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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」
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1 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/02(月) 23:59:51.21 ID:uQO4md64O
『アイドルマスターシンデレラガールズ』と『亜人』のクロスオーバーSSです。地の文あり。
『シンデレラガールズ』の世界観はアニメ版を準拠、時間軸は最終回以降。クロスオーバーに際して
・新田美波が永井圭、慧理子の姉(正確には異母姉)に。その影響で、新田家と永井家の家庭環境の諸々を変更。
・『シンデレラガールズ』側の登場人物の一名が亜人
の二点の設定変更があります。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1483369191
2 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:03:12.31 ID:5kzXp0UHO
1.あの外国の人はいないんだ
「おまえはのべつ死を口にしていて、しかし死なない」−−フランツ・カフカ [創作ノート]
その生物は死なない……
その生物は亜人と呼ばれている
その生物はーー
−−七月二十二日・埼玉県・永井家
永井圭が玄関の扉を開けると、玄関に母親のものではない女性ものの靴が一足、ていねいに並べられ、つま先を圭の方に向けていた。
圭はその靴を見た。見て、靴があること以上のことは思わず、自分もスニーカーを脱いで、靴箱にいれた。
真夏の日差しは、夕方近くになっても弱まらず、白い光線から放射された熱が、学校から帰ってくるあいだに圭の身体からすっかり水分をぬきとってしまっていた。太陽が西に傾き、輝く線の角度が水平に近づいていっても、紅色とオレンジ色が入り混じった、夕暮時にふさわしい色彩に空は染まらず、住宅街の無機質な並びに熱を浴びせつづけていた。蜃気楼が生まれそうなくらい暑い。なのに、住宅街の輪郭はあいかわらず固まったままだった。圭は喉を渇きを我慢しつつ、リビングを抜け、キッチンにむかった。
リビングのソファには、やはり姉が腰掛けていた。姉といっても、血のつながりは半分だけだったが、今更そんなことを気にするでもなく、圭は姉の後ろを通り過ぎた。姉はキッチンへ向かう弟を追って首を回し、その背中に向けて声をかけた。
美波「おかえり、圭」
永井「姉さん、今日は早かったんだ」
圭は手に持ったガラスのコップに水が満たされるのを見つめながら、美波にこたえた。浄水器から出てくる水をコップの四分の三程まで注ぎ、口をつける。美波は圭がコップの水を飲み干すまで待ってから返事をした。
美波「今日はオフだから。夕飯もこっちで食べてくつもり」
永井「母さんは買い物?」
美波「うん。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」
永井「そう」
圭は飲み終えたコップを流しに置くと、ふたたび姉の後ろを通り過ぎ、二階にある自分の部屋に向かおうとした。圭がリビングのドアを開け、廊下を通り、階段の一段目に足をかけようとしたとき、おなじようにドアを抜けた美波が、追いかけるようにして圭に声をかけた。
3 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:04:25.47 ID:5kzXp0UHO
美波「あ、待って、圭」
永井「なに?」
美波「これ……今度発売されるCDのサンプルなんだけど」
美波は一枚のCDを差し出した。白い隊服に身を包んだ美波を先頭にして、同様の隊服を着たほかのアイドルたちと並んで、それぞれどこか別の方向を指差している。彼女たちの背後には光が差し込む巨大な扉があって、そこからは光とともに吹き込んでくる風があり、その風が美波たちの髪や服を翻している。そのような光景がCDのジャケットに印刷されていた。
美波「慧理ちゃんにはもう渡したの。圭にも聴いてほしくって」
永井「あの外国の人はいないんだ」
美波「これはラブライカとは別のユニットだから」
永井「ふうん」
圭の興味はCDを裏返したあたりで尽きた。
永井「あとで聴いておくよ」
それだけ言うと、圭は二階へ上っていって消えてしまった。弟との会話は、これが平均的な長さだった。ここ一年でかわされた会話では、これより長い会話も、短い会話も、美波の記憶にはほとんどなかった。弟の背中を見送りながら、美波は取り残されたような気持ちになった。
