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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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19 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:25:56.49 ID:5kzXp0UHO

ちいさな諦めが、慧理子の顔に乾いた微笑みをつくった。


美波「大丈夫だよ。まだ時間はかかるけど、圭がきっと病気を治してくれるから」


自分が直接妹のためにできることがないのをもどかしく思いながら、それをおくびにも出さず、ただ自分が確信していることを口にして、美波は慧理子を慰めようとした。

姉の言葉をきいた慧理子は、一瞬で不快とわかる表情に顔を歪め、そしてさきの言葉を吐いた。兄のことを耳にした途端、まるで兄の存在そのものが美波の大切にしている思い出を台無ししまったかのように、忌々しさを現しながら慧理子はベットに戻った。


美波「どうしちゃったの、慧理ちゃん」


美波は、慰めがこんなふうに作用するとは思ってもみず、戸惑いが押し寄せるなか、なんとか妹に尋ねた。


慧理子「信じらんない。あの人、姉さんにもそんな態度なの?」

美波「あの人って……ダメよ、慧理子、兄さんのことそうなふうに言ったら。圭は……」

慧理子「そんなの自分のためよ」

20 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:27:15.71 ID:5kzXp0UHO

慧理子は美波が続ける言葉を予想し、吐き捨てるように遮った。美波が言葉を失うなか、慧理子は言葉を継いだ。


慧理子「兄さんが医者になろうとしてるいるのは、自分の評価のためよ。それだけなの」

美波「そんなわけないじゃない。圭は必死であなたの病気を治そうとしてるんだよ?」

慧理子「見せかけよ。兄さんの本質は合理的でどこまでも冷たい。そういう人なの、兄さんは」


美波は絶句した。病弱だと思っていた妹が、こんなのにも強い嫌悪を放つとは思ってもいなかった。それも、実の兄に対する嫌悪を。


慧理子「信じられないなら、カイさんのことを聞いてみて。そうしたらわかるから」

美波「海斗くん?」


美波も海斗のことは知っていた。圭の子どもの頃の友達で、慧理子ともよく遊んでいた。美波も何度かいっしょに遊んだことがある。活発な男の子で、教室では人気者なのだろうと思わせる少年だった。

21 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:28:10.70 ID:5kzXp0UHO

美波が上京してから、海斗の姿を見たことはなかった。彼のことはすっかり忘れていたくらいだ。妹が海斗の名前を口にした途端、美波のなかで子どもの頃の記憶が、鮮やかな輪郭をともなって蘇ってきた。記憶のなかの季節は夏で、圭と海斗が虫とりにいく様子を二階の自分の部屋から眺めていた。麦わら帽子をかぶり、虫とり用の網とカゴを持った海斗のあとを、弟がついていっている。風を呼び込もうと開けた窓から、笑いあいはしゃいでいるふたりの声が聞こえてきて、部屋に遊びに来ていた友達に呼び戻されるまで、ずっと聞き入っていたことが思い出された。

その海斗のことが、いまなぜか問題になっていた。

美波は、妹にいったいなにがあったのか問いただそうとした。慧理子はなにも応えなかった。妹は、せっかく姉と楽しく過ごせるひと時を、余計なことをしゃべって台無しにしてしまったことを後悔しているようだった。足にかけたシーンをギュッと握りしめて、気まずそうに沈黙している。美波も、それ以上なにも聞き出すことはできなかった。

22 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:30:43.67 ID:5kzXp0UHO

病院から出ると、青黒い分厚い雲が太陽を完全に隠してしまっていた。集合した雲はひとつの生き物のようで、上空を吹き荒ぶ強風に運ばれる様子は、まるで空を蛇行する蛇のようだった。風の唸りは、鈍く光る蛇の運動によって引き起こされているかのようで、その振動が地上に降り注ぐと病院の窓を一つ残らず揺さぶった。ガタガタっとうるさい音が病院全体から響いている。明日の天気が不安になるような空模様だった。

埼玉の家に戻ってくると、玄関にスニーカーが爪先を揃えて扉の方に向け、置かれていた。美波がリビングへ行くと、まだマフラーを巻いたままの圭が、IHヒーターの上にヤカンを置き、コーヒーを淹れるために加熱をしているところだった。厚めのカーディガンの分だけ着膨れした学生服の袖から、寒さで青白くなった手のひらを出し、ヤカンからの放熱を受け止め、手のひらを温めている。


永井「姉さんも飲む?」


圭が沸騰したお湯でインスタントのコーヒーを淹れながら、美波に聞いた。美波がうなずくと、圭は戸棚からカップを出し、お湯を注いでもう一杯コーヒーを淹れた。美波が手渡されたコーヒーをゆっくり啜りながら圭を見やると、弟は片手でカップを持ち上げながら、もう片方の手で単語カードを器用にめくっていた。

23 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:31:59.28 ID:5kzXp0UHO

ブラックのまま手渡されたコーヒーの味にいよいよ舌がうんざりしてきた美波はソファから立ち上がり、キッチンに砂糖とミルクを探しに行った。弟が座っているキッチンの椅子の背に、すでに首から解いたマフラーがかけられている。弟のカップのコーヒーは黒い液体のままだった。ぬるくなって湯気もたたない黒いコーヒーとは対照的に、圭の手のひらはカップの温度が移ったのか、しっとりとしたピンク色に染まっている。

単語カードを繰る音と、コーヒーをかき混ぜるスプーンがカップに当たるカチャカチャ音が交互に、そして十回に一回くらいの割合で同時に鳴った。カップの中身が乳白色で中和されきった。美波がカップから弟に視線をやると、手元の単語カードは残すところあと数枚というところだった。


美波「そういえば、海斗くんって最近どうしてるの?」


たったいま、記憶にのぼってきた事柄を無意識に口に出してしまったみたいに聞こえるよう気をつけながら、美波は圭に尋ねてみた。


永井「さあ。たまに見かけるけど」


圭は単語カードから視線をあげないまま、あっさり答えた。


美波「子どもの頃、よく遊んでたよね」

永井「今はもう、そんなことはしてない」

24 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:33:25.26 ID:5kzXp0UHO

圭の二度目の返答を聞いた美波は、唐突に理解した。弟は、わたしの求めるものを求めていない。

圭はコーヒーを飲み終わると、カップを手に持ったままの美波の横に立ち、空になったカップを水で濯いだ。流しで水を切り、食器乾燥機に洗ったコーヒーカップを置くと、椅子にかけてあったマフラーと床のバッグを手に持ち、二階の部屋へと消えていった。

美波はひとり、溶けきらなかった砂糖が沈殿するカップに視線を落としながら、自らの思い違いにやっと気づいた。この八年間ーー年が明ければ九年になるーー、わたしたちがはなればなれになった八年という時間は、どうあっても取り戻しようがないのだということに、なぜいままで気づかなかったのか。

25 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:34:39.52 ID:5kzXp0UHO

圭は姉のことを嫌っているわけでも、非難しているわけでもない。美波が圭と結び直したいと願っている関係性に、単に関心がないだけだった。弟は、家族の枠組は守られているのだから、なにも不満に思うことはない、とでも考えているようだった。呼びかけられれば、応える。それだけ。子どものころの思い出の品物がふたたび目の前に帰ってきたとして、それをなつかしむことはあっても、それをふたたび子どものころのように使うことはあるのだろうか。その品物が存在することだけに満足して、またどこか押入れにでもしまい、現在の生活に戻るのが、大方の人間のすることだろう。

弟は、現在の生活に過去の面影がなくても平気なのだ。

美波がブレイクの詩を知ったのは、このような出来事があった直後のことだった。「一人の失われた少年」の最初の八行、ーー少年が父親に向かって挑発するような言葉を突きつける部分ーーを初めて読んだとき、美波の手の動きも、目の動きもピタリと止まり、左側のページの英詩と右側の訳詩に釘付けになった。まるで魔術の力が作用したかのように美波は動けなくなり、弟の内面がすべてそこに記述されているようにしか思えなくなった。「経験」的な少年の言葉は、まるで「無垢」なる態度そのものへの反抗のようでもあり、ついさっきまで無根拠に抱いていた美波の家族再生の物語が、圭が幼少期の友情を否定したことで間接的に否定されたことでもあるかのようだった。

26 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:36:05.15 ID:5kzXp0UHO

そんなふうに読めるのは、あまりにも個人的な事情に引きつけて詩を読んだせいだ。しばらくしてから美波はそのように思い直し、止まっていた手を動かして詩の続きを読んだ。また美波の手が止まった。ブレイクの詩によって動揺の次にもたらされたのは、恐怖だった。詩の後半で、先の言葉を側で聞いていた司祭が少年を引っ立て、両親の懇願もむなしく、涙に咽ぶ少年を火刑に処してしまう。


《そして少年を聖なる場所で焼き殺した、/そこは多くの者がこれまで焼き殺された場所。/両親が泣き叫んでもむだであった。/こんなことがアルビヨンの岸辺で今でも行われているのか。》


恐怖の感情は一瞬で落ち着いた。いくらなんでも、こんなことはありえない。さっき、個人的な事情に引き付け過ぎていると反省したばかりなのに、すぐこのような読解をしてしまうとは。

美波はブレイクの詩集を閉じ、年末から年始にかけてのスケジュールを確認することにした。スケジュール帳を開き日程を確認していくと、少年が火刑になったことへの予言的な恐怖は、吹きつける風が灰の粉を川へ掃いていくかのように、次第に消え去っていった。

恐怖は去っていった。だが美波の心の内には自分でも自覚できないほど微かに、澱のように沈殿する不安がこびりついていた。灰と化した少年の身体が火刑場となった広場の地面の溝を埋め、火刑場が廃れてもなおそこにこびりついているかのように、その不安はいまでも確実に彼女のなかに存在していた。

27 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:37:11.72 ID:5kzXp0UHO

ーー七月二十三日・美城プロダクション・CPルーム

美波はソファに身を沈めて、深く息を吸い、気持ちを切り替えようとする。

美波の脳裡には、六ヶ月以上前に読んだブレイクの詩がまだこびりついていた。「無垢の歌」の少年と「経験の歌」の少年。はじめて詩を読んだ冬から春を経て、季節が夏に移行するあいだ、韻文が生み出す詩のイメージに美波の当時の記憶と想像が流入し、極めて個人的なイメージに変化していった。幼い少年のまえから去っていく父親の隣には連れそってゆく子どもがいる。年月が経ち、成長した子ども同士が再会すると、片方の子どもの愛情はパン屑を啄ばむ小鳥ときょうだい家族に区別をつけなくなっている。そんな子どもの存在は、司祭によって糾弾され火をもって消し去られる。火は子どもの肉体を食み、皮膚や筋肉や骨や細胞は黒い粒子と化して、狼煙のように空に昇ってゆく。

混在する赤と黒がおどろおどろしく踊り跳梁する悪夢のイメージは、まるでそれがほんとうの記憶であるかのようにたびたび美波の脳裡に浮上してきた。ブレイクの時代ならともかく、現代の日本で火刑などまずありえないというのに、この言い知れぬ不安はなんなのだろう、と美波は思った。いや不安というには、あまりにも生々しいリアリティがブレイクの詩から想起させられた。

28 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:38:23.12 ID:5kzXp0UHO

記憶野と想像野にどっちつかずのまま架け橋のように横たわる火刑のイメージ。それはやがてもうひとつ変化を遂げた。黒く焦げた肉体が千切れて一部となり、その一部がまた千切れ、粒子の段階まで分解される。周囲に漂いはじめた粒子は、風もないのに運動を見せはじめ、洪水のように押し寄せてきては視界いっぱい黒に染め上げる。ここ一ヶ月、美波が夢を見るときはこのようなノンレム睡眠と見分けがつかない、深海のような暗黒の光景ばかりが夢に出てきた。なにも見えないのに、これは夢だとわかるのは奇妙だな、と美波は朝起きるたびに思った。

夢を見た日にアナスタシアと会うことになると、夢と彼女の対照に美波はそのたびごとに驚いた。透き通った結晶体のような容姿をしたこの少女はけっこう子どもっぽいところがあり、昨夜電話で話したときも美波とおしゃべりできるからという単純明快な理由を隠すこともなく、声を弾ませていた。リビングのテーブルに置きっ放しにしていたスマートフォンをさきに夕食を済ませ自分の部屋に戻ろうとする圭が持ち上げ、美波に手渡した。画面にははじめて見る番号が表示されていた。通話ボタンをタッチし、スマートフォンを耳にあてる。スピーカーから聞こえてきたのは親しい馴染みの声だった。


アナスタシア「こんばんは、ミナミ」

美波「アーニャちゃん。あ、そっか。スマホ、新しくするって言ってたね」

アナスタシア「ダー。前のは、スメールチ……お亡くなりになりましたから」


パタンという音がして、見ればリビングの扉が閉められていた。廊下を歩く音がして、弟が二階に行くのがわかった。

29 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:39:41.55 ID:5kzXp0UHO

アナスタシア「ミナミ……?」

美波「ううん、なんでもない。新しいスマホはどう?」

アナスタシア「調子、いいです。ミナミの声、よく聞こえるから」


まっすぐ情を向けてくるアナスタシアの声に、美波は微笑みを浮かべる。他愛ない会話をしばらく続けていると、美波は気持ちが浮遊していくのを感じた。

冷えているが寒くはない冬の日、風は起こらず、控えめであるだけに心地良い鈍い陽光を浴びていると、周囲の空気がもっと気持ちの良い場所があるよとでもいうふうに身体を持ち上げ上空のところまで運んでくれる。地上の風景は色や形で家々や工場や公園や森や海などを見分けられるが、浮上にしたがいそれも難しくなっていく。地上のものの輪郭はだんだゆとぼやけ、色彩も薄くなっていき透明に近づいていく。上空での鳥類は地面や木に止まっているときとは異なる、大気によく浸透する声を使って会話していた。上空では雲がソファに、太陽の光がブランケットになっている。

