8: ◆U.8lOt6xMsuG[sage]
2018/10/19(金) 00:07:08.77 ID:TYKVB7XU0
『アイドル荒木比奈、今秋引退』
あれから三日。情報が公開されて、ネットニュースの見出しにはそんな類いの文言が並んだ。ありがたいことに、私の引退を惜しんでくれる人も多かった。
「比奈さん!」
惜しんでくれる人は、ファンの人たちだけじゃなく
「奈緒ちゃん……」
「引退って、アイドルやめるって……本当に……?」
事務所の、私がいつも昼食を食べる休憩室。奈緒ちゃんはそこに走り込んできて、大きな眉を八の字にして、私を見つめてくる
「……はい」
「な……なんで……」
奈緒ちゃんは瞳を潤わせて、今にも泣き出しそうになる。震えている声は、悲しげで。そんな声を奈緒ちゃんから出して欲しくないって思っちゃって、『なんちゃって』と誤魔化したくなってしまう
でも、私にはもう、そんなことできないから
「アイドルは楽しくて好きっスよ。ずっと続けて行きたいくらいっス」
「……なら」
けどね
「アイドルと同じくらい、やりたいことがアタシにあるんスよ」
泣いている奈緒ちゃんを観ると、私も泣きそうになってしまう。でも、私が泣いたら、奈緒ちゃんはきっと、もっと泣いてしまう。だから、私は必死に我慢して、笑顔に努めて、奈緒ちゃんに語りかけるようにした
「嫌になってやめるワケじゃないし、その、泣かないでほしいっス」
私の言葉を聞いた奈緒ちゃんは、頬を伝った涙を袖口で拭って、唇をギュッと締めて、大きく息を吸い込んだ
真っ直ぐ見つめられる。まだ潤んでいるけれど、涙は止まっていて、いつも以上に強く美しい瞳だった
それを私に向けながら、奈緒ちゃんは私に近づいてきて、私の手を握る。
「……わかった」
喉の奥で押しつぶされたような声。聞きにくくて、力強い声。
「比奈さんが決めたことなら、あたしは全力で応援する」
他の人が聴いたら、この声を醜いというかも知れない。つぶれていて、震えていて、小さな声。でも、私は、この声を美しいと思い、そしてこの声に力づけられた。
ありがたかった。奈緒ちゃんは優しいから、きっと、私の決意を汲んでくれたんだ
強く握られた手を、私も握り返す。熱くて、暖かい。
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