4 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:05:53.27 ID:5kzXp0UHO
約二〇年前、美波が生まれてまもない頃、彼女を産んだ母親は病院内でなんらかの感染症に罹り死亡した。なぜそんなことになったのか、いま現在になっても美波は詳しい事情を知らない。母親が自分を抱きしめたのかどうかすら、美波が知ることはなかった。
分かっているのは、それが父の勤めていた病院での出来ごとだということだけだった。父は失意のどん底に落ちた。そこから這い上がることもできず、生後間もない美波をつれ、生まれ故郷である広島から離れた。友人の紹介で次の勤め先である病院はすぐに見つかった。その病院は東京にあり、職員用の託児所もあった。だが、託児所といっても、そこは多忙を極める外科医にとって、いつまでも幼い娘を預けられる場所ではなかった。どうしても深夜まで働かなければならないときは、子育ての経験がある友人の家庭に美波を預けることもあった。それは、父と娘双方に大きなストレスをもたらした。
しかし、その問題はやがて解決することになる。美波が生まれてから二年が過ぎようとしていた頃、暦上では秋に入ったが、気温や湿度も、公園や街路に植えられた樹の葉っぱも、その緑色をした葉に当たる太陽の光も、その葉が歩道に落とす影の濃さも、まだ夏の風情を残しているときのことだ。秋雨前線の到来もまだ先で、快晴の日々が続いていた。 父親と同じ病院のER勤務の女性医師が、すべての事情を知り、またそれをすべて受け入れて、美波の父親と結婚することを決意した。そして、またたくまに休職を決めてしまうと、家庭で美波を育て上げることまで決断してしまった。同僚たちは、この彼女の突然の思い切った決断に、当然驚きを隠せなかった。合理性に固まった性格で、内部の感傷性をまったく吐露しない彼女が、いったいどのような理由でこの新しい同僚とその幼い娘に同情し、人生を共有することを決めたのか? 結局のところ、それは本人と美波の父親しか知らない事実となった。
5 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:07:29.98 ID:5kzXp0UHO
かれら夫婦が離婚したのは、美波に弟ができて九年が経ったときのことだった。臓器売買。ある患者の生命を救うために、違法な手段で切り取られた臓器を購入すること。
裁判では父親に執行猶予付きの有罪判決がくだされた。腎臓の購入をブローカーに持ちかけられ、それを承諾したものの、実際の売買が未遂であったこと、医師としてドナーの発見に奔走し、すべての取りうる手段や可能性に当たっていたこと、患者の状態を鑑みるに移植を早期に行わなければ重篤な状態におちいり、生命の危機に瀕するだろうことが病院から提供されたデータから明らかであったことなどから、医師としての職務を遂行しようとする思いが強過ぎたあまりの犯行であることは明白だと弁護士は強弁した。
執行猶予の判断材料には、過去、美波の母親が彼の勤める病院で亡くなったという事実も考慮に加えられていた。その出来事によって、彼がこうむった打撃が、法の枠組みを越えてさえ患者の生命を救うという思いを生んだのだと、弁護士は裁判長に向かって訴えたそうだ。
過去の精神的打撃のことを裁判長から尋ねられたときーーと、美波は想像したことがあるーー父はきっと何の罪で裁かれているのかよくわからなくなっていのたでないだろうか? もしかしたら、妻を亡くしてしまったことが罪に問われているのだろうか、と不安に苛まれた瞬間もあったはずだ。いまにして思えば、父が医師の仕事に打ち込んでいたのは、わかりやすいくらいの代償行動だった。妻を喪った悲しみが、いつしか罪悪感に変質し、その感情をモチベーションにして救えなかった人の代わりに患者を救おうとする。そのような深層にひそむ動機を暴かれてしまったことは、父にとって罰を受けることよりつらいことだったのかもしれない。
6 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:08:59.46 ID:5kzXp0UHO
結局、父親は職も家庭も失い、広島に戻ることになった。そして、誰にとっても予想外なことだったのだが、美波も父親といっしょに生まれ故郷に戻った。母親はもちろん、美波を引き取るつもりだったし、父親の方もそのことに異論はなかっただろう。
そのような事態の推移に対して、強くはっきりと反抗したのが美波だった。そのとき美波はまだ十一歳だったが、今振り返ってみても、あれほど強硬な態度をとったことはなかったし、おそらくこれからもないだろう。あれは、人生で一度きりの決定的な意思表示の瞬間だった。美波の父親は本来なら、妻が死んだ時点で残りの人生を健全に過ごすことはできないくらい心に打撃を受けていた。そうならなかったのは、ひとえに産まれたばかりの娘の存在があったからだ。だから、今回もわたしがいっしょにいてやらねばならないのだ。