リビングのソファに腰を下ろしていた美波は、気づかぬうちに足を伸ばし、楽な姿勢をとっていた。

30 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:41:13.07 ID:5kzXp0UHO

アナスタシア「ミナミ、気持ち……落ちつきました?」


まるで美波の様子が見えているかのようにアナスタシアは言った。


美波「そんなに疲れた声してた?」

アナスタシア「アー……というより、オビスポクォニー……悩んでる、と感じました」

美波「ほんとに?」

アナスタシア「ダー。悩みごと、ありますか、ミナミ?」

美波「えっーと……」


美波は黙ってしまった。黒黒とした不吉なイメージは映像として確固としているものの、それをどう言葉に置き換えればいいのか、さらに不安を感じてるといっても、その原因はほとんど杞憂に等しい予感でしかないのだ。美波が言葉に詰まっていると、アナスタシアがさきに口を開いた


アナスタシア「いまじゃなくてもいいですよ?」

美波「アーニャちゃん?」

アナスタシア「話したいときに、話したいひとに、話してください」

美波「……」

アナスタシア「わたしならいつでも大丈夫です。いまでも、いいです」

美波「ふふっ。さっき、いまじゃなくてもいいって言ったのに」

アナスタシア「いつでも、とも言いました。わたしは、いつだってミナミの助けに、なりたいですから」

美波「……ありがとう、アーニャちゃん」

31 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:42:17.63 ID:5kzXp0UHO

電話を終え、美波は夢についてひとり考え込んだ。精神分析に頼らなくても原因は、弟を中心にした家族の現在にあるのは明らかだった。もはや、過去は取り戻せないのだということを認めるべきなのだろう。弟ほど極端でなくても、わたし自身、過去の出来事から優秀であろうとし、それを実践してきたのだから。わたしたち家族は、すでに離散してしまったのだ。その過去を都合良く忘れ、むかしの家族を理想化し、その再現を試みることほどむなしい行いもないだろう。

過去は牢屋のように堅固としているかと思えば、煙みたいにかたちがなくなったりもする。資料が残っているような歴史的な過去の出来事についてならまだいい。それならやりようはある。だが記憶だけが頼りの、個人的な思い出の場合はそうはいかない。思い出はひどく気まぐれで、子どもが裏切ったときみたいに手酷い痛手を与えることもしばしばだ。

だから美波はいま、CPルームのソファに背を預けながら、空気のなかに黒い絵具を溶かしたかのようなあのおそろしいイメージを取り払うことから始めようとする。構図の取り方に失敗した風景画の下書きを画家が投げ捨てるように、黒一色のイメージを美波は打ち消そうと努力した。イーゼルに乗せられた真新しい白いキャンバスに新たな像を描こうとするが、筆が触れる前に染みのようにキャンバスが黒に染まっていく。何度か同じ試みを頭のなかで繰り返す。結局、それはすべて失敗におわる。試みの最後には、いつも黒が染み出してくる。割れた地面から溢れる毒を含んだ地下水のように。

32 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:43:32.60 ID:5kzXp0UHO

徒労をおぼえた美波が、逃避的に考えを別のことにむけたときーー自分自身のすこしさきの未来、七月二十七日。美波の二十歳の誕生日のことーー部屋のなかに三人の少女が入ってきた。レッスン終わりのニュージェネレーションズだった。


凛「お疲れさま。美波もレッスン終わり?」


先頭にいた凛が美波に声をかけた。


美波「うん。もうすぐCD発売初日のイベントがあるから」

卯月「アインフェリアですよね。とってもカッコいい曲でした」

未央「それにその日はみなみんの誕生日だしね。お祝いごとがふたつもあるなんて、ほんとおめでとうだよっ」

美波「ありがとう、未央ちゃん」

未央「プロデューサーがここをパーティーに使ってもいいって言ってたし、美嘉ねえたちも顔を出すって」

凛「手巻き寿司パーティーはアーニャがやりたいって言ってたよね」

33 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:44:51.05 ID:5kzXp0UHO

美波「でも、なんだか大げさじゃない?」

卯月「そんなことないですよ! 美波ちゃんはシンデレラプロジェクトのリーダーなんですから」

凛「二十歳の誕生日なんだし、大げさなくらいがちょうどいいんじゃない?」

未央「そうそう。わたしたちみんな、みなみんのことお祝いしたいんだよ」

美波「みんな……ありがとう。その気持ちだけでも、すごくうれしい」

未央「本番はもうちょい先だよ、みなみん?」


未央がそう言うと、凛と卯月が軽く笑った。美波もつられて笑顔になった。

夕暮れが近づき、太陽から放たれる光線がだんだん水平になってくると、部屋のなかは眩しさに包まれた。視界は鮮明すぎて逆にものが見えづらくなり、ブラインドを下ろし光量を調節しなければならない。電気を点け、部屋がちょうどいい明るさを取り戻すと、蛍光灯に照らされた時計が夕方のニュースが放送される時間帯を示していた。凛が明日の天気予報を見ようとテレビをつけた。

そのとき美波のスマートフォンが鳴った。着信はプロデューサーからだった。美波が席を外し通話ボタンを押すと、特徴的な低い声が聞こえてきた。

34 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:45:55.56 ID:5kzXp0UHO


武内P「新田さん、いまどちらに?」


いつもと変わらない丁寧なしゃべり方。だが、美波にはその口調に抑制されたものがあると感じた。落ち着きを意識的に課したような口調。声の速度もいつもよりわずかに速いような気がする。


美波「いまですか? CPルームにいますけど」

武内P「新田さん、あなたに至急連絡しなければならないことがあります。すぐそちらに向かうので、待機していてください」


電話の向こうのプロデューサーは言いながら立ち上がったのか、電話口からガタンという音が聞こえてきた。声の抑制もさっきよりすこし綻んだのがわかった。


美波「それは構わないてますけど……連絡しなければならないことってなんですか?」

武内P「それは……電話では話かねますので、直接お伝えします。とにかくすぐ向かいますので……」

卯月「み、美波ちゃん!」

35 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:49:41.70 ID:5kzXp0UHO

大声に振り向くと、慌てた様子の卯月がドアの近くに立っていた。開いたドアからは部屋のなかにいる凛と未央が見える。ふたりともテレビと美波のどちらに視線を向ければいいか、本気で迷っているようだった。卯月は美波を呼んだものの、それからさきに続ける言葉を見失っていた。

美波が不審に思っていると、部屋のテレビからアナウンサーのものとおぼしき声が聞こえてきた。臨時ニュースのようで、原稿を読み上げる音声はまだそこに書かれた文章に馴染みきっていない。さっきのプロデューサーの話し方と似てる、そう思いながら美波はドアを通った。背後から卯月の、あ、あのーー、という躊躇いが滲んだ声が聞こえてきたが、美波は足を止めなかった。テレビは国内三例目の亜人発見のニュースを伝えていた。三例目の亜人は高校生で、下校中にトラックに轢かれ死亡したが生き返ったところを大勢の人間に目撃されていた。亜人の名前は永井圭といった。


美波「……え?」


まだ通話中のスマートフォンからプロデューサーの声がもれていた。美波はスマートフォンを持った手をだらんとさせながら、テレビの液晶画面に見入っていた。同時に飛び込んできた画面のテロップやアナウンサーの声は、ーー亜人・永井圭の姉は美城プロダクション所属のアイドル、新田美波さんとの情報もあり……ーーもう美波のなかから消えていた。美波は立ち尽くしたまま、テレビに弟が映っているのはなにかの間違いではないかと思った。だがそこに映し出されていたのは、まぎれもなく美波の弟、永井圭の顔だった。

美波の弟は死んで、そして生き返った。死なない生物、亜人としてーー。

36 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:57:02.48 ID:5kzXp0UHO
今日はここまで。設定を説明するために地の文が多くなってしまいました。次からはもうすこし読みやすくするよう心がけます。
そういえば新田さんと永井の妹慧理子の声ってどちらも洲崎綾さんなんですね。書きながら気がつきました。

ブレイクの詩は岩波文庫から出てる松島正一編『対訳ブレイク詩集』から引用しました。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 01:47:34.92 ID:itwWq4Syo
なんだこれすげぇ おまえさん本職かい
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/01/03(火) 01:47:37.42 ID:42Rcb4rD0
乙、面白そう
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 04:38:58.55 ID:AUKuv2Ol0
おつ、亜人ぐらしの人か

デレアニ側からは亜人1人だけなのか。ちょっと物足りない気もするけど期待
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 08:29:53.49 ID:0JFSSC/6O
凄く期待できる始まり方
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 09:38:23.34 ID:3evUl1zL0
改行しなくても読みやすいって
ものすごい文章力だと思うの
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 12:52:26.62 ID:CikglAQSo
乙。
読みやすいけど横に長いかなとは思った
43 : ◆8zklXZsAwY [sage]:2017/01/03(火) 18:43:16.75 ID:5kzXp0UHO
コメントありがとうございます。ほんとに励みになります。

>>42
スマホからの打ち込みですのでパソコンからだと見づらいのかもしれません。うちにパソコンがないもので…。スミマセン…。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/04(水) 13:04:37.49 ID:c+lazJ93o
乙乙
毎度読ませる文章
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/22(日) 22:57:56.29 ID:uWL6ZvZ50
マダカナ
46 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:29:22.32 ID:8ENUCYV1O

2.いちばん辛いのは永井圭のほうだろう


「あいつは全囚人の中でいちばん向う見ずな、いちばん命知らずな男だよ」とMは言った。「どんなことでもやりかねない男なんだ。ひょいと気まぐれを起こしたら、どんな障害があっても立ちどまることを知らない。ふとその気になったら、あなただって殺しますよ、あっさりね、鶏でもひねるみたいに。眉一つうごかすでもないし、悪いことしたなんてこれっぽっちも思いやしませんよ。頭がすこしへんじゃないか、と思うほどですよ」ーードストエフスキー『死の家の記録』


ーー七月二十三日、二二時三十二分・美城プロダクション前

美城プロダクションの前にはもう大勢の報道陣が詰めかけていた。道路一面に中継車が並び、報道各社のリポーター、テレビカメラマン、ブームポールを持つ音声担当、照明担当らが、西洋的な城の門構えを思わせる装飾が施された建物を背景に、それぞれが良いと思うアングルを確保しようと陣取っている。

美城プロダクションは伝統ある大手芸能プロダクションにふさわしく都内の一等地に建てられいて、この区画は多くの企業ビルが連なる区画なので夜になっても明るい。今夜の照明はいつもより濃く、道路の隅々まで照らし出していた。カメラが映像をちゃんと中継できるよう、バッテリーライトが道路のアスファルトに黄色い光を投げかけていたからだ。

テレビ局の報道陣が陣取った以外の場所では、一眼レフカメラを首から下げたカメラマンや記者たちは群れをつくっていた。出版社に所属しているものもいればフリーランスの活動者もいたが、その区別はむずかしい。
47 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:30:58.14 ID:8ENUCYV1O

テレビリポーターや記者たちの活動がもっとも活発になったのは永井圭が協力者とともに警察から逃亡したという情報がもたらされた午後八時過ぎのことだった。記者たちはプロダクションに出入りする人間すべてに詰め寄り、マイクやICレコーダーを突きつけ内容などなんでもいいからとにかくしゃべってくれとうるさくせっついていた。増員された警察官によって記者たちの動きが抑えられたのはついさっきのことで、現場の整理を指示していた刑事は、記者たちが地面から生えてきた有象無象にみえて仕方がなかった。

ーー放っておいたらどんどんつけあがる奴らだ。まったく。奴らをみてると報道とタレコミの違いがわからなくなってくる。奴らがほんとにアスファルトでできてたらよかったのに。それなら躊躇ってものは必要なくなる!ーー

警官が防波堤の役目を果たしはじめたころ、社員たちはようやく帰宅できるようになった。なかには強引に記者たちの群れをかき分けて帰っていく者もいたが、たいていはエントランスで様子をうかがっていたり、部署にもどり効率悪く残業したりしていた。

48 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:32:33.50 ID:8ENUCYV1O

レッスンや撮影などでプロダクション内に残っていたアイドルたちもこの騒ぎのせいで帰るに帰れなくなっていた。当然ながらマスコミはアイドルたちのコメントを貰おうと躍起になり、社内に侵入しようとするものまで出てくる始末だった。先頭を走る記者ひとりに対して五人の警官が後を追う。追いかけっこは、さながら鳥の群れの移動のようだった。

こういった騒ぎが本格的になる前に、アイドルたち、とくに未成年者は優先して専務よって帰宅が指示された。ビル駐車場に送迎用のワゴン車が集結し、帰宅の方向をおなじくするアイドルたちが手当たりしだいに車にのせられていく。警備員や制服警官たちが仕事に躍起になるなか、送迎車が連結した列車のように一列になって駐車場から出ていく。何往復かの送迎のあと、最後にのこったアイドルを送り出したのは最初のワゴン車が出発してから数時間後のことだった。そのあいだ、記者たちの動きをとめるのにプロダクションの社員までもが投入された。
49 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:33:52.88 ID:8ENUCYV1O

