屋上の西側の端に無線を持った警官が待機していた。日光が顔に当たるのを避けるため、その警官は顔を下げていた。無線に指示がはいると、その警官は顔を上げ、給水口に繋げられた消化用ホースの側で待機している同僚に放水を始めるように伝えた。ホースの口は屋上の四隅に向けられていて、警官が栓を操作すると萎んで横たわっていたホースが強い水の流れによって膨らんだ。
上向いたホースから放出された水流は放たれた直後に拡散し、ばらばらの滴となって光を浴びながら落ちていった。
水滴は社長室の窓ガラスにも張り付き、泳ぐようにして下に向かっていく。滝の裏側を見ているような光景だった。
グラント製薬社長「この建物を吹き飛ばすのに何キロの爆薬が必要だと思う?」
グラント製薬の社長は窓ガラスをつたう水滴を眺めながら言った。
グラント製薬社長「この警備の中コソコソ持ち込むなんて不可能だよ」
グラント製薬社長「帽子の男の虚言になど付き合ってられん」
そのように言う社長の口調は、まるでこの鉄壁の警備が、自らの力によって組織されたかのような口ぶりだった。
−−
−−
−−
414 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 19:58:24.06 ID:4fkctst+O
−−午前十一時三十九分。
軋んだ音が上方から聞こえてきて、中野は上を見上げた。はじめはまるで卵にひびが入ったかのように光が線となって暗闇を切り裂いたかと思うと、光は徐々に細長い長方形になり、最後に白く輝くひとつの面となった。薄暗く死ぬほど蒸し暑いコンテナのなかに、二十四時間ぶりに陽の光が差し込んできた。
永井は昨日と同じように水と食糧のつまったビニール袋をコンテナの底にいる中野めがけて落とした。重力に従って落下してくる食糧を中野は両手で受け止める。腕が汗でぬめっているせいで、あやうく中野はビニール袋を取り落としそうになった。
食糧を受け渡すと、永井はさっさとコンテナの扉を閉めようとした。扉を開けたとき、熱気が蒸気のようにむわっと立ち昇ってきて、はやく退散したかったからだった。
中野「永井! もう水曜だぞ」
永井が開いたコンテナの扉に両手を置いたとき、隅にビニール袋を置いた中野が真上を向きながら大声をあげた。
中野の声はコンテナの内壁に跳ね返り、反響を伴いながら永井の耳に届いた。永井はキーンと響く声に顔をしかめた。
中野が閉じ込められているのは、崖から投棄されたトラックで、そのコンテナ部分に意識を無くしていた中野は放り込まれたのだった。車輌は落下の衝撃でぐしゃぐしゃにひしゃげていて、タイヤも年月の経過によってボロボロになり穴も空いている。コンテナには錆がまとわりついていたが、黒い幽霊でも破壊できないほどの頑丈さは損なわれていなかった。
永井「だから?」
扉を閉める手をとめ、永井が聞き返した。
中野「佐藤を止めるんだよ! このままじゃ大勢殺されちまう」
永井「前にも言ったけど、日本のどこかで他人がどうなろうと僕の知ったこっちゃない」
中野「だったらおれだけでも出してくれよ! 一人でもやつを止める」
永井「僕の居場所を知ったおまえを解放するわけないだろ」
永井は中野の物わかりの悪さにあきれ果てた。
415 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 20:00:06.77 ID:4fkctst+O
undefined
416 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 20:01:29.44 ID:4fkctst+O
永井「一九九四年、ルワンダで八十万人が虐殺されたとき、国際社会は虐殺が進行中と知っていて何もしなかった。虐殺は以前から計画されたもので、それが始まる三ヶ月前にPKO司令官が阻止するために軍事介入を提案したが国連は却下した。資源の乏しいアフリカの小国家の紛争に干渉しても何も得がないからだ」
永井「日本も例外じゃない。当時の国連難民高等弁務官は日本人だった。だがその弁務官が政府に対してできたことといえば、自衛隊を当時のザイールにあった難民キャンプへ派遣するよう要請することぐらいだった。そのキャンプには虐殺の加害者もいたが、加害者と被害者を区別ができないまま支援活動を続けるしかなかった」
中野「なにが言いたいんだよ」
永井「起こりうる危機的な事態を阻止することも、起こってしまった悲劇的な事態への充分な対処もほとんど不可能だってことだよ。僕らがいるのは、事後的で、消極的な世の中ってことだ」
陽の光で熱くなっているところに触れないよう気をつけながら永井は扉に手をかけた。永井が扉を閉じようとするのを見てとった中野はとにかくまた声をあげて、外へ出すように訴えようとした。中野の口から大声が飛び出るまえに、永井がまた顔を下に向けた。
息継ぎをするかのように蝉の鳴き声が落ち着き、微風が涼を運んできた。
永井はまるで折衷案を提案するかのように、中野に言った。
永井「佐藤を止めたいなら、このまま事を起こさせろよ。被害が大きければ大きいほど、政府も本腰を入れて対応するはずだ」
それを聞いた瞬間、中野の頭から考えが吹き飛んだ。 激昂した声が空にまで届くような勢いで飛んできた。
中野「ふざけんな! クズが」
永井「わめいてろ、バカが」
不毛さを感じながら、永井は冷たく言い返した。永井はコンテナの扉を閉めた。
熱気のこもるコンテナの壁を中野は苛立ちながら何度も何度も強く蹴りつけた。分厚い金属の壁は打ち付けられた力をすべて受け止め、外の世界をいままでと同じ、何も変わらないままにしていた。風鈴を揺らす程度のそよ風がゆるやかに抜け、木々の陰にいる蝉たちが眩しい光から隠れながら、ふたたび鳴き始めた。
−−
−−
−−
417 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 20:04:23.58 ID:4fkctst+O
>>416
の前に入る文章の一つ目です。
中野「あの女の子は逃したって言ってたじゃねえか」
永井「彼女はアイドルとして世間に顔が知られてるから、長期間の拘束は僕にもリスクがある。加えて、僕は彼女の正体が亜人だということを知っている。僕がふたたび捕獲されるようなことは彼女にとっても不利益になる。この二点がおまえと違う」
中野は復活した直後に聞かされたことを根拠に反論を試みた。それは当然嘘だったが、それに対する永井の返事は事実を含んでいた。有名アイドルの失踪事件となればメディアは騒ぎ出すだろうし、警察も動く。目撃証言や駅の監視カメラの映像を調べて足取りをたどれば、この辺りの地域で姿を消したことはすぐに発覚するだろう。それは警察が、永井が潜伏している村にまで訪れるというリスクが発生する事態になり兼ねないことだった。
だが、このリスクはアナスタシアをスケープゴートにした際のメリットを考えれば、許容するに値するものだった。しかも永井は、このリスクが現実化する可能性はあまり高くないと踏んでいた。
警察は、アナスタシアの失踪に事件性を見出ださないだろうと永井は考えている。アナスタシアとの会話やその表情から永井が感じたのは、現在の姉の状態にアナスタシアはひどく心を痛めているということだった。姉と面識のある人間は、多かれ少なかれ同情と心痛を抱いているだろうが、アナスタシアのそれは氷河を二分するクレバスのように深く刻まれているように思えた。このような心理状態なら、突然姿を消しても、警察は失踪を突発的な逃避行動と判断するだろう。両親や友人、プロダクションの人間が違うと訴えても、証拠がなければ警察はまず行方不明者の捜索を行わない。
418 :
◆X5vKxFyzyo
[saga]:2017/09/25(月) 20:07:34.29 ID:4fkctst+O
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