美波「わたしはパパといっしょに暮らす」
そう宣言した美波を、義理の母親である律はただ黙って目を細めてじっと見つめていた。しばらく沈黙が続き、律がやっと口を開いたとき、美波が耳にしたのは、彼女の考えがいかに幼稚で情動的なものかを合理立てて批判する義母の説明だった。それは説得ではなく、否定だった。もちろん、反対はされるとは思っていた。自分はただの子供でしかないし、親の庇護下になければ生活などしていけない。そして執行猶予が付いたとはいえ、罪を犯した父親よりも義母の方が子供の育てるのにふさわしいのは明らかだった。当時の美波からしてもその事実は否定しようがない。
7 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:10:14.25 ID:5kzXp0UHO
美波「ほんとうのお母さんじゃないくせに」
美波の口から突然そんな言葉が飛び出した。人を傷つける言葉を口にしたのはそれがはじめてだった。義母がどんな顔をしているのか眼に映るまえに、美波は椅子を倒し、父親が制止するのも無視して二階にある自分の部屋へ逃げ込んでいた。心臓が逸っていたのは、階段を駆け上がったせいばかりではなかった。
あんなことを言うつもりはなかった。美波は誰に言うでもなく、心のなかで自分に向かって言い訳をした。
義母の律は、世間一般的にみれば優しい母親ではなかったが、愛情がないわけでなかった。合理的で厳しくはあったが、それは、母親として、という形容が前につく類いのものだった。だから、ちゃんと説明さえすれば娘である自分の気持ちもわかってくれるはず、と美波は思ったのだ。夫婦のことはわからないけれど、家族のことは十一歳の子供なりにわかっているつもりだった。だが、うまくいかなかった。子供の論理と大人の論理は、それぞれ別の機能で働いていて、そしてよくあることだが、違いがあることを忘れたまま互いに論理をすり合わせようとする。そういうとき、たいていの場合は互いに相手を思いやっていたりする。だがその結果生まれるのは、相互不信だけだ。
美波は床に座って、ベッドの端に頭を沈み込ませていた。左腕をベッドに置き、その上に右腕を交差させる。瞼を閉じた両目を上になったほうの腕で押さえ込む。左右の手はそれぞれ反対側の肘をつかんでいて、かなり力を込めていたのでつかんだところが白っぽくなっていた。
8 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:11:09.53 ID:5kzXp0UHO
これでなにもかも終わった、と美波は思った。人生は続いていくけれど、それはこれまでの十一年間と連続したものではない。凧は糸が途切れ、地面に落ちてしまった。糸の短くなった凧をもう一度空にあげるには、よほど良い風が吹くのを待つか、自分から糸を結びなおさなければならない。前者を選べば、待っているあいだの時間を周囲の人びとをよそに、ひとりで膝を抱えて耐えなければならない。後者の場合は、凧をふたたび風に乗せても、糸が途切れたという事実はずっと残る。
ベッドの上には窓があった。その窓は閉められていたが、そこから通りを行く子供たちの声が聞こえてきた。近くの公園で遊んでいた子供たちが、それぞれの家に帰っていく時間だった。太陽は西に傾きはじめ、だんだんと水平に近づいていく陽光の線が、これから空の下の方を赤色に染め上げていく。空の上の方はといえば、対照的に濃い藍色から闇に染まっていくだろう。
圭と慧理子も、家の近くの公園にいるはずだった。ふたりはそこで話し合いが終わるのを待っている。両親と姉のあいだに漂う不穏な空気を察して、圭は落ち着かない様子で不安がる慧理子を外に連れ出したのだった。もしかしたら、圭の友達である海斗もそこにいるのかもしれなかった。
9 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:12:24.20 ID:5kzXp0UHO
律「美波」
ドアの向こうから、義母の声が聞こえてきた。
律「ドアを開ける必要はないわ。そのまま聞いてちょうだい」
美波は顔だけ上げ、義母の言うとおりにした。
律「あなたはお父さんに似てるわね。極めて情動的」
その言葉の意図が美波にはよくわからなかった。普段なら言われてうれしいはずの言葉だが、いまのこの家の雰囲気のなかでは皮肉の調子がまとわりついていてもしかたのない言葉だった。