車列に群がろうとする記者たちを押さえつけるのに全力を使いきった警備員や警官たちが疲労で肩を重くしていると、黒いセダンが入れ替わるようにプロダクションの駐車場にすべりこんできた。まるでさっきまでの喧騒など存在しなかったかのような運転のしかただった。その公用車はビル入口近くの駐車スペースにとまった。車から降りてきたのは、若いスーツ姿の女性とテンプルの部分がV字型の眼鏡をかけ、黒い革の手袋をした三十代前半と思しき男性で、男性の方は案内しようと呼びかけてきた巡査部長に姓が濁らないことを指摘し、巡査部長を謝罪させた。男が眼鏡の位置を直したとき、駐車場の明かりが反射してなめらかな表面をした革手袋が鋭く光った。

三人は巡査二名が警備している社員通用口を抜け本社ビルにすすみ、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターが上昇するあいだ、巡査部長はすでに聴取した内容を眼鏡の男におおまかに説明した。眼鏡の男は大量のミントタブレットを口に入れながら、巡査部長の話を聞いていた。亜人捕獲に関する有益な情報はなく、男は話を聞きながら、亜人研究のサンプルになりうる幼少期の性格、態度、振る舞いなどを聞き出すことと、亜人発覚直後の親族の反応を観察することを目的にしようといまからおこなう聴取のプランを立てた。
50 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:35:09.37 ID:8ENUCYV1O

エレベーターが目的の階に到着すると、二人は巡査部長の案内によってCPルームの前までやって来た。ドアの両側にはまたもや二名の巡査が待機していた。敬礼する二名を気にもとめず、眼鏡の男とあとにつづく女性は部屋にはいった。

部屋のなかには三人の男女がいた。三人ともスーツ姿で、このプロダクションの社員らしい。目つきが鋭い背の高い男がいちばん若く、眼鏡の男よりすこし年下にみえた。その男は顔を伏せて表情に影を作り、刺すような視線をだれに向けるでもなく沈黙している。陰鬱さがよく似合う男だった。もうひとりの男性社員は老齢で、腰にはまだあらわれていないものの背中の丸みが年齢による筋力の衰えを物語っていた。この初老の社員も若い社員とおなじく暗い表情をしているのが横顔からでもうかがえた。

かれらに対面する位置で腕を組んでいる女性は二人の男性社員の中間にあたる年齢だったが、初老の男より高い地位にいることが眼鏡の男には一目でわかった。役員クラスの地位なのだろう。命令する側特有の有無を言わせぬ雰囲気が女性からは漂っていた。いまの彼女はその雰囲気を意識的に態度にあらわしーー言葉でもあらわしたのだろうーー目の前の二人をまるで押し寄せてくる波のようにみずからの意思決定に従わせようとしている。
51 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:36:40.39 ID:8ENUCYV1O

部屋にはいってきた眼鏡の男と女性役員の目が合った。女性役員のほうが眼鏡の男よりはやく進み出て、自分とあとの二名の紹介をする。


美城「美城プロダクション専務の美城と申します。弊社部長の今西、新田美波参加プロジェクトのプロデューサーも同席しております。失礼ですが、厚生労働省から派遣された方でよろしかったでしょうか?」

戸崎「はい。私は亜人管理委員会の戸崎と申します。こちらは秘書の下村です」


戸崎の発音は姓が濁らないことをことさら強調していた。

同席していた部長の今西とプロデューサーの表情はともに険しかったが、戸崎と会話する美城専務は淡々と今後の対応について話を進めていた。


美城「新田美波はあちらの応接室にいます。このあとすぐに聴取を開始されますか?」

戸崎「ええ。彼女の聴取はできれば私たちだけで行いたいのですが、構いませんか?」


プロデューサーの表情に懸念の色が浮び、身体が前に傾いた。美城専務は彼が迂闊に発言するまえに話を続けていた。

52 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:37:54.97 ID:8ENUCYV1O

美城「もちろんです。よろしければ聴取が終わった後、今後の対応について助言を頂くことは可能でしょうか? なにしろこのような事態は弊社にとっても初めてなので」

戸崎「どのような対応をお考えで?」

美城「弊社は芸能プロダクションです。マスコミの前に晒さられるのは、まず弊社所属のアイドルたちになるでしょう。そのほとんどが未成年者であり、今回の事態の重大性について十分な理解があるとは言えません。彼女たちの不用意な発言が弊社のイメージを損なうおそれもあるでしょう。そこで、弊社としましては早い段階で社の内外に対して事態への対応姿勢をアピールしたいのです」

戸崎「その具体的な方法は? 記者会見などを行うのですか?」

美城「ええ。すでに明後日の正午に会見が行われるようセッティングし、マスコミ各社へも通達済みです。多くの人間が会見を見ることになるでしょう。弊社の人間がその場に現れるとなればなおさら」


戸崎は美城が何を言いたいのか理解した。これは亜人管理委員会にとってもメリットのある話だった。もし記者会見の場に永井圭の姉が現れれば、多くの人間がそれを見ることになるだろう。正午に中継され、夕方のニュースで放送され、翌日にもまた流される新田美波の映像。隠しきれない沈痛を顔に浮かべながら、気丈に弟の安否を気遣う姿。

協力者がいるとはいえ、日本中がその行方を捜索している孤立状態の亜人にとって、肉親の訴えはどれほど効果的だろうか。内容によっては自ら出頭することも考えるかもしれない。二人の利害は一致した。

53 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:41:03.21 ID:8ENUCYV1O

戸崎「わかりました。では聴取のあと、簡単にですが助言いたしましょう」

美城「ありがとうございます。では、聴取が終わった後、社の者に会議室まで案内させます」


プロデューサーはすれ違うとき、何かを言いたげに戸崎にむかって顔を向けた。戸崎の仕事に弱々しい思いやりは必要なかったから彼はそれを無視し、美波が待機している応接室へとはいっていった。

まず戸崎の目に入ったのはシックな黒のマガジンラックだった。芸能情報誌やテレビマガジンが各種取り揃えて並べてあり、そのなかの多くがこのプロダクションに所属しているアイドルたちなのだろう。誰もかれもが笑顔だった。中央部に美城プロダクションのエンブレムが輝くマガジンラックの隣には、観葉植物が鮮やかな緑色をしていて、空調が葉をかるく揺すっている。大きな葉を持つ植物は黒で統一されている調度品と好ましい対照を示していた。

戸崎はすぐに視線をおとし、永井圭の姉がソファに一人、消えかけているような儚さで座っているのを認めた。戸崎が美波のまえに腰をおろす。美波は目を伏せたまま戸崎に顔を合わせず、あわせた膝のうえで重ねるようにして置いてある拳にぼんやり虚無的に視線を落としていた。握りしめた拳の指の先だけが赤く、それ以外の関節は白くなっていた。

54 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:42:25.62 ID:8ENUCYV1O

美波の様子は弟の安否を心配する気持ちはあったが、自分にはそれだけしかないことも理解しているといったふうだった。苦しみによって意志を挫かれた人間の様子にふさわしく、美波もなにも求めていなかった。求めても求めても、なにも得ることはできないと美波はこの数時間で知り尽くしてしまっていた。


戸崎「新田美波さんですね?」

美波「はい……」


美波はかろうじて戸崎の質問に応えることができた。


戸崎「厚生労働省から派遣されました亜人管理委員会の戸崎です。あなたの弟、永井圭についていくつか質問したいことがあります」


美波がさっと顔をあげた。眼に消えかけていた光がふたたび宿り、涙に潤んでいるようにもみえた。もしかしたら、という思いが美波のなかに引き起こされたが、それは亜人管理委員会という戸崎の肩書きのためだった。

亜人となった人間がどんな扱いを受けるかを、聴取をしにやってきた警察官はだれひとりはっきりと答えることはできなかった。

55 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:44:00.12 ID:8ENUCYV1O

隔離と管理。聴取の合間合間に美波が弟が見つかった後のことについて、答えに詰まる警官たちにくい下がって聞くことができたのは、かれらが口ごもりながら言ったこの二語だけだった。亜人と発覚した者は国の施設に収容され、研究協力が求められる。それ以上のことを警官たちはけっして口にしなかった。

美波は喚きたくなった。そんなことはだれもが知ってることじゃない。わたしが知りたいのは“わたしたちのその後”のことであって、あなたたちがどうするかではないのだ、と。家族が追い立てられ、追い詰められようとしているのに、あなたたちはわたしに協力を要請してくる。何の保証もないまま。もし弟を捕らえた人間がいたら、あなたたちはその人に懸賞金を支払うというのか?……

巡査部長は聴取がこうなってほしくないと思っていた方向に進み始めていると感じた。動揺や困惑がもっと表にあらわれていると思われていた亜人の関係者は、興奮を抑えつけながらしだいにそれを敵対感情に変えようとしていた。そういう反応自体はたいしてめずらしくない。警察がやってくるということは、警察が取り扱う領域に多かれ少なかれ取り込まれてしまうことなのだ。だから、それにたいして動揺するのは当然で、あとは信じないという気持ちを泣くか怒るかどちらの態度であらわすかの違いしかない。そして関係者たちの感情的な反応が時間が経つにつれ落ち着いていくのもよくあることだった。警察が頼りにするのは複数の目撃証言や証拠であり、家族や親しいものたちは思い出しか味方になってくれるものがないのだから……


56 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:45:22.93 ID:8ENUCYV1O

専門家の意見が一般のそれと相違するのはよくあることで、意見の正当性にではなく相違があることそれ自体に文句がつけられるのも同じくらいの頻度で存在する。そのため専門家はそういった文句の受け流し方や対処の仕方を多少なりとも身につけていたりするのだが、今回の場合、警察は専門家とはいえなかった。なぜなら、亜人が発生したのは十年ぶりの出来事なのだから。

深刻な病状の患者に事実を伝えるのは経験を積んだ医師ではなくてはならないのに、その役目を不条理にも警官が任されてしまった。美波が問いかけてくるたびに、巡査部長はそんなふうに思わざるをえなかった。

やがて美波も目のまえの警官に訴えかけるのは無駄なことだと気がついた。かれらも何も知らないのだ。命令を受け仕事をしに来ただけのいち公務員に過ぎないかれらは、保証も確約もできない。できるのは捕獲すること、それだけだった。

57 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:46:33.43 ID:8ENUCYV1O

美波「あの、でも、刑事さんにはもう話をしたんですけれど」


美波は多少警戒しながら言った。眼にもどってきた光に失望を与えたくなかったし、そうなった瞬間の暗闇を戸崎に見られたくなかった。


戸崎「それはわかってます。ですが、亜人に関する一切はわれわれ亜人管理委員会に決定権があります。現在、警察によっておこなわれている永井圭の捜索、そしてその身柄の保護もわれわれの進言によるものとお考えください」


美波はふと助けを求めるかのように視線を部屋にさまよわせた。部屋の中に美波を助けてくれる人間はだれもいなかった。戸崎は話をつづけた。


戸崎「あなたの弟はすでに県外に逃亡したものとみています。そこでまずあなたにお聞きしたいのは、永井圭と行動をともにしている協力者についてです。どなたか心当たりのある人物は?」

美波「協力者、ですか」

戸崎「高校のクラスメイトの所在はすでに確認済です。ほかに弟さんと親しい人物はいませんでしたか? たとえば、子どもの頃によく遊んでいた人物などは?」

58 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:48:06.65 ID:8ENUCYV1O

美波は既視感のある問いかけにたいして、さきほど巡査部長から質問をされたときとおなじように記憶を探ってみた。二回目の質問だったせいか、海斗のことがより鮮明に頭に浮かんできた。そして妹の病室を訪れた陰鬱な冬の日のことが連想され、かれではないのだろうという否定的な思いがいっそう強くなった。


美波「いえ、やっぱり心当たりはありません」

戸崎「そうですか」


美波は尋ねられたことに答えられないこと、協力者の正体に思いあたりがないことに自責を感じていた。それは戸崎や警察に協力したいからではなく、弟の行方にまったく見当がつかないことに対する愕然とした思いのせいだった。

圭が亜人だと発覚したあと、弟についてのあらゆる質問が美波に投げかけられた。 ーー普段の生活態度は? 最近変わったと思うことは? 夜中に出かけたりは? 問題を起こしたことは? あるいは最近なにかに悩んでいたりとか? 離婚についてどう感じていたと思いますか? 家族関係は? あなたとの関係は良好でしたか? 母親とは? 妹とは? 友人関係は? 協力者にほんとうに心当たりはないのですか? どんな場所に潜伏すると思います? これまでに亜人だと示す兆候はありましたか? 亜人だったと、ほんとうに気づいていなかったんですか?……

59 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:49:59.89 ID:8ENUCYV1O

記憶を総ざらいにして巡査部長や戸崎からの質問の答えを導き出そうとしたのは、彼らの関心、永井圭は現在どこにいて、これからどうするのかという疑問の答えを美波自身がなによりも欲していたからだった。記憶の細部が見えるように画像や映像のかたちで蘇らせ、脳内でズームやスロー再生などの処理を施し情報を得ようとする。思い出をキャビネットのようにひっくり返し、瑣末な会話の切れ端から弟がどんなことに興味があり、どこで遊んでいたかだれと楽しさを共有していたのかを探り当てようと必死になる。その結果わかったのは、そこにはーー美波の記憶、思い出にはーー答えが存在しないということだった。

壁にかかっている時計の針の音が驚くほど大きく部屋に響いた。時刻はすでに二十三時を過ぎていて、白く光る天井の灯りに照らされている美波の身体が事態の発生時点から現在進行で緊張と疲労を積み重ねていた。そのせいで眼のまわりの皮膚が張り、痛みを訴えていた。このままでは眠るというより意識が切断されるということになりかねない状態だったが、美波にそれを感じ取れるだけの余裕はなく、この危機をどのように脱するかという問題に全神経を集中した。問題は内面的なものだけにとどまらなかった。姉である自分から弟についてたいした情報が得られないことが悟られてしまったら、戸崎は形式的な質問だけ行って聴取を早々と切り上げてしまうだろう。そうなってしまえば、弟がいたとう事実そのものが、朝の目覚めが夢を奪うようにきえていってしまう気がした。

美波は審判されるのが恐ろしかった。他人に審判されるのを恐れているのは、なかば自分自身を審判してしまっているからだった。

60 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:51:07.83 ID:8ENUCYV1O

美波「あの、亜人管理委員会とはどんな組織なんでしょうか? 警察の方に聞いてもよくわからなくて」


美波は不安の種類を個人的なものから一般的なものにみせようと努めながら質問した。その成果があるのかどうかを判断するには、美波はまだ混乱のなかに居すぎていた。


戸崎「当然の疑問でしょうね」


戸崎は手袋をした手で眼鏡の位置を整えた。眼鏡が上に動いたとき、レンズの下半分のところが光を受け、反射した白い輝きが美波にむかって飛んできた。


戸崎「われわれが亜人の管理、研究を目的とした団体であることはもう理解されていると思います。活動内容は亜人関連法案に基づき規定されており、研究者や一部の政府関係者をのぞき、その内容は原則非公開となっています。たとえ亜人の親族であろうとも、面会や手紙のやり取り等はほぼ許可されないと考えてください」


言葉が刃のはたらきをして美波の心臓に突き破った。息の仕方を忘れてしまったかのように美波は口を開けたが、求めているのは別のものだった。

61 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:52:28.25 ID:8ENUCYV1O

戸崎「これは亜人の安全の守るための措置です。十七年前にアフリカで初めて亜人が発見されて以降、世界各地でも発見されるようになった亜人に対して各国政府はその対応を早急に決定しなければなりませんでした。あらゆる分野において重大な研究価値を持つ亜人を違法な売買目的で捕獲しようとする、いわゆる“亜人狩り”が横行するようになったからです。これは亜人の発見率が高いアフリカや中東などの紛争地域にかぎらず、先進国においても報告されている事態なのです。それを専門とする職業的な密猟者や他国の工作員が亜人捕獲のために活動を開始していると考慮しなければなりません。ご自分が国家レベルの案件に関わっていることをどうかご理解していただきたい」

美波「懸賞金のことはどうなっているんですか? ニュースを見るたびに、その話が毎回といっていいほど出てくるんですよ?」


官僚的な語り口で事実を羅列する戸崎の話法は威圧することを目的としたいて、それは確かに効果をはたしていた。実際、美波は戸崎のしゃべり方や話す内容にかなりのところ怯んでいた。だが怯みっぱなしでいるわけにはいかなかった。このまま押しつぶされるようなことがあっては従えられてしまうと美波は漠然と信じていた。おそらくこれが、弟に起きたことについて関与できる最後のチャンスなのだ。故に、とにかくなんであれ問いを発しつづけなければならない。


戸崎「それはよくある誤解です。政府は一般市民による亜人捕獲を推奨したことは過去一度もありません」


戸崎はすこしの焦りもなくすぐに訂正の言葉を繋げた。

62 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:53:44.15 ID:8ENUCYV1O

美波「でも、ニュースでは……」

戸崎「公的報奨金の支給はいっさいありません。亜人は犯罪者ではありませんから」


圭が亜人だとわかったとき、美波のなかに混乱と戸惑いの渦が起こった。その感情の渦には憤りも含まれていた。弟はふたたび命を吹き込まれた。なのに一体なぜ、わたしはそのことを喜べない状況にいなければならないのか。美波はさっきの戸崎の言葉によって、奥底に沈んでいた自身の憤りに気づき唇を噛んだ。

戸崎はその様子を観察していた。家族が亜人だった人間が表す感情のパターンを知識として記憶していたが、見るのははじめてだった。戸崎は美波が肩に力を入れ、指を強く握り、怒りに眉を寄せ唇を噛むのを見て、いまから言う言葉とその後の対処を決定した。


戸崎「もちろん、われわれも現状がベストであるとは考えていません。亜人本人の安全を最優先にした結果、プライバシーや人権に抵触する部分もでてきたのはまぎれもない事実なのですから。われわれとしても今回のようにある側面だけが誇張して取り沙汰され報道されるのは不本意なことなのです。亜人の保護管理というわれわれの活動に支障をきたしかねない」

美波「じゃあ、どうしてそう公表しないんですか?」

戸崎「公表はしているのです。ただ、だれもこの問題を知ろうとしていない」

63 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:56:24.52 ID:8ENUCYV1O

空調が咳き込んだような音を出した。戸崎はその音を耳障りに思ったのかいったん言葉を切り、首をすこし傾け天井を見上げた。美波は戸崎が話を再開するのを待った。必死に。意識を耳に集中しているのに、時計の針の音や空調がごうごう鳴る音はどういうわけか聞こえなかった。


戸崎「厚生労働省のホームページにも記載されていることですが、一般人はおろかマスメディアの人間もこのことをほとんど知らない。公的機関による情報公開の限界を感じますよ」


その後の聴取は型通りに進んだ。聴取の最後に、戸崎は弟が亜人だったことについてどう思っているか率直な質問をした。美波はそれには答えず、すこしの沈黙を挟んでから言った。


美波「家族でも会えないのは、あくまで現状ではということなんですよね?」


戸崎は、もちろん、とだけ言い残して応接室から出ていった。聴取がおわったあと、美波は戸崎の言ったことの意味をじっくりと時間をかけて考えてみた。多くを望めない状況だということをあらためて思い知らされた。諦めなければならないことはあまりに多かった。人生がおおきく変わる出来事で、良くない方向にハンドルが切られている。すでに。美波の意志とは関係ないところで。

だが自分のやるべきことも見つかった気がした。それを考えるために必要な力を身体から絞りだそうと努力してみたが、疲労を積み込み過ぎた身体はそれを拒否した。

瞼が自然に落ちて、連鎖するように上半身が前のめりになり頭が膝の上にゆっくり沈んでいった。美波は意識が消える瞬間の暗闇を見た。ーーああ、またあの夢ーーそれだけが最後の残り火のように思い浮かび消えた。まるで死んだように美波は眠りに入っていった。

64 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:58:43.00 ID:8ENUCYV1O

専務室の見事なくらい磨かれた床は光を受けて白く光り輝いていた。天井の明かりが部屋を満遍なく照らし出し、一目で高級品とわかる黒のビジネスデスクやパソコンモニターの反射しているところが白い斑点のようになっている。美城専務がページを繰っているホッチキス留めされた会議用の資料も例外ではなかった。さらさらした紙の上に黒くはっきりした文字が濃く印刷されている。

資料には亜人関連法案の概要と、それにもとづいた対応策の提案、事態解決までプロダクションがとる措置の指示などが書かれていた。ネットからひろった新聞記事をプリントアウトしたものもある。

記事は亜人の家族や友人知人に対するインタビューを集めたもので、オーストラリアの白血病で息子を亡くした母親、中国の交通事故で弟に死なれた兄、イギリスの暴動に巻き込まれ父親を失ったティーンエイジャーの娘、アメリカのコンビニエンスストアを営む夫を目の前で強盗に殺された妻、シエラレオネの同じ部隊の戦友の脳みそが顔にかかった元少年兵など、インタビュイーは国も年代も性別も様々だった。かれらの共通点はふたつ。愛する家族や友人を喪ってはいなかったという点、もうひとつは家族や友人を奪われたという点だった。

プロデューサーがデスクに座る専務に歩み寄って言った。ひかえめな一歩のせいで身体の大きさに比してわずかに頭部の影がデスクにかかった程度だったので、プロデューサーが口を開くまで専務はなんの反応も示さなかった。


武内P「専務、やはり私は新田さんを会見に出させるのは反対です」

美城「きみの意見は聞いていない」

武内P「聞いてください」

65 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:00:26.38 ID:8ENUCYV1O

視線も向けず、にべもない態度の美城専務に、プロデューサーは食いさがった。


武内P「わが社の今後の対応についてならこの資料だけでも十分説明できます。会見場に新田さんが登場してもいたずらに騒ぎがおおきくなるだけかもしれません。マスコミはそのことだけを報道し、わが社の方針がむしろ伝わらないおそれもあります」


専務はぴくりとも動かなかった。それでもプロデューサーの言っていることをちゃんと耳で受け止めていたのが目を細めたことからわかった。しかし、専務がプロデューサーからの具申を聞いていたのは、検討するためではなく反対するためといった様子だった。美城専務はフラットな声で話をはじめた。


美城「むろんそのリスクも承知している。だが問題はアイドル部門だけにとどまらない。プロダクション全体の業務が見直しをしなければならない状況だ。それだけではない。永井圭が新田美波の弟だと報道されてから、株価にも影響が出始めている。講じれる対応策は講じなければならない。永井圭が早急に保護されること、それが事態収拾のためには必須だ。それは理解しているだろう?」

武内P「しかし……!」

美城「そもそもきみにこの件に関する決定権はない。きみも美城の社員ならば上からの命令には従ってもらおう」

66 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:02:06.07 ID:8ENUCYV1O

議論の余地はなかった。プロデューサーをこの部屋に呼んだのは議論するためでも意見を聞くためでもなく、命令するためだった。プロデューサーは美波が所属するプロジェクトの責任者であったからここに呼ばれたにすぎなかった。

専務室にはプロデューサーの直接の上司である今西部長もいた。彼は苦悩が痛覚を刺激しているような面持ちで沈黙を守っていた。今西には美城に言うことが理解できたし、プロデューサー言うことも理解できた。理解だけにとどまっていることが彼に痛みをもたらしていた。

プロデューサーは祈るような声で言った。


武内P「新田さんはいまもっとも辛い立場にいるんです。どうか……」

美城「きみは妙なことを言うな」


美城専務はそこではじめて資料から目線をあげ、プロデューサーを見た。


美城「いちばん辛いのは永井圭のほうだろう」

67 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:03:39.37 ID:8ENUCYV1O

そのひとことがプロデューサーの動きを完全にとめた。雷に打たれたという表現がぴったりくる有様だった。美城専務はそんなプロデューサーの様子を気にもとめず言葉をつづけた。


美城「それに、新田美波本人が会見に出たいと言ったらきみはどうするつもりなんだ? 今回の事態に対する私の対処は美城プロダクションの専務取締役としてのものだ。私にはプロダクションに所属する従業員やアイドル、株主たちに対する責任がある。私はそれを放棄するつもりはない。新田美波にしても、アイドルとして活動を続けるのならなんらかの声明を求められるだろう。彼女にとっては家族の問題なのだから、どうしたってついて回ってくる。それくらいの自覚はあるはずだ。たいしてきみはどうなんだ? さっきの言葉は一従業員としての提言か? それとも、個人的な感傷による発言なのか?」


ドアをノックする音がした。断りを入れ部屋に入ってきた社員が聴取が終わったことを伝えた。戸崎たちを会議室に案内したという報告を聞いた美城専務は席をたち、凍りついたように固まっているプロデューサーの横を通りすぎた。


美城「会議が終わったら、新田美波に会って話を聞くことだ。きみの仕事はまずそこからだ」


プロデューサーが振り返ったとき、専務はもう姿を消していた。彼の目に入ったのは、なにも言わず閉じたままになっているマホガニー製の黒いドアばかりだった。

68 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:04:57.67 ID:8ENUCYV1O

駐車場ではコンクリート柱が陰鬱そうに光を吸収し、不吉な緑色に染まっていた。目に見えるほどの大きさの粒子が降り注いでいるかのようなざらついた雰囲気の空間のなかに戸崎たちが乗ってきた公用車はあった。駐車されているセダンはおとなしく動きをとめたまま、黒い車体のつややかさをアピールしていた。

会議が終了し、駐車場まで戻ってきた戸崎はこの光景に微かな違和感を覚えた。間違い探しをしているかのような感覚。類似した二枚の絵を並べて、ほんのわずかに異なる点を挙げる。どことはいえないがたしかに異なるところが駐車場の風景にはあった。

とはいえ、人間の認識の曖昧さをあげつらって遊ぶゲームに戸崎は興味がなかったし、そもそもゲームをする暇がなかった。戸崎はセダンの助手席に乗り込んだ。運転席についた下村が戸崎に聞いた。


下村「次は埼玉の永井宅ですね」

戸崎「ああ。運転を頼む」


下村はシリンダーに差し込んだイグニッションキーを回し、エンジンを点火した。エンジンの唸り声がして、かすかな振動が椅子から伝わった。


下村「懸賞金のこと、説明してよかったんですか?」


セダンを出発させるまえに、下村は気になっていたことを戸崎にたずねた。

69 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:07:23.90 ID:8ENUCYV1O

戸崎「かまわん。懸賞金の噂は亜人の目撃情報を集めるのに役立つからいままで訂正してこなかっただけだ。彼女が記者会見で情報を呼びかけるというなら、懸賞金より効率的に集まるだろう」