律「瞳の色や髪質といった形質的な面でもそうね。あなたのお母さんの写真を見たことがあるけれど、ほんとあなたにそっくり。それはつまり、わたしは生物学的な意味で、あなたの母親ではないということの証明なのだけれど」
先ほどの発言を根拠づけるかのような言葉に、美波は被告人のような気分になった。事実に基づいた証拠を提示され、行為の責任を取らされようとしている。美波の否定を律はいままさに肯定しようとしていた。美波にはそう思えた。
律「でもそれは、生物学的に、という限定的ないち条件にすぎないわ。あなたのお父さんとの結婚を決めたとき、わたしは同時にあなたの母親になることも決めたのだけど、それは決して結婚による副次的な決定ではなかった。言ってる意味がわかる?」
事件に対して誤った見方をする警部にその間違いを逐一指摘する探偵のように、律は美波に自分が持つ前提を理解させようとした。
律「わたしは倫理的にあなたの母親であろうとし、そして今では本能的にもそうだと断言できる。あなたがどう思っていようがね」
10 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:13:56.74 ID:5kzXp0UHO
律と美波は、しばらく互いに沈黙していた。ふたたびドア越しの声が聞こえたとき、あたりは薄暗くなっていた。夕暮れと夜とのあいだの時間。宵よりはちょっと明るい。光の状態は、標高の高い山の空気がそうであるように薄くなっていた。山の高いところのように家のなかが静まりかえっていた。律の声はさっきより低い位置から聞こえてきた。律は廊下に座って、美波と同じ目線から話を続けようとしていることがわかった。
律「美波、お父さんが刑務所に入らなかったからといって、それは罪を犯さなかったからというわけじゃない。違法な手段で臓器を購入しようとしたことは事実なの。だから、医師の仕事をやめざるをえなかった」
義母の説明は、あいかわらす温度を感じさせない冷静な口調だった。だが、美波には律の声が身近になったような気がした。
律「起こしてしまったことはなかったことにならないわ。これからのお父さんの生活には今回のことが必ずついて回る。順調に、問題なく過ごせているようにみえても、それは必ずどこかで顔を出して物事を破綻させる。そのお父さんといっしょに暮らすということは、あなたの生活にもそれがあてはまるということよ。思わぬ場面であなたの人生に打撃を与えるようなことが起こる確率があがるということなの」
律「あなたはそんな人生を選び取ろうとしている。親なら絶対に選ばせたくない選択肢を、お父さんがかわいそうだからという理由だけで」
律「かわいそうと思ってるだけでは人は救えない。誰かを大切するということは、その人のために行動し実現することではじめて成立するのよ。美波、厳しことを言うようだけれど、子供が実現できることなんてたかが知れてるわ」
11 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:15:14.46 ID:5kzXp0UHO
美波はドアを開けた。義母は両膝を立てて座り、そこに肘を置いていた。背中を壁につけた姿勢のまま、美波と視線を合わせた。
美波「おかあさん」
美波は義母から目線を逸らさなかった。
美波「ごめんなさい」
律「何について?」
美波「さっき、ひどいことを言ったことについて」
律「他には?」
律の眼の光は鋭いままだった。美波は怯まなかった。
美波「わたしは、やっぱりパパといっしょにいようと思う」
律「そう」
律は尻を上げ、美波のまえに立った。
律「とりあえず晩ごはんにしましょう」
美波「うん。手伝う」
12 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:16:49.27 ID:5kzXp0UHO
美波が律と共に食事の準備をしていると、父親が圭と慧理子を連れて帰ってきた。美波は作業の合間に、キッチンから三人の様子を伺ってみた。ぎこちなさを見せるものの、隣りあってソファに腰掛け夕食の匂いを堪能している父と妹。弟はそんな二人から離れたところにいて、背中を向け窓の外に目を向けている。
美波は、弟はいったいなにを見ているのだろうと不思議に思い、同じ場所に視線を向けた。窓の外には何も無かった。圭は食卓につくまで背中を向け暗闇だけが広がっている外の世界をじっと見つめていた。手元が照らされたキッチンから弟のいる場所を見ると、そこだけ光と闇の境界がなくなっているように思えた。弟はまるで洪水みたいにに押し寄せてくる暗闇をその身で受け止めながら、黒く染まる空間を肺が裂けるまで飲み込もうとしているかのようだった。
少しして夕食の準備が整った。父や慧理子、それに圭も灯りに包まれた食卓についた。五人で食卓を囲んだ。かちゃかちゃと食器の鳴る音がするだけで、会話はほとんどない。それが家族全員での最後の食事になった。