戸崎は素っ気なくこたえ、下村に視線をむけた。


戸崎「新田美波の携帯はすでに傍受しているな?」

下村「はい。すでに警察が準備を整えています。永井圭から連絡があれば、すぐに位置を割り出せます」

戸崎「そうか。それと、新田美波を亜人擁護思想者のリストに加えておけ」

下村「彼女は、ただ弟の心配をしてるだけでは?」

戸崎「新田美波は亜人擁護思想者だ。二度も言わせるな」

下村「……はい」

戸崎「余計な感傷は捨てることだ。きみは私と契約を結んだ。その完遂だけを考え行動しろ。それがきみのためだ」

下村「わかりました」

戸崎「目的を達成したければ、感情を封じ行動を目的にあわせて最適化せねばならない。良心や善意だけでの行動はときとして歪んだ結果を招く」

70 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:09:33.31 ID:8ENUCYV1O

戸崎が例にあげたのは、スーダンで活動する奴隷反対を使命のに掲げるとあるNGOのことだった。かれらは第二次スーダン内戦以降悪化する国内情勢のなか、暴虐をふるう民兵たちによって誘拐され、虐待され、奴隷として売り払われる人びとを救うために行動を開始した。

人間の尊厳と権利を守るためにかれらが最大の力をいれおこなったことは、奴隷の買取だった。不幸にして奴隷に身をやつした人びとを自由へと解放するのに、かれらは金で解決するならと、すすんで誘拐者や奴隷商人に金銭を支払った。役にたちそうにない奴隷でも、いやだからこそ、善意のかれらは金を支払うことをためらわなかった。そして買い取られた奴隷たちは自由になった。NGOの人びとの善意は満たされた。奴隷商人たちはあらたな上客ができたことをよろこんだ。需要があれば供給がある。システムに無理解な善意あるいは良心はこういうことを引き起こす。


戸崎「われわれ公人は国民全体の利益、最大多数の最大幸福を追求するため、感情に流されることのない冷静な判断が必要とされる。少数を切り捨てることがあったとしても、それを実行できる人間でなくてはならない」


下村は戸崎の話を聞いていたが、肯定の返事をしない口実にするため車の運転に集中した。下村の意識はフロントガラスに一瞬だけ映ったかと思うともう上に飛んでいく車道の灯りとヘッドライトに照らされた車体の下を流れていく道路から、さっき戸崎が自分に言い聞かせたことにむかっていた。

戸崎さんはああ言ったけれど、と下村は考えた。功利を定めるのに、良心や善意といった利他的感情はけっして無力というわけではないのではないか。現代における社会では相互互助が目指されている。建前にすぎないと笑うのは簡単だが、すべての人間が笑い飛ばせば、それは誰ひとり笑う者のいない最悪のジョークになってしまう。利他的感情は万能とはいえなくとも、それらはある種の基準となりうるはず。わたしがそれらを押さえ込む場面を想像するのはむずかしいが、そうしなければ仕事はできない……

71 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:10:56.51 ID:8ENUCYV1O

セダンは県境を越え、永井の家がある埼玉県へと入っていった。都心からはなれ、明かりもビルもかなり減っていたが、それでもまだ高速道路を走る車の数はまばらに存在し、セダンが車両を追い越したり、反対車線の車のヘッドライトがフロントガラスから飛び込んできたりした。

後方に流れていく車や光を眼鏡のレンズ越しに眺めながら、戸崎は駐車場での違和感に突然思いあたった。駐車場からビルへの通用口を警備する警官二名が不在だったのだ。

運転席の下村はハンドルを握りながらじっと前を向いて、いささか横道にそれた考えにふけっていた。それはある種の仮定だった。良心や善意のない人間がもしいるとすれば、と下村は思ってみた。そのひと、いったいはどんなことをするのだろう、と。

72 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:13:16.72 ID:8ENUCYV1O

美波は決断を下していた。すくなくとも、プロデューサーにはそう見えた。

じっと呼吸をこらえ海の底にでもとどまっているかのように、美波は応接室の革貼りのソファに、背中を丸めながら前を見て座っていた。頭の働かせるのに視線が役にたつと思っているのか、美波は正面にある誰もいないソファを凝視している。

プロデューサーが応接室にはいってきたときも、美波は微動だにせず、なんの反応もみせないまま座り続けていた。


武内P「新田さん」


プロデューサーに呼びかけられたとき、美波ははた目でもわかるようにおおきく息を吸い彼のほうを向いた。


美波「……プロデューサーさん、記者会見について詳しく聞かせてくれますか?」


プロデューサーはすぐには口を開かなかった。彼は美波の正面にある来客用の黒いソファに腰をおろし顔をあげた。顔をあげたとき、プロデューサーの目は美波の視線とぶつかった。美波はさっきの言葉を言い終えるとすぐに顔の向きを戻し、プロデューサーの動きを目で追うことなくふたたびずっと正面を見続けていた。プロデューサーは、ふと腰をおろし息をついたとき、突然目の前にあった彫像が目に飛び込んできたかのような錯覚に陥った。ややあってから、彼が美波にたずねた。

73 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:14:25.81 ID:8ENUCYV1O

武内P「出席されるおつもりですか?」

美波「はい。反対なんですか?」

武内P「いまこの段階では、リスクが大きいかと……」

美波「亜人管理委員会の戸崎さんに話を聞きました。圭はいま危険な状況にいることを。だから、いまじゃないとダメなんです」

武内P「私も同様のことは会議で聞きました。弟さんが無事に保護されるために正しい情報が報道されなければならないこともわかります。私が懸念しているのは、新田さんの登場によってそういった情報が正しく報道されるかどうかという点です」

74 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:15:41.32 ID:8ENUCYV1O

美波は黙ったまま話を聞いていた。美波と対面するかたちでプロデューサーはソファに腰掛けていた。目の前の美波は顔をあげ、プロデューサーと視線を交えている。そこにあるのは綱引きのような緊張関係だった。美波はプロデューサーの協力を求めていたが、無条件になんでも受け入れることはできなかった。自分の意志が最大限に尊重されることが前提で、それが認められないなら別の人間に助けを求める意志があること彼女の眼は語っていた。美波の視線が鋭さと潤みを増すのを見てとりながら、プロデューサーは話を先にすすめた。


武内P「いちど拡散された情報は回収ができないどころか、恣意的な編集によって情報が歪められる恐れがあります。悪意をもってそう意図するわけではなく、ただ単に放送しやすくするためという理由でおこなわれた編集でもそういったことは起こりえるのです。すべてのメディアが内容にも配慮するという保証はありません。映像それ自体に重きを置いた加工がなされても、それは報道する側の自由なんです」

美波「なにもせずにこのまま黙っていることが得策だと言うんですか?」

武内P「戸崎氏がおっしゃったことなら、わが社の広報からでも伝えることは可能です。新田さんは、それでも会見にお出になられるとおっしゃるのですか?」


いっときの沈黙ができた。応接室は時計と空調と観葉植物の葉が壁にこすれる音に満たされた。すこししてふたたび美波が口を開いたとき、その声には切実な感情が滲みでていた。

75 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:16:57.32 ID:8ENUCYV1O

美波「プロデューサーさんのおっしゃることはよくわかったつもりです。わたしの心配をしてくれていることも、いまの状況について冷静な意見をおっしゃてくれたこともわかっています。でも、わたしにとって、問題は圭がどう受け止めるかってことなんです。警察や政府の人たちが圭を追って、一般の人たちも大騒ぎしているとき、安全が保証されるから政府に保護されるべきだとニュースで報道されたとしても、それを信じるでしょうか?」

武内P「新田さんのおっしゃることなら信じてくれる、と?」

美波「……わかりません。でも、もしかしたら信じてくれるかもしれない」


美波は正直に自分の思ってることを言葉にした。そのことを実際の音声で聞いたとき、それほどショックを受けていない自分に気づいた。あいまいな希望だとわかっていても、なにかをしないではいられなかった。美波の言葉を聞いたプロデューサーはうつむいていた。ややあってから、プロデューサーが口を開いた。


武内P「政府に保護された亜人は、たとえ家族といえど面会はできないと聞いています。新田さんは、それでもかまわないのですか?」

美波「そのことも考えてみました。圭が安全な場所にいることが、わたしが最優先にすることなんです」


プロデューサーはまた沈黙した。だが、今度はうつむかなかった。

76 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:18:15.03 ID:8ENUCYV1O

武内P「私は、あなたのプロデューサーとして意見を述べたにすぎません。あなたが私の意見を聞き、そのうえで会見に出ると決断されたのなら、私はあなたを全力でサポートします。それが私の仕事です」


美波は鼻を啜り、とめていた呼吸を再開したかのように息を吐いた。潤みに満ちた声で、ありがとうございます、と礼を述べた美波に、プロデューサーはこう応えた。


武内P「新田さんのプロデューサーですから」


プロデューサーの言葉は、美波の味方でいることを決断したと伝えていた。


武内P「会見で発表する声明ですが、できるだけ改編が難しいような文章を書かせましょう」


なんの前触れもなくドアが開いた。


「あ、いた」

77 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:19:37.02 ID:8ENUCYV1O

応接室に姿を現したのはハンチング帽をかぶった初老の男だった。年齢は今西と同程度だったが、体躯を支えるしっかりとした筋肉がそなわっていて、一七三センチ程度の年齢からしてはかなりの背丈をしていた。帽子の下からは白髪がのぞいていて、半袖のシャツの裾をサスペンダー付きのズボンのなかに入れている。その男はナイフでいれた切れ目のような細い目をしていた。穏やかな表情をしているのに、目の奥がまったくうかがえない。


「あなたが新田美波さん? 永井圭くんのお姉さんの」

武内P「記者の方は立ち入り禁止です。すぐにお引き取りを」

「私は記者ではなく、永井君のことを心配する者です」

78 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:21:34.41 ID:8ENUCYV1O

めずらしく威圧感を発し、おいかえそうとするプロデューサーを帽子の男はやんわりと制した。帽子の男は背をそらし視界を遮っているプロデューサーの身体をよけた。そして美波をみて、言った。


「私は亜人の市民権獲得をめざす団体の一員です。ここへは亜人の権利を守る活動の一環としてきました」

美波「厚労省のかたではないんですか?」

「ええ。亜人保護委員会という名称の民間団体です」

美波「それで、あの……」

「ああ! 申し遅れました」


帽子の男は一歩前に出て言った。応接室にはいってきたときから変わらず、部屋のなかでただひとりだけ、深刻さとは無縁の穏和な表情をうかべていた。


「私は佐藤と申します」


帽子の男はそのように名乗った。

79 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:25:49.12 ID:8ENUCYV1O
今日はここまで。仕事が忙しかったり、書きためが消えたりして(そんなに量はなかったですが)、更新がだいぶ遅れてしまいました。もともと遅筆なので2週間に1回更新できればといいほうだと、どうか大目にみてください。

わりと余談なんですが、ベトナム戦争ではフェニックス作戦という秘密作戦が展開されてたそうで、内容をみるかぎり、佐藤さんは確実にこの作戦に従事してたなあ、と思います。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/28(土) 23:43:25.31 ID:bkOHTD770
おつ

原作では妹が一時的に誘拐されてたけどこっちではどうなるか
あとデレマスsideの亜人が気になる
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/05(日) 00:59:21.78 ID:8FkjhZrYo
フェニックス計画はsogでも不良が回されたそうだし、team単位での精鋭で出来た集団故にチームと呼ばれてたのを考えると、司令部直轄の秘密コマンドだろうと思う。 そういうコマンドはあったと聞くし
82 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:46:00.70 ID:nOJuozZtO

3.サービスにするのもいいかもね


完全に黒い物体ならばどんなに鋭敏な視覚でも捕えることができないし、見ることができない、と彼は主張した。

「透明。すべての光線を通過させる物体の状態もしくは性質」

ーージャック・ロンドン「影と光」


佐藤とのみ名乗った帽子の男が差し出した名刺にも、姓である佐藤の文字が明朝体で印刷されているだけで、下の名前はいっさいわからなかった。ほかには亜人保護委員会という団体名と事務局長という役職名あるのみで、玄関の表札をそのまま名刺に移し替えたかのようにシンプルでそっけなかった。

佐藤が名刺を渡すためシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出そうと頭をさげたとき、ハンチング帽の庇の先が下を向いた。帽子を真上から見下ろしたかたちになるそのシルエットはどことなく爬虫類の頭部を連想させ、佐藤の顔の上にある穏和さと食い違う印象をあたえた。


武内P「佐藤さん、あなたが記者ではないということはわかりました」


プロデューサーは佐藤から渡された名刺を見て言った。


佐藤「それはよかった」

武内P「ですが、現在我が社は外部の方への応対まで手が回らない状況です。申しわけ有りませんが後日またアポを取ってからお越しいただけますか?」

佐藤「いや、私もそうすべきかと思ったんですがね」


佐藤はソファに腰をおろしていた。その表情はいつのまにか真剣なものに変わっていた。


佐藤「永井君が政府に捕まってしまうまえに、なんとか彼の安全を確保したいのですよ」

83 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:47:59.19 ID:nOJuozZtO

美波「それはいったいどういうことなんですか?」


美波は押し込めていた感情に突き飛ばされたかのように身を乗り出し、佐藤の言葉にたいして過敏に反応した。佐藤が美波をほうをむいた。帽子の影が額にかかり、佐藤の細い眼は光があたっている部分と影とのちょうど境界線にあたるところにあった。