13 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:18:18.36 ID:5kzXp0UHO
結局、美波は父といっしょに広島に帰ることとなった。父親は民間の海洋研究所の臨時職員として再就職が叶い、それはまたしても同研究所に勤める彼の友人のおかげであったのだが、同時に彼の過去の行いのおかげでもあった。以前、日本外科学会の学会誌に掲載されたヒトデの体細胞を用いた移植組織の拒絶反応にも関わる体細胞免疫の研究発表をその友人と共同で執筆したのだ。そのことをきっかけに生まれた交流のおかげで、美波の父親は故郷の海の近くで海水や砂浜に生息する生物の研究に時間を費やすことになった。娘ふたりとの生活は、贅沢をしなければなんとかやっていける。
普通の生活水準こそ取り戻せたものの、そうなるまでには当然多少の時間がかかったし、その時間は美波に「優秀であること」の重要性を認識させることになった。高い技能を持ち、人との繋がりを強く多く持てば、なにかあったときにも助けてくれる人たちがいる。それが「優秀であること」の教訓だった。それは父親を見ることで感じたことであったし、義母からの言葉から受け継いだことでもあった。
学校の成績は常に上位をキープした。スポーツも心地よく種類をこなし、委員会や生徒会などにも参加した。柔和な表情と、人付き合いの良い性格もさいわいして、友人は多かった。大学進学後は多くの資格試験に挑戦し、そのほとんどに合格した。昔の友人との交流はいまでも途絶えず、新しくできた仲間との絆を強く感じる日々を美波は送っている。上京してからは、家族と会う機会も当然多くなった。義母や妹との会話も増え、特に妹は姉としてだけでなく、アイドルとしての美波も誇らしく思っている。
弟は違った。
14 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:19:31.34 ID:5kzXp0UHO
現在の美波が、あのとき、キッチンから覗いた九歳の弟の背中を脳裏に浮かべると、その像は頭のなかでふたつの詩のあいだに置かれている。そのふたつの詩は、どちらもウィリアム・ブレイクのもので、同じ美城プロダクションに所属しているアイドル鷺沢文香から借りた『対訳 ブレイク詩集』によって知ったのだった。美波が文香からこの詩集を借り受けたのは、冬のライブが終わった後のことで、文香と同プロジェクトに参加しているアイドル速水奏が最近観た興味深い映画のことを話題にしたことがきっかけだった。その映画とは、ジム・ジャームッシュが監督したモノクロ西部劇『デッドマン』のことで、主人公の会計士ウィリアム・ブレイクをジョニー・デップが演じている。デップが扮する主人公の会計士の名前が詩人ブレイクと同じ名前であることからわかるように、この映画はブレイクと彼の詩が主題になっている。
こんなシーンがある。会計士ブレイクは、賞金が懸けられた自分の首を追ってきた保安官に向かって引き金を引く。「ぼくの詩を知ってる?」という台詞を吐き、銃弾が保安官の胸の真ん中に黒い穴をあける。白黒の映像だから、流れる血も黒い。
同様のことが美波にも起きる。『対訳 ブレイク詩集』のなかのふたつの詩が、まるで銃弾のように作用し、美波の内に黒いちいさな穴をあける、ということが。
15 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:20:48.52 ID:5kzXp0UHO
美波の虚を衝いた二篇の詩はーーというより、詩に撃たれたことによって虚が生まれたともいうべきかーー映画のなかには引用されていない。
詩集『無垢と経験の歌』のなか、『無垢の歌』と『経験の歌』にそれぞれ収めれているその詩の題は、「失われた少年」と「一人の失われた少年」といい、前者には定冠詞が、後者には不定冠詞がついている。
『無垢と経験の歌』は、一七九四年に出版された。一七八九年に『無垢の歌』が出版されていて、その五年後に出版されたこの詩集は、『経験の歌』との合本の形をとっている。この詩集は、「人間の魂の相反するふたつの状態を示す」という副題を持ち、生まれながらの汚れのない魂の状態としての「無垢」と、その「無垢」を阻害する場としての「経験」ーー制度としての法律・戒律・慣習などが「経験」の場に存在するーーが、副題の通り、対立する概念として置かれている。
『無垢の歌』の「少年」は、夜の露が身体を濡らす冷たい暗闇のなか、父親を求めてこう訴える。
《父さん、父さん、どこに行くの。
ああ、そんなに早く歩かないで。/父さん、話して、この小さなぼくに何か話して、/そうしないと迷子になっちゃうよ》