佐藤「政府は亜人を使って違法な人体実験をしてるということです」


と、佐藤は言った。


美波「まさか……そんなこと……」

佐藤「二〇〇五年に映像が流出し問題になった、米軍による敵軍捕虜の亜人に対する人体実験をおぼえておいでですか? 拷問のような非人道的行為です。あの映像流出を機に、ネット上では亜人研究に関する機密情報や内部告発が多く見られるようになりました。それでも各国政府は、政府が管理する亜人について、情報公開をいっさいしていません」

武内P「ちょっと待ってください。そのニュースなら私も知っていますが、あれは軍が独断でおこなったことでしょう? なぜ政府が亜人の人体実験をおこなっているということになるんです?」

佐藤「事実、おこなっているからですよ」


佐藤はプロデューサーの質問を断ち切るような答えを返し、話を続けた。

84 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:50:07.94 ID:nOJuozZtO

佐藤「亜人が死んだ回数を測定する方法をご存知ですか? 亜人に痛みを与え、そのときの脳の反応を見ることでその亜人が何回死んだか予測することができるんです。亜人研究は、亜人であった者に苦痛を与えることが前提になっているのです」

美波「でも、亜人管理委員会の方は亜人狩りの危険から守るためだって……」

佐藤「その言葉に嘘はないでしょう。亜人の研究は大きな利益を生み出しますからね」


プロデューサーも美波も佐藤の話す内容に困惑するしかなかった。プロデューサーは話の内容よりも佐藤の行いについて、佐藤が見計らったかのようにここへやって来て、戸崎の嘘を暴くかのように話すことへの困惑のほうが大きかった。それが事実なのかどうかを判断するほどの材料がこちらにはなく、相手側もそのことを知っている。情報についての階級差がありすぎた。

佐藤の指を組んだ手が膝のあいだに浮いていた。帽子の男の声音はちょうどこの手のような静止状態をあらわしていた。事実とされる言葉の連なりが淡々と宙空に放り出される物体のように提示されると、それらはまるで静物のように動きを止め観察と検討を強いてくる。

佐藤はさらに言葉を重ねた。それは、耳を疑うような内容だった。


佐藤「私たちの願いはささやかなものです。だが重要でもある。それは平和です。普通の人々が享受しているささやかな平和をわれわれは欲しているのです」

85 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:52:05.80 ID:nOJuozZtO

佐藤の顔つきは真剣そのものだった。“われわれ”という主語は、意識的に選択されたものだということがその顔からわかった。だが、その語が意味する範囲は、美波やプロデューサーにとって不確定で、同定しえないものを含んでいた。

“われわれ”。その“われわれ”のなかには、いったいだれが、どれほどの人数が、含まれているのだろうか。これまでの説明から、佐藤は亜人である永井圭を“われわれ”の一員としてむかえいれようとしていることは美波にも推測できた。問題は佐藤の言う“われわれ”のなかで、佐藤自身がどのような位置にいるのかという点だ。美波の目の前にいるこの帽子の男は市民団体の事務局長でしかないのか、あるいは……

もしこの人のいうことが真実で、そして圭とおなじ身体をしているのだとしたら、と美波は思った。この人のほうが圭の味方にふさわしいのかもしれない。ともすれば、わたしよりも。

美波のこころは佐藤のほうに傾きかけていた。軽挙を避けるべきだという考えはあったとしても、佐藤からふたたびはたらきかけがあればひかえめな一歩を踏み出してしまいそうな気持ちになっていた。

86 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:56:31.03 ID:nOJuozZtO

美波「でも、わたしになにができるんでしょうか?」

佐藤「まずは永井君のことを聞かせてください。大丈夫。どんなにささいな行動でも、それが真剣なものなら、かならず変化のきっかけになりますよ」


佐藤の表情はドアが開きこの部屋に入ってきたときのような微笑みにもどっていた。美波はその変化をつぶさに見てとった。それは表情筋のはたらきだけに還元可能な、まるで笑顔の作り方を指導するかのような口角の上げ方だった。


武内P「変化とは?」


プロデューサーが思わず口をはさんだ。理由はわからないが、佐藤のいう変化が美波や彼女の弟が望んでいる類いのものだとは思えなかったからだ。そんなプロデューサーの考えを知ってかしらずか、佐藤の返答はいやにあっさりしていた。


佐藤「亜人にとって住み良い国になるということですよ」


そこでノックの音がした。ドアを開けて部屋にはいってきたのは事務員の千川ちひろだった。蛍光緑の上着がきらきらと光をはね返している。プロデューサーが立ち上がり、彼女に近づいた。ちひろは声をひそめて早口に喋っていた。緊急に伝えることが起きたようだ。

美波もそちらに目を向けていたが、横から聞こえきた息のぬける軽い音に首をまわした。佐藤だった。言いつけのせいでゲームを中断せざるをえないときのような残念そうな表情を一瞬だけ浮かべていた。

87 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:57:57.18 ID:nOJuozZtO

佐藤「なにか問題が起きたみたいですね」


ちひろはそこで美波のまえに座っている帽子の男が見知らぬ人物であることに気づいたようだった。すこしだけばつの悪い顔をすると、すぐに表情をもどして言った。


ちひろ「申し訳ありません、慌ただしいところをお見せしてしまって……」

佐藤「いえいえ、アポもなしに来たのはこちらのほうですから」


そう言うと佐藤は腕時計に目を落とし、ソファから立ちあがった。


佐藤「ではそろそろ失礼します」


美波はあっけにとられた。佐藤の表情から波でさらわれたかのように真剣さが消えていた。目当ての品物が店に置いてなかったときにみせる足取りで部屋を横切り、あっという間にドアの前まできた。

かろうじてプロデューサーが去ってゆくのを思いとどまらせようと、佐藤の背中に声をかけようとした。つぎの瞬間、佐藤は首をめぐらし部屋のなかにいる三人を視界におさめながらふたたび口角をあげた。


佐藤「そうそう。政府による亜人虐待の証拠ですが、近いうちにお見せできると思いますよ」


佐藤は帽子のつばを持ち上げると、応接室から去っていった。残された三人はそれぞれ種類のちがう困惑を胸に浮かべていた。そのなかでもとくに美波は、なにかに見捨てられたような気持ちに陥っていた。感情そのものが錨になったみたいに、美波はソファに座ったまま、身動きがとれないでいた。

88 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:00:04.80 ID:nOJuozZtO

プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。

89 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:01:27.37 ID:nOJuozZtO

田中「すいません、ちょっとうとうとしてました」

佐藤「いいよ。もう夜も遅いからね」


田中はハンドルに両手を置き、腕を伸ばした。筋肉が伸長し、関節がぽきぽきと音をたてた。そして今度は車の時計を見た。さっき腕時計で確認した時刻から十分程度過ぎたくらいだった。


田中「けっこう早かったすね」

佐藤「残念ながら時間切れでね。思ったりよりはやく気づかれちゃったよ」

田中「それじゃ話は聞けなかったんすか?」

佐藤「うん」


佐藤はこともなげに言った。


田中「佐藤さんなら、ふつうに忍び込むくらいできたんじゃないですか?」

佐藤「それじゃあ、おもしろくないじゃない」


田中はため息をついた。

90 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:02:43.68 ID:nOJuozZtO

田中「まあでも、どうせたいした話は聞けなかったと思いますよ。姉っていっても、長い間離れて暮らしてたらしいですし」

佐藤「え? そうなの?」

田中「知らなかったんすか……」

佐藤「なるほど、それで名字が違ったのか」


佐藤の態度にさすがの田中もすこし呆れた様子だった。


田中「それで次はどうします?」

佐藤「永井君には妹さんもいたよね」

田中「はい」

佐藤「じゃ、日が昇ったら妹さんのところに向かおう。今日のことできっと警備もすこし厳重になってるかもしれなけど、田中君に任せていいかな?」

田中「問題無いです」

佐藤「今日、私がやったようにすればいいから」

91 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:04:50.29 ID:nOJuozZtO

佐藤は首をくいっとかるく動かし、トランクのほうを示した。そこには大型のクーラーボックスが二つあった。バックドアからみて右側の奥に横向きにして並べて置かれている。市販されているものでは最大容量のもので、押し込めることができるのなら人間くらいならはいりそうな箱だった。クーラーボックスの蓋はぴったり閉じられていた。蓋の周りには灰色のダクトテープが何重にも巻かれていて、箱の中身いっぱいに液体が詰まっていたとしてもそれが漏れ出る心配はなさそうだった。


佐藤「操作のコツはもう掴んだかい?」

田中「はい。任せてください」


そう言うと、田中はさっきの佐藤よりも大きく首をめぐらし、クーラーボックスに顔を向けた。


田中「でも、あれどうするんですか?」

佐藤「適当に処分してもいいけど、サービスにするのもいいかもね」


田中はよくわからないといった様子で、佐藤の顔を見やった。


佐藤「いろいろ入用になるだろうし、使える臓器は猫沢さんにあげちゃおう」


佐藤は柔和に微笑みながら言った。 そして、ワンボックスカーが駐車場から出発した。発進するときの揺れで、トランクのクーラーボックスがガタンと音をたてた。だが、佐藤も田中も、クーラーボックスの中にいるものは決して生き返らないことを知っていた。ワンボックスカーは街灯に一瞬だけ照らされた。光が車体のうえをなめらかにすべっていく。だがそれもわずかなあいでのことで、二人の亜人を乗せた車は闇になかに消え、すぐに見えなくなった。

92 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:09:48.61 ID:nOJuozZtO
章の途中ですが、今日はここまで。

デレマスの曲で佐藤さんにぴったりのやつがあるかなぁと考えた結果、「絶対特権主張しますっ!」が歌詞の内容的にすごい合うと思いました。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/13(月) 11:14:47.08 ID:Fd/hLyVE0
94 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/14(火) 21:59:37.04 ID:16nzUkT/O
>>88 の文章が一部抜けてたので訂正


プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。心理学者ウィリアム・ニーダーラントの指摘するところでは、犠牲者は凄まじいエネルギーでわが身が嘗めたことを記憶から締めだそうとするが、たいていの場合それに成功しない。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。

95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/17(金) 18:32:34.92 ID:e5tbNLGVo
期待
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/03/02(木) 15:45:32.45 ID:vL93/uH+o
期待
97 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/04(土) 23:29:21.45 ID:ULzdASnMO
更新遅くて申し訳有りません。いま頑張って続きを書いてます。

今日はとても驚いたことがあったのでそれだけお伝えします。たまたまYouTubeで見てたこのサイレント映画→(https://youtu.be/BVSFlSxNvLg /D・W・グリフィス『見えざる敵』An Unseen Enemy/1912)に、佐藤がフォージ安全社長の甲斐を殺害した方法そっくりそのままのシーンがありました。壁の穴からリボルバーが出てくるだけでなく、ドロシー・ギッシュの顔に銃口が向くシーンまであるんですよね。

オマージュか、偶然の一致かは分かりませんが。
98 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/04(土) 23:35:04.88 ID:ULzdASnMO
日本語字幕付きの動画があったので貼っておきます。
https://youtu.be/ITk2FkRdbcA
99 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:50:54.52 ID:NJ9NkxEDO
専務のセリフで明後日の会見とありましたが、明日の会見の間違いでした。脳内訂正お願いします。


七月二十四日午後二時三十八分


テレビの液晶画面に美波の姿がふたたび映る。プロジェクトルームには美波をのぞくすべてのメンバーがいて、正午頃に行われた会見の様子を何度も繰り返し流している番組を無言のまま迷ったように見つめている。横長の画面のなかで美波は装飾のない白いブラウスに身を包み、昨夜戸崎から受けた説明を記者たちにむかって淡々と語っていた。この映像の意味はつまり、美波は亜人管理委員会の側についたということだった。

戸崎たちが去った直後にあらわれ、自身を亜人だとほのめかしながら、かれらの欺瞞と亜人管理の実態を暴露しに来た佐藤に心情的に傾きながらも、美波が会見で亜人管理委員会側の論調をなぞったのは、あのとき帽子の男がプロダクションビル内にいたと証明できるものが佐藤を直接目にした三人、美波とプロデューサーと千川ちひろ以外には誰もいなかったからだった。

佐藤が美波たちの前に姿を見せた時刻を前後して、駐車場からビル内への通用口を警備する二名の警官が突如として姿を消していた。その二名の消息は現在も杳として知れないままで、何が起きたのかを記録しているはずの駐車場に設置されていた複数の監視カメラはすべて破壊されていた。
100 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:52:08.03 ID:NJ9NkxEDO

昨日事情聴取にやって来た巡査部長が早朝から、美波たちがプロダクションに着くより先に待機していた。巡査部長は口を苦々しくきつく一文字に結び、顔の筋肉のこわばりが唇に続く筋を頬に作っていた。巡査部長の唇は鮮やかな桜のように血色の良い色をしていたが、こわばりのせいで見えなくなっていた。事件を説明した巡査部長は美波たちに気になる点や怪しい人物を見なかったか質問した。プロデューサーが真っ先に事実を報告した。佐藤が現れたとおぼしき時刻、美波とプロデューサーにむけて語った会話の内容、ちひろが異変を報告しにきた途端に会談の途中にかかわらす切り上げ去っていったこと、これらを簡潔に事実とそうでない部分を峻別しながら質問に答えた。巡査部長はちひろと美波にも同様の質問をした。ちひろはプロデューサーが言ったことに間違いはないと答えた。美波は答えるのにすこし迷っていたが、事実を曲げるようなことは言わなかった。

話を聞いた巡査部長は、帽子の男の正体を亜人狩りを生業とする密猟者の一味ではないかと推測し、プロデューサーらに警戒をより厳重にするよう忠告し去っていった。プロデューサーとちひろも巡査部長の推測、すくなくとも帽子の男は危険人物と見なすべきだという意見に賛成だった。美波も、状況証拠が匂わせる容疑の濃さを認めざるを得なかったし、実際プロデューサーやちひろにほぼ同意していた。しかし、美波にはもうひとつの可能性を検討する必要があった。佐藤が事実を語っていたという可能性。佐藤は亜人で、亜人管理委員会は亜人の虐待を行っていて、世間はそのことに無関心だという可能性のことだ。
101 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:53:11.77 ID:NJ9NkxEDO

この可能性は、佐藤が警官の失踪に関係があるという推測と矛盾しない。むしろ、上記の理由がそのまま動機となり得た。その場合、弟を佐藤に預けるのは安全といえるのだろうか。ある意味では、安全といえるのかもしれない。だがその安全とは、確保するために身分を偽ることや、ことによったら人を殺す必要性がある類いのものだ。社会的弱者が権利を拡大するのに、暴力が主張を訴える手段として選択されるのはどんな社会においても為されてきた。それはテロリズムとは別の文脈で検討されなければならない(しかし、家族がその運動に参加するとなると話は違ってくる)。

極端なこといえば、亜人管理委員会か佐藤のどちらかを選択することは、社会か周縁か、どちら側の味方になるのかを表明することだった。亜人管理委員会を選べば、弟は実験体にされる。佐藤が語ったような生体実験の事実がなかったとしても、亜人は貴重な生物であることにかわりはないから、呼吸や心拍音ですら研究のために計測され記録されるだろう。亜人と発覚した者は、研究対象されることによってはじめて社会の内側に存在することを許される。
102 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:55:24.76 ID:NJ9NkxEDO

佐藤の場合はどうなのだろう? 圭も監視カメラを破壊したり、人間の失踪に関わったりするようになるのだろうか? それとも佐藤はやっぱり亜人の味方で、圭に畳の上に蒲団を敷いた居心地の良い寝床を用意してくれるのだろうか(圭が安心できる部屋の風景のイメージが和風だったのは、おそらく研究施設に和室がないだろうと美波が想像していたからだった)?

いや、でもやっぱり、正直に言ってしまおう。わたしは不安を感じていたのだ。あの人の微笑みは穏やかでやわらかかった。ぎこちないところは少しもなくて、頬が上がると目尻の皺がいっしょになっていままさに線が描かれているかのように曲線が深くなった。でもあの表情は内面の感情から起こされたものではなかった。それはどこまでも顔筋の作用に還元できた。あの人は笑顔を操作していた。佐藤さんの笑顔は、空欄のある数式に正しい答えを書き込むことを思わせた。そうすれば、わたしから圭のことを聞き出せるから。なんでこんなことを考えているのだろう? 考えることと不安を感じることは頭の別々のはたらきで、考えてみると不安という感情には根拠がないとわかってくる。違和感だけでは、佐藤さんがほんとうはどんな人なのか判断できない。そう、わたしは佐藤さんのことが、全然わからない……

美波はこれ以上このわからなさに留まって、自分なりの答えを出すことはできなかった。映像が記録しているとおり、美波は亜人管理委員会の方針に則った。美波が思考を働かせた可能性やわからなさは、どちら側の選択がおわったあとでも消えてなくなったわけではなく依然としてこの世に存在していて、空気のように見えなくてもなんらかのかたちを持ってあらわれてくるのを待っていた。美波だってその可能性やわからなさを放棄したわけではなかったが、会見を見る多くの人間にとってそんなことは関係なく、こちら側にいる人間として発信されたメッセージを、主にかわいそうだねとかるく同情しながら安心して受け取った。

シンデレラプロジェクトのメンバーたちは、安心したとはいえなかった。
103 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:56:45.40 ID:NJ9NkxEDO


李衣菜「美波さん……大丈夫かな?」

みく「そんなの……」


前川みくの言葉はそこまでだった。

プロジェクトルームは明るかった。窓から差し込んでくる陽の光が最も強烈になる時間帯だったし、天井のライトは白く人間の眼にやさしく受容し易い光線を部屋の中のあらゆる場所に届いていたから、部屋に暗いところはいっさいなかった。テレビはつけっぱなしになっていたが、彼女たちはもうテレビに視線を向けていなかった。彼女たちは、床や膝やスカートの模様やそのうえに置かれている手ーーもっと正確にいえば指の第二関節のあたりーーなどにぼんやりと霧消する感覚をともなって眼を向いていた。

失語症患者のリハビリが行われているかのような雰囲気のなかで、緒方智絵里が不意に、自分でもわからない理由で顔を上げた。見えたものといえば、石像のように固まっている自分たちの姿だった。どうしようもなくなり、智絵里も石像に戻っていった。
104 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:58:56.87 ID:NJ9NkxEDO

部屋の中には千川ちひろと今西部長もいた。二人は立ったままで彼女を視野に収めるくらいのことはしていたが、それは眼の位置がそうさせているだけのことであってそこに見守るという大人らしい態度は希薄だった。亜人について、大人も子供もほとんどなにもわかっていなかったからだ。わかっていないということを自覚する以前の無関心さは、この部屋いるすべての人間が共有していた。

プロジェクトルーム入り口のドアが開いた。プロデューサーが会見場から帰ってきた。プロデューサーは無言状態が重くのしかかる部屋の様子を見て一瞬止まった。慎重にドアを閉め、部屋の中央、テレビのあるところまで歩いていく。プロデューサーは視線がまず歩いている自分に向けられ、それから後方の無人の空間に流れていくのを感じながら部屋を横切った。断りをいれてからテレビの電源を切り、 部屋のなかを見渡す。アイドルたちは、喉に言葉が詰まっているかのように自分を見ている。部長とちひろは聴く姿勢を整えていた。


みりあ「美波ちゃんは?」


メンバー最年少の赤城みりあが訊いた。


武内P「新田さんは亜人管理委員会の方といっしょに病院に向かいました。妹さんの聴取に同席されるそうです」


プロデューサーは視線をみりあから全体へと戻し、他に質問がないかと数秒のあいだ待ってみた。質問はなかった。彼女たちはプロデューサーの言葉を待っていた。
105 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:00:31.19 ID:NJ9NkxEDO

武内P「今回発生した事態に対して、プロダクションから対応に関する指示がありましたので、皆さんに説明致します。すでに会見で発表された内容と重複する点もありますが、どうか訊いてください。まず新田さんに関してですが、事態が沈静化するまで活動はすべて休止となります。予定されていたライブやイベントはすべてキャンセルとなり、活動再開時期も不明です。これまで発売されたCDや写真集などは今まで通りで、予定されているアインフェリアの楽曲も発売時期は少し遅れますが、こちらも発売中止にはなりません。
続いて皆さんのスケジュールですが、多少の調整はありますが基本的に予定されていた通りに進めていくと考えてください。調整後のスケジュールは可能な限り早く皆さんにお伝えします。不明な点があれば、私か千川さんに質問してください。それとしばらくのあいだ、送迎はすべてプロダクションの人間が行うことになります。アポイントの無い記者との接触を避けるための措置でして、息苦しさはあるかもしれませんがどうかご了承ください。
最後に新田さんの女子寮への入居の件を説明します。現在の状況を鑑みるに彼女のプライバシーを保護するには、このような措置を取るのが最も良いと判断されました。実際に入居されるのは四日後になります。また、現在寮生活をされている方に新田さんについてなにかお願いすることもあるかもしれません。このような状況の只中で皆さんに負担をかけるようなことをお頼みするのは申し訳ないのですが……」

みく「負担とかそんなこと言わないで!」


前川みくが立ち上がり、叫んだ。


みく「美波ちゃんは仲間なんだから、助けるのは当然でしょ!?」

智絵里「でも、なにができるのかな……?」


智絵里がぽつりと声をこぼした。思いがけず心に浮かんだ自問が外に転がり落ちたみたいな言い方だった。
106 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:02:48.61 ID:NJ9NkxEDO

かな子「智絵里ちゃん……?」

智絵里「あっ……ごめんなさい……」


智絵里のほんとうの失言は、この謝罪の言葉の方だった。彼女たちは今回の事態に対する自分たちの位置がこのひと言で明瞭に把握できたからだ。事態の中心は美波ではなくて美波の弟で、亜人であることからその反響が社会全体まで広がっている。亜人の発見とその亜人が新田美波の弟であるという事実は水平の水面にどぱん、どぱんと立て続けに大きな勢いで石を投げ込んだようなもので、続けざまに発生した波紋はたがいに相乗して疲れを知らない波と化し、水面の面積を広げるのかと思えるほどサァーっと進む。

そういった状況において、シンデレラプロジェクトのメンバーたちの位置は微妙なものだった。彼女たちは中心からひとつ隔てられていて、水の下に潜り込むとか、とにかく回避に専念してしまえば波に攫われてることもなさそうだった。未成年の個人や少人数の集団が、社会的な問題に巻き込まれている人物とどうコミットするか、というよりコミットが可能なのか、李衣菜がおずおずと意見を出した。


李衣菜「やっぱりさ、余計なことはしないほうがいいんじゃない?」

みく「美波ちゃんのことが心配じゃないの!?」


みくは驚きながら、李衣菜に声で詰め寄った。


李衣菜「心配に決まってるじゃん!!」


李衣菜は叫んで反論した。


李衣菜「でも、わたし、美波さんになんて言えばいいえのか全然わからない。弟が亜人で、日本中から追われてるんだよ? わたしは亜人のことなんてなにも知らない、美波さんがどんな気持ちでいるのかもわからない」

みく「だからそれは、心配で不安でしかたなくて……」

李衣菜「そんな言葉で気持ちがわかるの?」


李衣菜の問いに、答えることは誰もできなかった。
107 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:04:34.33 ID:NJ9NkxEDO

卯月「美波ちゃんの弟さん、どうなっちゃうでしょう?」


どうすればいいのかわからない気持ちのまま、島村卯月が不安げに言った。


凛「国の研究施設で暮らすっていわれてるけど……」

みりあ「研究?」

莉嘉「研究って、美波ちゃんの弟を? どんなことするの?」


年少メンバーの二人が発した疑問には不気味なものに対するおぼろげな怖いという感情が漂っていた。十年前の田中のときの報道の過熱化のことは全然憶えてない二人だったけれども(それは他のメンバーも同様だったが)、昨日からの騒ぎで二人は死なない生物が死なないことを確かめるための方法を想像することができた。とはいっても、それは言葉の上の意味だけに留まるもので、具体的なあれこれがイメージとして浮かぶまでにはいかなかった。


未央「だ、大丈夫だって! みなみんは政府の人と話をして会見に出るって決めたんだし」

きらり「そうだにぃ、きっと痛いことはしないにぃ」

みりあ「注射も?」

蘭子「注射……!」
108 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:08:47.89 ID:NJ9NkxEDO

こういうことは度々起こる。思考を一定の方向に進めていると、道を外れ溝に落ちるかのように思考は別の事柄に入り込む。でもそれが解決の糸口となったり思考を別の発展的な方向に導くかといえばそうことはなく、落ち込んでしまったことでそこから集中し直して態勢を立て直すと、前後方向に進んでいたときの限られた視界が運動にともなうブレが消えたことで風景を横方向、というか上下左右、眼球の丸みが光を受容できる範囲いっぱいまで視界が広がりそれまで見えていなかったことが見えるようになる。

アナスタシアは停止したままだった。アナスタシアの表情は垂れかかる銀髪に隠れて見えなかった。無言で固まっている姿は、まるで凍らせた水だった。唇も視線も固まったままで、ペットボトルに入れてあった水が凍らせたことによって体積が増えて飲み口から出てこれないように、アナスタシアは外界に内面を放っていなかった。どんな感情や考えが内面に渦巻いているのか外から伺い知ることできなかったし、それとも心の中は氷の張った湖面のようになっていて渦巻くことすら不可能なのかすら確認のしようがなかった。陽射しはどんどん強くなっていくなか、アナスタシアに向かって降り注ぐ光は当たるというより通り過ぎているといった感じで、このまま光を浴び続ければ、氷のように溶けてなくなってしまうように思えたが、アナスタシアは消去されていくのを受け入れているようにも見えた。


武内P「皆さんが混乱される気持ちはよくわかります。私たち三人も、今回の事態に対して十分な理解もないまま、ただ目の前の対応に追われているのが現状です」


プロデューサーは沈黙の中に自分の声を浸透させるように話し始めた。沈黙をうち破るためではなく、沈黙の層を厚くしなにかのきっかけになればと願っているというふうな話し方だった(その「なにか」がなんなのかは彼自身にもわからなかったけれども)。
109 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:12:53.86 ID:NJ9NkxEDO