『無垢の歌』の八番目に収録されている「失われた少年」は、次の「見つかった少年」と連作になっていて、そこでは、狐火に誑かされ沼地を泣きながら彷徨っていた少年の前に、父親の形象をした神が現れ、母親の元に連れていく。『無垢の歌』の内にある少年は、はなればなれになった家族とふたたび出会い、そしてその時点で神に対する信仰も獲得している(と、美波は解釈しているが、宗教理念や当時のイギリスの状況、さらにいえばネオ・プラトニズムなど、あきらかに背景知識が足りないうえでの解釈なので、あまり自信がない)。
16 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:21:57.06 ID:5kzXp0UHO
一方、『経験の歌』で詠まれる、不定冠詞のついた少年は、このような「無垢」の状態にある少年とは対照的に、自立した性格を見せ、父親に挑発的な態度と言葉をぶつける。
《自分を愛するように他を愛する者はいませんし、そのように他を敬う者もいません。/また思想が自分よりも偉大な思想を知ることはできません。/父さん、どうしてぼくは自分以上にあなたを/また兄弟のだれかを愛することができるでしょうか。/ぼくはあなたを愛しています、戸口でパン屑を拾っている小鳥を愛するくらいには》
このふたつの詩にそれぞれ登場する少年が同一人物なのかどうか、『対訳 ブレイク詩集』を読んだ限りではわからない。しかし美波には、『無垢の歌』の父親の消失を嘆くしかなかった少年が、『経験の歌』の父親や家族といった制度に挑発的な態度を示す少年に時間をかけて変わっていったとしか思えなかった。
17 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:23:17.41 ID:5kzXp0UHO
圭は九歳のとき、医者になると宣言した。当時六歳だった美波と圭の妹慧理子は、命に別状はないものの、治療法の無いめずらしい病気に罹っていて、検査、入院、退院を繰り返していた。慧理子はいまでもそのサイクルのなかで生活している。病院の白いシーツがかかったベッドの上で、入院生活用の使い古しが現れてるTシャツを着た妹が、うれしそうに自分の歌を聴いている姿を見ると、美波はよろこびのあとにかなしさを味わう。ステージから見る光景を知っているだけに、この病室のなかで反響するだけで、妹を外に連れ出す力のない自分の歌にかなしさを覚え、それをどうしよもない自分の無力さをかなしむ。
だから、美波は弟に期待していた。
圭の宣言を義母からの手紙で知らされたとき、弟の優秀さを当然ながら知っていた美波は、圭が父親とおなじ道に歩むのは自然なことだし、父親の事件に打撃を受けたろうに(いや、受けたからこそ)、父親が中断せざるをえなかった役目をーー当然ながら、父親も慧理子の病気の治療法を探していたーー受け継ぐ意志を圭が示したことに、誇らしさと安心した気持ちをもった。
病気それ自体が患者に引き起こす身体の苦痛、病気を取り除けないことに対する患者の家族の心の苦痛。美波の父親は、このふたつの苦痛を癒す優れた治し手だった。圭もまた、そのような人物になれる、と美波は思っていた。
18 :
◆8zklXZsAwY
[saga]:2017/01/03(火) 00:24:20.94 ID:5kzXp0UHO
慧理子「兄さんは、そんな人なんかじゃない」
妹がそんな言葉を口にしたのは、冬に開催された一大ライブ「シンデレラの舞踏会」が成功に終わってから数週間後、美波がお見舞いに来た病室でのことだった。
空に積み重なった雲がその青黒い腹を見せながら、太陽の下半分を隠す、強い肌寒さを感じさせる日だった。灰色をした冬の翳りが病室に侵入してきて、電動ファンヒーターの熱した赤い部分が翳りによってその赤さを濃くしている。
慧理子は床に置かれたヒーターの放熱をくつ下越しの足で感じながら、ベットに腰掛けていた。ひざとひざをくっつけて、身体を美波の正面に向け、ライブの話をするよう姉にせがんだ。
美波はすこし躊躇したが、期待に満ちた目を向ける妹は裏切れない。話していくうちに、美波は、自分の口調に熱が帯びていくのがわかった。あの日の光景は、まるで記憶が結晶になったかのようにくっきりと細部まで覚えている。煌めき、歓声、歌、仲間たち。あの日の記憶を形作っているあらゆる要素は、熟達の宝石職人によってカットが施されたダイヤモンドのファセットのようなもので、どんなことを語ってもその輝きの美しさを余すところなく伝えられる。
慧理子「いいなあ。わたしもいつか姉さんのライブに行ってみたい」
美波「行けるわよ」
慧理子「病気が治ればね」
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