武内P「現在美城プロダクションでは、事態への対応に部署の内外を問わずにあたっている状況ですが、混乱を収める目処は立っていません。私や千川さんや部長のように個人的感情を伴って行動する者も、そうでない者も終わりの見えない作業に疲労しています。しかし、それは組織に属する者の義務であり、新田さんの力になることが私たちの責任であるのです。
今回のこの事態に対して、皆さんにはいかなる責任も義務もありません。皆さんはまだ未成年で、亜人が世界で初めて発見された十七年前といえば、皆さんはまだ生まれていなかった方がほとんどでしょう。なのに、このようなことに直面せざるをえなくなった。その不安や不条理に戸惑ったままでいるのは大変なことです。私たちもそうなのですから。
私は皆さんに、自分の心を見つめ直してくださいとしか言えません。私たちはあなたたち一人ひとりのあらゆる決断を全力で支持します。あなたたちがしたいと思っていることの中には、現状では困難なこともあるかもしれません。もしそのときは私や千川さんや部長、あるいは他の信頼できる方でも構いません、話してみてください。もしよければ困難なことは、私たちにまるごと託してくれてもかまいません。私はこの混乱の中にあなたたちまでが孤立し、飲み込まれたままなのはつらいのです」


杏「やるよ」


双葉杏が手を挙げていった。


杏「杏は仕事はキライだけど、これは仕事じゃないからね」
110 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:14:21.17 ID:NJ9NkxEDO

智絵里「わ、わたしも……!」


緒方智絵里がおずおずと、しかし他の誰よりもはやく杏に続いた。それがきっかけとなって次々に同意が波のように広がった。李衣菜は躊躇っていた。声や手があがる部屋のなかで、半分開いた手が宙吊りになったみたいに身体の前にあった。


李衣菜「プロデューサー……わたしは……」

武内P「多田さん、あなたのおっしゃったことはまぎれもない事実でした。あなたは勇気を出して避けて通ることのできない事実をおっしゃった。そのおかげで、私は皆さんにちゃんと話すことができたのです」


李衣菜の表情が変わった。内側から押されるように唇が前に出て、鼻が持ち上がり眼が細まった。李衣菜は唇を噛み、震えをおさえてから言った。


李衣菜「わたしも、美波さんの助けになりたい」


プロデューサーはうなずくと、視線を李衣菜からアナスタシアに移した。アナスタシアはまだ最初の姿勢のままでいたが、眼のなかの光の色が変わっていた。
111 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:17:47.24 ID:NJ9NkxEDO

アナスタシアがプロデューサーと話したのは一同が解散した後のことで、彼のデスクがある個室でプロデューサーが面談の時間を設けようとする前にアナスタシアの方から部屋にやってきた


アナスタシア「プロデューサー、捕まった亜人は……ミナミはもう弟と会えないのですか?」


アナスタシアはドアを閉じてすぐ、ドアの側に立ったまま、単刀直入に訊いた。


武内P「……現行の法律では、たとえ親族でも政府が管理する亜人に面会することはできません」


プロデューサーは躊躇いながらも事実を伝えた。アナスタシアは頭を下げ両手を握りしめた。固まった拳が身体の左右に浮いたままアナスタシアは耐えるようにして少しのあいだその場に立ちっぱなしでいたが、プロデューサーが声をかける前にアナスタシアは部屋から出て行った。その動作は勢いがあって決然としていた。プロデューサーはしばらくのあいだ、アナスタシアの質問と動作について考えていた。ドアを開け部屋から出て行くアナスタシアを思い出すと、その動きの記憶には、不安定さの印象が加えられていることに気づいた。ドアを通り抜けるときの運動の軌跡に、黒いざらついた輪郭が不気味な分身のように重なっている。プロデューサーは得体の知れない思いをしながら、もしかしたら自分は、美波以上にアナスタシアを心配しているのかもしれないと思い始めていた。
112 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:21:18.27 ID:NJ9NkxEDO

ーー榎総合病院


慧理子はいらいらしていた。


慧理子「さっきの刑事が帰ったと思ったら、また? 協力者なんて、わたし知らない!」


慧理子は病院のベットの上で身体を起こしていて、すぐに隣には美波が椅子に座って身体ごと慧理子に向けている。美波は妹の表情を心配そうにうかがっていた。そこからすこし離れた位置には下村が座っていて、慧理子の視界の縁側に収まっていた。役人らしい、平静な表情をしている。病室から廊下へとつづく入り口の扉の左右には二名の警官がかなり前から立ったままで、いまも慧理子を見張っていた。


美波「慧理ちゃん、落ち着いて。病院なんだよ?」


美波は妹にやさしく話しかけたが、こうかはないようだった。


下村「私は亜人管理委員会の者で警察ではありません。あくまで亜人の研究・管理が目的で……」

慧理子「わけわかんない!」


慧理子は下村の説明を最後まで聞かなかった。


下村「私はあなたに永井圭の私生活について伺いたいだけなのです」

慧理子「なんでわたしがこんなめんどくさい目に……」


慧理子は言葉尻をちいさくしながらぶつくさつぶやいた。
113 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:22:35.50 ID:NJ9NkxEDO

下村「それは、あなたが永井圭の妹だからです。慧理子さん」


誰に向けられたわけでもない慧理子のつぶやきを下村は聞き取っていた。聴取の理由をはっきりと突きつけられた慧理子はばつが悪そうに押し黙った。美波は唇を結ぶ慧理子にすこし顔を寄せて語りかけた。


美波「すこし話をすればすぐにすむから、ね?」

下村「療養中のところ、申し訳ないとは……」

慧理子「キモイ」


自分をなだめようとする美波や下村へというよりは、兄との記憶に向かって、慧理子ははき捨てるように嫌悪をぶつけた。


慧理子「自分を人間だとカンチガイしてたやつが、家族にいたなんて……キモすぎる」

美波「慧理子!!」


さっき妹にした注意も忘れ、美波は怒鳴った。


美波「自分がなにを言ってるのかわかってるの?」


刺すような厳しい視線が慧理子に向けられた。慧理子は姉の激昂に一瞬びくっと身体を震わせながらも、言い返すことをやめなかった。


慧理子「姉さんだって兄さんのせいで大変な目にあってるじゃない!」

美波「それとこれとは……」

慧理子「ほんとに!? このせいでアイドルを続けられなくなってもほんとにそう思う?」


美波は言葉を続けることができなかったが、慧理子に向ける視線だけは維持していた。自分でもそれはするべきでないとわかっていたが視線を下ろすことができない。慧理子も黙りこみ、シーツの上に置かれる自分の手を見つめている。職務としてここにいる警官たちも当然口を挟めない。病室は気まずい沈黙の場所になっていた。
114 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:23:57.49 ID:NJ9NkxEDO

会見が終わり、下村とともに車で病院へ向かっているあいだ、美波のスマートフォンに義母からの着信がはいった。美波は画面の表示を見ると、すぐに通話ボタンをタッチしスマートフォンを耳にあてた。


律『会見見たわよ。なかなか様になってたわね』


義母の声音はいつも通り平静そのものだった。美波は呆れたような安心したような気持ちで義母に聞いてみた。


美波「圭は来ると思う?」

律『おそらく逃亡を続けるでしょうね』


律はきっぱりと言い切った。


律『騒ぎが収まるまでは身を隠すのが最も安全だと考えるだろうし、私と同様、政府を信用していないから』


信頼しているだけに義母の答えに美波は不安になった(でも、あわてふためくというようなことはなかった)。


美波「信用してないの? お母さんのところにも亜人管理委員会の人が来たんでしょ?」

律『亜人の希少価値と十年前の田中のときの騒ぎから考えたら、私たちに嘘をつく価値は充分過ぎるほどあるわ』


美波は胸がつかれたように悲しくなった。喉に痛みに似た感情が込み上げてくるのを感じなら、美波は義母に尋ねた。


美波「わたしのしたことは間違ってたの?」

律『そんなことはわからないわよ』


と、律は言った。
115 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:25:27.77 ID:NJ9NkxEDO

律『そもそも私が政府が信用ならないと考える理由も、証拠というほど確固したものではないから。あなたは亜人管理委員会の言いなりなったわけじゃなくて、自分で考えて行動したんでしょう?』


美波はすこし迷ってから「うん」、と答えた。


律『だったらいまのままでいなさい。自信を持てとも後悔するなともいえないけど、あなたはいまも圭のためを思って行動してる。それだけはしっかり憶えておきなさい』


美波はひとつ鼻をすすりひと呼吸おいてから、ちいさくささやくようにまた「うん」と言った。病院に向かう車に揺られながら、美波は窓に目をやった。街路樹の葉の光があたっている部分の照り返しと陽射しによってできた影の部分が、明暗をはっきりしながら窓に映っては後方に流れていった。目に映る光景にシャーっという音が重なる。耳にあてたスマートフォンから聞こえてきたその音は、おそらくカーテンレールが引かれる音で、美波は窓の外に視線を向ける義母を思い浮かべながら、「やっぱり、いっぱいいる?」と尋ねた。「ええ」という律の声が電話口から聞こえた。美波はなんとなく義母がうなずきながら「ええ」言ったのだと感じた。


美波「いま慧理ちゃんのところにむかってるんだけど、体調は大丈夫なの?」


美波がこの質問をしたとき、車が見覚えのある道に入った。窓から景色を見ると、はっきりと言語化されない日常化した馴染みの感覚が美波のなかに起こった。


律『今朝病院に電話して聞いたけど、いつもと変わりないそうよ』

美波「圭のこと、なにかいってた?」

律『いいえ』
116 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:28:56.65 ID:NJ9NkxEDO

赤信号になり、車は信号待ちに入った。反対車線では病院前のバス停からバスが出発するところだった。


律『慧理子のこと、頼むわね。今日はそっちに行けそうにないから』

美波「でも……」

律『あれでも、ほんとは兄さんのことを心配してるのよ』


律がそう言ったとき、車は病院に到着した。バス停のベンチには乗り遅れたのか、男がひとり腰を下ろしていた。車を降りるまで美波は義母と電話をしていたが、それ以上たいした話はできなかった。病院のロビーを抜け、エレベーターに乗り、廊下を歩いているあいだ、美波はどうしたら妹の意固地を解きほぐすことができるのだろうと考えていた。いまではこの考えが可能性から不可能性に傾き、美波の心に影を作っていた。美波はうつむき、そのせいで視線は弱まったが、沈黙の重さも増していった。病室の誰もが口をあげられないなか、下村がぽつりと言葉を発した。


下村「……私は、親族が亜人だった人を知っています。私に、その人の苦しみを推し量ることなど到底できません。ですが私は、その人やあなたたちのような人をこれ以上増やしたくはないのです。だから亜人のことをもっと詳しく解明したいのです」


美波は頭を上げ下村を見た。慧理子も頭は動かさなかったが、瞳は下村のほうへ向いていた。下村の言葉にはせつない実感が滲んでいて、言ってることに嘘はないように美波には思えた。


下村「どう生まれるのか、完全に不死なのか、本当に人間でないのか……どんなささいなことでも結構です。なにか人と違ったことなどありませんでしたか?」
117 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:29:56.35 ID:NJ9NkxEDO

慧理子は眼を下村から自分の手に戻した。さっきの感情の昂りの潮がまだ引ききっていないのか、慧理子の手の甲はうすいピンク色をしていた。その手の上をなにかが通り過ぎる感触がして、慧理子は窓の方を見た。レースカーテンが風に持ち上げられ、ふわふわ揺れていた。いちどカーテンは元の位置まで戻ったが、ふたたび風で浮き上がった。窓からの差し込んでくる光量が増え、壁やシーツの白さがより目立つようになった。慧理子の手がまたなでられた。やさしさを示すような感触で、シーツを握る指がすこしゆるむ。 今度は慧理子は両眼で下村を見た。


慧理子「……ほんとにどーでもいいよーな、話ならあるけど……それをいったら帰ってくれる?」

下村「はい」

慧理子「むかし、飼い犬が死んだとき、おかしなことを言ってたのが印象に残ってる……」
118 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:31:47.21 ID:NJ9NkxEDO

それは両親が離婚し、圭と慧理子が美波とはなればなれになって暮らすようになった直後の思い出だった。寂しさをまぎらわすため飼い始めた飼い犬が動かなくなり、そしてすぐに死んでしまった。横たわる子犬を前に泣きじゃくる慧理子に圭はお墓をつくってあげようと言った。シャベルと飼い犬の亡骸が入ったダンボールを抱え、二人は河沿いの土手道を歩いた。夕暮れどきで、自転車をこいで下校する学生たちと何人もすれ違った。しばらくすると野球グラウンドが見えてきた。圭よりすこし年上の小学校高学年か中学生くらいの少年たちが草野球にもなってない気楽なプレーを楽しんでいる。

二人は野球グラウンドがある反対側の河岸まで降りて、川面が反射する光が眼に届くところまでやって来た。そこは雑草もあまり生えていない乾燥した地面があるところだった。圭がシャベルを地面に刺した。ざくざくという土を掘り返す音に混じって、野球少年たちの笑い声があたりに響いた。

飼い犬の墓ができあがっても、慧理子の眼から涙は溢れ続けた。手のひらや手首をつかって涙をぬぐい、眼の周りに引き延ばしてはまたぬぐう。圭はシャベルを手に持ち、慧理子の横に立ったままだった。抽象的な概念について考えてるというふうに黙っていると、圭はふと背後の気配に振り返った。
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